生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)
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旧・生長の家「本流復活」について考える(したらば版)
生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)
生長の家「本流復活」について考える(せっかく版)
際どい話題は、「生長の家「本流復活」について考える(せっかく版)」にお願いします。
傍流掲示板
別天地の掲示板です。
あの人はいま?を、トキ掲示板でもやってみましょうか。 (64868) |
- 日時:2024年05月01日 (水) 01時20分
名前:タンポポ
蛭子さんと5年ぶりに再会 (19;28) https://www.youtube.com/watch?v=OFrj7GI_NDY
タンポポー 以前、10年間、民放のテレビ番組で、 太川と蛭子二人の、「バス旅番組」を放映していたの、 みたことある人、多いんじゃないでしょうか。 その二人が、5年ぶりに再会。 蛭子さんは2020年の7月に認知症を公言したそうですが、 もともと絵が得意なので、絵は描いていて、渋谷パルコなどで 個展も時々、開いていて、結構、絵も売れているそうです。
今、太川陽介は65歳、蛭子さんは77歳だそうです。 今でも仲良し親子みたいなほのぼのとした和やかな雰囲気、 見ていて、泣けて来ました。 いい番組でしたので、ご紹介します。
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2024年の今、加山雄三さんは、86歳 (64870) |
- 日時:2024年05月01日 (水) 02時27分
名前:タンポポ
加山雄三さんは、最初、脳梗塞を起こした2019年頃に、 都内の高級住宅を手放したそうです。
そして、その後、超!高級ケアハウスに奥さんと一緒に 入居ているそうです。
場所はどこか、と調べてみたら、 「サンシティ銀座EAST」という説が濃厚です。
(場所は、築地の近くだそうです)
食事や掃除、洗濯などの支援サービス付きの高齢者住宅だそうです。
中央区の月島、という所。
カフェやプールもあるようです。
長い間、第一線で活躍してきた、加山雄三さんに、 ふさわしいところですね。
ただ、脳梗塞になったから、ではなく、 その前から決めていたようです。
奥さんの松本めぐみさんへの配慮でもあるのでしょう。
加山雄三さんは、1965年に叔父と、 パシフィックホテル茅ヶ崎を開業しました。
しかし1970年に23億の負債を抱えて倒産。
その年に、加山雄三さんは、マスコミをのがれるために渡米し、 そこで松本めぐみさんと結婚。
帰国して会見を開いても、無責任だとか、逃げた、 などとヤジが飛び、誰も祝いの言葉をかけてくれなかったとのこと。
でも、この借金は、めぐみさんの支えもあり、10年で完済!
しかし、バブル絶頂期に、スキー場を開設して、 赤字になり、又、奥さんに、苦労をかけてしまうことになりました。
そんなこともあり、2014年くらいから、 別居がささやかれていていました。
彼は、めぐみさんに、愛想をつかされたのだ、 と言われていたのです。
卒婚、と言われ、別居は、していました。
でも、それは、「グリーンカード(米国永住権)」を取るために アメリカと日本を行き来していためぐみさんでした。
加山雄三さんが脳梗塞を起こし、めぐみさんが帰国してからは、 都内の支援サービス付きの高齢者住宅に一緒に入居したのです。
もう、これからは、ずっとご夫婦一緒ですね。
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田原総一郎さんは、今、90歳。 (64871) |
- 日時:2024年05月01日 (水) 02時35分
名前:タンポポ
90歳になった田原総一朗の朝食 【田原総一朗の生態密着シリーズ】 2024年4月収録 https://www.youtube.com/watch?v=fiW1OzvDM40&t=274s
タンポポー 田原総一郎さんは、「朝まで生テレビ」などで活躍した人です。 二人の奥さんを二人とも乳がんで亡くされて、今、ご自宅で 一人住まいです。
90歳になっても施設に入らず、朝食は自分で毎朝作って食べたり、 犬を散歩に連れてくのが趣味だと言ったり、背筋も真っ直ぐで、 すごいと思いました。
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あの人はいずこ (64874) |
- 日時:2024年05月01日 (水) 07時28分
名前:想い出の渚
facebookで雅宣総裁の喜び組だった堀浩二さん
ハイレベル掲示板でご活躍しておられた、そーれ!!氏
掲示板で一時期人気を博したトンチンカン信徒さん
懐かしのあの人たちはどこに行ったんでしょう。
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トキ掲示板は2011年6月に初代トキ様が立ち上げてくださった掲示板です。そのトキ掲示板の初期のころに、出ていらしたお懐かしい義春様、初代管理人のトキ様、初心者様、役行者様、それに、この時期は、破邪顕正様、山ちゃん1952様、今も健在の訊け様、その他大勢の方たちの参加者がありました。ゴールデンウイークの時間のある時に、たまには読み直してみましょう。すごい長文ですが。 (64875) |
- 日時:2024年05月01日 (水) 11時04分
名前:タンポポ(=志恩)
貴重スレU
◆1: トキ :2011/06/05(日) 21:30:48 このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」について、自由に議論をするため に作成したスレッドです。
2: トキ :2011/06/05(日) 21:48:42 自己紹介です 管理人は、現役の生長の家の信者です。ただ、最近の生長の家の「今の教え」には強い違和感を感じて おりました。この点は、現在、多くの生長の家の信徒が感じていると思います。そのため、一部の幹部や 信徒が生長の家を脱退し、「谷口雅春先生を学ぶ会」等、生長の家教団から独立した団体を設立したのはご承知の通りです。これらの団体は、谷口雅春先生に戻る事を推奨し、自分達の運動を「本流復活」の運動 と称しています。 しかし、管理人は、これらの団体の方針も無条件で支持するものではありません。いくつかの点で、これら の団体に危惧する点もあります。
8: トキ :2011/06/06(月) 10:35:51 余談です
「生長の家 本流復活宣言」サイトを拝見したら、第2回の見真会の紹介がされています。 講師の中に、前原先生に加えて、国弘先生が入っていたので、懐かしかったです。生長の家本部を辞められて、どうされているのかな、と思っていたのですが、お元気だったので安心をしました。お世話になったので、心配をしていたのです。 生長の家本部で、育成指導つまり中学生や高校生の世話をする担当を長くされ、情熱的な 先生でしたね。中学生や高校生には慕われていました。良い講師だったと思います。
そのサイトの違うスレで、「生長の家高校生連盟の歌」が掲載されていましたが、あの歌も いい歌なんですね。生長の家の全国大会が5月3日にあるのですが、その昼休に外で高校生があの歌を円陣を組んでうたっていました。結構、いい風景でした。 ああいう古き、佳き生長の家を知っている人間から見たら、確かに谷口雅宣先生のされたことは、悪い冗談以外の何ものでもないのです。特に、あの時代は、寝食を忘れて活動をした人間(私もその一人でしたが)が多いので、「許せない」という発想を持つのは理解は出来ます。しかし、そこに留まっていては、解決は出来ないと思うのです。
◆34: 義春 :2011/06/07(火) 16:48:21
掲示板、開設おめでとうございます! トキさんは私(29歳)と同年代の様で、共通の人を存じ上げてて真に嬉しく想います。たぶん、何処かでお会いしてるかもしれませんね。
昔は武道館の前で円陣組んで歌って楽しかったですね(泣)あれを無くす事はないのになぁ…と寂しく想う事があります。 す。
◆40: トキ :2011/06/07(火) 19:41:58 >>34
義春さん、ご投稿、ありがとうございます。 「本流復活」のサイトの投稿を拝見し、素晴らしい方だなあ、と感服していました。 信念もあるし、情熱もあり、頭もよく、本当に優秀な方だなあ、と思います。 こちらにも書いて下さり、心から感謝しております。
あの武道館前の円陣をなくすなんて、ちょっと理解できないですね。個人的には、「我ら愛す」という歌が好きだったので、あれが聞けないのが寂しいです。
いろんな立場の人とか考えの人がいるので、それを気にせずに書き込んで欲しいです。 本当は、教団援護派の投稿も待っているのですが、まあ、来ないでしょうねえ。(笑) やはり、いろんな人の視点というか、考えを拝聴するのが、勉強になります。 教区に居て感じるのは、正直、先が見えて来た、という事です。で、今、会員一人一人が 何を、どうすれば良いのか、を考えるスレッドがあればいいなあ、と考えたのです。
義春さんのご意見は、本当に筋が通ったものが見えるので、楽しみにしております。
今後とも、宜しくお願い申し上げます。
合掌 ありがとうございます
◆43: 義春 :2011/06/07(火) 20:03:59 >>40 トキさん
誉められて恥ずかしいから止めてくだされ(笑)
まぁ…若い子が可哀想です…ね。
私なんかはもう20年近く前からやってきたから、昔の生長の家を見てるから良いのだけど…若い子は知らん、それが悲しゅうて、悲しゅうて…折りにふれ生命の實相を読むように勧めたり、昔の話をしたりしてるけど…これで良いのだろうか…かと。
もう俺は身体がこれだから使命のままに生き、くたばって使命(笑)ならくたばるだけだから良いのだけど、若い奴はこれから…これで良いのだろうか?黙ってて良いんだろうか?…万が一早くに自分が逝ってから後の事を想うと悩みばかりです。
悩んでも仕方ないのだけど、今、自分が出来る事は出来るだけ出来る限りする、ジュニアや生高連で習った生き方を全うしたいと思ってます。
で、教団擁護派、書き込みはないだろう…と。彼等の立場を想うと、仕方ないなって思います。
まぁ…筋と言うか、真理・道理にあうにはどうすれば良いかだけを思ってますんや。
◆64: 役行者 :2011/06/08(水) 14:46:09 初心者さん恐縮なのですが、実際に実例をみせてくださればありがたいです。 2011年6月 7日のCO2の“肥育効果”をテーマにした現総裁のブログに “地球温暖化にともなう気候変動は、食糧生産に予想以上の悪影響を及ぼしているという危機感だ。CO2による(食糧に対する)肥育効果はあったとしても、気温上昇によって害虫が増えたり、旱魃や洪水が起こったり、都市化による地下水の減少が作物の生育に不利に働いているため、全体としては温暖化は食糧の生産増につながっていないというのだ。 このような状況を知ってみると、日本の農業の振興は急務であり、肉食を減らす運動をさらに盛り上げていく必要があると強く感じるのである。” と掲載されています。 畏れ入りますが、この内容をどのように風刺するのでしょうか?
