生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)

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旧・生長の家「本流復活」について考える(したらば版)

生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)

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『生命の實相』の著作権の寄付の経緯は、経理的利便性 (54610)
日時:2022年11月30日 (水) 10時42分
名前:本音の時代

出版社から直接事業団に支払うことができ、手続きの煩雑さを解消できる利便性があった。

「託された」との表現変ですか? (54620)
日時:2022年11月30日 (水) 20時28分
名前:寄付と託された


「事業団さん1000万『寄付』しますので、事業団の活動にお使いください」

と多額の寄付がございました。

「誠にありがたいことでこの『託されました』ご寄付は、最大に有効利用させて戴きます」


この日本語は変ですか?

re:「託された」との表現変ですか? (54620) (54621)
日時:2022年11月30日 (水) 21時00分
名前:本音の時代

寄付された著作権の有効利用とは印税相当額のことでしょうか?

そこをハッキリさせないと曖昧な部分が残るので『この日本語は変ですか?』の回答はできないです。

 (54625)
日時:2022年11月30日 (水) 23時08分
名前:寄付と託された


⊕「訊」⊕さま
いちいち絡んで来なくて結構ですよ。
スルーする能力を身に付けてくださいね。

++++++++++++++++++++++++++++++++

ここに集う方の多くは、訊さんの言うことは概ね正しいと受け取る立ち位置の方です。
また阪田氏は一時事業団側にいた人であり、経歴から彼の言うことであれば正しいのであろう、と考える人もいることでしょう。

彼らの言論、「法律上最高裁で著作権が事業団にありと確定しても、その内容は印税を基本財産にしただけのことである」との主張を野放しにすることは、事業団の活動にブレーキがかかる、として野放しにできないと考えることは仕方ないことではないでしょうか。

著作権があるどうかとか著作権の内容がどんなものか、とかを判定してもらいたいのではなく、運動に対するクレーム処理の一環と受け取れます。
著作人格権を議論しても、肝心な権利相続者が何も言わないのに、外野が事業団批判のための議論をしているとの考えから、裁判に至ったと考えられます。

昭和60年以降の著作権収入などたかが知れていると思いますがどれほどのものでしょうか?神の国寮への東京都からの支援金の方が遥かに多いのでないですか?

事業団への寄付金(30万一口の寄付等)はそもそも神の国寮運営のために寄付した人は少ないのではないですか?教団に対抗しての所謂本流運動のため(生命の實相の発売等)の寄付であったと考えます。
その運動を否定するかの阪田氏の発言は容認できないのは理解できます。500万の慰謝料請求裁判の費用がいくら係るのか、だれも言わないのに、500万かけての裁判だとかの文言が独り歩きしています。弁護士費用にしても理事の一人が弁護士で、理事としての仕事として裁判にかかわっているのであれば、ノーギャラかもしれません(お抱え弁護士として雇うのであれば理事にする必要はないでしょうから)。

批判のためにする話が多すぎる感がします。

問題なのは、社会事業団がなぜ「著作権が託された」という表現を使い始めたのかということです。 (54627)
日時:2022年12月01日 (木) 00時49分
名前:本音の時代

社会事業団には設立の趣旨、目的、要綱がありますから、「谷口雅春先生から著作権を託された団体」だからといううたい文句は必要がないのです。公益法人への移行後には、活動内容も谷口雅春先生が総裁であった時と比べると変質しているのではないかと思います。
【批判のためにする話が多すぎる感がします。】と書いていますが、愛の教えの実践を旨とするのに、著作権を盾に使用制限をかけているのは社会事業団です。雅春先生存命の時代、著作権を所有していた社会事業団はこのようなことをしていたでしょうか。

帰りましょう掲示板では、護法の天使さん(久保理事長)が社会事業団の沿革等についていろいろ書いていますが、こちらでは、生長の家30年史と40年史に書かれている社会事業団の記事を掲載しておきます。



