生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)

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旧・生長の家「本流復活」について考える(したらば版)

生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)

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生長の家のマーク (61091)
日時:2023年09月18日 (月) 09時01分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。
『生長の家のマーク』についてスレッドを立ち上げさせて
いただきますこと、感謝申しあげます。


《 ついに「此(こ)の運動をやっているのは、わしである」
と云うように観世音菩薩が、生長の家のマークを宝冠
(ほうかん)の中央部につけて出現されるに到ったので
あります。・・・
私は、地上の何(ど)の書物の受売りでもなく、地上の誰から
の相伝(そうでん)でもない、私は、あの姿をあらわされた
観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)に教えられて、唯の喇叭
(らっぱ)的役目をしているに過ぎないのでありまして、
その功績(こうせき)も功徳(くどく)も「私」にあるのでは
なく、悉(ことごと)く観世音三十三身示現(しんじげん)
の御(お)はたらきにあるのであります。》
(『新版 真理』第3巻 140.141頁)

ところがその『生長の家のマーク』が一度は正常に修正され
つつあったが、突然歪(ゆが)められて、
それがそのまま現在に至っているという
。現在使用されている『生長の家のマーク』は
本部であれ、総本山であれ、地方の教化部であれ、什一会員証
としての色紙のマークであれ、霊牌(れいはい)に冠された
マークであれ、そのほとんどが、理念としての正規の
マークではないという事である。
(形状と色彩)

その為、『生長の家』が分裂し、凋落(ちょうらく)し、
それを象徴するように、竹島の問題、尖閣諸島
(せんかくしょとう)問題、北方領土問題等が起っているという。
それは『生長の家のマーク』で中央に八角形の緑色のマークが
ありますが、これは十字(キリスト教)の四両端に切り込みを
入れて、八角の星の象をしているが、八角は大八洲
(おおやしま)の象徴であり、大八洲は日本の事であり、
宇宙の中心座に日本が位置して、万教を一つの中心に帰一
しているという象徴である。その大八洲が変形されたまま
現在に至っております。

先ず、この事実を知っていただき、それからどうしたら、
正常な理念のマークにもどせるか、を皆様と共に考えたいのです。

話は、生長の家家族(信徒)必携(ひっけい)といわれる
『聖光録(せいこうろく)』から始まります。
ここで、「則天去私」様のブログより
『聖光録』の歴史と索引 (2020-8-29)
から引用させていただきます事、お許しください。
「則天去私」様のご功績には、いつも頭の下がる思いが
しておりまして、感謝の言葉しかありません。

『聖光録』の歴史と索引より(「則天去私」様ブログより

*『聖光録』には、五種類あります。(*は私(はうら)補足

@『聖光録』ー生長の家家族必携
生長の家本部編纂・日本教文社発行(昭和28年1月1日)初版

A『聖光録』ー生長の家家族必携
生長の家本部編纂・日本教文社発行
              (昭和42年10月20日)改訂版
              (昭和42年11月25日)改訂再販

B『新編 聖光録ー生長の家信徒必携
谷口雅春監修・生長の家本部編纂・日本教文社発行
              (昭和54年3月1日)初版

C『新編 聖光録ー生長の家信徒必携
谷口雅春監修・生長の家本部編纂・日本教文社発行
              (昭和61年)

*谷口雅春先生御昇天 昭和60年6月17日午前7時53分 91歳
           (『實相と現象』はしがき)

*昭和60年11月22日 「新総裁(清超先生)襲任の生長の家
秋季記念式典におけるお言葉」
「法燈継承の意義」が追加されて
昭和61年頃 改訂版とかではなく、突然 谷口雅春監修から
谷口清超監修とされて発行された。

つづく




はうらひとひら様、生長の家のマーク(徽章)が改変されていることは、存じませんでした。貴重なご投稿、ありがとうございます。続きをお願いいたします。 (61092)
日時:2023年09月18日 (月) 10時39分
名前:志恩

生長の家の徽章、改変の件で、則天去私様のお名前が
ございましたので、調べてみましたらところ、ございました。
則天去私様、いつもこちらへ、引用してもうしわけございません。
大事な記事ですので、今回も、引用させていただきますこと、
お許しくださいませ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
則天去私様ブログより

2015年04月04日15:28

【生長の家の徽章】

前略

その生長の家マ-クの図案は
『生長の家』誌昭和12年1月號に記載されているのが
正しい図案です。

この徽章というのは
当時(昭和12年)純銀製七寳・華麗圖案として
和服用・洋服用として50銭で販売されていました。

先日その件で友人に最近のマ-クに就いての改変が
行われているのを教えて頂きました。

十字部分の幅が小さくなっているの
が現在使われているマ-ク(徽章)です。


僅かな差なのかもしれませんが、
徽章には標準図がありそれに則って行うのが
正しいのであります。

例えば国旗日の丸にも正式規格というのがあります。
(添付資料参照)

それの則るのが正式な「日の丸」となります。
生長の家でもそうですが、標準図に則るのは
正しいのであります。

当時『生長の家』誌友徽章標準図となっています。
誌友の徽章が「聖旗」として使用しているのも因縁として
感じています。

また『生命の實相』大聖典には
山根八春先生の図案として神々しく上蓋に掲げられています。

http://tecnopla1011.blog.jp/archives/26350843.html

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新編 聖光録 (61093)
日時:2023年09月18日 (月) 11時28分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。
つづき です。

D『新編 聖光録ー生長の家信徒必携
谷口清超監修・生長の家本部編纂・日本教文社発行
               (昭和54年3月1日 初版
               (平成8年24版)
となっているが、『法燈継承の意義』が追加されている
から、初版の日付けには齟齬(そご)があります。

その『新編 聖光録』であるが、2012年(平成24年)頃
であるが、原宿本部の書籍販売を訪れた時、係の人が
陳列していた棚から『聖光録』を取り出して、箱詰め
していた。なぜ仕舞うのか解らなかったが、やがて
『新編 聖光録』は「品切れ」とされ、それ以後私達の
前から、姿を消して、現在に至っている。

ここで注目していただきたいのは、
Bの『新編 聖光録』谷口雅春監修となっている事である。
何故新編となり、何故谷口雅春監修となったのでしょうか。
その新編には、288頁に
「生長の家」のマーク(意義と由来)が追加されたのです。

《 「生長の家」のマーク(意義と由来)
図案は元帝展審査員山根八春(やまねやつはる)氏による。
万教融和、中心帰一の象徴として太陽と月と星と地球と
まんじ(通常の卍ではなく、動きが逆の字)と十字と日章旗
とを完全に、而(しか)も単純に一つに融和させている。
外周の燃えるような赤色の円光は神道をあらわす太陽と
日章旗とを表象し、内側に円味を帯びた銀色のまんじは
太陰と仏教とを表象し、中央緑色の星はキリスト教を
あらわす十字架を星形に崩したもので、星の八つの角は
大八洲(おおやしま)(日本国)に象(かたど)り、
八方位の国々を一つに中央に纏(まと)めていること
(ヤマトー大和)を示す。緑は地上に青人草(あおひとぐさ)
の繁茂(はんも)していることを示し太陽の後光の三十二
線あるいは仏の三十二相に象る。この徽章(きしょう)
を帯びるものは即ち太陽の子孫であり、神の子であり、
日子(ひこ)「彦」、日女(ひめ)「姫」であり、
悟りを開いて三十二相を顕現する瑞兆(ずいちょう)
を示すのです。》
(『新編 聖光録』谷口雅春監修 昭和54年3月 初版)

つづく



生長の家 マーク 2 (61098)
日時:2023年09月18日 (月) 16時18分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。
前回のつづきです。

話は昭和53年頃にさかのぼります。
ある方が『什一会員の色紙』を手配しようとして、ふと
気がついたというのです。なぜか手配する度に、色調が
微妙に変化していると。
そこでインキメーカーの色見本帳を添付して、谷口雅春先生
に生長の家のマークの色をご指示してください。と。
すると谷口先生のご返事は、色の事の前に、
「マークの図案が違っている。中央の緑の星は大八洲を
顕わしているのであるから、八つの角の幅が全て同じく
ならなければならない。提示されているものは、右斜め
の角の幅が、他のものより狭くなっているので、全て
同じ角の幅になるようにして下さい。」との事でした。

そして当時の副総裁だった谷口清超先生に命じられて
正しい形の図案を理事会で検討されたそうです。

この時の『生長の家のマーク』の正しい図案が
『新編 聖光録』谷口雅春監修 288頁に記載
されているマークが正規品です。
(昭和54年3月1日 初版)
その為に、わざわざ聖光録を新編とされ、谷口雅春監修
とされて、「生長の家」のマーク(意義と由来)の頁
を追加されたのでした。
書籍では『生長の家 五十年史 292頁)記載
『生長の家の徽章の誕生』のマークも正規品です。
他のものは全て大八洲が均等ではなく、
『“新しい文明”を築こう 上巻 基礎編「運動の基礎」
谷口雅宣監修・生長の家国際本部編纂・生長の家発行
(2020年4月25日初版)の82頁の「生長の家のマーク」
も当然正規品ではありません。(形状も色彩も)

当時の副総裁、理事長、理事がどういう発言をされ、
どういう行動を取ったかは、ここでは論じない。
決定されたのは、安直に、まんじの横上の線に
上部の角の二線を交あわせるというものでした。
こうして、理念を無視し、谷口雅春先生のご意志を無視し、
このいびつな形のマークが今でも信徒の前に、ある
という事実です。

正規品はまんじの横上の線よりもっと上にないと、八つの等しい
角の作成は不可能です。
(昭和12年1月号の『生長の家誌』にカラー印刷の
『生長の家』誌友徽章標準図が掲載されていますが、
(「則天去私様」のご指摘を志恩様が紹介されておりますが、
これが原点です)

『生長の家のマーク』が正しいものではなく、信徒必携の
『聖光録』を無くし、版数も変えないで、突然内容を
不自然に変更する。

それはあの『霊性の目覚め』171頁の改竄(かいざん)
の時と同じ手法を使って、信徒の浄財を使って、なにを
隠(かく)そうとしているのでしょうか。
光は闇とは和解しません。
先ず正しいものは、正しいという場がなければなりません。
(ごめんなさい。画像の容量が大きい為画像が貼れません
でした。次回にさせていただきます。)



生長の家 マーク (61100)
日時:2023年09月18日 (月) 16時55分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

『生長の家』マーク
左側が正規品 右側が現状のものです。
右側の右の斜めの幅が明らかに狭い事が分かります。
まんじの横上の線が黄色く線が引いてあって、それに
交じわるように角の二線が引かれている事がわかります。
左側の正規品は、その黄色の線より、角の二線の交わり
が上部にある事がわかります。
左側の正規品は角の内側が正方形で、角度を変えても
正方形ですが、右側のものは、正方形の内側の形を
角度を変えると、明らかに形状が小さい事が分かります。
角の幅が均等でない事を表わしております。

 (61101)
日時:2023年09月18日 (月) 18時04分
名前:地方講師の夫

徽章の図案につき、議論というか意味のない発言が出ています。

下の添付の記章をどう判断しますか?

妻はこのバッジをつけて講師活動に出ています。

地方講師の夫 様 (61102)
日時:2023年09月18日 (月) 18時37分
名前:志恩

あなたが貼られたのは
「生長の家 地講 純銀バッチ(徽章)」です。

改変させられてしまったと話題にしているのは、
「生長の家 教団 マーク(徽章)」のことです。

話題を逸らさないでください。

生長の家 マークのお問合せに対して (61106)
日時:2023年09月19日 (火) 14時56分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

『地方講師の夫様』
お問いあわせいただきまして、ありがとうございます。
先ず、ご提示いただきました、地方講師バッチを測らせて
いただきました。(緑の二つの角の間隔)(PC画面上で)
経方向横幅;16.5mm 斜め方向幅:13.5mm  です。

因みに、私も一応地方講師補なので、地方講師バッチを
測りました。
経方向横幅:3.2mm 斜め方向幅:2.5mm

なにを言いたいかといいますと、いびつなのです。
象徴(シンボル)が歪んでいれば、行動も歪みます。
床が少しでも傾いていれば、精神バランスが崩れる
といいます。ましてや理念の象徴が崩れて、歪んで
いるのです。
象徴としてのマークの八角寸法が等しくなって、初めて
調和があるのです。
ましてや、生長の家は、「大調和の神示」の全文が
教義になっているのです。

ところで
『“新しい文明"を築こう 上巻 基礎編「運動の基礎」
監修 谷口雅宣

で82頁の『生長の家のマーク』
で何点か違和感がありますので、述べさせていただきます。

(1)右万字の説明です。
これは普通に書く卍と違って、動きが逆になっているが、
左進右退(さしんうたい)(左が進み、右が退く)
の宇宙の法則を表現しているのですが、その説明が
ないので、なぜ右万字にするかがわからない。
(説明不足です。)
(2)上記でこの部分が鉤十字(かぎじゅうじ)に似て
いるといわれ、欧米諸国から忌避(きひ)されていると
いうわりには、表紙、背表紙にも
生長の家のマークを付けているのは、何故でしょうか。
(3)真ん中の緑の星ですが、本書の説明では、
「八方の国々が平和裡(り)に一つにまとまっている」
と説明されていますが、そういう説明も必要と思いますが、
谷口雅春先生の思い、意図したものは
大八洲(おおやしま)の象徴であり、
伊邪那岐神、伊邪那美神の神の国生み(古事記)から
始まっておりますので、八方の説明では、理念が
説明されていないと思います。
その他
(4)奥付で
監修:谷口雅宣
著者:谷口雅宣 谷口清超 谷口雅春
となっている著者名に違和感があります。
参考文献として引用先が書いてあるのでそれでよいのでは
ないでしょうか。何かの意図を感じます。

先ず理念がなければ、物事が成就しませんし、
中心も定まりません。
それが歪められている事を、論じているのです。
それが意味のない発言であると思われるのは、ご自身の
思いですから構いません。
地方講師の奥様によく聞いてみてください。
ご返事になりましたでしょうか。
どうぞよろしくお願いいたします。







生長の家 マーク 万教帰一を象徴 (61109)
日時:2023年09月19日 (火) 19時40分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

『地方講師の夫様」へのご返事の復習として。

・『生長の家』の徽章について

万教帰一を象徴したマーク

《 生長の家マークは、太陽と月と星が合はされてゐるので
あり、従ってそれは“宇宙"を表現してゐるのである。
一番外側に赤く輝いてゐるのは輝く太陽を表現してゐる
ので、これは神道の表象(ひょうしょう)である。
その内側にある“まんじ"は普通に書く卍と動きが逆に
なっているが、これは左進右退(さしんうたい)(左が進み
右が退く)の宇宙の法則が表現されてゐるのだが、特に
その卍(まんじ)が月をあらはすために全体が円く白く
構図されているのである。月氏国(がっしこく)をあらはし、
佛教を表象するのである。中央の緑の星は地球といふ天体
をあらはし、緑色は樹草(じゅそう)の緑を表象すると
共に蒼人草(あおひとくさ)(にんげん)の象徴(しょうちょう)
である。それは八角の星の像をしてゐるけれども、“十字"
両端を切り込んだのであって、実はキリストの十字架を象徴し
キリスト教をあらはしてゐる。八角は大八洲(おおやしろ)
の象徴であり、大八洲は日本のことであって宇宙の中心座に
日本が位置して、万教を一つの中心に帰一してゐる。
一 万教帰一の普門成就(ふもんじょうじゅ)の宗教が日本に
あらはれたことをあらはしてゐるのである。》
図案は帝展の彫刻部門の審査委員であった山根八春氏
(『生長の家50年史』292頁)

 (61140)
日時:2023年09月23日 (土) 08時37分
名前:神の子

痴呆講師には偽物ダイヤがお似合いですか。
意見の違う人に礼儀も無しでこれは自身の中に生長の家の理念が正しく現れた結果でしょうか?

 (61143)
日時:2023年09月23日 (土) 10時36分
名前:痴呆講師

それが、徽章の価値の理解ない言葉に表れている感じですよ。〈〈


「徽章の価値」ですか。
キリスト教を象徴する「十字架」を「日本国」と同一に中央に配した。

その結果、日本に「統一教会」「エホバの証人」というキリスト紛いのものが蔓延し政治を支配するようになった。

素晴らしい徽章をつくられたものです。

 (61155)
日時:2023年09月23日 (土) 15時15分
名前:神の子

人の事をバカだねーとか言ったりね。
自分を省みる事も無い自称本質を見極めている元信徒さんはそのままでも良いけど。

はうらさんの良スレを汚すのは止めてもらいたいですね。

 (61158)
日時:2023年09月23日 (土) 15時46分
名前:元信徒

ごめんなさい
全部削除しました。

地方講師の夫さんがはうらひとひら先生の別人格だとしたら、
本当にすみません。
お詫びいたします。
掲示板を汚してすみません。

『原点と理念』 (61166)
日時:2023年09月24日 (日) 11時06分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

『生長の家のマーク』は象徴・理念として美しいものです。
(正規の形状をしているものは、
どっしりと落ち着いていて不動であり、調和があります。)

このマークの中には、太陽・月・地球・青人草(人間)
が現され宇宙全体が表現されています。
また神道・仏教・キリスト教を現し、万教帰一を表現され
ています。深い意義を秘めたマーク(印)ですが、
その原点と理念についてです。

《 ところでこの生長の家の徽章(きしょう)が七宝の
銀メダルになって誌友の希望者に頒布(はんぷ)されると、
三年前にこの生長の家のマークを見たといふ人が出て来た
のです。その人といふのは、大阪に住む海員審判所所属の
弁護士の門脇観次郎氏であった。
門脇氏は昭和十年四月八日、大阪国民会館での谷口雅春先生
の講演会のあと、そのいきさつについて谷口先生につぎのやうに
報告してゐる。

「自分は生長の家に入る前から熱心な法華経信者で観世音菩薩を
お祀(まつ)りして礼拝してゐましたが、私が生長の家に
入りましてから後、今から三年前、神想観をしまして一心に
生長の家の神様のお姿を拝させて下さいと念じてをりますと、
観世音のお姿がハッキリお現れになりました。
そこでこれが生長の家の神様のお姿であらうか。
それとも自分が観世音菩薩をお祀りしてゐるのでこんな
お姿を拝したのであらうかと思ひましたので、当時住吉に
ありました生長の家本部へお伺ひしまして其事をお伺ひ
しますと、「生長の家の神様は本来姿がなく、相手に従って
自由自在に御顕現になるのであるから、貴下が観世音菩薩
信仰であるので観世音の姿をもってお顕れになったのでせう」
と谷口先生は被仰(おっしゃ)いました。
ところが今年になって、生長の家のマークが出来ましたので、
それを見ますと驚きましたことには、三年前に観世音菩薩の
姿を拝しました時に、その観世音の宝冠にこの
マークが既についてゐて、妙な模様のマークだと思った
ことを思ひ出しました』
(『生長の家』第六輯(しゅう)第六号)


門脇観次郎氏のこの証言によって、生長の家の神は仏教では
観世音菩薩として現れてゐることが明らかになったのである。
またこの証言は、現象界に現はれる事象(じしょう)が、
それより以前の“心の世界"又は“霊の世界"に既に出来て
ゐて、それが現実界に投映されて現はれることを教へる
ことにもなったのである。》
(『生長の家五十年史』 292.293頁)

《 外国の国家は State(状態)と云う英語で言い
あらわされているように一つの集合体に過ぎないので
ありますが、日本の建国の由来から考えると日本国家は
State(状態)ではなく、「大和(だいわ)」なる
理念によって統合されたる「理念表現」の国家なのであります。》
(『新版 真理』第7巻 266頁)

《 人間は何のために地上に生を享(う)けたか。・・・
人間が地上に生を享けたのは、人間なる理念が即ち神の
肖像(しょうぞう)なる理念が(創世記 1章26)
佛教的に云えば佛子なる理念が(法華経、序品)時間空間
の世界を通じて自己を實現せんがためなのである。
人間は生きる價値(かち)があるかのこの問題は『理念』は
生きる價値があるかの問題であるほかはない。
人間は要するに理念であるからである。・・・

併(しか)し『理念』なる語は、本来、人間がたあいもなく
心に描いた妄想ではなく、『理』すなはち、神の定めたまうた
宇宙を貫く根本原理が想念としてあらはれたものである。
『理想』は人間が心に描いたところのものであるが、『理念』
なるものが描かれた其の奥には『神の理』が潜在してゐて、
その奥から人間に其の『理』の顕現を推し出し推し進めてゐる
のである。『理念』は『理想』の推進原理であり、人間理想の
奥にあるフヰルムのやうな一番根本的な實在なのである。
人間なるものは本来、神がその心の中に描きたまひし
『神の肖像』(Image of God)なる『理念的存在』である
のである。人間は肉體ではなく『理念』であり、『神の肖像』
である。肉體が重んぜられるのは、物質又は物體として
重んぜられるのではなく、理念の顕現體として重ぜられる
のであって、物質又は物體としては價値なき存在に
過ぎないのである。》
(『新生の書』 7.8頁)

ありがとうございます。








はうらひとひら様 (61175)
日時:2023年09月25日 (月) 02時26分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)

>『原点と理念』
『生長の家のマーク』は象徴・理念として美しいものです。
(正規の形状をしているものは、
どっしりと落ち着いていて不動であり、調和があります。)

このマークの中には、太陽・月・地球・青人草(人間)
が現され宇宙全体が表現されています。
また神道・仏教・キリスト教を現し、万教帰一を表現され
ています。深い意義を秘めたマーク(印)ですが、
その原点と理念についてです。(略)<

志恩ー
生長の家のマークについては、
私は、とても意識が薄かったのですが、
はうら様が大事なことを教えてくださったので、
この点も再認識しているところです。
いつも大事なことをご教授くださって
感謝いたしております。

だいぶ前のことですが、旧トキ掲示板の時代に
縹(はなだ)様という兵庫県にお住まいだといわれた
女性のお方が、トキ掲示板へ度々、投稿されていらして、
そのお方が、生長の家のマークの大切さについて、語って
いらした記憶があるのですけれど、過去文を探してみましたが、
いまは見つかりませんでした。

はうらひとひら様 (61181)
日時:2023年09月25日 (月) 13時38分
名前:志恩

過去に「生長の家のマーク」について語っておられた
縹様 語録を
旧トキ掲示板から、探してまいりましたが、長文ですので
新たにスレッドを立てさせていただき、そこへ転載いたしました。

『生長の家マーク』の由来 (61191)
日時:2023年09月27日 (水) 19時30分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

『生長の家 のマーク』の由来についてです。

〇《 外周の燃えるような赤色の円光は神道をあらわす
太陽と日章旗とを表象し、太陽の後光の三十二線あるいは
仏の三十二相に象る。》
(『新編 聖光録 監修 谷口雅春 288頁要約)

【仏の三十二相】

釈迦の姿の32の特徴を言語によって数え上げたもの。
仏の外形的な特徴とともに、宗教的な理想を示している。
大般若経(だいはんにゃきょう)などに述べられている。

1)足下安平立相(そくげあんぴょうりゅうそう)
 足の裏が平らで安定している。
2)足下二輪相(そくげにりんそう)
 手と足に法輪の模様がある。
 ・・・・
32)白毫相(びゃくごうそう)
 眉間の間に白毫がある。

具体的御徳

1.慈悲の平等        2.人々の迷いを鎮める。
3.寿命の長さと敬愛。    4.未来の人々を救う。
5.もれなく人々を救う。   6.誰にでも等しく接する。
7.人々に幸福をもたらす。  8.喜びを与え学ぶことが早い。
9.哀愍摩頂する徳。     10.多くの弟子をもつ。
11.無上の法王である。    12.喜びの心を起こさせる。
13.罪障を消滅させる。    14.人々を喜ばせた結果を表す。
15.迷いを除き願いを叶える。 16.慈悲をもってご利益を与える。
17.七随眠を断ち七聖戒を満たす。
18.人々を看病して得た相。  19.高い徳を表す。
20.安心感を与える。     21.柔軟の徳。
22.悪口をいわない。     23.清浄さを表す。
24.三毒を制する。      25.威風堂々としている。
26.人々の願いを満足させる。 27.嘘をいわないことを表す。
28.話を聞くものに喜びを与える。
29.なにごとにも良く見通す。 30.眼が清らかである。
31.頭脳明晰さを表す。    32.生死の災いを消す。

 (Wikipedia・Flying Deity Tobifudo より)



〇《 内側に円味を帯びた銀色の逆まんじは太陰と仏教を
表象し、》
(『新編 聖光録 監修 谷口雅春 288頁要約)

《 これは左進右退(さしんうたい)(左が進み、右が
退く)の宇宙の法則が表現されている。》
(『生長の家 五十年史 292頁)

【左進右退】

《 そこで伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は
『それではお前と、私と、天之御柱(あまのみはしら)
即ち宇宙の中心をグルグル廻って互いに相交錯
(あいこうさく)して、そうして国を生(う)もう』
とこういわれたのであります。それでお前は右より
廻(まわ)りなさい。私は左から廻るからと云われた。
それがこの生長の家の徽章(きしょう)に現してある
逆まんじのマークであります。
これは伊邪那岐命の逆まんじです。
逆まんじは吉祥(きっしょう)万字と申しまして陽主
陰従(ようしゅいんじゅう)左進右退の法則に合致して
いる縁起の好い万字なのであります。
この『左』というのは『陽(よう)』を代表している。
『左』は字に書くと『火足(ひたり)』と書くべきです。
火(陽(ひ))の極端を表している。
それから『右』は『水極(みぎ)』と書いて、陰(みず)
の方の極端です。それで陰(いん)の方は一歩退(しりぞ)
いて、陽の方は一歩進む、それによって天球が回転して
いる。地球は陰ですから、伊邪那美(いざなみ)で、右
から廻ります。高天原(たかあまはら)、即ち全大宇宙は、
この回転作用によって遠心求心の平衡(へいこう)作用で
球体宇宙というものが出来上がっているのであります。

(『生命の實相』神道篇『古事記講義』初出)
(『古事記と日本国の世界的使命』27〜29要約 光明思想社刊)

《 陽極(ようきょく)は内より外へと進んで陰極(いんきょく)
に働きかける。そして陰極は外より内へと向かって、陽極を
内に抱擁(ほうよう)する。これは原子の原子核(陽)と
電子(陰)との関係でも、人間の関係でも同じことでありまして、
これが天地の法則になっているのです。
天地の法則に随(したが)う者のみが榮(さか)え、法則に
逆(さから)うものは、法則に触(ふ)れて傷つき、今は
盛(さか)んにみえていても、やがて衰退してしまうので
あります。

(『古事記と現代の預言』 71・75頁)


〇《 中央の緑の星は地球といふ天体をあらはし、緑色は
樹草(じゅそう)の緑を表象すると共に蒼人草(あおひとくさ)
の象徴である。それは八角の星の象をしてゐるけれども
“十字"両端を切り込んだのであって、実はキリストの十字架
を象徴しキリスト教をあらはしている。
八角は大八洲(おおやしま)の象徴であり、大八洲は日本の
ことであって宇宙の中心座に日本が位置していて、万教を
一つの中心に帰一してゐる―万教帰一の普門(ふもん)成就
の宗教が日本にあらはれたことをあらはしてゐるのである。》

(『生長の家 五十年史』 292頁)


【大八洲】

《 於是(ここに)伊邪那岐命先ず、「阿那(あな)邇(に)
夜志(やし)、愛袁登賣袁(えおとめを)と言(の)りたまひ、
後に妹(いも)伊邪那美命、「阿那邇夜志、愛袁登古袁
(えおとこを)」と言いたまひき。如此(かく)言いたまひ
竟(お)へて、御合(みあ)ひまして、子(みこ)淡道
(あわし)之補之狭別島を生みたまいき。次に伊予(いよ)
野二名島を生みたまひき。

島々の名は略しますが、最初お生みになった一郡の島が
大八洲(おおやしま)と申しまして、現在の日本の諸島で
これが世界国土の中心生命地帯で、喩(たと)えて云えば
細胞核のような所で在ります。以下世界無数の国土及び
神々の創造があります。》

(『生命の實相』神道篇『古事記講義』初出)
(『古事記と日本国の世界的使命』33〜34要約 光明思想社刊)

<古事記による8つの島>

・淡路 ・伊予(四国) ・隠岐 ・筑紫(九州)
・壱岐 ・対馬     ・佐渡 ・大倭豊秋津島(本州)

(『デジタル大辞書泉 より)


ありがとうございます。












はうら ひとひら様 (61194)
日時:2023年09月28日 (木) 07時27分
名前:志恩

はうら ひとひら様ー
>『生長の家 のマーク』の由来についてです。<

志恩ー
『生長の家 のマーク』....
谷口雅春先生は、
どれほど深い想いを込めて、作られたのかを
改めてはうら様に、教えていただきまして、
大変ありがたく思っております。
『生長の家 のマーク』は、短絡的な気持ちで、
わけのわからない後継者が、勝手に、
改変などしていけなかったのだということが、
改めてよくわからせていただきました。
「生長の家のマーク」も、早急に、元へ戻さなくては
いけないものなのでした。
ありがとうございます。


『観世音菩薩の祈り』 (61248)
日時:2023年10月03日 (火) 16時44分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

初版『聖光録』(昭和28年発行)に「観世音菩薩の祈り」
が記載されております。
(観世音菩薩像が「生長の家のマーク」を宝冠されて
顕われたのは、昭和6年頃と思われます。
図案は昭和10年2月1日制定。(新編聖光録288頁)

《 【 觀世音菩薩の祈り 】

觀世音菩薩様。あなたの慈悲を私の慈悲とならしめ給へ。
生きとし生ける者を愛し、憎むことなく憤ることなく、
すべての人々を赦し、愛し、はぐくみ大いなる觀世音菩薩
の慈悲をもって、すべての人々を抱くことが出来ますやうに。

觀世音菩薩様。どんな時にも倦むことなく、疲れることなく、
人々の悩み苦しみを救ふために挺身し得る大いなるあなた様の
勇猛心を與へたまへ。

觀世音菩薩様。あなたが三十三身に身の姿を變じ給ひて衆生を
濟度したまふやうに、時と人と場所とに應じて適當なる方便
を行じて人々を救ふことが出来ますやうに。

觀世音菩薩様。あなたの慈悲と柔和の相好をわたしの相好と
ならしめ給へ。人々がわたしの顔を見るだけで幸福と光明
と歡喜と祝福とに滿たされる相好とならしめ給へ。

觀世音菩薩様。あなたの清らかなる思ひが私の思ひとなり
ますやうに。あなたのやさしき言葉が私の言葉となりますやうに。
あなたの慈悲の行ひが私の行ひとなりますやうに。

觀世音菩薩様。わたしの行く處に常に現れたまひて、わたしの
觸れるすべての人々に光と健康とを與へたまへ。
一人として私の話をきく者が病むことなく惱むことなく
貧しきことなからしめ給へ。

觀世音菩薩様。わたしの中に完全に流れ入りたまへ。
私はあなたに無條件降伏しました。私を動かし給ふ者は
あなたであります。わたしはあなたの内に生きあなたの
内に住ひ、あなたの御心のまゝにあなたのみ心を行じて
ゐるのでございます。ありがとうございます。

(『聖光録』昭和28年1月1日初版
「九月の吾が祈り」165〜167頁)


因みに上記『聖光録』259〜261頁に
『蓮華日宝王地観』(れんげにっぽうおうじかん)
の神想観が記載されております。


『般若心経』(はんにゃしんぎょう)より

「観自在菩薩
 行深般若波羅蜜多時
 照見五蘊皆空
 度一切苦厄・・・・」

《 観世音菩薩は深般若波羅蜜多(じんはんにゃはらみた)
般若は直観の智慧、波羅蜜多は到彼岸、彼岸即ち悟りに至る
ための直観智の深遠なる修行)を行(ぎょう)ぜられた
ときに「五蘊皆空」(ごうんかいくう)と照見(しょうけん)
して悟りをひらかれた。「
五蘊即ち色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)
(色は物質・あとの四つは心)は皆空(みなくう)
なのであって、「あるように見えても無いのだ」と云う
自覚を徹底せしめなければならないのである。
その時、一切即ちすべての苦しみや災難をみな
度(たす)ける事ができるのである。》

(『真佛教の把握』 236〜237要約)



はうらひとひら様 (61250)
日時:2023年10月03日 (火) 19時47分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)
>『観世音菩薩の祈り』 (今回のはうら様のスレッドのテーマ)
(略)
(観世音菩薩像が「生長の家のマーク」を宝冠されて
顕われたのは、昭和6年頃と思われます。
図案は昭和10年2月1日制定。(新編聖光録288頁)

《 【 觀世音菩薩の祈り 】(略)<


志恩ー
はうらひとひら様
この度も、生長の家の重要な事柄を
ご投稿くださいましたこと、大変ありがたく
心から感謝いたしております。
私は、娘時代の頃から、この【 觀世音菩薩の祈り 】と
【如意宝珠観】が一番大好きな祈りで、いつも
この祈りを、神想観の時に実践しておりました。

ですから、生長の家の神様に、今まで導かれ護られて、
このように幸せに生きてこられたのだと思います。

珍しい谷口雅春先生のご揮毫いりの,
観世音菩薩像の絵画のお写真まで
ご紹介くださいまして、
大変嬉しく思っております。
ありがとうございました。

それから、旧トキ掲示板のほうにご投稿くださっていた
先日、ご紹介したものとは、別の 縹様の、
生長の家マークに関するコメントを、また見つけましたので、
それも、ここへ貼らせていただきます。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

旧トキ掲示板
トーキングステックボードより

[生長の家マーク]に関する
縹様のご投稿文の過去文一部再掲:
ーーーーーー
2883:縹:2014/02/19(水) 12:27:04
 志恩様
「光輪卐十字架のマーク」は、その「甘露の法雨」を授けて
下さった観世音菩薩様の冠についていたマークですので、

そのマークを否定したのならば、『観世音菩薩讃歌』に
書かれている観音様は、どこの観音様のことなのでしょうか?

 ・・・私は以前から、雅宣先生の教えが、
観音信仰でありながら、
「地球環境保護と世界平和と美術に関心があり、
日本人よりも、国際人を養成する宗教」に似ている、
と思っていたのですが、

生長の家にご縁のある観世音菩薩様は、
浅草寺の観音様で、浅草寺は、法華経のお寺です。

「光輪卐十字架の卐の部分」は仏教をあらわし
谷口雅春先生は、仏教でも龍樹菩薩出現以降の
大乗仏教が本当の仏教であると教えて下さっています。
法華経は大乗経典です。

 『観世音菩薩讃歌』は、
浅草寺の法華経の観音様が授けて下さった
『甘露の法雨』を不完全だと否定する内容になってい
る経緯を持っているので、
全く観音様の御経では無いように思います。
『観世音菩薩讃歌』が呼ぶ観音様は、一体どのような
お方なのでしょうか?

そもそも観音経の内容が、どんな災害時でも助ける
という内容なのに、反対に、そのお経が読まれる所が
災害に遭う事例が続いています。

 どうしたら、甘露の法雨に戻して戴けるのでしょうか。
ーーーーーー
2884:縹:2014/02/19(水) 12:50:35

ご覧下さっている方も、おられるかも知れませんので、
追伸させていただきます。

もしかしたら、どうして私が
「別の教団の観音信仰と似ている」という指摘を、
何度も繰り返すのか、

「観音とは、宇宙の原理なので、関係ないではないか?」と
理解して戴けないかも知れませんので、
補足させて戴きますと、

呼ぶのは同じ観音菩薩様という名称でありながら
なぜか、その団体も、傾向が物質主義的な内容に
なって行っているのです。

ですから、観音様であるから良いだろうと思っていると、
とんでもない世界へ連れて行かれる場合があるので、
気を付けたほうが良いと思うのです。

 特に、生長の家の観音様の冠のマークを
否定する方の作られた『観世音菩薩讃歌』は、
どういった観音様なのか、不明です。
ーーーーーー
2928:縹:2014/02/21(金) 17:54:19
 志恩様
前回の続きを考えてみたのですが…
 『法華経』をお読みになっておられない方が
どうして『法華経』と反対の事ばかり述べる事が
出来るのだろう?

生長の家は、『法華経』の教えだけれども、
その『法華経』の経典が納められているのが、
浅草寺で、浅草寺の観音様の宝冠に生長の家の
徽章がついているのを門脇観次郎氏と仰られる方が
拝されたとのことではなかったですか?

 それで、この徽章を否定するような勢力、
ということですと、『法華経』を否定するような勢力と
いうことになりまして、
『法華経』を否定するとは、
蓮華蔵世界の中心の
つまり、天皇信仰を否定するような勢力ということになります。

 そうした勢力とは、どこかを神示に探してみましたら・・・

「無明の自壊作用がないのに光明遍満の楽土が来るなどと
甘いことを思ふな。昨年十二月十一日にも
『戦ひの時は来たのだ』と知らせてある。
ヒモノトの軍が厳かに進むのは、無明の世界を照らす
唯一の光が進むのである。甘い平和論に耳を傾ける勿。
膏薬貼りで此の世が幸福になるなどと思ふな。」『梅の花の神示』

あまり疑っては気の毒ですけれども、ロシア・赤き龍・
呑龍の滝のある八ヶ岳・黙示録の予言が重なるのですが…。

なぁなぁで済まさず、
真剣になったほうが良いような気がするのは
私だけでしょうか?
天の戦いが、地に影を映している、ということでしたよね。

ですから、八ヶ岳を放置するのではなく、
積極的に、騙された信徒の皆様をなんとかせねば
ならないような気がしているのです…
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
(引用、おわり)

自分と関係なく周りの世界が存在し、その中に悪い人がいるので相手を変えようとするのが生長の家の教えなのですか? (61295)
日時:2023年10月08日 (日) 17時17分
名前:地方講師の夫

皆さん御自身が観世音菩薩なんであります。みんな観音様なんですね。観世音というのは世音即ち世の中の音を観ずるのです。

「世音」というと人々の心の響きです。人々の心の響きを「観ずる」というのは、肉眼でみるのじゃなくて、心の眼でみるのですね。心の眼で人々の心を観じて、その心の姿の儘の姿に顕れる菩薩というのが、観世音菩薩であります。

この菩薩は「観音経」にあります通り、相手の心の姿にしたがって三十三身に身を変ずるというわけで、どんな姿にも心のままに顕れるのであります。必ずしも三十三種の身には決まっていないのであって、ありとあらゆるどんな姿にでも顕れて、衆生を済度なさる、これが観世音菩薩であります。

衆生の中には「自分自身」も含まれていまして、自分の前にあらわれる人々の姿を自分の心の姿だと観ずると自分が済度されるのであります。略
鏡に向かって自分が撲る姿をしたら鏡の中の人物は自分を撲ってくるでしょう。其のように全ての人物があらわれる、ちゃんと観世音菩薩だ。自分の撲る心がこっちへ向かって現れる。そうでしょう。その代わり相手の心の通りにこちらも先方には顕れて見える、みんな観世音菩薩である。

それによって、「ああなるほど、私の心というものはこういう心をしておったんだ」という事がわかるのであります。観察自在であってどんな姿にでも自由自在に顕れる、観音様が皆さんであるわけであります。

「真佛教の把握」p224〜p225  はうらさんの引用の少し前に出ている言葉


ありとあらゆるどんな姿にでも顕れて、衆生を済度なさる、これが観世音菩薩であります。

衆生の中には「自分自身」も含まれていまして、自分の前にあらわれる人々の姿を自分の心の姿だと観ずると自分が済度されるのであります。


この教えをどのように理解されるでしょう。

地方講師の夫様 (61298)
日時:2023年10月09日 (月) 10時37分
名前:はうら ひとひら

地方講師の夫 様
ありがとうございます。

・先ずご質問の返事からです。
観世音菩薩の教えをどう理解しますか、との問いかと
思います。
私はその教えをきちんと理解し、その波動によって
苦しんでいる人々を救済してあげたいという思いから、
あの『観世音菩薩の祈り』を毎日唱えております。
あの祈りの中に何か不信な邪悪な思いが入っております
でしょうか。そのように感じるのでしたら、その人の
心の反映ですから、私がなにか言う立場にはありません。
一つの事柄でも、33の考え方があるという事ですから。
これがご返事です。

ところで、論点を変えないでいただきたいのです。
昭和54年(1979年)3月1日谷口雅春先生が監修されて
『新編 聖光録』を出されて、その288頁に
「生長の家」のマーク(意義と由来)として正規の
マークも示されました。
それを遡(さかのぼ)る昭和10年(1935年)2月1日に制定され
昭和12年(1937年)1月号の『生長の家』
に正しい図案が色と形状が記載されて
おります。ここが生長の家マークの原点です。
谷口雅春先生は、昭和54年に『聖光録』で正しい形状を
示されると同時に、清超先生(当時副総裁)に命じて
その事を正しく実施するようにとの指示でした。
昭和56年(1981年)3月頃、その副総裁の決定であの歪んだ
生長の家のマークが決定され、今もそのままになっている
のです。その正規品でないマークについて、論じているのです。

・ところでその『聖光録』ですが、平成24年(2012年)頃
在庫があるのに原宿本部の聖典売り場から撤去され、その後
信徒の前から姿を消しました。(売り切れとして)

そして『聖光録』ですと言って登場したのが
令和2年(2020年)4月25日発行の
『“新しい文明”を築こう』上巻 基礎編「運動の基礎」
監修 谷口雅宣 です。
確かに扉のすぐ後ろに「生長の家会員必携」
と記されていて、監修者も『聖光録』と位置づけています。
その82頁に「生長の家のマーク」が記載されておりますが、
形状も色も当然ながら正規品ではありません。

その「監修にあたって」という序文を見て違和感を覚え
ました

・“会員必携(ひっけい)書"を総裁・谷口雅宣先生の監修
で発行する。(同書 1頁)
とありますので、当然他の人が書いたのかと思ったら、
谷口 雅宣 記とある。
自分を総裁先生などと言っている序文など見た事がありません。

・過去『聖光録』は3種類あると記載されていますが、正しく
は5種類です。(同書 5頁)
多分谷口雅春先生から谷口清超先生に突然監修者を変え
(昭和60年6月17日尊師ご昇天後)日付けや版数も変更
なく、監修を尊師から清超先生に変更されたと思われます。

ですからC版の昭和61年(1986年)の『大和の國の神示」
の追加等はカウントされていません。
D版の平成8年(1996年)24版神示 7つ追加もカウントされ
ていません。

・「私たちの運動に、聖使命菩薩として参加する喜びを知り、
それをさらに多くの人々に伝えていただければ、筆者の
喜びこれに過ぎるところはない。
二〇二〇年(令和2)三月吉日 谷口 雅宣 記
(同書7.8頁)

監修と言いながら、筆者としていますが、違和感があります。

監修者が序文を書いただけでは筆者(著作者)とは言わない。
監修者が自ら内容を検討し、相当部分について補正加筆
など著作物の創作に相当する行為があったとみられる場合
に限り、監修者も、もとの著作者とともに共同著作者に
なれますが、そのような行為がなされたのでしょうか。

・参考文献として、雅春先生、清超先生、雅宣先生のご著書
が同書254〜255頁に掲げられておりますが、それなのに
奥付けで、
監修 谷口雅宣
著者 谷口雅宣 谷口清超 谷口雅春
編纂 生長の家国際本部
とされておりますが、どのような意図があるのでしょうか。

この際、『生長の家 のマーク』を正規品に変え、序文だけでも
違和感だらけの全面書き直しを提案します。
とても「生長の家会員必携」と言えるものではありません。

言葉は波動であり、生命(魂の)であります。
霊界とも波動で繋(つな)がっています。
その言葉が軽すぎるのです。

例えば2023年10月号の機関紙『生長の家』の38頁に
『宝蔵神社盂蘭盆供養大祭が4年ぶりに斉行
総裁先生が奉祀され、白鳩会総裁先生ご臨席』
とあります。

ご臨席の『臨』は「位の高い人が、位の低い人がいる場所
に来られる」という本来の意味があります。
『席』とは「決められ、定められた座り場所」
という本来の意味があります。
畏(おそ)れ多い言葉であります。
それを弁(わきま)えたうえで使われているのでしょうか。

・教団が指導し、教化部長が倣(なら)い、教区の地方講師
会長が川原に石を探しに行って教区で『石上げのみ祭』
をするという。吾々信徒の魂は、原始宗教に後戻りするほど
幼くはありません。隠蔽されているだけなのです。
言葉が乱れ、祈りが乱れ、行事が乱れ、すべて「生長の家の
マーク」が歪んでいるからに他なりません。

現状についてピッタリの真理を謹写させていただきます。


《 【エデンの楽園のたとえ】

神の造りたまうた人間には、本来不幸も苦しみもないので
あります。神は人間を神の象(かたち)のごとく完全に
造りたまうて「エデン」の楽園(仏教で言うゴクラク
世界にあたる。実相の世界のことです)に置(お)き
たまうたと『創世記』に書いてあるのであります。
実相(ほんとうのすがた)に於(お)いては、人間は
既に「エデンの楽園」の中に置かれているのであります。
それなのに『創世記』の物語では、蛇(へび)が出て来て、
あそこに「知恵の樹」という樹があって林檎(りんご)
のような美味(おい)しい果(み)が生(な)っている、
あの知恵の樹(こ)の果を食べたなら、お前は神様のように
賢(かしこ)くなるよ、と教えたのです。
この「蛇」と云うのは「人間のサカシラ(かしこぶる)知恵」
のたとえであって、既(すで)に神から無限の善きものを
与えられ、既に神の生命を与えられ、神の相(すがた)を
与えられて、何の不足も不自然もなく生きているのが人間
なのに、「そのまま有難い」と率直(すなお)に受け取る
ことをしないで、まだ何か足らんように思って、人間知恵を
出すのです。これが最初の迷いであります。
これをキリスト教では「知恵の樹の果を食(く)う」と言い、
佛教では「無明縁起(むみょうえんぎ)」(えんによって
おこるいんねんで出てくる)」と言うのであります。
「無明」と云うのは「まよい」と云うことで、「まよい」
によって一切のものが起ってきたのであると云うのが仏教の
無明縁起であります。「迷いは何処(どこ)から来たか」
という問いがよくあり、これは仏教でも問題になっている
ことですが、「迷い」と云うものは「知恵の樹」の果を
たべて「そのままの神の智慧」を失ったところから来たのです。
即(すなわ)ち「お前は神の子で、完全だぞ、健康だぞ」
と神様から言われたのを、「そんなことあるもんか」と素直に
受けないところから来たのであります。
率直になって無我(むが)になって「人間は神の子だ完全だ」
と云う神の宣言(せんげん)をそのまま受け容(い)れ
たならば、そうすると「迷い」も何もないのです。
ところが「神様だって間違(まちが)うかも知れぬのだ。
神様よりもこの知恵の樹の実を食べた方がうんと賢(かしこ)く
なるかも知れん」と云うような考えであります。
こんな考え方から人間はエデンの楽園を追放(ついほう)
されて苦しまなければ生活出来ないようになったと『創世記』
には書いてあるんです。
「エデンの楽園」即ち「極楽(ごくらく)」みたいな世界に
帰ってくるのは、「人間は神の相(すがた)に造られている
立派な人間である。病気不幸災難等・・・何ひとつないので
ある」と言われた神の言葉を信じて、悪いことがあらわれ
て来ても、「これは心の迷いで、こう見えるだけだ。
こんな悪い有様(ありさま)は、神様の造られた世界には
断(だん)じてないのだ」と、その悪い有様を心で見ないで、
神のつくりたまうた「善ひとすじの世界」ばかりを
神想観(心をしずめて、神を見る法)して、心で見つめる
ようにしますと、やがて、本当に神のつくりたまうた
「善ひとすじの世界」が肉眼で見える世界にもあらわれて
来るのであります。》

(『新版 真理 第8巻 295〜297頁)


地方講師の夫様。やってみてください。
期待しています。「迷い」はないのです。
左脳にだけあるのです。
どうぞよろしくお願い申しあげます。

ありがとうございます。









はうらひとひら様 (61300)
日時:2023年10月09日 (月) 19時13分
名前:志恩

(はうら様ー)
>ところで、(.略..)..........
昭和54年(1979年)3月1日谷口雅春先生が監修されて
『新編 聖光録』を出されて、その288頁に
「生長の家」のマーク(意義と由来)として正規の
マークも示されました。
それを遡(さかのぼ)る昭和10年(1935年)2月1日に制定され
昭和12年(1937年)1月号の『生長の家』
に正しい図案が色と形状が記載されて
おります。ここが生長の家マークの原点です。
谷口雅春先生は、昭和54年に『聖光録』で正しい形状を
示されると同時に、清超先生(当時副総裁)に命じて
その事を正しく実施するようにとの指示でした。
昭和56年(1981年)3月頃、その副総裁の決定であの歪んだ
生長の家のマークが決定され、今もそのままになっている
のです。その正規品でないマークについて、論じているのです。

・ところでその『聖光録』ですが、平成24年(2012年)頃
在庫があるのに原宿本部の聖典売り場から撤去され、その後
信徒の前から姿を消しました。(売り切れとして)

そして『聖光録』ですと言って登場したのが
令和2年(2020年)4月25日発行の
『“新しい文明”を築こう』上巻 基礎編「運動の基礎」
監修 谷口雅宣 です。
確かに扉のすぐ後ろに「生長の家会員必携」
と記されていて、監修者も『聖光録』と位置づけています。
その82頁に「生長の家のマーク」が記載されておりますが、
形状も色も当然ながら正規品ではありません。

その「監修にあたって」という序文を見て違和感を覚え
ました

・“会員必携(ひっけい)書"を総裁・谷口雅宣先生の監修
で発行する。(同書 1頁)
とありますので、当然他の人が書いたのかと思ったら、
谷口 雅宣 記とある。
自分を総裁先生などと言っている序文など見た事がありません。

・過去『聖光録』は3種類あると記載されていますが、正しく
は5種類です。(同書 5頁)
多分谷口雅春先生から谷口清超先生に突然監修者を変え
(昭和60年6月17日尊師ご昇天後)日付けや版数も変更
なく、監修を尊師から清超先生に変更されたと思われます。

ですからC版の昭和61年(1986年)の『大和の國の神示」
の追加等はカウントされていません。
D版の平成8年(1996年)24版神示 7つ追加もカウントされ
ていません。

・「私たちの運動に、聖使命菩薩として参加する喜びを知り、
それをさらに多くの人々に伝えていただければ、筆者の
喜びこれに過ぎるところはない。
二〇二〇年(令和2)三月吉日 谷口 雅宣 記
(同書7.8頁)

監修と言いながら、筆者としていますが、違和感があります。

監修者が序文を書いただけでは筆者(著作者)とは言わない。
監修者が自ら内容を検討し、相当部分について補正加筆
など著作物の創作に相当する行為があったとみられる場合
に限り、監修者も、もとの著作者とともに共同著作者に
なれますが、そのような行為がなされたのでしょうか。

・参考文献として、雅春先生、清超先生、雅宣先生のご著書
が同書254〜255頁に掲げられておりますが、それなのに
奥付けで、
監修 谷口雅宣
著者 谷口雅宣 谷口清超 谷口雅春
編纂 生長の家国際本部
とされておりますが、どのような意図があるのでしょうか。

この際、『生長の家 のマーク』を正規品に変え、序文だけでも
違和感だらけの全面書き直しを提案します。
とても「生長の家会員必携」と言えるものではありません。

言葉は波動であり、生命(魂の)であります。
霊界とも波動で繋(つな)がっています。
その言葉が軽すぎるのです。

例えば2023年10月号の機関紙『生長の家』の38頁に
『宝蔵神社盂蘭盆供養大祭が4年ぶりに斉行
総裁先生が奉祀され、白鳩会総裁先生ご臨席』
とあります。

ご臨席の『臨』は「位の高い人が、位の低い人がいる場所
に来られる」という本来の意味があります。
『席』とは「決められ、定められた座り場所」
という本来の意味があります。
畏(おそ)れ多い言葉であります。
それを弁(わきま)えたうえで使われているのでしょうか。

・教団が指導し、教化部長が倣(なら)い、教区の地方講師
会長が川原に石を探しに行って教区で『石上げのみ祭』
をするという。吾々信徒の魂は、原始宗教に後戻りするほど
幼くはありません。隠蔽されているだけなのです。
言葉が乱れ、祈りが乱れ、行事が乱れ、すべて「生長の家の
マーク」が歪んでいるからに他なりません。

現状についてピッタリの真理を謹写させていただきます。(略)<


志恩ー
地方講師の夫様から、はうら様が上記に書かれました
ご返信と、生長の家のマーク、その他の
ことにつきまして、何か反論はあるかしらと
お待ちしておりましたが、今のところはまだ、ございませんね。
明日あたり、反論は、あるのでしょうか。

はうら様は、生長の家のことに関しても、お詳しいですよね、
そして、高度な小説を2冊も出版されたお方だけありまして、
表現力が理路整然としていて、すごいと思いました。
ほとんどの古くからの生長の家の信徒様方が、心の底では
痛感していますが、それをどのように表現していいかわからない
心の内にあるモヤモヤした部分のことをズバズバと書かれたのには、
驚いております。ありがとうございました。

もしも続きがありましたら、またお書きくださいますようにお願いします。

傲慢の継承 (61302)
日時:2023年10月09日 (月) 21時53分
名前:本音の時代

>昭和56年(1981年)3月頃、その副総裁の決定であの歪んだ
>生長の家のマークが決定され、今もそのままになっている
>のです。


谷口清超氏が谷口雅春先生のご意向に反し、歪んだ生長の家のマークを決定したということなのでしょうか。
谷口清超氏の傲慢を感じます。そしてその傲慢は雅宣さんに受け継がれているのだと感じます。原因があって結果があるのだと。

 (61303)
日時:2023年10月09日 (月) 22時47分
名前:神の子

でも清超さんは神の子さんですからね。
それでいて傲慢なら傲慢で完全円満な神の子さんと云う事になりますねえ。

ロダンの鼻欠け像の倫理 (61304)
日時:2023年10月09日 (月) 22時51分
名前:神の子

歪んだ生長の家のマークを見てそこに歪んでない正規のマークを見い出すってのはどうでしょうかね?

