生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)
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旧・生長の家「本流復活」について考える(したらば版)
生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)
生長の家「本流復活」について考える(せっかく版)
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谷口雅春先生に訊け (59628) |
- 日時:2023年07月10日 (月) 00時13分
名前:訊氏ファン
生長の家「本流復活」について考える(通称:トキ掲示板)の重鎮 訊様のブログには、後世に残すべき写真や音声、文書などが多数掲載されています。
少しでも多くの皆様に知っていただくために、少しずつ当スレッドにアップしていきます。 よろしくお願いします。
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(59629) |
- 日時:2023年07月10日 (月) 00時20分
名前:訊氏ファン
吾々は何故此の敗戦によって悪い窮地に追い込まれたのであるかと云うことを反省して見たいと思うのであります。それを神の試練と呼ぶ人もありますが、『生長の家』ではそうは言わない。神は絶対の愛でありますから、試練と云うものを遣わし給う筈はない。自分が増上慢の道を歩くようになり、俺が偉いんだ、だから俺がやることは皆正しいと云う気持になって突進して行って、自分と自分で壁にぶつかったのであります。(中略)日本は日清戦争に勝ち、日露戦争に勝ち、朝鮮を併合し、欧州戦争に参加して南洋の島々を委任統治としてわが傘下に収め、満州国を緩衝国家として創立した。そして自分の思うことは必ず成就する、 『俺が』偉い、『俺が』『俺が』と思っていて反省がなかった。 軍の力なら何でも出来ると思って、一羽の雀も神の許しなくしては地には落ちない、すべて神のめぐみだと云うことを忘れて反省がなかった。真に神の御心を実現するのだったら、日本民族はもっと愛を行じなければならなかったのです。
「白鳩」誌(昭和21年2月号)より謹写――
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(59630) |
- 日時:2023年07月10日 (月) 00時22分
名前:訊氏ファン
「生命の實相」の巻頭には、天地一切のものに和解したら、『天地一切の何ものも汝を傷つけることは出来ぬ』と書かれてある。責める心は和解していないこころであるから、傷つく心である。好戦的こころである。若し貴方が病気であるならば誰かを責める心を持っているのではないだろうか。そういう点についてよくよく反省して見なければならないと思う。「責める」も「攻める」も語源は同じである。真珠湾を攻めた日本軍は一時勝ったように見えたが、傷ついて敗退した。そう言う攻撃精神では、永遠の勝利はない。家族を責めるこころも、知人を責めるこころも、全て「和」のこころではない。だから傷ついたのである。その傷つきの一つの表われが病気である。一切を拝み、一切の人に感謝する「生長の家」式の心になったときには、戦わずして傷つくことがない。絶対和――すなわち絶対の健康の心である。
病める人々よ、省みて、心に責めている者あらば直ちに和解せよ。『神はすべての渾てであるから、和解したところに神の癒力があらわれる』のである。
「白鳩」誌(昭和21年5月号)より謹写――
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(59631) |
- 日時:2023年07月10日 (月) 00時24分
名前:訊氏ファン
神示に『戦いの時は来たのだ』とありましても、私の考えでそれを『戦っても好い』とか、『戦えよ』とか云う戦争是認の言葉だとは思えないのです。『戦いの起るべき因縁の時期が来た。善いとか悪いとかの問題ではない。梅の花の開く時期が来たら自然に梅の花が咲くように、戦いの起るべき時期が来たら戦が起るのだ。その時に善処し得るよう心を引きしめて居れ。』と云う意味に解しています。だからあの神示は、貧しい国が富める国を掠奪することを勧めることでも是認することでもないと思います。唯かくなるべき因縁の時期が来つつあるとの知らせであるのであります。
「生長の家」誌(昭和八年四月号)より謹写――
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(59632) |
- 日時:2023年07月10日 (月) 00時25分
名前:訊氏ファン
大東亜戦争は日本は形の上では敗戦に終ったけれども、実質の上から言えば、寧ろ勝利ということができるのである。何故なら、日本軍は、あの戦争の発端より約一年間、連戦連勝、破竹の如き勢いをもって南方諸国に殺到して、白人の勢力を東南アジア諸国から一掃したのであった。こうして東南アジアや諸民族に対して、有色人種と雖も、決していつまでも白人の桎梏の下に苦しまなければならないことはないぞ、「汝らも亦神の子なり」の自覚を植えつけることに成功したのである。かくして人類進歩の一周期の終りに近づいた時点に於いて、日本は神から与えられた「世界すべての民族よ、有色民族といえども皆神の子≠ネり」という真理宣布の役割を果たしたのであった。
「理想世界」誌(昭和四十三年八月号)より謹写――
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(59633) |
- 日時:2023年07月10日 (月) 00時26分
名前:訊氏ファン
日本国民が国家を愛して国家を護るために戦った。その戦い≠ニいう行為は、対手(あいて)があり相対的なものであるから、立場立場の異なる人々によってその価値・不価値を色々に評価されるけれども、その戦い≠ニいう相対的行為の奥にあるところの日本国民が天皇を愛し大日本帝国を愛したというその純忠なる愛≠フ価値は相対的比較を絶した絶対なるものであるから、肉体という相対的存在が滅びても永遠にその愛≠フ価値が滅びることはないのである。純粋の愛は、絶対者に属し、絶対界より出でたるものであるが故にそれは永遠の価値をもっていて滅びることはないのである。
『続真理の吟唱』より謹写――
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訊け様ブログ (59641) |
- 日時:2023年07月10日 (月) 06時29分
名前:志恩
丑三つ時から始まったから、これから夜明けの記事に 移るんじゃないのかしら、
丑三つ時から夜明けへ
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元信徒は口出しすぎ (59643) |
- 日時:2023年07月10日 (月) 08時31分
名前:かつての信徒
>最初は、光明真理のでお願い出来ませんか? もう少し明るいものでお願い出来ませんか? こちらのお写真と内容に何か特別な意味があるのでしょうか? 最初からあの内容では、初めての読者にはちょっと重くないですか?
じゃ、あんたがやれよ。
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(59647) |
- 日時:2023年07月10日 (月) 09時54分
名前:元信徒
ごめんなさいね、 続けて下さいよ。
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(59657) |
- 日時:2023年07月10日 (月) 20時14分
名前:訊氏ファン
私は『生長の家』と云う大いなる団体を作って、その主宰者となり、自分の団体の勢力を拡張したいとは思っていない。ただ私の心の中には国家あるのみであり、人類あるのみである。ここに私は『国家』と『人類』との二つを同格に並列せしめて語ったが、私にとっては『日本国家』と『人類』とは同格なのである。日本国家が栄えることによってのみ、人類は栄えるのである。『生長の家』で説く『實相』は、既往の仏教者の大多数が誤って『實相すなわち空なり』と説いたような『空』ではない。『實相』とは空気のような、エーテルのような空しき無常の存在ではない。實相とは無限荘厳の組織体である。だから實相が顕現するとは、無限荘厳の組織体がこの世界に顕現しなければならない。そしてヘーゲルも云ったように『国家は最高の組織体である』が故に、完全なる国家の顕現が、實相の顕現であるのである。而して世界にありとあらゆる国家組織体のうち、日本国家のみ≠ェ最高完全の組織体である。その理由は、その中心(すめろぎ)が万古不易(ばんこふえき)永遠に続いているからである。外国の国家のように中心定まらず、時々交代するようでは最高完全の組織体とはいいがたい。それ故『日本国家』は神の理念の最高顕現であり、無限荘厳の實相の顕現であるのである。而して『日本国家』が広がり行くことは實相の顕現がひろがり行くことになる。『日本国家』のために尽くすことは『人類』のために尽くすことになる。
人ややもすれば『国家』的立場は一つの執着の立場であり、人類的立場は一層高き普遍平等的立場であると思いたがろうとするのであるが、日本国家に於いてのみ、国家的立場は人類的立場と完全に一致するのである。国家的立場と家族的立場とは悉く『まこと』(實相)の一つに於いて一致する、これが生長の家の光明思想である。
『明窓浄机』より謹写――
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(59658) |
- 日時:2023年07月10日 (月) 20時16分
名前:訊氏ファン
戦時に於いては絹布の如き国内生産品は、少しも節約することは不要ですが、海外より輸入する物は軍用資材のみによることにし、高価な絹布を使用しても木綿と雖(いえど)も輸入品はなるべく使わないことにし、輸入を軍用資材に譲らねばなりません。一定量の正貨をもって海外支払いをなすためには、無選択な輸入をしているようなことでは、国家の経済を駄目にします、 『使えば使うほど殖える』と云うのは金を使うことばかりでなく、智慧をも充分使わねばなりません。金を使うことばかりに懸命になって、智慧を使うことを忘れていては『使えば使うほど殖える』と云う経済理論は実現しないのです。智慧と愛と生命と供給(金、物資)を同時に百パーセントに働かすことによってのみ、『使えば使うほど殖える』生長の家経済理論が現実になるのであります。
『明窓浄机』より謹写――
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(59659) |
- 日時:2023年07月10日 (月) 20時19分
名前:訊氏ファン
兎も角、生長の家は今や海外諸国にまで日本にこういう好い思想が生まれたと云うので、日本の名誉となりつつあるのである。
近来國體明徴が叫ばれ、日本精神が叫ばれているけれども、日本精神が『大和(やまと)』の意味に於いて、一切包容統一の意味に於いて叫ばれないで、すべて日本的と云うものを非常に狭義に解して、日本的でないという意味に於いて、基督教を排斥し仏教を排斥し、ただ小さき伝統の中にせぐくまってしまおうとする傾向があるのは、大和の日本精神を誤解するものと云わなければならないのである。
『明窓浄机』より謹写――
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感想 (59663) |
- 日時:2023年07月10日 (月) 23時30分
名前:一事が万事
スレッド主の訊氏ファン様はスレッド名を 「谷口雅春先生に訊け」と付けられました ところが元のブログの名は「谷口雅春に訊け」です 呼び捨てにする人は谷口雅春先生の信奉者では珍しいから スレッド主さんも呼び捨てを真似ることが気が咎めたんでしょう
写真の選定は…… 余計な口出しはやめときましょ
水を差すのは申し訳ないので そのうち退散もとい退出します
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明治日本の精神 (59686) |
- 日時:2023年07月11日 (火) 18時41分
名前:訊氏ファン
明治日本の精神というのは、非常に質素で、質実剛健であったのであります。本来、日本人の物の考え方というものは、質実剛健なのである。吾々日本人は、よくもったいない≠ニいう言葉を使うのでありますが、もったいない≠ニいうのはね、物体無い≠ナあります。物≠ニいう字は、物=iぶつ)とも読むけれども無一物≠ニか無一物中無尽蔵≠ニかいう言葉もありますが、この物体無い≠ニいうことは、一切のものは物体(ぶったい)ではない≠ニいう言葉でありまして、生長の家の教えの説く物質無し≠ニいう真理を表現しているのであります。
『美しき日本の再建』11項より謹写――
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(59687) |
- 日時:2023年07月11日 (火) 18時44分
名前:訊氏ファン
いのちを拝む ――明治の日本精神
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新生への言葉 (59688) |
- 日時:2023年07月11日 (火) 18時47分
名前:訊氏ファン
昭和二十一年一月元旦、吾等日本国民は真に新たに生れたのであります。吾々は今や二千六百年の短かい歴史をもった小日本国の国民ではなくなったのであります。今月今日、『吾等は世界を国とする人』即ちコスモポリタンとなったのであります。吾々はもう地上の一国の歴史と言うものに縛られなくなったのです。陛下はこの日詔書をお下しになり、
『朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯(ちゅうたい)ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非(あら)ズ。天皇ヲ以テ現御神(あきつみかみ)トシ、且(かつ)日本国民ヲ以テ他ノ民族二優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念二基クモノニモ非ズ。』
とハッキリと宣言し給うたのであります。私は此の詔書を新聞で読んだときに、愕然としたのであります。日本国民の殆ど全部はあの八月十五日、陛下の玉音で、終戦の詔勅を承ったときに愕然とし、放心し、やがて潜々(さんさん)と両頬に伝わる涙を自覚したと言われておりますが、私はあの時少しも悲しくもなかったし、愕然ともしなかったし、涙もこぼれなかったのであります。私はあの時、『ついに来るべきものが来た、よかった。ニセ物の日本の戦は終った』と感じたのであります。私はもうその一年も前に霊界に於て、終戦の運動が開始されていることを知ったのであります。恰度今から一年前の一月は、山口県を巡行しつつ講習会を開いていたのでありますが、そのとき山口市の講習会では湯田の町にある大きな温泉宿にとまった。その温泉は二月から傷痍軍人の療養宿舎になる為に一切の客あしらいの道具を引まとめて他へ移転し、板場などもいないために客を泊めることは全然断っていたのでありますが、その旅館の支配人をしていた人や、女事務員の数名が生長の家の誌友だった関係から私と随行の吉田國太郎講師とだけを、営業上の客としないで、ただ私的来客と云う形で泊めて貰ったのであります。その数十室もある大旅館に、周囲の室には誰一人客はない。恰度それは四十何年来の寒さだと言われ、雪の多い年で、湯田の町は雪に蔽われ、町をとりかこむ遠山も白くなっていますが、それも降る雪に霞んで見えていたものです。
私はその一室に女事務員が特に気をつけて準備してくれた炬燵にあたりながら、吉田講師に部屋へ来て貰ったのです。そして『此処は周囲の部屋には誰も客はない、立ち聞きする人もない。今まではこんなことを言って誰かに聞かれたら、憲兵隊に引張られるから言うことを遠慮していたが、今日は本当のことを言うが、僕は今の日本の戦は、陛下の御意志でないと思う。随ってそれは皇軍と言うには相応しくない。そう云う感じがある。僕は若し、陛下の側近に近づく資格があるならば、直接『今の戦争は陛下の御意志ですか。世界の人民が何百万死んでも、陛下は御自分の面積を拡げることの方が大切なのでありますか』と訊いてみたい。大体、この頃新聞に出る『出血作戦』と云う大見出を見ると、これは邪道の戦いだと云う感じがする。一視同仁の神のみ心から御覧になったら、アメリカ兵と雖も神の子である。その神の子であるアメリカ兵を出来るだけ沢山殺す方が好いと云うようなそう云う戦争は神の御心ではない。随って無論、陛下の大御心ではない。随ってそう云う戦争をする日本軍は皇軍ではない。日本の戦は血ぬらずして相手を和らげる、即ち「ことむけやわす」であって、「コト」即ち、「神のミコトバを差し向けて和らげる」のが皇軍である。僕は「皇軍必勝」と皇軍の勝つことを祈り書いているが、その皇軍は今の日本の軍隊のほかに別にあるような気がする・・・・・・』と言ったのであります。そして『君に反対意見があるなら忌憚なく言って貰いたい』と続けたのであります
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「神のみ恵み」を忘れていないか (59689) |
- 日時:2023年07月11日 (火) 18時54分
名前:訊氏ファン
軍の力なら何でも出来ると思って、一羽の雀も神の許しなくしては地には落ちない、すべて神のめぐみだと云うことを忘れて反省がなかった。真に神の御心を実現するのだったら、日本民族はもっと愛を行じなければならなかったのです。
神は愛であり慈悲であり給う。それを行じないで、却って軍の飽くなき侵略慾のために殺戮を恣まにして進んで行ったのであります。近衛公の自殺後二日目に発表された『日本産業新聞』所載の近衛公の聞き書きには、軍が天皇の御意志も、総理大臣の心も無視して勝手に支那奥地へ戦争を拡大して行ったことが明瞭にかかれております。その間違った軍の利己的な欲望を満足させる為に『愛』の心を殺し、従って神の心を殺して我慾で突進して往った。斯くの如くして敗戦となったのであります。 之は即ち自分の我で突き進んで行き詰りを生じたのであります。今日本は方向転換をしなければならない。如何に方向転換すべきか、それには神の御心を現すようにすることが必要なのは、国家に対しても個人に対しても当箝る道理であります。『何よりも先ず神の御心を、今、此処に実現せしめ給え』と、吾々は祈らなければならないのでありますが、利己的な人には、そんなに云って祈るのは、何だか危いような気がするでありましょう。利己主義の人にとっては、神様の御心にまかせて置いたら、『死ね』と云われたり、『貧乏になれ』と云われたら大変だと思い、『どうぞ健康にならしめ給え、無限の供給を与えたまえ』などと祈る方が確かだと思う ― これはまだ利己主義が無くなっていない証拠であります。
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ある傷痍軍人の實例 (59702) |
- 日時:2023年07月12日 (水) 21時25分
名前:訊氏ファン
「神様のお創造(つく)りになったものは全て美しい。そこには神の生命が動いておって、皆んな美しいんだ。この截(き)り立った山の肌は山の一部が崩れて落ちた跡で、謂(い)わば、これは山の傷痕(きずあと)である。此の山の傷痕でさえもこんなに美しいのである。
『無限供給の扉を開く』より謹写――
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祈りについて (59703) |
- 日時:2023年07月12日 (水) 21時28分
名前:訊氏ファン
宇宙の本体というものは、宇宙に充ち満ちている一つの法則ですから、法則に祈ってみてもきかないということになる。例えばラジオでも、波長を合わさないでいて、沢山賽銭でも供えてどうぞ、これが鳴るようにして下さい≠チて拝んだって鳴りやしないでしょう。波長さえ合わせたら、賽銭も何も供えないでも鳴るでしょう。だから本当は、念ずることによって心の波長を神に合わせることが祈りなのです。しかしそれまでの手続きとして神様どうぞ≠ニお願いした極致にああ、これによって神様が来てくださって一つになれた≠ニいう感じに誘導していく、そして波長が合うということになるのです。ですから、頼む形式の祈りも時として効果があるし、頼まないでも、一つという自覚がでてきたら、それでも効果があるわけです。
『幸福をひらく鍵』277頁より謹写――
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「慶びを積みて後に」 ―― 八紘為宇の本当の神武精神 (59705) |
- 日時:2023年07月12日 (水) 21時38分
名前:訊氏ファン
神武天皇建都即位の御詔勅の中に「下は即ち皇孫(すめみま)正しきを養い≠スまう心を弘(ひろ)めん」とあるのは、日本書紀巻第三(神武天皇の巻)の冒頭にちかき所に、瓊々杵尊(ににぎのみこと)が「正しきを養い、慶びを積み、暉(ひかり)を重ね…」とあるのに相対するお言葉である。このお言葉はキリストの「先ず神の国と神の義(ただしき)を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし」という教訓と全く同じ精神なのである。神の国の正義を自己の内に養い、修養して、よろこべば喜び来るの原理にしたがって、慶びを積み、心を明るくして神の暉(ひかり)を自己に受信し得る波長を心に起すのである。そうすると、自然に「その余のことは汝らに加えらるべし」である。だから「然して後に§Z合兼ねて以て都を開き、八紘(はっこう)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(なさ)ん」であって、この「然して後に」の語には千鈞(せんきん)の重みがあるのである。 暴力や詭計(きけい)や武力を背景としての強制力によってかくならしめるというのではなく、神の国の秩序であるところの「正しきを養い、慶びを積み、暉(ひかり)を重ねて」来たならば、自然に実相が顕現してそのようになるというのが「然して後に」であるのである。
従って「然して後に」来(きた)るところの「六合(りくごう)を兼ねて以て都を開き、八紘(はっこう)を掩いて宇(いえ)と為(なさ)ん」ということは決して侵略精神ではないのである。内在の神の国の実相があらわれて、自然にそのように顕現するというのである。これはキリストのいわゆる「その余のものは汝らに加えらるべし」に当るのである。
六合とは天地四方であり、あらゆる方角の国々にもそれぞれ独立国としての都は厳存するけれども、更にそれを総合する世界連邦政府の都を兼ねて♀Jくというのであって、神武天皇時代にこのような世界連邦の構想を建国の理想に掲げられたことは、神武天皇の霊感の素晴しさを物語るものである。
そしてそれが世界連邦の構想であるということが解れば、「八紘為宇(はっこういちう)」ということも決して侵略的精神ではないことが理解できるのである。元来、紘とは冠(かんむり)の紐(ひも)のことである。「紐」は「緒」ともいうのであるが、「緒」は「玉の緒」すなわち「魂」をあらわすのであり、お公卿さんがかむる冠の緒を顎の下で一つに結び合わすように、世界各国各民族の魂を仲よく結び合わせて、それを一家庭の如くするというのである。
こういう八紘為宇の本当の神武精神がわかっていたならば、戦争も起らなかったにちがいないのであるが、それを軍閥が曲解したために、あの戦争は起ったと言い得るのである。
『私の日本憲法論』」91頁より謹写――
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豊かさの見つけ方 (59735) |
- 日時:2023年07月13日 (木) 20時11分
名前:訊氏ファン
突然ですが、 テストです。
<問題> あなたはどのようにして、愛、健康、豊かさ、さとりを見つけますか?