『生長の家30年史』に記載された生長の家社会事業団の内容

(原文は縦書き 『生長の家30年史』 315〜317頁)

生長の家社会事業団について

中神 学(なかがみ まなぶ)

 昭和二十年十一月十四日、尊師谷口雅春先生は自ら、生長の家社会事業団の設立者として、時の東京都長官、廣瀬久忠氏宛に財団法人設立許可の申請をされ、その設立趣意書には左の如く記載きれていた。
「教化団体生長の家本部にては、大東亜戦争中、國策協賛報国会を設置し、日本各地に於て生長の家総裁谷口雅春の直接講授の教化講習会にては、その講習諸経費を本部の全負担として、講習会にて収受せる全受講料を何人の個人の収納とせず、理事会をもつて保管せしめ、その金額を以て国策に協力せしむる国債及び軍需株を購入せしめ保管し置きたり。今やその総額六拾万円余に達せり。然るに今回終戦に方り戦事中の国策に協力する目的を終結せるを以て、国策協賛報国会も、目的終結を以て完了解体せんとす。為に同会理事会にて保管中の国債並に証券券及び現金を如何に処置すべきかにつき、昭和二十年十月七日理事会を開きて決議せる『右保管財産は終戦後も引続き戦後処理の国策線に沿い、社会厚生の事業に用ふべきものなりしとの決議に基き、生長の家国策協賛報国会は右保管財産全部を寄附行為して、生長の家社会事業団なる財団法人に引継がしめ、右財団をして社会厚生の各種事業を実行せしめんとす。財団の諸設備の敷地として、生長の家総裁谷口雅春所有の千葉県市原郡市原村能満字中原太郎一〇八一ノ一地所の九万坪を寄附行為し、恒久的流動資金として『生命の實相』の著作権収入を寄附行為す。」
 この申請にたいして、昭和二十一年三月東京都庁より設立の許可が与えられたのである。それ以来、この趣意にしたがい戦争で親を失なった子供や、親を知らない不幸な子供たちを元の家庭光明寮の建物内に収容し、一方では生活保護家庭の恵まれない妊婦を世話する助産所を設け、あるいは農地の開拓を企てるなど各種の社会福祉や厚生保健事業を実行して来たのであるが、戦後のはげしい社会情勢の変化によって、或る種の事業は中止又は廃止しなければならぬことになり、現在では昭和二十二年に制定された児童福祉法に基く、民間養護施設として「生長の家神の国寮」の維持経営が、社会事業団の中心事業となっている。
 この世に生をうけた子供たちが両親の愛情につつまれて、なに不自由なくのびていくことができるならば、まことに、幸いである。広い世間には、生まれながらにして親の顔を知らない子や、身体が不自由であったり、智恵のおくれた子や両親の貧しさや不和のためにかえりみられない子や、それらのために世にすねた問題の子供たちが現在一八〇万もいると推測される。国は民間と共にこれらの子供たちのために指導員を増員し、施設を建てているがそれでもまだ一一〇万の子供たちは社会の片隅に今なおとりのこされている。
 昭和二十六年五月五日の「こどもの日」に宣言された児童憲章には
一、すべての児童は心身ともに健やかにうまれ、育てられ、その生活を保障される。
二、すべての児童は、家庭で正しい愛情と知識と技術をもって育てられ、家庭に恵まれない児童には、これにかわる環境が与えられる。
