生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)

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生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)

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全ての皆様へ (35572)
日時:2020年11月11日 (水) 11時10分
名前:様々なハンドルネームを使用して沢山あって覚えていなくてすみません。こちらでは会員改め生命の実相信者

全ての皆様へ

コロナ禍で、在宅しておりまして
最近、私は甘露の法雨を毎日10巻あげて 感謝誦行を2時間行っておりました。

今、私は、生長の家3代目ご夫妻の事、生長の家運動も
自分の周囲も全て自分の念の影と分からせて頂きました。


誠に、コロナ様々に感謝いたします。

本当に自分がどれだけ真理から離れていたか、良く分からせて頂き反省いたしました。

あちこちのインターネットで沢山の暗黒を書いてしまった事、

誠に申し訳ございませんでした。

取り分け、生長の家の事、両総裁には、失礼千万山盛り悪口を書いてしまい申し訳ございませんでした。
その他、全ての皆様にも不愉快な思いをさせてすみませんでした。


今日、私は、新生しました。

これからは、私は、二度と生長の家や自分の周囲の暗い事を見るのを
やめと明るい言葉で生きます。


生長の家大論争から始まりあちこちに暗い事を書いてすみませんでした。


管理者様がいたら暗い事は全て削除、消去して頂きたいです。

もう昔すぎてハンドルネームも忘れました、
暗い事は私でなくても全て消去して欲しいです。

宜しくお願い致します。🙏
こちらの管理者さん、こちらでは会員改め生命の実相信者です。
こちらの私の暗黒スレッド、昔の掲示板全て消去して下さいませ。

宜しくお願い致します。

こちらのは自分で消せるのは自分で消しますがら残っているのは自分で
消去できない分です、宜しくお願い致します。



神様、私は、間違えておりました、
今日から神の子を生かさせて頂きます。 合掌 礼拝

神様の世界 (35573)
日時:2020年11月11日 (水) 11時20分
名前:様々なハンドルネームを使用して沢山あって覚えていなくてすみません。こちらでは会員改め生命の実相信者


神様の世界は完璧だ。
神様様は人間がいかに賢くてもその全然上をいっておられて
人間のどれだけお利口さんでもかなわない事、
誠に良く分かりました。


また、信徒の甘露の法雨の読み込みの限りなき少ない事、
神想観の足りない事。

よーーーく分かりました!!!


コロナは人生のあしもとを見つめ返すために必要なビールスでした。

コロナちゃんに 最大の感謝を送ります。 感謝





神様の世界 (35575)
日時:2020年11月11日 (水) 11時37分
名前:様々なハンドルネームを使用して沢山あって覚えていなくてすみません。こちらでは会員改め生命の実相信者


自分の周囲の起こる出来事には
全て意味がありました。

雅春先生の観世音菩薩を讃える祈り そのものでした。

自分の内に神様がいる。
自分の内に神様がいる。
自分の内に神様がいる。

自分の内なる神様が全てを教えてくれます。

神様と共にしか生きられない、

そう思っております。

コロナがなければ (35576)
日時:2020年11月11日 (水) 12時13分
名前:様々なハンドルネームを使用して沢山あって覚えていなくてすみません。こちらでは会員改め生命の実相信者

コロナがなければ、

海外旅行2〜3週間
普段は、友達とコストコに買い物や
東京のホテルランチ巡り、映画鑑賞など
無駄遣いの無駄時間を浪費して 誘われるままの惰性の日々。

コロナの日々は違いますよ、
毎日10巻の聖経に2時間の感謝誦行、
読み物は全部生長の家雅春先生の聖典にしていました。

まあ、浄化、浄化で素晴らしいです。

やっぱり 生長の家の教えはありがたーい‼

雅春先生が愛を聖典と言う形で我々に残して下さいました。

雅春先生の愛は永遠です。

私達は、いまだに雅春先生から愛されている!!!

雅春先生は生きて愛し続けて下さいます。なんと有難い嬉しい事でしょう。

この喜びを持って毎日をすごしましょう。





会員改め生命の実相信者さん(=もしかして、トンチンカンさん?) (35590)
日時:2020年11月12日 (木) 05時04分
名前:志恩

会員改め生命の実相信者さん

お久しぶりですね。
いらしてくださって、ありがとうございます。


会員改め生命の実相信者ー
>>コロナの自粛生活の中で、
コロナ禍で、在宅しておりまして
最近、私は甘露の法雨を毎日10巻あげて 感謝誦行を
2時間行っておりました。
今、私は、生長の家3代目ご夫妻の事、生長の家運動も
自分の周囲も全て自分の念の影と分からせて頂きました。<<

志恩ー

私も毎日、今でも「甘露の法雨」はご仏前で読誦していますが、
1日に10巻と言うのは、すごいですね。

>>生長の家3代目ご夫妻の事、生長の家運動も
自分の周囲も全て自分の念の影<<

というあなた様のご意見ですが、
自分の念の影というのは、せいぜい
自分のすぐ身近な周囲の出来事ぐらいの範囲のことだと
私の場合は、思っております。

たとえば、三代目の雅宣総裁先生が、
されることや考えることまでもが、すべて自分の心の影だとは
私の場合は、考えておりません。

菅政権のことも自分の心の影だとは思っておりません。
トランプやバイデンがもめていることも自分の心の影だとも思っておりません。

「甘露の法雨」は、いうまでもないことですが、
神霊界の高級霊が
谷口雅春先生を通して天啓を降されたおことばですよね。

それは、真理そのもののおことばですから、
このことばには
高い神界の聖なる波動がみちみちています。

この世は波動で出来ています。

この三次元世界で現れる
低い波動の病気や、身近に現れた悪いと思えるご家族の問題も
重い低い波動ですから、

「甘露の法雨」を読誦したり、高い波動に焦点を合わせる「神想観」を
することによりまして

実相本来の健康そのものの、光そのものの
実相の高い波動に、低い波動が、修正されることにより、
病気が快癒したり、身近な出来事も、いい方向に導かれるのだと
存じます。

また、病気になり、病院へ行くにしても、質の良い自分に合った
医師のいる病院へ導かれるのだと思います。

谷口雅春先生は、この聖経を読誦して病気が治るのは
高い波動とともに高級霊もきて、神癒に加担してくださる時も
あるからだということも述べられていましたよね。

ですから、私たちは「甘露の法雨」と「神想観」は、続けるほうが
続けないよりも、より良い人生の方向へ導かれるのだと思います。

話を戻しますけれど、
この三次元世界のこの世では、次から次へと
様々な現象が現れます。

で、もしも、他人が、悪いことをやったり言ったり
した場合、多くの人たちにとって、
デメリットになる場合は、

間違っていますと、こちらが批判して言うことは、
それは、
悪口ではなく、
批判に値いするものですから、
間違った行為ではないと思います。

世の中のために、
このまま間違った方向へ進まないために
われわれが実践する愛行の1つですからね。

くれぐれも、実相と現象を混同されないことを願います。

私は、1961年(昭和36年)に初版が発売された時から
谷口雅春先生著「女性の幸福365章」を
私の座右の著の1つにしておりますが、

この本にも、日常生活に真理をいかす
具体的な数々の指針が示されております。

今の変わり果ててしまった生長の家のことも、
それらもすべて個人的な自分の心の影だと
あなた様は、捉えられませんように!

将来に向かって、よくなる前提の1つの現れだと
現象世界のことですから、そのように捉えられまして、
生長の家の教団のことまで、
あなた様はご自分の肩に重荷を背負われませんように!

気持ちを楽にされまして、今後 より一層 明るく楽しい人生を生きて
いかれますことを心から願っております。

谷口雅春先生著「女性の幸福365章」の一部
https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/91i02tU9cRL.jpg


(志恩:注:「人の長所をほめましょう。」と書いてありますが、
これもごく身近な人に対することで、
私人ではなく、公人のお立場の人に対することではありません。)

「現象は心の影」「時間空間は認識の形式に過ぎず」とは何をさして言うのか (35592)
日時:2020年11月12日 (木) 10時53分
名前:長崎の晩霞

取り分け、生長の家の事、両総裁には、失礼千万山盛り悪口を書いてしまい申し訳ございませんでした。
その他、全ての皆様にも不愉快な思いをさせてすみませんでした。


今日、私は、新生しました。

これからは、私は、二度と生長の家や自分の周囲の暗い事を見るのを
やめと明るい言葉で生きます。


生長の家大論争から始まりあちこちに暗い事を書いてすみませんでした。
********************************************************************************自分の念の影というのは、せいぜい
自分のすぐ身近な周囲の出来事ぐらいの範囲のことだと
私の場合は、思っております。

たとえば、三代目の雅宣総裁先生が、
されることや考えることまでもが、すべて自分の心の影だとは
私の場合は、考えておりません。

菅政権のことも自分の心の影だとは思っておりません。
トランプやバイデンがもめていることも自分の心の影だとも思っておりません。
************************************************************************************

「現象は心の影」の真理一つでもこんなに違う捉え方をしています。
志恩さんが「思います」「思っていません、思いません」ということは貴方の考えであり、

今、私は、生長の家3代目ご夫妻の事、生長の家運動も自分の周囲も全て自分の念の影と分からせて頂きました。と書かれ、10年にも渡り暗黒面を見ていたのは間違いでした、と言われるのも彼女の考えです。

どちらが「現象は心の影」の真理を、正しく把握しているのか、はたまたもっと違うことをこの真理の言葉は示しているのか。

少なくとも、暗黒面を見ることは間違いであるとして反省する人をとやかく言うものではないと思います。

一切自分の責任 (35593)
日時:2020年11月12日 (木) 11時51分
名前:様々なハンドルネームを使用して沢山あって覚えていなくてすみません。こちらでは会員改め生命の実相信者


