生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)

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旧・生長の家「本流復活」について考える(したらば版)

生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)

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生長の家のマーク (61091)
日時:2023年09月18日 (月) 09時01分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。
『生長の家のマーク』についてスレッドを立ち上げさせて
いただきますこと、感謝申しあげます。


《 ついに「此(こ)の運動をやっているのは、わしである」
と云うように観世音菩薩が、生長の家のマークを宝冠
(ほうかん)の中央部につけて出現されるに到ったので
あります。・・・
私は、地上の何(ど)の書物の受売りでもなく、地上の誰から
の相伝(そうでん)でもない、私は、あの姿をあらわされた
観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)に教えられて、唯の喇叭
(らっぱ)的役目をしているに過ぎないのでありまして、
その功績(こうせき)も功徳(くどく)も「私」にあるのでは
なく、悉(ことごと)く観世音三十三身示現(しんじげん)
の御(お)はたらきにあるのであります。》
(『新版 真理』第3巻 140.141頁)

ところがその『生長の家のマーク』が一度は正常に修正され
つつあったが、突然歪(ゆが)められて、
それがそのまま現在に至っているという
。現在使用されている『生長の家のマーク』は
本部であれ、総本山であれ、地方の教化部であれ、什一会員証
としての色紙のマークであれ、霊牌(れいはい)に冠された
マークであれ、そのほとんどが、理念としての正規の
マークではないという事である。
(形状と色彩)

その為、『生長の家』が分裂し、凋落(ちょうらく)し、
それを象徴するように、竹島の問題、尖閣諸島
(せんかくしょとう)問題、北方領土問題等が起っているという。
それは『生長の家のマーク』で中央に八角形の緑色のマークが
ありますが、これは十字(キリスト教)の四両端に切り込みを
入れて、八角の星の象をしているが、八角は大八洲
(おおやしま)の象徴であり、大八洲は日本の事であり、
宇宙の中心座に日本が位置して、万教を一つの中心に帰一
しているという象徴である。その大八洲が変形されたまま
現在に至っております。

先ず、この事実を知っていただき、それからどうしたら、
正常な理念のマークにもどせるか、を皆様と共に考えたいのです。

話は、生長の家家族(信徒)必携(ひっけい)といわれる
『聖光録(せいこうろく)』から始まります。
ここで、「則天去私」様のブログより
『聖光録』の歴史と索引 (2020-8-29)
から引用させていただきます事、お許しください。
「則天去私」様のご功績には、いつも頭の下がる思いが
しておりまして、感謝の言葉しかありません。

『聖光録』の歴史と索引より(「則天去私」様ブログより

*『聖光録』には、五種類あります。(*は私(はうら)補足

@『聖光録』ー生長の家家族必携
生長の家本部編纂・日本教文社発行(昭和28年1月1日)初版

A『聖光録』ー生長の家家族必携
生長の家本部編纂・日本教文社発行
              (昭和42年10月20日)改訂版
              (昭和42年11月25日)改訂再販

B『新編 聖光録ー生長の家信徒必携
谷口雅春監修・生長の家本部編纂・日本教文社発行
              (昭和54年3月1日)初版

C『新編 聖光録ー生長の家信徒必携
谷口雅春監修・生長の家本部編纂・日本教文社発行
              (昭和61年)

*谷口雅春先生御昇天 昭和60年6月17日午前7時53分 91歳
           (『實相と現象』はしがき)

*昭和60年11月22日 「新総裁(清超先生)襲任の生長の家
秋季記念式典におけるお言葉」
「法燈継承の意義」が追加されて
昭和61年頃 改訂版とかではなく、突然 谷口雅春監修から
谷口清超監修とされて発行された。

つづく




はうらひとひら様、生長の家のマーク(徽章)が改変されていることは、存じませんでした。貴重なご投稿、ありがとうございます。続きをお願いいたします。 (61092)
日時:2023年09月18日 (月) 10時39分
名前:志恩

生長の家の徽章、改変の件で、則天去私様のお名前が
ございましたので、調べてみましたらところ、ございました。
則天去私様、いつもこちらへ、引用してもうしわけございません。
大事な記事ですので、今回も、引用させていただきますこと、
お許しくださいませ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
則天去私様ブログより

2015年04月04日15:28

【生長の家の徽章】

前略

その生長の家マ-クの図案は
『生長の家』誌昭和12年1月號に記載されているのが
正しい図案です。

この徽章というのは
当時(昭和12年)純銀製七寳・華麗圖案として
和服用・洋服用として50銭で販売されていました。

先日その件で友人に最近のマ-クに就いての改変が
行われているのを教えて頂きました。

十字部分の幅が小さくなっているの
が現在使われているマ-ク(徽章)です。


僅かな差なのかもしれませんが、
徽章には標準図がありそれに則って行うのが
正しいのであります。

例えば国旗日の丸にも正式規格というのがあります。
(添付資料参照)

それの則るのが正式な「日の丸」となります。
生長の家でもそうですが、標準図に則るのは
正しいのであります。

当時『生長の家』誌友徽章標準図となっています。
誌友の徽章が「聖旗」として使用しているのも因縁として
感じています。

また『生命の實相』大聖典には
山根八春先生の図案として神々しく上蓋に掲げられています。

http://tecnopla1011.blog.jp/archives/26350843.html

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新編 聖光録 (61093)
日時:2023年09月18日 (月) 11時28分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。
つづき です。

D『新編 聖光録ー生長の家信徒必携
谷口清超監修・生長の家本部編纂・日本教文社発行
               (昭和54年3月1日 初版
               (平成8年24版)
となっているが、『法燈継承の意義』が追加されている
から、初版の日付けには齟齬(そご)があります。

その『新編 聖光録』であるが、2012年(平成24年)頃
であるが、原宿本部の書籍販売を訪れた時、係の人が
陳列していた棚から『聖光録』を取り出して、箱詰め
していた。なぜ仕舞うのか解らなかったが、やがて
『新編 聖光録』は「品切れ」とされ、それ以後私達の
前から、姿を消して、現在に至っている。

ここで注目していただきたいのは、
Bの『新編 聖光録』谷口雅春監修となっている事である。
何故新編となり、何故谷口雅春監修となったのでしょうか。
その新編には、288頁に
「生長の家」のマーク(意義と由来)が追加されたのです。

《 「生長の家」のマーク(意義と由来)
図案は元帝展審査員山根八春(やまねやつはる)氏による。
万教融和、中心帰一の象徴として太陽と月と星と地球と
まんじ(通常の卍ではなく、動きが逆の字)と十字と日章旗
とを完全に、而(しか)も単純に一つに融和させている。
外周の燃えるような赤色の円光は神道をあらわす太陽と
日章旗とを表象し、内側に円味を帯びた銀色のまんじは
太陰と仏教とを表象し、中央緑色の星はキリスト教を
あらわす十字架を星形に崩したもので、星の八つの角は
大八洲(おおやしま)(日本国)に象(かたど)り、
八方位の国々を一つに中央に纏(まと)めていること
(ヤマトー大和)を示す。緑は地上に青人草(あおひとぐさ)
の繁茂(はんも)していることを示し太陽の後光の三十二
線あるいは仏の三十二相に象る。この徽章(きしょう)
を帯びるものは即ち太陽の子孫であり、神の子であり、
日子(ひこ)「彦」、日女(ひめ)「姫」であり、
悟りを開いて三十二相を顕現する瑞兆(ずいちょう)
を示すのです。》
(『新編 聖光録』谷口雅春監修 昭和54年3月 初版)

つづく



生長の家 マーク 2 (61098)
日時:2023年09月18日 (月) 16時18分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。
前回のつづきです。

話は昭和53年頃にさかのぼります。
ある方が『什一会員の色紙』を手配しようとして、ふと
気がついたというのです。なぜか手配する度に、色調が
微妙に変化していると。
そこでインキメーカーの色見本帳を添付して、谷口雅春先生
に生長の家のマークの色をご指示してください。と。
すると谷口先生のご返事は、色の事の前に、
「マークの図案が違っている。中央の緑の星は大八洲を
顕わしているのであるから、八つの角の幅が全て同じく
ならなければならない。提示されているものは、右斜め
の角の幅が、他のものより狭くなっているので、全て
同じ角の幅になるようにして下さい。」との事でした。

そして当時の副総裁だった谷口清超先生に命じられて
正しい形の図案を理事会で検討されたそうです。

この時の『生長の家のマーク』の正しい図案が
『新編 聖光録』谷口雅春監修 288頁に記載
されているマークが正規品です。
(昭和54年3月1日 初版)
その為に、わざわざ聖光録を新編とされ、谷口雅春監修
とされて、「生長の家」のマーク(意義と由来)の頁
を追加されたのでした。
書籍では『生長の家 五十年史 292頁)記載
『生長の家の徽章の誕生』のマークも正規品です。
他のものは全て大八洲が均等ではなく、
『“新しい文明”を築こう 上巻 基礎編「運動の基礎」
谷口雅宣監修・生長の家国際本部編纂・生長の家発行
(2020年4月25日初版)の82頁の「生長の家のマーク」
も当然正規品ではありません。(形状も色彩も)

当時の副総裁、理事長、理事がどういう発言をされ、
どういう行動を取ったかは、ここでは論じない。
決定されたのは、安直に、まんじの横上の線に
上部の角の二線を交あわせるというものでした。
こうして、理念を無視し、谷口雅春先生のご意志を無視し、
このいびつな形のマークが今でも信徒の前に、ある
という事実です。

正規品はまんじの横上の線よりもっと上にないと、八つの等しい
角の作成は不可能です。
(昭和12年1月号の『生長の家誌』にカラー印刷の
『生長の家』誌友徽章標準図が掲載されていますが、
(「則天去私様」のご指摘を志恩様が紹介されておりますが、
これが原点です)

『生長の家のマーク』が正しいものではなく、信徒必携の
『聖光録』を無くし、版数も変えないで、突然内容を
不自然に変更する。

それはあの『霊性の目覚め』171頁の改竄(かいざん)
の時と同じ手法を使って、信徒の浄財を使って、なにを
隠(かく)そうとしているのでしょうか。
光は闇とは和解しません。
先ず正しいものは、正しいという場がなければなりません。
(ごめんなさい。画像の容量が大きい為画像が貼れません
でした。次回にさせていただきます。)



生長の家 マーク (61100)
日時:2023年09月18日 (月) 16時55分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

『生長の家』マーク
左側が正規品 右側が現状のものです。
右側の右の斜めの幅が明らかに狭い事が分かります。
まんじの横上の線が黄色く線が引いてあって、それに
交じわるように角の二線が引かれている事がわかります。
左側の正規品は、その黄色の線より、角の二線の交わり
が上部にある事がわかります。
左側の正規品は角の内側が正方形で、角度を変えても
正方形ですが、右側のものは、正方形の内側の形を
角度を変えると、明らかに形状が小さい事が分かります。
角の幅が均等でない事を表わしております。

 (61101)
日時:2023年09月18日 (月) 18時04分
名前:地方講師の夫

徽章の図案につき、議論というか意味のない発言が出ています。

下の添付の記章をどう判断しますか?

妻はこのバッジをつけて講師活動に出ています。

地方講師の夫 様 (61102)
日時:2023年09月18日 (月) 18時37分
名前:志恩

あなたが貼られたのは
「生長の家 地講 純銀バッチ(徽章)」です。

改変させられてしまったと話題にしているのは、
「生長の家 教団 マーク(徽章)」のことです。

話題を逸らさないでください。

生長の家 マークのお問合せに対して (61106)
日時:2023年09月19日 (火) 14時56分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

『地方講師の夫様』
お問いあわせいただきまして、ありがとうございます。
先ず、ご提示いただきました、地方講師バッチを測らせて
いただきました。(緑の二つの角の間隔)(PC画面上で)
経方向横幅;16.5mm 斜め方向幅:13.5mm  です。

因みに、私も一応地方講師補なので、地方講師バッチを
測りました。
経方向横幅:3.2mm 斜め方向幅:2.5mm

なにを言いたいかといいますと、いびつなのです。
象徴(シンボル)が歪んでいれば、行動も歪みます。
床が少しでも傾いていれば、精神バランスが崩れる
といいます。ましてや理念の象徴が崩れて、歪んで
いるのです。
象徴としてのマークの八角寸法が等しくなって、初めて
調和があるのです。
ましてや、生長の家は、「大調和の神示」の全文が
教義になっているのです。

ところで
『“新しい文明"を築こう 上巻 基礎編「運動の基礎」
監修 谷口雅宣

で82頁の『生長の家のマーク』
で何点か違和感がありますので、述べさせていただきます。

(1)右万字の説明です。
これは普通に書く卍と違って、動きが逆になっているが、
左進右退(さしんうたい)(左が進み、右が退く)
の宇宙の法則を表現しているのですが、その説明が
ないので、なぜ右万字にするかがわからない。
(説明不足です。)
(2)上記でこの部分が鉤十字(かぎじゅうじ)に似て
いるといわれ、欧米諸国から忌避(きひ)されていると
いうわりには、表紙、背表紙にも
生長の家のマークを付けているのは、何故でしょうか。
(3)真ん中の緑の星ですが、本書の説明では、
「八方の国々が平和裡(り)に一つにまとまっている」
と説明されていますが、そういう説明も必要と思いますが、
谷口雅春先生の思い、意図したものは
大八洲(おおやしま)の象徴であり、
伊邪那岐神、伊邪那美神の神の国生み(古事記)から
始まっておりますので、八方の説明では、理念が
説明されていないと思います。
その他
(4)奥付で
監修:谷口雅宣
著者:谷口雅宣 谷口清超 谷口雅春
となっている著者名に違和感があります。
参考文献として引用先が書いてあるのでそれでよいのでは
ないでしょうか。何かの意図を感じます。

先ず理念がなければ、物事が成就しませんし、
中心も定まりません。
それが歪められている事を、論じているのです。
それが意味のない発言であると思われるのは、ご自身の
思いですから構いません。
地方講師の奥様によく聞いてみてください。
ご返事になりましたでしょうか。
どうぞよろしくお願いいたします。







生長の家 マーク 万教帰一を象徴 (61109)
日時:2023年09月19日 (火) 19時40分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

『地方講師の夫様」へのご返事の復習として。

・『生長の家』の徽章について

万教帰一を象徴したマーク

《 生長の家マークは、太陽と月と星が合はされてゐるので
あり、従ってそれは“宇宙"を表現してゐるのである。
一番外側に赤く輝いてゐるのは輝く太陽を表現してゐる
ので、これは神道の表象(ひょうしょう)である。
その内側にある“まんじ"は普通に書く卍と動きが逆に
なっているが、これは左進右退(さしんうたい)(左が進み
右が退く)の宇宙の法則が表現されてゐるのだが、特に
その卍(まんじ)が月をあらはすために全体が円く白く
構図されているのである。月氏国(がっしこく)をあらはし、
佛教を表象するのである。中央の緑の星は地球といふ天体
をあらはし、緑色は樹草(じゅそう)の緑を表象すると
共に蒼人草(あおひとくさ)(にんげん)の象徴(しょうちょう)
である。それは八角の星の像をしてゐるけれども、“十字"
両端を切り込んだのであって、実はキリストの十字架を象徴し
キリスト教をあらはしてゐる。八角は大八洲(おおやしろ)
の象徴であり、大八洲は日本のことであって宇宙の中心座に
日本が位置して、万教を一つの中心に帰一してゐる。
一 万教帰一の普門成就(ふもんじょうじゅ)の宗教が日本に
あらはれたことをあらはしてゐるのである。》
図案は帝展の彫刻部門の審査委員であった山根八春氏
(『生長の家50年史』292頁)

 (61140)
日時:2023年09月23日 (土) 08時37分
名前:神の子

痴呆講師には偽物ダイヤがお似合いですか。
意見の違う人に礼儀も無しでこれは自身の中に生長の家の理念が正しく現れた結果でしょうか?

 (61143)
日時:2023年09月23日 (土) 10時36分
名前:痴呆講師

それが、徽章の価値の理解ない言葉に表れている感じですよ。〈〈


「徽章の価値」ですか。
キリスト教を象徴する「十字架」を「日本国」と同一に中央に配した。

その結果、日本に「統一教会」「エホバの証人」というキリスト紛いのものが蔓延し政治を支配するようになった。

素晴らしい徽章をつくられたものです。

 (61155)
日時:2023年09月23日 (土) 15時15分
名前:神の子

人の事をバカだねーとか言ったりね。
自分を省みる事も無い自称本質を見極めている元信徒さんはそのままでも良いけど。

はうらさんの良スレを汚すのは止めてもらいたいですね。

 (61158)
日時:2023年09月23日 (土) 15時46分
名前:元信徒

ごめんなさい
全部削除しました。

地方講師の夫さんがはうらひとひら先生の別人格だとしたら、
本当にすみません。
お詫びいたします。
掲示板を汚してすみません。

『原点と理念』 (61166)
日時:2023年09月24日 (日) 11時06分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

『生長の家のマーク』は象徴・理念として美しいものです。
(正規の形状をしているものは、
どっしりと落ち着いていて不動であり、調和があります。)

このマークの中には、太陽・月・地球・青人草(人間)
が現され宇宙全体が表現されています。
また神道・仏教・キリスト教を現し、万教帰一を表現され
ています。深い意義を秘めたマーク(印)ですが、
その原点と理念についてです。

《 ところでこの生長の家の徽章(きしょう)が七宝の
銀メダルになって誌友の希望者に頒布(はんぷ)されると、
三年前にこの生長の家のマークを見たといふ人が出て来た
のです。その人といふのは、大阪に住む海員審判所所属の
弁護士の門脇観次郎氏であった。
門脇氏は昭和十年四月八日、大阪国民会館での谷口雅春先生
の講演会のあと、そのいきさつについて谷口先生につぎのやうに
報告してゐる。

「自分は生長の家に入る前から熱心な法華経信者で観世音菩薩を
お祀(まつ)りして礼拝してゐましたが、私が生長の家に
入りましてから後、今から三年前、神想観をしまして一心に
生長の家の神様のお姿を拝させて下さいと念じてをりますと、
観世音のお姿がハッキリお現れになりました。
そこでこれが生長の家の神様のお姿であらうか。
それとも自分が観世音菩薩をお祀りしてゐるのでこんな
お姿を拝したのであらうかと思ひましたので、当時住吉に
ありました生長の家本部へお伺ひしまして其事をお伺ひ
しますと、「生長の家の神様は本来姿がなく、相手に従って
自由自在に御顕現になるのであるから、貴下が観世音菩薩
信仰であるので観世音の姿をもってお顕れになったのでせう」
と谷口先生は被仰(おっしゃ)いました。
ところが今年になって、生長の家のマークが出来ましたので、
それを見ますと驚きましたことには、三年前に観世音菩薩の
姿を拝しました時に、その観世音の宝冠にこの
マークが既についてゐて、妙な模様のマークだと思った
ことを思ひ出しました』
(『生長の家』第六輯(しゅう)第六号)


門脇観次郎氏のこの証言によって、生長の家の神は仏教では
観世音菩薩として現れてゐることが明らかになったのである。
またこの証言は、現象界に現はれる事象(じしょう)が、
それより以前の“心の世界"又は“霊の世界"に既に出来て
ゐて、それが現実界に投映されて現はれることを教へる
ことにもなったのである。》
(『生長の家五十年史』 292.293頁)

《 外国の国家は State(状態)と云う英語で言い
あらわされているように一つの集合体に過ぎないので
ありますが、日本の建国の由来から考えると日本国家は
State(状態)ではなく、「大和(だいわ)」なる
理念によって統合されたる「理念表現」の国家なのであります。》
(『新版 真理』第7巻 266頁)

《 人間は何のために地上に生を享(う)けたか。・・・
人間が地上に生を享けたのは、人間なる理念が即ち神の
肖像(しょうぞう)なる理念が(創世記 1章26)
佛教的に云えば佛子なる理念が(法華経、序品)時間空間
の世界を通じて自己を實現せんがためなのである。
人間は生きる價値(かち)があるかのこの問題は『理念』は
生きる價値があるかの問題であるほかはない。
人間は要するに理念であるからである。・・・

併(しか)し『理念』なる語は、本来、人間がたあいもなく
心に描いた妄想ではなく、『理』すなはち、神の定めたまうた
宇宙を貫く根本原理が想念としてあらはれたものである。
『理想』は人間が心に描いたところのものであるが、『理念』
なるものが描かれた其の奥には『神の理』が潜在してゐて、
その奥から人間に其の『理』の顕現を推し出し推し進めてゐる
のである。『理念』は『理想』の推進原理であり、人間理想の
奥にあるフヰルムのやうな一番根本的な實在なのである。
人間なるものは本来、神がその心の中に描きたまひし
『神の肖像』(Image of God)なる『理念的存在』である
のである。人間は肉體ではなく『理念』であり、『神の肖像』
である。肉體が重んぜられるのは、物質又は物體として
重んぜられるのではなく、理念の顕現體として重ぜられる
のであって、物質又は物體としては價値なき存在に
過ぎないのである。》
(『新生の書』 7.8頁)

ありがとうございます。








はうらひとひら様 (61175)
日時:2023年09月25日 (月) 02時26分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)

>『原点と理念』
『生長の家のマーク』は象徴・理念として美しいものです。
(正規の形状をしているものは、
どっしりと落ち着いていて不動であり、調和があります。)

このマークの中には、太陽・月・地球・青人草(人間)
が現され宇宙全体が表現されています。
また神道・仏教・キリスト教を現し、万教帰一を表現され
ています。深い意義を秘めたマーク(印)ですが、
その原点と理念についてです。(略)<

志恩ー
生長の家のマークについては、
私は、とても意識が薄かったのですが、
はうら様が大事なことを教えてくださったので、
この点も再認識しているところです。
いつも大事なことをご教授くださって
感謝いたしております。

だいぶ前のことですが、旧トキ掲示板の時代に
縹(はなだ)様という兵庫県にお住まいだといわれた
女性のお方が、トキ掲示板へ度々、投稿されていらして、
そのお方が、生長の家のマークの大切さについて、語って
いらした記憶があるのですけれど、過去文を探してみましたが、
いまは見つかりませんでした。

はうらひとひら様 (61181)
日時:2023年09月25日 (月) 13時38分
名前:志恩

過去に「生長の家のマーク」について語っておられた
縹様 語録を
旧トキ掲示板から、探してまいりましたが、長文ですので
新たにスレッドを立てさせていただき、そこへ転載いたしました。

『生長の家マーク』の由来 (61191)
日時:2023年09月27日 (水) 19時30分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

『生長の家 のマーク』の由来についてです。

〇《 外周の燃えるような赤色の円光は神道をあらわす
太陽と日章旗とを表象し、太陽の後光の三十二線あるいは
仏の三十二相に象る。》
(『新編 聖光録 監修 谷口雅春 288頁要約)

【仏の三十二相】

釈迦の姿の32の特徴を言語によって数え上げたもの。
仏の外形的な特徴とともに、宗教的な理想を示している。
大般若経(だいはんにゃきょう)などに述べられている。

1)足下安平立相(そくげあんぴょうりゅうそう)
 足の裏が平らで安定している。
2)足下二輪相(そくげにりんそう)
 手と足に法輪の模様がある。
 ・・・・
32)白毫相(びゃくごうそう)
 眉間の間に白毫がある。

具体的御徳

1.慈悲の平等        2.人々の迷いを鎮める。
3.寿命の長さと敬愛。    4.未来の人々を救う。
5.もれなく人々を救う。   6.誰にでも等しく接する。
7.人々に幸福をもたらす。  8.喜びを与え学ぶことが早い。
9.哀愍摩頂する徳。     10.多くの弟子をもつ。
11.無上の法王である。    12.喜びの心を起こさせる。
13.罪障を消滅させる。    14.人々を喜ばせた結果を表す。
15.迷いを除き願いを叶える。 16.慈悲をもってご利益を与える。
17.七随眠を断ち七聖戒を満たす。
18.人々を看病して得た相。  19.高い徳を表す。
20.安心感を与える。     21.柔軟の徳。
22.悪口をいわない。     23.清浄さを表す。
24.三毒を制する。      25.威風堂々としている。
26.人々の願いを満足させる。 27.嘘をいわないことを表す。
28.話を聞くものに喜びを与える。
29.なにごとにも良く見通す。 30.眼が清らかである。
31.頭脳明晰さを表す。    32.生死の災いを消す。

 (Wikipedia・Flying Deity Tobifudo より)



〇《 内側に円味を帯びた銀色の逆まんじは太陰と仏教を
表象し、》
(『新編 聖光録 監修 谷口雅春 288頁要約)

《 これは左進右退(さしんうたい)(左が進み、右が
退く)の宇宙の法則が表現されている。》
(『生長の家 五十年史 292頁)

【左進右退】

《 そこで伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は
『それではお前と、私と、天之御柱(あまのみはしら)
即ち宇宙の中心をグルグル廻って互いに相交錯
(あいこうさく)して、そうして国を生(う)もう』
とこういわれたのであります。それでお前は右より
廻(まわ)りなさい。私は左から廻るからと云われた。
それがこの生長の家の徽章(きしょう)に現してある
逆まんじのマークであります。
これは伊邪那岐命の逆まんじです。
逆まんじは吉祥(きっしょう)万字と申しまして陽主
陰従(ようしゅいんじゅう)左進右退の法則に合致して
いる縁起の好い万字なのであります。
この『左』というのは『陽(よう)』を代表している。
『左』は字に書くと『火足(ひたり)』と書くべきです。
火(陽(ひ))の極端を表している。
それから『右』は『水極(みぎ)』と書いて、陰(みず)
の方の極端です。それで陰(いん)の方は一歩退(しりぞ)
いて、陽の方は一歩進む、それによって天球が回転して
いる。地球は陰ですから、伊邪那美(いざなみ)で、右
から廻ります。高天原(たかあまはら)、即ち全大宇宙は、
この回転作用によって遠心求心の平衡(へいこう)作用で
球体宇宙というものが出来上がっているのであります。

(『生命の實相』神道篇『古事記講義』初出)
(『古事記と日本国の世界的使命』27〜29要約 光明思想社刊)

《 陽極(ようきょく)は内より外へと進んで陰極(いんきょく)
に働きかける。そして陰極は外より内へと向かって、陽極を
内に抱擁(ほうよう)する。これは原子の原子核(陽)と
電子(陰)との関係でも、人間の関係でも同じことでありまして、
これが天地の法則になっているのです。
天地の法則に随(したが)う者のみが榮(さか)え、法則に
逆(さから)うものは、法則に触(ふ)れて傷つき、今は
盛(さか)んにみえていても、やがて衰退してしまうので
あります。

(『古事記と現代の預言』 71・75頁)


〇《 中央の緑の星は地球といふ天体をあらはし、緑色は
樹草(じゅそう)の緑を表象すると共に蒼人草(あおひとくさ)
の象徴である。それは八角の星の象をしてゐるけれども
“十字"両端を切り込んだのであって、実はキリストの十字架
を象徴しキリスト教をあらはしている。
八角は大八洲(おおやしま)の象徴であり、大八洲は日本の
ことであって宇宙の中心座に日本が位置していて、万教を
一つの中心に帰一してゐる―万教帰一の普門(ふもん)成就
の宗教が日本にあらはれたことをあらはしてゐるのである。》

(『生長の家 五十年史』 292頁)


【大八洲】

《 於是(ここに)伊邪那岐命先ず、「阿那(あな)邇(に)
夜志(やし)、愛袁登賣袁(えおとめを)と言(の)りたまひ、
後に妹(いも)伊邪那美命、「阿那邇夜志、愛袁登古袁
(えおとこを)」と言いたまひき。如此(かく)言いたまひ
竟(お)へて、御合(みあ)ひまして、子(みこ)淡道
(あわし)之補之狭別島を生みたまいき。次に伊予(いよ)
野二名島を生みたまひき。

島々の名は略しますが、最初お生みになった一郡の島が
大八洲(おおやしま)と申しまして、現在の日本の諸島で
これが世界国土の中心生命地帯で、喩(たと)えて云えば
細胞核のような所で在ります。以下世界無数の国土及び
神々の創造があります。》

(『生命の實相』神道篇『古事記講義』初出)
(『古事記と日本国の世界的使命』33〜34要約 光明思想社刊)

<古事記による8つの島>

・淡路 ・伊予(四国) ・隠岐 ・筑紫(九州)
・壱岐 ・対馬     ・佐渡 ・大倭豊秋津島(本州)