 これら十二カ条の児童憲章は、子供たちへの大人の固い約束であったはずである。終戦後十三年の時の経過は、当時の孤児も青年となり、街にあふれていた浮浪児も今では盛り場からその姿は消えてはいるが、施設に入れるべき子供は減るどころか年ごとに増大している。
 貧困による離婚、別居等のくずれた解体家庭からの子供が、終戦後の戦災孤児に代り一層複雑で困難な問題をせおって施設へ送りこまれている。これらの子供のほとんどは、ギリギリの線まで追いつめられたあげく施設へ来るため、受け入れる施設の苦労はなみたいていではない。きらに最近の傾向としては、非行の子供や、精薄の子供で、本来なら教護院なり精薄施設へ入れるべきボ一ダーラインすれすれの子供が一般の養護施設へ送られて来ることである。これはこれらの子供の幸いのためにできるかぎり養護施設で一般のまともの子供と一緒に生活させたい児童相談所がわの愛の現われでもあるが、実際は教護院や精神薄弱児施設の不足のためで、受け入れる方としては養護技術の面でもいよいよ困難さを覚えるのである。
 幸いに生長の家神の国寮においては、清都理之寮長の下に保母六名、炊事三名、事務三名、全職員心を合せて、設立者であり、初代理事長であられた谷口総裁先生の設立の御趣旨を体して「生命の教育」により児童の福祉のために子供たちの親ともなり姉ともなって日々子供たちの幸福を念じつつお世話させていただいているのである。
「養護施設」の維持経営が多額の費用を要して容易ならぬ困難な事業であることは毎年東京都で開催される関係者による全国社会福祉大会が国家よりの委託費の増額要求の大会である事実からもうかがえるのである。これらの社会福祉施設のほとんどすべてが、キリスト教、仏教その他各種の宗教団体の庇護の下に経営されているのもこのためであって、日本の社会福祉事業の特質をなしている。
 委託費の不足分は、赤い羽根運動による共同募金の配分によって補なうことになっていて、いちおう形の上だけではつじつまが合うことになっているが、その額はまことに微々たるもので、しかも、共同募金の配分を受けると一般に呼びかけての寄付金募集ができないため、共同募金の配分を辞退する運動さえ一部で起りつつある。また一方では「養護施設」にまで労働組合がつくられつつある寒心すべき事態でさえある。
 社会事業団は又生長の家本部や関係団体に勤務する職員の子弟のために、月々育英資金の援助をしているが、現在その数も五十九名の多きに達している。社会事業団はかくして各関係団体の職員に、地下水となり、清水の如く滔々と潤いを与えつつある。
 聖典の翻訳事業も社会事業団の一事業で、すでに英文『生命の實相』は世界聖典普及協会を通じ、世界の有力者に頒布されつつある。人類光明化運動の世界的使命を担うこの部門は今後ますます強力に推進せしめなければならない。
 生長の家社会事業団がこれらの困難を超え、この事業を今日まで強力に遂行できたことはひとえに谷口総裁先生の御愛念と「恒久的流動資金」としての『生命の實相』の著作権収入が社会事業団の財源として与えられている賜である。このことはこれまで一般信徒誌友にも発表なさらず、谷口総裁先生の御陰徳として続けて来られたのである。ここに先生の御陰徳を発表いたすことは先生の御意志に反し心苦しいのであるが、『生長の家三十年史』編纂にあたり、将来のため歴史的真実を伝えるべくあえて事実をここに記すわけである。 (生長の家社会事業団事務長)


