生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)

この掲示板は、生長の家の「今の教え」と「本流復活」について、自由に議論をするため に作成したスレッドです。
生長の家に関連する話題なら、広く受け付けます。
どの立場の人の投稿も歓迎しますが、谷口雅春先生の説かれた教えを支持、共鳴する人のためにサイトです。
生長の家創始者・谷口雅春先生のご人格や教えへのご批判をされる内容の投稿は一切許可しません。
明らかに目的外の投稿は、削除の対象となります。
目的外の投稿の判断は、最終的には、管理人である「トキ」の判断になります。
アラシ投稿や他の投稿者様を誹謗中傷する投稿をする人は、警告なしに削除します。また、アラシ投稿をする人は投稿制限をかけます。
以上の方針に同意された方のみ入室してください。
一般論として、オンライン上の投稿に対して、仮に正当な内容の言論であっても、名誉棄損などを理由にして情報開示請求を行う人が世間には一定数存在します。投稿される方は、そのような攻撃を避けるため、気を付けてくださるようにお願いします。

管理人宛の連絡は、 sandaime-kanrinin@ymail.ne.jp へお願いします。

旧・生長の家「本流復活」について考える(したらば版)

生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)

生長の家「本流復活」について考える(せっかく版)

際どい話題は、「生長の家「本流復活」について考える(せっかく版)」にお願いします。

傍流掲示板

別天地の掲示板です。
名前
メールアドレス
スレッド名
本文
画像
URL
削除キー 項目の保存


谷口雅春先生(久遠の尊師)と歩いた人類光明化の道―【中林政吉先生】(元本部講師、元教団理事長) (57422)
日時:2023年03月26日 (日) 02時13分
名前:栞

VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ
谷口雅春大聖師の教えを現代に生かす  より


久遠の尊師と歩いた人類光明化の道  ―  中林政吉先生
2015-07-31

柴 田  達 成


 忠犬ハチ公でおなじみの渋谷から吉祥寺までを結ぶ 
“井の頭線” の途中に、「池ノ上」 という小さな駅がある。 
歩いて5分もすると閑静な住宅街に入るが、この一角に
中林政吉先生の家があった。 

 筆者は、言葉を交したことはないが、
中林先生と会うのは初めてではない。 
東京へ出てきて、渋谷青年会を結成(つく)り、原宿の本部へ
足繁く通っていた頃、中林先生をよく見かけたものである。
 端正な顔立ちと、もの静かな威厳にただ遠くから合掌していたのは
、もう、ふた昔も前の話であったが ・・・ 。

 「エエ。 あなたの名前は存じていましたよ。
 しかしお会いするのは初めてですね」

 開口一番、中林先生はそうおっしゃってニッコリされた。

 晩秋のやさいい日差しが部屋の中を包んでいた。
 先生はその日差しに心地良く身をゆだねながら、
過ぎ去った人生をたぐり寄せてくれるのだった。
それは色彩も鮮やかな一幅の名画であった。


 「僕は明治36年7月に越後川口で生まれました。 
1年の半分は豪雪に埋まる山間部でした。 
耕地が少ないので貧しい農家が多くて、
出稼ぎで生計を建てるような生活でした」

 中林先生の家は22代も続いた古い家柄であったが、
不運にも家運は傾斜していて、大学進学も断念せざるを
得ないような状態であった。 普通こういう場合、青雲の志を
いだいて東京へ出てくるものだが、中林先生は北海道へ渡り、
札幌のデパートの店員になった。

 弱冠18歳の青年であったが、
この地で文学と絵画に関心を深めていった。
 文学をかじると、思想的な模索が始まった。
 左翼思想にひかれて行くのはごく自然であった。
 郷里(くに)の貧しい農民たちを見てきた精神的背景も
あったのかもしれない。

 「当時、“種蒔く人” という社会主義文芸誌のグループがあって、
そこへ傾斜していったわけです。 金子洋文、佐木孝丸、小牧近江
といった人たちがいました。」 

 社会的矛盾に立ち向かおうという正義感もあったのだろう。

 「まず、僕の働いているデパートの職場で婦人解放運動を
始めたのです。 いわゆる実践活動です。 
しかし途中から左翼の事件にかかわって、札幌から
東京出てきたわけです」

