生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)

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転載禄:神名に惑うこと無かれ  (27034)
日時:2020年05月09日 (土) 10時29分
名前:「観」

❖名前:本来の教とは

詳説神想観p121〜の『如意宝珠観』

「ここに鹽椎の神も綿津見の神も住吉の神も同じ神である訳でございます。
それが仏教では阿弥陀仏と申し、極樂世界の主人公であって無量寿国にいらっしゃる。」

とありその前の『蓮華日宝王地観』P120には

「吾れ、今、五官の世界を去って、普く吾が全身を観ずるに、この身このまま観世音菩薩なり」こう念じて自分の全身が観世音菩薩であると観じます。

と説かれている。


大概の人は、色々な神が、名の別により自分と違う離れたもの、と思っているように見えます。どのように名付けられた神名であれ、自分の実相そのものであるのだから、
粗末にするとか、
元の神を隠して別の神様を表に出すとか、、
そのようなことは一切問題になりません。

「蓮華日寶王地観」を住吉本宮の住吉の大神の神前で実習することは不敬になるのですか?
そんなバカなことはないでしょう。神名に惑うこと勿れです。





❖❖『大日本神国観』で
「実相現象渾然一体、実相現象渾然一体、・・・繰り返す みこころの天に成る世界、既に地に成就せり、ありがとうございます」と唱えるとなっています。

しかし実相世界が完全に此の地上に顕現するなどと云うことは決してありません。
確かにこの神想観では、「既に地に成就せり」となっていますが、この五官の目の玉で見る世界がそのように誰が見ても同じに見える、という意味で成就している、などと云う事はありません。現に実相世界に神の子として完全な人間として存在していると云われながら、苦の娑婆世界に住んでいると考える人が多い。

佛の、神の眼で見ることの出来る人には、今此の儘すでに実相現象渾然一体、この現実がそのように見える、と云う事です。現象有の心からは不完全なものに見え、実相を観る叡智の眼からは同じ現象が神の国に見えると云う事です。すでに現象実相渾然一体に成就しているのです。これから何とかしようと云うのが生長の家ではありません。

普通の信徒さんは現象と離れたところに(たとえ次元と云う言葉を持ってきたにしても)天国を描いているように見えます。世界は唯一つしかないです。

今、実相現象渾然一体の世界に居るのか、未来にその世界が出て来る、それを期待してこの文言を唱えるのか、それが問題です。今此処実相世界そこに住めよ、ということで「実相」額が置かれているのです。天之御中主神を認めようが認めなかろうが、唯一つの世界があると云う事です。

心が現象世界に行ったり実相世界に行ったり来たりしているだけのことで、常にただ一つの世界に住んでいるが、夫々の心の見るだけの数の世界が存在していると思うだけのことです。

 (27036)
日時:2020年05月09日 (土) 10時56分
名前:「観」

❖❖❖名前:本来の教え

肉體無の真理を知り、ただ全体のみの存在する真理を知り、その全体とは神にましますことを知り、その神の全徳の御表現が天皇に在らせられ吾らがその股肱にして赤子であると知る。
一君万民、全世界の人類がただ上御一人を大御親として仰ぎまつるには、肉体を見、肉体の差別を見、皮膚の色、目の色などを見ていないで、生命のひとつ流れを把握すべきである。 谷口雅春


〇 韓国人の女性を本当の母親とせよ、という統一教会は天皇陛下を完全に無視し、雅春先生の教えと全く違うものである。その統一教会と勝共という観念に騙され同一歩調をとる安倍自民に肩入れするとは何たることぞ。


生命のひとつ流れの実相を把握するとき、目の色は異なり、皮膚の色は異なるとも、八紘は一宇であり、一家庭であり、全ての人種ことごとく天皇の徳に帰一し奉ることが出来るのである。略
全世界が一家庭たる理念降下し、義に於いて君臣、理念に於いて陛下の赤子である実相を知るとき、何人種といえども既に日本人である。「日本を守る会」㊟1は他国と対立して、小さい現象日本を守るのではない。
天皇を中心に全世界が一家庭となる包容帰一の日本の理想を守る有志の懇談会である。 谷口雅春


