生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)
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旧・生長の家「本流復活」について考える(したらば版)
生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)
生長の家「本流復活」について考える(せっかく版)
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最近の生長の家に付いて。 (41856) |
- 日時:2021年07月02日 (金) 22時54分
名前:トキ
2020年度の生長の家本部の一般会計は、213919000円の赤字でした。
また、総本山と栃木教区の教化部の土地の一部を売却することになりました。
総本山は、境内のうち、三筆の土地(それぞれ、5、949、3887.53、3、451平方メートル)を長崎県西海市に10514418円で売却します。
栃木教化部は、土地の一部、4.72平方メートルを2090000円で売却します。
なお、7月と8月に行われる予定だった講習会は中止になります。
盂蘭盆供養大祭も中止になります。
以上、よろしくお願い申し上げます。
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(41867) |
- 日時:2021年07月03日 (土) 15時32分
名前:栃木の餃子
総本山売却≠フ噂が現実味を帯びてきたような感じがしてきました…NEW (13539) 日時:2021年07月03日 (土) 12時19分 名前:破邪顕正
表題は、「トキ」さんの、この投稿を拝見しての感想です。
……………………………………
最近の生長の家に付いて。 (41856) 日時:2021年07月02日 (金) 22時54分 名前:トキ
2020年度の生長の家本部の一般会計は、213919000円の赤字でした。
また、総本山と栃木教区の教化部の土地の一部を売却することになりました。
総本山は、境内のうち、三筆の土地(それぞれ、5、949、3887.53、3、451平方メートル)を長崎県西海市に10514418円で売却します。
栃木教化部は、土地の一部、4.72平方メートルを2090000円で売却します。
なお、7月と8月に行われる予定だった講習会は中止になります。
盂蘭盆供養大祭も中止になります。
以上、よろしくお願い申し上げます。
………………………………………………
「トキ」さんのいつもの投稿であれば、そこに、自らの所感が記されるはずなのですが、今回は、淡々と事実を伝えるのみで終わっています。
それが却って、教団の深刻さを物語っているようにも感じられます。
以前から、総本山を売却するのではないのかという噂はありました。
現総裁が、総本山を軽んじていることはつとに知られていましたから…。
「総本山を聖地とは言わせない」という総裁発言は、それを象徴するものとしてありました…。
教団にとってはお荷物≠ョらいの認識しか思っていないという話も耳にしたことがあります。
そういうところにもってきて、一部分とは言え、資産を切り売りするという今回の情報…。
とうとうここまで来たのかという印象をもった方も多いのではないでしょうか。
その背景に、生長の家本部の一般会計が2億1千4百万円弱の赤字を計上したということがあると思うのです。
今の状況下、教勢が一気に好転するというようなことは、およそ考えられませんから、この赤字体質は今後も続くと考えるのが普通でしょう。
では、どうやってその赤字を補填していくのか。
資産の切り売りで凌ぐ…。
手っ取り早い策ではあります。
これが常態化したときが、本当の危機なのかもしれません。
果たして、生長の家教団は、現総裁の専制支配体制のもと、どうなっていくのでしょうか。
「トキ」さんの投稿で、ますます現教団の動向に目が離せなくなってきました…。
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(41891) |
- 日時:2021年07月04日 (日) 09時20分
名前:道
日時:2021年05月20日 (木) 20時20分 名前:思うこと
破邪氏の言い分は、責任をトキサンに押し付けた上での投稿か、 それとも同調親和なのか、、、、。 「トキさんの二つの投稿によると」とか、 「トキさんが教団は10年しかもたないと言っている」、そこでとか、微妙にトキサンに押し付け転嫁してるよね。
-------------------------
>「総本山を聖地とは言わせない」という総裁発言は、それを象徴するものとしてありました…。
本当にこの言葉を総裁自身が言ったのか、 是非とも総裁に近しい職員諸氏に、総裁に聞いて欲しいと閲覧者のドナタか伝えてくだされ。
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2011年6月17日の「小閑雑感」のご文章だと思います (41902) |
- 日時:2021年07月04日 (日) 12時11分
名前:tapir
谷口雅宣先生の過去ブログ「小閑雑感」のこのご文章を指すのでしょう。
2011年6月17日「谷口雅春大聖師二十六年祭」(於:生長の家総本山)の谷口雅宣先生のご挨拶です。
++++++++++++++++++++++++
「皆さんもこの本山のことを「聖地だ」とは言わないでください。自然の美しさに感動してそう言いたくなる気持は分かります。しかし、その場合は「聖地のようだ」と言ってください。それならまだ容認できます。」(中略)
「このようにして、すでに与えられているもの、人々、人間関係……などの光明面に注目し、そこから“神の国”や“聖地”を感じる生き方−−それが生長の家の生き方なのであります。」
(「2011年6月17日“新しい文明”の構築へ向かって」「小閑雑感」) http://masanobutaniguchi.cocolog-nifty.com/monologue/2011/06/post-2598.html#search_word=%E8%81%96%E5%9C%B0
+++++++++++++++++++++++++
[tapir感想]
「皆さんもこの本山のことを「聖地だ」とは言わないでください。」が総裁のお言葉です。
後半部分で総裁が伝えたい「すべての与えられているもの、人々、人間関係……などの光明面に注目し、そこから“神の国”や“聖地”を感じる」とのご主旨は、分かります。
しかし「本山のことを『聖地』だと言わないでください」は、言い過ぎです。
生長の家総裁たるお方が、生長の家の総本山を聖地だと呼びたい人に、「言わないでください」と呼びかけるのは、余計なお世話です。総裁の言葉の影響力の重みを考えれば、いわば「口害」です。
「総本山だけが『聖地』だと思わないでください。すべての…」と書かれるのならまだ分かります。表現が下手なのか、本音をもらされたのか、どちらなのでしょうか。
わざわざ誤解(?)を生むような書き方が、わざわいしていると思います。
以上、率直な感想です。
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(現総裁先生、全文転記ご容赦下され。) (41905) |
- 日時:2021年07月04日 (日) 13時35分
名前:道
2011年6月17日 “新しい文明”の構築へ向かって
今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山の谷口家奥津城前で、谷口雅春大聖師二十六年祭がしめやかに執り行われた。この日、同本山では東京第一、群馬、山梨、京都第一、奈良、新潟北越、島根、宮崎の8教区からの団体参拝練成会が行われており、年祭にはこれら練成参加者と地元長崎北部の信徒など約690人が参列した。私も妻と共に参列し、玉串拝礼、聖経一斉読誦のあと、概略以下のような挨拶をした:
------------------------- 皆様、本日は谷口雅春大聖師の二十六年祭に大勢お集まりくださり、有難うございます。今日はあいにくの曇天で、朝方は小雨もぱらつく天気でしたが、ちょうど26年前の今日も、こんな天気であったことを覚えています。しかし今年は、いつもの年とは違うようです。ご存知のように、3月に東日本大震災と原発事故があり、そこからの復興や復旧がはかばかしく進まない現状があり、日本の政治も経済も正常とは言えない状態が続いています。
私は4月に谷口輝子聖姉の二十三年祭でここへ越させていただきましたが、その際は、「針供養」の話をいたしました。裁縫で使う針の、古くなったものを感謝の気持ちを込めて供養する習慣です。それは、輝子先生がどんなにものを大切にされたかという話でした。そして、そういう伝統行事をもつ日本人は、有機物も無機物も大切にしてきたのだから、現代の我々もエネルギーのムダ遣いや電力のタレ流しなどやめて、“新しい文明”への転換を進めていくべきだとお話ししました。これは、『聖使命』紙の6月1日号に載っています。
このことは、「物質はない」という生長の家の教えとも深く関係しています。谷口雅春先生は、「物質はない」という意味は、一見物質のように見えるものでもそれは神の命の表れ、仏の現成であるから、感謝して大切に使えと教えられました。「物、物にあらず、物と言うなり」ということです。この世界を物質の集まりだと見、それらの金銭的価値に心を捉えられた生活をしていると、それらすべてを無に帰してしまうような今回の大震災に遭い、物質以外のものの大切さを痛感させられるものです。今、日本全体が、物質的繁栄を追求してきた戦後の生き方を見直し、自然とともに生きる“新しい文明”の構築に向かって歩き出さねばならない時期に来ているのであります。
