生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)

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日訓 (44927)
日時:2021年10月14日 (木) 20時15分
名前:トキ

 来年度の「日訓」から、谷口雅春先生のお言葉はなくなり、谷口清超先生、谷口雅宣総裁のお言葉だけになります。そのため、信徒の間から「今年から、こんなふざけた日訓は買わない。」と拒否するケースが続出し、売れないので現場では困っております。どうか、来年からは、谷口雅春先生のお言葉を復活してくださるよう、本部の皆様にはご配慮をお願いします。

それならば (44930)
日時:2021年10月15日 (金) 01時23分
名前:龍のオトシゴ

光明思想社が出している日訓『谷口雅春先生真理の言葉』を買いましょう。

本部の皆様は配慮して下さらないでしょう。

来年度の日訓販売部数はどのくらい減る? (44935)
日時:2021年10月15日 (金) 17時05分
名前:tapir

わが家で毎年購入していた日訓。

購入しなくなって8年目です。

雅宣先生のお言葉で一日が暗くなったので、
新規購入を止めて、昔の日訓をかけ続けています。

今年の日訓販売部数は知りません。

来年は、どのくらい減るか分かりませんね。

日本教文社の経営建て直し、したくないのでしょうか?

雑感 (44937)
日時:2021年10月15日 (金) 22時16分
名前:トキ

 日訓 は、中身を見ずに毎年、買っている人が多いです。多数購入している人は、余ったら進物用にしております。

 ところが、買ってから中身を見て、谷口雅春先生のお言葉がないのを見て「騙された」と気がつくケースが多いです。進物としてもらった人も、「谷口雅春先生のお言葉がないのでは値打ちが全くない。来年からいりません。」と断るケースが散見されます。が、その噂を聞いて、購入を断ったり、間違って買った人が苦情を言うなどの話を聞いております。今年も減りましたが、来年以降はもっと減ると思われます。

ユニティ教会「日々の言葉」 (44939)
日時:2021年10月16日 (土) 10時02分
名前:アクエリアン

>来年度の「日訓」から、谷口雅春先生のお言葉はなくなり、谷口清超先生、谷口雅宣総裁のお言葉だけになります

ということですが、ニューソートの団体で、生長の家とも過去に、交流があったユニティというところが毎日更新している「日々の言葉」にも目を通されてはいかがでしょうか、と薦めさせてもらいます。

非常に明快な英語(国際英語、Borderless English)で、精神的に高揚させてくれる内容で、英語の勉強にもなるので、一石二鳥ではないでしょうか。


『生命の實相』頭注版第一巻81ページにこの団体について紹介されていますので、ご興味のある方は、チェックしてみてください。

1972年の谷口雅春先生の北米御巡錫の時に、ユニティ本部をご訪問され、ご講演されましたが、そのときの詳しい様子は、『真理は民族を超えて』の中で紹介されています。

今、ニューソートの団体の中で、最もネットでの活動に力を入れているところではないかと思っています。

日々の言葉 Daily Word
http://www.dailyword.com/?_ga=2.203762771.2140326326.1634258758-963777887.1586359162

A Video Tour and History of Unity Village - 1919 -2019
https://www.youtube.com/watch?v=t4nRT10Rzlw

ユニティソング「We Are Unity - Association of Unity Churches International」 (44943)
日時:2021年10月16日 (土) 13時51分
名前:アクエリアン

https://www.youtube.com/watch?v=_HY9AS95JxY

I'm one with you.
私はあなたと一つ。

You're one with me
あなたは私と一つ

Together we are Unity
私たちは共にユニティ

We are and will forever be.
私たちはこれからも永遠にユニティ

We are one, we are Unity.
私たちは一つ、そして私たちはユニティ

We share one fate.
私たちは同じ運命を分かち合う

We answer the call
私たちは助けを求める声にこたえる

We create a world that works for all.
私たちはすべての人にとって利益になる世界を創る

We celebrate living in heaven on earth
私たちは至上の幸福の中で生きることを祝う

Here to Love and serve
愛するために、そして役立つためにここに存在している

I'm one with you.
私はあなたと一つ。

You're one with me
あなたは私と一つ

Together we are Unity
私たちは共にユニティ

We are and will forever be.
私たちはこれからも永遠にユニティ

We are one, we are Unity.
私たちは一つ、そして私たちはユニティ

I am Unity
私はユニティ

You are Unity
あなたはユニティ

We are Unity
私たちはユニティ

When one is bound then none are free
もし一人でも縛られているなら誰も自由でいられない

We are one we are unity
私たちは一つ、私たちはユニティ

I am Unity
私はユニティ

You are Unity
あなたはユニティ

We are Unity
私たちはユニティ

I'm one with you.
私はあなたと一つ。

You're one with me
あなたは私と一つ

Together we are Unity
私たちは共にユニティ

We are and will forever be.
私たちはこれからも永遠にユニティ

We are one, we are Unity.
私たちは一つ、そして私たちはユニティ

I'm one with you.
私はあなたと一つ。

You're one with me
あなたは私と一つ

Together we are Unity
私たちは共にユニティ

When one is bound, then none are free.
一人でも悩める人がいる限り、私たちは幸せにはなれない

We are one, we are Unity
私たちは一つ、私たちはユニティ

I am Unity
私はユニティ

You are Unity
あなたはユニティ

We are Unity
私たちはユニティ

「いつの日か、それも間もなく、神と人間がひとつであることを、それどころか生きとし生けるものがひとつであることをすべての宗教が教えるだろう。1889年にチャールズ・フィルモアとマートル・フィルモアが創建したユニティ教会が教えているように。
 ユニティ教会はすばらしい霊的な運動だが、世界の主要宗教と並ぶほどには広がっていない。なぜか?人類の大半は分離という信念を捨てようとしないからだ。」

「神との対話」の著者ニール・ドナルド・ウォルシュ著「神が望むこと」122p

ユニティ教会 (44964)
日時:2021年10月18日 (月) 11時55分
名前:tapir

アクエリアン様

ユニティ教会のご紹介、ありがとうございます。

You tube 拝見しました。

『生命の實相 頭注版 第1巻』81ページ、あらためて拝読しました。

☆☆

最近ではユニティ協会という新しい実践キリスト教団の書物を読むだけで病気その他の不幸が消滅している事実もあり、われわれはユニティの出版物を要約して『人生の鍵シリーズ』(全五巻)として別に紹介しているのでありますが、(以下略)

 [頭注]
ユニティ教会

チャ―ルス・フィルモアを教祖とするキリスト教の新しい教派で各キリスト教派を融合する意味で(Unity School of Practical Christianity )と称し、イエスの教えを生活に実用して人生を光明化することを教えている。

*『無限供給の鍵』『希望實現の鍵』『人生調和の鍵』『生活改善の鍵』『豊かなる富への鍵』

『生命の實相 頭注版 第1巻』81ページ

☆☆


『人生の鍵シリーズ』(全五巻)は、ユニティの出版物の要約だったのですね。


ユニティ・ソングも美しいですね。

Beautiful song!

☆毎日、明るい言葉を発信する

☆祈り続ける

アメリカ、カンザス州、ユニティ・ヴィレッジに、日々、明るい言葉を発信し、祈りを重ねている団体が存在し続けていることは、心強いです。

ありがとうございました。

アクエリアンさん (44967)
日時:2021年10月18日 (月) 14時26分
名前:るん吉

こんいちは
貼り付けて下さったこの歌ですけど↓

>>I'm one with you.
私はあなたと一つ。

You're one with me
あなたは私と一つ

Together we are Unity
私たちは共にユニティ

We are and will forever be.
私たちはこれからも永遠にユニティ

**********************
るん吉
皆、神の子で「命はひとつ」やから、真理ちゃあ真理なんでしょうけど、またこの団体には、(Unityの意味が【ひとつ】だから)この詩でしっくりくるだろうけど

谷口雅春先生の教えの根本をなす
「物質なし」や「実相独在」の真理からはかけ離れすぎてます。

これがないと生きていけん。
わたしには、
雅春先生の代わりにはなりません。

こういう「あなたと一つ」のような内容は

紹介されたら「良い事がかいてありますね」と、言わざる得ない

し、またせっかく貼り付けてくれてるのに・・・・、で
こういうこと、ますます言いにくいのですけど
正直な感想書かせていただきました。



tapir様 (44972)
日時:2021年10月18日 (月) 19時04分
名前:アクエリアン

コメントありがとうございます。

ユニティという団体に興味を持っていただいてうれしく思っています。

私がユニティに関心、興味を持ち始めたのはインターネットをやり始めてからです。

それまでは、谷口雅春先生の御著書を通して、ニューソートという思想運動に興味は持っていましたが、特に探究欲が湧いてきたのは、やっぱりインターネットを通してですね。

特にクリスチャンサイエンスやユニティはネット布教活動に力を入れているため、機関誌や動画などのコンテンツが非常に充実しており、探求心のある人間にとっては、インターネットという文明の利器は本当にありがたいと思っています。

渋谷晴雄先生は『歴史から何を学ぶか』の中で、ニューソートという思想運動について論文を書いておられて、ユニティについても触れられていますので、ご興味がありましたら、また読んでいただけたらと思っています。

この論文の結論としては、「未来を持つニューソート運動」ということではないかと思っていますので、今後の生長の家の在り方としては、やはり「ニューソートとしての生長の家」という特色を生かしながら、活動していくのがいいのではないか、と私は勝手に考えております。

 (44973)
日時:2021年10月18日 (月) 19時07分
名前:つれづれ

谷口雅春先生の教えの根本をなす
「物質なし」や「実相独在」の真理からはかけ離れすぎてます。

これがないと生きていけん。
******************************************************************

るん吉さん、これ変じゃねぇ。

生長の家の教えなくても生きている人のほうが圧倒的に多いでしょ。

「物質なし」「実相独在」ていっても単にあなたの意識上のものでしょ。

ほんとに「物質無し」なら肉体人間が発した言葉に反応する必要はないから。

「物質なし」や「実相独在」をどのように受け取り生きていますか?

この言葉の示すものをどのように生きている、また生きようとしているか。

これが信徒の間で共通したものになっていないから、いつまで経っても調和が出てこないのでありません?