 東京へ出てきた中林先生は、
上野の下谷に 「リリオム」 という喫茶店を開店した。 
昭和8年のことであった。 知人の紹介で結婚もしていたから、
店は奥さんとふたりできりもりした。
 近くに現在の芸大や、太平洋美術学校があったから、
客は若い芸術家のサロンであった。 
中林先生もその雰囲気に酔っていた。

 その当時は、画家とか芸術家は、
世間一般からは理解させなかった。
 貧乏という名前がついてまわったのだ。
 これは日本だけの偏見ではない。
 西洋の、後年、名を残した画家たちも生前は押しなべて
不遇であった。

 奥さんと中林さんは、
若い芸術家たちの最もよき理解者であり、
精一杯の支援をしてはばからなかった。 
それが彼等を歓喜させたのだ。

 「小さい頃、画家になりたかったこともあって、
店の中は美術書や、演劇関係の本、文学書、
クラシックレコードも集めて環境を演出しました」

 客の中に鶴岡政男、麻生三郎、難波田龍起といった
後年、洋画壇で大成した人がいた。
 そして忘れることの出来ないのが 佐藤俊介氏 であった。

 「ある日、彼が 『生命の藝術』 という雑誌を寄贈(くれ)たのです。
 僕はまだ唯物論者でしたから、たんなる観念論の雑誌だと
思って気にも止めなかったのです。
 ところが彼はその後も 『生命の藝術』 を寄贈(おい)ていくわけです。
 ある日その裏表紙に 『生命の實相』 の広告が出ていたのです。 
目次を読んで行く内に 『生命の實相』 が読みたくなったのです」

 これが神縁であったのだ。
 初版黒革表紙三方金の 『生命の實相』 を
佐藤氏が快く貸してくれた。 それまで進歩的で新しいと思って
いた共産主義思想が、音をたてて自分の中で崩壊して
行くのがわかるようであった。 

 「『生命の實相』 を読んで、
社会を改造する本当の道を教えられたのです。 
谷口先生が生長の家の真理を宣布する出版会社 
〈光明思想普及会、現・日本教文社〉 を発足するというので、
社員募集があったのです。
 僕は真先に駆けつけて第1号に採用されたのです。 
そう、あれは昭和10年2月のことでした」


 ここで佐藤俊介氏こと
 松本俊介氏 を少し紹介したいと思う。
 実兄の彬氏は谷口雅春先生に共鳴して
 「生命の藝術社」 を設立して 『生命の藝術』 を創刊した人であった。
 父親の勝身氏は岩手の盛岡で生長の家の支部長の要職にあったが、
後に一家をあげて上京して、光明思想普及会の編集部に入社している。 
松本家に入籍した俊介氏であったが、妻・子さんの父親・松本肇氏 
〈慶応大学英文学教授〉 も熱心な生長の家の幹部であった。
__________________________

 こうして光明思想の感化に恵まれる環境にあったが、
13歳の時、流行性脳髄膜炎にかかり聴覚を失っていた。

 「僕との会話はすべて筆談でした。 
お金を貸してくれといえば、その日の仕入れ分だけ残して
貸してやりました。
 勝れた評論と絵画に才筆をふるいながら36歳の若さで
夭逝したのです」

 しかし、中林先生にとっては生涯、忘れることの出来ない友人だった。 
何よりも生長の家との出会いの橋渡しをしてくれた恩人であったのだから。 
そして、生涯もうひとり忘れることの出来ない恩師がいる。


 「谷口雅春先生です。
 先生とは10年違いますが、思い出もずい分あります。 
僕が満州から引き揚げてきた時、先生はお祝だといって
3千円くださったのです」

 いきなり満州といっても困惑される読者諸兄もいらっしゃるだろう。 
谷口先生は、
「真の民族協和生長の家の信仰と、その精神をもって初めて達成される」 
 と教示されて、次々と講師を大陸に派遣された。

 中林先生も昭和15年6月、満州国駐在講師として赴任する。
 奥さんと子供には、あとから来るようにといって、
とりあえず単身赴任であった。 
鞍山昭和製鋼を中心とする工場、会社、奉天の工業地帯、
さらに新京の中央官庁、
満鉄社員会の光明化に努められて、
昭和17年には、「満州国建国10周年慶祝講習会」 が開かれた。
 谷口雅春先生が初めて国外出張された記念すべき講習会であった。