(『デジタル大辞書泉 より)


ありがとうございます。












はうら ひとひら様 (61194)
日時:2023年09月28日 (木) 07時27分
名前:志恩

はうら ひとひら様ー
>『生長の家 のマーク』の由来についてです。<

志恩ー
『生長の家 のマーク』....
谷口雅春先生は、
どれほど深い想いを込めて、作られたのかを
改めてはうら様に、教えていただきまして、
大変ありがたく思っております。
『生長の家 のマーク』は、短絡的な気持ちで、
わけのわからない後継者が、勝手に、
改変などしていけなかったのだということが、
改めてよくわからせていただきました。
「生長の家のマーク」も、早急に、元へ戻さなくては
いけないものなのでした。
ありがとうございます。


『観世音菩薩の祈り』 (61248)
日時:2023年10月03日 (火) 16時44分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

初版『聖光録』(昭和28年発行)に「観世音菩薩の祈り」
が記載されております。
(観世音菩薩像が「生長の家のマーク」を宝冠されて
顕われたのは、昭和6年頃と思われます。
図案は昭和10年2月1日制定。(新編聖光録288頁)

《 【 觀世音菩薩の祈り 】

觀世音菩薩様。あなたの慈悲を私の慈悲とならしめ給へ。
生きとし生ける者を愛し、憎むことなく憤ることなく、
すべての人々を赦し、愛し、はぐくみ大いなる觀世音菩薩
の慈悲をもって、すべての人々を抱くことが出来ますやうに。

觀世音菩薩様。どんな時にも倦むことなく、疲れることなく、
人々の悩み苦しみを救ふために挺身し得る大いなるあなた様の
勇猛心を與へたまへ。

觀世音菩薩様。あなたが三十三身に身の姿を變じ給ひて衆生を
濟度したまふやうに、時と人と場所とに應じて適當なる方便
を行じて人々を救ふことが出来ますやうに。

觀世音菩薩様。あなたの慈悲と柔和の相好をわたしの相好と
ならしめ給へ。人々がわたしの顔を見るだけで幸福と光明
と歡喜と祝福とに滿たされる相好とならしめ給へ。

觀世音菩薩様。あなたの清らかなる思ひが私の思ひとなり
ますやうに。あなたのやさしき言葉が私の言葉となりますやうに。
あなたの慈悲の行ひが私の行ひとなりますやうに。

觀世音菩薩様。わたしの行く處に常に現れたまひて、わたしの
觸れるすべての人々に光と健康とを與へたまへ。
一人として私の話をきく者が病むことなく惱むことなく
貧しきことなからしめ給へ。

觀世音菩薩様。わたしの中に完全に流れ入りたまへ。
私はあなたに無條件降伏しました。私を動かし給ふ者は
あなたであります。わたしはあなたの内に生きあなたの
内に住ひ、あなたの御心のまゝにあなたのみ心を行じて
ゐるのでございます。ありがとうございます。

(『聖光録』昭和28年1月1日初版
「九月の吾が祈り」165〜167頁)


因みに上記『聖光録』259〜261頁に
『蓮華日宝王地観』(れんげにっぽうおうじかん)
の神想観が記載されております。


『般若心経』(はんにゃしんぎょう)より

「観自在菩薩
 行深般若波羅蜜多時
 照見五蘊皆空
 度一切苦厄・・・・」

《 観世音菩薩は深般若波羅蜜多(じんはんにゃはらみた)
般若は直観の智慧、波羅蜜多は到彼岸、彼岸即ち悟りに至る
ための直観智の深遠なる修行)を行(ぎょう)ぜられた
ときに「五蘊皆空」(ごうんかいくう)と照見(しょうけん)
して悟りをひらかれた。「
五蘊即ち色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)
(色は物質・あとの四つは心)は皆空(みなくう)
なのであって、「あるように見えても無いのだ」と云う
自覚を徹底せしめなければならないのである。
その時、一切即ちすべての苦しみや災難をみな
度(たす)ける事ができるのである。》

(『真佛教の把握』 236〜237要約)



はうらひとひら様 (61250)
日時:2023年10月03日 (火) 19時47分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)
>『観世音菩薩の祈り』 (今回のはうら様のスレッドのテーマ)
(略)
(観世音菩薩像が「生長の家のマーク」を宝冠されて
顕われたのは、昭和6年頃と思われます。
図案は昭和10年2月1日制定。(新編聖光録288頁)

《 【 觀世音菩薩の祈り 】(略)<


志恩ー
はうらひとひら様
この度も、生長の家の重要な事柄を
ご投稿くださいましたこと、大変ありがたく
心から感謝いたしております。
私は、娘時代の頃から、この【 觀世音菩薩の祈り 】と
【如意宝珠観】が一番大好きな祈りで、いつも
この祈りを、神想観の時に実践しておりました。

ですから、生長の家の神様に、今まで導かれ護られて、
このように幸せに生きてこられたのだと思います。

珍しい谷口雅春先生のご揮毫いりの,
観世音菩薩像の絵画のお写真まで
ご紹介くださいまして、
大変嬉しく思っております。
ありがとうございました。

それから、旧トキ掲示板のほうにご投稿くださっていた
先日、ご紹介したものとは、別の 縹様の、
生長の家マークに関するコメントを、また見つけましたので、
それも、ここへ貼らせていただきます。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

旧トキ掲示板
トーキングステックボードより

[生長の家マーク]に関する
縹様のご投稿文の過去文一部再掲:
ーーーーーー
2883:縹:2014/02/19(水) 12:27:04
 志恩様
「光輪卐十字架のマーク」は、その「甘露の法雨」を授けて
下さった観世音菩薩様の冠についていたマークですので、

そのマークを否定したのならば、『観世音菩薩讃歌』に
書かれている観音様は、どこの観音様のことなのでしょうか?

 ・・・私は以前から、雅宣先生の教えが、
観音信仰でありながら、
「地球環境保護と世界平和と美術に関心があり、
日本人よりも、国際人を養成する宗教」に似ている、
と思っていたのですが、

生長の家にご縁のある観世音菩薩様は、
浅草寺の観音様で、浅草寺は、法華経のお寺です。

「光輪卐十字架の卐の部分」は仏教をあらわし
谷口雅春先生は、仏教でも龍樹菩薩出現以降の
大乗仏教が本当の仏教であると教えて下さっています。
法華経は大乗経典です。

 『観世音菩薩讃歌』は、
浅草寺の法華経の観音様が授けて下さった
『甘露の法雨』を不完全だと否定する内容になってい
る経緯を持っているので、
全く観音様の御経では無いように思います。
『観世音菩薩讃歌』が呼ぶ観音様は、一体どのような
お方なのでしょうか?

そもそも観音経の内容が、どんな災害時でも助ける
という内容なのに、反対に、そのお経が読まれる所が
災害に遭う事例が続いています。

 どうしたら、甘露の法雨に戻して戴けるのでしょうか。
ーーーーーー
2884:縹:2014/02/19(水) 12:50:35

ご覧下さっている方も、おられるかも知れませんので、
追伸させていただきます。

もしかしたら、どうして私が
「別の教団の観音信仰と似ている」という指摘を、
何度も繰り返すのか、

「観音とは、宇宙の原理なので、関係ないではないか?」と
理解して戴けないかも知れませんので、
補足させて戴きますと、

呼ぶのは同じ観音菩薩様という名称でありながら
なぜか、その団体も、傾向が物質主義的な内容に
なって行っているのです。

ですから、観音様であるから良いだろうと思っていると、
とんでもない世界へ連れて行かれる場合があるので、
気を付けたほうが良いと思うのです。

 特に、生長の家の観音様の冠のマークを
否定する方の作られた『観世音菩薩讃歌』は、
どういった観音様なのか、不明です。
ーーーーーー
2928:縹:2014/02/21(金) 17:54:19
 志恩様
前回の続きを考えてみたのですが…
 『法華経』をお読みになっておられない方が
どうして『法華経』と反対の事ばかり述べる事が
出来るのだろう?

生長の家は、『法華経』の教えだけれども、
その『法華経』の経典が納められているのが、
浅草寺で、浅草寺の観音様の宝冠に生長の家の
徽章がついているのを門脇観次郎氏と仰られる方が
拝されたとのことではなかったですか?

 それで、この徽章を否定するような勢力、
ということですと、『法華経』を否定するような勢力と
いうことになりまして、
『法華経』を否定するとは、
蓮華蔵世界の中心の
つまり、天皇信仰を否定するような勢力ということになります。

 そうした勢力とは、どこかを神示に探してみましたら・・・

「無明の自壊作用がないのに光明遍満の楽土が来るなどと
甘いことを思ふな。昨年十二月十一日にも
『戦ひの時は来たのだ』と知らせてある。
ヒモノトの軍が厳かに進むのは、無明の世界を照らす
唯一の光が進むのである。甘い平和論に耳を傾ける勿。
膏薬貼りで此の世が幸福になるなどと思ふな。」『梅の花の神示』

あまり疑っては気の毒ですけれども、ロシア・赤き龍・
呑龍の滝のある八ヶ岳・黙示録の予言が重なるのですが…。

なぁなぁで済まさず、
真剣になったほうが良いような気がするのは
私だけでしょうか?
天の戦いが、地に影を映している、ということでしたよね。

ですから、八ヶ岳を放置するのではなく、
積極的に、騙された信徒の皆様をなんとかせねば
ならないような気がしているのです…
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
(引用、おわり)

自分と関係なく周りの世界が存在し、その中に悪い人がいるので相手を変えようとするのが生長の家の教えなのですか? (61295)
日時:2023年10月08日 (日) 17時17分
名前:地方講師の夫

皆さん御自身が観世音菩薩なんであります。みんな観音様なんですね。観世音というのは世音即ち世の中の音を観ずるのです。

「世音」というと人々の心の響きです。人々の心の響きを「観ずる」というのは、肉眼でみるのじゃなくて、心の眼でみるのですね。心の眼で人々の心を観じて、その心の姿の儘の姿に顕れる菩薩というのが、観世音菩薩であります。

この菩薩は「観音経」にあります通り、相手の心の姿にしたがって三十三身に身を変ずるというわけで、どんな姿にも心のままに顕れるのであります。必ずしも三十三種の身には決まっていないのであって、ありとあらゆるどんな姿にでも顕れて、衆生を済度なさる、これが観世音菩薩であります。

衆生の中には「自分自身」も含まれていまして、自分の前にあらわれる人々の姿を自分の心の姿だと観ずると自分が済度されるのであります。略
鏡に向かって自分が撲る姿をしたら鏡の中の人物は自分を撲ってくるでしょう。其のように全ての人物があらわれる、ちゃんと観世音菩薩だ。自分の撲る心がこっちへ向かって現れる。そうでしょう。その代わり相手の心の通りにこちらも先方には顕れて見える、みんな観世音菩薩である。

それによって、「ああなるほど、私の心というものはこういう心をしておったんだ」という事がわかるのであります。観察自在であってどんな姿にでも自由自在に顕れる、観音様が皆さんであるわけであります。

「真佛教の把握」p224〜p225  はうらさんの引用の少し前に出ている言葉


ありとあらゆるどんな姿にでも顕れて、衆生を済度なさる、これが観世音菩薩であります。

衆生の中には「自分自身」も含まれていまして、自分の前にあらわれる人々の姿を自分の心の姿だと観ずると自分が済度されるのであります。


この教えをどのように理解されるでしょう。

地方講師の夫様 (61298)
日時:2023年10月09日 (月) 10時37分
名前:はうら ひとひら

地方講師の夫 様
ありがとうございます。

・先ずご質問の返事からです。
観世音菩薩の教えをどう理解しますか、との問いかと
思います。
私はその教えをきちんと理解し、その波動によって
苦しんでいる人々を救済してあげたいという思いから、
あの『観世音菩薩の祈り』を毎日唱えております。
あの祈りの中に何か不信な邪悪な思いが入っております
でしょうか。そのように感じるのでしたら、その人の
心の反映ですから、私がなにか言う立場にはありません。
一つの事柄でも、33の考え方があるという事ですから。
これがご返事です。

ところで、論点を変えないでいただきたいのです。
昭和54年(1979年)3月1日谷口雅春先生が監修されて
『新編 聖光録』を出されて、その288頁に
「生長の家」のマーク(意義と由来)として正規の
マークも示されました。
それを遡(さかのぼ)る昭和10年(1935年)2月1日に制定され
昭和12年(1937年)1月号の『生長の家』
に正しい図案が色と形状が記載されて
おります。ここが生長の家マークの原点です。
谷口雅春先生は、昭和54年に『聖光録』で正しい形状を
示されると同時に、清超先生(当時副総裁)に命じて
その事を正しく実施するようにとの指示でした。
昭和56年(1981年)3月頃、その副総裁の決定であの歪んだ
生長の家のマークが決定され、今もそのままになっている
のです。その正規品でないマークについて、論じているのです。

・ところでその『聖光録』ですが、平成24年(2012年)頃
在庫があるのに原宿本部の聖典売り場から撤去され、その後
信徒の前から姿を消しました。(売り切れとして)

そして『聖光録』ですと言って登場したのが
令和2年(2020年)4月25日発行の
『“新しい文明”を築こう』上巻 基礎編「運動の基礎」
監修 谷口雅宣 です。
確かに扉のすぐ後ろに「生長の家会員必携」
と記されていて、監修者も『聖光録』と位置づけています。
その82頁に「生長の家のマーク」が記載されておりますが、
形状も色も当然ながら正規品ではありません。

その「監修にあたって」という序文を見て違和感を覚え
ました

・“会員必携(ひっけい)書"を総裁・谷口雅宣先生の監修
で発行する。(同書 1頁)
とありますので、当然他の人が書いたのかと思ったら、
谷口 雅宣 記とある。
自分を総裁先生などと言っている序文など見た事がありません。

・過去『聖光録』は3種類あると記載されていますが、正しく
は5種類です。(同書 5頁)
多分谷口雅春先生から谷口清超先生に突然監修者を変え
(昭和60年6月17日尊師ご昇天後)日付けや版数も変更
なく、監修を尊師から清超先生に変更されたと思われます。

ですからC版の昭和61年(1986年)の『大和の國の神示」
の追加等はカウントされていません。
D版の平成8年(1996年)24版神示 7つ追加もカウントされ
ていません。

・「私たちの運動に、聖使命菩薩として参加する喜びを知り、
それをさらに多くの人々に伝えていただければ、筆者の
喜びこれに過ぎるところはない。
二〇二〇年(令和2)三月吉日 谷口 雅宣 記
(同書7.8頁)

監修と言いながら、筆者としていますが、違和感があります。

監修者が序文を書いただけでは筆者(著作者)とは言わない。
監修者が自ら内容を検討し、相当部分について補正加筆
など著作物の創作に相当する行為があったとみられる場合
に限り、監修者も、もとの著作者とともに共同著作者に
なれますが、そのような行為がなされたのでしょうか。

・参考文献として、雅春先生、清超先生、雅宣先生のご著書
が同書254〜255頁に掲げられておりますが、それなのに
奥付けで、
監修 谷口雅宣
著者 谷口雅宣 谷口清超 谷口雅春
編纂 生長の家国際本部
とされておりますが、どのような意図があるのでしょうか。

この際、『生長の家 のマーク』を正規品に変え、序文だけでも
違和感だらけの全面書き直しを提案します。
とても「生長の家会員必携」と言えるものではありません。

言葉は波動であり、生命(魂の)であります。
霊界とも波動で繋(つな)がっています。
その言葉が軽すぎるのです。

例えば2023年10月号の機関紙『生長の家』の38頁に
『宝蔵神社盂蘭盆供養大祭が4年ぶりに斉行
総裁先生が奉祀され、白鳩会総裁先生ご臨席』
とあります。

ご臨席の『臨』は「位の高い人が、位の低い人がいる場所
に来られる」という本来の意味があります。
『席』とは「決められ、定められた座り場所」
という本来の意味があります。
畏(おそ)れ多い言葉であります。
それを弁(わきま)えたうえで使われているのでしょうか。

・教団が指導し、教化部長が倣(なら)い、教区の地方講師
会長が川原に石を探しに行って教区で『石上げのみ祭』
をするという。吾々信徒の魂は、原始宗教に後戻りするほど
幼くはありません。隠蔽されているだけなのです。
言葉が乱れ、祈りが乱れ、行事が乱れ、すべて「生長の家の
マーク」が歪んでいるからに他なりません。

現状についてピッタリの真理を謹写させていただきます。


《 【エデンの楽園のたとえ】

神の造りたまうた人間には、本来不幸も苦しみもないので
あります。神は人間を神の象(かたち)のごとく完全に
造りたまうて「エデン」の楽園(仏教で言うゴクラク
世界にあたる。実相の世界のことです)に置(お)き
たまうたと『創世記』に書いてあるのであります。
実相(ほんとうのすがた)に於(お)いては、人間は
既に「エデンの楽園」の中に置かれているのであります。
それなのに『創世記』の物語では、蛇(へび)が出て来て、
あそこに「知恵の樹」という樹があって林檎(りんご)
のような美味(おい)しい果(み)が生(な)っている、
あの知恵の樹(こ)の果を食べたなら、お前は神様のように
賢(かしこ)くなるよ、と教えたのです。
この「蛇」と云うのは「人間のサカシラ(かしこぶる)知恵」
のたとえであって、既(すで)に神から無限の善きものを
与えられ、既に神の生命を与えられ、神の相(すがた)を
与えられて、何の不足も不自然もなく生きているのが人間
なのに、「そのまま有難い」と率直(すなお)に受け取る
ことをしないで、まだ何か足らんように思って、人間知恵を
出すのです。これが最初の迷いであります。
これをキリスト教では「知恵の樹の果を食(く)う」と言い、
佛教では「無明縁起(むみょうえんぎ)」(えんによって
おこるいんねんで出てくる)」と言うのであります。
「無明」と云うのは「まよい」と云うことで、「まよい」
によって一切のものが起ってきたのであると云うのが仏教の
無明縁起であります。「迷いは何処(どこ)から来たか」
という問いがよくあり、これは仏教でも問題になっている
ことですが、「迷い」と云うものは「知恵の樹」の果を
たべて「そのままの神の智慧」を失ったところから来たのです。
即(すなわ)ち「お前は神の子で、完全だぞ、健康だぞ」
と神様から言われたのを、「そんなことあるもんか」と素直に
受けないところから来たのであります。
率直になって無我(むが)になって「人間は神の子だ完全だ」
と云う神の宣言(せんげん)をそのまま受け容(い)れ
たならば、そうすると「迷い」も何もないのです。
ところが「神様だって間違(まちが)うかも知れぬのだ。
神様よりもこの知恵の樹の実を食べた方がうんと賢(かしこ)く
なるかも知れん」と云うような考えであります。
こんな考え方から人間はエデンの楽園を追放(ついほう)
されて苦しまなければ生活出来ないようになったと『創世記』
には書いてあるんです。
「エデンの楽園」即ち「極楽(ごくらく)」みたいな世界に
帰ってくるのは、「人間は神の相(すがた)に造られている
立派な人間である。病気不幸災難等・・・何ひとつないので
ある」と言われた神の言葉を信じて、悪いことがあらわれ
て来ても、「これは心の迷いで、こう見えるだけだ。
こんな悪い有様(ありさま)は、神様の造られた世界には
断(だん)じてないのだ」と、その悪い有様を心で見ないで、
神のつくりたまうた「善ひとすじの世界」ばかりを
神想観(心をしずめて、神を見る法)して、心で見つめる
ようにしますと、やがて、本当に神のつくりたまうた
「善ひとすじの世界」が肉眼で見える世界にもあらわれて
来るのであります。》

(『新版 真理 第8巻 295〜297頁)


地方講師の夫様。やってみてください。
期待しています。「迷い」はないのです。
左脳にだけあるのです。
どうぞよろしくお願い申しあげます。

ありがとうございます。









はうらひとひら様 (61300)
日時:2023年10月09日 (月) 19時13分
名前:志恩

(はうら様ー)
>ところで、(.略..)..........
昭和54年(1979年)3月1日谷口雅春先生が監修されて
『新編 聖光録』を出されて、その288頁に
「生長の家」のマーク(意義と由来)として正規の
マークも示されました。
それを遡(さかのぼ)る昭和10年(1935年)2月1日に制定され
昭和12年(1937年)1月号の『生長の家』
に正しい図案が色と形状が記載されて
おります。ここが生長の家マークの原点です。
谷口雅春先生は、昭和54年に『聖光録』で正しい形状を
示されると同時に、清超先生(当時副総裁)に命じて
その事を正しく実施するようにとの指示でした。
昭和56年(1981年)3月頃、その副総裁の決定であの歪んだ
生長の家のマークが決定され、今もそのままになっている
のです。その正規品でないマークについて、論じているのです。

・ところでその『聖光録』ですが、平成24年(2012年)頃
在庫があるのに原宿本部の聖典売り場から撤去され、その後
信徒の前から姿を消しました。(売り切れとして)

そして『聖光録』ですと言って登場したのが
令和2年(2020年)4月25日発行の
『“新しい文明”を築こう』上巻 基礎編「運動の基礎」
監修 谷口雅宣 です。
確かに扉のすぐ後ろに「生長の家会員必携」
と記されていて、監修者も『聖光録』と位置づけています。
その82頁に「生長の家のマーク」が記載されておりますが、
形状も色も当然ながら正規品ではありません。

その「監修にあたって」という序文を見て違和感を覚え
ました

・“会員必携(ひっけい)書"を総裁・谷口雅宣先生の監修
で発行する。(同書 1頁)
とありますので、当然他の人が書いたのかと思ったら、
谷口 雅宣 記とある。
自分を総裁先生などと言っている序文など見た事がありません。

・過去『聖光録』は3種類あると記載されていますが、正しく
は5種類です。(同書 5頁)
多分谷口雅春先生から谷口清超先生に突然監修者を変え
(昭和60年6月17日尊師ご昇天後)日付けや版数も変更
なく、監修を尊師から清超先生に変更されたと思われます。

ですからC版の昭和61年(1986年)の『大和の國の神示」
の追加等はカウントされていません。
D版の平成8年(1996年)24版神示 7つ追加もカウントされ
ていません。

・「私たちの運動に、聖使命菩薩として参加する喜びを知り、
それをさらに多くの人々に伝えていただければ、筆者の
喜びこれに過ぎるところはない。
二〇二〇年(令和2)三月吉日 谷口 雅宣 記
(同書7.8頁)

監修と言いながら、筆者としていますが、違和感があります。

監修者が序文を書いただけでは筆者(著作者)とは言わない。
監修者が自ら内容を検討し、相当部分について補正加筆
など著作物の創作に相当する行為があったとみられる場合
に限り、監修者も、もとの著作者とともに共同著作者に
なれますが、そのような行為がなされたのでしょうか。

・参考文献として、雅春先生、清超先生、雅宣先生のご著書
が同書254〜255頁に掲げられておりますが、それなのに
奥付けで、
監修 谷口雅宣
著者 谷口雅宣 谷口清超 谷口雅春
編纂 生長の家国際本部
とされておりますが、どのような意図があるのでしょうか。

この際、『生長の家 のマーク』を正規品に変え、序文だけでも
違和感だらけの全面書き直しを提案します。
とても「生長の家会員必携」と言えるものではありません。

言葉は波動であり、生命(魂の)であります。
霊界とも波動で繋(つな)がっています。
その言葉が軽すぎるのです。

例えば2023年10月号の機関紙『生長の家』の38頁に
『宝蔵神社盂蘭盆供養大祭が4年ぶりに斉行
総裁先生が奉祀され、白鳩会総裁先生ご臨席』
とあります。

ご臨席の『臨』は「位の高い人が、位の低い人がいる場所
に来られる」という本来の意味があります。
『席』とは「決められ、定められた座り場所」
という本来の意味があります。
畏(おそ)れ多い言葉であります。
それを弁(わきま)えたうえで使われているのでしょうか。

・教団が指導し、教化部長が倣(なら)い、教区の地方講師
会長が川原に石を探しに行って教区で『石上げのみ祭』
をするという。吾々信徒の魂は、原始宗教に後戻りするほど
幼くはありません。隠蔽されているだけなのです。
言葉が乱れ、祈りが乱れ、行事が乱れ、すべて「生長の家の
マーク」が歪んでいるからに他なりません。

現状についてピッタリの真理を謹写させていただきます。(略)<


志恩ー
地方講師の夫様から、はうら様が上記に書かれました
ご返信と、生長の家のマーク、その他の
ことにつきまして、何か反論はあるかしらと
お待ちしておりましたが、今のところはまだ、ございませんね。
明日あたり、反論は、あるのでしょうか。

はうら様は、生長の家のことに関しても、お詳しいですよね、
そして、高度な小説を2冊も出版されたお方だけありまして、
表現力が理路整然としていて、すごいと思いました。
ほとんどの古くからの生長の家の信徒様方が、心の底では
痛感していますが、それをどのように表現していいかわからない
心の内にあるモヤモヤした部分のことをズバズバと書かれたのには、
驚いております。ありがとうございました。

もしも続きがありましたら、またお書きくださいますようにお願いします。

傲慢の継承 (61302)
日時:2023年10月09日 (月) 21時53分
名前:本音の時代

>昭和56年(1981年)3月頃、その副総裁の決定であの歪んだ
>生長の家のマークが決定され、今もそのままになっている
>のです。


谷口清超氏が谷口雅春先生のご意向に反し、歪んだ生長の家のマークを決定したということなのでしょうか。
谷口清超氏の傲慢を感じます。そしてその傲慢は雅宣さんに受け継がれているのだと感じます。原因があって結果があるのだと。

 (61303)
日時:2023年10月09日 (月) 22時47分
名前:神の子

でも清超さんは神の子さんですからね。
それでいて傲慢なら傲慢で完全円満な神の子さんと云う事になりますねえ。

ロダンの鼻欠け像の倫理 (61304)
日時:2023年10月09日 (月) 22時51分
名前:神の子

歪んだ生長の家のマークを見てそこに歪んでない正規のマークを見い出すってのはどうでしょうかね?