この掲示板の目的は本流派と教団派の「真理」の受け取り方の違いを論議するところのようです。ですと真理をどのように受け取り自分としてはこのように生きている、という表明がないといつまでも避難合戦、水掛け論に終わるのではないですか。

るん吉さん (44974)
日時:2021年10月18日 (月) 19時09分
名前:アクエリアン

コメントありがとうございます。

>谷口雅春先生の教えの根本をなす
「物質なし」や「実相独在」の真理からはかけ離れすぎてます。<

この歌から、こういう結論を出しておられますが、ちょっと、早計ではないかと思っています。

谷口雅春先生も生長の家の教えと非常に近いと考えられたから、ユニティの「人生の鍵シリーズ」を翻訳紹介されたのだと思います。

勿論、人はそれぞれですので、るん吉さんが、ユニティはあかんな、と思われたのでしたら、それはそれで仕方のないことです。

が、私には、ユニティは非常に魅力的な団体で、いつか、カンザスシティにあるユニティヴィレッジを是非とも訪れたいと思っています。

渋谷晴雄先生も『歴史から何を学ぶか』の中のニューソート論文の中で、ユニティヴィレッジを訪れた感想を書いておられます。

ユニティのネットコンテンツは非常に充実していますので、またご興味が湧きましたら、訪れてみてください。


アクエリアンさん (44976)
日時:2021年10月19日 (火) 00時34分
名前:るん吉

二つもレス付けてくださりありがとうございます。

>>この歌から、こういう結論を出しておられますが、ちょっと、早計ではないかと思っています。<<

「早計」実は、正にその事を感じながら書いてました。

本、一つも読んだことないのに、この詩だけで
「かけはなれてます」は、幾ら何でも早計すぎ。言い過ぎ・・失礼になるで、これは・・って。

でも、結局 書いてしまったのは、
アクエリアンさんが紹介している、この歌の詩です。
ユニティの歌なのだから、この詩の内容が、ユニティの教えの神髄やろう
しかも、You're one with meあなたは私と一つ
この↑連発やもん。
それで、この真髄内容では、自分は無理かなあ。と思って書きました

今、1巻の81ページを見ました。
ユニティのことを書いてますね。
「本を読むだけで病気その他の不幸が消滅する事実もあり」って書いてありました。
(tapirさんも書いてました)
クリスチャンサイエンスの事は書いてあるのは知ってましたが、今の今まで見落としてました。
(治験例はクリスチャンサイエンスのだけだったから)

病が治癒するくらいだから、ユニティもやっぱり「物質なし」 やろか・・・この物質なしが分からないと無理でしょうし。

読んで、あの(雅春先生の時の)衝撃受けるやろか・・色々

>>ユニティのネットコンテンツは非常に充実していますので、またご興味が湧きましたら、訪れてみてください。

有難うございます。訪れてみます。



つれづれさんへ (44977)
日時:2021年10月19日 (火) 03時22分
名前:るん吉

つれづれさん、
コメント有難うございます。

>>物質なし」「実相独在」ていっても単にあなたの意識上のものでしょ

そう、ただ心で?知識でそう思ってるだけ。

>>「物質なし」や「実相独在」をどのように受け取り生きていますか?

難しいことききますね。(-“-)
優等生の答えは出来ないけど。
自分が本を読んで、『あぁ、嬉しい!』すごい嬉しい幸せな有難い感情が湧き起った本は生命の実相だけでした。

この嬉しい感情は「この物質なし。実相独在」これを説明してある部分で沸き起こってると分かった。その感情は1年目から湧いた。

巷にある、
その心を正さないと、その心のままだと、幸せになれないですよ。
駄目ですよ。
こういう倫理っぽいのと違う、
「わー、この我自体が、そして、この心もないのだから、正す。とかいらないんだ」って嬉しさもあった。

でも、たまに生長の家の本の中にも、自力で心を正す。ぽい事が書いてある時もあるけど、その辺は飛ばしてる、です。

感情は、心は、《悍馬のよう⦆ですもん。自由にならんのに。
良い事やうれしいことがあったら、勝手に幸せな感情が出てくるのとおなじように、
苦しい事があったり、腹が立ったり、耐えられないことがあったら、勝手に苦しい感情がでてくるし、それがどうにかして、何とかしたいと思っても出来なかったりする時はあるのに。

また、だから?例えば、横の真理っぽい事を書いてあるところも抜かして読んだりした。(これも上記と同じですかね。)
横の真理の「こういう心もちでいると、どういう出来事(病気)が出る。だからそこを正す」こういうのも好きではないからです。

例えば藤原先生の本を持ってます。
藤原先生の縦の心理の部分が大好きで読んでいきましたが、
ある悩み相談の回答で、主婦に
「あなたは夫に絶対ハイが足らない」という指導をされてましたのです。ちょっとビックリした。縦の真理で回答されると思って読んでたから。
「こんなん、むりですよ。この女性は、病気になりますよ。」と思いましたわ
この本を読むとき、その部分はそれから飛ばして読んでます。しんどくなるから。
好きなところだけ、よむ。ように工夫しています。

だから、
実相独在、肉体なしの根本心理が大好きでした。

知識の把握とはいえ、苦しいこと、壁にぶち当たると、この「物質なし」と考えるとすこしホッとしたから。

これで、今まで何とか乗り越えてこれたんですけど、
ただ、悟れてはいませんから
知識の把握だけ。だから
(でも、知ってるだけでも、知らないよりましや。
って思って生きてきました。)が

所詮「知ってる。」だけでは、すごい壁にぶつかった時、もう苦しくてどうにも出来なかった。

無い肉体我で「しってる」だけやから。無い【肉体我】なんかが本当にある【実相我】を知ることなんかできない

先に書いた、読んだ時に湧き起こった歓喜の感情は30年以上経っても、同じようにはあるけど、でもこの歓喜の感情は、肉体の知識で把握した歓びに過ぎない。
1年目から湧いたので、その後ドンドン歓喜が増して、いつか遂に命で悟れる境地に入れるかも。
と思ってた。

知識だけだと、「真理の廻りをどうどう巡りしてるだけ。」
知識だけだと、その辺の「ありがた教の小林正観や心の法則やマーフィーや斎藤一人や引き寄せ」で生きてるのと大差ないのでは?
最近、そんな風に感じだしてきた。

生長の家の人で絶対境地に入った人はどのくらいいるんでしょう?
それを知りたい。ってずっとおもってます。

下手くそな、とりとめのない文でごめんなさい。
つれづれさんあなたはどうですか?
真理をどのように受け取り生きていますか?


るん吉さん、今を生きるということの本当の意味が説かれています、感情とか観念の出る前のことですが。 (44981)
日時:2021年10月19日 (火) 18時16分
名前:つれづれ

るん吉さんの一生懸命さはわかりましたし現状も理解しましたが、生長の家の教えの一部は肯定するが一部はパスします、ということは自分の都合のいいとこは受け入れるけれど、納得できなないことには、感情的に拒絶反応が出るというのでは、苦しい生活ですね。以下の引用文を読んで納得がいきますか?

(坐禅を実際にしようとする人、実際に坐禅を組んでいる人へのアドバイスですので、ただ読むだけだと概念化されて却ってあとでそのことが障害になる可能性があります。ご注意下さい)
Q.
考え方を離れよと言われますが、考えを断ち切ろうとするというのは間違いですか? 坐禅すると、ずーっと考えが出ていて止まらないんですが。
A.
断ち切るというより、断ち切れているんじゃないですか。
ずっと考えが続いているように思うかもしれませんが、よく見れば、次の考えが出た時、それまでの考えは次の考えによってすっかり消されているはずです。考えによって考えが断ち切られているんです。
最初に出た考えがそのままずーーーーっと最後までその考えだけで続いているなんてことはないでしょう。
でも人間は記憶があるから、それらの考えをつなげて、ずっと考えが続いているように思い込んでしまう。
Q.
「空(くう)」ってのはどういうことですか?
A.
このように、お茶を飲めばお茶の味がするし、飲まなければ味がしない。事実に触れればそのとおりになるし、触れなければ触れないようになっている。そういったことを「空くう」と呼んでいます。要するに、普段の我々の心身のありようのことです。
「無心」ってのも同じ意味です。一般には、雑念や妄想が出てこず、心の中に何も無く静まり返った様子のことだと勘違いされていますけどね。「無念無想むねんむそう」とか(笑)。
Q.
坐禅をすると、わーっといろんなことが出てくるんです。
A.
実際には普段から出ているんです。でも普段はいろんなことで気が紛れているから、出ていることに気がつかないだけです。坐禅をしていると他のことが収まるから、いろんなことが出ていることに気づくだけです。
その出ていることを抑えようとするのは、かえって心を騒がしていることになるでしょ。だって、出てきてしまったものをあとから無くそう無くそうとしているわけだから。出てきてしまったものはどうしようもないのに。
そうではなく、出たものを出たままに、何も手を付けずにいれば、全然心を煩わさないよね。これが本当の「心静か」ってことです。
Q.
「自分の様子をきちんと見るのが坐禅だ」と言われたり、「自分で自分を眺めていては坐禅になりません」と言われたりします。何が違うのかよく分かりません。
A.
「自分を眺(なが)める」ってのは、過去の様子を後から見てることです。自分の感覚や経験を一瞬あとから思い出して取り上げているんです。
そうではなく、「今」の自分の様子をきちんと見ることが大切です。
本当に「今の様子」それだけを見ている時は、それだけだっていうことも分からないはずです。だって、「これが今の様子か」なんて余分なことが出てくる余地がないんだから。
●不思量底(ふしりょうてい)を思量(しりょう)す
これが一番大事なところです。「坐る」というのがどうすることなのかということです。
今までは身体の形を整えるということでしたが、その後、時間をどのように過ごせばよいかということ、これが抜けたら坐禅にならないということです。
人間の考え方を入れないというのが「不思量ふしりょう」です。直通であるということです。全てのものに、わけへだてなく。
●坐禅については、今、説明したことが全てです。世間の書物などで坐禅について書いてあるのは、形を整えたりなんだのばっかりです。ここのところを書いてあるものはありません。
Q.
普段の生活の中でも「不思量底を思量する」必要があるのですか?
A.
坐ってるときだけが坐禅じゃないです。24時間そうです。
あなたが生きているということだって、「時々生きている」なんてことないでしょ。
坐禅だって同じことです。
自分自身を学ぶというのは、よそにあるものをここに受け入れてこれを改造することではないです。
仏様の教えが外にあって、それを受け入れて学ぶということじゃありません。
自分自身を自分で学ぶということが仏教です。
それをしたのがブッダです。
「自覚した人」という意味です。
自分自身をしっかり見極めるということに尽きます。
その時に考え方が入り、考え方を通して見るようになると、
自分自身の事実がそのまま把握できず、間違ったことになります。
Q.
考え方に惑(まど)わされなければ迷わないのですか?
A.
惑わされないのではなく、考え方を使わない、です。
誰だって、考える前の様子があるでしょ。
例えば、音がしたとき「音がした」って思うかもしれませんが、本当は、自分の動き、身体の働きに気づいたってことでしょ。
音がするっていうのはこの身体の働き、様子なんですよ。
身体の働きに気づいたってことが「見えた」「聞こえた」ってことです。
みなさん、向こうに音があって、それをこちらで自分が聞いていると思っているが、そうじゃないです。
このもの(身体)の活動に触れたんですよ。
このものの活動に触れることが「見た」「聞いた」「味わい」だとかっていうことですよ。
この身体の上でしか体験できないんですよ。
Q.
たとえば、集合写真とかを見た時、まず自分の顔を一番最初に見ますよね?
A.
一番最初には見ません。まず最初に写真の様子があるでしょ。その後で自分の顔を探し始めるんでしょ? 写真の様子がなければ自分を探すこともできないでしょ。探す前に、一番最初に見えているこのことが、自分の様子なんですよ。
写真じゃなくて、自分の様子なんですよ。見えるってことは自分の様子なんですよ。だって他の人が見てるんじゃないでしょ。
Q.
ああ! 自分が見てますね。
A.
自分が見てるってことが、今、自分の生きてる証拠でしょ。それ以外にないでしょ。
Q.
いつごろから自我意識が出てくるんでしょう? 幼稚園のころから? 三歳のころから?
A.
人が寄ってたかって教えるから。名前を付けて、何万回と呼ぶから、「私のことを言ってるんだな」と認識するんですね。他の人ではなく私のことを言ってるんだという自己意識が生まれる。
最初は、本人自体、声が聞こえてるって認識(にんしき)もないですね。
自我意識が出てくるのは二歳ぐらいでしょう。三つ子の魂といいますね。昔は数え歳ですから。
Q.
自我意識はあって当然ということですか? 不思量ってのはそういうことですか? あって当たり前と思えばいいんですか?
A.
そういうことじゃないです。
どんなに自我意識があっても、みなさんは自我意識を使わずに生活していますよ。
(両手を叩いて)「パン」、こうやった時に、「私が聞いた」なんてことは一つも使わないでしょ。どれだけ自我意識のある人であっても。「私」っていうのは入らないんです。聞いたあとから起きてくるんでしょ。「今私が聞きました」ってことは、もう聞こえたあとですね。
画鋲を踏んだ時に「痛っ!」ってのも、そういうことがただあるだけです。「なんで俺が!」ってことはないでしょ。みんなそういうふうに、自我意識なしで生活していますよ。自我意識はあとで付くんですよ。終わった頃に付ける。
そっちから物をながめたら真実が見えないです。
Q.
修行って、自分の思いを断ち切ることですか? 無色になることですか?
A.
(机を叩(たた)いて)「コン」、これを聞くときに、自分の思いを断(たち)ち切るんですか?
Q.
断ち切るんじゃなくて、無いですね。
A.
「思いを断ち切る」なんて言葉が出てくるってことは、何か違うものを学んできたんでしょうね。断ち切らないとうまく行かないと思ってるんでしょう。
でも現実は断ち切ることなしに、「コン」、うまく行くようにできている。
●「私」らしいものは付かないで、人は、確かにいつも触れています。だからずれないんだよね。正確にものが伝わるというのはそういうことです。もしみんな自我意識で物を見ていたら、てんでばらばらになっちゃうね。
●よーく自分に参じて、自分を見てみれば、自我意識がついてないことがよく分かります。でも考え方の上から勉強する人は、到底その話は通じない。
●色眼鏡を掛けている人が、色眼鏡を外さずにものを見てると、必ず色眼鏡を掛けた色でしか見えないからね。色眼鏡を外したときの色なんて分かりっこないね。そのように、考え方で生活している人は、考え方を外れた時のものの見え方なんて、無理だね。