志恩さま

私は、トンチンカン様ではありません。最近はお邪魔さしておらず
あまり良く分かりませんが、そのハンドルは違う方が使用されておられます。
現象は念の影とは、既に甘露の法雨に明記されてあり生長の家の神様の
御教えですから、志恩さんは、甘露の法雨を読誦しておられないと
思われます。
そして、それもご自身の念の影でありますから信じない通りの現象の展開が宇宙の法則です。

私は、私で、私の浄化された調和された円滑な現象が現れる以外はありません。
人を批判すれば自分が批判され返されるのですから、私は三代目に謝罪をします。 ただ、真理と言う本には、意見が違えば礼拝した上で議論をすべきと書いてありました、私は、聞く耳を持たない方には拝む事にします。
これからも、まだまだ
わたしは、生長の家の御本を読み勉強し、甘露の法雨読誦に神想観
今は、ボランティアはできませんから 内面の充実を徹底的にやらせていただきます。
自分がとても気持ち良く心が現れます。また、人間が動かなくなり
空も空気も本当に美しい。
甘露の法雨を読誦しながら、与えるだけ、与える事だけを考えて日々を過ごしていきます、嬉しいから。笑笑




















長崎の晩霞さんへ (35594)
日時:2020年11月12日 (木) 11時54分
名前:志恩

長崎の晩霞ー
>>「現象は心の影」の真理一つでもこんなに違う捉え方をしています。

志恩さんが「思います」「思っていません、思いません」ということは貴方の考えであり、

今、私は、生長の家3代目ご夫妻の事、
生長の家運動も自分の周囲も全て自分の念の影と分からせて頂きました。
と書かれ、10年にも渡り暗黒面を見ていたのは間違いでした、
と言われるのも彼女の考えです。

どちらが「現象は心の影」の真理を、正しく把握しているのか、
はたまた、もっと違うことをこの真理の言葉は示しているのか。

少なくとも、暗黒面を見ることは間違いであるとして反省する人を
とやかく言うものではないと思います。<<

>>長崎の晩霞ー
「現象は心の影」「時間空間は認識の形式に過ぎず」とは
何をさして言うのか <<


志恩ー
長崎の晩霞さんに質問です。

長崎の晩霞さんは、
雅宣総裁先生が、自民党政権の暗黒面を見て、
自民党は支持しないと、教団として公式な声明を
出される言動については、信徒としてどう思われていらっしゃるのかしら?

なんだか知りませんが、学ぶ会の破邪顕正さんのことも
あなた様は、暗黒面を見ておられるような....

それについても、どうお考えなのでしょうか。



現象は念の影 (35595)
日時:2020年11月12日 (木) 12時15分
名前:様々なハンドルネームを使用して沢山あって覚えていなくてすみません。こちらでは会員改め生命の実相信者

長崎の晩霞様

はじめまして。

合掌 ありがとうございます。

長崎の晩霞様は「 甘露の法雨」と言う生長の家のお経をご存知でしょうか。
無ければ、東京の光明思想社 と言う所で購入されて沢山読誦されて下さいませ。 現象は念の影とは、生長の家の大神様が明記されている法則ですから、昔のカメラの写ルンです?の宣伝のように 美しい人は美しく、それなりの人はそれなりに。 でしたか?樹木希林と岸本加代子のテレビコマーシャルがありましたが、
心の法則もそれなりにですね、その方の念の通りですね。心は自由ですが、皆、それぞれが自分の心通りを見るわけですから
私が三代目さんを大嫌いと思っていれは、大嫌いの人ですし、
心が変わり、実相は神の子 で 生命は共通の神様に生かされていらしゃる方 と拝んでいくと、私の場合は、 出来ないなりに一生懸命なさるとか、
この方がいなければ、生長の家を継ぐ人は誰もいなかったなど、優しい目でだんだんと観れるようになりました。
それは、自分自身が行によって変化する以外はないと思います、コロナの
お陰です。
コロナで八方塞がりになり 自分の内側に向かって 光をいれるしか無くなったからです。世界全体が止まったお陰なのです、私の場合は、ですが。

生長の家の御教えは素晴らしいです。
組織や三代目はまず置いておき、今は 自分自身の内なる神に合掌礼拝する
事の有難い時期です、まだまだ続けていきます。


あと、菩薩は何を為すべきか。
と言う本の第4条を読まれてみて下さいませ。
一切は自分の責任で教団に関することも全て自分の責任である。と。
谷口雅春先生が御書き下さっております。
谷口雅春先生が仰る以上私は、雅春先生にハイと素直について行きたいです。谷口雅春先生の一弟子として自覚を深めていきたいと思います。

読んでくださり、ご意見頂きまして有難うございました。感謝 礼拝。









会員改め生命の実相さんへ (35596)
日時:2020年11月12日 (木) 12時19分
名前:志恩

志恩ー

お返事、ありがとうございました。
そうでしたか。あなた様は、トンチンカンさまでは、
いらっしゃらないのですね。
それは失礼いたしました。

10年以上も、三代目さんを批判し続けていらしたお方って、
他に思いつきませんでしたので、失礼いたしました。
___________________
会員改め生命の実相さんー

>>現象は念の影とは、既に甘露の法雨に明記されてあり
生長の家の神様の御教えですから、志恩さんは、
甘露の法雨を読誦しておられないと
思われます。<<
___________________
志恩ー

毎日読誦してますよ。笑
____________________

会員改め生命の実相さんー

>>そして、それもご自身の念の影でありますから信じない通りの現象の
展開が宇宙の法則です。
私は、私で、私の浄化された調和された円滑な現象が
現れる以外はありません。<<

人を批判すれば自分が批判され返されるのですから、
私は三代目に謝罪をします。

ただ、真理と言う本には、意見が違えば礼拝した上で
議論をすべきと書いてありました、
私は、聞く耳を持たない方には拝む事にします。

これからも、まだまだ
わたしは、生長の家の御本を読み勉強し、甘露の法雨読誦に神想観
今は、ボランティアはできませんから 内面の充実を
徹底的にやらせていただきます。
自分がとても気持ち良く心が現れます。
また、人間が動かなくなり
空も空気も本当に美しい。
甘露の法雨を読誦しながら、与えるだけ、与える事だけを考えて
日々を過ごしていきます、嬉しいから。笑笑<<
________________________

志恩ー
私も生長の家に入信して長いので、生長の家の信仰を続けている
方々で仲良くしている方々は、親戚の人、友人の人、
知人の人など、大勢います。

親戚の中で、何十年間も
今まで、朝夕2回づつ甘露の法雨をあげ続けてこられたお方で、
あなた様のような考え方のおかたも、中には おられます。

同じ信徒なのに、考え方は、違いますが、私は、その人とも
今でも仲良く交流は、していますよ。その人は親戚の人なもんで。

信仰とは、同じ宗教にご縁がありましても、真理の捉え方で、
人それぞれなんだなということは今まで生きてきて
骨身に染みて、よくわかっております。

どうぞ、今後もますますお元気で、お幸せに!!

コメント、ありがとうございました。



会員改め生命の実相信徒様の良い記事にすまないが (35597)
日時:2020年11月12日 (木) 13時17分
名前:LIONの門

>この世界は波動で出来ています

志恩様が「シオの部屋」で貼っている大紀元(Epoch Times)youtubeは
「法輪功」という宗教団体の発信であると見受けますが、
毎日神想観をされているのに引き寄せられたのだろうか。。。



LIONの門さんへ;「波動」という言葉は、昔から生長の家で使っていますよ。谷口純子白鳩会総裁も、御文章に使われてます。 (35600)
日時:2020年11月12日 (木) 15時45分
名前:志恩

「もっと知りたい、先祖供養」

テキスト    谷口純子先生著  普及誌『白鳩』No.76より
     
>>先ず、父母に感謝しましょう


生長の家では
「人間がこの世に誕生するのは、類は類を呼ぶという
同類親和の法則」に従って自分の魂と同じような傾向を持つ
両親の精神
⭕️波動に引き付けられ、母親の体内に宿る」と説いています。
略<<


【波動について】 (35601)
日時:2020年11月12日 (木) 16時39分
名前:志恩

「波動」とか「波動をあげるには」とかいうことばは、最近では、
ヨガ(肉体系のほうのヨガでなく、スピリチュアル系のほうのヨガ)の動画に
多く出てきます。

これは、若者向けに、われわれが自分だと思っている
肉体の奥に、実は、この宇宙を作ったものと繋がっている
魂があるのだということを言ってるわけでして、

『波動をあげる=魂に目覚める』

という意味で使われています。

では「波動」ということばは、どこから発生したのだろうかと、
調べてみましたら
4.5000万年前の古代ヨガの教えから生まれたそうです。サンスクリット語。
ブラフマン(宇宙の始まり、宇宙を創造した源)。高次元。高波動。
宇宙も自分も実在している。生きている力を もらっている。
守られている。

それでは、古代ヨガは、どこから生まれたかと言いますと、密教の教えから
生まれたのだそうです。

密教とは、仏教の教えの1つで、金剛頂経があるそうですが、
シッタルダは、そこで何年も何年も死ぬほどの苦行をし、その結果、
20分間も息を止めていることができるようになったのだそうです。
その頃は、死ぬほどの苦行を続けないと、真理を悟ることができない
時代だったのです。

しかし、そのシッタルダは、菩提樹の木の下で、悟りをえて、
仏陀になりました。

その仏陀に悟りを得させたのは、誰かと言いますと、
「大日如来=ブラフマン=天御中主之神」
釈迦は、悟りを得て、心が澄み切りますが、また、いろいろなことがあり
心が濁ってきました。それで、菩提心を唱えますと、心が澄み切りました。
しかし、また、濁ってきます。そして釈迦は、宇宙の秘密、仕組みを
悟ります。私は、この金剛そのものだったということを。

そうしますと、
愛が芽生え
人と仲良くするということが自然とできるようになり
無理に努力しなくとも、心を穏やかにして生きられるようになった。
ということです。

で、あるとき、谷口雅春先生という高級霊のお方が、神界から
人類を救うために、使命を持たされて  この世に
遣わされて参りまして、

そして、
ある日、生長の家という宗教団体を起こされ、
人類に、苦行しなくても、「甘露の法雨」と「神想観」
そして、三正行を実践することにより、【神の子人間】を
悟ることが、簡単にできるように、人類に示されたのでした。



 (35602)
日時:2020年11月12日 (木) 17時26分
名前:LIONの門

存知てます。
雅春先生は「波長」という言葉で顕されていますね。

統一教会と同じカル〇宗教が発信する、バイデン批判youtubeを
貼っておられたので聞いたまでです。




 (35604)
日時:2020年11月12日 (木) 17時38分
名前:LIONの門

>米国、バイデンが投票日10日前に自ら「選挙詐欺組織を作った」と発言しているそうですね。

で、貼ったものの事です。
これにて失礼致します。
お元気で。

 (35617)
日時:2020年11月13日 (金) 00時24分
名前:アラベスク→会員改め生命の実相さんへ

はじまマして。

大変失礼に存じますが
「様々なハンドルネームを使用して沢山あって覚えていなくてすみません。」
1と書かれてますが、一つやふたつは覚えておいでと思います。
よろしければ一つや弐つくらい教えていただけませぬか?