>(61303) (61305)
日時:2023年10月09日 (月) 23時00分
名前:本音の時代

傲慢は神の子さんに非ず。

神の子さんへ (61306)
日時:2023年10月10日 (火) 03時34分
名前:志恩

正統・生長の家マークを、勝手に変えてしまっておいて
変えなかったことにしてほしい
と言ってるようなもの。

本来の生長の家の教えを抹殺しておいて、
抹殺していなかったことにしておいてほしい、
と言ってるようなもの。

それは、人間は神の子なんだから
と言ってるようなもの。
宇宙規模で通らない屁理屈です。

指が無ければ指を立てる事は出来ない? (61320)
日時:2023年10月10日 (火) 21時16分
名前:神の子

するとロダンの鼻欠け像は実際は鼻が欠けているから欠けていなかった事を思い込むとかしないで、欠けているから欠けている。と観るしか無いんでしょうかね。

はうらさんの登場を待ちましょうか。
それまでに倫理編でも読み直しますよ。

『本当のものを知る』 (61333)
日時:2023年10月12日 (木) 21時18分
名前:はうら ひとひら

皆様 ありがとうございます。
いろいろなご教示、ご愛念いただきました事に
感謝申しあげます。
生長の家のマークの私の思い、当然三十三通りの考え方、
思いがありますので、その内の一つということで、
思い着くままに述べさせていただきます。

・生長の家の草創期には、陸続(りくぞく)として
奇蹟的な治病体験などが報告されておりますが、
何故いまその燃え上がる若葉の如く、伸展(しんてん)
していた状態が、停滞し、さらには、教団自体が
沈没しそうに見えるのは、私だけでしょうか。
真理の感想を聞いても、実相・真理はわかるが、現象
的には、とてもとても・・・という。
現象は無い、と言っているにも関(かか)わらずです。
吾々の団体は、いつから頭でっかちの、理論屋になった
のでしょうか。(これを読まれている皆様は違いますが)
なにがどうなっているのでしょうか。
単なる部活動や、宗教ごっこだけの集団なのでしょうか。

【生命の實相哲学からみた歴史観】

《 歴史というものは一体何であるかといいますと、
現象界に実相が如何(いか)に投影し表現されて来る
かということの、その現われ方、即ち実相が現れる場合
の作用、反作用という風なものを次第に追うて並べて
行くことによって、その民族に如何様(いかよう)に
実相が現れ、実相が現れんとするに当たって如何に
反作用を起こし、自壊(じかい)作用を起こしたかを
知り、それをずっと時間的に貫いて観(み)てそこに
実相が如何なる相(すがた)を以(も)って現れるか
という事を知ることによって、大宇宙に於(お)ける
日本国の位置及びその将来性を知り、現在自分が
国家構成の一員として及び個人として如何に生きて
行くべきものであるか、将来この世界は如何に発展して
行くべきものであるかということをはっきりさせる
ためのものが歴史の研究であります。
ですから、歴史というものは単に過去の記録を書いたと
いう風なものではないのであって、生命の生々流動
(せいせいりゅうどう)の流れの相(すがた)、実相が
現象界に貫いて響き出る時のその儘(まま)の相が
書いてあるのであります。その相(すがた)を見ることは
自分自身の生命の相を見ることであり、宇宙の相を見る
ことであり、、宇宙が、自分が、今如何に生き抜いて、
今後如何に発展すべきであるかということを知ること
であります。》

( 初出:戦前版『生命の實相』神道篇)
(『古事記と日本国の世界的使命』 4.5頁 光明思想社刊)

・現象はすべて影である。結果であって原因ではない。
第一原因は常に実相であり、神である。

清超先生は、雅春先生から、正規の『生長の家のマーク』
にもどすように指示された時、その後の行動として、
二つの過ちをされた。
一つは、その示めされた指示のごとく、そのまま実施していれば
何の問題もなく、「神意(みこころ)」が顕(あらわ)せたのに、
私心(人間知)で理事会に図った事。
もう一つは、理事会決定の段階で理事長が決定をくだしたと
されていますが、何故、指示された副総裁(清超先生)では
なく、理事長に責任を負わせたかです。


・生長の家の説く「現象はない」と言う真理と、
今吾々が五官で認識し生活している現象世界との関係
について。

【 不完全を完全に観るには。
ロダンの「鼻欠け像」について】


《 『現象界は実相世界の芸術』
そこで実相独在、真我(しんが)独在、すでに絶対神と
同一なる「我」のみが存在するのであって現象界の
不完全なる「我」は無いとしたならば、この現象界
(現世(げんせ)および霊界))は「我」の進歩の
過程としてなぜ顕われているかということになるので
あります。それは現象界は実相生命の芸術として
あるのであります。それは芸術であります。
実相生命が描き出した影の文(あや)の世界であります。
なぜ影があるかと申しますと、生命が時間空間の
スクリーンの上に、形象(けいしょう)化して描き出さん
がためであります。活動写真は影の芸術です。
それと同じように現象世界は影の芸術です。
実相世界はすでに完全の世界すでに成(な)れる世界で
ありますから、過去、現在、未来、東西、南北、天地が
共存せる世界であります。
これは五官をもってしては想像することができない。
一点の中にいっさいが握られている、いな、その一点
すらも無い、「無(む)」の中にいっさいが握られて
いるのであります。
ところが現象世界は映画芸術の世界でありますから、
映画にはスクリーンの空間的広袤(こうぼう)と、
フィルムを交替出現せしめる時間的過程とが必要となり、
ここに時間空間的展開があらわれているのであります。
・・・・
ロダンは、形の上では鼻欠けを塑作(そさく)して
いても、鼻の欠けていない実相を塑作していたという
ことができるのであります。さらに言い換えると、
「欠けている鼻はない」ということを現象の上では
「欠けている鼻」を塑造(そぞう)しながら表わそうと
しているのが優れたる芸術家なのであります。
ここでは芸術家は宗教家であるといえるでしょう。
医者なら「鼻欠け」を「鼻欠け」として見る。
芸術家は「鼻欠け」を「鼻あり」として見るのであります。
そしてあらゆる生活上の態度において「欠陥ある現象人間」
を見るに、ただそれを欠陥なき神の子としての人間として
見よ、そこに欠陥なき人間があらわれて来るであろう
― というのが「生長の家」倫理(りんり)学の中心と
なる誡命(いましめ)であります。》

(『生命の實相』頭注版 第14巻 77〜79頁)

しかしながら、現象界は影でありますから、そこに投影する
には先ず、完全なもの(実相・この場合は正規の生長の家
のマーク)が必要な事は当然であります。

・或る日、相当真理の研鑽を積まれている方から、
連絡があった。

「『聖経 甘露の法雨』に「悟らざる真理」とあります
が、悟るから真理であって、悟らない真理って何ですか。
雅春先生がご存命だったら、聞いてみたかった」という。

(『聖経 甘露の法雨』の「知恵の項」の
「無明はただ悟らざる真理にして これは譬えば悪夢の如し」
の事を言われていると思われる。

《 五蘊(ごうん)も煩悩も必要なのであって、それに
誘惑され支配されるから可(い)けないので、こちらが
支配者となれば好いのです。
さうすれば五蘊そのものが悟りの種となり、煩悩則菩提
(ぼんのうそくぼだい)となるのであります。・・・

「天地一切のものと和解せよ」といふ教えへを曲解して、
善悪正邪をわきまへないで、生長の家は、萬教歸一
だからどの宗教でも皆よいのだと谷口先生が言はれた
からといって邪教に趣(おもむ)く人があり、味噌も
糞も一緒にしてしまふ人がありますが、そんなのは可(い)
けないのであります。
必ずこれは眞理、これは非眞理と分けなければならない。
これを「外道(げどう)を制し」といふので、菩薩の
行であります。》

(『維摩經解釋』6.7頁)


【 光は暗と和解せず】

《 異端(いたん)、妄説(もうせつ)、妄念(もうねん)、
妄想(もうぞう)は「本来無い説」一虚説(きょせつ)一
でありますから、その実相を見れば、「本来無い」と
いうことがわかるだけでありますから、「本来無いもの」
(虚説)に和解することは絶対にできないのであります。
光は暗(やみ)と和解することはできない。光りが近づけ
ば暗は消えるほかはない。それと同じく真説(しんせつ)は
虚説に近づけば虚説を消す働きになる。
・・・・
虚説を許さないことをもって、和解と寛容(かんよう)の
徳がないように思うのはまちがいであります。
また虚説を容(い)れることをもって和解の徳があるように
思うのもまちがいであります。
虚説を排撃(はいげき)することいよいよ明瞭(めいりょう)
であればあるほど、真説は明らかに照り、それに照らされて
救われる人間もまた多いのであります。
・・・・
虚説に対してはあくまでも戦い、人に対してはどこまでも
実相を見て許すことにしたのであります。
どうか皆さんも虚説(ないもの)に対しては和解すること
なく、どこまでも「サタンよ去れ」の態度で進んでいただき
たく、人間に対しては、その表面の包み(罪)を見ないで、
その罪なき完全なる実相を見て、その罪を赦(ゆる)す
(その罪を本来無いと見て捨てる)ことにしたいので
あります。》

(『生命の實相』頭注版 第14巻 63.64頁)


・人間とその人の行為を分離するのは、やはりかなり難しい。
その人の実相をいかに完全に観れるかにかかっていると思う
のですが。修行がまだまだ足りません。
だからこのような昏迷(こんめい)を招いている。
本当に申し訳ございません。

【 既に成れる理想世界を実現するには】

《 もし、われわれ生物が、第二念に捉(とら)われない
時代がくれば、預言者イザヤが次のように歌ったような
理想世界が実現して来るのであります。

狼は子羊とともに宿り  豹は小山羊とともに伏し
獅子は牝牛のごとく藁(わら)を食い 
犢(こうし)と若獅子とはともに草を食まん。
牝牛と熊とはともに子供に導かれ
食をともにして相ともに戯れん。
乳飲み児は毒蛇の窩(あな)の上を匍匐(はらば)い
乳離れの子は手を蝮(まむし)の窩にさし入るるも傷つかざらん。
わが聖(きよ)き山にはいずれの処にも
傷つくる者なく、殺す者なし。
そは海原を水の蔽(おお)えるがごとく
大なる神の知恵この地上に満つればなり。

(『イザや書)第11章-6〜9 新訳)

こんな理想世界が果たして来るであろうかなどと疑われる
方もあるかもしれませんが、来るとか来ぬとかいうことは、
われわれの第二念の世界(映像(かげ)の世界)だけの
ことでありまして、神の第一念の世界(実相の世界)
においては神の創造の最初から無限の未来を通じて
今 現にこの理想的大調和の状態にあるのでありまして、
これからいろいろ工夫して改善されて来るというような
緩慢(まだる)っこしいものではないのであります。
今 現に実相世界は完全に大調和の状態にある!
これを悟ることが真理を悟るということであります。
この完全な大調和な理想世界が今 現にあるということを
悟らないで、歪(いび)つな「迷いの色眼鏡」をかけて
眺め、いたずらに相争い、相犯し、相恐れるもので
ありますから、真理の光線が屈折して、まん円(まる)い
ものも、歪(いび)つな形を映(うつ)し出しているのが
この現実世界であります。
結局、これは「迷いの色眼鏡」をかけているがためで
ありますから、真理の正しい眼鏡をかけて事物を眺める
ようにするならば、実相世界のそのままの大調和の状態
がこの映像(かげ)の世界(現実世界)に現出するので
あります。》

(『生命の實相』頭注版 第11巻 22.23頁)


【 本当のものを知る】

《 ・・・・換言(かんげん)すれば「物質は神なりき」と
信ずる原始的偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)教の
あらわれにすぎないのであります。
「生長の家」ではそんな偶像崇拝的な迷信を極力排斥
するのであります。
「生長の家」では神を「ただ信ぜよ」とはいわない、
実相覚(かく)(本当の真理を知る知恵)によって
神と神の真創造とを理解せよ。無暗(むやみ)なもの
を信じてはならぬ、本当のもの、永遠のもの、実在のものを、
よく偽創造(にせもの)から識別(みわ)けて、その本当
のものを知れ。その本物を知ることが、真の信仰である。
本当のものを知らない信仰は迷信である。
迷信は禍(わざわ)いを招くが、真の信仰は幸福を招く
ほかに成りようがないものであるというのであります。
なぜなら真の信仰は、愛の神ならびに愛の神が真に創造
(つく)り給いて、「はなはだ善し」と認め給いし完全な
世界のみを実在と認める信仰であるからであります。》

(『生命の實相』頭注版 第11巻 63頁)


・先ず完全な『生長の家のマーク』を造るべきであると
思います。これから造るのではなく、既に完全なものは
あります。それをやるかやらないかは、私達にかかって
いるのです。機会は今しかないのです。


ありがとうございます。



神の子様の、ロダンの鼻欠け像の倫理に対する質問。 はうらひとひら様からの、それに対するお返事。 (61339)
日時:2023年10月13日 (金) 06時34分
名前:志恩

ーーーーーーーーーーーーーーー
(『神の子様』の質問ー)
>【ロダンの鼻欠け像の倫理 】
(61304)
歪んだ生長の家のマークを見て
そこに歪んでない正規のマークを
見い出すってのはどうでしょうかね?<
ーーーーーーーーーーーーーーーー
(『神の子様』の質問ー)
>【指が無ければ指を立てる事は出来ない? 】
(61320)
するとロダンの鼻欠け像は
実際は鼻が欠けているから欠けていなかった事
を思い込むとかしないで、欠けているから欠けている。
と観るしか無いんでしょうかね。<
ーーーーーーーーーーーーーーーー
(『はうらひとひら様』からのお返事)

(はうら様ー)
>・生長の家の説く「現象はない」と言う真理と、
今吾々が五官で認識し生活している現象世界との関係
について。

【 不完全を完全に観るには。
ロダンの「鼻欠け像」について】


《 『現象界は実相世界の芸術』
そこで実相独在、真我(しんが)独在、すでに絶対神と
同一なる「我」のみが存在するのであって現象界の
不完全なる「我」は無いとしたならば、この現象界
(現世(げんせ)および霊界))は「我」の進歩の
過程としてなぜ顕われているかということになるので
あります。それは現象界は実相生命の芸術として
あるのであります。それは芸術であります。
実相生命が描き出した影の文(あや)の世界であります。
なぜ影があるかと申しますと、生命が時間空間の
スクリーンの上に、形象(けいしょう)化して描き出さん
がためであります。活動写真は影の芸術です。
それと同じように現象世界は影の芸術です。
実相世界はすでに完全の世界すでに成(な)れる世界で
ありますから、過去、現在、未来、東西、南北、天地が
共存せる世界であります。
これは五官をもってしては想像することができない。
一点の中にいっさいが握られている、いな、その一点
すらも無い、「無(む)」の中にいっさいが握られて
いるのであります。
ところが現象世界は映画芸術の世界でありますから、
映画にはスクリーンの空間的広袤(こうぼう)と、
フィルムを交替出現せしめる時間的過程とが必要となり、
ここに時間空間的展開があらわれているのであります。
・・・・
ロダンは、形の上では鼻欠けを塑作(そさく)して
いても、鼻の欠けていない実相を塑作していたという
ことができるのであります。さらに言い換えると、
「欠けている鼻はない」ということを現象の上では
「欠けている鼻」を塑造(そぞう)しながら表わそうと
しているのが優れたる芸術家なのであります。
ここでは芸術家は宗教家であるといえるでしょう。
医者なら「鼻欠け」を「鼻欠け」として見る。
芸術家は「鼻欠け」を「鼻あり」として見るのであります。
そしてあらゆる生活上の態度において「欠陥ある現象人間」
を見るに、ただそれを欠陥なき神の子としての人間として
見よ、そこに欠陥なき人間があらわれて来るであろう
― というのが「生長の家」倫理(りんり)学の中心と
なる誡命(いましめ)であります。》

(『生命の實相』頭注版 第14巻 77〜79頁)

しかしながら、現象界は影でありますから、そこに投影する
には先ず、完全なもの(実相・この場合は正規の生長の家
のマーク)が必要な事は当然であります。

・或る日、相当真理の研鑽を積まれている方から、
連絡があった。

「『聖経 甘露の法雨』に「悟らざる真理」とあります
が、悟るから真理であって、悟らない真理って何ですか。
雅春先生がご存命だったら、聞いてみたかった」という。

(『聖経 甘露の法雨』の「知恵の項」の
「無明はただ悟らざる真理にして これは譬えば悪夢の如し」
の事を言われていると思われる。

《 五蘊(ごうん)も煩悩も必要なのであって、それに
誘惑され支配されるから可(い)けないので、こちらが
支配者となれば好いのです。
さうすれば五蘊そのものが悟りの種となり、煩悩則菩提
(ぼんのうそくぼだい)となるのであります。・・・

「天地一切のものと和解せよ」といふ教えへを曲解して、
善悪正邪をわきまへないで、生長の家は、萬教歸一
だからどの宗教でも皆よいのだと谷口先生が言はれた
からといって邪教に趣(おもむ)く人があり、味噌も
糞も一緒にしてしまふ人がありますが、そんなのは可(い)
けないのであります。
必ずこれは眞理、これは非眞理と分けなければならない。
これを「外道(げどう)を制し」といふので、菩薩の
行であります。》

(『維摩經解釋』6.7頁)


【 光は暗と和解せず】

《 異端(いたん)、妄説(もうせつ)、妄念(もうねん)、
妄想(もうぞう)は「本来無い説」一虚説(きょせつ)一
でありますから、その実相を見れば、「本来無い」と
いうことがわかるだけでありますから、「本来無いもの」
(虚説)に和解することは絶対にできないのであります。
光は暗(やみ)と和解することはできない。光りが近づけ
ば暗は消えるほかはない。それと同じく真説(しんせつ)は
虚説に近づけば虚説を消す働きになる。
・・・・
虚説を許さないことをもって、和解と寛容(かんよう)の
徳がないように思うのはまちがいであります。
また虚説を容(い)れることをもって和解の徳があるように
思うのもまちがいであります。
虚説を排撃(はいげき)することいよいよ明瞭(めいりょう)
であればあるほど、真説は明らかに照り、それに照らされて
救われる人間もまた多いのであります。
・・・・
虚説に対してはあくまでも戦い、人に対してはどこまでも
実相を見て許すことにしたのであります。
どうか皆さんも虚説(ないもの)に対しては和解すること
なく、どこまでも「サタンよ去れ」の態度で進んでいただき
たく、人間に対しては、その表面の包み(罪)を見ないで、
その罪なき完全なる実相を見て、その罪を赦(ゆる)す
(その罪を本来無いと見て捨てる)ことにしたいので
あります。》

(『生命の實相』頭注版 第14巻 63.64頁)


・人間とその人の行為を分離するのは、やはりかなり難しい。
その人の実相をいかに完全に観れるかにかかっていると思う
のですが。修行がまだまだ足りません。
だからこのような昏迷(こんめい)を招いている。
本当に申し訳ございません。

【 既に成れる理想世界を実現するには】

《 もし、われわれ生物が、第二念に捉(とら)われない
時代がくれば、預言者イザヤが次のように歌ったような
理想世界が実現して来るのであります。

狼は子羊とともに宿り  豹は小山羊とともに伏し
獅子は牝牛のごとく藁(わら)を食い 
犢(こうし)と若獅子とはともに草を食まん。
牝牛と熊とはともに子供に導かれ
食をともにして相ともに戯れん。
乳飲み児は毒蛇の窩(あな)の上を匍匐(はらば)い
乳離れの子は手を蝮(まむし)の窩にさし入るるも傷つかざらん。
わが聖(きよ)き山にはいずれの処にも
傷つくる者なく、殺す者なし。
そは海原を水の蔽(おお)えるがごとく
大なる神の知恵この地上に満つればなり。

(『イザや書)第11章-6〜9 新訳)

こんな理想世界が果たして来るであろうかなどと疑われる
方もあるかもしれませんが、来るとか来ぬとかいうことは、
われわれの第二念の世界(映像(かげ)の世界)だけの
ことでありまして、神の第一念の世界(実相の世界)
においては神の創造の最初から無限の未来を通じて
今 現にこの理想的大調和の状態にあるのでありまして、
これからいろいろ工夫して改善されて来るというような
緩慢(まだる)っこしいものではないのであります。
今 現に実相世界は完全に大調和の状態にある!
これを悟ることが真理を悟るということであります。
この完全な大調和な理想世界が今 現にあるということを
悟らないで、歪(いび)つな「迷いの色眼鏡」をかけて
眺め、いたずらに相争い、相犯し、相恐れるもので
ありますから、真理の光線が屈折して、まん円(まる)い
ものも、歪(いび)つな形を映(うつ)し出しているのが
この現実世界であります。
結局、これは「迷いの色眼鏡」をかけているがためで
ありますから、真理の正しい眼鏡をかけて事物を眺める
ようにするならば、実相世界のそのままの大調和の状態
がこの映像(かげ)の世界(現実世界)に現出するので
あります。》

(『生命の實相』頭注版 第11巻 22.23頁)


【 本当のものを知る】

《 ・・・・換言(かんげん)すれば「物質は神なりき」と
信ずる原始的偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)教の
あらわれにすぎないのであります。
「生長の家」ではそんな偶像崇拝的な迷信を極力排斥
するのであります。
「生長の家」では神を「ただ信ぜよ」とはいわない、
実相覚(かく)(本当の真理を知る知恵)によって
神と神の真創造とを理解せよ。無暗(むやみ)なもの
を信じてはならぬ、本当のもの、永遠のもの、実在のものを、
よく偽創造(にせもの)から識別(みわ)けて、その本当
のものを知れ。その本物を知ることが、真の信仰である。
本当のものを知らない信仰は迷信である。
迷信は禍(わざわ)いを招くが、真の信仰は幸福を招く
ほかに成りようがないものであるというのであります。
なぜなら真の信仰は、愛の神ならびに愛の神が真に創造
(つく)り給いて、「はなはだ善し」と認め給いし完全な
世界のみを実在と認める信仰であるからであります。》

(『生命の實相』頭注版 第11巻 63頁)<
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
志恩ー
はうらひとひら様、

神の子様の質問に対して、
真理に照合された的確なご解答をありがとうございました。

はうらひとひら様 (61340)
日時:2023年10月13日 (金) 06時55分
名前:志恩

(はうら ひとひら様ー)
『本当のものを知る』 (はうら様の今回のテーマ)」
(61333)

>略
生長の家のマークの私の思い、当然三十三通りの考え方、
思いがありますので、その内の一つということで、
思い着くままに述べさせていただきます。

・生長の家の草創期には、陸続(りくぞく)として
奇蹟的な治病体験などが報告されておりますが、
何故いまその燃え上がる若葉の如く、伸展(しんてん)
していた状態が、停滞し、さらには、教団自体が
沈没しそうに見えるのは、私だけでしょうか。
真理の感想を聞いても、実相・真理はわかるが、現象
的には、とてもとても・・・という。
現象は無い、と言っているにも関(かか)わらずです。
吾々の団体は、いつから頭でっかちの、理論屋になった
のでしょうか。(これを読まれている皆様は違いますが)
なにがどうなっているのでしょうか。
単なる部活動や、宗教ごっこだけの集団なのでしょうか。

【生命の實相哲学からみた歴史観】

《 歴史というものは一体何であるかといいますと、
現象界に実相が如何(いか)に投影し表現されて来る
かということの、その現われ方、即ち実相が現れる場合
の作用、反作用という風なものを次第に追うて並べて
行くことによって、その民族に如何様(いかよう)に
実相が現れ、実相が現れんとするに当たって如何に
反作用を起こし、自壊(じかい)作用を起こしたかを
知り、それをずっと時間的に貫いて観(み)てそこに
実相が如何なる相(すがた)を以(も)って現れるか
という事を知ることによって、大宇宙に於(お)ける
日本国の位置及びその将来性を知り、現在自分が
国家構成の一員として及び個人として如何に生きて
行くべきものであるか、将来この世界は如何に発展して
行くべきものであるかということをはっきりさせる
ためのものが歴史の研究であります。
ですから、歴史というものは単に過去の記録を書いたと
いう風なものではないのであって、生命の生々流動
(せいせいりゅうどう)の流れの相(すがた)、実相が
現象界に貫いて響き出る時のその儘(まま)の相が
書いてあるのであります。その相(すがた)を見ることは
自分自身の生命の相を見ることであり、宇宙の相を見る
ことであり、、宇宙が、自分が、今如何に生き抜いて、
今後如何に発展すべきであるかということを知ること
であります。》

( 初出:戦前版『生命の實相』神道篇)
(『古事記と日本国の世界的使命』 4.5頁 光明思想社刊)

・現象はすべて影である。結果であって原因ではない。
第一原因は常に実相であり、神である。

清超先生は、雅春先生から、正規の『生長の家のマーク』
にもどすように指示された時、その後の行動として、
二つの過ちをされた。
一つは、その示めされた指示のごとく、そのまま実施していれば
何の問題もなく、「神意(みこころ)」が顕(あらわ)せたのに、
私心(人間知)で理事会に図った事。
もう一つは、理事会決定の段階で理事長が決定をくだしたと
されていますが、何故、指示された副総裁(清超先生)では
なく、理事長に責任を負わせたかです。

(中略)

・先ず完全な『生長の家のマーク』を造るべきであると
思います。これから造るのではなく、既に完全なものは
あります。それをやるかやらないかは、私達にかかって
いるのです。機会は今しかないのです。<

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
志恩ー
はうらひとひら様、

(はうら様ー)
>・現象はすべて影である。結果であって原因ではない。
第一原因は常に実相であり、神である。

清超先生は、雅春先生から、正規の『生長の家のマーク』
にもどすように指示された時、その後の行動として、
二つの過ちをされた。
一つは、その示めされた指示のごとく、そのまま実施していれば
何の問題もなく、「神意(みこころ)」が顕(あらわ)せたのに、
私心(人間知)で理事会に図った事。
もう一つは、理事会決定の段階で理事長が決定をくだしたと
されていますが、何故、指示された副総裁(清超先生)では
なく、理事長に責任を負わせたかです。<


(志恩ー)
神様の啓示によって、谷口雅春先生が深い宗教的な
見地から作られました生長の家のマークを、二代目総裁・
谷口清超先生は、そのまま継承されず、人間知で考えて、
当時の理事長に図って、変えてしまったこと、

はうらひとひら様のご投稿によりまして、
初めて、その詳細を知りました。

まず、第一段階として、三代目総裁・谷口雅宣先生が、
この過ちを早急に改め、元に戻さない限り、生長の家は、
元へは、戻らず、
衰退の一途を辿るものと、私も思っております。
神様からのご加護が得られないからです。

 (61353)
日時:2023年10月14日 (土) 08時26分
名前:神の子

先ず完全な『生長の家のマーク』を造るべきだと思います。これから造るのでは無く既に完全な物はあります。

造るのか?それとも既に有るから造らないのか?
こんな日本語有りですか?

