生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)
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小林春恵著「わが信仰の旅路」から (63140) |
- 日時:2024年02月06日 (火) 20時40分
名前:本音の時代
今日、メルカリで買った中古本が届きました。 まだ、全部は読んでいないのですが、自分だけの感動ではもったいないのでお知らせします。
主人との生活
私と主人とが、結婚したきっかけにつきましては、すでにお話しましたが、このことにつきまして、谷口雅春先生は、『眞理』第三巻のなかに、「人間は物質に非ず、生き通しであると云う確かな証拠」と題して、次のようにお書き下さっております。 「小林昭三君は旧制の高等専門学校の在学生だった時分に生長の家に触れられたのでした。生長の家倫理学(『生命の實相』愛蔵版第七巻にあります)に限りない共感と悦びとを感じて入信せられたのであります。当時、小林君から自分の郷里の近くに誰か生長の家の講師はいないかと云うおたずねがあったので、本部から、当時、新潟県加茂町に住んでいられた二階堂春恵さんと云う地方講師を紹介されたのであります。それから、教えの上で小林昭三君は二階堂春恵さんと霊魂の共鳴を得、いつしかそれが恋愛に発展したものらしい。その事については、私は深く知らないが、長岡市の古物商で重症の肺腸癌が、生長の家の教を実践することによって全治した勝本修助氏夫妻の媒酌により、正式に結婚することになったのであります」二十一頁、原文正漢字使用) このように、主人と私の出会いについて、お書ぎ下さっているのでございます。私達夫婦の結婚生活は短いものでございましたが、それは、実に味わい深い修行の生活でした。 主人は、家庭を、霊魂を研(みが)くための教えの道場として、厳しく生活しました。人を指導する際にも、我見の混じることをおそれて常に、「それは『生命の實相』第何巻何頁に谷口先生はこのように言っておられます」というように指導していました。 一日も欠かさず谷口先生の本を熱心に読んでいました。 ある時、新津の金子スイさんが非常に教化力がすぐれ、多勢の人を救っておられるので、私が、「金子さんは素晴らしいですよ。私も教化の点では負けそうです」と言うと、「生長の家の講師たるものが、勝負を考えるなどということはない。谷口先生のことを考えてごらん。どの弟子もどの弟子も、よりよく伸びることこそ先生のお喜びであるのだ。お前も、後進者の伸びるのが気にかかるスベタ芸人のような性根なら、み教えに対する背信だ。のびる人をどんどん押し上げてあげることこそ、布教者の第一使命だ。それが出来ないのなら、今すぐ講師をやめなさい」としかられました。そんなつもりで言ったんじゃなかったんですけれども…… 私はもう、伏し拝みました。そんなに短い月日の中でしたが、主人であり、師でもあっ たんです。
主人の死の原因
さて、これから私の主人が自分の死を通して、人間は生き通しであるということを教えて下さったことをお話ししたいと思います。 私の主人の死の原因は、現象の言葉で言いますと、亜鉛版腐食液の害毒にやられたんです。主人の仕事は印刷製版業だったのです。それで、亜鉛版を腐蝕させる、薬品の中毒でやられました。 ある時、工員の集団検診があって、主人もこの時、工員と一緒に検診を受けたのです。その検診にひっかかるんですよ。もうその時には、非常に重症だったんです。 ただ、本人は、「人間は肉体ではない、神の生命だ」という信仰を持っているために、肉体の状態というものにあまりとらわれていない関係で、まあ、咳が出ていたらしいんですけれども、そんなものどうとも思わないで、一所懸命に仕事をしていたんです。時間も足りないくらいに、日も夜も足りないくらいに仕事をしていました。 そうして、検診の結果が出た時に、とにかく、「すぐ病院に来い」と言われまして、病院に参りました時にはもう、肺がほとんど話にならない程やられているというわげです。そして、このまま仕事場に出れば、命はないだろうということになりました。 その時、「それでは、今ならば医学上でなんとか処置が出来るのでございますか」と聞いたら、「もう医学上は、これだけ進んでしまったものに対しては、処置の方法はない」ということでした。それで、私の主人は「もう医学上、処置方法がないんですから、死ぬまで、医者の薬は一服も飲まない」といって、この世から、息を引き取るまでの間、一滴の薬も飲まないわけです。 医者からそう言われてから、一年半ぐらいは生きたのですが、今度は、現場で仕事をいたしませんで、ほとんどふとんの中で寝る時間さえ惜しんで、一所懸命にいろいろ勉強やら、理論研究やらをしていました。