●「パン!」と聞こえて「音がした」って思う時には、もうその音は無いんです。
だから人間の思量分別をそこに差し挟(はさ)むことができないんです。
だから坐禅は、人間の「知る」「知らない」といったことは論外ですね。
● 別々にものがあるんじゃないですよ。
向こうにものがあって、それをこっちで触れて、って、それはそう思ってるだけです。
事実はそうじゃない。
別々のものなんて一つもない。自分と別のものなんて一つもないじゃないですか。
● ここにたくさん人がいますが、これを自分の様子だって言っても、なかなか伝わらないね。
長年坐禅をやってる人でも分からない。
それぐらい自我意識をしっかり立てて区切ってるでしょ。
これ全部自分の様子ですよ。
● 修行は「思い」ではないんです。「こうやればいいんだ」って方程式を立てておいて、それに沿ってやることではないです。
● 「ああ、わかった!」ってなると、たいがい考え方です。
● (別の老師)この中には長いこと参禅しておられる人もおりますが、みなさん、どうも頭で理解しようとしている様子が見受けられますね。
頭で分かったふうになっても進歩はありません。
とことんまで聞いて、そのとおりやってくださいよ。
私もさんざん苦労したから言ってるんです。せっかく老師に来ていただいているんですから、もっともっと尋ねてください。

●初めて会った事実は、いつでもそのまま入ってきます。なのにすぐに概念化というオブラートをかけてしまうんですね。
●坐禅中にいろんな考えが出てくること自体は「事実」です。
でもそれにひきずられたまま考えにひたっていると、「考え方」の世界に行っちゃいますね。
だからと言って『考えが出てきた、まずい』と思うと、それも考え方の世界ですね。
もちろん『考えないようにしよう』と努力するのも考え方の世界でしかありません。
考えが出てくるという事実に自分が関わって考え方に変えてしまっているんです。
実際には、つかむものなんて何にもないんです。

●『悟り』という字は『吾を示す』となってますね。『仏』とは自覚した人のことです。自分に気が付いた人のことです。思いやはからいを入れずに、よーく自分を見てみることが大切です。

●仏教が難しいのは、ありがたいはずだ、超越した境地のはずだ、といった固定概念で真実を探そうとするからです。
● こういうふうに見ればちゃんとこういうふうに見えます。「こう見なけりゃ」っていうのはないです。
● 六根の働きのままに、浮かんできた思いをとらえずに手をつけずにそのままにしておく。
●考えを「やめる」んじゃないですよ。
事実に即していれば、考えが「やまる」んです。
●「音、音、音」じゃないですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これだけですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これこそが本当の受け身というんでしょうね。
●ほとんどの人は正しく見る力を持ってないですね。
何かが見えたと気がついた時には、もう見えた後になってしまっています。
●眼は前に見たものを残しません。それこそが救いでしょ。何にも束縛されないんです。 
● 目・耳は良し・悪し、好き・嫌いを判断しない。
聞こえたもの、見えたものはその場でその場で完結しており、一切残らない。
それが事実であり、その事実に参じるのが修行。
● みなさんは、本当に物があると思っていますからねぇー
●本当に事実に触れれば、底が抜けてすっきりしますよ。

https://zazen.blog.jp/archives/1029504504.htmlより

つれづれさんへ (44988)
日時:2021年10月20日 (水) 08時32分
名前:るん吉

返信ありがとうございます。
>>、一部はパスします、(略)自分の都合のいいとこは受け入れるけれど(略)
感情的に拒絶反応が出るというのでは、苦しい生活ですね。<


苦しくはないんですよ。😊
私にとっては(物質無しと実相独在が、もう好きで仕方がないので、)それを覆す部分はみないようにするのが、私には必要な工夫なだけです。

貼り付けて、下さってありがとうございます
リーデングリストに入れました。!(^^)!

ところで、つれづれさん、
坐禅やられてますのね?
>>今を生きるということの本当の意味が説かれています、感情とか観念の出る前のことですが。<<

既に、この↑境地に入られてますか?
つまり、老師のお答えになってる境地に入っておられるですか?
それと、神想観はやられてないのしょうか?




つれづれさん、 (44992)
日時:2021年10月20日 (水) 13時05分
名前:るん吉

あなた様は、もしかして『長崎の晩霞』さんじゃないですか?

長崎の晩霞さんがどこかのスレで

肉体なしについて

tapirさんに語ってた・・・ような記憶があるんですが、

探し出せないんですけど。保存しておいたらよかった・・


もし、違ってたらごめんなさい。

tapirさんへ (44993)
日時:2021年10月20日 (水) 13時19分
名前:るん吉

tapirさん

突然、失礼します。何か月も前ですが、あなたがあるスレッドで
長崎の晩霞さんに、こう書かれていました。

>>救い」とは何かということですが「救い」は「悟り」と置き換えてもよいと思います。<<

これを読んだ時、
tapirさんが、
何かしらその様な体験がおありなのかとても興味があり
お聞きしたかったのですが、ずっと聞けずにいました。

もし、よろしかったら差し支えない範囲でいいので、お教え頂けたら有難いのですが。

るん吉さんへ (44995)
日時:2021年10月20日 (水) 16時09分
名前:禁止用語


 トキ管理人の「日訓」スレッドから
 逸脱しているようなので
 別スレ立てて「真理の研鑽」に努めてほしいです。

 

 (44997)
日時:2021年10月20日 (水) 17時59分
名前:禁止用語さんへ

いやいやいや、るん吉さんの此度の質問は見てる人にも、
聴聞となり得ますので続けてくださいや。
話がこのように展開してゆくのも自然な成り行きでしょう。

るん吉さんへの返事です   禁止用語さん是非ということでしたら移動しますのでよろしくです (44999)
日時:2021年10月20日 (水) 22時11分
名前:つれづれ

〈あなた様は、もしかして『長崎の晩霞』さんじゃないですか?〉

そうですよく判りましたね。でもね別のHNはるん吉さんの大嫌いなものもありますよ。
他で書いたけど、固定にするとこの人の言うことだからと内容以前に品定めされますのであえて変えています。ましてここは生長の家の真理最高の人達ですんで、疑問も「生長の家のこの言葉はどの様な意味になりますか?」式に聞かなければならないです、もろに可怪しいという訳に行きませんのでね。

話の続きです。

〈>>今を生きるということの本当の意味が説かれています、感情とか観念の出る前のことですが。<<

既に、この↑境地に入られてますか?
つまり、老師のお答えになってる境地に入っておられるですか?〉

存在感そのものを感じますし、宇宙いっぱいの存在にはなっていませんので「悟り」には至っていません。
「感情とか観念の出ていないときのほうが遥かに多いですが。

「不生の仏心」盤珪禅師さんの言葉でありますが、でいるように努力中です。


〈感情は、心は、《悍馬のよう⦆ですもん。自由にならんのに。
良い事やうれしいことがあったら、勝手に幸せな感情が出てくるのとおなじように、
苦しい事があったり、腹が立ったり、耐えられないことがあったら、勝手に苦しい感情がでてくるし、〉

その通りですね、出るものは出る、ここまではいいのですが、それを反芻してしまうと消える思いが強固な記憶となって、何かのときに出てきてしまいます。もっと厳密に言えば、出たものは〈結果〉であって今更どうしようもないです。ですんで以下のように

