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日本國 學び直し (62379)
日時:2023年12月30日 (土) 21時18分
名前:梶猛弩

 私(梶猛弩)の投稿は、“これからの生長の家を考える”と“梶猛弩の館”が中心となっていますが、
“これからの生長の家…”が、タイトルと乖離した投稿になってしまってます。
 前スレを生長の家に関係した内容に沿ったものとするために、新たに“日本國 學び直し”というスレッドを作ることにしました。

 ただ、生長の家から離れて、30年間、サラリーマンとして現象社会に即した思考しか持たなかった梶猛弩なので、
日本の宗教・神話・歴史を語るとなると、かなり常識から逸脱した投稿になるかもしれません。

 しかしながら、通説と異なる突飛な愚見を提示することにより、炎上…もとい、活発な議論が広がっていったら、それはそれで好ましいことでもあるのではなかろうかと。。。

 しばらくの間は、日本の古代史・神話が中心になりますが、よろしくお願いします。 

従属史観の原点 (62380)
日時:2023年12月30日 (土) 23時03分
名前:梶猛弩

 今の日本が“対米従属”と言われて久しいです。
 また、最近でこそ、あまり聞かれなくなりましたが、日教組全盛時代は、“自虐史観”という言葉が頻繁に聞かれました。

 “対米従属”も“自虐史観”も、諸外国に対する比較弱者としての自己規定であり、こうした“従属史観”に惑わされることなく、一人一人の日本人が自らの国に誇りを持っていくことが大切です。

 諸外国に対する従属というのは、他にもあるのでしょう。
 例えば、明治時代の文明開化も、西洋的価値観への従属という観方ができないわけではありません。

 更に、一番、対外従属観が激しいのではと思っているのは、現代人目線での古代日本と中国の関係です。
日本人が国家と民族のアイデンティティを確立した最も重要な時代は、紀元前何世紀の弥生時代から奈良時代までの“古代”と呼ばれる時代。
 ゆえに、古事記や日本書紀、万葉集といった当時の書物が、日本人の最も大切な宝と言われている。
にも関わらず、現代に至るまで、古代日本を学ぶときに、お隣の中国の正史に何が書かれているかに一喜一憂し、中国の書物の一言一句に振り回されてしまっているのではなかろうか。
 後漢書曰く、魏志倭人伝曰く、宋書曰く。
 邪馬台国がどこにあるかといった浪漫は、身近に日本史を感じるという意味で、とても大切なことだけれど、歴女・アマチュア歴史家から専門家・学者・研究者に至るまで、三国志の中の魏書の巻末にある烏丸鮮卑東夷伝の中で書かれている一部の箇所を、あたかも“魏志倭人伝”という大層な書物かのように思わされているのも正直どうかと。
 しかも、その二千文字を、日本の最高峰の学者さん達が、ここの東西南北は書き間違い、ここの距離は測り間違い、ここの漢字は別の字の間違い・・・と、思い思いに訂正して侃々諤々やっている。更に、魏志倭人伝の卑弥呼は語られても、後漢書の卑弥呼の記載は無視されている。
 30年以上歴史と縁のない、サラリーマンとして丁々発止の世界に生きてきた私には、これって論理的・科学的な意味での“学問”と言えるのかと感じている次第。

 私は、この“中国正史”を崇め奉る姿勢に“対外従属史観”の原点を感じてしまうのです。
 ここを一度リセットしてみたい、米国から見た視点でも中国から見た視点でもない日本自身の“古代日本観”がどんなものなのか。
私は、とても興味があります。

 もちろん、私以外に誰もそんなこと考えてないし、そもそも誰も興味もないし、社会的ニーズもないことは十分自覚していますが。。。

 (62381)
日時:2023年12月31日 (日) 00時02分
名前:かみのこ

邪馬台国が何処に有ったのか今でも正確にはわからないんですよね。何処に有ったかわからないならそんな国、本当に存在したのかも疑わしい。
…と言うのは極端ですが過去の資料を元にすればたぶん有ったんでしょう。しかし推測で想像すればするほど実態とかけ離れてしまうような。

 (62382)
日時:2023年12月31日 (日) 00時11分
名前:かみのこ

学校の教科書だとその後は唐突に聖徳太子の冠位十二階とか大化の改新やらの話になりますね。
物語が全然つながってない。

子供心にそう思いましたけど。

梶猛弩様 (62386)
日時:2023年12月31日 (日) 09時28分
名前:志恩

>しばらくの間は、日本の古代史・神話が中心になりますが<

私は、新教連の講師でいらした
野木清司先生がされていた
古事記研究会の和耕軸(塾でなく軸です)の会員でした。

実は、その古事記研究会には、入会資格というのがございましてね、
教員または講師の資格のある人限定となっていたのです。

しかし、そのような資格など何も持っていない、普通の主婦であり、
無資格の私でしたが、昔の原宿本部時代からのよしみで、
野木先生に特別に入会のお許しをいただきまして、
野木先生が、「〇〇ちゃんなら、入っていいですよ。」
と私に言ってくださったので、今だから言いますが、
私は、その会に、こっそりと入会していたのです

(野木先生が2012年12月に84歳で亡くなられるまで、
私は、毎月会費を払って会員でいました)


ですから、梶猛弩様の日本の古代史・神話のお話を
とても楽しみにさせていただいているひとりです。

選択の果て  国家、個人、組織それぞれ (62408)
日時:2024年01月01日 (月) 23時38分
名前:梶猛弩

 テスラ社のイーロン・マスク氏が、X(旧Twitter)に投稿したTweetがメディアやSNSで話題になっています。

 写真そのものは2020年頃から出回っているものですが、イーロン・マスク氏は昨日(2323年12月31日)に投稿したことにより再び話題に。

 70年前、朝鮮半島の北側は共産主義の道を選び、南側は資本主義の道を選んだ。
 その結果がどうなったのか、衛星写真で見れば一目瞭然。

 選択の結果は、今日・明日といった短期的には分からないかもしれません。
 しかし、数十年という長期的スパンで見れば、はっきりと違いが判る。

 これは、国家の主義・政策の選択だけでなく、
 個人の将来への選択、
 組織の方向性への選択・・・
全てに当てはまるものなのでしょう。
 

ニッポンのクィーン、ニッポンのプリンセス (62454)
日時:2024年01月03日 (水) 21時42分
名前:梶猛弩

 生命学園では、古代日本を形作ったヒロインとして、神功皇后(オキナガタラシヒメ)や倭姫命(ヤマトヒメ)について学びました。
 一方、小学校・中学校の授業で習う、古代日本の最初のヒロインは邪馬台国の女王・卑弥呼でした。

 子供心に不思議でした。
 神功皇后や倭姫は、日本の古代の代表的書物である古事記にも日本書紀にも活躍が描かれている。一方の卑弥呼は、記紀はおろか日本のどの古代歴史書にもその名は書かれていないのです。
 ほとんどの日本人は、実在するニッポン最初の女王様お姫様は誰かと問うと、卑弥呼と回答します。神功皇后や倭姫は伝説神話の人物だと答えます。
 
 「卑弥呼は魏志倭人伝という中国の正史に書かれているから実在。古事記と日本書紀に書かれている神功皇后・倭姫は神話であって歴史ではない。」と。
 もちろん、歴史家・考古学者が定説として断言している以上、結論としては正しいのかもしれません。
 しかし、絶対不可侵の大前提として反論を許さないみたいな風潮には、本当かな・・・と思わず検証してみたくなります。
 