『生長の家40年史』に記載された生長の家社会事業団の内容

(原文は縦書き 『生長の家40年史』 545〜548頁)


財団法人 生長の家社会事業団

所在地 東京都国立市富士見台二−三九−一
創 立 昭和二十一年一月八日
役 員 理事長 清都理之


 生長の家社会事業団が法人として認可されたのは、昭和二十一年一月八日であるが、その源流ははるかに遠く、昭和十年から始まった、谷口雅春先生の指導者講習会に発しているといえよう。その年以来、日本各地に於て、谷口雅春先生直接御講授の教化講習会は、年を追ってますます盛大になった。その講習会の経費は生長の家本部で負担し、全受講料は別途に保管することにしていたが、大東亜戦争に日本が突入するや、谷口雅春先生は国策協賛
報国会を設置せられ、別途に保管していたその受講料による資金は、同会をして国家の要請に応じて、次々に国債を購入したり、軍需会社の株式に投資などして、総力をあげて、国策に協力せしめられたのである。その総額も六十万円余に達したが、終戦となり国策協賛報国会はその目的を終結し、昭和二十年十月七日の同会理事会でついにその解体が決裁きれた。
 その決議で「保管財産は終戦後も引続き、戦後処理の国策の線に沿い、社会厚生の事業に用うべきものなり」と明確に決定され、その財産を基本資産として昭和二十年十一月十四日、谷口雅春先生はみずから生長の家社会事業団の設立申請者となって、広瀬東京都長官に財団法人設立許可の申請書を提出されたのであった。谷口雅春先生御夫妻はそれぞれ理事長、副理事長に迄なって、戦後の困窮せる引場者、戦災孤児等の現実的救済に乗り出された
 このことは生長の家が、国家対策や、政治、経済、社会の現実問題に直接タッチするに至った極めて重大転期であった。多くの宗教団体が、たんに宗教の枠内に留って、敗戦の現実に、立向う気力さえない時に、敢然として、国家の運命の根本を決定する現実の戦後処理、戦争犠牲者の救済活動に全力を挙げるため、生長の家社会事業団を結成したことの意義は重大であった。
 しかし、占領下の政治経済社会情勢の激変は、関係者が全精力を傾倒したにも拘らず、その事業の大部分が実現できなくなってしまった。谷口雅春先生の公職追放や、せっかく復員者を入植させ、食糧増産に着手した千葉県能満の農場も占領軍による「農地改革」によって、生長の家社会事業団は「不在地主」となり、安い値段で農場の土地全部が買い上げられ、これでほとんどの事業は継続できなくなってしまった。
 ただ、戦災孤児遺児を収容する目的で設立した「神の国寮」だけが、昭和二十三年、児童福祉法実施とともに、養護施設として東京都の認可を受け、いよいよその真価を発揮して現在まで続いている。もちろん「神の国寮」も多少の曲折はあった。
 戦後も二十年となると、あれほど騒がれた戦災孤児も、街にあふれていた浮浪児の姿も見られなくなり、「神の国寮」にいた戦災孤児も立派な社会人となって単立って行ってしまった。そこで戦災孤児や遺児の救済を目的として設立された「神の国寮」の使命もすでに終ったのではないか。それならこの際「神の国寮」を直接布教活動に役立つ将来の人材を養成する「青年寮」として再出発させた方が、人類光明化運動により貢献し、一層効果的ではあるまいかという意見が聞かれるようになった。 「神の国寮」は赤坂檜町にあった元の家庭光明寮の建物をそのまま転用していたのであるが、この建物は木造二階建で、児童福祉法の最低基準には、児童を火災や災害から守るために、木造の場ムロは平家建として二階に児童の居室を置いてはいけない規定になっている。その上、建物も老朽化してところどころ危険も見受けられたので、東京都民生局から、毎年の査察指導の際、改築するか、新築して移するように注意されていた。新築するにしても、改築するにしても、莫大な費用がかかる。それならこの機会に「青年寮」に改組した方が、より好ましいと一部の理事から意見が出たのももっともである。
 しかし、戦災孤児はいなくなったが、施設に収容される児童は決して少なくなったのではない。養護施設という名称は児重福祉法によって戦後つけられたものであるが、保護を必要とする不幸な児童を収容する施設は遠く明治の初めから孤児院の名で存在していた。戦争がなかった時にも、それらの施設には家庭に恵まれず、保護を必要とする多数の児童が収容されていた。ただ終戦直後はどこの施設でも戦争孤児が多かったのは当然であるが、その
すべてが戦災孤児であったわけではない。
 児童福祉法には、児童の福祉を守るための施設の種類が十四も規定されている。経済が発展し、社会生活が複雑になり、文化が向上すればするほど施設に収容し保護し、治療しなければならない児童がいよいよ多くなる。先進国といわれる欧米諸国に於て、このことは証明ずみである。「神の国寮」が目的を完遂し使命が終ったのではないかといった人は、この日本の児童福祉の現情をよく認識していなかったからである。
 児童福祉法実施の昭和二十三年三月現在の日本全国の児童福祉施設数はニ、一〇〇施設に過ぎなかったが、昭和四十二年十月現在では、約七倍の一四、五八六施設になっている。収容児童数も同じく十六万五千六百九十三名から約五倍半の八十八万五千八百七十八名に達している。残念ながら、このように年々、ますます増加を続けている。「神の国寮」が戦争による孤児遺児の救済の目的は一応達成したとしても、児童福祉法に基づく、いわゆる措置児童の養護育成の任務は、数の増大だけでなく収容児童の年少化と情緒障害児その他質的変化による困難さによって今まで以上に一層重大な使命を負わされていることになる。