 (61354)
日時:2023年10月14日 (土) 08時31分
名前:神の子

ってのは実相と現象ですね。

象徴となるべきその完全な生長の家のマークを復元して脱線してる生長の家を軌道修正しようと云うのがはうらさんの実相生命の芸術といったところでしょうか。

読み方は人それぞれですね。 (61377)
日時:2023年10月15日 (日) 12時21分
名前:神の子

鼻欠け像の鼻が欠けている(生長の家がおかしい)のは自分が迷いの色眼鏡をいるからそう見えるので真理の正しい眼鏡に掛け直す事が必要だと思うんですよ。
すると欠点の無い清超先生と雅宣総裁が見えてくる。変になっている物は正さなければいけないし間違っている人には間違っていると言わなきゃ
いけないけどそれよりは脚下照顧を考えたい。
自分を顧みれば雅宣総裁を批判する資格は無いデタラメな自分に気付く。
自分の場合はですが。

『真理のみ滅しない』 (61407)
日時:2023年10月17日 (火) 19時46分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

まず私の言動によりまして、皆様にご迷惑をおかけしました事に、
深くお詫び申しあげます。
大変申し訳ございませんでした。

ただ一言申し述べさせていただけますれば、私は憶測で述べた
事はなく、その証拠もあります。
ただ今はその時ではないと思っておりますので、もう少し
時間が必要と思います。(今迄で、全部を述べているわけ
ではありませんので。)
ついでながら、谷口雅春先生が『新編 聖光録』まで
監修されて、その288頁に「生長の家」のマーク(意義
と由来)を追加されて、これが正しいマークですとされたのに
もかかわらず、そしてその正しいマークに戻しなさいと
清超先生に命じられたのに、その2年後、どなたの手によって
(当時の副総裁先生ではなく)改竄され歪んだマークが
決定されて、現在に及んでいる事実があります。
たとえ知らなかったといって、組織の長がそれでよいので
しょうか。
世の中には、そんな組織形態、体制自体あり得ません。
ましてや国の保護を受けている、宗教法人
が、個人の寄り合いと同じような事をしているなどという事は、
あり得ません。透明性が求められます。
それはどのようにすれば整合性がとれるのでしょうか。
トップは知らなかったが、誰かがそうした、で通る問題
なのでしょうか。
(清超先生がどうされた、こうされたと言っているのでは
ありません。世間一般通念として論じているのです。)


ところで、私は今回の事では、全く心配しておりません。
なぜなら、途中から発生したものは、必ず消える運命
(それは真理でない限りにおいて)にあるからです。
必ず偽者は滅し、現象界に生じたものは、必ず滅して
真のものだけが残ります。これが「生命の實相の真理」
だからであります。
今回はここの処を述べさせていただきます。

・新「聖光録」なる
「“新しい文明"を築こう」について

【 文明 】

『文明』は物質に属し、『文化』は靈的に属します。

《 伊邪那岐神(いざなぎのかみ)で象徴するイザナギ
文化は東洋文化の特色たる霊的文化であって、伊邪那美神
(いざなみのかみ)で象徴するイザナミ文化は西洋文明の
特長である物質文明をあらわしているのであります。・・・

闇の国即ち物質文明の国の食物を食べたら、高天原
(たかあまはら)の光明遍照(へんじょう)の国に出て
来るのはできないのであります。・・・・

この楽園追放の神話は、人間が唯物論の哲学を食べて、その
霊的自覚を失い、人間は単なる肉體という「物質の塊(かたまり)
である、肉體そのものが人間であるというような、そんな闇の
哲学― 即ちそういう「智恵の樹(こ)の果(み)」を食べたら、
人間は靈的世界に於いては光の生活を営むことができない、・・・


『物質文明発達の最後』

 このような状態だったのです。
八種(やくさ)の雷神がゴロゴロと鳴っておったという
のでありますが、この雷神というのは、爆弾の天地を揺るがす
ゴロゴロと爆発する響きであります。八種というのは八つに
限らない、数の多いことをあらわします。そして蛆(うじ)
がたかって、爆死した人の死屍(しし)が累々(るいるい)
と積み累(かさな)ったところには、死體が腐って蛆が
たかっている― まことにいやらしい悲惨きわまりなき
有様であったのであります。
このように、イザナミ文化即ち物質文明のみ発達して霊的
文化から隔絶された世界の最後の悲惨な状態が、神話によって
預言されているのです。唯物論でこの世界が動いて行ったら、
物質獲得欲にひきずられて、結局は、そういうことになる
というのであります。

『唯物論を投げ捨てた結果』

 それでイザナギの神が、黄泉国(よもつくに)から追っかけ
きたところの、死の使いの鬼共を征伐(せいばつ)するために
お使いになった桃の實(み)― 生命の實相― は三つあるという
のです。
その三つの桃の實(生命の實(み))は何と何であるかと
言いますと、その桃の實の一つは、
「日本天皇の生命の實相」
もう一つは
「日本國の生命の實相」
それからさらにもう一つは
「人間の生命の實相」
であります。この三つの「生命の實」の相(すがた)が
本当に解ったら、死の国の地獄の鬼は逃げて行くのだという
ことが、『古事記』に示されているわけであります。》

(『古事記と現代の預言』95.96.97.100.101.106頁抜粋)
(一部現代語、現代かなづかいをさせていただきました。)


【 真理のみ滅しない 】


《 わたしは昨日から今朝にかけて大変重大な真理を
発見したのである。それは私が九十二歳にもなって歯の
幾本かの寿命が盡(つ)きて、その歯が蝕(むし)くった
からではない、健康な歯であるのに、その歯の下から
歯の根が浮き上がって来るその體験を通じて気がついた
「生命の實相」の真理である。

すべて現象に於ける事物には定められた寿命があるという
ことである。寿命というよりも定命(じょうみょう)と
謂(い)う方が適切な定義になるかも知れない。
すべて現象界の事物は、はじめから(本来)存在するのでは
なく、途中から生じて来たものである。
そして「途中から生きじて来た」ものは、「生じたものは
必ず滅する時が来る」という「生滅の法則」の支配下に
あるのである。人間の肉體というものも「本来あるもの」
即ち「實在」ではなくして一種の現象であって、途中から
現れてきたところの象(かたち)に過ぎないのである。
・・・・
しかし、私は「死の現象」を、「死」を主體とする現象
ではなく、「老又は病によって使い難(にく)くなって
異物化して来た肉體」を、「生命」が一層完全にその
自由自在性を発揮するために、異物排除のはたらきとして、
その不自由な肉體を自己の異物として除去するはたらきが、
「肉體の死」であると分かった。
肉體が真の自己に非ざるものとして排除される―
即(すなわ)ちこの際、異物として排除されるのは、生命體
の如く「粉飾(ふんしょく)されていたニセモノの自己」
であって、本来、靈なる生命だけは、粉飾體を棄(す)てて
却(かえ)って生命の實相たる完全自由を得るのであって、
今迄一般に生命が死するが如く錯覚せしめられていた
「生命の死」は、実に於いては存在しないのである。
それは却って、自己の生命の本體なる「霊的生命」が一層
完全なる自由を発揮するために、ニセモノの「物質性」を
粉飾した生命が、その粉飾物質をかなぐり棄てるために
「物性」を脱皮する一過程に過ぎないのである。
真の人間そのものの生命には、「死」はないのである。
これこそ「生命の實相」につながる人間不滅の真理である。
この人間不滅の真理を、合理的な論理を以(も)って全人類
に献(ささ)げることを悦(よろこ)びとする。》


(『無限供給の扉を開く』序に代えて1〜4頁)
(昭和59年11月号『生長の家』所載)

ありがとうございます。















光と象徴 (61701)
日時:2023年11月10日 (金) 17時55分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。
暫く時間が空き(過ぎ)ました。
私なりの、謹慎時間をいただきました。
お騒がせして、申し訳ございませんでした。
またどうぞよろしくお願い申しあげます。

今月(令和5年11月)の『生長の家』機関誌からです。
『秋の彼岸となった九月二十三日、生長の家国際本部
“森の中のオフィス”イベントホールで
「布教功労物故者追悼慰霊祭」が執り行われました。
同祭は 生長の家総裁・谷口雅宣先生が斎主(いつきぬし)
として奉祀され、白鳩会総裁・谷口順子先生が出席される中、
・・・・・』
(同誌4頁)
畏敬の言葉がなくなって、普通の文章になっております事、
敬意を表したいと思います。

『生長の家』は立教時から、神に祝福され、神の顕現が
いろいろありました。
今回は、その「光」と「象徴(シンボル)」についてです。

・理念の顕現

《 「理念(イデア)」と称するところのものは「生長の家」
において「実相」と称(しょう)するところのものであって
「神の第一念」を指す。
「念(ねん)」と称するところのものは「理念」を
現象に顕現する動力となるところの「第二念」を指す。
「神の第一念」によって「至高(しこう)」の理念の世界」
(実相世界)が創造せられ「念(マインド)」(第二念)
によってそれが現象界に投影(とうえい)せられる。》
(『生命の實相 頭注版 第35巻 14.15頁)

・当掲示板『元信徒の部屋 別館 原宿本部資料篇
【61438】(戦前の生長の家本部)2023-10-19投稿
梶猛弩様が昭和10年東京市赤坂区檜町4(当時の住所番地)
に設置された生長の家本部の写真を紹介されています。
梶猛弩様 貴重な資料のご提供ありがとうございました。 

(神の霊光の顕現)

《 神の霊光(れいこう)が光明思想普及会事務所に
顕現したと思われる事件が起こった。
生長の家と光明普及会(頭注:日本教文社の前身)
とは赤坂区檜町(ひのきちょう)五番地所在
(頭注:現在の港区赤坂9丁目6番44号)の山脇高等
女学校の校舎全部を譲り受け、昭和十年八月十一日より
その事務所を同校に移転したのだ。
しかるに同行にはすでに校舎譲り受けの交渉成立当初
より神様の御光(ごこう)であろう、燦然(さんぜん)
たる光明が三階の尖塔(せんとう)に射(さ)していた。
・・・
八月初旬(学校譲受交渉成立のころ)藤井おばさんは、
六、七歳の孫娘さんを同伴して、付近のお湯屋へ行こう
とした途中こんな霊異(れいい)が起った。
「学校前の電車通りに出て、何心なく電車通りの向こう側
から校舎の方へ目を注ぐと、暗中(あんちゅう)に建つ
校舎の二階から三階にかけ一面に真っ赤な明光(めいこう)
が照り輝いている。さながら陽炎(かげろう)の燃え立つ
ごとく一種の異様の霊光燦然として、おばさんの目を
驚かしたのであった。・・・
藤井のおばさんは、あまりにも不思議な、この靈光の正体を
なおも確かむるため、わざわざ電車通り向こう側より
市電線路を超えて学校側に近寄り暫時(ざんじ)直立不動の
まま全身に快く注(そそ)ぎ来る異様の霊感を浴び、
心身すこぶる爽快(そうかい)を覚(おぼ)えつつ、
世に珍しきこの霊光を凝視(ぎょうし)していた。・・・
こうした事実の体験後三日を経(へ)て山脇高女の建物
全部が「生長の家」の真理宣布機関たる光明思想普及会に
譲渡(じょうと)されたのであった。・・・
藤井のおばさんは、・・・しばしば「生長の家」の神話や、
神様の真理を聴くにおよんで、初めて藤井のおばさんは、
あの夜に校舎に映(えい)じた霊光燦然たる顕現が、
確かに、「生長の家」の神の御霊光であったにちがいないと
悟り、驚きながら筆者に以上の事実を事珍しく物語った
のであった。
(『生命の實相』頭注版 第34巻 233〜236頁 抜粋)

・「生長の家」の象徴の顕現

《  谷口先生が大阪の国民会館へお越しになったとき、
黙々(もくもく)として三年間誌友として道を求めて
こられたのみで、今まで誰にも説教せられたことの
なかったK氏が立ち上がって講演した。
この人は海事審判(かいじしんぱん)の弁護士をして
いる人であった。・・・
正義観念の強いK氏にとっては、事実上過ちがその方にある
側から弁護を頼まれると、断(こと)わるわけにはゆかない
し、引き受けた以上はその方を弁護しなければならないし、
この職業上の矛盾(むじゅん)に苦しんでいたので
あった。時にはその職業を辞(や)めてしまおうかと思う
ような時もあった。ところがK氏が「生長の家」の神想観
を行(ぎょう)じて、万事すべてが調和している大調和の
心境に入るようになってからは、紛争の正しくない側から
弁護を頼まれることがけっしてなくなったのであった。
類(るい)は類を招(よ)ぶ、こちらが大調和の心境に
なるとともに、K氏のところへ依頼に来る客は当然
弁護すべき側の正しい者ばかりになったのである。
(『生命の實相』頭注版 第34巻 68〜69頁 抜粋)


《  『生長の家』誌を執筆し出してから二年目のはじめ
の頃、急に私は詩を書きたい衝動(しょうどう)にかられて
自由詩を書いたのでありますが、それに何となく『甘露の法雨』
と題名をつけたくなったのであります。
それはあまり長文の詩でありましたので、雑誌一冊に載(の)
せるには頁の都合がわるかったので、その半分を次号に
まわして『天使の言葉』と云う題で発表しました。
ところが其の頃、神戸高等商船学校の教授だった
門脇観次郎(かどわきかんじろう)さんが、
定年で退職されました。・・・・
そして氏は、高等商船学校の教授でありましたから、海事
(かいじ)には専門的に明るいので海難審判
(かいなんしんぱん)の弁護士を開業せられたのであります。・
・・・・
そして「こんなに過(あやま)ちのある方の船主が弁護して
もらいに来るのは、自分自身の心のうちに自分の過ちを
自己弁護したい心があるからだ。
これから断じて自己弁護の心を捨てましょう。」
と決心されたのでした。
するとそれから後は、正しい側の船主からのみの弁護を
たのみに来るようになって、何事もしごとが順調にすらすら
と行くようになり、心の荷が軽くなって天空海濶
(てんくうかいかつ)と云うようなひろびろとした気持ち
になることが出来るようになったのであります。

心の荷が軽くなって、心が伸び伸びと楽しくなりますと、
病気が治(なお)ってしまいます。
門脇観次郎さんは、慢性中耳炎、慢性の胃潰瘍、糖尿病、
神経痛などの病気があったのでありますが、それが
悉(ことごと)く治ってしまったのであります。
門脇さんはあまり有りがたい感じがしましたので、神想観
をして神様にお礼を申し上げると共に、
「願わくは、生長の家の神様のお姿を拝(おが)ませて
下さいませ」とお願いしたのであります。
すると空中に、頂(いただ)きに冠(かんむり)を
かむっていられる聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)
のお姿がおあらわれになりました。
「ああ有りがたい。生長の家の神様は観世音菩薩様
(かんぜおんぼさつさま)であられるのか。
成る程、私は前から観音(かんのん)信仰で観世音菩薩様
をおまつりしていた。生長の家の教えに触れたのは、
この観世音菩薩の導きであるのかな。」
と思っていられましたが、尚(なお)、ハッキリした証拠
がつかめませんので疑問に思って私にたずねられた
ことがあります。そのとき私は門脇さんに、
「『生長の家』とは、『生』とは縦(たて)に『生(の)』
びる直線を象徴(しょうちょう))し、是(これ)は時間を
あらわし、『長』は横に『長(の)』びる直線を象徴して
是を空間とあらわし、『家』は『宇宙(いえ)』即ち
『宇宙(うちゅう)』をあらわす。
だから生長の家とは時間空間の交叉(こうさ)で出来、
無限生長の宇宙ということであり、『生長の家の大神
(おおかみ)』とは固有名詞ではない、宇宙の大神と
云う意味であり、宇宙に充(み)ち満(み)ちて
遍在(へんざい)したもう神は形はないけれども、
方便(ほうべん)(人をすくうためのテダテ)のために
方便法身(ほうべんほっしん)(宇宙にみちたもう法身
(真理のカラダ)の神が方便のために或るすがたをあらわし
たもの)とか、応化身(おうげしん)(相手に応じて神通力
であらわした姿)とか云う風(ふう)に、相手の信仰を
高めるために色々の姿で示現(じげん)(しめすために
あらわれる)したもうことがあるから、貴方は本来観音
信仰であるから、観世音の姿をもってあらわれたら貴方の
信仰心が深まるから、そう云う姿でおあらわれになった
のでしょう。」
と申し上げておいたのであります。

それから約四年たって、私は昭和九年八月二十九日
東京へ移転しました。到着したのはその翌日三十日
であります。・・・
ところで東京へ出て万教帰一運動を大きく展開するためには、
生長の家の万教帰一を標榜(ひょうぼう)する(しるし
としてかかげる)旗幟(はたしるし)をつくらねばならぬ
と云うので、そのマークを創(つく)ることになりました。
当時、帝展(ていてん)の彫刻部の審査員をしておられました
山根八春(やつはる)先生・・・・にお願いして万教帰一の象徴
になるマークを図案して頂きました。
それが唯今の日章旗の中に卐字(まんじ)及び星形の十字の
あるマークであります。
日章旗は神道(しんとう)をあらわし、卐字はキリスト教を
あらわし、日本の三大宗教を一つに帰一したことをあらわして
いるのであります。
このマークが七宝(しっぽう)の銀メダルになって、大阪の
生長の家連合会長のところへ数百個まとめて送られたので
あります。その時分、連合会長になっていられたのが此(こ)
の門脇観次郎さんでありました。
門脇観次郎さんは、この銀メダルになっているマークを
見ますと、「おや、このマークは何処(どこ)かで見た
ことがある」と思いました。
想出(おもいだ)して見ると、四年半ほど前に、門脇さんが
「生長の家の神様のお姿を拝(おが)なせて下さい」
と神想観中に念じたときに、空中に観世音菩薩のお姿が
あらわれたと云うことは、前に申しましたが、その観世音菩薩
の冠(かむ)っていられる冠(かんむり)の前方中心に
此のマークがついていたことを思出したのです。
それでハッキリ「生長の家の神様」は観世音菩薩である
ということがわかったのであります。・・・

ただ、真理は一つでなければならないから、万教は一つの
真理に帰一しなければならない、宗派争いをしている
ようなことでは人類は手をつないで平和に行く訳には
いかないから、各宗派そのままで改宗(かいしゅう)
しないでも、色々にわかれている表面の儀式や教義の
奥にある「真理は一つ」であると云う「実相」を
知らせて、各宗そのままで仲よく手をつなぐことの
出来るようにしたいという真理の啓蒙(けいもう)
運動としての雑誌『生長の家』を出したに過ぎない
・・・・
この運動は谷口個人でやっているつもりでしたが、
前に述べました経路(けいろ)で、ついに「此の
運動をやっているのは、わしである」
と云うように観世音菩薩が、生長の家のマークを
宝冠(ほうかん)の中央部につけて出現されるに
到ったのであります。
こうなりますと、私が生長の家の運動を起(おこ)して
いるつもりでしたが、実は「私」が生長の家の運動を
起しているのではない。観世音菩薩が生長の家の運動
を起していられるので、「私」と云うものは、それの
唯の喇叭(らっぱ)に過ぎなかったのだと云うことが
わかったのであります。
ですから「生命の實相』第一巻に於いて、「私は
教祖ではない」とハッキリと書いて置いたのであります。
・・・・

私は、地上の何(ど)の書物の受売りでもなく、地上の
誰からの相伝(そうでん)でもない、私は、あの姿を
あらわされた観世音菩薩に教えられて、唯の喇叭的
役目をしているに過ぎないのでありまして、その功績
も功徳も「私」にあるのではなく、悉(ことごと)く
観世音三十三身示現(しんじげん)の御はたらきに
あるのであります。》
(『新版 真理』第3巻 134〜141頁 抜粋)

《 神の言葉は理屈(りくつ)でもなく、理解でもなく、
ただ神の言葉であるからという理由だけで尊いのであった。
「神光あれと宣(のたま)いければ光ありき」
なぜ神は光あれと宣うのであるか、なぜ光あれと宣うたら
光が出現したのであるか、それは、理屈でも理解でもない。
「汝ら天地一切のものと和解せよ」ーー
なぜそうせねばならぬかな?
とは理論の問題ではない。合掌礼拝してその言葉を読んで
いるとき、自然に天地一切のものと和解している
自分を見出すのである。》
(『生命の實相』頭注版 第34巻 230頁)

ありがとうございます。



観音様に関する、過去の、縹様と志恩の会話の一部を再掲させていただきます。   (61723)
日時:2023年11月11日 (土) 21時24分
名前:志恩

トキ掲示板より
2020年7月8日(30313)より

志恩ー
生長の家の創始者は、浅草の観音様(金龍)だという説は、
ほんとうだと思っていらっしゃるそうですが。

縹(=tokumei)ー
 はいそれを信じておりまして、その証明に心血を注いできました。
 しかし、

本流の偉い先生に、

「浅草寺の観音様の冠のマークに、
生長の家のマークがついているなんてね、
そんなの夢で見た話しだから、嘘かほんとか分からないよ!
 大切なのは現実」
のような内容の事を言われたのです。

 末端の生徒である自分が信じていて、
『生命の實相』を推進する偉い先生がそんな事を言っていて、
そんな事を信じるあなたは、おかしい!みたいな叱り方で、
それを信じてない人が、どうして先生をしているのかなと、
今だったら思うのですが、ただ信じているこちら側が悪い姿勢で、
それを正さねばならない(夢より現実)というような指導を受けました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 縹(=tokumei)ー
谷口雅春先生も、
入龍宮幽斎殿とか、出龍宮顯斎殿 龍宮住吉本宮を建造されて、
生長の家の神は、龍が関係するようなのですね。
浅草寺も金龍の舞というのがありますね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
もっと前に遡りますが、縹様のご投稿文の一部です。
旧トキ掲示板
トーキングスティックボード
2883:縹:2014/02/19(水)
志恩様

 光輪卐十字架のマークは、その甘露の法雨を授けて下さった
観世音菩薩様の冠についていたマークですので、そのマークを
否定したのなら、『観世音菩薩讃歌』に書かれている観音様は、
どこの観音様のことなのでしょうか?

 ・・・私は以前から、雅宣先生の教えが、観音信仰でありながら、
「地球環境保護と世界平和と美術に関心があり、日本人よりも国際人を
養成する宗教」に似ている、と思っていたのですが、
生長の家にご縁のある観世音菩薩様は、浅草寺の観音様で、
浅草寺は、法華経のお寺です。

光輪卐十字架の卐の部分は仏教をあらわし、
雅春先生は、仏教でも龍樹菩薩出現以降の大乗仏教が
本当の仏教であると教えて下さっています。
法華経は大乗経典です。

 『観世音菩薩讃歌』は、
浅草寺の法華経の観音様が授けて下さった
『甘露の法雨』を不完全だと否定する内容になっている
経緯を持っているので、全く観音様の御経では無いように思います。
『観世音菩薩讃歌』が呼ぶ観音様は、一体どのような方なのでしょう?

自分のマークを否定する観音様、という事でもあります。


 そもそも観音経の内容が、
どんな災害時でも助けるという内容なのに
反対に、そのお経が読まれる所が災害に遭う事例が続いています。

 どうしたら、甘露の法雨に戻して戴けるのでしょうか。

2884:縹:2014/02/19(水) 12:50:35 ID:oeUx5MQw
ご覧下さっている方もおられるかも知れませんので、追伸させて戴きました。

もしかしたら、どうして私が「別の教団の観音信仰と似ている」という指摘を
何度も繰り返すのか、
「観音とは、宇宙の原理なので、関係ないではないか?」と、
理解して戴けないかも知れませんので、補足させて戴きますと、

呼ぶのは同じ観音菩薩様という名称でありながら、
なぜか、その団体も、傾向が物質主義的な内容になって行っているのです。

ですから、観音様であるから良いだろうと思っていると、
とんでもない世界へ連れて行かれる場合があるので、
気を付けたほうが良いと思うのです。

 特に、生長の家の観音様の冠のマークを否定する方の作られた
『観世音菩薩讃歌』は、どういった観音様なのか、不明です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

はうらひとひら様 (61724)
日時:2023年11月11日 (土) 21時36分
名前:志恩

以前、縹様と会話させていただいていた時は、
生長の家のマークのことや観世音菩薩様の件は
谷口雅春先生が、どこに書かれていらしたか、という点が
あいまいでありました。

しかし、はうら様は、よく見つけていらっしゃいますので、
信憑性がとても高いご発言だと存じました。

谷口雅春先生のお言葉ー
>心の荷が軽くなって、心が伸び伸びと楽しくなりますと、
病気が治(なお)ってしまいます。
門脇観次郎さんは、慢性中耳炎、慢性の胃潰瘍、糖尿病、
神経痛などの病気があったのでありますが、それが
悉(ことごと)く治ってしまったのであります。
門脇さんはあまり有りがたい感じがしましたので、神想観
をして神様にお礼を申し上げると共に、
「願わくは、生長の家の神様のお姿を拝(おが)ませて
下さいませ」とお願いしたのであります。
すると空中に、頂(いただ)きに冠(かんむり)を
かむっていられる聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)
のお姿がおあらわれになりました。
「ああ有りがたい。生長の家の神様は観世音菩薩様
(かんぜおんぼさつさま)であられるのか。
成る程、私は前から観音(かんのん)信仰で観世音菩薩様
をおまつりしていた。生長の家の教えに触れたのは、
この観世音菩薩の導きであるのかな。」
と思っていられましたが、尚(なお)、ハッキリした証拠
がつかめませんので疑問に思って私にたずねられた
ことがあります。そのとき私は門脇さんに、
「『生長の家』とは、『生』とは縦(たて)に『生(の)』
びる直線を象徴(しょうちょう))し、是(これ)は時間を
あらわし、『長』は横に『長(の)』びる直線を象徴して
是を空間とあらわし、『家』は『宇宙(いえ)』即ち
『宇宙(うちゅう)』をあらわす。
だから生長の家とは時間空間の交叉(こうさ)で出来、
無限生長の宇宙ということであり、『生長の家の大神
(おおかみ)』とは固有名詞ではない、宇宙の大神と
云う意味であり、宇宙に充(み)ち満(み)ちて
遍在(へんざい)したもう神は形はないけれども、
方便(ほうべん)(人をすくうためのテダテ)のために
方便法身(ほうべんほっしん)(宇宙にみちたもう法身
(真理のカラダ)の神が方便のために或るすがたをあらわし
たもの)とか、応化身(おうげしん)(相手に応じて神通力
であらわした姿)とか云う風(ふう)に、相手の信仰を
高めるために色々の姿で示現(じげん)(しめすために
あらわれる)したもうことがあるから、貴方は本来観音
信仰であるから、観世音の姿をもってあらわれたら貴方の
信仰心が深まるから、そう云う姿でおあらわれになった
のでしょう。」
と申し上げておいたのであります。<

志恩ー
しかし、谷口雅春先生は、観世音菩薩とは書いておられますが、
浅草の観音様が生長の家の神様だとは、書いておられません。
その点が、縹様のご意見と違うように私は思っておりますが、
はうら様は、どのようにお考えでしょうか。



志恩様 (61733)
日時:2023年11月12日 (日) 08時50分
名前:はうら ひとひら

志恩様
ありがとうございます。
いつも当掲示板で適切なご配慮いただきます事に
感謝申しあげます。

『観世音菩薩』様の件でありますが、私はその広大さの
あまり、よくわかりません。
ただ一度だけ、そのお姿をチラッと見た事があります。
『24時間365日』の個人相談の受付をやらせていただいて
間もなくですが、早朝の掃除の仕事を終え帰宅して、
何故か眠くなって、シューマンの「ミルテの花(献呈)」
を聴きながらウトウトとして眠ってしまった時、しばらく
して、「ミルテの花」で大太鼓が鳴り出した時、巨大な
かた(住吉の大神とすぐわかりましたが)が現れて、
「しっかりやれ」と言われました。それで初めて、私は
神から許可が得られたと思いました。
その時、その大神の側で手を振っている方がいらっしゃい
ました。それが『観世音菩薩』様でありました。

余談は別にして、観世音とは観自在であり三十三身に身の
姿を変じ給いて、衆生を済度し給う菩薩でありますから、
特定の場所や特定のお祀りしているところには、限定しない
と思っております。それは広大な滋門(じもん)であります。

《天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とは固有名詞
ではなく天球(てんきゅう)の御中(みなか)にまします
主(しゅ)なる神という内容を表す言葉である。》
(『生命の實相』頭注版 第12巻152頁)

に解釋が似ていると思います。

《 “超越的絶対者”は“絶対者”であるが故(ゆえ)に、
われらに語りかける事はあり得ない。
それ故に絶対者の慈悲(じひ)を体現(たいげん)した
ところの相対的に顕現(けんげん)する人格神、又は天使、
菩薩又は教祖が現れなければ、絶対者はその救済(きゅうさい)
を具体化する事は出来ない。・・・
天之御中主神が住吉大神として顕現しなければならない。》

(『白鳩』誌昭和48年3月号「14日の箴言(しんげん)」

《 第一義の神様は姿形は見えずして偏在(へんざい)
であり、宇宙到る処に、何処(どこ)にでも充満して
をられて、吾々の生命(いのち)となってをられる。
・・・・
第二義の神様は第一義の神様の無限の姿の一つの
化身(けしん)として現す。
例えば観世音菩薩とか、白髪の老翁(ろうおう)の
姿の神様というような方。・・・
第三義の神様は霊魂(れいこん)即ち霊魂(みたま)
の神。・・・
自然は第三の神様に属する。人間の心が和順(わじゅん)
すれば、自然環境も和順調和す。・・・
黴菌(ばいきん)も自然霊である。》

(『神ひとに語り給ふ』神示講義教の巻108.113.119頁)

ありがとうございます。




はうらひとひら様 (61739)
日時:2023年11月12日 (日) 11時02分
名前:志恩

早速にお返事くださいまして、誠にありがとうございました。

観世音菩薩様は、どこどこの観音様というふうに、
特定の場所の観音様ではないのですよね。


>観世音とは観自在であり三十三身に身の
姿を変じ給いて、衆生を済度し給う菩薩でありますから、
特定の場所や特定のお祀りしているところには、限定しない
と思っております。それは広大な滋門(じもん)であります。

《天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とは固有名詞
ではなく天球(てんきゅう)の御中(みなか)にまします
主(しゅ)なる神という内容を表す言葉である。》
(『生命の實相』頭注版 第12巻152頁)

に解釋が似ていると思います。<



生長の家のマークの色 (61973)
日時:2023年11月26日 (日) 11時02分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。
『生長の家のマーク』の色の事です。

色の識別には、一般的には、マンセル(Munsell)表色系の
表示が使用されます。

(1905年アメリカの美術教育者・画家の
アルバート・マンセルによって考案された。)
色の三属性によって物体色を表示する典型的な表色体系です。
日本工業規格(JIS)によるJIS標準色票もこれに準じています。
その他に塗料メーカの固有の色別もあります。
(例 DIC:大日本インキ化学工業 等)

少し横道にそれます。
コーポレートアイデンティティデザインというのがあります。
企業文化を構築し、特性や独自性を統一させた
イメージやデザイン、またわかりやすくメッセージを発信して、
社会と共有することで存在価値を高めていく、
企業戦略の一つで、その企業の魂のようなものです。

例えば、白色と黒色の表現

白色(マンセルN9.5等)コカコーラ社は、
赤地色に白色のCoca-Colaの文字色を、
「コカコーラ・ホワイト」と言っています。

黒色(マンセルN2.0等)スーパーコンピュータ
『富岳』のメーカ富士通は、
パソコン等の外枠の黒色を「フジツウコアブラック」
と言っています。

『生長の家のマークの色』ですが、
谷口雅春先生は次のようにご指定されました。

赤色(太陽・日章旗・神道)
DIC160
(マンセル9.5R6.0/16.9)

緑色(キリスト教・大八洲(日本国)青人草)
DIC362
(マンセル4.1GY5.8/7.8)

ご参考までに色調とマークの歪みを掲載いたしますが、
データ取り込みの関係で、図案が歪んでいたり、
色調も機材の関係(腕の関係)で、
正確さに欠けますこと、お許しください。