〈それがどうにかして、何とかしたいと思っても出来なかったりする時はあるのに。〉

なんとか出ないようにしようとする必要はなく、放っておけばいいんです。
そうすれば段々と縁に触れても「念」が出なくなってきます。経験から言えます。
盤珪禅師さんが言ってますが、出た〈念〉に取り付くことさえしなければ〈念〉はいくら出ても出ないと同じだと。

これって〈観たくないも〉のを見たとき、〈聞きたくないこと〉を聞いたとき、つまり環境に好ましく思えないものが現れたときも同じですね。見たもの聞いたものは一瞬で消え去るのに記憶でそれが存在していると認識してしまいます。そして向こうのものが確実に存在していると思い、心が向こうのものに囚われてしまい感情を惹起してしまいます。

五感そのものには何も残っていないのに。見た途端に目を閉じれば一瞬でものは眼から消えます。聞いた音も次の音を聞いた途端に前のものはなくなっています。

〈久遠の今〉〈永遠の今〉とか言いますが、るん吉さんが「肉体なし、現象無し、実相のみ実在」が好きだと言うのは、因縁の結果として一瞬も留まることなく変化し続けているもの(これはランプの炎の喩えがよく使われますが、灯心から蒸発する油と火が因縁となって炎という一瞬も休むことなく変化し続ける結果となっている)が現象である、と心の奥底で納得しているからでしょうか。

過去は存在し未来もいつか来ることでしょうが、過去のその時には〈今〉しかなかったし、
いつか来る未来もそのときには〈今〉でしかないです。いま以外には存在できないです。そのように今に生きているときには、現象に善悪はないです。記憶と相撲取ってるときに善悪が出てくるのであって、善悪を詮議建てするのは、私は過去と未来に生きていますとの表明で、皇室談義が弾むのももっぱら過去に生きている人達でしょうね。


〈生長の家の人で絶対境地に入った人はどのくらいいるんでしょう?
それを知りたい。ってずっとおもってます。〉

ほんの数名10名はいないのではと考えます。


〈それと、神想観はやられてないのしょうか?〉

過去には飽きるほどしましたが今はしません。

以上現象なし肉体なしの自覚の秋の夜長の足しにと願いまして長文を。


すみませんでした。 (45002)
日時:2021年10月21日 (木) 10時58分
名前:禁止用語

日時:2021年10月20日 (水) 17時59分
名前:禁止用語さんへ

いやいやいや、るん吉さんの此度の質問は見てる人にも、
聴聞となり得ますので続けてくださいや。
話がこのように展開してゆくのも自然な成り行きでしょう。<

 ごもっともです。先の言葉は撤回いたします。

 ただ、るん吉さんの場合は
 昔から、攪乱工作や、問題や質問を投げかけるだけの
 ことが多いので、新スレたてて自分の好きなように
 問題だけ投げかけてひまつぶしに勉強ごっこを
 していたらいい、と思ったので
 個人的な意見を書かせてもらいました。

 もうこのスレッドではかきません。
 お邪魔してすみませんでした。

2022年度日訓について―谷口雅春先生のお言葉が無いわけではない (45012)
日時:2021年10月21日 (木) 16時28分
名前:tapir

>来年度の「日訓」から、谷口雅春先生のお言葉はなくなり、谷口清超先生、谷口雅宣総裁のお言葉だけになります。(トキ様)<

厳密に見れば、谷口雅春先生のお言葉が全く無いわけではありません。

「谷口雅春先生に帰りましょう 第二掲示板」に、世界聖典普及協会の日訓の説明が、転載されています。

>〈(前略)言葉は、谷口雅宣・生長の家総裁の著書『日々の祈り』と、谷口清超・前生長の家総裁、谷口雅春・生長の家創始者の著書からの言葉を収めた谷口清超監修『人生の扉を開く』(全4集)の中から精選されています。(脇文の出典ページ付き)……〉<

『人生の扉を開く』は、谷口清超先生監修です。過去の日訓の言葉を再録したものです。
(例えば『第1巻』は:1987〜1989年の日訓)当時の日訓は、谷口雅春先生のご著書の言葉を谷口清超先生が選んだものと、谷口清超先生ご著作の言葉との、半々で構成されています。

間接的に谷口雅春先生のお言葉も入っているというのが、世界聖典普及協会の説明です。例えば31日分のうち、(清超先生が選んだ)谷口雅春先生ご著書の言葉が10日分入るなら、中身の3分の1は谷口雅春先生のお言葉という解釈です。

(脇文の出典ページ付き)は、そこに谷口雅春先生著『○○○〇』と谷口雅春先生のお名前も掲載されるという意味です。

このように説明すれば、谷口雅春先生のご文章が全く無いわけではないと、(宗)生長の家を弁護できます。31日のうち10日分、谷口雅春先生のお言葉を入れるのであればバランスもとれるでしょう。

2022年度日訓について―伝説の名翻訳者 (45013)
日時:2021年10月21日 (木) 16時30分
名前:tapir


ところでなぜ、日訓の言葉の引用元を『人生の扉を開く』全4巻、と『日々の祈り』に限定したのでしょう。

英文に注目しますと、どちらも既存の英訳本があります。新たに英訳するより、既存の英訳文を選んだわけです。

最近の普及誌には『人生の扉を開く』の英訳が載っています。『人生の扉を開く』は広く人気があります。『人生の扉を開く』は教団を去った「伝説の名翻訳者」が英訳しました。『日々の祈り』も同じ翻訳者の訳文だと思われます。

「伝説の名翻訳者」の訳文が、現存の翻訳者が新たに訳すより、優れているということなのでしょうか。


渋谷先生の論文、再読します (45014)
日時:2021年10月21日 (木) 16時32分
名前:tapir


アクエリアン様

>特にクリスチャンサイエンスやユニティはネット布教活動に力を入れているため、機関誌や動画などのコンテンツが非常に充実しており、探求心のある人間にとっては、インターネットという文明の利器は本当にありがたいと思っています。

渋谷晴雄先生は『歴史から何を学ぶか』の中で、ニューソートという思想運動について論文を書いておられて、ユニティについても触れられていますので、ご興味がありましたら、また読んでいただけたらと思っています。

この論文の結論としては、「未来を持つニューソート運動」ということではないかと思っていますので、今後の生長の家の在り方としては、やはり「ニューソートとしての生長の家」という特色を生かしながら、活動していくのがいいのではないか、と私は勝手に考えております。<

渋谷先生の論文、再読し始めました。「久遠を流るるいのち」、アメリカでユニティが出現した経緯、再読すると興味深いものがあります。

ニューソートとの交流に谷口雅春先生は、戦後間もない頃から意欲的でいらしたのですね。アメリカを通して(協働して)、世界平和実現を願われたのでしょう。

少しずつ勉強して見ます。ありがとうございました。

るん吉様 ご質問のこと。ユニティのこと。 (45015)
日時:2021年10月21日 (木) 16時34分
名前:tapir

るん吉様

>これを読んだ時、
tapirさんが、
何かしらその様な体験がおありなのかとても興味があり
お聞きしたかったのですが、ずっと聞けずにいました。

もし、よろしかったら差し支えない範囲でいいので、お教え頂けたら有難いのですが。<

私のつたない体験が、何かお役に立つのでしたらありがたいと思います。長文になる可能性があるので別のスレッドを立てることも併せて考えます。 少しお時間をください。


なおユニティの歌について、るん吉さんが、


>谷口雅春先生の教えの根本をなす
「物質なし」や「実相独在」の真理からはかけ離れすぎてます。<

とのご感想でしたね。

興味深い話を思い出しました。谷口雅春先生のご著書には、光明思想家の英文書を翻訳されたものが何冊かあります。谷口雅春先生の翻訳文と英語原文を逐語的に(一語一語)照らし合わせた人がいました。(対照したのは『信仰の科学』、Science of Faithです)その結果、分かったのは以下の点です。

〇谷口雅春先生は英語原文を逐語的に(一語一語忠実になぞる)和訳しておられない。
〇英文は「横の真理」(心の法則)だけ説いているのに、谷口雅春先生の和訳文は、「實相」の言葉を加えて「縦の真理」(實相独在)を織り込んだ日本語になっている。
〇日本語だけ読んだ人は英文原作者が「實相」を説いていると思うだろう。しかし英語原文に「實相」の言葉は無い。谷口雅春先生は、英文原典に言葉を足して、唯神実相哲学を説かれたのである。


以下は私流の解釈です。

〇当時の翻訳文は、日本人に理解できるようにとアレンジするのが当たり前だった。それは英訳にも言えること。谷口雅春先生の翻訳の仕方もその流れの中にあった。(現代では全世界の情報がすぐに手に入るので、アレンジすると矛盾を感じる人があるため、原文に近い翻訳が主流であると思われる。)
〇ユニティは、キリストという無限の知恵、愛、生命への絶対帰依が根底にあるので、それが唯神實相の代わりになって、英語圏の人は同じように感じられるのかも知れない。(あくまで推測です。)

英文が「横の真理」のみと直観的に認識されたるん吉さまは、「唯神實相哲学」一筋の方なのだと思いました。

 (45020)
日時:2021年10月21日 (木) 18時28分
名前:素朴な質問

>名前:トキ

来年度の「日訓」から、谷口雅春先生のお言葉はなくなり、谷口清超先生、谷口雅宣総裁のお言葉だけになります。そのため、信徒の間から「今年から、こんなふざけた日訓は買わない。」と拒否するケースが続出し、売れないので現場では困っております。

―――――――――――

>2022年度日訓について―谷口雅春先生のお言葉が無いわけではない

日時:2021年10月21日 (木) 16時28分
名前:tapir


厳密に見れば、谷口雅春先生のお言葉が全く無いわけではありません。

―――――――――――――

トキ管理人サンの情報は、薄味つーか、なんつーか、
なあんか、おかしいと思いませんかタピアサン。


トキさんは現場の声のレポーター (45023)
日時:2021年10月21日 (木) 19時29分
名前:tapir

素朴な質問様

>トキ管理人サンの情報は、薄味つーか、なんつーか、
なあんか、おかしいと思いませんかタピアサン。<

トキさんは、現場(教区)の声をレポートしただけ。

掲示板を目にした生長の家本部、世界聖典普及協会が、今後何らかの対応をするかどうか。

そこに注目したいと思います。

 (45024)
日時:2021年10月21日 (木) 19時35分
名前:素朴な質問

コレ、言っちゃなんだけど、トキサン帰一ぽいですね。
返事どうもありがとうございました

つれづれさん 有難うございます! (45034)
日時:2021年10月22日 (金) 12時47分
名前:るん吉

つれづれさん
有難うございます!