生長の家は、その“新しい文明”とは、日時計主義のものの見方から生まれると考えるのであります。日時計主義とはご存知のように、谷口雅春先生が『生長の家』誌創刊号で提唱された「人生の光明面を見る」生き方のことです。皆様方も団体参拝練成会などでそれを学んでおられますが、この思想は世界に通用する立派な哲学であり、宗教的にも深い信仰に根差すものです。そのことについては、私も本などで詳しく説明していますが、今日は雅春先生のご著書から学ぼうと思います。
昨年のこのお祭の際、私は『信仰の科学』という先生のご本を紹介しましたが、今回もそこから引用したいと思います。この本は数ある雅春先生のご著書の中でも、「外国人との共著」であるという点で珍しい一冊です。ですから、ここに書かれたことは「文化の枠を超えている」と言えるのです。今風の表現を使えば“グローバルスタンダード”になり得る内容が、ここにあります。この本で説かれていることの1つが、日時計主義のものの見方なのです。このことは昨年もお話しましたが、今日はもっと具体的に紹介したいと思います。なぜなら今、日本の経済と政治は、大きな転換点にあるからです。日本だけではありません。大震災と原発事故を経験した日本が、今後どのような方向に向かうかは、世界が注目しています。いや、すでに世界の一部では大きな変化が起こっています。今後この変化が、正しい方向に向かうのか、それとも間違った方向へ進むかで人類の運命が変わってくるのです。 『信仰の科学』の第2章で雅春先生が注目しているのは、「神の国は汝らのうちに在り」(『ルカによる福音書』第17章21節)という有名な聖書の句です。また、「古き天と古き地とは過ぎ去り」(『ヨハネの黙示録』第21章1節)「われ一切(すべて)のものを新たならしめん」(同5節)という聖句も取り上げて、それらに共通する意味について先生は解説されています。 ところで、この生長の家総本山に来られた方は、ここの自然の美しさに感動して、この地を“聖地”だと形容する人がいます。しかし、生長の家では、現象世界に“聖地”があるとは教えません。地球上の地理的な一点に実相世界があるなどとは説きません。ですから、皆さんもこの本山のことを「聖地だ」とは言わないでください。自然の美しさに感動してそう言いたくなる気持は分かります。しかし、その場合は「聖地のようだ」と言ってください。それならまだ容認できます。冗談を言っているように聞こえるかもしれませんが、“聖なる地”や“神の国”や“天国”がどこにあるかという問題は、宗教上も大変重要なので間違いのないようにお願いいたします。 谷口雅春先生は、『信仰の科学』の中で、「神の国」や「天国」がどこにあるかについて、次のように教示されています。引用します−− 「キリストの言葉の真義は、全世界が、否、全宇宙が、天地万物一切のものに生命(いのち)を賦与する力を持つところの神の愛によって溢れるばかりに満たされているということなのである。心の眼が開いていない者にとっては、天国とは何か日常とかけ離れた異常のものであり、朝顔の花の開花とか日の出などというような日常茶飯事とは、何の関係もないと考えるかも知れぬのである。彼等は“朝顔が三輪咲いている”というただその事実そのものの中にすら、見出すことのできる神の国を理解することが出来ぬのである。もしあなたの友人が、“いいね、太陽が美しく輝(て)っている”とあなたに話しかけた場合に、あなたは“そうかね、太陽が照っていたって、われわれとは何の関係もないことだ。彼はただ自分の役目を果たしているだけだ。太陽が輝(て)っているそのことが、なぜそんなに愉(たの)しいんだ”と答えるだろうか。天国はこれに心の眼を閉じている者の前には姿をあらわさぬのである。それ故に天国を見出すためには、貴方の心の眼は開かれねばならぬのである。心の眼が開かれている者にとっては、神の愛は至るところに遍在し給うのである。彼等は親の愛を感じ、子の愛を感ずることが出来るのであり、こうして彼等は天国を至るところに見出すことが出来るのである。」(p.54) こういう先生の言葉を読むと、私たちが今、練成会や誌友会などで、日時計主義の実践として絵手紙や絵封筒をを描いたり、俳句を詠んだりしていることの意味がお分かりになると思います。私たちは普通、効率優先で左脳を主体にした生活をしていることが多いので、ものを素直に見たり、聴いたり、感じたりすることを忘れがちです。すると、周りの世界にすでに与えられているものが見えない、聞こえない、感じられない。それで不満を抱いて、どこか別の所から何かを持ってくるべきだとか、逆に、自分が別の場所へ行けばもっと幸福になるだろうとか、あるいはもっと別の社会にすれば感動が得られるだろうなどと思う。そういう“迷いの心”を捨てて、まず今、目の前にすでに与えられている神の恵みを見よ、感ぜよ、聴け、味わえ、という観の転換のための実践……これが「技能や芸術的感覚を生かした誌友会」などの役目です。 しかし、皆さんの中には、そういう芸術的実践の意味はわかったけれども、それをすることと家庭問題や就職問題の解決、あるいは病気の治癒とは関係がないと思う方もいるかもしれません。しかし、雅春先生は、この日時計主義のものの見方と実践が、人間関係の調和とも大いに関係がある、と説かれています。その部分を引用します−− 「もしあなたが、一輪の名もない野の花の中にすら、天国を見出すことが出来るならば、あなたの夫や妻の中に、そして息子や娘の中に、天国を見出すことは、いかにいっそう自然であることであろう。もしあなたが一茎のわらびの中にすら、“あっ、ここにわらびが一本新しく生まれている”と叫んで、新たなる悦びを見出し、このようにして、それがもつ神秘的な美しさに目覚めるならば、自分の妻や子供に大きな悦びを見出さぬということは決してあり得ないのである。もしそうであるならば、あなたの家庭は何と仕合せなことだと思う。このような家庭に住む人たちは決して互いに倦(あ)きることはないのである。もしあなたが夫や妻や子供に対して、倦怠を感じるならば、それはあなた自身が生まれ変っていないことを示すのであり、それで、あなたは全てのことを新鮮味がなく陳腐に感じざるを得なくなっているのである」。(pp.59-60)
このようにして、すでに与えられているもの、人々、人間関係……などの光明面に注目し、そこから“神の国”や“聖地”を感じる生き方−−それが生長の家の生き方なのであります。こういうものの見方、生き方が多くの人々の間に広まっていけば、物やエネルギーを浪費する生き方や、「もっと欲しい」「まだ足りない」という精神的飢餓感から、私たちは解放されるのです。そして、もっと自然と調和した“新しい文明”の構築へと進むことができます。そういう運動を、日本から起こしていかなければなりません。今がそのチャンスです。ぜひ、皆さまと共に、この“神の国”の実現運動をいよいよ強力に、そして心を込めて推進していきたい。 谷口雅春大聖師の二十六年祭に当たり、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。 谷口 雅宣
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(41906) |
- 日時:2021年07月04日 (日) 13時53分
名前:道
「神の国は汝らのうちに在り」(『ルカによる福音書』第17章21節)という有名な聖書の句です。また、「古き天と古き地とは過ぎ去り」(『ヨハネの黙示録』第21章1節)「われ一切(すべて)のものを新たならしめん」(同5節)という聖句も取り上げて、それらに共通する意味について先生は解説されています。 ところで、この生長の家総本山に来られた方は、ここの自然の美しさに感動して、この地を“聖地”だと形容する人がいます。
しかし、生長の家では、現象世界に“聖地”があるとは教えません。地球上の地理的な一点に実相世界があるなどとは説きません。
ですから、皆さんもこの本山のことを「聖地だ」とは言わないでください。
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わざわざ誤解(?)を生むような書き方が、わざわいしていると思います。<
誤解したタピアさんもいれば、当方のごとくよく理解できる御文章であると思う講師陣も存在するというのが事実でありましょう。
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「総本山を聖地とは言わせない」という総裁発言は、それを象徴するものとしてありました…。
教団にとってはお荷物≠ョらいの認識しか思っていないという話も耳にしたことがあります。<
こういった認識が元本部講師であることの残念さを感じます。 ましてや神官として祈りを奉納していたであろう元本部講師が。
合掌
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(41907) |
- 日時:2021年07月04日 (日) 14時04分
名前:道
「総本山を聖地とは言わせない」という総裁発言は、それを象徴するものとしてありました…。<
こういった言い回しこそが、「誤解」を招く因であると思いませんか 不思議でなりません、タピアさん。
根底に何があるのでしょう。 お教えください。
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破邪顕正氏の文章表現を私は肯定しませんが、解釈に疲れ果てる講話も考えものです (41909) |
- 日時:2021年07月04日 (日) 15時52分
名前:tapir
道さま
>「総本山を聖地とは言わせない」という総裁発言は、それを象徴するものとしてありました…。<<
>こういった言い回しこそが、「誤解」を招く因であると思いませんか 不思議でなりません、タピアさん。<
破邪顕正氏の文章表現を私は肯定しません。余分な尾ひれはひれをつける彼の文章表現を、私は評価していません。彼の文章の、事実の記述以外の、総裁批判の部分は、ほとんど読むに値しないとさえ思っています。彼はポジショントークで、決まりきったイデオロギーを語っているだけにしか見えません。
一方、総裁のご講習会などでの「言葉」の使い方には何回もドキッとさせられ、私のように言葉を大切にしたい人間にとっては、聞くに堪えない時がありました。
例をあげても良いのですが、聞きたいですか?