(寸法の入っているものは、星の八つの角の二辺の寸法が、
縦方向に対して、斜めの寸法の比率割合を示しております。)

ありがとうございます。


生長の家マーク (61983)
日時:2023年11月27日 (月) 00時18分
名前:志恩

はうらひとひら様がご指摘の通り、
最初の生長の家のマークは、
別のものに、変えられてしまっていますから、
最初のマークに、戻す、
ということは、大変重要なことだと、私も理解いたしますが、
はうら様のようなまともな感覚のお方が、いつか、上に立たれる
時が来れば、
それが、可能になることが、あるかと、考えております。

『生長の家』マークの変遷 (62039)
日時:2023年12月03日 (日) 13時05分
名前:はうら ひとひら


『生長の家のマーク』の変遷について、
解ります範囲ですが、記載させていただきます。

1.「昭和10年1月25日」発行の
「生命の實相』第一巻(黒布表紙の聖典で、
頭注版の第一巻・第二巻分が纏めてご教示されています。)
表表紙には、天界から三本の黄金の矢
(90年経過しても色褪(あ)せることなく、)
の光線が出て、地上を照射しています。
『甘露の法雨』には、「神は人間の光源(ひかりみなもと)
にして、人間は神より出でたる光なり」とあります。
『久遠天上理想國実現の神示』には
「高天原(たかあまはら)ー瑞穂(みずほ)の国
ー生長の家ーこの三つは三位(さんみ)にして一体である」
とご教示されており、それが想起されます。
裏表紙には、刻印のような重厚な深みをもった外形40mmの
『生長の家のマーク』が完全な図案(マーク)
で表示されています。
色は表紙色同様に、黒一色です。

2.この図案は「昭和10年2月1日」に制定をみた。
(正規のマーク)
(『新篇 聖光録』288頁:谷口雅春先生監修)

3.「昭和12年1月號」『生長の家』誌記載
「生長の家誌友徽章標準図』2頁(正規のマーク)
カラー図案で表示

4.「昭和53年6月」当時の聖使命会事務局長が、
『什一会員の色紙』を発注する度に、
中央のマークの色調が微妙に変化している事に気づき、
谷口雅春先生に生長の家のマークの色を確定して
いただきたいと、DIC(大日本インキ化学工業が制定した)
の印刷色調見本を添付してお願いされた。

谷口先生からのご返事は色の事より先に、
マークの図案に触れられて、

「中央の緑の星は大八洲(おおやしま)を顕しているので
あるから、八つの角の幅がすべて等しくならねばならないが、
これは斜めの部分の幅が、
縦と横の幅より狭くなっているから、斜めの方向も等しく
なるようにして下さい。」

とその色紙にメモ書きされて戻された。
それで、正規のマークが作成され、
その時、色も 緑: DIC 362    赤: DIC 160の
ご指定がありました。

5.「昭和53年11月21日」の出龍宮顕斎殿の建立時、
正規のマークが使用されました。

6.「昭和54年3月1日」発行『新篇 聖光録』
で正規のマークとして掲載(288頁)

7.「昭和53年11月22日」発行の『生長の家 五十年史』
292頁にも正規のマークで掲載。

8.「昭和56年3月」新しく聖使命会事務局長になった方が、
『什一会員の色紙』が元の歪んだ形状に戻っている事に気づいて、谷口清超先生にお聞きしたところ、

「昭和56年3月頃の理事会決定によって
【『生長の家』信徒徽章標準図】が決定されたので、
それに準拠するように」

との事でした。
添付しました図案は、不鮮明で申し訳ありませんが、
その時のものです。これには、色の指定がなされていますが、
4項目で色指定がなされ、それを知っている方は、
総裁、副総裁、事務局著の三名しかおりませんでしたので、
谷口雅春先生のご意志は、形状、色彩ともに
伝えられておりました。
それが、色彩はDIC指定が書いてありますが、
形状は歪んだままで、4項目の不自然な形に戻されて、現在に至っております。

ありがとうございます。



はうらひとひら様 (62045)
日時:2023年12月04日 (月) 09時58分
名前:志恩

(前略)

8.「昭和56年3月」新しく聖使命会事務局長になった方が、
『什一会員の色紙』が元の歪んだ形状に戻っている事に気づいて、
谷口清超先生にお聞きしたところ、

「昭和56年3月頃の理事会決定によって
【『生長の家』信徒徽章標準図】が決定されたので、
それに準拠するように」

との事でした。
添付しました図案は、不鮮明で申し訳ありませんが、
その時のものです。これには、色の指定がなされていますが、
4項目で色指定がなされ、それを知っている方は、
総裁、副総裁、事務局著の三名しかおりませんでしたので、
谷口雅春先生のご意志は、形状、色彩ともに
伝えられておりました。
それが、色彩はDIC指定が書いてありますが、
形状は歪んだままで、4項目の不自然な形に戻されて、
現在に至っております。<


志恩ー
生長の家のマークの変遷についてを、生長の家の初期の頃
のことから、調べてくださいまして、ありがとうございました。
全然知らないことでした。

思う事 (62107)
日時:2023年12月10日 (日) 11時21分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。

最近の事、この『生長の家のマーク』の件で投稿してから、
60代、50代、40代の方から相次いで連絡があり、
その意志・意思を引き継いで、
応援していきたいと言ってきました。
もし私(はうら)に何かあって、
発信出来なくなる事態が起っても、
継続して発信される事になりました。
昭和56年に理事会で歪んだマークが決定されてから
40年以上経過し、これを契機とし、
立教当時からご指導下さいます、
観世音菩薩様の強く、ふかい
慈悲の 思いを感じます。

《 生長の家の宗教運動は、その光明宣言の
第七條即ち結語の章に記述せるが如く、
「地上天国」即ち、地上に神の国を建設せんとすることが、
その立教の最期最終の目的としてあるのである。
地上に神の国を建設するとは世界に国際戦争も、
階級闘争も、家庭の争議も、病気も窮乏(きゅうぼう)
もなき平和大調和の天国的世界を実現することなのであって、
生長の家の世界「一」體(たい)の信仰が確立せらるれば
原子爆弾ごときはあっても無くても、
人類の「魂の飢餓」は救われ、
本来「争う心」が無くなるのであるから、
人類が原子爆弾の前に脅(おび)え戦(おのの)き
恐怖している必要などは更にないのである。》
(『新生の書』160.161頁』)

私達はその為の、再生、再建の為に尊い使命をもって
この場にいると思います。
これをマークの是正を再生・再建の第一歩の行動としたいのです。

申し添えておきたい事があります。

ある先達が平成27年(2015年)3月現総裁に
『公開質問書』を出しましたら、
すぐさま、当時の理事長から電話で
「会員権」を剝奪(はくだつ)すると云ってきました。
そしてすぐに、各組織(相愛会、白鳩会、等々)
の規則を変えて、『会員は本部の意図、方針に従って
行動する事』とほぼ一年にわたって、
毎月文章で会員全員に渡しました。
(裏返せば、『本部の意図、方針に反する行動は、罰する』ということです。)
私はそれによって、当時の教区相愛会事務局長から、
その先達と誌友会を始めた次の月に、
「総裁の批判をしているから、講師の出講停止にする。」
と一方的に、電話で云われました。
何一つ申し開きも出来ず、文章でその主旨をください、
と言っても来ない。
今現在も出講停止は続いています。

ところがその事務局長が6月19日 
44歳で突然なくなりました。
謹んでご冥福をお祈りすると共に、
奥様やまだ幼いお子様の事を思う時、
胸が張り裂けそうになりました。
理由はご本人しかわかりませんが、
信仰と組織の板挟みがあった事は、容易に想像がつきます。

もうこのような事はたくさんです。

これから私達が、『生長の家のマーク』を正規にする為に、
いろいろな提案をした時に、妨害をしないでほしい。
それは信徒の自浄作用から出たものだからです。
もしあまりにもその妨害が酷(ひど)い時には、
外部の力(国関係)の力もかりるつもりです。
つまり霊界からのご指導と、
現象界からの自浄作用も使って、
この地上天国建設の事行を進めた いのです。

余り世間に恥じをさらしませんように、
切に切にお願いいたします。

《 虚説(きょせつ)を排撃(はいげき)すること
いよいよ明瞭(めいりょう)であればあるほど、
真説(しんせつ)は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。・・・
どうかみなさんも虚説(ないもの)に対しては和解する事なく、
どこまでも「サタンよ去れ」の態度で進んでいただきたく、
人間に対したは、
その表面の包み(罪)を見ないで、
その罪なき完全なる実相を見て、その罪を赦(ゆる)す
(その罪を本来無いものと見て捨てる)
ことにしたいのであります。》
(『生命の實相』頭注版第14巻 64頁)

次回からマークの真贋の簡単な見分け方と、
具体的な提案をしていきたいと思います。

ありがとうございます。

はうらひとひら様 (62126)
日時:2023年12月11日 (月) 04時31分
名前:志恩

(はうら ひとひら様ー)
>最近の事、この『生長の家のマーク』の件で投稿してから、
60代、50代、40代の方から相次いで連絡があり、
その意志・意思を引き継いで、
応援していきたいと言ってきました。
もし私(はうら)に何かあって、
発信出来なくなる事態が起っても、
継続して発信される事になりました。
昭和56年に理事会で歪んだマークが決定されてから
40年以上経過し、これを契機とし、
立教当時からご指導下さいます、
観世音菩薩様の強く、ふかい
慈悲の 思いを感じます。

《 生長の家の宗教運動は、その光明宣言の
第七條即ち結語の章に記述せるが如く、
「地上天国」即ち、地上に神の国を建設せんとすることが、
その立教の最期最終の目的としてあるのである。
地上に神の国を建設するとは世界に国際戦争も、
階級闘争も、家庭の争議も、病気も窮乏(きゅうぼう)
もなき平和大調和の天国的世界を実現することなのであって、
生長の家の世界「一」體(たい)の信仰が確立せらるれば
原子爆弾ごときはあっても無くても、
人類の「魂の飢餓」は救われ、
本来「争う心」が無くなるのであるから、
人類が原子爆弾の前に脅(おび)え戦(おのの)き
恐怖している必要などは更にないのである。》
(『新生の書』160.161頁』)

私達はその為の、再生、再建の為に尊い使命をもって
この場にいると思います。
これをマークの是正を再生・再建の第一歩の行動としたいのです。<

志恩ー
はうらひとひら様が上記のことを、トキ掲示板へ
書かれましたら、
”60代、50代、40代の方から相次いで連絡があり、
その意志・意思を引き継いで、応援していきたいと
言ってきました。”
とは、驚きです。はうら様の書かれたことを読まれて、
それをしっかりと理解されたお方が、いらした
ということですものね。


(はうらひとひら様ー)

>申し添えておきたい事があります。

ある先達が平成27年(2015年)3月現総裁に
『公開質問書』を出しましたら、
すぐさま、当時の理事長から電話で
「会員権」を剝奪(はくだつ)すると云ってきました。
そしてすぐに、各組織(相愛会、白鳩会、等々)
の規則を変えて、『会員は本部の意図、方針に従って
行動する事』とほぼ一年にわたって、
毎月文章で会員全員に渡しました。
(裏返せば、『本部の意図、方針に反する行動は、罰する』ということです。)
私はそれによって、当時の教区相愛会事務局長から、
その先達と誌友会を始めた次の月に、
「総裁の批判をしているから、講師の出講停止にする。」
と一方的に、電話で云われました。
何一つ申し開きも出来ず、文章でその主旨をください、
と言っても来ない。
今現在も出講停止は続いています。

ところがその事務局長が6月19日 
44歳で突然なくなりました。
謹んでご冥福をお祈りすると共に、
奥様やまだ幼いお子様の事を思う時、
胸が張り裂けそうになりました。
理由はご本人しかわかりませんが、
信仰と組織の板挟みがあった事は、容易に想像がつきます。

もうこのような事はたくさんです。

これから私達が、『生長の家のマーク』を正規にする為に、
いろいろな提案をした時に、妨害をしないでほしい。
それは信徒の自浄作用から出たものだからです。
もしあまりにもその妨害が酷(ひど)い時には、
外部の力(国関係)の力もかりるつもりです。
つまり霊界からのご指導と、
現象界からの自浄作用も使って、
この地上天国建設の事行を進めた いのです。

余り世間に恥じをさらしませんように、
切に切にお願いいたします。

《 虚説(きょせつ)を排撃(はいげき)すること
いよいよ明瞭(めいりょう)であればあるほど、
真説(しんせつ)は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。・・・
どうかみなさんも虚説(ないもの)に対しては和解する事なく、
どこまでも「サタンよ去れ」の態度で進んでいただきたく、
人間に対したは、
その表面の包み(罪)を見ないで、
その罪なき完全なる実相を見て、その罪を赦(ゆる)す
(その罪を本来無いものと見て捨てる)
ことにしたいのであります。》
(『生命の實相』頭注版第14巻 64頁)

次回からマークの真贋の簡単な見分け方と、
具体的な提案をしていきたいと思います。<


志恩ー
大先輩の元本部講師で、その後、地方講師となられてご活躍されていらした
お方が、教団に質問したといいいますか、疑問の言葉を述べたら、
即、地方講師の役職を、解かれたお方がいらしたことは、よく存じて
おりますが、はうら様も 地方講師でいらっしゃるそうですが、
今現在も、出講停止は続いていますとのこと、
雅宣様に絶対服従でないと、そのような処分が下るのですね。
誠にも厳しく恐ろしい北朝鮮もどきの現実です。

生長の家のマークの見分け方 (62313)
日時:2023年12月24日 (日) 21時04分
名前:はうら ひとひら


・『生長の家のマーク』の正規品でない
見分け方について

添付いたしました図のように、
横の卐の上端の線をたどっていった時に、
その線上に接するように縦の星の凹みが接していれば、
斜めの星形の幅が、縦の星形よりも狭くて、歪んでおります。
正規品でない事を示しております。

・生長の家のマークをつけて顕われ給いし、
「観世音菩薩」について

《 ・・・・ロマン・ローランの著述『ジャン・クリストフ』
に出てくる「神」に対して、・・・・

 そしてもう一度ロマン・ローランの此の作の一節を
読み返して見て吾々も、
“生命”の一兵卒(いっぺいそつ)として“無”を征服し、
ニセモノを討(う)ち破って、實相の
“完全生命の世界像”を現実に打ち建(た)て
なければならない使命感に駆(か)り立てられる
のである。・・・・

しかしロマン・ローランの神のように
住吉大神はわたしに
「お前は打ち負かされない神の軍隊に属している。
このことを忘れずに死んだ後まで戦え」
といっていられる声がきこえるのである。
 それで自分の體(からだ)が蠟燭(ろうそく)のように
“光”を発しながら焼きつきるまで戦っているのである。
しかしこのロマン・ローランの神は
“主”なる神でないことに注意しなければならない。
この神は「私は主(しゅ)ではない」といっている。
“主”なる神とは“実在の神” “実相の神” 
“全(すべ)ての総(すべ)てなる神” のことである。
“実相の世界” には戦いはないのである。
そこは“住吉の世界”であり、“極楽世界”であり、
“無量寿(むりょうじゅ)の世界”であり、
“宝樹華果(ほうじゅけか)無限の龍宮界”であり、
不自由な“物質的存在”の無い世界であり、
円融(えんゆう)自在の世界であるのである。・・・・

私が“生長の家”誌を創刊して、
“自分は蝋燭のように人類を照しながら燃え尽(つ)きる
まで戦うのだ”という意味を創刊号に書いたとき、
私は住吉大神の人類光明化の火と共に燃える
決意をしたのであった。・・・・

つまり此(こ)の神は“無”に対する“生命の神”
として相対的に顕現(けんげん)していられる神である
ということである。
それは阿弥陀如来(あみだにょらい)と
観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)との関係にも似ている。
阿弥陀如来は法身(ほっしん)として、
また尽十方(じんじっぽう)無礙光(むげこう)如来として、
戦いを超越する久遠の實在者として、
常楽平和の極楽世界にましますのである。
しかしその阿弥陀如来の慈悲(じひ)の化身(けしん)
としてあらわれ給(たま)える観世音菩薩は
“無”と戦う神であり、“仮妄(けもう)”を
破砕(はさい)する刀段々壊(とうだんだんえ)の
戦力であり、非存在のクセに存在の虚像(きょぞう)を
あらわす、“罪”と“病”と“死”の暗黒を
絶滅(ぜつめつ)する「實相より延長し出で
たる光」であるのである。

この場合、阿弥陀如来は久遠常楽完全円満不動不滅の
実相世界の本尊(ほんぞん)であり、
光源であり、観世音菩薩はその光源より出で給える
“無を照らす光”なのである。
“無”と相(あい)対立して戦う光であると言えば、
相対的存在のように観(み)えるのであるけれども、
その相対の相(すがた)の中に絶対者の慈悲と智慧とが、
“靜(せい)”の本体から出でた、現象界の
“非実在(にせもの)”の罪と病と死と貧窮(ひんきゅう)
と不幸とを“本来の無”にまで消滅(しょうめつ)
せしめんがために真理の炬火(きょか)をもって
世を照らし給う“天使(てんのつかい)”
であらせられるのが観世音菩薩であらせられるのである。

その観世音菩薩が生長の家の本尊神(ほんぞんしん)であり、
その観世音菩薩の使命を分(わか)ち
享(う)けて立つ“虚無(きょむ)”を克服(こくふく)
すべく集まった諸菩薩(しょぼさつ)が
吾々生長の家の信徒であるのである。》

(現代漢字、現代ひらがなを一部使用させていただきました。)(『聖道(しょうどう)へ』(増補版)77.320〜323頁)

ありがとうございます。

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はうらひとひら様 (62317)
日時:2023年12月25日 (月) 05時59分
名前:志恩

はうらひとひら様
生長の家のマークの見分け方 (今回のはうら様のテーマ)
(62313)

>・『生長の家のマーク』の正規品でない
見分け方について
(略)<

志恩ー
生長の家のマークが正規のものと変わってしまっていること、
はうらひとひら様がご指摘下さらなければ、気付かないことでした。

大事なことを教えてくださいましたこと、感謝申し上げます。
今年は、思いがけず、はうら様のような優秀なお方がトキ掲示板に
ご投稿くださるようになりまして、トキ掲示板も重厚な掲示板に
なったと深謝申し上げます。

年末になりました。ますますお元気でお過ごしくださいませ。
そして、来年も、時々でも、いいですから、またご投稿ください
ますようにトキ掲示板の一投稿者として期待いたしております。
今後ともよろしくご教授くださいますようお願いいたします。


出来るところからやっていきましょう。 (62376)
日時:2023年12月30日 (土) 15時13分
名前:はうら ひとひら

『生長の家のマーク』のスレッドの場所をいただいたのは、
令和5年9月18日ですが、多くの皆様に支えられまして、
無事年を越す事が出来ます事に、感謝申しあげます。

昨日ある思いが沸々といたしました。
観世音菩薩様の思いで「この『生長の家のマーク』
が正規のものにもどされれば、生長の家の再生、再建が出来る」
という思いでした。
再生はまた済世(さいせい)でもあります。
社会が、立教時の『生長の家』の理念・実施・行為を
求めているのです。

《 「甘露の法雨」というのは、「法華経」の
“普門品第二十五”という一章を、ここだけを独立經として
“観音經”と普通言われていますが、
その観音經の中に観世音菩薩が「甘露の法雨を澍(そそ)ぎ
給いて煩悩の焔(ほのお)を滅除し給う」と書かれている
一節があるのであります。

すなわち一切衆生の濟度(さいと)の為に観世音菩薩が
「甘露の法雨」を注ぎ給うたのです。
それは「甘露の法雨」と言っても、
物質の雨ではないのでありまして、「法雨」即(すなわ)ち
「真理の雨」であります。
このように観世音菩薩が、真理の言葉の雨を注ぎ給うて
煩悩の焔を滅除して衆生を濟度し給うということが、
「法華經」に書いてあるのでありますが、
その真理のコトバが現実化して茲(ここ)に現れて来たのが
この聖經『甘露の法雨』であります。

生長の家の本尊は、佛教では観世音菩薩であると
いつも申し上げているのでありますが、
この観世音菩薩が「甘露の法雨」を注ぎ給うて
人類救済のために真理をお傳(つた)えになりました
其(そ)の真理のコトバが書かれているのが
この聖經『甘露の法雨』であります。》

(『新講「甘露の法雨」解釋』 11頁)

その観世音菩薩様が正規の『生長の家のマーク』
にもどされることを強く切に望まれているのです。

これから私達は、生長の家の実相哲学に触れさせて
いただいた皆様と共に、これを正規のものに戻す事を通じて
それを切っ掛けとして、生長の家の再生、再建に向かいたい
と思います。その実践方法をいろいろ提案させていただき、
また皆様からご提案をいただきながら、
出来る所から、一つ一つ着実に進み実行していきたいと
思います。(僭越ではありますが、お許しください。)

・第一段階であります。
(思い着くままにのべさせていただきます。)
皆様もどうぞご提案お願い申しあげます。

1. 生長の家にご縁のある皆様に、『生長の家のマーク』
の現状品と、それを正規品にもどすために、お知らせをする。
(チラシを作製して、一人が二人にお知らせする。
その二人の人の一人が、また二人にお知らせする。
ネズミ算的手法でふやしていく)
啓蒙期間です。

当座チラシ等の資料は、こちらで用意出来ます。

2.『マークの委員会』を作り、今後、
全ての『生長の家のマーク』を正規品にする為に、
費用、方法、等を検討しそれを実施する方策を考え、
皆さんに知らせる。
委員は自薦、他薦を問はないが、その為の準備室を
2〜3名でたちあげる。
(出席者には、日当をお支払いする。少額と思いますが。
打ち合わせは、オンライン等でもできます。)


3.1項のチラシ情報の作成や、送料や、
2項の委員の為の日当等の捻出の為、
クラウドファンディング(多くの方から賛助金・
支援金を募集する方法)を立ち上げる。)
一口千円程度とする。

この時、必ず監査人をおいて、透明性を保つ。
振込口座が必要であれば、こちらで用意出来ます。

4.紙レベルでよいので、正規のものに置き換えられるものは、
紙を貼ったりして、置き換えていく。
とにかく行動する事が必要です。

どうぞ宜しくお願い申しあげます。

本年は大変お世話様になりまして、ありがとうございました。
明くる年が、皆様にとりまして、輝かしい日々であります事を祈念いたします。

ありがとうございます。

感謝 合掌 はうら ひとひら 拝


はうら ひとひら様 (62384)
日時:2023年12月31日 (日) 08時52分
名前:志恩

(はうら ひとひら様ー)
出来るところからやっていきましょう。 (今回のテーマ)


>『生長の家のマーク』のスレッドの場所をいただいたのは、
令和5年9月18日ですが、多くの皆様に支えられまして、
無事年を越す事が出来ます事に、感謝申しあげます。

昨日ある思いが沸々といたしました。
観世音菩薩様の思いで「この『生長の家のマーク』
が正規のものにもどされれば、生長の家の再生、再建が出来る」
という思いでした。
再生はまた済世(さいせい)でもあります。
社会が、立教時の『生長の家』の理念・実施・行為を
求めているのです。

《 「甘露の法雨」というのは、「法華経」の
“普門品第二十五”という一章を、ここだけを独立經として
“観音經”と普通言われていますが、
その観音經の中に観世音菩薩が「甘露の法雨を澍(そそ)ぎ
給いて煩悩の焔(ほのお)を滅除し給う」と書かれている
一節があるのであります。

すなわち一切衆生の濟度(さいと)の為に観世音菩薩が
「甘露の法雨」を注ぎ給うたのです。
それは「甘露の法雨」と言っても、
物質の雨ではないのでありまして、「法雨」即(すなわ)ち
「真理の雨」であります。
このように観世音菩薩が、真理の言葉の雨を注ぎ給うて
煩悩の焔を滅除して衆生を濟度し給うということが、
「法華經」に書いてあるのでありますが、
その真理のコトバが現実化して茲(ここ)に現れて来たのが
この聖經『甘露の法雨』であります。

生長の家の本尊は、佛教では観世音菩薩であると
いつも申し上げているのでありますが、
この観世音菩薩が「甘露の法雨」を注ぎ給うて
人類救済のために真理をお傳(つた)えになりました
其(そ)の真理のコトバが書かれているのが
この聖經『甘露の法雨』であります。》

(『新講「甘露の法雨」解釋』 11頁)

その観世音菩薩様が正規の『生長の家のマーク』
にもどされることを強く切に望まれているのです。

これから私達は、生長の家の実相哲学に触れさせて
いただいた皆様と共に、これを正規のものに戻す事を通じて
それを切っ掛けとして、生長の家の再生、再建に向かいたい
と思います。その実践方法をいろいろ提案させていただき、
また皆様からご提案をいただきながら、
出来る所から、一つ一つ着実に進み実行していきたいと
思います。(僭越ではありますが、お許しください。)

・第一段階であります。
(思い着くままにのべさせていただきます。)
皆様もどうぞご提案お願い申しあげます。

1. 生長の家にご縁のある皆様に、『生長の家のマーク』
の現状品と、それを正規品にもどすために、お知らせをする。
(チラシを作製して、一人が二人にお知らせする。
その二人の人の一人が、また二人にお知らせする。
ネズミ算的手法でふやしていく)
啓蒙期間です。

当座チラシ等の資料は、こちらで用意出来ます。

2.『マークの委員会』を作り、今後、
全ての『生長の家のマーク』を正規品にする為に、
費用、方法、等を検討しそれを実施する方策を考え、
皆さんに知らせる。
委員は自薦、他薦を問はないが、その為の準備室を
2〜3名でたちあげる。
(出席者には、日当をお支払いする。少額と思いますが。
打ち合わせは、オンライン等でもできます。)


3.1項のチラシ情報の作成や、送料や、
2項の委員の為の日当等の捻出の為、
クラウドファンディング(多くの方から賛助金・
支援金を募集する方法)を立ち上げる。)
一口千円程度とする。

この時、必ず監査人をおいて、透明性を保つ。
振込口座が必要であれば、こちらで用意出来ます。

4.紙レベルでよいので、正規のものに置き換えられるものは、
紙を貼ったりして、置き換えていく。
とにかく行動する事が必要です。

どうぞ宜しくお願い申しあげます。<

志恩ー
生長の家のマークが、正規品とは別物に変更されて
しまっていたことは、はうら様が教えてくださるまで
私は、気が付きませんでした。

はうら様のお考えでは、生長の家のマークは、形が
変わった、ということだけではない。

>観世音菩薩様の思いで「この『生長の家のマーク』
が正規のものにもどされれば、生長の家の再生、再建が出来る」
という思いでした。
再生はまた済世(さいせい)でもあります。
社会が、立教時の『生長の家』の理念・実施・行為を
求めているのです。<

ということで、上記に、正規のマークに戻すことが、
生長の家の再生 (済世)のきっかけとなることを述べておられます。
ただ考えているだけでなく、できることから小さな一歩を踏み出そう
と、提案されておられます。

活動します。 (62554)
日時:2024年01月08日 (月) 10時24分
名前:はうら ひとひら


『生長の家のマーク』のことは
『奇蹟を生ずる実相哲学』上巻の133〜138頁にも
記載があります。

《 生長の家の信者の中に色々の種類の芸術家・
美術家がいるのでありますが、その中で勝れたる彫刻家で、
当時政府の経営している帝展という展覧会の
彫刻部の審査員をしている山根八春先生にお願いして、
生長の家の万教帰一のシンボルになる印(しるし)を
考えてくれと私は頼みました。
それで、その山根八春先生は七種類のマークの図案を
拵(こしら)えて、私の所へ持って来られました。
七つのマークの中でこのマークが一番いいから、
これにしようと私は決定いたしました。

さて、その本部から見本が送って来られたマークのバッチ、
それを門脇観次郎さんが御覧になって、
「オヤ、このマークは何時か見たことがあるぞ。
大分前に見たがなあ』と考え出されまして、
生長の家の神様はどんな神様かお姿を拝ませて下さいと、
四年前に祈った時に観世音菩薩が姿を表わされたが、
その観音様は冠(かんむり)を被(かぶ)っておられたが、
冠の真中にこれと同じマークがついておったということを
思い出されたのであります。
それで門脇観次郎さんは、生長の家の神様として
出現せられた観音様は、あのマークが人間界に現れる迄の
四年前に、巳(すで)にあの生長の家のマークを
着(つ)けておられたのだから、
矢っ張り観世音菩薩は本当に生長の家の神様だと、
こう感じたのであります。

