生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)

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『實相研鑽』第一集「生長の家の神観」より  教団、学ぶ会、どちらにも一理あるかと感ずる次第 (50241)
日時:2022年04月18日 (月) 12時43分
名前:風鈴

一人一人が住吉大神の分身  谷口雅春

神を如何に解釈するかということについて、皆さんのおっしゃることは、別に互いに衝突しないように思うんですけれども、それは、象をなでるようなもので、いろいろの観方がある。だから正面からなでる人もあれば、横からなでる人もあるし、はすかいになでる人もある、いろいろとあって、その観方が違うようだけれどもみな同じように、僕は思うんです。

で私自身のことに関しては、僕はわからないんですよ。それはね、皆さん、自分の顔は自分では見えないでしょう、ひとに見てもらわなくちゃわからない。だから他人様がそうおっしゃるのは、その人にはそう見えるのであって、その人にはそれが真実である。僕が、私はこ、ういう顔をしているはずだから、この顔のように見よと言うわけにはゆかないのであって、僕自身には見えない「私自身」のことは僕には言えないのです。皆さんがいろいろの角度からご覧になって、いろいろに見えたら、そのいろいろの姿がどれも皆、皆さんの見た私の姿であるということになると思いますね。まあそういうわけで、あまり私のことを僕自身は言わん方がよいと思います。個人崇拝になることは私は好まないのです。

だいたい神様は絶対者であるという言葉を使いますが、絶対ということは相対の言葉では表現できないのであって、言葉に現わして、これはこうだ、と言った時には、絶対を侵害して相対の世界へ引きずりおろして話しているということになるわけですから、そう言葉で表現しないところに、本当の絶対があるということになるわけであります。それで天皇のことは、天皇は天照大御神の、そのままの顕現であるというわけで、天御中主神から、天照大御神、そして天皇と、こういうふうに現れていらっしゃる。それで天照大御神のことを、報身、報いの身と書いていらっしゃったけれども、あれは、報身というのは、報いの身体というのは、たとえば、法蔵菩薩が、超歳劫あいだ修行をして、その修行の報いとして、阿弥陀仏と現れて、西方に極楽浄土をこしらえているというので、報いという字が書いてあるわけなんです。だから、そういう場合の阿弥陀仏さんは、西方極楽浄土の阿弥陀仏さんは報身の阿弥陀仏さんだけれども、天照大御神は報身という言葉はふさわしくないわけです。

それで最初に、誰かがおっしゃった、その天之御中主神が、幽之幽の神様であって、そして、その現れとして、幽の神が天照大御神であらせられると、こういうふうにお考えになればよいと思うんです。そして幽の顕の神が、天忍穂耳命とか、邇邇杵命とかいうことになって、それが天降って来られて、そして、いよいよこの現実世界の神として、すなわち現人神として、顕の神として現れていらっしゃると、そういうふうに解釈すればよいと思います。


※吉田武利氏が東京都教化部長時代の地方講師、幹部の研鑽への雅春先生の言葉
 登壇者の発言は載せていません。各自でどうぞ。

 (50242)
日時:2022年04月18日 (月) 12時44分
名前:風鈴

それで、報身、応化神、あるいは、伊藤用蔵さんがおっしゃったように、一即多、多即一というので、表にあらわすためには上から下へと三段に分けてあるけれども、實相は三身即一であるから、三段に分けないで、一緒に〇の中へ包んでしまってもいいわけで、一即多、一神即多神、一佛一切佛でありますから、法身の中にそのまま住吉大神もいらっしゃる、また塩椎神もそのまま法身の中にいらっしゃるということになっているわけなんであります。そうすると、法身即応化神ということになるわけです。そうですけれども、人間はどうも、区別して線を引いて分割したがる。そうして、その「絶対」と「現象」とでも、それを区別するために、すじをひいて、別のようにしたがるけれども、「絶対」の中に一切のものがあるわけですから、線は、われわれが現象的に理解するために、仮にひくだけのものあって、すじも何もなしに、宇宙の大神、創造の大神、そのまま、塩椎大神、住吉大神と、いうことになっているわけです。たとえていえば、この谷口を一つの宇宙とみて、谷口の身体が一つの絶対であると仮にすれば、その絶対の中に目もあれば、口もあり、鼻もあり、いろいろの働きをする存在があるわけですね。その働きの一つが住吉大神というような働きで、この世界を住吉の世界にするために、浄化するべく現れているというようになっているわけです。この住吉大神の浄化のおはたらきがキリストの再臨による審判ということになる。それですから、「黙示録」の第一章にキリストはその「口より利き剣出ず」ということが書いてありますが、剣というのは、審判すなわち切り裁く働きですね。それですから、キリストの最後の審判というのは、「非實在」が実在のような顔をしている偽ものと「真物」とを、言葉よって切り分け裁いて、偽物を、地獄すなわち「非實在」の坑の中にほうり込んで封印を施すことだと、『秘められたる神示』の中にある「最後の審判の神示」の解釈が示してあるでしょう。それにあるように、「口より出ずる利き剣」すなわち言葉の力によって、にせものなる「罪」とか「悪」とか「病」とかいう本来無いものをほろぼして、地獄すなわち非實在の火の中へ入れて無くしてしまって、そして、完全円満な實相だけを現わすようになる働きをするのが、第二の天照大御神のご出現のために宇宙を浄める住吉大神のお働きであります。これが、キリスト教では「黙示録」にあるキリストの働きであるというわけでありまして、最後の審判のキリストの働きも、住吉大神のお働きも同じであり、同じ神様であるということになっているのであります。それですから、仮に谷口なら谷口の口が、「口より利き剣出ず」と言ったって、口だけが動いてるわけじゃないので、谷口全体の生命が動いているわけでしょう。ですから、住吉大神が、そういう最後の審判の宇宙浄化の働きをなさるといっても、住吉大神が絶対者と離れて別にあって、そういう浄化の働きをしていられるというわけじゃないのであって、絶対神が宇宙全体に浄化の働きとして現れているのが、住吉大神の御顕現であるというわけです。これを一個の人間にたとえてみれば、谷口が口でしゃべっているとき、口だけがしゃべっているように見えても、口だけの働きではないわけである。第三者から相対的に見て口という部分だけを見たら、口だけがしゃべっているということにも見えるけれども、それは、そういうような面から見るから、そう見えるだけのことであります。