そういう時は、文章全体を読んで解釈して心を静めるようにしてきましたが、言葉そのものが与えた衝撃をいちいち自分の中で書き変えるのには、多くのエネルギーが必要で、講話で心が安らかにならずに、疲れ果ててしまいます。
私の友人(生長の家信徒)などは、聞く価値が無いと言って、受講券を出して、15分くらいで、会場を出てしまいました。私のように中途半端な妥協をしない姿勢にむしろ敬意を覚えました。
「神は細部に宿る」という言葉があります。
全文を読んで解釈するのが正しいのであるというのなら、その場合、細部の表現は、人に衝撃を与えても良いのでしょうか?
総裁のブログのコメントに
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合掌 ありがとうございます。 6月17日、谷口雅春大聖師二十六年祭でのご挨拶の中で、「総本山を聖地と呼ばないように」とおっしゃったことについては、石田盛喜代さんもコメントされていますように、えっ????と感じられた信徒もいらっしゃると思います。が、ここで総裁先生が強調されているのは、「神の国は汝らのうちに在り」で、地球上の地理的な一点に実相世界(聖地)があるのではない、「(心の眼が開かれている者にとっては)あなたが今いるところ、いずこも聖地である」ということだと解釈させて頂きました。ありがとうございます。合掌再拝
投稿: 岡 正章 | 2011年6月23日 16:45
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と投稿された方があります。
いちいち「解釈」しなければ理解できない講話というのは、熟練の幹部対象の「禅の公案」のようですね。
けれども、一般の信徒や初心者向けにそのような話をするのは不親切です。
仏典や聖書などの難しい真理を、誰にでも分かりやすく話すのが、生長の家だと思っていたのですが、そうではないのでしょうか?
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(41911) |
- 日時:2021年07月04日 (日) 17時50分
名前:道(半ば)
岡氏のこの頃の解釈は流石だと思います。 多くの本部講師、地方講師も同様当然お判りでしょう。
はっきりと言ってしまいたい事はありますが、角が立ちかねず、 平行線の延々とした論をかわすことは不毛だと思う故に、 この件に関し、これで最後とします。
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>いちいち「解釈」しなければ理解できない講話というのは、熟練の幹部対象の「禅の公案」のようですね。
現総裁の上記この文章、雅春先生の御文章を的を得た引用のし方をされているのを拝見しても解るように、「公案」というのでは無いでしょう。端的に表現されています。
>けれども、一般の信徒や初心者向けにそのような話をするのは不親切です。
目的としては新人対象である〈講習会〉での講話を言っておられましょうか。総裁なりにその点は考慮しているのではと考えます。
>仏典や聖書などの難しい真理を、誰にでも分かりやすく話すのが、生長の家だと思っていたのですが、そうではないのでしょうか?
まずは人生の悩みや苦しみが、入る門となる人々は多いでしょう。 その為に本部直轄練成道場、地方の講師や支部云々、というものがありましょう。 少なくとも当方は生長の家総裁には誰にでもわかりやすい話という 形態は希望するものではありません。 また、まるごと人に教えてもらい会得できるものでもなく、 感じ、考え、目を瞑り、口を閉じ、観想するが肝要哉と。 ご意見有難うございます。
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(41912) |
- 日時:2021年07月04日 (日) 18時10分
名前:道(半ば)
>しかし「本山のことを『聖地』だと言わないでください」は、言い過ぎです。
生長の家総裁たるお方が、生長の家の総本山を聖地だと呼びたい人に、「言わないでください」と呼びかけるのは、余計なお世話です。総裁の言葉の影響力の重みを考えれば、いわば「口害」です。
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生長の家では、現象世界に“聖地”があるとは教えません。 地球上の地理的な一点に実相世界があるなどとは説きません。
“聖なる地”や“神の国”や“天国”がどこにあるかという問題は、宗教上も大変重要なので間違いのないようにお願いいたします。
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真理は分かりやすいか?、聖地とはどんなもの? (41920) |
- 日時:2021年07月04日 (日) 19時40分
名前:長崎の晩霞
仏典や聖書などの難しい真理を、誰にでも分かりやすく話すのが、生長の家だと思っていたのですが、そうではないのでしょうか?>>
違うでしょうね。 誰でもわかり易く説かれていて、誰でも真理を体得でき、実在の世界というか実在を生きることができているのでしたら、何らの問題が出るはずがないです。
私には道さんが言われているように普通の講話に聞こえますよ。 ここに出てくる、また本流を名乗る大多数の信徒の皆さんは、「この様なものが真理だ」と各自掴んだものを真理としているにすぎないでしょう。
あなたの天皇に関する書き込みにしても、あらかたの人は話に乗ってこないでしょう? 天皇信仰にしても、生長の家の本に説かれていることだけで、あなたは書き込みしていますか?