◆67: トキ :2011/06/08(水) 19:20:10 生長の家にいろいろな人がいる、という部分ですが、私の主観的な独断を交えて 少し説明をさせていただきます。
生長の家の部内の雰囲気は、家族的で暖かい部分があります。 生長の家の信徒さんの大部分は「谷口雅春先生の教え」に魅力を感じて入信されたのですが、 中には、生長の家という組織の家族的な雰囲気に魅力を感じて入会された方もいます。 また、政治運動をしていた時期は、政治的な共鳴から、環境運動をしている現在では、 エコロジストが興味を示して入るケースもあります。 中には、政治家や商売をしている人が、別の動機で入会の手続をするケースもあります。 いずれも、会費を払い、特に問題を起こさない限りは、退会などの処分はされません。
もちろん、最初の動機が何であれ、入会しているうちに信仰に目覚めて、真面目に精進する 人が大半ですが、中には、勉強も行もしないで、いつのまにか消えてしまう人もいます。
そういう人の中には、退会後も自称「生長の家」信徒という人は確かにいます。 が、言動を聞くと、びっくり仰天、という場合があります。
これは私自身も気をつける必要があるのですが、「生長の家」信徒と自称する場合も いろんな人がいるのは、確かです。
合掌 ありがとうございます
69: トキ :2011/06/08(水) 19:27:22 >>67
なお、上の話は、あくまでも一般論、抽象論を言ったのです。 生長の家教団を辞めた人が、問題がある、という意味ではありません。 「本流復活」の問題などで、信念をもって辞めた人も多数おられます。
◆89: 商人 :2011/06/09(木) 07:37:18 初めまして 商人と申します。尊敬するブログ「雅春先生に訊け」管理人様より ご紹介していただきこの掲示板へやってきました。 よろしくお願いします。 本流掲示板では私も中傷されました。 けっこう仲間をたたきます。 しかし勉強になることもだいぶありました。 私的にはブログ「雅春先生に訊け」管理人さんの話はおもしろかったですね。 商人からすれば毎日が真剣勝負で、どうしたら商売敵にやられないようしたらいいか、 神経をすりへらしております。 和解しなさいとか、もちろん實相では敵はいないとなるのでしょうけど、現実問題として従業員の 生活もあります。神さまの仕事として喜ぶようにせねばとおもいます。 自分でどうしていいか本当に悩みます。 ブログ「雅春先生に訊け」管理人さんは同じ商人ですので私自身よく勉強になります。 まあ自己紹介長くなりすみません。 生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考えるについては、今の総裁は雅春先生の生長の家じゃないですよね、環境の家ですよね。 でもこのままめちゃくちゃしてたら環境は悪化するとおもいます。 人類が滅亡したら生長の家の活動も出来なくなるとおもいます。 だから多少は必要なのかとおもいます。 宗教がしなくていいと言われますが、だれか発信しないといけないのかも。。 ただ自分は跡取りで創業者が苦労して作った功績をなくしてしまうのはいかがなものでしょうかね。 私だったら申し訳けなくおもいます。
◆92: 宝蔵 :2011/06/09(木) 10:32:21 ブログ 雅春先生に訊け 管理人様
ああ懐かしい藤原俊之先生!約30年前、私が20歳の頃、宇治の練成会で、最初に個人指導で、お会いしたのが藤原俊之先生です。 当時、大阪教化部長をされていた河田亮太郎先生の、御紹介で、藤原先生と 面会し個人指導を受けました。
練成期間中も、みんなの見ている前で、次から次へと奇跡を起こし、 多くの人々を救う、すごい先生でした。
多くの弟子でさえ奇跡を起こす、谷口雅春先生の偉大さがわかります。 当時は、楠本加美野先生をはじめ、こんな、すばらしい先生・講師が 数え切れないほどいたのです。
◆93: トキ :2011/06/09(木) 11:15:45 >>89
商人様、ご来場を心から感謝申し上げます。 実際にビジネスのシーンで活躍をされているのですから、とても説得力を感じます。 今後ともよろしくお願いします。
環境の家の問題は、簡単ではないですね。環境問題じたいは間違いではないですから。
よく、会社の社長さんなんかで、業界活動に熱を入れ過ぎたり、奉仕活動や名誉職に走り回り、 本業をダメにする人がいますが、生長の家も同じ轍を踏んでいるのかもしれません。環境は大事ですが、 本来の使命である「信仰」を他所においての「環境活動」に走り、ついには本業をダメにしてしまったという印象があります。 人、時、処を間違えると、よくないという事なのでしょうか。
ただ、組織としての生長の家が変な方向に突っ走っていても、信徒が一蓮托生で変な方向に行く必要はないと思います。 ここは、じっくりと腰を据えて、勉強をしなおすのも良いかと考えている次第です。
では、今後とも、宜しくご指導のほど、お願い申し上げます。
合掌 ありがとうございます
94: トキ :2011/06/09(木) 11:17:45 ブログ「雅春先生に訊け」管理人様
藤原先生がおられた頃の生長の家宇治別格本山は、最盛期でした。 練成会で救われる人が続出し、盂蘭盆供養大祭でも参加者で立錐の余地がないぐらいでした。 藤原先生は組織内では、雲の上の人ですが、信徒には気軽に接して下さり、指導は厳しかったですが、愛情がありましたね。
実は、藤原先生の御著書の発行元である、日本教文者も営利企業ですから、「売れない」と判断したら、あっさりと絶版となります。 (まあ、全然売れないでも発行している本もありますが、あれは、特別な事情があります。) 吉田國太郎先生の「常楽への道」も、あまりに古くて紙型が崩れてしまい、印刷ができないので一度は絶版になったのですが、 あまりにも再刊を望む声が多くて、デジタル印刷に組み直して、再版になったのです。ですから、藤原先生の御著書も、 今後も出版を続けてもらう意味で、皆様もどんどん買って下さい。
また、他人に勧める、という事は自分も勉強しますから、とても良い機会になります。 藤原先生も、きっと、ブログ「雅春先生に訊け」管理人様の投稿にお慶びだと思います。
今後とも、宜しくお願いします。
◆105: 風笠 :2011/06/09(木) 13:26:54 >ブログ「雅春先生に訊け」管理人 殿
はじめまして
私は、完全なROM人ですが、熱心そうなので少しだけ情報を
>三大高弟とは、「藤原敏之」「榎本恵吾」そして「吉田國太郎」
藤原先生の娘婿の方が榎本先生です。また榎本先生が憧れてよく講和を聞かれていたのが吉田國太郎先生です。
>「雅春師、曰く」が見当たらないのです(笑)いや、これ、すごい本だと思いませんか?