 いざなぎ景気が謳歌され、ニ兆円のポーナスが支給される今日新聞には母子心中や、棄て子、自殺の記事の出ない日はない。事実最近施設に送られてくる児童のほとんどが二歳、三歳の幼児ばかりである。母親の家出、蒸発は今では都市ばかりでなく、農村、漁村の区別なく、全国的な傾向である。交通災害の遺児も施設に送られてきている。各児童相談所は幼児を抱えてどうにも動きがとれず、連日のように受け入れ依頼の電話を施設へかけてきているが、受け入れ側の施設はすでに満員でこれ以上収容する余裕は全然ない。東京都ではやむをえず都立の養護施設に、明年度より幼児棟を増設して、この緊急事態に対処することになった。
 母親との肌の接触が必要であるこれらの幼児が、施設の集団生活の中に無雑作に送り込まれることは、人格形成の上からも最も重要な幼児期であるだけに、受け入れる施設は、どこでも頭をかかえている。直接担当の保母の定数はそのままにして、単にわずかな幼児加算の費用増だけでこの重要な幼児の間題を片づけようとしている厚生省の態度にも反省してもらわなければならない。「神の国寮」は一部改組論も出たが、以上の日本の児童福祉の実情に省み、昭和四十一年八月一日東京都国立市富士見台一ノ三九ノーの現在地に鉄筋コンクリート二階建の完備した施設を、光明建設株式会社の手によって新築し、移転した。もとより、谷口雅春先生の絶大なる御愛念と、生長の家本部の経済的御援助によって実現できたのである。
 現在の収容児重数は、
 一、幼児(三歳より六歳まで)未就学 一六名
 一、小学生(一年より六年)   二三名
 一、中学生(一年より三年)    一〇名
 一、高校生(三年)     一名
   合計 五〇名(男児二九名 女児二一名)
 職員は寮長一名、書記一名、児童指導員一名、保母(内一名は幼児保育担当)七名、栄養士一名、調理員二名、合計一三名である。
 ここで定員五十名に対し幼児が三割以上の十六名も収容されている事実に気づいていただきたい。この傾向は今後もますます強まってゆくものと思われる。建物は、こんなに多くの幼児が送られてくることをみこして設計されていない。幼児の保育室もない。いろいろと足りないところ、不都合、不便な点が痛感される。幼児十六名といっても、三歳から六歳までと、年齢・性別も区々である。これを一人の保母が毎日混合保育するのであるが、なかなか大変なことである。社会性をもたせるために学童は地域の学校で一般家庭のこどもといっしょに勉強させることが望ましいといいながら、それなら幼児も同じように地域の保育園か幼稚園に行かせるべきであると思うのに、それが許されていないし、また費用も支結されない。
 「神の国寮」には幼児が多いだけでなく、普通学級に行かれない特殊学級の児童が、学童三十四名のうち三割に近い十名もいる。多い時は十二名もいた。東京ばかりでなく、全国の養護施設の中でも、これだけ多数の特殊学級児を収容しているところはない。他の施設が敬遠して受け入れようとしないこれらの児童ではあるが、幸い今では社会へ出てから立派に働いている。この努力と成果は各児童相談所からも、都の児童部養護課からも、高く評価され、感謝されている。
 いま日本にある民間の社会福祉施設の大部分は、各宗教団体になんらかの形で結びついている。従来、ともすると施設は地域から孤立し、封鎖的な傾向にあった。しかし施設は地域社会と強力は結びつき、孤立していてはいけないといわれている。直接その施設のある地域の児童が収容されていないにしても、広い意味の地域社会の児童が福祉事務所から、児童相談所を経て、施設に送られてくるのであって、施設は地域社会の人々との連帯に於て、これらの児童の福祉を守って行くべきである。このことの認識を地域の人々に持ってもらわなければならない。「神の国寮」は港区で設立され、長くそこにあったため、港区社会福祉協議会を通じ地域の方々とかなり密接に結びついていた。いろいろの協力と援助も受けていた。国立市に移ってからも、いまだに港区の方々の中にはその関係を続けてくださっている方もある。これは必ずしも誌友の方々ではない。社会福祉施設であるということが、布教活動をしている教団とは別の意味に於て、全く新しい分野に、生長の家の名前すらも知らなかった人々にも、多数に触れる機縁を与えていることにもなっている。一般の善意の方々が、今では裾野のように広く大きく拡がっていてくれて、大変ありがたいことであり心強い次第である。
 生長の家社会事業団は財団法人として認可きれているが、その定款ともいうべき「寄付行為」が実情にあっていないからというので、昭和三十年に全面的に変更させられた。更にもう一度財団法人から社会福祉法人への組織変更が要請されるのではないか。社会福祉施設を経営し社会福祉事業を行なう団体は当然社会福祉法人となるべきで、民法第三十四条による公益法人である財団法人は、社会福祉法人法が実施されない以前のもので、税法上の特典からいっても、なるべく早い機会に社会福祉法人に変更手続をする必要がある。
(生長の家社会事業団事務長・中 神 学)

