生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)

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無題 (32778)
日時:2020年09月05日 (土) 20時02分
名前:問答記録シリーズ

🔹訂正班殿

日時:2019年03月03日 (日) 12時54分
名前:生長の家の教えの不思議

もうしてくれていたのですね、ありがとさんです。

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🔹家々。

日時:2019年03月03日 (日) 15時20分
名前:訂正班

皆さん読んだ流れで判るでしょうが、、、
細かくてドーモスミマセン(笑)

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🔹日時:2019年03月03日 (日) 20時32分
名前:問答記録班


>>>日時:2019年03月03日 (日) 10時45分
名前:志恩

愛国掲示板より
_______________________________________________

「新経本」は、実相の生命と現象の生命を混同している。
日時:2019年03月02日 (土) 23時20分
名前:清流の民

         (略)
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谷口雅宣総裁の言っていることは、要するに環境倫理学なのです。
環境倫理学で「自然と人間の共生」と云うところを、宗教的装いを着けて、
「神・自然・人間の大調和」と言っているのです。

環境倫理学ならいいじゃないかと思われるかもしれませんが、よくありません。

環境倫理学は人間が自然破壊することを、極端に嫌いますが
(それは確かに無暗に自然破壊することは良くないことです)、
その一方で自然界の弱肉強食は容認・肯定しているのです。

(環境倫理学や生態学では食物連鎖とか食物網とか云っています。)
生長の家の教えとは、根本的に世界観が違っているのです。

谷口雅春先生が修行時代のことでありますが、自宅の庭で蛇が蛙を食べようとしているのを観られた。
谷口雅春先生はそれを見て、「なぜ神様はこういう弱肉強食の殺し合いの世界を作られたのであろうか」と心を痛められ、そしてついに現象を否定して、
「一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく」という実相世界を発見されたのであった。

これに対して環境倫理学は蛇が蛙を食うのを見ても、
「それは・・・別に悪ではない。そういうものなんだ。
そう云うふうにして自然界は循環しており、生態系のバランスが守られているのだ。」と言うのでしょう。

雅宣総裁はあきらかに環境倫理学の立場に立っています。だから観世音菩薩讃歌で
「猛獣走りて鹿を倒し カマキリの鎌、小虫を捕らうれども、その結果、必ずしも悪に非ず、
善に非ず、定められたる法則の産物にすぎざるなり。」と書いているのです。

猛獣が鹿を倒したり、カマキリが小虫を食べるのを「悪である」と云ってしまったら、
食物連鎖・食物網を否定することになり、総裁の信じている環境倫理学は崩壊してしまうのです。
かといって「悪ではない」とハッキリ云ってしまうと信徒は反発するかもしれない。
そこで「必ずしも悪に非ず、善に非ず」という中途半端な、屈折した表現になっている
のです。

しかしいつまでも屈折しているわけにはいかないので、
最後には、「壮大華麗なる自動運転の世界なり」と云って思いを晴らしているのです。

猛獣が走って鹿を倒したりする世界は、神が自動運転をしているのではなく、
無明(まよい)が自働自展しているのです。谷口雅春先生が、「非実在」として否定された世界なのです。

「定められたる法則の産物にすぎざるなり。」とありますが、「定められたる法則」というのは、
どうも「食物連鎖・食物網」の法則のことらしい。

(つまり弱肉強食の法則です。)そういう法則は存在しますが、
それは仮相の世界に仮に存在する迷いの法則であって、神の法則ではないのです。


次に大自然讃歌について述べます。
大自然讃歌には、「これら生態系はすべての生命の共栄圏にして」とあります。

一見もっともなことが書かれているようですが、そうではありません。
生態系とは食物連鎖・食物網の上に成り立っているのです。

谷口雅春先生は、生態系とか食物連鎖とか食物網とかいう言葉を使われていませんが、
そういう世界を見て、「弱肉強食の悲惨な世界である。不完全な世界である」と観ぜられたのです。

雅宣総裁はそういう世界を見て、「すべての生命の共栄圏である」としています。
世界観が全然違っています。根本的に違っています。

「一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく」という実相大調和の教えが、
いつのまにか現象の生物界の弱肉強食を容認・肯定する生態系のバランスの教えに
スリ替えられているのです。

聖経『続々甘露の法雨』には、
「神は善なるが故に、すべては「一」の展開なるが故に、一切のところに遍く調和は
行きわたり」と示されています。

善にして「一」の展開である世界に食物連鎖や食物網や弱肉強食などないのです。
生長の家は犠牲不要の教えなのです。

生態系における生命とは、弱肉強食の生命であって、現象の生命なのです。
雅宣総裁は実相の生命と現象の生命を混同しています。
生長の家は「生命の実相哲学」なのです。

環境倫理学は現象を扱う学問ですから、
食物連鎖や食物網を肯定的にとらえるのは仕方のないことなのかもしれません。
しかし生長の家は実相を説く教えなのです。

生長の家が実相を説かずして、誰が実相を説くのでしょうか。
それとも猛獣が走って鹿を倒すのが生命の実相なのでしょうか。


聖経と讃歌は互いに矛盾しており、一方が「真」ならば他方は「偽」なのです。
両方読んでおられる方は、よく考えてみてください。
もっとも教団で無理やり讃歌を読まされて、家に帰って聖経を読んで中和しているのなら仕方がないのかもしれませんが。・・・
そして中和するとき、迷いの自壊作用で沸騰現象を起こすことがあるので、ご注意
ください。