私が直接知っている話ではありませんが、榎本先生の出回っていない話の記録がある物の中に、ある時 雅春先生の 前で何人かの講師が講和をしてその中で吉田國太郎先生の講和を一番に褒められていたらしいです。 曰く、他の講師は「どこそこの本にこういうことが書いてあってどうこう・・」だが吉田先生のみは、直接自分の言 葉で語っていると。 生命の實相に直接触れた言葉だったのでしょう。
まあちょっとした事として知っておけば理解が深まるかもしれませんので。 では。
◆111: トキ :2011/06/09(木) 16:55:20 >>105
風笠様
お越しを心から,歓迎します。これからも、どんどん投稿をお願いします。 また、詳細なご説明をありがとうございました。最後の話は、私も知りませんでした。 勉強になりました。
ご説明の通り、藤原先生のお嬢様で、現在は宇治で活躍中の榎本一子先生が、榎本先生のご主人 様です。私は、当然、吉田國太郎先生を存じ上げませんが、榎本先生に大きな影響を与えた先生 で、「常楽への道」の続刊である「続 常楽への道」は、榎本先生のご尽力で発行されたと聞いて います。
これは、個人的な偏見だと思いますが、信徒からは絶大な人気があった榎本先生ですが、教団 内部の扱いは、少し冷たいのではないか、という印象がありました。何冊か本を出されていますが、 大半が自費出版だと聞いております。最後まで日の当たる場所に置かれる事がなかったみたいです。 亡くなれた事が、「聖使命」に掲載されたのかも記憶にありません。
が、むしろ亡くなられてからの方が評価が高くなったように思います。「原宿本部」「本流復活」 の両方から高い評価を受けている、数少ない講師だと思います。
今後とも、できればご投稿をお願い申し上げます。
合掌 ありがとうございます
◆118: 初心者 :2011/06/09(木) 19:34:54 ブログ「雅春先生に訊け」管理人様へ
わたくし、じつをいいますと、「無門関解釈」を読んだことで、ちょっとした能力を身につけてしまったんです。何も考えなくても答えがわかる。そんな状態になったのです。そればかりか、いつもいつも、異常ともいえる幸福感に包まれている。このような尋常ならざる精神状態にも陥ってしまったのです。
そうなった原因があとでわかりました。禅問答には左脳の機能を抑えつける働きがあるんですよ。禅問答でスパルタ的に脳を鍛えることで、左脳が抑えつけられて、右脳だけが異様に活性化する。その結果、「何もかもわかった」という気になるんですね。右脳で生きていると、本当に何もかもわかったという気になるんですよ。だけど、ただひとつわからなくなるものがある。右脳だけで生きてると、自分がどこの誰だかわからなくなるんです。
「わたしはどこの誰なのだ?」。何かの拍子に、人前であろうとなかろうと、突如としてこんな状態になるんです。幸せ一杯な気分で生きていたら、しばしば自分が誰だかわからなくことがある。こんな感じです。幸せならいいじゃないか、というわけにはいきませんよね。
そこでわたくしは、ふつうの人間にもどる決心をしました。幸福感も「何もかもわかっている」という感覚も、すべて手放すことにしました。手放してから、もとにもどるのに5年かかりました。今はたぶんふつうです。「無門関解釈」は、関門であると同時に、危険なワナでもあるんですよね。使い方をあやまるととんでもないことになってしまいます。
禅は、ド素人が気安く取り組めるほどやさしいものではなさそうです。下手をすると、肉体そのものの構成までもが組み換えられてしまいそうです。こんな刺激に満ちた禅の世界が、やがてこの掲示板でも展開されるんですね。あまり本気にならず、軽い調子で、ブログ管理人様の「無門関解釈」にかける思いを語ってくださいませ。
ところでわたくし、藤原先生がかつて住んでおられたあたりに、やけに長いあいだ住んでおったことがあります(「あたり」というのがポイントで、どのあたりかは、ここでは申せませぬ)。同時代ではないので、直接お見かけしたのは、講演会でお話を聞いた、このただ一度だけでありました。このとき藤原先生は何を話されたのか。たまたま隣り合わせた、じつに可愛い女子青年のことが気にかかり、どんな内容であったのかは、今となってはまったく思い出せません。煩悩多きわたくしを神はきっとお許しになります。藤原先生のご著書は、たぶんすべてかほとんどかを、何度も読ませていただいておりますよ。
藤原先生は、講話で「私は死んでからも、いつまでもあちらには居ません。また、こちらへ 戻ってきます。そして、肉体はなくなっても、また、光明化運動をします。」
今、泣いております。いや本当にありがたいです。
◆143: トキ :2011/06/10(金) 15:20:27 義春様
ご意見の通りだと思います。もちろん、機関誌なり普及誌、あるいは絵手紙をしている人達は 真面目に頑張っているので、その点は賞賛しますが、基本的な方向が違うのでしょうね。
環境でも絵手紙でも、間違ってはいないとは思います。 ただ、信仰という基本があり、その上での環境とか絵手紙なら賛成できるのですが、逆なので、 読みたくなくなると思います。
これからも、宜しくお願いします。
◆144: 義春 :2011/06/10(金) 15:36:26 >>143 トキさま 只今、絶賛、抗がん剤治療中なうであります。こんにちは。
そうなんです!信仰ありきの事が逆転してるから変なんです!
私は使命あるにより必ず長寿・成仏すると信じてますが、他の人だと絶対苦しいし、そのなかで絵封筒なんて言われたら、ふざけるな!という類いの事なんですよ。
それだから私も趣味で風景写真を撮りますが、生長の家では絶対に出しません。
趣味と信仰は違うものだと思ってるからなんです。
人間・神の子の信仰の発露としての環境・絵封筒、絵手紙なら分かりますが、そういうところがなく、誌友会でそれをするというサークル的なところがしんどい。
この前の地元の誌友会でも求職に悩んでる人が来てるのに絵封筒だったので、一寸悩みました。勿論、その後で求職に対して自分の癌体験をベースに使命あって生きている事、それから現実的に何処に行けば良いか等、フォローしたけど・・・。
ホント、俺、長生きしないとな…と思いました。まぁ…先は分からなくても
見えぬ世を 見える様に 歩み行く 心の中の 神と共に(by自作w)
ってな気持ちで精一杯頑張っていこうと思ってます。
お返事、有り難うございます!
◆195: トキ :2011/06/11(土) 19:12:20 破邪顕正様から、「本流復活」のサイトで、激励のお言葉を頂戴しました。 深く感謝申し上げます。
>>132 :トキ:2011/06/10(金) 11:00:16
>> 最近の生長の家の雑誌は、機関誌も普及誌も、どうも物足りないです。 >>もちろん、編集者の方々が必死で作って下さっているのは知っているのですが、基本の >>コンセプトが信徒の実感とずれているので、正直、これを他人に勧める気持ちにはなり >>ません。信徒の家に行くと、機関誌や普及誌が、封も開けずに放置してあるのは見るの >>で、同じ事を感じている人は多いと思います。
実は、破邪顕正様から、上記の文章について、ご質問を「本流復活」のサイトで頂戴しました。 質問の内容については、あちらのサイトの(2682)を読んで頂くとして、ご説明を申し上げます。
<機関誌などの評価について>
先ず、普及誌は、日本教文社内部の編集部、機関誌は、生長の家本部の広報編集部という セクションで製作されます。 編集者とは個人的な知り合いがいませんが、私が第1次のソースから認識している ところでは、編集の方針の基本的な内容は、編集部単独では決められず、それぞれ、生長の家本部の 運動担当部の指導の下で決められます。つまり、それぞれの編集部の裁量権にはかなりの制限 があるのです。その運動担当部も完全な裁量権がある訳ではなく、参議会、さらには総裁の 指導から外れない事が求められます。言い方は悪いですが、編集者は手かせ足かせをはめられて いるのです。
もう一つ、制限があるのが,取材対象となる信徒さんのプライバシーです。取材を受けた人間 ならご存知でしょうが、文章を書いても(あるいは、こちらが話して、相手が書き留める)取材 対象の信徒さんの校閲を何回も受けます。体験談などで、面白い部分があっても、信徒が拒否を したら、掲載できません。
最近は、CO2削減のため、取材も制限をされています。 が、同時に、その制限の中でも、編集者は,相当頑張っています。私は活動歴が長く、現在も 組織にいるので、その点は断言できます。ベストを尽くしていると言ってもいいです。だから 「物足りない」という表現は、彼ら、彼女らに失礼なのは承知しています。それでも、不評 なのは、破邪顕正様の言われる通りの部分があるからでしょう。あと、「読者は谷口雅宣先生 ただ一人」というのは、その通りかもしれません。まあ、私個人は、普及誌も、機関誌も、 隅から隅まで読んでいるので、読者の一人ですが。
<普及誌などの拡大について>
ところで、現実に、今、いろいろな事で悩んでいる人が相談に来られます。そういう方々に 渡す雑誌は、やはり必要です。普及誌に不満があると言っても、他に渡すものがない以上、 やはり普及誌は使わざるを得ない、という現実があります。深刻な問題を抱えて教化部や組織 に相談に来られる人がいる以上、私は、私の義務を果たしたいと思っています。ただ、これは 私の立場ですから、破邪顕正様は、また、別の義務があると思いますから、その点は尊重を 申し上げます。
<スレッドの方向性について>
>>ただ、今は、そういうことを論ずる場を提供することが重要なのだと仰るのかもしれませんね。 >>そこに、使命と役割を見出されているのだとしたら
というのは、その通りだと思います。と、言うよりも、私自身は、こちらで勉強をさせて いただいていると思っています。
以上、とりとめもない文章になり、申し訳ありません。
破邪顕正様の益々のご活躍をお祈りすると共に、今後ともよろしくお願い申し上げます。 いろいろとご心配をおかけし、すみませんでした。暖かいお言葉を頂戴した点は重ねて 御礼を申し上げます。
たまに、こちらのサイトでもご投稿下さい。
合掌 ありがとうございます