「聖地」という言葉にどのような意味を持たせるか、が問題であるべきで、生長の家信徒にのみ成り立つ聖地という言葉を世界に向けて発することは如何なものでしょうか。 エルサレムは聖地である、と言われていますが、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教三派の聖地といわれます。
生長の家の教えの救済神として住吉の大神を祭る地としての聖地というだけであればいいのですが、「生長の家」とは大宇宙そのものと定義してある生長の家の教えからは、宇宙の中心聖地であるということになります。
これでは今なおパレスチナ問題として第二次大戦以後70年かけても解決しない、アメリカの後押しでエルサレムをイスラエルの首都とするイスラエルと、パレスチナの問題が解決していないのに、そんなエルサレムの聖地問題は生長の家総本山を聖地とすれば問題ないと宣言するようなものであり、大東亜共栄圏を目指して袋叩きにあってもなお懲りずに世界制覇を願うのかと、世界から睨まれるのではないですか。
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生命の働く筋道を道といい、秩序という、無意識に秩序を知っている人が教団信徒。秩序を知らず我を張る人学ぶ会系 (41935) |
- 日時:2021年07月04日 (日) 20時26分
名前:秩序知らない本流気取り
「本山のことを『聖地』だと言わないでください」が
「総本山を聖地とは言わせない」という総裁発言は、となるのが不思議。
聖地というのは禁止ですとお触れでも出したのなら、意味不明の言いつのりもいいですが。 生長の家をつぶすのが総裁の真意であるから受け皿として、学ぶ会を宗教法人とした、というのだから、なんでも言いつのり生長の家を解散に追い込み全信徒を奪いたいのでしょう。
総本山が本来聖地であるというのであれば、何としても生長の家を存続させ総本山を護持すべきでしょう。それか生長の家教団がなくなった時、総本山すべてを買い取る金を用意したらいいですね。
これは宇治別格本山にも言えます。宇治では偽経による先祖供養であるから、生長の家の先祖供養にはならないとして、独自に先祖供養をし、宇治別格本山が先祖供養の地として成り立たなくしようというのは、生長の家に縁の在ったご先祖方に唾する行為でしょう。
多くの永代供養のご先祖方がおられます。これを亡きものにすることになります、宇治の否定は。改めて学ぶ会で永代祭祀をせよというのかな。とんだ商売人だ学ぶ会は。
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議論が平行線のようなので、お答えは任意です (41942) |
- 日時:2021年07月04日 (日) 20時40分
名前:tapir
道(半ば)さま
↑ とてもまじめな方なのですね。どうぞ気を悪くなさらないでください。
>はっきりと言ってしまいたい事はありますが、角が立ちかねず、 平行線の延々とした論をかわすことは不毛だと思う故に、 この件に関し、これで最後とします。<
私はつい上から目線になるらしく、このごろ、議論の相手に嫌われっぱなしです(笑) 子どもの頃のチャンバラごっこ好きが災いして、相手の方を、遠慮なくたたいてしまうようです。困った性格ですね。
最後に互いに礼をして終われるならば、叩き返していただいて、当方は一向かまいません。ご不快でしたら、無理に議論を続けていただかなくて、もちろんけっこうです。 こんな無作法な人間ですが、気が向いたらお相手してください。
谷口雅宣先生の以下のお言葉ですが、言葉が足りない気がいたします。
>ところで、この生長の家総本山に来られた方は、ここの自然の美しさに感動して、この地を“聖地”だと形容する人がいます。
しかし、生長の家では、現象世界に“聖地”があるとは教えません。地球上の地理的な一点に実相世界があるなどとは説きません。
ですから、皆さんもこの本山のことを「聖地だ」とは言わないでください。<
谷口雅宣先生のお言葉ですが…。
「生長の家では、現象世界に“聖地”があるとは教えません。」
「地球上の地理的な一点に実相世界があるなどとは説きません。」
ここに、谷口雅宣先生の、“聖地”と、実相世界の混同が見られます。
「聖地」は、現象世界において、聖地メッカとか聖地エルサレムとか、他宗教でも、信者が普通に使う言葉です。それぞれが尊いと思う、歴史ある地をそのように呼ぶのです。
一方、実相世界は、生長の家独自の、完全円満な世界を表わす哲学的な用語です。
聖地=実相世界と、ふつうの人は考えません。近似していると考えるとしても。
また、谷口雅春先生は、聖書を引用されて「神の国は今ここにあり」とも説かれています。
「あまつくに いまここにあり」(聖歌「生長の家の歌」)
「今此処天国 極楽浄土」(聖歌「神と偕に生くる歌」)
このことと、「現象世界に“聖地”があると教えません。」とを、どのように整合させますか?
現象世界に「天国」、「神の国」がないと言い切ったら、それは生長の家の教えではないと思います。このことから「聖地」は、やはり別物ということになりましょうか。
>少なくとも当方は生長の家総裁には誰にでもわかりやすい話という 形態は希望するものではありません。<
現総裁に対して中心帰一する上で、道(半ば)さまの信仰は素直でいらっしゃると思います。
しかし、わかりにくい話が続いている結果、信徒が激減しているという現実がありますが、それをどう考えたらよいのか。それが課題ですね。
生長の家も3代目になったのですから、既成宗教に見習って、ふつうの宗教らしさを備えれば、まだまだ伸びる余地があるのに、今のままでは、もったいないという気持ちでおります。
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追伸 (41978) |
- 日時:2021年07月05日 (月) 09時41分
名前:トキ
最近、本部とやり取りをすると、お金に困っているなあ、と感じることがあります。
例えば、地方の教区の人で、中央部の役職も兼任している人は、たまに会議などで本部に行きます。その時に、宿泊するホテルがどんどん安いホテルになってきています。他にも、何千円という単位の出費もなかなか許可が下りなかったと聞いたこともあります。
反面、本部員の給与は下がらず、ボーナスもきちんと出ています。地方では事実上の給与の引き下げやボーナスカットも多いのに、本部では、そうではないみたいです。さらには、人員の新規採用もありました。教区では、手に職のある人や、他に仕事のあてがある人は、続々と辞めています。
つまり、本部員は、自転車競技をしていても、「総裁先生が唱える崇高な理想に共鳴し、中心帰一をお誓いする限り」は、安定した身分と高い給与が保証されています。対して、現場の職員は、教区が潰れないように頑張っていても、給与は引き下げられるという話になります。
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道は日野の成り済まし (41987) |
- 日時:2021年07月05日 (月) 14時42分
名前:千葉教区青年会会員
総裁信者ってことはね・・・。(苦笑)
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(41989) |
- 日時:2021年07月05日 (月) 15時11分
名前:道
tapir-
道(半ば)さま
↑ とてもまじめな方なのですね。どうぞ気を悪くなさらないでください。
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まじめでありたい題材にはまじめってとこですかね。 気を悪くはしていないので気づかいは全く無用です。
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私はつい上から目線になるらしく、このごろ、議論の相手に嫌われっぱなしです(笑) 子どもの頃のチャンバラごっこ好きが災いして、相手の方を、遠慮なくたたいてしまうようです。困った性格ですね。
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いやいや、破邪氏への評価など、良いなと思いましたがw
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>ところで、この生長の家総本山に来られた方は、ここの自然の美しさに感動して、この地を“聖地”だと形容する人がいます。 しかし、生長の家では、現象世界に“聖地”があるとは教えません。地球上の地理的な一点に実相世界があるなどとは説きません。 ですから、皆さんもこの本山のことを「聖地だ」とは言わないでください。<
谷口雅宣先生のお言葉ですが…。
「生長の家では、現象世界に“聖地”があるとは教えません。」
「地球上の地理的な一点に実相世界があるなどとは説きません。」
ここに、谷口雅宣先生の、“聖地”と、実相世界の混同が見られます。
「聖地」は、現象世界において、聖地メッカとか聖地エルサレムとか、他宗教でも、信者が普通に使う言葉です。それぞれが尊いと思う、歴史ある地をそのように呼ぶのです。
一方、実相世界は、生長の家独自の、完全円満な世界を表わす哲学的な用語です。
聖地=実相世界と、ふつうの人は考えません。近似していると考えるとしても。
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タピアさん自身は「聖地」をどの様に解釈しているのか具体的に 列挙なりして教えてみて頂けますか。
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また、谷口雅春先生は、聖書を引用されて
「神の国は今ここにあり」とも説かれています。
「あまつくに いまここにあり」(聖歌「生長の家の歌」)
「今此処天国 極楽浄土」(聖歌「神と偕に生くる歌」)
このことと、「現象世界に“聖地”があると教えません。」とを、どのように整合させますか?