 (50243)
日時:2022年04月18日 (月) 12時45分
名前:風鈴

結局、この生長の家は絶対神が、「言葉の力」によって、宇宙を浄化する、換言すれば「口より利き剣出で」て宇宙の最後の浄化のために、この瞬刻限に、どうしてもこの教えの姿をもって出現する必要があったわけであります。それが仏教では、観世音菩薩が現れて、「甘露の法雨をあめふらして衆生の煩悩を滅除したまう」という働きとなってあらわれている。一切の不幸、災難、病難はことごとく「煩悩」のあらわれである。煩悩が滅除されれば一切の不幸は消える。実際、生長の家の神様は観世音の姿をあらわし給い、その御作の『甘露の法雨』をただ持っているだけでも無数の奇跡的功徳があらわれているのは皆さんご存じの通りである。生長の家が万教を否定せず万教帰一といいながら過去の宗教とまた全く違った形において、出なければならなかった理由は、今まではいろいろ準備の時代であったからです。たとえば、しゃべるためには、エネルギーもいるから飯食う働きも、胃腸の消化の働きも、準備として必要である。そういう準備時代もあったわけだけれども、いよいよその真理を口から述べ伝えて、そして非實在なる偽物の悪と病と死とを滅ぼして、真物すなわち實、相を顕わし出すという働きをしなければならないという地球世界完成の最後の時代で、こういう住吉大神の御働きとして現れているのであります。そこで住吉大神は、その現れの面から言えば誰かが表で書いて下さったあの応化神ということになって、「第二義の神様」と分類できるのですけれども、第二義というものは、第一義と離れて、第二義があるんじゃなくって、第一義の中に第二義が包まれていて具体的な救済をのべるためにあらわれて来られるのであって、第一義の神だけで、じっとそれが無相にして、法身で、宇宙に充ち満ちていて、動かないだけでは、何の役にも立たんのでありますから、そこに具体的に救済の手をのべる働きとして人格神としてあらわれられたのが観世音菩薩であり、キリストであり住、吉大神であります。いくら絶対神でも、「大通智勝如来は、十劫の間道場に座して、悟りを開かなかった」と「無門関」の公案にあるように、いつまでも静の状態じゃいかんので、大通智勝如来が悟りを開いていよいよ動き出したという働きがキリストの最後の審判としてあらわれ、住吉大神の宇宙浄化の働きとして出てくる。こういう意味で生長の家の神様の出現ということは、この絶体絶命の瞬刻限に於いて、この時、この日本という場所においてまたこの日本人という民族において、現れなければならないという、そういう時と場所と人との三相応に於いて出現してきたというのが、生長の家の人類光明化運動である。そして住吉大神となり、あるいは塩椎大神として出現せられる場合に、それは「全てを生み出す」「生みの底」(海の底)の大神という働きになっている。これを神話は住吉大神を竜宮の大神としているのです。「海の底」とは創造の根底世界のことであります。天地創造というのも結局「生み出す」こと、創造である。すなわち塩椎というのは水と火と土という陰陽ムスビの御働きによって一切を生み出すところの御働きを指すわけで、いよいよ第二の天之岩戸開きで天照大御神を現実世界に生み出して、地上に永久平和の世界を打ち建てるために、その産み出しの出口を浄化する働きをなさるのが「住吉大神」で、これは天照大御神御誕生の直前に出現したまうよう『古事記』に書かれているわけです。