<答>
さがすことをやめます。 そして、いつも、そこにあるものを見始めます。
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「病に感謝する」 ≠ 自壊作用 (59776) |
- 日時:2023年07月14日 (金) 20時31分
名前:訊氏ファン
或る人の息子が病気になった。永い病気であるから息子の嫁が、良人においしいものを食べさせたいと思って、料理を習い始めた。そして、大変おいしい料理が出来るようになった。姑さんは「これも息子の病気のおかげですよ。有難いと思っています」とおっしゃるのである。
この姑さんの言葉は、一寸考えると進んだ心境の人の言葉の様に思えるが、これはいつのまにか受難礼賛に陥っている。一方に不幸があるので、ありがたい結果があらわれると考えるのは、不幸をもって幸福に必要な前提とする間違った信仰である。
「病気になっても有難いと病気に感謝しなさい」と説く場合もある。これは紙一重の差で生長の家とは異なる信仰になるおそれがある。しかしこの紙一重の差が、天地霄壌の差を生ずる。一方は真理であり、一方は非真理である。古来の多くの聖者ですらこの点に於いて誤ったことが多かった。病気になったらこれで業が消えるのだ、ありがたい、これで罪をつぐなうことが出来る、この不幸もありがたい、この様にして病気や不幸に感謝する人々は、まことに敬虔な心境の様であるが、それ故に、不幸を礼賛する気になり不幸を自造している人がある。
不幸礼賛は生長の家の信仰ではない。
そんなに病気や不幸がありがたかったら、病気になればよい、不幸になればよいのである。
吾々の信仰では、病気は無いのだ。罪はない、不幸はない、業はない。ただあるのは、圓萬完全なる實相の人間・神の子だけである。その実相の完全なることが有難いのである。
『叡智の断片』
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(59832) |
- 日時:2023年07月17日 (月) 21時14分
名前:訊氏ファン
現象界のあらゆる失敗も、あらゆる成功も、結局、アマチュア写真家が経験を積みつつあるようなものである。どんなに彼が撮影や現像に失敗して不完全な形が写真にあらわれてこようとも、それは写真に写すことに失敗したのであって、実物の景色はもっとハッキリと生き生きと立体的に立派に存在するのである。
それと同じく吾々が如何に現象界で失敗を演じようとも、実相の世界に於いては吾々は失敗はなく完全であるのである。
現象界の失敗も成功も、共にそれは吾々が現象界に如何にすれば、実相界そのままの完全な相をあらわし得るかについての経験を積むのであり、その経験を通して魂の創作力の進歩があるのである。吾々は完全に失敗することはない。失敗したと見えるときにその魂は一歩前進しているのである。
――『真理』第8巻信仰篇136ページ
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悪すら、善なしに存在しえない (59849) |
- 日時:2023年07月18日 (火) 19時26分
名前:訊氏ファン
神様は我々の我の力では どうすることも出来ないものである。 神に対して無条件降伏せよ。
「善のみのほか何も恒久性のものはない。何物も善の反対のもののほか滅尽するものはない。善のみ実在である。悪は唯反影である。『善徳』より悪の影を取り去ればただ善のみが残る、悪は影を消すのである。又『悪徳』より善の支柱を取り去ればそこに尚善が残る、かくして悪徳は影を消すのである。」
この最後の一句は実に深い真理を蔵している。「悪徳」それ自身で存在し、自立しているのではないのである。いやしくも存在する限り、その存在の力は善によって支えられているのである。病気の如きもいやしくも存在する限り、病気それ自身が存在を保ち得ているのではなく、生命があるから病気の姿が存続し得るのである。
生命が肉体から脱け出してしまったら、病気の症状も存在し得ない。即ち症状は生命のはたらきである。症状は善なる生命があらわれんがための経路としての状態であるというのに一致している。だから善のみ存在するのであって、悪と見えるものでさえも、善によって存在の姿があらわれ得るのである。
(中略)
「反対の力が強いほど、自己に内在されている力を呼び出す量も強いのである。」
ー―『愛は刑よりも強し』39ページ
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夢を描け (59865) |
- 日時:2023年07月19日 (水) 21時14分
名前:訊氏ファン
兄弟よ、悲しみに打たれるな。 打たれても 起き上がれ。 描いた夢が破れても あなたはまだ夢を描く自由はあるのだ。 自分にまだ偉大な力が残っていると想像せよ。 夢を描くものにとってはこの世界は常に新天新地である。
兄弟よ倒れるな、 倒れても起き上れ、 希望を失っても試みが破れても倒れ切るな。 夢は希望の苗床である。 大いなる夢の苗床から希望の芽がまた萌え出でる。 希望の芽は夢につちかわれて生長する。 夢は 希望の 苗床である。
――『ひかりの語録』
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要らぬものを掴むな 要るものが入って来ない。 (59888) |
- 日時:2023年07月20日 (木) 19時13分
名前:訊氏ファン
不平が起るのは、心が一つの物に凝り過ぎて他の恵みを見る余裕がないからである。悩みは心にあるのであって物にあるのではない。 凝りを放下して、眼を他に一転せよ。どんなに吾らは多くの恵みに取り捲かれていることだろう。掴みを放す事、心の中が空手(くうしゅ)になる事が万事の秘訣である。
――『新版 ひかりの語録』
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(59923) |
- 日時:2023年07月21日 (金) 22時10分
名前:訊氏ファン
何事が起ころうともいかなる突発事に面しようとも、心の平静を失わないようにするためには、世の中には根本的にいって、何事も絶対に悪いことは起こらないということを知る必要があるのである。 悪いことが起こると見えることは結局自分の心の影であるから、自分の心にすきができたり動揺したりするならばますます悪いことができてくるのである。
――『青年の書』
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祈りで他人を幸せにする (59965) |
- 日時:2023年07月23日 (日) 00時53分
名前:訊氏ファン
人間は神の子である。本来完全であり、その見せかけの外見が 如何に不完全に見えようとも完全なのである。吾らは外見の病い や不完全を見ないで、その実相を見なければならないのである。
神想観とはその実相を見る行事である。
吾々は神想観によって、何ものをも他の者を治療しようとするので はないのである。 ただ実相を見ることによって自分の心を治すのである。他の心を治 すのでもない。自分の心で実相を直視するのである。
――『健全の真理』
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私はあるか (59996) |
- 日時:2023年07月23日 (日) 18時06分
名前:訊氏ファン
生長の家では、唯神實相哲学と言って、唯神というというのは實相一元、神一元、神だけということ、これが生長の家の教えの基本です。唯というのは他にないということ、ただ神しかいない、ただ實相だけなんだ、これしかないのです。何十ぺん聞いても、何千べん聞いてもこれしかない、ないものはない。「でも」「でも」と言わないようにしましょう。でもがじゃまになっているのです。これが間違いのもとです。
神一元というのは、神もあるがわしもあるではだめなんです。神もおるかも知れんがわしもおるでは、神とわしと二元になる。私があるかぎり二元なんです。そうすると實相一元じゃない、現象になってしまう。實相もあるかも知らんが現象もある、これは二元です。
この二元論から人間は迷うて苦しんだんです。人間のあらゆる病気も不幸も失敗も、あらゆる苦しみが二元論から出てくるのです。
無条件に心を開いて、今まで常識だと思っていた事はもうほっときなさい。その常識が邪魔をしているのです。わかったつもりでおったことがみんな間違っておったのだ。今までの知識、観念、こういうものじゃと何十年か経験した事をつかんでこういうものじゃときめてきたことは、これがもし正しかったら今頃極楽になっておるはずだ。けれどもその常識で生活してきて苦しんでいるのだから、こういう常識はあっさりやめて、私が何かせんならんという考えを一切捨てて、神しかいなかったんだーと心の底からそう思うだけでいいんです。
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私じゃない (60054) |
- 日時:2023年07月24日 (月) 21時17分
名前:訊氏ファン
救いが現われないということは、つもりだけになっている。わかったつもり、信じたつもり。本当に自分がなくならなければいかん。わしじゃなかったんだと。だから神想観でも何も上手にやらんでもいいから、いらんことを考えんでも、ただ私じゃないんだ、私じゃないんだ、こうして坐っていらっしゃるのも神様なんだと、神様が神想観していらっしゃるんだと、それだけでいいんです。気張ってやりおるから、今日にはだいぶ効きよるような気もする、それじゃ神想観の真似です。
神想観は、坐り方や手の上げ方も大事だけれども、一番大事なのは心よ。だれがしておるかということです。私がしているんじゃないんだ。神様だ、私じゃないんだ、私じゃないんだ、それだけです。これを仏教では御念仏といいます。念仏一つで極楽往生すると法然上人、親鸞上人が言うている。
南無阿弥陀仏とは極楽へ行くおまじないと違うのよ。南無阿弥陀仏がインドから中国の渡って、帰命無量寿如来ということになった。正信偈の一番はじめのところにある言葉です。帰命というのは命をかえすと書いてある。無量寿というのは生き通しという意味です。人間の肉体と違う、生命、生き通しの仏様ということ、これを無量寿如来という。それが南無阿弥陀仏ということです。これを明けても暮れても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、浄土宗では日に七万べん唱えなさいという。一万回唱えるのに三時間半かかるよ。七万回言おうと思ったらどれくらいになると思います?