________________

 (35667)
日時:2020年11月13日 (金) 18時50分
名前:うーん


野暮なこときいちゃダメダメ🙅

感謝と讃嘆の種を蒔く (35670)
日時:2020年11月13日 (金) 22時06分
名前:tapir

生命の実相信者 さま

HNを勝手に省略してすみません。長いので。

「甘露の法雨を毎日10巻あげて 感謝誦行を2時間」により、「私は、生長の家3代目ご夫妻の事、生長の家運動も自分の周囲も全て自分の念の影と分からせて頂きました。」との境地に達せられたことを、心よりお祝い申し上げます。

生長の家の聖歌の「実相を観ずる歌」に

われ祈れば 天地こたえ
われ動けば 宇宙動く

とあります。これは真理だと思います。

現象的にはなかなか思い通りに進まないと見えるときも、10年、20年の長期的なスパンで見ると、反対者も妨害も、魂の修行という点で、それぞれ必要であった、無駄なことは一つもなかった、自分が念じた通りの道を歩んできたのだと、つくづくそう思います。だから「何があっても有難うございますじゃよ」という、不都合と見えることも感謝して受け取るという言葉は真実だと、これを教えてくださった故藤原敏之先生にも感謝する次第です。

練成会では「手の舞い足の踏むところを知らず」と3日間、踊るような心持ちだったという、生まれて以来初めての喜びを得た方の体験談を、よくお聞きします。そのような幸福の中にいらっしゃる貴方様は、生長の家の行の素晴らしさの生きた証人(あかしびと)ですね。すばらしいことです。

大韓民国に「光明会」という生長の家の組織がありますが、その初代会長は、日本から直接指導がなかなか受けられない中、会員の聖経読誦、神想観を徹底されることによって、皆様が人間神の子、永遠生きとおしの命に目覚められて、大勢の人々が幸せに導かれました。

聖経読誦、神想観は特に大切ですね。私も、神想観を怠った時に、つい最近のことですが、失敗して後悔しました。今日では、神想観なしではいられず、一日一回30分以上、必ず神想観を実修するようにしております。

なお、過去の暗黒スレッドを気にしておられますが、こんな方法もあるかと。
それは、過去に50の暗黒のスレッドを書いたのであれば、今から、それより多い数の光明のスレッドを書く方法です。

藤原敏之先生は「間違って悪い種を蒔いたために出てきた悪い芽はほっとけばいい、善い種を蒔き直してそれが成長すれば、悪い芽は、善い芽に圧倒されて、自然に消えてしまう」とも、教えてくださいました。

ふと思いついたアイディアですが、たとえばこの掲示板でも「讃嘆箱」のように、良いこと、讃嘆のコトバのみを語る、生長の家らしいスレッドも、あっていいかなと思いました。

tapir様 合掌 ありがとうございます。 (35700)
日時:2020年11月15日 (日) 11時30分
名前:生命の実相信者


tapir様

ターピル様と発音しますのでしょうか。
久しぶりに懐かしい、懐かしい雅春先生教団の講師先生にお会い出来た様な嬉しいコメントを頂きまして有難うございます。
久しぶりの生長の家の先生を感じて嬉しすぎて、どう返信してよいやら自分の行動が恥ずかしすぎて戸惑ってしまっております。

まず、ご返信のレスを有難うございます。
また、大韓民国の事例をあげて下さり、行動の肯定や確信を頂きまして有難うございました。

私は、今回たまたま コロナで、その様に行動するようになりましたが、

まだまだ、分からない事だらけ なのです、正直な事をもうしますと。
それなので、貴方様にどう返信したらよいやら恥ずかしくて、恥ずかしくて困りました。
そこで、少し前のスレで貴方様を探して読ませて頂きました。
そうすると、
分からなかった事のお答え、私自身のお腹にストンと落ちて、そして氷解
したご文章と出会える事が出来ました。
それには、本当に神様の御導きを感じて感謝申し上げます。

それは、
聖経や感謝行、神想観していてもまだまだ分からない事だらけの一つでありました、雅春先生の努力と信徒との愛の結晶でもあります原宿本部の取り壊しに対しては悲しみや神様さえも信じられない。しかし久遠生命の神示には、
神を信じているのではなく物を信じている、
物は結局移り変わるから物のご利益に立てられた、、、

と、読んでも読んでも感情がついていけませんでした。

しかし、tapir様に返信するためにtapir様のスレを読ませて頂き
現象はない!
と、分からせるための神慮である。とのご文章に出会えた瞬間にその全てに感謝する事ができました。

本当です。
全てを肯定できて、感謝してしまったのです。一瞬です。

これが、雅春先生の仰る何万年の暗も灯りを燈せば一瞬で暗が消える
それを体験させて頂きました。

本当に真理は、
生長の家教団に、組織に、神札にあるわけでなく
自分の内、中に全て、神様がある。
神様の如く生きる事。

誠に、物質は無い! の世界を
心底、雅宣先生とtapir先生に教えて頂きました。
誠に有難うございました。

そう言う事でございますなら

生きる事は、神様の御心を、常に神様の御名を呼んで、自分では無いと
現象の自分を否定し、神様がそのまま私になるように祈りながら
神の子の自分でいる事です。
と思う事ができました、とても嬉しいです。

文章が下手で感謝と感動が言葉にできませんが、
本当にありがとうございます😊

神様tapir先生.
御導きに大大感謝しております。
有難うございました。

私のスレに真心のこもった神愛溢れるレスポンスを付けて下さいましたお陰です、有難うございました。

寒さに向かいます由、お身体を大切になさって下さいませ。

また、こちらのスレのお言葉を大切に頂戴致しました。
少しづつ実行していきたいと思っております。

そして 生長の家の行をしっかりと継続して行きます。
生きる指標ですので、特に私のような神の子にはです。笑笑

では、思ったままに、、、乱文失礼しました。感謝 合掌 再三拝

tapir先生様 (35701)
日時:2020年11月15日 (日) 11時52分
名前:生命の実相信者




こちらのご文章の中でのお言葉で
私は、三代目さんのご行動に対する 憎悪、恨み、憎しみなどの悪感情が
突然、氷解したように 透明になり、無くなり、
さらに一瞬で感謝へと変化しました。

心からそうまでして私達に真理の説法をなさって下さいましたか。と、
お詫びと懺悔の気持ちで一杯になりました。

tapir先生様、重ねてお礼申し上げます。

ありがとうございます。 合掌

以下 長崎の晩霞様のスレからの引用です。
こちらのご文章で私は神の子の生まれ変わりをしたご文章です。
救済されたものです、


>> 「谷口雅春先生の教えに回帰する」とは (35497)
日時:2020年11月07日 (土) 20時36分
名前:tapir

長崎の晩霞さま

前のスレッド「個人の救い」のトキさんとのやりとりを読みました。

「谷口雅春先生の教えに回帰する」ということを、私は以下のことではないかと思いました。

天理教のお手伝いをしておられるとのことで、天理教のホームページを拝見しました。“”内は、ホームページからの引用です。天理市はずっと以前ですが、旅行したことがあります。いいところですね。

“天理教信仰の中心は、親神・天理王命(おやがみ・てんりおうのみこと)によって人間創造の地点と教えられる聖地「ぢば」です。奈良県天理市に位置し、天理教教会本部の神殿と礼拝場は「ぢば」を取り囲むように建てられています。”
https://www.tenrikyo.or.jp/jpn/about/

親神が大切にされているのを拝見して、天理教はすばらしいと思いました。

・生長の家では、天理教の親神・天理王命にあたる、住吉大神を、信徒に諮ることなく、造化の三神に置き換えて、住吉大神の神札を廃止しました。

天理教では、原典・教義書も整っていて、誰でも入手できるようですね。
https://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/oshie/

・生長の家の根本聖典『生命の實相』と『四部経』は、いつになったら信徒が自由に入手できるようになるのでしょう。

“神殿の北側にある教祖殿は、存命の教祖(おやさま)のお住まいです。
今も日々の食事など、身の回りのお世話をしてお仕えしています。“
https://www.tenrikyo.or.jp/jpn/oyasato/

・「教祖殿」のように、教祖が今も生きておられると思い起させる場が、本殿と共に大切にされていることはすばらしいです。

生長の家では、教祖が約30年親しく実務を執られ、2代目がその後30年、合わせて60年近く光明化運動の中心だった、美麗な生長の家本部会館を、あっさり取り壊しました。(温故資料館はありますが)


天理教は教祖や教えの根本を大切にする「宗教」だと思えますが、生長の家は「谷口雅春先生とその教えを大切にしているのか」と疑問を感じるのは、自然なことだと思います。


私は、生長の家の「今の教え」は、形あるものはもちろん、御祭神という形のないものも、全て打ち壊して、断ち切り、「現象はない」を悟らせようとしていると理解しております。が、私は俗人なので、物を大切にしない、何かとお金を無駄遣いする(宗)「生長の家」を物的に支援する気になれないでいます。