 (50244)
日時:2022年04月18日 (月) 12時46分
名前:風鈴

それから天孫降臨ということは、高天原に在す天照大御神の孫、真子、マコトのミコトが地上に顕現するというで、親からかぞえて三代目というような意味の孫じゃないのです。天照大御神そのままの霊がいよいよ天降って、邇邇杵命として天降って来られる、つまり、幽の世界から顕の世界へ出現せられるということであります。その時に、下界が曇っていて地上が見えない。そこで邇邇杵命は「ここに国ありや」と仰せられたら、「ここに国がありますから、天降りまして、お治め下さい」ていって、現実世界に天孫をお導き遊ばしたのが、事勝国勝長狭という神で、塩椎神の別名だと『日本書紀』に書かれているわけです。このようにして、住吉大神は、曇っている現実世界に太陽の御子を天降し導いて、地上に天照大御神の御光を持ち来たし、永久平和を現実世界へ生み出すための働きをしているわけであって、日本の国体というものが如何なるものであるかということを、その隠れている覆いを除いて現実の世界にあらわす、浄化の働きであり、實相を生み出すという働きをなさるという働きで、今、この御働きが続々進行中である。これこそが、生長の家出現の使命であるのです。政治局が生長の家本部の機構にできたのもそのためです。いろいろの宗教が今まで現れているのは、その時代その時代に応じて宇宙の大神が、人類を救済せんがために現れたのだけれども、いよいよ、今までのそういうような一宗一派的な排他的な闘争的な働きでは、とても全人類を救うことはできない。このように飛行機が飛び、人工衛星が飛んで世界が縮小して、いよいよ地球みたいなものは一家族になるより仕方がない。そういう時代になって来たものだから、ここに本当に世界の人類は、一つの兄弟であるという實相を顕わして、世界に、永久平和の世界を打ち建てる時期が来た。そこで、どうしても、そういう世界を生み出すためには万教の神髄を礼拝して手をつなぐ、万教帰一にして、しかも日本の国体を明らかにする宗教が必要だという神の御意志で、そういう使命を持って今、生長の家へ現れているのであるというわけであります。それで皆さんも、この運動に参加せられているのは、この住吉大神の分身がそこに宿っていられるからであります。諸君は諸君として、別々の人格であると同時に、やはり、住吉大神の人格をここに享けて世界平和のために働いていられるということになっているわけであります。現象的に見れば、あるいは肉体的に見れば、全ての人間は別々でありますけれども、しかしながら、それを実相に於いて見るときには、宇宙浄化のために、住吉大神の生命の系列が、今ここに皆さんに宿って、そして生長の家の幹部として、信徒としてここに現れていらっしゃるわけであります。

この結語に忠実な学ぶ会、事業団と生命の発露こそ人間の使命とする教団という印象 (50245)
日時:2022年04月18日 (月) 12時51分
名前:風鈴

だから皆さんはある意味では、すべて住吉大神であるのです。これは聖書の「ヨハネ伝」にあるところの、キリストが言われた言葉の「我ゆきて汝らに来るなり」というのに当たるわけであって、すべての人間にはキリスト教的に言えば、内在のキリストが宿っているのである。また内在の「住吉大神」が宿っているのであるといえるわけであります。豈ひとり私だけが住吉大神の使命を受けているのではない。各人に宿っている住吉大神の現れている程度に従って皆さんが、この使命感が強いか、弱いか、そこに差別を生じているいることになっているわけなんですよ。

この際、この時、
生長の家になぜ政治局(生長の家政治連合)ができたか、その所以を深く自覚していただき、
「この末法の世に於いて、我れ出でてこの世の中を救わずんば、救う人はないんだ」というそういう強烈な自覚をもって各自の聖使命を遂行せられんことを希望し、皆さんに、非常に嘱望するわけであります。ありがとうございます。

************************************************

各自よく読まれてお考え下さい。


 (50269)
日時:2022年04月19日 (火) 22時27分
名前:うーん

風鈴さんの感想、

「教団、学ぶ会、どちらにも一理あるかと感ずる次第」

「この結語に忠実な学ぶ会、事業団と生命の発露こそ人間の使命とする教団という印象 」


上記意味がわかりにくいのは私だけでしょうか。

 (50270)
日時:2022年04月20日 (水) 04時15分
名前:風鈴

うーんさん

ここに引用文を載せたのは「竹田恒泰氏、最高裁で上告退けられ敗訴確定」でのtapirさんとのやり取りの続きとしてのものです。

「本来の教えに戻れ」との声頻りです。
が、昭和39年当時雅春先生膝下の東京都の幹部の皆さんでさえ、教えの理解に群盲象を撫でるの感ありです。

聖典と言われるものを読めば、どなたでも同じ理解に至るというものではありません。
同じ理解に至るのであれば、教団、分派などまた中間派などの別れが出てくるはずもなしです。