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その前にお聴きしたいのは、 タピアさんは「今ここ」「いまここ」「今此処」を、 どの様に解釈していますか? これにも是非回答を。
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現象世界に「天国」、「神の国」がないと言い切ったら、それは生長の家の教えではないと思います。
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そうですかな、これは返答を頂いて後に。 長崎の晩霞さんがわかりやすく説いてくれる事も乞期待。
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>少なくとも当方は生長の家総裁には誰にでもわかりやすい話という形態は希望するものではありません。<
現総裁に対して中心帰一する上で、道(半ば)さまの信仰は素直でいらっしゃると思います。
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中心帰一は吾が内なる神にしておる故に、権威に中心を持ちきたした事はありません。総裁の言葉であっても、隣の奧さんであっても、自身の内なるなにかがそうだと言うことに素直ではあります。 それには敏感です。
ーーーーーーー^
しかし、わかりにくい話が続いている結果、信徒が激減しているという現実がありますが、それをどう考えたらよいのか。それが課題ですね。 生長の家も3代目になったのですから、既成宗教に見習って、ふつうの宗教らしさを備えれば、まだまだ伸びる余地があるのに、今のままでは、もったいないという気持ちでおります。
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そうですかタピアさん。 再拝
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追伸 (41995) |
- 日時:2021年07月06日 (火) 09時32分
名前:トキ
総裁ご夫妻は、新型コロナのワクチンの接種をご夫婦で受けると宣言されましたが、信徒の「ワクチン懐疑派」の人たちから突っ込まれ、「ワクチンについての見解を明らかにしてほしい」と言う趣旨の要望を受けましたが、現在、全力で逃避中です。
普段、文明に懐疑的なご発言が多いのに、いざとなったらワクチンを使うので、その矛盾を指摘されたみたいです。
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七夕のお願い (42004) |
- 日時:2021年07月06日 (火) 14時33分
名前:質問
☑普段、文明に懐疑的なご発言が多いのに、いざとなったらワクチンを使うので、その矛盾を指摘されたみたいです。
『文明』に懐疑的??? ワクチンは『文明』???
掲示板読者に、トキ管理人さんのワクチンについての見解を ぜひ!明らかにしてください。 2回目接種終えたばかりですか?
ワクチンへの「掲示板管理人」見解披露拒否の場合は、 その≮理由≯を述べてみて下さーい、宜しくです。
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言われてみれば実際、 (42015) |
- 日時:2021年07月06日 (火) 20時35分
名前:神の子
文明に懐疑的な 発言が多いと思う。 ワクチンは文明の 産物でしょう。 何が引っ掛かるのか? そっちのが疑問。
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(42016) |
- 日時:2021年07月06日 (火) 23時12分
名前:第二
教化部の財政破綻から本部批判の火の手が上がるかもしれません…NEW (13544) 日時:2021年07月06日 (火) 15時06分 名前:破邪顕正
「月見草」さん、投稿ありがとうございました。
「トキ」さんが、今度は、本部職員と教化部職員との待遇の格差がどんどん広がっているという話を投稿してくれています。
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追伸 (41978) 日時:2021年07月05日 (月) 09時41分 名前:トキ
最近、本部とやり取りをすると、お金に困っているなあ、と感じることがあります。
例えば、地方の教区の人で、中央部の役職も兼任している人は、たまに会議などで本部に行きます。その時に、宿泊するホテルがどんどん安いホテルになってきています。他にも、何千円という単位の出費もなかなか許可が下りなかったと聞いたこともあります。
反面、本部員の給与は下がらず、ボーナスもきちんと出ています。地方では事実上の給与の引き下げやボーナスカットも多いのに、本部では、そうではないみたいです。さらには、人員の新規採用もありました。教区では、手に職のある人や、他に仕事のあてがある人は、続々と辞めています。
つまり、本部員は、自転車競技をしていても、「総裁先生が唱える崇高な理想に共鳴し、中心帰一をお誓いする限り」は、安定した身分と高い給与が保証されています。対して、現場の職員は、教区が潰れないように頑張っていても、給与は引き下げられるという話になります。
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講習会が教化部にとっては一つの財源になっていました。
しかし、その講習会がコロナ禍でどんどん中止となったことも、教化部の財政を圧迫している要因となっているということは容易に想像つきます。
それでなくても、教勢が衰退し、聖使命会員も減少の一途を辿っています…。
そのしわ寄せが、教化部職員のお手当等にモロに影響を及ぼしているようですね。
栃木教区のように資産を切り売りして急場を凌ぐという教区も、今後、他にも出て来るかもしれません…。
それなのに、よくもまあ、こんな状況下で、自転車漕ぎに興ずることができるものだ…。
で、今度は五輪反対の署名活動だって…。
本部の特権階級の皆さんには、自分達の苦労など所詮、他人事でしかないのでしょうね。
こういう教化部職員の歎きが聞こえてきそうです…。
本部と教区との待遇格差が、案外、本部批判のきっかけになるのかもしれない…。
そんな気がしてくる、今回の「トキ」さんの投稿でした。
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さようなら (42017) |
- 日時:2021年07月07日 (水) 00時09分
名前:質問
宇宙観、 自然観、 世界観、 美意識、 つまり哲学を伴った持続可能な世界にしようという姿勢に基づいた世界を『文明』と言わずしてなんとしょう。
意識レベルの異なりはどうしようもなくコミュニケーション不可となりますねえいやはや。
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RE:真理は分かりやすいか? 聖地とはどんなもの? (42032) |
- 日時:2021年07月07日 (水) 14時33分
名前:tapir
長崎の晩霞様
>私には道さんが言われているように普通の講話に聞こえますよ。<
講話全体をけなしているのではありません。普通の講話だしよいことを話されていると思います。あくまで一部表現『本山のことを「聖地だ」とは言わないでください』の拙さの話です。破邪顕正氏が、深読みし過ぎているということも否定しません。
『本山のことを「聖地だ」とは言わないでください』は、言葉そのものが与えるインパクトの強烈さがあり、言葉が一人歩きして誤解を呼ぶリスクがあります。総本山建立に尽力した信徒の真心を軽視していると受け取られかねません。私は「ポリティカルコレクトネス」に全面的に賛成するわけではありませんが、影響力のある立場の人は、誤解を生まないために、発する言葉そのものの影響力を考えるという、慎重さが必要だと思います。
>生長の家の教えの救済神として住吉の大神を祭る地としての聖地というだけであればいい<
はい、まったくそれだけの意味です。普通の人はそれ以上、考えません。
>「生長の家」とは大宇宙そのものと定義してある生長の家の教えからは、宇宙の中心聖地であるということになります。<
「生長の家」の聖地が、宇宙の中心聖地であるなどと、誰がどこでそう言っているのですか。「定義してある」と言ったらどんな場合でも、この意味にとらなければいけないのでしょうか? 総裁がそのように説かれたのですか? 私はそんな使い方は、考えても見ませんでした。
>これでは今なおパレスチナ問題として第二次大戦以後70年かけても解決しない、アメリカの後押しでエルサレムをイスラエルの首都とするイスラエルと、パレスチナの問題が解決していないのに、そんなエルサレムの聖地問題は生長の家総本山を聖地とすれば問題ないと宣言するようなものであり、大東亜共栄圏を目指して袋叩きにあってもなお懲りずに世界制覇を願うのかと、世界から睨まれるのではないですか。<