◆210: 破邪顕正 :2011/06/12(日) 00:54:23 合掌 ありがとうございます。
初めて、こちらに投稿させていただきます。 「破邪顕正」と申します。 私のことについて、「議論体質」「向上心」というような表現をされていたようなので、自己紹介がてら、それについて申し上げておきたいと思います。 西郷さんが好きで、西郷さんを育てた、薩摩藩の郷中教育には「議を言うな」というのがあります。 だから、本来は「議論好き」ではありませんし、議論する暇があったら行動せよ、というのが性に合っていると思っているのですがね。
ただ、現教団の状況を見るに見かねて、何故、こういうことをしなくてはならないのか、それを広く判っていただくために、敢えてこうして投稿し続けていることが「議論体質」と映ったのかもしれません。 もう一つ、「向上心」これについては、そのまま有り難く受けさせていただきます。 生長の家は「無限向上の道」でありますから、そう言っていただいて光栄の至りと思っております。
さて、こちらに登場したのは、「トキ」様から、有り難いことにご招待をいただいたというのがあります。 折角、お邪魔させていだたく以上は、挨拶代わりに「トキ」様と何が袂を分かつのかを明らかにしておきたいと思ったからであります。
「トキ」様がこう言われています。
》私自身は、楽観論というか、さすがにこの状態は続かないだろう、という予感あるのです。これは、教区で長く活動をした経験から来るもので、長く活動をしていながら教団に残留する人の中には、自分のこの予感を信じている人が相当数いるはずです。予感が外れたら、その時に動けばいいと居直っているのでしょう。それよりも、本気で勉強をしなおす必要と、救済活動をする必要を感じてはいます。まあ、こういう事をかくので、「本流復活」の人達が激怒するのでしょうね。(ごめんなさい)
そうなんです、「激怒」するのです(笑)。 「続かない」のではない、「続かせない」。 「トキ」様の予感を外させない! つまり、「意志」の問題なんです!
誤解を恐れずに言わせて貰うと、「続かない」という人の話というのは、どうも他力本願≠フようにしか見えないのですね。(ごめんなさい) 私は、そういう他力本願≠願っている方の、その力≠ノなりたいと思っているのです。 そういう強固な意志をもって、それを貫く人生を送りたいと思っているということです。 違いは違いとして、谷口雅春先生の「教え」を護るために精進してまいりましょう。 失礼いたしました。 このサイトが大いに発展しますよう、お祈りしております。
再拝
◆212: 木綿豆腐 (=志恩):2011/06/12(日) 09:05:13 昔、私は地元に青年会支部を開き、たくさんの素晴らしい仲間とともに、真理を研鑽し合い、輝く青春時代を送らせてもらっていた者です。当時は戸別訪問も毎夕のように、会社帰りに「理想世界」誌を片手にやってました。そして多くの素晴らしい友を得ました。その仲間達は、いまも私の宝物の1つです。 しかし、私は、雅宣氏が総裁になってから、彼の著書を読んでも、がっかりし、ブログを読んでも、宗教とはほど遠い浅薄な内容にがっかりして、今は組織からはぬけています。
思うに、木(樹木)は、人間に似ていると思います。 例えば、 枯れかかって朽ちそうになった樹齢00年という名木の『桜(桜の魂を持つ)の木』があったとします。その桜を生きかえさせるには、やはり同じ桜(の魂を持つ)の幼木で接ぎ木しなきゃならなかった。 なのに、すぐ隣に生えていた、「バオバウ(の魂を持つ)』の木を接いでしまった。
バオバウは、彼自身も「よ〜し、オレは新種のバオバウ桜になってみせるぞ」とはりきりました。 しかし、彼の意気込みは、真逆になってしまいました。いまの現状を、みなさん、目をこらしてみてください。目を閉じて、祈ってばかりいたら、生長の家はおわります。
その桜の背後には、病・悩・苦をとり除いてくださる神界から降りて来られた精霊(聖霊)たちがおられて、奇跡を実行にうつして下さっていました。しかし、今は、宇治あたりにしか降りてこられない。
で、コレは、大変。本体が倒れる。朽ちると、危機感を感じ、言葉を発している人たち、かれらは、「樹木医」にあたる人々ではないでしょうか。
生長の家・桜の名木には、やはり、桜の魂を持つ人が接ぎ木されなければ。と痛感している者の一人です。 雅宣氏の独断に追従する集団としてあり続けるのは、 やはり生長の家を名乗る組織として、許して置くべきか、疑問です。
◆224: ヒント :2011/06/12(日) 17:47:06 お釈迦様の話を思い出しました。 お釈迦様はある人物から、ひどい罵詈雑言を浴びせられました。 しばらく相手の好きなように言われておいて、 相手の気が済んだ所で釈尊はこう言われたそうです。
「もし、そなたの家に誰かがやってきてご馳走をだしたとして、 それを客の人が頂かなかったならばそれは誰のものになるだろうか」と。
罵詈雑言を並べて釈尊を非難した人物は
「相手からそれを受け取らないなら、それは私のものになるほかはない」 と答えたそうです。
すると、釈尊は 「それと同じである。私はそなたの罵詈雑言はいただかない、 だからそれはそなたのものである」
◆(一信仰者) ある代表者会議で、かの榎本先生が、雅宣氏の発言から、 止むに止まれなかったのでしょう、雅春先生の聖典のお言葉から その様なことは認めることは出来ませんが!と意見されました。 会場もちょっと凍りつき、雅宣氏独特の冷たい対処に終始し、 会議はその後、何事もなかったように、進行されました。 榎本先生のお顔が見えた知人は、青白い榎本先生の横顔は鬼気迫るものがあったと言っていました。
そうした声を良心を傷めずに無きものとして扱うことは、 雅宣氏にとって簡単なのでは、と思ってしまいました。 ご自身も盛んに日時計主義を唱え、自身によい面だけを 見ることが、信仰の実践になるのですから。
◆231: マリーゴールド :2011/06/12(日) 23:56:42
合掌ありがとうございます^^
本流掲示板から来ましたマリーゴールドです。 マリーゴールドって虫除けの花だそうですが 私自身は、基本人間大好きでいますので 寄ってきてください(笑)
私は本流復活を強く願い 組織を抜け、聖使命会員も辞めた身ですが
いま私が思うのは 自転車の両輪が共に(友に)動くように 本流復活の声は、教団内部と外部の両方から 上がり動くが良いと思っています。
そしていつの日か 原宿教団も、本流も 全てがひとつに、本来のあるべき 生長の家の真理が説かれる日を 願っています。
雅春先生にとっては どの場所で学んでいようとも 真理を求めて止まない方たちは 大切な弟子であるに 相違ないと思います。
個人的には 後輩で私がきっかけで、本部講師になり活躍している ある講師のことが気がかりです。 詳細はここでは述べれませんが 現教団の実情を聞くにつれて その講師の人生を苦しめていないだろうかと。
話は戻りますが 皆さんの意見を聞かせていただきながら 勉強していきたいと思っています。
合掌 再拝
◆234:ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/13(月) 06:33 ――――――――――――――――――――――――
6月13日(朝)3時30分 【谷口雅春先生 最後のお言葉】 『”病なし! 迷いなし! 罪なし!” これが生長の家の根本真理であります。 それでは、神様ただ今より眠らせていただきます』 その後、眠りに入り、 6月17日、眠ったまま霊界に旅立たれ、 天寿を全ういたしました。
(本流掲示板 伝統さまご投稿文章より)
――――――――――――――――――――――――
・・・ちなみに本日6月13日ですが、なんと愚息の誕生日であります。あ あ、斉藤佑樹くんではないですが、我がせがれ・・・
「なんか、もっている」
ちなみにセガレが生まれたのが五年前です。 そしてその約三週間後(7月3日)に私は、『生命の實相』と出会ったので ありました。ああうちのセガレ・・・本当に羨ましいヤツです。生まれて三週 間後に父親が、『生命の實相』を手にしたわけですから幸運児ですね(笑)も しも『生命の實相』なくば・・・叱られ怒鳴られて育てられたことでしょうか ら(笑)
です。
谷口雅宣先生の偉大さを賞賛し、今後も、生長の家の先頭にたって、ご指導を頂戴できる事を信徒一同、願っているのです。
*上の文章は、谷口雅宣先生を支持する人達の論理を咀嚼してまとめたものです。これは、管理人であるトキの支持する考えではありませんが、参考としてアップしました。なお、他に転載する場合は、必ず、出典である、このスレッドの名称とアドレスを明記して下さい。 (著作権法)
296: トキ :2011/06/14(火) 14:21:26 >>280
ブログ「谷口雅春先生に訊け」管理人様
以前、別の方に情報を頂戴した、先週号のフライデーに生長の家の紹介があったのを読みました。
多くの経営者が生長の家を学んでいる点を紹介し、一部には、経営者の信仰が商売目的の信仰との批判はある 点は認めた上で、しかし、多くの従業員に責任を持つ経営者が生長の家を心の支えにしているのを否定するのは 狭量ではないだろうか、と書いてありました。
ご参考まで。
合掌 ありがとうございます
297: 義春 :2011/06/14(火) 14:23:58 >>293 ブハッw仕事中なのに笑い死にさせないでw
もう奔流でも傍流でも…暴流でも何でも良い様な気がするwお題目より中身ですからねぇ(笑)
298: トキ :2011/06/14(火) 14:28:45 >>293
まあ、そんなところでしょうか。(笑)
もう、サイトの名前を「傍流健在」とかしたり。原宿本部の公式スレッドと誤解されそうですね。 あんまり名前を変えると混乱するので当分はこの名前のままでしょう。
管理人としては、まだまだ暗中模索というか、修行中です。
299: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/14(火) 14:48:11 >義春さん
早慶戦です、早慶戦。誤解のないように。
>トキさん
読もうよ思います!