主人の亡くなる前のこと
肉体が衰弱してくるに従って、主人の霊魂が肉体から遊離しやすい状態になっていました。その亡くなる四十日ぐらいから、霊界の霊魂と話ができるようになっていました。その頃に、次のようなことがありました。 私の所へよく来ていた人に大藤マキさんという人がいました。この人はご主人を早く亡くして、女手ひとつで、小間物をあつかいながら、女の子を四人も育てていました。子供達が立派に生長するのを楽しみに、苦労をものともせずに働いていたのです。子供達も、母親が自分たちのために一所懸命働いてくれているということを知っていますから、どの子もどの子もみな頭の良い、いい子でした。 ところが、日頃活発で頭のよい大藤さんの末娘が、小学校六年生の頃のことですが、突然、学校で先生に話しかげられても、返事をしなくなりました。試験の答案も白紙です。これは変だというので、学校から大藤さんの所へ連絡があった。大藤さんは、子供を食べさせるために夜遅くまで働き通しでしたので、子供の様子に気がつかなかったのです。それで、いそいで学校へ行ってみると、学校からの連絡の通り、末娘は、ボーッとした状態で、母親の言葉にも反応しません。 それで、すぐ新潟医大で精密検査を受けました。その結果は、「骨の中の成分の必要なある要素が全然なくなる病気で、年を重ねて大人になるほど馬鹿の程度が深くなる。だが、現代の医学では処貴方法はない」とのことでした。 そういうことで、生き甲斐をなくした大藤さんは、力を落として私を訪ねて来たのでした。大藤さんからその事情を聞かされた私は、「どうしてあげたら良いのだろう」と思い、かたわらにいた主人に、「あんた、わからんかいな」と聞きました。 その頃、主人は先ほどもいいましたように、霊界の霊魂と話が出来る状態になっていました。主人は「それでは、しばらく待っていなさい」と言って、娘の名前を心の中で静かに呼びました。そうしますと、娘にかかって来ている霊魂がわかってきたんです。それはタツという名前の霊魂でした。 それで、主人は、大藤さんに、「タツという名前の仏さんを知っているか」と尋ねました。ところが、大藤さんは、「そんなタツというような名前の仏さんは知りません。御先祖様にそんな名前の人はいません」と言う。そこで、主人はもう一度、心を静かにして祈りましたが、やっぱり、それは、タツという名前の仏だという。それで、「自分の家の御先祖でなくても、なにかタツという名前の人に心あたりはないか」ということを、もう一度、大藤さんに尋ねました。そこで、大藤さんは、思いだしました。 その霊魂は、この世に生きていた時、大藤さんの家の近くに住んでいた人でした。その人は、明治時代のまだ女性が高等教育を受けるというようなことがない頃の、女学校第一期卒業のイソテリでした。財産はあったのですが、すこし変わったところがあって、異常なまでの潔癖性であり、人を寄せつけなかった人でした。ところが、どうしたことか、この人は、近所に住んでいる大藤さんの末娘だけは非常にかわいがったのです。 それで、主人は、その霊魂に、「なぜ、大藤さんの娘にかかってきているのか」と、尋ねたんです。そうしたら、次のようなことがわかりました。 タツさんの菩提寺の住職が、「素晴らしいお経本を寄付してくれたら、亡くなってから毎朝名前を呼んで供養してやる」と言うので、タツさんは、お寺へお経を寄付しました。 その後、タツさんは亡くなりましたが、住職が、毎朝お経を誦げて供養してくれると約束したからというので、毎朝お寺へ行ったというわげです。ところが、あれほど約束したのに、坊さんは一度もお経を誦げてくれないというのです。約束の供養をしてくれないのです。それで、タツさんの霊魂は腹を立て、その坊さんにかかればよいのにかからないで、この世に生きていた時に、かわいがっていた大藤さんの末娘を頼って来ているというのでした。 それで、大藤さんは、さっそく、菩提寺へ行き、お経の話をしたところ、住職はビック リしました。「いったい、あんたは、そのことを誰から聞いたのか。わしと、タツさんと しか知らない事なのに」というわけです。確かにお寺へお経は寄付されていたのです。そ れまで住職は、人間は死ねばそれまでと思っていたのです。 それで、大藤さんは、お寺からそのお経をあずかってきました。それは大変な美術品です。大藤さんからそのお経を見せてもらった主人は、また、タツさんの霊魂を呼び出しました。そうすると、その霊魂が、「そのお経を燃やしてくれ」と言う。