貼り付けて下さった、
>>存在感そのものを感じますし、宇宙いっぱいの存在にはなっていませんので「悟り」には至っていません。
「感情とか観念の出ていないときのほうが遥かに多いですが。
「不生の仏心」盤珪禅師さんの言葉でありますが、でいるように努力中です。<<

私は、盤珪禅師という人も知らなかったです。
(検索して調べました)「不生の仏心」を説いた(説き続けた?)方ですなんですね。
つれづれさんは、悟り」には至っていないが努力中ということなんですね。
やっぱり、そういうのを、目指してるんですね。

>>つれづれ
>>なんとか出ないようにしようとする必要はなく、放っておけばいいんです。
そうすれば段々と縁に触れても「念」が出なくなってきます。経験から言えます。<<

あなたが書いてくれたこのコメントと、貼り付けてくれたurl も
何回も読ませていただきました。
「しみP」さんのや、ここからhttps://www.muishinso.com/
いったり他にもリンクしてるところ行っ行ってよみました
教えてくれてありがとうございます

るん吉
>>神想観はやられてないのしょうか?〉

つれづれさん
>>過去には飽きるほどしましたが今はしません。

そうですか。そして、今はこの座禅をやられてるんですね。(*^^*)

>>るん吉
>>生長の家の人で絶対境地に入った人はどのくらいいるんでしょう?

>>つれづれさん
>>ほんの数名10名はいないのではと考えます。

10名もいないと、そう思いますか?実は自分も(確かな数は分からないけど)、非常に非常に少ないと思ってます。。

生長の家の「物質なしや実相独在」みたいなすごい教えなのに、
「自覚」、つまり実相を知識でなく、悟らないといけないから、
そして悟りは、殆どの者には難しすぎて、結局何十年かかっても、到達できないから、

『悟り』っちゅうもんが、もっと簡単にできるようになってたら、もうとっくにこの世は地上楽園になってるでしょうね。

>>つれづれさん
>>るん吉さんが「肉体なし、現象無し、実相のみ実在」が好きだと言うのは、因縁の結果として一瞬も留まることなく変化し続けているもの(これはランプの炎の喩えがよく使われますが、灯心から蒸発する油と火が因縁となって炎という一瞬も休むことなく変化し続ける結果となっている)が現象である、と心の奥底で納得しているからでしょうか。<<

えっと、現象が無常だと知識では知っています。

ただ私が
『肉体なし、現象無し、実相のみ実在」が好きなのは』
そのままずばり、
現象の苦しい出来事が「無い。」(という教え)だから。です。

あるのが、「実相そのものの完全な姿のみ」。というおしえだからですよ。
知識でしかわからなくとも、苦しみは少しは和らぐ威力をもってます。
(そりゃ、ばあいによっては、無理な場合もあるときもあるでしょうけど、)

ところで、
やっぱり、長崎の晩霞』さん、だったんですね。

>>別のHNはるん吉さんの大嫌いなものもありますよ。

ええ、解ってました。
実はね、最初のこのセリフ↓で、とっくにわかっちゃってましたよ。😆
>>るん吉さん、これ変じゃねぇ

それと、後に続く文の内容ですね。

ここで、ああいう事を書くのは、超まじめに出てきた時のあなた。しかいないですやろ?

でも、貼り付けてくれたのも、助かったし、長文も嬉しかった。


ほんま、有難うです!


tapirさんへ (45035)
日時:2021年10月22日 (金) 12時58分
名前:るん吉

>>私のつたない体験が、何かお役に立つのでしたらありがたいと思います。長文になる可能性があるので別のスレッドを立てることも併せて考えます。 少しお時間をください。


有難うございます!

もちろん、tapir様の気の向いたときに、

1カ月後でも、2か月後でも、いいんです
また、1行づつでも、何回かに分けても
(一気に書くのは、大変だし、お手間をとらせてはなんですから、)

ホンマ、気楽に書いてくださればそれだけで、ありがたいです🤩



るん吉さん、ちょこっと気になること (45048)
日時:2021年10月22日 (金) 20時34分
名前:つれづれ

〈ただ私が
『肉体なし、現象無し、実相のみ実在」が好きなのは』
そのままずばり、
現象の苦しい出来事が「無い。」(という教え)だから。です。〉


現象無し、が気に入ってるとのこと。
であれば〈現象の苦しいことが無い〉だけでなく〈善きこと好ましきものも無い〉でなくちゃいけませんよね。

流れる川の水のように、岩があれば避けて通り、急流にあってはサーと流れ去り、川幅の広い黄河のように所では悠然と流れたいものです。

とかく生長の家では気に入らないものは消えてほしい、となり消す手段として実相を見るというようになっているのではないか。現象無しであれば肉体があるばかりに働く心というものも無い。

気に入らないことがあると判断する心でなく、岩をただ避けるために五感があり、行動が自ずと為されるのが本来の生き方のようです。

そこを指し示す言葉が、〈父母未生以前の本来の面目〉と言われるものです。父母あったればこその肉体です。生んでくれた父母さえまだ生まれていないときに存在していたもの、それが私達の実相であると佛は説きました。

〈ここで、ああいう事を書くのは、超まじめに出てきた時のあなた。しかいないですやろ?〉

私の投稿をまじで読んでくれる人はほんの数人でしょう。お互い今生での大成目指し進みましょう。
有難うございました。

つれづれさんへ (45061)
日時:2021年10月23日 (土) 19時52分
名前:るん吉

>>つれづれさん
>>現象無し、が気に入ってるとのこと。
であれば〈現象の苦しいことが無い〉だけでなく〈善きこと好ましきものも無い〉でなくちゃいけませんよね。
流れる川の水のように、岩があれば避けて通り、急流にあってはサーと流れ去り、川幅の広い黄河のように所では悠然と流れたいものです。
とかく生長の家では気に入らないものは消えてほしい、となり消す手段として実相を見るというようになっているのではないか。現象無しであれば肉体があるばかりに働く心というものも無い。

気に入らないことがあると判断する心でなく、岩をただ避けるために五感があり、行動が自ずと為されるのが本来の生き方のようです。<<


つれづれさんは、いわゆる哲学的思索をずっとしてきた人ですよね?

生長の家も、その一環で、知ったんやと、推測します。

私は、そんな立派なもんや無いし、

人生を幸せにしたい。自分の欲することを叶えたい。
から、入ってるし。

>>つれづれさん
>>お互い今生での大成目指し進みましょう。
有難うございました。<<


こちらこそ!ありがとうございました!


片手落ち (45122)
日時:2021年10月25日 (月) 16時52分
名前:管理人さんへ

名前:トキ

他人の投稿を本人の許諾なく、自分の本格的なコメントも書かずにコピペするのは、問題です<


ナガイナガイコピペをコメント欄にする者に警告無し❓


ニューソートのこと (45134)
日時:2021年10月26日 (火) 00時36分
名前:tapir


「ニューソートの件」と題して、則天去私様が10月23日のブログに書いてくださっています。
http://tecnopla1011.blog.jp/archives/85618336.html

☆☆

「創造主」なる神は生長の家の説かれる実相の神ではないのであって、その翻譯された大正13年頃には『國譯大藏經』を讀まれていた、心と佛と衆生の三無差別を説いたのと同じ説であったことに共鳴したのです。だが「ニュ−ソ−ト」は現象界を創ったのは創造する神であった。そこが根本的な違いなのです。

☆☆

核心をついた言葉だと思います。

私自身、ニューソートの説く神についてよく知らないので、十分に消化できていませんが、

『「ニューソート」は現象界を作ったのは創造する神であった』

を、谷口雅春先生の御著書を丁寧に読んでいらっしゃる則天去私様のお言葉として、素直に受けとめたいと思います。

神と人間がひとつであること。それどころか生きとし生けるものがひとつであること。を (45136)
日時:2021年10月26日 (火) 04時04分
名前:再揚

「いつの日か、それも間もなく、神と人間がひとつであることを、それどころか生きとし生けるものがひとつであることをすべての宗教が教えるだろう。1889年にチャールズ・フィルモアとマートル・フィルモアが創建したユニティ教会が教えているように。
 ユニティ教会はすばらしい霊的な運動だが、世界の主要宗教と並ぶほどには広がっていない。なぜか?人類の大半は分離という信念を捨てようとしないからだ。」

「神との対話」の著者ニール・ドナルド・ウォルシュ著
「神が望むこと」122p

違いを見る人、共通点を見る人 (45140)
日時:2021年10月26日 (火) 10時38分
名前:tapir

二十歳の頃、友人に言われました。

「あなたは人と違うところを探している。私は人と共通するところを探すようにしている」

友人のことばは強く心に響き、それから人と共通するところを探すことを、考え始めました。

宗教も、共通するところを探せば「ひとつ」。 それが實相なのですが、違うところを探せば「分離」が意識される。

谷口雅春先生は霊界篇で「差別心より観たる霊界」(頭注版第9巻)「平等心より観たる霊界」(第10巻)を説かれています。

根本は、實相は、「平等心」「みな一つ」ですが、現象世界に生きている限り「差別心」、「分離」を意識することも求められます。「分離」しているように見えても「一つ」。それがこの世を生きるということかと…。

實相が完全円満なら、何もしなくてもよさそうなのに、
音楽、美術、仕事、生活で個別の表現をしたくなる。
個別の表現には、音の違い、色の違い、形の違いが必要。

しかし、表現の根底を支えるいのちは「一つ」。

人間は霊妙不思議な存在ですね。



 (45141)
日時:2021年10月26日 (火) 13時41分
名前:うーん。



谷口 雅春 先生

明治26年11月22日、兵庫県八部郡烏原村(現在の神戸市兵庫区)にご生誕。

大正3年、早稲田大学英文科を中退、求道生活に入られる。

やがて「人間・神の子」善一元の世界、万教帰一の啓示を受けられ、この真理を 万人に伝えたいとの悲願の下に個人雑誌「生長の家」誌を昭和5年3月に創刊。

以後、同誌の普及に連れ、後に宗教法人「生長の家」に発展する。

1949年6月6日:「ニューソート」系のメンタル・サイエンスより「Doctor of Phil osophy, Ph.D.」の称号を授与される。

1963年5月15日:「ニューソート」系のリリジャス・サイエンス学院(カリフォルニア州ロサンゼルス)より、
「Doctor of Humanities」の称号を授与される。

昭和60年6月17日、天寿を全うされ、ご昇天(満91歳)。



う〜ん、
この上記文章のどこが「ニューソートの宣伝」だと読めるのか、
わからない。

 (45152)
日時:2021年10月26日 (火) 23時25分
名前:tapir

うーん様

うーん、ですね。

「ニューソートの宣伝」とまでは思いませんが、

(「生長の家創始者」)
https://www.jp.seicho-no-ie.org/about/outline/founder/

「生長の家創始者」(谷口雅春先生)説明全文のうち、年号があるのは6か所。(文頭に5か所、文中に1か所)。そのうち、2か所が、ニューソートの話。残り4か所は、ご生誕、大学中退、生長の家誌創刊、ご昇天。