本音の時代様、生長の家30年史と40年史に書かれている社会事業団の記事を掲載してくださってありがとうございます。 (54629)
日時:2022年12月01日 (木) 06時46分
名前:志恩

>(本音の時代様ー)

問題なのは、社会事業団がなぜ
「著作権が託された」という表現を使い始めた
のかということです。

社会事業団には設立の趣旨、目的、要綱がありますから、
「谷口雅春先生から著作権を託された団体」だからという
うたい文句は必要がないのです。

公益法人への移行後には、活動内容も谷口雅春先生が
総裁であった時と比べると変質しているのではないかと思います。

【批判のためにする話が多すぎる感がします。】と書いていますが、

愛の教えの実践を旨とするのに、
著作権を盾に使用制限をかけているのは社会事業団です。

雅春先生存命の時代、著作権を所有していた
社会事業団はこのようなことをしていたでしょうか。

帰りましょう掲示板では、護法の天使さん(久保理事長)が
社会事業団の沿革等についていろいろ書いていますが、
こちらでは、生長の家30年史と40年史に書かれている
社会事業団の記事を掲載しておきます。<


志恩ー
本音の時代様、すごいですね。
他のスレッドでも、お問い合わせのあった箇所を、
谷口雅春先生の数多くあるご講話の中から、ピンポイントで
お示しくださったので、驚きましたが、

この社会事業団の記事も、生長の家30年史と40年史に書かれている
箇所は、社会事業団の原点だと思います。

谷口雅春先生が、、社会事業団を作られたのは

>「30年史」には、(⭕️は、私がつけました)
終戦後十三年の時の経過は、当時の孤児も青年となり、
街にあふれていた浮浪児も今では盛り場からその姿は消えてはいるが、
施設に入れるべき子供は減るどころか年ごとに増大している。

 貧困による離婚、別居等のくずれた解体家庭からの子供が、
終戦後の戦災孤児に代り一層複雑で困難な問題をせおって施設へ送りこまれている。
これらの子供のほとんどは、ギリギリの線まで追いつめられたあげく施設へ来るため、
受け入れる施設の苦労はなみたいていではない。