 中国の史書は、可能な限り史実に忠実に書き残そうとした記録であることは、紛れもない事実でしょう。多少の誤字や誤記があったとしてしても、学術が未発達の時代ですから許容範囲です。
 また、日本人の考える魏志倭人伝の無謬性には、無理筋かなと思える部分もありますが、それも正しいという前提で考えます。前提条件は正しいとしないと議論が始まりませんから。例えば以下の3つ。
 第一に、“三国志”の“魏書”の“烏丸鮮卑東夷伝”の文中にある約二千文字の文書を“魏志倭人伝”とすること。
 第二に、文中の国名“邪馬壱国”は“邪馬台国”の書き間違いであること。
 第三に、邪馬台国に至る行程記載の東西南北、距離(里と日数)は、いずれかに必ず書き間違いがあること。

 その前提の上で、魏志倭人伝を読み始めて大きな疑問が湧いてきました。
 私が感じた疑問は、古代日本史解釈の定説が魏志倭人伝を史料の第一としている中で、
(1)魏志倭人伝に普遍的価値を認めながら、後漢書、魏書帝紀、梁書、隋書、北史、新羅本記、于老列伝といった他の史書を同列に論じないことへの疑問。
(2)卑弥呼を名はひみこ(ひめこ)という名の女性がいた事実としてしまうこと
への疑問です。

 まず(1)について、
 史書は正しいという大原則で、卑弥呼の生きた時代の記述を他の史書を含めて時系列で並べるならば、
  ・173年  卑弥呼が新羅に使者を派遣〔新羅本記〕
  ・2世紀後半 倭国大乱が起きる〔後漢書、魏志倭人伝、梁書、隋書、北史〕
  ・189年頃 卑弥呼は王として在位〔後漢書、魏志、梁書、隋書、北史〕
  ・193年  倭の民が新羅に押し寄せる〔新羅本紀〕
  ・208年  倭軍が新羅を攻める〔新羅本紀〕
  ・232年  倭軍が新羅の王都金城を包囲するも破れる〔新羅本紀〕
  ・233年  倭軍が新羅を攻め沙道で戦い破れる〔于老列伝〕
  ・238年頃 卑弥呼が魏に使者を遣わし親魏倭王金印と銅鏡百枚を拝受〔魏志倭人伝〕
  ・243年  倭王が魏に復遣使を派遣〔魏志倭人伝、魏書帝紀〕
  ・247年  狗奴国の卑弥弓呼という名の王との戦いを報告〔魏志倭人伝〕
  ・247年頃 卑弥呼死去〔後漢書、魏志倭人伝、梁書〕
  ・249年  倭国の使者が新羅の昔于老を殺害〔于老列伝〕
となります。

 次に(2)について、
仮に魏志倭人伝だけで見ても、“卑弥呼”と似たような名称として 対馬の大官の“卑狗”、同国の副官の“卑奴母離”、一大国の大官の“卑狗”、同国の副官の“卑奴母離”、奴国の副官の“卑奴母離”、不弥国の副官の“卑奴母離”、狗奴国の男王の“卑弥弓呼”、狗奴国の男子王の官の“狗古智卑狗”が登場します。
 複数出てくる“卑奴母離“は、鄙守(ひなもり)であり辺境を守る軍の官職であるというのが通説です。
 多数出てくる“卑狗”は、“彦”“比古”“日子”(ひこ)であり、官名尊称のいずれかであると考えられています。

 なのに、何故、“卑弥呼”だけをひみこさん、ひめこさんという現代風の女子個人名と考えてしまうのだろうか。
 卑弥呼vs卑弥弓呼は、相対立する女王と男王の尊称対比であれば文脈として素直だし、
 卑弥呼(ひみこ)(ひめこ) → 姫(ひめ)+巫女(みこ)
の方が遥かに自然に読みこなせる。

 ここで(1)の論点に戻っても、魏志倭人伝だけを正しいとするのではなく、全史書を並列に並べれば、卑弥呼が一人で偉業を行ったには長すぎる。
 魏志倭人伝だけ分析しても、前段の邪馬台国の女王の記述と後段の邪馬台国の女王(親魏倭王)の記述との間に長い時間的隔たりがあると考えた方が、普通の読解力での普通の感覚でしょう。

 先入観なしに中国史書を読み込んでみると、こうした疑問が次々湧いてきます。
 私は、邪馬台国論争を否定するつもりも、卑弥呼のロマンに水を差すつもりもありませんが、
 しかし、日本の歴史は日本の史書ファーストとして、外国の史書を冷めた目で見つめ直してみると、案外、絶対常識と呼ばれたことすら外国従属史観に毒されているのかなという考えが湧いてきます。

 かなり過激な結論を書きましたが、私は今の歴史の教科書も通説も誰かの学説も否定するつもりはありません。
 一つの思考アプローチ、検証例として挙げてみましたのでご了承ください。

蘇我氏の評価を見直す見方も有るらしい。 (62455)
日時:2024年01月04日 (木) 02時54分
名前:かみのこ

吾妻鏡は北条氏に都合の良いように書かれてるって言うし。
日本書紀と古事記だって信用出来るのやら。
藤原不比等が関わってるならこれもやっぱり藤原氏に都合良く書いてんじゃないです?

 (62456)
日時:2024年01月04日 (木) 02時57分
名前:かみのこ

結局、何もわからん。
ってのが結論じゃないですかね。

ただ、わかるのはその文書にはそのように書いてあるって事だけで。

氏族、それぞれの伝説 (62485)
日時:2024年01月04日 (木) 21時14分
名前:梶猛弩

かみのこ様

 コメント有難うございます。
 私が、このスレッドで結論として位置づけていることを、かみのこ様にそのまま書かれてしまいました(;^_^A。

 “吾妻鏡”が北条得宗家の視点からの歴史書であるように、
“先代旧事本記”が物部氏の視点からの神典であるように、
“釈日本紀”が卜部氏の視点からの記紀注釈であるように、
古代の神話・史書は、それぞれの氏族が語り継いできた伝承であり物語です。

 日本書紀は、“帝辞”・“旧辞”を元に、他18氏族各々の伝承を取りまとめ、編纂したものと言われています。
 そのため、正伝の他、多くの異伝を併記している。
 
 そして、その日本書記と古事記では描かれている神話やエピソードが異なっている。
 ここに着目し、ごちゃ混ぜにするのではなく、逆に因数分解することにより、
今まで語り継がれてきた国学・歴史と異なる日本像が見えてくるのではないか、
そこに私は、知的好奇心を駆り立てられるのです。

  
  >わかるのはその文書にはそのように書いてあるって事だけで。

 そこから、ピースを集めジクソーパズルを完成させる、
 スマホでバーチャル世界を攻略するより、余程、有意義なゲームだと思います。


  >藤原不比等が関わってるなら
  >これもやっぱり藤原氏に
  >都合良く書いてんじゃないです?

 トキ掲示板で何度か書きましたように、真実は事実とは限りません。
むしろ、それぞれの氏族が何をどのように伝えたかったか、混沌の中からそれぞれの真実を抽出する。。。
他の人が見向きもしないようなところに着眼し、掘り下げていけたら、私(梶猛弩)も頓珍漢な捻くれ脳味噌で産まれてきた甲斐もあるのかなと思っています。

 (62492)
日時:2024年01月05日 (金) 03時14分
名前:かみのこ

その対外的な従属史観と云われるような物を自分なりに出来るだけ排除して、かと言って自分の国に誇りを持つとかも排除してニュートラルに考えてみるとですね。

古代の日本は中国文明の影響を非常に強く受けてたと思うんですね。

 (62493)
日時:2024年01月05日 (金) 03時20分
名前:かみのこ

古墳も埴輪も法隆寺も和同開珎も中国文明に倣った結果の産物だと思うんですよ。
宗教だって密教も禅宗も中国からの輸入品ですね。ヨソの…と言うか中国の進んだ文明を取り入れる為に遣隋使を派遣したり。

渋沢栄一がヨーロッパ視察してパリ万博見てきたのと同じで他の進んだ文明を取り入れていた時代と思います。

 (62494)
日時:2024年01月05日 (金) 03時26分
名前:かみのこ

古代は中国文化圏の一部だったんじゃないかな?
少し時代が下って鎌倉時代とかになると中国丸パクリだったのが日本人なりにアレンジされて日本独自の文化が出来てきた。みたいな印象。

中国というのは適当ではないかな?
支那?中華かな?