この書き方だと、ニューソート以外の谷口雅春先生のご事績が省略され過ぎと、見えなくもない。

神戸から東京に移転したこと(1933年)、原宿に本部会館を建設したこと(1954年)、生長の家総本山建立(1978年)などは、現在の教団にとって、ニューソートとの関わりよりも、世間に知らせたくないことなのか、と思えなくもない。

まあ、これが現教団のスタンスなのでしょう。

ニューソート(アメリカの光明思想系)を肯定される方々へ (45157)
日時:2021年10月28日 (木) 01時02分
名前:つれづれ

内外打成一片の 「 今 此処 」


「 汝の内 」 とは 「 外 」 に対する 「 内 」 でもなければ、

肉体に対する 「 心 」 でもないのである。

「 心 」 に幸福を思い浮かべたら、

その人は既に天国にいるのも同様であるから、

キリストは 「 神の国は汝の内にあり 」 と云ったのだと云うように解するのは

余りにも浅い解釈である。

「 汝の内 」 とは 「 外 」 に対するものではなく、

「 内外打成一片の生命 」 の端的(たんてき)であり、実相である。

「 内外打成一片 」 の “ 今 此処 ” に真に神の国があり、天国がある。

身心脱落・脱落身心である。

身心一切が十字架にかかるのである。

ニュー・ソートにはこんな境地はない。

『 生長の家 』 誌 昭和二十三年二月号

十七日の法語  谷 口 雅 春 先 生
*******************************************************************************
「内外打成一片」これは色々な処で説かれているものでありますが、生長の家では「無門関解釈」の第一則「趙州狗子」に説かれています。

そこには「観るものと見られるものとの一體の世界」が説かれ、「此の世界が此の儘神一元の世界、此処がこの世の此の儘極楽、天国じゃと云ふ真理が解るようになる」と説かれています。

『狗子の中に佛性が入り込んんで生きていると云ふやうな「佛性」と云ふものもないと云ふ時、「狗子に佛性ありや無しや」のそんな二元論は否定されて了ったのである。』と説かれています。

『根本は、實相は、「平等心」「みな一つ」ですが、現象世界に生きている限り「差別心」、「分離」を意識することも求められます。「分離」しているように見えても「一つ」。それがこの世を生きるということかと…。』と言われた方がいました。

この「無門関解釈」の第一則「趙州狗子」をよくよく読まれますようお薦めします。
ニューソートとはまるで違う生長の家、肉体に神の命が宿ると言うような二元論ではない生長の家の教えが理解されますように。


 (45162)
日時:2021年10月28日 (木) 22時55分
名前:tapir

>ニューソート(アメリカの光明思想系)を肯定される方々へ<

生長の家本部もホームページでは「ニューソート(アメリカの光明思想系)」に肯定的ですね。

創始者・谷口雅春先生のご功績の紹介で、6項目のうち2項目がニューソートのことですから。

「肯定」が、

ニューソート(アメリカの光明思想系)=谷口雅春先生の教え(生命の實相哲学)だと考える

ことを指すなら、私はそう思っていません。ほとんどの方が私と同じではないかと思います。谷口雅春先生の實相哲学はニューソートよりも哲学的に深く、宗教界では稀有な思想だと思います。体系的に世界中の宗教と比較したわけではないので、あくまで私の感じ方ですが。

私がユニティの歌をBeautiful song!とほめたのは、教えの詳細を学び、それを肯定したからではありません。
様々な肌の色の人々が男性も女性もともに手を取り合って歌っている動画を見て、心をゆすぶられたからです。歌を歌う人たちから、ひとつのいのちの兄弟であることを、ともに歌う喜びが伝わってきました。理論ではなく、神の愛が満ちているのを感じられました。オリンピックで、異なった国の人々が、競技を終えて肩を抱き合うのを見たときの感動とも、似ています。

つれづれ様は、生長の家の一般練成会に参加されたことがありますか。生長の家の練成会では、練成会の最後に、参加者全員が手をつないで、使命行進曲を歌います。ユニティの画像を見て、それを思い出しました。理屈ではなく、集っている人々が、神の愛を讃えて互いに一体であると感じている姿に感動したのです。

ふとこんなことを思いました。(本流派の皆さんに、馬鹿にされそうですが)

もし使命行進曲を歌うとき、私の左に破邪顕正様がいて、右に谷口雅宣先生がいらしたとしたら、私はどうするだろうかと。私は喜々として、お二人と手をつないで使命行進曲を歌うと思います。

その瞬間、教えの微細な違いなどは、考えません。お互いに、同じ神さまから生まれたひとつのいのちだという思いでいっぱいになり、嬉しさが満ちあふれるだけです。

私が生長の家の神を大好きなのは、神さまの無限の愛を教えていただいたからです。

別々のいのちと見えた相手と自分が、ひとつのいのちだったと実感したとき、なんともいえない喜びに満たされます。すべての人が、神様の愛で結ばれたひとつのいのちだから、それが本来の神の子の姿だから、それを思い出してうれしくなるのだと思います。


無門関解釈の「冷暖自知せよ!」ですね。自分の体験をベースに語ることを心がけたいと思います。

>ニューソートとはまるで違う生長の家、肉体に神の命が宿ると言うような二元論ではない生長の家の教えが理解されますように。<

最近、ニューソートの本をほとんど読んでいないので二元論であるかどうか「冷暖自知」していません。従ってニューソートの思想について、私自身の考えは、今のところ特にありません。

ユニティーが実行している、ともに神を讃えて歌うこと、人のために無償で祈ること、インターネットで日々良い言葉を発信すること、それぞれ良いことだと思い、そう述べただけです。

私は、つれづれ様のように雄弁でないので、申し上げたいことが伝わりにくいかも知れません。どうぞ、読み流してください。

破邪顕正様の「令和4年版 『ひかりの言葉』」入手後の感想について (45169)
日時:2021年10月29日 (金) 23時11分
名前:tapir


破邪顕正様氏が、令和4年版 『ひかりの言葉』を入手され、感想を述べていらっしゃいます。破邪顕正氏は、とても愛の深い方だと思います。私には破邪顕正氏のように行き届いた関心を持ち続けることはできません。このように詳細に調べて、知らせていただいた情熱に脱帽いたします。

私は、以前の投稿で、谷口雅春先生の御文章が10日分(全体の3分の1)あるだろうかと、書きました。破邪顕正様によれば、谷口雅春先生のご文章を原典としている脇文が9カ所(9日分)あるそうです。

「令和4年版 『ひかりの言葉』(宗教法人生長の家発行)を手に入れて痛感したことNEW (13786)」
https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=3352


破邪顕正氏の、ご感想を読んで、

>谷口雅春先生のご文章であるということを表記する方法はあった<

というお気持ちは、分かる気がいたします。(現物を見ていないのではっきりと断定できませんが。)

>やはり、尊師のご存在、お名前をなるべく表に出したくない、隠したいという思惑、意図があったからとしか思えません。<

「尊師のご存在、お名前をなるべく表に出したくない、隠したいという思惑、意図があった」については、「思惑、意図」とまで言えるのかどうか…。

そういうスタンスを取り続けていることの一環だろうと思います。それは創始者・谷口雅春先生を強調しないというスタンスです。その「スタンス」に問題があると破邪顕正氏は思われるのでしょう。

私も、前に述べたように、長く続いた伝統宗教(仏教、キリスト教)が、教祖である釈迦牟尼仏やイエス・キリストを特に強調するように、生長の家も創始者・谷口雅春先生を、次代総裁(谷口清超先生)よりも強調する方が自然なことだとは思います。

当代の総裁が「神様のラッパとして」、創始者と等しい指導ができるという生長の家独自の「組織教学」には、何となく疑問を持っています。これは新興宗教の特色なのでしょうか。それとも生長の家独自の教学なのでしょうか。

宗教指導者(当代の総裁)は、教祖(創始者)の教えを、自分をあまり前面に出すことなく、淡々と伝える人であってよいのではないかと思います。

組織教学の憂鬱 に関して (45170)
日時:2021年10月30日 (土) 01時04分
名前:つれづれ

《当代の総裁が「神様のラッパとして」、創始者と等しい指導ができるという生長の家独自の「組織教学」には、何となく疑問を持っています。これは新興宗教の特色なのでしょうか。それとも生長の家独自の教学なのでしょうか。》

***************************************************************************************

「自我を完全に摧くこと」と題されて或る365章シリーズに在ります。曰く

「本当に肉体の傲慢が消え去った時、肉体はイエスの如くこう言うであろう。『神よ、われみずからにては何事をも為し得ません。わが語ることはわが語ることではありません。わが内に宿るあなた(神)が語らしめ給うのです。
私は唯ラッパに過ぎません。私にはなんの知恵もありません。私にはなんの力もありません。私にはなんの生命もありません。〈略〉』

こうして神にすべての栄光と誉とを捧げ得るとき、本当に自我がくだけたのである。自我がくだけ自我が空無となったとき、はじめて神があなたの生活を全領するのである。」

*************************************************************************

自我砕け「私は唯ラッパに過ぎません」と言い得るときはじめて神があなたの生活を支配すると言われています。
これは万人が斯く言いうる人になれと言われているのです。なんの末代の総裁副総裁のみならんか、全信徒斯くなれとの言葉でしょう。
雅春先生のみがラッパである、この言い分こそ、雅春先生の言葉を無視した、とんでもない言いがかりと思います。組織教学の憂鬱などとは言いがかりも甚だしいものです。

本来の教えに帰れという人が、このように教えの取り違えをしていてどうするのでしょうか。
このようなことがあるから、私はいつも本来の教えとは何かと疑問を呈しているのです。

日めくりの言葉がどうのと言われるのもいただけません。
『生命の實相』に全て説かれているとしながら、同じ文言を読みなれると惰性に流されるきらいがある、として日々新たに法語として書き綴られたものを編集し、365章シリーズとして、毎日読むことが出来るよう届けられているのです。雅春先生の言葉で日々の法語を読みたいのでしたら、それで済むことでしょう。

 (45173)
日時:2021年10月30日 (土) 07時13分
名前: おもうおもうおもう‼                                                                                                                         .                                                                     



その通りです!!
そういうことです!!!
イエス・キリストも谷口雅春大聖師も、
そのことの肝要さを説かれています。


つれづれ様の文章の感想 (45174)
日時:2021年10月30日 (土) 10時09分
名前:tapir

つれづれ様の文章は、実相論において、すべてごもっともだと思います。

しかし、現実の組織運営について、どうお考えなのでしょうか。今の、生長の家組織のあり方が理想的だと思っていらっしゃるのでしょうか。私はその点を書いているのですが、つれづれ様は、現象処理には、ご関心が無いようですね。

ムーミン谷の住民で、いつも「無駄じゃ、無駄じゃ」と唱えて座っている哲学者を思い出します。

個性の違いですから、何を書かれるのも自由ですが、人の質問、疑問をはぐらかすだけなら、なんの悟りかと疑問を持たずにいられません。

ご飯を食べたら茶碗を洗う。つれづれ様は、ご自分の茶碗を洗っておられますか?