最後に大自然讃歌や観世音菩薩讃歌に対する谷口雅春先生の見解を引用しておきます。

「若し五官に感じられる自然万物が神の創造(つく)り給うたそのまゝの実在ならば、
蛙を食う蛇も、羊を食うライオンも、神の造り給うたまゝの状態であり、
すべて弱肉強食の闘争のこの世界も神の創造(つく)り給うたまゝの実在の世界であると云うことになります。

それでは神は愛の神とも調和の神とも云えなくなりましょう。凡ての創造者たる善なる神があると云う説は、
五官に観える世界を持って直ちに其儘(そのまま)
神の創造の真世界だと認めるとき自己撞着に陥って破壊してしまうのです。」
(『生命の實相』人生問答篇「下」第3章『みんな一體』の信仰を語る)

やはり雅宣総裁の神観・世界観は生長の家の神観・世界観とは全く異なっているようです。

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>>>日時:2019年03月03日 (日) 11時32分
名前:志恩

愛国掲示板より
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清流の民 様
日時:2019年03月03日 (日) 11時27分
名前:志恩

清流の民ー
>>「新経本」は、実相の生命と 現象の生命を混同している。<<



志恩ー

「新経本」は、実相の生命と 現象の生命とを
どのように混同しているのか。

雅宣総裁の神観・世界観は 、生長の家の神観・世界観と、どのように異なっているのか。を詳細に具体的に分かりやすく解説してくださったので、大変勉強になりました。

誠に ありがとうございました。

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🔹日時:2019年03月03日 (日) 12時39分
名前:生長の家の教えの不思議

清流の民ー
>>「新経本」は、実相の生命と 現象の生命を混同している。<<


こんなものは単なる理屈でしかない。

存在に二つのものなどありはしない。

現象有の視点から自らの認識からのものか、現象を否定した視点かの違いだけのこと。

どちらにしても意識上の出来事でしかない。こちらから見たら現象と名付け、向こうから見たら実相と名付けるのみ。

現象を否定するのなら徹底しないと。否定しきれないから現教団はとか、雅春総裁はという話になる。

実相直視など夢物語、だからトキ管理人さんのように天皇を語るに実相論から語らないといけないという話になる。天皇のしている現実が自分の描くものと違うときは、従わない、感謝もしないという論法になる。

実相世界は存在するが、現象は明暗混淆の世界である、となると心の鏡を磨きぬいて、その反映として現象を整えなければ、現実世界は完成しないと云うことになる。是では現実目の前の人物事実に感謝の念は持ちようがない。

感謝の念の内にこそ吾が姿を見吾が救いを受けるであろう、とは何。
心で実相の雅宣総裁に感謝している、けれど現実は批判の言葉を投げかける。そんな器用なことを一つ心ができようか。

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🔹日時:2019年03月03日 (日) 13時21分
名前:生長の家の教えの不思議

現象を整えるにつき、現象からアプローチするのは実相論の生長の家でない。 と云うことであれば、

心の影であるから心に実相を描け、観ろと云う教えはどうしようかな。

こころ、は六根の意にあたるもの、現象でしかない。

教えそのものが現象を相手にして建てた部分がある

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🔹日時:2019年03月03日 (日) 20時40分
名前:問答書記班


>>>教えそのものが現象を相手にして建てた部分があるという ご見解は、まちがいです。
成道の日 ー 燃ゆるが如く  尊師の偉大なる ご生涯

日時:2019年03月03日 (日) 19時40分
名前:くおんいま

何度、読んでも感動いたします。



「 物質はない ! 」 と その声は 言った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

では、心は ‘ ある ’ であろうかと思うと、その瞬間、

「 心もない ! 」 と その声は 言うのだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「 心もなければ 何も無いのか 」

と私は 再び その声の主に たずねた。

「 実相がある ! 」

と その声は ハッキリ答えた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「 では、実相とは なんであるか 」 とわたしは 訊(き)いた。

「 実相とは 神である。

‘ ある ’ ものは ただ神 ‘ のみ ’ である。

神の心と、神の心の顕現のみである。

これが 実相だ 」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

わたしの眼の前に

輝く日の出の時のような光が

燦爛(さんらん)と満ち漲(みなぎ)った。


( 谷口雅春先生 『 生命の實相 』 自伝篇より )


『 生長の火をかざして 永遠の谷口雅春先生 』

「 燃ゆるが如く 尊師の偉大なる ご生涯 」( 36頁〜37頁 )

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🔹清流の民さんの意見について

日時:2019年03月04日 (月) 19時17分
名前:生長の家の教えの不思議

雅宣総裁はあきらかに環境倫理学の立場に立っています。だから観世音菩薩讃歌で「猛獣走りて鹿を倒し カマキリの鎌、小虫を捕らうれども、その結果、必ずしも悪に非ず、善に非ず、定められたる法則の産物にすぎざるなり。」と書いているのです。

猛獣が鹿を倒したり、カマキリが小虫を食べるのを「悪である」と云ってしまったら、食物連鎖・食物網を否定することになり、総裁の信じている環境倫理学は崩壊してしまうのです。
かといって「悪ではない」とハッキリ云ってしまうと信徒は反発するかもしれない。
そこで「必ずしも悪に非ず、善に非ず」という中途半端な、屈折した表現になっているのです。>



※無門関二十三に『不思善悪』の公案があります。
この公案に適っているようですが如何でしょうか?