300: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/14(火) 14:57:35
(○)読もうと思います! (×)読もうよ思います!
なんかへんな中国人がしゃべる日本語になってました。お恥ずかしい・・・ いや、ちょっとツボにはまるようなネタが飛び出しまして、今、笑いが収まらない 状況なんです。 お客さんとの電話でも、もう笑いが治まらないくらいに、私いま、ツボって ます。本当にすみません。
301: 義春 :2011/06/14(火) 15:14:21 >>299 Sir yes sir! 一寸アレだったかな?気を付けます。
302: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/14(火) 15:25:21 <豆知識>
Sir (英語) ○○さあ(薩摩言葉)
303: 役行者 :2011/06/14(火) 16:30:52 >前、別の方に情報を頂戴した、先週号のフライデーに生長の家の紹介があったのを読みました。
それ〜私です。しばらく見ないうちにドンドンと上にあがって行きました。 忘れ去られた寂しい私が、“そんなわたくしを哀れに思われた役行者様だけが、 ひまを見つけられては相手をしてくださっている” 初心者様に尋ねます。 その前に、 雅春先生に訊け管理人様が仰るように、トキさんの総裁擁護論及び追放論、 「実に素晴らしい!」と申し上げたいです。 もしかして、本部講師・・・?(笑)
それから、 >>170 ←旨くいくかな?? 本日6月10日発売の、フライデー36ページに、有名人と宗教という題にて、 生長の家が載っています!
と述べたのですが、京セラの稲森氏の体験を中心に掲載されております。 要約すると・・・うん・・・是非!!一読を。
>初心者様
現象的に観ると、世の中、矛盾に満ち満ちています。
そんな世知辛い世の中だからこそ、弁証法的生き方の大切さを感じました。 つまりは、敵対相手とみえる存在を認め許す生き方。 話を今に戻すと、問題は、まさしく、当掲示板の掲げている、 今の教えと本流という対立軸です! 取り敢えず、本流宣言の掲示板に焦点を合わせると、 虚説に対して徹底的に戦う!という姿勢が見受けられます、 それはそれでいいのでしょうが・・・敵対相手に対して“認める” という素振りすら見えません! しかし、それは、今の教え側に対してもいえることです。
この対立はますます、激化して行くと存じます。 互いに虚説を打つ。を標榜にしているからです。 ですから、本流掲示板にみられたように、誤評をもとに他者を打つ という過ちを生むこともあるのです! それは、今の教え側とて同じことがいえるかも知れません。 寂しい限りですが・・・ ただ、その事態がトキさん率いる当掲示板を誕生させ、 生長の家に新しい生命を吹き込んできたとみると、 面白い展開かもしれません。 あっ、お尋ねではなく、感想でした(笑)。
最後に、
>「生長の家とは何か」ということについての、多くの信徒の方々の 共通認識を現総裁がこしらえてしまった、ということなのです。 現総裁が出現しなければわからなかったことや気づけなかったことが、 その出現によって明らかとなった、ということです。
これですね!!
304: トキ :2011/06/14(火) 16:56:01 >>300
失礼をしました。
「本流復活」とは関係のない話題ですが、もう一つ。 日本共産党が、あと3年で消滅する、という記事がネットで出ていました。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/9556 *余命3年か? 日本共産党が危ない
何でも、共産党は毎月2億円の赤字を出しており、これを防ぐ有効な手段が見当たらない。この調子で行けば、3年で破産する、 という記事です。もともと、先進資本主義国と言われる国で、未だにスターリン主義的な共産党が残っているのは、日本とポルトガル だけ、という恥ずかしい現実がありますが、この調子でいけば、“ポルトガルだけ”という話になるでしょう。それは大変めでたい事です。 この退潮傾向の最大の原因は、ソ連崩壊等、共産主義の間違いが明らかになったためです。 しかし、他の国の旧共産党が、共産主義を放棄し、左翼系政党として行き残りを図ったのに、日本共産党は対策も立てられず、消滅 への道をたどろうとしています。
実は、日本共産党を永年、支配した宮本顕治氏は、自分に反対する人間を極度に嫌い、反抗する可能性のある人間を片端から追放 しました。ソ連派を切り、中国派を追放し、構造改革派を除名し、民主青年同盟内部で自由主義的な動きが出ると固めて排斥し、後 はイエスマン、茶坊主だけを遺しました。この組織体質が、共産党の活力を極端に低下させた、と言われています。
これは、他人事ではないです。谷口雅春先生がご健在の頃は、自主的、積極的な動きが高く評価されました。例えば、笑いの練習は 飛田給錬成道場の有志が始めたものですし、甘露の法雨の読誦は、京都の小木虎次郎博士の提唱、浄心行は、吉田武利先生の発案です。 つまり、組織内に自由な空気があり、それが生長の家という組織を活性化させました。 現在、谷口雅宣先生の指導の下、粛正に継ぐ粛正で、上層部で生き残っているのは、イエスマン、茶坊主ばかりだと言われています。 谷口雅宣先生が健在な間は、まだ動きが出来るとして、もし、この体質が組織に染み込み、次の総裁になったら、おそらく、生長の家という 組織は時代に対応できない体質になっているでしょう。次は、生長の家という組織の余命がカウント ダウンされる番になるのです。
おそらく、既に多数の本部関係者、職員、教区五者を含む幹部で、ここを見ている人がおられると思います。 そういう人達に、今すぐ、本流復活をしろ、森田=安東ラインを重用しろ、などと言うつもりはありません。しかし、生長の家の未来という 観点からすると、少数派の存在を認め、議論は容認する事は申し上げたいと思います。少なくとも、本部の方針を公式の会議で述べた人間を あの手この手で追放するのは間違っています。それは、恥ずかしい事だと思います。
本部の方針があり、あなたが命令に従う必要があるのはわかります。しかし、あなたでも出来る事はあるはずです。それを考えてみるのは 未来のためには、必要ではないでしょうか?