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質問されたので「軍拡」と「憲法改正」の私見を述べましたが、(宗)「生長の家」について、私も「宗教は政治活動をしない」との考えに賛成しています。トキさんと微妙なところは違うかも知れませんが。

私は宗教法人「生長の家」の総意として政治的見解を公表することはかまわないし、時には必要なことだと思います。しかし、その通りに実行するかしないかは各信徒の裁量に任せるべきで、特定政党に投票してはいけないとか、政治活動支援を禁止するのは行き過ぎです。「教団として政治活動はしない」とは、その意味です。

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「救い」とは何かということですが「救い」は「悟り」と置き換えてもよいと思います。「救い(悟り)」は内的な自覚ですから、本人でないと「悟ったか悟らないか」は分からない、第三者が「救われている」とか「いない」とか、決められないと思います。

「大悟十八回、小悟は数知れず」は、白隠禅師の言葉です。再び、病気になったから、自殺したくなったから「救われて(悟って)いなかったじゃないか」とは言えず、小悟があった、そして縁を得て、再び小悟を得たのかも知れません。「学ぶ会」は、玉石混交で、第二掲示板だけ見ていると「救われて(悟って)いない人ばかり」の団体に見えますが、個別には優れた講師もおられると思います。組織と、所属する個人の悟りは別物です。

自分が「救われたい」のではなく、人を「救おうとしない」のは宗教としてどうなのか、というのがトキさんの問題提起かと。困っている人に衣食住を与える物施も、教えを知らせる法施も、「救いたい」という愛念の発露です。運動の上で、それを軽視してよいものかということだと思います。
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>総裁の在り様ではなく、自分の在り様が問われるのが信仰です。<

その通りです。どの組織に所属している人でも、組織に所属していない人でも、自分が真剣に信仰すれば、そこに神が現れると思います。

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ところで、長崎の晩霞さまは、“「現象なし実相のみ実在」の指し示す世界を獲得した救い”を得たとの体験をお持ちですか?

表題は (35702)
日時:2020年11月15日 (日) 11時54分
名前:生命の実相信者




>心の法則"と"平和への道"の神示について長崎の晩霞

でして、
その中にあったものです。

嬉しい❣ (35703)
日時:2020年11月15日 (日) 12時06分
名前:生命の実相信者


まだまだ
雅春先生時代の御弟子先生がいらしてトキ様のお陰をもちまして
魂の救済をして下さる先生がいらしゃる事は本当に嬉しい事です。
雅春先生時代同様、お優しくて、謙虚で、頭がよろしくて 暖かくて
徳高い先生、どなた様が分かりませんが、
懐かしい先生、ありがとうございます!

こちらです、 (35704)
日時:2020年11月15日 (日) 12時47分
名前:生命の実相信者

> 私は、生長の家の「今の教え」は、形あるものはもちろん、御祭神という形のないものも、全て打ち壊して、断ち切り、「現象はない」を悟らせようとしていると理解しております。が、私は俗人なので、物を大切にしない、何かとお金を無駄遣いする(宗)「生長の家」を物的に支援する気になれないでいます。<


こちらのご文章に出会った時に
悲しみや憎悪、恨みなど 一瞬にして消去され 一瞬にして感謝の世界に
入る事が出来ました、感謝 合掌。

余談てすか、
先週とある新幹線の出口を出ると女性ホームレスがビリビリに破れた真っ黒い服でお尻が見えていたので、ふと見ると少し先に衣料品店があったので、そこで 下着とモコモコの暖かそうなスエットの上下を購入し、その方に渡そうと声をかけたら、
昼食時て大衆の往来が激しい最中、大声で「いらない!余計な事しないで! 」と 怒鳴りつけられてしまいました。 仕方なく 近くの道端に何気に置いて私は知人と待ち合わせの場所にいき、昼食をとりバスに乗る為にまた同じ場所にいくと、先程のホームレスの女性が私にいらないと怒鳴りつけた時の服の入った袋を拾って持っていたのです。

世の中 観世音菩薩様だらけです。

私は、このように人様の愛を蹴飛ばしていたかと思うと、
あの時も、この時も、、、

このように神様の大説法始め、両親、主人の愛を蹴飛ばしておりました。

と、目覚めました。

有難い事でした。
ホームレス女性に大衆の中で恥をかかされて、三代目さんに私がした事が
消えた と思います。

全ては、観世音菩薩様の説法ですね。合掌

教えて頂いたように良い事を書いて私の悪業も消していきたいです。







 (35705)
日時:2020年11月15日 (日) 13時41分
名前:読者

会員改め生命の実相信者さんは、
たしか学ぶ会の初期も知ってるんでしたよね。
其処も変わってしまったという投稿を拝見して、色々と様々に、
其々翻弄されている方がいるなと以前は安じて読んでいました。


すべての悲しみや憎悪、恨みなど 一瞬にして消去され 一瞬にして感謝の世界に入る事が出来たとのこと、良かったと共に喜んでいます。

常楽への道より「神想観」の神髄に関し (35710)
日時:2020年11月15日 (日) 20時02分
名前:長崎の晩霞

「黙示録の中にヨハネが七つの燈臺の間を歩み給ふ神の前にひれ伏して「死せるものの如く」なっているところがあります。

私達も何もかも捨てて、本當に神の前にひれ伏して坐り切る、どこまで坐り切るかと云ふと、『肉体なし』になるまで坐り切る。『自分なし』と云ふところまで坐り切る。

神様が向ふにをられて、俺の體がここにあって、神様どうぞ此の『肉体なし』と云ふところまで坐らせて下さいと云ふやうな相対的な隙間のある坐り方では駄目です。天命とピッタリ「一」になり切るのです・・・略・・・

本當に神と對面して『肉体なし』と云ふところまで神様の前に坐る、是が神想観であります。」



この心境から「七つの燈臺の点燈者の神示」を受けたときはじめて「天地一切のものとの調和」がうまれる、と説かれています。

長崎の晩霞さま、 (35712)
日時:2020年11月15日 (日) 22時03分
名前:生命の実相信者

ありがとうございます。
難しいものを読まれておられますね。少し前後の文章がないと分かりません。すみません。

私は、谷口雅春先生の生長の家という神誌に掲載されたものが好きで繰り返し読ませて頂いております。
以下生長の家誌より引用します。

>.> 真実の自己を呼び出して、正真正銘、宇宙のいのちと1つになる自己を発見する行法こそ神想観ーー最高の喜びここにあり


神は今ここにあり給う

神の国は今ここにある。そして神は自己に於いて権限している。 神は余所(よそ)にあるのではない.
「 爾(なんじ)の内にある」,
それを見い出さないで今此処を物質の国土と観、人間を単なる物質の塊だと見る、其処(そこ)に迷いがある,

その迷いを取り去らなければ、人間は自縄自縛されている。人間は物質ではない、肉体ではない。

この身このままに霊的実在である神を見出さねばならない。 人間は肉体ではない、霊的実在である。この事実を深く心に自覚せしめるための行事が神想観である。神を頭脳で知っただけでは、神が "わがもの "とはならないのである。全身心を持って神の実在を体感体得しなければならない。それをなすのが神想観である。神想観を必ず怠らず行ぜよ。

神想観を怠らずに興じているうちに「 人間・神の子 」真理が頭脳的な知識から、感情的な把握となり、更に進んで、全生命的な把握になってくるのである。大抵の人は「 神 」を単に、理論的に、または「文字」の上で知っているのである。それが単に「文字」や「理論」である限りにおいて、その神は「自己」の全存在から離れたものに過ぎないのであって、生活の上に何の力も現すことはできない。

神が単なる理論上の存在や、名称上の存在でなくなって、自己の生命そのものとの自覚を得はじめた時、私たちの生活は変貌し始めるのである。

それは「吾れみずからにては何事もなし得ず」と言う謙遜(へりくだり)と「天の父(神)我にいまして御業(みわざ)を成さしめたものである」という高らかな明るい自覚との、不思議な組み合わせができるのである。其処に於いて魂の神秘な安息(やすらぎ)が得られる。


神への聖なる憧れ

肉体的な自分、頭脳的な知性のほかに、何かいっそう高き神秘的なものが働いていると言う感情的な自覚、すべての宗教的な体験はそこから生まれてくるのである。しかしその自覚に達するまでには頭脳的な追求も、知的な探求も必要である。

神への追求、神への探求ーーーそれがたとい頭脳的な知的なものであるにしても、神への追求または探求の奥には既に自己の本質が「神である」ことのおぼろげなる自覚があるのである。そのおぼろげなる自覚を探求の緒(いとぐち)として手繰って行けば、其処についに内在の神を見出し、内在の神に到達する大通りを見いだすことができるのである。煙草を1度も経験しない人が、タバコを追求しないごとく、未(いま)だ1度も神を経験しない人が神を探求し追求しようと言う衝動をかすかながらも感ずるはずは無いのである。すでに神は*自己の内にまします*から神への聖なる求めが生まれてくるのである。

こうして人類の神への聖なる追求と、神をたずねる聖なる巡礼とがはじまる。ある人は神を「仏」の中に置いて仏教で見いだす。ある人は神を「慈悲の」の名において慈善的な行為や隣人への愛行に置いて見いだす。ある人は神を教会に置いて見出し、教会の礼拝の中に神と自己との接触、を見出そうとします。
しかし教会や寺院での神や仏は、それを教える牧師や僧侶の排他的な、縄張り的な狭い心で歪められ、本当の神を見失わしめられ、「その教会や寺院を去ったならば、神罰や仏罰で恐るべき災禍(わざわい)に見舞われる」などと脅されて神を求めたが故に、かえって神に縛られて自由を失うような結果になりがちです。
しかし本当の神仏は決してそのような神罰や仏罰で人間を脅したりする方ではないのであります。