>(61303) (61305)
日時:2023年10月09日 (月) 23時00分
名前:本音の時代

傲慢は神の子さんに非ず。

神の子さんへ (61306)
日時:2023年10月10日 (火) 03時34分
名前:志恩

正統・生長の家マークを、勝手に変えてしまっておいて
変えなかったことにしてほしい
と言ってるようなもの。

本来の生長の家の教えを抹殺しておいて、
抹殺していなかったことにしておいてほしい、
と言ってるようなもの。

それは、人間は神の子なんだから
と言ってるようなもの。
宇宙規模で通らない屁理屈です。

指が無ければ指を立てる事は出来ない? (61320)
日時:2023年10月10日 (火) 21時16分
名前:神の子

するとロダンの鼻欠け像は実際は鼻が欠けているから欠けていなかった事を思い込むとかしないで、欠けているから欠けている。と観るしか無いんでしょうかね。

はうらさんの登場を待ちましょうか。
それまでに倫理編でも読み直しますよ。

『本当のものを知る』 (61333)
日時:2023年10月12日 (木) 21時18分
名前:はうら ひとひら

皆様 ありがとうございます。
いろいろなご教示、ご愛念いただきました事に
感謝申しあげます。
生長の家のマークの私の思い、当然三十三通りの考え方、
思いがありますので、その内の一つということで、
思い着くままに述べさせていただきます。

・生長の家の草創期には、陸続(りくぞく)として
奇蹟的な治病体験などが報告されておりますが、
何故いまその燃え上がる若葉の如く、伸展(しんてん)
していた状態が、停滞し、さらには、教団自体が
沈没しそうに見えるのは、私だけでしょうか。
真理の感想を聞いても、実相・真理はわかるが、現象
的には、とてもとても・・・という。
現象は無い、と言っているにも関(かか)わらずです。
吾々の団体は、いつから頭でっかちの、理論屋になった
のでしょうか。(これを読まれている皆様は違いますが)
なにがどうなっているのでしょうか。
単なる部活動や、宗教ごっこだけの集団なのでしょうか。

【生命の實相哲学からみた歴史観】

《 歴史というものは一体何であるかといいますと、
現象界に実相が如何(いか)に投影し表現されて来る
かということの、その現われ方、即ち実相が現れる場合
の作用、反作用という風なものを次第に追うて並べて
行くことによって、その民族に如何様(いかよう)に
実相が現れ、実相が現れんとするに当たって如何に
反作用を起こし、自壊(じかい)作用を起こしたかを
知り、それをずっと時間的に貫いて観(み)てそこに
実相が如何なる相(すがた)を以(も)って現れるか
という事を知ることによって、大宇宙に於(お)ける
日本国の位置及びその将来性を知り、現在自分が
国家構成の一員として及び個人として如何に生きて
行くべきものであるか、将来この世界は如何に発展して
行くべきものであるかということをはっきりさせる
ためのものが歴史の研究であります。
ですから、歴史というものは単に過去の記録を書いたと
いう風なものではないのであって、生命の生々流動
(せいせいりゅうどう)の流れの相(すがた)、実相が
現象界に貫いて響き出る時のその儘(まま)の相が
書いてあるのであります。その相(すがた)を見ることは
自分自身の生命の相を見ることであり、宇宙の相を見る
ことであり、、宇宙が、自分が、今如何に生き抜いて、
今後如何に発展すべきであるかということを知ること
であります。》

( 初出:戦前版『生命の實相』神道篇)
(『古事記と日本国の世界的使命』 4.5頁 光明思想社刊)

・現象はすべて影である。結果であって原因ではない。
第一原因は常に実相であり、神である。

清超先生は、雅春先生から、正規の『生長の家のマーク』
にもどすように指示された時、その後の行動として、
二つの過ちをされた。
一つは、その示めされた指示のごとく、そのまま実施していれば
何の問題もなく、「神意(みこころ)」が顕(あらわ)せたのに、
私心(人間知)で理事会に図った事。
もう一つは、理事会決定の段階で理事長が決定をくだしたと
されていますが、何故、指示された副総裁(清超先生)では
なく、理事長に責任を負わせたかです。


・生長の家の説く「現象はない」と言う真理と、
今吾々が五官で認識し生活している現象世界との関係
について。

【 不完全を完全に観るには。
ロダンの「鼻欠け像」について】


《 『現象界は実相世界の芸術』
そこで実相独在、真我(しんが)独在、すでに絶対神と
同一なる「我」のみが存在するのであって現象界の
不完全なる「我」は無いとしたならば、この現象界
(現世(げんせ)および霊界))は「我」の進歩の
過程としてなぜ顕われているかということになるので
あります。それは現象界は実相生命の芸術として
あるのであります。それは芸術であります。
実相生命が描き出した影の文(あや)の世界であります。
なぜ影があるかと申しますと、生命が時間空間の
スクリーンの上に、形象(けいしょう)化して描き出さん
がためであります。活動写真は影の芸術です。
それと同じように現象世界は影の芸術です。
実相世界はすでに完全の世界すでに成(な)れる世界で
ありますから、過去、現在、未来、東西、南北、天地が
共存せる世界であります。
これは五官をもってしては想像することができない。
一点の中にいっさいが握られている、いな、その一点
すらも無い、「無(む)」の中にいっさいが握られて
いるのであります。
ところが現象世界は映画芸術の世界でありますから、
映画にはスクリーンの空間的広袤(こうぼう)と、
フィルムを交替出現せしめる時間的過程とが必要となり、
ここに時間空間的展開があらわれているのであります。
・・・・
ロダンは、形の上では鼻欠けを塑作(そさく)して
いても、鼻の欠けていない実相を塑作していたという
ことができるのであります。さらに言い換えると、
「欠けている鼻はない」ということを現象の上では
「欠けている鼻」を塑造(そぞう)しながら表わそうと
しているのが優れたる芸術家なのであります。
ここでは芸術家は宗教家であるといえるでしょう。
医者なら「鼻欠け」を「鼻欠け」として見る。
芸術家は「鼻欠け」を「鼻あり」として見るのであります。
そしてあらゆる生活上の態度において「欠陥ある現象人間」
を見るに、ただそれを欠陥なき神の子としての人間として
見よ、そこに欠陥なき人間があらわれて来るであろう
― というのが「生長の家」倫理(りんり)学の中心と
なる誡命(いましめ)であります。》

(『生命の實相』頭注版 第14巻 77〜79頁)

しかしながら、現象界は影でありますから、そこに投影する
には先ず、完全なもの(実相・この場合は正規の生長の家
のマーク)が必要な事は当然であります。

・或る日、相当真理の研鑽を積まれている方から、
連絡があった。

「『聖経 甘露の法雨』に「悟らざる真理」とあります
が、悟るから真理であって、悟らない真理って何ですか。
雅春先生がご存命だったら、聞いてみたかった」という。

(『聖経 甘露の法雨』の「知恵の項」の
「無明はただ悟らざる真理にして これは譬えば悪夢の如し」
の事を言われていると思われる。

《 五蘊(ごうん)も煩悩も必要なのであって、それに
誘惑され支配されるから可(い)けないので、こちらが
支配者となれば好いのです。
さうすれば五蘊そのものが悟りの種となり、煩悩則菩提
(ぼんのうそくぼだい)となるのであります。・・・

「天地一切のものと和解せよ」といふ教えへを曲解して、
善悪正邪をわきまへないで、生長の家は、萬教歸一
だからどの宗教でも皆よいのだと谷口先生が言はれた
からといって邪教に趣(おもむ)く人があり、味噌も
糞も一緒にしてしまふ人がありますが、そんなのは可(い)
けないのであります。
必ずこれは眞理、これは非眞理と分けなければならない。
これを「外道(げどう)を制し」といふので、菩薩の
行であります。》

(『維摩經解釋』6.7頁)


【 光は暗と和解せず】

《 異端(いたん)、妄説(もうせつ)、妄念(もうねん)、
妄想(もうぞう)は「本来無い説」一虚説(きょせつ)一
でありますから、その実相を見れば、「本来無い」と
いうことがわかるだけでありますから、「本来無いもの」
(虚説)に和解することは絶対にできないのであります。
光は暗(やみ)と和解することはできない。光りが近づけ
ば暗は消えるほかはない。それと同じく真説(しんせつ)は
虚説に近づけば虚説を消す働きになる。
・・・・
虚説を許さないことをもって、和解と寛容(かんよう)の
徳がないように思うのはまちがいであります。
また虚説を容(い)れることをもって和解の徳があるように
思うのもまちがいであります。
虚説を排撃(はいげき)することいよいよ明瞭(めいりょう)
であればあるほど、真説は明らかに照り、それに照らされて
救われる人間もまた多いのであります。
・・・・
虚説に対してはあくまでも戦い、人に対してはどこまでも
実相を見て許すことにしたのであります。
どうか皆さんも虚説(ないもの)に対しては和解すること
なく、どこまでも「サタンよ去れ」の態度で進んでいただき
たく、人間に対しては、その表面の包み(罪)を見ないで、
その罪なき完全なる実相を見て、その罪を赦(ゆる)す
(その罪を本来無いと見て捨てる)ことにしたいので
あります。》

(『生命の實相』頭注版 第14巻 63.64頁)


・人間とその人の行為を分離するのは、やはりかなり難しい。
その人の実相をいかに完全に観れるかにかかっていると思う
のですが。修行がまだまだ足りません。
だからこのような昏迷(こんめい)を招いている。
本当に申し訳ございません。

【 既に成れる理想世界を実現するには】

《 もし、われわれ生物が、第二念に捉(とら)われない
時代がくれば、預言者イザヤが次のように歌ったような
理想世界が実現して来るのであります。

狼は子羊とともに宿り  豹は小山羊とともに伏し
獅子は牝牛のごとく藁(わら)を食い 
犢(こうし)と若獅子とはともに草を食まん。
牝牛と熊とはともに子供に導かれ
食をともにして相ともに戯れん。
乳飲み児は毒蛇の窩(あな)の上を匍匐(はらば)い
乳離れの子は手を蝮(まむし)の窩にさし入るるも傷つかざらん。
わが聖(きよ)き山にはいずれの処にも
傷つくる者なく、殺す者なし。
そは海原を水の蔽(おお)えるがごとく
大なる神の知恵この地上に満つればなり。

(『イザや書)第11章-6〜9 新訳)

こんな理想世界が果たして来るであろうかなどと疑われる
方もあるかもしれませんが、来るとか来ぬとかいうことは、
われわれの第二念の世界(映像(かげ)の世界)だけの
ことでありまして、神の第一念の世界(実相の世界)
においては神の創造の最初から無限の未来を通じて
今 現にこの理想的大調和の状態にあるのでありまして、
これからいろいろ工夫して改善されて来るというような
緩慢(まだる)っこしいものではないのであります。
今 現に実相世界は完全に大調和の状態にある!
これを悟ることが真理を悟るということであります。
この完全な大調和な理想世界が今 現にあるということを
悟らないで、歪(いび)つな「迷いの色眼鏡」をかけて
眺め、いたずらに相争い、相犯し、相恐れるもので
ありますから、真理の光線が屈折して、まん円(まる)い
ものも、歪(いび)つな形を映(うつ)し出しているのが
この現実世界であります。
結局、これは「迷いの色眼鏡」をかけているがためで
ありますから、真理の正しい眼鏡をかけて事物を眺める
ようにするならば、実相世界のそのままの大調和の状態
がこの映像(かげ)の世界(現実世界)に現出するので
あります。》

(『生命の實相』頭注版 第11巻 22.23頁)


【 本当のものを知る】

《 ・・・・換言(かんげん)すれば「物質は神なりき」と
信ずる原始的偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)教の
あらわれにすぎないのであります。
「生長の家」ではそんな偶像崇拝的な迷信を極力排斥
するのであります。
「生長の家」では神を「ただ信ぜよ」とはいわない、
実相覚(かく)(本当の真理を知る知恵)によって
神と神の真創造とを理解せよ。無暗(むやみ)なもの
を信じてはならぬ、本当のもの、永遠のもの、実在のものを、
よく偽創造(にせもの)から識別(みわ)けて、その本当
のものを知れ。その本物を知ることが、真の信仰である。
本当のものを知らない信仰は迷信である。
迷信は禍(わざわ)いを招くが、真の信仰は幸福を招く
ほかに成りようがないものであるというのであります。
なぜなら真の信仰は、愛の神ならびに愛の神が真に創造
(つく)り給いて、「はなはだ善し」と認め給いし完全な
世界のみを実在と認める信仰であるからであります。》

(『生命の實相』頭注版 第11巻 63頁)


・先ず完全な『生長の家のマーク』を造るべきであると
思います。これから造るのではなく、既に完全なものは
あります。それをやるかやらないかは、私達にかかって
いるのです。機会は今しかないのです。


ありがとうございます。



神の子様の、ロダンの鼻欠け像の倫理に対する質問。 はうらひとひら様からの、それに対するお返事。 (61339)
日時:2023年10月13日 (金) 06時34分
名前:志恩

ーーーーーーーーーーーーーーー
(『神の子様』の質問ー)
>【ロダンの鼻欠け像の倫理 】
(61304)
歪んだ生長の家のマークを見て
そこに歪んでない正規のマークを
見い出すってのはどうでしょうかね?<
ーーーーーーーーーーーーーーーー
(『神の子様』の質問ー)
>【指が無ければ指を立てる事は出来ない? 】
(61320)
するとロダンの鼻欠け像は
実際は鼻が欠けているから欠けていなかった事
を思い込むとかしないで、欠けているから欠けている。
と観るしか無いんでしょうかね。<
ーーーーーーーーーーーーーーーー
(『はうらひとひら様』からのお返事)

(はうら様ー)
>・生長の家の説く「現象はない」と言う真理と、
今吾々が五官で認識し生活している現象世界との関係
について。

【 不完全を完全に観るには。
ロダンの「鼻欠け像」について】


《 『現象界は実相世界の芸術』
そこで実相独在、真我(しんが)独在、すでに絶対神と
同一なる「我」のみが存在するのであって現象界の
不完全なる「我」は無いとしたならば、この現象界
(現世(げんせ)および霊界))は「我」の進歩の
過程としてなぜ顕われているかということになるので
あります。それは現象界は実相生命の芸術として
あるのであります。それは芸術であります。
実相生命が描き出した影の文(あや)の世界であります。
なぜ影があるかと申しますと、生命が時間空間の
スクリーンの上に、形象(けいしょう)化して描き出さん
がためであります。活動写真は影の芸術です。
それと同じように現象世界は影の芸術です。
実相世界はすでに完全の世界すでに成(な)れる世界で
ありますから、過去、現在、未来、東西、南北、天地が
共存せる世界であります。
これは五官をもってしては想像することができない。
一点の中にいっさいが握られている、いな、その一点
すらも無い、「無(む)」の中にいっさいが握られて
いるのであります。
ところが現象世界は映画芸術の世界でありますから、
映画にはスクリーンの空間的広袤(こうぼう)と、
フィルムを交替出現せしめる時間的過程とが必要となり、
ここに時間空間的展開があらわれているのであります。
・・・・
ロダンは、形の上では鼻欠けを塑作(そさく)して
いても、鼻の欠けていない実相を塑作していたという
ことができるのであります。さらに言い換えると、
「欠けている鼻はない」ということを現象の上では
「欠けている鼻」を塑造(そぞう)しながら表わそうと
しているのが優れたる芸術家なのであります。
ここでは芸術家は宗教家であるといえるでしょう。
医者なら「鼻欠け」を「鼻欠け」として見る。
芸術家は「鼻欠け」を「鼻あり」として見るのであります。
そしてあらゆる生活上の態度において「欠陥ある現象人間」
を見るに、ただそれを欠陥なき神の子としての人間として
見よ、そこに欠陥なき人間があらわれて来るであろう
― というのが「生長の家」倫理(りんり)学の中心と
なる誡命(いましめ)であります。》

(『生命の實相』頭注版 第14巻 77〜79頁)

しかしながら、現象界は影でありますから、そこに投影する
には先ず、完全なもの(実相・この場合は正規の生長の家
のマーク)が必要な事は当然であります。

・或る日、相当真理の研鑽を積まれている方から、
連絡があった。

「『聖経 甘露の法雨』に「悟らざる真理」とあります
が、悟るから真理であって、悟らない真理って何ですか。
雅春先生がご存命だったら、聞いてみたかった」という。

(『聖経 甘露の法雨』の「知恵の項」の
「無明はただ悟らざる真理にして これは譬えば悪夢の如し」
の事を言われていると思われる。

《 五蘊(ごうん)も煩悩も必要なのであって、それに
誘惑され支配されるから可(い)けないので、こちらが
支配者となれば好いのです。
さうすれば五蘊そのものが悟りの種となり、煩悩則菩提
(ぼんのうそくぼだい)となるのであります。・・・

「天地一切のものと和解せよ」といふ教えへを曲解して、
善悪正邪をわきまへないで、生長の家は、萬教歸一
だからどの宗教でも皆よいのだと谷口先生が言はれた
からといって邪教に趣(おもむ)く人があり、味噌も
糞も一緒にしてしまふ人がありますが、そんなのは可(い)
けないのであります。
必ずこれは眞理、これは非眞理と分けなければならない。
これを「外道(げどう)を制し」といふので、菩薩の
行であります。》

(『維摩經解釋』6.7頁)


【 光は暗と和解せず】

《 異端(いたん)、妄説(もうせつ)、妄念(もうねん)、
妄想(もうぞう)は「本来無い説」一虚説(きょせつ)一
でありますから、その実相を見れば、「本来無い」と
いうことがわかるだけでありますから、「本来無いもの」
(虚説)に和解することは絶対にできないのであります。
光は暗(やみ)と和解することはできない。光りが近づけ
ば暗は消えるほかはない。それと同じく真説(しんせつ)は
虚説に近づけば虚説を消す働きになる。
・・・・
虚説を許さないことをもって、和解と寛容(かんよう)の
徳がないように思うのはまちがいであります。
また虚説を容(い)れることをもって和解の徳があるように
思うのもまちがいであります。
虚説を排撃(はいげき)することいよいよ明瞭(めいりょう)
であればあるほど、真説は明らかに照り、それに照らされて
救われる人間もまた多いのであります。
・・・・
虚説に対してはあくまでも戦い、人に対してはどこまでも
実相を見て許すことにしたのであります。
どうか皆さんも虚説(ないもの)に対しては和解すること
なく、どこまでも「サタンよ去れ」の態度で進んでいただき
たく、人間に対しては、その表面の包み(罪)を見ないで、
その罪なき完全なる実相を見て、その罪を赦(ゆる)す
(その罪を本来無いと見て捨てる)ことにしたいので
あります。》

(『生命の實相』頭注版 第14巻 63.64頁)


・人間とその人の行為を分離するのは、やはりかなり難しい。
その人の実相をいかに完全に観れるかにかかっていると思う
のですが。修行がまだまだ足りません。
だからこのような昏迷(こんめい)を招いている。
本当に申し訳ございません。

【 既に成れる理想世界を実現するには】

《 もし、われわれ生物が、第二念に捉(とら)われない
時代がくれば、預言者イザヤが次のように歌ったような
理想世界が実現して来るのであります。

狼は子羊とともに宿り  豹は小山羊とともに伏し
獅子は牝牛のごとく藁(わら)を食い 
犢(こうし)と若獅子とはともに草を食まん。
牝牛と熊とはともに子供に導かれ
食をともにして相ともに戯れん。
乳飲み児は毒蛇の窩(あな)の上を匍匐(はらば)い
乳離れの子は手を蝮(まむし)の窩にさし入るるも傷つかざらん。
わが聖(きよ)き山にはいずれの処にも
傷つくる者なく、殺す者なし。
そは海原を水の蔽(おお)えるがごとく
大なる神の知恵この地上に満つればなり。

(『イザや書)第11章-6〜9 新訳)

こんな理想世界が果たして来るであろうかなどと疑われる
方もあるかもしれませんが、来るとか来ぬとかいうことは、
われわれの第二念の世界(映像(かげ)の世界)だけの
ことでありまして、神の第一念の世界(実相の世界)
においては神の創造の最初から無限の未来を通じて
今 現にこの理想的大調和の状態にあるのでありまして、
これからいろいろ工夫して改善されて来るというような
緩慢(まだる)っこしいものではないのであります。
今 現に実相世界は完全に大調和の状態にある!
これを悟ることが真理を悟るということであります。
この完全な大調和な理想世界が今 現にあるということを
悟らないで、歪(いび)つな「迷いの色眼鏡」をかけて
眺め、いたずらに相争い、相犯し、相恐れるもので
ありますから、真理の光線が屈折して、まん円(まる)い
ものも、歪(いび)つな形を映(うつ)し出しているのが
この現実世界であります。
結局、これは「迷いの色眼鏡」をかけているがためで
ありますから、真理の正しい眼鏡をかけて事物を眺める
ようにするならば、実相世界のそのままの大調和の状態
がこの映像(かげ)の世界(現実世界)に現出するので
あります。》

(『生命の實相』頭注版 第11巻 22.23頁)


【 本当のものを知る】

《 ・・・・換言(かんげん)すれば「物質は神なりき」と
信ずる原始的偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)教の
あらわれにすぎないのであります。
「生長の家」ではそんな偶像崇拝的な迷信を極力排斥
するのであります。
「生長の家」では神を「ただ信ぜよ」とはいわない、
実相覚(かく)(本当の真理を知る知恵)によって
神と神の真創造とを理解せよ。無暗(むやみ)なもの
を信じてはならぬ、本当のもの、永遠のもの、実在のものを、
よく偽創造(にせもの)から識別(みわ)けて、その本当
のものを知れ。その本物を知ることが、真の信仰である。
本当のものを知らない信仰は迷信である。
迷信は禍(わざわ)いを招くが、真の信仰は幸福を招く
ほかに成りようがないものであるというのであります。
なぜなら真の信仰は、愛の神ならびに愛の神が真に創造
(つく)り給いて、「はなはだ善し」と認め給いし完全な
世界のみを実在と認める信仰であるからであります。》

(『生命の實相』頭注版 第11巻 63頁)<
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
志恩ー
はうらひとひら様、

神の子様の質問に対して、
真理に照合された的確なご解答をありがとうございました。

はうらひとひら様 (61340)
日時:2023年10月13日 (金) 06時55分
名前:志恩

(はうら ひとひら様ー)
『本当のものを知る』 (はうら様の今回のテーマ)」
(61333)

>略
生長の家のマークの私の思い、当然三十三通りの考え方、
思いがありますので、その内の一つということで、
思い着くままに述べさせていただきます。

・生長の家の草創期には、陸続(りくぞく)として
奇蹟的な治病体験などが報告されておりますが、
何故いまその燃え上がる若葉の如く、伸展(しんてん)
していた状態が、停滞し、さらには、教団自体が
沈没しそうに見えるのは、私だけでしょうか。
真理の感想を聞いても、実相・真理はわかるが、現象
的には、とてもとても・・・という。
現象は無い、と言っているにも関(かか)わらずです。
吾々の団体は、いつから頭でっかちの、理論屋になった
のでしょうか。(これを読まれている皆様は違いますが)
なにがどうなっているのでしょうか。
単なる部活動や、宗教ごっこだけの集団なのでしょうか。

【生命の實相哲学からみた歴史観】

《 歴史というものは一体何であるかといいますと、
現象界に実相が如何(いか)に投影し表現されて来る
かということの、その現われ方、即ち実相が現れる場合
の作用、反作用という風なものを次第に追うて並べて
行くことによって、その民族に如何様(いかよう)に
実相が現れ、実相が現れんとするに当たって如何に
反作用を起こし、自壊(じかい)作用を起こしたかを
知り、それをずっと時間的に貫いて観(み)てそこに
実相が如何なる相(すがた)を以(も)って現れるか
という事を知ることによって、大宇宙に於(お)ける
日本国の位置及びその将来性を知り、現在自分が
国家構成の一員として及び個人として如何に生きて
行くべきものであるか、将来この世界は如何に発展して
行くべきものであるかということをはっきりさせる
ためのものが歴史の研究であります。
ですから、歴史というものは単に過去の記録を書いたと
いう風なものではないのであって、生命の生々流動
(せいせいりゅうどう)の流れの相(すがた)、実相が
現象界に貫いて響き出る時のその儘(まま)の相が
書いてあるのであります。その相(すがた)を見ることは
自分自身の生命の相を見ることであり、宇宙の相を見る
ことであり、、宇宙が、自分が、今如何に生き抜いて、
今後如何に発展すべきであるかということを知ること
であります。》

( 初出:戦前版『生命の實相』神道篇)
(『古事記と日本国の世界的使命』 4.5頁 光明思想社刊)

・現象はすべて影である。結果であって原因ではない。
第一原因は常に実相であり、神である。

清超先生は、雅春先生から、正規の『生長の家のマーク』
にもどすように指示された時、その後の行動として、
二つの過ちをされた。
一つは、その示めされた指示のごとく、そのまま実施していれば
何の問題もなく、「神意(みこころ)」が顕(あらわ)せたのに、
私心(人間知)で理事会に図った事。
もう一つは、理事会決定の段階で理事長が決定をくだしたと
されていますが、何故、指示された副総裁(清超先生)では
なく、理事長に責任を負わせたかです。

(中略)

・先ず完全な『生長の家のマーク』を造るべきであると
思います。これから造るのではなく、既に完全なものは
あります。それをやるかやらないかは、私達にかかって
いるのです。機会は今しかないのです。<

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
志恩ー
はうらひとひら様、

(はうら様ー)
>・現象はすべて影である。結果であって原因ではない。
第一原因は常に実相であり、神である。

清超先生は、雅春先生から、正規の『生長の家のマーク』
にもどすように指示された時、その後の行動として、
二つの過ちをされた。
一つは、その示めされた指示のごとく、そのまま実施していれば
何の問題もなく、「神意(みこころ)」が顕(あらわ)せたのに、
私心(人間知)で理事会に図った事。
もう一つは、理事会決定の段階で理事長が決定をくだしたと
されていますが、何故、指示された副総裁(清超先生)では
なく、理事長に責任を負わせたかです。<


(志恩ー)
神様の啓示によって、谷口雅春先生が深い宗教的な
見地から作られました生長の家のマークを、二代目総裁・
谷口清超先生は、そのまま継承されず、人間知で考えて、
当時の理事長に図って、変えてしまったこと、

はうらひとひら様のご投稿によりまして、
初めて、その詳細を知りました。

まず、第一段階として、三代目総裁・谷口雅宣先生が、
この過ちを早急に改め、元に戻さない限り、生長の家は、
元へは、戻らず、
衰退の一途を辿るものと、私も思っております。
神様からのご加護が得られないからです。

 (61353)
日時:2023年10月14日 (土) 08時26分
名前:神の子

先ず完全な『生長の家のマーク』を造るべきだと思います。これから造るのでは無く既に完全な物はあります。

造るのか?それとも既に有るから造らないのか?
こんな日本語有りですか?

 (61354)
日時:2023年10月14日 (土) 08時31分
名前:神の子

ってのは実相と現象ですね。

象徴となるべきその完全な生長の家のマークを復元して脱線してる生長の家を軌道修正しようと云うのがはうらさんの実相生命の芸術といったところでしょうか。

読み方は人それぞれですね。 (61377)
日時:2023年10月15日 (日) 12時21分
名前:神の子

鼻欠け像の鼻が欠けている(生長の家がおかしい)のは自分が迷いの色眼鏡をいるからそう見えるので真理の正しい眼鏡に掛け直す事が必要だと思うんですよ。
すると欠点の無い清超先生と雅宣総裁が見えてくる。変になっている物は正さなければいけないし間違っている人には間違っていると言わなきゃ
いけないけどそれよりは脚下照顧を考えたい。
自分を顧みれば雅宣総裁を批判する資格は無いデタラメな自分に気付く。
自分の場合はですが。

『真理のみ滅しない』 (61407)
日時:2023年10月17日 (火) 19時46分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

まず私の言動によりまして、皆様にご迷惑をおかけしました事に、
深くお詫び申しあげます。
大変申し訳ございませんでした。

ただ一言申し述べさせていただけますれば、私は憶測で述べた
事はなく、その証拠もあります。
ただ今はその時ではないと思っておりますので、もう少し
時間が必要と思います。(今迄で、全部を述べているわけ
ではありませんので。)
ついでながら、谷口雅春先生が『新編 聖光録』まで
監修されて、その288頁に「生長の家」のマーク(意義
と由来)を追加されて、これが正しいマークですとされたのに
もかかわらず、そしてその正しいマークに戻しなさいと
清超先生に命じられたのに、その2年後、どなたの手によって
(当時の副総裁先生ではなく)改竄され歪んだマークが
決定されて、現在に及んでいる事実があります。
たとえ知らなかったといって、組織の長がそれでよいので
しょうか。
世の中には、そんな組織形態、体制自体あり得ません。
ましてや国の保護を受けている、宗教法人
が、個人の寄り合いと同じような事をしているなどという事は、
あり得ません。透明性が求められます。
それはどのようにすれば整合性がとれるのでしょうか。
トップは知らなかったが、誰かがそうした、で通る問題
なのでしょうか。
(清超先生がどうされた、こうされたと言っているのでは
ありません。世間一般通念として論じているのです。)


ところで、私は今回の事では、全く心配しておりません。
なぜなら、途中から発生したものは、必ず消える運命
(それは真理でない限りにおいて)にあるからです。
必ず偽者は滅し、現象界に生じたものは、必ず滅して
真のものだけが残ります。これが「生命の實相の真理」
だからであります。
今回はここの処を述べさせていただきます。

・新「聖光録」なる
「“新しい文明"を築こう」について

【 文明 】

『文明』は物質に属し、『文化』は靈的に属します。

《 伊邪那岐神(いざなぎのかみ)で象徴するイザナギ
文化は東洋文化の特色たる霊的文化であって、伊邪那美神
(いざなみのかみ)で象徴するイザナミ文化は西洋文明の
特長である物質文明をあらわしているのであります。・・・

闇の国即ち物質文明の国の食物を食べたら、高天原
(たかあまはら)の光明遍照(へんじょう)の国に出て
来るのはできないのであります。・・・・

この楽園追放の神話は、人間が唯物論の哲学を食べて、その
霊的自覚を失い、人間は単なる肉體という「物質の塊(かたまり)
である、肉體そのものが人間であるというような、そんな闇の
哲学― 即ちそういう「智恵の樹(こ)の果(み)」を食べたら、
人間は靈的世界に於いては光の生活を営むことができない、・・・


『物質文明発達の最後』

 このような状態だったのです。
八種(やくさ)の雷神がゴロゴロと鳴っておったという
のでありますが、この雷神というのは、爆弾の天地を揺るがす
ゴロゴロと爆発する響きであります。八種というのは八つに
限らない、数の多いことをあらわします。そして蛆(うじ)
がたかって、爆死した人の死屍(しし)が累々(るいるい)
と積み累(かさな)ったところには、死體が腐って蛆が
たかっている― まことにいやらしい悲惨きわまりなき
有様であったのであります。
このように、イザナミ文化即ち物質文明のみ発達して霊的
文化から隔絶された世界の最後の悲惨な状態が、神話によって
預言されているのです。唯物論でこの世界が動いて行ったら、
物質獲得欲にひきずられて、結局は、そういうことになる
というのであります。

『唯物論を投げ捨てた結果』

 それでイザナギの神が、黄泉国(よもつくに)から追っかけ
きたところの、死の使いの鬼共を征伐(せいばつ)するために
お使いになった桃の實(み)― 生命の實相― は三つあるという
のです。
その三つの桃の實(生命の實(み))は何と何であるかと
言いますと、その桃の實の一つは、
「日本天皇の生命の實相」
もう一つは
「日本國の生命の實相」
それからさらにもう一つは
「人間の生命の實相」
であります。この三つの「生命の實」の相(すがた)が
本当に解ったら、死の国の地獄の鬼は逃げて行くのだという
ことが、『古事記』に示されているわけであります。》

(『古事記と現代の預言』95.96.97.100.101.106頁抜粋)
(一部現代語、現代かなづかいをさせていただきました。)


【 真理のみ滅しない 】


《 わたしは昨日から今朝にかけて大変重大な真理を
発見したのである。それは私が九十二歳にもなって歯の
幾本かの寿命が盡(つ)きて、その歯が蝕(むし)くった
からではない、健康な歯であるのに、その歯の下から
歯の根が浮き上がって来るその體験を通じて気がついた
「生命の實相」の真理である。

すべて現象に於ける事物には定められた寿命があるという
ことである。寿命というよりも定命(じょうみょう)と
謂(い)う方が適切な定義になるかも知れない。
すべて現象界の事物は、はじめから(本来)存在するのでは
なく、途中から生じて来たものである。
そして「途中から生きじて来た」ものは、「生じたものは
必ず滅する時が来る」という「生滅の法則」の支配下に
あるのである。人間の肉體というものも「本来あるもの」
即ち「實在」ではなくして一種の現象であって、途中から
現れてきたところの象(かたち)に過ぎないのである。
・・・・
しかし、私は「死の現象」を、「死」を主體とする現象
ではなく、「老又は病によって使い難(にく)くなって
異物化して来た肉體」を、「生命」が一層完全にその
自由自在性を発揮するために、異物排除のはたらきとして、
その不自由な肉體を自己の異物として除去するはたらきが、
「肉體の死」であると分かった。
肉體が真の自己に非ざるものとして排除される―
即(すなわ)ちこの際、異物として排除されるのは、生命體
の如く「粉飾(ふんしょく)されていたニセモノの自己」
であって、本来、靈なる生命だけは、粉飾體を棄(す)てて
却(かえ)って生命の實相たる完全自由を得るのであって、
今迄一般に生命が死するが如く錯覚せしめられていた
「生命の死」は、実に於いては存在しないのである。
それは却って、自己の生命の本體なる「霊的生命」が一層
完全なる自由を発揮するために、ニセモノの「物質性」を
粉飾した生命が、その粉飾物質をかなぐり棄てるために
「物性」を脱皮する一過程に過ぎないのである。
真の人間そのものの生命には、「死」はないのである。
これこそ「生命の實相」につながる人間不滅の真理である。
この人間不滅の真理を、合理的な論理を以(も)って全人類
に献(ささ)げることを悦(よろこ)びとする。》


(『無限供給の扉を開く』序に代えて1〜4頁)
(昭和59年11月号『生長の家』所載)

ありがとうございます。















光と象徴 (61701)
日時:2023年11月10日 (金) 17時55分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。
暫く時間が空き(過ぎ)ました。
私なりの、謹慎時間をいただきました。
お騒がせして、申し訳ございませんでした。
またどうぞよろしくお願い申しあげます。

今月(令和5年11月)の『生長の家』機関誌からです。
『秋の彼岸となった九月二十三日、生長の家国際本部
“森の中のオフィス”イベントホールで
「布教功労物故者追悼慰霊祭」が執り行われました。
同祭は 生長の家総裁・谷口雅宣先生が斎主(いつきぬし)
として奉祀され、白鳩会総裁・谷口順子先生が出席される中、
・・・・・』
(同誌4頁)
畏敬の言葉がなくなって、普通の文章になっております事、
敬意を表したいと思います。

『生長の家』は立教時から、神に祝福され、神の顕現が
いろいろありました。
今回は、その「光」と「象徴(シンボル)」についてです。

・理念の顕現

《 「理念(イデア)」と称するところのものは「生長の家」
において「実相」と称(しょう)するところのものであって
「神の第一念」を指す。
「念(ねん)」と称するところのものは「理念」を
現象に顕現する動力となるところの「第二念」を指す。
「神の第一念」によって「至高(しこう)」の理念の世界」
(実相世界)が創造せられ「念(マインド)」(第二念)
によってそれが現象界に投影(とうえい)せられる。》
(『生命の實相 頭注版 第35巻 14.15頁)

・当掲示板『元信徒の部屋 別館 原宿本部資料篇
【61438】(戦前の生長の家本部)2023-10-19投稿
梶猛弩様が昭和10年東京市赤坂区檜町4(当時の住所番地)
に設置された生長の家本部の写真を紹介されています。
梶猛弩様 貴重な資料のご提供ありがとうございました。 

(神の霊光の顕現)

《 神の霊光(れいこう)が光明思想普及会事務所に
顕現したと思われる事件が起こった。
生長の家と光明普及会(頭注:日本教文社の前身)
とは赤坂区檜町(ひのきちょう)五番地所在
(頭注:現在の港区赤坂9丁目6番44号)の山脇高等
女学校の校舎全部を譲り受け、昭和十年八月十一日より
その事務所を同校に移転したのだ。
しかるに同行にはすでに校舎譲り受けの交渉成立当初
より神様の御光(ごこう)であろう、燦然(さんぜん)
たる光明が三階の尖塔(せんとう)に射(さ)していた。
・・・
八月初旬(学校譲受交渉成立のころ)藤井おばさんは、
六、七歳の孫娘さんを同伴して、付近のお湯屋へ行こう
とした途中こんな霊異(れいい)が起った。
「学校前の電車通りに出て、何心なく電車通りの向こう側
から校舎の方へ目を注ぐと、暗中(あんちゅう)に建つ
校舎の二階から三階にかけ一面に真っ赤な明光(めいこう)
が照り輝いている。さながら陽炎(かげろう)の燃え立つ
ごとく一種の異様の霊光燦然として、おばさんの目を
驚かしたのであった。・・・
藤井のおばさんは、あまりにも不思議な、この靈光の正体を
なおも確かむるため、わざわざ電車通り向こう側より
市電線路を超えて学校側に近寄り暫時(ざんじ)直立不動の
まま全身に快く注(そそ)ぎ来る異様の霊感を浴び、
心身すこぶる爽快(そうかい)を覚(おぼ)えつつ、
世に珍しきこの霊光を凝視(ぎょうし)していた。・・・
こうした事実の体験後三日を経(へ)て山脇高女の建物
全部が「生長の家」の真理宣布機関たる光明思想普及会に
譲渡(じょうと)されたのであった。・・・
藤井のおばさんは、・・・しばしば「生長の家」の神話や、
神様の真理を聴くにおよんで、初めて藤井のおばさんは、
あの夜に校舎に映(えい)じた霊光燦然たる顕現が、
確かに、「生長の家」の神の御霊光であったにちがいないと
悟り、驚きながら筆者に以上の事実を事珍しく物語った
のであった。
(『生命の實相』頭注版 第34巻 233〜236頁 抜粋)

・「生長の家」の象徴の顕現

《  谷口先生が大阪の国民会館へお越しになったとき、
黙々(もくもく)として三年間誌友として道を求めて
こられたのみで、今まで誰にも説教せられたことの
なかったK氏が立ち上がって講演した。
この人は海事審判(かいじしんぱん)の弁護士をして
いる人であった。・・・
正義観念の強いK氏にとっては、事実上過ちがその方にある
側から弁護を頼まれると、断(こと)わるわけにはゆかない
し、引き受けた以上はその方を弁護しなければならないし、
この職業上の矛盾(むじゅん)に苦しんでいたので
あった。時にはその職業を辞(や)めてしまおうかと思う
ような時もあった。ところがK氏が「生長の家」の神想観
を行(ぎょう)じて、万事すべてが調和している大調和の
心境に入るようになってからは、紛争の正しくない側から
弁護を頼まれることがけっしてなくなったのであった。
類(るい)は類を招(よ)ぶ、こちらが大調和の心境に
なるとともに、K氏のところへ依頼に来る客は当然
弁護すべき側の正しい者ばかりになったのである。
(『生命の實相』頭注版 第34巻 68〜69頁 抜粋)


《  『生長の家』誌を執筆し出してから二年目のはじめ
の頃、急に私は詩を書きたい衝動(しょうどう)にかられて
自由詩を書いたのでありますが、それに何となく『甘露の法雨』
と題名をつけたくなったのであります。
それはあまり長文の詩でありましたので、雑誌一冊に載(の)
せるには頁の都合がわるかったので、その半分を次号に
まわして『天使の言葉』と云う題で発表しました。
ところが其の頃、神戸高等商船学校の教授だった
門脇観次郎(かどわきかんじろう)さんが、
定年で退職されました。・・・・
そして氏は、高等商船学校の教授でありましたから、海事
(かいじ)には専門的に明るいので海難審判
(かいなんしんぱん)の弁護士を開業せられたのであります。・
・・・・
そして「こんなに過(あやま)ちのある方の船主が弁護して
もらいに来るのは、自分自身の心のうちに自分の過ちを
自己弁護したい心があるからだ。
これから断じて自己弁護の心を捨てましょう。」
と決心されたのでした。
するとそれから後は、正しい側の船主からのみの弁護を
たのみに来るようになって、何事もしごとが順調にすらすら
と行くようになり、心の荷が軽くなって天空海濶
(てんくうかいかつ)と云うようなひろびろとした気持ち
になることが出来るようになったのであります。