合掌 ありがとうございます
305: トキ :2011/06/14(火) 17:15:15 >>303
役行者様
すみません、その点を言うのを忘れていました。ごめんなさい。面白い文章でしたね。勉強になりました。 比較的公平な評価だったと思います。私ですか? 本部なんか、とても、とても。あそこは優秀な人しか行けません。 仮に応募しても、落第確実ですよ。本部講師には絶対になれませーん。
言われる通り、現象を掴んで喧嘩をしていたら、30年経っても解決しません。 其の点は、本当はみんな、知っているのですが、頭に地が昇って忘れているのですね。
役行者様は素晴らしいです。尊敬をしています。これからも、宜しくお願いします。
>>394
誤植です。
(×)少なくとも、本部の方針を公式の会議で述べた人間をあの手この手で追放するのは間違っています。 (◎)少なくとも、本部の方針への異議を公式の会議で述べた人間をあの手この手で追放するのは間違っています。
あと、もう一つ。原宿教団が生き残る手段はこれだ!? という、ウルトラCを考えました。(冗談ですから、本気にしないでね)
共産党から生長の家に転向をした人は沢山居ます。生長の家今昔物語の菊池藤吉先生や浅野晃先生から、現在でも多数います。 共産党幹部だった筆坂秀世さんが、生長の家活動家だった鈴木邦男さんとの対話で、生長の家と共産党には、類似した部分がある、と 話していました。それなりの共通点がどこかにあるのでしょう。
そこで、いよいよ共産党が崩壊したら、一斉に共産党の党員をスカウトするのです。組織がなくなり、行き場のなくなった共産党党員 の家に普及誌を配り、講演会に誘うのです。何しろ、昔の愛国主義の生長の家ではなく、今や、左翼集団で、環境の家と評価されて いる生長の家です。列をなして入信するでしょう。共産党の解党式をしていたら、会場の外で、生長の家のパンフレットや入会届けを 配るのです。今まで、「赤旗」を読んでいた連中が、普及誌を読み出す。今までは、共産党の党員とわかったら、就職にも不利だったが、 生長の家はそんな事はないのです。これを読んでいる共産党のみなさん! 過去は気にせずに、生長の家へ行きましょう!、と宣伝を するのです。そうしたら、原宿教団も延命できるでしょう!?
まあ、こういう冗談ばかり書いているので、破邪顕正様など本流復活の人達が激怒するのでしょうね。ごめんなさい!
306: 破邪顕正 :2011/06/14(火) 17:29:52 合掌 ありがとうございます。
お呼びがかったようなので、登場します。 「激怒」なんかしませんよ(笑)
「トキ」さんは、少なくとも「敵」じゃない! 「素敵」な人と思っていますからね〈笑〉。 冗談、大好き人間ですから、今後ともよろしくお願いします。 ここを立ち上げていただいて、本当に喜んでいるんですよ。 「早慶戦」という触れ込みもありましたね。 前にも書きましたが、好敵手がいないと話は盛り上がりませんからね。 こちらがどんどん注目を浴びて、本部も看過しえないようになってほしいなと願っています。 ますますのご健筆をお祈りいたします。
再拝
308: トキ :2011/06/14(火) 17:35:02 >>306
破邪顕正様
寛大なお言葉に感謝申し上げます。どうも、失礼ばかりですみません。 今後ともご指導のほど、宜しくお願い申し上げます。 お世辞だとは思いますが、本気にしておきます。(笑)。 益々のご発展をお祈りします。
合掌 ありがとうございます
323: 山ちゃん1952 :2011/06/14(火) 22:33:30 はじめまして。 本流掲示板から来ました。 あちらの方では雅宣氏に反対表明しなければ参加出来ないようです。私はそれには相当反対しましたけれど、私に対して の反論は無かったので少し寂しかったです。 ちょっと反対していただいた方が自分の為になるのではないかと思っています。
ただ以前に一白鳩会員さんが書いていたように「雅宣」氏と敵対しても無理だと思います。あの文章の書き方や人の接し 方など見ていて人の意見などは聞きません。 夢物語のようにしていても到底本流復活など容易くとは行きません。 申し訳ございませんが、分派するしか道がないと思っています。 今の「学ぶ会」が大きくなればいいと思います。大本教や天理教の歴史を見れば「互いに正しい」ことを言う為に譲り合 いなど出来ないです。 本来は宗教ですから、譲り合い出来るのですが「意地と意地」がぶつかり、罵り合い罵倒するのが常道のような気がします。
今回の件でも少し譲り合うことをすれば、皆様は優しいのです、でもそれが出来ないのです。 ネットという難しさを感じます。私はあまりそういうのには左右されないようにしています。
それと、私のように小さい時から「生長の家」に触れ、奇跡など遭って「病気」が治ったとかの体験がない人間です。 小さい頃から「母の教え」そのものが生長の家でしたから、何の迷いもなしに来ています。 ただ、大人になってから迷いました。
一番大切なことは「聞く耳」を持つことですね。それと人を攻撃しない事ですね。私は雅宣氏だけは凄く厳しくはいいます。 勿論宗教家として見ているからです。 今は「生長の家」にも所属していません。「学ぶ会」にも初期の頃は行っていたのですが途中で嫌になり行かないよう になりました。
宗教している人に大事なのは「自分の我」を通さないことが大切なように思います。 相手は「こんなこと思っている」あれは間違いだ。 どうにかしてその間違いを指摘して懲らしめてやろうと思うから「うまく」いかないのです。
あんた「雅宣」派だろう。そんな目で見るようなことはやめましょう。私の知り合いでも「やむなく」講師会長や職員の人もいます。 だからと言って「雅宣」派とか思いません。 ただ、論戦は必要です。「憲法」や「天皇陛下」や「現政権」や「中国」など様々な問題に危機意識を持って論戦するのは大切です。
いまの「生長の家」の人は論戦が下手です。すぐに感情になってしまうのです。
もし、論戦で意見が対立した時には、わたしはこのように思います。「知らないのだな」と思います。唯、口に出しませんので… 私も青年会の出身です。とことん勉強することを教わりました。お蔭さまで読書が趣味です。もし論戦があればお手柔らかにお願 い致します。
332: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/15(水) 09:32:25
>本流掲示板管理人殿
こんにちは。さて提案があります。 貴殿が運営なさる本流宣言掲示板ですけど、あの「宣言」では混乱を招き ます。私などは書き込み禁止を知らず、文章作成に3時間かけ、そして掲載 不能となりました。ですので宣言文への追加項目の要ありではないでしょうか。
ご多忙な貴殿に代わり、私が第五条を作成致しました。無用な混乱を未然に 防ぐため、同第五条のご掲示を何卒よろしくお願いします。
――――――――――――――――――――――――――――――――
一 我らは谷口雅宣生長の家総裁に、生長の家のすべての役職から引退 していただくことを目的とする。
二 本掲示板は上記の目的を遂行するために設立されたものであり、我ら は多少の意見の違いがあっても、この目的のために皆が心を一つにするもので ある。
三 我らは生長の家の大神、谷口雅春先生の御心を受け継ぐものである。
四 我らは、虚説に対してはあくまでも戦い、人に対してはどこまでも実相を見 て和解するものである。
五、立派なブログをお持ちの方は、書き込みをご遠慮願いたい
347: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/16(木) 06:02:31
>初心者さま
合掌、ありがとうございます。
――――――――――――――――――――――――――――――――――― (本掲示板1での、貴殿ご投稿文章)
人類は、いまだ資本主義の暴力性を制御できる「第3の道」を見い だせずにおります。はたして生長の家は、国家になり代わって「第3の 道」を提示できるのでしょうか。 真理の光は、資本主義経済の暴力性に打ち勝てるのでしょうか。 ブログ管理人様がおっしゃっておられる現世利益とは、 資本主義経済の暴力性にただ耐えてゆくということだけなので ありましょうか。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
以下、的を射た回答とはなっておりません。たとえば「私が用いた現世 利益≠フ定義に対する回答」は述べておりません。しかし代わりにと言った らなんですが、「日常生活を生きる上で資本主義経済の暴力性≠ニ、どう 付き合うべきか?」という話を、「少なくとも現状、こう考えております」 と云ったカタチで述べる試みならば、行えるのかもしれません。以下にてそ の試みを。
さて、「資本主義経済の暴力性にただ耐えてゆくということだけなのであ りましょうか。」に関するところから、私見を披露致します。 ここ数年の経験から申すに、「ただ耐えてゆく」と云うよりは、資本主義 の暴力性を「神として拝むことができるか?」が、個人的に重要テーマとな っております。仮に暴力性と(現象語では)称されますが、これ、雅春先生 の御著書を読むと観が転換するのです。
なお、私は屁理屈で頭が一杯の男です。金融政策なんていうものにも人一 倍、敏感と申してよいかと思います。やれ「竹中平蔵のサプライサイド云々」 とか、やれ「橋本行革時の時価会計」とか・・・まあ兎も角、金融政策の話は 注視しておりまして、そして大抵「我々に不利な情報で」頭が一杯になるわけ です。つまり、貴殿申されるところの「資本主義の暴力性」を、他人以上に感 じやすい立場にあるのが、現在の私だと云えると思います。 たとえば「竹中平蔵が(デフレなのに)インフレ政策を採用した」となれば 、すぐに頭の中で、自社への影響を計算できてしまうのです(これ、自慢でき る話ではありません)そして「あのバカ野郎!」みたいな言葉がどんどん出て くるわけであります。つまり、私の知識は資本主義の暴力性を、まさに増幅さ せる機能しか有しておりませんでした。そしてそんな時期の私は、実に気苦労 が絶えなかったのでありました。