排除ではなく、系統ごとの影響度合の分析 (62502)
日時:2024年01月05日 (金) 22時57分
名前:梶猛弩

 かみのこ様 

 コメント有難うございます。
 根底にある考え方は、 かみのこ様と梶猛弩では、大きなズレはないように思います。

 当然に古代日本は中国文化の影響を受けていますし、漢字文化圏の大きな括りの中に位置づけられます。
 私が主張したいのは、文化の影響を受けていることを以て、古代日本史自体を、古代中国の方が日本人自身のものより優位性があるように無意識のうちに思い込んでいるのではないかという問題提起なのです。  
 
 ちなみに、古代日本は、中国文化圏というより、もっと大きな、アジア文化圏という大きな括りの中で考察すべきだと考えています。
 生長の家保守派の方の好む表現で言うなら、大亜細亜共栄圏でしょうかね。“大東亜”ではなく“大亜細亜”。古代を東アジアだけで考えるのは範囲が狭すぎる。 
 なお私の言う“大亜細亜”や“大東亜”は、“>自分の国に誇りを持つとかも排除してニュートラルに考え”たアジア、東アジアなので誤解なきよう。

 さて、かみのこさんに質問です。
 古事記と日本書紀どちらの書物にも書かれている時代は、天地の始まりから推古天皇の御治世までですが、
 その中で“中国”に関して書かれた部分はどこでしょうか?

言葉の選択 〜安易な政治的利用と優越・蔑視感情想起の忌避〜 (62503)
日時:2024年01月05日 (金) 23時21分
名前:梶猛弩

  >中国というのは適当ではないかな?
  >支那?中華かな?

 私は、客観的に使うのなら、“中国”でも“志那”でも“中華”でも構わないと思います。

 ただ、現在は、中国でも日本でも、
 それぞれの国のプロパガンダやエセ保守派が、お互いの優越性を誇示したり、政治宣伝に使ったりしているのをみると、
“志那”という言葉も“中華”という言葉も積極的に使うのは避けた方がよいでしょう。
 無論、つまらぬ罵り合いではなく、学問的に使った方が適切な場合は、冷静に堂々と使用すればいいのは当然ですが。

 (62507)
日時:2024年01月06日 (土) 02時06分
名前:かみのこ

質問に対しては原文を読んでないのでわかりません知りません。としか言えませんね。

歴史的事実とお伽話が混ざった物にそれほど興味が持てず。
何か主張したい事が有ると言うよりは議論を楽しみたいように思えますがこの掲示板にはその話についてこれる論客はいないと思います。

何が論点なのか不明ですが古代は中国文明のが優位で良くない? (62508)
日時:2024年01月06日 (土) 02時18分
名前:かみのこ

弥生時代以前は農耕も青銅器も鉄器も大陸からの渡来人から伝わった。なら中国文明の方が常に先行してその優れた技術が日本にはやや遅れて五月雨式に間断無く入って日本の文明も進化したんじゃないかな。それは弥生時代以降も同じでしょう。違うかもしれないけども、そう考えるのが自然だと思う。

かみのこ様 (62511)
日時:2024年01月06日 (土) 03時08分
名前:梶猛弩

  >何が論点なのか不明ですが

 私の言いたいのは、
 例えば、(一つの仮説例として)
 ・日本書記の本書は百済の影響を強く受けている。
 ・逆に古事記は、新羅または扶余の少なからぬ影響がある。
 ・古事記は、中国との接点を一切断った記述としている。
 ・日本書紀の本書は中臣氏(藤原氏)系の伝承が中心。一方、古事記は、天皇家特にワケ王朝の伝承に、服属した国津系の神話が組み合わさって世界観が構築されている。
 ・このことから、古事記と日本書紀の記述の齟齬が意味するところが導き出される。

 と云うような仮説を導き出したいのです。なお、上記箇条書はあくまでその筋立てのイメージであり、最初から上記を結論づけようとしているという意味ではありません。

 すなわち、中国優位が正しいか否かは議論の本質ではないので、本スレッドでのかみのこ様の投稿と私の投稿は嚙み合ってこないのだと思います。

カジモド様、ご回答を待ってます (62523)
日時:2024年01月06日 (土) 12時34分
名前:元信徒


歴史の授業中は、教室で寝ていた元信徒です。

学校で習う歴史の時間がつまらなかったのは、自国の成り立ちを教えなかったからだと、
かってに思って、人のせいにするのが好きです。❤️😊
なので、古事記、日本書記に興味はあります



> 古事記と日本書紀どちらの書物にも書かれている時代は、天地の始まりから推古天皇の御治世までですが、
 その中で“中国”に関して書かれた部分はどこでしょうか?



上記の回答をお願いします。

中国に関するどんな事なんです?

興味津々で待ってます。





 (62533)
日時:2024年01月07日 (日) 00時16分
名前:かみのこ

学校の授業とかだと歴史より政治の話かもしれんですね。左の人は神道の話をやるの抵抗有るでしょう。
竹田恒泰さんが教科書作ったら神話の事を書き過ぎだって不合格になったとか話がありましたね。

古事記と日本書紀 Beginner Questions (62546)
日時:2024年01月07日 (日) 23時17分
名前:梶猛弩

 現段階での私(梶猛弩)の歴史や神話の知識・考察は入門・初学者レベルなので、基本的なところがわからず、トンチンカンな投稿をする場合がほとんでです。

 そこで、まず最初に、初歩的な疑義がある部分を、いくつか(とりあえず10個)挙げて、順番に整理していくことにします。


1.古事記と日本書紀、神名や人名が異なる漢字で書かれているのは何故なのか。

2.古事記の存在が日本書記や続日本記といった正史に記載されていないのは何故なのか

3.一人の神様に複数の名前があるのは何故なのか。

4.日本書紀に一書があるのは何故なのか。

5.造化三神が古事記にしか記載されていないのは何故なのか。

6.古事記と日本書紀、国産みの島の名前や順番が違うのは何故なのか。

7.出雲神話が古事記にしか書かれていないのは何故なのか。

8.葦原中国平定、天孫降臨、神武東征、倭建征討が何故この順番なのか。

9.古事記の仁賢天皇以降の記述が簡略過ぎるのは何故なのか

10.古事記は推古天皇で終わっているのは何故なのか。


 これらについて、明日以降、自分の拙い知識で梶猛弩的仮説を組み立てていこうと思いますが、疑問自体に初歩的な勘違いがあるかもしれませんし、
その点をあらかじめご指摘いただいたり、模範解答を知っている方がいればご教示いただけると幸いです。

 また、書いているうちに、次々と新たな疑問が沸いてきますので、順番が反れていったり脱線する場合も多いと思います。ご容赦ください。

 (62547)
日時:2024年01月08日 (月) 01時52分
名前:元信徒

>  一方、小学校・中学校の授業で習う、古代日本の最初のヒロインは邪馬台国の女王・卑弥呼でした。

 子供心に不思議でした。
 神功皇后や倭姫は、日本の古代の代表的書物である古事記にも日本書紀にも活躍が描かれている。一方の卑弥呼は、記紀はおろか日本のどの古代歴史書にもその名は書かれていないのです。
 ほとんどの日本人は、実在するニッポン最初の女王様お姫様は誰かと問うと、卑弥呼と回答します。神功皇后や倭姫は伝説神話の人物だと答えます。
 