つれづれ様 ラッパではなくスピーカーでした (45178)
日時:2021年10月30日 (土) 13時31分
名前:tapir

つれづれ様


ラッパではなくスピーカーでした。元の文章の確認不足です。失礼いたしました。


☆☆

「生長の家大神――総裁・副総裁――御教え」と云う教えの通過する系列のうち、その総裁でも、現在の生長の家総裁たる私が死んだら生長の家も駄目になるであろうと考えるのは間違いであります。私が死んでも、私は一種のパイプでありスピーカーに過ぎないから、又次に私に嗣いでスピーカーとなる総裁というのが出来まして、その人が私と同じような役目につき、一層新型の素晴らしい良質のスピーカーになって、私よりも上手に教えを宣べつたえ教化の体制を整備すると云うことになるのでありますから、そのことについては心配がいらないのであります。既に清超先生が私に劣らず教化の力を発揮しておられまして、今後ついに私を凌駕するようになることは必然であります。

(『“新しい文明”を築こう 上巻 基礎編「運動の基礎」』 谷口雅宣監修)pp80〜81)

☆☆

ラッパをスピーカーに訂正いたします。


『[次の]総裁が「神様のスピーカー」として、谷口雅春先生を凌駕するという生長の家独自の教えにおける、「私よりも上手に教えを宣べ伝え教化の体制を整備する」に関して、疑問を持っています。

谷口雅春先生のご期待は、十分に理解いたします。尊重したいと思います。しかし、3代目になって、礼拝対象に手を加えられ、教化の体制が弱体化して、組織がどんどん縮小するという、谷口雅春先生の「スピーカー」の教えを実行した結果を、どう考えたらよいでしょう。』

ということです。


つれづれ様のご意見は、むしろ、谷口雅春先生の上記の教えを否定していませんか?

>これは万人が斯く言いうる人になれと言われているのです。なんの末代の総裁副総裁のみならんか、全信徒斯くなれとの言葉でしょう。
雅春先生のみがラッパである、この言い分こそ、雅春先生の言葉を無視した、とんでもない言いがかりと思います。<

スピーカーでいらっしゃる総裁が、万人が斯くなれという神様のラッパである信徒の声に耳を傾けないで、組織が縮小していく現状を、つれづれ様はどう思われますか。

 (45179)
日時:2021年10月30日 (土) 14時01分
名前:つれづれ

〉〉つれづれ様の文章は、実相論において、すべてごもっともだと思います。〈〈

引用した雅春先生の言葉が生活から離れた〈実相論〉などという〈論〉なんですか?
そういった認識、受け取りをされてるから、前投稿で
〈谷口雅春先生の實相哲学はニューソートよりも哲学的に深く〉と生長の家の教えを哲学の一つであるかの受け取り方を表明されるのでしょう。

〉〉しかし、現実の組織運営について、どうお考えなのでしょうか。今の、生長の家組織のあり方が理想的だと思っていらっしゃるのでしょうか。私はその点を書いているのですが、つれづれ様は、現象処理には、ご関心が無いようですね。〈〈

信心は自分の心の問題です。だから「心佛衆生三無差別」と説かれ、外境が佛の姿を現しても衆生の姿を現しても、共に己の心に浮かんだものとして、相手にせず自己本来の心で居よと勧めているのです。
「現象処理」などと相手を変えようとすること自体が、自分の心に浮かんでいる外境の映像を実在として扱うことになっていて、生長の家の教えの外だと思います。

先だってある地方講師准教務でありましたが亡くなりました。聖使命会費の減少に伴うものか、ある寄付を募る運動を教区でしているのですが、年間300万円を3,4回毎年されました。皆さんが嫌う今の生長の家に対してです。

ご夫婦で生長の家の信仰をされ、ご主人が先立たれましたが子供さんに恵まれず、貰い子されたようでした。前強化部長と懇意でありましたので葬儀にも参列されていました。葬儀はそのお子さんにより執り行われました。そして挨拶でこのように皆さんに良くして頂き嬉しいことと感謝申し上げます、と言われていました。当然雅春先生時代からの信徒です。でもあなた方のように今の生長の家を嫌うような生活はしていませんでした。

私の妻も昭和49年に光明実践委員になり、以来地方講師教化員、准教務、教務として今の組織にいます。教務の試験に受かったときにその講師が、あなた教務になったんだってと喜んでくれたと言ったことが在ります。今の教団のすることに善悪をつけずにいる信徒もいることが事実です。

〈〈ムーミン谷の住民で、いつも「無駄じゃ、無駄じゃ」と唱えて座っている哲学者を思い出します。〉〉
〈〈人の質問、疑問をはぐらかすだけなら〉〉

私には無駄なことをしているとしか掲示板活動は見えません。自分が何をするかだけが人生ですから、人のことを非難するような意味での言論活動は信仰とは思えないです。証拠には10年掲示板活動がされて、去る人のほうが来る人より多いという現実です。人と人とが触れ合う現実の生活にしか生きる場所はありません。ネットの世界がいくら繁盛しても、悩み多き人の覗き見が減ることはないです。

youtubeに雅春先生や有名講師の音源がアップされても再生回数は非常に少ないです。投稿された文章はどこまでいっても、文字に表されたもので、意味は自己の心で変換されたものになってしまいます。雅春先生のご文章を引用しても単なる実相論だと片付けるようになります。生活を今此処でする、という生活者の視点が抜け勝ちです。

〈〈ご飯を食べたら茶碗を洗う。つれづれ様は、ご自分の茶碗を洗っておられますか?〉〉

自分だけで食事するときは洗いますよ。平素は妻がし、私は生活費を稼ぐ、当たり前でしょう。
専門の坊さんが禅修行するときには自分の応量器で食するのですから自分で洗うのが当たり前、自分の目の前に現れたことに対し当たり前の行動をする、のが「平常心是道」と言われることであります。

同じ投稿文への感想がそうそうと肯定する人、人の質問、疑問をはぐらかすだけ、と受け取る人と色々です。平常心に成れば成る程書き手の意図がよく解ります。自分が批判的な文を書くことには抵抗がなく、批判されたと感じるものには違和感を持つ、この傾向はこの掲示板の登場者によく観られることです。

眼の前の現実が違うのに取ってつけた禅語の引用こそ違うんではないかと。
教団衰退という現実が目の前にあり、かっての生長の家のようになりたいというのであれば、知り合いの困っている人に伝道したらいいだけのこと、その意味では学ぶ会のほうがましです。

何方かがトキグループの匂いがするなんて書いていましたがそんな感じがしますね。よく似ています、私の文言を読んだときの反応が。

つれづれ様のご意見に賛同いたします (45181)
日時:2021年10月30日 (土) 20時21分
名前:tapir

つれづれ様

誠実にご返信いただいたことに、心より感謝申し上げます。

全体に得心いたしました。

下記の部分に、特に賛同いたします。

>ですから、上に立つ人、信徒おしなべて二代目三代目となりラッパになる必要のない人たちで教団が構成された結果、伝道というものを忘れたのではないかと考えます。この教団構成員に本流派も教団派も中間派も入るのは言うまでもありません。ですので今のように現教団本部のみに責任があるという考えは持ちません。

結論として、生長の家衰退の原因は、すべての信徒と云っていいでしょうが、純粋に信仰に生きようとする人がいなかったということでしょう。求める人も切羽詰まったものの救いを求める人が少なく、また答える人のラッパ度が濃くなかったということでしょうか。<

私も、伝道が大切なことに同感です。そして、たった一人でも、純粋に信仰に生きようとする人がいれば、すべてが良い方向に変わると、私も思います。

先の投稿への返事がありませんでしたので、一旦削除しました。で話の筋が通りませんので再掲します (45182)
日時:2021年10月30日 (土) 20時27分
名前:つれづれ

〉〉『[次の]総裁が「神様のスピーカー」として、谷口雅春先生を凌駕するという生長の家独自の教えにおける、「私よりも上手に教えを宣べ伝え教化の体制を整備する」に関して、疑問を持っています。

●教えではなく雅春先生の現状認識が甘かったということでしょうか。

〉〉谷口雅春先生のご期待は、十分に理解いたします。尊重したいと思います。しかし、3代目になって、礼拝対象に手を加えられ、教化の体制が弱体化して、組織がどんどん縮小するという、谷口雅春先生の「スピーカー」の教えを実行した結果を、どう考えたらよいでしょう。』

つれづれ様のご意見は、むしろ、谷口雅春先生の上記の教えを否定していませんか?

●〈谷口雅春先生の「スピーカー」の教えを実行した結果〉でなく、先に引用した〈ラッパの教え〉を上から末端信徒まで実行しなかったから。〈無我の体得の教え〉の実践がされなかったから。愛の実践がお好きなあなたにしても、自他一体、困る人とあなたとの関係〈人と人との間、にのみ人間は存在する〉にラッパになるの実践が為されなかったということ。

〉〉スピーカーでいらっしゃる総裁が、万人が斯くなれという神様のラッパである信徒の声に耳を傾けないで、組織が縮小していく現状を、つれづれ様はどう思われますか。

●総裁がラッパになっているかは知りません。結果が出ないのですから。
〈神様のラッパである信徒〉なんて殆どいなのでは。ラッパとは無我の人、なんの混じ気けのない透通しの身心、脱落身心を得た人のこと、内外打成一片になった人、先に引用した通りです。

人としての道を忘れた戦後の新人類の烏合の衆を個人の尊厳とする民主主義下で、まともな人類愛が成り立たず、おかしな社会が出来るのと同様、人の欲を満たすことが信仰であるとの認識では、ラッパになろうとする人はほとんど皆無であったでしょう。どこかに書きましたが飛田給職員として喜びに満ちて努めに励んでいたが、この30年の間に気の滅入る状態になっていた。が学ぶ会の練成会に出てもとの喜びが湧いてきた、という体験をさもすごいことであると発表されていた。気分の上で昂揚したり滅入ったりするのは人のこと、変化無常の心を持って吾が心とする人がラッパになり得ようはずがありません。

確かに悟りと言われるようなところで生きるのは難しいことです。でも何らかの絶体絶命状態に置かれた人々には、我を張る余地がなく教えを聞き無我状態を得た人々がいたのも事実でしょう。

ですから、上に立つ人、信徒おしなべて二代目三代目となりラッパになる必要のない人たちで教団が構成された結果、伝道というものを忘れたのではないかと考えます。この教団構成員に本流派も教団派も中間派も入るのは言うまでもありません。ですので今のように現教団本部のみに責任があるという考えは持ちません。