心の荷が軽くなって、心が伸び伸びと楽しくなりますと、
病気が治(なお)ってしまいます。
門脇観次郎さんは、慢性中耳炎、慢性の胃潰瘍、糖尿病、
神経痛などの病気があったのでありますが、それが
悉(ことごと)く治ってしまったのであります。
門脇さんはあまり有りがたい感じがしましたので、神想観
をして神様にお礼を申し上げると共に、
「願わくは、生長の家の神様のお姿を拝(おが)ませて
下さいませ」とお願いしたのであります。
すると空中に、頂(いただ)きに冠(かんむり)を
かむっていられる聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)
のお姿がおあらわれになりました。
「ああ有りがたい。生長の家の神様は観世音菩薩様
(かんぜおんぼさつさま)であられるのか。
成る程、私は前から観音(かんのん)信仰で観世音菩薩様
をおまつりしていた。生長の家の教えに触れたのは、
この観世音菩薩の導きであるのかな。」
と思っていられましたが、尚(なお)、ハッキリした証拠
がつかめませんので疑問に思って私にたずねられた
ことがあります。そのとき私は門脇さんに、
「『生長の家』とは、『生』とは縦(たて)に『生(の)』
びる直線を象徴(しょうちょう))し、是(これ)は時間を
あらわし、『長』は横に『長(の)』びる直線を象徴して
是を空間とあらわし、『家』は『宇宙(いえ)』即ち
『宇宙(うちゅう)』をあらわす。
だから生長の家とは時間空間の交叉(こうさ)で出来、
無限生長の宇宙ということであり、『生長の家の大神
(おおかみ)』とは固有名詞ではない、宇宙の大神と
云う意味であり、宇宙に充(み)ち満(み)ちて
遍在(へんざい)したもう神は形はないけれども、
方便(ほうべん)(人をすくうためのテダテ)のために
方便法身(ほうべんほっしん)(宇宙にみちたもう法身
(真理のカラダ)の神が方便のために或るすがたをあらわし
たもの)とか、応化身(おうげしん)(相手に応じて神通力
であらわした姿)とか云う風(ふう)に、相手の信仰を
高めるために色々の姿で示現(じげん)(しめすために
あらわれる)したもうことがあるから、貴方は本来観音
信仰であるから、観世音の姿をもってあらわれたら貴方の
信仰心が深まるから、そう云う姿でおあらわれになった
のでしょう。」
と申し上げておいたのであります。

それから約四年たって、私は昭和九年八月二十九日
東京へ移転しました。到着したのはその翌日三十日
であります。・・・
ところで東京へ出て万教帰一運動を大きく展開するためには、
生長の家の万教帰一を標榜(ひょうぼう)する(しるし
としてかかげる)旗幟(はたしるし)をつくらねばならぬ
と云うので、そのマークを創(つく)ることになりました。
当時、帝展(ていてん)の彫刻部の審査員をしておられました
山根八春(やつはる)先生・・・・にお願いして万教帰一の象徴
になるマークを図案して頂きました。
それが唯今の日章旗の中に卐字(まんじ)及び星形の十字の
あるマークであります。
日章旗は神道(しんとう)をあらわし、卐字はキリスト教を
あらわし、日本の三大宗教を一つに帰一したことをあらわして
いるのであります。
このマークが七宝(しっぽう)の銀メダルになって、大阪の
生長の家連合会長のところへ数百個まとめて送られたので
あります。その時分、連合会長になっていられたのが此(こ)
の門脇観次郎さんでありました。
門脇観次郎さんは、この銀メダルになっているマークを
見ますと、「おや、このマークは何処(どこ)かで見た
ことがある」と思いました。
想出(おもいだ)して見ると、四年半ほど前に、門脇さんが
「生長の家の神様のお姿を拝(おが)なせて下さい」
と神想観中に念じたときに、空中に観世音菩薩のお姿が
あらわれたと云うことは、前に申しましたが、その観世音菩薩
の冠(かむ)っていられる冠(かんむり)の前方中心に
此のマークがついていたことを思出したのです。
それでハッキリ「生長の家の神様」は観世音菩薩である
ということがわかったのであります。・・・

ただ、真理は一つでなければならないから、万教は一つの
真理に帰一しなければならない、宗派争いをしている
ようなことでは人類は手をつないで平和に行く訳には
いかないから、各宗派そのままで改宗(かいしゅう)
しないでも、色々にわかれている表面の儀式や教義の
奥にある「真理は一つ」であると云う「実相」を
知らせて、各宗そのままで仲よく手をつなぐことの
出来るようにしたいという真理の啓蒙(けいもう)
運動としての雑誌『生長の家』を出したに過ぎない
・・・・
この運動は谷口個人でやっているつもりでしたが、
前に述べました経路(けいろ)で、ついに「此の
運動をやっているのは、わしである」
と云うように観世音菩薩が、生長の家のマークを
宝冠(ほうかん)の中央部につけて出現されるに
到ったのであります。
こうなりますと、私が生長の家の運動を起(おこ)して
いるつもりでしたが、実は「私」が生長の家の運動を
起しているのではない。観世音菩薩が生長の家の運動
を起していられるので、「私」と云うものは、それの
唯の喇叭(らっぱ)に過ぎなかったのだと云うことが
わかったのであります。
ですから「生命の實相』第一巻に於いて、「私は
教祖ではない」とハッキリと書いて置いたのであります。
・・・・

私は、地上の何(ど)の書物の受売りでもなく、地上の
誰からの相伝(そうでん)でもない、私は、あの姿を
あらわされた観世音菩薩に教えられて、唯の喇叭的
役目をしているに過ぎないのでありまして、その功績
も功徳も「私」にあるのではなく、悉(ことごと)く
観世音三十三身示現(しんじげん)の御はたらきに
あるのであります。》
(『新版 真理』第3巻 134〜141頁 抜粋)

《 神の言葉は理屈(りくつ)でもなく、理解でもなく、
ただ神の言葉であるからという理由だけで尊いのであった。
「神光あれと宣(のたま)いければ光ありき」
なぜ神は光あれと宣うのであるか、なぜ光あれと宣うたら
光が出現したのであるか、それは、理屈でも理解でもない。
「汝ら天地一切のものと和解せよ」ーー
なぜそうせねばならぬかな?
とは理論の問題ではない。合掌礼拝してその言葉を読んで
いるとき、自然に天地一切のものと和解している
自分を見出すのである。》
(『生命の實相』頭注版 第34巻 230頁)

ありがとうございます。



観音様に関する、過去の、縹様と志恩の会話の一部を再掲させていただきます。   (61723)
日時:2023年11月11日 (土) 21時24分
名前:志恩

トキ掲示板より
2020年7月8日(30313)より

志恩ー
生長の家の創始者は、浅草の観音様(金龍)だという説は、
ほんとうだと思っていらっしゃるそうですが。

縹(=tokumei)ー
 はいそれを信じておりまして、その証明に心血を注いできました。
 しかし、

本流の偉い先生に、

「浅草寺の観音様の冠のマークに、
生長の家のマークがついているなんてね、
そんなの夢で見た話しだから、嘘かほんとか分からないよ!
 大切なのは現実」
のような内容の事を言われたのです。

 末端の生徒である自分が信じていて、
『生命の實相』を推進する偉い先生がそんな事を言っていて、
そんな事を信じるあなたは、おかしい!みたいな叱り方で、
それを信じてない人が、どうして先生をしているのかなと、
今だったら思うのですが、ただ信じているこちら側が悪い姿勢で、
それを正さねばならない(夢より現実)というような指導を受けました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 縹(=tokumei)ー
谷口雅春先生も、
入龍宮幽斎殿とか、出龍宮顯斎殿 龍宮住吉本宮を建造されて、
生長の家の神は、龍が関係するようなのですね。
浅草寺も金龍の舞というのがありますね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
もっと前に遡りますが、縹様のご投稿文の一部です。
旧トキ掲示板
トーキングスティックボード
2883:縹:2014/02/19(水)
志恩様

 光輪卐十字架のマークは、その甘露の法雨を授けて下さった
観世音菩薩様の冠についていたマークですので、そのマークを
否定したのなら、『観世音菩薩讃歌』に書かれている観音様は、
どこの観音様のことなのでしょうか?

 ・・・私は以前から、雅宣先生の教えが、観音信仰でありながら、
「地球環境保護と世界平和と美術に関心があり、日本人よりも国際人を
養成する宗教」に似ている、と思っていたのですが、
生長の家にご縁のある観世音菩薩様は、浅草寺の観音様で、
浅草寺は、法華経のお寺です。

光輪卐十字架の卐の部分は仏教をあらわし、
雅春先生は、仏教でも龍樹菩薩出現以降の大乗仏教が
本当の仏教であると教えて下さっています。
法華経は大乗経典です。

 『観世音菩薩讃歌』は、
浅草寺の法華経の観音様が授けて下さった
『甘露の法雨』を不完全だと否定する内容になっている
経緯を持っているので、全く観音様の御経では無いように思います。
『観世音菩薩讃歌』が呼ぶ観音様は、一体どのような方なのでしょう?

自分のマークを否定する観音様、という事でもあります。


 そもそも観音経の内容が、
どんな災害時でも助けるという内容なのに
反対に、そのお経が読まれる所が災害に遭う事例が続いています。

 どうしたら、甘露の法雨に戻して戴けるのでしょうか。

2884:縹:2014/02/19(水) 12:50:35 ID:oeUx5MQw
ご覧下さっている方もおられるかも知れませんので、追伸させて戴きました。

もしかしたら、どうして私が「別の教団の観音信仰と似ている」という指摘を
何度も繰り返すのか、
「観音とは、宇宙の原理なので、関係ないではないか?」と、
理解して戴けないかも知れませんので、補足させて戴きますと、

呼ぶのは同じ観音菩薩様という名称でありながら、
なぜか、その団体も、傾向が物質主義的な内容になって行っているのです。

ですから、観音様であるから良いだろうと思っていると、
とんでもない世界へ連れて行かれる場合があるので、
気を付けたほうが良いと思うのです。

 特に、生長の家の観音様の冠のマークを否定する方の作られた
『観世音菩薩讃歌』は、どういった観音様なのか、不明です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

はうらひとひら様 (61724)
日時:2023年11月11日 (土) 21時36分
名前:志恩

以前、縹様と会話させていただいていた時は、
生長の家のマークのことや観世音菩薩様の件は
谷口雅春先生が、どこに書かれていらしたか、という点が
あいまいでありました。

しかし、はうら様は、よく見つけていらっしゃいますので、
信憑性がとても高いご発言だと存じました。

谷口雅春先生のお言葉ー
>心の荷が軽くなって、心が伸び伸びと楽しくなりますと、
病気が治(なお)ってしまいます。
門脇観次郎さんは、慢性中耳炎、慢性の胃潰瘍、糖尿病、
神経痛などの病気があったのでありますが、それが
悉(ことごと)く治ってしまったのであります。
門脇さんはあまり有りがたい感じがしましたので、神想観
をして神様にお礼を申し上げると共に、
「願わくは、生長の家の神様のお姿を拝(おが)ませて
下さいませ」とお願いしたのであります。
すると空中に、頂(いただ)きに冠(かんむり)を
かむっていられる聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)
のお姿がおあらわれになりました。
「ああ有りがたい。生長の家の神様は観世音菩薩様
(かんぜおんぼさつさま)であられるのか。
成る程、私は前から観音(かんのん)信仰で観世音菩薩様
をおまつりしていた。生長の家の教えに触れたのは、
この観世音菩薩の導きであるのかな。」
と思っていられましたが、尚(なお)、ハッキリした証拠
がつかめませんので疑問に思って私にたずねられた
ことがあります。そのとき私は門脇さんに、
「『生長の家』とは、『生』とは縦(たて)に『生(の)』
びる直線を象徴(しょうちょう))し、是(これ)は時間を
あらわし、『長』は横に『長(の)』びる直線を象徴して
是を空間とあらわし、『家』は『宇宙(いえ)』即ち
『宇宙(うちゅう)』をあらわす。
だから生長の家とは時間空間の交叉(こうさ)で出来、
無限生長の宇宙ということであり、『生長の家の大神
(おおかみ)』とは固有名詞ではない、宇宙の大神と
云う意味であり、宇宙に充(み)ち満(み)ちて
遍在(へんざい)したもう神は形はないけれども、
方便(ほうべん)(人をすくうためのテダテ)のために
方便法身(ほうべんほっしん)(宇宙にみちたもう法身
(真理のカラダ)の神が方便のために或るすがたをあらわし
たもの)とか、応化身(おうげしん)(相手に応じて神通力
であらわした姿)とか云う風(ふう)に、相手の信仰を
高めるために色々の姿で示現(じげん)(しめすために
あらわれる)したもうことがあるから、貴方は本来観音
信仰であるから、観世音の姿をもってあらわれたら貴方の
信仰心が深まるから、そう云う姿でおあらわれになった
のでしょう。」
と申し上げておいたのであります。<

志恩ー
しかし、谷口雅春先生は、観世音菩薩とは書いておられますが、
浅草の観音様が生長の家の神様だとは、書いておられません。
その点が、縹様のご意見と違うように私は思っておりますが、
はうら様は、どのようにお考えでしょうか。



志恩様 (61733)
日時:2023年11月12日 (日) 08時50分
名前:はうら ひとひら

志恩様
ありがとうございます。
いつも当掲示板で適切なご配慮いただきます事に
感謝申しあげます。

『観世音菩薩』様の件でありますが、私はその広大さの
あまり、よくわかりません。
ただ一度だけ、そのお姿をチラッと見た事があります。
『24時間365日』の個人相談の受付をやらせていただいて
間もなくですが、早朝の掃除の仕事を終え帰宅して、
何故か眠くなって、シューマンの「ミルテの花(献呈)」
を聴きながらウトウトとして眠ってしまった時、しばらく
して、「ミルテの花」で大太鼓が鳴り出した時、巨大な
かた(住吉の大神とすぐわかりましたが)が現れて、
「しっかりやれ」と言われました。それで初めて、私は
神から許可が得られたと思いました。
その時、その大神の側で手を振っている方がいらっしゃい
ました。それが『観世音菩薩』様でありました。

余談は別にして、観世音とは観自在であり三十三身に身の
姿を変じ給いて、衆生を済度し給う菩薩でありますから、
特定の場所や特定のお祀りしているところには、限定しない
と思っております。それは広大な滋門(じもん)であります。

《天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とは固有名詞
ではなく天球(てんきゅう)の御中(みなか)にまします
主(しゅ)なる神という内容を表す言葉である。》
(『生命の實相』頭注版 第12巻152頁)

に解釋が似ていると思います。

《 “超越的絶対者”は“絶対者”であるが故(ゆえ)に、
われらに語りかける事はあり得ない。
それ故に絶対者の慈悲(じひ)を体現(たいげん)した
ところの相対的に顕現(けんげん)する人格神、又は天使、
菩薩又は教祖が現れなければ、絶対者はその救済(きゅうさい)
を具体化する事は出来ない。・・・
天之御中主神が住吉大神として顕現しなければならない。》

(『白鳩』誌昭和48年3月号「14日の箴言(しんげん)」

《 第一義の神様は姿形は見えずして偏在(へんざい)
であり、宇宙到る処に、何処(どこ)にでも充満して
をられて、吾々の生命(いのち)となってをられる。
・・・・
第二義の神様は第一義の神様の無限の姿の一つの
化身(けしん)として現す。
例えば観世音菩薩とか、白髪の老翁(ろうおう)の
姿の神様というような方。・・・
第三義の神様は霊魂(れいこん)即ち霊魂(みたま)
の神。・・・
自然は第三の神様に属する。人間の心が和順(わじゅん)
すれば、自然環境も和順調和す。・・・
黴菌(ばいきん)も自然霊である。》

(『神ひとに語り給ふ』神示講義教の巻108.113.119頁)

ありがとうございます。




はうらひとひら様 (61739)
日時:2023年11月12日 (日) 11時02分
名前:志恩

早速にお返事くださいまして、誠にありがとうございました。

観世音菩薩様は、どこどこの観音様というふうに、
特定の場所の観音様ではないのですよね。


>観世音とは観自在であり三十三身に身の
姿を変じ給いて、衆生を済度し給う菩薩でありますから、
特定の場所や特定のお祀りしているところには、限定しない
と思っております。それは広大な滋門(じもん)であります。

《天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とは固有名詞
ではなく天球(てんきゅう)の御中(みなか)にまします
主(しゅ)なる神という内容を表す言葉である。》
(『生命の實相』頭注版 第12巻152頁)

に解釋が似ていると思います。<



生長の家のマークの色 (61973)
日時:2023年11月26日 (日) 11時02分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。
『生長の家のマーク』の色の事です。

色の識別には、一般的には、マンセル(Munsell)表色系の
表示が使用されます。

(1905年アメリカの美術教育者・画家の
アルバート・マンセルによって考案された。)
色の三属性によって物体色を表示する典型的な表色体系です。
日本工業規格(JIS)によるJIS標準色票もこれに準じています。
その他に塗料メーカの固有の色別もあります。
(例 DIC:大日本インキ化学工業 等)

少し横道にそれます。
コーポレートアイデンティティデザインというのがあります。
企業文化を構築し、特性や独自性を統一させた
イメージやデザイン、またわかりやすくメッセージを発信して、
社会と共有することで存在価値を高めていく、
企業戦略の一つで、その企業の魂のようなものです。

例えば、白色と黒色の表現

白色(マンセルN9.5等)コカコーラ社は、
赤地色に白色のCoca-Colaの文字色を、
「コカコーラ・ホワイト」と言っています。

黒色(マンセルN2.0等)スーパーコンピュータ
『富岳』のメーカ富士通は、
パソコン等の外枠の黒色を「フジツウコアブラック」
と言っています。

『生長の家のマークの色』ですが、
谷口雅春先生は次のようにご指定されました。

赤色(太陽・日章旗・神道)
DIC160
(マンセル9.5R6.0/16.9)

緑色(キリスト教・大八洲(日本国)青人草)
DIC362
(マンセル4.1GY5.8/7.8)

ご参考までに色調とマークの歪みを掲載いたしますが、
データ取り込みの関係で、図案が歪んでいたり、
色調も機材の関係(腕の関係)で、
正確さに欠けますこと、お許しください。

(寸法の入っているものは、星の八つの角の二辺の寸法が、
縦方向に対して、斜めの寸法の比率割合を示しております。)

ありがとうございます。


生長の家マーク (61983)
日時:2023年11月27日 (月) 00時18分
名前:志恩

はうらひとひら様がご指摘の通り、
最初の生長の家のマークは、
別のものに、変えられてしまっていますから、
最初のマークに、戻す、
ということは、大変重要なことだと、私も理解いたしますが、
はうら様のようなまともな感覚のお方が、いつか、上に立たれる
時が来れば、
それが、可能になることが、あるかと、考えております。

『生長の家』マークの変遷 (62039)
日時:2023年12月03日 (日) 13時05分
名前:はうら ひとひら


『生長の家のマーク』の変遷について、
解ります範囲ですが、記載させていただきます。

1.「昭和10年1月25日」発行の
「生命の實相』第一巻(黒布表紙の聖典で、
頭注版の第一巻・第二巻分が纏めてご教示されています。)
表表紙には、天界から三本の黄金の矢
(90年経過しても色褪(あ)せることなく、)
の光線が出て、地上を照射しています。
『甘露の法雨』には、「神は人間の光源(ひかりみなもと)
にして、人間は神より出でたる光なり」とあります。
『久遠天上理想國実現の神示』には
「高天原(たかあまはら)ー瑞穂(みずほ)の国
ー生長の家ーこの三つは三位(さんみ)にして一体である」
とご教示されており、それが想起されます。
裏表紙には、刻印のような重厚な深みをもった外形40mmの
『生長の家のマーク』が完全な図案(マーク)
で表示されています。
色は表紙色同様に、黒一色です。

2.この図案は「昭和10年2月1日」に制定をみた。
(正規のマーク)
(『新篇 聖光録』288頁:谷口雅春先生監修)

3.「昭和12年1月號」『生長の家』誌記載
「生長の家誌友徽章標準図』2頁(正規のマーク)
カラー図案で表示

4.「昭和53年6月」当時の聖使命会事務局長が、
『什一会員の色紙』を発注する度に、
中央のマークの色調が微妙に変化している事に気づき、
谷口雅春先生に生長の家のマークの色を確定して
いただきたいと、DIC(大日本インキ化学工業が制定した)
の印刷色調見本を添付してお願いされた。

谷口先生からのご返事は色の事より先に、
マークの図案に触れられて、

「中央の緑の星は大八洲(おおやしま)を顕しているので
あるから、八つの角の幅がすべて等しくならねばならないが、
これは斜めの部分の幅が、
縦と横の幅より狭くなっているから、斜めの方向も等しく
なるようにして下さい。」

とその色紙にメモ書きされて戻された。
それで、正規のマークが作成され、
その時、色も 緑: DIC 362    赤: DIC 160の
ご指定がありました。

5.「昭和53年11月21日」の出龍宮顕斎殿の建立時、
正規のマークが使用されました。

6.「昭和54年3月1日」発行『新篇 聖光録』
で正規のマークとして掲載(288頁)

7.「昭和53年11月22日」発行の『生長の家 五十年史』
292頁にも正規のマークで掲載。

8.「昭和56年3月」新しく聖使命会事務局長になった方が、
『什一会員の色紙』が元の歪んだ形状に戻っている事に気づいて、谷口清超先生にお聞きしたところ、

「昭和56年3月頃の理事会決定によって
【『生長の家』信徒徽章標準図】が決定されたので、
それに準拠するように」

との事でした。
添付しました図案は、不鮮明で申し訳ありませんが、
その時のものです。これには、色の指定がなされていますが、
4項目で色指定がなされ、それを知っている方は、
総裁、副総裁、事務局著の三名しかおりませんでしたので、
谷口雅春先生のご意志は、形状、色彩ともに
伝えられておりました。
それが、色彩はDIC指定が書いてありますが、
形状は歪んだままで、4項目の不自然な形に戻されて、現在に至っております。

ありがとうございます。



はうらひとひら様 (62045)
日時:2023年12月04日 (月) 09時58分
名前:志恩

(前略)

8.「昭和56年3月」新しく聖使命会事務局長になった方が、
『什一会員の色紙』が元の歪んだ形状に戻っている事に気づいて、
谷口清超先生にお聞きしたところ、

「昭和56年3月頃の理事会決定によって
【『生長の家』信徒徽章標準図】が決定されたので、
それに準拠するように」

との事でした。
添付しました図案は、不鮮明で申し訳ありませんが、
その時のものです。これには、色の指定がなされていますが、
4項目で色指定がなされ、それを知っている方は、
総裁、副総裁、事務局著の三名しかおりませんでしたので、
谷口雅春先生のご意志は、形状、色彩ともに
伝えられておりました。
それが、色彩はDIC指定が書いてありますが、
形状は歪んだままで、4項目の不自然な形に戻されて、
現在に至っております。<


志恩ー
生長の家のマークの変遷についてを、生長の家の初期の頃
のことから、調べてくださいまして、ありがとうございました。
全然知らないことでした。

思う事 (62107)
日時:2023年12月10日 (日) 11時21分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。

最近の事、この『生長の家のマーク』の件で投稿してから、
60代、50代、40代の方から相次いで連絡があり、
その意志・意思を引き継いで、
応援していきたいと言ってきました。
もし私(はうら)に何かあって、
発信出来なくなる事態が起っても、
継続して発信される事になりました。
昭和56年に理事会で歪んだマークが決定されてから
40年以上経過し、これを契機とし、
立教当時からご指導下さいます、
観世音菩薩様の強く、ふかい
慈悲の 思いを感じます。

《 生長の家の宗教運動は、その光明宣言の
第七條即ち結語の章に記述せるが如く、
「地上天国」即ち、地上に神の国を建設せんとすることが、
その立教の最期最終の目的としてあるのである。
地上に神の国を建設するとは世界に国際戦争も、
階級闘争も、家庭の争議も、病気も窮乏(きゅうぼう)
もなき平和大調和の天国的世界を実現することなのであって、
生長の家の世界「一」體(たい)の信仰が確立せらるれば
原子爆弾ごときはあっても無くても、
人類の「魂の飢餓」は救われ、
本来「争う心」が無くなるのであるから、
人類が原子爆弾の前に脅(おび)え戦(おのの)き
恐怖している必要などは更にないのである。》
(『新生の書』160.161頁』)

私達はその為の、再生、再建の為に尊い使命をもって
この場にいると思います。
これをマークの是正を再生・再建の第一歩の行動としたいのです。

申し添えておきたい事があります。

ある先達が平成27年(2015年)3月現総裁に
『公開質問書』を出しましたら、
すぐさま、当時の理事長から電話で
「会員権」を剝奪(はくだつ)すると云ってきました。
そしてすぐに、各組織(相愛会、白鳩会、等々)
の規則を変えて、『会員は本部の意図、方針に従って
行動する事』とほぼ一年にわたって、
毎月文章で会員全員に渡しました。
(裏返せば、『本部の意図、方針に反する行動は、罰する』ということです。)
私はそれによって、当時の教区相愛会事務局長から、
その先達と誌友会を始めた次の月に、
「総裁の批判をしているから、講師の出講停止にする。」
と一方的に、電話で云われました。
何一つ申し開きも出来ず、文章でその主旨をください、
と言っても来ない。
今現在も出講停止は続いています。

ところがその事務局長が6月19日 
44歳で突然なくなりました。
謹んでご冥福をお祈りすると共に、
奥様やまだ幼いお子様の事を思う時、
胸が張り裂けそうになりました。
理由はご本人しかわかりませんが、
信仰と組織の板挟みがあった事は、容易に想像がつきます。

もうこのような事はたくさんです。

これから私達が、『生長の家のマーク』を正規にする為に、
いろいろな提案をした時に、妨害をしないでほしい。
それは信徒の自浄作用から出たものだからです。
もしあまりにもその妨害が酷(ひど)い時には、
外部の力(国関係)の力もかりるつもりです。
つまり霊界からのご指導と、
現象界からの自浄作用も使って、
この地上天国建設の事行を進めた いのです。

余り世間に恥じをさらしませんように、
切に切にお願いいたします。

《 虚説(きょせつ)を排撃(はいげき)すること
いよいよ明瞭(めいりょう)であればあるほど、
真説(しんせつ)は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。・・・
どうかみなさんも虚説(ないもの)に対しては和解する事なく、
どこまでも「サタンよ去れ」の態度で進んでいただきたく、
人間に対したは、
その表面の包み(罪)を見ないで、
その罪なき完全なる実相を見て、その罪を赦(ゆる)す
(その罪を本来無いものと見て捨てる)
ことにしたいのであります。》
(『生命の實相』頭注版第14巻 64頁)

次回からマークの真贋の簡単な見分け方と、
具体的な提案をしていきたいと思います。

ありがとうございます。

はうらひとひら様 (62126)
日時:2023年12月11日 (月) 04時31分
名前:志恩

(はうら ひとひら様ー)
>最近の事、この『生長の家のマーク』の件で投稿してから、
60代、50代、40代の方から相次いで連絡があり、
その意志・意思を引き継いで、
応援していきたいと言ってきました。
もし私(はうら)に何かあって、
発信出来なくなる事態が起っても、
継続して発信される事になりました。
昭和56年に理事会で歪んだマークが決定されてから
40年以上経過し、これを契機とし、
立教当時からご指導下さいます、
観世音菩薩様の強く、ふかい
慈悲の 思いを感じます。

《 生長の家の宗教運動は、その光明宣言の
第七條即ち結語の章に記述せるが如く、
「地上天国」即ち、地上に神の国を建設せんとすることが、
その立教の最期最終の目的としてあるのである。
地上に神の国を建設するとは世界に国際戦争も、
階級闘争も、家庭の争議も、病気も窮乏(きゅうぼう)
もなき平和大調和の天国的世界を実現することなのであって、
生長の家の世界「一」體(たい)の信仰が確立せらるれば
原子爆弾ごときはあっても無くても、
人類の「魂の飢餓」は救われ、
本来「争う心」が無くなるのであるから、
人類が原子爆弾の前に脅(おび)え戦(おのの)き
恐怖している必要などは更にないのである。》
(『新生の書』160.161頁』)

私達はその為の、再生、再建の為に尊い使命をもって
この場にいると思います。
これをマークの是正を再生・再建の第一歩の行動としたいのです。<

志恩ー
はうらひとひら様が上記のことを、トキ掲示板へ
書かれましたら、
”60代、50代、40代の方から相次いで連絡があり、
その意志・意思を引き継いで、応援していきたいと
言ってきました。”
とは、驚きです。はうら様の書かれたことを読まれて、
それをしっかりと理解されたお方が、いらした
ということですものね。


(はうらひとひら様ー)

>申し添えておきたい事があります。

ある先達が平成27年(2015年)3月現総裁に
『公開質問書』を出しましたら、
すぐさま、当時の理事長から電話で
「会員権」を剝奪(はくだつ)すると云ってきました。
そしてすぐに、各組織(相愛会、白鳩会、等々)
の規則を変えて、『会員は本部の意図、方針に従って
行動する事』とほぼ一年にわたって、
毎月文章で会員全員に渡しました。
(裏返せば、『本部の意図、方針に反する行動は、罰する』ということです。)
私はそれによって、当時の教区相愛会事務局長から、
その先達と誌友会を始めた次の月に、
「総裁の批判をしているから、講師の出講停止にする。」
と一方的に、電話で云われました。
何一つ申し開きも出来ず、文章でその主旨をください、
と言っても来ない。
今現在も出講停止は続いています。

ところがその事務局長が6月19日 
44歳で突然なくなりました。
謹んでご冥福をお祈りすると共に、
奥様やまだ幼いお子様の事を思う時、
胸が張り裂けそうになりました。
理由はご本人しかわかりませんが、
信仰と組織の板挟みがあった事は、容易に想像がつきます。

もうこのような事はたくさんです。

これから私達が、『生長の家のマーク』を正規にする為に、
いろいろな提案をした時に、妨害をしないでほしい。
それは信徒の自浄作用から出たものだからです。
もしあまりにもその妨害が酷(ひど)い時には、
外部の力(国関係)の力もかりるつもりです。
つまり霊界からのご指導と、
現象界からの自浄作用も使って、
この地上天国建設の事行を進めた いのです。

余り世間に恥じをさらしませんように、
切に切にお願いいたします。

《 虚説(きょせつ)を排撃(はいげき)すること
いよいよ明瞭(めいりょう)であればあるほど、
真説(しんせつ)は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。・・・
どうかみなさんも虚説(ないもの)に対しては和解する事なく、
どこまでも「サタンよ去れ」の態度で進んでいただきたく、
人間に対したは、
その表面の包み(罪)を見ないで、
その罪なき完全なる実相を見て、その罪を赦(ゆる)す
(その罪を本来無いものと見て捨てる)
ことにしたいのであります。》
(『生命の實相』頭注版第14巻 64頁)

次回からマークの真贋の簡単な見分け方と、
具体的な提案をしていきたいと思います。<


志恩ー
大先輩の元本部講師で、その後、地方講師となられてご活躍されていらした
お方が、教団に質問したといいいますか、疑問の言葉を述べたら、
即、地方講師の役職を、解かれたお方がいらしたことは、よく存じて
おりますが、はうら様も 地方講師でいらっしゃるそうですが、
今現在も、出講停止は続いていますとのこと、
雅宣様に絶対服従でないと、そのような処分が下るのですね。
誠にも厳しく恐ろしい北朝鮮もどきの現実です。

生長の家のマークの見分け方 (62313)
日時:2023年12月24日 (日) 21時04分
名前:はうら ひとひら


・『生長の家のマーク』の正規品でない
見分け方について

添付いたしました図のように、
横の卐の上端の線をたどっていった時に、
その線上に接するように縦の星の凹みが接していれば、
斜めの星形の幅が、縦の星形よりも狭くて、歪んでおります。
正規品でない事を示しております。

・生長の家のマークをつけて顕われ給いし、
「観世音菩薩」について

《 ・・・・ロマン・ローランの著述『ジャン・クリストフ』
に出てくる「神」に対して、・・・・

 そしてもう一度ロマン・ローランの此の作の一節を
読み返して見て吾々も、
“生命”の一兵卒(いっぺいそつ)として“無”を征服し、
ニセモノを討(う)ち破って、實相の
“完全生命の世界像”を現実に打ち建(た)て
なければならない使命感に駆(か)り立てられる
のである。・・・・

しかしロマン・ローランの神のように
住吉大神はわたしに
「お前は打ち負かされない神の軍隊に属している。
このことを忘れずに死んだ後まで戦え」
といっていられる声がきこえるのである。
 それで自分の體(からだ)が蠟燭(ろうそく)のように
“光”を発しながら焼きつきるまで戦っているのである。
しかしこのロマン・ローランの神は
“主”なる神でないことに注意しなければならない。
この神は「私は主(しゅ)ではない」といっている。
“主”なる神とは“実在の神” “実相の神” 
“全(すべ)ての総(すべ)てなる神” のことである。
“実相の世界” には戦いはないのである。
そこは“住吉の世界”であり、“極楽世界”であり、
“無量寿(むりょうじゅ)の世界”であり、
“宝樹華果(ほうじゅけか)無限の龍宮界”であり、
不自由な“物質的存在”の無い世界であり、
円融(えんゆう)自在の世界であるのである。・・・・

私が“生長の家”誌を創刊して、
“自分は蝋燭のように人類を照しながら燃え尽(つ)きる
まで戦うのだ”という意味を創刊号に書いたとき、
私は住吉大神の人類光明化の火と共に燃える
決意をしたのであった。・・・・

つまり此(こ)の神は“無”に対する“生命の神”
として相対的に顕現(けんげん)していられる神である
ということである。
それは阿弥陀如来(あみだにょらい)と
観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)との関係にも似ている。
阿弥陀如来は法身(ほっしん)として、
また尽十方(じんじっぽう)無礙光(むげこう)如来として、
戦いを超越する久遠の實在者として、
常楽平和の極楽世界にましますのである。
しかしその阿弥陀如来の慈悲(じひ)の化身(けしん)
としてあらわれ給(たま)える観世音菩薩は
“無”と戦う神であり、“仮妄(けもう)”を
破砕(はさい)する刀段々壊(とうだんだんえ)の
戦力であり、非存在のクセに存在の虚像(きょぞう)を
あらわす、“罪”と“病”と“死”の暗黒を
絶滅(ぜつめつ)する「實相より延長し出で
たる光」であるのである。

この場合、阿弥陀如来は久遠常楽完全円満不動不滅の
実相世界の本尊(ほんぞん)であり、
光源であり、観世音菩薩はその光源より出で給える
“無を照らす光”なのである。
“無”と相(あい)対立して戦う光であると言えば、
相対的存在のように観(み)えるのであるけれども、
その相対の相(すがた)の中に絶対者の慈悲と智慧とが、
“靜(せい)”の本体から出でた、現象界の
“非実在(にせもの)”の罪と病と死と貧窮(ひんきゅう)
と不幸とを“本来の無”にまで消滅(しょうめつ)
せしめんがために真理の炬火(きょか)をもって
世を照らし給う“天使(てんのつかい)”
であらせられるのが観世音菩薩であらせられるのである。

その観世音菩薩が生長の家の本尊神(ほんぞんしん)であり、
その観世音菩薩の使命を分(わか)ち
享(う)けて立つ“虚無(きょむ)”を克服(こくふく)
すべく集まった諸菩薩(しょぼさつ)が
吾々生長の家の信徒であるのである。》

(現代漢字、現代ひらがなを一部使用させていただきました。)(『聖道(しょうどう)へ』(増補版)77.320〜323頁)

ありがとうございます。

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はうらひとひら様 (62317)
日時:2023年12月25日 (月) 05時59分
名前:志恩

はうらひとひら様
生長の家のマークの見分け方 (今回のはうら様のテーマ)
(62313)

>・『生長の家のマーク』の正規品でない
見分け方について
(略)<

志恩ー
生長の家のマークが正規のものと変わってしまっていること、
はうらひとひら様がご指摘下さらなければ、気付かないことでした。

大事なことを教えてくださいましたこと、感謝申し上げます。
今年は、思いがけず、はうら様のような優秀なお方がトキ掲示板に
ご投稿くださるようになりまして、トキ掲示板も重厚な掲示板に
なったと深謝申し上げます。

年末になりました。ますますお元気でお過ごしくださいませ。
そして、来年も、時々でも、いいですから、またご投稿ください
ますようにトキ掲示板の一投稿者として期待いたしております。
今後ともよろしくご教授くださいますようお願いいたします。


出来るところからやっていきましょう。 (62376)
日時:2023年12月30日 (土) 15時13分
名前:はうら ひとひら

『生長の家のマーク』のスレッドの場所をいただいたのは、
令和5年9月18日ですが、多くの皆様に支えられまして、
無事年を越す事が出来ます事に、感謝申しあげます。

昨日ある思いが沸々といたしました。
観世音菩薩様の思いで「この『生長の家のマーク』
が正規のものにもどされれば、生長の家の再生、再建が出来る」
という思いでした。
再生はまた済世(さいせい)でもあります。
社会が、立教時の『生長の家』の理念・実施・行為を
求めているのです。

《 「甘露の法雨」というのは、「法華経」の
“普門品第二十五”という一章を、ここだけを独立經として
“観音經”と普通言われていますが、
その観音經の中に観世音菩薩が「甘露の法雨を澍(そそ)ぎ
給いて煩悩の焔(ほのお)を滅除し給う」と書かれている
一節があるのであります。

すなわち一切衆生の濟度(さいと)の為に観世音菩薩が
「甘露の法雨」を注ぎ給うたのです。
それは「甘露の法雨」と言っても、
物質の雨ではないのでありまして、「法雨」即(すなわ)ち
「真理の雨」であります。
このように観世音菩薩が、真理の言葉の雨を注ぎ給うて
煩悩の焔を滅除して衆生を濟度し給うということが、
「法華經」に書いてあるのでありますが、
その真理のコトバが現実化して茲(ここ)に現れて来たのが
この聖經『甘露の法雨』であります。

生長の家の本尊は、佛教では観世音菩薩であると
いつも申し上げているのでありますが、
この観世音菩薩が「甘露の法雨」を注ぎ給うて
人類救済のために真理をお傳(つた)えになりました
其(そ)の真理のコトバが書かれているのが
この聖經『甘露の法雨』であります。》

(『新講「甘露の法雨」解釋』 11頁)

その観世音菩薩様が正規の『生長の家のマーク』
にもどされることを強く切に望まれているのです。

これから私達は、生長の家の実相哲学に触れさせて
いただいた皆様と共に、これを正規のものに戻す事を通じて
それを切っ掛けとして、生長の家の再生、再建に向かいたい
と思います。その実践方法をいろいろ提案させていただき、
また皆様からご提案をいただきながら、
出来る所から、一つ一つ着実に進み実行していきたいと
思います。(僭越ではありますが、お許しください。)

・第一段階であります。
(思い着くままにのべさせていただきます。)
皆様もどうぞご提案お願い申しあげます。

1. 生長の家にご縁のある皆様に、『生長の家のマーク』
の現状品と、それを正規品にもどすために、お知らせをする。
(チラシを作製して、一人が二人にお知らせする。
その二人の人の一人が、また二人にお知らせする。
ネズミ算的手法でふやしていく)
啓蒙期間です。

当座チラシ等の資料は、こちらで用意出来ます。

2.『マークの委員会』を作り、今後、
全ての『生長の家のマーク』を正規品にする為に、
費用、方法、等を検討しそれを実施する方策を考え、
皆さんに知らせる。
委員は自薦、他薦を問はないが、その為の準備室を
2〜3名でたちあげる。
(出席者には、日当をお支払いする。少額と思いますが。
打ち合わせは、オンライン等でもできます。)


3.1項のチラシ情報の作成や、送料や、
2項の委員の為の日当等の捻出の為、
クラウドファンディング(多くの方から賛助金・
支援金を募集する方法)を立ち上げる。)
一口千円程度とする。

この時、必ず監査人をおいて、透明性を保つ。
振込口座が必要であれば、こちらで用意出来ます。

4.紙レベルでよいので、正規のものに置き換えられるものは、
紙を貼ったりして、置き換えていく。
とにかく行動する事が必要です。

どうぞ宜しくお願い申しあげます。

本年は大変お世話様になりまして、ありがとうございました。
明くる年が、皆様にとりまして、輝かしい日々であります事を祈念いたします。

ありがとうございます。

感謝 合掌 はうら ひとひら 拝


はうら ひとひら様 (62384)
日時:2023年12月31日 (日) 08時52分
名前:志恩

(はうら ひとひら様ー)
出来るところからやっていきましょう。 (今回のテーマ)


>『生長の家のマーク』のスレッドの場所をいただいたのは、
令和5年9月18日ですが、多くの皆様に支えられまして、
無事年を越す事が出来ます事に、感謝申しあげます。

昨日ある思いが沸々といたしました。
観世音菩薩様の思いで「この『生長の家のマーク』
が正規のものにもどされれば、生長の家の再生、再建が出来る」
という思いでした。
再生はまた済世(さいせい)でもあります。
社会が、立教時の『生長の家』の理念・実施・行為を
求めているのです。

《 「甘露の法雨」というのは、「法華経」の
“普門品第二十五”という一章を、ここだけを独立經として
“観音經”と普通言われていますが、
その観音經の中に観世音菩薩が「甘露の法雨を澍(そそ)ぎ
給いて煩悩の焔(ほのお)を滅除し給う」と書かれている
一節があるのであります。

すなわち一切衆生の濟度(さいと)の為に観世音菩薩が
「甘露の法雨」を注ぎ給うたのです。
それは「甘露の法雨」と言っても、
物質の雨ではないのでありまして、「法雨」即(すなわ)ち
「真理の雨」であります。
このように観世音菩薩が、真理の言葉の雨を注ぎ給うて
煩悩の焔を滅除して衆生を濟度し給うということが、
「法華經」に書いてあるのでありますが、
その真理のコトバが現実化して茲(ここ)に現れて来たのが
この聖經『甘露の法雨』であります。

生長の家の本尊は、佛教では観世音菩薩であると
いつも申し上げているのでありますが、
この観世音菩薩が「甘露の法雨」を注ぎ給うて
人類救済のために真理をお傳(つた)えになりました
其(そ)の真理のコトバが書かれているのが
この聖經『甘露の法雨』であります。》

(『新講「甘露の法雨」解釋』 11頁)

その観世音菩薩様が正規の『生長の家のマーク』
にもどされることを強く切に望まれているのです。

これから私達は、生長の家の実相哲学に触れさせて
いただいた皆様と共に、これを正規のものに戻す事を通じて
それを切っ掛けとして、生長の家の再生、再建に向かいたい
と思います。その実践方法をいろいろ提案させていただき、
また皆様からご提案をいただきながら、
出来る所から、一つ一つ着実に進み実行していきたいと
思います。(僭越ではありますが、お許しください。)

・第一段階であります。
(思い着くままにのべさせていただきます。)
皆様もどうぞご提案お願い申しあげます。

1. 生長の家にご縁のある皆様に、『生長の家のマーク』
の現状品と、それを正規品にもどすために、お知らせをする。
(チラシを作製して、一人が二人にお知らせする。
その二人の人の一人が、また二人にお知らせする。
ネズミ算的手法でふやしていく)
啓蒙期間です。

当座チラシ等の資料は、こちらで用意出来ます。

2.『マークの委員会』を作り、今後、
全ての『生長の家のマーク』を正規品にする為に、
費用、方法、等を検討しそれを実施する方策を考え、
皆さんに知らせる。
委員は自薦、他薦を問はないが、その為の準備室を
2〜3名でたちあげる。
(出席者には、日当をお支払いする。少額と思いますが。
打ち合わせは、オンライン等でもできます。)


3.1項のチラシ情報の作成や、送料や、
2項の委員の為の日当等の捻出の為、
クラウドファンディング(多くの方から賛助金・
支援金を募集する方法)を立ち上げる。)
一口千円程度とする。

この時、必ず監査人をおいて、透明性を保つ。
振込口座が必要であれば、こちらで用意出来ます。

4.紙レベルでよいので、正規のものに置き換えられるものは、
紙を貼ったりして、置き換えていく。
とにかく行動する事が必要です。

どうぞ宜しくお願い申しあげます。<

志恩ー
生長の家のマークが、正規品とは別物に変更されて
しまっていたことは、はうら様が教えてくださるまで
私は、気が付きませんでした。

はうら様のお考えでは、生長の家のマークは、形が
変わった、ということだけではない。

>観世音菩薩様の思いで「この『生長の家のマーク』
が正規のものにもどされれば、生長の家の再生、再建が出来る」
という思いでした。
再生はまた済世(さいせい)でもあります。
社会が、立教時の『生長の家』の理念・実施・行為を
求めているのです。<

ということで、上記に、正規のマークに戻すことが、
生長の家の再生 (済世)のきっかけとなることを述べておられます。
ただ考えているだけでなく、できることから小さな一歩を踏み出そう
と、提案されておられます。

活動します。 (62554)
日時:2024年01月08日 (月) 10時24分
名前:はうら ひとひら


『生長の家のマーク』のことは
『奇蹟を生ずる実相哲学』上巻の133〜138頁にも
記載があります。

《 生長の家の信者の中に色々の種類の芸術家・
美術家がいるのでありますが、その中で勝れたる彫刻家で、
当時政府の経営している帝展という展覧会の
彫刻部の審査員をしている山根八春先生にお願いして、
生長の家の万教帰一のシンボルになる印(しるし)を
考えてくれと私は頼みました。
それで、その山根八春先生は七種類のマークの図案を
拵(こしら)えて、私の所へ持って来られました。
七つのマークの中でこのマークが一番いいから、
これにしようと私は決定いたしました。

さて、その本部から見本が送って来られたマークのバッチ、
それを門脇観次郎さんが御覧になって、
「オヤ、このマークは何時か見たことがあるぞ。
大分前に見たがなあ』と考え出されまして、
生長の家の神様はどんな神様かお姿を拝ませて下さいと、
四年前に祈った時に観世音菩薩が姿を表わされたが、
その観音様は冠(かんむり)を被(かぶ)っておられたが、
冠の真中にこれと同じマークがついておったということを
思い出されたのであります。
それで門脇観次郎さんは、生長の家の神様として
出現せられた観音様は、あのマークが人間界に現れる迄の
四年前に、巳(すで)にあの生長の家のマークを
着(つ)けておられたのだから、
矢っ張り観世音菩薩は本当に生長の家の神様だと、
こう感じたのであります。

この神秘的体験によりまして、何が分るかと言いますと、
人間界にあるいは現象界に現れているところの出来事は、
巳に“霊の世界”あるいは“心の世界”に
先(ま)ず作られたものが、それが形に映(うつ)って
来るのであって、現実世界に先立つ靈の世界、
心の世界というものがあるのだということを
現しているのであります。

だから我々は現象世界又は現実世界を善くしようと思っても、
その物質と見えている現象ばかり追いかけておって、
心の方をおろそかにしておったらどうにも
現象世界はうまく行かないのであります。
地上に於いて何事にても成就しようと思ったならば、
心の世界に於いて善きものを描かなければならない
というわけであります。》

(『奇蹟を生ずる実相哲学』上巻 136〜138頁)

私(はうら ひとひら)は下記添付しました、
マークの資料を今月から、毎月通信文を送付している
数十名の方に送って『生長の家のマーク』を
正規品に戻すための、活動をしてまいります。

皆様もどうぞよろしくお願い申しあげます。

画像はクリックすると拡大します。



はうら ひとひら様 (62560)
日時:2024年01月09日 (火) 05時39分
名前:志恩

(はうら ひとひら様ー)
>『生長の家のマーク』についてスレッドを立ち上げさせて
いただきますこと、感謝申しあげます。<

志恩ー
お正月明けになりました。
はうらひとひら様は、活動を開始されまして、心強く存じます。

はうら様が立てられたここの、親スレッドの主旨は、
最初のスレッド(61091)に、
以下のように、はうら様が、書かれておられるとおりです。

(はうら様ー)
>現在使用されている『生長の家のマーク』は
本部であれ、総本山であれ、地方の教化部であれ、什一会員証
としての色紙のマークであれ、霊牌(れいはい)に冠された
マークであれ、そのほとんどが、理念としての正規の
マークではないという事である。
(形状と色彩)