生長の家ではありがとうございますだけれども、これを日に一万回言ってリューマチから救われた人がいますよ。十年間リューマチで、夜も昼もピアノの鍵盤をたたくような声でと書いてあったが、痛い痛いと狂いまわって苦しんでいたおばあちゃんが、わたしの所へなんとか助けてくれと来た。「あんた何にもやれんやろうが、日に一万べんくらいはありがとうございますと言えるじゃろ、それをやりなさい」と言った。そのおばあちゃんは正直にやったらしい。どうせ痛いと言っても痛いのじゃから、ありがとうございますに変えようと言ったら、一万べんやったらその日のうちに痛みがなくなったという礼状が来ております。だから日に七万回ナンマンダブツ、ナンマンダブツと言っておったら、私は仏でございますと言うのだから、七万回言っていたら、他のことを言う暇がない、食事する暇も便所へ行く暇もない、ばかやろうとか、しっかりせいなんて言う暇はない、だからナンマンダブツと言うているうちに仏になるというのが、法然、親鸞の教えです。
私はその学校を出た、専門なのです。『あなたは必ず救われる』という本にも書いていますが、布教もしたことあるのよ。おばあちゃん方をつかまえて、ようお話に行った。私が行くとよう集まったよ。なぜかというと、おまけをつけていた。親鸞上人の一代記を琵琶でやっていた。これで筑前琵琶の先生だったんです。マイクのない時代に何千人の前でナマで聞いてもらっていましたよ。この琵琶は布教に応用するために勉強したんです。それを講演の後で一曲ずつやっていた。そうしたら集まったねえ、話はあんまり聞きたくないけど、琵琶を聴きたいという人が多いのです。私が琵琶を持っている写真が載ったビラが出ると、普段の三倍くらい集まるから、お寺は喜んだね。
喜んだけど、私の話がいかんかったの。ちょっと変っとった。喜んだおばあちゃん、おじいちゃんつかまえて、
「けっこうじゃねえ」
「へえ、ありがとうございます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
「あんた、いつ頃から助けてもらうんかね」
「はい、死に次第でございます」
「ほう、死に次第、その死に次第というのは、いつ頃から境やね、地獄と極楽の境はどこじゃね」
「まあやっぱり、息が切れたとこからでございますかな」
「息が切れたどのへんじゃね、今日と明日とは続きだよ、続きだから今日と明日の境なんてあらへんよ」
「いやあります。夜中の十二時が境でございます」
「夜中の十二時のどの辺が境じゃね」
「十二鳴るから、六つくらいが真ん中で丁度境でしょう」
「六つ目のどの辺や」
こうなるともうわからない。今日と明日の境なんてないのよ。この世が地獄で、息が止まったらすぐ極楽という。そんなうまくいきませんよ。だから私は、そんな頼りないことを言うておってあんたいいんか、と言うてあげおった。そうなるともうわけはわからなくなるの。
「どの親様に救うてもらうんかいね」と言うたら、
「へいお内仏の」と言う。お内仏と言うたら仏壇のことです。そこに金の絵に描いた阿弥陀さんがいる。
「おばあちゃん、あれはだめだよ。あれは紙に印刷してあるんだよ、火事にでもなってごらん、はよ助けてあげにゃ燃えてしまうで。こっちが助けにゃならん仏さんじゃ」
「はあ、そうでござんしたな」それからあわてて、「へえ、お寺のお厨子の中の阿弥陀さんで」
「あれもおばあちゃん、木で刻んであるだけだよ。きれいに見えるのは金箔を塗ってあるだけじゃ。あれも火事になってみい、はよ助けてあげにゃ燃えてしまうで。あんなもん頼りになるかいね」
「あ、そうそう、西方十万億土の、あの阿弥陀様でございます」
「西方十万億土なんて遠いとこじゃな」
「はい、もうめっぽう遠いとこでございます」
「そいで今息が切れると言うときに間に合うんかい」
「そら合うことになっとるんでございます」
なさけない話ですよ。何十年説教を聞いて、そんなこと言うて気休めしている人が多いよ。だから私は言うてあげました。
「そんな頼りないこと言うちゃだめだよ。今ここが極楽浄土だよ」
私は生長の家を知る前でも、そこまではわかっていた。あんたを救うて下さる親様は、あんたと寸分変わらぬ顔をした親様だよと、そこまでは言っていた。昭和九年ごろで、私が生長の家を知ったのは昭和二十一年に知ったのです。その頃でも布教するときそういう話をすると、信者はみんな目を白黒して、信者が動揺する。おかしいな、今度来た若い講師は、今まで聞いた説教とえらい違うがどうやろうかと、坊さんのところへ聞きに行く。そうすると「あれは間違いだ」と言わなけりゃならん。そういうことで私を非難するようになった。あいつは儲けさせてくれるけれども、後が具合が悪いからなと言って、敬遠されるようになった。
それで私は、仏教の説教師と言うか、いわゆる宗教家になることをやめたのです。宗教家というより、食うためにやっておるんだから宗教屋です。みんなが救われるのが宗教家です。それで食っていくのは宗教屋です。
それから会社に入って、会社の生活が始まった。そのうち生長の家にふれたのが昭和二十一年、そこではじめて救われて、今日があるのです。
だから皆さん、ご無礼な言い方だけれども、残念ながら他の宗教ではここまで本当のことを教えてくれる宗教はないですよ。だから皆さんは、ここへ来られたということは、神様からよりによって、何十億のうちから選びに選びあげて、高い魂の皆さんがここに来たんです。誰かに勧められて来たと思うだろうけれども、その奥にふかーい神様の配慮があるの。皆さん、真理を受け入れられる素質を持っているの。魂が高いの。波長が合うと言うね。縁があったということは、神に選ばれて来た人だと気がつかなければならん。
自分の本当の存在を自覚しましょうね。丸まる神に生まれさせられて、生かされて、はからわれて、今日まで生かされてきたんだなあと、ということになったら、これから先は神様どうぞ、あなたのいいようになさってくださいよ、全部投げ出すの。どうぞお好きなようにと、気張らんでもいいから楽ですよ。
――『救われ済みの人生』174項 藤原敏之著――
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そのまま完全円満 (60071) |
- 日時:2023年07月25日 (火) 20時44分
名前:訊氏ファン
自分は誰かを縛っていないか。 「こうありたい」と思う心は縛る心。 「こうありたい」と思う心を捨てなければ、本当にそのまま素直に「ハイ」の心 ではない。 「こうありたい」のではない、すでに「天国浄土がここにある」というのがこの 教えである。
――『静思集』
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再度問う。「現象、とは?」 (60090) |
- 日時:2023年07月26日 (水) 20時16分
名前:訊氏ファン
「無常なるもの」と云う何物かが 其処にある≠ニ考えてはならぬ。 「無常なるもの」とは 「存在しないもの」の 別語である。
「肉体」は斯くの如く人間ではない。「これが人間だ」と捉(とら)えたる「肉体」は、その瞬間もえてしまって別のものであるのである。斯くの如く吾々は人間そのもの≠捉えることが出来ない。捉えたる瞬間より、人間そのものは捉うる手の指の股(また)からすべり落ちて捉えることが出来ないのである。
弾丸が飛来して肉体を貫く。併し人間そのもの≠ヘ肉体ではないから、肉体を貫いても人間そのもの≠ヘ貫かれはしないのである。貫かれたる瞬間の肉体は、次の瞬間にはもう別のものに変じている。それは燃ゆるガスの焔を棒で貫いたのと同じことである。貫かれた時、焔の形は変ずる。併し、形は変じても変じなくとも、焔は常に別のガスの燃ゆる相であって元の同じ焔ではない。それと同じく、肉体は弾丸に粉砕されても、粉砕されなくとも、常にそれ自身粉砕されつつあるものである。
常にそれ自身粉砕されつつあるもの、一瞬間前の相を、次の瞬間には止めないもの――此れが肉体である。捉えんとして捉うること能わざるもの、捉えんとする瞬間に別の相に変ずるもの――これが肉体である。此の無常なるものが肉体である。無常なものが肉体であると云う言葉に吾々は誤魔化されて、「無常なるもの」と云う何物かが其処にある≠ニ考えてはならぬ。「無常なるもの」とは「存在しないもの」の別語である。それ≠ェ瞬時も、その現れている儘の相でいられないものであると云うことは、其処に、その現れているもの≠ヘ無いと云うことを意味する。谷口哲学ではこの事を「現象本来無し」又は一層簡単に「現象無し」と云う。また続いて、「肉体無し」とも云う。
――『人間死んでも死なぬ』328項より
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拝み切ること (60110) |
- 日時:2023年07月27日 (木) 20時54分
名前:訊氏ファン
人間は本来神の子であり、神でありますから、願う自由は与えられているのであります。悪や不完全なものから逃れて、完全な姿にかえりたいと願う心が起るのは、自我や欲望ではなく、内在の神性が顕現しようとする働きでありまして、この願いがそのまま尊いのであります。私たちは常に神想観を怠らず、素直にその内なる願いに耳を傾け、その声に従うことが大切であります。自我から出発したものは、欲望であり、要求でありますから、必ず苦痛を伴います。苦痛を伴うものは、無明でありますから、そのようなものは極力否定し、相手にならないように努め、常に真実の願いに向かって前進することか肝腎であります。苦痛や後悔を伴うことは、無明でありますから、断じて妥協してはなりません。真剣な願いは神意の顕現でありますから、例えどのような結果になっても後悔などありません。一時わるい結果があらわれたように見えても、それはより完全へ進む過程でありますから、そんなものに動揺せず、確固不動の信念をもって一途に邁進すればよろしいのであります。
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捉われないこと (60129) |
- 日時:2023年07月29日 (土) 12時51分
名前:訊氏ファン
恐怖の正体は「悪」の存在を予想する念である。
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現象≠チて なんなのよ (60141) |
- 日時:2023年07月30日 (日) 10時00分
名前:訊氏ファン
実相界に既に与えられている完全さ――それが何故現象界に完全にそのまま映って来て、「み心の天に成るが如く」地上も極楽世界にならないのであるか。
地上の世界は神の創造ではなくして、人間が「実在の風光」を「心」と云うカメラで撮影し行動と云う現像作用で現象せしむる世界である。それは芸術の世界であり、人間の創作の世界である。ここに人間は創造者として又創作家としての表現の自由を与えられているのである。
すべてを神が造って人間に創作の余地がないならば、神は人間を傀儡かロボットにしたのであるが、神は既に完全な世界(実相)を与えながら、その現像映写の過程において、人間に創作の自由を与えていられるのである。
吾々は心の曇りを浄め実相に焦点を合わせて、現象世界に実相の完全さを映写するようにしなければならない。
――『真理』信仰篇129ページ
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観れば あらわれるのです。 (60147) |
- 日時:2023年07月30日 (日) 19時15分
名前:訊氏ファン
病気を治そうとあせるな。 実相の完全な相を見よ。
観れば あらわれるのです。
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事実は「實相のみ」 (60156) |
- 日時:2023年07月31日 (月) 19時24分
名前:訊氏ファン
「現象は現象としては在るのである」といって現象界を本体界に対立せしめたり、「本体界の自叙自展が現象界であって、本体界と現象界とは一如である、そして、現象界は本体界のうちに包摂せられるものである」というような在来の見方を脱しえないような宗教では、とうていそれは現実人生を支配することができないのである。生長の家の思想が、かく素晴しい現実人生の支配力を有しているのは、主として「現象無し」とスカッと截(た)ち断り、実相独在を明快に斬然(ざんぜん)と主張しているからであるのである。
(『生命の實相』第27巻127〜129ページ)
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「神のみ恵み」を忘れていないか (60163) |
- 日時:2023年08月01日 (火) 20時53分
名前:訊氏ファン
日本民族はもっと愛を行じなければならなかったのです。
最後に吾々は何故此の敗戦によって悪い窮地に追い込まれたのであるかと云うことを反省して見たいと思うのであります。それを神の試練と呼ぶ人もありますが、『生長の家』ではそうは言わない。神は絶対の愛でありますから、試練と云うものを遣わし給う筈はない。自分が増上慢の道を歩くようになり、俺が偉いんだ、だから俺がやることは皆正しいと云う気持になって突進して行って、自分と自分で壁にぶつかったのであります。神が壁をもって来て吾々に打ち当てたのではないから、神が試練を与えたのではない。間違った道を歩いたら自然に壁にぶつかって進めなくなる。その時こそ吾々は方向転換しなければならないのです。それと同じ事が今、日本民族全体に来ていると思うのであります。 日本は日清戦争に勝ち、日露戦争に勝ち、朝鮮を併合し、欧州戦争に参加して南洋の島々を委任統治としてわが傘下に収め、満州国を緩衝国家として創立した。そして自分の思うことは必ず成就する、 『俺が』偉い、『俺が』『俺が』と思っていて反省がなかった。
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なにが「忠」なのか (60315) |
- 日時:2023年08月11日 (金) 15時33分
名前:訊氏ファン
「今」というものに到達することが「忠」ということである 若き日の榎本惠吾、「久遠の今」を把握す。 「忠である」とは、「久遠の今」を展開することだ。
日本古代の宇宙創造説は、日本民族が何千年もの久しきにわたって、日本の歴史をあらしめて実践して来た教えであります。天皇を中心とした世界は、実践によって、三教が古事記の中心者に統一されることを決定づけています。ここに私は尊師の教えの実践の偉大さということを深く感じさせられました。宗教の教えは実践出来るということ、実際に病が消え、人生苦からの開放を実際に現実世界にもたらしている生長の家にしてはじめて、宇宙の中心者の国家的実践という観方が生まれて来たのであります。
その中心の観方を現代に展開することが出来たということであります。そして、その生長の家の教えの根本は「今」ということ、宇宙の中心、 一切万物がこの一点に巻きおさめられている。この「今」というところから、すべてのものは発したのであるというようにお説き下さいました。この根本的な「今」という世界は、尊師の絶対実在の、絶対認識から出て来ていると思われます。
いわゆる実践といっても、ただ単に何かをやるという、現実にこの五体をもって何かをやるということだけが実践なのではなくて、尊師の『驀進日本の心と力』のご本の中に、尊師は「日本学的大乗仏教の樹立」ということの一文をお書きになっておられます。実在世界を完全に肯定されて、「その実在世界、その荘厳の金剛不壊、実相世界、その世界のみがあるのである」と。そして現象のうつりかわる五薀の世界、この五薀は無いのである。肉体も心も物質もないのであると、全否定した奥に、完全に実相という実在を肯定したときに、それが自ずと、もはや前進せずにはおられなく、もはや、顕われずにはいられないものに到達する。その実在の展開として、実在が展開するということが、それのみが実践なのであるということなのであります。あくまでも、この意味においての実践ということであります。実在し展開せざるを得ないのが「今」であります。そしてこの「今」というものに到達することが「忠」ということであるという風にお説き下さっています。 この「今」「久遠の今」ということを拝読させて頂きますときに、仏教の蓮華蔵世界もやはりそこにあったのであります。まず尊師が万物発生の枢機を握るのが「今」であり、絶対実在の絶対認識によって「今」といういのちを把握せられましたところから、すべては出発したわけであります。ですから、すべては「今」ということの展開として説き出されているのであります。生長の家というのは、時間空間一切のものが発するところの生長の家。「生」と「長」という縦横のものが一点に収まるその「巣」「家」。家は巣である。巣はすべてのものが帰るところである。
この万物発生の枢機を握る一点にあるもの、この絶対なるものが、生長の家であるとお説き下さっています。このことも「今」ということの展開であります。この生長の家という中心のところは「今」ということにほかならないのであります。
さらに、蓮華蔵世界の金波羅華に象徴される世界、これもやはり、中心から発したものであります。「高天原に成りませる神の御名は、天之御中主之神」と説かれている。そこからすべてのものが発したところの消息を示しており、やはりこれも「今」ということのうつしであります。
この「今」「久遠の今」ということを拝読させて頂きますときに、仏教の蓮華蔵世界もやはりそこにあったのであります。まず尊師が万物発生の枢機を握るのが「今」であり、絶対実在の絶対認識によって「今」といういのちを把握せられましたところから、すべては出発したわけであります。ですから、すべては「今」ということの展開として説き出されているのであります。生長の家というのは、時間空間一切のものが発するところの生長の家。「生」と「長」という縦横のものが一点に収まるその「巣」「家」。家は巣である。巣はすべてのものが帰るところである。
この万物発生の枢機を握る一点にあるもの、この絶対なるものが、生長の家であるとお説き下さっています。このことも「今」ということの展開であります。この生長の家という中心のところは「今」ということにほかならないのであります。
さらに、蓮華蔵世界の金波羅華に象徴される世界、これもやはり、中心から発したものであります。「高天原に成りませる神の御名は、天之御中主之神」と説かれている。そこからすべてのものが発したところの消息を示しており、やはりこれも「今」ということのうつしであります。
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拝み切ること (60330) |