この神秘的体験によりまして、何が分るかと言いますと、
人間界にあるいは現象界に現れているところの出来事は、
巳に“霊の世界”あるいは“心の世界”に
先(ま)ず作られたものが、それが形に映(うつ)って
来るのであって、現実世界に先立つ靈の世界、
心の世界というものがあるのだということを
現しているのであります。

だから我々は現象世界又は現実世界を善くしようと思っても、
その物質と見えている現象ばかり追いかけておって、
心の方をおろそかにしておったらどうにも
現象世界はうまく行かないのであります。
地上に於いて何事にても成就しようと思ったならば、
心の世界に於いて善きものを描かなければならない
というわけであります。》

(『奇蹟を生ずる実相哲学』上巻 136〜138頁)

私(はうら ひとひら)は下記添付しました、
マークの資料を今月から、毎月通信文を送付している
数十名の方に送って『生長の家のマーク』を
正規品に戻すための、活動をしてまいります。

皆様もどうぞよろしくお願い申しあげます。

画像はクリックすると拡大します。



はうら ひとひら様 (62560)
日時:2024年01月09日 (火) 05時39分
名前:志恩

(はうら ひとひら様ー)
>『生長の家のマーク』についてスレッドを立ち上げさせて
いただきますこと、感謝申しあげます。<

志恩ー
お正月明けになりました。
はうらひとひら様は、活動を開始されまして、心強く存じます。

はうら様が立てられたここの、親スレッドの主旨は、
最初のスレッド(61091)に、
以下のように、はうら様が、書かれておられるとおりです。

(はうら様ー)
>現在使用されている『生長の家のマーク』は
本部であれ、総本山であれ、地方の教化部であれ、什一会員証
としての色紙のマークであれ、霊牌(れいはい)に冠された
マークであれ、そのほとんどが、理念としての正規の
マークではないという事である。
(形状と色彩)

その為、『生長の家』が分裂し、凋落(ちょうらく)し、
それを象徴するように、竹島の問題、尖閣諸島
(せんかくしょとう)問題、北方領土問題等が起っているという。
それは『生長の家のマーク』で中央に八角形の緑色のマークが
ありますが、これは十字(キリスト教)の四両端に切り込みを
入れて、八角の星の象をしているが、八角は大八洲
(おおやしま)の象徴であり、大八洲は日本の事であり、
宇宙の中心座に日本が位置して、万教を一つの中心に帰一
しているという象徴である。その大八洲が変形されたまま
現在に至っております。

先ず、この事実を知っていただき、それからどうしたら、
正常な理念のマークにもどせるか、を皆様と共に考えたいのです。<


志恩ー
それで、はうらひとひら様は、この件を、諦めずに、今年こそ
生長の家のマークを正常なマークに戻したいというお考えの元、
活動をスタートされたのですね。

(はうら様ー)
>私(はうら ひとひら)は下記添付しました、
マークの資料を今月から、毎月通信文を送付している
数十名の方に送って『生長の家のマーク』を
正規品に戻すための、活動をしてまいります。
皆様もどうぞよろしくお願い申しあげます。<


ありがとうございます。

大八洲(日本国)外伝 (62637)
日時:2024年01月14日 (日) 14時29分
名前:はうら ひとひら


あのアインシュタインの有名な説についての異説です。
裏が取れているわけでもなく、
もしかしたら学者さんの机上の空論か
もしれませんし、ましてや尊師の論述に異を唱える
ものでもない事を初めにお断りしておきます。
箸(はし)休め、テイータイムの一時として聞き流して頂ければ、嬉しいです。(誰が言ったかではなく、
その内容を吟味すべきであると思った次第です。)

《 世には大蔵経(だいぞうきょう)を初めより終りまで
悉(ことごと)く読破し、その一々(いちいち)の
言句(ごく)の考証、由来、解釋、字義(じぎ)等詳細を
極めながら、実際生活にそれを応用する段になると、
用不者(やくにたたぬ)、病気の問題一つも解決し得ないで、
右往左往(うおうさおう)する佛教学者もいる。
だから現在の寺院佛教は衰退してしまって、
徒(いたづ)らに葬式屋と化し、諸方の佛教大学の教授も
生徒も概(おおむ)ね字義詮索(じぎせんさく)の
シミと化して了(しま)っている。》

(一部現代語等使用いたしました。)
(『無門関解釋』 63頁)

昭和九年頃のことであった。
大阪に熱心な生長の家の信徒で、
生長の家誌友連合会の会長をしていた
門脇観次郎という人がいた。
この人は当時の神戸高等商船学校の教授であった。
熱烈な「法華経』の信仰をもっていた。

(『生命の實相』頭注版 68頁)
(『新版 真理』134.135.139.141頁)

また田中智学(ちがく)について日蓮主義を学んだ。
(裏が取れていません。)

(田中智学:国柱会(こくちゅうかい)創設者。
日本仏教における日蓮の妙法蓮華経(法華経)
至上主義の佛教思想を体系化した一人。
 日本書紀の「八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)にせしむ」、
から「八紘一宇(はっこういちう)」を唱え
当時の軍部に利用された。
高山樗牛(ちょぎゅう)、宮沢賢治、石原莞爾(かんじ)など熱心な信徒が多かった。
血盟団の行動の元ともなった。)

門脇氏は生長の家に入信前は、
慢性中耳炎、慢性胃潰瘍、糖尿病、神経痛を患っていたが、
『生命の實相』を拝読して病がすべて消えてしまった。
同時に『法華経』の意味が一層詳しく判った。
特に普門品(ふもんぼん)第二十五にある観世音菩薩の
功徳が詳しくわかり、観音信仰をして、
自宅に観世音菩薩を祀って堅信(けんしん)を得られた。

或る日、神想観をして『生長の家の神様の相(すがた)
を拝ましてください」と熱心に祈り、
空中に観世音菩薩像が現れた。
このことで門脇氏は住吉村に尊師を訪ねて意見を求められた。

そして生長の家のマークが地上にできた四年前に
このマークが観世音菩薩の頭上の宝冠の中央に
この神の理念の象徴である印、大宇宙を包含し、
万教帰一を表現する神秘な力をもつ
『生長の家」のマークが出現したのを確認されている。

(『聖經 甘露の法雨」は上記の「法華経」普門品第二十五
に由来している。)
(『新講 『甘露の法雨』解釋 4頁)

《 世界の未来は進むだけ進み、
その間幾度も争いが繰り返され、最後に戦に疲れる時がくる。
その時人類は必ず誠の平和を求めて世界的盟主(めいしゅ)
をあげねばならぬ時がくる。
この世界盟主なるものは、武力や金の力ではなく、
凡(あら)ゆる国の歴史を抜き超えた最も古く
又尊い家柄でなくてはならぬ。
世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。
それはアジアの高峰(こうほう)日本に立ち戻らねばならぬ。
吾々は神に感謝する。
天が吾々に日本という尊い国を作って置いてくれたことを。》

上記は、世界最高の知性だと称(い)われている
相対性原理の発見者たる最高の科学者にして哲学者である
アインシュタイン博士の意見である。

(《秘められたる神示』 170頁)

ここから以降は裏が取れていません。

(視点連載73『視点・特別編』
【アインシュタインと日本】
中澤英雄:東京大学大学院教授寄稿

要旨
アインシュタインは親日家であるが、
日米開戦の前年の昭和15年に、
改造社社長の山本実彦がプリンストンの
アインシュタインを訪れた時、山本に
「日本人は正直でもあるし、親切でもあるが、
国家的に仕事をする時はあまりにもかけ離れたことをする。
そのコントラストがひどすぎる。
なぜ国として動く時そんなにも他の国々に嫌われる様な
ことをしなければならないのか」と。
だから、アインシュタインが、
日本が「世界の盟主」になる事を期待するはずはない。

紆余曲折(うよきょくせつ)があるが、
ドイツ人シュタインがその原案のようなものを
1887年海江田信義子爵(西郷隆盛や大久保利通の友)
にウイーンのシュタインのもとで憲法に関する講義をした時に、
したとされている。
しかしそのなかに世界の盟主という言葉は
なかったという。

その「世界盟主論」を唱えたのは、
田中智学であり、神武天皇の建国神話と
日蓮の預言とを結びつけて、
シュタイン(ローレンツ・フォン・シュタインではなく)
アインシュタインの預言として世に広めたという説である。

《 島々の名は略しますが、最初お生みになった一群の島が
大八洲(おおやしま)と申しまして、
現在の日本の諸島でこれが世界国土の中心生命地帯で、
喩(たとえ)えて云えば細胞核のような所であります。》

(『古事記と日本国の世界的使命』34頁 光明思想社刊行)
(『生命の實相』神道篇)

尊師は先の戦争は、人類の自壊作用であるとし、
日本がキリストのように磔(はりつけ)にされながら、
アジアの民族の解放にただ一人立ち向かったとされています。

ここは現象を超えて霊的に見ないと、
光と闇は切り分けられないと思います。

誤解のされやすい文面ですが、皆様のご指導の程お願いいたします。(こんな説もありましたという亊で)

ありがとうございます。


はうらひとひら様   (62658)
日時:2024年01月15日 (月) 05時09分
名前:志恩

仏教に関することにも含蓄の深い はうら様でいらっしゃいます。
アインシュタインが親日家だったことは、谷口雅春先生も
書いておられましたから存じておりますが、
上記に はうら様が、書かれたことにつきましては初耳でした。

(アインシュタインの名言より:
「人の価値とは、その人が得たものではなく、
その人が与えたもので測られる。」)


生長の家のマークにかかわる重要人物である門脇氏に関する
ことも、ちゃんと、生長の家の著書に書いてあるのですね。

いろいろと教えてくださって、ありがとうございます。


>門脇氏は生長の家に入信前は、
慢性中耳炎、慢性胃潰瘍、糖尿病、神経痛を患っていたが、
『生命の實相』を拝読して病がすべて消えてしまった。
同時に『法華経』の意味が一層詳しく判った。
特に普門品(ふもんぼん)第二十五にある観世音菩薩の
功徳が詳しくわかり、観音信仰をして、
自宅に観世音菩薩を祀って堅信(けんしん)を得られた。

或る日、神想観をして『生長の家の神様の相(すがた)
を拝ましてください」と熱心に祈り、
空中に観世音菩薩像が現れた。
このことで門脇氏は住吉村に尊師を訪ねて意見を求められた。

そして生長の家のマークが地上にできた四年前に
このマークが観世音菩薩の頭上の宝冠の中央に
この神の理念の象徴である印、大宇宙を包含し、
万教帰一を表現する神秘な力をもつ
『生長の家」のマークが出現したのを確認されている。

(『聖經 甘露の法雨」は上記の「法華経」普門品第二十五
に由来している。)
(『新講 『甘露の法雨』解釋 4頁)<



親日家だったことでも有名なアインシュタイン博士は、
人なつっこい、こんな愛らしいお顔をされたお方だったんですね。

地上のマークの図案者 (62973)
日時:2024年02月01日 (木) 16時57分
名前:はうら ひとひら


地上の『生長の家のマーク』の図案者について。

山根八春(やまねやつはる)

(1886年-1973年)は日本の彫刻家。
島根県松江市出身。八春は(はっしゅん)とも読む。
帝國美術院展覧会(帝展)審査員。生長の家の徽章。
一畑薬師寺の内陣の欄間・木彫十三面花鳥額を製作。
故郷にある松江市立古江小学校の校庭に建つ忠魂碑にも
八春作レリーフが刻まれている。
(ユニオンペデイア)

《 ところで東京に出て万教帰一運動を大きく
展開するためには、生長の家の万教帰一を
標榜(ひょうぼう)する(しるしとしてかかげる)
旗幟(はたしるし)をつくらねばならぬと云うので、
そのマークを創(つく)ることになりました。
当時、帝展の彫刻部の審査員をしておられた
山根八春先生は、その妹、よしのさんが
十八年間一種の悪魔の如き幻覚(ほかの人には見えないのに、
自分だけ実際アルように見えるまぼろし)を見て
夜となく昼となく苦しめられる神経病で、
あらゆる医療法、民間療法、精神療法、仕事療法等
やって来られたが、それでも治(なお)らなかったのに、
生長の家でお治りになったような因縁(いんねん)から、
生長の家に熱心になっておられましたので、
此の八春先生にお願いして万教帰一の象徴になる
マークを図案して頂きました。
それが唯今の日章旗の中に卐字(まんじ)及び
星形の十字のあるマークであります。
日章旗は神道をあらわし、卐字は佛教をあらわし、
十字はキリスト教をあらわし、日本の三大宗教を
一つに帰一したことをあらわしているのであります。》

(『新版 真理』第3巻 138頁)


はうらひとひら様 (62985)
日時:2024年02月02日 (金) 07時07分
名前:志恩

はうら ひとひら様

地上の『生長の家のマーク』の図案者・【山根八春】様についての
詳しい情報を教えてくださいまして、誠にありがとうございました。

生長の家のマークが、もともとの正しいマークに戻るといいですね。

万教帰一の事 (63293)
日時:2024年02月11日 (日) 16時40分
名前:はうら ひとひら


『生長の家のマーク』は、万教帰一のシンボルです。

教団が今の聖光録と位置付けている
『“新しい文明”を築こう”』上巻(監修 谷口雅宣)には
下記のように記載されています。

『生長の家のマーク』は、万教帰一と万物調和を
表象(ひょうしょう)しています。
まず、万教帰一の表現としては、外側の赤い部分が神道を表し、
その内側の白い「卐(右万字)」が仏教を表し、
中央の緑色の星が十字架をアレンジしてキリスト教を
表しています。
また、赤い光輪の外縁からは三十二の“炎(ほのお)”が
外へ伸びていますが、これは仏の三十二相を表しています。
これらによって、世界の宗教が説く教えの神髄(中心)は
一つであり、各宗教がお互いを尊重し特徴を
認め合うことによって、互いに平和共存する
姿を示しています。』

(『“新しい文明”を築こう”』上巻 82頁)

しかし、今一つ焦点が合わない感じがする。

 《 【何故、万教が帰一するのか】

釈尊でもイエスでも、自分で教(おしえ)を書かなかった
ことはまことに残念なことである。
それだから、それを伝えた人たちの悟(さとり)の程度や、
聞違いや、伝え誤りや色々のものが混入しているのである。
そこで一ぺんそれらの混入物を取除いて
本当の純粋な人間を救う真理だけを抽出(ちゅうしゅつ)する
必要があるのであります。
経文や聖書の章句のどこに重点を置くかによって
諸宗諸派がわかれて来ることになるのであります。
併(しか)し諸宗、諸派に分れた宗教も、
偏(かたよ)ったところに重点を置かないで、
生粋(きっすい)の真理だけに重点を置くことを見出すならば、
諸宗諸派は共通の同一真理に到着するのであります。
これを生長の家では“万教帰一”といっているので
あります。・・・・・・

どの宗教も人間の魂を救う力があるとするならば、
すべての人間はその生理的構造や形態が同一である
点から見ても、一つの同じ神秘力(これを神と称しても、
久遠の本仏(ほんぶつ)と称しても、ゴッドと称しても、
それは人種により宗教により、人間が勝手に名称をつけるので、
何と名附(なづ)けようとも好い)
から生まれたということは明かであります。
だからそれを救う真理は、宗教、宗旨、教派等の
名称教義に拘(かかわ)らず、
同一の真理であるということであります。・・・・・

そして真に各宗に共通的な真理こそ本当に、
“人間を救う真理”ーーそれがなくては人間は救われない
というところの真理ーーなのであります。
万教帰一というのは、生長の家では、
このようにあらゆる宗教に共通する真理を純粋に抽出して
それを説いてあらゆる宗教の神髄は
共通同一の真理に帰一するということを示すのであります。
だから、生長の家に入教なさいましても、
本尊は宇宙を貫いて存在する「生命の本源者」でありますから、
それは仏教では大日如来とも阿弥陀仏とも称する訳であり、
キリスト教では“天の父”又は“神”であり、
神道では天之御中主神ーーその御顕現としての天照大御神・
住吉大神・鹽椎神(しおつちのかみ)であり、
マホメット教ではアラーの神であり、名称は異なれども、
その御本体は同一でありますから
改宗する必要はないのであります。》

(『女の生き甲斐』229〜231頁』

それを顕現し行動する為に私達は今ここにいると思います。

【 生長の家教規(注:憲法というべきもの)

】第2章 目的
第2条

《 この宗教の設立の目的は次の通りである。
(1)谷口雅春創始の、生長の家の教義に基き、
その主著『生命の實相』を鍵として、
万教共通の宗教真理を開示し、これを宣布することによって、
人類光明化につくすこと。

第5章 教義
第5条

《 本教の教義の大要は世界のすべての宗教は
唯一の本源より発するものにして、
万教は唯一の真理に帰一し、人間救いの原理も唯一にして
ニあることなきを宣説するものにして、
教えの創始者谷口雅春の唯神実相の神学を鍵として
全世界の経典の真義を顕示して人生に
光明あらしむるものである。
教義の根本たるものは『生命の實相』巻頭の
「『七つの燈台の点燈者』の神示なり。
曰くーー汝ら天地一切のものと和解せよ。
(大調和の神示、全文です)》

ありがとうございます。

 

雑味を混入してはならない (63294)
日時:2024年02月11日 (日) 17時28分
名前:元信徒


お釈迦様の言葉を弟子が伝えるしか無かった昔と違い、
今は雅春先生の本がありますからそれは絶対の聖典で、それ以外は参考程度に考えないといけないと思います。

私が、本部勤めで嫌だった事は、
雅春先生の光明法語があるのに、清超先生の日々の言葉と一日おきに職場で読んだことです。雅春先生の言葉には神様が乗っていますから、悪いけど清超先生とは段違いで、清超先生の日々の言葉を読んだ日の朝礼はさほど嬉しくはならなかった。

こうやって、教えから少しずつ離れて行くのではないだろうか、と感じていた。

純粋に雅春先生のみから純粋に教えは真剣に学ばないとならないと思う。

雅春先生時代の聖典や徽章は大事にそのまま使用すべきですね。





はうら ひとひら様 (63296)
日時:2024年02月11日 (日) 18時18分
名前:志恩

(元信徒様ー)
>前略
こうやって、教えから少しずつ離れて行くのではないだろうか、と感じていた。
純粋に雅春先生のみから純粋に教えは真剣に学ばないとならないと思う。
雅春先生時代の聖典や徽章は大事にそのまま使用すべきですね。<

志恩ー
結論は、元信徒様がおっしゃる通りだと存じました。

はうら様は、雅宣さんの著書もちゃんと読んでいらっしゃるのですね。
教団が今の聖光録と位置付けている

>『“新しい文明”を築こう”』上巻(監修 谷口雅宣)には
下記のように記載されています。

『生長の家のマーク』は、万教帰一と万物調和を
表象(ひょうしょう)しています。後略<

生長の家のマークについても雅宣さんは書いておられますのに
なぜ、生長の家のマークは、変えてしまったままなのでしょう。
早急に元へ戻すべきだと存じます。

はうら様は、谷口雅春先生の実相哲学の根本的な
ことを、理解されていらして、述べておられますものね。

生長の家マークは、元へすぐに戻すべき時代に入って
いるのだと思います。

先ず あたりまえの事を (63585)
日時:2024年02月25日 (日) 21時29分
名前:はうら ひとひら


(今回の投稿の内容で、不快感をもたれる文がありましたら、
無学の者が一方的な思い込みで書き込んだものであり、
特定の組織や団体、個人を批判しているものではない事を、
申し述べ最初にお詫びさせていただきます。
なにしろ低学歴、浅学、生長の家の信徒といいながら、
練成会などに一度も出席した事のない者の戯言ですので。)

・「生長の家のマーク」を弊誌友会の方に送付した感想

*実に詳細な「生長の家のマーク」の資料です。
*「生長の家のマーク」の説明は大変わかりやすい。
星のマークは、十字架の印でもあるのですね。
正規のマークに比べて、大八洲が小さいですね。
是非正常な形に戻されますよう、念じます。

この「生長の家のマーク」の資料を再掲載させて
いただきますが、右下の正規色の形状が赤色も緑色の
どちらも極度に歪んで書き現しています。
それは一見するとすぐわかるのですが、
正規のマークと現在使用されているマークは、
余程注意しないと、縦、横の星の幅よりも、
右上から下への斜めの幅が狭い事がわからない。
そして今回ある方が指摘されたように、
大八洲が正規品より小さい事です。
事の発端は、色がまちまちだったので、
色見本帳を添付して尊師にご指示を仰いだ時、
(昭和53年6月)尊師は色の事よりも先に、
マークの図案に触れられて
「中央の緑の星は大八洲を顕しているのであるから、
八つの角の幅がすべて等しくならなければならないが、
これは斜めの部分の幅が、縦と横の幅より狭くなっているから、
斜めの方向も等しくなるようにして下さい。」
とご指示。そしてご指示通りのものが製作され、
昭和53年11月落慶の総本山の出龍宮顕齋殿のマークは
総べて正規のマークで造られた。
しかしまたいつのまにか、歪んだマークにされて、
現在に至っている。何故なのか。
争いを好む波動の人が、生長の家の組織内にいる
という亊なのだろうか。
一刻も早く正規なものに戻されるべきである。

現在の聖光録と位置付けている
『“新しい文明”を築こう上巻 
基礎編 監修 谷口雅宣』

の82頁で
「生長の家のマーク」の由来に言及した後83頁で
「海外においては、ブラジルではこのマークが広く
受け入れられましたが、欧米諸国では、
マークの白い部分が鉤(かぎ)十字
(ハーケンクロイツ、ナチスのシンボルマーク)
に似ていることから、忌避(きひ)される傾向がありました。」
と結んでいる。
それで1993年(平成5年)「国際平和信仰運動」
を開始したことを受けて、白鳩がシンボルマークとしたという。

私(はうら)は、そのマークを正規なものにする為の
準備資金として、一人千円程の献資の提案をしていますが、
賛同される信徒が「聖使命会費」を一時停止しても、
こちらの正規のマークの為に、浄財を振り向ける必要性を
感じています。
(あくまでも、個人の思いです。)

・教化部からの案内で
「立教95年生長の家春季記念日
生長の家総裁法燈継承記念式典」
を3月1日に行うという。
・「生長の家」出現の精神とその事業
 白鳩会総裁 谷口純子先生

・お言葉 総裁・谷口雅宣先生

私(はうら ひとひら)の「生長の家」への思い。

『生命の實相』頭注版 第1巻
 表紙の扉の次に(昭和10年1月25日発行の同書も同じ)
(序文より前書きより目次より前に)

《 われ振り反(かえ)りて我に語る声を見(み)んとし、
振り反り見れば七つの金の燈台あり。
また燈台の間に人の子のごとき者ありて
足まで垂(た)るる衣(ころも)を着、
・・・・
我これを見しとき其(そ)の足下に倒れて
死にたる者の如くなれり。
・・・
「懼(おそ)るな、我は最先(いやさき)なり、
最後(いやはて)なり、活(い)ける者なり。
われかって死にたりしが、
視(み)よ世々(よよ)限りなく生(い)く。
・・・・》

(『生命の實相』第1巻扉の次の頁)
『黙示録』第一章、十二節―二十節)

私(はうら)の勝手な解釈

『ヨハネの黙示録』は新約聖書の一番最後の書です。
キリストの証人として、迫害を恐れず
毅然と対峙(たいじ)し信仰に生き抜くべき事を述べています。
最後の審判が書かれております。
終末期混乱の中にあった人類、
そこで『生命の實相』が登場し、
「ノアの方舟(はこぶね)」で人類を救済し、
聖書の完成をし、地上天国建設の成就のために出現した。
「人の子のごとき者」とは「久遠のキリスト」であり
「七つの燈台の点燈者」とはすなわち、
生長の家の大神である。
「死にたる者の如き」とは現象的に死にきった時、
復活して永遠の生命(いのち)を得ることである。
最後にして最高の教えの出現である。

《 ますます唯物論経済社会の末期に入ってきまして、
人間の心がたがいに闘(たたか)い、
人間の心の迷い、心の争いがますます盛んになってきますと、
われわれの周囲の世界は
われわれの念の投影でありますから、
階級と階級と相闘い天変地変相ついで起こり、
ついに「迷い」の一掃(いっそう)自壊を起こして
来るのであります。
この時に、神の指図(さしず)によって
造られたノアの方舟(はこぶね)に乗っていた者だけが
助かるということがここに預言されているのであります。
ノアの方舟というのはなんであるかといいますと、
方舟というのは神の教えの船ということである。
・・・・
『創世記』の価値は、宇宙創造の実際と、
「無明(むみょう)」の贋創造(ぎそうぞう)と、
「無明」の発展集積と、その発展集積の後
自然に土崩自壊(どほうじかい)するところの
いわゆる「ノアの洪水」と、
その救いの願船(がんせん)「ノアの方舟」
(生長の家)の出現が予言せられている点であります。》

(『生命の實相』頭注版 第11巻 118.119頁)

・生長の家の立教から15年、
敗戦から3か月後に垂(た)れられた神示
『終戦後の神示』によって今まで
「七つの燈台に燈(ひ)を點(てん)ずる者」と
名乗られていた神が、初めてその名を
「鹽椎神(しほつちのかみ)」と名乗られた。
そのお働きは、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
を龍宮海(りゅうぐうかい)にご案内し、
一切の創造(うみ)の神であるから無にして
無尽蔵(むじんぞう)。
キリストはわれの別名と垂示(すいじ)。
『「新講 甘露の法雨」解釋』20.21頁で
この神の別名は住吉大神(すみのえのおおかみ)
(生長の家の大神)であり、
尊(みこと)は神武天皇の祖父君にあたられる方と
ご教示。

それは昭和10年1月25日刊行された
黒表紙版『生命の實相』第1巻以降掲載されている
、表紙のすぐ次に(目次や神示や序文より前に)
突如として出現する「ヨハネ黙示録」
第1章の白髪の老翁(ろうおう)なるキリストと
神意に基ずいて邂逅(かいこう)することになったのである。
救済は時空を超えて成(な)る。
因みにこの黒表紙版の『生命の實相』の裏表紙に
正規の「生長の家のマーク」が刻印されたように
厚い布にしっかりと定着されていて、
表表紙は三本の金の光線が雲間から降り注いで
畏れ多い感じを受ける。
 「久遠天上理想國実現の神示」には
「高天原(たかあまはら)―瑞穂(みずほ)の国
―生長の家―この三つは三位(さんみ)にして
一体である」とご教示されている。
すなわち大宇宙・真理国家なる日本国・生長の家は
一体であると示されている。
その象徴としてのマークが歪められているのである。

・『生長の家』機関紙
 令和4年1月号25頁に
生長の家 総裁 谷口雅宣先生の
「生長の家代表者ネットフォーラム2021」

の発言内容「論理的思考」の重要性が記載されている。

総裁先生は、お言葉の中で、運動方策の前文に示されている
「論理的思考」を「法則を理解し、
正しく表現すること」と定義され、
今後の生長の家の運動で必要になることを強調されました。
論理的思考は誰でも持っているが、
宗教では「信仰心」を優先してきた歴史があるため
蓄積が足りないとご指摘。
今後は生長の家において、聖典等に書かれていても
今日の科学的根拠と一致しない記述を
そのまま引用して教えを説くことをやめ、
現実生活で行う運動に則するために、
論理的に考え、伝える方法を身につける必要があると
教示されました。とある。

これに早速飛びついて、聖典の内容をみなおして、
地方講師に伝える必要があると、教区の講師会会長。
「今の教え」を地方講師に3年以上かけて徹底させた。
そして「石上げのみ祭り」などを先頭で行っている。

実相哲学が理解出来なければ、
このような発言は当然出てくる。
眼に見えるもの、物理学で証明出来るものだけを、
説けという。
尊師の聖典の内容は、この基準でいくと、
ほとんど除外され排除される。

命がけで、自分と向き合い、死を覚悟して、
使命がなければこの生命(いのち)無くなってもよい、
と追い込んで復活する道がある。

このような物質論理の事を言う人の、
周囲にも責任の一端があると思う。
(自分を当然含めて)甘やかされて、
現象だけを見て、人生楽勝と思っている人は、
逆に可哀想な気がする。
せっかくの最後の最高の究極の教えを前にしてである。
原因-結果の因果の法則のみに縛られて生きるのである。