その為、『生長の家』が分裂し、凋落(ちょうらく)し、
それを象徴するように、竹島の問題、尖閣諸島
(せんかくしょとう)問題、北方領土問題等が起っているという。
それは『生長の家のマーク』で中央に八角形の緑色のマークが
ありますが、これは十字(キリスト教)の四両端に切り込みを
入れて、八角の星の象をしているが、八角は大八洲
(おおやしま)の象徴であり、大八洲は日本の事であり、
宇宙の中心座に日本が位置して、万教を一つの中心に帰一
しているという象徴である。その大八洲が変形されたまま
現在に至っております。

先ず、この事実を知っていただき、それからどうしたら、
正常な理念のマークにもどせるか、を皆様と共に考えたいのです。<


志恩ー
それで、はうらひとひら様は、この件を、諦めずに、今年こそ
生長の家のマークを正常なマークに戻したいというお考えの元、
活動をスタートされたのですね。

(はうら様ー)
>私(はうら ひとひら)は下記添付しました、
マークの資料を今月から、毎月通信文を送付している
数十名の方に送って『生長の家のマーク』を
正規品に戻すための、活動をしてまいります。
皆様もどうぞよろしくお願い申しあげます。<


ありがとうございます。

大八洲(日本国)外伝 (62637)
日時:2024年01月14日 (日) 14時29分
名前:はうら ひとひら


あのアインシュタインの有名な説についての異説です。
裏が取れているわけでもなく、
もしかしたら学者さんの机上の空論か
もしれませんし、ましてや尊師の論述に異を唱える
ものでもない事を初めにお断りしておきます。
箸(はし)休め、テイータイムの一時として聞き流して頂ければ、嬉しいです。(誰が言ったかではなく、
その内容を吟味すべきであると思った次第です。)

《 世には大蔵経(だいぞうきょう)を初めより終りまで
悉(ことごと)く読破し、その一々(いちいち)の
言句(ごく)の考証、由来、解釋、字義(じぎ)等詳細を
極めながら、実際生活にそれを応用する段になると、
用不者(やくにたたぬ)、病気の問題一つも解決し得ないで、
右往左往(うおうさおう)する佛教学者もいる。
だから現在の寺院佛教は衰退してしまって、
徒(いたづ)らに葬式屋と化し、諸方の佛教大学の教授も
生徒も概(おおむ)ね字義詮索(じぎせんさく)の
シミと化して了(しま)っている。》

(一部現代語等使用いたしました。)
(『無門関解釋』 63頁)

昭和九年頃のことであった。
大阪に熱心な生長の家の信徒で、
生長の家誌友連合会の会長をしていた
門脇観次郎という人がいた。
この人は当時の神戸高等商船学校の教授であった。
熱烈な「法華経』の信仰をもっていた。

(『生命の實相』頭注版 68頁)
(『新版 真理』134.135.139.141頁)

また田中智学(ちがく)について日蓮主義を学んだ。
(裏が取れていません。)

(田中智学:国柱会(こくちゅうかい)創設者。
日本仏教における日蓮の妙法蓮華経(法華経)
至上主義の佛教思想を体系化した一人。
 日本書紀の「八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)にせしむ」、
から「八紘一宇(はっこういちう)」を唱え
当時の軍部に利用された。
高山樗牛(ちょぎゅう)、宮沢賢治、石原莞爾(かんじ)など熱心な信徒が多かった。
血盟団の行動の元ともなった。)

門脇氏は生長の家に入信前は、
慢性中耳炎、慢性胃潰瘍、糖尿病、神経痛を患っていたが、
『生命の實相』を拝読して病がすべて消えてしまった。
同時に『法華経』の意味が一層詳しく判った。
特に普門品(ふもんぼん)第二十五にある観世音菩薩の
功徳が詳しくわかり、観音信仰をして、
自宅に観世音菩薩を祀って堅信(けんしん)を得られた。

或る日、神想観をして『生長の家の神様の相(すがた)
を拝ましてください」と熱心に祈り、
空中に観世音菩薩像が現れた。
このことで門脇氏は住吉村に尊師を訪ねて意見を求められた。

そして生長の家のマークが地上にできた四年前に
このマークが観世音菩薩の頭上の宝冠の中央に
この神の理念の象徴である印、大宇宙を包含し、
万教帰一を表現する神秘な力をもつ
『生長の家」のマークが出現したのを確認されている。

(『聖經 甘露の法雨」は上記の「法華経」普門品第二十五
に由来している。)
(『新講 『甘露の法雨』解釋 4頁)

《 世界の未来は進むだけ進み、
その間幾度も争いが繰り返され、最後に戦に疲れる時がくる。
その時人類は必ず誠の平和を求めて世界的盟主(めいしゅ)
をあげねばならぬ時がくる。
この世界盟主なるものは、武力や金の力ではなく、
凡(あら)ゆる国の歴史を抜き超えた最も古く
又尊い家柄でなくてはならぬ。
世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。
それはアジアの高峰(こうほう)日本に立ち戻らねばならぬ。
吾々は神に感謝する。
天が吾々に日本という尊い国を作って置いてくれたことを。》

上記は、世界最高の知性だと称(い)われている
相対性原理の発見者たる最高の科学者にして哲学者である
アインシュタイン博士の意見である。

(《秘められたる神示』 170頁)

ここから以降は裏が取れていません。

(視点連載73『視点・特別編』
【アインシュタインと日本】
中澤英雄:東京大学大学院教授寄稿

要旨
アインシュタインは親日家であるが、
日米開戦の前年の昭和15年に、
改造社社長の山本実彦がプリンストンの
アインシュタインを訪れた時、山本に
「日本人は正直でもあるし、親切でもあるが、
国家的に仕事をする時はあまりにもかけ離れたことをする。
そのコントラストがひどすぎる。
なぜ国として動く時そんなにも他の国々に嫌われる様な
ことをしなければならないのか」と。
だから、アインシュタインが、
日本が「世界の盟主」になる事を期待するはずはない。

紆余曲折(うよきょくせつ)があるが、
ドイツ人シュタインがその原案のようなものを
1887年海江田信義子爵(西郷隆盛や大久保利通の友)
にウイーンのシュタインのもとで憲法に関する講義をした時に、
したとされている。
しかしそのなかに世界の盟主という言葉は
なかったという。

その「世界盟主論」を唱えたのは、
田中智学であり、神武天皇の建国神話と
日蓮の預言とを結びつけて、
シュタイン(ローレンツ・フォン・シュタインではなく)
アインシュタインの預言として世に広めたという説である。

《 島々の名は略しますが、最初お生みになった一群の島が
大八洲(おおやしま)と申しまして、
現在の日本の諸島でこれが世界国土の中心生命地帯で、
喩(たとえ)えて云えば細胞核のような所であります。》

(『古事記と日本国の世界的使命』34頁 光明思想社刊行)
(『生命の實相』神道篇)

尊師は先の戦争は、人類の自壊作用であるとし、
日本がキリストのように磔(はりつけ)にされながら、
アジアの民族の解放にただ一人立ち向かったとされています。

ここは現象を超えて霊的に見ないと、
光と闇は切り分けられないと思います。

誤解のされやすい文面ですが、皆様のご指導の程お願いいたします。(こんな説もありましたという亊で)

ありがとうございます。


はうらひとひら様   (62658)
日時:2024年01月15日 (月) 05時09分
名前:志恩

仏教に関することにも含蓄の深い はうら様でいらっしゃいます。
アインシュタインが親日家だったことは、谷口雅春先生も
書いておられましたから存じておりますが、
上記に はうら様が、書かれたことにつきましては初耳でした。

(アインシュタインの名言より:
「人の価値とは、その人が得たものではなく、
その人が与えたもので測られる。」)


生長の家のマークにかかわる重要人物である門脇氏に関する
ことも、ちゃんと、生長の家の著書に書いてあるのですね。

いろいろと教えてくださって、ありがとうございます。


>門脇氏は生長の家に入信前は、
慢性中耳炎、慢性胃潰瘍、糖尿病、神経痛を患っていたが、
『生命の實相』を拝読して病がすべて消えてしまった。
同時に『法華経』の意味が一層詳しく判った。
特に普門品(ふもんぼん)第二十五にある観世音菩薩の
功徳が詳しくわかり、観音信仰をして、
自宅に観世音菩薩を祀って堅信(けんしん)を得られた。

或る日、神想観をして『生長の家の神様の相(すがた)
を拝ましてください」と熱心に祈り、
空中に観世音菩薩像が現れた。
このことで門脇氏は住吉村に尊師を訪ねて意見を求められた。

そして生長の家のマークが地上にできた四年前に
このマークが観世音菩薩の頭上の宝冠の中央に
この神の理念の象徴である印、大宇宙を包含し、
万教帰一を表現する神秘な力をもつ
『生長の家」のマークが出現したのを確認されている。

(『聖經 甘露の法雨」は上記の「法華経」普門品第二十五
に由来している。)
(『新講 『甘露の法雨』解釋 4頁)<



親日家だったことでも有名なアインシュタイン博士は、
人なつっこい、こんな愛らしいお顔をされたお方だったんですね。

地上のマークの図案者 (62973)
日時:2024年02月01日 (木) 16時57分
名前:はうら ひとひら


地上の『生長の家のマーク』の図案者について。

山根八春(やまねやつはる)

(1886年-1973年)は日本の彫刻家。
島根県松江市出身。八春は(はっしゅん)とも読む。
帝國美術院展覧会(帝展)審査員。生長の家の徽章。
一畑薬師寺の内陣の欄間・木彫十三面花鳥額を製作。
故郷にある松江市立古江小学校の校庭に建つ忠魂碑にも
八春作レリーフが刻まれている。
(ユニオンペデイア)

《 ところで東京に出て万教帰一運動を大きく
展開するためには、生長の家の万教帰一を
標榜(ひょうぼう)する(しるしとしてかかげる)
旗幟(はたしるし)をつくらねばならぬと云うので、
そのマークを創(つく)ることになりました。
当時、帝展の彫刻部の審査員をしておられた
山根八春先生は、その妹、よしのさんが
十八年間一種の悪魔の如き幻覚(ほかの人には見えないのに、
自分だけ実際アルように見えるまぼろし)を見て
夜となく昼となく苦しめられる神経病で、
あらゆる医療法、民間療法、精神療法、仕事療法等
やって来られたが、それでも治(なお)らなかったのに、
生長の家でお治りになったような因縁(いんねん)から、
生長の家に熱心になっておられましたので、
此の八春先生にお願いして万教帰一の象徴になる
マークを図案して頂きました。
それが唯今の日章旗の中に卐字(まんじ)及び
星形の十字のあるマークであります。
日章旗は神道をあらわし、卐字は佛教をあらわし、
十字はキリスト教をあらわし、日本の三大宗教を
一つに帰一したことをあらわしているのであります。》

(『新版 真理』第3巻 138頁)


はうらひとひら様 (62985)
日時:2024年02月02日 (金) 07時07分
名前:志恩

はうら ひとひら様

地上の『生長の家のマーク』の図案者・【山根八春】様についての
詳しい情報を教えてくださいまして、誠にありがとうございました。

生長の家のマークが、もともとの正しいマークに戻るといいですね。

万教帰一の事 (63293)
日時:2024年02月11日 (日) 16時40分
名前:はうら ひとひら


『生長の家のマーク』は、万教帰一のシンボルです。

教団が今の聖光録と位置付けている
『“新しい文明”を築こう”』上巻(監修 谷口雅宣)には
下記のように記載されています。

『生長の家のマーク』は、万教帰一と万物調和を
表象(ひょうしょう)しています。
まず、万教帰一の表現としては、外側の赤い部分が神道を表し、
その内側の白い「卐(右万字)」が仏教を表し、
中央の緑色の星が十字架をアレンジしてキリスト教を
表しています。
また、赤い光輪の外縁からは三十二の“炎(ほのお)”が
外へ伸びていますが、これは仏の三十二相を表しています。
これらによって、世界の宗教が説く教えの神髄(中心)は
一つであり、各宗教がお互いを尊重し特徴を
認め合うことによって、互いに平和共存する
姿を示しています。』

(『“新しい文明”を築こう”』上巻 82頁)

しかし、今一つ焦点が合わない感じがする。

 《 【何故、万教が帰一するのか】

釈尊でもイエスでも、自分で教(おしえ)を書かなかった
ことはまことに残念なことである。
それだから、それを伝えた人たちの悟(さとり)の程度や、
聞違いや、伝え誤りや色々のものが混入しているのである。
そこで一ぺんそれらの混入物を取除いて
本当の純粋な人間を救う真理だけを抽出(ちゅうしゅつ)する
必要があるのであります。
経文や聖書の章句のどこに重点を置くかによって
諸宗諸派がわかれて来ることになるのであります。
併(しか)し諸宗、諸派に分れた宗教も、
偏(かたよ)ったところに重点を置かないで、
生粋(きっすい)の真理だけに重点を置くことを見出すならば、
諸宗諸派は共通の同一真理に到着するのであります。
これを生長の家では“万教帰一”といっているので
あります。・・・・・・

どの宗教も人間の魂を救う力があるとするならば、
すべての人間はその生理的構造や形態が同一である
点から見ても、一つの同じ神秘力(これを神と称しても、
久遠の本仏(ほんぶつ)と称しても、ゴッドと称しても、
それは人種により宗教により、人間が勝手に名称をつけるので、
何と名附(なづ)けようとも好い)
から生まれたということは明かであります。
だからそれを救う真理は、宗教、宗旨、教派等の
名称教義に拘(かかわ)らず、
同一の真理であるということであります。・・・・・

そして真に各宗に共通的な真理こそ本当に、
“人間を救う真理”ーーそれがなくては人間は救われない
というところの真理ーーなのであります。
万教帰一というのは、生長の家では、
このようにあらゆる宗教に共通する真理を純粋に抽出して
それを説いてあらゆる宗教の神髄は
共通同一の真理に帰一するということを示すのであります。
だから、生長の家に入教なさいましても、
本尊は宇宙を貫いて存在する「生命の本源者」でありますから、
それは仏教では大日如来とも阿弥陀仏とも称する訳であり、
キリスト教では“天の父”又は“神”であり、
神道では天之御中主神ーーその御顕現としての天照大御神・
住吉大神・鹽椎神(しおつちのかみ)であり、
マホメット教ではアラーの神であり、名称は異なれども、
その御本体は同一でありますから
改宗する必要はないのであります。》

(『女の生き甲斐』229〜231頁』

それを顕現し行動する為に私達は今ここにいると思います。

【 生長の家教規(注:憲法というべきもの)

】第2章 目的
第2条

《 この宗教の設立の目的は次の通りである。
(1)谷口雅春創始の、生長の家の教義に基き、
その主著『生命の實相』を鍵として、
万教共通の宗教真理を開示し、これを宣布することによって、
人類光明化につくすこと。

第5章 教義
第5条

《 本教の教義の大要は世界のすべての宗教は
唯一の本源より発するものにして、
万教は唯一の真理に帰一し、人間救いの原理も唯一にして
ニあることなきを宣説するものにして、
教えの創始者谷口雅春の唯神実相の神学を鍵として
全世界の経典の真義を顕示して人生に
光明あらしむるものである。
教義の根本たるものは『生命の實相』巻頭の
「『七つの燈台の点燈者』の神示なり。
曰くーー汝ら天地一切のものと和解せよ。
(大調和の神示、全文です)》

ありがとうございます。

 

雑味を混入してはならない (63294)
日時:2024年02月11日 (日) 17時28分
名前:元信徒


お釈迦様の言葉を弟子が伝えるしか無かった昔と違い、
今は雅春先生の本がありますからそれは絶対の聖典で、それ以外は参考程度に考えないといけないと思います。

私が、本部勤めで嫌だった事は、
雅春先生の光明法語があるのに、清超先生の日々の言葉と一日おきに職場で読んだことです。雅春先生の言葉には神様が乗っていますから、悪いけど清超先生とは段違いで、清超先生の日々の言葉を読んだ日の朝礼はさほど嬉しくはならなかった。

こうやって、教えから少しずつ離れて行くのではないだろうか、と感じていた。

純粋に雅春先生のみから純粋に教えは真剣に学ばないとならないと思う。

雅春先生時代の聖典や徽章は大事にそのまま使用すべきですね。





はうら ひとひら様 (63296)
日時:2024年02月11日 (日) 18時18分
名前:志恩

(元信徒様ー)
>前略
こうやって、教えから少しずつ離れて行くのではないだろうか、と感じていた。
純粋に雅春先生のみから純粋に教えは真剣に学ばないとならないと思う。
雅春先生時代の聖典や徽章は大事にそのまま使用すべきですね。<

志恩ー
結論は、元信徒様がおっしゃる通りだと存じました。

はうら様は、雅宣さんの著書もちゃんと読んでいらっしゃるのですね。
教団が今の聖光録と位置付けている

>『“新しい文明”を築こう”』上巻(監修 谷口雅宣)には
下記のように記載されています。

『生長の家のマーク』は、万教帰一と万物調和を
表象(ひょうしょう)しています。後略<

生長の家のマークについても雅宣さんは書いておられますのに
なぜ、生長の家のマークは、変えてしまったままなのでしょう。
早急に元へ戻すべきだと存じます。

はうら様は、谷口雅春先生の実相哲学の根本的な
ことを、理解されていらして、述べておられますものね。

生長の家マークは、元へすぐに戻すべき時代に入って
いるのだと思います。

先ず あたりまえの事を (63585)
日時:2024年02月25日 (日) 21時29分
名前:はうら ひとひら


(今回の投稿の内容で、不快感をもたれる文がありましたら、
無学の者が一方的な思い込みで書き込んだものであり、
特定の組織や団体、個人を批判しているものではない事を、
申し述べ最初にお詫びさせていただきます。
なにしろ低学歴、浅学、生長の家の信徒といいながら、
練成会などに一度も出席した事のない者の戯言ですので。)

・「生長の家のマーク」を弊誌友会の方に送付した感想

*実に詳細な「生長の家のマーク」の資料です。
*「生長の家のマーク」の説明は大変わかりやすい。
星のマークは、十字架の印でもあるのですね。
正規のマークに比べて、大八洲が小さいですね。
是非正常な形に戻されますよう、念じます。

この「生長の家のマーク」の資料を再掲載させて
いただきますが、右下の正規色の形状が赤色も緑色の
どちらも極度に歪んで書き現しています。
それは一見するとすぐわかるのですが、
正規のマークと現在使用されているマークは、
余程注意しないと、縦、横の星の幅よりも、
右上から下への斜めの幅が狭い事がわからない。
そして今回ある方が指摘されたように、
大八洲が正規品より小さい事です。
事の発端は、色がまちまちだったので、
色見本帳を添付して尊師にご指示を仰いだ時、
(昭和53年6月)尊師は色の事よりも先に、
マークの図案に触れられて
「中央の緑の星は大八洲を顕しているのであるから、
八つの角の幅がすべて等しくならなければならないが、
これは斜めの部分の幅が、縦と横の幅より狭くなっているから、
斜めの方向も等しくなるようにして下さい。」
とご指示。そしてご指示通りのものが製作され、
昭和53年11月落慶の総本山の出龍宮顕齋殿のマークは
総べて正規のマークで造られた。
しかしまたいつのまにか、歪んだマークにされて、
現在に至っている。何故なのか。
争いを好む波動の人が、生長の家の組織内にいる
という亊なのだろうか。
一刻も早く正規なものに戻されるべきである。

現在の聖光録と位置付けている
『“新しい文明”を築こう上巻 
基礎編 監修 谷口雅宣』

の82頁で
「生長の家のマーク」の由来に言及した後83頁で
「海外においては、ブラジルではこのマークが広く
受け入れられましたが、欧米諸国では、
マークの白い部分が鉤(かぎ)十字
(ハーケンクロイツ、ナチスのシンボルマーク)
に似ていることから、忌避(きひ)される傾向がありました。」
と結んでいる。
それで1993年(平成5年)「国際平和信仰運動」
を開始したことを受けて、白鳩がシンボルマークとしたという。

私(はうら)は、そのマークを正規なものにする為の
準備資金として、一人千円程の献資の提案をしていますが、
賛同される信徒が「聖使命会費」を一時停止しても、
こちらの正規のマークの為に、浄財を振り向ける必要性を
感じています。
(あくまでも、個人の思いです。)

・教化部からの案内で
「立教95年生長の家春季記念日
生長の家総裁法燈継承記念式典」
を3月1日に行うという。
・「生長の家」出現の精神とその事業
 白鳩会総裁 谷口純子先生

・お言葉 総裁・谷口雅宣先生

私(はうら ひとひら)の「生長の家」への思い。

『生命の實相』頭注版 第1巻
 表紙の扉の次に(昭和10年1月25日発行の同書も同じ)
(序文より前書きより目次より前に)

《 われ振り反(かえ)りて我に語る声を見(み)んとし、
振り反り見れば七つの金の燈台あり。
また燈台の間に人の子のごとき者ありて
足まで垂(た)るる衣(ころも)を着、
・・・・
我これを見しとき其(そ)の足下に倒れて
死にたる者の如くなれり。
・・・
「懼(おそ)るな、我は最先(いやさき)なり、
最後(いやはて)なり、活(い)ける者なり。
われかって死にたりしが、
視(み)よ世々(よよ)限りなく生(い)く。
・・・・》

(『生命の實相』第1巻扉の次の頁)
『黙示録』第一章、十二節―二十節)

私(はうら)の勝手な解釈

『ヨハネの黙示録』は新約聖書の一番最後の書です。
キリストの証人として、迫害を恐れず
毅然と対峙(たいじ)し信仰に生き抜くべき事を述べています。
最後の審判が書かれております。
終末期混乱の中にあった人類、
そこで『生命の實相』が登場し、
「ノアの方舟(はこぶね)」で人類を救済し、
聖書の完成をし、地上天国建設の成就のために出現した。
「人の子のごとき者」とは「久遠のキリスト」であり
「七つの燈台の点燈者」とはすなわち、
生長の家の大神である。
「死にたる者の如き」とは現象的に死にきった時、
復活して永遠の生命(いのち)を得ることである。
最後にして最高の教えの出現である。

《 ますます唯物論経済社会の末期に入ってきまして、
人間の心がたがいに闘(たたか)い、
人間の心の迷い、心の争いがますます盛んになってきますと、
われわれの周囲の世界は
われわれの念の投影でありますから、
階級と階級と相闘い天変地変相ついで起こり、
ついに「迷い」の一掃(いっそう)自壊を起こして
来るのであります。
この時に、神の指図(さしず)によって
造られたノアの方舟(はこぶね)に乗っていた者だけが
助かるということがここに預言されているのであります。
ノアの方舟というのはなんであるかといいますと、
方舟というのは神の教えの船ということである。
・・・・
『創世記』の価値は、宇宙創造の実際と、
「無明(むみょう)」の贋創造(ぎそうぞう)と、
「無明」の発展集積と、その発展集積の後
自然に土崩自壊(どほうじかい)するところの
いわゆる「ノアの洪水」と、
その救いの願船(がんせん)「ノアの方舟」
(生長の家)の出現が予言せられている点であります。》

(『生命の實相』頭注版 第11巻 118.119頁)

・生長の家の立教から15年、
敗戦から3か月後に垂(た)れられた神示
『終戦後の神示』によって今まで
「七つの燈台に燈(ひ)を點(てん)ずる者」と
名乗られていた神が、初めてその名を
「鹽椎神(しほつちのかみ)」と名乗られた。
そのお働きは、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
を龍宮海(りゅうぐうかい)にご案内し、
一切の創造(うみ)の神であるから無にして
無尽蔵(むじんぞう)。
キリストはわれの別名と垂示(すいじ)。
『「新講 甘露の法雨」解釋』20.21頁で
この神の別名は住吉大神(すみのえのおおかみ)
(生長の家の大神)であり、
尊(みこと)は神武天皇の祖父君にあたられる方と
ご教示。

それは昭和10年1月25日刊行された
黒表紙版『生命の實相』第1巻以降掲載されている
、表紙のすぐ次に(目次や神示や序文より前に)
突如として出現する「ヨハネ黙示録」
第1章の白髪の老翁(ろうおう)なるキリストと
神意に基ずいて邂逅(かいこう)することになったのである。
救済は時空を超えて成(な)る。
因みにこの黒表紙版の『生命の實相』の裏表紙に
正規の「生長の家のマーク」が刻印されたように
厚い布にしっかりと定着されていて、
表表紙は三本の金の光線が雲間から降り注いで
畏れ多い感じを受ける。
 「久遠天上理想國実現の神示」には
「高天原(たかあまはら)―瑞穂(みずほ)の国
―生長の家―この三つは三位(さんみ)にして
一体である」とご教示されている。
すなわち大宇宙・真理国家なる日本国・生長の家は
一体であると示されている。
その象徴としてのマークが歪められているのである。

・『生長の家』機関紙
 令和4年1月号25頁に
生長の家 総裁 谷口雅宣先生の
「生長の家代表者ネットフォーラム2021」

の発言内容「論理的思考」の重要性が記載されている。

総裁先生は、お言葉の中で、運動方策の前文に示されている
「論理的思考」を「法則を理解し、
正しく表現すること」と定義され、
今後の生長の家の運動で必要になることを強調されました。
論理的思考は誰でも持っているが、
宗教では「信仰心」を優先してきた歴史があるため
蓄積が足りないとご指摘。
今後は生長の家において、聖典等に書かれていても
今日の科学的根拠と一致しない記述を
そのまま引用して教えを説くことをやめ、
現実生活で行う運動に則するために、
論理的に考え、伝える方法を身につける必要があると
教示されました。とある。

これに早速飛びついて、聖典の内容をみなおして、
地方講師に伝える必要があると、教区の講師会会長。
「今の教え」を地方講師に3年以上かけて徹底させた。
そして「石上げのみ祭り」などを先頭で行っている。

実相哲学が理解出来なければ、
このような発言は当然出てくる。
眼に見えるもの、物理学で証明出来るものだけを、
説けという。
尊師の聖典の内容は、この基準でいくと、
ほとんど除外され排除される。

命がけで、自分と向き合い、死を覚悟して、
使命がなければこの生命(いのち)無くなってもよい、
と追い込んで復活する道がある。

このような物質論理の事を言う人の、
周囲にも責任の一端があると思う。
(自分を当然含めて)甘やかされて、
現象だけを見て、人生楽勝と思っている人は、
逆に可哀想な気がする。
せっかくの最後の最高の究極の教えを前にしてである。
原因-結果の因果の法則のみに縛られて生きるのである。

弊誌友会1月度で、メールで出席された方が

「機関紙12月号(令和5年)によりますと、
総裁は谷口清超先生15年祭(10月28日)のご挨拶の最後に、
参列者に谷口恵美子先生のご昇天を報告、
参列者とともに一分間黙禱されたとの記述があります。
教団葬はなさそうですが、
総裁にとってはご母堂へのこの黙禱が
大調和の神示にある“汝らの父母に感謝”の
実行なのですね。」と言われてきました。

私(はうら)は何の返事も出来ませんでした。
大変申し訳ございません。
あたりまえの事も出来ないことに。
心が痛いです。我々(私)は何をやってきたのだ、と。

《  生命の実相の自性円満(そのままでえんまんなこと)
を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いて
メタフィジカル・ヒーリング(神癒(しんゆ))となります。》

(『生命の實相』頭注版 第1巻 6頁)

《 人間が物質的存在としての自覚を超えて、
霊的自覚の世界に入(い)るとき
「病気のない世界」に超入するのである。
その時人間は“神癒(しんゆ)”を得る、
即ち超物質的に癒されるのである。》

(『神癒への道』はしがき 1頁)

《 哲学(metaphysics)と云う言葉は
その文字の組み立てが示す如く、
physics(物理学)と云う言葉に
meta(超越する)と云う言葉が結合されている。
従って物理学的なるもの以上のものを意味しているのである。
それ故哲学を生活する又は哲学を行ずると云うことは、
超物質的自覚の下に生活することである。
哲学は吾等が今見るところのもの―現象を
遡(さかのぼ)ってその原因を研究する。
それは現象の究極的な原因と、この世界を顕現して
今ある如き物質的形態にその現象をあらわした法則とを、
探究するのである。
生命の實相哲學が諸君に順次解明せんとすることは、
宇宙の最始源には、ただ「心」即ち超物質的存在なる
「霊」のみがあったと云うことである。》

(『人生は心で支配せよ』13.14頁)

ありがとうございます。






何を考えているのか (63586)
日時:2024年02月25日 (日) 22時23分
名前:本音の時代

>総裁にとってはご母堂へのこの黙禱が
>大調和の神示にある“汝らの父母に感謝”の
>実行なのですね。


純子さんの実家は訪問するのに
自分の母がいる高知には一度も訪問しない。
葬式に出席出来たはずなのに黙禱で済ます。
それが、大調和の神示にある“汝らの父母に感謝”の実行なのですか。
開いた口が塞がらない。
大調和の神示は、雅宣さんの行動を肯定するためにあるのではありません。

はうらひとひら様 (63601)
日時:2024年02月27日 (火) 06時06分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)
>【先ずあたりまえのことを】

(略)
生長の家のマークを
是非正常な形に戻されますよう、念じます。
(略)

昭和53年11月落慶の総本山の出龍宮顕齋殿のマークは
総べて正規のマークで造られた。
しかしまたいつのまにか、歪んだマークにされて、
現在に至っている。何故なのか。
争いを好む波動の人が、生長の家の組織内にいる
という亊なのだろうか。
一刻も早く正規なものに戻されるべきである。

現在の聖光録と位置付けている
『“新しい文明”を築こう上巻 
基礎編 監修 谷口雅宣』

の82頁で
「生長の家のマーク」の由来に言及した後83頁で
「海外においては、ブラジルではこのマークが広く
受け入れられましたが、欧米諸国では、
マークの白い部分が鉤(かぎ)十字
(ハーケンクロイツ、ナチスのシンボルマーク)
に似ていることから、忌避(きひ)される傾向がありました。」
と結んでいる。
それで1993年(平成5年)「国際平和信仰運動」
を開始したことを受けて、白鳩がシンボルマークとしたという。

私(はうら)は、そのマークを正規なものにする為の
準備資金として、一人千円程の献資の提案をしていますが、
賛同される信徒が「聖使命会費」を一時停止しても、
こちらの正規のマークの為に、浄財を振り向ける必要性を
感じています。
(あくまでも、個人の思いです。)

・教化部からの案内で
「立教95年生長の家春季記念日
生長の家総裁法燈継承記念式典」
を3月1日に行うという。
・「生長の家」出現の精神とその事業
 白鳩会総裁 谷口純子先生

・お言葉 総裁・谷口雅宣先生

私(はうら ひとひら)の「生長の家」への思い。

『生命の實相』頭注版 第1巻
 表紙の扉の次に(昭和10年1月25日発行の同書も同じ)
(序文より前書きより目次より前に)

《 われ振り反(かえ)りて我に語る声を見(み)んとし、
振り反り見れば七つの金の燈台あり。
また燈台の間に人の子のごとき者ありて
足まで垂(た)るる衣(ころも)を着、
・・・・
我これを見しとき其(そ)の足下に倒れて
死にたる者の如くなれり。
・・・
「懼(おそ)るな、我は最先(いやさき)なり、
最後(いやはて)なり、活(い)ける者なり。
われかって死にたりしが、
視(み)よ世々(よよ)限りなく生(い)く。
・・・・》

(『生命の實相』第1巻扉の次の頁)
『黙示録』第一章、十二節―二十節)

私(はうら)の勝手な解釈

『ヨハネの黙示録』は新約聖書の一番最後の書です。
キリストの証人として、迫害を恐れず
毅然と対峙(たいじ)し信仰に生き抜くべき事を述べています。
最後の審判が書かれております。
終末期混乱の中にあった人類、
そこで『生命の實相』が登場し、
「ノアの方舟(はこぶね)」で人類を救済し、
聖書の完成をし、地上天国建設の成就のために出現した。
「人の子のごとき者」とは「久遠のキリスト」であり
「七つの燈台の点燈者」とはすなわち、
生長の家の大神である。
「死にたる者の如き」とは現象的に死にきった時、
復活して永遠の生命(いのち)を得ることである。
最後にして最高の教えの出現である。

《 ますます唯物論経済社会の末期に入ってきまして、
人間の心がたがいに闘(たたか)い、
人間の心の迷い、心の争いがますます盛んになってきますと、
われわれの周囲の世界は
われわれの念の投影でありますから、
階級と階級と相闘い天変地変相ついで起こり、
ついに「迷い」の一掃(いっそう)自壊を起こして
来るのであります。
この時に、神の指図(さしず)によって
造られたノアの方舟(はこぶね)に乗っていた者だけが
助かるということがここに預言されているのであります。
ノアの方舟というのはなんであるかといいますと、
方舟というのは神の教えの船ということである。
・・・・
『創世記』の価値は、宇宙創造の実際と、
「無明(むみょう)」の贋創造(ぎそうぞう)と、
「無明」の発展集積と、その発展集積の後
自然に土崩自壊(どほうじかい)するところの
いわゆる「ノアの洪水」と、
その救いの願船(がんせん)「ノアの方舟」
(生長の家)の出現が予言せられている点であります。》

(『生命の實相』頭注版 第11巻 118.119頁)

・生長の家の立教から15年、
敗戦から3か月後に垂(た)れられた神示
『終戦後の神示』によって今まで
「七つの燈台に燈(ひ)を點(てん)ずる者」と
名乗られていた神が、初めてその名を
「鹽椎神(しほつちのかみ)」と名乗られた。
そのお働きは、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
を龍宮海(りゅうぐうかい)にご案内し、
一切の創造(うみ)の神であるから無にして
無尽蔵(むじんぞう)。
キリストはわれの別名と垂示(すいじ)。
『「新講 甘露の法雨」解釋』20.21頁で
この神の別名は住吉大神(すみのえのおおかみ)
(生長の家の大神)であり、
尊(みこと)は神武天皇の祖父君にあたられる方と
ご教示。

それは昭和10年1月25日刊行された
黒表紙版『生命の實相』第1巻以降掲載されている
、表紙のすぐ次に(目次や神示や序文より前に)
突如として出現する「ヨハネ黙示録」
第1章の白髪の老翁(ろうおう)なるキリストと
神意に基ずいて邂逅(かいこう)することになったのである。
救済は時空を超えて成(な)る。
因みにこの黒表紙版の『生命の實相』の裏表紙に
正規の「生長の家のマーク」が刻印されたように
厚い布にしっかりと定着されていて、
表表紙は三本の金の光線が雲間から降り注いで
畏れ多い感じを受ける。
 「久遠天上理想國実現の神示」には
「高天原(たかあまはら)―瑞穂(みずほ)の国
―生長の家―この三つは三位(さんみ)にして
一体である」とご教示されている。
すなわち大宇宙・真理国家なる日本国・生長の家は
一体であると示されている。
その象徴としてのマークが歪められているのである。

・『生長の家』機関紙
 令和4年1月号25頁に
生長の家 総裁 谷口雅宣先生の
「生長の家代表者ネットフォーラム2021」

の発言内容「論理的思考」の重要性が記載されている。

総裁先生は、お言葉の中で、運動方策の前文に示されている
「論理的思考」を「法則を理解し、
正しく表現すること」と定義され、
今後の生長の家の運動で必要になることを強調されました。
論理的思考は誰でも持っているが、
宗教では「信仰心」を優先してきた歴史があるため
蓄積が足りないとご指摘。
今後は生長の家において、聖典等に書かれていても
今日の科学的根拠と一致しない記述を
そのまま引用して教えを説くことをやめ、
現実生活で行う運動に則するために、
論理的に考え、伝える方法を身につける必要があると
教示されました。とある。

これに早速飛びついて、聖典の内容をみなおして、
地方講師に伝える必要があると、教区の講師会会長。
「今の教え」を地方講師に3年以上かけて徹底させた。
そして「石上げのみ祭り」などを先頭で行っている。

実相哲学が理解出来なければ、
このような発言は当然出てくる。
眼に見えるもの、物理学で証明出来るものだけを、
説けという。
尊師の聖典の内容は、この基準でいくと、
ほとんど除外され排除される。

命がけで、自分と向き合い、死を覚悟して、
使命がなければこの生命(いのち)無くなってもよい、
と追い込んで復活する道がある。

このような物質論理の事を言う人の、
周囲にも責任の一端があると思う。
(自分を当然含めて)甘やかされて、
現象だけを見て、人生楽勝と思っている人は、
逆に可哀想な気がする。
せっかくの最後の最高の究極の教えを前にしてである。
原因-結果の因果の法則のみに縛られて生きるのである。

弊誌友会1月度で、メールで出席された方が

「機関紙12月号(令和5年)によりますと、
総裁は谷口清超先生15年祭(10月28日)のご挨拶の最後に、
参列者に谷口恵美子先生のご昇天を報告、
参列者とともに一分間黙禱されたとの記述があります。
教団葬はなさそうですが、
総裁にとってはご母堂へのこの黙禱が
大調和の神示にある“汝らの父母に感謝”の
実行なのですね。」と言われてきました。

私(はうら)は何の返事も出来ませんでした。
大変申し訳ございません。
あたりまえの事も出来ないことに。
心が痛いです。我々(私)は何をやってきたのだ、と。

《  生命の実相の自性円満(そのままでえんまんなこと)
を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いて
メタフィジカル・ヒーリング(神癒(しんゆ))となります。》

(『生命の實相』頭注版 第1巻 6頁)

《 人間が物質的存在としての自覚を超えて、
霊的自覚の世界に入(い)るとき
「病気のない世界」に超入するのである。
その時人間は“神癒(しんゆ)”を得る、
即ち超物質的に癒されるのである。》

(『神癒への道』はしがき 1頁)

《 哲学(metaphysics)と云う言葉は
その文字の組み立てが示す如く、
physics(物理学)と云う言葉に
meta(超越する)と云う言葉が結合されている。
従って物理学的なるもの以上のものを意味しているのである。
それ故哲学を生活する又は哲学を行ずると云うことは、
超物質的自覚の下に生活することである。
哲学は吾等が今見るところのもの―現象を

遡(さかのぼ)ってその原因を研究する。
それは現象の究極的な原因と、この世界を顕現して
今ある如き物質的形態にその現象をあらわした法則とを、
探究するのである。
生命の實相哲學が諸君に順次解明せんとすることは、
宇宙の最始源には、ただ「心」即ち超物質的存在なる
「霊」のみがあったと云うことである。》

(『人生は心で支配せよ』13.14頁)<

志恩ー
>私(はうら)は、そのマークを正規なものにする為の
準備資金として、一人千円程の献資の提案をしていますが、
賛同される信徒が「聖使命会費」を一時停止しても、
こちらの正規のマークの為に、浄財を振り向ける必要性を
感じています。
(あくまでも、個人の思いです。)<

志恩ー
私も生長の家のマークが正規なものに、
戻るといいな、と痛切に
思っております一人なのですが、
一人千円というのは、どこへ振り込めば
いいのでしょうか。

また、生長の家のマークを元へ戻すには、
生長の家教団・総裁の雅宣様が
元へ戻そうと思われて実行されなければ
元へ戻るとは、思えないのですけれど、
その点は、どのようにお考えでしょうか?




本音の時代様 (63602)
日時:2024年02月27日 (火) 06時29分
名前:志恩

本音の時代様ー
何を考えているのか

(はうら様ー)
>総裁にとってはご母堂へのこの黙禱が
>大調和の神示にある“汝らの父母に感謝”の
>実行なのですね。

(本音の時代様ー)
>純子さんの実家は訪問するのに
自分の母がいる高知には一度も訪問しない。
葬式に出席出来たはずなのに黙禱で済ます。
それが、大調和の神示にある“汝らの父母に感謝”
の実行なのですか。
開いた口が塞がらない。
大調和の神示は、雅宣さんの行動を肯定するため
あるのではありません。<

志恩ー
この件につきましては、
はうら様のコメントは、言うまでもなく、
私は、本音の時代様の想いとも一緒です。

ネット時代である今の時代は、
雅宣様のネット上での発言と同時に、
どのように実践されて
いらっしゃるかということまでも、
日本全国だけでなく世界中の信徒の皆様に
知れ渡る時代になりました。

昨年の10月22日に雅宣様の御母堂様でいらっしゃいます
谷口恵美子先生が、満100歳で、
ご逝去されました時、
雅宣様ご夫妻は、ご臨終の時も
お見舞いに行かず、高知県でのご葬儀の時も、
参列されなかったことは、幹部の皆様、信徒の皆様の間で
今は、知らない人がいないくらいに知れ渡っております。

教団の行事の時に、
雅宣様は、
黙祷を信徒の皆様におさせになったり、
信徒の皆様に、恵美子先生に対する哀悼の言葉を
書かかせたり、その後、雅宣様は、されましたが、
それで、雅宣様ご夫妻が、恵美子先生の葬儀にも
出なかったことが、帳消しになったのかどうかまでは、
知る由もございません。
以前、お山時代に恵美子先生幽閉事件もございましたしね。

谷口恵美子先生は、谷口雅春先生輝子先生の
大事な一人娘さんで、
雅宣様の母上様で、
前・白鳩会総裁という要職に
つかれていらした最重要なお方様です。

恵美子先生のことは、宮澤先生ご夫妻や谷口家の
雅宣様以外のご兄弟姉妹の皆様で丁重にご葬儀、
その他のこともされましたが、

教団としても、恵美子先生を、
丁重にお祀りしていただきたいと
信徒たちは皆、雅宣総裁ご夫妻に希望いたしております。


志温 様 (63615)
日時:2024年02月27日 (火) 20時03分
名前:はうら ひとひら


志恩 様

「生長の家のマークの件」でお問い合せいただきまして、
ありがとうございます。
そのweblog(ブログ)コメントで、谷口恵美子先生の事が
記述されておりますが、驚いた事があります。

阪田先生発行の『光明(ひかり)の音信(おとづれ)』
第32号で、

『恵美子先生のお写真と尊師が輝子先生が
妊娠されている時に「聖キアーラ」という聖女の壁画の
写真を壁に貼って毎日見詰めるようにされた』
(『光の泉』昭和33年1月号)
という紹介文があり
同紙第34号で

紹介された「聖キアラ」の肖像画がまったく
と言ってよい程、恵美子先生に似ているのです。

何を申し上げたいかというと、正しい願いは必ず成就する
という亊の、一つの証(あかし)です。

『生長の家のマークの正規品』は本部に帰属するものでも、
ましてや総裁に帰属するものではないと思います。
信徒全員のものです。(以前信徒だった方も含めて)
正しい想念は成就、実現すると思います。

・問題は解決する為にある。
(『新版 生活と人間の再建』220頁)

添付しました図のコメントで
「われら観世音菩薩の御使命を分(わか)ち有(も)ちて」
と記載させていただきましたが、

《・・・その観世音菩薩が生長の家の本尊神であり、
その観世音菩薩の使命を分ち享(う)けて立つ
“虚無を克服すべく集った諸菩薩”が
吾々生長の家の信徒であるのである。》

(『聖道へ』 323頁)

1.先ず多くの信徒の皆様にこの「生長の家のマーク」が
歪められている事を知ってもらう事が必要だと思います。
その為の手段・手法、方法が必要です。

2.その上で、数人でもよいので、正規品に戻すための準備委員会
のようなものを作って、WEBで方法・道程等を討議し、発表する。
(ZOOMでの場所提供はこちらでも出来ます。)

3.クラウドファンデイングは、目的、透明性が必要です。
監査人を置き、その上で必要な費用を献資を皆様にお願いする。
その一方法としての、振込先選定等だと思います。
(私が振り込み口座が必要であれば、用意出来ます、
という亊は、そのような意味です。)

浄財ですから、大切に心を籠めて、目的の為だけに
使わせていただくものですから。

4.先ず各人が出来る所から実行していく。
正規品のマークの紙を貼ってもいいと思います。
そこから燎原の火のように、広げていきたいのです。
オール信徒によって。
必ず正規のマーク復活・復元は成就いたします。

お答えになっていないかもしれませんが、私の思いです。
大先輩に対しまして、失礼な発言がありましたら、
お許しください。

いつもありがとうございます。




観音妙智観 (63995)
日時:2024年03月18日 (月) 15時38分
名前:はうら ひとひら


『生長の家のマーク』の発案者は
観世音菩薩でありますが、
佛教的には『生長の家』の本尊です。
観世音菩薩は三十三身に身を変えて、
人類を救済しようとされていますが、
宇宙浄化の智慧でもあります。

ところで、『日々読誦三十章經』の
三日の經言(のりごと)に
「観音妙智観」があります。
『日々読誦三十章經』(昭和25年7月初版)の
理論づけとして、
『人生は心で支配せよ』(昭和63年11月初版)
があるとされています。
されている、と言ったのは、少し説明を要します。
上記の説明では、時間的ずれがあり整合性がとれない.