 「卑弥呼は魏志倭人伝という中国の正史に書かれているから実在。古事記と日本書紀に書かれている神功皇后・倭姫は神話であって歴史ではない。」と。




この辺りとか、

女王卑弥呼 って 日皇子 で、天皇陛下の事だったかもね。

重なっているから、日本では呼び方が違うから同一人物でも卑弥呼とは、中国の呼び方だから、日本に帰国したら天皇となるのかも。
知らんけど。


想像をたくましくしていいかもね、歴史って。

ま、私の中で、中国の卑弥呼って、日本の日皇子で男性だったと勝手にここでは、言ってみる。

邪馬台国は九州でなく、大和大国ですでに奈良県だったとか。


カジモドさん、想像しながら語ってみては?どうなるかな? ウソになる?笑






卑弥呼は何者? (62556)
日時:2024年01月08日 (月) 19時31分
名前:梶猛弩

元信徒様

 コメント有難うございます。
 卑弥呼に関して、少し思うところを書いてみますね。


 中国史書で書かれた“卑拘”が、“ひこ”“彦”“比古”すなわち“王”であるように、
卑弥呼は、“ひめ+みこ”。即ち、巫女の役割を果たした姫であったと思います。

 日本の歴史家が、“卑拘”は“彦”で解釈するのに、“卑弥呼”は“ひみこちゃん”という女性人名で解釈するのが当然としているのが合点いきません。
どう考えても、日本の学説や教科書の記述が、無理筋のようにしか思えません。単純な国語力・文章読解力の問題としても。

 では、梶猛弩として、“卑弥呼=姫巫女”を誰と考えているかというと、

  ・倭姫命(ヤマトヒメ)…173年に新羅に使者を派遣した卑弥呼〔新羅本記〕
  ・神功皇后(オキナガタラシヒメ)…189年頃王として即位し247年頃死去した卑弥呼〔後漢書、魏志倭人伝他〕
  ・記紀を彩る伝承の時代の姫たち…中国史書・朝鮮史書に記載された卑弥呼

即ち“卑弥呼”は倭国(日本)の“姫巫女”の尊称であり、特定の人名ではないと考えています。
後漢書、魏志倭人伝、新羅本記他すべての史書を平等に読み込むと、そういう解釈が一番自然な文章読解テストの解答になります。


 さて、親魏倭王の金印を授けられた卑弥呼は誰かというと、、、

(1)前提(梶猛弩説)
 ・新羅本記を読むと、倭国と新羅の関係が悪化し戦争状態だったのが、193年から233年。
  この年代に最も大きな業績を為した卑弥呼が存在する。〔中国朝鮮複数史書〕
 ・日本の記紀を読むと、新羅との関係があり険悪になり戦争状態になったのは神功皇后の時代。神功皇后は約70年間摂政として国を統治し、三韓討伐・新羅討伐を行った。
 ・当時の卑弥呼の即位は189年、死去は247年頃。概ね70年摂政として国を治めたとする日本側の史料と、中国・朝鮮側の史料は概ね一致する。
 ・よって、魏志倭人伝の倭国大乱後の卑弥呼は、神功皇后である。

(2)反証(通説)
 ・新羅本記・百済本記・好太王の碑文に書かれている倭と朝鮮半島各国の争いは、347年から500年まで。(4世紀中葉から5世紀後半)
 ・石上神宮伝来の国宝“七支刀”は、“百済王が倭王に送った”とあり、日本書紀では百済から神功皇后に送られた“七枝刀”の記述がある。
 ・4世紀中葉から5世紀までの朝鮮半島全体を巻き込んだ倭の出征が、三韓討伐であると考えるのが自然。神功皇后は4世紀中葉に活躍したと推定され、魏志倭人伝記載の卑弥呼ではない。

(3)結論(通説に対する同意・反論)
 ・上記(2)通説が正しいとするならば、魏志倭人伝の卑弥呼は、倭姫などそれ以前に生きた姫巫女である可能性はある。
 ・いずれにせよ、卑弥呼が特定の女性名ではなく、姫巫女であるとする考え方を否定するものではない。
 ・通説の中国・朝鮮史書部分には、4世紀中葉から5世紀後半に渡る長期間に攻めてきた倭の主が女性であるという記述はまったくない。
 ・梶猛弩として通説を採り入れたとしても、魏志倭人伝の卑弥呼は、神功皇后であることが最も高く、年代的におかしいと証明されたとしても、倭姫など記紀を彩る姫巫女達の誰かに位置づけられる。

  
 私(梶猛弩)の考えを文章化するならば、こういう風になります。
 さて、この掲示板での議論・反論で、論破されるか補強されるか。。。

ワケ古墳群築造年代からのアプローチ(梶猛弩説への己の反論) (62579)
日時:2024年01月10日 (水) 23時06分
名前:梶猛弩

 自分で、親魏倭王である卑弥呼は神功皇后であるということを書いておいて、自分で反証を始めるというのも情けないですけど、
前投稿のあら探しを自分でやってみると、確かに年代的には無理があるなという気になってきます。

 応神天皇から始まるワケ王朝は、百舌鳥・古市古墳群の主。4世紀後半から始まります。
神功皇后は、応神天皇の先代・仲哀天皇の皇后なので、247年死去では、約100年のズレが生じてしまう。

 そうすると、三輪王朝の姫巫女、崇神天皇以降倭建命以前の“姫命”“比売命”たち
 …豊鍬入姫命、国方姫命、千千衡倭姫命、淳名城入姫命、十市入姫命、日葉酢媛命、五十琴姫命、加具夜比売命、胆香足姫命、稚浅津姫命、大中姫命、倭姫命…。
の中に、親魏倭王たる卑弥呼がいることになりますか。

すごいな (62586)
日時:2024年01月11日 (木) 10時52分
名前:元信徒


よく、それだけの候補者があがりますね。

卑弥呼さんは、どなたか?

天皇でしたら、記録に残るから違うのかな?

当時は天皇家でも記録に出来なかったのか。

日本には資料が少ないですね

七つの刃の明示したりし銘字 (62594)
日時:2024年01月11日 (木) 22時11分
名前:梶猛弩

 中国史書に盲従し日本記紀を御伽噺とする現代日本の古代史観。これを私は従属史観の原点というふうに考えています。
 それは、中国史書を否定しているのではありません。

 日本の古代史を洞察するにあたっては、まず、記紀を主たる資料とし遺跡・遺物・国内古代文献で考察し、中国史書は傍証や補強材料として活用するのが筋で、
今の日本は主従が逆転してしまっているのではという問題提起です。

 また、安易に記紀や史書を、思い思いに書き違いだ勘違いだと、自分の思い通りに訂正する今の歴史家の考え方も好きではありません。
 古代史だから煙に巻かれて何となく納得させられる気持ちになりますが、原典を片っ端から訂正していったら、それは、本当に好き勝手に創作できてしまうからです。
 少なくとも、論理的にギリギリまで詰めて行って、他の史料とどうしても整合性が取れないところのみ修正し、更にその修正自体が矛盾がないか検証した上で、学説とすべきです。

 特に政治的イデオロギーが入ってしまうと結論ありきになるので、右であれ左であれ、学問とは言えない与太話が巷に横行するようになってしまうのです。


 さて、日本の記紀に記載があり、かつ遺跡・遺物が残されているとなると、
 第一番に挙げられるのが石上神宮に奉られている国宝“七支刀”でしょう。”
 七支刀の刀身には、“秦■4年に造られ百済王が倭王に贈った”と刻まれています。
 また、日本書紀において、百済から贈られた“七枝刀”として、神功皇后57年の条に記されています。
 記紀と遺物が一致する好事例なので、これを基底に理論を組み立てていくのが一番いいのでしょう。

 百済が倭国の王に贈ったのが神功皇后57年
 七支刀が造られたのが秦■4年。これは、268年、369年、468年等様々な説があるようです。
 ただ、5世紀はワケ王朝(応神王朝)の全盛期なので、468年は有り得ない。
 そうすると、268年か369年のどちらかということになります。
 
 369年説を採用すると、昨日の“ワケ古墳群からのアプローチ”での推論とほぼ合致し、
神功皇后は、日本書紀、百舌鳥・古市古墳群、七支刀の3つの史料から4世紀後半までに活躍した女王である可能性が高くなります。
 ここまで、推理した上で、中国史料を当てはめてみる。