㊟1
「日本を守る会」創立時の御言葉
「日本を守る会」自体は雅春聖師ご存命中に離脱

 (27800)
日時:2020年05月14日 (木) 20時36分
名前:「観」

言葉というのはあくまでも「道しるべ」にすぎない。
「そこに書かれてあること」よりも、「そこに書かれていないこと」すなわち、それが指し示すことのほうがはるかに重要なのだ。
(エックハルト・トール)

燦爛輝く桜花 光明道中記p106より「地球を愛する心美人たちへ」と題する白鳩普及誌にあうものか (27883)
日時:2020年05月15日 (金) 19時23分
名前:本来の教え

観る世界は観られる世界である。能観(みるもの)の中に所觀(みられる)の世界があり、所觀(みられる)の世界の中に観る人の心がある。観る者と観られるものとは本来一体であるのである。これを吾々は心の影と言っている。

日本に美しい桜の花が多いのも、日本人の心が桜の花のように美しく潔いからであり、執拗でなく淡白であるからである。・・・略・・・
『観る世界が観られる世界であると云う真理が本当に解るならば』、日本の国の相、日本の樹木の相、日本の風光の相、すべて、日本人の心を現していないものはひとつもないのである。

風土が人間を感化するとも言えるが、桜も生命であり、心の表現であり、人間も生命であり、心の表現であるから、日本人が桜を感化し、桜が日本人を感化し、日本人の中に桜があり、桜の中に日本人があるのである。

差し昇る朝日に映える櫻花を鑑賞する日本人の心には、差し昇る朝日に映える櫻花の心があるのである。  『    』は投稿者
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観さん、ここで続けますね

 (27903)
日時:2020年05月16日 (土) 04時26分
名前:「観」

「観る」とは既にそこに与えられている事物に対して、心をそれに振り向けそれにピントを合わし、それに波長を合わすという意味であります。「祈り」は神の恵みに対して波長を合わせ、ピントを合わすことであり、
「観る」と「祈り」は同じことになるのであります。


詳説「神想観」p47


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zehiotuzukekudasai.

 (28066)
日時:2020年05月17日 (日) 03時27分
名前:「観」


❖❖❖❖❖浮雲

抑々、「実相」は満ち満ちているもので隠しおうせるものではないです。住吉の大神はお宮の中に鎮座ましましているとお思いですか?
「実相の御軸を通しまして、宇宙の大生命を礼拝します、礼拝」と掛け声するでしょう。

本尊論議でも同じことです。頼めば願いを聞いてくれる「神」なるものを想定しているから、他の神に置き換えてはいけないという話になるのです。
「住吉の全身全霊となって、光明化に挺身します」、という祈り、生命の宣言をする場として龍宮住吉本宮は建立されています。
大生命の救いの働き、観世音菩薩の慈悲の働きを指して住吉の大神と名付けられています。その命の働きのままに生きて参りますと、自覚を新たにする場なんです、住吉本宮とは。
お札をもらい神棚に祭る事により、己の希望実現の道具にするものではないです。お札を売っていないなんてことは、どうでもいいことです。
本源神、大生命に名付けた天之御中主大神と書かれたものを前に、自分が「神の子」神そのものであると自覚を新たにするために、各自家庭にお札を祭る、それの何処が駄目なんですか?

観自在菩薩は五蘊皆空と教えられ、三十三身に身を変じて衆生を済度すると云われましたが、それどころでなく日本では一億人に変化して、互いに済度し合っているのです。それが生長の家で言う「心の影」の真理です。

『常住戦死の心』雅春先生の言葉    『生長の家家族の心』について書かれています (28106)
日時:2020年05月17日 (日) 18時58分
名前:本来の教え

 
 宇宙には唯一つ、大御心のみがある。
天皇の大御心である。『忠』とは大御心に無我帰一する心である。すなわち天之御中主大神の心に「中」する心である。「中」とは的に中(あた)るであり、御本質に貫き徹するのである。宇宙の実相に少しもウラハラなることをせず、無我になりて宇宙の心に従うのである。

吾らが大御心を行ずるのは、それによって幸福になれるからでも、都合がよくなるからでもない。そう云う第二次、第三次の事物よりも、尚々すぐれて無上価値なるものが大御心である。その大御心を実現することは無上価値であるが故に、そのような第二次、第三次のお蔭などは心に微塵もとどめないで、大御心を行ずるのが「忠」である。