タツさんの霊魂は霊界で大変腹を立てている。そこで、主人は、「これは立派な芸術品だ。これを作った人はどれだけ真剣に真心をこめて作ったかわからない。自分が金を出したからといって、それを腹立ちのために燃やすことは許されない。そうやって、霊界から気ままに苦しみの念を送っているので、あんたが愛している大藤さんの娘が苦しみを受けている。霊には霊にふさわしい霊界としての修行の座があるから帰らねばならない」と言って、こんこんとさとしたのでした。 ところが、タツさんの霊魂は、「そのままにしておくと、虫が食い始めてお経がボロボロになってしまいダメになるから、虫干してもらいたい」と言うのです。そこで、大藤さんは、「私の生ぎている間は、責任をもって、春と秋に虫干をする」と約束し、燃やすことは思い止まらせたのでした。そして、最後に、主人は、「今から世界中で一番ありがたい祝詞をあげるからね。その功徳で、あなたは修行の座に帰ることが出来るから」と言って、朗々と招神歌(かみよびうた)を唱え、「イユーッ」と気合をかけたのでした。 ところが、その翌朝のこと、大藤さんが起きると、末娘がすでに起きて机に向かい勉強しているのです。それ以来、この大藤さんの末娘の病気は治ってしまいました。
主人の亡くなる時
主人が、死ぬ時でございますけれど、ちょうどその日は、私と主人と二人で三条の自宅を離れて加茂という所に行っていたんです。その加茂にある家の二階は、主人が勉強するところにと、とってある部屋でございます。下の方は全部生長の家の集まりに使うために家賃無しでお貸ししている家です。ですから何の気兼のない家なんです。 そこで、私の主人は息を引きとるんですけれど、誌友会を開いてお話しするのに、二人でそこへ行っていました。それで、話が終わって、大方の人が帰ってしまってから、主人が口を開けて、しきりに首をふる動作をしているんですよ。それで、私は「おもしろいことをしていられるな」と思って、「お父さん何しているんだね」と言いますと、「あのね、息が入らねえんだ」つまり呼吸出来ないと言うんです。 そして、「業が自壊する時が来たね」って言うんです。肉体が終わる時が来た、死ぬ時が来たというわげです。 それで私はびっくり仰天して、「それじゃ、死ぬんですか」と言ったら、私の言葉に対し 、「死なない、死が無いのに死ぬことはできないだろう」と言うんですよ。 私はいつでも人に、「死はないんだ、死ぬことはない」って講釈してたけれど、いざその場になって、主人にそれを言われますと、返す言葉がないんですよ。それでもう、私自身がまるで硬直したように、ニの句が継げないんですよ。 そして、しばらくしてから、「お願いだから、お母さんが来るまで待っていて」って言ったんですよ。姑が来るまで、主人の母親が来るまで待っていてと。私の家に電話がございませんでして、近くの郵便局に行って電話を借りなければならない。そこへ人が飛んで行ってくれた。 私は主人の側で、「『甘露の法雨}を読ましてもらおうな」って言ったら、私の主人が「うん」と言ったから、『甘露の法雨』を読み始めましだ。嬉しい気持で読めばいいのに、私は嬉しい気持で読まないで、 「ああ、結婚なんてみじめなものだ、結婚する時、まさか死に別れるってことを勘定に入れていなかった。私の予定しないその日にぶっつかってしまって、ほんとうにこんな悲しい思いのために、この日に会うために、私は結婚したのだろうか。悲しゅうて、悲しゅうてどうしようもない」 と、私が泣き泣き『甘露の法雨』を誦げるわけですよ。主人はいやになってしまったんですね。 「春恵、やめなさい。お前はなんにもわからないんだね」って言ったんです。 「僕は乱れる人一番嫌いだから、もうやめておくれ」 それは、私には切ない言葉です。 「お前は何んにもわからない人だね、僕は乱れる人嫌いだからやめれ」 そんな言葉が、この世の最期の言葉として私にかたみに残ったとしたら、あまりにもみじめです。だから、私は必死に生長の家の神様にお願いしました。“神様、主人が喜ぶように落ち着いて読ませて―”親に泣きすがるような心で、瞬間声に出さないでお願いしました。そして、私は息を二、三回しましたら、大変気が落ち着き、 「お父さん、私、大丈夫、落ち着きましたから読ませていただきますからね、悪かったら やめれとおっしゃって下さいね」 と言って、『甘露の法雨』を読みましたんですよ。私の心はしっかりして、“主人に最後の贈り物は、これ以外にないんだ”と思って、深い深い思いを込めて『甘露の法雨』を読んだのです。 そしたら、そこに饒村(におむら)祐一という医学博士がいたんです。