 369年説は勿論のこと、268年説を採用しても、248年に死去した卑弥呼(姫巫女)は、神功皇后たり得ない。

 これで、私が最初の仮説で結論付けた“神功皇后=卑弥呼”説は、完全に否定されることになりました。

建国神話と建国史 (62627)
日時:2024年01月13日 (土) 20時48分
名前:梶猛弩

 建国神話と建国史を定義づけをするなら、
 建国神話は、“創世紀から始まり、その国を建国したとされる神を中心に、神の血筋を引く人々の伝記や国づくりのストーリー”。
 建国史は、“国家を樹立するに当たっての、出来事、関与した人物、文化について事実に基づき客観的に説明したドキュメンタリー”。
となるのでしょう。
 
 感覚的には似てますけど、抒情詩か叙事詩か、物語か説明か、感動に訴えるか理性を動かすか、と言うイメージでしょうか。

 古事記と日本書紀も、建国神話と建国史の違いと考えた方がわかりやすいかもしれません。
 もちろん、古事記は天皇家の神話・歴史、日本書紀は国家の正史としての神話・歴史というのも、性格を端的に表して正しいでしょうが、
少なくとも、現在の学校の授業で教えているような、古事記は国内向け、日本書紀は国外向けというのは本質を誤りかねない。
 事実、国史を宮家・貴族が学ぶ宮中行事である“日本紀講筵”は、日本書記が基本テキストであり教養の第一であったわけですから。
 日本の朝廷や民に対して古事記を教えたわけではないですし、外交使節や異国人に日本書紀を説明していたわけではありません。
 
 さて、建国神話と建国史という視点から、様々な国を見てみます。

 まず、イギリス。
 建国史は、アーサー王伝説や七王国から始まり、ウェセックス王エゼルスタンのイングランド建国あたりが伝説のメイン。
 建国神話というと、ケルト人信仰、ドルイドの祭祀に重点が置かれます。

 アメリカはどうでしょう。
 建国史は、コロンブスの新大陸発見、西部開拓史、ジョージ・ワシントンの桜の木の逸話、独立戦争などがダイナミックに描かれます。
 建国神話は、むしろ、インディアンの自然崇拝、南はインディオ文明の影響、北東はアルゴンキン族の(地中海文明の伝播した)民間伝承を述べないと神話にならないかもしれませんね。
 
 そして、日本。
 同じころに編纂された古事記と日本書紀の大きな違いを見ると、
 第一に、古事記には造化三神など別天津神の記述が重要な要素を占めるが、日本書紀には無いに等しい。
 第二に、古事記にある出雲神話が、日本書紀には無いに等しい。
 第三に、古事記の武烈天皇前後から非常に簡略な記述。継体王朝に入ってからはおざなり。最後の推古天皇を申し訳程度に在位期間と陵墓の場所を書いて終わる。
一方の日本書記は武烈天皇の悪行が強烈な印象を残し、継体朝(越王朝)以降の業績が際立っている。天智朝から天武朝への移行がドラマチックに展開し、持統天皇で締めくくる。
…といった相違点が見えてきます。もちろん具体的記述は他にもたくさん違いがありますが。

 古事記にあって日本書紀にないものは、神話としての意味をなすもの。
 日本書紀にあって古事記にないものは、史実として意味をなすもの。

 先に述べた第一から第三を見る限り、この分類が一番しっくりしそうです。


淡路島と越洲 〜国産み神話の不思議〜 (62712)
日時:2024年01月17日 (水) 21時47分
名前:梶猛弩

 “国産み神話”は不思議ですね。
 古事記と日本書紀で産まれてくる島が違うのですから。
 日本書紀では、わざわざ本書の他に異伝を5つも書いてあるし。

 どれだけ科学が進化しようとも、遺跡や遺物の歴史的発見があったとしても、国産み神話の意味を証明するのは相当厄介なのでしょう。
 日本書紀に計6通り、古事記も入れると7通りの国産み神話がある意味については、思うところは後日として、今回は“淡路島”と“越”について。

 国産み神話で一番最初にできたのは“淡路島”、日本書記の一書に本州が最初と書いてあるのが一か所ありますが、あとは全て淡路島。
 そうすると、淡路島を第一とする相当重要な意味があるのではと誰しも思うところ。
 学者さん達の説を比較してみると、古代の御食国として最も重要な島だったとか、鉄器生産の重要拠点だったとか、いろんな説がありますが、古事記と日本書紀本書、他の異伝もほとんどが淡路島を第一とするには、食とか鉄器では弱すぎるような気も。
 自分的には、九州から大和へ進出する過程で、瀬戸内海の島々そして大和一歩手前の広大な島である淡路島がとても重要な進出ルートであり役割であったと考えるのが、一番自然かなと思っています。 
 そうすると“吉備の児島”や“小豆島”、“大島”という瀬戸内海の島々を古事記が国産みで羅列する意味も理解できますし。
 ただ、実証できないので、仮説以上のことは何も言えない。
 
 更に興味深いのは“越洲”。越は本州の一部であって島ではないのに日本書紀の本書に“大八島”の一つに挙げられていること。そして、本書ばかりか5つある異伝のうち4つに越が記載されている。
 しかし、古事記には、越はない。

 日本書紀で島ではない越が強調されているのは、継体王朝(越王朝)への配慮というのは、ほぼ異論ないようです、私もこれは同意できます。

 そうすると、今度はなぜ古事記には越はないのかという疑問が沸いてきます。
 ふと思ったのは、古事記は、日本書紀のような編纂過程を経ることなく、より古い形態を保っているからではなかろうかということ。
 古事記に継体天皇や推古天皇のような強いカリスマ性を持った偉人譚が一切書かれていない意味。
 ワケ王朝最後の天皇である武烈天皇の暴虐ぶりが日本書記のみ描かれている意味。

 すなわち、ワケ王朝までの最も古く伝承に忠実な“旧事”“ふることふみ”が古事記であるというのが、自分の中で最も胸にストンと落ちる考え方です。

古事記と日本書紀 〜完成された重層世界〜 (62734)
日時:2024年01月18日 (木) 22時14分
名前:梶猛弩

 私はあまりテレビは観ない方なので、大河ドラマとかよく知らないですけど、
徳川家康とか紫式部とか歴史を舞台にした大作はかなり時代考証に気を使っているのでしょう。
 素人目でも矛盾していると、ネットとかでかなり叩かれるようですし。
 私個人は、娯楽作品であれば、ある程度の創作は仕方ないので、ドラマの中で作られたお約束を守れば目くじらを立てる必要はないとも思っていますが。
 ただ、たとえ創作ドラマであっても、その中にある世界観を自分で壊せば、途端にそのドラマはの価値は半減してしまうとは思います。

 記紀も同じでしょう。
 神話としての古事記や歴史としての日本書記。神話には神話なりの、史実には史実としての完全な世界観が構築されています。

 矛盾していると思うのは、その重層的世界観を理解せずごちゃ混ぜにして解釈しようとしているからと考えています。

 特に、天岩戸のところを読んだときに率直にそう思いました。
 天岩戸の物語は、古事記にも日本書紀の本書にも、また複数の一書にも描かれています。  
 それぞれ流麗な物語を奏でていますが、どのストーリーも高天原が舞台です。

 実際には、天岩戸は、お伽話かもしれないし、歴史かもしれない。
 本来、歴史家や文学者は、御伽噺であれば、その世界観の中で矛盾なくストーリーを構築すべきだし、歴史と考える研究者がいれば、史跡・遺物・他文献など他の根拠がない限りは、唯一の根拠である記紀の世界観に則って解釈すべきなのでしょう。
 ところが、実際には、完成された世界観を、深く考えることなくぶち壊しにしている文学者や歴史家が結構いるなと感じたのが正直なところ。