それでは「本来の教え」とは何、との疑問が出てくるのは自然のこと。大衆の飢渇に応えなければ光明化はならず、といえど肉体民主主義者の欲望に応えるだけでは、住吉大神の浄化の働きの一部ともなりえずです。

「本来の教え」を解りきったこととしていますが、その実「神の子」「人間は神そのもの」という意味が各々違いがあるのが現実でしょう。

私が読んでの感想は私の感想、皆さんがこの雅春先生の言葉を読んで、どのように考えるのか受け取るのかが問題なんです。

うーんさんがどのように受け取ったか書いてみてください。

 (50271)
日時:2022年04月20日 (水) 06時38分
名前:うーん

うーんさん、以下の風鈴さんのこの8行はよく解ります。
おっしゃる通り。

「私が読んでの感想は私の感想、皆さんがこの雅春先生の言葉を読んで、どのように考えるのか受け取るのかが問題なんです。」

私は風鈴さんがどう考えるかに関心が強いのです(笑)
過去ログの風鈴さんの立てたスレも巡ってみましたが、

「この結語に忠実な学ぶ会、事業団と生命の発露こそ人間の使命とする教団という印象 」
↥↥
これをもっとわかりやすい表現に翻訳してくれたら幸いです。

もしや、「この結語に忠実な学ぶ会と事業団。生命の発露こそ人間
の使命とする教団という印象」の意味かとも思ったり。


 (50272)
日時:2022年04月20日 (水) 08時00分
名前:風鈴

もしや、「この結語に忠実な学ぶ会と事業団。生命の発露こそ人間
の使命とする教団という印象」の意味かとも思ったり。
**************************************************

そういうことです。点の位置が悪かったですかね。
今日は仕事ですのでこれで。

 (50273)
日時:2022年04月20日 (水) 10時51分
名前:うーん

笑。
点の位置で文脈が。。。
僭越ですがそれでは私の考えを。
おそらくほぼほぼ風鈴さんと似た印象です。

 (50352)
日時:2022年04月24日 (日) 18時11分
名前:tapir

風鈴さま

谷口雅春先生の御文章を転記していただき、ありがとうございました。ご尽力に感謝申し上げます。

>『實相研鑽』第一集「生長の家の神観」より  教団、学ぶ会、どちらにも一理あるかと感ずる次第<

「教団、学ぶ会どちらにも一理ある」

はい、「教団、学ぶ会」、どちらにも一理、二理、…八理、もしかしたら九理くらい、あるでしょう。

いつか、谷口雅宣先生の説く教えは、生長の家の教えからまったく外れているわけではない、八割、九割くらいは間違っていないと書いたことがあります。けれども、残りの一〜二割がズレている、と書きました。

教団も、学ぶ会も「天地一切のものと和解せよ」、「大調和」というほんの一割が実行できていません。そしてどちらもそれを、修正しようとしません。


本を読んだら、立派なことが書いてあるが、実際の教えを説いている代表者たる「先生」のお話を聞いたら、たいしたことはなく失望したのが、生長の家に出会う前に遍歴した教えで、私が体験してきたことです。今は、その言葉が生長の家を名乗る代表者たる「先生」方にもあてはまるようになってしまうことを、残念に思います。


>「政治とは一線を画すほうが良い」との意見がこの掲示板では体制であります。<

「体制」は、「大勢」の誤字だと、解釈してお答えします。

「政治とは一線を画す方が良い」と思うのは、「学ぶ会」、「教団」が、政治介入した結果があまりに無惨だからです。長年、育てて来た果実を見て、止めた方がよい、向いていないと思うだけです。

>がそこには生政連の出現も生長の家の出現も、同じ神の意志によるとの趣旨が説かれています。<

「神の意志」だからといって継続していた大東亜戦争の悲惨な結果をみそなわされて、昭和天皇は「終戦の詔勅」を降されました。「神の意志」だと信じる人々の意見のままに、戦争を継続していたら、日本国はどうなっていたでしょう。あの時は、停戦に「神の意志」が働いたのではないでしょうか。

tapirさん、「聖典」を読んでどのように受け取りましたか? (50421)
日時:2022年05月01日 (日) 16時06分
名前:風鈴

(50352)
日時:2022年04月24日 (日) 18時11分
名前:tapir

風鈴さま以下略


ここに書かれていることは、私の意見に対しての感想であって、雅春先生の文言に対するものではありません。
実相研鑽会で説かれたものをどのように受け取ればよいか?の遣り取りの中で、あなたの読むことの出来ない文言を引き合いに出したのは高慢だと言われたから、全文言を書き出したのです。そして

(50270)

日時:2022年04月20日 (水) 04時15分
名前:風鈴

で、うーんさんへの返事で書きましたように、「聖典」を読めばおなじ理解になると考える人へ、そうはなっていないと私は考えていますので、「聖典派」を名乗るあなたが、この引用文言をどのように捉えるかを聞くために書き出したのです。

今でもトキラジオでは、昭和43年の文言を金科玉条にして、雅春先生の意図は判りきったこととしています。49年発行の東京都講師幹部の研鑽を書籍化したものは「聖典」に入らないのですか?