さらに最近の傾向としては、非行の子供や、精薄の子供で、本来なら教護院なり精薄施設へ
入れるべきボ一ダーラインすれすれの子供が一般の養護施設へ送られて来ることである。これはこれらの子供の幸いのためにできるかぎり養護施設で一般のまともの子供と一緒に生活させたい児童相談所がわの愛の現われでもあるが、実際は教護院や精神薄弱児施設の不足のためで、受け入れる方としては養護技術の面でもいよいよ困難さを覚えるのである。
 幸いに生長の家神の国寮においては、清都理之寮長の下に保母六名、炊事三名、事務三名、全職員心を合せて、設立者であり、初代理事長であられた谷口総裁先生の設立の御趣旨を体して「生命の教育」により児童の福祉のために子供たちの親ともなり姉ともなって日々子供たちの幸福を念じつつお世話させていただいているのである。

⭕️「養護施設」の維持経営が多額の費用を要して容易ならぬ困難な事業であることは

毎年東京都で開催される関係者による全国社会福祉大会が国家よりの委託費の増額要求の大会である事実からもうかがえるのである。これらの社会福祉施設のほとんどすべてが、キリスト教、仏教その他各種の宗教団体の庇護の下に経営されているのもこのためであって、日本の社会福祉事業の特質をなしている。

委託費の不足分は、赤い羽根運動による共同募金の配分によって補なうことになっていて、いちおう形の上だけではつじつまが合うことになっているが、その額はまことに微々たるもので、しかも、共同募金の配分を受けると一般に呼びかけての寄付金募集ができないため、共同募金の配分を辞退する運動さえ一部で起りつつある。また一方では「養護施設」にまで労働組合がつくられつつある寒心すべき事態でさえある。
 社会事業団は又生長の家本部や関係団体に勤務する職員の子弟のために、
月々育英資金の援助をしているが、現在その数も五十九名の多きに達している。

⭕️社会事業団はかくして各関係団体の職員に、地下水となり、清水の如く滔々と潤いを与えつつある。<


志恩ー
とこのように、
終戦後、貧困に喘ぐ子供たちを保護するための資金援助が主なる
目的の社会事業団の運営であったことが分かりますよね。


つづく

つづき (54630)
日時:2022年12月01日 (木) 07時19分
名前:志恩

(本音の時代様ー)
>『生長の家40年史』に記載された生長の家社会事業団の内容』

「神の国寮」には幼児が多いだけでなく、
普通学級に行かれない特殊学級の児童が、学童三十四名のうち三割に近い十名もいる。多い時は十二名もいた。

東京ばかりでなく、全国の養護施設の中でも、これだけ多数の特殊学級児を収容しているところはない。他の施設が敬遠して受け入れようとしないこれらの児童ではあるが、幸い今では社会へ出てから立派に働いている。この努力と成果は各児童相談所からも、都の児童部養護課からも、高く評価され、感謝されている。
(略)
生長の家社会事業団は財団法人として認可きれているが、

⭕️その定款ともいうべき「寄付行為」が実情にあっていないから
というので、昭和三十年に全面的に変更させられた。

更にもう一度財団法人から社会福祉法人への組織変更が要請されるのではないか。社会福祉施設を経営し社会福祉事業を行なう団体は当然社会福祉法人となるべきで、民法第三十四条による公益法人である財団法人は、社会福祉法人法が実施されない以前のもので、税法上の特典からいっても、なるべく早い機会に社会福祉法人に変更手続をする必要がある。
(生長の家社会事業団事務長・中 神 学)<

志恩ー
生長の家30年し、40年史、の要点を読む限り、
谷口雅春先生は、貧困の子供達や親に虐待されている子供たちを
生長の家が運営している神の国寮(社会事業団)に引き取って、
まともな生活ができるように、まともな学力もつけられるように
という福祉的な目的で、著作権を与え、資金援助のために
創立した、と読み取れました。