そこで『人生は心で支配せよ』の前に
なにか著わされたものがあるはずです。
『如何にせば運命を支配し得るか』(大正14年6月初版)
がありますが、(ホルムスの思想に示唆を得たとされる)
ここが起点であるらしい。

しかし尊師の思想が進歩して、
このホルムスの思想に疑問を感じ、
全て書き直したのが、『人生は心で支配せよ』であったという。
これで、時間軸が整理された事になります。

尊師のたゆまぬ求道精神に頭が下がります。

【観音妙智観】(『人生は心で支配せよ』より謹写)

《 黙念中に観世音菩薩の力を念ぜんとする者は
次の如く念ぜよ。

「吾れはいま吾が住む世界を観音妙智力(みょうちりき)
の表現であると観ずる」。
み空の星は観世音菩薩がわれを看(み)まもり
たまう瞳である。梢(こずえ)に鳴る風の音、
小河の潺々(せんせん)たる囁(ささや)き、
これら全ては観世音の吾れに告げ給う御言葉である。
自然界の凡(あら)ゆる力は吾れを生かそう生かそう
としている顕(あらわ)れである。
吾が住む世界は最早(もはや)未知の世界ではないのである。
吾れはこの世界を理解し、
この世界は吾れを理解している。
それ故に吾れは今より恐るるところはないのである。
吾れはいま宇宙に遍満(へんまん)し給う
隠れたる力の泉を汲(く)む。
吾れはいま宇宙の凡(すべ)ての力と調和している。
吾れは今真(まこと)に「愛」そのもの「智慧」
そのものに導かれて平和の道を歩んでいるのである。

観音經には
「或(あるい)は怨族(おんぞく)の繞(かこ)みて、
各々刀を執(と)りて害を加うるに値(あ)わんにも
彼(か)の観世音の力を念ずれば、
ことごとく即(すなわ)ち慈心(じしん)を起こさん。
呪詛(じゅそ)諸(もろもろ)の毒薬もて
身を害せんと欲する者あらんにも、
彼の観世音の力を念ずれば、還(かえ)りて
本人に著(つ)きなん。
若(もし)くは悪獣に囲繞(いにょう)せられ、
利(と)き牙爪(げそう)の怖(おそ)るべき
あらんにも彼の観世音の力を念ずれば、
すみやかに無辺(むへん)の彼方(かなた)に
走り去らん」と書かれているのである。

観世音菩薩は宇宙浄化の智慧であり、
宇宙を育(はぐく)みたまう大慈悲である。
吾れ観世音菩薩と倶(とも)なるが故に、
吾れに坑(さから)う力は何処(どこ)にもないのである。
観世音の大慈悲はいま吾れを愛したまい、
吾れを導きたまい、
吾れに新しき生命を与えたまう。
観世音の妙智力はすべてのものに宿りたまう。
それ故に吾が世界の一切は調和しているのである。》
(『人生は心で支配せよ』53.54頁)

(上記ご文章は、『日々読誦三十章經』の三日の經言と
微妙な点で異なっていて、尊師の息遣いが感じられます。)

ありがとうございます。



はうらひとひら様 (64011)
日時:2024年03月19日 (火) 10時02分
名前:志恩

━━━━━━━━━━━━
(はうら ひとひら様ー)
>志恩 様
「生長の家のマークの件」でお問い合せいただきまして、
ありがとうございます。
そのweblog(ブログ)コメントで、谷口恵美子先生の事が
記述されておりますが、驚いた事があります。

阪田先生発行の『光明(ひかり)の音信(おとづれ)』
第32号で、

『恵美子先生のお写真と尊師が輝子先生が
妊娠されている時に「聖キアーラ」という聖女の壁画の
写真を壁に貼って毎日見詰めるようにされた』
(『光の泉』昭和33年1月号)
という紹介文があり
同紙第34号で

紹介された「聖キアラ」の肖像画がまったく
と言ってよい程、恵美子先生に似ているのです。

何を申し上げたいかというと、正しい願いは必ず成就する
という亊の、一つの証(あかし)です。

『生長の家のマークの正規品』は本部に帰属するものでも、
ましてや総裁に帰属するものではないと思います。
信徒全員のものです。(以前信徒だった方も含めて)
正しい想念は成就、実現すると思います。

・問題は解決する為にある。
(『新版 生活と人間の再建』220頁)

添付しました図のコメントで
「われら観世音菩薩の御使命を分(わか)ち有(も)ちて」
と記載させていただきましたが、

《・・・その観世音菩薩が生長の家の本尊神であり、
その観世音菩薩の使命を分ち享(う)けて立つ
“虚無を克服すべく集った諸菩薩”が
吾々生長の家の信徒であるのである。》

(『聖道へ』 323頁)

1.先ず多くの信徒の皆様にこの「生長の家のマーク」が
歪められている事を知ってもらう事が必要だと思います。
その為の手段・手法、方法が必要です。

2.その上で、数人でもよいので、正規品に戻すための準備委員会
のようなものを作って、WEBで方法・道程等を討議し、発表する。
(ZOOMでの場所提供はこちらでも出来ます。)

3.クラウドファンデイングは、目的、透明性が必要です。
監査人を置き、その上で必要な費用を献資を皆様にお願いする。
その一方法としての、振込先選定等だと思います。
(私が振り込み口座が必要であれば、用意出来ます、
という亊は、そのような意味です。)

浄財ですから、大切に心を籠めて、目的の為だけに
使わせていただくものですから。

4.先ず各人が出来る所から実行していく。
正規品のマークの紙を貼ってもいいと思います。
そこから燎原の火のように、広げていきたいのです。
オール信徒によって。
必ず正規のマーク復活・復元は成就いたします。

お答えになっていないかもしれませんが、私の思いです。
大先輩に対しまして、失礼な発言がありましたら、
お許しください。
いつもありがとうございます。<
━━━━━━━━━━━━
志恩ー
私は、古いだけの人間でして、
本部講師でも地方講師でもありません。
ただの古い信徒ですので、お気遣いくださって
返ってすみませんでした。

私は、生長の家のマークが、変わってしまっていることさえ
はうら様に言われるまで、気付いておりませんでした。
大切なことをご指摘くださいまして、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━
(はうらひとひら様ー)

【観音妙智観】
『生長の家のマーク』の発案者は
観世音菩薩でありますが、
佛教的には『生長の家』の本尊です。
観世音菩薩は三十三身に身を変えて、
人類を救済しようとされていますが、
宇宙浄化の智慧でもあります。

ところで、『日々読誦三十章經』の
三日の經言(のりごと)に
「観音妙智観」があります。
『日々読誦三十章經』(昭和25年7月初版)の
理論づけとして、
『人生は心で支配せよ』(昭和63年11月初版)
があるとされています。
されている、と言ったのは、少し説明を要します。
上記の説明では、時間的ずれがあり整合性がとれない.

そこで『人生は心で支配せよ』の前に
なにか著わされたものがあるはずです。
『如何にせば運命を支配し得るか』(大正14年6月初版)
がありますが、(ホルムスの思想に示唆を得たとされる)
ここが起点であるらしい。

しかし尊師の思想が進歩して、
このホルムスの思想に疑問を感じ、
全て書き直したのが、『人生は心で支配せよ』であったという。
これで、時間軸が整理された事になります。

尊師のたゆまぬ求道精神に頭が下がります。

【観音妙智観】(『人生は心で支配せよ』より謹写)

《 黙念中に観世音菩薩の力を念ぜんとする者は
次の如く念ぜよ。

「吾れはいま吾が住む世界を観音妙智力(みょうちりき)
の表現であると観ずる」。
み空の星は観世音菩薩がわれを看(み)まもり
たまう瞳である。梢(こずえ)に鳴る風の音、
小河の潺々(せんせん)たる囁(ささや)き、
これら全ては観世音の吾れに告げ給う御言葉である。
自然界の凡(あら)ゆる力は吾れを生かそう生かそう
としている顕(あらわ)れである。
吾が住む世界は最早(もはや)未知の世界ではないのである。
吾れはこの世界を理解し、
この世界は吾れを理解している。
それ故に吾れは今より恐るるところはないのである。
吾れはいま宇宙に遍満(へんまん)し給う
隠れたる力の泉を汲(く)む。
吾れはいま宇宙の凡(すべ)ての力と調和している。
吾れは今真(まこと)に「愛」そのもの「智慧」
そのものに導かれて平和の道を歩んでいるのである。

観音經には
「或(あるい)は怨族(おんぞく)の繞(かこ)みて、
各々刀を執(と)りて害を加うるに値(あ)わんにも
彼(か)の観世音の力を念ずれば、
ことごとく即(すなわ)ち慈心(じしん)を起こさん。
呪詛(じゅそ)諸(もろもろ)の毒薬もて
身を害せんと欲する者あらんにも、
彼の観世音の力を念ずれば、還(かえ)りて
本人に著(つ)きなん。
若(もし)くは悪獣に囲繞(いにょう)せられ、
利(と)き牙爪(げそう)の怖(おそ)るべき
あらんにも彼の観世音の力を念ずれば、
すみやかに無辺(むへん)の彼方(かなた)に
走り去らん」と書かれているのである。

観世音菩薩は宇宙浄化の智慧であり、
宇宙を育(はぐく)みたまう大慈悲である。
吾れ観世音菩薩と倶(とも)なるが故に、
吾れに坑(さから)う力は何処(どこ)にもないのである。
観世音の大慈悲はいま吾れを愛したまい、
吾れを導きたまい、
吾れに新しき生命を与えたまう。
観世音の妙智力はすべてのものに宿りたまう。
それ故に吾が世界の一切は調和しているのである。》
(『人生は心で支配せよ』53.54頁)

(上記ご文章は、『日々読誦三十章經』の三日の經言と
微妙な点で異なっていて、尊師の息遣いが感じられます。)
ありがとうございます。
━━━━━━━━━━━━
志恩ー
生長の家のマークの発案者は、
山根八春様かと思っておりましたが、

それは間違いで、
生長の家のマークの真の発案者は、
『生長の家』の本尊様であられましたか。
大変貴重なことをお調べくだいまして、
教えてくださいましたこと、心から感謝
申し上げます。

観世音の事 (64204)
日時:2024年03月31日 (日) 09時37分
名前:はうら ひとひら


【観世音普門(ふもん)成就の教】

生長の家は、観世音菩薩が私を喇叭(らっぱ)として
人類を救わんがために、
人類相互(あいたがい)の争いをなくし、
不幸をなくし、貧乏をなくし、すべての人々を幸福にし、
霊(たましい)をも救わんがために出現したところの
教えであります。

仏典や聖書に書いてある事も説明いたしますけれども、
仏典や聖書にないことも申します。
それは受売りではないのですから、
お経や聖書等に関しても新しい解釈を下します。
「誰の相伝(そうでん:目上の人からつたえられる)
によって、何を根拠としてそう云(い)うか」
などと云われても、誰も先生があって、
そう云う解釈を下すわけではないのであります。

大体、観世音菩薩と云うのは個人ではないのであります。
これは宇宙に満つる「観自在(かんじざい)の原理」が
人格化して愛の姿にあらわれたのです。
法華経(ほけきょう)の普門品(ふもんぼん)
即ち一名「観音經」には、
観世音菩薩は相手に随(したが)って
三十三身に変じどんな姿でもあらわして教えを説く
と書かれております。
観世音とは世の中の音即ち人々の心のヒビキを観じ、
何宗の人にでも適当に真理をといて悟りに
入(い)らしめるのであります。
キリスト教の人にはイエスの姿をあらわして道を説き、
神道の人には白髪白鬚(はくぜん)の住吉大神の
姿をあらわして悟りに導かれるのであって、
何宗に対しても他宗(たしゅう)と云うような
対立的な菩薩ではないのであります。

この運動は谷口個人でやっているつもりでしたが、
前に述べました経路(けいろ)で、
ついに「此(こ)の運動をやっているのは、わしである」
と云うように観世音菩薩が、
生長の家のマークを宝冠(ほうかん)の中央部
につけて出現されるに至ったのであります。
こうなりますと、私が生長の家の運動を起こしている
つもりでしたが、実は「私」が生長の家の運動を
起こしているのではない、
観世音菩薩が生長の家の運動を起こしていられるので、
「私」と云うものは、それは唯の喇叭に過ぎなかった
ということがわかったのであります。
(『新版 真理』第3巻 132.133.140頁)

ありがとうございます。
 

はうらひとひら様 (64205)
日時:2024年03月31日 (日) 14時28分
名前:志恩

はうら様が立てられました生長の家マークの親記事より

>《 ついに「此(こ)の運動をやっているのは、わしである」
と云うように観世音菩薩が、生長の家のマークを宝冠
(ほうかん)の中央部につけて出現されるに到ったので
あります。・・・
私は、地上の何(ど)の書物の受売りでもなく、地上の誰から
の相伝(そうでん)でもない、私は、あの姿をあらわされた
観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)に教えられて、唯の喇叭
(らっぱ)的役目をしているに過ぎないのでありまして、
その功績(こうせき)も功徳(くどく)も「私」にあるのでは
なく、悉(ことごと)く観世音三十三身示現(しんじげん)
の御(お)はたらきにあるのであります。》
(『新版 真理』第3巻 140.141頁)

ところがその『生長の家のマーク』が一度は正常に修正され
つつあったが、突然歪(ゆが)められて、
それがそのまま現在に至っているという
。現在使用されている『生長の家のマーク』は
本部であれ、総本山であれ、地方の教化部であれ、什一会員証
としての色紙のマークであれ、霊牌(れいはい)に冠された
マークであれ、そのほとんどが、理念としての正規の
マークではないという事である。
(形状と色彩)

その為、『生長の家』が分裂し、凋落(ちょうらく)し、
それを象徴するように、竹島の問題、尖閣諸島
(せんかくしょとう)問題、北方領土問題等が起っているという。


それは『生長の家のマーク』で中央に八角形の緑色のマークが
ありますが、これは十字(キリスト教)の四両端に切り込みを
入れて、八角の星の象をしているが、八角は大八洲
(おおやしま)の象徴であり、大八洲は日本の事であり、
宇宙の中心座に日本が位置して、万教を一つの中心に帰一
しているという象徴である。その大八洲が変形されたまま
現在に至っております。

先ず、この事実を知っていただき、それからどうしたら、
正常な理念のマークにもどせるか、を皆様と共に考えたいのです。<
ーーーーーーーーーーー

(はうら様ー)
>観世音普門(ふもん)成就の教】

生長の家は、観世音菩薩が私を喇叭(らっぱ)として
人類を救わんがために、
人類相互(あいたがい)の争いをなくし、
不幸をなくし、貧乏をなくし、すべての人々を幸福にし、
霊(たましい)をも救わんがために出現したところの
教えであります。

仏典や聖書に書いてある事も説明いたしますけれども、
仏典や聖書にないことも申します。
それは受売りではないのですから、
お経や聖書等に関しても新しい解釈を下します。
「誰の相伝(そうでん:目上の人からつたえられる)
によって、何を根拠としてそう云(い)うか」
などと云われても、誰も先生があって、
そう云う解釈を下すわけではないのであります。

大体、観世音菩薩と云うのは個人ではないのであります。
これは宇宙に満つる「観自在(かんじざい)の原理」が
人格化して愛の姿にあらわれたのです。
法華経(ほけきょう)の普門品(ふもんぼん)
即ち一名「観音經」には、
観世音菩薩は相手に随(したが)って
三十三身に変じどんな姿でもあらわして教えを説く
と書かれております。
観世音とは世の中の音即ち人々の心のヒビキを観じ、
何宗の人にでも適当に真理をといて悟りに
入(い)らしめるのであります。
キリスト教の人にはイエスの姿をあらわして道を説き、
神道の人には白髪白鬚(はくぜん)の住吉大神の
姿をあらわして悟りに導かれるのであって、
何宗に対しても他宗(たしゅう)と云うような
対立的な菩薩ではないのであります。

この運動は谷口個人でやっているつもりでしたが、
前に述べました経路(けいろ)で、
ついに「此(こ)の運動をやっているのは、わしである」
と云うように観世音菩薩が、
生長の家のマークを宝冠(ほうかん)の中央部
につけて出現されるに至ったのであります。
こうなりますと、私が生長の家の運動を起こしている
つもりでしたが、実は「私」が生長の家の運動を
起こしているのではない、
観世音菩薩が生長の家の運動を起こしていられるので、
「私」と云うものは、それは唯の喇叭に過ぎなかった
ということがわかったのであります。
(『新版 真理』第3巻 132.133.140頁)<

ーーーーーーーーーーーー

志恩ー
正常な理念の生長の家のマークに戻りますように!


立教95周年 (64426)
日時:2024年04月07日 (日) 22時20分
名前:はうら ひとひら


『生長の家』機関誌令和六年四月号が届きました。

同誌6面から8面に『立教95年 生長の家春季記念日
・生長の家総裁法燈継承祈念式典』
「原理主義に陥らず、
“温故知新”の精神で運動の展開を」として
総裁の講話として三月一日開催の内容が紹介されている。

(要旨)

『1.布教の方法「生長の家七つの光明宣言」の
六項目目教義の布教方法が、
・今日ではインターネットを含めたメデイア全般を
活用した布教活動になっている。
(宗教の使命を全うするためには、
運動も変化しなければならない。)

2.「教えの内容の変化」
宗教目玉焼き論を展開。
教えには不変である“中心部分”と
時代に応じて変化する“周縁部分”がある。
日本国外に伝道する時、日本語や日本の習慣を
元にした例え話は通じなかったり誤解されたりすることが
あるため、説き方を変える必要がある。

3.原理主義の弊害
宗教運動の中には
「文字に書かれた教義が基本で、
絶対に崩してはいけない」として、
文字や教典だけを「つかんでいる」と
信仰が歪む可能性があるとして警鐘を鳴らされた。
現在の国際戦闘問題等は原理主義的な
宗教運動が世界に悪影響を及ぼしている。

4.宗教は古きを訪ねて新しきを知る論語の 
“温故知新”  の精神で前進するべきである。

5.侵略戦争
ウクライナ侵攻は、
日本が国家神道を掲げて昭和天皇を頂点に据え、
侵略戦争を進めた動きによく似ている。

6.今年の運動方針で「与える愛の実践」で
オープン食堂やPBS活動に取り組んで社会に貢献する。
社会とは“地球社会” であり、
人間社会だけでなく地球環境全体に目を向けて貢献しながら、
運動を展開することを促した。』とある。


どさくさに紛れて、実相哲学はもう古いと断じ、
立教の精神の欠片(かけら)すら、見当らない。
宗教の使命である、人類の救済をわすれ、
実相哲学も説かず、何を言っているのか、よくわからない。
瞬々刻々変化する現象を述べているだけであると感じた。
これが今の教えの残骸であると感じた。


《 だいたい戦争なんてものは、
対立の世界のことであって、対立の世界というのは、
「一則多・多即一」という真理を見失ったのが対立です。
それは相対の世界であり、
相対する世界が出て来るその元へ還(かえ)るんです。
元へ。
時間・空間十字の交叉点の一点の中、
「今」の一点に入る。その時に対立がなくなる。
そこに、絶対平和の世界というものが出て来る
ことになるんですね。》
(尊師谷口雅春先生ご講話「久遠の今」より)


《 【教祖に背(そむ)いたことを自覚せぬ弟子たち】

だから釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)、
イエス・キリストをはじめとして
その他無数の偉大なすぐれた宗教教祖が出て来ましても
それで人類が道徳的に善くなったかと言うと
決して善くなっておりません。
それは何故(なぜ)かと言うと、釈迦牟尼如来や
イエス・キリストは真理を正しく教えたけれども、
その教えを祖述(そじゅつ)(宗祖の教をもととして述べ説く)
弟子が、その教祖先生たる釈迦牟尼世尊や
イエス・キリストの教えられた真理を伝えるときに、
それを歪(ゆが)めて伝えたからであります。

すなわち人間の「実相」の完全さを観(み)る様(よう)に
教えることをわすれて、
あべこべに現象の「悪」を見て、
その「悪」を直せと教えるようになったので、
「悪」を見詰めれば、「悪」があらわれると云う
心の法則によって「悪」が消えないことになっている
のであります。
キリストでも「我れ神の子なり」と説き、
「我れ往(ゆ)きて汝らに来(きた)るなり」
と説いて、すべての人間に「神の子」が宿っていて
完全であると云う事を説いたのだけれども、
その弟子の牧師たちは「汝ら神の子」と説かないで、
「汝等(なんじら)罪人よ悔(く)い改めよ」と言った。
だから、キリスト教の牧師はキリストの教えとは
あべこべのことを言ったのである。

人間の悪を強調したら救われるかと思って却(かえ)って
救われないことになる。》
(『新版 真理』別冊 109頁)


《 【愛の絶対価値を高揚(こうよう)する祈り】

生命の神秘、不可思議なる価値は、
そのかけ換(か)えのない絶対なる創造力に
存(そん)するのである。
その一つすらも減(げん)ずることは
絶対価値を減ずることに成るのであるが、
絶対価値は、絶対であるが故に減ずることも滅することも
あり得ないのである。
減じたり、滅したりするものは、
すべて相対価値のものばかりである。
しかし人間が誰かを“愛”したという“愛”は
絶対価値であるが故に、その“愛”は永遠に
滅することも減ずることもないのである。

日本国民が国家を愛して国家を護(まも)るために戦った。
その“戦(たたか)い”という行為は、
相手があり相対的なものであるから、
立場立場の異なる人々によってその価値
・不価値は色々評価されるけれども、
その“戦い”という相対的行為の奥にあるところの
日本国民が天皇を愛し大日本を愛したという
その純忠(じゅんちゅう)なる“愛”の価値は
相対的比較を絶した絶対なるもので
あるから、肉体という相対的存在が滅びても、
永遠にその“愛”の価値が滅びることはないのである。
純粋の愛は、絶対者に属し、
絶対界より出(い)でたものであるが故に、
それは永遠の価値をもっていて滅びることはないのである。》(『聖經 続真理の吟唱』 108〜110)


『・同機関誌
 38〜40頁に『神・自然・人間の大調和祈念祭』が行われた
とある。(三月十一日)

『神・自然・人間は本来一体』の真理への理解と、
神想観の“補助行”としての俳句のすすめ

東日本大震災や原子力発電所が津波で破壊された事にふれ、
「その根底には「人間は地球上で最高の生物」
というおごり高ぶった
「人間中心主義」の生き方がある。
宇宙は人間中心で動いているのではないことを認め、
「神・自然・人間は本来一体」の真理を
広めることが重要である。』
としている。


「神・自然・人間」は
先人たちが説いている。

 ・シラーの「神・自然・人間」

シラーは自然のなかにー ハーマンやヘルダー、ゲーテと
異なるー 成長と消滅をともなう有機的な営みに
溢れる生の流れや、形成と再形成を探し求めることはなく、
合法則性、
【靜かなる創造的な生、自分自身からの靜かな作用、
自分の法則に従った存在、内的必然性、自己との永遠の一致】
を探すのである。

シラーにとって、自然の認識とは自然という
外的対象を直接そのまま捉(とら)えるのではなく、
自己の内面に一端立ち戻り、
自己の認識原理に従って外的対象である
自然を把握することなのである。
(『プロテウス』第4号1999年9月発行)

・ヴイクトール・フォン・ヴアイツゼッカーの
「神・自然・人間」

自然哲学を探究するとは、
自然全体とはそもそも何であるか、
そしてわれわれはこの自然といかなる関係にあるかを
知ろうとすることである。

聖書の創世記の第1章と自然哲学と呼ぶことがどうして
正当なのかというとそれはここで
太陽、月、動物、植物などがあつかわれているためではなくて、
全体として捉えられた自然が、
自然でないところの何ものかに、
つまり神に対比されているからなのです。

自然認識の過程にとって決定的となりうることは
何かというと、創造活動は世界内での自然現象を
創り出すけれども、それ自身は自然現象ではないのです。
私たちの出会った最初の反対命題は、
創造された世界と自立的に考えられた世界との対立であり、
神と共にある世界と
神なき世界との対立であります。
(『神・自然・人間』
ヴアイツゼッカー著・大橋博司訳 1971)


《 【科学者も終(つい)に神の存在に到達す】

われわれがだんだんと自然現象の奥にある根本的な法則や、
原理に近づいて行(ゆ)きますと・・・
その中で、法則の成立(なりた)つ場合を取り出す
ということをしなければならない・・・・
ということは、最後に行きつくところは
秩序と混沌(こんとん)の境目であると云うことです。
混沌たるものに目鼻をこしらえるのも自然自身のほかにはない。
自然が自分自身に秩序を与えているわけであります。」
(『世界』1958年1月号)

此(こ)の湯川博士の云われる
「自然自身が選択している。」
「自然が自分自身に秩序を与えている」
と云う場合の「自然」とは、
物質以前の不可視(ふかし)の本体であるから
「神』なのである。》
(『新版 真理』第10巻 74頁)


《 【 カミの語源について】

第一義の神様ー實相の神様ー即ち宇宙に充ち満ちてをられて、
姿かたちが見えない、
無相(むそう)にして無限の姿の本源の神様。

第二義の神、第三義の神というと、本来の意味から多少はなれて、副次的(ふくじてき)に第二義的、第三義的な意味
に於いて又別の神があるという意味であります。
第二義の神様と申しますと、例えば、
観世音菩薩であるとか、白髪の老翁(ろうおう)の
姿をして多くの誌友の霊眼(れいがん)に生長の家の神様
として現れた神様というような方であります。
ところが第三義の神様というのは、簡単にいえば、
霊魂(れいこん)即ち霊魂(みたま)の神であります。

自然靈は第三義の神様の部に入る。
空気が地表を蔽(おお)っているのに、
機械も装置もなくて、空気を抜いて真空にするということは、
既に科学を超えた神秘の世界の出来事であります。
(竜巻のおこることについて)
低気圧でも同じことです。
その低気圧が何時(いつ)何処(どこ)に生(しょう)ずるか
ということは、予言することもどうすることも計算する
ことも出来ないのです。
何故なら、それは自然靈という
「生きもの」が自由意志で動かしているからであります。
人間の心が和順(わじゅん)して天候を司(つかさど)る
自然靈を怒(おこ)らせぬ様に、
調和したような状態のなりますと、
昨年のような豊作が出来るということになる訳であります。》
(昭和31年の講話)
(『神ひとに語り給ふ』神示講義 教の巻
「萬教帰一の神示講義)108.111.113.頁)


《 【実相を観ずる歌】
一、
神はすべたのすべて、 神は完(また)き生命(いのち)
神は完き叡智(みちえ)、 神は完き聖愛(みあい)。

すべてのものの内に、 神の生命は生(い)くる、
神の叡智は生くる、 神の聖愛は生くる。

神はすべてにして、 すべて一体(ひとつ)なれば、
よろずもの皆共通(ひとつ)の ちから是(これ)を生かせり。

天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)は、
唯一つの神にませば、 天地はただ一つに、
いと妙(たえ)に調和満つる。

吾坐す妙々実相世界 
吾身は金剛実相神の子
万(よろ)ず円満大調和 
光明遍照(へんじょう)実相世界。

二、
神は生命(いのち)にして、 吾れは神の子なれば、
吾れはすべてを生かし、 すべては吾れを生かす。

神は愛にして、 吾れは神の子なれば、
吾はすべてを愛し、 すべては吾れを愛す。

神は智慧にして、 吾れは神の子なれば、
吾れはすべてを知り、 全てのもの吾れを知れり。

神はすべてにして、 吾れは神の子なれば、
吾れ祈れば天地応(こた)え、吾れ動けば宇宙動く。

吾坐す妙々実相世界 
吾身は金剛実相神の子
万(よろ)ず円満大調和 
光明遍照(へんじょう)実相世界》
(聖歌「実相を観ずる歌」)


実相は常に新しく、実相は常に新生である。
実相は常に「今」である。吾「今」新生す。
温故知新などという前に、
この聖歌を常に口ずさみ実相の浄土に住みましょう。

ありがとうございます。

はうらひとひら様   (64429)
日時:2024年04月07日 (日) 23時24分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)
【立教95周年 】

>『生長の家』機関誌令和六年四月号が届きました。

同誌6面から8面に『立教95年 生長の家春季記念日
・生長の家総裁法燈継承祈念式典』
「原理主義に陥らず、
“温故知新”の精神で運動の展開を」として
総裁の講話として三月一日開催の内容が紹介されている。

(要旨)

『1.布教の方法「生長の家七つの光明宣言」の
六項目目教義の布教方法が、
・今日ではインターネットを含めたメデイア全般を
活用した布教活動になっている。
(宗教の使命を全うするためには、
運動も変化しなければならない。)

2.「教えの内容の変化」
宗教目玉焼き論を展開。
教えには不変である“中心部分”と
時代に応じて変化する“周縁部分”がある。
日本国外に伝道する時、日本語や日本の習慣を
元にした例え話は通じなかったり誤解されたりすることが
あるため、説き方を変える必要がある。

3.原理主義の弊害
宗教運動の中には
「文字に書かれた教義が基本で、
絶対に崩してはいけない」として、
文字や教典だけを「つかんでいる」と
信仰が歪む可能性があるとして警鐘を鳴らされた。
現在の国際戦闘問題等は原理主義的な
宗教運動が世界に悪影響を及ぼしている。

4.宗教は古きを訪ねて新しきを知る論語の
“温故知新” の精神で前進するべきである。

5.侵略戦争
ウクライナ侵攻は、
日本が国家神道を掲げて昭和天皇を頂点に据え、
侵略戦争を進めた動きによく似ている。

6.今年の運動方針で「与える愛の実践」で
オープン食堂やPBS活動に取り組んで社会に貢献する。
社会とは“地球社会” であり、
人間社会だけでなく地球環境全体に目を向けて貢献しながら、
運動を展開することを促した。』とある。<

(はうらひとひら様ー)
>どさくさに紛れて、実相哲学はもう古いと断じ、
立教の精神の欠片(かけら)すら、見当らない。
宗教の使命である、人類の救済をわすれ、
実相哲学も説かず、何を言っているのか、よくわからない。
瞬々刻々変化する現象を述べているだけであると感じた。
これが今の教えの残骸であると感じた。略<

志恩ー
これは、ひどい!!!!!!
私は今は教団の機関誌は、とっておりませんので、
どんなことが書いてあるのか、存じませんでしたが、
内容を、かいつまんで書いてくださいまして、
ありがとうございました。

実に、驚愕するあっけらかんとした殺伐とした
内容ですね。
すごく巧妙な言い回しで、元の教えを大否定する
内容そのもので、心底、がっかりしました。
どこが、元へ戻ろうとしている、、と言えるのでしょう。
これを読まれた信徒さんたちは、あきれて、皆様が
雅宣様のもとから去っていくはずだと痛感しました。
雅宣様は、批判は全て悪口と捉えていますから
何も、自分のことが、見えていないのです。
今、現在、こんなになってしまったことに対する
生長の家教団の総裁としての、トップとしての、
反省の心が微塵もないから、前に進めないのです。


現信徒の皆様もそうですが、
現教団所属の皆様方も、大丈夫でしょうか。
皆様、体調を崩されませんように心からご安寧をお祈り
申し上げます。



(はうらひとひら様ー)
>略
神はすべてにして、 吾れは神の子なれば、
吾れ祈れば天地応(こた)え、吾れ動けば宇宙動く。

吾坐す妙々実相世界 
吾身は金剛実相神の子
万(よろ)ず円満大調和 
光明遍照(へんじょう)実相世界》
(聖歌「実相を観ずる歌」)


実相は常に新しく、実相は常に新生である。
実相は常に「今」である。吾「今」新生す。
温故知新などという前に、
この聖歌を常に口ずさみ実相の浄土に住みましょう。<


志恩ー
私も実相観ずる歌を心に口ずさみながら、
何も考えないように..、
今夜も、心穏やかにして、寝るようにいたします。
ありがとうございます。


 (64555)
日時:2024年04月13日 (土) 15時34分
名前:神の子

割り込み失礼します。

そのマークを正規の形に戻す運動の目的って何ですかね?それ自体が目的ですか?

それか象徴が歪むと行動が歪む。実際、今は象徴のマークが歪んでるから教義も歪んでいると認識して現総裁の奇妙なご指導を是正して教団を正常化する為の運動の一環でしょうか?

 (64557)
日時:2024年04月13日 (土) 15時42分
名前:神の子

昔、民主党の小沢一郎さんが竹島に関しての教科書の記述に関して『現に今は韓国が実効支配してるのに教科書にだけ竹島は日本固有の領土です。と云う文章を書き加えたって意味は無いだろう?』とかの主旨の発言してたのを思い出しました。

マークさえ正常化出来たら教義も正常化出来ますかね?

64555神の子 様へ (64563)
日時:2024年04月14日 (日) 09時40分
名前:はうら ひとひら


【64555】神の子様

お問合せいただきまして、
ありがとうございます。
いみじくもご自身で回答(解答)されておられると思い
感謝いたします。

>「象徴が歪むと行動が歪む。
実際今は象徴のマークが歪んでいるから、
教義も歪んでいると認識して、
教団を正常化する運動の一環でしょうか。<

まさにご指摘の通りだと思います。

『久遠天上理想國實現の神示』
(昭和八年十二月二十五日初版発行で
『生命の實相』の中で唯一つ名称の異なる聖典
『久遠の實在』(復刻版417頁には
【『大生長の家』に就(つい)いての神示】
名となっておりますが)

『秘められた神示』神示講義秘の巻 148頁に
『久遠天上理想國實現の神示』がご教示されておりますが、

《 『生長の家』とは人間が附(つ)けた名ではない。
神がつけさせたのである。

形の世界が心の世界の影であることが解(わか)り、
實相世界が久遠常住の世界であると云うことが
判(わか)れば久遠皇統(こうとう)連綿(れんめん)
と云うことは實相世界の久遠常住性が
最も迷いの念なしに形に顕(あらわ)れたのが
日本圀だと云うことが解(わか)るのである。》
(同書151.153頁)

観世音菩薩が生長の家の象徴としてのマークを
つけて顕れたのは、
万教帰一の教えの理念を唯一説かれた
生長の家の出現意義と、
大八洲(日本国)の世界的使命を形として、
示されたと思います。
その象徴の大八洲が現象界で歪んでいれば、
行動、日常、思考、教義、環境、現象としての現れ、
人類の救済の使命の行動、等々
全てが歪んで現われるのは、
当然の事と思います。

生長の家(現象界)の再生、復興は
このマークを正規に戻すところから始まると思います。

ありがとうございます。






英霊へのミサ (64567)
日時:2024年04月14日 (日) 15時05分
名前:はうら ひとひら


前回の立教95周年の記載の
5.侵略戦争の件の補追です。

「 1980年(昭和55年)5月21日
パウロ6世の遺志を引き継いだ教皇ヨハネ・パウロ2世は
日本の大東亜戦争時のA級戦犯、B級戦犯、C級戦犯
として処刑された英霊へのミサをサンピエトロ大聖堂で
行い、A級戦犯、B級戦犯、C級戦犯として処刑された
英霊1068柱の位牌が奉納された。

アメリカ人、メリノール宣教会のパトリックバーン神父
(当時、上智大学学長)は
「いかなる国家も、その国家の為に死んだ戦士に対して
敬意を払う権利と義務がある。
それは戦勝国か敗戦国かに関われず、平等の真理でなければ
ならない。」と云われた。
(wikipedia.,google chrome)

尊師のご教示の証として。

ありがとうございます。








中心帰一の事 (64684)
日時:2024年04月21日 (日) 14時34分
名前:はうら ひとひら


昭和35年2月15日初版発行の
『菩薩は何を為すべきか』の聖典があります。

優れた人類光明化運動論だと思いますが、
実はこの第九条の解釈が信徒の足枷になって
いるのではないかと思われます。

教団、教化部は何かというと、この九条を
引き合いにだして
「総裁先生に中心帰一しましょう」と引き締めにかかります。
正に光圀公の印籠のようである。

第九条にはこのように記載されております。

《 「第九条
生長の家の各員は、如何に運動の分野が多岐にわたり
組織が複雑化すると雖(いえど)も、光明化運動の
中心が何であるかを常に見失うことなく明らかに自覚
して行動すべきである。
生長の家大神ー 総裁・副総裁ー 御教(みおしえ)。
この三つを結び貫く神意の展開が、光明化運動の不動の
中心である事を、生長の家人(じん)たるものは一瞬たり
ともわすれてはならない。

光明化運動に於(お)いては人が中心ではない。
神意が中心である。

生長の家の本部は“実相の世界”にあるということが、
『生命の實相』総説篇の冒頭に宣言されているので
ありまして地上の生長の家の本部が事務を執(と)って
いる所の建物の如きは、地上で仕事をする為の
中央事務所に過ぎないのであります。》
(『新版 菩薩は何を為すべきか』54〜57頁)

ここで神意という御言葉が出てきます。
神のご意志。神威(みいつ)。御厳(みいつ)。
御稜(みいつ)。御威光。
神の御心(みこころ)であります。
ありのまま、なんの計らいもなく、天地を創造せられた
御心、神そのままの御心。
天国の地上浄土への展開の御心であります。

この神とは、エロヒム神であり、エホバ神では
ありません。(念の為)

その理解が少ない為に、今地上での混乱がなされていると
思います。もう一度、立ち止まって、原点から出発しましょう。

ありがとうございます。






はうらひとひら様 (64702)
日時:2024年04月21日 (日) 20時00分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)
>「中心帰一の事 」
昭和35年2月15日初版発行の
『菩薩は何を為すべきか』の聖典があります。

優れた人類光明化運動論だと思いますが、
実はこの第九条の解釈が信徒の足枷になって
いるのではないかと思われます。

教団、教化部は何かというと、この九条を
引き合いにだして
「総裁先生に中心帰一しましょう」と引き締めにかかります。
正に光圀公の印籠のようである。
(後略)



志恩ー
確かに教団は、「総裁先生に中心帰一しましょう」
と引き締めにかかります。よね。

真の意味は、人間に  中心帰一するのではなく
エロヒム神に 中心帰一しましょうですよね。

光明化運動に於いては人が中心ではなく
神意が中心でありますのに。

大事なことを、述べてくださいまして、
ありがとうございます。







何故、万教は帰一するか? (64859)
日時:2024年04月30日 (火) 16時55分
名前:はうら ひとひら


《 釈尊でもイエスでも、
自分で教を書かなかったことはまことに残念なことである。
それだから、それを伝えた人たちの悟(さとり)の程度や、
聞違いや、伝え誤りや色々のものが混入(こんにゅう)して
いるのである。

そこで一ぺんそれらの混入物を取除いて
本当の純粋な人間を救う真理だけを抽出(ちゅうしゅつ)する
必要があるのであります。

經文(きょうもん)や聖書の章句のどこに重点を置くか
によって諸宗諸派(しょしゅうしょは)がわかれて
来ることになるのであります。

併(しか)し諸宗、諸派に分れた宗教も、
偏(かたよ)ったところに重点を置かないで、
生粋(きっすい)の真理だけに重点を置くことを
見出すならば、諸宗諸派は共通の同一真理に
到著(とうちゃく)するのであります。

これを生長の家では、“万教帰一”
といっているのであります。

甲(こう)の宗教と乙(おつ)の宗教と、
丙(へい)の宗教とがあるとします。
どの宗教も人間の魂(たましい)を救う力があるとするならば、
すべての人間はその生理的構造や形態が同一である
点から見ても、一つの同じ神秘力(しんぴりょく)
(これを神と称(しょう)しても、久遠の本仏(ほんぶつ)
と称しても、アラーの神と称しても、
ゴッドと称しても、それは人種により宗教により、
人間が勝手に名称をつけるので、何と名附(なづ)けようとも
好(よ)い)から生まれたということは明かであります。

だからそれを救う真理は、
宗教、宗旨(しゅうし)教派等の如何(いかん)
に拘(かかわ)らず、同一の真理であるということであります。

だから人間を救う真理が何であるかということを
知ろうと思うと、共通しないところのものをふるいにかけて
排除(はいじょ)して、共通のものだけを残せば、
それが本当に人間を救う真理だと分かる訳であります。

これを譬喩(たとえ)をもって説明すれば、
人間は物質的方面からそれを生かしている成分
又は条件は何であるか、
つまり生物発生の必要条件は何であるか、
生命が生きていられる条件は何であるかーー
を知ろうと思えば、その生物の名前が、
犬であろうと、牛であろうと、魚であろうと、
鰐(わに)であろうと、ミミズであろうと、
はた又人間であろうと、その共通的条件をさぐれば、
およそ生物を生かしている真理
(この場合は物質的方面からの科学的真理)は共通になる、
即(すなわ)ち其処(そこ)に空気があること、
水分があること、窒素(ちっそ)化合物なるアミノ酸
又は蛋白質(たんぱくしつ)があること、
ある程度の温度があることーー
というような共通の生化学的真理に到達するのであります。

そして共通でないものは、
その生活する環境等の特殊事情によるのであります。
つまり眼があるとか、眼がないとか、
手はないかわりに鰭(ひれ)があるとか、
脚(あし)がないかわりに尻尾(しっぽ)があるとか、・・・・
そんな色々の生物によって共通しないところの
異(ことな)るところは、
必ずしも生物になくてはならないーー
それがなくては生きられない、
生命顕現(けんげん)に必須(ひっす)のものでは
ないということであります。

それと同じように、宗教上の人間の魂が救われる
真理も各宗に共通でないところの教義は、
それはその宗教発生の時代、環境、人種、常識、
一般の教養及び理解の程度に従っての特殊事情による
派生的(はせいてき)なものであって、
それがなければ魂が救われないという
根本的なものではないのであります。

そして真に各宗に共通的な真理こそ本当に、
“人間を救う真理”ーー
それがなくては人間は救われないというところの真理ーー
なのであります。
万教帰一というのは、生長の家では、
このようにあらゆる宗教に共通する真理を
純粋に抽出(ちゅうしゅつ)してそれを説(と)いて
あらゆる宗教の神髄(しんずい)は
共通同一の真理に帰一するということを示すのであります。

だから、生長の家に入教(にゅうきょう)なさいましても、
本尊(ほんぞん)は宇宙を貫(つらぬ)いて存在する
「生命の本源者(ほんげんしゃ)」でありますから、
それは仏教では大日如来(だいにちにょらい)とも
阿弥陀仏(あみだぶつ)とも称する訳であり、
キリスト教では、“天の父”又は“神(ゴッド)”であり、
神道では天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)ーー
その御顕現(ごけんげん)としての
天照大御神(あまてらすおおみかみ))・
住吉大神(すみよしのおおかみ)・
塩椎神(しおつちのかみ)であり、
マホメット教ではアラーの神であり、
名称は異れども、その御本体は同一でありますから
改宗(かいしゅう)する必要はないのであります。
(『女の生き甲斐』250〜252頁)

ありがとうございます。













はうらひとひら様 (64873)
日時:2024年05月01日 (水) 03時28分
名前:志恩

はうら様ー
【何故、万教は帰一するか? 】

《 釈尊でもイエスでも、
自分で教を書かなかったことはまことに残念なことである。
それだから、それを伝えた人たちの悟(さとり)の程度や、
聞違いや、伝え誤りや色々のものが混入(こんにゅう)して
いるのである。

そこで一ぺんそれらの混入物を取除いて
本当の純粋な人間を救う真理だけを抽出(ちゅうしゅつ)する
必要があるのであります。

經文(きょうもん)や聖書の章句のどこに重点を置くか
によって諸宗諸派(しょしゅうしょは)がわかれて
来ることになるのであります。

併(しか)し諸宗、諸派に分れた宗教も、
偏(かたよ)ったところに重点を置かないで、
生粋(きっすい)の真理だけに重点を置くことを
見出すならば、諸宗諸派は共通の同一真理に
到著(とうちゃく)するのであります。

これを生長の家では、“万教帰一”
といっているのであります。

甲(こう)の宗教と乙(おつ)の宗教と、
丙(へい)の宗教とがあるとします。
どの宗教も人間の魂(たましい)を救う力があるとするならば、
すべての人間はその生理的構造や形態が同一である
点から見ても、一つの同じ神秘力(しんぴりょく)
(これを神と称(しょう)しても、久遠の本仏(ほんぶつ)
と称しても、アラーの神と称しても、
ゴッドと称しても、それは人種により宗教により、
人間が勝手に名称をつけるので、何と名附(なづ)けようとも
好(よ)い)から生まれたということは明かであります。

だからそれを救う真理は、
宗教、宗旨(しゅうし)教派等の如何(いかん)
に拘(かかわ)らず、同一の真理であるということであります。

だから人間を救う真理が何であるかということを
知ろうと思うと、共通しないところのものをふるいにかけて
排除(はいじょ)して、共通のものだけを残せば、
それが本当に人間を救う真理だと分かる訳であります。



宗教上の人間の魂が救われる
真理も各宗に共通でないところの教義は、
それはその宗教発生の時代、環境、人種、常識、
一般の教養及び理解の程度に従っての特殊事情による
派生的(はせいてき)なものであって、
それがなければ魂が救われないという
根本的なものではないのであります。

そして真に各宗に共通的な真理こそ本当に、
“人間を救う真理”ーー
それがなくては人間は救われないというところの真理ーー
なのであります。
万教帰一というのは、生長の家では、
このようにあらゆる宗教に共通する真理を
純粋に抽出(ちゅうしゅつ)してそれを説(と)いて
あらゆる宗教の神髄(しんずい)は
共通同一の真理に帰一するということを示すのであります。》
(略)
(『女の生き甲斐』250〜252頁)

志恩ー
万教帰一について、谷口雅春先生は、ポイントを
大変わかりやすく書いてくださっている箇所を、
はうらひとひら様は、いつもながらのことですが、
ピンポイントで見つけ出されまして、ご提示くださいまして
誠にありがとうございます。

フ と思う事 (65008)
日時:2024年05月08日 (水) 17時19分
名前:はうら ひとひら

5月の連休(祝日)の間隙を縫うようにして、
教化部の講師会から資料が届いた。
私は末端の講師補であり
(地方講師には4つの階級があり講師補ー教化員ー準教務ー教務)さらに組織としての活動はほとんどしていないのですが、
私のような者にも送って戴いて、申し訳なく思っています。
主に本部からの「地方講師研修会のテーマ」
(これを基にして、誌友会での講話がされるらしい。
らしいというのは、私は一度も他の誌友会に行った亊もないし、
それに従った事もないのですが。)
4月〜7月までとなっています。

講師会会長(女性)からのメッセージで
「先日、国際本部講師教育課谷口暁子課長より、
講師バッチの取り扱いについて細心の注意を払うよう
直々にご注意がありました。
万一講師バッチを紛失されると、
生長の家の講師の資格のない人が成りすます
危険がある等、悪用される可能性もあるためです。
裏を返せば、生長の家の講師として知られれば、
その言動は講師としてのものとして受け取られるという亊であり、更に言えば、地方講師の辞令をいただいた以上は、
教区の教化と活動の発展に尽くす責任があるということ
ではないでしょうか。
本部からの資料を是非活用し、正しく教えを理解し、
教化力を養って、自信をもって活動に邁進いたしましょう。

ー我神を選びしに非ず、神我を選びしなりー

とありました。

その内容は例えば5月度:
『地球温暖化や環境破壊、人間同士の紛争の根本的な原因である「人間至上主義」「人間中心主義」とはどのような考え方か。』
テキスト:谷口雅宣先生著『大自然讃歌』
「自然と人間を観ずる祈り』

7月度:
2024-3-1「立教95年生長の家春季記念日」お言葉より
『原理主義にはどのような特徴があるか』
『「宗教目玉焼き論」とはどのような考えか』
『万教帰一の教えと原理主義とはどのような関係にあるか』
テキスト:谷口雅宣先生著『宗教はなぜ都会を離れるか』
『信仰による平和の道』
谷口雅宣先生監修『歴史から何を学ぶか』

5月度は講師研修会終了後『石上げの御(み)祭』
をおこないます。

私(はうら)の所属する教区では、
現在、白鳩会の誌友会が125箇所で開催されています。
(以前は146箇所)
相愛会の誌友会は5箇所(以前は48箇所でした)
上記のことが主テーマとして講師が話している所を想像した
だけで、倒れそうになります。

もう一度私(はうら)は自分が所持している
『生長の家 地方講師徽章(きしょう)』をながめて、
原因はこの歪んでいびつな徽章にある事を、
つくずく思いました。

ところで、尊師が生長の家の地方講師の事に
言及されている聖典の箇所があります。

《 兎(と)も角(かく)、
宗教によって人を救おうと思うものは、
その教えをする面に於いては一寸(ちょっと)でも
「自分の生活のため」などという職業意識的な利己精神を
捨てなければならないのであります。
そして神の受信機となり、
テレビのように自己が講話するところに、
神があらわれるというほどにならなければなりません。
生長の家の地方講師のように、
講師を生活に必要な職業とせず、
完全に奉仕精神を貫き得る位置におられる人たちは、
自己の生計と、講師の聖職とを混同しないでいられる
位置にあられるのでありますから、
どうぞその聖職の意義を悟って、
「人類を生かしたい」「兄弟を生かしたい」
の愛他的精神に成り切って、
神様の完全なアンテナになり切って
生活に規範を示し、神様の教えを純粋に感受して
歪みなく教えを伝えられたいものであります。》
(『到彼岸の神示 神示講義・自覚の巻
「生死の教』神示講義 153.154頁)

ありがとうございます。






はうらひとひら様 (65011)
日時:2024年05月08日 (水) 18時35分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)
>略
主に本部からの「地方講師研修会のテーマ」
(これを基にして、誌友会での講話がされるらしい。
らしいというのは、私は一度も他の誌友会に行った亊もないし、
それに従った事もないのですが。)
4月〜7月までとなっています。

講師会会長(女性)からのメッセージで

「先日、国際本部講師教育課谷口暁子課長より、
講師バッチの取り扱いについて細心の注意を払うよう
直々にご注意がありました。
万一講師バッチを紛失されると、
生長の家の講師の資格のない人が成りすます
危険がある等、悪用される可能性もあるためです。
裏を返せば、生長の家の講師として知られれば、
その言動は講師としてのものとして受け取られるという亊であり、更に言えば、地方講師の辞令をいただいた以上は、
教区の教化と活動の発展に尽くす責任があるということ
ではないでしょうか。
本部からの資料を是非活用し、正しく教えを理解し、
教化力を養って、自信をもって活動に邁進いたしましょう。