そしてそれがまた生長の家家族の心である。大御心を行ずる為に、その他の物質的なるもの悉くを戦死せしむるのである。戦場に於いて戦死せしむるだけでなく、常住戦死の心である。これを「死」と言う不吉な連想を伴い易き言葉を用いず、「肉体無し、物質なし」と吾らは言う。

その死に切った心だけでは消極的否定の心である。そこに「大御心のみあり」の大肯定がなければならぬ。生長の家ではこれを「神一元」と言う。天皇独在ともいう。
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能々読まれたい。要旨を書きぬけば以下になります。造化の三神とか本来の教えとか論議する必要が何処にありましょう。

【宇宙には唯一つ、大御心のみがある。】
【すなわち天之御中主大神の心に「中」する心である。】
【「中」とは的に中(あた)るであり、御本質に貫き徹するのである。】
【吾らが大御心を行ずるのは、それによって幸福になれるからでも、都合がよくなるからでもない。】
【そのような第二次、第三次のお蔭などは心に微塵もとどめないで、大御心を行ずるのが「忠」である。】
【そしてそれがまた生長の家家族の心である。】
【大御心を行ずる為に、その他の物質的なるもの悉くを戦死せしむるのである。】
【常住戦死の心である。これを「死」と言う不吉な連想を伴い易き言葉を用いず、「肉体無し、物質なし」と吾らは言う。】
【生長の家ではこれを「神一元」と言う。天皇独在ともいう。】

「神一元」「天皇独在」「中心帰一」「肉体無し、物質なし」の生長の家の本来の教えが説かれ、「生長の家家族の心である。」と説かれている。ここにはご利益信仰は第二次第三次的なものである、と説かれている。それなのに以前の御利益信仰に戻り、ご利益の多さを競うとは、何を考えているのかと思う。ご利益は、物質的なるもの悉く戦死せしめた付随の狀態に過ぎないのである。

『神』を、相対で捉えている信仰ならばこういった見解になるのも無理からぬこととおもう (28331)
日時:2020年05月20日 (水) 15時18分
名前:引用転載

住吉大神から“造化の三神”に神様を取り替えたら、「如意宝珠観」「観普賢菩薩行法」「伊勢神宮の神前に於ける神想観」等も実修し得なくなるでしょう…NEW (11994)

日時:2020年05月20日 (水) 10時23分
名前:破邪顕正


今回の「通達」によって、教団内に、どういう変化をもたらすか、私なりに考えてみました。

この「通達」は、住吉大神から“造化の三神”に取り替えることを意味するわけですから、当然、住吉大神の神名の入った神想観、お祈りは、実修できなくなるのではないかと推測されます。

まず、「如意宝珠観」があげられます。

これについて、私は、以前、こういう投稿をさせていただきました。

〈谷口雅宣総裁は「如意宝珠観」をこのように解していた… (10730)
日時:2019年03月15日 (金)〉

「如意宝珠観」の念ずる言葉の中にこうあります。

《われ今此処竜宮城に坐して、塩椎の大神より如意宝珠を得たり、わが全身如意宝珠なり、光明燦然として十方世界を照らす…》

つまり、「如意宝珠」とは、塩椎の大神、即ち住吉大神から授かるものであるわけです。

ということは、「如意宝珠」という言葉が入る「観普賢菩薩行法」もまた実修し得なくなるのではないでしょうか。

同様に「龍宮・平和・普賢観」も、実修し得ないでしょう。

「伊勢神宮の神前に於ける神想観」と「日本国実相顕現の祈り」に至っては、住吉大神、そのものの神名が入っていますから、いわずもがな…。

このように考えて見ますと、住吉大神を外したために、様々な「神想観」「祈り」が実修し得なくなる懼れがあるということなのです。

これは決して杞憂ではありません。

だって、現に、「宇宙浄化の祈り」「大日本神国観」は、既に、教団内では実修し得いことになっているのですから。

そもそも、生長の家大神とは住吉大神のことなのですから、それを外したら、様々なところに影響が出てくるのは当然というべきなのであります。

未だに、生長の家は昔と変わっていないという方がありますが、どう見ても、眼に見えて変わっているではないか、改めてそう思う次第であります。

 (28429)
日時:2020年05月23日 (土) 06時30分
名前:「観」

子供たちに、幸せになるために必要なものは自分の外側にはないことを教えなさい。 真の幸せは自分の中に見つかることを教えなさい。 これが次世代へ残すべき生長の家が掲げる燈明だ。