 (54649)
日時:2022年12月03日 (土) 01時00分
名前:感想

故松下昭氏は当時の久保さんとかの暗躍など知っていて、
非常に憂いておられたことです。

その為、阪田先生に 
社会事業團の理事長の打診を されたのですが、
阪田先生は固辞された。これは本当の話です。/事情通さん


ことの始まりは、阪田氏に知恵が足りなんだということ。彼が何故理事長を引き受けなかったのかを説明すべきでしょう。
事情団と教団との出版に関する裁判も避けられ、今になり事業団を批判するから、裁判ごとが出てくる。



私の見立てでは、事実を知っている松下氏が亡くなり、
彼らの指導的な立場であった森田氏が亡くなられて、
やりたい放題をし始めたという事だと思っています。

何故、安東氏が注意せずに放置しているのかが謎です。


宗教的にも政治的にも、安東氏の意の通りの世界を実現すべく操り人形の糸を手繰っているのでしょう。が如何せん、官僚独裁国家になり宗教も政治家も繰り人形です。安倍氏でさえ財務に騙された不覚と嘆いていたそうだ。

 (54651)
日時:2022年12月03日 (土) 04時22分
名前:政界ウォッチャー

は❓

>官僚独裁国家になり宗教も政治家も繰り人形です。


『生命の實相』の頭注版に序して (55988)
日時:2023年02月18日 (土) 18時02分
名前:本音の時代

【本書の印税は財団法人生長の家社会事業団に全部寄付されているのであるから、いくら頒布されても私的な収入になるののではないことを申し添えておく。 昭和37年5月1日 著者識す】

印税寄付に重きを置いています。著作権を寄付して、それを根拠に社会事情団に何かをやってもらうというものではないと理解します。印税支払い手続きの煩雑さを解消できる利便性のため著作権を寄付は論がたっています。当時は教団も健全でしたので、教団の行う行事に社会事業団が関わる必要などなかったのです。

表現の比較 (56001)
日時:2023年02月18日 (土) 22時14分
名前:本音の時代

〇躍進する生長の家社会事業団(平成28年1月1日)

 先生は、御教えの根幹となる『生命の實相』及び聖経『甘露の法雨』等の著作権を永続的基本資産として託されました。

〇躍進する生長の家社会事業団(平成28年4月1日)

 谷口雅春先生は、生長の家社会事業団の設立にあたり、聖典『生命の實相』及び聖経『甘露の法雨』等の著作権を永続的基本資産として御寄付され、偉大な真理の法脈を託されました。



〇『生長の家30年史』

 恒久的流動資金として『生命の實相』の著作権収入を寄附行為す。
 生長の家社会事業団がこれらの困難を超え、この事業を今日まで強力に遂行できたことはひとえに谷口総裁先生の御愛念と「恒久的流動資金」としての『生命の實相』の著作権収入が社会事業団の財源として与えられている賜である。


同じ生長の家社会事業団関係者による記述の違いは何を物語っているのでしょう。



躍進する生長の家社会事業団(平成28年4月1日)では (56040)
日時:2023年02月19日 (日) 10時39分
名前:本音の時代

著作権の寄付が、偉大な真理の法脈を託されたことになってるぅー。

まぁー、なんということでしょう。

著作権を託する (56112)
日時:2023年02月20日 (月) 07時52分
名前:本音の時代

谷口雅春先生は、『あなたは自分で治せる』の中でも、
〈私の『生命の實相』及び『眞理』などの著作権(従ってその印税の全部)は、
戦災の遺児孤児を養ってゐる財団法人生長の家社会事業団に寄付されてゐる
のであり、与へる心が大きいから大きく伸びていってゐるのであります。〉

と言われ
〈株式会社日本教文社は 私の著書を出版販売せんがために有志相寄り
出資して 出来上がった株式会社であります〉と書いておられます。



”寄付”は 「人の仕事を助けるために、お金や物を無償で提供すること」
であり、
”託する”とは「自分が出来ない事を他に頼む」事であるという意味です。

谷口雅春先生は「著作権は寄付する」または「印税は寄付する」と言われて
「託する」とはおっしゃっていません。

(48921)より引用



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