「エルサレムの聖地問題は生長の家総本山を聖地とすれば問題ないと宣言する」などと、そんなバカバカしい誇大妄想的なことを、誰が言っているのですか? 総裁ですか? 本流派ですか? 私は全くそんな風に思ったことはありません。辞書通りの意味しか考えていません。
ついでに言わせてもらえば、総本山を日本国の中で、日本語で「聖地」と言っただけで、「大東亜共栄圏を目指して袋叩きにあってもなお懲りずに世界制覇を願うのかと、世界から睨まれる」も、被害妄想もいいところだと思います。それが総裁の考えであれば、 戦争のトラウマに捉われた取り越し苦労だと思います。本流派がGHQ占領憲法の呪縛から抜け出せないのと好一対ですね。
辞書通りの意味とは: 「聖地:聖地(せいち)とは、特定の宗教・信仰にとっての本山・本拠地・拠点となる寺院・教会・神社のあるところ、またはその宗教の開祖・創始者にまつわる重要なところ、あるいは奇跡や霊的な出来事の舞台となったところをいう。」(Weblio)
「特定の宗教・信仰にとっての本山・本拠地・拠点となる寺院・教会・神社のあるところ」の意味です。総本山は、生長の家の「本山」ではないのですか? また、練成会で神癒を受けた人から見れば「霊的な出来事の舞台となったところ」でもあるでしょう。「本山」であることは、日本語から見て、そのままだと思います。最近では、アニメの聖地88か所というのもあるそうです。アニメは特殊な例だとしても、「聖地」は、別に何の問題も無く普通に使える一般用語だと思います。
日本の神道の神社、仏教の仏閣が「聖地」と呼ばれていますが、争いの種になっている訳でもないし、そんなに神経質にならなくてもといいと思います。
https://rtrp.jp/articles/91416/
誰かが、総本山を聖地だと、英語でアメリカ人に説明して、石でもぶつけられたのですか? そういうことがあったとしたら、それは特殊な例でしょう。元々生長の家嫌いの人だったのかも知れません。
NHKなどで、外国人が熊野詣や、禅寺の座禅で、感動している番組を見たことがあります。日本に好意を持っている人たちは、皆さん喜んで参詣し、参禅されていました。聖なる雰囲気に感動するのは、生まれた国に関係ないと思いました。理解してもらえるかどうかは、話を聞く人が好意・興味を持っているかどうか、そして案内する人の真心次第だと思います。
自分たちの宗教の本山を聖地と、英語ならいざ知らず、日本語で言わないというのは、卑屈な植民地根性です。植民地根性とは、強い者=アメリカ人にぺこぺこ、弱い者=日本人に横柄、という意味です。
そういう卑屈な態度では、総裁は、生長の家総本山を「本山」と思っていないじゃないかと、誤解する人が出てきても、仕方がないですね。自ら蒔いた種です。
合掌
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(42033) |
- 日時:2021年07月07日 (水) 14時37分
名前:tapir
道様
>タピアさん自身は「聖地」をどの様に解釈しているのか具体的に 列挙なりして教えてみて頂けますか。<
長崎の晩霞様にお答えした通りです。 辞書にある通りの普通の意味です。一般社会に通用しない解釈は考えていません。総裁は辞書を無視する自己流解釈がお好きなようです。自己流解釈でも美しい日本語になるなら文学的な意味があります。しかし、勝手な妄想を繰り広げて、日本語を乱すひねくれた自己流解釈は、不快です。余分な尾ひれはひれをつけるのは、誰かさんに酷似しています。
>タピアさんは「今ここ」「いまここ」「今此処」を、 どの様に解釈していますか? これにも是非回答を。<
谷口雅宣先生も、実相を垣間見る瞬間を、絵画において表現されています。今回のごあいさつでも、同じことを説いていらっしゃると思います。それを否定しているわけではありません。普通のご講話だと思います。
「今」は「久遠の今」です。「ここ」は自分が今いるところ、実在しているところです。 実相世界が心のレンズを通して現象世界に映し出される時、心のレンズにくもりがなければ、実相が現象世界に表われる一瞬、一点、それが現象界において体験できる「今ここ」だと思います。
例えば、一輪の花を見たとき、花がこの世のものと思えぬ輝きを見せて、微笑む瞬間。 例えば、誰かと対面して、互いを深く理解し、心の底から神の子として礼拝し合えた瞬間。
そんなとき、「今ここ」に、実相が現象世界に映し出されたと感じます。それは地上のものを越えた世界ですが、地上にあるままで実感できる幸福な瞬間です。
日常のすべてに神を見る生き方が、人生万般に関係するというのは、谷口雅宣先生の説かれる通りだと思います。
>現象世界に「天国」、「神の国」がないと言い切ったら、それは生長の家の教えではないと思います。<
これは、私自身が、コトバにこだわり過ぎたかも知れません。現象世界に身を置きながら天国にいるような体験ができることと「現象世界は不完全である」との教えは、矛盾しないので、谷口雅宣先生が、言い回しの上でそのように言われたとしても問題はないと、今は考えています。
>中心帰一は吾が内なる神にしておる故に、権威に中心を持ちきたした事はありません。総裁の言葉であっても、隣の奧さんであっても、自身の内なるなにかがそうだと言うことに素直ではあります。 それには敏感です。<
「中心帰一は吾が内なる神にしておる故に」に同感です。私が総裁を評価するのは、「信徒の自立を促した」という一点です。 「内なる神に中心帰一する」が「信徒の自立」であると思います。
生長の家の「伸びしろ」について、私の持論は、「総裁専制をやめて、合議制を採用すれば、改善される」というものです。
合掌
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RE:「追伸 (41995)」 (42044) |
- 日時:2021年07月07日 (水) 16時38分
名前:tapir
トキ様
総裁は、秋の講習会も中止されるようですね。リモートでも再開するつもりはないのでしょう。
現在『生命の實相』第2巻、輪読中ですが、次の谷口雅春先生の御文章がありました。
+++++++++++
風邪を引かぬ法
皮膚の一定部位にある刺激を与えながら「お前はこのために死ぬ」と思わせられればその人が死ぬという道理がわかれば、皮膚の一定部位にある刺激を受けた場合「これは風邪を引く」と思ったならば風邪を引くのは当然のことであります。くしゃみをして風邪を引くと思えば、鼻粘膜の一定部位を異常感覚でくすぐられて瞬間的に精神が統一しているさいですから、その刹那に思うことは必ず成就するわけで、その刹那に「風邪を引く」と思うならばその思いが成就して風邪を引くのは当然のことであります。だからこれとは反対にくしゃみをすると「風邪が出た」と思ったら「風邪を引く」わけのものではありません。 昭和六年世界感冒(かぜ)の流行のさい、わたしは当時会社に勤務していましたが、わたしの会社の友人は『生長の家』の読者である某氏のほか、みんな数日はそれにかかって休まれたのでありますが、わたしは感冒にかからず、一日も会社を欠勤しなかったのです。 (p24) (谷口雅春先生著『生命の實相』頭注版第2巻 日本教文社)
+++++++++++++
「昭和六年世界感冒(かぜ)の流行のさい、わたしは当時会社に勤務していましたが、わたしの会社の友人は『生長の家』の読者である某氏のほか、みんな数日はそれにかかって休まれたのでありますが、わたしは感冒にかからず、一日も会社を欠勤しなかったのです。」
昭和六年は、インフルエンザが世界的に流行して、日本でも「合計1万5673人が死亡」したとのことです。
+++++++++
インフルエンザ全国にまん延(70年前) 1931年(昭和6年)1月 1月に入り流行性感冒(流感:インフルエンザ)が東京を中心に流行し始めた。 1月下旬の東京府下(現・都下)では患者数83万人余となり、10日間で464人の死者が出たという。死亡者のピークは翌2月で全国で4510人が死亡、この年は合計1万5673人が死亡している。 死者の多くは乳児で0歳児が3789人と24%を占めた。また道府県では東京府が1166人死亡と突出し、大阪府772人、新潟県713人と続いているが、気温の低い北海道、東北、北陸地方は新潟県を除けば大半の県が200人前後で済んでいる。 http://www.bosaijoho.jp/reading/years/item_5934.html
+++++++++++++++
新型コロナのこれまでの死亡者累計は1万4889人ですから、1931年のインフルエンザとほぼ同数が死亡しています。 https://www3.nhk.or.jp/news/special/coronavirus/data-all/
谷口雅春先生と生長の家を知っているご友人は、普通に会社に出勤し、同僚がみんな罹患する中で、インフルエンザに罹りませんでした。
1年半、人前に生身の姿を表そうとしない誰かさんとは、大違いです。
ワクチンは賛否両論あるので、意見を出すことが出来ない点には、同情いたしますが。
話が横にそれますが、スペイン風邪の死者は、日本本土だけで45万人、朝鮮、台湾を含めると74万人だったそうです。