どなたか不思善悪の生き方とはどんなものか教えてください。

ーーーーーーー

🔹日時:2019年03月06日 (水) 06時11分
名前:風

〔所謂対極は、分離を産む両極の対象に見えていますが、
本来源はひとつであるものの、創造するためのバランシングの動きであり、正邪も、マクロな視点では単なる捉え方の一時的な傾きであることを理解する必要があると思います。〕

「不死善悪」について総裁が述べられ(2015年)、こう締めくくっておられます。そのご文章をそうだなと読み進めて、最後、ん?と感じた以下、

「人生の光明面に注目し、それを自分の心に印象づけるだけでなく、表現活動を通して他の人々や社会にも印象づける生き方の重要性が、ここに明確に示されている。」

無門関解釈を読まれている生長の家の不思議さんは
どう思われるかお聴きしたいです。

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🔹風さんへ

日時:2019年03月06日 (水) 22時05分
名前:生長の家の教えの不思議

「人生の光明面に注目し、それを自分の心に印象づける」

この雅宣総裁の発言は、雅春先生が色々説かれている、こころに光明面を想念する、と云うことと同じでしょう。
しかし「心も無し」という、誰かさんの投稿の雅春先生の自覚の時の表現からしますと、誰のどの心で、どの心に実相世界にあると云う良きものを想念するのか疑問です。

人生の光明面に注目し、と言う以上その反対の暗黒面を必ず認識しているでしょう、暗黒の認識の無い状態では明るいと云う事さえ認識にはのぼらないのでありませんか?夏生まれて夏の内に死ぬ昆虫には暑いと云う感覚はないでしょう、寒い季節があると云うことを知らないのですから。全ては比較することから善悪の観念を生ずるのではないでしようか?絶対の世界は相対の世界ではないですよね。神一元の絶対世界と云いながら、物質はない、心は無い、と云いつつ、物質世界の善悪を取り沙汰することが不思議なんです。

こうしてみますと、善とは惡と云うものに対比しての認識作用でしかないと考えます。


すこしなりと 
身に善し悪しの あるものは 本来のものと ならぬなりけり

潔き 身をも心をも 捨てぬべし 本来空を 神と云うなり   

無難禅師


生長の家では神のように身も心も清きものにしましょう、と云うのでしょうが、無難禅師は逆に「捨てぬべし」と云います。
私の質問は、純粋に疑問を感ずる故のものです。ですから生長の家の教えは正しいと云う方の意見をお聞きしたいのです。
その上でそれに対し私の意見を書き、それが可笑しいのであれば、反論をして頂きたいです。

ーーーーーーー

🔹日時:2019年03月06日 (水) 22時16分
名前:生長の家の教えの不思議

主ありて 見聞覚知 する人は 生き畜生と 是を言うなり

主無くて 見聞覚知 する人を 生き佛とは 是を云うなり   

無難禅師


ここに主と云われているものが「私」とか「こころ」と云われているものでしょう。
いうことですと私の心で見聞覚知し、善悪の世界に住む人は生き畜生と云うことになります。

神が生きるとはどのように生きることでしょうか。

ーーーーーーー

🔹日時:2019年03月06日 (水) 23時27分
名前:風

返信有難う御座いました。
風へのお便りに心地よい風を感じました。

後は皆さまに問うてらっしゃるのでしょうが筆ベタの私も少し


主ありて 見聞覚知 する人は 生き畜生と 是を言うなり

主無くて 見聞覚知 する人を 生き佛とは 是を云うなり 

360度 巡り巡りて 唯「人」を生きるなり

ーーーーーーー

🔹ネットより 

日時:2019年03月07日 (木) 11時48分
名前:志恩


同じことを道元禅師は、

「聞くままに 又心なき身にしあれば 己なりけり軒の玉水」

と歌にしています。

「無心で外の雨音を聞いている とそれは 自分自身であった」と。


「主(ぬし)無くて...」は、
「心の中に「私」という主のいない人」という意味なので、

 心の中が そのように無心に静かに澄みきっていれば、

軒の玉水(軒から落ちるしずくの音)と自分が 一つになった世界が現れてくるということです。

ーーーーーーー

🔹日時:2020年03月11日 (水) 17時11分
名前:イッキュー


3.11に鑑みまして、昨年の今頃を探索しておりましたら、
キラリとするこの場所を見つけました。生長の家の教えの不思議さん達ありがとさんです。



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