この時の誌友会に饒村さんも出席しておられ、誌文会後もそこに残っておられたのです。 なんとなく私は主人が気になって、以前に、 「お父さん、もしやのことがあると一大事だから、医者にかかっておきませんか。医者にかかっておらないと、死亡診断書がもらえませんからね」と言ったことがありました。 そしたら主人が、 「春恵、医者にかかることが必要だと感じたら、かかってもいいんだよ。だけれども、死亡診断書が必要だからといって、かかる必要はないんだよ。死亡診断書が本当に必要ならば、必要なものは、必ずその時、間に合うように与えられるんだから。僕は、自分の持っている能力を、できるだけ多く役に立つように働いてきたからね。だから必ず必要なものは与えられるんだよ。死亡診断書が必要なら死亡診断書の方から喜んでお役に立ててありがたいと言って来る」 なんて言って笑っていたんですよ。あまり縁起のいい話じゃないですから、私も、そのことはそれっきりにしてあったんですよ。 本当に神様は到る所に充ち満ちていて、一切の事を知っておられるんですね。私の主人が息を引きとるとき、そこには医学博士がおりました。 そのうちに姑が、電話を聞いて駆けつけて参りました。 姑(はは)は、部屋へ入るなり。「昭三、どうしたんだや」と言いましたら、「おれは、疲れて疲れて、休みとうて休みとうてどうにもならない」と主人は言ったんです。 「遠慮しないで、春恵さんにふとんしけって言えばよかったのに」 姑(はは)は、おしゃべりな私が人と話をして自分の大事な息子にふとんをしいてやらないで、話に夢中になってでもいたと思って、言ったんですけど、私はなんとなく、姑に、こんな事情ですとさっきからのことが言えない程、心の中はせっぱつまっていたんです。 そうしたらね、主人が、「来るのを待っていたんだから。じゃあ、休むかな。春恵それじゃあ、休むから『甘露の法雨』を読んでくれよ」と言うたんです。 姑(はは)は、二階へ来る時に、『甘露の法雨』を読む私の声を聞いていたのでしよう、「春恵さん、今まで読んでいたでねえか、疲れているかもしれねえから私が読んでやろうか」と言ったのです。そうしましたら、「そうやな、春思it疲れているかも知れんな。いや、僕は春恵の読み方が好きなんだ」って言って下さいました。 生長の家の神様のお蔭でございました。 「春恵の読み方が好きだ」 たったこんな一言でも、最期の別れの言葉だと思えば、私にとりまして、それは生涯、宝玉のようにかげがえのないありがたい言葉なんでございます。 「それじやあ、読ませていただきましょうか」と言ったら、「そうだね。しかし僕一人で 大丈夫休まれると思うが、万一休まれなかったら頼むで」って言いましてね。 「おかか、それじや休むで」って、そうして、カクッとしました。これが私の主人がこの世から呼吸を止めた最期の瞬間でございます。 饒村医学博士は、「ああ、僕は、ここに来ていて良かった。僕は喜んで、昭三さんの死亡診断書を書かせていただく」と言って、書いて下さいました。 それで、その時、主人のために、歌をつくって下さった。その歌の意味は次のようなものでした。 「自分がお役にたてませんかと言った時、必要ありませんと言って、君はそのまま逝かれた。もう医者の手も必要ないと言われた。その時、自分としては寂しかった。せめて、自分としては、注射の一本も打ってもらいたいと言われたかった。が、君にはその必要もなかった」 そんな意味の歌を二、三首、主人の死に添えて下さいました。 そういうわけでございまして、私の主人の死を見ていたみなさんは、「不思議なもんだね、不思議なもんだね」つて言うんですよ。死ぬ時くらいは、少しくらい変化があるのではないかと思ってたんです。それが、それまでしゃべっていて、「それじゃ休むで」なんて言って、本気で休んでしまった。肉体は休んでしまった。「ほんに苦しまなくたって死なれるんですね。やっぱりこれが寿命というもんだね」とみなさん言ってるんですよ。 そして、それは九月の出来事でございましたので、主人のところへ、みなさん百合の花をたくさん送って下さいました。 そうしたら、棺の中に納められた私の主人は、そうもやつれていないわげですよ。苦しんだ覚えもなげれば、飯もあたりまえに食べていたし、排便も普通にやっていたしで、少しもやつれていない。百合の花がたくさんお棺の中へ入れられました。 私は、お棺の中に手を入れ、首の下へ自分の手を入れて、もしや生きるかと思つてね、「お父さん、お父さん、お父さん」と何回も呼びかげました。「お父さん、お父さん、春恵なんだけど、春恵がいるんだけど」それだって、なんにも答えるはずがないでしょう。 