 (28572)
日時:2020年05月24日 (日) 04時49分
名前:「観」

❖❖❖❖❖❖マキ

  マインドが知るとき
  それを 知識とよぶ

  ハートが知るとき
  それは 愛とよぶ

  存在が知るとき
  それは 瞑想とよぶ


       -osho-

 (28646)
日時:2020年05月24日 (日) 14時33分
名前:求道の果てに

マインドが知るとき
  それを 知識とよぶ

  ハートが知るとき
  それは 愛とよぶ

  存在が知るとき
  それは 瞑想とよぶ
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マインド、ハート、存在(瞑想の定義をしておかないといけませんね)

これは「私の心の色々な状態」なのでしょうか?

『実相』と『私の心』との関係はどのようになっているのでしょうか?

 (28657)
日時:2020年05月24日 (日) 18時57分
名前:「観」

 
[存在が知るとき
  それは 瞑想とよぶ]

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「meisousya」hainai




 (29398)
日時:2020年06月15日 (月) 17時05分
名前:「観」



❖❖❖❖❖❖❖名前:心經抄


正眼国師『心經抄』  
「時照見五蘊皆空度一切苦厄」 佳境に入ってきました


一切の諸佛、歴代の祖師共に一切衆生の生死往来することの不便さに、この自心本来清浄圓明にして、生もなく死もなく、五蘊皆空と示し給うも、この生死往来を休めん為なり。右の如く自心元より何もなく、譬えをよせて云わば虚空の如し。

雅春先生、どう返答なさるか。 (29754)
日時:2020年06月25日 (木) 13時15分
名前:「信仰」にも階梯があるものだな.....

破邪顕正氏曰く、


B「實相」礼拝がなくなることによって、救い≠ェ生まれなくなる!

谷口雅春先生は、自分自身を物質的存在だと思い違いをしないようにするために「實相」を礼拝をするのであると繰り返しお説きくださいました。

この「實相」礼拝こそが生長の家が数々の救いをもたらした根元であり、これを無くすということは、今後、救いの体験が生まれないことを意味します。

実相「軸」談義 (46304)
日時:2021年12月14日 (火) 17時01分
名前: 一考の御参考になれば良いと、紹介します。                                                                                                                        .                                                                     

>雅春先生、どう返答なさるか。

日時:2020年06月25日 (木) 13時15分
名前:「信仰」にも階梯があるものだな.....

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はて、どう返答なさるか。

観自在菩薩は五蘊皆空と教えられ、三十三身に身を変じて衆生を済度すると云われましたが、それどころでなく日本では一億人に変化して、互いに済度し合っているのです。 それが生長の家で言う「心の影」の真理です。 (55049)
日時:2022年12月24日 (土) 06時10分
名前:真徒

日時:2020年05月17日 (日) 03時27分
名前:「観」

❖❖❖❖❖浮雲

抑々、「実相」は満ち満ちているもので隠しおうせるものではないです。住吉の大神はお宮の中に鎮座ましましているとお思いですか?

「実相の御軸を通しまして、宇宙の大生命を礼拝します、礼拝」と掛け声するでしょう。

本尊論議でも同じことです。頼めば願いを聞いてくれる「神」なるものを想定しているから、他の神に置き換えてはいけないという話になるのです。
「住吉の全身全霊となって、光明化に挺身します」、という祈り、生命の宣言をする場として龍宮住吉本宮は建立されています。
大生命の救いの働き、観世音菩薩の慈悲の働きを指して住吉の大神と名付けられています。その命の働きのままに生きて参りますと、自覚を新たにする場なんです、住吉本宮とは。
お札をもらい神棚に祭る事により、己の希望実現の道具にするものではないです。お札を売っていないなんてことは、どうでもいいことです。
本源神、大生命に名付けた天之御中主大神と書かれたものを前に、自分が「神の子」神そのものであると自覚を新たにするために、各自家庭にお札を祭る、それの何処が駄目なんですか?

観自在菩薩は五蘊皆空と教えられ、三十三身に身を変じて衆生を済度すると云われましたが、それどころでなく日本では一億人に変化して、互いに済度し合っているのです。
それが生長の家で言う「心の影」の真理です。

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素晴らしい『本部』講師。だと思います。



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