 決定的なのは時間軸。
 時間軸は、古事記も日本書記も、
 天地開闢→高天原→天孫降臨→神武東征という時間軸で話が進んでいきます。

 すなわち、高天原を舞台にした天照大神の岩戸隠れは、ニニギ(瓊瓊杵尊)が高千穂に降り立つ前の話。
 天岩戸が日向国にあるはずがないのです。完成された世界観なら。

 ファンタジーだからロマンがあって面白ければいいという人もいますが、子供向け初心者向けなら興味を持ってもらうという方便として許容範囲かもしれませんが、大人向けファンタジーならなおのこと矛盾のない世界観を構築しないと、矛盾が矛盾を呼び、最後には見向きもされなくなってしまいます。
 ましてや、それで飯を食っている学者や研究者が、所与の前提であるかのように高天原は九州だと主張している人が結構いる今の学術界や論壇には、ちょっとがっかりしてしまう。
 
 古事記も日本書記も、完成された美しい世界観を持っていると思うからこそ、少なくとも学問として研究をしている人達は、自身で世界観を破綻させる愚は持ってほしくないと思います。

伊邪那岐の禊 (62760)
日時:2024年01月20日 (土) 00時48分
名前:梶猛弩

 時間軸を前に戻します。イザナギが黄泉国から戻ってきて身体を清める場面。
 イザナギが水中で身体を洗ったときに顕れた神々が、天照大神、生長の家の大神様となる住吉大神を始めその後の日本にとってとても大切な場所です。

 “竺紫の日向の橘の小戸の阿波岐原”と書き下し文では書かれています。


 この部分を読んだとき、あらゆる神々が誕生する最も神聖な場として神話に記載するには、現実的な地名すぎるんじゃと違和感を覚えました。場所設定がスケールが小さすぎるというか。。。
 まるで、博多駅前の通り一本入ったとこに旨い寿司屋がありますよ〜みたいにリアルすぎる。

 手元に何冊かの古事記現代語訳、日本書記現代語訳があるのですが、福永武彦氏の訳では、この地を「筑紫の国の、朝日の射す、橘の木の青々と茂った、海に近い河口あたりの阿波岐原」と訳しており、日向を地名ではなく「朝日の射す場所」と表現しています。

 ただ、これでも“筑紫の国”“阿波岐原”という特定地名があることが不思議で、更に他の説を調べてみました。

 結果、自分的には、次のような読みこなしが本来の原典の言いたかったことかなと感じています。
 すなわち、“竺紫の日向の橘の小戸の阿波岐原”は特定の地名を指しているのではないということ。
 竺紫とは“尽くし”すなわち“最果て”。
 日向は、福永武彦氏の訳と同じ“日の当たる”。
 橘は“柑橘系の樹木”
 小門は“小さな入り江”。
 阿波岐原は、“粟が実る原野”。

 通して読むと、

 “黄泉の国から帰ってきたイザナギは、最果ての地にある小さな入り江に辿り着いた。そこは、太陽の光が燦燦と降り注ぎ、柑橘系の樹木が生い茂り、豊かに粟の実った美しい野原の先にあった。イザナギはその入り江に入り、美しい水で身体を清めることによって、住𠮷三神や天照大神といった神々を創造していった。”

という詩的な情景が浮かんできます。

 このように読み込んでいくと、古事記も日本書記も、とても素直に心の中に入っていきます。

漢字の無意味と発音の意味 (62787)
日時:2024年01月20日 (土) 22時58分
名前:梶猛弩

 古事記は、推古天皇までのことが書かれていると言われていますが、実質的な記述はワケ王朝の終わりまでで、継体天皇以降の記述は生年・即位年・死没年・宮地・陵地を簡単に述べているだけです。
 継体朝(越王朝)からは、仮借(発音だけ漢字から借りてきている)による文字伝承が始まりましたので、ワケ王朝で終わる古事記こそが古くから口伝で伝わる伝承、すなわち散逸したと言われる“旧事帝記”とほぼ同義であると言ってもいいのではないかと考えています。

 武烈天皇以前は、口頭伝承ですから、記紀で当てはめられている漢字は、ずっと後になってからその字を使っているだけなので、奈良時代に日本書記編纂にあたり意味を持たせたいと考えた漢字以外は、あくまでも表音文字=発音でしかありません。
 古事記と日本書紀で、神名・人名・地名の漢字が大きく異なるのは、これが一番の原因なのでしょう。

 古事記の漢字は、より古い時代の仮借形態が素朴に残っているのでしょう。

 逆に言えば、記紀の漢字に深く思いを至らせてしまうと迷路に入ってしまうので難しいところ。

 更に古代の言語(上代日本語)は、母音が5つじゃなかったとか。
 自分的には、今の五十音がヤ行が“やゆよ”、ワ行が“わを”で50音もないよとか子供時代に想っていたのがそれかなとも思いまし、“え”“ゑ”とか“お”“を”とかもその名残かと。
 調べてみると、上代日本語は、8母音あり“「はひふへほ」は「ぱぴぷぺぽ」”と発音したらしいですね。

 記紀を読むにあたって、“漢字の無意味”と“発音の意味”も絡めて読み解かなければならないとなると、高校生レベルの古文の知識も忘れ去っている自分にとっては、相当な難問です。

古事記への疑問に対する梶猛弩的な解答 (62819)
日時:2024年01月22日 (月) 21時59分
名前:梶猛弩

 古事記は、口伝で受け継がれてきた旧事・帝紀を文書化したもの、私はそう考えます。
 ただ、もう一歩踏み込んで疑問とされるのが、
 ・何故、天武天皇は古事記と日本書紀という二つの記紀の編纂を命じたのか。言い換えれば奈良時代の同じころに何故二つの史書が作られたのか。
 ・日本書紀などの六国史に古事記の存在が示されないのか。
 ・古事記と日本書紀の内容が相当程度異なっているのは何故なのか。
というものです.

 これについて、天皇家の神話・歴史と日本国の神話・歴史として、それぞれ編纂された。その前提の上で、もう一つ大きな理由があると考えました。

 それは、天武天皇が編纂を命じ奈良時代に完成した史記は、天皇家の古事記と、正史としての日本書記だけではないのだということ。

 日本書紀の編纂は、天武天皇が旧事・帝紀に加え、十八氏族の墓誌を提出させて取りまとめたと言われています。

 すなわち、大本となる旧事・帝紀・・・古事記
 物部氏や尾張氏の家伝・・・先代旧箏本紀の原型
 中臣氏(藤原氏)の家伝・・・藤氏家伝の原型(ただし、中臣氏時代のものは日本書記正書に取り込まれた)
 卜部氏の家伝…亀相記
他、蘇我氏、大伴氏、吉備氏、葛城氏、東漢氏…、
それぞれの氏族に“天武天皇の命により奈良時代に編纂された古事記・家伝”がある。
つまり、古事記と日本書紀の二つでなく、書紀を除けば十九書あり、これが集まり取捨・選択された結果が日本書記である。
 これは日本書紀に正書の他、多くの一書(異伝)が並列的に並べられている理由にも繋がってきます。

名前の数だけ伝説がある (62828)
日時:2024年01月23日 (火) 21時47分
名前:梶猛弩

 2024年1月7日付け拙稿“古事記と日本書紀 〜Beginner Questions〜”において、古事記と日本書紀を読んだ後に感じた疑問を取り敢えず10個挙げました。
 
 以降思いつくまま、この疑問に対する私見を述べましたが、不足している部分もあると思いますので、残りを補う形で書き記してみます。
 
 まず、一柱の神様あるいは一人物に、とても沢山の名前がついていることへの疑問。

 古事記と日本書紀のように書物が違うと、仮借として当てた漢字が違うとか、発音の違いによるものですが、同じ古事記の中、日本書紀の中でも覚えきれないくらい沢山の名前がついている場合があります。
 幼名とか成人名とか美称とか和風諡号とか書かれていて、一人の人に複数の名前が付けられていますし、
 天皇は、古事記・日本書紀が編纂されたずっと後である奈良時代中期に、漢風諡号が付けられて、本当なら記紀には書かれていないけれど、これが通り名になっています。
 