弊誌友会1月度で、メールで出席された方が

「機関紙12月号(令和5年)によりますと、
総裁は谷口清超先生15年祭(10月28日)のご挨拶の最後に、
参列者に谷口恵美子先生のご昇天を報告、
参列者とともに一分間黙禱されたとの記述があります。
教団葬はなさそうですが、
総裁にとってはご母堂へのこの黙禱が
大調和の神示にある“汝らの父母に感謝”の
実行なのですね。」と言われてきました。

私(はうら)は何の返事も出来ませんでした。
大変申し訳ございません。
あたりまえの事も出来ないことに。
心が痛いです。我々(私)は何をやってきたのだ、と。

《  生命の実相の自性円満(そのままでえんまんなこと)
を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いて
メタフィジカル・ヒーリング(神癒(しんゆ))となります。》

(『生命の實相』頭注版 第1巻 6頁)

《 人間が物質的存在としての自覚を超えて、
霊的自覚の世界に入(い)るとき
「病気のない世界」に超入するのである。
その時人間は“神癒(しんゆ)”を得る、
即ち超物質的に癒されるのである。》

(『神癒への道』はしがき 1頁)

《 哲学(metaphysics)と云う言葉は
その文字の組み立てが示す如く、
physics(物理学)と云う言葉に
meta(超越する)と云う言葉が結合されている。
従って物理学的なるもの以上のものを意味しているのである。
それ故哲学を生活する又は哲学を行ずると云うことは、
超物質的自覚の下に生活することである。
哲学は吾等が今見るところのもの―現象を
遡(さかのぼ)ってその原因を研究する。
それは現象の究極的な原因と、この世界を顕現して
今ある如き物質的形態にその現象をあらわした法則とを、
探究するのである。
生命の實相哲學が諸君に順次解明せんとすることは、
宇宙の最始源には、ただ「心」即ち超物質的存在なる
「霊」のみがあったと云うことである。》

(『人生は心で支配せよ』13.14頁)

ありがとうございます。






何を考えているのか (63586)
日時:2024年02月25日 (日) 22時23分
名前:本音の時代

>総裁にとってはご母堂へのこの黙禱が
>大調和の神示にある“汝らの父母に感謝”の
>実行なのですね。


純子さんの実家は訪問するのに
自分の母がいる高知には一度も訪問しない。
葬式に出席出来たはずなのに黙禱で済ます。
それが、大調和の神示にある“汝らの父母に感謝”の実行なのですか。
開いた口が塞がらない。
大調和の神示は、雅宣さんの行動を肯定するためにあるのではありません。

はうらひとひら様 (63601)
日時:2024年02月27日 (火) 06時06分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)
>【先ずあたりまえのことを】

(略)
生長の家のマークを
是非正常な形に戻されますよう、念じます。
(略)

昭和53年11月落慶の総本山の出龍宮顕齋殿のマークは
総べて正規のマークで造られた。
しかしまたいつのまにか、歪んだマークにされて、
現在に至っている。何故なのか。
争いを好む波動の人が、生長の家の組織内にいる
という亊なのだろうか。
一刻も早く正規なものに戻されるべきである。

現在の聖光録と位置付けている
『“新しい文明”を築こう上巻 
基礎編 監修 谷口雅宣』

の82頁で
「生長の家のマーク」の由来に言及した後83頁で
「海外においては、ブラジルではこのマークが広く
受け入れられましたが、欧米諸国では、
マークの白い部分が鉤(かぎ)十字
(ハーケンクロイツ、ナチスのシンボルマーク)
に似ていることから、忌避(きひ)される傾向がありました。」
と結んでいる。
それで1993年(平成5年)「国際平和信仰運動」
を開始したことを受けて、白鳩がシンボルマークとしたという。

私(はうら)は、そのマークを正規なものにする為の
準備資金として、一人千円程の献資の提案をしていますが、
賛同される信徒が「聖使命会費」を一時停止しても、
こちらの正規のマークの為に、浄財を振り向ける必要性を
感じています。
(あくまでも、個人の思いです。)

・教化部からの案内で
「立教95年生長の家春季記念日
生長の家総裁法燈継承記念式典」
を3月1日に行うという。
・「生長の家」出現の精神とその事業
 白鳩会総裁 谷口純子先生

・お言葉 総裁・谷口雅宣先生

私(はうら ひとひら)の「生長の家」への思い。

『生命の實相』頭注版 第1巻
 表紙の扉の次に(昭和10年1月25日発行の同書も同じ)
(序文より前書きより目次より前に)

《 われ振り反(かえ)りて我に語る声を見(み)んとし、
振り反り見れば七つの金の燈台あり。
また燈台の間に人の子のごとき者ありて
足まで垂(た)るる衣(ころも)を着、
・・・・
我これを見しとき其(そ)の足下に倒れて
死にたる者の如くなれり。
・・・
「懼(おそ)るな、我は最先(いやさき)なり、
最後(いやはて)なり、活(い)ける者なり。
われかって死にたりしが、
視(み)よ世々(よよ)限りなく生(い)く。
・・・・》

(『生命の實相』第1巻扉の次の頁)
『黙示録』第一章、十二節―二十節)

私(はうら)の勝手な解釈

『ヨハネの黙示録』は新約聖書の一番最後の書です。
キリストの証人として、迫害を恐れず
毅然と対峙(たいじ)し信仰に生き抜くべき事を述べています。
最後の審判が書かれております。
終末期混乱の中にあった人類、
そこで『生命の實相』が登場し、
「ノアの方舟(はこぶね)」で人類を救済し、
聖書の完成をし、地上天国建設の成就のために出現した。
「人の子のごとき者」とは「久遠のキリスト」であり
「七つの燈台の点燈者」とはすなわち、
生長の家の大神である。
「死にたる者の如き」とは現象的に死にきった時、
復活して永遠の生命(いのち)を得ることである。
最後にして最高の教えの出現である。

《 ますます唯物論経済社会の末期に入ってきまして、
人間の心がたがいに闘(たたか)い、
人間の心の迷い、心の争いがますます盛んになってきますと、
われわれの周囲の世界は
われわれの念の投影でありますから、
階級と階級と相闘い天変地変相ついで起こり、
ついに「迷い」の一掃(いっそう)自壊を起こして
来るのであります。
この時に、神の指図(さしず)によって
造られたノアの方舟(はこぶね)に乗っていた者だけが
助かるということがここに預言されているのであります。
ノアの方舟というのはなんであるかといいますと、
方舟というのは神の教えの船ということである。
・・・・
『創世記』の価値は、宇宙創造の実際と、
「無明(むみょう)」の贋創造(ぎそうぞう)と、
「無明」の発展集積と、その発展集積の後
自然に土崩自壊(どほうじかい)するところの
いわゆる「ノアの洪水」と、
その救いの願船(がんせん)「ノアの方舟」
(生長の家)の出現が予言せられている点であります。》

(『生命の實相』頭注版 第11巻 118.119頁)

・生長の家の立教から15年、
敗戦から3か月後に垂(た)れられた神示
『終戦後の神示』によって今まで
「七つの燈台に燈(ひ)を點(てん)ずる者」と
名乗られていた神が、初めてその名を
「鹽椎神(しほつちのかみ)」と名乗られた。
そのお働きは、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
を龍宮海(りゅうぐうかい)にご案内し、
一切の創造(うみ)の神であるから無にして
無尽蔵(むじんぞう)。
キリストはわれの別名と垂示(すいじ)。
『「新講 甘露の法雨」解釋』20.21頁で
この神の別名は住吉大神(すみのえのおおかみ)
(生長の家の大神)であり、
尊(みこと)は神武天皇の祖父君にあたられる方と
ご教示。

それは昭和10年1月25日刊行された
黒表紙版『生命の實相』第1巻以降掲載されている
、表紙のすぐ次に(目次や神示や序文より前に)
突如として出現する「ヨハネ黙示録」
第1章の白髪の老翁(ろうおう)なるキリストと
神意に基ずいて邂逅(かいこう)することになったのである。
救済は時空を超えて成(な)る。
因みにこの黒表紙版の『生命の實相』の裏表紙に
正規の「生長の家のマーク」が刻印されたように
厚い布にしっかりと定着されていて、
表表紙は三本の金の光線が雲間から降り注いで
畏れ多い感じを受ける。
 「久遠天上理想國実現の神示」には
「高天原(たかあまはら)―瑞穂(みずほ)の国
―生長の家―この三つは三位(さんみ)にして
一体である」とご教示されている。
すなわち大宇宙・真理国家なる日本国・生長の家は
一体であると示されている。
その象徴としてのマークが歪められているのである。

・『生長の家』機関紙
 令和4年1月号25頁に
生長の家 総裁 谷口雅宣先生の
「生長の家代表者ネットフォーラム2021」

の発言内容「論理的思考」の重要性が記載されている。

総裁先生は、お言葉の中で、運動方策の前文に示されている
「論理的思考」を「法則を理解し、
正しく表現すること」と定義され、
今後の生長の家の運動で必要になることを強調されました。
論理的思考は誰でも持っているが、
宗教では「信仰心」を優先してきた歴史があるため
蓄積が足りないとご指摘。
今後は生長の家において、聖典等に書かれていても
今日の科学的根拠と一致しない記述を
そのまま引用して教えを説くことをやめ、
現実生活で行う運動に則するために、
論理的に考え、伝える方法を身につける必要があると
教示されました。とある。

これに早速飛びついて、聖典の内容をみなおして、
地方講師に伝える必要があると、教区の講師会会長。
「今の教え」を地方講師に3年以上かけて徹底させた。
そして「石上げのみ祭り」などを先頭で行っている。

実相哲学が理解出来なければ、
このような発言は当然出てくる。
眼に見えるもの、物理学で証明出来るものだけを、
説けという。
尊師の聖典の内容は、この基準でいくと、
ほとんど除外され排除される。

命がけで、自分と向き合い、死を覚悟して、
使命がなければこの生命(いのち)無くなってもよい、
と追い込んで復活する道がある。

このような物質論理の事を言う人の、
周囲にも責任の一端があると思う。
(自分を当然含めて)甘やかされて、
現象だけを見て、人生楽勝と思っている人は、
逆に可哀想な気がする。
せっかくの最後の最高の究極の教えを前にしてである。
原因-結果の因果の法則のみに縛られて生きるのである。

弊誌友会1月度で、メールで出席された方が

「機関紙12月号(令和5年)によりますと、
総裁は谷口清超先生15年祭(10月28日)のご挨拶の最後に、
参列者に谷口恵美子先生のご昇天を報告、
参列者とともに一分間黙禱されたとの記述があります。
教団葬はなさそうですが、
総裁にとってはご母堂へのこの黙禱が
大調和の神示にある“汝らの父母に感謝”の
実行なのですね。」と言われてきました。

私(はうら)は何の返事も出来ませんでした。
大変申し訳ございません。
あたりまえの事も出来ないことに。
心が痛いです。我々(私)は何をやってきたのだ、と。

《  生命の実相の自性円満(そのままでえんまんなこと)
を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いて
メタフィジカル・ヒーリング(神癒(しんゆ))となります。》

(『生命の實相』頭注版 第1巻 6頁)

《 人間が物質的存在としての自覚を超えて、
霊的自覚の世界に入(い)るとき
「病気のない世界」に超入するのである。
その時人間は“神癒(しんゆ)”を得る、
即ち超物質的に癒されるのである。》

(『神癒への道』はしがき 1頁)

《 哲学(metaphysics)と云う言葉は
その文字の組み立てが示す如く、
physics(物理学)と云う言葉に
meta(超越する)と云う言葉が結合されている。
従って物理学的なるもの以上のものを意味しているのである。
それ故哲学を生活する又は哲学を行ずると云うことは、
超物質的自覚の下に生活することである。
哲学は吾等が今見るところのもの―現象を

遡(さかのぼ)ってその原因を研究する。
それは現象の究極的な原因と、この世界を顕現して
今ある如き物質的形態にその現象をあらわした法則とを、
探究するのである。
生命の實相哲學が諸君に順次解明せんとすることは、
宇宙の最始源には、ただ「心」即ち超物質的存在なる
「霊」のみがあったと云うことである。》

(『人生は心で支配せよ』13.14頁)<

志恩ー
>私(はうら)は、そのマークを正規なものにする為の
準備資金として、一人千円程の献資の提案をしていますが、
賛同される信徒が「聖使命会費」を一時停止しても、
こちらの正規のマークの為に、浄財を振り向ける必要性を
感じています。
(あくまでも、個人の思いです。)<

志恩ー
私も生長の家のマークが正規なものに、
戻るといいな、と痛切に
思っております一人なのですが、
一人千円というのは、どこへ振り込めば
いいのでしょうか。

また、生長の家のマークを元へ戻すには、
生長の家教団・総裁の雅宣様が
元へ戻そうと思われて実行されなければ
元へ戻るとは、思えないのですけれど、
その点は、どのようにお考えでしょうか?




本音の時代様 (63602)
日時:2024年02月27日 (火) 06時29分
名前:志恩

本音の時代様ー
何を考えているのか

(はうら様ー)
>総裁にとってはご母堂へのこの黙禱が
>大調和の神示にある“汝らの父母に感謝”の
>実行なのですね。

(本音の時代様ー)
>純子さんの実家は訪問するのに
自分の母がいる高知には一度も訪問しない。
葬式に出席出来たはずなのに黙禱で済ます。
それが、大調和の神示にある“汝らの父母に感謝”
の実行なのですか。
開いた口が塞がらない。
大調和の神示は、雅宣さんの行動を肯定するため
あるのではありません。<

志恩ー
この件につきましては、
はうら様のコメントは、言うまでもなく、
私は、本音の時代様の想いとも一緒です。

ネット時代である今の時代は、
雅宣様のネット上での発言と同時に、
どのように実践されて
いらっしゃるかということまでも、
日本全国だけでなく世界中の信徒の皆様に
知れ渡る時代になりました。

昨年の10月22日に雅宣様の御母堂様でいらっしゃいます
谷口恵美子先生が、満100歳で、
ご逝去されました時、
雅宣様ご夫妻は、ご臨終の時も
お見舞いに行かず、高知県でのご葬儀の時も、
参列されなかったことは、幹部の皆様、信徒の皆様の間で
今は、知らない人がいないくらいに知れ渡っております。

教団の行事の時に、
雅宣様は、
黙祷を信徒の皆様におさせになったり、
信徒の皆様に、恵美子先生に対する哀悼の言葉を
書かかせたり、その後、雅宣様は、されましたが、
それで、雅宣様ご夫妻が、恵美子先生の葬儀にも
出なかったことが、帳消しになったのかどうかまでは、
知る由もございません。
以前、お山時代に恵美子先生幽閉事件もございましたしね。

谷口恵美子先生は、谷口雅春先生輝子先生の
大事な一人娘さんで、
雅宣様の母上様で、
前・白鳩会総裁という要職に
つかれていらした最重要なお方様です。

恵美子先生のことは、宮澤先生ご夫妻や谷口家の
雅宣様以外のご兄弟姉妹の皆様で丁重にご葬儀、
その他のこともされましたが、

教団としても、恵美子先生を、
丁重にお祀りしていただきたいと
信徒たちは皆、雅宣総裁ご夫妻に希望いたしております。


志温 様 (63615)
日時:2024年02月27日 (火) 20時03分
名前:はうら ひとひら


志恩 様

「生長の家のマークの件」でお問い合せいただきまして、
ありがとうございます。
そのweblog(ブログ)コメントで、谷口恵美子先生の事が
記述されておりますが、驚いた事があります。

阪田先生発行の『光明(ひかり)の音信(おとづれ)』
第32号で、

『恵美子先生のお写真と尊師が輝子先生が
妊娠されている時に「聖キアーラ」という聖女の壁画の
写真を壁に貼って毎日見詰めるようにされた』
(『光の泉』昭和33年1月号)
という紹介文があり
同紙第34号で

紹介された「聖キアラ」の肖像画がまったく
と言ってよい程、恵美子先生に似ているのです。

何を申し上げたいかというと、正しい願いは必ず成就する
という亊の、一つの証(あかし)です。

『生長の家のマークの正規品』は本部に帰属するものでも、
ましてや総裁に帰属するものではないと思います。
信徒全員のものです。(以前信徒だった方も含めて)
正しい想念は成就、実現すると思います。

・問題は解決する為にある。
(『新版 生活と人間の再建』220頁)

添付しました図のコメントで
「われら観世音菩薩の御使命を分(わか)ち有(も)ちて」
と記載させていただきましたが、

《・・・その観世音菩薩が生長の家の本尊神であり、
その観世音菩薩の使命を分ち享(う)けて立つ
“虚無を克服すべく集った諸菩薩”が
吾々生長の家の信徒であるのである。》

(『聖道へ』 323頁)

1.先ず多くの信徒の皆様にこの「生長の家のマーク」が
歪められている事を知ってもらう事が必要だと思います。
その為の手段・手法、方法が必要です。

2.その上で、数人でもよいので、正規品に戻すための準備委員会
のようなものを作って、WEBで方法・道程等を討議し、発表する。
(ZOOMでの場所提供はこちらでも出来ます。)

3.クラウドファンデイングは、目的、透明性が必要です。
監査人を置き、その上で必要な費用を献資を皆様にお願いする。
その一方法としての、振込先選定等だと思います。
(私が振り込み口座が必要であれば、用意出来ます、
という亊は、そのような意味です。)

浄財ですから、大切に心を籠めて、目的の為だけに
使わせていただくものですから。

4.先ず各人が出来る所から実行していく。
正規品のマークの紙を貼ってもいいと思います。
そこから燎原の火のように、広げていきたいのです。
オール信徒によって。
必ず正規のマーク復活・復元は成就いたします。

お答えになっていないかもしれませんが、私の思いです。
大先輩に対しまして、失礼な発言がありましたら、
お許しください。

いつもありがとうございます。




観音妙智観 (63995)
日時:2024年03月18日 (月) 15時38分
名前:はうら ひとひら


『生長の家のマーク』の発案者は
観世音菩薩でありますが、
佛教的には『生長の家』の本尊です。
観世音菩薩は三十三身に身を変えて、
人類を救済しようとされていますが、
宇宙浄化の智慧でもあります。

ところで、『日々読誦三十章經』の
三日の經言(のりごと)に
「観音妙智観」があります。
『日々読誦三十章經』(昭和25年7月初版)の
理論づけとして、
『人生は心で支配せよ』(昭和63年11月初版)
があるとされています。
されている、と言ったのは、少し説明を要します。
上記の説明では、時間的ずれがあり整合性がとれない.

そこで『人生は心で支配せよ』の前に
なにか著わされたものがあるはずです。
『如何にせば運命を支配し得るか』(大正14年6月初版)
がありますが、(ホルムスの思想に示唆を得たとされる)
ここが起点であるらしい。

しかし尊師の思想が進歩して、
このホルムスの思想に疑問を感じ、
全て書き直したのが、『人生は心で支配せよ』であったという。
これで、時間軸が整理された事になります。

尊師のたゆまぬ求道精神に頭が下がります。

【観音妙智観】(『人生は心で支配せよ』より謹写)

《 黙念中に観世音菩薩の力を念ぜんとする者は
次の如く念ぜよ。

「吾れはいま吾が住む世界を観音妙智力(みょうちりき)
の表現であると観ずる」。
み空の星は観世音菩薩がわれを看(み)まもり
たまう瞳である。梢(こずえ)に鳴る風の音、
小河の潺々(せんせん)たる囁(ささや)き、
これら全ては観世音の吾れに告げ給う御言葉である。
自然界の凡(あら)ゆる力は吾れを生かそう生かそう
としている顕(あらわ)れである。
吾が住む世界は最早(もはや)未知の世界ではないのである。
吾れはこの世界を理解し、
この世界は吾れを理解している。
それ故に吾れは今より恐るるところはないのである。
吾れはいま宇宙に遍満(へんまん)し給う
隠れたる力の泉を汲(く)む。
吾れはいま宇宙の凡(すべ)ての力と調和している。
吾れは今真(まこと)に「愛」そのもの「智慧」
そのものに導かれて平和の道を歩んでいるのである。

観音經には
「或(あるい)は怨族(おんぞく)の繞(かこ)みて、
各々刀を執(と)りて害を加うるに値(あ)わんにも
彼(か)の観世音の力を念ずれば、
ことごとく即(すなわ)ち慈心(じしん)を起こさん。
呪詛(じゅそ)諸(もろもろ)の毒薬もて
身を害せんと欲する者あらんにも、
彼の観世音の力を念ずれば、還(かえ)りて
本人に著(つ)きなん。
若(もし)くは悪獣に囲繞(いにょう)せられ、
利(と)き牙爪(げそう)の怖(おそ)るべき
あらんにも彼の観世音の力を念ずれば、
すみやかに無辺(むへん)の彼方(かなた)に
走り去らん」と書かれているのである。

観世音菩薩は宇宙浄化の智慧であり、
宇宙を育(はぐく)みたまう大慈悲である。
吾れ観世音菩薩と倶(とも)なるが故に、
吾れに坑(さから)う力は何処(どこ)にもないのである。
観世音の大慈悲はいま吾れを愛したまい、
吾れを導きたまい、
吾れに新しき生命を与えたまう。
観世音の妙智力はすべてのものに宿りたまう。
それ故に吾が世界の一切は調和しているのである。》
(『人生は心で支配せよ』53.54頁)

(上記ご文章は、『日々読誦三十章經』の三日の經言と
微妙な点で異なっていて、尊師の息遣いが感じられます。)

ありがとうございます。



はうらひとひら様 (64011)
日時:2024年03月19日 (火) 10時02分
名前:志恩

━━━━━━━━━━━━
(はうら ひとひら様ー)
>志恩 様
「生長の家のマークの件」でお問い合せいただきまして、
ありがとうございます。
そのweblog(ブログ)コメントで、谷口恵美子先生の事が
記述されておりますが、驚いた事があります。

阪田先生発行の『光明(ひかり)の音信(おとづれ)』
第32号で、

『恵美子先生のお写真と尊師が輝子先生が
妊娠されている時に「聖キアーラ」という聖女の壁画の
写真を壁に貼って毎日見詰めるようにされた』
(『光の泉』昭和33年1月号)
という紹介文があり
同紙第34号で

紹介された「聖キアラ」の肖像画がまったく
と言ってよい程、恵美子先生に似ているのです。

何を申し上げたいかというと、正しい願いは必ず成就する
という亊の、一つの証(あかし)です。

『生長の家のマークの正規品』は本部に帰属するものでも、
ましてや総裁に帰属するものではないと思います。
信徒全員のものです。(以前信徒だった方も含めて)
正しい想念は成就、実現すると思います。

・問題は解決する為にある。
(『新版 生活と人間の再建』220頁)

添付しました図のコメントで
「われら観世音菩薩の御使命を分(わか)ち有(も)ちて」
と記載させていただきましたが、

《・・・その観世音菩薩が生長の家の本尊神であり、
その観世音菩薩の使命を分ち享(う)けて立つ
“虚無を克服すべく集った諸菩薩”が
吾々生長の家の信徒であるのである。》

(『聖道へ』 323頁)

1.先ず多くの信徒の皆様にこの「生長の家のマーク」が
歪められている事を知ってもらう事が必要だと思います。
その為の手段・手法、方法が必要です。

2.その上で、数人でもよいので、正規品に戻すための準備委員会
のようなものを作って、WEBで方法・道程等を討議し、発表する。
(ZOOMでの場所提供はこちらでも出来ます。)

3.クラウドファンデイングは、目的、透明性が必要です。
監査人を置き、その上で必要な費用を献資を皆様にお願いする。
その一方法としての、振込先選定等だと思います。
(私が振り込み口座が必要であれば、用意出来ます、
という亊は、そのような意味です。)

浄財ですから、大切に心を籠めて、目的の為だけに
使わせていただくものですから。

4.先ず各人が出来る所から実行していく。
正規品のマークの紙を貼ってもいいと思います。
そこから燎原の火のように、広げていきたいのです。
オール信徒によって。
必ず正規のマーク復活・復元は成就いたします。

お答えになっていないかもしれませんが、私の思いです。
大先輩に対しまして、失礼な発言がありましたら、
お許しください。
いつもありがとうございます。<
━━━━━━━━━━━━
志恩ー
私は、古いだけの人間でして、
本部講師でも地方講師でもありません。
ただの古い信徒ですので、お気遣いくださって
返ってすみませんでした。

私は、生長の家のマークが、変わってしまっていることさえ
はうら様に言われるまで、気付いておりませんでした。
大切なことをご指摘くださいまして、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━
(はうらひとひら様ー)

【観音妙智観】
『生長の家のマーク』の発案者は
観世音菩薩でありますが、
佛教的には『生長の家』の本尊です。
観世音菩薩は三十三身に身を変えて、
人類を救済しようとされていますが、
宇宙浄化の智慧でもあります。

ところで、『日々読誦三十章經』の
三日の經言(のりごと)に
「観音妙智観」があります。
『日々読誦三十章經』(昭和25年7月初版)の
理論づけとして、
『人生は心で支配せよ』(昭和63年11月初版)
があるとされています。
されている、と言ったのは、少し説明を要します。
上記の説明では、時間的ずれがあり整合性がとれない.