それは神を求める道に迷っていつの間にか、「外」に神を求めていたからなのです。

神を全身全霊をもって体験するには

正しく「神」を知り、本当の「神」に接するには神罰や仏罰を解かない偏りのない「愛の神」を説く経典または著述を読まなければなりません。しかし読書だけでは頭脳がその方向に振り向くだけであって、必ずしも全生命が神と一体感を得るには決まっていません。最も「生命の実相」を読んでその文章の力、言葉の力によって、忽然(こつねん)脊椎カリエスが治ったと言うような人の中には、ただ読書だけで自己内在の神を体験し得た人もありますけれども、万人が万人とも読書だけで、「内在の神」を全身全霊をもって体得するわけには行きかねます。そこで神想観の実習が必要になるのです。私達は
「神が現れればすなわち善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり、一切の生物ところを得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし」と教えられています。神を現すのが神想観であります。

「迷いはどこから来たか」とか「神の子がなぜ迷うか」などと言うことを質問する人がありますが、それは人間の感覚的認識から来た質問であって、*霊的直感*によるとき、「悟り」に対する「迷い」とか、「光」に対する「暗(やみ)」とか、「善」に対する「悪」とか、「完全」に対する「不完全」とか言うような神に対する反対観念の物などは全然*ない*。

「なぜ、*ない* ものが *ある* ように見えるのかと言う質問も出てくるが、霊的な直感によればそれらの「ないもの」は決して「*ある*ように見えない」のだから仕方がない。
「不完全な地上世界の存在」を仮に肯定して「地上は人間の霊魂が向上するための学校だ」と言うのは現象としての見方である。未完成の現象はある意味ではあるが、実相においては「既に完成させる世界」のみがあるのである。未完成は認識の形式を通過する際の歪みに過ぎない。

既にある完全の世界の扉を叩くこと

神想観中に観ぜられる実在の世界は、すべては一つの神の示現であり、したがって「一切の生物処(ところ)を得て争うものなき大調和の世界」である。全てが一つの神の示現であり、肉体人間なる不完全者が工夫巧者(くふうこうしゃ)によって、やっと築き上げた如き自力の世界では無いのである。すべてが神の示現の世界であるから、それは他力の世界であり、絶対慈悲の世界であり、ただ恩寵によって完全に生かされている世界でもある。随って(したがって)、人間的なはからいによって、「この善」「この幸福」を求める事は不要である。ただ神の恩寵を感謝によって「叩けば」良い世界である。まことにも「叩けよ、さらば開かれん」とはよく言われたものである。「まず神の国と神の義(ただ)しきとを求めよ、その余(よ)のものは汝らに加えられるべし」とはよく言われたものである。

既に 「形」として「物象化」しているものは有限であり、それを求め願うものはある場合には争いの元になります。
私たちは事物の「聖なる本源」そして「無限の根源」である神に、その供給を仰いで其処(そこ)から「既に完全なるもの」の展開をこそ願うべきであります。芸術家も人間的工夫よりも「内なる無限」よりそのインスピレーションを求むべきであり、発明家も人間的工夫よりも「内なる無限」よりそのインスピレーションを求むべきであり、病人もその治療力の源泉を「内なる無限」より求むべきであり、而も(しかも)その「内なる無限」は、自分の自力で掘り出すものではなく、神の恩寵によって、仏の本願によって、組み出すべきであります。まず自己の内に「無限」があること.それを素直に認めること、そして幼児の心になって、それに呼べる呼びかけることであります。

天国を作るものは「幼な児」の心を持つ者である

「素直」と「幼な児の心」とが神の恩寵をそのまま受ける神秘的鍵である。この「幼な児の心」を恢復(かいふく)することが「新たに生まれる」と言うことである。理屈を言わずに、人間は神の子であると言われれば、それを素直に承認して「ありがとうございます」と感謝することである。「人間は神の子であり、本来病は無いのだ」と教えられれば、たとい現象的に病が現れておろうとも、そんな病は本来ないのであってそれは恰も(あたか)も「夢」を見ているようなものである、夢は体験としてあっても、夢にある内容は実際起こっていないので、そのごとく病の苦痛は体験として感じられていても、実際にはその病は存在しないのであると、完全にその病を心の内から否定するのが「幼児の心」と言うものである。「なぜ、無いものがあるとして感じられるのか」などと理屈を言うのが''知恵の木の実"食べることである。

神想観を行ずれものはまず「幼な児の心」になることが必要である。神想観とは決して自力の思念では無いのである。それは「既にある実相の完全さ」を素直な心で受けることである。
遮二無二自己暗示的に「神」の観念を注ぎ込むことではないのである。真に幼な児の心になって「神」と神のつくり給いし実相の完全さを完全に潜在意識の底までも受け入れるとき、現象的にも曲がれるは正しくなり、不調和は調和しきたり、一切の人間 処 を得て、争うものなく、相食む(あいはむ)物なく、それぞれの個性に従って賦(あた)えられた。善きものが、互いに調和した相(すがた)において得られると言うことになるのである。この時、もはやその人は単に「自分のはからい」や不安や混迷の中に生きず、
神の恩寵によって生かされていることになり、人事関係の調和、豊かなる供給、事業の発展、
良きインスピレーション相次いで来たるのである。

何よりも先ず、現象に先たって内部に「幼な児の心」が来なければならない。
それが内部的「生まれ更り」である。内部的「生まれ更わり」があってこそ、やがて現象的に外部的生まれ更わりを生ずるのである。
現象をめがけて現象の利益を追求しているようなことでは「内部的生まれ更わり」と言うものはありえない。現象界のある事物を得んがために、またはある目的を達せんがために、神想観をするのは、神を求めているのではなく、現象的な目的を達成せんがために、神を利用しようとしているのである。其処には「神の恩寵」はあり得ない。なぜなら、人間が先に立って、神を利用しようとするのだからである。だから厳重に言うならば、病気を治すために、金を儲けるために、自動車を得るために・・・・・等等の目的で神想観すべきではないのである。神想観と世俗の「祈り」とはその辺がその点が非常に異なるのである。

神想観の本質は
ただ「神」を素直に受けるにある

神想観は「内部的生まれ更わり」をするためにこそ行すべきである。「神」を自己の内に素直に認めるのである。「神」はすでに汝の内にあるけれども、幼な児の心で素直に認めない時は現れないのである。神想観は「神が内にありたまい、われ神の内にある」実相即ち真実を観るのである。
神は一切のW善きもの"を自己のうちに蔵(ぞう)したまい.それを我らが素直に受けることによって、その「善きもの」が現象的にも展開するのである。神を自己のうちに素直に見出し、それを受け取ることが最初の出発であり最後の結着でなければならない。神と別のあるもの、神の善意に相反するもの、他を押しのけて自分自分が利得を得るものーーーーそれらのものを神想観中に求めたりするならば、それは神想観の本質を破壊してしまうことになるのである。
神はすべての「善」である。神以外のものを求める必要は無いのである。
神は霊であるから、霊に対しては霊をもって祈るべきである。物質を目的に祈ってはならないのである。物質は霊の投影であるから、霊の方が整ったならば、その投影であるところの物質のほうもととのうのである。だからキリストは「先ず神の国と神の義(ただしき)を求めよ、その世のものは汝らに加えられるべし」と教えられたのである,「神は霊であるから、霊き対しては霊をもって祈るべきである」と言うのは、本当の祈りは(形式はいかにともあれ)肉体の人間が祈るのではなく「我が内にある霊が、普通霊になる神に対して祈る」のであると言うことである。
本当の神想観は、肉体の脳髄が感ずるのではなく「内なる神」が「神」を感ずるのである。「唯物与仏乃能究尽(ゆいぶつよぶつないのうぐうじん)」の境地である。ただ、仏と仏のみがカチカチと触れ合い火花を発する境地である。

純粋の神想観について

続く






生長の家誌 神想観の神随 A (35713)
日時:2020年11月15日 (日) 22時08分
名前:生命の実相信者

続き、

>>純粋の神想観について


「我が内にある神」が「普遍なる神」に直接接するのが本当の神想観である。「幼な児の心」になると言う事は、「我が内にある神」が魂をひらいて「普遍なる神」に接触するためにその障壁を取り除くことになるのである。「我の心」をもってて「物質的なアレ、又はコレを与えたまえ」と祈る事とは大変な違いであるのである。
純粋な神想観は、「我が内にある神」が「普遍なる神」に対して直接対面し、「わが*みおや*なる神よ、汝語りたまえ」と、素直に相対し、素直に神そのままの御言葉をきくことであり、実相そのまま受け取ることである。完全なる自己放棄と、完全なる自己の扉の全開である。
その扉の入り口に「物質的な要求」がデンと座って、その入り口をふさいでしまってはならない。完全な自己放棄が行われた時、「普遍なる神」と「内なる神」との契合(けいこう)が行われる。

「われみずからにては何事も成し得ず、天の父われにいまして御業(みわざ)を成さしめたまうなり。」御業をなすのは、肉体の人間ではなく「普遍なる神」(天の父)がわれに宿って「内在の神」となっているその「内在の神」である。それなのになぜ「内在の神」は今まで働き給わなかったのであろうか? *否 常に働いていたまうのである。*
しかしその表面に物質的欲望が層をなして、その表現を邪魔していたに過ぎないのである。例えば、それは、映写機は回転している、しかしそのレンズの不透明なレンズ・フードが幾枚も覆っていて、それが現象界のスクリーンに完全な映像が映るのを妨げているようなものである。この、妄念の透明なレンズ・フードを私たちは打ち砕くことが必要である。その妄念を取り去る方法が「幼な児の心」になることである。