- 日時:2023年08月12日 (土) 12時58分
名前:訊氏ファン
真剣に命がけで拝み切ったとき、拝むことさえ出来ない自分を発見します。
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逆境は幸福である (60341) |
- 日時:2023年08月13日 (日) 17時48分
名前:訊氏ファン
今まで、普通の人は、困難というものと、不幸というものとを同じ意味だと考えて、困難は不幸である、「ああ困難がやって来た、自分は不幸である」とこう考えたものであります。ところが生長の家では「困難」を「幸福」であると教えるのであります。
私達は障礙(しょうがい)物競走をしたり、或いはオリンピック競技に選手として出場しましても、あの競技は一種の困難である、困難であるけれども、あの選手たちはあれを不幸であると思っていない。あれは幸福である。もし、あれが平地を歩く競技であって御覧なさい。平地を歩くには困難がないから却って面白味が少ない、力も出ないのです。困難はかくのごとく幸福なのです。
普通の人が困難を不幸であるとするのは、一種の迷妄(まよい)でありまして、そのために困難の前に立竦(たちすく)んで、徒(いたずら)に人間一疋(ぴき)、何事も成し得ないのです。ところが生長の家では、人間は神の子であるから逆境に立てば立つだけ、二倍三倍の力が出て来るという事を教えるのでありますから、どんな場合に処してでも挫折してしまうということがないのです。無限に力を引出してくるということができる―――これこそ生長の家で教えられた人の特長であります。
私達の生命は、たとえば水のようなものであります。
フラスコの中に静止せしめて常温に置かれた水は困難な状態ではない。チャンと箱入娘みたいに護られた状態です。その代りにどんな力も出てこないのであります。これを一旦高所へ上げて、そこから落差をつけて落としましたならば、何万キロワット、何十万キロワットの水力タービンでも動かすことができる。これは水が嶮(けわ)しい高所に、逆境に置かれたための賜(たまもの)です。或いは皆さん、水の下から何千度という石炭の燃焼熱を与えてやると、たちまち沸騰して、蒸気の力で何千馬力の大機関車でも動かすことができましょう。これも水が逆境に置かれた賜であります。私達は、逆境を不幸であると考えることが間違いなのです。逆境は私達の中に宿っている無限の力を掘り出してくれるところの「縁」を与えてくれる、たいへんありがたい友だちであると思わなければならないのです。
そうなりますと、私達は決して逆境や困難に挫折しない。困難のくる度毎に、自分はそれだけ高まるのであるということを常に信じる事ができて、どんな逆境も困難も、失望や落胆の原因となるものではありません。逆境に置かれ困難に置かれるほど、常に私達は伸びるほか仕方ないのであります。この常に伸びるほか仕方ない生活、これが生長の家の生活であります。それには自分が神の子であるということを自覚することが根本であります。私たちが困難に対して崩(くずお)れてしまい、挫折してしまうというのは、自分の中(うち)に生きている「生命」が有限であり、単なる物質的エネルギーであって、それには限りがあり、或る程度以上の困難になると、打勝つことができないものであるというような間違った考えを以って自分自身の生命を委縮させているからなのです。ところが一転してこの生長の家の人生観になりますと、自分自身の本体は、神の生命がここに宿っているものである、或いは仏の生命がここにあるのである、どんな力でも無限に出てくるのがこの自分自身であるという確固とした自覚を得ますから、困難に逢えば逢うほど、内から湧き出してくる力が多くなってくるのであります。
或る教祖は「難儀は節(ふし)や、節から芽が出る」ということを言いましたが、これは実に易しい言葉で真理を穿(うがって)っています。どんなに攻撃されても迫害されても、「難儀は節や、節から芽がでる」と信じていると、どこまでも伸びる底力がどこからか出て来るのであります。
――『人生読本』より謹写――
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少しも暗きところなし (60364) |
- 日時:2023年08月14日 (月) 22時09分
名前:訊氏ファン
『無』と『有』との対立は本当の対立ではない。 これを対立と考へるのは人間の『思考の形式』の誤りである。
光明思想と私が名附けたところのものは、此の『~は光にして少しの暗きところなし』と云ふ直接體驗の宗教的眞理であつて、人間は~の子であるから『少しも暗きところなし』であり、随つて罪もなければ病ひもなく、また不幸災難もないのであります。
――『生命の實相』二十卷一〇四頁
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久遠の今 (60376) |
- 日時:2023年08月15日 (火) 23時31分
名前:訊氏ファン
「生長の家」の生き方、或ひは『生長の家』の哲學の中で、一番重大な問題になつてゐるのは、この「今」と云ふことであります。この「今」と云ふことがわかつたら、それが本當の「生長の家」の悟りであるわけです。 「今」と云ふのは、過去・現在・未来と時間が流れてゐるところの、流れてゐる時間の一部分の現在と云ふところを「今」と云ふのではないのであります。この「今」と云ふのは、もうひとつ詳しく云ふと、「久遠の今」と云ふことであります。英語のEternal Nowと云ふ意味での「久遠の今」であります。そして「今」の中にすべてが含まれてゐるところの「今」であります。
仮りに、縦の線を書いてこれを時間であるとします。そして横の線を書いてこれを空間であるとします。そして縦の線と横の線とが交叉した處、此處が丁度「今」にあたるのであります。未だ、時間も空間も現れてゐない、時間と空間が、そこから現れるところの其の中心の無であります。これは~道の言葉で云ふと常今(つねいま)と云ふ言葉がありますが、禪宗などで云ふと、いはゆる無であります。無と云ふと、何んにもないのを無と云ふと、そう云ふ風に考へる人がありますけれども、全然無いんじやないのであります。禪宗に無字透關と云ふ意味の言葉があります。無≠フ字≠フ關門を透ると云ふ意味であります。『無門關』と云ふ禪宗の書物もあります。その無と云ふものの關門を本當に知つた時に、吾々は自由自在になれるのであります。 これをもう一つ、別の言葉で云ひますと、絶對無と云ふことであります。紹對無と云へば、多少この意味がわかる。有無相對の無ではないのであります。有るに対しての何んにも無いと云ふ、其の相對の、有と無が相對してゐるところの、有無相對の無じやないのであります。絶對の無である。對立がない。有ると云ふことに對して、これは無いと云ふ、無いのではなくて絶對の無であつて、其の絶對の無を突き貫いたところに、其處に實相があるのであります
それで無と云ふのは、絶對などと云ふ文字をつけると解るけれども、唯單に、無と云ふと吾々は概ね相對の無を考へます。何んにもないと云ふ無の方を考へるものでありますから、この無の字の代りに、空と云ふ字を持つて来て、佛教などではあらはしてゐるのであります。これにもうひとつ眞と云ふ字をつけて、眞空妙有と云ふやうな言葉があります。眞空。本當の空である。カラッポの空じやないのであつて、其の中に一切のものが含まれてをつて、そして、どこにも片寄らないのであります。
それは、もう一つ別の言葉で云ふと、支那の『中庸』と云ふ書物に書いてある、「喜怒哀樂未だ發せざるを中と云ふ」と書いてある、その中であります。天之御中主神の御中であります。一切の時間と一切の空間とが未だ發せざるところの御中の中心であります。これは未發の中と云はれてゐるところのものである。「喜怒哀樂未だ發せざるを中と云ふ。發して節に當る。これを和≠ニ云ふ」とありますがその中から一切のものが現はれて、時と人と處に應じてピタリッと急處に當つて有數にすべてのものが、ピシリ、ピシリと出來て行くのが、其れが和=A即ち和解の和≠ネんであります。
――「久遠の今」レコード1より――
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湧き上がる (60393) |
- 日時:2023年08月16日 (水) 19時28分
名前:訊氏ファン
もしも、内にはないが外にだけあるというようなものが一つでもあれば、すでにそれは神の国ではなくなっているのであります。
研修生の、ある大先輩から来たお手紙の一節です。
「いまだに忘れられないあの日あの時。以来、昨今、私にとって感謝一杯の日々となって参りました。『生命の實相』を読んで、或る瞬間に達すれば必ず真理の光がたましいの中へ射し込んでくることを、実感として体得しつつある現今でございます。その光は太陽の光よりもなお明るい光だと私は思います。自分の体が透明になるような実感がして、毎日がたのしい日々です。自己の生命が無限生命の光耀(こうよう)の中につつまれ、その無限の光耀の中に溶けこみつつ燦然(さんぜん)として輝いている生き通しの生命こそ、わが生命であることを知ることが出来たのも、研修というすばらしいご縁を頂いたからだと多謝しております。これこそ自分の生命であったのだ。今生きつつある地上の生命の小さいこと。それはただ自分の本当の生命の輝きが、迷いの雲間にもれて、地上に印した小さな光の点々にすぎなかったのです。迷いの雲間は裂ける。本当の自分は遅まきながら輝き出て来ました。地上に晴天の日の太陽が照らすごとく、本当の自分は無限の輝きを放って地上の生活を照らすことを確信します。いつまでも尚一層のご鞭撻をたまわりますよう、心よりお願い申しあげます。光の子より。」
それを外に向って表現させずにはいられない本性をもっているのであります。それは春になると花が咲き、太陽が昇ると明るくなり、温かくなって氷が解け、上から下へと水が流れる、まことに自然な姿であります。神想観の姿も聖典読誦も、ひとに喜びを表現するのも、それはまことに自然そのものの生長の家の姿であるわけであります。生長の家の教えは、「自然の教え」と言ってもよいのではないかと思われるのであります。 『生命の實相』の聖典も、あらゆる行持要目も神想観も、すべてはお悟りになった尊師谷口雅春先生がそうお書きにならないではいられなくなって、そうしなくてはいられなくなって、地上に真理の教えの喜びの花を咲かせられたのであります。ですから「朝の時間を生かしなさい」といわれて、四時五十分に起床されるのも、そうしなければ救われないからというのではなくて、神の子であることがうれしくてうれしくて、寝ていられなくて起き出されたということなのだと思われます。
或る教化部長のお子さんのお話だったと思いますが、小学一年生か二年生の息子さんが、明日は遠足だというので、リュックサックに持って行くものをつめている。しばらくすると帽子もいっしょに枕もとにおいて寝たというのであります。ところが夜半の三時ごろにお父さんが眼をさましてみると、隣りに寝ているはずのその息子さんが寝ていないのです。二階に行く階段のところまでいってみると、その階段の中頃のところに、リュツクサックを背負い、帽子をかぶって今にも飛び出そうという顔つきですわっているのです。「どうしたんだッ?」と声をかけると、「お父ちゃん、夜、なかなかあけよらへんなあー」と言ったそうであります。まことに美しい話であります。この子供の心の中に、希望と喜びの太陽が燦然と照り輝いているのを拝みたくなるのであります。
これであります。こういう喜びの輝きとして、生長の家はすべて始まったのであります。中からふつふつと湧き出してくるのが、「ありがとうございます」という言葉であります。ふつふつと湧き出してくるのが「人間は神の子だ!」という言葉なのであります。すべて生長の家のことは、この「内なる神の国」(『甘露の法雨』―汝らの内にのみ神の国はあるなり)から現われ出でたるものであり、“イユーッ”という言葉となって湧出(イユーシュツ)したる光明の放射そのものなのであります。「神の国は汝らの内にあり」とは、前に申しましたように、すでにあるすべてという意味なのであります。神の国とは、すべてが完全に満ち足りているということであります。神の国とはすべてがそなわっているということでありますから、一つでも足りないということのないものであります。そして「内に」ということは、既にあるから、これから外を探さなくともよいということであります。この「外」にあたるのが、たとえ「修行」ということであっても、神の国は既にわが「内にのみ」あるのですから、修行するというような、ある時間の経過という未来なる「外」に求める必要はないということであります。
またこのことは、天地万物が吾が内なる神の国より発していること、湧出していることを意味しているのであります。神の国とは、足りないものの一つもない、すべてが満ち具(そな)われるものでありますから、そのものがあるかぎりにおいて、わが内なる神の国より生れ出でたるものであります。もしも、内にはないが外にだけあるというようなものが一つでもあれば、すでにそれは神の国ではなくなっているのであります。ですから、神の国がわが内にあるかぎり、すべてのものはわが内より展開し生れ出でたものであります。山も川も草も木も空も海も、日本も天皇も、谷口雅春先生も、生長の家も住吉大神も、天照大御神も、すべてはわが内なる神の国から出でまし給うたのであります。これは、天地は失せても崩れることのない真理であります。ここに天地万物の一体、即ち大調和のすがたがあるのであります。また、天地万物がわが内なる神の展開し給うたものであるということは、神が出でまし顕われ給うているのでありますから、天地一切は大和解そのものであるということであります。感謝、和解、大調和は今此処にあり、であります。「感謝、和解」とは、ここに見よ、彼処(かしこ)に見よというが如くにはないのであり、それは「ここに見よ」というだけであります。わが内にのみ感謝はあるのであります。自分が感謝なのであります。この自分を拝まないで全宇宙を探しても感謝は無いのであります。「自分はいないか」と外なる全宇宙を探しても見あたらないのであります。なぜなら「自分がその自分である」からであります。
この「内なる神の国」を想うとき、「世界平和の祈り」となっているのであります。全地上、全宇宙を生み出し、愛の輝きの展開として万物が生き、そして、中心帰一ということがまことに現成(げんじょう)していることを体感するのであります。
「招神歌(かみよびうた)」の中の「元津(もとつ)みたまゆ幸(さき)はえ給え」というお言葉は、人格的に神をよびたい我々人間の本性的なものにこたえて下さる神への歌でありますが、もう一つ「元津みたま」とは神のいのちであり、その神そのものは内にましますのであります。それ故「元津みたまゆ幸はえ給え」とは、わが内なる神と神の国にある「元津みたま」をすべてに向って「幸はえ給え」ということであります。つまり、自分は元津みたまを「分け与えられる」方ではなく、内なる神とともに、元津みたまを「わけ与える」存在であることの宣言なのであります。そして神と、ひとつの神が広がっているその広がりを、天地宇宙というのでありますから、このさまを四首目の「天地(あめつち)の祖神(みおや)の道」と表現されているのであります。「道は宇宙にみちて欠けざるが故に道という」と『甘露の法雨』にあります。われと神と一つなる生命が全宇宙となってひろがり、全宇宙をなして満ち満ちているのであります。この全宇宙を「生長の家」というのであります。生長の家とは、天地万物を生み出し生長発展させる原理であり、その原理はわが内なる神の国にあるのであります。わが生命は、「生長の家」をなして存在しているのであります。それはまた絶えず外へ外へと拡がり生長する生命なのであります。
――WEB「榎本恵吾記念館」――
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少しも暗きところなし (60401) |
- 日時:2023年08月17日 (木) 19時19分
名前:訊氏ファン
『無』と『有』との対立は本当の対立ではない。
これを対立と考へるのは人間の『思考の形式』の誤りである。
光明思想と私が名附けたところのものは、此の『~は光にして少しの暗きところなし』と云ふ直接體驗の宗教的眞理であつて、人間は~の子であるから『少しも暗きところなし』であり、随つて罪もなければ病ひもなく、また不幸災難もないのであります。
ー―『生命の實相』二十卷一〇四頁――
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からつぽ (60414) |
- 日時:2023年08月18日 (金) 19時55分
名前:訊氏ファン
『からつぽ』といふ事を言ひ換へたのが『迷ひ』である、 『からつぽ』といふことを言ひ換へたのが病氣である。
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中心≠ニいうこと (60425) |
- 日時:2023年08月20日 (日) 16時22分
名前:訊氏ファン
日本それ自身を日本人は知らなすぎる。大体、国学というのが起こったのが、徳川時代に儒教が非常に盛んになって、その儒教がだんだん日本化されて、山崎闇斎とか山鹿素行とか、また色々の偉い漢学者がだんだん日本化していった暁に、賀茂真淵とか契沖とかが出て、その後非常に大きな存在として本居宣長が登場したわけです。その後平田篤胤が出てもう一歩強い日本的な世界をうちたてたのでありますが、この国学者の力というものは、明治の大政奉還の時、非常な強い力となって、当時の運動家に強い影響を与えて大政奉還が成ったわけです。ところが、明治になると西洋の学問が崇拝されるようになって、国学者はだんだん捨て去られてしまった。こういうことはあまり歴史の本には書かれていない。
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満足しないものがあらわれた時 (60440) |
- 日時:2023年08月21日 (月) 20時27分
名前:訊氏ファン
満足し得ないということは、あなたが一層よきものを求めているからなのです。
自分の満足しないものが自分の前にあらわれた時にも感謝しなさい。満足し得ないということは、あなたが一層よきものを求めているからなのです。あなたが一層よきものを求めるものは、あなたは、もっと高き理想をもっているからなのです。その不満足が自分の努力で解消できるものでしたら、あなたは努力をつくして状態を改善するようにつとめなさい。その不満足なものは、あなたのうちに宿る力を引き出すために出て来たのですから、謂ば『内にやどる神』の栄えを顕わさんがためのものですから、この不満足な状態にも感謝するのがよいのです。