そこで『人生は心で支配せよ』の前に
なにか著わされたものがあるはずです。
『如何にせば運命を支配し得るか』(大正14年6月初版)
がありますが、(ホルムスの思想に示唆を得たとされる)
ここが起点であるらしい。

しかし尊師の思想が進歩して、
このホルムスの思想に疑問を感じ、
全て書き直したのが、『人生は心で支配せよ』であったという。
これで、時間軸が整理された事になります。

尊師のたゆまぬ求道精神に頭が下がります。

【観音妙智観】(『人生は心で支配せよ』より謹写)

《 黙念中に観世音菩薩の力を念ぜんとする者は
次の如く念ぜよ。

「吾れはいま吾が住む世界を観音妙智力(みょうちりき)
の表現であると観ずる」。
み空の星は観世音菩薩がわれを看(み)まもり
たまう瞳である。梢(こずえ)に鳴る風の音、
小河の潺々(せんせん)たる囁(ささや)き、
これら全ては観世音の吾れに告げ給う御言葉である。
自然界の凡(あら)ゆる力は吾れを生かそう生かそう
としている顕(あらわ)れである。
吾が住む世界は最早(もはや)未知の世界ではないのである。
吾れはこの世界を理解し、
この世界は吾れを理解している。
それ故に吾れは今より恐るるところはないのである。
吾れはいま宇宙に遍満(へんまん)し給う
隠れたる力の泉を汲(く)む。
吾れはいま宇宙の凡(すべ)ての力と調和している。
吾れは今真(まこと)に「愛」そのもの「智慧」
そのものに導かれて平和の道を歩んでいるのである。

観音經には
「或(あるい)は怨族(おんぞく)の繞(かこ)みて、
各々刀を執(と)りて害を加うるに値(あ)わんにも
彼(か)の観世音の力を念ずれば、
ことごとく即(すなわ)ち慈心(じしん)を起こさん。
呪詛(じゅそ)諸(もろもろ)の毒薬もて
身を害せんと欲する者あらんにも、
彼の観世音の力を念ずれば、還(かえ)りて
本人に著(つ)きなん。
若(もし)くは悪獣に囲繞(いにょう)せられ、
利(と)き牙爪(げそう)の怖(おそ)るべき
あらんにも彼の観世音の力を念ずれば、
すみやかに無辺(むへん)の彼方(かなた)に
走り去らん」と書かれているのである。

観世音菩薩は宇宙浄化の智慧であり、
宇宙を育(はぐく)みたまう大慈悲である。
吾れ観世音菩薩と倶(とも)なるが故に、
吾れに坑(さから)う力は何処(どこ)にもないのである。
観世音の大慈悲はいま吾れを愛したまい、
吾れを導きたまい、
吾れに新しき生命を与えたまう。
観世音の妙智力はすべてのものに宿りたまう。
それ故に吾が世界の一切は調和しているのである。》
(『人生は心で支配せよ』53.54頁)

(上記ご文章は、『日々読誦三十章經』の三日の經言と
微妙な点で異なっていて、尊師の息遣いが感じられます。)
ありがとうございます。
━━━━━━━━━━━━
志恩ー
生長の家のマークの発案者は、
山根八春様かと思っておりましたが、

それは間違いで、
生長の家のマークの真の発案者は、
『生長の家』の本尊様であられましたか。
大変貴重なことをお調べくだいまして、
教えてくださいましたこと、心から感謝
申し上げます。

観世音の事 (64204)
日時:2024年03月31日 (日) 09時37分
名前:はうら ひとひら


【観世音普門(ふもん)成就の教】

生長の家は、観世音菩薩が私を喇叭(らっぱ)として
人類を救わんがために、
人類相互(あいたがい)の争いをなくし、
不幸をなくし、貧乏をなくし、すべての人々を幸福にし、
霊(たましい)をも救わんがために出現したところの
教えであります。

仏典や聖書に書いてある事も説明いたしますけれども、
仏典や聖書にないことも申します。
それは受売りではないのですから、
お経や聖書等に関しても新しい解釈を下します。
「誰の相伝(そうでん:目上の人からつたえられる)
によって、何を根拠としてそう云(い)うか」
などと云われても、誰も先生があって、
そう云う解釈を下すわけではないのであります。

大体、観世音菩薩と云うのは個人ではないのであります。
これは宇宙に満つる「観自在(かんじざい)の原理」が
人格化して愛の姿にあらわれたのです。
法華経(ほけきょう)の普門品(ふもんぼん)
即ち一名「観音經」には、
観世音菩薩は相手に随(したが)って
三十三身に変じどんな姿でもあらわして教えを説く
と書かれております。
観世音とは世の中の音即ち人々の心のヒビキを観じ、
何宗の人にでも適当に真理をといて悟りに
入(い)らしめるのであります。
キリスト教の人にはイエスの姿をあらわして道を説き、
神道の人には白髪白鬚(はくぜん)の住吉大神の
姿をあらわして悟りに導かれるのであって、
何宗に対しても他宗(たしゅう)と云うような
対立的な菩薩ではないのであります。

この運動は谷口個人でやっているつもりでしたが、
前に述べました経路(けいろ)で、
ついに「此(こ)の運動をやっているのは、わしである」
と云うように観世音菩薩が、
生長の家のマークを宝冠(ほうかん)の中央部
につけて出現されるに至ったのであります。
こうなりますと、私が生長の家の運動を起こしている
つもりでしたが、実は「私」が生長の家の運動を
起こしているのではない、
観世音菩薩が生長の家の運動を起こしていられるので、
「私」と云うものは、それは唯の喇叭に過ぎなかった
ということがわかったのであります。
(『新版 真理』第3巻 132.133.140頁)

ありがとうございます。
 

はうらひとひら様 (64205)
日時:2024年03月31日 (日) 14時28分
名前:志恩

はうら様が立てられました生長の家マークの親記事より

>《 ついに「此(こ)の運動をやっているのは、わしである」
と云うように観世音菩薩が、生長の家のマークを宝冠
(ほうかん)の中央部につけて出現されるに到ったので
あります。・・・
私は、地上の何(ど)の書物の受売りでもなく、地上の誰から
の相伝(そうでん)でもない、私は、あの姿をあらわされた
観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)に教えられて、唯の喇叭
(らっぱ)的役目をしているに過ぎないのでありまして、
その功績(こうせき)も功徳(くどく)も「私」にあるのでは
なく、悉(ことごと)く観世音三十三身示現(しんじげん)
の御(お)はたらきにあるのであります。》
(『新版 真理』第3巻 140.141頁)

ところがその『生長の家のマーク』が一度は正常に修正され
つつあったが、突然歪(ゆが)められて、
それがそのまま現在に至っているという
。現在使用されている『生長の家のマーク』は
本部であれ、総本山であれ、地方の教化部であれ、什一会員証
としての色紙のマークであれ、霊牌(れいはい)に冠された
マークであれ、そのほとんどが、理念としての正規の
マークではないという事である。
(形状と色彩)

その為、『生長の家』が分裂し、凋落(ちょうらく)し、
それを象徴するように、竹島の問題、尖閣諸島
(せんかくしょとう)問題、北方領土問題等が起っているという。


それは『生長の家のマーク』で中央に八角形の緑色のマークが
ありますが、これは十字(キリスト教)の四両端に切り込みを
入れて、八角の星の象をしているが、八角は大八洲
(おおやしま)の象徴であり、大八洲は日本の事であり、
宇宙の中心座に日本が位置して、万教を一つの中心に帰一
しているという象徴である。その大八洲が変形されたまま
現在に至っております。

先ず、この事実を知っていただき、それからどうしたら、
正常な理念のマークにもどせるか、を皆様と共に考えたいのです。<
ーーーーーーーーーーー

(はうら様ー)
>観世音普門(ふもん)成就の教】

生長の家は、観世音菩薩が私を喇叭(らっぱ)として
人類を救わんがために、
人類相互(あいたがい)の争いをなくし、
不幸をなくし、貧乏をなくし、すべての人々を幸福にし、
霊(たましい)をも救わんがために出現したところの
教えであります。

仏典や聖書に書いてある事も説明いたしますけれども、
仏典や聖書にないことも申します。
それは受売りではないのですから、
お経や聖書等に関しても新しい解釈を下します。
「誰の相伝(そうでん:目上の人からつたえられる)
によって、何を根拠としてそう云(い)うか」
などと云われても、誰も先生があって、
そう云う解釈を下すわけではないのであります。

大体、観世音菩薩と云うのは個人ではないのであります。
これは宇宙に満つる「観自在(かんじざい)の原理」が
人格化して愛の姿にあらわれたのです。
法華経(ほけきょう)の普門品(ふもんぼん)
即ち一名「観音經」には、
観世音菩薩は相手に随(したが)って
三十三身に変じどんな姿でもあらわして教えを説く
と書かれております。
観世音とは世の中の音即ち人々の心のヒビキを観じ、
何宗の人にでも適当に真理をといて悟りに
入(い)らしめるのであります。
キリスト教の人にはイエスの姿をあらわして道を説き、
神道の人には白髪白鬚(はくぜん)の住吉大神の
姿をあらわして悟りに導かれるのであって、
何宗に対しても他宗(たしゅう)と云うような
対立的な菩薩ではないのであります。

この運動は谷口個人でやっているつもりでしたが、
前に述べました経路(けいろ)で、
ついに「此(こ)の運動をやっているのは、わしである」
と云うように観世音菩薩が、
生長の家のマークを宝冠(ほうかん)の中央部
につけて出現されるに至ったのであります。
こうなりますと、私が生長の家の運動を起こしている
つもりでしたが、実は「私」が生長の家の運動を
起こしているのではない、
観世音菩薩が生長の家の運動を起こしていられるので、
「私」と云うものは、それは唯の喇叭に過ぎなかった
ということがわかったのであります。
(『新版 真理』第3巻 132.133.140頁)<

ーーーーーーーーーーーー

志恩ー
正常な理念の生長の家のマークに戻りますように!


立教95周年 (64426)
日時:2024年04月07日 (日) 22時20分
名前:はうら ひとひら


『生長の家』機関誌令和六年四月号が届きました。

同誌6面から8面に『立教95年 生長の家春季記念日
・生長の家総裁法燈継承祈念式典』
「原理主義に陥らず、
“温故知新”の精神で運動の展開を」として
総裁の講話として三月一日開催の内容が紹介されている。

(要旨)

『1.布教の方法「生長の家七つの光明宣言」の
六項目目教義の布教方法が、
・今日ではインターネットを含めたメデイア全般を
活用した布教活動になっている。
(宗教の使命を全うするためには、
運動も変化しなければならない。)

2.「教えの内容の変化」
宗教目玉焼き論を展開。
教えには不変である“中心部分”と
時代に応じて変化する“周縁部分”がある。
日本国外に伝道する時、日本語や日本の習慣を
元にした例え話は通じなかったり誤解されたりすることが
あるため、説き方を変える必要がある。

3.原理主義の弊害
宗教運動の中には
「文字に書かれた教義が基本で、
絶対に崩してはいけない」として、
文字や教典だけを「つかんでいる」と
信仰が歪む可能性があるとして警鐘を鳴らされた。
現在の国際戦闘問題等は原理主義的な
宗教運動が世界に悪影響を及ぼしている。

4.宗教は古きを訪ねて新しきを知る論語の 
“温故知新”  の精神で前進するべきである。

5.侵略戦争
ウクライナ侵攻は、
日本が国家神道を掲げて昭和天皇を頂点に据え、
侵略戦争を進めた動きによく似ている。

6.今年の運動方針で「与える愛の実践」で
オープン食堂やPBS活動に取り組んで社会に貢献する。
社会とは“地球社会” であり、
人間社会だけでなく地球環境全体に目を向けて貢献しながら、
運動を展開することを促した。』とある。


どさくさに紛れて、実相哲学はもう古いと断じ、
立教の精神の欠片(かけら)すら、見当らない。
宗教の使命である、人類の救済をわすれ、
実相哲学も説かず、何を言っているのか、よくわからない。
瞬々刻々変化する現象を述べているだけであると感じた。
これが今の教えの残骸であると感じた。


《 だいたい戦争なんてものは、
対立の世界のことであって、対立の世界というのは、
「一則多・多即一」という真理を見失ったのが対立です。
それは相対の世界であり、
相対する世界が出て来るその元へ還(かえ)るんです。
元へ。
時間・空間十字の交叉点の一点の中、
「今」の一点に入る。その時に対立がなくなる。
そこに、絶対平和の世界というものが出て来る
ことになるんですね。》
(尊師谷口雅春先生ご講話「久遠の今」より)


《 【教祖に背(そむ)いたことを自覚せぬ弟子たち】

だから釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)、
イエス・キリストをはじめとして
その他無数の偉大なすぐれた宗教教祖が出て来ましても
それで人類が道徳的に善くなったかと言うと
決して善くなっておりません。
それは何故(なぜ)かと言うと、釈迦牟尼如来や
イエス・キリストは真理を正しく教えたけれども、
その教えを祖述(そじゅつ)(宗祖の教をもととして述べ説く)
弟子が、その教祖先生たる釈迦牟尼世尊や
イエス・キリストの教えられた真理を伝えるときに、
それを歪(ゆが)めて伝えたからであります。

すなわち人間の「実相」の完全さを観(み)る様(よう)に
教えることをわすれて、
あべこべに現象の「悪」を見て、
その「悪」を直せと教えるようになったので、
「悪」を見詰めれば、「悪」があらわれると云う
心の法則によって「悪」が消えないことになっている
のであります。
キリストでも「我れ神の子なり」と説き、
「我れ往(ゆ)きて汝らに来(きた)るなり」
と説いて、すべての人間に「神の子」が宿っていて
完全であると云う事を説いたのだけれども、
その弟子の牧師たちは「汝ら神の子」と説かないで、
「汝等(なんじら)罪人よ悔(く)い改めよ」と言った。
だから、キリスト教の牧師はキリストの教えとは
あべこべのことを言ったのである。

人間の悪を強調したら救われるかと思って却(かえ)って
救われないことになる。》
(『新版 真理』別冊 109頁)


《 【愛の絶対価値を高揚(こうよう)する祈り】

生命の神秘、不可思議なる価値は、
そのかけ換(か)えのない絶対なる創造力に
存(そん)するのである。
その一つすらも減(げん)ずることは
絶対価値を減ずることに成るのであるが、
絶対価値は、絶対であるが故に減ずることも滅することも
あり得ないのである。
減じたり、滅したりするものは、
すべて相対価値のものばかりである。
しかし人間が誰かを“愛”したという“愛”は
絶対価値であるが故に、その“愛”は永遠に
滅することも減ずることもないのである。

日本国民が国家を愛して国家を護(まも)るために戦った。
その“戦(たたか)い”という行為は、
相手があり相対的なものであるから、
立場立場の異なる人々によってその価値
・不価値は色々評価されるけれども、
その“戦い”という相対的行為の奥にあるところの
日本国民が天皇を愛し大日本を愛したという
その純忠(じゅんちゅう)なる“愛”の価値は
相対的比較を絶した絶対なるもので
あるから、肉体という相対的存在が滅びても、
永遠にその“愛”の価値が滅びることはないのである。
純粋の愛は、絶対者に属し、
絶対界より出(い)でたものであるが故に、
それは永遠の価値をもっていて滅びることはないのである。》(『聖經 続真理の吟唱』 108〜110)


『・同機関誌
 38〜40頁に『神・自然・人間の大調和祈念祭』が行われた
とある。(三月十一日)

『神・自然・人間は本来一体』の真理への理解と、
神想観の“補助行”としての俳句のすすめ

東日本大震災や原子力発電所が津波で破壊された事にふれ、
「その根底には「人間は地球上で最高の生物」
というおごり高ぶった
「人間中心主義」の生き方がある。
宇宙は人間中心で動いているのではないことを認め、
「神・自然・人間は本来一体」の真理を
広めることが重要である。』
としている。


「神・自然・人間」は
先人たちが説いている。

 ・シラーの「神・自然・人間」

シラーは自然のなかにー ハーマンやヘルダー、ゲーテと
異なるー 成長と消滅をともなう有機的な営みに
溢れる生の流れや、形成と再形成を探し求めることはなく、
合法則性、
【靜かなる創造的な生、自分自身からの靜かな作用、
自分の法則に従った存在、内的必然性、自己との永遠の一致】
を探すのである。

シラーにとって、自然の認識とは自然という
外的対象を直接そのまま捉(とら)えるのではなく、
自己の内面に一端立ち戻り、
自己の認識原理に従って外的対象である
自然を把握することなのである。
(『プロテウス』第4号1999年9月発行)

・ヴイクトール・フォン・ヴアイツゼッカーの
「神・自然・人間」

自然哲学を探究するとは、
自然全体とはそもそも何であるか、
そしてわれわれはこの自然といかなる関係にあるかを
知ろうとすることである。

聖書の創世記の第1章と自然哲学と呼ぶことがどうして
正当なのかというとそれはここで
太陽、月、動物、植物などがあつかわれているためではなくて、
全体として捉えられた自然が、
自然でないところの何ものかに、
つまり神に対比されているからなのです。

自然認識の過程にとって決定的となりうることは
何かというと、創造活動は世界内での自然現象を
創り出すけれども、それ自身は自然現象ではないのです。
私たちの出会った最初の反対命題は、
創造された世界と自立的に考えられた世界との対立であり、
神と共にある世界と
神なき世界との対立であります。
(『神・自然・人間』
ヴアイツゼッカー著・大橋博司訳 1971)


《 【科学者も終(つい)に神の存在に到達す】

われわれがだんだんと自然現象の奥にある根本的な法則や、
原理に近づいて行(ゆ)きますと・・・
その中で、法則の成立(なりた)つ場合を取り出す
ということをしなければならない・・・・
ということは、最後に行きつくところは
秩序と混沌(こんとん)の境目であると云うことです。
混沌たるものに目鼻をこしらえるのも自然自身のほかにはない。
自然が自分自身に秩序を与えているわけであります。」
(『世界』1958年1月号)

此(こ)の湯川博士の云われる
「自然自身が選択している。」
「自然が自分自身に秩序を与えている」
と云う場合の「自然」とは、
物質以前の不可視(ふかし)の本体であるから
「神』なのである。》
(『新版 真理』第10巻 74頁)


《 【 カミの語源について】

第一義の神様ー實相の神様ー即ち宇宙に充ち満ちてをられて、
姿かたちが見えない、
無相(むそう)にして無限の姿の本源の神様。

第二義の神、第三義の神というと、本来の意味から多少はなれて、副次的(ふくじてき)に第二義的、第三義的な意味
に於いて又別の神があるという意味であります。
第二義の神様と申しますと、例えば、
観世音菩薩であるとか、白髪の老翁(ろうおう)の
姿をして多くの誌友の霊眼(れいがん)に生長の家の神様
として現れた神様というような方であります。
ところが第三義の神様というのは、簡単にいえば、
霊魂(れいこん)即ち霊魂(みたま)の神であります。

自然靈は第三義の神様の部に入る。
空気が地表を蔽(おお)っているのに、
機械も装置もなくて、空気を抜いて真空にするということは、
既に科学を超えた神秘の世界の出来事であります。
(竜巻のおこることについて)
低気圧でも同じことです。
その低気圧が何時(いつ)何処(どこ)に生(しょう)ずるか
ということは、予言することもどうすることも計算する
ことも出来ないのです。
何故なら、それは自然靈という
「生きもの」が自由意志で動かしているからであります。
人間の心が和順(わじゅん)して天候を司(つかさど)る
自然靈を怒(おこ)らせぬ様に、
調和したような状態のなりますと、
昨年のような豊作が出来るということになる訳であります。》
(昭和31年の講話)
(『神ひとに語り給ふ』神示講義 教の巻
「萬教帰一の神示講義)108.111.113.頁)


《 【実相を観ずる歌】
一、
神はすべたのすべて、 神は完(また)き生命(いのち)
神は完き叡智(みちえ)、 神は完き聖愛(みあい)。

すべてのものの内に、 神の生命は生(い)くる、
神の叡智は生くる、 神の聖愛は生くる。

神はすべてにして、 すべて一体(ひとつ)なれば、
よろずもの皆共通(ひとつ)の ちから是(これ)を生かせり。

天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)は、
唯一つの神にませば、 天地はただ一つに、
いと妙(たえ)に調和満つる。

吾坐す妙々実相世界 
吾身は金剛実相神の子
万(よろ)ず円満大調和 
光明遍照(へんじょう)実相世界。

二、
神は生命(いのち)にして、 吾れは神の子なれば、
吾れはすべてを生かし、 すべては吾れを生かす。

神は愛にして、 吾れは神の子なれば、
吾はすべてを愛し、 すべては吾れを愛す。

神は智慧にして、 吾れは神の子なれば、
吾れはすべてを知り、 全てのもの吾れを知れり。

神はすべてにして、 吾れは神の子なれば、
吾れ祈れば天地応(こた)え、吾れ動けば宇宙動く。

吾坐す妙々実相世界 
吾身は金剛実相神の子
万(よろ)ず円満大調和 
光明遍照(へんじょう)実相世界》
(聖歌「実相を観ずる歌」)


実相は常に新しく、実相は常に新生である。
実相は常に「今」である。吾「今」新生す。
温故知新などという前に、
この聖歌を常に口ずさみ実相の浄土に住みましょう。

ありがとうございます。

はうらひとひら様   (64429)
日時:2024年04月07日 (日) 23時24分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)
【立教95周年 】

>『生長の家』機関誌令和六年四月号が届きました。

同誌6面から8面に『立教95年 生長の家春季記念日
・生長の家総裁法燈継承祈念式典』
「原理主義に陥らず、
“温故知新”の精神で運動の展開を」として
総裁の講話として三月一日開催の内容が紹介されている。

(要旨)

『1.布教の方法「生長の家七つの光明宣言」の
六項目目教義の布教方法が、
・今日ではインターネットを含めたメデイア全般を
活用した布教活動になっている。
(宗教の使命を全うするためには、
運動も変化しなければならない。)

2.「教えの内容の変化」
宗教目玉焼き論を展開。
教えには不変である“中心部分”と
時代に応じて変化する“周縁部分”がある。
日本国外に伝道する時、日本語や日本の習慣を
元にした例え話は通じなかったり誤解されたりすることが
あるため、説き方を変える必要がある。

3.原理主義の弊害
宗教運動の中には
「文字に書かれた教義が基本で、
絶対に崩してはいけない」として、
文字や教典だけを「つかんでいる」と
信仰が歪む可能性があるとして警鐘を鳴らされた。
現在の国際戦闘問題等は原理主義的な
宗教運動が世界に悪影響を及ぼしている。

4.宗教は古きを訪ねて新しきを知る論語の
“温故知新” の精神で前進するべきである。

5.侵略戦争
ウクライナ侵攻は、
日本が国家神道を掲げて昭和天皇を頂点に据え、
侵略戦争を進めた動きによく似ている。

6.今年の運動方針で「与える愛の実践」で
オープン食堂やPBS活動に取り組んで社会に貢献する。
社会とは“地球社会” であり、
人間社会だけでなく地球環境全体に目を向けて貢献しながら、
運動を展開することを促した。』とある。<

(はうらひとひら様ー)
>どさくさに紛れて、実相哲学はもう古いと断じ、
立教の精神の欠片(かけら)すら、見当らない。
宗教の使命である、人類の救済をわすれ、
実相哲学も説かず、何を言っているのか、よくわからない。
瞬々刻々変化する現象を述べているだけであると感じた。
これが今の教えの残骸であると感じた。略<

志恩ー
これは、ひどい!!!!!!
私は今は教団の機関誌は、とっておりませんので、
どんなことが書いてあるのか、存じませんでしたが、
内容を、かいつまんで書いてくださいまして、
ありがとうございました。

実に、驚愕するあっけらかんとした殺伐とした
内容ですね。
すごく巧妙な言い回しで、元の教えを大否定する
内容そのもので、心底、がっかりしました。
どこが、元へ戻ろうとしている、、と言えるのでしょう。
これを読まれた信徒さんたちは、あきれて、皆様が
雅宣様のもとから去っていくはずだと痛感しました。
雅宣様は、批判は全て悪口と捉えていますから
何も、自分のことが、見えていないのです。
今、現在、こんなになってしまったことに対する
生長の家教団の総裁としての、トップとしての、
反省の心が微塵もないから、前に進めないのです。


現信徒の皆様もそうですが、
現教団所属の皆様方も、大丈夫でしょうか。
皆様、体調を崩されませんように心からご安寧をお祈り
申し上げます。



(はうらひとひら様ー)
>略
神はすべてにして、 吾れは神の子なれば、
吾れ祈れば天地応(こた)え、吾れ動けば宇宙動く。

吾坐す妙々実相世界 
吾身は金剛実相神の子
万(よろ)ず円満大調和 
光明遍照(へんじょう)実相世界》
(聖歌「実相を観ずる歌」)


実相は常に新しく、実相は常に新生である。
実相は常に「今」である。吾「今」新生す。
温故知新などという前に、
この聖歌を常に口ずさみ実相の浄土に住みましょう。<


志恩ー
私も実相観ずる歌を心に口ずさみながら、
何も考えないように..、
今夜も、心穏やかにして、寝るようにいたします。
ありがとうございます。


 (64555)
日時:2024年04月13日 (土) 15時34分
名前:神の子

割り込み失礼します。

そのマークを正規の形に戻す運動の目的って何ですかね?それ自体が目的ですか?

それか象徴が歪むと行動が歪む。実際、今は象徴のマークが歪んでるから教義も歪んでいると認識して現総裁の奇妙なご指導を是正して教団を正常化する為の運動の一環でしょうか?

 (64557)
日時:2024年04月13日 (土) 15時42分
名前:神の子

昔、民主党の小沢一郎さんが竹島に関しての教科書の記述に関して『現に今は韓国が実効支配してるのに教科書にだけ竹島は日本固有の領土です。と云う文章を書き加えたって意味は無いだろう?』とかの主旨の発言してたのを思い出しました。

マークさえ正常化出来たら教義も正常化出来ますかね?

64555神の子 様へ (64563)
日時:2024年04月14日 (日) 09時40分
名前:はうら ひとひら


【64555】神の子様

お問合せいただきまして、
ありがとうございます。
いみじくもご自身で回答(解答)されておられると思い
感謝いたします。

>「象徴が歪むと行動が歪む。
実際今は象徴のマークが歪んでいるから、
教義も歪んでいると認識して、
教団を正常化する運動の一環でしょうか。<

まさにご指摘の通りだと思います。

『久遠天上理想國實現の神示』
(昭和八年十二月二十五日初版発行で
『生命の實相』の中で唯一つ名称の異なる聖典
『久遠の實在』(復刻版417頁には
【『大生長の家』に就(つい)いての神示】
名となっておりますが)

『秘められた神示』神示講義秘の巻 148頁に
『久遠天上理想國實現の神示』がご教示されておりますが、

《 『生長の家』とは人間が附(つ)けた名ではない。
神がつけさせたのである。

形の世界が心の世界の影であることが解(わか)り、
實相世界が久遠常住の世界であると云うことが
判(わか)れば久遠皇統(こうとう)連綿(れんめん)
と云うことは實相世界の久遠常住性が
最も迷いの念なしに形に顕(あらわ)れたのが
日本圀だと云うことが解(わか)るのである。》
(同書151.153頁)

観世音菩薩が生長の家の象徴としてのマークを
つけて顕れたのは、
万教帰一の教えの理念を唯一説かれた
生長の家の出現意義と、
大八洲(日本国)の世界的使命を形として、
示されたと思います。
その象徴の大八洲が現象界で歪んでいれば、
行動、日常、思考、教義、環境、現象としての現れ、
人類の救済の使命の行動、等々
全てが歪んで現われるのは、
当然の事と思います。

生長の家(現象界)の再生、復興は
このマークを正規に戻すところから始まると思います。

ありがとうございます。






英霊へのミサ (64567)
日時:2024年04月14日 (日) 15時05分
名前:はうら ひとひら


前回の立教95周年の記載の
5.侵略戦争の件の補追です。

「 1980年(昭和55年)5月21日
パウロ6世の遺志を引き継いだ教皇ヨハネ・パウロ2世は
日本の大東亜戦争時のA級戦犯、B級戦犯、C級戦犯
として処刑された英霊へのミサをサンピエトロ大聖堂で
行い、A級戦犯、B級戦犯、C級戦犯として処刑された
英霊1068柱の位牌が奉納された。

アメリカ人、メリノール宣教会のパトリックバーン神父
(当時、上智大学学長)は
「いかなる国家も、その国家の為に死んだ戦士に対して
敬意を払う権利と義務がある。
それは戦勝国か敗戦国かに関われず、平等の真理でなければ
ならない。」と云われた。
(wikipedia.,google chrome)

尊師のご教示の証として。

ありがとうございます。








中心帰一の事 (64684)
日時:2024年04月21日 (日) 14時34分
名前:はうら ひとひら


昭和35年2月15日初版発行の
『菩薩は何を為すべきか』の聖典があります。

優れた人類光明化運動論だと思いますが、
実はこの第九条の解釈が信徒の足枷になって
いるのではないかと思われます。

教団、教化部は何かというと、この九条を
引き合いにだして
「総裁先生に中心帰一しましょう」と引き締めにかかります。
正に光圀公の印籠のようである。

第九条にはこのように記載されております。

《 「第九条
生長の家の各員は、如何に運動の分野が多岐にわたり
組織が複雑化すると雖(いえど)も、光明化運動の
中心が何であるかを常に見失うことなく明らかに自覚
して行動すべきである。
生長の家大神ー 総裁・副総裁ー 御教(みおしえ)。
この三つを結び貫く神意の展開が、光明化運動の不動の
中心である事を、生長の家人(じん)たるものは一瞬たり
ともわすれてはならない。

光明化運動に於(お)いては人が中心ではない。
神意が中心である。

生長の家の本部は“実相の世界”にあるということが、
『生命の實相』総説篇の冒頭に宣言されているので
ありまして地上の生長の家の本部が事務を執(と)って
いる所の建物の如きは、地上で仕事をする為の
中央事務所に過ぎないのであります。》
(『新版 菩薩は何を為すべきか』54〜57頁)

ここで神意という御言葉が出てきます。
神のご意志。神威(みいつ)。御厳(みいつ)。
御稜(みいつ)。御威光。
神の御心(みこころ)であります。
ありのまま、なんの計らいもなく、天地を創造せられた
御心、神そのままの御心。
天国の地上浄土への展開の御心であります。

この神とは、エロヒム神であり、エホバ神では
ありません。(念の為)

その理解が少ない為に、今地上での混乱がなされていると
思います。もう一度、立ち止まって、原点から出発しましょう。

ありがとうございます。






はうらひとひら様 (64702)
日時:2024年04月21日 (日) 20時00分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)
>「中心帰一の事 」
昭和35年2月15日初版発行の
『菩薩は何を為すべきか』の聖典があります。

優れた人類光明化運動論だと思いますが、
実はこの第九条の解釈が信徒の足枷になって
いるのではないかと思われます。

教団、教化部は何かというと、この九条を
引き合いにだして
「総裁先生に中心帰一しましょう」と引き締めにかかります。
正に光圀公の印籠のようである。
(後略)



志恩ー
確かに教団は、「総裁先生に中心帰一しましょう」
と引き締めにかかります。よね。

真の意味は、人間に  中心帰一するのではなく
エロヒム神に 中心帰一しましょうですよね。

光明化運動に於いては人が中心ではなく
神意が中心でありますのに。

大事なことを、述べてくださいまして、
ありがとうございます。









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