「もしこの病を癒し給うたならば神の存在を信じます」と言ったり、「もしこの貧しさを救いたもうたならば神の存在を信じます」と言ったりする人があるけれども、神は病気治しでも、貧乏治しでもないのである。「神においては病気がない」のであり、「神においては貧乏がない」のである。ほんの一寸(ちょっと)した考えの違いのようだけれどもこの二つの考えには千里の開きがあるのである。前者は病気の存在や貧乏の存在を認めるけれども後者においては病気や貧乏の存在を認めないのである。私たちにとって必要な事は「病のない神」、そして「貧乏のない神」を自己の内に目覚めしめることだけである。「暗」をつかんで投げ出すのではなく、「暗」のない光を照り輝かせさえすれば「暗」は消えるのである。それと同じく神の光(自覚)を輝かしさえすれば、病気も貧乏も消えるのである。

自己の神性を自覚する近道

私たちの心を、唯、内在の神のみに振り向けよ。病に振り向けるな、貧乏に振り向けるな。これが自己の神性を自覚する最勝最善のちかみちである。「汝、心を尽くし、精神をつくし、魂を尽くし、力を尽くして汝の神を愛せよ」とキリストが言った事は、自己の神性を自覚するための最も近道であるのである。現象界の形ある何者かを求めるよりも、「神」そのものを求める方が、根源を求めることになり、その余のものは根元より流、れ来ってでおのずから整うことになるのである。しかも「形あるもの」を最初から求めた人のごとく形ある物に執着し、縛られ、それを失うまいと恐怖する必要もなく、唯 流れる滝の水を必要に応じて、執着なくして豊かなる生活を享受することができるのである。ひとたびこの境地に達したならば、「また持たずして豊富に享受する」と言う聖境を味わうことができる。

神想観に於いては、ただ心の扉を開いて、神の与えたまいし実相の完全な状態を、素直に受け、観じさせて頂くより他に何らの仔細もないのである。それは神の恵みを受け観ずるであって、自分の精神力によって実相の完全な状態を遮二無二製造するのではないのである。誌友会に列席して人の聖き信仰体験を聞いたり、「生命の實相」を読んだりするのは神を理解し、自分の心境を、神と実相世界とに波長を合わせ得るような状態にまで向上させるに役立つのであるけれども、愈々神の与え給いし実相の完全さを受けるのは、概(おおむ)ね 、神想観によって心を唯、神のみに、実相のみに振り向けることによってである。
仏教で言うならば、平生業成(へいせいごうじょう)の念仏のほかに、「別事の念仏」があるようなものである。今が臨終の念仏と思いて、ただひたすら宇宙の本源に心を振り向けよ。

「内なる神性」の聖なる催し

私たちが「自己の神性」を自覚するのは、肉体人間の努力によるのではなく、「内在の神の催し」即ち他力(たりき)によるのである。肉体の「わしの努力」「俺の精進」などによって、「自己の神性」を自覚し得るものではない。この点においては、パウロの言ったように「肉は益なし」である。「神性が」内からもよおし、「神性」が内から導くことがなければ、結局私たちは「自己の神性」を自覚することはできないのである。

私たちが或る事業に失敗し、躓き(つまず)き、打ち砕かれて、もう力尽きて現象的な何物にも頼ることができなくなって、心が神に向かうようになる経過は、実は、そうでもしなければ肉体の"頑張りWや" 気負い"やW 傲慢 "が打ち砕かれないので「内在の神性」がその人を導いて肉体的傲慢を打ち砕くために、そのように生活の道筋を導いていることがあるのである。人間の「肉体的高慢」が打ち砕かれない限りは、人間は肉体的な「我」の努力によって、色々と手段を尽くし、工夫を凝らして此の世の栄華を求めようとするものである。そして「霊的なもの」への憧れや、希望は、夢のような単なる空想を追うところの愚かなる追求に過ぎないと思われるものである。しかし本当は「霊的なもの」こそ本当に確固としたものであり、最も具体的なものであるのである。「霊的なもの」のみが「本当に実在するもの」であり、物質的なものはただその影に過ぎないのである。そのことが真にわかれば、私たちは" 影 "を追求するに先立って、まず「霊的なもの」のみを追求するようになるのである。「霊的なもの」を" 影 "を得る手段として追求するごときは本当ではないのである。 " 影 "を得る手段として「霊的なもの」を追求するならば、結局その人は" 影 "そのものも得ることができないであろう。

現象的なものに頼ってはならない

続く




神想観の神随 B (35714)
日時:2020年11月15日 (日) 22時11分
名前:生命の実相信者

続き

>> 現象的なものに頼ってはならない

現象的なもの、物質的なものーーーーそれらは単に" 影 "に過ぎないのであるから、単にそれのみを追求し、それのみに頼って生きている限りにおいて、その影は薄れてき、その浮世的な蓄積や健康や幸福は、次第に色あせて滅び行くことになるのである。私たちは、やがて色あせて消え滅びていく現象や物質的なものに、自分の生涯の希望をつないではならないのである。

私たちは自分の生涯の希望と目的等をもっと永遠なるもの、壊(くだ)けないものに結びつけなければならないのである。
神のみが永遠に壊(くだ)けない所の真実なるものである。私たちは私たちの希望を永遠なる神に結びつけなければならない。肉体的な物質的な欲望を、神に結びつけて欲望を満足を得ようとしてはならない。

「永遠なる神の自己展開を自由ならしめるために、肉体的自我を空しくならしめてただ幼児の心にならしめることである。


神想観と欠乏観とを間違えてはならない


あなたの「貴方」がなくなり、「神のあなた」が現れることが必要なのです。これを悔い改めと称しコンヴァージョンと言い、「我われの置き換え」と言います。神想観はこうして「我を置き換え」させるのが目的であって、病気を去って健康にし、不景気を去って富裕を来たらしめると言うような現象のW 影 ''を追う抹消的なものではありません。もっと根本的なものが神想観です。常に自己の存在の中心であり本質である実相(神性・仏性)にのみ観を集中するのです。

もし神想観中に「病気が治りたい」とか、「富を得たい」とか、現象的なW 影 '' を追求する観念が少しでも混じりますと、それは本当に純粋の神想観ではなくなるのであります。それはすでに' '' 何 '' かの 「欠乏観 」 あります。多くの人たちは「 欠乏観 」 をしなが「 神想観 」 をしていると思って、 「 神想観 は私には効かぬ 」 と言います。 神想観は病気を治す薬ではありません。もっと根本的なもの、「 全自我 」を入れ換えるのです。

多くの人たちは地上生活の一層の幸福と調和を求めて神想観する、換言すれば物質的な地上的な「善き物」 がより多く得られるために、地上に網を一層広げることを念願するのである。しかし地上に網を大きく広げても、多くの魚を漁獲する事はできないのである。魚を求めるならば、その魚が肉眼にはまだ見えないでも、海に網を広げなければならないのである。それと同じく、霊の世界の善きものはまだ肉眼には見えないが、霊の世界に網を広げてこそ、やがて肉眼に見える多くの魚(現象的な良きもの)を取ることができるのである。
霊の世界に網を広げるには、現象的に噪いではならないのである。静かなる心こそ、「霊の網である」である。
静謐の度が深まるほど、その程度に応じて「 霊の網
」はひろがり漁獲高が増加するのである。


自己の内なる「神の国」をひらくこと

琵琶湖の水が淀川に○於いて○流れているときに「淀川の水」仮に言うけれども、本当の意味では「淀川の水」などはないのである。それは淀川に於いて流れている琵琶湖の水であるのである。それと同じく、神の生命が「谷口」において流れているときに「谷口の生命」と仮に言うけれども、「神の生命」のみであって、「谷口の生命」など
と言うものは決してないのである。「神の生命」のみがある。
一枚の樹の葉にも「神の生命」の不可思議な知恵が働いている。
それは人間の知恵を持って作ることはできない。何処(どけ)にも此処(ここ)にも神の知恵が人間の頭脳の智慧を超えて働いているのである。
今此処に無限があり、久遠あり、悠久があるのである。一滴の水にも永遠の神が宿る。
有限の中に無限を観るのが霊的直感である。神想観は「 今 即 久遠 」「 永遠 即 今 」「 有限 即 無限 」の霊的直感による自覚修行である。


「肉体の自我」の中(なか)には何の力もなく、何の生命もなく、何の健康もない。それはただ やがて崩れゆく機械に過ぎない。私たちはそのような「肉体の自我」に頼ってはならないし、それを「本当の自分」だと思い違いてもならない。私たちはそのような「肉体の自我」(ニセモノの自分)を無視して、「 本物の自分」(神)をのみ只管(ひたすら)に神想観中に観じなければならない。「神」なる「本物の自分」のうちにすべての善きものは既に存在しているのである。それを「御心(みここれ)はすでに W神の国 '' ( 天 )に於いて成る」と謂(い)い「 神の国は汝の内にあり 」と謂うのである。我が存在の本質のうちに、わが存在の実相のうちに、神の持ちたまえを一切の良きものがすべて実在するのである。自己に内在する神は、あたかも香水の瓶に詰められた香水のようなものである。その栓を開くとき部屋全体がその妙(たえ)なる匂いにて満たされる。自己に宿る神を自覚し、それが*展開(ひら)かれる時*環境全体が妙(たえ)なる光景を呈するのである。


内在の神を目覚めしめるには

続く









神想観の神随 C (35715)
日時:2020年11月15日 (日) 22時15分
名前:生命の実相信者

続き

>> 内在の神を目覚めしめるには


神想観の目的は、自己の内なる仏性 ( キリスト教に言えば '' 爾 の内なるキリスト" ) を 目覚めしめるところの方法である。その内なる仏性を目覚めしめる方法は必ずしも一種類ではないのである。「南無阿弥陀仏」とひたすら称名念仏するのも、内に宿りたまう阿弥陀仏を目覚めしめ、此処がこのまま阿弥陀仏の極楽浄土であることを自覚せしめる方法である。
座禅し調息するのも、その一つの方法である。公安を授けられて、一心にそれを解決しようとして精神がギリギリの一点に到達するのもその方法の一つである。この精神がギリギリのところに到達すると言うのは、人間自我の頭脳的知恵が極限に達して崩壊することである。雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅう)の心を振り捨てて、ただ一向専心( いっこせんしん )「南無阿弥陀仏」と念ずるのも、人間的はからいの完全放棄であり、其処に神が現れる。禅も念仏も一如である。