不満足なものを、他の人から出された時には、相手に対して不平や腹立ちの感情を起してはなりません。それは相手の人が何か行届かない事をするには色々の原因があるのです。それはその人が貧しいか、徳が足らぬか、能力が足らぬか、色々の悩みや悲しみに心を捉えられていて、其処まで考えを及ぼすほどの余裕がないか、その他、言うに言われぬ事情があるに違いません。 そのような待遇を人から受けた時には、それは神が、そのような人が一層幸福になり、裕かになり、色々な悩みや悲しみが解消するように、あなたをして祈り≠フ徳を積ませるために、そんな出来事をあなたの前にあらわされているのです。 それですから、その人が本当にすべての事に行き届くほど裕かに幸福になるように祈ってあげなさい。そのよな人たちにもやはり神の栄えをあらわさんが為に現れていらっしゃるのです。
――『白鳩』誌 昭和39年8月号 =女性のための智慧=――
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無神 (60466) |
- 日時:2023年08月22日 (火) 19時25分
名前:訊氏ファン
結果がなくても生きうる存在。 それ自体でそれである存在。 神は結果を求め給わない。 これを無神というのである。
神は「光りあれ」と言い給うたけれども、 その結果どのような光が生まれ、その光がどのようなものを生み出していったか という結果は求められ給わない。
神には結果というものは要らないのである。 神は神ご自身ですべてであり給い充足そのものであり給う。
神には結果というものが要らないのである。 神 は神ご自身ですべてのすべてであり給い充足そのものであり給う。
「光りあれ」と言い給う前に、 先ず、神は神であった。 そして神はすべてであり給うた。
神はそれ自身で充足そのものであり給う。 「言葉は神なりき」とは、 言葉は充足そのものであり、充足でないものは言葉ではないのである。 充足は他に求めないから無我である。 神は無神である。 充足せるもののみ生み出すことが出来る。
神は生命である。 生命は緑であり、生長である。
神=生命と生長と、これだけが存在のすべてである。 それが神が言葉であるというときの言葉である。
生きているものだけが言葉である。 もし、そうであれば言葉の葉は生きた葉であり、緑の葉であったのである。
「はじめに言葉あり。言葉は神なりき。言葉は緑なりき」である。 しかして、神は無我であり、無神であり、緑であり、 神の子は無我の子であり、無神の子であり、みどり児なのである。 みどり児とは無我の子ということであり、無神の子である。
神にとっては自分はなく、子のみがあるのである。 それ故、子は神をしることが出来ないのである。 知る必要がないのである。 神は自分は生かすだけでよいと、言っておられるのである。
いつもいつも、神は消えておられるのである。
ーー『無神』榎本恵吾著――
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亡び行く者 ―活動家へ告ぐ― (60492) |
- 日時:2023年08月23日 (水) 19時53分
名前:訊氏ファン
多くの~信心に眞の權威と光が宿らないのは、現象を十字架にかけていない~信心であるからである。第一義の實相の~の光を直に拜まず、現象の反射に依存して、~の光を拜んでいる信仰であるから、光の靈がないのである。本當の~信心、生命禮拜、信行一如と云ふことは、五官がものを云つて心を制している間は、どうしても生まれては來ないのである。現象を十字架にかけて~に歸投する生命體驗によつて、はじめて、~を信ずる本心が誕生するのである。現象を遊離しない即身成佛と云ふことが眞實誠に成就するのも此處からである。此處が瞞著されれば、現實を遊離してはならぬ~は現實に成就されねばならぬと云ふ眞理も、その意義が完うされずに、かえつて、現象への後戻りの底となり、~が地上に勝利することは空しくされ、~を描いた肉體の心が依然として地の主人公であるばかりである。~信心からは有形無形に亙つて無限の御蔭が生まれてくる。これは貴いことであり、有難いことである。~によつて御蔭を享けることは善ひことであり、一糸一毫の些少の事にも、天の御蔭、日の御蔭と隠坐して、感謝しなければならない。しかし、眞に御蔭の意義が完うされ、無功徳一切功徳の反映と知らねば、御蔭信心に停着し五官の陶醉に退轉する危險がひそんでいる。
~を信じ~に感謝する信仰は、く天に昇つて、現象の奥で其の儘信ずる信仰が誕生しなければならない。さもなければ、現象の嵐の吹き樣によつて、信も揺げば吾が身も揺ぐ。これをどうして金剛不壞常樂の~の子の信仰と云ふことが出來やうか。信仰の土臺骨を現象に瞞著され、現象の風化作用に荒らされない樣に、しつかりさせることが大切である。
――『續 常樂への道』220項――
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何でも受ける (60509) |
- 日時:2023年08月24日 (木) 20時10分
名前:谷口雅春先生に訊け
「逃れるような卑怯はすまい、すべてを受けよう」斯う決心した時に恐怖心は消えるものでございます。
――『靜思集』――
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生かされている (60551) |
- 日時:2023年08月26日 (土) 17時48分
名前:訊氏ファン
吾々は生滅流転する現象界の功徳によって救われるのではない。その処に、何かがあると妄想し、心を起し、心を労して、現象の功徳を追うて走る時、永遠に救われることがない。吾々は、実相が、唯一絶対であり、既に救われている神性仏性である、と云う事実によって救われるのであり、この真理は、現象の無を透過して、実相に帰命して果たされるのである。現象は影であって、力が無い。プラスでもなければ、マイナスでも無い。一切現象の無を正観し、この儘現象を超脱して、実相に礼拝帰命し、信心決定することが、救われると云うことである。無功徳一切功徳の享受である。
この生命が生かされて行くのが、神を信ずる信仰生活である。現象を超えなければ、救われると云うことはあり得ない。本当の生きがいの満ちた功徳の華も亦ひらかない。神一元の礼拝の至心をはなれ、現象の功徳、現象の相を、相対二元の五官の心によって云々して、神の救いを有無する時、語る言葉は、如何なる状態の時に、如何なる言葉をあげても、神によってゆるされたものではなく、未だ、天地に満つる御光に、その儘生かされる第一義実相の法悦も来たらない。現象を超えて、神一元の絶対の信心を決定し得て、はじめて、法悦であり、法楽であり、天国であり、極楽である。神想観の礼拝に摂取されて、この救いは、成就されて行くのである。聞法し、行法して、その消息に生かされて行くのである。正に、今此処が、相対観念の流転ではなく、平常無事の其の儘に、大行であり、絶対行であり、前後際断、忽然忽然、不連続の連続、今即久遠の生長の家の生活である。招神歌にあって「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命。吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能(ちから)」と、拝唱の言霊に、この消息を生かされて行くのである。
相は、様々に展開するが、神に生かされ真理を生きる、その御霊は、この事をおいて外にはない。此処が晦まされる時、如何なる道が掲げられても、其処は、その道と異なるものが主人公の如く生きる現象流転の世界であって、掲げた道が神によって主人公となって、この世を光明遍照の世界に生長せしむることは出来ないのである。
「実」と「虚」とが、同一線上に握手してはならない。相対してはならない。 実は実であり、虚は虚であり、品位と風格の峻別が果たされ、今此処は、根本無明をはなれ、二元の天地を透過しt、神の子人間が今此処天国に生かされるのである。生長の家の御教は、この光明をかかげて、万ずの生命を照射し給うのであり、キリストの十字架も、ひとつ光明の顕現である。
神様、有難うございます、と、神の子の純一無雑な素直な心を、生命の底からかかげよう。実相の有難さを置き忘れ、おかげの有難さのみを感謝していると、何時か、その光明が消えて行く、若しも、この様な感謝であったなれば、おかげの有難さを如何に感謝しても、神の子人間の有難さ、霊々妙々なるこの素晴らしい有難さを、現象無、肉体無の無の一点を透過して礼拝感謝する心から生まれて来なければ、其の儘素直に有難い、神の子の真心よりの感謝ではない。神想観は、この感謝の御霊である。無限絶対の感謝である。天国浄土の感謝である。神想観に神の子の有難さを拝んで、この感謝の生命の眼が、次第次第に醒めて行くに従って、天地一杯に満ち満ちている神の御光がひらけて行くのである。匂い高く天なる絶対の香りがあれますのである。実相を其の儘今此処に観る神想観。生長の家の御教に授けられる、神光遍満のこの天国の祈り。この至上の有難さを其の儘に、神への全托に生命あらしめ、神の子人間の信念が生かされて行く。この霊性を、大信心の霊性を見失ってはならない。歪めてはならない。此処が混沌として、神の子人間を現象人間に妄想し、影に制せられて、六道を輪廻転生するのである。
昭和二十七年三月
――吉田國太郎『続 常楽への道』194項――
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心がかわらなくとも消えるのです。 (60560) |
- 日時:2023年08月27日 (日) 18時51分
名前:訊氏ファン
“あなたは自分をどこまでゆるせるか”ということはまことに重大なテーマであります。これは、“あなたは自分を神だと言えるか”“「神の国は汝らの内にあり」ということをそのままうなずけるか”ということであります。“ゆるせるか”とは、このことを自分自身が受けとることが出来るか、ということであります。 研修生の面接に来られた方で、これからフィンランド人のご主人とあちらに永住されるという方がいました。“向こうに行って、ぜひこのみ教えを伝えたい”というすばらしいご希望の方でした。この方に話したことでしたが、「あなたが神の子であり、光りであり、如来なのですから、あなたが行けばフィンランドの山も川も草も木も花も家も家具も、すべてが光りを迎えて喜ぶんですよ」と。
服部仁郎先生のところで、誌友会がはじまると、その前の年まで稔らなかった柿の実が生(な)り出すようになったのでした。「柿の木の方が、吾々よりよく解るんですかね」などと奥様に話したことでしたが、これは、生命の喜びの波動が周囲のものに通用していくことの尊いお話であると思われるのであります。何かしら“通用”ということについて喜ばしいものを感じさせられるのであります。 生長の家の練成を受けて、「今まで私を育てて下さったお父さん、お母さんは生長の家そのままだった!」と言って感動された人がある。その人は、なつかしさをもってお母さん、お父さんを想い観たことであろう。もうこの時、この人は父母に感謝が成立したのである。“そのお母さんは、生長の家の聖典をどれだけ読んでいたのだろうか”とか、“そのお父さんは、練成も受けていないのにそんな筈はない”などと言うことはないのであります。谷口雅春先生は、天地一切のものは神の子であって、神そのものであるという、大真理を発見されたのであります。
生長の家は“現象なし”の教えでありまして、現象とは、心と心の現われのことをひっくるめて言うのでありますから、無いものには“良くなった”も“よくならない”もないのですから、心がかわらなくとも消えるのです。その現象を“無し”としたとき、完全円満なる、神なる、如来なる自分がここにあり、その神のいのちに、神の愛のあらわれである食物が、燦然と輝きながら入って来ることが拝まれて来るのであります。その輝く神の愛を受け取って、胃も腸も、いな全身の全細胞が、喜びに満ち溢れるのであります。
――WEB「榎本恵吾記念館」――
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神が与えた「自由意志」 (60577) |
- 日時:2023年08月28日 (月) 18時43分
名前:訊氏ファン
愛は自発的であるのが尊いのだ。
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「迷い」はどうしたら消えるのか (60617) |
- 日時:2023年08月29日 (火) 21時48分
名前:訊氏ファン
心の「迷い」を無くするには、「迷い」を捉えて破壊しようと力む事は要らないのである。それは却って自分の心が「迷い」を掴むことになって益々大いに「迷う」ばかりである。「迷い」を無くする唯一の道は、心を「迷い」から一転せしめて、「人間」の本来完全なる相を見詰めるようにすれば好いのである。自分の病気を癒すには、自分の病気を見詰めないで、自分の実相の完全さを見詰めれば好いのであるし、他の病気を治すには、彼の病気を治そうとか、病気をどうしようとか思わないで、ただ彼の完全さを見詰めれば好いのである。全世界の人々が、ただ、他の善のみを見詰めるようにすれば忽ち平和は来るのである。
自分が°Fる力や、自分の思念力によって不幸や病気を退散せしめようなどと思ってはならないのである。われわれが善き言葉で祈り、善き想いを想念したならば、あとは神が成就したまうのであると知らなければならないのである。それは種を蒔くのと同じことである。善き言葉又は善き想念を述べることは、大宇宙の創化力の沃地に、善き種子を蒔くことになるのである。その種子を育て生長せしめたまい実を結ばしめ給う力は神にあるのである。吾々は自分の力で、蒔いた種子から茎や葉を引張り出そうなどと考えてはならないのである。「吾れはただ善き想念の種子を蒔く、これを育てたまうのは神の力である」と念じて、静かに神に全托せよ。
――『幸福を招く365章』186項――
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「生かされている」信心決定 (60657) |
- 日時:2023年08月30日 (水) 22時49分
名前:訊氏ファン
この霊性を、大信心の霊性を見失ってはならない。歪めてはならない。
この生命が生かされて行くのが、神を信ずる信仰生活である。現象を超えなければ、救われると云うことはあり得ない。本当の生きがいの満ちた功徳の華も亦ひらかない。神一元の礼拝の至心をはなれ、現象の功徳、現象の相を、相対二元の五官の心によって云々して、神の救いを有無する時、語る言葉は、如何なる状態の時に、如何なる言葉をあげても、神によってゆるされたものではなく、未だ、天地に満つる御光に、その儘生かされる第一義実相の法悦も来たらない。現象を超えて、神一元の絶対の信心を決定し得て、はじめて、法悦であり、法楽であり、天国であり、極楽である。神想観の礼拝に摂取されて、この救いは、成就されて行くのである。聞法し、行法して、その消息に生かされて行くのである。正に、今此処が、相対観念の流転ではなく、平常無事の其の儘に、大行であり、絶対行であり、前後際断、忽然忽然、不連続の連続、今即久遠の生長の家の生活である。招神歌にあって「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命。吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能(ちから)」と、拝唱の言霊に、この消息を生かされて行くのである。
相は、様々に展開するが、神に生かされ真理を生きる、その御霊は、この事をおいて外にはない。此処が晦まされる時、如何なる道が掲げられても、其処は、その道と異なるものが主人公の如く生きる現象流転の世界であって、掲げた道が神によって主人公となって、この世を光明遍照の世界に生長せしむることは出来ないのである。
「実」と「虚」とが、同一線上に握手してはならない。相対してはならない。 実は実であり、虚は虚であり、品位と風格の峻別が果たされ、今此処は、根本無明をはなれ、二元の天地を透過しt、神の子人間が今此処天国に生かされるのである。生長の家の御教は、この光明をかかげて、万ずの生命を照射し給うのであり、キリストの十字架も、ひとつ光明の顕現である。
神様、有難うございます、と、神の子の純一無雑な素直な心を、生命の底からかかげよう。実相の有難さを置き忘れ、おかげの有難さのみを感謝していると、何時か、その光明が消えて行く、若しも、この様な感謝であったなれば、おかげの有難さを如何に感謝しても、神の子人間の有難さ、霊々妙々なるこの素晴らしい有難さを、現象無、肉体無の無の一点を透過して礼拝感謝する心から生まれて来なければ、其の儘素直に有難い、神の子の真心よりの感謝ではない。神想観は、この感謝の御霊である。無限絶対の感謝である。天国浄土の感謝である。神想観に神の子の有難さを拝んで、この感謝の生命の眼が、次第次第に醒めて行くに従って、天地一杯に満ち満ちている神の御光がひらけて行くのである。匂い高く天なる絶対の香りがあれますのである。実相を其の儘今此処に観る神想観。生長の家の御教に授けられる、神光遍満のこの天国の祈り。この至上の有難さを其の儘に、神への全托に生命あらしめ、神の子人間の信念が生かされて行く。この霊性を、大信心の霊性を見失ってはならない。歪めてはならない。此処が混沌として、神の子人間を現象人間に妄想し、影に制せられて、六道を輪廻転生するのである。 昭和二十七年三月 ――『続 常楽への道』194項――
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苦痛にも感謝せよ (60726) |
- 日時:2023年09月01日 (金) 23時56分
名前:訊氏ファン
むしろ其の苦痛の起こる毎に「これで私の病気は癒されつつあるのだ」と念ずるがよいのである。
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悪本来なし (60809) |
- 日時:2023年09月03日 (日) 01時00分
名前:訊氏ファン
一見悪と見えることも決して悪と見てはいけません。
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吾が祈り (60818) |
- 日時:2023年09月03日 (日) 17時59分
名前:訊氏ファン