あまりにもあなたの返事が目的外の感じなので其のままにしておきましたが、少しづつ注目投票する人が増えましたので、ここに再質問します。

中でも、「生政連」の誕生目的をどう捉えるか、が訊け氏の43年文言に関係しています。39年の文言ではありますが、49年に書籍化されたものです。まだ東京に居た時の書籍です。この文言を無視しているのがこの掲示板に屯するメンバー、そしてより忠実たらんとしているのが当時の青年局、その流れの一群と感じます。

私の感想への感想でなく、雅春先生の文言をどう受け取ったかを書いて下さい。



tapirさん、「聖典」を読んでどのように受け取りましたか?雅春先生の名誉にも関わりますので (50470)
日時:2022年05月04日 (水) 22時47分
名前:風鈴

今回の裁判は、表向きは、Sakata氏と社会事業団、&光明思想社の間のことです。しかし、その本質は、谷口雅春先生の名誉を守れるかどうかということです。賠償額の多寡の問題ではありません。

裁判の結果が、谷口雅春先生の名誉に重大な影響を及ぼすことが予想されるのが、私どもが、「訊」さんも、裁判の成り行きを、黙って見過ごせない理由です。〉〉


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apirさん、「聖典」を読んでどのように受け取りましたか? (50421)

日時:2022年05月01日 (日) 16時06分
名前:風鈴

で雅春先生の生政連への期待がどのように語られているかを投稿しましたが、その雅春先生の言葉の解釈はスルーでした。なので再質問しましたが相変わらずのスルーです。

あなたの投稿では雅春先生の名誉に関わる裁判であると言われる。
生政連停止に至る過程で、訊け氏は43年で雅春先生の意思は示されている、との立場であると私は受け止め、それでは49年発行の書籍でなんと言っているか。

生長の家出現の生政連結成の必然性、目的が解説がされている、と私は捉えています。私の引用文『實相研鑽』第一集「生長の家の神観」を受け取り実践しようとする学ぶ会。無視し解釈を述べないtapirさん並びに訊け氏、又政治とは一線を画すべきというトキ管理人、どちらが雅春先生の名誉を毀損しているのでしょう。

はっきりとした返信を望みます。雅春先生の言葉を引用させておいてそれへの返事がないのは何故でしょうか。「聖典派」を自認するのですから、雅春先生の言わんとすることは斯くのごとし、とはっきり示していただきたい。あなたの言う雅春先生の名誉とはどんなことですか?


風鈴さんが質問なさりたいことを確認させてください (50473)
日時:2022年05月05日 (木) 12時50分
名前:tapir

>あまりにもあなたの返事が目的外の感じなので其のままにしておきましたが、少しづつ注目投票する人が増えましたので、ここに再質問します。<

私も、谷口雅春先生の御文章は何回も読んで、先日、私なりに回答を書しましたが、目的外、すなわち完全な的外れだったとのこと。その後、ご返事を書いていない間も、どのようにご返事すればよいか、ずっと考えておりました。

>tapirさん、「聖典」を読んでどのように受け取りましたか?<

と、聞いておられますが、この質問は、あまりも漠然としていて、何をお答えしていいか、分かりません。

さらに、ご質問が、次々に更新されていくので、何をお答えしたらよいのか、ますます分からなくなりました。

そこで、お答えする前に、風鈴さまのご質問を確認させていただきたいと思います。

下記は、私が風鈴さんの投稿文の行間を想像したので、もちろんこのコトバ通りではないと思います。文例だとお考えいただき、風鈴さんなりに質問文をお書き下さい。質問数も、増減していただいて結構です。


[質問]

以下の、Q1〜Q5を、谷口雅春先生の39年御発表、49年書籍化の御文章を引用しながらお答えください。(ということなのですよね。風鈴さま)


Q1、「学ぶ会」は、谷口雅春先生の『實相研鑽』第一集「生長の家の神観」を受け取り実践しようとしていると、私(風鈴)は考えます。貴方(tapir)「学ぶ会」の実践を否定するのですか?