「スペイン風邪(H1N1新型インフルエンザウイルス)は、1918年から1920年にかけて流行し、世界の人口(当時18億人)の半数から3分の1が感染し、全世界で5000万人以上の人が死亡したとされています。」「最終的なスペイン風邪による日本での死者数は、日本本土で45万人(人口の0.8%)、外地(朝鮮、台湾)を含めると74万人の死者がでました。」 http://aoi-kids.jp/kodawari/benkyokai/20201021.html
死者が本土だけで45万人外地を含めると74万人は、コロナ「1万4889人」の45倍、74倍、まさにけた違いですね。
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(42048) |
- 日時:2021年07月07日 (水) 19時29分
名前:道
>タピアさん自身は「聖地」をどの様に解釈しているのか具体的に 列挙なりして教えてみて頂けますか。< //////////////////////////////////////////
長崎の晩霞様にお答えした通りです。辞書にある通りの普通の意味です。一般社会に通用しない解釈は考えていません。
ーー
『生長の家信徒』に向け話された講話でありました。
初心者に向けた講話ではありません。
『真理はただ一つ、人間は神の子である』
一般人間社会云々の観想の教えでは無いものを、
社会通念満載でもって聴くのであれば、総裁の言うところの、
『“聖なる地”や“神の国”や“天国”がどこにあるかという問題
は、宗教上も大変重要』という説法は、
ーー
総裁は辞書を無視する自己流解釈がお好きなようです。自己流解釈でも美しい日本語になるなら文学的な意味があります。しかし、勝手な妄想を繰り広げて、日本語を乱すひねくれた自己流解釈は、不快です。
ーー
という受け止めになるのもむべなるかなですね。
人間感情的否定感が先にくるわけです。
//////////////////////////////////////
>タピアさんは「今ここ」「いまここ」「今此処」を、 どの様に解釈していますか? これにも是非回答を。<
////////////////////////////////
谷口雅宣先生も、実相を垣間見る瞬間を、絵画において表現されています。今回のごあいさつでも、同じことを説いていらっしゃると思います。それを否定しているわけではありません。普通のご講話だと思います。
「今」は「久遠の今」です。「ここ」は自分が今いるところ、実在しているところです。 実相世界が心のレンズを通して現象世界に映し出される時、心のレンズにくもりがなければ、実相が現象世界に表われる一瞬、一点、それが現象界において体験できる「今ここ」だと思います。
例えば、一輪の花を見たとき、花がこの世のものと思えぬ輝きを見せて、微笑む瞬間。 例えば、誰かと対面して、互いを深く理解し、心の底から神の子として礼拝し合えた瞬間。
そんなとき、「今ここ」に、実相が現象世界に映し出されたと感じます。それは地上のものを越えた世界ですが、地上にあるままで実感できる幸福な瞬間です。
日常のすべてに神を見る生き方が、人生万般に関係するというのは、谷口雅宣先生の説かれる通りだと思います。
現象世界に「天国」、「神の国」がないと言い切ったら、それは生長の家の教えではないと思います。
これは、私自身が、コトバにこだわり過ぎたかも知れません。現象世界に身を置きながら天国にいるような体験ができることと「現象世界は不完全である」との教えは、矛盾しないので、谷口雅宣先生が、言い回しの上でそのように言われたとしても問題はないと、今は考えています。
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>中心帰一は吾が内なる神にしておる故に、権威に中心を持ちきたした事はありません。総裁の言葉であっても、隣の奧さんであっても、自身の内なるなにかがそうだと言うことに素直ではあります。 それには敏感です。<
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「中心帰一は吾が内なる神にしておる故に」に同感です。私が総裁を評価するのは、「信徒の自立を促した」という一点です。 「内なる神に中心帰一する」が「信徒の自立」であると思います。
ーー
信仰、宗教は依存するものであっては成りませんね。 逆に落とし穴に自ら入ることになりかねません。 所謂、信仰とは縁無き衆生に見えるがごとき人々よりも、 『真理』から遠のくおそれを秘めています。
ーー
生長の家の「伸びしろ」について、私の持論は、「総裁専制をやめて、合議制を採用すれば、改善される」というものです。
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タピアさんはタピアさんの道を歩かれることが良いと思います。 あらゆるプロデューサーは神なりて。 あらゆるプレイヤーは神なりて。 夢から覚めるも醒めぬも、 マクロな意味において自由自在であります。
有難うございます。 合掌。
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講習会の中止について (42054) |
- 日時:2021年07月08日 (木) 01時20分
名前:トキ
講習会の中止で、教区の会計の赤字がますます増えるので、その点、頭が痛い点であります。
ただ、最近の講習会の評判は悪く、教区の会員が、友人や知人に頭を下げて来場をしてもらっても、「あんな酷い内容の話を聞かされて、苦痛だった」と後から苦情が来ることが多く、その意味では、中止になって喜んでいる人も多いです。
つまり、痛し痒しというところです。
私の縁者の「一白鳩会員」は、戦前の講習会を見ていますが、谷口雅春先生のご講話では、参加者の熱気がすごく、途中で帰る人など誰もいないので、今日の講習会と違ったと、嘆いております。通路まで人がいっぱいで、今日なら消防法違反で告発されたかもしれない、とのことです。
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(42057) |
- 日時:2021年07月08日 (木) 12時53分
名前:ふと思いました、破邪先生への手紙。
>今の状況下、教勢が一気に好転するというようなことは、およそ考えられませんから、この赤字体質は今後も続くと考えるのが普通でしょう。
では、どうやってその赤字を補填していくのか。<
思いもよらなかったコロナパンデミック状況下、、、 破邪先生の組織は赤字大丈夫ですか!?! 無関係の他教団を案じているくらい愛深い先生ですから、 よもやボーナス支給は固く固く辞退されたに違いありません。 これからもご自愛の上頑張って下さい!
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RE:講習会の中止について (42076) |
- 日時:2021年07月08日 (木) 20時47分
名前:tapir
トキ様
>講習会の中止で、教区の会計の赤字がますます増えるので、その点、頭が痛い点であります。
ただ、最近の講習会の評判は悪く、教区の会員が、友人や知人に頭を下げて来場をしてもらっても、「あんな酷い内容の話を聞かされて、苦痛だった」と後から苦情が来ることが多く、その意味では、中止になって喜んでいる人も多いです。<
前に書いた通り、誘った友人(生長の家信徒)は、谷口雅宣先生の講話が開始して15分で聞いていられないと席を立ちました。別の友人(新人)は、付き合いで最後まで聞いてくれましたが、「体験談だけがよかった」との感想でした。
>私の縁者の「一白鳩会員」は、戦前の講習会を見ていますが、谷口雅春先生のご講話では、参加者の熱気がすごく、途中で帰る人など誰もいないので、今日の講習会と違ったと、嘆いております。通路まで人がいっぱいで、今日なら消防法違反で告発されたかもしれない、とのことです。<
私も、谷口雅春先生の最晩年の講習会に参加したので、その時の熱気を覚えています。正直に言えば、谷口清超先生になってから、その熱気がやや衰えたという感じがして、創始者と2代目の違いが感じられました。それでも谷口清超先生のご誠実さと教区の皆さんの感動的な体験談があいまって醸し出す雰囲気が暖かかったので、毎回、参加してよかったという思いはありました。
しかし、谷口雅宣先生になってからは、講話を聴くのが「よいとこ探し」の修行のようで、まったく新人を誘う気になれません。教区の皆さんの体験談だけを楽しみに参加しています。
谷口雅宣先生も、本音は、講習会での講話をなさりたくないのではないかと思います。 それならそれで、今後の対策、講習会に替わる行事をきちんと考えていただきたいものです。
期待していませんが。
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谷口雅宣先生は観世音菩薩 (42111) |
- 日時:2021年07月10日 (土) 12時08分
名前:tapir
道様
>あらゆるプロデューサーは神なりて。 あらゆるプレイヤーは神なりて。<
私はかつて、当掲示板に、以下のように、書いたことがあります。