ー我神を選びしに非ず、神我を選びしなりー

とありました。

その内容は例えば5月度:
『地球温暖化や環境破壊、人間同士の紛争の根本的な原因である「人間至上主義」「人間中心主義」とはどのような考え方か。』
テキスト:谷口雅宣先生著『大自然讃歌』
「自然と人間を観ずる祈り』

7月度:
2024-3-1「立教95年生長の家春季記念日」お言葉より
『原理主義にはどのような特徴があるか』
『「宗教目玉焼き論」とはどのような考えか』
『万教帰一の教えと原理主義とはどのような関係にあるか』
テキスト:谷口雅宣先生著『宗教はなぜ都会を離れるか』
『信仰による平和の道』
谷口雅宣先生監修『歴史から何を学ぶか』

5月度は講師研修会終了後『石上げの御(み)祭』
をおこないます。

私(はうら)の所属する教区では、
現在、白鳩会の誌友会が125箇所で開催されています。
(以前は146箇所)
相愛会の誌友会は5箇所(以前は48箇所でした)
上記のことが主テーマとして講師が話している所を想像した
だけで、倒れそうになります。<

志恩ー
ここまで、読ませていただいて、
国際本部講師教育課谷口暁子課長は、噂のとおり、
最低な人間だと思いました。
私も、倒れそうになりました。
信徒が激減してゆくのは、無理がないと
痛感いたしました。
しかし、三代目さんの娘さんだからということで、
その酷さについては、皆さん、分かっておりますが、
誰一人、反論ができないのだとも、聞いております。
思い切って、本音を申し上げれば、
誠にも、なげかわしいことですよね。

(はうらひとひら様ー)
>もう一度私(はうら)は自分が所持している
『生長の家 地方講師徽章(きしょう)』をながめて、
原因はこの歪んでいびつな徽章にある事を、
つくずく思いました。

ところで、尊師が生長の家の地方講師の事に
言及されている聖典の箇所があります。

《 兎(と)も角(かく)、
宗教によって人を救おうと思うものは、
その教えをする面に於いては一寸(ちょっと)でも
「自分の生活のため」などという職業意識的な利己精神を
捨てなければならないのであります。
そして神の受信機となり、
テレビのように自己が講話するところに、
神があらわれるというほどにならなければなりません。
生長の家の地方講師のように、
講師を生活に必要な職業とせず、
完全に奉仕精神を貫き得る位置におられる人たちは、
自己の生計と、講師の聖職とを混同しないでいられる
位置にあられるのでありますから、
どうぞその聖職の意義を悟って、
「人類を生かしたい」「兄弟を生かしたい」
の愛他的精神に成り切って、
神様の完全なアンテナになり切って
生活に規範を示し、神様の教えを純粋に感受して
歪みなく教えを伝えられたいものであります。》
(『到彼岸の神示 神示講義・自覚の巻
「生死の教』神示講義 153.154頁)<

志恩ー
教団内部の様子は、教団に所属されているお方でないと
知る由もないことです。
教えてくださいまして、誠にありがとうございます。

これも偽物というのですか (65014)
日時:2024年05月08日 (水) 22時45分
名前:バッチについて

生長の家特志家族徽章

色は金色と銀色のみです。
色まで規定のものがあるのなら何故地方講師徽章のように色を付けてないのでしょうか。
光明実践委員の徽章も同じです、少し小さいですが。

バッチについて様 (65018)
日時:2024年05月09日 (木) 14時20分
名前:はうら ひとひら


バッチについて様

ありがとうございます。
生長の家特志家族徽章のお問合せありがとうございました。
画像をA4サイズに拡大しまして、バッチの外形がおよそ
173mmにしまして、コピーをし、大八洲のそれぞれの
2辺の寸法を測ってみました。
画像は影の部分等がありましたが、形状は、谷口雅春先生が
ご指定された形状であると(正規品)思います。
(簡易的に見ましても、逆まんじの横上端が縦の星形
の凹みよりも十分上にありますので、星は歪んで
いないと思います。)
色につきましては、本部員のバッチも色が異なりますし、
他と区別されるために、金と銀を使用されたものと
思います。
本物に出会えて嬉しいです。

ありがとうございます。

観世音菩薩の事 (65184)
日時:2024年05月19日 (日) 11時44分
名前:はうら ひとひら


《 観世音菩薩はその姿を拝するに、
頭に冠(かんむり)をかむっておられて、
その冠の正面の真中に阿彌陀如来(あみだにょらい)
の像が刻んであるのであります。
それは何を意味するかというと、
観世音菩薩の本地は阿彌陀如来であって、
阿彌陀如来の慈悲の現れとして人格的にあらわれて
おられるのが観世音菩薩であるというわけであります。
阿彌陀如来は“盡十方無礙光如来
(じんじっぽうむげこうにょらい)”と称されるように、
“十方”即(すなわ)ち“あらゆる方角”を
盡(つく)してどこにも満たさざることなき
無礙(むげ)の光である。
“礙(げ)”というのは“障礙物(しょうがいぶつ)”
の礙(がい)であってどんなものも障礙物とならないで
一切の処に行きわたっているところの光であります。
どんな固いコンクリートの壁の中でも鐵(てつ)の中でも、
我々の骨の中でも、歯の中でも
盡十方、總(あら)ゆる所、總ゆる方角をことごとく
盡して、どこにでも充ち満ちて居られる
“救いの光”であります。

だから、盡十方無礙光如来としての阿彌陀佛は
宇宙を貫くところの光であって個別的ではないのであります。
その普遍的な本源神が、人の悩み苦しみを見て、
「ああ可哀相じゃ、何とか救ってあげたい」
と救いの霊波、慈悲の霊波を送られたーー
その慈悲の波が人格的に姿をあらわすーー
それはちょうど放送局から送られた電波が
テレビの画面に現れるようにであります。
そういうように、宇宙の本源神が救いのために、
或る人格的な姿をもって現れて来られるのを
「天使」と申し上げるのであります。
それで佛教で観世音菩薩とか、普賢菩薩とか、
勢至菩薩とかいわれるような菩薩たちは
みな天使であるわけであります。》
(『新講 『甘露の法雨』解釋』18.19頁)

《 けれども佛教の経典の中には「甘露の法雨」
という言葉が所々に出て来るのでありますが、
「法華経」の「観世音菩薩普門品(ふもんぼん)第二十五」
という一節に観世音菩薩の功徳が詳しく説かれているので
ありますが、そこには、こういう風に書かれてありますーー

「悲體雷震(ひたいらいしん)を戒(いさ)め、
慈意(じい)妙なる大雲のごとし。
“甘露の法雨”を澍(そそ)ぎて、煩悩の燄(ほのお)を
滅除し給う」

これは、「観世音菩薩」の神通力と慈悲のことが
書いてあるのでありますが
観世音菩薩の「悲體」即ち慈悲の體が、
雷やら地震やらーこれは天災でありますけれども、
現代で言うならば原子爆弾とか水素爆弾とかいうものも、
この中に入っている訳であります。
ーその観世音菩薩の「悲體」即ち「慈悲の體」が、
原子爆弾も水素爆弾もそれを戒(いさ)めて、
その被害を無からしめ給うのが観世音菩薩であると
普門品に示されているのであります。
そして観世音菩薩の慈悲の心は妙なる大雲の如く、
無限に湧き出て来て、その慈悲の雲から
『甘露の法雨』を澍ぎ給うて、
衆生の煩悩の燄を滅除し給うというのであります。

何故なら、煩悩即ち「迷いの心」が消え去って、
人間の心が浄(きよ)まれば、
自然に迷いの現れであるところのすべての
悪い現象が消えてしまう訳でありますから、
『甘露の法雨』を読誦(どくじゅ)することによって
悪い現象が悉(ことごと)く消え去って、
不幸がなくなり、病気がなくなっても不思議ではない
訳なのであります。》
(『新講 『甘露の法雨』解釋』318〜320頁)

ありがとうございます。












はうらひとひら様 (65194)
日時:2024年05月20日 (月) 07時32分
名前:志恩

はうら ひとひら様ー

>【観世音菩薩の事】

《 観世音菩薩はその姿を拝するに、
頭に冠(かんむり)をかむっておられて、
その冠の正面の真中に阿彌陀如来(あみだにょらい)
の像が刻んであるのであります。

それは何を意味するかというと、
観世音菩薩の本地は阿彌陀如来であって、
阿彌陀如来の慈悲の現れとして人格的にあらわれ
(略)
(『新講 『甘露の法雨』解釋』18.19頁)

(略)
「悲體雷震を戒め、
慈意妙なる大雲のごとし。
“甘露の法雨”を澍(そそ)ぎて、煩悩の燄(ほのお)を
滅除し給う」

これは、「観世音菩薩」の神通力と慈悲のことが
書いてあるのでありますが
(略)
その慈悲の雲から
『甘露の法雨』を澍ぎ給うて、
衆生の煩悩の燄を滅除し給うというのであります。

何故なら、煩悩即ち「迷いの心」が消え去って、
人間の心が浄(きよ)まれば、
自然に迷いの現れであるところのすべての
悪い現象が消えてしまう訳でありますから、
『甘露の法雨』を読誦(どくじゅ)することによって
悪い現象が悉(ことごと)く消え去って、
不幸がなくなり、病気がなくなっても不思議ではない
訳なのであります。》
(『新講 『甘露の法雨』解釋』318〜320頁)<

志恩ー
『新講 『甘露の法雨』解釋』より 観世音菩薩様のことが
詳しく解説してくださっている部分を
はうら様が、謹写してくださいましたので、
観世音菩薩様についてのことが、詳しくわかることが
できました。

いつもピンポイントで、重要な部分を探してくださって、
謹写してくださいまして、大変勉強になります。

この度も、ありがとうございました。

観世音菩薩を称(たた)うる祈り (65277)
日時:2024年05月26日 (日) 16時26分
名前:はうら ひとひら


《 この世界は観世音菩薩の妙智力(みょうちりき)を
示現(じげん)せる世界であるのである。
観世音菩薩とは単なる一人の菩薩の固有名詞ではないのである。
それは宇宙に満つる大慈悲(だいじひ)であり
妙智力であり、“心の法則”であるのである。
観世音とは世の中の一切衆生の心の音(ひびき)を
観じ給いて、それを得度(とくど)せんがために、
衆生の心相応の姿を観(かん)じたまう
「観自在(かんじざい)の原理」であり、
「大慈悲」である。
三十三身に身を変じてわれわれを救いたまうとは
この事である。
“心の法則”として、衆生の心に従って、
その姿をあらわしたまう事その亊が
大慈悲なのである。

観世音菩薩は、あらゆる姿とあらわれて、
私たちに救いの説法を宣示(せんじ)したまうのである。
山々のたたずまい、雲の行(ゆ)きかい、
風の韻(ひび)き、水の流れーーーーー
ことごとく観世音菩薩の慈悲の説法である。
心に耳ある者は聴(き)け、心に眼ある者は見よ。

さらに観世音菩薩は、私たちの周囲の人々の姿となって、
私たちに真理の説法を常になし給うのである。
意地悪(いじわる)と見える人の姿も、
彼が意地悪なのではないのであって、
私たち自身の心の何処(どこ)かに、
“意地悪”なものがあるのを、
観世音菩薩が観じたまうて、
それをあらわしていられるのである。

だから他(ひと)を憎(にく)んではならないのである。
観世音菩薩は或(ある)いは父となり母となり、
或は良人(おっと)となり妻となり、
或は兄弟姉妹となり小姑(こじゅうと)ともなり、
或は、社長とも重役ともなり、同僚ともなり
下役(したやく)ともなりて、常に何かを語(かた)り給う。
心に耳あるものは聴くべし、心に眼ある者は見るべし。

預言者は遠くにあらず、山にあらず、街頭にあらず、
今ここにあるのである。私自身の内にあるのである。
自己の想念するところのものが外にあらわれ、
自己の信ずるところのものが外界にあらわれ、
自己の語るところのものが他者にあらわれるのである。
想(おも)うこと、信ずること、語ることが予言となって、
やがて実現する時期がくるのである。

されば私たちは悪(あ)しき亊、憎むべきこと、
暗いこと、消極的なことを想ってはならない、
信じてはならない、語ってはならないのである。
悪しき事、好(この)ましからざる亊があらわれた時には、
外に原因を求める以上に、まず自己の心の中に、
そのような“心の模型”があるにちがいないと
自己反省するがよいのである。
自分の心にある原因を消さないで、
外界の火を消そうと思っても、
一旦(いったん)それは消えたように見えても、
火元は自分自身にあるのだから、
再びまた他の所から発火するのである。
観世音菩薩は尽十方無礙光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)の大慈悲の顕現にてありたまう。
それゆえに尽十方に満ちたまうのである。

あらゆる宗教の本尊(ほんぞん)は名称は異なれども、
その本尊は尽十方に満つる神の大慈悲のあらわれなのである。
だから万教(ばんきょう)は一に帰(き)するのである。
生長の家の礼拝(らいはい)の本尊は
観世音菩薩なのである。
われ観世音菩薩を讃嘆(さんたん)し
奉(たてまつ)る。》
(『聖経 真理の吟唱』43〜46頁)

ありがとうございます。









いいですね (65278)
日時:2024年05月26日 (日) 18時52分
名前:年中本気

はうら様、ありがとうございます。

『真理の吟唱』の中でも大好きな祈りです。

特にこの聖句が好きです。
>>預言者は遠くにあらず、山にあらず、街頭にあらず、
今ここにあるのである。私自身の内にあるのである。
自己の想念するところのものが外にあらわれ、
自己の信ずるところのものが外界にあらわれ、
自己の語るところのものが他者にあらわれるのである。
想(おも)うこと、信ずること、語ることが予言となって、
やがて実現する時期がくるのである。<<

人は未来のことが分かりたいと占い師に依存したりしますが
今、未来を作りつつあるという自覚を待てば自ずと
態度が改まってきますよね。

はうら様、年中本気様 (65282)
日時:2024年05月27日 (月) 13時13分
名前:志恩

はうら様、
このたびも観世音菩薩様について
谷口雅春先生の真理のお言葉の中から
たいせつな箇所を謹写くださいまして、ありがとうございます。

私も年中本気様が書かれましたが、
『真理の吟唱』の中でも、この祈りがだいすきな
祈りの1つです。

>>預言者は遠くにあらず、山にあらず、街頭にあらず、
今ここにあるのである。私自身の内にあるのである。
自己の想念するところのものが外にあらわれ、
自己の信ずるところのものが外界にあらわれ、
自己の語るところのものが他者にあらわれるのである。
想(おも)うこと、信ずること、語ることが予言となって、
やがて実現する時期がくるのである。<<

以前に何度も書きましたが、晩年は熱心な生長の家の
信徒であった実母の実母に当たる、私にとっては
大好きだったおばあちゃんは、生長の家に触れるまえは
浅草の観音様を信仰しておりまして、幼い私を連れて、
時折、浅草の観音様へお参りに行っておりました。
観音様とは、観世音菩薩様の略号だそうですね。
浅草の観音様も1つの神様の化身なのでした。

新編聖光録の109ページに
「蓮華日宝王地観」が載っていますが、

”吾れ、今、五官の世界を去って、あまねく吾が全身を
観ずるに、この身このまま観世音菩薩なり”

で始まる祈りがございます。
はうら様が書かれておられますように観世音菩薩は
一定の形ある菩薩ではないのでした。

私は111ページの、「如意宝珠観」が一番好きな
祈りですけれど。

いつも大事な真理のこと、お教えくださいまして
その都度、心が洗われます。
ほんとうにありがとうございます。


明けない夜はない (65350)
日時:2024年06月02日 (日) 20時44分
名前:はうら ひとひら


坂本龍馬、吉田松陰、勝海舟、西郷隆盛など
数多くの幕末の志士たちが範とした名著
『言志四録(げんししろく)』ーーー
『言志録』『言志後録』『言志晩録』『言志耋録(てつろく)』
の一条
「一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うること勿れ。
只だ一燈を頼め」
(『言志晩録』第13条 佐藤一斎)

明けない夜はない。暗かろうが、明るかろうが
在るものものは有り、無いモノはない。
夜の終わりに朝は必ず来るが、
しかし夜明け直前の闇は最も濃い。

皆様の掲げる一燈はなんでしょうか。

ありがとうございます。

はうらひとひら様 (65354)
日時:2024年06月03日 (月) 10時46分
名前:志恩

はうらひとひら様

いつも大切な真理を教えてくださいまして、ありがとうございます。

谷口雅春先生は、次のようにおっしゃっておられますものね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【「實相を観ずる」という教えに
「反省」があるのか?についてのことが、
「生命の實相」に次のように書いてございます。】

今の状態をありありと反省し、こんな見苦しい不完全な状態は「神の子」らしくないということ知り、自分は神の子であるから、こんな不完全な状態は自分の本性ではない、本性でないものはウソである、いつまでもウソを自分の本性だと思って天狗になっていてはならないと、豁然大悟、「神の子」としての自分が別に厳然として存在することを悟る――これが「神の子」としての本当の自覚であります。
(頭注版「生命の実相」第1巻 P186)


つまり、本当に実相を観ずるためには、何が実相で、何が仮相なのかを判別する力が必要なのです。この力がなければ、真に実相を観ずることができません。つまり、現状の自分を見て、実相の部分と仮相の部分を見分けて、仮相の自分は偽物だから切り捨てて、実相の自分だけを見つめる。これが実相を観ずるということです。
つまり、「反省」と表裏一体になっているのであります。



「反省」とは、「神の子としての自分自身に帰っていくためのもの」、と言いますが、言葉を換えれば、「実相を観ずること」ということもできるのです。
ですから、「反省」は前提のようなものなのです。
「そんなものは当たり前のことだ」ということなのです。

真理の朝日が立ちのぼる前に「迷い」の自壊作用が起こるのであります。「迷い」とは、真理に対する「無知」のことです。本当は無いものをあると勘違いしている状態、これが「迷い」です。こうした「迷い」が、仮に、巨大な山脈のように積み重なっていたとしても、それは本来無いものですから、「無い」ということに気がついたときから、崩れだして行くのです。

ビルが崩壊するとき、そのビルが大きければ大きいほどハデに崩れていくように、大きな「迷い」ほど、大きな音を立てて自壊して行くのであります。

それまで「迷い」の中にあって、「迷い」を山のように築いてきた人が、「神の子人間の実相」を自覚すると、今までの迷いが一挙に自壊していくことになりますから、そのあらわれの姿も、劇的な変化、たとえば一時的に事態が急激に悪化するというような状況を引き起こすようなことがあるのであります。これがケミカライゼーションです。快復の前に現れる一つの善き兆候だと考えるべきものであります。



【運命のケミカライゼーション】

運命の明け方の来る前には 真っ暗な真夜中が来る。
... コロンブスのように前途を信じて 確信をもって突進すれば好いのであります。

「夜明け前が、もっとも闇が深い」と申しますように、運命が開けてゆく直前が、もっとも闇深きときなのです。しかし、その一番つらいときこそが、運命の夜明けにもっとも近づいているときなのであります。

悪い出来事が起こると、もう世界が終わったかのような気分になるものです。こうした転換期というのが、実は、「運命のケミカライゼーション」なのであります。



実は、こうした暗黒期は、より素晴らしき運命の前兆だということです。この暗黒期を如何に乗り越えるか?ここが一つの重要な関門であります。やはり、「この先に光が、必ず、見えてくるのだ」という信念が大切なのだと思うのです。

ただ、この転換期の暗黒期に「失望」という奴によって確信を失ってしまうと、せっかく明るくなりかかっていた運命が、自分の心の力でまた本当に暗くなって来るかもしれないのであります。生長の家の『智慧の言葉』に「悪くなるほど、善きことが近づいて来たと思え」という意味のことが書かれていますが、これは病気を治そうとする人にとっても、運命を開拓せんと欲する人にとっても、いつまでも座右に備うべき箴言であります。
(頭注版「生命の実相」第1巻 P111)



つらい出来事が起こってきたとき、これは「運命のケミカライゼーション」であると見抜いて、その消えてゆく姿に心を動揺させることなく、よりよき未来を確信することが大切なのであります。闇が深ければ深いほど夜明けは近いのです。朝の来ない夜はない。必ず朝は訪れる。

【 最後の1年だけ頑張ってもダメ】

やりたい放題やってきて、これではいかんというので、死ぬ一年位前に、奉仕業とかいって、ボランティアをやってみたり、老人福祉の仕事をしてみたり、箒で街を掃いてみたりしてね。箒で掃いている姿を写真に撮られて、それが新聞に載ったから、これで自分は天国、間違いなしなんて思っているのがいる。ところが死んだら、真黒けの地獄に堕ちとるわけだ。こういうのと、ある意味では、一緒なのだ。


「世界平和の祈り」だけをやっていれば救われるという考えは、自分自身の「思い」と「行ない」を棚に上げてしまうことになるのであります。色々と、悪いことを考えたり、悪いことを行ったりして、周囲に迷惑をかけていても、これは「消えてゆく姿」だから、反省しなくてもいいのだと考える。そして、「世界人類が平和でありますように。ありがとうございます」と空念仏を唱えていれば、何か良いことをしたような気分になって、己の心のやましさを誤魔化すことができるということです。


こんなのは、七十九年、勝手放題に生きて、最後の一年に、地獄が恐ろしくなって、急に箒を持って街へ出て、目立つところで掃き清めている老人のレベルと、大して変わらないのではないか、ということであります。ま、言い得て妙であります。

最後の一年だけでも改心しないよりは、したほうが良いのですが、「地獄が怖くなったから」というような理由ならば、かえってみっともないのではないかと思うのです。そういうのは身勝手の延長に過ぎず、結局は自己保存・自我我欲の偽りの改心ですね。本当の改心ならば、もしかすると最後の一瞬であっても、天国に登っていく可能性があるかもしれませんが、我が身かわいさの偽りの改心では、絶対にダメなのです。

「世界平和の祈り」も、己の悪行をカモフラージュするためのものになってしまったのならば、あまり意味がないと思います。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー








新編聖光録より (65501)
日時:2024年06月16日 (日) 11時24分
名前:はうら ひとひら


聖光録は昭和28年1月1日に初版発行です。
その後いろいろ変遷があって5種類ほどあります。
ほどと書いたのは、昭和61年以降の『新編 聖光録』が
改訂版などの変更書きもなく、
突然「谷口雅春監修」から「谷口清超監修」に
変わったりしているからです。
さらに平成24年に当時の原宿本部の聖典販売所の陳列棚から、
『聖光録』の在庫が引き上げられその後、
品切れとされました。

昭和28年発行のものは編纂が
「生長の家本部」のみとなっていましたが、
昭和54年3月1日発行の『新編 聖光録』は
「谷口雅春監修」となって
おります。
そこには、昭和28年に記載されていた
生長の家の聖歌・楽譜等を削除して、

・人類光明化運動指針
・人類光明化運動発進の宣言(自分はいま生長の火を
かざして人類の前に起つ。起たざるを得なくなったのである。・・・)
・人類光明化のパテントは諸君に譲られた。
・生長の家のマーク(意義と由来)
・『生命の實相』頭注版全40巻の総目録等の追加があります。
そこには明確に、原点にもどった行動をしなさいという
尊師のご教示が読み取れると思います。

【「生長の家」のマーク(意義と由来)】

《図案は元帝展審査員山根八春(やまねやつはる)氏による。
万教融和、中心帰一の表象(ひょうしょう)として
太陽と月と星と地球と卐字(まんじ:編集注:吉祥まんじ
・左進右退)と十字と日章旗とを完全に、
而(しか)も単純に一つに融和させている。
外周の燃えるような赤色の円光は神道をあらわす
太陽と日章旗とを表象し、内側に円味を帯びた
銀色の卐は太陰(たいいん:編集注:月)と仏教を表象し、
中央緑色の星はキリスト教をあらわす
十字架を星形に崩したもので、
星の八つの角 は大八洲(おおやしま)(日本国)
に象(かたど)り、八方位の国々を一つに
中央に纏(まと)めていること(ヤマトー大和)を示す。
緑は地上に青人草(あおひとぐさ)の
繁茂していることを示し、
太陽の後光の三十二線あるのは仏の三十二相に象る。
この徽章(きしょう)を帯びるものは
即ち太陽の子孫であり、神の子であり、
日子(ひこ)「彦」、日女(ひめ)「姫」であり、
悟りを開いた三十二相を顕現する瑞兆(ずいちょう)
を示すものである。

尚、この図案は昭和十年二月一日に制定をみたが、
バッジとして製作されたのは昭和十二年頃である。》
(『新編 聖光録』288頁)

ありがとうございます。







はうら ひとひら様 (65503)
日時:2024年06月16日 (日) 13時46分
名前:志恩

(はうら ひとひら-)
>聖光録は昭和28年1月1日に初版発行です。
その後いろいろ変遷があって5種類ほどあります。
ほどと書いたのは、昭和61年以降の『新編 聖光録』が
改訂版などの変更書きもなく、

突然「谷口雅春監修」から「谷口清超監修」に
変わったりしているからです。

さらに平成24年に当時の原宿本部の聖典販売所の陳列棚から、
『聖光録』の在庫が引き上げられその後、
品切れとされました。

昭和28年発行のものは編纂が
「生長の家本部」のみとなっていましたが、
昭和54年3月1日発行の『新編 聖光録』は
「谷口雅春監修」となって
おります。
そこには、昭和28年に記載されていた
生長の家の聖歌・楽譜等を削除して、

・人類光明化運動指針
・人類光明化運動発進の宣言(自分はいま生長の火を
かざして人類の前に起つ。起たざるを得なくなったのである。・・・)
・人類光明化のパテントは諸君に譲られた。
・生長の家のマーク(意義と由来)
・『生命の實相』頭注版全40巻の総目録等の追加があります。
そこには明確に、原点にもどった行動をしなさいという
尊師のご教示が読み取れると思います。

【「生長の家」のマーク(意義と由来)】

《図案は元帝展審査員山根八春(やまねやつはる)氏による。
万教融和、中心帰一の表象(ひょうしょう)として
太陽と月と星と地球と卐字(まんじ:編集注:吉祥まんじ
・左進右退)と十字と日章旗とを完全に、
而(しか)も単純に一つに融和させている。
外周の燃えるような赤色の円光は神道をあらわす
太陽と日章旗とを表象し、内側に円味を帯びた
銀色の卐は太陰(たいいん:編集注:月)と仏教を表象し、
中央緑色の星はキリスト教をあらわす
十字架を星形に崩したもので、
星の八つの角 は大八洲(おおやしま)(日本国)
に象(かたど)り、八方位の国々を一つに
中央に纏(まと)めていること(ヤマトー大和)を示す。
緑は地上に青人草(あおひとぐさ)の
繁茂していることを示し、
太陽の後光の三十二線あるのは仏の三十二相に象る。
この徽章(きしょう)を帯びるものは
即ち太陽の子孫であり、神の子であり、
日子(ひこ)「彦」、日女(ひめ)「姫」であり、
悟りを開いた三十二相を顕現する瑞兆(ずいちょう)
を示すものである。

尚、この図案は昭和十年二月一日に制定をみたが、
バッジとして製作されたのは昭和十二年頃である。》
(『新編 聖光録』288頁)<


志恩ー
”聖光録”も”「生長の家」のマーク”も、最初のものとは、
変わっているのですね。
ほとんどの信徒たちは、知らないことです。
貴重なことを教えてくださって、誠にありがとうございます。

浄円月の十大願 (65842)
日時:2024年06月30日 (日) 10時19分
名前:はうら ひとひら

 
【 浄円月の十大願】

一、月の円満なるが如く自心も闕(か)くること無し。
吾れ萬徳を具足し、一切種智を成就せん。

二、月の潔白なるが如く自心も白法なり。
われ自性浄白にして性徳(しょうとく)円満なることを実現せん。

三、月の清浄なるが如く自心も無垢(むく)なり、
われ月の如く自性清浄にして本より貧染(どんぜん)
なからんことを期す。

四、月の清涼なるが如く自心も熱を離れたり、
われ慈悲の水を灑(そそ)いで、瞋恚(いかり)の火を消さん。

五、月の明照なるが如く、自心も照朗なり。
われ本より無明を離れて光明遍(あまね)く照す。

六、月の独一なるが如く、自心も独尊なり。
われ諸佛の尊ぶところ、萬法の帰する処なり。

七、月の円満なるが如く、自心も偏(かたより)を離れたり。
われ常に中道を極めて永く辺執(へんしつ)を超えんと欲す。

八、月の遅からざるが如く自心も速疾(そくしつ)なり。
われ秘密の輪を転じて刹那(せつな)に惑(わく)を
断じ心を浄に遊ばしめん。

九、月の順転するが如く、自心も無窮(むきゅう)に巡転す。
われ正法の輪を転じて邪迷の闇を破せん。

十、月の遍(あまね)く現ずるが如く、自心も遍く静かなり。
われ一體を分かたずして九界の前に現じ
多身を仮らずして十方の土に臨(のぞ)み
一切苦厄(くえき)ある者の暗を照らさん。》
(弘法大師の阿字円月観の説明の
円月の説明の十大功徳による)
(『即身成佛の真理』202.203頁)

皆様 暑中ご自愛ください。

ありがとうございます。




はうらひとひら様 (65845)
日時:2024年06月30日 (日) 16時58分
名前:志恩

はうらひとひら様

『即身成仏の真理 』谷口雅春先生著は、
私は、恥ずかしながら、まだ拝読しておりませんでした。

この著書に書かれてあるという
【 浄円月の十大願】も、初めて拝読しました。

なんという清々しい真理のおことばなのでしょうと、
繰り返し、読ませていただきまして、プリントアウト
したところです。

いつも貴重な谷口雅春先生の真理のお言葉を
ご紹介くださいまして、誠にありがとうございます。

おかげさまで、心が洗われました。



ーーーーーーーーーーーー

アマゾンコムより

『 即身成仏の真理 』谷口雅春著作集 (第2巻) 単行本
– 昭和60年(1985)/1/21ー出版
谷口 雅春 先生著

”仏教の深遠な哲理、釈尊の真意に徹底
して迫り、霊的感覚を以てその神髄
を把握した独自の仏教解釈。表題稿を
軸に、無門関、華厳経を用いつつ
仏教を今日に生かす道を縦横無尽に説く。”

三つの違和感 (65999)
日時:2024年07月07日 (日) 09時33分
名前:はうら ひとひら


『生長の家』機関誌(情報誌)
令和六年七月号が届きました。
三つの違和感があります。
(別に批判するつもりはありません。
率直にひっかかりを憶えたまでです。)

【1】同書59頁2023年度決算の公告

・当期収支差額 5.7憶円の黒字
収入の部
(1)業務収入  28.9憶円
(2)業務外収入 20.6憶円

因みに2021年決算の公告
・当期収支差額 2.3億円の赤字
収入の部(1)業務収入  32.7憶円
(2)業務外収入 11.6憶円
目的外の収入とは、例えば海外の株式投資等による
所得であろうか。
2年前の2倍もの業務外収入があります。

私の所属する教区では、令和5年度決算で累積赤字1200万円で、
教化部の人員を減らし、月4回事務作業専念日にして、
休館日扱いにして、電話等一切出ないで事務に専念し、
毎月のように教化部長が各地域に赴いて先祖供養をおこなって、
必死になっているのに、である。

【2】同書60頁

6月1日付けで参議、理事の人事で10名の方がなっているが、
全て同じ人が、参議であり理事である。
参議長と理事長も同じ人である。
教規の実践者、宗務と経営・管理はいままでは
別の方がなっていた。
聖と俗は相容れないと思うのだが。

(非常任参議)谷口暁子・新任
(非常任理事)谷口暁子・新任

谷口暁子氏は、先月講師部部長となり、
本部講師となったばかりである。
(しかしどちらも6月1日付けとなっている。
6月号の人事報告とと7月号の人事が
同じ6月1日に行われていて、
何故号を変えて報じているのであろうか。)

【3】34頁

新設の地球社会貢献部部長の挨拶

「地球社会貢献部部は
「地域組織の維持
・発展に留(とど)まらず、
今後の運動における生物愛語活動と
フィランソロピー(社会貢献活動)の推進を担当する。
「自他一体」の信仰の現れである愛行の対象を、
個人から社会へ、国家から世界ーー
即(すなわ)ち、生物も鉱物も含めた
地球生命全体へ広げることによって、
自己の生命を拡大させる生き方が求められている。
その一つの現れが「オープン食堂」となっている。・・・・・

生長の家はまもなく立教百年を迎えようとしています。
これまで運動を継承してくださった先達へ感謝を捧げつつ、
時代に即して変えるべき所は変えて、
次の百年に向けて、共に人類光明化、
国際平和信仰運動を生き甲斐と喜びをもって推し進め、
次代へと継承して参りましょう。」

環境や時代によって変わらない普遍的なものが
『真理』であると思うのですが。
『久遠の今』を把握しなければ、
このような運動・言葉になると思います。

ありがとうございます。









はうらひとひら様 (66003)
日時:2024年07月07日 (日) 10時17分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)

【三つの違和感 】

『生長の家』機関誌(情報誌)
令和六年七月号が届きました。
三つの違和感があります。
(別に批判するつもりはありません。
率直にひっかかりを憶えたまでです。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【1】
収入の部
(1)業務収入  28.9憶円
(2)業務外収入 20.6憶円

因みに2021年決算の公告
・当期収支差額 2.3億円の赤字
収入の部(1)業務収入  32.7憶円
(2)業務外収入 11.6憶円
目的外の収入とは、例えば海外の株式投資等による
所得であろうか。
2年前の2倍もの業務外収入があります。

私の所属する教区では、令和5年度決算で累積赤字1200万円で、
教化部の人員を減らし、月4回事務作業専念日にして、
休館日扱いにして、電話等一切出ないで事務に専念し、
毎月のように教化部長が各地域に赴いて先祖供養をおこなって、
必死になっているのに、である。


志恩ー
私は今、教団の機関誌はとっておりませんので、
内容をお知らせくださって、ありがたく存じます。

>『生長の家』機関誌(情報誌)
令和六年七月号、59頁によりますと
2023年度決算の公告
・当期収支差額 5.7憶円の黒字<


と書いてあったのですか、
全国のどこも教化部も赤字だと
教団内部の方々からは、
聞いておりますが。黒字とは、本当のことでしょうか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【2】同書60頁

6月1日付けで参議、理事の人事で10名の方がなっているが、
全て同じ人が、参議であり理事である。
参議長と理事長も同じ人である。
教規の実践者、宗務と経営・管理はいままでは
別の方がなっていた。
聖と俗は相容れないと思うのだが。

(非常任参議)谷口暁子・新任
(非常任理事)谷口暁子・新任

谷口暁子氏は、先月講師部部長となり、
本部講師となったばかりである。
(しかしどちらも6月1日付けとなっている。
6月号の人事報告とと7月号の人事が
同じ6月1日に行われていて、
何故号を変えて報じているのであろうか。)


志恩ー
驚くばかりです。総裁ご夫婦は自分たちの娘に
最重要のポストを、与えまくっているのですね。

その行為は、忖度以外の何者でもありません。
恐ろしい出来事です。


ーーーーーーーーー
【3】34頁
新設の地球社会貢献部部長の挨拶

「地球社会貢献部部は
「地域組織の維持
・発展に留(とど)まらず、
今後の運動における生物愛語活動と
フィランソロピー(社会貢献活動)の推進を担当する。
「自他一体」の信仰の現れである愛行の対象を、
個人から社会へ、国家から世界ーー
即(すなわ)ち、生物も鉱物も含めた
地球生命全体へ広げることによって、
自己の生命を拡大させる生き方が求められている。
その一つの現れが「オープン食堂」となっている。・・・・・

生長の家はまもなく立教百年を迎えようとしています。
これまで運動を継承してくださった先達へ感謝を捧げつつ、
時代に即して変えるべき所は変えて、
次の百年に向けて、共に人類光明化、
国際平和信仰運動を生き甲斐と喜びをもって推し進め、
次代へと継承して参りましょう。」

環境や時代によって変わらない普遍的なものが
『真理』であると思うのですが。
『久遠の今』を把握しなければ、
このような運動・言葉になると思います。<

志恩ー
はうらひとひら様のおっしゃることに、
まったくの同感です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

光はどこから (66277)
日時:2024年07月14日 (日) 10時17分
名前:はうら ひとひら


『無門関』第二十八の「久響龍潭」
(きゅうきょうりゅうたん)は徳山という僧が、
吾こそ「金剛経」の精通者と自任していたが、
茶店の婆さんに「久遠の今」の問いに答えられず、
餅を売って貰えなかったが、
「知らざるを知らずとする是(こ)れ知恵の初めであり、
負けしを負けしと知る是れ勝利の初めである」と改心し、
五里をかけて禅の師、龍潭(りゅうたん)に教えを受け、
深夜を過ぎた。
「もうこの位で、辞去したらどうじゃ」というので、
徳山簾(みす)を挙げて退室しようとした。
「外は真暗でございまする」
龍潭紙燭(ししょく)を灯(とも)して
徳山に渡そうとする。
徳山が受取ろうとした途端、龍潭紙燭を吹き消した。
その刹那(せつな)徳山は忽然(こつぜん)悟った。

この事について、どうして悟る事が出来たのか説明がないとか、
龍潭が手を変え品を変え、灯りを点けたり消したり
馬鹿丁寧すぎて、徳山が悟ったと言っても、
やっぱり他から教えられた佛性(ぶっしょう)であって、
自分で見い出した佛性ではなくなる、と喧(かまびす)しい。
今回はここから本題です。

【わが内奥(ないおう)秘密蔵の光を呼び出す祈り】

《 神は光でありたまう。
神の光は愛の光、智慧の光、生命(いのち)の光、
調和の光、平和の光、幸福の光、
法悦(ほうえつ)歓喜の光であり給う。
私は神の子として此(こ)の光を神から壌(ゆず)り
与えられて、わが内奥甚深(じんしん)の世界に
それを秘密蔵(ひみつぞう)しているのである。
それはわが存在の内奥に深く護(まも)られて
秘密蔵せられているが故に、
五官の肉体感覚ではそれを自覚しないことがあるけれども、
心を浄(きよ)め、誠を尽くし、
神想観を一心不乱に行じて内観(ないかん)するとき、
それはハッキリと自覚され、自覚されるに従って、
その内奥秘密蔵の光が顕在(けんざい)となって
世を照らすに至るのである。

わが内奥に秘密蔵せられているところの
神の“愛の光”よ。目覚めて顕(あら)われよ。
わが内奥の神の“愛の光”は今目覚めて顕われたり。
見よ、わが周囲は“神の愛”に照らされて、
今や、ひとりの憎(にく)む者なく、争う者なく、
怒(いか)る者なく、互いに愛し合い、
助け合い、“神の子”たる実相の完全さあらわれて
互いに睦(むつ)び合うのである。

次にわが内奥に秘密蔵せられたる神の“智慧の光”よ。
目覚めて顕われよ。
わが内奥の神の“智慧の光”は
今目覚めて顕われたり。
見よ、わが周囲は“智慧の光”に
照されて、今や、ひとりの愚(おろ)かなる者なく、
愚痴(ぐち)を語る者なく、人を誤解する者なく、
迷う者なく、行(ゆ)き詰まる者なく、
人と時と場所とに応じて最も適切なる応現(おうげん)
自在の神智(しんち)があらわれ、
如何(いか)なる難問題と雖(いえど)も
快刀乱麻(かいとうらんま)を截(た)つ如く
スラスラと解決し、解決したる後には、
歓喜法悦と繁栄とが相互の人生に顕現するのである。

次にわが内奥に秘密蔵せられたる
神の“生命(いのち)の光”よ、
あらわれよ。わが内奥の神の“生命の光”は今、
目覚めて顕われたり。
見よ、神の“生命の光”わが全身に漲(みなぎ)り
満ちて照り輝けるを。
わが全身の細胞悉(ことごと)く、神の輝く生命に
充(み)ち満たされて、ひとりひとりの
細胞ことごとく稀有(けう)の宝石の如く、
“生命(いのち)の霊光”を放っているのである。
その光眩(まぶ)しくて如何なる病原体も
わが身体に近づくことなく、若(も)し近づけば、
生命の光に同化せられて、わが身体に栄養を与える
善良なる微生物となってわが健康を養うのである。
今より後、わが家族ことごとく、
神の“生命の光”に照らされて、一人と雖(いえど)も、
病む者なく、老衰する者なく、疲労する者なく、
たといあまりに忙しくて疲労したるが如く見ゆること
ありといえども、一夜の睡眠、完全にその疲労
を除(と)り去りて溌剌(はつらつ)たる
元気をとり戻すのである。

次にわが内奥に秘密蔵せられたる神の“調和の光”よ、
平和の光よ、幸福の光よ、法悦歓喜の光よ、
汝らわが実相の属性(ぞくせい)なるところのすべての光よ。
すべて此の世を照らして調和と平和と幸福と、
歓喜法悦を人類に持ち来(き)たす光よ、
目覚めて顕われよ。
わが実相に内在するすべての斯(か)くの如きの光、
悉く顕れて、今世を照らし人類を歓喜光をもって
満たすのである。
今より後、ひとりの悲しむ者なく、憂(うれ)える者なく、
悩む者なく、苦しみに呻(うめ)く者なく、
永久に幸福と調和と繁栄とに祝福され、
互いに睦(むつ)び合い、実相の天国浄土、
今此処に実顕(じつげん)するのである。
ありがとうございます。》
(『聖經 続真理の吟唱』189〜193頁)

ありがとうございます。











機関誌読んでくれてるんだ (66279)
日時:2024年07月14日 (日) 11時40分
名前:無期限役職追放中の青年会会員

私も機関誌読んでないのに、反総裁派の方が読まれているのには、純粋に感動する。

はうらひとひらさま (66368)
日時:2024年07月15日 (月) 15時39分
名前:志恩

(はうら ひとひら-)

[ 光はどこから]  (66277)

【わが内奥(ないおう)秘密蔵の光を呼び出す祈り】

(略)

『聖經 続真理の吟唱』189〜193頁)


志恩ー
繰り返し拝読させていただきまして、
ありがたくて、ありがたくて
私は泣きました。
私の知らなかった谷口雅春先生の深い祈りの言葉に接しまして
救われました。

はうらひとひらさま
ほんとうにありがとうございます。

無期限役職追放中の青年会会員さん (66372)
日時:2024年07月15日 (月) 18時04分
名前:志恩

トキ掲示板へ出てくださって、とても嬉しく思っています。
今後も、どんどん出てくださいね。
だいたいどなたか、わかりますけれど、お名前は書きませんので
安心して出てください。




きのこに変身したムカデも歓迎!❀(*´▽`*)❀

原点 (66465)
日時:2024年07月21日 (日) 11時42分
名前:はうら ひとひら


《 わたしは人類ぜんたいを救う「真理」を発見した。
その「真理」は『生命の實相』と呼ばれる哲学である。
その真理をひろめるにはどうすればよいかを私は考えた。
そして静座合掌、礼拝して實相の中にある叡智を
呼び出すことにした。
實相の中にはあらゆる智慧があるが、
真智もあるが方便智もある。
観普賢菩薩経には、無量の勝れたる方便があるから、
「無量の勝方便は實相を想うより得」
と示されているのである。
真智は、それに触れる人を直接に救うことが出来るが、
真智に触れさせるためには、
方便智によって、人々を引き寄せなければならないのである。
・・・

それには編集の苦労とか、出版や発送の苦労とか、
人間的な煩労を読者に訴えて、
こんなに煩わしい努力をして、
この真理の雑誌を送るのだから、
軽々しくこの真理を読み棄てにしてはならない、
何度も繰返していのちの糧(かて)にして頂きたい
というような意味を読者に伝えようと工夫して
書かれたのであって、
別に編集室や発送部や出版部などという
部局が最初からある訳ではない。
編集室も発送部も出版部も、筆者の「私」ひとり
(それに応援援助してくれる家内をも含めて)
が色々の部局の顔を出して八面六臂の
はたらきをしていたのである。
そのうちに、読者が増加して「光明思想普及会支部」
という団体の組織の中に「支部」というものが
出来るようになると「本部から」という
「支部」への呼びかけの題名を掲出するように
なったけれども「本部」といっても
「私」と家内と二人であったりした。
そうして其の「私」が部局の中で働く社員であるために、
私自身が社員として、
著者または筆者の「私」を客観的に捉えて
「谷口氏は・・・」と書いたり、
時には「谷口先生は・・・」と恰も
第三者の如き顔をして読者に接する必要が生じたりした。
・・・

早創時代というものは劇作の上演準備に
裏方の役目も作者自身がしなければならないので、
一人で数役を演じたが、その楽屋の裏ばなしみたいな
実話が本書の第一冊を飾ることになったので、
却って読者には興味があるかも知れない。》
(『明窓浄机』草創篇
(自昭和5年至昭和12年)はしがき)


『生長の家』出現の精神とその事業

《 自分はいま生長の火をかざして人類の前に起つ。
起たざるを得なくなったのである。・・・》
(同書 7頁)

『生命の實相』はあまりにも初めての人には、
困難な哲学な為、方便智だったことがわかります。
それでも、その火に触れた人が、
陸続と奇蹟、神癒を受けることになったのであります。

ありがとうございます。






はうらひとひら様 (66467)
日時:2024年07月21日 (日) 14時04分
名前:志恩

>【原点】
『生長の家』出現の精神とその事業

《 自分はいま生長の火をかざして人類の前に起つ。
起たざるを得なくなったのである。・・・》
(同書 7頁)

『生命の實相』はあまりにも初めての人には、
困難な哲学な為、方便智だったことがわかります。
それでも、その火に触れた人が、
陸続と奇蹟、神癒を受けることになったのであります。<

志恩ー
谷口雅春先生は、生長の家をスタートされるにあたり
どのように展開していったら、皆様に理解していただけるか
試行錯誤、されていらしたことが、おかげさまで、わかりました。
ありがとうございます。

明窓浄机 発展篇 (66607)
日時:2024年07月28日 (日) 06時37分
名前:はうら ひとひら


《 一昨年、『生長の家五十年史』の編纂企画にあたり、
今は亡き山口悌治本部理事長から出された
編成案の「通史」に代えて、「明窓浄机」を掲載したら、
と私は提案した。
しかし五十年間の全文と、戦時中の「はがき通信」や
「聖使命」新聞等の類似の文章も含めると膨大な字数に達し、
製本も二冊となり、定価も莫大なものとなるので、
整理圧縮の要が生じた。
五十年編集委員が鋭意検討して下さったが、
「先生の御文章を三割か四割に削って縮めるのは難しい。
また弟子として到底成し得ない」との訴えもあり、
遂に『五十年史』に収録する私の案は撤回する
ことにしたのである。

一つの本が出来上がるまでには、
さまざまな過程があるものである。
一つの運動が創始され、骨格を形成し、
充実、発展して初志を貫いていく上にも、
有形無形、実に筆舌に尽くし徳ないいろいろのことがある。
喜びがあり、悲しみがある・・・・
全国の誌友を思いうかべては、
感謝の涙にむせんでいる。
思えばその時、私は満で四十四歳になったばかりである。
(編注:昭和13年、創刊満八年)
その時、誌友が全国で果たして何名おられたか。
その方々なかりせば、今日の世界に発展する
生長の家はなかった訳である。
貴重な、文字通り輝くばかりの誌友さんである。
今あらためて、感謝の涙湧き出る想いである。

私の肉体年齢は、本年かぞえで八十八歳の米寿を迎えたが、
保険会社も敬遠して契約出来なかった蒲柳(はりう)の私が、
と思うと、これすべて「吾れ生くるに非ず』と
神に感謝申し上げる他ない。
そして誌友の皆さんに生かされてきたのであると。