>生長の家出現の生政連結成の必然性、目的が解説がされている、と私は捉えています。私の引用文『實相研鑽』第一集「生長の家の神観」を受け取り実践しようとする学ぶ会。<


Q2、訊け氏は、昭和43年文書で谷口雅春先生の、生政連停止に至る過程、停止の意志が示されていると言っています。私(風鈴)は、43年の文書よりも、49年発行の書籍(中身は39年文書)の「生政連」の誕生目的が優先されるべきものと考えます。優先されるべき文章に忠実足らんとしているのが当時の青年局、その流れの一群(「学ぶ会」がその典型)と感じています。貴方(tapir)はそう感じないのですか。


>生政連停止に至る過程で、訊け氏は43年で雅春先生の意思は示されている、との立場であると私は受け止め、それでは49年発行の書籍でなんと言っているか。<

>中でも、「生政連」の誕生目的をどう捉えるか、が訊け氏の43年文言に関係しています。39年の文言ではありますが、49年に書籍化されたものです。まだ東京に居た時の書籍です。この文言を無視しているのがこの掲示板に屯するメンバー、そしてより忠実たらんとしているのが当時の青年局、その流れの一群と感じます。<


Q3、訊け氏、トキ氏、tapir氏は、49年に発表された谷口雅春先生の書籍の文章を無視していると感じています。tapir氏は、無視していませんか。谷口雅春先生の名誉を毀損しているのは、「学ぶ会」ではなく、政治とは一線を画すべきというトキ管理人、訊け氏、tapirであると感じています。そうではないのですか?

>生長の家出現の生政連結成の必然性、目的が解説がされている、と私は捉えています。私の引用文『實相研鑽』第一集「生長の家の神観」を受け取り実践しようとする学ぶ会。無視し解釈を述べないtapirさん並びに訊け氏、又政治とは一線を画すべきというトキ管理人、どちらが雅春先生の名誉を毀損しているのでしょう。<


Q4、現教団が、総本山・住吉本宮の祭神を住吉大神から、造化三神に変更したことは、谷口雅春先生の御文章(39年文書)に照らして、全く問題ないと考えます。貴方が、問題があると、感じるのはなぜですか?

>ここには生長の家の神観が説かれています。住吉本宮の祭神変更が問題なりましたが、全く問題ないと考えます。<


Q5、私(風鈴さん)は、「この結語に忠実な学ぶ会と事業団。生命の発露こそ人間の使命とする教団という印象」を持っています。学ぶ会と事業団、教団は、両者とも、谷口雅春先生の39年のご文章に忠実たらんと、日々、真剣な努力を重ねています。トキ掲示板でトキさん、訊けさん、tapirが述べている批判は、両者の努力に水を差すもので、ひいては、谷口雅春先生の御文章に敵対するものだと思います。どんな無茶で非常識に見えても、それぞれの言い分があるのです。暖かい目で、文句を言わずに、黙って見過ごすのが、正しい態度だと私(風鈴さん)は考えます。


こんな感じで、質問を、個別具体的に書いていただくと、お答えしやすくなります。
これまで、風鈴さんのご投稿の行間を想像しながら、私なりにご返事を書いたつもりでしたが、的外れのものばかりだったようなので、そうならないように、まえもって確認させていただきます。

どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

あなたの聖典解釈を聞きたいのです。私の解釈への感想でなく。 (50476)
日時:2022年05月05日 (木) 17時41分
名前:風鈴

tapirさん、「聖典」を読んでどのように受け取りましたか? (50421)

日時:2022年05月01日 (日) 16時06分
名前:風鈴


tapirさん、「聖典」を読んでどのように受け取りましたか?雅春先生の名誉にも関わりますので (50470)

日時:2022年05月04日 (水) 22時47分
名前:風鈴


tapirさんへの質問は上の二つの投稿ではっきり書いてあります。
「聖典派」を自認するあなたが、「この雅春先生の結語をどのように解釈すればよいか」と質問されたとき、講師であればどのように説明するかお聞きしたいのです。

私の感想が正しい解釈だとと言っているのではありません。少なくとも、生政連運動の結果という現象から雅春先生の言葉をとやかくいうのは聖典を読む態度がおかしいです。


「神の意志で生長の家が出現し、政治局ができた、その意義を深く自覚してください」と言われているのですから、どのように自覚したかと聞いているのです。それなのに太平洋戦争は聖戦といわれていたが神の意志であろうとも止めたた天皇の判断は正しい、などと的外れの答えをする。