で、死というこの事実、本当にそれこそ、お棺の中に入るさっきのさっきまで、打てば響くようになんでも答えてくれた主人が、死を境にして、その面影は変わらなくとも、もうなんにも答えてくれない、千里、万里を隔てた遠い人のようになった。私はその時、なんと死というものは恐ろしいものだと思いました。どうして死ぬんだろうかと思って。 私は主人の寝棺のところへじっと顔をつけながら、「お父さん、もう何を言ってもわからないのね。春恵が、悲しい思いでここに立っているんだけれども、もうわからないんだね。あなたが大好きな大好きな『久遠いのちの歌』これから読ましていただく。もうあなたは、私にその喜びの答えをしてくれるということはないのねえ」と言いました。そして私は、主人に届くやら届かないやら、あまりにもはかない思いを持ちながら、静かに読んだんですよ。 「是の身は霓(にじ)の如し、霓は久しく立つ能わず、須臾(しゅゆ)にして消ゆ……」 そうしだらね、あの歌が終わる時に、不思議な事が起こりました。私の頭の上に、さらさらさらと風が吹いてきました。その風は、もしこの世に喜びの風というものがあるとすれば、まさに喜びを運んできたような、さわやかな、なんとも言えないさらさらした風が吹いたと思うと、私の胸の中へすーつと入るような気がしたんです。それと同時に、私は、“主人は死なない”とはっきりと思ったんですね。 限りなくその妻を愛し、限りなく夫を慕うているその妻の思いというものが、その妻と夫の心が、肉体の死というようなはかないもので断絶されると考えたことが、どうかしていたということをすーつと思ってしまったんです。 “私は小林昭三の妻・春恵としている限り、昭三はけっして私を離婚する気づかいはない。私はいつまでも、いつまでも、小林昭三の妻、春思なんだ”と、私はそこに本当に嬉しい妻の座を確立したのでございます。そして、私は嬉しくて、もうちっとも死んだと思えない。必要な時、呼べば、肉体という縛りがないから、答えて下さる。私にとって必要な時は、いつでも呼んで差し支えないんだという、そういう心が私に起こったんです。 そこに山新田のおかか――小出タケさんもいました。加茂でのお話に来ており、最後まで残っていたのです。おかかもお棺について三条へ来ていました。 「おかか、お父さんに聞かせてもらいなさい。生き通しを聞かせてもらいなさい」と言ったんです。 おかかは、いつもわからないところがあると、「昭三先生、ここわからねえから聞かせてくれ」って聞いていました。私の主人は深切に、そこはこういうことだ、これはこういうことだ、いつ『生命の實相』を通して、必要な箇所を丁寧におかかに教えたものですから、おかかは非常に頼りにしていたわげです。 おかかは、「昭三先生、タケでございます。タケでございます。タケは悲しゅうてなりません。これから誰に教えていただげるやら。どうかタケに教えられるものなら、教えられるということを、わかるように知らせて下さい」と泣きながら言いました。 そして、おかかは意識がもうろうとしたようになって、あたかも眠っている人のようになりました。しばらく、そうしていましたが、私は心配になりました。無意識の状態で、こんなにしている所に、変な霊魂が寄って来たらと心配になり、『甘露の法雨』で背中をばんとたたいて、「おかか、おかか」って言うたら「はい」って言ってもとにかえりました。そして 「いつでも、昭三先生、どこでも、どんな時でも、お呼びして、ここわからねえって言えば、すぐわからせてくれるんですね」と言うのです。 それですから、おかかは、いつでも講演する時になると、私の主人の写真を自分の前にちゃんと置いてしゃべっていたんです。 そこへ三条会館のママちゃんがハイヤーに乗って飛んで来た。この人は、私の主人を非常に尊敬していました。主人が死んだからと聞いて飛んで来たのです。 そして、「先生、お前さんちの旦那さまでも、やっぱり死ぬんだのう」って、そこへカタカタと体を折ったように坐ったんです。そしたら、山新田のおかかが、「ママちゃんて、心配いらないんだて、あのね、春恵先生も私も、生き通しを霊風によって教えていただいたんだからね、だからママちゃん、いつでも昭三先生と言うと、昭三先生とつながるんだから心配いらねえんだ」と言いました。 「おめえさんたちはいいのう、そんな目に見えねえ霊風なんて信じられるども、おら、目に見えないものは信じられない」って言うわけですよ。それで、私はね、 「お父さん、ママちゃんがね、目に見えないのは信じられないって言うから、目に見えるように、お父さん、知らせるってことは出来ませんか」って言うたんです。 