 ただ、それ以上に沢山の名前を付けられている神様や人物がいる。

 典型的なのが大国主命。
 古事記を中心に見ても、大国主は、大名持、大穴牟遅、葦原色許男、八千矛神、宇都志国玉神…。

 大国主の兄弟の八十神というのは、“八”というのは沢山のということなので、大国主の兄弟神となる多くの神々ということで定説になっているので、わかりますが、大国主も、大名持=多くの名を持った、八千矛=非常に多くの矛、からも、沢山の国津神の抽象化された集合体と推測されます。
 天孫降臨前には、非常に多くの国津の民がいて、日本は群雄割拠の状態であった。
 その多くの古来からの日本の民の代表的な集団が、出雲の民だった。
 ゆえに、多くの日本古来の民の伝承は、出雲神話として取り込まれ、古事記の中で重要な位置を占めることになった。
 もちろん、出雲以外にも、高志、鳥取他、別名の数、妻の数の伝説の数以上の、国津神がいて、特書きすべき重要な国津神だったために、各地の伝承として残され古事記に取り込まれたのでしょう。

 一柱の神、一人物の複数の名前がある場合、異なる伝説を集約したであろうということや、“八”という数は多くのを表現していることは、現在の古代史学で多数説ですし、私もこの考え方に立っています。

梶猛弩様 (62830)
日時:2024年01月24日 (水) 00時01分
名前:志恩

>(前略)
ただ、それ以上に沢山の名前を付けられている神様や人物がいる。

 典型的なのが大国主命。
 古事記を中心に見ても、大国主は、大名持、大穴牟遅、葦原色許男、八千矛神、宇都志国玉神…。

 大国主の兄弟の八十神というのは、“八”というのは沢山のということなので、大国主の兄弟神となる多くの神々ということで定説になっているので、わかりますが、大国主も、大名持=多くの名を持った、八千矛=非常に多くの矛、からも、沢山の国津神の抽象化された集合体であることがわかります。
 天孫降臨前には、非常に多くの国津の民がいて、日本は群雄割拠の状態であった。
 その多くの古来からの日本の民の代表的な集団が、出雲の民だった。
 ゆえに、多くの日本古来の民の伝承は、出雲神話として取り込まれ、古事記の中で重要な位置を占めることになった。
 もちろん、出雲以外にも、高志、鳥取他、別名の数、妻の数の伝説の数以上の、国津神がいて、特書きすべき重要な国津神だったために、各地の伝承として残され古事記に取り込まれたということだと思います。

 一柱の神、一人物の複数の名前がある場合、異なる伝説を集約したであろうということや、“八”という数は多くのを表現していることは、現在の古代史学で多数説であろうと思いますし、私もこの考え方に立っています。<

志恩ー
他スレッドにも書きましたが、私は数年前に、実際に、妹と2人で
出雲大社へお参りし、大国主命にまつわる資料を沢山見てきましたので、
大国主命に対しては親近感があります。ネット検索しても、大国主命は、
たくさんの名前の持ち主なのでした。

「なぜ、一神様に、こんなにたくさんの名前がついたのでしょう。」
につきましては、
(この神様だけではありませんが。たくさん名前がついているのは。)
それだけ多方面で、国づくりのため、大活躍されたからでしょうね。

梶猛弩様が書いておられますように、
>一人物の複数の名前がある場合、異なる伝説を集約したであろう<と。

上に貼った資料にも、
>なぜこれほどまでに多くの名前をお持ちであったのか?
それは国造りをする上でも、色々と多くのお役目を果されていたからだと
考えられています。<

と、記されています。

大国主命、お一人の神様のことだけでも、深掘りすると、
今の時代のわれわれには、知らないことばかりです。

ですから、梶猛弩様を通して、われわれも学び直すことは、
大変貴重なことであり、楽しいことだと思っております。


https://www.anahitastyle.com/blog/114/

住𠮷大社神代記 (62839)
日時:2024年01月24日 (水) 22時42分
名前:梶猛弩

 祖父母の代からの生長の家会員としての家庭に生まれてきましたので、住𠮷大神の御尊名は小学校時代から聞きなれた神様の御名前です。
 
 今、改めて古事記や日本書紀の漢字テキスト、現代訳をそれぞれ何冊かずつ買い揃え比較しながら読み込んでいますが、喉から手が欲しくなっているのが“住𠮷大社神代紀”。731年という古事記や日本書記とあまり変わらぬ年代に成立したという書物ですので、比較文献としては不可欠なものかなと思っています。
 そう簡単に手に入るものではないみたいですが。。。


 さて、住𠮷大社神代記は731年成立と言われていますが、記述・文法から見て、平安時代の成立と言われています。
 ただ、この書物自体は、更に古い“住吉大明神大社神代記”と“住𠮷現神大神顕座神縁記”の合本・編纂であり、大本の原典である“住吉大明神大社神代記”、“住𠮷現神大神顕座神縁記”は731年の成立と考えて間違いないのでしょう。

 余談ですが、こうした編纂・再編集を現代の宗教書で行う場合もあるやに聞きますが、これはあまり好ましいことではありません。
 後世に、原典の普遍性が疑われる可能性が高まるからです。
 どうしても、新たに刊行する場合は、“新編”ではなく、“釈記”“通解”として原本を尊重しながら出版すべきです。古文書でも宗教書でもこれは必要最低限のルールです。

 日本は過去、“古事記序文”と“先代旧事本記”…と同じ過ちを何度も繰り返し、そのたびに最悪真贋論争にまで発展しかねない事態を招いてきたのですから。
 ちなみに、“古事記”は読み込むと、逆に序文の奏上・要約が余りにも名文過ぎるがゆえに還って真贋論争に発展したのだろうなと容易に推測できます。平安時代初期、多人長(太安万侶の子孫)が“日本紀講筵”で古事記を語った経緯を読み込めば、古事記の正統性も“日本紀講筵”に当たって序文を付した意味も理解できます。

 余談が長くなりました。
 住𠮷大社神代記の文献的意義は、日本書記本書と異なる神話伝承にあると思います。
 日本書記の一書(異伝)に近く、古事記の旧伝承なのかとも思わせる箇所が複数あること。
 これは、比較文献論の観点から日本古代宗教の考察を試みている私にとっては、これ以上ない御宝!

 サラリーマン辞めたら、住𠮷大社に日参して所蔵文書を拝読してみたい、そんな夢も持っています。

 (62840)
日時:2024年01月25日 (木) 00時51分
名前:*

https://dl.ndl.go.jp/pid/2553305/1/3

住吉大社神代記

“摂津徴”から連想する (62849)
日時:2024年01月25日 (木) 21時35分
名前:梶猛弩

 *様。ご教示有難うございます。

 国立国会図書館デジタルコレクションで読めるのですね。
 幕末の浅井幽清が“摂津徴”の中で“住𠮷大社神代記”を書き写したということですか?
 大変参考になりました。
 時間があるときにじっくり読ませていただきます。

 ちなみに、“摂津徴”から、森鴎外の“最後の一句”を連想してしまいました。
 自生思考レベルで飛躍しすぎてますので、“日本國 学び直し”ではなく、“これからの生長の家を考える”の方で感想を投稿させていただきます。

古代関東を解く鍵  〜矢上上ノ町遺跡群から考える〜 (63025)
日時:2024年02月03日 (土) 20時29分
名前:梶猛弩

 記紀を通読していると、倭建の東征以外に東日本の記述がほとんどないということに気づきます。
 日本の象徴ともされる富士山すら出てこない。
 
 あえて、東の果てはどこかという視点なら、
  大八島で、日本海側の佐渡島。
  国譲りで、信濃の諏訪
が出てくるくらい。

 このため、先入観なしで記紀を読んでみた段階での私は、“大倭豐秋津島”は本州の西半分を指しているのかなと考えていました。
 “フォッサマグナ”(大地溝帯)が大きな分岐点になるのかなとか。