谷口雅宣先生を生長の家総裁に任命したのは、生長の家大神、住吉大神であり、谷口雅春先生である
本流派(第二掲示板)の皆さんはこれを読んで、びっくり仰天していました(笑)。
マクロの眼、神の眼から観れば、谷口雅宣先生はご自身に割り当てられた役柄を忠実に演じるプレイヤーであり、他者から見れば生長の家の説くところの観世音菩薩だと思います。
私も自分に割り当てられた役柄を内なる神の声を聴きながら、出来る限り忠実に演じて参りたいと思います。
合掌
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谷口雅宣先生は観世音菩薩 (42165) |
- 日時:2021年07月12日 (月) 07時13分
名前:本音の時代
ごもっともである。 しかしである。 谷口雅宣総裁にとって観世音菩薩は誰なのかということである。
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どういう回答を期待されているのか分かりかねますが… (42176) |
- 日時:2021年07月12日 (月) 20時18分
名前:tapir
本音の時代様
>谷口雅宣総裁にとって観世音菩薩は誰なのかということである。<
谷口雅宣先生がどのように意識しておられるかは、ご本人以外の誰も、うかがい知ることはできません。
広義には、すべての人々が鏡のように互いを映し合っているので、私も本音の時代様も他の人々も、谷口雅宣先生の観世音菩薩だと言えるでしょう。
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すべての人々が鏡のように互いを映し合っているので、私も本音の時代様も他の人々も、谷口雅宣先生の観世音菩薩だと言えるでしょう。 (42181) |
- 日時:2021年07月12日 (月) 23時02分
名前:本音の時代
谷口雅宣総裁の現実を見ると、自分以外の者を観世音菩薩とする接し方をしていないことは明白なのです。 宗教団体生長の家の総裁の立場ある人ですから、その言動や想念の伝播力はそれなりの影響力を及ぼすのです。 谷口雅宣総裁を敬愛しない者があるとしたのなら、それは総裁自身の人に対する観方が反映されたものといえるでしょう。 人を拝むものは、人から拝まれます。
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人を憎んだり恨んだりすれば、傷つくのは自分自身である (42196) |
- 日時:2021年07月13日 (火) 15時59分
名前:tapir
>谷口雅宣総裁を敬愛しない者があるとしたのなら、それは総裁自身の人に対する観方が反映されたものといえるでしょう。<
現象面は、おっしゃるとおりです。
しかし、「生長の家は相手を変えようと思うな、自分自身が変われ」という教えです。
相手が誰であっても、たとえ生長の家総裁が相手でも、「相手を変えようと思うな、自分自身が変われ」という真理は曲げられません。
自分自身が変るしか、解決の道は無いのです。
自分自身=本音の時代様は本音の時代様
各人が自分の歩むべき道を歩むとき、仮の姿は「用足りて自ずから去る」となります。
相手を変えようとして、憎んだり恨んだりすれば、傷つくのは自分自身です。相手を責めないのは、大切な神の子たる自分を傷つけないためです。
合掌
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自分自身が変るしか、解決の道は無いのです。 (42206) |
- 日時:2021年07月13日 (火) 19時51分
名前:本音の時代
ごもっともである。 そして、 自分自身=谷口雅宣生長の家総裁は谷口雅宣生長の家総裁
各人が自分の歩むべき道を歩むとき、仮の姿は「用足りて自ずから去る」となります。
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自分自身が変るしか、解決の道は無いのです。(その2) (42208) |
- 日時:2021年07月13日 (火) 20時47分
名前:本音の時代
ごもっともである。
最近では、旭川医大学長解任問題がある。
【旭医大学長「不適切」認定 「批判、口に出せなかった」選考会議、責任認める】 旭川医科大の吉田晃敏学長について、約700万円の不正支出を含めた計34件の不適切行為があったと認定した学長選考会議。吉田氏が現職の国公立大学長で最長の14年も在任する中、恒常的にこうした行為を繰り返していた可能性に言及する一方、同会議の西川祐司議長(副学長)は「学長だけではなく、私たちにも責任がある」と述べ、チェック機能を果たせなかった大学執行部全体の責任を認めた。 「学長選考会議のメンバー自体、学長が指名しており、公正ではない運営だった」。西川議長は28日の記者会見で、吉田学長が14年も在任し、「不適切行為」に至った背景には同会議自体の機能不全があったと反省した。
生長の家教団の組織はどうだろうか。 総裁の考えは神意であり、チェックなど不要なのだろうか。 パワハラ人事はチェックできたであろうか? 総本山は鎮護国家のために作られたのに、そこに造化の三神はどうしても必要なのかチェックできたであろうか? 人間知で作られた讃歌を聖経と同列に扱ってよいかチェックできたであろうか? 生長の家の神殿と言われる『生命の實相』を研修でテキストとして使用しないとする本部の指示はチェックできてただろうか? 生長の家教団は正常であるだろうか。 教団の不適切行為は無かったと信じるだけではなく、やはりチェック機能を果たせるような部署を作ることが必要であり、これを実現するためには、信徒自身が変わるしか、解決の道は無いのです。
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中心帰一論が危険性をはらんでいた (42213) |
- 日時:2021年07月13日 (火) 22時17分
名前:tapir
本音の時代様
>生長の家教団の組織はどうだろうか。 総裁の考えは神意であり、チェックなど不要なのだろうか。 パワハラ人事はチェックできたであろうか? 総本山は鎮護国家のために作られたのに、そこに造化の三神はどうしても必要なのかチェックできたであろうか? 人間知で作られた讃歌を聖経と同列に扱ってよいかチェックできたであろうか? 生長の家の神殿と言われる『生命の實相』を研修でテキストとして使用しないとする本部の指示はチェックできてただろうか? 生長の家教団は正常であるだろうか。
教団の不適切行為は無かったと信じるだけではなく、やはりチェック機能を果たせるような部署を作ることが必要であり、これを実現するためには、信徒自身が変わるしか、解決の道は無いのです。<
上記、全部に、同意します。
今日の混乱は、総裁個人の資質がユニークだったことも原因の一つですが、それ以上に、その総裁の暴走を誰も止められなかったことこそ、大きな問題だと思います。
谷口清超先生が執筆され、谷口雅春先生も承認された『菩薩は何を為すべきか』に説かれた、歴代総裁を通して神意が天降る、新総裁が次々と、神様のラッパになるという、中心帰一論に、無理がありました。
本部員をはじめとする幹部が、この中心帰一論の信仰に縛られて、身動きが取れないうちに、取り返しのつかないほどの暴走が起きて、現在に至っていると、私は見ています。
「谷口雅春先生が、谷口雅宣先生を生長の家総裁に任命した」とは、その意味です。
この思考を発展させると、信徒各人が自立して、力を合わせて教団を立て直すという、神の子無限力を発揮させるために、わざわざ問題を起こす谷口雅宣先生が、観世音菩薩として、生長の家総裁に就任し、生長の家信徒の前に今の姿を表しているということになります。
「問題は解決するために与えられる」、「難あり有り難し」
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トキさんのご文章は、昔のままだと思います。最近は、読みやすくするために、句読点を増やしたのではないでしょうか。転載した文もトキさんのものですが、こちらも句読点が多くなっていますよ。 (42535) |
- 日時:2021年07月31日 (土) 02時55分
名前:志恩
転載: >>講習会の中止について (42054) 日時:2021年07月08日 (木) 01時20分 名前:トキ
講習会の中止で、教区の会計の赤字がますます増えるので、その点、頭が痛い点であります。
ただ、最近の講習会の評判は悪く、教区の会員が、友人や知人に頭を下げて来場をしてもらっても、「あんな酷い内容の話を聞かされて、苦痛だった」と後から苦情が来ることが多く、その意味では、中止になって喜んでいる人も多いです。
つまり、痛し痒しというところです。
私の縁者の「一白鳩会員」は、戦前の講習会を見ていますが、谷口雅春先生のご講話では、参加者の熱気がすごく、途中で帰る人など誰もいないので、今日の講習会と違ったと、嘆いております。通路まで人がいっぱいで、今日なら消防法違反で告発されたかもしれない、とのことです。<<
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