生長の家は生々発展する家である。
私も肉体年齢を超えて、弥々発展する。
発展する他ないのである。
それが神の示された道であり、宇宙に遍満する真理である。
その真理による奇蹟的体験が、本編にも充ち満ちている。
単なる私一個人の近況通信に非ず、
神様の実相顕現運動の実証たる所以である。》
(『明窓浄机』発展篇 
自昭和13年 至昭和15年)はしがき)

私達信徒にとりましても、いろいろな意味におきまして
貴重なご文章です。

ありがとうございます。





はうらひとひら様 (66618)
日時:2024年07月28日 (日) 14時37分
名前:志恩

>《 一昨年、『生長の家五十年史』の編纂企画にあたり、
今は亡き山口悌治本部理事長から出された
編成案の「通史」に代えて、「明窓浄机」を掲載したら、
と私は提案した。<

志恩ー
生長の家の本は、あまりにたくさんありますので、
私は生長の家信徒ですのに、持っていない本が
たくさんあります。
実は『生長の家五十年史』も、持っていませんでしたので、
最近メルカリで売っていたので、購入しました。

阪田成一先生は山口悌治先生のもとで、原宿本部の
基礎文化研究所にて、山口先生から「あなたは、通史を
担当するように」と言われて、『生長の家五十年史』で通史を
担当されたそうですね。

この本は、昭和55年11月22日に日本教文社から発行されて
おり、ページ数は、829ページもあります。本の厚さをメジャーで
測りましたら、5.5センチもありました。定価9800円。

この本の40ページから69ページにわたり、
その当時、副総裁でいらした谷口清超先生と、恵美子先生
(取材者)は、佐脇嘉久先生、森田征史先生、田村大先生の
5人の座談会が載っております。

戦後の幕開け、「戦後30年の経緯を踏まえて将来を思ふ」が
テーマで。
懐かしい方々のお名前がたくさん出てきて、感動
しながら拝読しました。

また、渋谷晴雄先生も、653ページから、
「生長の家の唯神実相論の世界的意義」について書かれて
おられます。

買って良かったと思っております。



明窓浄机(飛躍篇) (66679)
日時:2024年08月04日 (日) 10時04分
名前:はうら ひとひら


《 本書も第三巻となった。
支那事変はいよいよ長期化し、遂に大東亜戦争へと拡大し、
出版活動もままならぬ逼迫(ひっぱく)した状態に到る
大変な時期である。
「大変な」と表現したが、いつの時代も安穏(あんのん)のみ
では済まされないし、終戦後も又現在も内外ともに
重大な時期ではある。
しかし、殊に本書の四年間は、
日本の歴史上未だかってない昭和二十年の敗戦への因をなし、
国を挙げて揺れ動いた時であった。
もとより敗戦の因は遠因近因、源(もと)をたずねれば
際限もないのであるが、現実に此の歴史の大転換期を
生活して来た者にとっては、一つの時代の形成、
一つの国の変転、世界情勢の推移というものが、
複雑な感懐を伴って想起されるのである。

近く発刊される『生長の家五十年史』の通史には、
本書の記事では触れ得なかった私の言動、
教団の動向なども詳細に記載してあるが、
限られた時間と紙数の中で私が認めた『近況通信』は、
それだけに、切実な私の心境、国や軍を始め
社会万般に対する私の率直な感想が吐露(とろ)されて
いて懐しい。
このとき教団は、立教以来十一年から十五年になるわけだが、
着々と充実発展の一途を進んでいる。
各地の講習会の盛況など、当時としては驚嘆する程である。
とても私一個人の力、人間業では為し得ない事である。
当時は「外地」と称した日本領の朝鮮・台湾はもとより、
満州、支那へも講演布教活動は進展し、熱心な共鳴者、
伝道者が生れ、組織化された。
その時播(ま)かれた一粒の種子が、その直後の敗戦、
日本からの独立という事態を経て芽を出し、
風雪に遭(あ)いながら逞(たくま)しく生長している。

韓国から『生命の實相』の翻訳出版の照会が来たのは
十年以上前のことであるが、今日、何ケ所かで
日本同様の誌友会が熱心につづけられているとの
本部国際局長の報告に、私は三十数年前の朝鮮講演を想い出し、
何よりも嬉しく、神様に感謝すること切であった。
台湾でも『幸福的生活』という月刊誌が発効され、
地味ながら堅実に生長の家の真理は広まっている。
蔣介石総統の終戦時の御恩に対する教団としての
感謝の活動であり、台湾との御縁は深い。
教えが単に個人救済に止まらず、大きく国の救済にまで
及ぶ好例である。

国との関わりについては、本書にも随所に実証が出ている。
戦地で、銃後で、健康に生産に、あらゆる場所で、
多くの人々に画期的な成果をもたらしている。
周囲の人は奇蹟と不思議がるが、すべては神の大いなる
摂理と讃えざるを得ない。
それらの事例は本書以外にも、枚挙(まいきょ)に
遑(いとま)ない程である。

さて、十九年十月号を最後に遂に『生長の家』誌も
発行不能となり、終戦のあと二十年十一月号が復刊するまで
出版活動は杜絶(とぜつ)する。
為に「近況通信』ー『明窓浄机』も空白となる。
今年も近く八月十五日を迎えるが、あの年のあの日、
原宿隠田のお山で謹聴した今上陛下の御放送は
今に忘れ難い。
その直後、今は亡き清都理門、掘靜さんたちに、
「これから日本の実相顕現をやらねばならぬ」と
訓(さと)したのだった。

第四巻からは占領下の祖国、三六〇度転換した
混乱の中での近況通信となる。
教団も現象的に一部転換の已(や)むなき面もあった。
しかし教義は厳然と変らず、一貫して今日に到っている。
私の肉体も外面的には変って来たが、
本質的には「父母未生(ふもみしょう)以前から変らず」である。想いを四十年前に馳(は)せ、そして国の行末を想う。
誌友諸賢が彌々(いよいよ)念(おも)いを切に、
実相研鑽に、実相顕現に邁進されんことを祈るのみである。
 合掌 》
(『明窓浄机』飛躍篇
(自 昭和十六年 至 昭和十九年)
(現代仮名遣いの表現にさせていただきました。)

情勢はまったく異なるのですが、
現在の状況に重ねあわせて大変感慨深いものがありました。

ありがとうございます。





  

はうらひとひら様 (66687)
日時:2024年08月04日 (日) 19時39分
名前:志恩

この度、はうら様がご投稿くださった内容とは
ズレますけれど、
先日はうら様がご紹介くださいました
谷口雅春先生著「奇蹟を生ずる実相哲学」の上下を
購入しましたので、早速、拝読しておりますが、上の方の
P133に、「生長の家のマークの象徴する宗教的意味」と
題したご文章が、詳しく載っておりましたので、興味深く
拝読いたしました。
有難うございます。

明窓浄机 戦後篇 (66815)
日時:2024年08月11日 (日) 08時24分
名前:はうら ひとひら


《 昭和二十年八月十五日、
今上陛下の終戦の御詔勅をラジオで承ったのであった。
今では全く想像もつかない、一面の焼野原の東京であった。
軍に献納した赤坂の本部道場、仮事務所とした原宿の学生寮も
焼失していた。
その日の夕方、横須賀から駆けつけてきた、
懐に白刃を忍ばせた決死の青年と、
お山の下で問答したが、
古今未曽有の降伏という異常事態に、
日本中が茫然自失、哀しみと怒りと失意と・・・・
何とも言い表せない渦の中に巻きこまれていた。

その日の経緯は復刊第一号の『白鳩』誌の
「終戦随筆」に
「真の国體とは天皇の大慈悲是也」とて述べたが、
日本人はみなが文字通り必死であった。
もちろん今とても誠心ある日本人は、
その生の一瞬々々に必死であるが、あの終戦前後の状況は、
経験しない人には到底、完全には理会し得ないであろう。
それ丈に、二度とその様な事態に日本を、
世界をならしめないように、いよいよ益々祈りを深め、
光明化運動を進めているのである。
政治への積極的な発言の真意も又そこに発すること
謂うまでもない。

さて私は、前年十月号を最後に発行が止っていた神誌を、
逸早く復刊しようと着手した。
本部の編輯には、前には綜合雑誌「いのち」の発行で
経験のある山口悌治講師に担当してもらい、
焼け残りの印刷所を探して活字を組んでもらった。
用紙も入手困難で、今日、毎朝の新聞に色刷りのきれいな
折込広告が大量に入って来ることが夢のような状況下に、
やっと探し出したザラ紙の薄い洋紙で、
一年ぶりに十一月号から復刊した。
表紙もなければ周りも切っていない、折ったまゝのもので、
『生長の家』誌がB6判十六頁、
『白鳩』誌がA5判八頁だった。
しかも誌友名簿も焼失しているので送りようがない。
消息の判っている人を軸に少しづつ拡張して送本し、
新聞に広告しては誌友を探し索(もと)めた。
「正に不死鳥(フェニックス)の如く」と言おうか、
こうして生長の家の戦後は始まった。

占領軍の検閲も厳しかった。
久々に十年以上を経って天降った三神示が、
月刊誌に掲載された後、占領下にひきつづき十数年
秘められてあったが、更にもう一つ、
私の現在意識にも秘されていた神示があったのであった。

昨秋『大和の國の神示」と命名され、
三十六年ぶりに公開された神示である。
戦後の三神示につづく此の神示は、
二十一年一月六日朝啓示を受け、
『白鳩』誌二十一年四月号の「入龍宮不可思議境界録」
に収めて発表すべく印刷所で版を組み、
校正刷りを占領軍の事前検閲に届けた。
ところが今回は検閲をパスせず、
この神示のみ約三分の二頁が削除されてしまった。
そして没収され、米国に持ち去られ、
ダンボールに閉ざされたままとなってしまったのである。
だから本神示の存在を知っているのは、私と編輯者、
そして検閲官のみであった。

ところが、私が生長の家総本山の龍宮住吉霊宮に
イザナミノ大神をお祀りするよう霊感を受け、
更に神域山頂に建立する“七つの塔臺“の中心を
「天孫降臨皇御国成就燈」と命名した丁度時を同じうして、
「天孫降臨、大日本世界國」の啓示が発見されたのである。
即ち、地球の裏側の、日本と昼夜逆のアメリカの、
メリーランド州立大学の暗い倉庫の中ーー
謂(い)うなれば黄泉(よみ)の國ーー
に秘匿されていた此の神示が、陽の目を見て
日本に送られてきたのである。
誠に奇しき神の摂理と謂わねばならない。
その発見者は、兵庫県の生高連委員長や
生学連中央委員長を歴任した若き同志 高橋史朗君であった。

本書の上梓に方(あた)り戦後を想い起すと、
次ぎ次ぎと走馬灯の如く記憶が廻(めぐ)る。
いろいろと筆舌に尽きせぬ労苦を偕(とも)に
頑張って来た草創以来の今は亡き同信ーー
清都理門、服部仁三郎、秋田重季、中嶋與一、吉田國太郎、
辻村彦次郎、大山晶平、東山半之助、山口悌治、宮信(のぶ)、
堀靜(しず)・・・・さんたちの面影も新たである。
今は皆さん仲よく霊界で光明化運動を応援して下さっている事と
感謝に堪えない。
それにしても、今の私の此の年齢で終戦を迎えていたら如何なっていたろう・・・・。

しかし、一切は宜しきように、神はからいにはからわれている
のであった。
戦後逸早く『生長の家』誌上の私の呼びかけに応(こた)えて
山口市から上京し、日本教文社で『世界光明思想全集』
(四十巻)の私の翻訳の助手及びその編輯に従事された
荒地清超氏、縁あって谷口家を嗣ぎ第二世として
私の代行者として東奔西走、今はブラジル國までも夫婦で飛び、
八面六臂の活躍をされていることは、
先刻御承知の通りであろう。
私は既に卒寿を迎えることになるので体力的には
演壇に立って長時間真理を説くことは無理であるが、
古き葉が新しき葉にその力を譲るに従って
樫の木は一層強健に伸びるが如く、
生長の家は磐石(ばんじゃく)であり、
世界は日一日と着実に光明化されて往く。
まことにありがたいことである。
神に感謝しつつ、人類の先導者たる本書の読者諸賢の
益々の繁栄と生長を祈って巳まない。
合掌
 昭和五十年七月 著者識す 》
(『明窓浄机』 戦後篇 
(自 昭和二十年 至 昭和二十八年)
はしがき
(現代かな遣いをさせていただきました。)

「神誌」と久しぶりに聞いて、大変懐かしく思いました。
全三十三の神示のご講義の聖典がありますが、
「大和の國の神示」の神示講義はその神示講義集である
『秘められたる神示』(昭和36年11月初版発行)には
「神示」のみでご講義は記載されておりません。
そのご講義は『大和の国日本』(昭和58年3月初版発行)
の29〜34頁に記載されております。
そのご講義の日付けは昭和57年6月2日となっております。
その理由は上記によるものでした。
なおこの『大和の国日本』の編輯は阪田成一氏とされていて、
同書の242〜264頁に阪田成一著名で
「占領下の谷口雅春先生と生長の家』として記述があります。

ありがとうございます。 









はうら ひとひら様ー (66817)
日時:2024年08月11日 (日) 13時42分
名前:志恩

(:はうら ひとひら様ー)
明窓浄机 戦後篇
(66815)


>略
さて私は、前年十月号を最後に発行が止っていた神誌を、
逸早く復刊しようと着手した。

本部の編輯には、前には綜合雑誌「いのち」の発行で
経験のある 

山口悌治講師に  担当してもらい、
本書の上梓に方(あた)り戦後を想い起すと、
次ぎ次ぎと走馬灯の如く記憶が廻(めぐ)る。
いろいろと筆舌に尽きせぬ労苦を偕(とも)に
頑張って来た草創以来の今は亡き同信ーー

清都理門、服部仁三郎、秋田重季、中嶋與一、吉田國太郎、
辻村彦次郎、大山晶平、東山半之助、山口悌治、宮信(のぶ)、
堀靜(しず)・・・・さんたちの面影も新たである。



 昭和五十年七月 著者識す 》
(『明窓浄机』 戦後篇
(自 昭和二十年 至 昭和二十八年)
はしがき
(現代かな遣いをさせていただきました。)

「神誌」と久しぶりに聞いて、大変懐かしく思いました。
全三十三の神示のご講義の聖典がありますが、
「大和の國の神示」の神示講義はその神示講義集である
『秘められたる神示』(昭和36年11月初版発行)には
「神示」のみでご講義は記載されておりません。
そのご講義は『大和の国日本』(昭和58年3月初版発行)
の29〜34頁に記載されております。


なおこの『大和の国日本』の編輯は
阪田成一氏とされていて、
同書の242〜264頁に阪田成一著名で
「占領下の谷口雅春先生と生長の家』として記述があります。<


志恩ー
私が存じ上げております。
谷口清超先生は、もちろんのことですが、
清都理門先生、服部仁三郎先生、辻村彦次郎先生、大山晶平先生、
東山半之助先生、山口悌治先生、
堀静先生・・・そして、阪田成一先生、

ずいぶん早い時代から谷口雅春先生に協力されていらしたことを
知りまして、感慨深く思っております。

私が本部に奉職していた娘時代に、上下に関係なく親しく接して
くださった 、特に、山口悌治先生、 東山半之助先生、堀静先生・・
との光栄な思い出が走馬灯のようにお懐かしく脳裏に浮かんでは消え
浮かんでは消え、しているところです。

はうら様、貴重な情報を教えてくださいまして、ありがとうございます。


谷口雅春先生が総裁先生でいらっしゃる
当時の、原宿本部会館の廊下にて、
山口悌治先生と志恩。
(1967(昭和42)年12月)

はうらひとひら様 (66818)
日時:2024年08月11日 (日) 13時44分
名前:志恩

谷口雅春先生が総裁先生でいらした当時の、
東山半之助先生と志恩。

原宿本部会館の裏玄関を出たところで。

生高連時代から可愛がってくださっていた
東山半之助先生(理事・本部講師)。

昭和38(1963)年1月1日、
原宿本部の大道場で開催された
「新年祝賀式」終了後の時。

東山先生は、生長の家に来られる前は、
四国新聞社の社長でした。

明窓浄机(新生篇) (66978)
日時:2024年08月19日 (月) 08時21分
名前:はうら ひとひら


《 本書に収録されている三年間は、
国の内外における光明化運動の密度と幅が
画期的な充実と拡大を遂げ、出版面でも幾多の
新企画が展開した年であった。
今から丁度三十年前、私も六十歳を過ぎたばかり、
戦後の愛国者公職追放から解除されて三年目であった。
今、『生長の家五十年史』の年表を繙(ひもと)きながら、
この三年の動きを辿ると、真先きに
「各教化区域の教化部長制の発足」がある。
最初は教化支部長と名付けたが、支部長では
力が弱いというので教化部長制にした。
次いで、昭和二十六年に建設計画が発表された
本部会館が、三月一日 春の立教記念日に見事落慶、
捧堂式(ほうどうしき)が行われている。

この完成に到るまでの経緯は本書の本文に詳しいが、
家内の手紙(本書13頁)にも漏らされている通り、
宗教人として誠に言うに言われぬ苦悩があった。
今、全国各地に立派な教化部会館が建ち、
百万坪を超える広大な敷地に壮大な建物が並ぶ
総本山の威容を観るとき、今昔の感に堪えない。
これら全て神の子を新たに賦活せられた
信徒諸賢の挺身致身献資ー誠心の結晶であり、
生長の家の運動が堅実に伸展した歴然たる
證左(しょうさ)であると感じられ、
唯々感謝の念で涙ぐむのを禁じ得ないのである。

さて光明化運動の基盤たる「聖使命会』も
この年の四月に発足し、満三十年を迎えたことになる。
「活動組織の新体制」も、八月に開かれた
第二回全国代表者会議で打ち出され、
今日に及んでいる訳である。
そして十月一日、「人類光明化のパテント
は諸君に譲られた!」の発表となり、
秋の記念日 十一月二十二日に第一回の誠魂奉安式が行われ、
「聖使命菩薩」の靈界での名誉称号が設けられ、
菩薩を称える「聖使命菩薩讃偈」という偈文が発表されたが、
何れも私の頭脳で公案したものではなく、
天界から授かった啓示に基づくものであった。
「菩薩讃偈」にある幾つかの宗教用語は、
私がそれまで使った覚えもなく全く未知の表現で、
我れながら驚き怪しみつつ、
新装の本部式場で、その由来を染み染みと語ったことを、
今も新たに想い起すのである。

三十年四月に「光明化運動の第一次三ヶ年計画」
が実施され、運動は愈々本格的に動き出したのであった。
この年はマスコミの接触が非常に多かった。
先ずNHK放送で、心理学で有名な東京工業大学教授 
宮城音彌氏との三十分対談があり、
鳩山一郎氏との共著『危機に立つ日本ーそれを救う道』が
救国叢書の第一巻として発刊流布され、
『宮本武蔵』の放送で著名な徳川夢声氏とも
対談する機会を有(も)ったが、
これは「週間朝日」の「問答有用」に掲載された。
これは実現には至らなかったが、鳩山首相には
翌三十一年八月、「現行憲法の無効宣言」を求める
建言をしたり、『新生活に関する12の意見』(教文新書)
に一緒に執筆して戴くなど、何かと深い御縁があった。

氏の歿後は薫夫人が人命尊重運動に献身的に
協力して下さったが、鳩山氏は『生命の實相』に救われ
起上ったことを率直に表明され、
東京音羽の自宅でも生長の家の誌友会を開くなど、
求道伝導に真摯な政治家であった。
服部仁郎氏をはじめ数人の熱心な先達が真理への御縁を
結んで下さったのだと記憶しているが、
有難いことである。

この三年間のもう一つの大きな成果は、
海外への積極的な布教展開であった。
先づ服部仁郎理事の半年にわたる北米伝導。
次いで東山半之助講師の丸一ヶ年に及ぶハワイ駐在布教。
更に谷口清超副総裁のハワイ、アメリカ、ブラジルへの
約百日にわたる巡錫と続いた。
その七年後に私達夫妻が七ヶ月に及ぶ海外布教に
出発した訳だった。
当時は航空機利用の海外旅行の初期時代であったが、
七か月に及ぶ海外旅行に一回もスケジュールを
狂わすような事件も起らず、誠に神護無限で、
人類光明化の基盤は神護の下に着々と築かれていたのであった。

アメリカの光明思想家スター・デーリー師の
来日は二十九年三月であった。
生長の家のアメリカ伝導の道は斯くして開かれた。

出版面でも顕著な動きがあった。
先づ頭注つきの易しい本として『真理』を
二十九年九月から刊行し始めている。
三十年二月には『谷口雅春選集』全二十三巻の刊行開始、
翌三十一年十一月には『生命の實相』を全四十巻に編成し、
ハンドバックに入るように考案した画期的な布装携帯版の
刊行が行われ、次々と大型企画が打ち出された。

本年が、文章伝導の根據(こんきょ)として
株式会社 光明思想普及会を創立して満五十年になる由だが、
五十年前、否それ以前に発行された
革表紙版『生命の實相』『久遠の實在』をはじめ、
三十年前に編纂刊行されたこれら聖典が未だに
聖書としての崇高(すうこう)なる命脈を保ち、
読み続けられていることは、
これが一個人の私の著作ではなく、
神の福音書として霊界からの援護があるからだとの
感を益々深くするのである。

当時を回顧していると際限がないが、
この間の地方巡錫も徹底していた。
文字通り東奔西走、南船北馬、日に夜をついで
全国を經巡(へめぐ)った。
その間の折々の動静は本文にも詳しいと思うが、
汽車の旅、宿屋や誌友宅での事々・・・。
午前午後引継いでの独演数時間に亘(わた)る講演・・・・
当時私も壮年の気力旺んな時代であったが、
兎に角、唯々神の命ぜられるままに、
神に動かされていたのだと思わざるを得ない。
現在、超過密な日程を悠々とこなして成果を挙げておられる
清超副総裁の御活躍も、恐らく当時の私の活躍の
再現であると思う。

樫の木の古い葉は、新しい生々した新緑の葉が
旺盛な活力を発揮し始めるまでは落葉しないのである。
されど四時の序、効を了えた者は謝(さ)る。
新陳代謝は天地の法則である。
結論は爰(ここ)に至って一先づ筆を擱(お)く。
昭和五十九年一月著者識す 》
(『明窓浄机』新生篇
自昭和29年 至昭和31年
(新仮名遣いを使用させていただきました。)

・ご文章の中で「聖使命菩薩讃偈』のなかの
宗教用語は今まで使った覚えがないといわれておりますが、
例えば最後の御文「瀰綸(みりん)せんことを。」
などと思われます。
意味は「全体に満ちわたること」だそうで
そのコトバの初出は「日本書紀・桃源抄に
「一物万法の上に瀰綸して更不相違者ぞ」とあるそうですが、
無学の私には、確認出来ませんでした。

ありがとうございます。



















明窓浄机(修練篇) (67058)
日時:2024年08月25日 (日) 06時50分
名前:はうら ひとひら


《 此の『明窓浄机』も第六冊目となった。
当初の案では『生長の家五十年史』に収録する企画であったが、
余りに分量が膨大なので、
編集委員が全文を読破して取捨選択し、
極力、頁を圧縮して検討されることとなった。
しかし如何に圧縮するとしても自ずと限度があり、
『五十年史』の頁が大幅に増えることになり、
とても片手では持ち得ないような
重量の分厚い本になってしまうし、従って定価も、
広く普及し難い高価なものになるため、
『五十年史』への収録は遂に見合わせることとなった。
尤もその前に、日本教文社から
「明窓浄机」を出版したいと申出があったが、
私は「細(こま)切れで出すのはまづい。
出すなら一切削除せずに出したい。
いづれその時期が来るだろう」と
その企画を延期した記憶がある。

果たしてその時期が到来し、立教当初の、
昭和五年創刊号以来の「草創篇」から順次刊行されてきた。
そもそも「明窓浄机」と題する欄を書き始めたのが、
私の身辺雑記を「近況通信」と題して、
誌友諸賢にお報(しら)せする目的であったのであるが、
その題名が、やがて「明窓浄机」に改められてからも、
当初の近況通信的な身辺雑記、内心の呟(つぶや)き的な
随筆が多く、題名にふさわしい“明窓浄机”的な
宗教随想のみとはならなかった。
従って、それは生長の家の内面的要素の濃い欄となるのは
已むを得ないことであった。
それだけに『生長の家』誌が届くと、
真先に「明窓浄机」を読む人が多くて、
“あそこに谷口先生の人格、雰囲気が直に伝わって有難い”
と言われる人達が殖えた。
あの欄は、私自身、教えの真理を真正面から
講述する欄とは異なり、極めて自在無礙(むげ)に、
自分の身辺の事象にふれつつ日常生活の所感を
率直に書いているので、以外に教えの人格的本質が
身に沁(し)みて判るという亊もあるらしいのだった。

ところでそのころの「明窓浄机」を今読んでみても
私自身の身辺の内面史の内容が甚(はなは)だ切実で、
当時が想い出されて身につまされ、胸が痛くなることがある。
本部機構の改革、運営を含む内部の刷新について
思い切った提言をしたり、断行したりして失敗していた。
宗教は行乞者のように信者からの布施に頼ってはならない。
其の頃の私の考えーー宗教家は堂々と自分が
実業的な仕事で収入を挙げ、
その収益を宗教行為に布施するのでなければならないと考え、
そのためにはとて、一方で「ゆには百貨店」を経営し、
「寶蔵農産株式会社」を創立して、多収穫肥料効果を挙げる
酵素を含むバクタモンを製造して農民の福利に貢献して
自分も収益を挙げ、その収益を宗教に布施するので
なければならないと考えた。
ところがバクタモンを施肥すると効果は覿面(てきめん)、
お化けのように巨大な農作物が出来て、
一般の農作物との釣合いを失し、農協でも引受けてくれない
ことになるなど、次々と意に副(そ)わぬ事態が
出来(しゅったい)した。

今から考えるて見ると、これすべて私一個の行き過ぎの
心境の投影であったのである。
これもみな、生長の家がより一層周囲と調和し、
脱皮して成長するための試練であったように思う。
順次、一つ一つの課題を卒業し、
人時処宜しきを得て今日の発展に到っていることは、
有難い極みである。
本篇を修練篇と名附けた所以(ゆえん)である。

私は今年九十二歳を迎えたが、
私が長寿を保っている比較から考えると、
私の現在よりも若くして当時の関係者は相次いで
昇天されたが、別に若か死にという訳ではない。
古来、日本人の定命は七十歳より若いので、
七十歳は古来稀なりという意味で、七十歳に達すると
「古希の祝」をしたものである。
本書に登場する寶蔵農産の第三代社長として、
当時の苦境を克復された功労者、
千葉県の井手毎浩(つねひろ)氏の訃報を私は
今年の盛夏の頃に受取った。
私より考えて若い方に先立たれるのは何より
心痛の限りであるが、生前の御活躍に感謝し、
心より御冥福をお祈り申し上げる。

私が尚(なお)長寿でいられるのは、
私の功績ではない。
私が神から委託された仕事をまだ成し了らないからに過ぎない。
私の徳が高いからではない。

往年(こしかた)を懐想している裡(うち)に
谷口雅春著作集第一巻『光明法語』<満の巻>が
出版されて手許に届けられてきた。
此の巻は、文章伝導を本格的に東京で展開するため、
私が昭和九年夏に東京に居を移し、
株式会社 光明思想普及会を設立して満五十年になるのを
記念しての出版なのである。
当時の経緯(いきさつ)は、『光明法語』の「はしがき」に
詳述したことがあるので今は重複を避けるが、
聞くところによれば本書は非常に好評で、
発売早々にして版を重ねた由、有難いことである。
本書を読んでいない人は、本書を読んで、
私に習って光明一元の世界に一躍跳入し、
充実した人生を尚長寿に送られん事を切に
祈念する次第である。》
以下略します。
昭和五十九年九月著者識す
(『明窓浄机』修練篇 はしがき)
自 昭和32年
至 昭和36年
(現代仮名遣いをさせていただきました。)

私(はうら)は尊師谷口雅春先生は、
聖典を通してしか存じ上げず、清超先生も最晩年しか
知りませんので、生長の家の足跡を辿る意味でも、
尊師の息遣いが感じられる『明窓浄机』を
その冊数による「はしがき」を
謹写させていただきました。

ありがとうございます。












はうらひとひら様 (67061)
日時:2024年08月25日 (日) 13時30分
名前:志恩

『明窓浄机』も
『光明法語』も

すごく懐かしいです。
生長の家に熱心だった私の両親も
毎月生長の家誌が届きますと、
真っ先に『明窓浄机』を拝読していました。

はうら様は、今から30年前に、大変な奇跡的体験を
得られまして、生長の家に入信されたそうですが、
その頃は、おっしゃる通り、谷口雅春先生は、この世に
いらっしゃいませんでしたし、谷口清超先生も晩年の時
でしたね。

⭐️谷口雅春先生、(明治26年)1893.11.22ー
       (昭和60年)1985.6.7(92歳帰幽)
       (今から39年前帰幽)


⭐️谷口清超先生、(大正8年)1919.10.2
       (平成20年)2008.10.28(89歳帰幽)
       (今から19年前帰幽)

志恩ー
右を見ても左を見ても、昔の時代の生長の家とは
すっかり様変わりしてしまった今の時代の生長の家の時に、
やめないで、素晴らしいコメントをトキ掲示板に書いてくださる
はうら様に心から感謝いたしております。
今後ともご指導をよろしくお願いいたします。

第一にして最後の真理 (67169)
日時:2024年09月01日 (日) 09時30分
名前:はうら ひとひら


《 神の創造は皆完(まった)きものである。
「世界に非道が充ちていると云うことは、
歴史と同じようにそれよりも更に古い文学さえも同じように、
否あらゆる文学中の最も古きものなる祭司(さいし)の
宗教と同じように古い嘆きである」
とカントは言っている。

けれども生長の家は世界には何ら非道なことは
存在しないと云うのである。
それは存在するものは「道」ばかりであるから、
それが少くとも存在する限りは、
それは「善」でありそれが「善」でない限りに於いて、
それは如何に存在するように見えようとも、
それは「非道」即ち「道の欠乏」「道の無」を
あらわしているに過ぎないとするのである。

カントも此の世界が如何に見えようとも
「人間は本性(即ち普通に生まれついている通りの)から
身體(からだ)が健康なのが当り前だと見倣(みな)さねば
ならぬ如く、人間はその本性上から精神的にも
健全にして善なりと見倣(みな)してならない理由はない」
と言っている。
即ち世界及び人間の本質は
それ自身「善」であるということである。

釈迦はこれを「一切衆生悉有佛性
(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」と言い、
「山川草木国土悉皆(しっかい)成佛」と言ったのである。
凡(すべ)て心の眼を開いて見れば
「悪」なるものは存在しない。
是(これ)第一にして最後の真理である。》
(『靜思集』143頁(第二章 観の転回より)
(谷口雅春選集 第十八巻 昭和32年5月10日初版)
(新仮名遣いを使用させていただきました。)

《 わたしを救う者は私自身の力でないことが
わかりました。わたしは善ならんと欲しても
善になることができない業(ごう)の催しに
引くずられていることがわかります。
私自身が努力し、改心してわたしを救わねばならぬのでしたら、
わたしはとうてい救われることはできません。
『改心いたされよ。改心いたさねば地震、雷、火の雨を
降らして平(たいら)げる』では、
わたしは平げられるほかありません。
改心しないそのままで救って下さる神がわたしは欲しいのです。
他力の救拯(すくい)のほかにわたしを救う者はありません。》(『生命の實相』頭注版第19巻 182頁)

《 それから後、わたしは浅草区小島町の
ボロ二回を借りてセッセと著述の筆をとって
『聖道(しょうどう)へ』と題する一冊の本を書き上げて、・・・・・
この論文の注目すべき点は現象世界の創造主を神とせず、
救いの中心力は現象の創造者以外(実相生命)からくることと、
個人の生命(現象生命)と、人格(実相生命)とを区別した
点であって、後に「生長の家」の思想がすでにここに
見出されるのである。》
(同書 192.193頁)

《 生長の家は一朝(いっちょう)にして、
ただの霊感だけで迷信的にヒョッコリと生まれ出たものではなく、
わたしの長い間の生活体験を通しての思索体系が
クライマックスに達せる時、百尺竿頭(かんとう)、
霊的飛躍が忽然(こつねん)花開いたものだと
言うことができるのである。》
(『生命の實相』頭注版第20巻 26頁)

《 と、突然その大濤(おおなみ)のような声が答えた。
「無より一切を生ず。一切現象は念の所現にして本来無。
本来無なるがゆえに、無より一切を生ず。
有(う)より一切を生ずと迷うがゆえに、
有に執(しゅう)して苦しむのだ。
有に執せざれば自由自在だ。
無限供給、五つのパンを五千人に分かちてなお余り、
『無』より百千億万を引き出してなお余る。
現象界は念のレンズによって転現せる化城(けじょう)にすぎない。かしこに転現すると見ゆれどもかしこに無し、
ここに転現すると見ゆれどもここに無し。
知れ。一切の現象無し。なんじの肉体も無し。」
では、心はあるであろうかと思うと、
その瞬間「心もない!」とその声は言うのだった。
今まで、わたしは「心」という得体(えたい)の知れない
悍馬(かんば)があって、
それを乗りこなすのに骨が折れると思っていたのだ。
ところが「心もない!」という宣言によって、
わたしは、その「心」の悍馬から
実相の大地に降りたのであった。》
(同書第20巻 134.135頁)

《 「では、実相とはなんであるか」とわたしは訊(き)いた。
「実相とは神である。あるものはただ神のみである。
神の心と、神の心の顕現のみである。
これが実相だ」
ここに神というのはむろん
「仏」という意味も含んでいた。》
(同書第20巻 134.135頁)

・全く他意はなくふと思ったことであるが、
初期の谷口雅春選集(昭和32年頃)は全23巻であったが、
新選 谷口雅春選集(昭和42年頃)は全20巻であってそこには、
『聖道へ』も『人生は心で支配せよ』も
『善と福との實現』も選ばれていない。

ありがとうございます。










はうらひとひら様 (67177)
日時:2024年09月01日 (日) 18時37分
名前:志恩

(はうら ひとひら様ー)
【第一にして最後の真理】


・全く他意はなくふと思ったことであるが、
初期の谷口雅春選集(昭和32年頃)は全23巻であったが、

新選 谷口雅春選集(昭和42年頃)は全20巻であってそこには、

『聖道へ』も
『人生は心で支配せよ』も
『善と福との實現』も

選ばれていない。<



志恩ー
私は、
『聖道へ』も『人生は心で支配せよ』も『善と福との實現』も
過去に拝読しまして、大変素晴らしい本だと思っておりましたが、
この三冊とも選ばれていないとは、すごい驚きです。

 (67178)
日時:2024年09月01日 (日) 19時21分
名前:枯れすすき

全く他意はなくふと思ったことであるが、
初期の谷口雅春選集(昭和32年頃)は全23巻であったが、
新選 谷口雅春選集(昭和42年頃)は全20巻であってそこには、
『聖道へ』も『人生は心で支配せよ』も
『善と福との實現』も選ばれていない。




志恩ー
私は、
『聖道へ』も『人生は心で支配せよ』も『善と福との實現』も
過去に拝読しまして、大変素晴らしい本だと思っておりましたが、
この三冊とも選ばれていないとは、すごい驚きです。

*******************************************


「光明道中記」を他のスレで引用しておきながら、『善と福との實現』が撰集に入っていないと宣い、すごい驚きですと返す。


誠に不思議なことです。

『光明道中記』は5巻『善と福との實現』6巻にあります。
雅春先生存命中の撰集編集の変更に疑問を呈することは不思議です。

枯れすすき 様 (67184)
日時:2024年09月02日 (月) 12時45分
名前:はうら ひとひら


枯れすすき 様
ご指摘ありがとうございます。

新選谷口雅春法話集(全12巻)(昭和49年頃)
の中に、ご指摘の聖典がありました。
5 光明道中記
6 善と福との実現

そちらに移されたので、(法話集として)
谷口雅春選集 は初期(昭和32年初版)から
大幅に入れ替えの理由がわかりました。
新選 谷口雅春選集(昭和42年頃)

ありがとうございます。

「谷口恵美子記念基金」の設立 (67239)
日時:2024年09月05日 (木) 19時27分
名前:はうら ひとひら



『生長の家』機関誌令和6年9月号
よりです。(6頁全文)

【 日本野鳥の会が
「谷口恵美子記念基金」を設立】

公益財団法人日本野鳥の会(東京)はこのほど、
野鳥を愛された谷口恵美子先生の遺産、
1億7200万円を元に
「谷口恵美子記念基金」を設立しました。
これは、恵美子先生から総裁・谷口雅宣先生が受領された
遺産の全額。
総裁先生のご希望を踏まえて、主に自然エネルギー
施設と野鳥をはじめとする自然生態系の共存のために
つかわれる予定。

風力発電施設は増加傾向にありますが、
立地条件によっては、
絶滅危惧種を含めた野鳥の衝突死や生息地放棄、
移動経路の変化など生態に影響を及ぼすことが分かって
おり、自然エネルギーの利用推進と生物多様性保全の
両立が世界的な課題となっています。

同会は、地球温暖化対策の観点から風力発電に賛成する
立場である一方、設置計画のある地域において
自然環境や鳥類への影響を独自に調査し、
生息する野鳥等
に影響が出ないように計画の変更などを要望する
などの活動を行っています。
根拠資料を提示するための現地調査などに費用が
かかることから、基金を設立し、長期にわたって
活用していくことになりました。

このほか同基金は@海洋プラスチックの野鳥等への
影響を防ぐためのライフスタイル転換の啓発、
A野鳥をはじめとする生物多様性全体の保全
Bこれらの活動のための人材育成に役立てられます。

現在の生長の家の運動は、自己の愛行を個人への
奉仕よりさらに拡大延長する社会貢献活動を前面に
掲げています。
その「社会」とは人間社会だけではなく、
地球上のすべての生物を含む「地球社会」であり、
今回の総裁先生のご寄付は、この趣旨をよく反映して
います。
日本野鳥の会は「もの言わぬ野鳥の代弁者として、多年度
にわたってこの基金を役立たせていただきたい」
と話しています。

ありがとうございます。








はうらひとひら様 (67249)
日時:2024年09月05日 (木) 23時24分
名前:志恩

はうらひとひら様ー
>【「谷口恵美子記念基金」の設立 】

生長の家』機関誌令和6年9月号
よりです。(6頁全文)

【 日本野鳥の会が
「谷口恵美子記念基金」を設立】

公益財団法人日本野鳥の会(東京)はこのほど、
野鳥を愛された谷口恵美子先生の遺産、
1億7200万円を元に
「谷口恵美子記念基金」を設立しました。
これは、恵美子先生から総裁・谷口雅宣先生が受領された
遺産の全額。
総裁先生のご希望を踏まえて、主に自然エネルギー
施設と野鳥をはじめとする自然生態系の共存のために
つかわれる予定。<

志恩ー
はうら様、
大変嬉しい素晴らしいニュースを教えてくださいまして、
誠にありがとうございました。
私はトキ掲示板は初代管理人のトキ様が2011年6月に
立ち上げてくださった当初からこの掲示板に出ておりますが、
ダントツに嬉しいニュースです。
生きていてよかったです。
ありがとうございました。

「人間は神の子」の事 (67333)
日時:2024年09月08日 (日) 08時53分
名前:はうら ひとひら


《 人から非難されたときよりも、
人から褒(ほ)められた時の方が、
よほど気をつけなければ危(あやう)い。

人間は神の子であるが、
すぐ今のままで易々加減(いいかげん)に
神の子などと思い上(あが)り勝であり、
無限の内容である「自己」を有限微小しか顕さないで
得々(とくとく)とすることが有り勝である。》
(『靜思集』序文 2頁)

大変重いご教示であります。

ありがとうございます。

はうらひとひら様 (67334)
日時:2024年09月08日 (日) 11時22分
名前:志恩

はうら ひとひら様ー

>「人間は神の子」の事

《 人から非難されたときよりも、
人から褒(ほ)められた時の方が、
よほど気をつけなければ危(あやう)い。

略。  》
(『靜思集』序文 2頁)<

志恩ー
言い得て妙の真理ですよね。
人間は神の子だというのは実相のことで
現象面で、間違ったこととか、悪いことをした場合は、
厳しく批判したり叱ったりしないと、
とんでもない自己中の、他人の気持ちをおもんばからない
横柄で鼻持ちならない 嫌な人間になりますから、
要注意です。そんな奴が、上の地位についたら最後です。
その会社はおしまいです。
会社にいるいい人材の皆様たちが、心底うんざりして
会社を支えてくれた皆様も、毒に当たった気分になり、
蜘蛛の子を散らすようにその場を去って行きます。
大塚家具がいい例です。

「お家騒動で話題になった『大塚家具』が消滅へ
  …ヤマダデンキが吸収合併 ...

はうらひとひら様、今日は、印税のお話です。 (67348)
日時:2024年09月09日 (月) 07時03分
名前:志恩

>【 日本野鳥の会が
「谷口恵美子記念基金」を設立】

公益財団法人日本野鳥の会(東京)はこのほど、
野鳥を愛された谷口恵美子先生の遺産、
1億7200万円を元に
「谷口恵美子記念基金」を設立しました。
これは、恵美子先生から総裁・谷口雅宣先生が受領された
遺産の全額。
総裁先生のご希望を踏まえて、主に自然エネルギー
施設と野鳥をはじめとする自然生態系の共存のために
つかわれる予定。<

志恩ー
再度、これについて書かせていただきます。

その雅宣先生が野鳥の会へ全額寄付された
1億7200万円というお金は、
これは、恵美子先生から総裁・谷口雅宣先生が受領された
遺産の全額、
ということですよね。

珍しく、とても素晴らしいお話ですが、

ということは、恵美子先生は、
親孝行だった子供たちにも、親不孝だった子供にも
そういうことには関係なく、親の財産は、子供が四人
いる場合は、四人に公平に分配されるという法律が
ございますから、子供たち全員にそれぞれ同額の遺産が
渡ったものとみなされます。

大谷の年間収入と比べますと、ひどく少ないですけれどね。

(ネット情報によりますと、
大谷翔平の年収は日本円でいくらですか?
大谷翔平の年収は8,530万ドル(日本円で124億5,380万円)


人気の小説家「東野圭吾」の印税とは
国内で最も有名でダントツの人気を誇る東野圭吾さんは、
年収が25〜30億円ともいわれています。
東野圭吾さんといえば、代表作は「容疑者Xの献身」
「マスカレード・ホテル」「白夜行」「流星の絆」「手紙」など。
(これは、⬆️2024/02/19の印税情報)

私にとりましては、1億とか2億なんて大金すぎて、はるか、
手が届かない大金です。私は、年金収入だけですので。


谷口家のお子様たち、良かったですね。

あと、本を出版されますと、著者には、印税が入金されますよね。

「生命の實相」の著作権は、谷口雅春先生は社会事業団に譲渡され
ましたので、「生命の實相」はベストセラーになって売れた本
でしたから、著作権者の社会事業団へは、何十年間とその印税の
大金が振り込まれていたのでしょう。

印税というものは著作者が亡くなっても、著作者の死後70年間と
著作権が続きますので、普通は、相続権のある子供達に、そして子供が
亡くなった場合は、その子供の子供たちに、振り込まれるとネットに
書いてありました。

印税の話で思い出したのですが、
今から60年ほど前のことですが
原宿本部を退職されて、故郷の富山県へ戻られて
暮らしておられた元理事で
元、全国白鳩副会長で元本部講師でいらした
平岡初枝先生のご自宅へ、
私は、毎年、
合計で3回、東京から夜汽車に乗り、お目にかかりに伺った話を、
前にトキ掲示板に書かせていただいたことがありましたけれど、

その頃、2回目に伺った時のことでしたが、平岡先生宅には、
前年にはなかった
新しく増築されたきれいなお部屋が1部屋できていました。

私が、平岡先生に、「お部屋、増築されたのですね、」と申し上げましたら、
先生が、
「そうなの、私、日本教文社から二冊の本、出しとるやろ、あの本が二冊とも、
よう売れとるらしくて、今年はその本の印税が、
500万円も、私に振り込まれたので、その印税で、増築したのよ。」
と申されたことを、今、思い出しました。

本の印税は、著者本人に、お給料とは、別に振り込まれるんだと、
その時、知りました。

60年前の500万円ですから、今の金額に換算するともっと多いと思います。

ネットで、本の印税について調べてみましたら、
千円の本を出すと今は、その10%の百円が著者に印税として
入金されると書いてありました。

それを考えますと、生長の家の全国組織に対してテキストとして
谷口雅宣先生ご夫妻の本を使わせれば、
谷口雅宣先生、純子先生の手元には、本だけではなく、大自然讃歌経も含めて
売れれば売れるほど、お給料とは別に
雅宣先生ご夫妻には、印税が振り込まれているのかもしれません。

ですからお二人は、実は、億万長者でいらっしゃるのかもしれません。
あくまでも、想像に過ぎませんけれどね。

お金は、持っている人のところに、余計、たくさん集まる性質がある
と聞きます。

でも、私はお金に関する考え方は、お金は、生活に困らない程度、
あるのがちょうどいいという考え方です。

足りなくても、困りますが、少な目が、生き方に創意工夫が
生まれますから、
生きていく上で、幸せな
生き方ができるように思っております。





『静思集』より (67467)
日時:2024年09月15日 (日) 15時01分
名前:はうら ひとひら


《 心を引立てることを毎朝の行事にしなければならぬ。
生長の家に入った当座は「心を引立てる」ことを
感激を以(も)って行じたけれども、
いつの間にか「心を引立てる」ことを
忘れてしまった人も多勢(おおぜい)ある。
沈滞(ちんたい)すれば黴(かび)が生(は)える。
毎日「幸福だ」「有(あ)りがたい」「嬉しい」
「本当にこれでよくなるぞ」などと云(い)う
語(ことば)を出すようにしなければ、
どこに生長の家に入った値打ちがあるか。

一回でも斯(こ)う云う言葉を出した日は幸福だが、
一回も斯ういう言葉を出す機会のなかった人は、
もうその人の生命が陳(ふる)びかけ、
信仰が退転しかけている。

自分自身かえりみて「今日はどうだったか」と考えて見よ。
「まことに済(す)みませんでした」
と一言やさしくあやまれば好(よ)いところを、
「それは斯(こ)う云う理由で致しました」
と理由や理屈をつけようとする。
そこから家庭生活の不愉快は生まれる。》
(『靜思集』7.8頁)


自戒の為

ありがとうございます。







はうらひとひら様 (67473)
日時:2024年09月15日 (日) 19時22分
名前:志恩

>『静思集』より
 心を引立てることを毎朝の行事にしなければならぬ。
生長の家に入った当座は「心を引立てる」ことを
感激を以(も)って行じたけれども、
いつの間にか「心を引立てる」ことを
忘れてしまった人も多勢(おおぜい)ある。


「本当にこれでよくなるぞ」などと云(い)う
語(ことば)を出すようにしなければ、
どこに生長の家に入った値打ちがあるか。




(『靜思集』7.8頁)

自戒の為<

志恩ー
はうら様は 『靜思集』も読まれていらっしゃるのですね。
この著書の初版本は、1947(昭和22)年。
私が高校生の時、特に気に入って繰り返し読んでいた哲学的な
崇高な雰囲気の本です。
この本は、素晴らしい哲学的な内容の本なので何度も再版
されているのですね。
宗教ぽくなく哲学的な内容なので、
生長の家ではない人が読んでも、受け入れやすく読みやすい
良書です。

でも、はうら様がこの本から引用されて書いてくださった
この一言でも、今の私には忘れがちなことでした。
知らず知らずのうちに苔やらカビやら、いっぱい
張り付いているのだと思います。
これは基本中の基本の精神ですよね。
初心忘れずべからずです。貴いことを書いてください
まして、誠にありがとうございました。



大昔の『靜思集』

静思集より (67586)
日時:2024年09月23日 (月) 12時54分
名前:はうら ひとひら



《 自分は誰かを縛(しば)っていないか。
「斯(こ)うありたい」と思う心は縛る心。
「斯うありたい」と思う心を捨てなければ、
本当に其(そ)の儘(まま)率直(すなお)に
「ハイ」の心ではない。
「斯うありたい」のではない、既(すで)に
「天国浄土が此処(ここ)にある」
と云(い)うのが此(こ)の教えである。》

(『靜思集』4頁)

初心に還らせていただいて
自戒として

ありがとうございます。

はうらひとひら様 (67590)
日時:2024年09月23日 (月) 15時04分
名前:志恩

私には知っていても実行できてないこと、
たくさんあります。笑

『奇蹟』とは (67634)
日時:2024年09月29日 (日) 16時27分
名前:はうら ひとひら



地方講師会から資料が届いた。
私は、組織として何も活動していないし、
ましてや出講停止中の身なので、ありがたい。
それなので、単なる報告に留めたいと思った
次第である。

2024年10月度地方講師研修会のテーマについて
(地球社会貢献部 部長 電子印)

正副教化部長あてで、
教区で開催する「地方講師研修会」のテーマ、
テキストとしてご活用ください。
とある。

研修会の指導に当たっては、
生長の家総裁・谷口雅宣先生のブログ「唐松模様」、
白鳩会総裁・谷口純子先生のブログ
「恵味な日々」をはじめ、
ブックレットシリーズ、
機関誌『生長の家』、普及誌『いのちの環』『白鳩』
『日時計24』も、常時テキストとしてご活用ください。
また、九折スタジオの動画および総裁先生のPodcastも
ご活用ください。

2024年10月度
◎テーマ:奇蹟とは何か

アメリカのドナルド・トランプ前大統領は、2024年
7月13日の演説中に銃撃を受けながらも致命傷を免れた。
それについて、トランプ氏は
“奇蹟的に”助かったと話したり※1
危険を「神の力で回避した」と述べたりした旨が
報道されている。※2

翻って、私たちの日常生活においても、難病から急速に
回復したり、交通事故に遇いながらもケガを免れたりすると、
“奇蹟的”な体験として注目を集める事がある。
しかし、このような異常な事象を“奇蹟”と特別扱いすることには、
その当事者を過剰にもてはやしたり、神格化してしまうなどの
リスクがある。

そこで、10月度は下記の音声およびテキストを視聴、熟読し、
「奇蹟」に関する次のポイントについて理解を深める。

◆生長の家でいう「偶然はない」とはどう意味か
◆生長の家で考える「宗教的な奇蹟」とは何か
◆生長の家では、“奇蹟”を有り難がたがるよりも、どのような
生き方が大切と考えるのか。

◎ボッドキャスト
●九折スタジオ配信の音声
『トランプの奇蹟(07-16-24)
◎テキスト
@谷口雅宣先生著『太陽はいつも輝いている
私の日時計主義 実験録』(115〜149頁)
A谷口清超先生著『大道を歩むために
新世紀の道しるべ』(97〜98頁)
※1 産経新聞の記事(2024年7月15日付)
『トランプ氏「スクリーンを見るために振り返り、
奇跡的に死を免れた」銃撃の瞬間を初めて語る』
※2ロイターの記事(2024年7月16日付)
『死免れたトランプ氏、「神に祝福された候補』と
指示者 神格化に懸念も』

はうら、は上記どの資料も持ち合わせていないので
聖典『真理』より二題ご参考までに謹写させていただきます。

《 【神のお蔭は映画の画面のようなものです】

映画の画面が一定の現世的秩序をもって展開して行きます
ように、神に祈って波長を合わせますと、
少しも無理のない自然の秩序をもって情勢が展開して来て、
その祈った事物が実現することが多いのであります。
併(しか)し、時として全く、奇蹟と思われるような
超自然的経過を通して祈りが実現することもあります。
それは恰(あたか)も、ラジオ・セットに遠方の放送が
大きく受信した時のような激動を伴うのでありますが、
それを世人は奇蹟と呼ぶのでありますが、それは
蛹(さなぎ)が蛾(が)になるのと同じであって、あるべき
過程が、あるべきようにあらわれて来るに過ぎないので
あります。
生物界にも漸次(ぜんじ)的進化と、突然変異
とがありますように、現象界の出来事にも漸進(ぜんしん)
的な変化と、突発的変化とがあるのであります。》
(《新版 真理』第2巻 39.40頁)

《 【どうして奇蹟は可能であるか】

私たちは神の叡智を常に受けて、「自然界の法則」
という自働装置を完全に利用するようにしなければ
ならない。
「自然界の法則」と「吾々の智慧」とが、どう云う関係で
結びついているものであるか。
自然界は「神の知恵」によって造られた自働装置であり、
私たちの内には「神の知恵」が宿っているからである。
私たちは、自然界に内在する法則を、神から受けた「智慧」
によって解(と)きほぐして行くことができる。
信仰によって神に祈るとき、奇蹟が起り得ると云うのは、
神は自分でお造りになった「自然界の法則」と云う
自働装置を、暫(しばら)く其処(そこ)から取除く
ことも出来るからである。
神は水素瓦斯(ガス)を
拡散してしまう物理的性質を与えられたが、
また神は必要に応じて、水素瓦斯を「拡散する」と云う
物理的性質に反して、水素瓦斯を集結させ圧縮して
摂氏何千万度と云う圧縮熱を生(しょう)ぜしめて、
これを太陽に変ずることもできたのである。》
(『新版 真理】第10巻 144.145頁)

ありがとうございます。














はうらひとひら様 (67635)
日時:2024年09月29日 (日) 18時35分
名前:志恩

>2024年10月度地方講師研修会のテーマについて
(地球社会貢献部 部長 電子印)

正副教化部長あてで、
教区で開催する「地方講師研修会」のテーマ、
テキストとしてご活用ください。
とある。

研修会の指導に当たっては、
生長の家総裁・谷口雅宣先生のブログ「唐松模様」、
白鳩会総裁・谷口純子先生のブログ
「恵味な日々」をはじめ、
ブックレットシリーズ、
機関誌『生長の家』、普及誌『いのちの環』『白鳩』
『日時計24』も、常時テキストとしてご活用ください。
また、九折スタジオの動画および総裁先生のPodcastも
ご活用ください。

2024年10月度
◎テーマ:奇蹟とは何か<

志恩ー

そういえば、はうら様は、
だいぶ前から生長の家教団の出講停止中の地方講師でいらっしゃい
ましたよね。
ところで、はうら様は、なんで 出講停止になってしまわれたのでしたっけ?