そうしましたら、しかばな――紙を細かく刻んで、わらで作ったしんにたくさん紙の花をさした造花――が、突然、内側の方だけ、サ、サ、サ、サ、と揺れて上にゆくとパッと止まるんです。あんな薄い紙の中の方だけで外側は絶対揺れない。中だけサ、サ、サ、サ、それも下から上へあがって、パッと止まる。それを何回繰り返したかわからない。 それでみんなが、「あれ、あれ」と言っています。風はないし、外側はなんともないと、みんな言っている。私は、もういいだろうと思いましたから、「お父さん、ありがとうございました」「ママちゃん、わかっただろう」って言ったら「わかった、わかった」って言う。「お父さん、ありがとうございました」と言うと同時にパチッと止まったんです。
物 質 無 痛
主人が亡くなって、九日目から、私は、生長の家の講演に出かけていましたが、或る日主人の思い出のある加茂の家に泊まりたいと思って、「お母さん、私、加茂の部展に泊まってきますからね」と主人の母に断わっておいて、講演が終わった後、加茂の家に行きました。そして、加茂の家に着きましたら、「そちらへ着いたら、大至急、帰ってくるように」との電話連絡が、小林の家からあったということを、区長さんから知らされました。 「何かあったんかな」と思いながら、とにかく大急ぎで家に帰って見ましたら、子供の良一が、熱を出して寝ているんです。夫に死なれて十四日、私の子供がそこに倒れているんですよ。 それで、私は、「良一、どうしたんか」って言ったら、「おっかちゃん、熱あるばっかで、せつのうねえんだ。おっかちゃん、心配ねえで」と言うんです。それで、私が、「そうかい」って言ったら、子供が、「お父ちゃんがねえ、おっかちゃんがどこへ行ってても心配すんなって。おれが、治るまで絶対ここからどこへも行かないでいるから、安心せいって、お父ちゃんが言ったんやで」と言うのです。 私は、びっくりして、「おまえ、お父ちゃんの夢見たのかい」って言ったら、「おっかちゃんは、お父ちゃんがここに居なさるのが見えないのかね」と言うんですよ。 十一歳の子供には、私の主人がそこにありありと見えているのです。その幼い子を安心させようと思って、子供に見えるようにしているんです。 それで、私が、「そうか、そんなら、お父ちゃんは、そこにいなさるんか」って言ったら、「おかあちゃんには、どうして、お父ちゃんが見えねえんだ」って言うんです。それで、「良一、お父ちゃんは、いつここへ来なさった」と言ったら、「わからねえんだ、おっ母ちゃん。おれ、熱い、痛いって言ったら、お父ちゃんが、良一、落ち着いて、落ち着いて、『物質無痛、物質無痛』と言うてたら、痛みは止まるぞって言ったんで。だから、お母ちゃん、そこ痛かったら、『物質無痛、物質無痛』と言うといいんだね。その痛みは止まるんだよね」と子供が言うんです。 その時、私は、明らかに主人がそこにいることがわかったんです。というのは、和達は、「無痛安産」とか、「物質に感覚なし、知性なし」とは言っておりましたけれども、「物質無痛」という言葉は、『生命の實相』には出てこない言葉なんです。「物質無痛」なんていう言葉は、十一歳になったかそこいらの子供が、親が言わないそんな言葉を言うはずがありませんから、それはやっぱり、主人が、そこにいて、子供の苦しみを取っていたんだということが、私にはわかるわけなんです。
亡くなってから自分の戒名を書く
小林家の菩提寺は浄土真宗のお寺です。そのお寺の住職はなかなか有名な学者で、親鸞聖人が、「自分が死んだら、遺骸を鴨川へ流してくれ」と言われたことから来たのかどうかわかりませんが、この住職は、死んだ人間にお経を誦げる必要はない、と考えていました。だから葬式の時にも、自分は行かないで伴僧さんを出すんです。私の主人の時にも伴僧さんが来ました。そして、その伴僧さんは、「釈昭三」という戒名を書いたんです。 それから六日目に、この住職が、小林の家にやって来て、小林の母(姑)に、 「おまえは、またあんにゃに死なれたってのう」 と言いました。私の方では、せがれのことを「兄き」とか、「あんにゃ」と言うんです。 「小林さん、あんにゃに死なれたってのう」 と言われたら、母は「はい」って返事してました。住職は、 「若いのに、かわいそうなことしたのう」 とも言いました。 それで、私はすぐに、主人が私のために書いてくれた原稿と主人の日記を、住職の所へ持って来てそれを見せました その日記を読んで住職は、主人の母に、 「小林のおっかさん、いくら勉強しても、ここまでの心境に入るっていうことは面倒なものだ。おまえのところの息子はいい心境だったね。まあ、ここまで来たんだから、別に、早く死んだって悲しむことはなかろう。