 「奉天、新京、ハルビン、大連等から集った聴衆は2500名を数えたのです」

 しかし20年8月8日、ソ連軍の参戦を知らされて、
1週間後に天皇陛下の玉音放送を聞いて茫然自失の状態になったという。

 それから地獄絵図が展開された。 
ソ連軍がソ満国境より雪崩のごとく侵攻してきて正視できない暴威を
振ったのだ。 
混乱は続いた。 
今度は新京に進撃してきた、八路軍の市街戦が展開された。
 この時、中林先生は左下顎部に銃撃を受けている。

 「しかし民族協和の実証がまもなく示されたのです。
 新編中国軍の下士官たちから、同居がゆるされたのです。 
彼等5人と家族同様の生活が引き揚げまで続いたのですから ・・・ 」

 昭和20年10月に佐世保に上陸すると、
不思議なことに、手もとにあった新聞に生長の家の広告が
出ていたのである。

 「もう、取るものもとりあえず、
引き揚げのままの姿で一家で谷口先生の所へ駆けつけたのです。
 今でも思い出します。 先生はモンペをはいて畠仕事をされていました。 
そうして、お祝いだといって3千円と、着物一揃いを下さったのです。 
その時の3千円といえば大変なお金です。 裸一貫で帰って来て
国から支給(いただ)いたお金は一人に付き1千円でしたから」


 中林先生のお宅には、
故林武氏の赤富士の絵が飾ってある。 
林武氏も生長の家の信徒として、あまりにも有名であったが、
中林先生は、この絵を林さんから贈られたという。
 小さい頃、絵描きになりたいと思ったという中林先生の夢は
実現しなかったが、こうして高名な洋画家と出会えたのも、
生長の家の奇しき縁であったと思うと、不思議な気がする。
 筆者は、林さんの絵の中に、中林さんの魂も共存して生きているよう
な気がしてならなかった。

 今、中林先生は静かに航海の余韻をかみしめている。
 思えば長くて、短い航海であった。

 「谷口雅春先生とご一緒させて頂いた僕の50年は、
神さまと、雅春先生に生かされてきたのだと、しみじみと感じています。
僕の心の中に生きている雅春先生に、今はただ合掌する日々です ・・・ 」

 思えば、かつて一緒に人類光明化運動に魂をうち込んだ
生命の友だちも今は鬼籍の人となってしまった。

 「吉田國太郎、服部仁郎、辻村彦次郎、高橋直治くんたちのことも
思い出すなあ ・・・ 」

 頭髪はめっきり白くなったが、
血色のいい顔は明日をみつめて青年の覇気があった。

 ふた昔前に初めて筆者がお会いした時の威厳も健在であった。 
そして高貴な風貌に、仏像にも似た気品が輝いていた。




   『精神科学』 誌   昭和63(1988)年1月号 より
________________________________






谷口雅春先生について語る。《徳久克己先生・中林政吉先生・河田亮太郎先生》  (57424)
日時:2023年03月26日 (日) 02時29分
名前:栞

再掲:
座談会・久遠の尊師 一人一人の心の中に
 【「生長の家」誌 昭和60年10月号より】 (7796)
日時:2017年09月23日 (土) 10時58分
名前:本音の時代

座談会・久遠の尊師 一人一人の心の中に 【「生長の家」誌 昭和60年10月号より】

《出 席 者》
 生長の家長老 栄える会名誉会長   中林 政吉
 生長の家長老 飛田給練成道場総務  徳久 克己
 生長の家長老 神奈川教区教化部長  河田亮太郎

昭和60年8月7日・日本教文社応接室にて収録
___________
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/snihonryuu/mode=res&log=3123


栞ー
本音の時代様が貴重な記事を掲載されてました。


第二掲示板より、立葵様のコメントの一部抜粋 (57425)
日時:2023年03月26日 (日) 02時38分
名前:栞

第二掲示板より

(⭕️は、わかりやすくするために、栞がつけました。)

立葵ー
前略
>當時、滿洲への入口として渡し舟ならぬ渡し筏が國境の大河鴨麹]を流行歌を生むほど往來したこと、滿洲で生きたあまたの先人がいらしたこと、そこで中林政吉先生を筆頭に生長の家の御ヘへも懸命の努力で大いに宣布されて谷口雅春先生も巡錫なさつたこと、戰局の惡化と共に内地で困難となつた聖典の出版の一部を擔つたこと等、さまざまなことがまた思ひ起されました。
満洲での我が國の先人の營みを、距離をもつた上から
目線で⭕️暴走と論斷する日本人もおいでのことは遺憾です。