 ここから派生して、“瑞穂の国”を統治する天孫族が、東日本(少なくとも関東以北)に進出するのは、倭建の東征以降、すなわち、三輪王朝中期から後期にかけてではなかろうかというのが、私の初期仮説です。
 なので、第12代景行天皇以前の時代には、関東地方には稲作そのものを神の儀式とする発想はなかったということになるはず。

 なお、常陸国風土記は、奈良時代の高橋虫麻呂や藤原宇合がその編纂に強く関わったとされており、大和王権・物部氏・中臣氏の影響が強く、単純に太古の北関東の風土記とするのは早計なのでしょう。

 一方、大地溝帯以東に係る梶猛弩仮説を、遺跡の存在により揺るがしているのが“矢上上ノ町遺跡群”です。
 弥生時代の集落を源流とし、古墳時代前期の数多くの円墳、方墳、前方後円墳から地方一帯を治め、倭勢力と対峙あるいはその後、大和政権下で活躍したとされる古代大豪族の存在が垣間見えます。
 それは、紀元前後すなわち欠史八代の世から存在し、継体王朝移行後の6世紀頃まで、すなわち500年以上にわたる強固な国(氏神・産土神を奉る地域社会)の存在。
 
 ここには、最も高い位置に“井田なつみ台遺跡”という弥生時代中後期の田園跡があるのですが、丘陵のふもとに集落があり、田園からなだらかに連なる丘陵地帯に方墳・円墳・前方後円墳が連続するまさにその頂点にあるのが、神に稲穂を捧げる祭祀的な神田。

 仮に、倭建東征はるか以前に瑞穂の国たる神田の風習が関東地方にあるとすれば、梶猛弩説は崩れ、古事記・日本書紀に富士山を始めとする東日本の地理・歴史が描かれない理由について、再度、仮説を組み立て直さなくてはならなくなりますので。

日本固有の領土、文化、同胞 (63186)
日時:2024年02月08日 (木) 21時54分
名前:梶猛弩

 日本の領土・領海がどこまでなのかを学ぶとき、日本の東西南北の最も先にある島をイメージします。

 東の端なら南鳥島で確定でしょう。
 西の端なら与那国島。
 南の端なら沖ノ鳥島。

 ちなみに与那国島の少し北東にある尖閣諸島は日本の固有の領土です。
 一番端ではない、日本海側に浮かぶ竹島も日本の固有の領土です。

 こうした島々は無人島が多いですが、過去の歴史的経緯から見ても、たとえ無人島であったとしても、日本人の立場として尖閣諸島も竹島も日本に領有権を主張しない日本人は存在しません。
 過去の領有権を主張する領土内である以上、その中にある有人島に古来から住む人々は日本人です。大東亜戦争後、沖縄が昭和47年までアメリカに占領されていましたが、その間も、紛れもなく日本でありそこに住む沖縄の人々が日本人で無かったことなど一度としてありません。
 その望郷の念こそが、一日も早い返還運動に結びつける原動力になったのです。

 さて、北の端です。
 北方領土と言われる(択捉、国後、歯舞、色丹)を日本の固有の領土であることを否定する人は日本には存在しません。当然です。歴史的に見て、一度も他の国の主権を認めたことがないのですから。
 多少議論があるとしたら樺太の位置づけ。南樺太と呼ばれる北緯50度から南の部分。これについては明治38年(1905年)から日本の領土となりました。昭和26年(1951年)のサンフランシスコ平和条約をどのように捉えるかの論点があります。
 しかし、少なくとも我々日本人の全員が北海道の北にある北方四島まで歴史的に見て日本の固有の領土であり、これからも日本の領土であり続けることに疑いを持っていません。

 そして、歴史的に見て日本の固有の領土に住む人は、当然に日本民族です。
 沖縄の琉球民族はもちろんのこと、九州の隼人であっても北海道の道産子であっても、あるいは本州のタタラとかマタギとか職業集団としての分類であっても、それぞれの地域・伝統・文化を日本固有の伝統・文化として尊重します。
 
 あえて、こういう当たり前のことを何故書いたのかというと、
最近、日本の固有の領土である日本や千島に長い歴史を持って住み続けていた人々の伝統・文化を“アイヌのコスプレ”とか揶揄する表現をする国会議員がいて、その揶揄的発言を支持することが保守だと思っている書き込みをSNSでよく見かけることです。

 京都で舞妓の衣装をまとって伝統文化を尊重する人をコスプレといって冷笑する人はいない。 
 沖縄の琉装を揶揄する人もいない。
 全国各地の文化衣装、伝統行事も然り。

 琉球民族は紛れもなく日本の歴史ある民族であるように、アイヌ民族も紛れもなく日本の歴史ある民族。

 保守とは日本の伝統・文化を尊重し、その固有の領土を護り、歴史的に住み続ける人達を尊重すること。それは保守を名乗る上での必要最低限の定義づけです。

 その保守を名乗る人々が、北海道と同じ伝統を持つ千島、更には南択捉を日本だと言いながら、
千年以上の歴史の中で、北海道・千島・南樺太を護り続けるアイヌの人たちを、その伝統・文化をもって差別し、その差別を正当化する。
 こうした差別発言が連日のように界隈で流れてくる日本の保守の劣化ぶりには、悲しくも情けなくなります。

飛ぶ鳥の明日香 (68041)
日時:2024年10月22日 (火) 23時12分
名前:梶猛弩

 “飛鳥”という言葉は、“あすか”と発音する場合が多いのですが、“飛鳥”を“あすか”と読む中には、日本人としての特別な思い入れがあるように感じます。

 紐解いてみると、“飛鳥=あすか”読みが確立したのは奈良時代後期に編纂された万葉集です。

 日本が漢字を用いるとき、漢字が輸入された弥生時代・古墳時代から奈良時代初期までは、音を当てる表音文字、仮借として使用されてきました。

 例えば、“わ”“やまと”も奈良時代以降は“和”“大和”“日本”が日本という国を重んじる表記が中心となりますが、それ以前の単なる表音の頃は、中国側の蔑視的意味合いを含む“倭”が中心であった。

 それが、白村江の戦い以降、アイデンティティとしての日本が求められる中で、発音を表す仮借から文字に意味を持たせる表意文字へと変化していく。
 古事記と日本書紀を見ても同じ発音の人名が異なる漢字が当てられて語られています。同時代の過渡的な事象であるとともに、重要な意味合いを持ったのでしょう。

 そして今回のテーマの“あすか”。
 今も残る“あすか”には、“飛鳥”と“明日香”の二つの当て字がありますが、古代には、“安宿”、”阿須賀”、”阿須可”、”安須可”など様々な“あすか”の表記があり、同じ地を表したようです。

 “飛鳥”、“明日香”に集約される象徴が万葉集に出てくる“飛ぶ鳥の明日香・・・”で始まるいくつもの和歌、
 例えば元明天皇御製とされる次の歌。

  飛ぶ鳥の
  明日香の里を置きて去なば
  君があたりは見えずかもあらむ

 仮借としての漢字から、日本語、文学としての格式を持つに至った象徴が万葉集であり、“飛鳥=あすか”なのでしょう。

「飛鳥讃歌」経 (68043)
日時:2024年10月22日 (火) 23時39分
名前:志恩

とにかく生長の家教団では、たぶんですが
「新・聖経」として、雅宣総裁作の、この「飛鳥讃歌」が
近々に出版され、全国組織で読誦の時、追加で使用されたり、
聖経読誦リレーの時に、1日中読誦することになる
お経の1つになるでありましょうということです。



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