まあ、親は悲しかろうけれど。まあ、おまえんとこのあんにゃの心境は素晴らしい。七日、七日には、掩がお経を誦げに来るから」 と言ったんです。 そして、その坊さん、七日、七日に来る時に、必ず、菓子屋からお菓子を届けさせたんです。お寺にあがったお菓子を持ってきたと思われないようにとでも思ったのでしようか、とにかく、菓子屋から直接届げられた。そうして、時季でもない梅の花を自分で切って持ってこられた。そうしたら、私の姑(はは)が、 「春恵さんて、おれも随分お寺には多く死んだ人のためにお世話になったが、坊さんがのう、そっちの方から菓子持ってきたり、花持って来たりするなんて初めてだね。うちの昭三っておもしろいでのう」 と言いました。 住職は七日、七日来てくれましたが、三十五日になって、「俺が位牌を書き直す」と言って、今度は、「正導院釈昭三」と、自分で戒名を書き直しました。 ところが、それから二日経って、飛んで来ました。「小林さん、小林さん、大変だ。俺も坊主六十何年やってるけれど、死んだ人間から、位牌の名前が違うから書き変えてくれなんて催促されたことはなかった。はよう、それを貸してくれ」と言うからね、「どうしたんですか」と言いましたら、「これまでに、こんな目におうたことねえ」と言って、次のような話をするのでした。 お寺の庫裏にいたら、「ご院主さま、院主さま」と呼ぶ声がするから、「おう」と言って、あたりを見たが誰もいない。 また、「ご院主さま、院主さま」と呼ぶ声がする。 「なんだ、誰か俺を呼んだのか」と奥へ声を掛けると、奥からは、家人の、「何んにも呼びません」と声がしました。 ところが、また、「ご院主さま、ご院主さま」との声がします。 「だれだ、「おれを呼ぶのは」と言ったら、「居島の小林昭三です」との声です。居島というのは小林の家があるところの地名です。 「なに、居島の昭三。おまえ死んだんではないか」 「いや、死んでいませんよ。私の名前が違うから、位牌を持って来て、書き直していただきたい」 まあ、そういうわけで、位牌をもらいに来たとのこと、そして、 「なあ、小林さん、俺は、死んだ人間にはお経を読まなくてもよいと考えていたが、とんでもないことだ。これからは、死んだ人間に、しっかりとお経を誦げるよ」 と言ったとのことです。 新しく書き替えて住職が持って来た位牌には、主人の筆跡で、「生長院釈昭三」と書かれていました。自動書記で、自分の戒名を書いたのでした。
坊さんに読経の意義を教える
さらにもう一つ、お坊さんと関係ある話があります。 主人の友人に樺沢さんという、禅宗のお寺の坊さんがいました。小さい子供の時分に、水に溺れようとしたところを私の主人に救けてもらったことがあるらしいんです。それで、親御さんがいつでも、「おまえは小林昭三に助けてもろうた。昭三のお蔭で助かったんだで」と、言ったとみえて、主人とは仲が良かった。それで、主人が死んだというので、この樺沢さんがお経を誦げに来たわけです。 それで、樺沢さんが、仏壇の前で、一所懸命お経を誦げていたらね、 「樺沢、忙しいところをわざわざ済まんかったなあ」 と言う声が聞こえた。自分の名前を言われたもんだから、樺沢さん、何気なく、お経を誦げながら、顔をあげると、仏壇の中にニコニコして私の主人がいるって言うんですよ。 それで、樺沢さん、びっくり仰天して、 「小林な、おまえ死んだんではなかったか」 と言うと、 「おまえは、人間は死ぬともうそのまま、何んにも無くなると思っているのか。それだったら、おまえはどうして年忌したり、法事をしたりしているのか」 と言うたと言うんですよ。年忌する限りは、法事をする限りはあくまでその霊魂が生きているということでなげればならないわけですからね。 「それじゃ、昭三、おまえ、お経わかるか」 と言うと、 「おまえより、よっぽどよくわかるんだからしっかり読めよ」 と言うた。 それで、樺沢さんが、 「意味のわからないお経でもわかるかい」 と言ったら、 「真心で読んでりゃ、仏の慈悲に通うんえ」 と言うたと言うんですよ。 真心をこめて、お経を読めば、その真心が神や仏、高級霊に波長が合い、正しく導かれるということです。 それで、樺沢さんが、 「昭三、ありがとり、俺はおまえのお蔭で、お経を読む態度がわかったよ。ありがたかったでえ」 というわけです。 そしたら、私の主人が、 「樺沢、おまえ、土産持って来たか」 と言う。 それで、樺沢さんが、 l 「いや、土産なんか持って来なかった」 と言ったら、 「今日、春恵がここで生長の家の誌友会をして、二十二、三人集まるから、生菓子の二十五、六個買って届けておけ。