今年の10月号の教団のテーマは、「奇蹟とは何か」なんですか
参考資料は、雅宣総裁と純子先生のものばかりを..

唯物論しか説いていない今の生長の家の総裁ご夫妻のもとで、
いい方の奇蹟って実際に起きているのでしょうか。

私の耳には。生長の家の元気だった方達が、次々に突然重い病に
なってしまったという悪い奇蹟しか、まだ聞こえて参りませんが。

いうまでもなく、谷口雅春先生が総裁先生の時代には、日常茶飯事に
いい奇跡は、起きておりましたけれどね。

志恩様 (67652)
日時:2024年10月01日 (火) 05時31分
名前:はうら ひとひら


志恩 様
はうら の出講停止の理由は
当時の教区相愛会事務局長からの数秒の電話で
「総裁批判をしている、と聞いたので」
という亊でした。
最近その当時の事務局長は42歳で現し世を
去られました。
ご冥福をお祈りいたします。

(数日前に教区のこれからを担うと嘱望されていた
単位組織の長が43歳で、霊界に旅立たれました。
何故、私のような古いものだけを残して、急がれて
いるのでしょうか。
謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。)

ありがとうございます。
 

はうらひとひら様 (67658)
日時:2024年10月01日 (火) 15時15分
名前:志恩

出講停止の理由を書いてくださいまして、
ありがとうございました。

>当時の教区相愛会事務局長からの数秒の電話で
「総裁批判をしている、と聞いたので」
という亊でした。<

>最近その当時の事務局長は42歳で現し世を
去られました。


(数日前に教区のこれからを担うと嘱望されていた
単位組織の長が43歳で、霊界に旅立たれました。
何故、私のような古いものだけを残して、急がれて
いるのでしょうか。
謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。)<


志恩ー
教団所属の、私たちよりもずっと年のお若い方々が
突然、亡くなられたり、突然、難病にかかって倒れたり
という不遇なことが起きているというお話を、度々耳に
してます。

私も、亡くなられた皆様のご冥福をお祈りし、
お病気にかかられた方々の全快をお祈りさせて
いただきます。

『AI』のこと (67722)
日時:2024年10月06日 (日) 09時29分
名前:はうら ひとひら


前回の続きです。

地方講師会からの連絡で、
本部「地球社会貢献部」から11月度の『地方講師研修会」
のテーマについてです。

<2024年11月度>
◎テーマ:AIの問題を知ろう
いまやAI(人工知能)の技術は、
私たちの日常生活から、国家間の戦争に至るまで、
幅広い場面で利用されている。
日常生活では「Chat  GPT」等の「生成AI」を用いることで、
文章や画像、動画などの作成が容易に行えるし、
戦争においてはAIを兵器に活用することで、
敵の発見などを飛躍的に効率化できるという。
しかし、その技術の進歩が著しい一方で、
識者からはAIの利用には様々な問題があることも指摘されている。そこで、11月度は、下記の音声およびテキストを視聴・熟読し
「AI」に関する次のポイントについて理解を深める。
◆AIの利用には、具体的にどのような問題があるか
◆AIを含む「技術」全般が、
良い結果もしくは悪い結果をもたらす原因について
生長の家ではどう考えるか
◆情報のデジタル化とネット技術の革新が進む中、
私たちはどのような“目”を養うべきか

◎ボッドキャスト
●九折スタジオ配信の音声
・『英愛子インタビュー(03/24/24)
・『英愛子インタビュー#2(03/28/24)
・『英愛子インタビュー#3(04/01/24)
・『英愛子インタビュー#4(04/06/24)

◎テキスト
・『二百字日記 2』
(1〜7. 126〜129. 172〜175.184〜185.198〜199. 
242〜243頁)

■; 思う事

私(はうら)はコンピュータソフトのプロでもないし
AIに精通もしていないが、技術屋の末端に席を置く者として、
思いを述べたい。

・AIの現状

先日(2024年)9月17日から19日まで、
サンフランシスコで世界から18万人の動員を得て、
世界最大級のAIイベント「Dreamforce」が開催された。
そこで最先端のAIイノベーションが披露された。
これは営業活動やビジネスを展開する上でのAI活用法である。
1.初期の予測AI:売り上げ予測や確度判定の為のツールとして
2.生成AI:議事録やメールの自動作成で効率化を図る為
3.自律型AI:文脈や感情を汲んだ“人間さながら”の行為      マニュアル解説や新規顧客開拓の為のツール
もうここまで来ている。

・私(はうら)の体験

30歳で会社を作り、
「人間は人間らしい創造性ある仕事をし、
過度な身体的負担や悪環境下での作業、
同じ作業の繰り返し(ネジ締め作業等)は機械にしてもらう。
苛酷な作業環境からの人間開放。
その機械は、高度の技術をもっている職人の技(わざ)を分析し、
機械に置き換える。
そのような(今でいうロボットのようなもの)装置の
開発と市場への展開」であった。
そして人間でなければ困難であるという仕事の、
自動化、機械化、省力化をして、
現場の方から涙ながらに感謝された事もあるが、
しかし余りにも先端的であった為、
資金が枯渇し七年で終焉をとげ、無一文になってしまった。

・「はやぶさ」君の事

私(はうら)はホンの少しであるが
JAXA(ジャクサ:宇宙航空研究開発機構)の仕事を
させていただいたので、「はやぶさ」君には思い入れがある。
日本の技術は『愛』によって二度AIと融合出来た。
(愛は本来彼我(ひが)一体であるから、
両方から引き寄せあって『愛』の力が顕れるのである。)

平成17年(2005年)暮れ、
『はやぶさ』は宇宙の暗闇を漂っていた。
JAXA研究員は24時間体制で、ひたすら信じて、
正月休みを返上して、『はやぶさ』からの返信を待ち続けた。
通信が途絶えて46日目、
「元気だよ」
とただ1回 
「ピッ」と信号が帰って来た
それを『はやぶさ』と認識したのは愛であった。
平成22年(2010年)使命を終えて、
地球を撮影後機体ごと大気圏に突入して燃え尽きた。

十年後『はやぶさ2』は1回目の使命を完全に果たし
『玄関先に勉強道具を放り出して遊びに行く小学生』のように、
地球を離れ、目的の小惑星に到着するのは、
11年後だという。
人間とAIとの愛がなければ成立しない事である。

・ある取組み

令和2年(2020年)日立製作所大みか工場が、
20年かけて蓄積したIT(情報技術)と
OT(作業制御情報)を融合したAIを発表し、
世界経済フォーラム(WEF)から
日本初のライトハウス(燈台)として選出された。
この技術を使用して、アイルランドで開発された人工呼吸器を、
一品ごとに分解し3D化し、
最適の組み立て易い手順書を作成して、
人が介在して見える化されたデータ作成に寄与した。

・伝承ということ

その日立製作所では、ダイキン工業との協創の一端を発表した。
ダイキンは空調機器のリーデイングカンパニーで、
その高い技術力で有名であるが、
ダイキンの技術の根幹を支えているのは、
機械化出来ない領域での職人技である。
「ろう付け」と呼ばれる職人技が必要で、
簡単に習得できる技術ではなく、わずか数名の匠(たくみ)が
世界中の工場を飛び回って技能教育を実施していた。
ダイキンと日立は、画像解析システムをベースに、
熟練者と訓練者の違いを、人、設備、材料、作業の観点から
定量的に評価出来る「ろう付け技能訓練支援システム」を開発した。これにより、迅速かつ効率的な技術伝承が実現した。
(『日立の壁』101.102頁)
(敬称略)

・一つのヒント

ここに一つのヒントが見えてくる。
お互いに敵視し、仕事の奪いあいではなく、
人間とAIとの関係は、
使命・共生・協働・協調・愛があって初めて成立する
のかもしれない。
働くとは、はた(他)を楽にする、
自分以外の誰かの為に仕える行為だと思う。
全宇宙を一つの生命体であると認識出来ると、
そこに無限の叡智(えいち)の供給が、
還流して混然一体となって、
地上の人生の藝術的生活を彩(いろど)り、
その結果AIなども念の具象化として現れ、
平和に貢献することであろう。
と、ふと思った次第である。

ありがとうございます。
















はうらひとひら様   (67728)
日時:2024年10月06日 (日) 15時53分
名前:志恩

>地方講師会からの連絡で、
本部「地球社会貢献部」から11月度の『地方講師研修会」
のテーマについてです。

<2024年11月度>
◎テーマ:AIの問題を知ろう
いまやAI(人工知能)の技術は、
私たちの日常生活から、国家間の戦争に至るまで、
幅広い場面で利用されている。
日常生活では「Chat GPT」等の「生成AI」を用いることで、
文章や画像、動画などの作成が容易に行えるし、
戦争においてはAIを兵器に活用することで、
敵の発見などを飛躍的に効率化できるという。
しかし、その技術の進歩が著しい一方で、
識者からはAIの利用には様々な問題があることも指摘されている。
そこで、11月度は、下記の音声およびテキストを視聴・熟読し
「AI」に関する次のポイントについて理解を深める。
略<

志恩ー
生長の家の地方講師研修会では11月からAIに関することも
勉強されるのですか。
勉強することはいいことだと存じますが、

>・はうらさまの体験ー

30歳で会社を作り、
「人間は人間らしい創造性ある仕事をし、
過度な身体的負担や悪環境下での作業、
同じ作業の繰り返し(ネジ締め作業等)は機械にしてもらう。
苛酷な作業環境からの人間開放。
その機械は、高度の技術をもっている職人の技(わざ)を分析し、
機械に置き換える。
そのような(今でいうロボットのようなもの)装置の
開発と市場への展開」であった。
そして人間でなければ困難であるという仕事の、
自動化、機械化、省力化をして、
現場の方から涙ながらに感謝された事もあるが、
しかし余りにも先端的であった為、
資金が枯渇し七年で終焉をとげ、無一文になってしまった。

・「はやぶさ」君の事

私(はうら)はホンの少しであるが
JAXA(ジャクサ:宇宙航空研究開発機構)の仕事を
させていただいたので、「はやぶさ」君には思い入れがある。
日本の技術は『愛』によって二度AIと融合出来た。
(愛は本来彼我(ひが)一体であるから、
両方から引き寄せあって『愛』の力が顕れるのである。)

後略<


志恩ー
はうら様は地方講師でいらっしゃるそうですが、出講停止に
なっておられるそうですし、どなたがAIについてのことを
地方講師の方々に教えるのでしょうね。
各教化部長先生でしょうか。


ーーーーーーーー
・”「哲学」はAI時代の羅針盤。AIと人間が結ぶべき関係性を問う
―出口康夫(京都大学院教授))”
令和6年、2024.09.27(金)https://openhub.ntt.com/journal/11619.html

・「哲学」がないと人類は生き残れない
―出口康夫
https://www.toshin.com/mirai/sekai/interview/11/

志恩ー
このように哲学とAIを結びつけておられる京都大学院の先生も
いらっしゃいます。
この出口康夫氏は、お名前は出口ですが、
出口王仁三郎先生関係の人だとは、載っておりませんでした。

『相愛会会則』改正 (67901)
日時:2024年10月13日 (日) 16時16分
名前:はうら ひとひら


2024年9月18日 参議会決定の
『生長の家相愛会会則』改正文が届きました。
ほぼ全文と言っていいほど改正されているが、
大きく分けると
(1)目的にジェンダー平等の考えを尊重
(2)10の対策部の廃止
(3)聖経読誦の中に、聖經・讃歌・経本読誦を追加

8頁綴りで対比表になっていて、左欄が現行右欄が
改正後となっている。
少し掲載させていただきます。

(目的・現行)
第3条
本会は男性信徒による生長の家人類光明化運動・
国際平和信仰運動の布教推進機関として、
宗教法人「生長の家」国際本部(以下、「本部」
という)の意図方針に従い、社会各層、地域社会、
各職場、各家庭にくまなく光明思想を浸透せしめ、
生長の家立教の使命達成を図ると共に、神・自然・
人間が大調和した“新しい文明”の構築に貢献する
ことを目的とする。

(目的・改正後)
第3条
本会は宗教法人「生長の家」国際本部(以下、「本部」という)
の意図方針に従って、会員相互の修養研鑽をはかりつつ
生長の家のみ教えを生活に実践し、ジェンダー平等の考え方を
尊重し、社会各層、地域社会、各職場、各家庭の光明化に
寄与するとともに、神・自然・人間が大調和した“新しい文明”
の構築に向かって真理宣布、地域社会への貢献などの
諸種の運動を行うことを目的とする。

(会員の資格等・現行)
第4条
会員は、次の条件を満たす男性とする。

(会員の資格等・改正後)
第4条
会員は、次の条件を満たす男性(性自認を含む)とする。

(対策部・現行)
第18条
組織運動の伸展を図るため、教区連合会に原則として
次の対策部を置く。
(1)講習会・各種行事対策部
(内容は省略します。)
(2)誌友会対策部
(内容は省略します。)
(3)聖使命会員拡大対策部
(内容は省略します。)
(4)聖典等及び普及誌購読者拡大対策部
(内容は省略します。)
(5)組織拡大対策部
(内容は省略します。)
(6)壮年層活動対策部
(内容は省略します。)
(7)IT活動対策部
(内容は省略します。)
(8)練成会対策部
(内容は省略します。)
(9)社会活動対策部
(内容は省略します。)
(10)総本山・宇治別格本山対策部
(内容は省略します。)

(部・改正後)
第18条
会長(編註:連合会長)は教区の実情に合わせて、
運動の重点分野を担当する「部」を設けて、
「対策部長」「活動部長」「推進部長」などを
置くことができる。
旧(1)〜(10)は削除

(活動・現行)
第33条
相愛会は目的達成の為、主として次の活動を行なう。
(1)講習会等の宗教法人「生長の家」主催行事及び
教区主催行事への参加推進。
(2)誌友会の開催
(3)早朝神想観、聖経読誦。
(4)〜(16)
略します。

(活動・改正後)
第32条
単位相愛会は主として次の活動を行なう。
(1)宗教法人「生長の家」主催行事及び教区主催
行事への参加
(2)誌友会やネットフォーラムなどの行事の開催
(3)神想観、聖経・讃歌・経本読誦
4)〜(13)
略します。

私は末端の一相愛会員なので、感想などを言う
立場にはありません。
よって戯言(ざれごと)などを書きます。
ある日の四季的想い

・蝶の羽音を聞く窓辺にはや朧月(おぼろづき)

・神話的フーガに酔いしれた晩夏(ばんか)は かの日

・まったく風のない夜半に
 コトリと落ちる病葉(わくらば)ひとつ

・風が揺(ゆ)れて時雨(しぐれ)る言(こと)の葉(は)
                  幾許(いくばく)か

ありがとうございます。






はうらひとひら様 (67909)
日時:2024年10月14日 (月) 03時20分
名前:志恩

>『相愛会会則』改正
2024年9月18日 参議会決定の
『生長の家相愛会会則』改正文が届きました。
ほぼ全文と言っていいほど改正されているが、
大きく分けると
(1)目的にジェンダー平等の考えを尊重
(2)10の対策部の廃止
(3)聖経読誦の中に、聖經・讃歌・経本読誦を追加<

志恩ー
『相愛会会則』が改正 されたのですね。
聖経の中に、谷口雅宣総裁が作られたいくつかのお経も
含めたのですね。
私も今の組織のことは、
特に相愛会については、わかりませんので、コメントは
控えます。

はうら様の短歌(和歌)は、意味深いですね。

貴重なご投稿を感謝いたします。

やりたい本題で本来の生長の家がなくなっていくんだね。 (67916)
日時:2024年10月14日 (月) 07時50分
名前:本音の時代

生長の家教規

第8条 この宗教の儀式は礼拝、祈り、神想観及び聖経読誦とし、教義に従い随時この教規に定めた講師の指導のもとにこれを行うものとする。

※現在もこのままなのかは知りません。

『相愛会会則』は讃歌・経本の追加ですか。どこまで雅宣さんの自我になびいていくのでしょう。

本音の時代様 (67917)
日時:2024年10月14日 (月) 08時02分
名前:志恩

はい、その通りです。
谷口雅春先生に救われた信徒たちにとりましては
痛いほど悲しい出来事ですが、
谷口雅春先生の教えは、三代目さんによりまして
消されてゆきました。
教団にいる人たちは、一言でも今の総裁ご夫妻に
逆らえば、即、首にされますので、今は誰一人、
おかししいと言える人は、教団内部にはおりません。
なびいているのは全員ではないでしょう。ごく一部の人間でしょう。
他のほとんどの方たちは、真意を隠して従っているフリを
するしか今の教団内では、生きる術がないのだと思います。
今の総裁ご夫妻は、ご自分たちが正しいと思う信念を曲げることは
決してありません。トキ掲示板で13年間見てきてわかったことです。
しかし、本音の時代様ぐらいですよ、ズバリとはっきり言えるのは。
散々にボロクソに言われても挫けないのはどうしてでしょうね。

教団にいる人たちは、一言でも今の総裁ご夫妻に 逆らえば、即、首にされますので、今は誰一人、 おかししいと言える人は、教団内部にはおりません。 (67927)
日時:2024年10月14日 (月) 10時02分
名前:本音の時代

雇用者側には、異議申し立てできる権利があるはずですし、雇用側にもそのことを事前に雇用者に権利を知らせておく必要があります。
異議申し立てを許さない職場環境ならば、労働環境としては時代遅れと言えます。

胡蝶蘭君 (68012)
日時:2024年10月20日 (日) 14時45分
名前:はうら ひとひら



《 冬になると、多くの木は葉を枯らし、
野の草は姿を消してしまいますが、
翌年の春になると、すべて、
新しい青々とした美しい葉を装(よそお)い、
それぞれの美しい花をつけさせるのです。
この春になって、美しく萌(も)えでる草木の姿を
見ておりますと、神様の、
すべてのものを新たならしめる
力がはっきりわかるようです。
草木でさえこんなに新しく美しく蘇生(よみがえ)らせ
たまうのに、万物の霊長(れいちょう)が、
古びたり、病気になったきりで、
また新しく蘇生ら無いと言う筈はありません。
老人も心配はいらない。
生命(いのち)さえしっかり働かせておれば、
新しくなり、若返るのです。
病人も恐れることはない。
流れる水は腐らないのです。
そのように本当に喜んで働いている人間は病気に
ならないのです。》
(《新版 真理』第1巻254頁)

拙宅に同居している『胡蝶蘭君』が春に多くの大輪を
数か月にわたって咲かせ、眼を楽しませてくれたが、
この秋にまた、9つの蕾と3つの大輪を見せてくれた。
まるで、皆しっかりせよ、というかのように。

ありがとうございます。



はうらひとひら様 (68019)
日時:2024年10月21日 (月) 22時11分
名前:志恩

>胡蝶蘭君


老人も心配はいらない。
生命(いのち)さえしっかり働かせておれば、
新しくなり、若返るのです。
病人も恐れることはない。
流れる水は腐らないのです。
そのように本当に喜んで働いている人間は病気に
ならないのです。》
(《新版 真理』第1巻254頁)

拙宅に同居している『胡蝶蘭君』が春に多くの大輪を
数か月にわたって咲かせ、眼を楽しませてくれたが、
この秋にまた、9つの蕾と3つの大輪を見せてくれた。
まるで、皆しっかりせよ、というかのように。<


志恩ー
胡蝶蘭は、何万円もする超高価で繊細なお花で、
私はいただいたことも自分で買ったこともないのですが、
こんなに上手に育てていらして蕾を持たせ開花させていらして
はうら様がというよりもはうら様の奥様が丹精込めて
育てていらっしゃるのでは?と想像いたしております。
ご夫妻揃って、愛深いご性格でいらっしゃるのだと
思います。いいお話をありがとうございました。

神・自然・人間 (68020)
日時:2024年10月21日 (月) 23時26分
名前:本音の時代

聖経「甘露の法雨」には、「神」と「人間」の項はあるのだが、
「自然」の項はない。何故だろう。ふと思いました。

『講師会だより』 (68094)
日時:2024年10月27日 (日) 07時20分
名前:はうら ひとひら


教区地方講師会から
『講師会だより』が届いた。
私のような者にまで送っていただいて、ありがたいと思っている。
K教化部長のコメントで
「研修会や交流会に出られない方は、
今の大切な教えが頭の上を透り過ぎて行ってしまうのは、
講師として余りにも勿体ない」と。
その為に『全体交流会NF(ネットフォーラム)』を
10月30日20時から21時までズームで開催するという。
テーマは『“神の子”は性別によらず』だという。
その下の案内に、10月18日多摩川で“石を拾った”ので
11月15日石を上げて11月20日「石上げの御祭」を
教化部会館前ロビー龍宮住吉分社前で行うという。

これを読んで下記のご文章が思い起こされた。

《 兎も角(ともかく)、
宗教によって人を救おうと思うものは、
その教えをする面に於いては一寸(ちょっと)でも
「自分の生活のため」などという職業意識的な
利己精神を捨てなければならないのであります。
そして神の受信機となり、
テレビのように自己が講話するところに、
神があらわれるというほどにならなければなりません。
生長の家の地方講師のように、
講師を生活に必要な職業とせず、
完全に奉仕精神を貫き得る位置にいられる人たちは、
自己の生計と、講師の聖職とを混同しないで
いられる位置にあられるのでありますから、
どうぞその聖職の意義を悟って、
純粋に純粋にただ「人類を生かしたい」
「兄弟を生かしたい」
の愛他的精神に成り切って、
神様の完全なアンテナになり切って生活に模範を示し、
神様の教えを純粋に感受して
歪(ゆが)みなく教えを伝えられたいものであります。》
(『到彼岸の神示 神示講義・自覚の巻
「生死の教」 153.154頁)
(現代仮名遣いをさせていただきました。)

・思う事
・宗教だったら、「救済」をしよう
・実相哲学だったら「現象を超越」しよう
・生長の家だったら、一つの大調和の教えを実践しよう

ありがとうございます。






はうらひとひら様 (68097)
日時:2024年10月27日 (日) 09時39分
名前:志恩

>教区地方講師会から
『講師会だより』が届いた。
私のような者にまで送っていただいて、ありがたいと思っている。
K教化部長のコメントで
「研修会や交流会に出られない方は、
今の大切な教えが頭の上を透り過ぎて行ってしまうのは、
講師として余りにも勿体ない」と。
その為に『全体交流会NF(ネットフォーラム)』を
10月30日20時から21時までズームで開催するという。
テーマは『“神の子”は性別によらず』だという。
その下の案内に、10月18日多摩川で“石を拾った”ので
11月15日石を上げて11月20日「石上げの御祭」を
教化部会館前ロビー龍宮住吉分社前で行うという。<

志恩ー
今の生長の家の全国の教化部長さんて、雅宣総裁の指令に
よって、雅宣総裁の部下ですから、
雅宣さんの指揮される運動方針に沿って、いやでも、
そのままをお立場上、やらなければならないから大変ですよね。
ジェンダーフリーを生長の家は推すことや、石上げの行まで
信徒に解説したり、やらせなきゃならないなんて。
心の底では、凄くお辛いでしょうね。
谷口雅春先生の教えは皆無ですもの。
これでは、信徒が嫌気がさして、どんどんやめていくのも
無理のない話だと思います。
全国の教化部長さんが、お気の毒でなりません。
はうら様の教区の教化部長さんて、調べてみましたが、
木○先生でしょうか。
はうら様、教えてくださって、ありがとうございます。

はうらひとひら様 (68131)
日時:2024年10月29日 (火) 06時22分
名前:志恩

はうら様ー
・思う事
・宗教だったら、「救済」をしよう
・実相哲学だったら「現象を超越」しよう
・生長の家だったら、一つの大調和の教えを実践しよう

志恩ー
今の生長の家の総裁ご夫妻は、それらをされておられません。
雅宣さんが過去に出版された書物類、1つとりましても
古本になって一円という値がついてても売れていないのは、
多くの皆様が、たとえ読んでも、光明思想のかけらもない
内容なので、心を明るくされることも微塵もないので、
雅宣さんの思想によっては、
なんの救いもないからだと思います。

雅宣さんが次から
次へと人間知で考えて作られるお経を読みつづけて救われたという
人の話は聞いたことがないのですが、むしろ古い信徒さんたちや
幹部級の方々が、雅宣さん作のお経を読み続けた結果、
教団では難病になって次々に倒れているということを、
漏れ伺っております。
しかし、それなのに、なお、雅宣さんは、また新しい
『飛鳥讃歌』經を創作され、
これも新しい聖経扱いにして、たぶんですが、
出版されようとしているなんて、普通の感覚では考えられない
ことが、今の教団上層部では起きております。
これらの現象を、われわれ信徒は、どのように受けとったら
よろしいでしょうか。
雅宣さんには、
谷口雅春先生の教えに沿って、雅春先生が述べられておられました
真理の通りに、創始者がされていた通りに救済をやっていただきたいです。
そうしたほうが、信徒たちは心がよろこびますし、救われますから、
信徒は、減らないと思うのですが。

アマゾンコムより
例:
『“森の中"へ行く−人と自然の調和のために生長の家が考えたこと−』
谷口 雅宣 、 谷口 純子 著
単行本
定価 ¥1,047
こちらからもご購入いただけます
¥1 (25点の中古品と新品)
ーーーーーーーーーー
『目覚むる心地−谷口雅宣随筆集−』
谷口 雅宣 著
単行本
定価 ¥1,676
こちらからもご購入いただけます
¥1 (27点の中古品と新品)
ーーーーーーーーーー
『凡庸の唄 』
谷口 雅宣 (著)
単行本
定価 ¥509
こちらからもご購入いただけます
¥1 (19点の中古品)
----------------
ただし、『日々の祈り』谷口雅宣先生著は
いい本だと思います。私はこの本も買って持っております。
これは全国で今も使われいている本なので定価通りです。
あと、雅宣さん作の『観世音菩薩経』、その他のお経も
全国の練成道場や教化部でテキストとして使われております
ので、そういう場合は信徒たちは
テキストになっていれば、いやでも買わされますので、
たとえば『観世音菩薩経』は、
定価1,781が中古でも993円で売られています。
それから、
中古になっても中には1円には ならずに95円とか、高いのでは
中古になっても、半額ぐらいの750円で売られているのもございます。
全部が全部1円になっているというわけではありませんが、読んでも
心に灯がともることもない魅力のない本がほとんどです。
私は雅宣さんの本も純子さんの本も、全部一応買って、読んでおります。
(ただし、雅宣さん作のお経だけは、一冊も買っておりませんが)
しかし、残念ながら、読んでもためになったことも、面白みを感じたことも
一度もありませんでした。
そう言っては申し訳ないことですが、
雅宣さんは、宗教家としては、宗教的知識も教養も見識も三拍子揃って
持ち合わせていない人間だと存じます。

10年 (68245)
日時:2024年11月03日 (日) 08時59分
名前:はうら ひとひら


《 【人間は自分の欲する通りが実現する】

善き想念をいだき善き言葉をいだすことは
宇宙のエネルギーを、
其の方向に利用する機械の設計を終ったようなものである。
そしてそれを行動にあらわすのは
その機械を運転するのと同じことである。
運転しなければ心に設計した通りの結果が得られない。
「行動を伴わない信仰は空念仏(からねんぶつ)である。」
と云うのはそのためである。
宇宙のエネルギーは表現せんことを欲し、
表現の出口となる想念と言葉と行動とを待っているのである。
これが即ち「我れ戸の外にありて叩(たた)く、
誰にても戸を開くものあらば直(ただ)ちに入らん」
と聖書に書かれている聖句の意味である。
だから吾らは善き言葉を出し善き想念を
思い浮かべるように工夫すべきである。
不幸と病気と死とはこの法則を知らないため、
又は知ってもそれを行わないために起るのである。》
(『新版 真理』第9巻 183頁)

私は日曜日、祝日以外は朝4時半から出かけて
3時間の早朝の教育施設の清掃、管理の仕事をさせて
いただいているが、10年になった。
仕事は3時間であるが、作業場への往復に3時間かかる。
毎日ほぼ3万歩の行程である。
その10年間であるが、いろいろな事があった。
何故清掃作業かというと、現役を退職する少し前に
『24時間365日個人相談の受付け』をやらせていただくにあたって、
先ず自分の身体のゴミ(想念、感情等も含めて)
を掃除するのに、その仕事が一番よいように思えた。
初めは、それまでの50年は、設計屋だったので、
身体の使い方が分からず、筋肉痛に苦しめられた。
しかし、肉体仕事は、精神的な軋轢もなく、
その行動中ほぼ『甘露の法雨』を唱える事が出来、大変よかった。
最初の2年で、2冊の漫画のような小説を書くことが出来た。
小説を印刷し終えて、発送が終了と同時に、
前の取引先の管理部長から連絡があった。
(それは5千万円の負債の問題で指定工場の認定を外されて
現役を退職したのであったが、)
その部長から時間があったら仕事を手伝ってほしいとの事だった。
そして20年前やった仕事の改修設計やら、
国関係の仕事もまた従前のように、やれる環境になった。
清掃の現場でも、一番仕事が遅く、一番仕事が出来なかったが、
いつのまにか男性で自分が最年長となり、
特に最近の1年は、現場の人の問題や組織の問題等で、
いろいろあったが、収まるところに収まり、
又仕事もほぼ他の人の1.5倍ほど出来るまでになった。

例えば、一教室の清掃時間はマニュアルでは30分となっているが、
私は7年かけて工程を分析し、15〜17分で行い、
又人手不足の為補足する為、他所から来た正社員が
ある仕事を1時間半以上かけているので、
私はこうすれば20分で出来ると言ったが、
そんな話は聞いていないと取り合ってくれない。
そこで私は「その仕事は自分がやる」と手を上げて、
20分で終わらせ、それを、毎日通常の仕事の他に行っているので、
全体とすると、少しは役立っていると思っている。
10年間一度も休まなかった。
いつまで続くかは分からないが、
身体が動かせる間は多分もう暫く続くものと思っている。

ありがとうございます。








はうらひとひら様 (68248)
日時:2024年11月03日 (日) 18時52分
名前:志恩

>私は日曜日、祝日以外は朝4時半から出かけて
3時間の早朝の教育施設の清掃、管理の仕事をさせて
いただいているが、10年になった。
仕事は3時間であるが、作業場への往復に3時間かかる。
毎日ほぼ3万歩の行程である。
その10年間であるが、いろいろな事があった。
何故清掃作業かというと、現役を退職する少し前に
『24時間365日個人相談の受付け』をやらせていただくにあたって、
先ず自分の身体のゴミ(想念、感情等も含めて)
を掃除するのに、その仕事が一番よいように思えた。
初めは、それまでの50年は、設計屋だったので、
身体の使い方が分からず、筋肉痛に苦しめられた。
しかし、肉体仕事は、精神的な軋轢もなく、
その行動中ほぼ『甘露の法雨』を唱える事が出来、大変よかった。
最初の2年で、2冊の漫画のような小説を書くことが出来た。
小説を印刷し終えて、発送が終了と同時に、
前の取引先の管理部長から連絡があった。
(それは5千万円の負債の問題で指定工場の認定を外されて
現役を退職したのであったが、)
その部長から時間があったら仕事を手伝ってほしいとの事だった。
そして20年前やった仕事の改修設計やら、
国関係の仕事もまた従前のように、やれる環境になった。
清掃の現場でも、一番仕事が遅く、一番仕事が出来なかったが、
いつのまにか男性で自分が最年長となり、
特に最近の1年は、現場の人の問題や組織の問題等で、
いろいろあったが、収まるところに収まり、
又仕事もほぼ他の人の1.5倍ほど出来るまでになった。
略<

志恩ー
はうら様は、元々は、半導体の設計のお仕事に携わっておられた
お方で、ある時はその方面の社長さんもされていらしたお方と
伺っておりますが、高齢者になられてからは、そのような
お仕事を、10年間も休みなく続けていらっしゃるなんて、
とてもとても常人ではできないことです。
しかも「甘露の法雨」を口ずさみながらお仕事をされていらっしゃるとは
動く「甘露の法雨」のようなお方ですね。
日曜日と祝祭日はお仕事がお休みの日でいらっしゃるそうですが、
日曜日には、貴重なご投稿をくださいますのでおかげさまで、
トキ掲示板が清められているような気がいたします。
はうら様は、小説を過去に三冊、出版されたそうですが、
そのうちの二冊を、私は賜りまして、拝読させていただきましたが、
「生命の實相」のエッセンスが描かれてあるような、とても深い
小説でした。今後も、ますますお元気でいらしてくださいませね。
私も、まだまだ元気でおりますので、よろしくご指導のほど、
お願いいたします。

ある違和感 (68317)
日時:2024年11月10日 (日) 15時30分
名前:はうら ひとひら


『生長の家』機関誌令和6年11月号が届いた。
斜め読みして、ある違和感を覚えた。
目次の次の白鳩会総裁の『孫のキノコ採り』の話ではない。
その次の頁に九月二十二日に本部で行われた
『布教功労物故者追悼慰霊祭』での総裁の挨拶の最後に
「九月二十七日に行われる「大調和の神示連続リレー読誦」
に参加を促され、
「大調和の神示」の精神を正しく学んでほしいと
述べて挨拶を結ばれました。」
と記載されている点にである。
確かに「大調和の神示」はその全文が
生長の家の教義になっている、最重要な神示です。

・それを正しく学ぶ為に、
私達は平成28年8月13日を第一回として誌友会を開催し
『全33の神示』ご講義を3年4ヶ月かけて学び終えた。
神示講義集は3冊にまとめられているが、
「大調和の神示」講義が記載されている
『神ひとに語り給ふ』
が重版保留という名のもとに、
誌友さんの手もとにほとんどなかった。
開催者は当月分と次の月の勉強の為に、
数十人分のテキストをコピーし用意し、何とか進められた。
誰も、何も言わなかったが、異常な事である。
宗教上の憲法である教義を学ぶのに、
それを学べなくしているという亊は
どういう亊なのであろうか、と思う。

60年間、私達は歪んだ『生長の家のマーク』によって、
仲間が分裂し、教規はないがしろにされてきた。

・『霊性の目覚め』
はどちらも
昭和61年1月25日初版発行であるが、
その171頁がいつのまにか書き換えられて2種類存在している。
(書き換えなければならない不都合上)

・『奇蹟を生ずる実相哲学』
は下巻の『はしがき』が
不都合として重版保留として、信徒の目から消えた。

・『聖光録』
も5種類あるというが、
昭和61年以降の『新編 聖光録』も改訂版とかしないで、
「谷口雅春監修」がいつのまにか「谷口清超監修」に
変更されている。
しかも平成24年、原宿本部の聖典販売所に並べられていた
『新編 聖光録』が陳列棚から引き上げられ、
しばらくしたら「品切れ」とされた。

・『實相と現象』
は尊師の署名が入った追悼特別号であるが、
これも重版保留である。

・別スレッドで書かせていただいた
『碧巌録解釋 前篇 後篇』や
『古事記と現代の預言』
も重版保留である。
信徒の眼の前から、真理をどんどん見えなくして
「精神を正しく学ぶ」とはどういうことなのだろうかと、ふと思った次第である。

その答えの一つが、
2021年に行われた「生長の家代表者ネットフォーラム2021年」
(11月19日)で総裁はこのように述べておられる。

「倫理的思考は誰でも持っているが、
宗教では「信仰心」を優先してきた歴史があるため
蓄積が足りないとご指摘。
今後は生長の家においては、
聖典等に書かれていても今日の科学的根拠と
一致しない記述をそのまま引用して教えを説くことをやめ、
現実生活で行う運動に則するために、
論理的に考え、伝える方法を身につける必要がある
と教示されました。」
(『生長の家』機関誌令和4年一月号)

『奇蹟』なんて非論理的なもの、物理学で証明出来ないものは
排斥するという宣言である。
他意はない。
ふと違和感を感じた為認(したた)めた。

ありがとうございます。





はうらひとひら様 (68326)
日時:2024年11月10日 (日) 23時26分
名前:志恩

はうらひとひら様ー
>【ある違和感 】
『生長の家』機関誌令和6年11月号が届いた。
斜め読みして、ある違和感を覚えた。<




目次の次の白鳩会総裁の『孫のキノコ採り』の話ではない。
その次の頁に九月二十二日に本部で行われた
『布教功労物故者追悼慰霊祭』での総裁の挨拶の最後に
「九月二十七日に行われる「大調和の神示連続リレー読誦」
に参加を促され、
「大調和の神示」の精神を正しく学んでほしいと
述べて挨拶を結ばれました。」
と記載されている点にである。
確かに「大調和の神示」はその全文が
生長の家の教義になっている、最重要な神示です。

・それを正しく学ぶ為に、
私達は平成28年8月13日を第一回として誌友会を開催し
『全33の神示』ご講義を3年4ヶ月かけて学び終えた。
神示講義集は3冊にまとめられているが、
「大調和の神示」講義が記載されている
『神ひとに語り給ふ』
が重版保留という名のもとに、
誌友さんの手もとにほとんどなかった。
開催者は当月分と次の月の勉強の為に、
数十人分のテキストをコピーし用意し、何とか進められた。
誰も、何も言わなかったが、異常な事である。
宗教上の憲法である教義を学ぶのに、
それを学べなくしているという亊は
どういう亊なのであろうか、と思う。

60年間、私達は歪んだ『生長の家のマーク』によって、
仲間が分裂し、教規はないがしろにされてきた。





信徒の眼の前から、真理をどんどん見えなくして
「精神を正しく学ぶ」とはどういうことなのだろうかと、ふと思った次第である。

その答えの一つが、
2021年に行われた「生長の家代表者ネットフォーラム2021年」
(11月19日)で総裁はこのように述べておられる。

「倫理的思考は誰でも持っているが、
宗教では「信仰心」を優先してきた歴史があるため
蓄積が足りないとご指摘。
今後は生長の家においては、
聖典等に書かれていても今日の科学的根拠と
一致しない記述をそのまま引用して教えを説くことをやめ、
現実生活で行う運動に則するために、
論理的に考え、伝える方法を身につける必要がある
と教示されました。」
(『生長の家』機関誌令和4年一月号)

『奇蹟』なんて非論理的なもの、物理学で証明出来ないものは
排斥するという宣言である。
他意はない。
ふと違和感を感じた為認(したた)めた。<



志恩ー
はうら様は、教団の機関誌をとっていらっしゃいますので、
何が書いてあったか、内容を教えてくださいますので、
ありがたいです。谷口雅春先生 関係のことを、変えたり、
大事な本を次々に信徒たちが読めない状態にしている
雅宣総裁の、言動不一致さと、異常さを 私も痛感して
おります。


『三正行』のこと (68409)
日時:2024年11月17日 (日) 11時42分
名前:はうら ひとひら


【神の恵みを頂くには】

《「汝の窓をひらいて、
わが恵みの如何に大いに流れ入るかを実証せよ」
これが神が吾らに示したまう言葉であるのである。
神の恵みの流れ入る窓ほ何処(どこ)にあるかと云うと、
あなたの愛の心と信とにあるのである。
あなたの心が、神の愛と善と無限供給とを信ずることが
深い程度に従ってあなたの心の窓はそれだけ広く開くのである。
先ず「愛』である。
次に「信」である。
その次には「祈り」によって、「智慧」を受けることである。
次には、その受けた智慧を「実践」することである。
結果があらわれる前に、先ず結果は既に与えられたと
「感謝」することである。
そして「報恩行」を行うことである。
「信」「祈り」「智慧」「実践」「感謝」「報恩行」
この六つが神の恵みを戴くための
六波羅蜜(ろくはらみつ)である。》
(『新版 幸福を招く365章』213.214頁)

・昨日(11月16日)ある方からメールをいただいた。
「今月も仕事のためお休みさせて頂きます。 
現象なしと深く理解することにより
マイナスな想念を抱かないのだと思います。
更に真剣に三正行に励みます。」とある。

私(はうら)は少し驚いた。
「三正行」という言葉を久しく聞かなかったように思う。
そして襟を正される思いがした。
以前は、愛行が一番難しいと思っていたが、
(動的行として)
他の為に尽くす事は、自他一体感をもつことだと、
最近思うようになってきた。
波動が整えば、相手もよい波動になって、
環境が整うようになってきた。
そのように思えるありがたさがある。

ありがとうございます。





はうら ひとひら様 (68418)
日時:2024年11月18日 (月) 00時21分
名前:志恩

はうら様は、今でも”24時間、個人指導対応”という’
超人的な愛行をされていらっしゃいます。
お仕事も、日曜、祭日以外は、毎日早朝からされていらして
ご帰宅されるのが午前11時。ですから午前11時から夜まで
個人指導を受け付けているという、まさに、他のスレッドに
どなたかが書いていますが、”動く生長の家真理教”ともいうべき、
素晴らしいお方でいらっしゃいます。

毎週日曜日は、このようにトキ掲示板へご投稿くださいますので
トキ掲示板の内容が宗教的で中身が濃くなって、大変ありがたく
思っております。
ありがとうございます。
今後もご指導のほど、よろしくお願いいたします。








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