しかしこれ(=暴力性)を神と拝むことができた際、やはり運命は好転しま した。(※1)まあそれを――運命好転に於ける付随物――を、仮に「現世利 益」と称するのもなんですが、ともかく神として扱うとどのような不運命も、 調和をもって顕現することを、多々経験している昨今です。 再三述べたことですが、私は雅春先生の「自壊作用」という言葉に救われま した。そう、自分に対する暴力だと思っていたものが、これ、実は「善の躍動 する姿」だったのです。これに気づいた時の歓喜たるや・・・まあホント、 『生命の實相』を手に「やったー!」と叫んだくらいのものでしたね(笑)ま た、藤原敏之先生は「向こう倍力」(※2)なる言葉まで、紹介くださってお られます。こんな言葉を武器にできれば、これ、どんな暴力性に見舞われよう とも「歓喜の機会」にしかならぬという、現在の私です。
(つづく)
348: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/16(木) 06:03:25
まとめます。
世界の人たちが観の転換――暴力性ではなく、それを「善の躍動」と観るこ と――が実現されれば、自動的にそれは(やや言い過ぎとは申せ)「第三の道 の実現」となりましょうし、既に生長の家はそれを「提示している」と考えま す。また真理の光は、資本主義の暴力性に勝てると思います。否、「圧勝する 」(※3)と申した方がより正確になりましょう。なぜと申して、そんな暴力 性に怯まない、真に実在するものが「真理」と呼ばれるものでありましょうし、 もしも負けるものであればそれは、真理とは呼べぬ代物でありましょうからね。
<註>
※1 しかしこれ(=暴力性)を神と拝むことができた際、やはり運命は好転しました
表現に正確を期します。本流掲示板に掲載した体験談ですが、あのリーマン ショックで「倒産真近」を経験した時期は、(実は)徹底できてはおりません でした。つまり「神への全托など不徹底だった。それでも奇蹟が現れた」と表 するのが、正確なところです。 ・・・余談めいた話をすれば「神は偉大です。なぜと申して、私のように 『全托が不徹底』だった者すら、救い給うたのですから」となりましょうか。
※2 「向こう倍力」
ピンチに見舞われたら、「その倍の力がある証拠である。悦べ!」とする言 葉。簡単に言えば、たとえば、一億の借金があるならばその人には、「確実に 二億を稼ぐ能力が在る証拠」とするものの観方であり、どんな事態も「悦ぶし かない」という(究極の)楽観思考と云えようか。
・・・ちなみに以下余談。
眠れない夜によく、藤原先生は私のためだけに脳内講習会を開催してくださ るのです(笑)その、脳内講習会の際に出た言葉・・・「実は向こう倍力 あれはウソなんであります」ええ?!と申した私に、先生が云われた言葉は 「実は向こう倍力≠ナはなく、向こう10倍力≠セった」というものでし た(笑)「こっち(霊界)に来てから気づいたよ(笑)」と、言っていたよう な、言わなかったような・・・
要するに一億の借金がある人は、十億の資産を持っているのと同様とか(笑) 「 だ か ら 悦 べ !」と申された、ある日の藤原先生でありました(笑) そのうち「実は、向こう100倍力だった!訂正訂正!」なんて、おっしゃ ってこられぬか?(お待ちしております、藤原先生) また、ピンチの際に「雅春先生!雅春先生!」と10回叫ぶというあの話で すが・・・最近は雅春先生!の後に「藤原敏之先生!」と5回叫び、「榎本恵 吾先生!」と5回叫ぶと、益々運命が好転することに気づきました(笑)
・・・超余談
ちなみに私の携帯電話ですが、待受け画面は藤原先生です。
※3 また真理の光は、資本主義の暴力性に勝てると思います。否、「圧勝する」
根拠の一端を、本日ブログにアップ致しました。 http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65557707.html をご高覧ください。
再拝
349: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/16(木) 06:13:49
>商人さま(笑)
ええ?!藤原先生本ですが、2冊お買い上げでしたか(笑)なんだ、それな らそうと早めに知らせてくれなくては、困るではないですか。もう商人さん、 あなたは必ず救われますよ(笑)たしか、藤原先生、こう書いておられません? 「もうここに来たら皆さん、救われずに帰れるなんてことはないからね。だか ら覚悟しなさい」みたいな(笑)
なお「堅信の手帳」ですが・・・一見、単純に過ぎるアイデアなんですけど、 効果絶大ですよ(笑)私なんて、この堅信の手帳に書いた願望ですけど、達成 率95%くらいでしょうかね?残り5%もこれから実現することでしょう。 いやホント、こんな手帳まで製作してくださった雅春先生ですけど「もうど れだけ、我々のことをお考えになられたのか」と、感謝の言葉しか出てきませ んね。
>霊界の藤原先生さま・・・
ああまた一冊、売れておりました(笑)先生の御著書100万部販売まで、 あと99万9994冊くらいです。ありがとうございます。
350: 商人 :2011/06/16(木) 07:41:24 我が師、ブログ「雅春先生に訊け」管理人さま おはようございます!
夜に藤原先生の本読もうとしていましたが、娘(3歳なったばかり)の遊びの相手で、読めませんでした。笑 じっくり噛み締めて読みますね。 でも仕事とかで疲れたときは我が師、ブログ「雅春先生に訊け」管理人さまの 書いてあるのを読むと、思わず顔がほころびますよ 笑 それが私のビタミンですかね〜 我が師、ブログ「雅春先生に訊け」管理人さま 今日も一日すばらしい一日で!
PS ピンチの際に「雅春先生!雅春先生!」と10回叫ぶというあの話で すが・・・最近は雅春先生!の後に「藤原敏之先生!」と5回叫び、「榎本恵 吾先生!」と5回叫ぶと、益々運命が好転することに気づきました(笑)
すばらしいですね!!
・・・超余談 ちなみに私の携帯電話ですが、待受け画面は藤原先生です。
こうゆう部分がツボにはまります 笑 今朝もはまりました。笑 今日もいいことがありそうだ!
>トキさん トキさんいつもありがとうございます。 本当ならいろいろ議論しないといけないんでしょうが、商人ですので商売に命をもやしております。 谷口雅春先生の教えを商売に生かそう生かそうとしております。 いつかお金の事が本流さんのところで非難されてありましたが、家業を預かる身、どうしてもお金なしでは、 となってしまいます。(これも跡継ぎの定めでしょうか)
私の思いはこの掲示板を見られる方はみなさん幸せな気持ちになられたらいいなと思います。 ちなみに私は我が師、ブログ「雅春先生に訊け」管理人さまが元気の元ですがね。笑
トキさん すばらしい1日に!!!!
351: トキ :2011/06/16(木) 10:10:34
今でも一知半解の生長の家の幹部の中には、『仕事や学業よりも、生長の家の事だけするのがエラいのだ」という誤解をする人がいますが、実は、私は、そうは習っていません。
信仰生活とは、道場にいる間だけが信仰ではなく、普段の日常そのものが信仰であります。 特に、仕事というのは、単なるお金儲けではなく、その仕事を通じて神の子たる大衆に喜んでもらう 大切な行ですから、これも大切な信仰生活であり、宗教活動であると教えられました。毎日来て 下さるお客様も神の子であり、問屋さんも神の子であり、ただ、礼拝すればいいのであります。 そして、お客様が喜ぶような御仕事をさせていただくのであります。 同時に、自分も神の子でありますから、御仕事に対して、適正な利潤を頂戴する。 売り手よし、買い手よし、世間よし、という言葉がありますが、ごまかしたり、ウソをつかず、 正直に商売をする。取引先にも、厳しく接するべき点は接するが、愛情も込めて対応をする のがよいとも言われました。
商人にも商人道があり、その仕事を通じて、自分の信仰を鍛える機会を頂戴したと感謝すれ ば良いと言われました。商売には、苦しい事、嫌な事と多々遭遇しますから、その中で心を どう保つかは大切な修行かもしれません。
つまり、商売と信仰は別々ではなく、一体であり、その仕事を通じて、自分は魂の向上の 修行をしている、と言う訳でしょうね。
363: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/17(金) 06:41:04 >商人さま
いやー・・・「先生」というのはお止めください。私なぞは、キャバ嬢か らしか誉めてもらえない悲しいオッサンですんで(「お客さん、親思いなん ですね」)しかも、そのキャバ嬢すらも、控え室では「今日、キモイお客さ
367: 初心者 :2011/06/17(金) 13:28:30 ブログ「雅春先生に訊け」管理人様へ
>雅春先生の凄味は、たとえば貴殿のお言葉を借りるならば、「資本主義の 暴力性という矛盾を条件としない=v点になろうかと。 現象語では「暴力性」と称される事象であれ、その背後では、神が躍動し ているのであると。そしてそれは、五官認知不能とは申せ、「確実に在る」 のであると。五官がいくら「それは悪の兆候」と言おうとも間違いであると。 「その悪らしき姿は、善が表に出てこようとする衝動」であると。
「現象の悪の背後では神が躍動している」。これはたしかであります。「確実に在る」。これもたしかです。ではなぜ、それが「善が表に出てこようとする衝動」であるにもかかわらず、「悪らしき姿」となって見えなければならないのでしょうか?