「雅春先生の名誉」を云うのであれば「政治からは遠ざかるべし」と発言するのは、完全に名誉を下げていますね、トキ管理人もあなたも。

誠に誠にお疲れ様でございます^_^ (50477)
日時:2022年05月05日 (木) 17時49分
名前:⊕「訊」⊕


>>tapirさま


 誠に誠にお疲れ様でございます^_^繰り返します。tapirさま、誠に誠にお疲れ様でございます^_^






 (50478)
日時:2022年05月05日 (木) 18時40分
名前:tapir

私が講師であれば、答えは至ってシンプルです


>「神の意志で生長の家が出現し、政治局ができた、その意義を深く自覚してください」と言われているのですから、どのように自覚したかと聞いているのです。<

〇昭和39年に谷口雅春先生は、「神の意志で生長の家が出現し、政治局ができた、その意義を深く自覚してください」とお説きになられました。

〇昭和58年に、谷口清超先生の御意思を受けて、生長の家本部は聖使命新聞で次のように発表しました。

“結局、私たちは、沢山の人々の中に、真の神性・仏性を目覚めしめて、その結果として国の問題、生命尊重の問題等を正しく自覚する人を増やし、そこから正しい方法で国の法律も改正されて行くという風にもって行かなければならない、ということになる。それで今回、生政連の活動停止という措置がとられたわけです。”
(『生政連に関する質問に答えて』(『聖使命』昭和五十八年九月一日号(『歴史から何を学ぶか』307ページに掲載))

谷口雅春先生は、時代によって、正反対のことをお説きになることがあります。前の時代におっしゃったことを、全面否定されることもあります。

生政連活動は、谷口雅春先生御自身が第一線から退かれ、全面的に教団の指導を託された谷口清超先生の御意思によって、活動停止となりました。

私は谷口清超先生に深い信頼を寄せており、谷口雅春先生が亡くなられた後は、谷口清超先生のお言葉をどこまでも信じ、この方のご指導についていこうと決意いたしました。


以上です。

返答はいりません、時代を引っ張っていくべき人が、時代により正反対の事を云う、なんだそりゃ、それこそカルトじゃないか、先生の言うことはなんでも正しいでは (50480)
日時:2022年05月05日 (木) 19時13分
名前:風鈴


〇昭和39年に谷口雅春先生は、「神の意志で生長の家が出現し、政治局ができた、その意義を深く自覚してください」とお説きになられました。

〇昭和58年に、谷口清超先生の御意思を受けて、生長の家本部は聖使命新聞で次のように発表しました。

        略

谷口雅春先生は、時代によって、正反対のことをお説きになることがあります。前の時代におっしゃったことを、全面否定されることもあります。

**********************************************************

あなたのものの見方は、昭和50年当時に質問されたとしての答えではないですね。
昭和58年に生政連活動停止以降から、50年の事実を見ている。

昭和50年にこの本を買い読んだ人がその時に質問した時、なんと答えるかと聞いているのに、昭和58年以降のものの見方で答えている。

いまだ生政連活動停止どころか、理想世界誌100万運動盛んな時に、この本を読んで信じた人は、詐欺にあった気になるでしょう。
時代によって正反対のことを説くことがある、それでは先生は時代の先を読むことが出来ない盆暗だというに等しい。

それが谷口雅春先生の名誉だなんだと裁判に絡めていう。端から「名誉」なんてないのでは。

風変わりな風鈴さん、ご返信ありがとうございます (50481)
日時:2022年05月05日 (木) 19時33分
名前:tapir

時代が変化しようが、社会情勢が変化しようが、一度発言したことは、絶対に撤回してはいけない、死んでも謝らない、そういう教祖が、貴方様の理想の教祖なのですね(笑)

もしくは、全知全能の、一神教の神様のように、未来がすべて見とおせる預言者で、その神様の計画通りに、世の中の万事が一寸の狂いもなく、運ばれる。それが風鈴さんの、理想の神様であり、教祖様なのですね(笑)すばらしい!!!

楽しませていただきました。

風鈴さんは、実にユニークで楽しい方ですね。

お付き合いいただき、ありがとうございました。

どちらも一理ありそうで、わからない。 (50483)
日時:2022年05月05日 (木) 20時33分
名前:神の子

絶版書を揃える程、熱心でも博学でも
無い自分には、双方の言い分を読むと
その時は、それぞれに賛同してしまう。
更に読んだ人でも解釈が人によって違う
なら生政連とか考えても徒労に終わる。

結局、政治問題は関わりたくないな。と。

私は教団の考えを代弁する立場ではありません (50487)
日時:2022年05月06日 (金) 10時53分
名前:tapir

風鈴さま

>あなたのものの見方は、昭和50年当時に質問されたとしての答えではないですね。
昭和58年に生政連活動停止以降から、50年の事実を見ている。

昭和50年にこの本を買い読んだ人がその時に質問した時、なんと答えるかと聞いているのに、昭和58年以降のものの見方で答えている。<

私は、宗教法人「生長の家」を離脱していますから、教団の考えを代弁する立場ではありません。在野の信仰者として、自分自身の体験と実感から、ものを言いたいと思っています。