 歷史の光と影との兩面を檢證することは大切なことです。
しかし、そこに現實に生きて信仰した方々の魂を同じ日本民族の
後世を托された者として寄り添つて振り返る立場があれば、
たとひ至らざりし點を指摘するにしても⭕️暴走などといふ言葉で
表現することはあり得ないと思ひます。<



栞ー
立葵様って、本当に全体を読めない頭の
偏ったおかただなと、ため息が出ました。

『満洲暴走隠された構造』安冨歩著....
https://bbs5.sekkaku.net/bbs/toki2/mode=res&log=7756

立葵様は、またしても『満洲暴走隠された構造』を読まずして、
まるで、「満州、暴走」と書いたことが、満州で中林政吉先生を筆頭に
生長の家の御ヘへも懸命の努力で大いに宣布されて谷口雅春先生も
巡錫なさつたこと、戰局の悪化と共に内地で困難となつた聖典の出版の
一部を擔つたこと等を、ひっくるめて、

生長の家のことを悪く書いた、
そして日本人の先人のことを上から目線で暴走と論断する
日本人がおいでなのは遺憾です、などと、

決して、現実を見ようともしない、
ひどくピントはずれな言葉を書いておられるのには、あきれすぎて、
脱力しました。

生長の家が満州において光明化運動を熱心に行ったことと、
先人の日本人が、わずか今から70年前に、
満州を植民地にした後、どのような
ことをしたのかということとは、まったくの別問題だからです。

(この本のp13−15)
満洲というのは、もともと樹海というのがふさわしい鬱蒼とした
大森林があった地帯だったのです。そこには、樹齢500年を数え、
高さ40Mを超える朝鮮紅松の果てしない森が広がっている地域が
ありました。また大森林のほかに広大な湿地帯と草原とがあり、
多様性の極めて高い豊かな生態系がありました。

その豊かさゆえに、他の地方では絶滅した
貴重な動植物もたくさん生息していました。
虎を見ることは珍しくなく、
豹に至っては猫の如くいました。
略、まさに動植物のユートピアだったのです。

しかし、日露戦争後、1930年ごろになると、
日本から開拓団が来て、
森林はその多くが伐採され、山々は、禿山と化し
動物もいなくなりました。

日本人の、人間の営為は、ある条件が整った時、
誰にもとめられないような
爆発的な拡大、つまり暴走を始めます。
ただ一面の大豆畑にされたからです。

つまり、開拓団として満洲国へ入り込んだ
日本人の最初の暴走とは、これを言います。
満洲国の大自然をことごとく破壊したことを言います。

そして、この暴走は取り返しのつかない暴走となり
次は、日本陸軍の中枢部が、いかに取り返しのつかない
暴走をして、アジア太平洋戦争へと突入していったかを
詳しく書いてあります。
日本が大きく関与して。

満洲国は立ったの13年間で崩壊したのです。

私たちは、そこに70年経っても驚くほど変わらない
暴走の構図を見出すことができます。

詳しくは長くなりますから省きますが。

現在の日本の国も、昔の満洲国になっていると
警告を発しているのです。

是非、この本を読まれてから、正しく批判されてください。
立葵様。



教団の理事長でいらした中林政吉先生との思い出 (57430)
日時:2023年03月26日 (日) 05時06分
名前:栞

私が本部へ奉職した昭和36年頃の
理事長先生は、辻村彦次郎先生でしたが、
その後、
渉外局局長であった中林政吉先生が、
教団の理事長に、ご就任されました。

中林先生は、平岡初枝先生の大フアンで
いらした先生でしたが、私のことも、先生とは
孫ほどの年の差が、ありましたが、すごく気に入って
くださってて、可愛がってくださいました。

私の結婚式の時も、教団理事長という肩書きのまま
御出席くださいました。
とても温厚な良い先生でした。



原宿本部の理事長室にて
中林政吉理事長先生と私。
昭和42(1967)年。
(中林先生 64歳、
  栞、25歳)



Number
Pass
管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板