午後の七時に俺も来て待っているから」 と主人が言うたと言うんですよ。 そんなことで、その夜、「昭三と約束しましたから」と言って、樺沢さんが、生菓子を持って来た。その時、持ってきたお菓子を食べた中に、前に越南教区の相愛会連合会長をしていた水野善夫さんもいました。 そういうようなわけで、私の主人は、お坊さんにしっかりとお経を誦げさせなければ、多くの死後の霊が救われにくいと思ったのか、とにかくそういう風に、死んでから、お坊さんに魂の生き通しを知らせる為に出て来たんです。私の主人は、お坊さんに、「人間死んでも死なぬ、生き通し」ということを知らせたのでした。 それから、それはちょうど主人の死後、十七日目ことでございましたが、講習会があり、谷口雅春先生が起こしになられた時に、私の姑(はは)、――主人の母でございますが、先生に、「小林昭三の母でございます」と言って御挨拶申し上げたのです。そうしましたら、谷口先生が、「おお、おっ母さんか。昭三君は、高級な霊魂だったね」と、おっしゃられた。 そうしましたら、それまで、「育てて、学校出して、そして、若いうちに死んでしもうた」と思って悲しんでいた、その息子の対する悲しみが、谷口先生から、「おお、あんたの息子さんだったか、昭三さんは。昭三さんは、高級な霊魂だったね、お母さん」と言われてね、そう言われたら、一遍に姑(母)の胸がスーッと楽になったそうです。 「谷口先生に、そのように言って頂いて、ありがたかった。うれしかった」と姑(母)は、喜んでいました。
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(63166) |
- 日時:2024年02月07日 (水) 23時51分
名前:本音の時代
今日は、62頁まで読みました。 「感謝はすべてを癒す」なんですね。 心が洗われました。 谷口雅春先生、本当にすばらしい教えを与えていただき、ありがとうございます。
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本音の時代様 (63168) |
- 日時:2024年02月08日 (木) 00時26分
名前:志恩
小林春恵先生のことは、元信徒様も良くご存知だと 伺いましたが、私も、原宿本部にいらした時とか 飛田給道場での時は、小林春恵先生と私が、2人部屋に 宿泊して、隣同士のベッドで、親しくお話しさせていただいた 思い出もございますので、とてもお懐かしく拝読させていただいて おります。私も、この本は、蔵書にして大切に持っておりますが、 本音の時代様のように、掲示板へ書き写すことは、できませんので 大変ありがたく拝読させていただいております。
飛田給道場で、珍しく谷口雅春先生のご講演会があった時、 私は、お山係でしたので、原宿本部から出張し、飛田給道場の 2人部屋に泊まるように言われて、小林春恵先生と一緒のお部屋に 泊まったことがありました。
小林春恵先生は、直にお話しさせていただきますと、 慈愛に満ちた清らかな中に、キリッとした宗教的な凄さを持たれた 素晴らしい先生でいらっしゃいました。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「小林春恵先生について」 明治41(1908)年新潟県生まれ。昭和11(1936)年入信。 その後、新潟県で布教活動に挺身。 昭和23(1948)年本部講師を拝命。 昭和 35(1960)年から石川、福井、富山、山形、福島 秋田各教区の教化部長を歴任。 その後、総本山勤務を経て、 昭和60(1985)年生長の家名誉本部講師を拝命。 平成3(1991)年8月 13日逝去。享年83歳。
『わが信仰の旅路』 小林春恵先生 (著)
「入信以来50年余、伝道ひとすじに生きた著者の感動の記録。 『生命の實相』にも取り上げられた“山新田のおかか”の 心暖まる話など、多くの指導実例を盛り込み 幸福への道標となる。」
と、紹介文に書かれてあります。
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生長の家のみ教えは素晴らしい。 (63247) |
- 日時:2024年02月10日 (土) 13時26分
名前:本音の時代
今、読み終えました。 悪いことは起こらないと考えれば、その悪いと見えるのが一体何なのかを考えるようになる。 悪いことが起こったと考えれば、その悪いことを排除したくなる。
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