観世音菩薩様。あなたの慈悲を私の慈悲とならしめ給え。生きとし生ける者を愛し、憎むことなく、憤ることなく、すべての人々を赦し、愛し、はぐくみ大いなる観世音菩薩の慈悲をもって、すべての人々を抱くことができますように。 観世音菩薩様。どんな時にも倦むことなく、疲れることなく、人々の悩み苦しみを救うために挺身しうる大いなるあなた様の勇猛心を与えた給え。 観世音菩薩様。あなたが三十三身に身の姿を変じ給いて衆生を得度したまうように、時と処と場所とに応じて適当なる方便を行じて人々を救うことが出来ますように。 観世音菩薩様。あなたの慈悲と柔和な相好をわたしの相好とならしめ給え。人々がわたしの顔を見るだけで幸福と光明と歓喜と祝福とに満たされる相好とならしめ給え。 観世音菩薩様。あなたの清らかなる思いが私の思いとなりますように。あなたのやさしき言葉が私の言葉となりますように。 あなたの慈悲の行ないが私の行ないとなりますように。 観世音菩薩様。わたしの行く処に常に現れたまいて、わたしの触れるすべての人々に光と健康とを与えたまえ。一人として私の話をきく者が病むことなく悩むことなく貧しきことなからしめ給え。 観世音菩薩様。わたしの中に完全に流れ入りたまえ。私はあなたに無条件降伏しました。私を動かし給う者はあなたであります。わたしはあなたの内に生きあなたの内に住い、あなたの御心のままにあなたの み心を行じているのでございます。 ありがとうございます。
――<聖光録「吾が祈り」>――
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大和の日本精神を誤解するもの (60839) |
- 日時:2023年09月04日 (月) 22時36分
名前:訊氏ファン
兎も角、生長の家は今や海外諸国にまで日本にこういう好い思想が生まれたと云うので、日本の名誉となりつつあるのである。
近来國體明徴が叫ばれ、日本精神が叫ばれているけれども、日本精神が『大和(やまと)』の意味に於いて、一切包容統一の意味に於いて叫ばれないで、すべて日本的と云うものを非常に狭義に解して、日本的でないという意味に於いて、基督教を排斥し仏教を排斥し、ただ小さき伝統の中にせぐくまってしまおうとする傾向があるのは、大和の日本精神を誤解するものと云わなければならないのである。
生長の家は在来仏教側からも、基督教側からも、人の道からも商売敵としてその誤れる排他的精神から悪口を云われ、色々の投書を当局へ送った人もあるそうであるが、生長の家は決して他の宗教を排撃するものではなく、常にすべての宗教の味方をし、弁護者の位置に立ってきたのである。日本精神とは一切を包容して、『あれも日本の教えだ』『あれも日本の教えだ、日本に於いて大乗的に成就する教えだ』として、無限包容の精神を持つべきものであると私は思うのである。 排外的日本人は外人を見て、『あれは外人だ、外人は排斥すべきものだ』と見るが、包容的日本精神は、イギリス人を見れば、『あれも日本人だ、日本人がイギリスと云う土地に生まれたのだ』と見、インド人を見れば、『あれも日本人だ、インドに生まれている日本人をインド人だと云う』と考える。斯くの如くして普天卒土(ふてんそつど)、天上天下、日本の国土ならざるはなく、日本の国民ならざるはなく、仏教も基督教も、日本の教えならざるはないのである。
兎も角、吾々はそう云う立場に於いて、すべてを排斥する代わりに、欠点を除き、時所不相応のものを撥無(はつむ)し、美点を高揚して、生かすべきものを生かして行きたいのである。 その目的でキリスト教のためには『完成(ななつ)の聖書』を、『ひとのみち』のためには『去就に迷うひとのみち信徒に与たう』を著(あらわ)したのである。幸いに各読者から熱読せられている。殊に後者は二万部増刷の計画であるから知人の去就に迷える兄弟に御贈呈願いたい。
――『明窓浄机』草創篇269頁より謹写――
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周囲にあらわれる状態 (60900) |
- 日時:2023年09月05日 (火) 21時42分
名前:訊氏ファン
周囲の状況をよくしようと思うならば自分自身の想念をよくするほかに道はないのである。
「人を呪わば穴二つ」と云う諺がある。人に墓穴を掘ることは、また自分自身の墓穴を掘ることになっていることである。人に対して「腹を立て」たら、必ず自分自身を害するのである。腹を立てたときには、自分の気持ちが悪いでしょう。それは血液の中に毒素が出来たからです。腹を立てることによって、自分の病気の因を作り、老衰の原因となる。血液の中に出来る毒素が度重なるからである。そんなに病気までして、老衰までして腹を立てねばならないでしょうか。立腹は肉体に害あるばかりではなく、あなたの最も大切な魂がそれだけ傷つくのです。この方が一層大切です。併し、心で腹が立ってこらえているのでは駄目です。愛を注ぐことによって自然腹の立たぬのが最もよい。
憎むことによって、最も苦しむのは自分自身である。正しくない者を憎むことは決して正義を回復することにはならないのである。相手の暗黒面を考え、自分の心を暗くすることによって、得る処のものは結局、相手を傷つけ、自分を傷つけるだけである。相手を傷つけ、自分を傷つけることによって、何処に正義の回復があろうか。憎しみ、怒り、嫉妬、悪口、私行暴露などは、結局、相手を「傷つける念」であるから、それを自分の心の中に起すことによって、自分自身が傷つくのである。誰かが悪を為したからと云って、自分自身を傷つけ、苦しめ、病いや老衰の因を作る必要はないのである。寧ろ吾々は人の悪に対して、それを消すだけの愛を注ぐべきである。
――『幸福を招く365章』39項――
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個別者の相互関係 (60927) |
- 日時:2023年09月06日 (水) 21時46分
名前:訊氏ファン
個別は他と区別される事によって表現されるのであるが、ただ区別されるだけでは表現されるものではない。個別されたる者と、他の個別されたるものとの相互関係がなければそれは他からは認められ様がないから、折角、個別化されたものも表現を完うする事が出来ない。個別者と他の個別者との相互関係は如何にして可能であるか。全然彼と是とが別物である場合は、相互関係はあり得ない。個別者が互いに相互関係があるのは個別者は本来互いに一体であるからである。
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そのままが完全円満 (60945) |
- 日時:2023年09月07日 (木) 22時56分
名前:訊氏ファン
本来の自然になった時、生命は最も完全に発現する。愛が若し自由意志による発現ではなく、強制的に機械的に行わしめられるものであるならば、それは妓楼の主人に強制されて愛を売る売笑婦のそれとなってしまう。愛は自発的であるのが尊いのだ。愛は自他一体の認識だ。個別者同士互いに「愛」の感情が起こるのは個別者は、互いに別物ではなく本来一体であるからである。また個別者が神に対して「愛」の感情が起こるのは、個別者は本来、全体者(神)から発した者だからだ。
――『光明法語』229項――
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この霊性を、大信心の霊性を見失ってはならない。歪めてはならない。 (60963) |
- 日時:2023年09月09日 (土) 00時32分
名前:訊氏ファン
神様、有難うございます、と、神の子の純一無雑な素直な心を、生命の底からかかげよう。実相の有難さを置き忘れ、おかげの有難さのみを感謝していると、何時か、その光明が消えて行く、若しも、この様な感謝であったなれば、おかげの有難さを如何に感謝しても、神の子人間の有難さ、霊々妙々なるこの素晴らしい有難さを、現象無、肉体無の無の一点を透過して礼拝感謝する心から生まれて来なければ、其の儘素直に有難い、神の子の真心よりの感謝ではない。神想観は、この感謝の御霊である。無限絶対の感謝である。天国浄土の感謝である。神想観に神の子の有難さを拝んで、この感謝の生命の眼が、次第次第に醒めて行くに従って、天地一杯に満ち満ちている神の御光がひらけて行くのである。匂い高く天なる絶対の香りがあれますのである。実相を其の儘今此処に観る神想観。生長の家の御教に授けられる、神光遍満のこの天国の祈り。この至上の有難さを其の儘に、神への全托に生命あらしめ、神の子人間の信念が生かされて行く。この霊性を、大信心の霊性を見失ってはならない。歪めてはならない。此処が混沌として、神の子人間を現象人間に妄想し、影に制せられて、六道を輪廻転生するのである。
昭和二十七年三月
――『続 常楽への道』194項ーー
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常楽への道 (60978) |
- 日時:2023年09月09日 (土) 22時15分
名前:訊氏ファン
吾々は生滅流転する現象界の功徳によって救われるのではない。その処に、何かがあると妄想し、心を起し、心を労して、現象の功徳を追うて走る時、永遠に救われることがない。吾々は、実相が、唯一絶対であり、既に救われている神性仏性である、と云う事実によって救われるのであり、この真理は、現象の無を透過して、実相に帰命して果たされるのである。現象は影であって、力が無い。プラスでもなければ、マイナスでも無い。一切現象の無を正観し、この儘現象を超脱して、実相に礼拝帰命し、信心決定することが、救われると云うことである。無功徳一切功徳の享受である。
この生命が生かされて行くのが、神を信ずる信仰生活である。現象を超えなければ、救われると云うことはあり得ない。本当の生きがいの満ちた功徳の華も亦ひらかない。神一元の礼拝の至心をはなれ、現象の功徳、現象の相を、相対二元の五官の心によって云々して、神の救いを有無する時、語る言葉は、如何なる状態の時に、如何なる言葉をあげても、神によってゆるされたものではなく、未だ、天地に満つる御光に、その儘生かされる第一義実相の法悦も来たらない。現象を超えて、神一元の絶対の信心を決定し得て、はじめて、法悦であり、法楽であり、天国であり、極楽である。神想観の礼拝に摂取されて、この救いは、成就されて行くのである。聞法し、行法して、その消息に生かされて行くのである。正に、今此処が、相対観念の流転ではなく、平常無事の其の儘に、大行であり、絶対行であり、前後際断、忽然忽然、不連続の連続、今即久遠の生長の家の生活である。招神歌にあって「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命。吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能(ちから)」と、拝唱の言霊に、この消息を生かされて行くのである。
相は、様々に展開するが、神に生かされ真理を生きる、その御霊は、この事をおいて外にはない。此処が晦まされる時、如何なる道が掲げられても、其処は、その道と異なるものが主人公の如く生きる現象流転の世界であって、掲げた道が神によって主人公となって、この世を光明遍照の世界に生長せしむることは出来ないのである。
「実」と「虚」とが、同一線上に握手してはならない。相対してはならない。 実は実であり、虚は虚であり、品位と風格の峻別が果たされ、今此処は、根本無明をはなれ、二元の天地を透過しt、神の子人間が今此処天国に生かされるのである。生長の家の御教は、この光明をかかげて、万ずの生命を照射し給うのであり、キリストの十字架も、ひとつ光明の顕現である。
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ケミカライゼーション (60987) |
- 日時:2023年09月10日 (日) 15時11分
名前:訊氏ファン
祈りが成就しない場合には、その原因が色々ある。祈りながらも本人が「このような問題はとても祈りではきかれないだろう」と自分の心で祈りの結果を抑制してしまう場合には、その祈りは成就しないことになる。
また、治癒過程としての自壊作用の起こった場合、「一層悪くなってしまった」と思って「悪化」を心に描き、「恐怖心」を起こすことによって、「心に描いたものがあらわれる」という法則や、「恐るるものは皆来る」という法則によって、自壊作用を真の「悪化」に変じてしまうこともあり得るのである。神に祈る場合には、その治癒過程を神の無限の叡智に托せて、必ず好転すると信じて神に全托しなければならないのである。
――『人生の秘訣365章』189項――
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正しい祈りによって好転しないものは何一つないのである。 (61017) |
- 日時:2023年09月11日 (月) 22時23分
名前:訊氏ファン
祈りの後に自分の予想しないような状態が出て来たり、時として一層悪化した状態が出てきてもそれは祈りによって、過去の膿が出尽くそうとしているのであって、やはり好転と見るほかないのである。腫物は膿が出尽くしたときに完全に治り始めるのである。
だから膿が出ることを悪化と考えることは間違いである。膿が出るのは生長の家では“迷いの自壊作用”だといっている。すべての不幸や病気や災難は、唯心所現のものであって、過去に起こした“心の迷い”が或る程度を超えて蓄積され、飽和状態以上になったときに具体化して、病気や不幸や災難の形をとってあらわれて来る。
迷いの程度の少ないものは、例えば腫れ物が化膿しないで毒素が内部で中和または吸収され、そのまま引っ込んでしまうように自壊作用なしに治療させることができるが、迷いの蓄積の程度のひどいものは、内部的に吸収されないで例えば腫れ物が膿を排出した後に治るように、自壊作用を経た後に治るのである。否、自壊作用そのものが治癒の過程なのである。
――『人生の秘訣365章』188項――
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恐れは「ない」のです (61033) |
- 日時:2023年09月12日 (火) 23時04分
名前:訊氏ファン
凡そ、「恐れる」ということは今は「無い」ことを恐れるのですから、有り得ないウソの心なのです
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周囲にあらわれる状態 (61071) |
- 日時:2023年09月16日 (土) 10時54分
名前:訊氏ファン
「あいつは悪い、あいつは悪い」と念ずる事は、その思念の力によってその相手の人をして益々悪くならせることになるのである。念ずれば念ずる通りにあらわれるのが心の法則であるからである。正義によって憤ると云うことは、「彼は間違っているから、善くしてやりたい」と云う希望から成されるのであるから、「彼は本来あんな悪いことをする人間ではない。善い人間である、善い人間である。だから今後は善い事ばかりする」と念じてやるべきである。彼をよくしてやるのは説教ではなく、愛である。愛とは彼の弱点をあわれんで舐めるように可愛がることではない。どんなに不完全に見えようとも、その奥にある「善」なるものを見出して、それを尊んで拝んでやることである。
――『幸福を招く365章』40項――
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光は影を見ない (61081) |
- 日時:2023年09月17日 (日) 10時31分
名前:訊氏ファン
すべての人間の内にある「神なるもの」「完全なるもの」「人間の実相」「内に宿るキリスト」を見て礼拝しなければならないのである。
キリストは、自分をとらえに来た者をも赦して、ペテロがそれに対して剣を抜いて戦おうとしたのを押しとどめ、ペテロに耳を斬られて倒れている兵隊を愛の心によって癒してさえいるのである。キリストは形の上では磔になったけれども、心の世界では世界を征服し給うたのである。
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悪本来なし (61095) |
- 日時:2023年09月18日 (月) 12時07分
名前:訊氏ファン
みそぎ祓いをすると迷いの自壊作用として、一見事態が悪化したように見えることが起こってきて迷いの悪い働きという風なものが現われてくると、その時に我々はどういう風にしたらよいかといいますと、神直毘(かむなおび)大直毘神(おおなおびのかみ)の働きをすればよいのであります。神直毘(かむなおび)大直毘神(おおなおびのかみ)というのは、悪く見えるものでも、これは良いことの始めであると見直し、聞き直すことであります。(中略)どんな災難不幸が起こって来ましても、これはありがたいことだ、これによって過去の業が除かれて清浄の身になるのだ。こういう具合に観察しなおしていくのであります。
――『限りなく日本を愛す』 256項ーー
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(61112) |
- 日時:2023年09月19日 (火) 22時41分
名前:訊氏ファン
空の雲というものは一見、空を曇らせているように見えますけれども、雲というものは本当は空を綺麗に澄みきらす働きをするものなのです。雲が起こるので空気中の水分や塵埃が綺麗に浚えられて雨となって取り去られるのです。 雲が起こらなければ空気中の水分や塵埃はなかなか急には取り去られない。そうすると雲というのは空を曇らす働きをするようでありますけれども、本当は、空を浄める働きをしていることが解るでしょう。 それと同じように雑念妄念というものは心を曇らす働きをしているように見えますけれども、雑念妄想が起こるので、過去から蓄積されていた心の塵が表面に浮かび出て心がいっそう速やかに澄んでくるのです。
――『生命の實相』第十五巻 50項――
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他の悪を認めてはならない (61127) |
- 日時:2023年09月21日 (木) 21時51分
名前:訊氏ファン