「自己の内に宿る仏性 」または「爾のうちにに宿るキリスト 」と言う場合の「 内 」とは、「 肉体の内 」では無いのである。わが存在の深奥(しんおう)なるところに、現象の自分の想念が波立てども、決して波立たずに、深く一切を湛えて不動にしてそのまま一切をあらわすところの根源的な存在があるのである。

すべての善きものが悉(ことごと)く、この深く湛える根源より発するのである。これをキリストは「 天の父」と称したのであり、その「 天の父」のまします
「 わが存在の深奥なるところ 」を「神の国」と称したのであり、「 神の国は汝の内にあり 」と喝破されたのである。
キリストが「我みずからにては何事をも為し得ず、天の父われに在(いま)して御業(みわざ)を為さしめ給うなり 」と言ったところの「何事もなしえない我みずから 」とは、波立ちさわぐ表面の自我の無力さを自覚してこれを放棄した時、内面の深く湛える奥底の自我( 天の父 )が表面活動に入り、大いなる業(わざ)を成就するのである。


尊師 谷口雅春 先生著

生長の家 昭和32年4月号より謹写 合掌



有名なブログより (35717)
日時:2020年11月15日 (日) 22時22分
名前:生命の実相信者

有名なブログより引用

>> 元津霊(もとつみたま)について(2016.11)

 神想観の折に称(とな)える招神歌の一首目に次の言葉がある。「生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)、元津霊(もとつみたま)ゆ幸(さきは)へ給へ」。この元津霊とは、私たちの本源の命のことである。また「生きとし生けるもの」とは、私たち人間の命のみならず、動物の命も、植物の命も、さらに無機物とされる鉱物すらも、その元津霊のあらわれであり、天地の万物は、そこから発生したことが歌われているのだ。その元津霊とは円満完全なる宇宙大生命であり、これを神とも仏ともいうのである。
 谷口雅春先生は、人間の遺伝は「神性の遺伝」であるとして、次のように説かれている。「遺伝が良くないといって絶望するな。胎教を過(あやま)ったといって失望するな。人間はその最も深いところに実に根強く、神の子としての神性の遺伝をもっているのである。神性の根強い遺伝に比ぶれば、数代前十数代前くらいからの遺伝の力は太陽の前の星でしかないのだ」(『生命の教育』一六六頁)。

「神性の遺伝」とは、大生命なる元津霊(もとつみたま)から発した円満完全な神性が、いのち≠ゥらいのち≠ヨと継承されてきたということである。地球誕生して四十六億年、この神性≠ネるものが単細胞生物から多細胞生物へと分岐進化し、さらに親から子へと代々受け継がれてきたのである。つまり「神性の遺伝」とは、私たちの生命の実相は円満完全な元津霊である、ということであり、この神性≠アそが人間の実体である。神性の遺伝は、認めれば発現するが認めなければ眠ったままである。分子生物学者の村上和雄教授によれば遺伝子がオフになった状態である。このスイッチをオンにするのが神想観である。

「祈る」とは元津霊なる実相に深く想いを致すことである。想う≠アとで内なる神性(実相)が目覚める。この自覚が深まれば、元津霊から発生したすべてのものの神性≠ェ拝めてくるのである。つまり天地一切のものが、ご先祖のお一人おひとりが円満完全な神のいのち≠ナあったという大光明が拝めてくるのである。それが招神歌の「元津霊ゆ幸へ給へ」であり、実相を直視する生長の家の先祖供養であり、天地一切のものと和解することである。

 観るとは、本質を見抜くことであり、本質とは元津霊から発したところの神のいのちである。私たちが、欲望の満足や、物質的な豊かさばかりを追い求めていたのでは、神性を「観る」心の眼が曇らされ、そこに現前するのは、太陽の前の星屑に喩(たと)えられたニセモノの遺伝、つまり限定された能力であり心の病や虚弱な体質などの歪んだ現象ばかりとなるであろう。

 このような無明を大生命の光で射照らすのが神想観である。光が闇を消すように、般若(はんにや)の智慧が五蘊皆空(ごうんかいくう)と照見するように、罪と病と死との一切の現象を払拭(ふっしよく)するのだ。只管打坐(ただただすわり)、元津霊に想いを致すことによって、自身の神の子の実相に光明の灯(ひ)が点ぜられるだけでなく、ご先祖のすべての御霊が円満完全な神のいのちを「神性遺伝していた実相が観えてくるのである。観たものが現れる。一人が真に実相に目覚めれば、九族天に生まれるのである

学ぶ会に行かなくなった理由 (35733)
日時:2020年11月16日 (月) 15時29分
名前:生命の実相信者

あ、そうそう、
学ぶ会に嫌われていたから行かなくて良くなりました。
思い出しました。低レベルで真剣味がないから来なくて良い。と言われましたからね、私のような低レベルな人間が行ってはいけないらしいので
お断りされた為、2度と行きません。
あれから随分経ちますが、
政党の一つや二つくらい出来たのかしら?
低レベルな人間は排除して自称高レベルの集合体でしたら、、、

どの位進んでいるのですかね?

天地一切のものと和解されて神様と共に行動してほしいものです。

破邪顕正さんが来る前の学ぶ会は旧生長の家OB会のようで、すごく良かったのですが。
今は、学ぶ会でなく個人の会に成り代わったようですから。笑笑
もう私は関係ありません。現在の学ぶ会とは。

個人的には下記の理由で学ぶ会に参りません。
⭕ 生命の実相を60巻にしたこと。
⭕ しっかりした神様を御祭した拝殿もないのに会員の霊牌を預かりどこかの神社で焼却していること。

上記のようにここまでやると、ちょっとヤバイです。
私は、教団のできない深い真理の探究や総裁を祈ったりまさか
別法人など、とんでもないと思います。

それは雅春先生が嫌がっておられるとしか、私は思えません。
とにかくは今は神様の御心を聞ける自分になるよう修行中です。


以下学ぶ会から排除された事がありました。

これで、私の何かの業が消えましてありがとうございます🙏😊
下記のは別スレから引用しました。
>>
会のひどさ様は、志恩ではありませんけれど、第二の掲示板は、破邪顕正様への疑問、反論を許さない掲示板であることは、前々から存じております。(志恩) (5276)
日時:2018年09月20日 (木) 07時57分
名前:志恩

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「憲法改正」でなくて「憲法廃棄」という方に、その実現方法を伺いたい!NEW (10270)
日時:2018年09月19日 (水) 19時01分
名前:破邪顕正


安倍首相がよく口にする言葉に、「政治は結果である」というのがあります。

リアリズムに徹するということでありましょう。

理論として、「憲法廃棄」が成り立つこと、それを認めるに私も決して吝かではありません。

しかし、問題は、それが現実論として可能なのか。

それに尽きるのです。

「机上の空論」という表現があります。

それでは、政治は動かないのではないのか。

私は、「憲法改正」という言葉が、長いこと、タブーであった時代を知っています。

「私の内閣では、憲法改正は行いません」

首相に就任したら、必ず、そう宣言することが、いわばセレモニー化していた時代があったのです。

それを目の当たりにして、どれほど切歯扼腕、悔しい思いをしてきたことか。

とりわけ、忘れがたいのは、昭和51年5月3日、当時の三木内閣が、政府主催の憲法式典を開催したことです。

自主憲法制定を党是とする自民党が、その党是に逆光するような式典を自ら執り行う。

まさに、これは、自民党の自殺行為そのものではないか。

以前にも投稿しましたが、自民党にはそういう護憲≠フ雰囲気がずっと流れていたのです。

それに真っ向から戦いを挑み、「自民党よ、立党の精神に立ち帰れ!」

その旗幟のもとに、立ち上がったのが、私は安倍首相だと思っています。

今、どうですか。

総裁選で、何の違和感もなく、「憲法改正」という言葉が普通に語られる時代になったのですよ!

その何よりの功績は、一にかかって安倍首相に帰せられるべきであると私は思っています。

その一点において、私は、安倍首相を心から支援していきたいと思っています。

いよいよ、明日が、総裁選の投票日です。

安倍首相の三選、しかも圧勝を心から心から祈念しております。

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管理人から、10271の「会員改め生命の実相信者」さんへ連絡です。NEW (10272)

日時:2018年09月20日 (木) 01時12分

名前:管理人


「会員改め生命の実相信者」さん

この掲示板はトキさんの掲示板とは違います。

投稿者はみな真剣なのです。また、明確な目的を持ち、
それを実現するために真剣なのです。

トキ掲示板に投稿する調子で本掲示板に投稿するのは慎んでください。

……といっても、何のことかお解かりにならないかもしれませんから……

>南出さんに聞くのが一番です!

と「会員改め生命の実相信者」さんが仰っていますが、



⭕「会員改め生命の実相信者」さんは
(略)
⭕真剣な破邪さんの意見提起をかき乱すようなことを仰るのですか。
(略)


⭕「会員改め生命の実相信者」さんの投稿を見て、
(略)
⭕訊け君  が乗りこんできて、
(略)

⭕志恩さん  が 本掲示板にトキさんの生政連に関する発言を貼りまくり、
(略)

⭕不思議な 大学生(日野君)が  乗りこんできて

支離滅裂なことを訴えはじめたら、


⭕真剣な破邪さんの提案・提起が揉みくちゃにされてしまいます。
(略)

破邪さんだけでなく誰の提起・提案であっても、

⭕トキさん掲示板の  低レベル  で投稿されると

  本掲示板と投稿者は大いに迷惑するのです。



(略)
しかし、上の10271は「遊び」や「暇つぶし」の投稿です。
真剣な投稿ではありません。

管理人は10271を削除しませんが、ご自分で10271を削除してください。


管理人 拝


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憲法改正NEW (10273)
日時:2018年09月20日 (木) 06時24分
名前:会員改め生命の実相信者

憲法を改正すると
GHQからおしつけられた
日本国憲法を有効にするという重要な内容をふくんでいるから
慎重にしないといけないのではないですか。

南出さんの主張は日本人として正しい。
と、思います。

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志恩ー

谷口雅春先生に帰りましょう第二掲示板の

管理人様は、

訊けさん、志恩、日野くんは、「書き込み禁止処分」にしておいて、

今更、何を

おっしゃってるのかしら www



トキ掲示板を、低レベル、とは、よく言いますね。

では、第二の管理人様は、ご自分が管理されている

反論を許さない第二の掲示板は、高レベルだとおっしゃるのですね。



反論を許さない組織なんて、小さい組織でも腐敗するそうですから、

くれぐれも、ご用心 あそばせ!!

