生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)
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生長の家社会事業団は、なぜ著作権を言い出すようになったのだろう。特に「著作権を託された」 (57729) |
- 日時:2023年04月01日 (土) 11時58分
名前:本音の時代
生長の家教団が環境の話題に偏重し、本来の教えの普及が薄らいだと感じてきた時期に、「生長の家」の名称がついている社会事業団が生長の家の教えを正しく伝えてくれたらなぁ〜と思っていました。それは『生命の實相』の著作権を所有しているからということではなく、正統な『生長の家』のいう名称を戴いているのだからという思いだったのです。『生長の家』の名称を受け継いでいる団体、それが社会事業団であるということで充分名目は立つと思います。
教団はたしかに環境および総裁の個人的趣味に偏重していますが、立教の使命に合った活動が皆無になったのかというとそうではありません。逆に著作権による真理の言葉の使用制限をかけ、いわゆる光明化運動の皆無化に拍車をかけているのが社会事業団であるように思えます。これでは人類暗黒化運動になるのではないでしょうか。教団と同じになっては困るのです。愛の生長の家をつくりましょう。
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(57952) |
- 日時:2023年04月11日 (火) 21時01分
名前:梶猛弩
信仰・精神を伝え広めていくべき組織が自らの権利を主張して、信仰・精神の輪の拡大どころか縮小させているのは、好ましいこととは思えません。 生長の家の教えは、輪読会や愛行といった、本による伝道を中心としてきたわけですから。
著作権法には、 ・私的使用の場合(第30条) ・報道、批評、研究その他引用(第32条) ・営利を目的としない公演・上演・口述(第38条) 等については、著作権者の許諾を得なくても使用可能との規定もあるわけですし。
宗教団体や公益団体が、自らの著作権を大々的に主張し、 本当なら一人でも多くの人に読んでほしい著作物を、 皆が読まなくなっていく風潮をつくるのは、本末転倒だと思います。
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印税未納分は時効があっても神の国寮のために社会事業団に支払うべきであろう。 (57953) |
- 日時:2023年04月11日 (火) 23時03分
名前:本音の時代
復刻版生命の實相の印税が社会事業団に支払われていなかったことは周知の事実でありましょう。未納が発覚した時期の印税相続人は谷口清超先生と恵美子先生でありましょう。たとえ時効であったにせよ神の国の寮のため(それは谷口雅春先生の思いでもありました)に、やはり支払うべきだったのでしょう。谷口雅春先生の思いより、金お取ったということなのでしょうか。ここから、対立が始まったのではないでしょうか。生長の家であっても金が優先していたことが露呈されています。 金銭問題が生長の家の関係者の対立の始まりだなんて、哀しすぎますね。 カネ、カネ、カネは社会事業団だけではなかったのですよ。 金の関係ではない、愛の生長の家をつくりましょう。
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信者・会員の目線で考える宗教や公益団体であってほしい (57955) |
- 日時:2023年04月11日 (火) 23時54分
名前:梶猛弩
>愛の生長の家をつくりましょう。
その通りだと思います。 というか、当たり前すぎるくらい当たり前の「愛の生長の家」が 「しましょう」と掛け声をかけないといけないくらいの現状が寂しいかぎりです。
喩えとして適切かどうかはわかりませんが、 鉄道の駅ビルにデパートが入居していて、 デパートの賃借料がビルを所有する鉄道会社に支払われなくて訴訟に発展しても、 鉄道会社やデパートは、どちらもお客様(乗客・買い物客)に迷惑をかけないよう最大限の配慮をします。それが普通の社会での普通の会社です。 大々的に裁判したところで、相手方の利用を制限したりしません。お客さんが不便になったり、ドッチラケたお客さんが逃げて行ってしまうからです。 裁判が終わった後、淡々と法律に則って手続きをして、支払うか出ていくか、どちらにしても最終日までは普通に営業します。
今、生長の家でやっている争いは、法人間でやっている訴訟に、信者さんを巻き込んでしまっています。
乗客のことを考えない鉄道会社はないし、買い物客のことを考えないデパートもない。
だけど、これが生長の家の団体間になると、信者さんの目線で考えなくていい? 組織が裁判に勝った負けたで信者さんを振り回す。
企業でも当たり前のように配慮することを、公益を称するところ、宗教を称するところが、配慮しない。
利潤追求型の私企業でさえ行う配慮をしない現状は、“愛の〜”とは対極に位置していると思いますね。
もちろん、裁判を情報公開上必要な範囲でプレスリリースとかは必要ですが、鼻高々に勝っただの、相手が悪いだの喧伝する様は、個人的には情けないです。
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