吾々が神の救いにあずかろうと思うならば、神と同じ心境にならなければならない。神は完全なる善であるから、神は悪を感ずることができないのである。それは恰度光は暗を感ずることができないのと同じことである。吾々が悪を感じ得るのは、少なくともわが心の中に悪の波動が起るからである。我々が、「赤い色」を感じ得るのは自分の心の中に「赤い色」の波動が起るからである。赤色色盲に於いては、心の中に「赤色」の波動が起らないが故に、「赤色」を見る事ができないのである。神に於いては、一瞬間といえども、「悪」の波動が起らないが故に、神は吾々の「悪」を認め給うことは決してなく、従って吾々の悪を罰し給うこともないのである。吾々が神の救いと完全に波長を合わせようと欲するならば、吾々自身が神と等しく、一切の悪を認めない心境にならなければならないのである。神は吾々の愛深き父であり、神の子たる人間の唯「善」のみを見給うのである。その如く吾々人間も、すべての人間の内にある「神なるもの」「完全なるもの」「人間の実相」「内に宿るキリスト」を見て礼拝しなければならないのである。そこに如何なる悪と見えるものの前にも、それも見ない所の無限の赦しが生ずるのである。
法華経に於ける常不軽菩薩はすべての人間を、「仏なるもの」として礼拝し、石で打たれてさえも、更に相手を仏なるものとして礼拝したのである。キリストは十字架につけられながら、一緒に磔にかかっている盗賊に対して「次の日、汝は我と共に天国にてあらん」といって悪を見ないで天国にいる神の子人間を見たのである。
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(61137) |
- 日時:2023年09月22日 (金) 23時34分
名前:訊氏ファン
数週間の間、何事も順調に進んでいる様に見えました。所が突然、或る日その映画会社の作品を配給していた会社との契約が切れ、その作品のことは継続されませんでした。そこで彼は再び解雇されることになりました。けれども彼は失望しませんでした。 素直にその運命を感謝して受け、更に一層よくなる始めであると信じていました。
所がその映画会社のプロデューサーが一通の紹介状をニューヨークの某映画会社宛に書いてくれたのです。その映画会社は有名な映画会社でした。突然彼の収入は増加し、彼の権威は、彼の位置は益々重要となりました。 一年たたない中に彼は嘗て編集者として受けていた最高のサラリーの2倍以上を得るようになりました。3年経たない中に当時の3倍以上となり、年々歳々その収入は増加し、3年経つと最初のサラリーの5倍以上のサラリーとなり、6年経った頃には、小説編集者として解雇された時の10倍以上も収入のあるようになりました。
そこで皆さん考えてください。この人にとって悪いニュースというのは一体どこにあったのでしょうか?考えて見まするに、すべては尚一層よくなるために神が導いていられる事を見出すのです。 それは唯偶然と思われるかも知れませんが、それはすべて偶然ではありません。自分の周囲に出てくる所のすべてのものを自分を生かす神の深切なる導きとして感謝して受ける時、すべてのものは好転してくるのであります。子供の教育も矢張りそれと同じことがあるのであります。子供に現はれるどんな悪しき状態でも結局それは、よくなるより仕方がないところの神の導きであると信じて実相を拝んで居れば、きっと子供はよくなるのであります。一見悪と見えることも決して悪と見てはいけません。そのまま素直にそれをうけて、きっとよくなる始めである、神の造り給うたこの世界には決して悪はないのである、神の造り給うた人間は必ずよくなるより外に仕方がないのであると素直に信じて拝んで行けば、如何なる境遇でも運命でも子供でも全部よくなるより仕方がないのであります。
――『希望実現の鍵』71ページーー
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(61163) |
- 日時:2023年09月24日 (日) 00時17分
名前:訊氏ファン
罪がなぜその姿を現象界の不幸として、具象化して現わすかといいますと、罪それ自身がその存在を主張するためではないのであります。罪とは「実相を包みて顕わさざるもの」でありますから、理解の便宜上「包み」という字を当てはめて考えてください。「包み」が形にあらわしているのは、「包み」を開いて中の進物(実相)をただ「ありがとう」と受け取ってもらうためであって、「包み」「包装」そのものに執着してもらうためではありません。 (中略) 罪が形を顕わすのは、罪自身が自壊するためである。「包み」が形を顕わすのは「包み」自身がその結びのほどかれんがためである。
――『人類無罪宣言』133項――
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(61168) |
- 日時:2023年09月24日 (日) 19時00分
名前:訊氏ファン
「その心をお忘れなさるな」と谷口先生は優しくお言いになった。
「失われたと思うときはいっそう多くなる一瞬前であり、最暗黒だと思うときはいっそう明るくなる一瞬前なのです。」
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疲労は疲労のためにあるのではなく、疲労回復のためにあるのである (61184) |
- 日時:2023年09月25日 (月) 22時19分
名前:訊氏ファン
それは、樹木の落ち葉と同じように生命のエネルギーが内に沈潜して自己を養い一陽来復の春がきたとき爛漫たる百華を咲かせんがための下準備を成しつつあるのである。不景気や事業の停頓もやがて景気来復の下準備に経済界がエネルギーを内に沈潜して力を養いつつあるのだということを知らねばならぬ。どんな経済界も永久に沈滞して、景気が再来しなかった実例などはないのである。 神は現象の奥に、常に向上一途の不屈の力を携えて常に前進をつづけつつあるのである。 悲観したり、絶望したりすることを止めよ。百華爛漫の春が来ることを神は保証し給うているのである。 一粒の種子を見ても、その外観の小ささを見ないで、その現象の微小なる姿の奥に、既に亭々と伸びる巨樹の原型があるのである。常に、現象の奥にある常住の繁栄を見る者は“智慧ある者”である。
――『神と偕に生きる真理365章』43項――
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解決を神の方法に (61187) |
- 日時:2023年09月26日 (火) 20時38分
名前:訊氏ファン
祈りの効果を疑ってはならないのである。悪しき現象はむしろ、祈りの効果が現れつつある証拠である。
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解決を神の方法に委せ切れ (61192) |
- 日時:2023年09月27日 (水) 21時00分
名前:訊氏ファン
もし吾々があらゆる方面に行きつまって何事も思うように行かないというような状態が信仰を得た後に、毎日祈っているにも拘らず現れたとしたならば、吾々は喜ばなければならないのである。それは大地がわれる程の大きなものが下から芽をふきつつあるのである。地面が動きだしたからといって、その地面の動きを征服しようと戦ってはならないのである。またその地面を平かにしようと鍬や鋤を加えてはならない。吾々は驚いたり騒いだりしてはならないのである。吾々は神に全托しなければならない。神は「神の方法によって」吾が祈りにこたえ給うのである。自分の我の心で「神の方法」を批判してはならない。かかる時に於いて我らの祈るべき言葉は、 「神よ、あなたの無限の智慧を以って吾を導き給え。神よ、この解決を貴方の方法にお任せ致します。今起っている事件の意義を知り得る智慧を与え給え、そしてこの試みに耐えてわが魂の発達致しますように」というようでなければならないのである。 もし吾々が、祈りにも拘らずそこに現れた不完全な状態と見えるものに対して、恐れ戦き、或は周章狼狽し、我の心でその状態を変化しようと努力するならば、折角「神よあなたの方法にお任せ致します」と祈ったその祈りを、取消してしまうことになり、神の智慧に逆いて我の智慧を行使することになり、結局、祈った事物の実現をおくらしてしまうことになるのである。
祈りは我々が神のみ心に対して完全に任せきり、「神の方法」に逆わなくなった時に、もっともなめらかに実現するのである。然しこれは時としては甚だ難しいことがあるかも知れない。ある場合には、今迄かくも愛し、かくも恩恵を与えてきた相手が自分に反抗して立ち、自分に矛を向けて、小さな欠点を鵜の目鷹の目で探しだし、恩を仇で返すような仕打をしてくることがあるかも知れない。そのような時に、普通ならば吾々は彼を憎み、自己を弁護するために、彼と同じように彼の欠点を数えあげて相手を傷つけたくなるであろう。然しそれでは決して神のみ心にかなうやり方ではないのである。かかる状態が自分の目の前に現れたということは、自分の魂がそれによって磨かれて、かかる敵をすらも愛する力を、わが魂に実現せんがための、神の摂理であるのである。
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彼の反抗は業の自壊作用 (61200) |
- 日時:2023年09月28日 (木) 19時57分
名前:訊氏ファン
更にそれはあなた自身の魂を磨かんがための課題として現れた状態であるばかりでなく、恩を仇で返そうとしているようなその人の誤れる「精神傾向」が自壊せんがために一遍に爆発しつつあるのである。我々の祈りが彼の誤れる「精神傾向」の火薬庫に焼夷弾を投げこんだのである。焼夷弾は小さくとも、彼の潜在意識の蔵の中に貯えられている業の爆弾は大量であるのである。だから彼は自分に対してはげしく反抗して立つかの如く見えるのである。それをただの「反抗」であると思ったり、「状態の悪化」であると思ってはならないのである。それはただ真理の焼夷弾が彼の「精神傾向」の悪さを爆破せしめつつあるのである。彼自身も何故そんなに反抗したくなるのか、意地悪をしたくなるのか、その意味がわからないのである。ただ内部から大きな力で揺り動かされるような感じである。とめようと思っても内部から爆発してくるその力がとまらない。もしあなたが、彼のその内部的な業の自壊作用を理解することができるならば、あなたは彼の反抗や、意地悪に対して同情することができるのである。そしてその彼の感情の爆発の奥に目覚めつつある実相の善さを拝むことができるのである。そして一そう彼を愛し、平和の心を以て彼に対し「祈りはきかれつつある」と自覚して感謝することができるのである。
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祈りの反応としての不調和 (61207) |
- 日時:2023年09月29日 (金) 22時59分
名前:訊氏ファン
祈りの反応として現れて来る不調和な状態の中には、時として自分自身が病気になり、時として自分の愛する家族が病気に罹ることがあるのである。そんな時に祈りの効果を疑ってはならないのである。それはむしろ祈りの効果が現れつつあるのである。すべて古きものの破壊は新しきものの実現の場所を造りつつあるのである。発熱の中に、発疹の中に、下痢の中に、古きものが燃焼しつくされ、排泄され、新しき組織ができつつあるのである。これは祈りの応答として、神があなたに病気を課しつつあるのではないのである。肉体は魂の「機関」であり、精神の「座」であるから、発達せる魂が、尚一そう自由なる精神をその機関を使って働かせんがために、必要なる所の改造が行われつつあるのである。それは肉体の不調和の状態の如く見えているかも知れぬけれども、それは病気でもなければ不調和でもないのである。魂の機関が、精神の座が、それによって浄められつつあるのである。祈りの応答としてのかくの如き肉体の状態の意味を吾々が本当に知ることができるならば、吾々はその肉体の状態に対して、否、その奥に動いている所の浄化作用に対して「ありがとうございます」と感謝しなければならないのである。
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「無抵抗」の有つ不可思議力 (61214) |
- 日時:2023年09月30日 (土) 15時48分
名前:訊氏ファン
環境や周囲の擾乱に対して、それと戦うことを止め、それを「迷いの自壊作用」と認めて尚一そう相手を赦し愛する気持になった時に、速かに周囲に光明輝く状態が現れてくるのと同じように、かくの如くにして起った病気に対して、その病気の意味を理解し、それに感謝するようになった時、自分の病気が、或は自分の家族の病気が奇蹟的な迅速さを以て回復することがあるものである。
「悪に抗すること勿れ」「汝をなやめ責むるところの敵のために祈れ」とキリストがいった言葉の真理が又ここにもあてはまるのである。
吾々は他を赦すことによってのみ自分が赦されるのである。旧約の救いは「目にて目をつぐない、歯にて歯をつぐなう」自力の行によって行われたのであるが、新約の救いは、キリストの愛と恵みによって行われるのである。吾々は「キリスト」を通じて、過去に如何に多くの罪業があろうとも救われるのである。私のいう「キリスト」とは二千年前に生まれた肉体イエスのことではないのである。キリストとは「自己の内に宿る無限の赦す心」であるのである。キリストは「七度を七十倍度赦せ」といったのである。「赦す心」がキリストである。我々が「赦す心」を自分の内に起した時に、キリストは自分の内に宿っているのである。キリストは「我は道なり、真理なり、生命なり」といい、又「我は扉なり、もし誰にてもあれ吾より入るものは救わるべし」といったのである。吾々が人を赦す時我が内に真理が生き、生命が生き、キリストが生き、そのキリストの扉を通して、常楽の世界なる天国に入ることができるのである。
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祈りを一層効果あらしめるには (61226) |
- 日時:2023年10月01日 (日) 15時21分
名前:訊氏ファン
吾々が、もし祈りを効果あらしめんと欲するならば、人を赦さなければならないのである。もし吾々が一つの罪に対して必ず一つの報いを受けるという法則の世界に於いて生活するならば、吾々は決して赦される時は来ないのである。吾々は今迄自分が生活する為に無数の生きものを殺して来たのである。もし一つの殺生を以て一つの殺生に報いられるというのであるならば、吾々は幾度死刑の執行をうけても赦されようがないのである。かくの如く現象面から見るならば罪の深い深い人間なのである。それが赦されるためには神の無限の大慈悲の中にとびこまなければならないのである。然し神の無限の大慈悲の中にとびこんだ所が自分自身が「赦さない」固い心をもっている限りに於いて神の大慈悲の波長と、波長が合わないのであるから依然として赦されないでいる外はないのである。
吾々が心の中に「赦し」の念を起す時「赦し」の法則が自分の心の中に行われ、そこに自分に宿っている「赦し」(キリストの救い)が実現するのである。我々が深い信仰を以て赦しの言葉を心の中で唱える時、一切の罪の報いは消滅してしまうのである。原因結果の法則を超えて救いの世界へ超入する道は、自分自身が「赦し」の心を起して、「赦し」なる神の愛と一体になる必要があるのである。もし吾々が如何なる罪を犯しておろうとも、真に自分があらゆるものを救すことができる心境に達すれば、神の赦しの波長はそこに実現し來って、自分自身が赦される事になり、自分自身が完全なる自由を獲得することができるのである。
――生活と人間の再建』第11章 「信仰生活の種々相」より謹写――
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暗黒の中に生長を観る (61255) |
- 日時:2023年10月03日 (火) 21時47分
名前:訊氏ファン
吾々はその擾乱の中に、不調和の中に、祈りの実現を見なければならない
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信仰の満潮期と干潮期 (61267) |
- 日時:2023年10月04日 (水) 21時58分
名前:訊氏ファン
吾々が真理にふれる時、そして神との接触が行われたと自覚された時、凡ゆる方面に吾々の生活が輝いて来て、病は癒され、家庭は調和し、事業は繁盛におもむき、「行く所可ならざるなし」というような状態になるのが普通である。そういう時にその人の信仰に熱がのっていて、所謂る「感激中」というような状態になるのである。所がその感激中は、そう長くは続かないのであって所謂信仰の「干潮期」がやってくるのである。最初に自分を感激せしめたその同じ真理が、今では一向自分を感激せしめないし、それに伴って自分をとり囲んでいる物質的環境も順調に行かなくなって色々の悩みやいらいらしさが現れて来るのである。
ある場合には、自分自身又は家族の中に突然の病気が現れて来たり、愛する者との間に何か紛争が捲き起こって来て耐えがたいような状態を演出することがある。暗黒が自分の周囲をとじこめて、迷宮はますます迷宮に入り、再び真理の光を見る望みは失われ去ったようであり、ともすれば、自暴自棄になろうとする。病気や周囲の不調和そのものの苦しみよりも、一度はあんなにも奇蹟を現して、自分に輝く世界を見せてくれていた真理が、今は何の効果もなく、この悩みを解決する力を失ったという事の打撃の方が、尚一そう痛切に感じられるのである。もう拠り所がない、もう掴むべき藁一筋もないというような時が往々にして訪れる。淋しい信仰の退廃期である
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真理の種子は暗黒の中にも生長する (61272) |
- 日時:2023年10月05日 (木) 21時12分
名前:訊氏ファン
かかる時吾々の魂は叫ぶ。真理は無力なのか?信仰は無駄なのか?祈りはきかれないのか?否、否、祈りはきかれているのである。真理は有力に働いているのである。吾々はそれに対して信仰をもたなければならない。ただぐらつきかけているのは自分の信仰だけである。
暗闇の中でも心臓は鼓動し、肺臓は呼吸して吾々を生かしている。かように、真理は吾々の暗黒期の中でも有力に働いていてくれるのである。祈りはきかれすべてが順調に進んでいるのである。暗黒に見え、逆境に見えている時にさえも、真理の種子はそこに生長し、祈りはそこに実現すべく働いているのである。祈りによって蒔かれたる真理の種子は潜在意識の暗黒の大地の中に蒔かれていて、そこには日光が射さないけれども、種子は次第にふくらみかけているのである。そして、緑の小さい芽がその胚芽から生長し出でつつあるのである。吾々は一旦自分の潜在意識に蒔かれたる真理の種子が、もう芽をふかないかと思って、掘りかえしてみるような愚かな事をしてはならないのである。吾々が種子を目に見えない地面の中に植えつけて、その発芽するのを大地の力に任せてしまうかのように、吾々は祈りの結果を、祈りによって蒔かれたる真理の種子の生長を、神のみ手に完全に委ねて、神が神の方法によってそれを適当な時期に適当な形で、芽を出し茎をのばし、葉を広げ、蕾をつけさせてくれるまで待たなければならないのである。神に任せてこの待つ心のないものは遂に美しき花を見ずに終るかもしれないのである。