結論として、生長の家衰退の原因は、すべての信徒と云っていいでしょうが、純粋に信仰に生きようとする人がいなかったということでしょう。求める人も切羽詰まったものの救いを求める人が少なく、また答える人のラッパ度が濃くなかったということでしょうか。

 (45436)
日時:2021年11月19日 (金) 19時34分
名前: 一考の御参考になれば良いと、紹介します。                                                                                                                        .                                                                     

日時:2021年10月26日 (火) 13時41分
名前:うーん。


谷口 雅春 先生

明治26年11月22日、兵庫県八部郡烏原村(現在の神戸市兵庫区)にご生誕。

大正3年、早稲田大学英文科を中退、求道生活に入られる。

やがて「人間・神の子」善一元の世界、万教帰一の啓示を受けられ、この真理を 万人に伝えたいとの悲願の下に個人雑誌「生長の家」誌を昭和5年3月に創刊。

以後、同誌の普及に連れ、後に宗教法人「生長の家」に発展する。

1949年6月6日:「ニューソート」系のメンタル・サイエンスより「Doctor of Phil osophy, Ph.D.」の称号を授与される。

1963年5月15日:「ニューソート」系のリリジャス・サイエンス学院(カリフォルニア州ロサンゼルス)より、
「Doctor of Humanities」の称号を授与される。


昭和60年6月17日、天寿を全うされ、ご昇天(満91歳)。



う〜ん、
この上記文章のどこが、
「ニューソートの宣伝」だと読めるのか、
わからない。




>日時:2021年10月26日 (火) 23時25分
名前:tapir

うーん様

うーん、ですね。

「ニューソートの宣伝」とまでは思いませんが、



「生長の家創始者」(谷口雅春先生)説明全文のうち、
年号があるのは6か所。(文頭に5か所、文中に1か所)。
そのうち、2か所が、ニューソートの話。
残り4か所は、ご生誕、大学中退、生長の家誌創刊、ご昇天。

この書き方だと、
ニューソート以外の谷口雅春先生のご事績が省略され過ぎと、
見えなくもない。

神戸から東京に移転したこと(1933年)、
原宿に本部会館を建設したこと(1954年)、
生長の家総本山建立(1978年)などは、
現在の教団にとって、ニューソートとの関わりよりも、
世間に知らせたくないことなのか、と思えなくもない。

まあ、これが現教団のスタンスなのでしょう。<



>破邪顕正様の「令和4年版 『ひかりの言葉』」
入手後の感想について

日時:2021年10月29日 (金) 23時11分
名前:tapir


破邪顕正様氏が、令和4年版 『ひかりの言葉』を入手され、
感想を述べていらっしゃいます。
破邪顕正氏は、とても愛の深い方だと思います。
私には破邪顕正氏のように行き届いた関心を持ち続ける、
ことはできません。このように詳細に調べて、
知らせていただいた情熱に脱帽いたします。


私は、以前の投稿で、谷口雅春先生の御文章が10日分(全体の3分の1)あるだろうかと、書きました。破邪顕正様によれば、谷口雅春先生のご文章を原典としている脇文が9カ所(9日分)あるそうです。

「令和4年版 『ひかりの言葉』(宗教法人生長の家発行)を手に入れて痛感したことNEW (13786)」
https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=3352


破邪顕正氏の、ご感想を読んで、

>谷口雅春先生のご文章であるということを表記する方法はあった<

というお気持ちは、分かる気がいたします。
(現物を見ていないのではっきりと断定できませんが。)


>やはり、尊師のご存在、お名前をなるべく表に出したくない、
隠したいという思惑、意図があったからとしか思えません。<


「尊師のご存在、お名前をなるべく表に出したくない、隠したいという思惑、意図があった」については、「思惑、意図」とまで言えるのかどうか…。

そういうスタンスを取り続けていることの一環だろうと思います。それは創始者・谷口雅春先生を強調しないというスタンスです。
その「スタンス」に問題があると破邪顕正氏は思われるのでしょう。<

―――――――――――――――――――――――


tapirさんも、

「教団のスタンス」だと、予測されていますが、

大客観で、逆に言いますと、
そういった疑いの目で見るというのが、
宗教法人『生長の家』に反目している人々の、
取り続けている一環したスタンスだとも言えるでしょう。


そうは思われませんか。


 (45471)
日時:2021年11月21日 (日) 12時22分
名前:tapir

合掌、有難うございます。

コメントをいただき、有難うございます。

>>それは創始者・谷口雅春先生を強調しないというスタンスです。(tapir)<<

>そういった疑いの目で見るというのが、
宗教法人『生長の家』に反目している人々の、
取り続けている一環したスタンスだとも言えるでしょう。

そうは思われませんか。<

スタンス:立場、態度、構え

そうですね。「スタンス」という言葉は、意識的にそういう立場を取るという意味になるので、この場合適切でなかったかと、思い直しました。当事者は、意識的ではなかったと思うからです。なりゆきで、そうなったのでしょう。

どんな場合でも、現象の背後にある善一元の実相を信じることが第一ですね。


「スタンス」は、(谷口雅春先生の決められたことを軽んじる)「態度」といったつもりでした。(軽んじる)現象的な実例は、以下の通りです。

@創始者が根本経典とされた『生命の實相』が頒布されない状況に改善の努力が見られない。
A創始者の『四部聖経』が頒布されない状況に改善の努力が見られない。『大自然讃歌』『観世音菩薩讃歌』代替使用で可とする。

B実相軸の前に、御社、七重搭を置いて礼拝させる(實相礼拝の言葉を変える)
C信徒の合意を得ることなく総本山の御祭神を変える(住吉大神の御札を無くす)


@は外圧による不可抗力だったとしても、Aはその解決法に疑問があります。特に、BCの教義の根本にかかわる重要な変更を信徒間の合意を得ないで、独断で実行したのは、大いに問題があると思います。

そのことを、「谷口雅春先生を強調しないスタンス」と表現したのですが、分かりにくければ、

「信徒の合意を得ないで、創始者・谷口雅春先生の教えの根本を次々に変える」

という言い方にしたいと思います。


一方、私は宗教法人「生長の家」に、「反目」という強い感情は、今はありません。

反目:[名](スル)互いににらみ合いの状態にあること。仲が悪いこと。(goo辞書)

何年か前までは「反目」に近い反発心がありました。しかし、今は運動方針の話などを聞いても「無意味なことをやっている」と思うだけで、心は動揺しません。

最近は、友人を通じて知らされる教区の皆様のご献身の様子に感動することも多いです。「生長の家」が教区の信徒の皆様を含むのであれば、生長の家信徒の皆様は、本当に素晴らしいと思います。信徒の皆様のご献身の足を引っ張るような、生長の家本部の独断専行による失策の数々を、残念に思います。

日訓を例にあげれば、私は生長の家本部の配慮が足りなかったと思います。しかし、破邪顕正氏が言うような邪悪な思い≠ェ、失策の背後にあったとは思いません。「谷口雅春先生を学ぶ会」の副代表・破邪顕正氏の、邪悪な思い≠ェあると決めつける姿勢は「反目」と言えるでしょう。


私は、谷口雅宣先生も、生長の家本部の人々も、みんな善意の人たちばかりだと思っています。残念なのは、自分たちのしたことがもたらす結果を見通す能力が不足しているところです。それと同時に、谷口雅宣先生や本部の皆さまは、人智では計り知れない、運命から与えられた役割を演じているのだと思います。

最近は、そういう運命を受容している人々に、傍から何を言っても無駄だと、半ばあきらめ気味です。参考になるならと、それでも、お願いしたいこと、要望を述べることはあると思いますが。

今後は、皆様の実相顕現の祈りをいっそう深めて、結果を神様に全托するよう、努力したいと思います。

再拝


 (50505)
日時:2022年05月08日 (日) 00時26分
名前:通行人

>緊急速報・谷口雅春先生のご尊名を隠蔽・詐称した教団日訓令和4年版の監修者谷口雅宣、発行者 雪島達史ら及び発行所現教団は懲役刑を含む処罰を受けるべき容疑者として刑事告発されました!! (47329)

日時:2022年01月17日 (月) 12時02分
名前:告発

谷口雅春先生に帰りましょう・第二掲示板より<




ハンネ告発さんによりますとtapirさんの上の最終投稿時にはすでに、ナント「刑事告発」なるものがされていたようですねぇ。
事実かどうかはわかりませんがそう投稿されています。

教団日訓には、谷口雅春先生の御言葉をダイレクトにお載せすることは可能だったのでしょうか。可能では無かったのでしょうか。

 (50525)
日時:2022年05月08日 (日) 22時58分
名前:可能か否か

大事な問いでしょう

谷口雅春先生のお名前を出しにくい空気が影響を与えた可能性があるかも知れません (50541)
日時:2022年05月09日 (月) 20時49分
名前:tapir

>教団日訓には、谷口雅春先生の御言葉をダイレクトにお載せすることは可能だったのでしょうか。可能では無かったのでしょうか。<

あくまで推測ですが…。

令和4年度の日訓は、過去の日訓のお言葉を再掲載していました。過去の日訓の谷口雅春先生の元々のご文章の出典について著作権者が生長の家社会事業団かどうかあいまいである場合、社会事業団から「無断使用!」だとの抗議の声があがるかも知れないと心配して谷口雅春先生のお名前をはっきり出したくないという意識が、日訓作成者に影響を与えたかも知れません。

こういうわけで、社会事業団の圧力が、谷口雅春先生のお名前のあるお言葉をダイレクトに掲載しにくい空気を創り出し、その空気が影響を与えた可能性があるかも知れません。

社会事業団と光明思想社が

「『生命の實相』と、我々に著作権のある谷口雅春先生のご文章を引用するな!」

と、大声で叫んでいることが、教団の人々、信徒の皆さんが谷口雅春先生のご文章を使いにくい空気を醸成しているとしたら、実に皮肉なことです。

谷口雅春先生の切なるご希望、「人類に広く光明の言葉をひろめたい」を台無しにしているのが、社会事業団と光明思想社であるということになりますから。

 (50542)
日時:2022年05月09日 (月) 21時26分
名前: (50505) の通行人。尚、コピペ専門の「通行人」さんとは違います。


谷口雅春のご尊名を隠蔽・詐称した教団日訓令和4年版″とはこれ如何に?ですね。

 (50543)
日時:2022年05月09日 (月) 21時59分
名前: (50505) の通行人。尚、コピペ専門の「通行人」さんとは違います。

護法の天使さんの投稿によると団体ではなく有志の方々の告発だったということですね。
私は酷いことだと思います。
雅宣総裁も清超先生も雅春先生も。
そして我々信徒もです。



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