昭和50年当時、私は、生長の家の「せ」の字も知りませんでした。数年後、生長の家を知り、生きることの意味と喜びを知ることが出来ました。ですから、生長の家と、谷口雅春先生に深く感謝しております。

私は超能力者ではありません。自分の入信前の昭和50年に、谷口雅春先生のお話を聞かれた人の質問に答えろと言われても、当時を知らないので無理ですとお答えするしかありません。

私を救ったのは生長の家の政治活動ではありません。政治と無縁の「神は愛なり」を実践されていた真の宗教人の本部講師でした。


そういえば意見交換は終わっていたのでしたね。風鈴さん、つい宛名を書いてしまいましたが、読まないで結構です。返信も要りません。どうぞ、御放念ください。

 (50488)
日時:2022年05月06日 (金) 10時54分
名前:tapir

神の子さま

>結局、政治問題は関わりたくないな。と。<

令和4年の現在を見ますと…。

無実の人に話し合いを拒絶していきなり訴訟を起こした社会事業団の絶大な支援者として、掲示板上で、誤った情報を平然と流す、某宗教法人の新代表。(最高裁判決を否定していない阪田氏に、否定したぞと決めつけたのが誤情報の一例。その後、訂正のひとこともなく、今度は阪田氏の正当な引用を、無断引用と決めつけています)

過去のスレッドを引用して、一連のスレッドで「日本共産党」83か所、「共産党」を3か所、事実無根の罵倒を、あくことなく繰り返した、同じ宗教法人の御用掲示板の、超ハイレベル管理人(tapirの過去の憲法レポートを取り上げたスレッド)*
https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=3380

このような、常軌を逸した言動を日常とする恐ろしい人々を見るにつけ、宗教は政治に手を染めるべきでない、生長の家教団が、政連活動を停止したのは正解だったとの、確信が深まるばかりです。


*最初の投稿では、「日本共産党」を88か所と書きましたが、再度調べたところ、そのうち2か所はtapirの投稿内のものでした。また、3か所は「日本」がない「共産党」のみだったため、「日本共産党」83か所、「共産党」3か所に、訂正いたしました。つつしんでお知らせいたします(5月6日12時12分)

谷口雅春先生の御文章を拝読して―解釈の違いについて (50489)
日時:2022年05月06日 (金) 10時56分
名前:tapir

聖典は、読み方によって解釈が違うと、風鈴さんは言われます。

たとえば、意見を対立させる傾向の人の読み方と、意見を一致させたくて読む人とでは、その違いが出ます。

風鈴さまには、せっかく労力を費やして谷口雅春先生の聖典を書写していただいたので、ぼつぼつ、拝読の感想を書かせていただきます。


[谷口雅春先生の御文章] 

“神を如何に解釈するかということについて、皆さんのおっしゃることは、別に互いに衝突しないように思うんですけれども、それは、象をなでるようなもので、いろいろの観方がある。だから正面からなでる人もあれば、横からなでる人もあるし、はすかいになでる人もある、いろいろとあって、その観方が違うようだけれどもみな同じように、僕は思うんです。“(『實相研鑽』第一集「生長の家の神観」より「当スレッド(50241)」)


これに対する風鈴さんの所感は以下の通りです。

>「本来の教えに戻れ」との声頻りです。
が、昭和39年当時雅春先生膝下の東京都の幹部の皆さんでさえ、教えの理解に群盲象を撫でるの感ありです。<

風鈴さんは「群盲象を撫でる」に注目されています。聴衆は、みな孤独で別々だとの意識が働いていると思います。

しかし、私は、谷口雅春先生の、この段落の御文章の結びの部分に注目します。

「いろいろとあって、その観方が違うようだけれどもみな同じように、僕は思うんです。」

谷口雅春先生は、「観方が違うようだけれども、みな同じように僕は思う」と聴衆の一体感を強調されていると思います。谷口雅春先生の眼でご覧になれば、「一視同仁」なのです。同じ一つのいのちの兄弟なのです。

「群盲象を撫でる」に注目された風鈴さんは、聴衆はみな別々と思われた。

人間は孤独で別々のいのちなのか、一体の一つのいのちかということ。

「人は孤独で別々のいのち、理解し合えない淋しいもの」と宣言するのか、「人間はみな一体のいのちの兄弟、ひとつのいのち」を選ぶことを宣言するのかということで、違いが生じます。

こうして、ひとりひとりの宣言で、運命が作られます。

私は、本来一体、いのちの兄弟の宣言を選びます。

修正のお知らせ (50494)
日時:2022年05月06日 (金) 22時47分
名前:tapir


私の投稿の50481と50483について、一部修正させていただきます。引用した歌がこの掲示板には相応しくないと考えたからです。ご迷惑をおかけしてすみませんでした。どうぞ、あしからず、ご了承ください。たいへん失礼いたしました。

合掌



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