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ケミカライゼーション カテゴリ (61283) |
- 日時:2023年10月07日 (土) 11時47分
名前:訊氏ファン
私も家内も熱心に祈ってあげたのでありますし、それだけまた、一時失望が激しかったのでありますが、われわれでさえこんなに失望するのであれば、当事者たる三好さんはさぞ失望しているだろうと思うと、慰めの言葉を送ってあげなければならないという気がして、私は長文の手紙をまた三好さんに送ったのであります。慰めるといっても、いいかげんな、でたらめを云って一時の気休めをさせるということではありません。
われわれが「神想観」によってある事物の成功を神にもとめる場合に、その求めた事物が得られないで失望していると、こんどは求めた以上のものが他の方面から与えられることがおうおうあるのであります。これは神の知恵が人間の予想した以上のところに働きたまうからであり、迷いの自壊作用でもあります。
たとえば、ある病気に対し、健康な状態を神に求めていると、かえって熱が高くなったり、痛みが増加したり、分泌物がふえたりして、いっけん病状が急激に悪くなったりすることがあります。これでは「神想観」も効力がなかったのかと思って失望していると、その病状の急変が一転機となって、驟雨の後の快晴のような爽快な健康がめきめきと回復してくるのであります。クリスチャン・サイエンスの開祖エディ夫人は、この「病状の急変」をケミカライゼーションと名付けて、「これは真理の朝日が立上る前に『無明』の自壊作用が起るのであるから、このケミカライゼーションが起ったら、あなたの病気はもう治ったと自分は宣言する」とまでいっています。
「神想観」によって生命の実相を観じたり、『生長の家』誌や『生命の實相』のような生命の真理を判りやすく書いてある本を読んで、病状が急激に変化したならば、このケミカライゼーションという「迷いの自壊作用」であって、近くまったき健康の出現する前兆なのでありますから、自信をにって、やはり神想観を続けてください。
――『生命の實相』第1巻108ページ―ー
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(61293) |
- 日時:2023年10月08日 (日) 08時41分
名前:訊氏ファン
「苦難は幸福の門」―― というのは、倫理研究所を創始した丸山敏雄氏の言葉である。苦難は生活の不自然さ、心のゆがみの映った危険信号であり、ここに幸福に入る門がある。従って、苦難を忌み嫌うのではなく、喜んで取り組み、苦難の原因になっている生活のあやまり、心の不自然さを取り去ると、かつ然として幸福の天地が開けてくる、と述べられている。
「大悪起これば大善来る」―― と仏法では言われている。小さなよいことは、日常の中でもしょっちゅう起こる。しかし、大善 ―― 本当に大きなことは、こんな苦しみはもういやだと言いたくなるような、大悪が起こった後にやって来る、というのである。
耐え切れないような大きな苦しみや困難や障害がおそってきた時に、もう駄目だと投げ出すのではなく、ここを越えれば、必ず大善 ―― 本当に大きなよきことがやってくる、これはその前兆だと信じて、その波を越えて行けと、仏法は説いてにるのだ。
いま国も企業も大きな困難の渦中にある。個人的に煩悩を抱えている方もおられよう。しかし、苦難は私たち自身をさらに成長させ、新しい世界を開いてくれようとする天の意であることを、先知先賢の言葉は教えてくれている。
――藤尾秀昭著書『小さな人生論』――
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原因結果の法則の世界 (61323) |
- 日時:2023年10月10日 (火) 22時51分
名前:訊氏ファン
このようにこの世界は原因結果の法則に支配されているのである。憎みや、怒りや、復讐のパイプを造って置いて、そこから平和や喜びや、幸福が流れこんでくると考えてはならないのである。他から奪うような方法によって、富んで見ても、その富は又他から奪われるか、そうでなければ他の方法でその人の幸福は奪われるのである。
多くの富める人の生活につきまとうものが、家族の病気や、家庭の不調和や、団体と団体との面白くない葛藤等によって起る不幸であるということは、その富が他から幸福を奪った結果得られたような部分があるからである。人の幸福を奪うものは、又自分の幸福が奪われるのである。
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(61328) |
- 日時:2023年10月11日 (水) 21時15分
名前:訊氏ファン
自分の周囲にあらわれる状態は、すべて自分の想念の影なのであるから、周囲の状況をよくしようと思うならば自分自身の想念をよくするほかに道はないのである。若しあなたに誰かが不快なことをしたら、それは貴方の性格を強くし、どんな現象に接しても其の奥にある善を見る力を養い、愛を深くするために神が与え給うた絶好の機会であるとして、相手の人の美点を見るように練習するがよいのである。神の愛が、相手の姿とあらわれて私を訓練し、高め上げ、磨いて下さるのであると信じ、相手を「酷い」とか「意地悪」であるとか考えないで、相手を慈悲の権化、神愛の化身として「ありがとうございます」と拝むとき、相手が真に神愛の表現としての優しき姿にあらわれて来るのである。
―ー『幸福を招く365章』41項――
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「現象の善さ」よりも「魂の善さ」を (61332) |
- 日時:2023年10月12日 (木) 20時27分
名前:訊氏ファン
一たん蒔かれたる真理の種子は、吾々が信念の欠乏から、掘り返してみない限りは必ず膨張し、必ず根を拡げ、必ず芽を出し、頭をもたげ、土を破るのである。その結果は破壊と振動とがその周囲に起こるのである。それが起こらないようでは、その祈りが効果があったというに足りないのである。新しい大きな芽が頭をもたげる時には大地の周囲が破壊するのである。かくて古きものは破壊し新しきものが現れるのである。周囲に起こる不調和と見えたものは吾々が祈りを求めた新しき状態に移るために古き状態が真理によって爆撃されつつある光景にすぎないのである。これを吾々は「迷いの自壊作用」といって来たのである。
この自壊作用そのものの中に神が吾々の祈りに応じ給うた解答があるのである。吾々はその変化の中に、擾乱の中に、不調和の中に、病気の中に、周囲の反抗の中に、祈りの実現しつつある過程を見て、感謝し得るだけの智慧をもたなければならない。吾々に必要なのは形の世界がすぐに調和してしまうということではないのである。神の求め給うのは吾々の生命の進化であり、魂の発達である。そんな擾乱の中に於いてすらも、その奥に神の智慧と愛との導きのあることを見得る所の魂の発達こそ、神が吾らに課し給うた所のものであるのである。吾々は直に小さな「現象の善さ」を求める。然し、神はもっと立派な「魂の善さ」を与えようと欲していられるのである。吾々が神の前にさし出す盃が余りにも小さいのである。吾々はもっと大きな盃を出さなければ神の愛と恵みを完全に受けることはできないのである。神は吾々が形ある小さきものの成就を求めたのを契機に、形なき宇宙に拡がる魂の喜びを与えようとしておられるのであるということに気がつかなければならないのである。
――『生活と人間の再建』174項――
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実相一元、光明一元 (61346) |
- 日時:2023年10月13日 (金) 21時45分
名前:訊氏ファン
・實相が完全円満ならば、なんで困ったことが起こるのでしょう。「完全」が現象に現れてこないのはなぜでしょう。
・榎本一子の講演に「行こう行こう」と思われたと思います。でも(講演中の今は)その「行こう」は消えてますよね。それは終わったからなんです。カタチに現れたら消えているのが、實相なんです。
・「これさえ無かったら幸せなのに」な現象は誰でもありますが、よくなるために現れたのです。
・「困ることがないので困っとる」が、父(藤原先生)の言葉でございました。
・入院して手術するという日でも、「困った≠ェ消えた」のだ。だからこれから良くなるばかりだ。(藤原先生談)
・「この世に起こってくるもの」のなかで、「悪くなるために起こること」は、「ただのひとつもない」と父(藤原先生)は申しておりましたね。
・父が申しておりました。「どうしたら?」と思ったときはどうするか?・・・
・なんでも実践することです。「ありがとうございます」を言いましょう。
・ひとつ決めたら、どんな簡単なことでも実践することです。
・病気というのは、過去の間違いが消えていこうとしている姿ですから「ああ!消えていっているんだ!」なんですから、「ありがとうございます」なんです。
・借金がある人でも、過去の私の間違った思いが「消えていっている」姿なんですから、もう消えたんですから「ありがとうございます」です。
・ 問題があるから有難いんじゃないんです。消えていっているからありがたいんです。
・ 父は申しておりました。「生長の家に入るっているのは宝の山に入る≠ュらいの有難さだ」「世界中のものをもらうよりも、ありがたいことだ」
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おおよそ宗教は、全能なる神を信ずるのである。 (61356) |
- 日時:2023年10月14日 (土) 15時57分
名前:訊氏ファン
その信ずべき全能なるものの、生んだものの中に、これから救って完全にしてやらなければならないものがあると観ることほどの不信はあり得ないのであります。それは、宗教自体の自己矛盾であるといわなければならない。そこに宗教の「我」が出てしまっているのである。
ただ、もし宗教にゆるされるべき道があるとすれば、それは神の生んだ萬物を拝むこと祝福することのみであります。それが無神なる輝きの世嗣なる宗教の姿でありましょう。 救済活動、救済活動と大声でよばわるものもあるが、おおよそ救済活動とか愛の行いとかいうものは、人前に宣伝すべきものではないのではないでしょうか。「私はこれだけの救済活動をしました。」「私はこれだけの愛の行いをしました。」と、それを競っているところには、はたして愛なるものはあるのでありましょうか。
愛は夜露の如く音もなく訪れ、 萬物を潤して、 夜明けとともに消えゆくのである。
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(61372) |
- 日時:2023年10月15日 (日) 09時32分
名前:訊氏ファン
誰にも気づかれずにすべてを潤すのが愛であるとすれば、それが深ければ深いほど尊ければ尊いほど、気づかれないところの愛によって私たちはどれほど生かされていることでありましょう。 その意味において、即ち、宗教は萬物を礼拝し祝福するためにのみあるという意味においては、神道の神社には、ご神体として鏡が置かれているのでありましょう。
この鏡は、そこに来る人々の姿を写すのである。 その写った姿をまつっているのが、神社である。 その鏡の前に立った人をご神体としてまつっているのが神社なのである。
そして、その鏡の前に立って人は自分の姿に気づくのである。 自分で自分が甦がえるのである。 鏡がゆがみなく、完全に澄み切っていることが宗教の宗教たる所以なのである。
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(61447) |
- 日時:2023年10月19日 (木) 23時09分
名前:訊氏ファン
異常に地上の人間を尊敬する言葉を使うとき、その尊敬の言葉が周囲の反感をそそることになることがある。生長の家でも若し私を教組のように取扱わないで一個の文学者であると取扱って頂けたなら、生長の家は迷信だとか邪教だとか云われないで、もっと広く弘まったであろう。
信ずる者があまり持ち上げるので、反動的に社会がその出る杭を打とうとするのだ。イエスを磔刑にまで導いたのは弟子であった。それは必ずしも裏切者のユダのみがイエスを売ったのではない。弟子や信者たちの周囲を顧慮せぬ異常な尊敬の念がピラトやカヤバに不安の念を起こさしめ、ついにイエスを磔刑にまで導いたのである。西郷隆盛に城山で自刃せしめた者は、却って隆盛を信ずること篤(あつ)きその家来であった。
私は教組だとか聖師だとか云われるよりも、ただの哲学者で好い、文士で好い、私は自由人であり著述家である。私は宮崎邸の離れに同居させて頂いている一個の文筆業者である。私は一戸を構えていないので選挙権さえない人間である。併し私は哲学者としては、カント、フィヒテ、ヘーゲルに並べられても差し支えないところの哲学界に功績を残したとは思っている。
―ー『明窓浄机』257頁より謹写――
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(61453) |
- 日時:2023年10月20日 (金) 22時07分
名前:訊氏ファン
奈良に行ったとき、社寺の屋根の上に高い空があって白雲があった。空はこんなにきれいだったのかと思わされたことがある。何かお寺のいらかや、神社の建物を通してみると、山々、森々や、自然というものが、却って引き立って来ているのに気がついたことはないであろうか。神社の新造されたときに、そのような気持ちになった人は少なくないであろう。神社そのものが無我になってすべてを引き立たせているのである。神社そのものが周囲を礼拝し、讚嘆している。
それのみか、国全体が引き立って来る、ということも、自然なことであるのかも知れない。
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「わが忠誠は日本にあり」の含意 (61462) |
- 日時:2023年10月21日 (土) 15時09分
名前:訊氏ファン
だが、その「天子」と皇族が、それを欺く政府の「姦謀」が、ともに相寄って自ら国を亡ぼそうとしているとすれば、この事だけはどうしても赦すことができない。 ――『南洲残影』57項――
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(61465) |
- 日時:2023年10月22日 (日) 11時21分
名前:訊氏ファン
西郷隆盛は謎の人物だ。しかもその「謎」は、どうでもいいような些末なレベルではなさそうだ。私は途轍もない、重大な秘密がそこに潜んでいると五十年近く感じてきた。
西郷というよりも、明治維新全体が謎だ。何か、肝腎なことが隠されているように思えてならない。幕末維新明治の歴史記述には、不透明なもの、奇怪なもの、いかにも嘘っぽく人工的、人為的な作りもの、表面だけ取り繕った軽薄さ、要するに恐ろしく偽善的で欺瞞的な様相が透けて見えてしまうのだ。
考えても調べても探求しつづけても光が見えてこない。キラリと光るものがあっても断片に過ぎない。決定的な何かに欠けているのだ。それが実はユダヤ・フリーメーソンの日本介入という問題だった。
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福山健一著「ユダヤ問題文献集」(1979年)の冒頭に次のように記されている。 (61499) |
- 日時:2023年10月23日 (月) 20時45分
名前:訊氏ファン
わが国におけるユダヤ問題の研究は、大正初めから開始されたが、本格的な研究が行われるに至ったのは昭和に入ってからである。特に昭和十年以後終戦迄の約十年間はその全盛期と云える。この十年間は、わが国のユダヤ問題研究史上における特筆すべき時期であって、今後この時代のような真正の研究が行われるか否かは心細い状態であり、従ってこの時代迄に著わされたユダヤ問題研究書は貴重なものである。即ちどの著書も、国家存亡の岐路に立って憂国の至情から発して著わしたものであるから、戦後の一般書籍のように営利を配慮したものとは次元を異にするのである。
恐らくこの時代の研究書は、日本歴史の上に於いても、空前絶後のものになるのではなかろうか。この意味に於いて、戦前のユダヤ問題研究書は一冊と雖も大切に保存されんことを希望するものである。
敗戦前、日本民族の対ユダヤ心理思想戦の中核体は、昭和十一年(1936年)に創設された「国際政経学会」だった。その主たる出版物は、この会の機関誌「国際秘密力の研究」(昭和11年〜15年)と「猶太(ユダヤ)研究」(昭和16〜19年)である。
福山健一氏は「右二誌を、今、全巻揃えることはまず不可能の難事である」とされたが、私は蒐集に執念を燃やしてついに平成十二年、熱心な同志の協力を得て、全巻を古本で入手するとともに、篤学の士の研究のために、コピー本作成に漕ぎつけた。
この貴重な資料を熟読していくと、先学先覚者たちが、次第に、一歩一歩、幕末維新の隠された真相に迫っていくありさまが手にとるように見えてくる。なかでも山本英輔海軍大将の短文(「猶太研究」昭和十八年)は示唆するところが多い。
ユダヤフリーメーソンは、維新の功臣、実力者、権力者の中で西郷隆盛だけは買収することも洗脳することも脅迫して取り込むこともできなかった。どうやっても西郷は彼等のものにならなかった。そこで彼等は、西郷を排斥せしめ、遂に、敗死せしめたのだ。
と山本英輔海軍大将は気づいた。大東亜戦争の真っ只中、昭和十八年のことである。もし山本の推理が正鵠を射ているとすれば、西郷隆盛以外の維新の指導者たちはほぼ全員、ユダヤフリーメーソンの手中に入っていたことになる。それ以外の結論はあり得ないが、日本が対米英蘭との決戦に突入していたその当時においてさえ「国際政経学会」は、その先へ進むことは許されていなかった。
その先へ進むということは、西南戦争後、いやその四年前の明治六年政変によって西郷が下野して以後の日本の国家体制の正当性に関する議論を俎上に乗せることを意味するからだ。そんな「危険」なことを大東亜戦争期の大日本帝国政府官憲が容認するはずがない。
ーー『天皇破壊史』26頁――
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