素晴らしいご返信をいただき有難うございました (35748)
日時:2020年11月16日 (月) 22時03分
名前:tapir

生命の実相信者さま

すばらしいコメントをいただいたのに、ご返信が遅れてすみませんでした。過分なお誉めのお言葉をいただき、ありがとうございました。

生命の実相信者さんのみ教えを素直に信じるお姿を拝見して、私の方が感動いたしました。
谷口雅春先生のみ教えは、素直にそのまま実行すれば、こんなに幸せになれるみ教えなのだと再確認できました。それを教えていただいた生命の実相信者さんに、私の方こそお礼を申し上げたいです。

HNのtapirの発音記号はtéɪpɚ(米国英語)で、カタカナにすると「テイパ」「テーパ」「テパ」といったところでしょうか。

英語で“獏(バク)”の意味です。悪夢を見た後に「この夢は獏(バク)にあげます」と唱えるとその悪夢を二度と見ないで済むとの中国の伝説があるそうです。

それで「人間に病あり、苦しみあり」の悪夢を消し去って「人間神の子、永遠生きとおしの命」の真実の姿を知っていただく人類光明化運動のお手伝いが出来たらと思って、つけたハンドルネームです。

私は先生ではなく生命の実相信者さんと同じ生長の家の一信徒ですから、どうぞ「tapirさん」と呼んでください。

生命の実相信者さんはとても愛の深い方ですね。ホームレスに服をプレゼントするのを思い付き、実行するのは、勇気が要ったことでしょう。読んでいて、貴女様のやさしさに、心打たれ、涙しました。

ホームレスの女性もプライドがあるので、急な申し出に驚いて、思わず断ったのでしょう。でも暖かい服を身に着け、信者さんの優しさに包まれて、きっと感謝していらしたと思います。

>私は、このように人様の愛を蹴飛ばしていたかと思うと、
あの時も、この時も、、、<

>全ては、観世音菩薩様の説法ですね。<

そのお気持ちよく分かります。私もしょっちゅう、そんな体験をします。自分の過去の行いを、別の人が、鏡のように同じことをして見せてくださいます。ありがたいことに。いつでも人生修行です。

そうやって形に表わして、過去の業を消してくださる、そう思うと本当にありがたい観世音菩薩様ばかりですね。「何があってもありがとうございますじゃよ」(*^-^*)


前の投稿で書いた「讃嘆スレッド」ですが、練成会でもないのに、賛同者が無い中で急にスレッドを立てるよりも、まず自分で「讃嘆日記」をつけて見ようと思い、14日から毎日、書き始めました。

谷口雅宣先生、谷口純子先生、トキ掲示板の皆様、管理人のトキさん、志恩さん、訊けさん、長崎の挽霞さん、生命の実相信者さん、これまで掲示板でコメントを交わしたお一人お一人を思い浮かべながら、讃嘆の言葉を書いていきますと、書き始めてわずか3日なのに、心がのびのびして来て、自分の中で何かが楽になりつつある感じです。讃嘆日記(日時計日記)の効果は、やっぱり素晴らしいです。

讃嘆日記をつけていると、トキ掲示板で、色々な人と出会って、歯に衣着せぬ意見交換ができて、思考と信仰を深められたことが思い出されて、胸がいっぱいになります。管理人のトキさんにも、この掲示板を設けていただいたことに深く感謝する次第です。


生命の実相信者さんのお蔭で、讃嘆日記というアイディアを思い付いて、実行できました。貴女様のように素直な方にお会いできたのも、神様のお引き合わせですね。これからもよろしくお願いいたします。

まだ書きたいことはありますが、今から聖典拝読と笑いの練習をするので、今日は、ここまでとさせていただきます。どうぞ、暖かくなさって、ゆっくりお休みください。

合掌

生命の実相信者さんへ (35753)
日時:2020年11月17日 (火) 03時01分
名前:志恩

【生長の家誌 神想観の神随】
大変貴い神想観の神随についての
謹写をしてくださって、誠にありがとうございます。

おかげさまで、
夜中に静謐な気持ちで、しみじみ拝読させていただきました。

>>尊師 谷口雅春 先生著
生長の家 昭和32(1957)年4月号より謹写<<
と記されてありますね。

ということは、今から63年前に谷口雅春先生が、
お書きになられたご文章なんですね。
ほんとうに神想観の神髄を教えてくださっていて、すごい内容で
感動しながら新鮮な気持ちで読ませていただきました。

tapirさんは、次のようにコメントされてますけれど、

>>生命の実相信者さんはとても愛の深い方ですね。ホームレスに服をプレゼントするのを思い付き、実行するのは、勇気が要ったことでしょう。読んでいて、貴女様のやさしさに、心打たれ、涙しました。

ホームレスの女性もプライドがあるので、急な申し出に驚いて、思わず断ったのでしょう。
でも暖かい服を身に着け、信者さんの優しさに包まれて、きっと感謝していらしたと思います。<<

それは、よほど愛が深くないと、実行できないことだと思いました。
私も教えられました。

次のもtapirさんのあなた様宛のコメントですが、

>>生命の実相信者さんのお蔭で、讃嘆日記というアイディアを思い付いて、実行できました。<<

私も、昔はずっと付けていましたが、最近は、讃嘆日記、付けていませんでしたので、
見習って再開しようと思っているところです。

それから、私は、以前、あなた様に、ある教化部長先生の信仰随想を
教えていただいたことがございまして、そのおかげで、
その先生の真理勉強会にも、参加することができました。

とてもいい体験をさせていただいたと今でもありがたく
思っております。

色々と しんせつに教えてくださって、心から感謝いたしております。
ありがとうございます。

今後ともよろしくご指導くださいますようお願いいたします。







思いついたこと―昨日の続きです (35794)
日時:2020年11月17日 (火) 22時55分
名前:tapir

生命の実相信者さま

志恩さんが、

>生長の家の教団のことまで、
あなた様はご自分の肩に重荷を背負われませんように!

気持ちを楽にされまして、今後 より一層 明るく楽しい人生を生きて
いかれますことを心から願っております。<

と言われたお気持ち、私にも分かります。

「すべてが自分の心の影」というのは尊い自覚です。しかしそれが「あの人が良くならないのは自分が間違っている」、「自分がすべて悪いのだ」となると、自分を責めることになります。私も時々その落とし穴に落ちます。

それを志恩さんは気遣われたので、それは志恩さんのやさしさだと思います。
志恩さんの深切なお心遣いに、私はいつも感謝しています。

「実相を垣間(かいま)見」て、3日間、嬉しくて楽しくて、生きていてよかったと思う。

その喜びを抱いて、現実の人生にどう立ち向かっていくかが、本番です。

家事にいそしむのも、好きな趣味に没頭するのも、仕事に専念するのも、それらを通して人を喜ばせるのも、すべて人生修行ですね。神想観の中から生まれる世界を楽しみにしています。

ちなみに私は今、文章を書くことが楽しくて仕方がありません。が、その分、家族への気配りや家事がおろそかになりがちなため、反省しています。

生長の家のことも、皇統継承の問題も大切なことで、すべてよくなると念じながら必要に応じて意見を投稿しますが、家事など日常の些事を大切にして、身近な人たちとともに幸せに生きて行くことも、同じように大切なことで、日々の目標にしています。

お互いに、うれしい楽しい神の子として、日々の生活を営んでまいりましょう(^^)

ありがとうございます。

 (45704)
日時:2021年11月28日 (日) 05時06分
名前:野のラップ現象


 様々なハンドルネームが大流行の兆し

 (46114)
日時:2021年12月07日 (火) 15時59分
名前:日訓


日訓 (44927)
日時:2021年10月14日 (木) 20時15分
名前:トキ

 来年度の「日訓」から、谷口雅春先生のお言葉はなくなり、谷口清超先生、谷口雅宣総裁のお言葉だけになります。そのため、信徒の間から「今年から、こんなふざけた日訓は買わない。」と拒否するケースが続出し、売れないので現場では困っております。どうか、来年からは、谷口雅春先生のお言葉を復活してくださるよう、本部の皆様にはご配慮をお願いします。

志恩さんは娘さんに伝えたとかいていましたよね? (47472)
日時:2022年01月19日 (水) 04時13分
名前:禁止用語


(41683)
日時:2021年06月25日 (金) 23時44分
名前:志恩さんへ

迷惑な行為について (19824)
日時:2019年10月21日 (月) 01時15分
名前:シャンソン

5815: 志恩 :2016/08/02(火) 21:27:07 ID:6hRUvSRg
トキ掲示板の、傍流掲示板の方も、皆様、見てね♩
http://jbbs.shitaraba.net/study/11788/

 志恩さんは正々堂々と、新掲示板などで
 うのはなやトンチンカン信徒氏などを
 批判して、傍流閉鎖を訴えていたと思います。

 そういう人に傍流掲示板を紹介宣伝されるのは
 迷惑ですから、今後やめてください。

 それと、最近傍流に入って来て
 トンチンカン信徒さんにぬれぎぬ着せられたからといって
 なんか個人のどうでもいい話を必死で書いていたと思います。

 あの投稿がどの版で書かれたのか思い出せません。
 志恩さんが投稿したものだからご自分で見つけて
 番号を書いて、トキ管理人に削除要請してください。



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