この「悪らしき姿」が単なる迷いであるとか、転倒妄想であるとかといってみたところで、何の解決にもなっていません。なぜ迷っているのか、なぜ妄想を抱くのか。つまり「迷い」や「妄想」にしたところで、これにもたしかな根拠があるはずなのです。この根拠を明らかにしなければ、真理を説いたことにはならないと、わたしはこのように考えます。
簡単に申しますなら、現象の悪はどのようにしてつくられるのか、これを明らかにする必要があるのではないかということです。「現象はない!」ではなく「現象がなぜあるのか」。これがわかれば、現象世界にたいする見方も、これまでとは違ってくるはずです。しかもそうなれば、「資本主義の暴力性」にたいする見方もまた違ったものになるのではないかと、このような気がいたします。
>突然、睡魔に襲われたらどうされますか?
人間はつねに眠った状態にあるんじゃないですかね?むしろ「突然の覚醒に見舞われたときにどうするか」、こちらの方が問題だという気がします。
ある日突然、人類愛に目覚めてしまった。ある日突然、深い真理を悟ってしまった。こんなときにどうするか。これは大変な問題だと思います。
368: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/17(金) 14:01:35
>初心者さま
貴殿ご提題はかつて、私も考えたことがあります。
なぜ神は「不完全な目で」(=実相直視不能の状態で)我々を現象界に 送り出し給うたのか?・・・まず愚生の意見はこのようなものです。ここか ら沸いた疑問など寄せて頂きますと、また議論が活発となるやもしれません。
http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=235 (1083の駄文ご参照)
369: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/17(金) 14:15:23 >初心者さま
なにか貴殿ご提示の議論は、倉田百三氏と雅春先生との対談にも似ている と思います。たしか『生命の實相』39巻だったと記憶しておりますが、そちら もご参照になられては如何でしょう。かなりハイレベルなやり取りであり、見 応え充分ですよ。
370: 初心者 :2011/06/17(金) 15:50:31 ブログ「雅春先生に訊け」管理人様へ
「浜辺の足跡」の記事、読ませていただきました。 わたくしもかつてどこかで読んだことがあります。 ブログ管理人様の野球解説は、100パーセント真実でありますね。 ただひとつ異論をさしはさみますなら、 『生命の實相』のアンインストール状態が受け身的であるということです。
人間は、もっとポジティブに『生命の實相』のアンインストール状態を引き受けている。 これがわたくしの考えです。 浜辺の足跡がひと組であったのは、 それは、その人が神を拒絶したのだと思います。
371: 初心者 :2011/06/17(金) 16:03:35 ブログ「雅春先生に訊け」管理人様へ
残念ながら、ただいまワケあって、生長の家関連の書籍が手元に1冊としてありません(捨てたわけではないのでご心配なく)。
雅春先生と倉田百三氏との対談といえば、「花見が先か、火事を消すのが先か」という議論を思い出します。
宇宙の神秘を存分に味わいつくす、というわたくしの立場からすれば、だんぜん「花見」ということですね。真理に救済を求めない。これがわたくしの立場ですので、「火事を消す」という発想じたいがそもそも存在しない、というのが現状かもしれません。
火事を消す必要がないほどに、人は『生命の實相』のアンインストール状態を生きようとしている。個人的にはこのように考えております。
372: 名無しさん :2011/06/17(金) 16:34:35 我が尊敬する!先生 「ブログ『雅春先生に訊け』管理人様へ!!. ちょっと仕事中ですが、あんまり面白かったのでコメントいれたくなりました。笑
>(「お客さん、親思いなんですね」)しかも、そのキャバ嬢すらも、控え室では「今日、キモイお客さ んいたよ(笑)自分の親、ケータイ待受にしてんの(笑)
伯母さまの話で >・・・もうどれくらいの緊張度だったか、皆さんお分かりになるでしょうか ?日本海軍ならば確実に「Z旗」を掲揚するくらいの、そんな緊張度だったん ですよ。 の、この「Z旗」でまた噴出しましたよ 笑
我が尊敬する!先生 ブログ『雅春先生に訊け』管理人様 最高! ホント心がハッピーになるな〜 私の考えでは、人を幸せな気にさせてくれる、これが一番と思います!
373: トキ :2011/06/17(金) 16:36:02 >>364
ブログ「谷口雅春先生に訊け」管理人様
いつも素晴らしいご文章、ありがとうございます。
閑を見ては、書き出したのですが、量が半端なものではなくなってしまいました。 まとまったら、こちらのスレッドに投稿をしますが、顰蹙をかうような量です。 いきなり投稿したら、仰天するので、少し予告しておきますね。
ただ、最近、生長の家に触れた人には、「現在の教団の状態がこうなった原因は、 どこにあるのか?」という点がわからないでしょうし、やはり、きちんとまとめて おいた方が良いかとは考えています。
>>356
御丁寧なお返事、深く感謝申し上げます。 仕事は、確かに大変ですが、これが修行です。まあ、私も、エラそうな事は言う 資格は全然、ありません。
よく生長の家の栄える会では、「神様が社長で、自分が専務のつもりで、経営を しなさい」といいますね。昔は、「神様が主人で、自分が番頭のつもり」という表現 もしておりましたが。
では、ご繁栄をお祈りします。
合掌 ありがとうございます
376: 初心者 :2011/06/17(金) 19:05:32 ブログ「雅春先生に訊け」管理人様へ
このあたりで理屈を一発ぶちかまそうかと思います。必殺のパースペクティブ理論。これを今からぶちかまします。
パースペクティブとは、近くのものほど大きく、遠くのものほど小さく見えるという現象です。現象というからには、これは実相とは無関係と考えられます。
現象世界では、遠くにあるものはかならず、実際よりも小さく見えます。パースペクティブが効くことで、まっすぐなものでも湾曲してみえます。広角レンズで撮影した映像が湾曲するのは、通常の湾曲がデフォルメされた結果と考えられます。
パースペクティブとは何なのでしょう。その正体とは何なのでしょう。遠くのものが小さく見えるのは当たり前じゃん。こんな声が聞こえてきそうですが、本当に当たり前のことなのでしょうか。
この現象世界が誕生する以前に、パースペクティブの仕組みが組み込まれていたとは考えられないでしょうか?パースペクティブが現象世界をつくり出した。こうした予想を立ててみるのは不可能なことなのでしょうか。
パーペクティブがなければ現象世界は存在し得なかった。わたくしは、パースペクティブに、このような法外ともいえる地位をあたえておるのです。根拠はありません。なんとなくそんな気がする。ただそれだけです。
パースペクティブは面白いです。パースペクティブがあることで自他の区別が生じます。パースペクティブがあることによって、自分中心の世界ができあがります。パースペクティブがあることによって、世界は湾曲します。
実相世界に、はたしてパースペクティブはあるのでしょうか。遠くのものが小さく見える。世界が湾曲して見える。このような現象が、はたして実相世界にはあるのでしょうか。
モノが実際よりも小さく見えたり、湾曲して見えたりするというのは不完全です。完全なモノが小さく見えたり、湾曲して見えたりするはずがありません。実相世界が完全な世界であるなら、パースペクティブが存在してはならないのです。たとえ遠くにあったとしても実物大で見えなくてはならないのです。どんなことがあろうとも、湾曲して見えたりしてはならないのです。
野球は、パースペクティブがあるからこそ可能ですバッターボックスに立てば、外野手はピッチャーよりも小さく見えます。だからこそプレーが可能となるのです。ピッチャーも野手もぜんぶおなじ大きさに見えたら野球になりません。外野スタンドは、実際よりもはるかに小さく見えます。だからこそバッターは、「ホームランを打ったろう」という気にもなるのです。
実相世界では、9回裏の大どんでん返しどころか、そもそも野球は不可能です。サッカーもテニスもできません。わたしたちは、幸いにもパースペクティブのある世界に生まれてくることができました。野球もサッカーもテニスも、ほかにも何だって楽しむことができる世界に生まれてこれたのです。現象世界とは、考えられているよりもずっと素晴らしい世界なのかもしれません。
377: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/18(土) 05:43:07
>初心者さま(笑)
合掌、ありがとうございます。
いやー、理屈合戦ですけど、楽しいですね(笑)私は理屈民族なんで、ま あ、腑に落ちないことをそのまま放置するのが苦手ときています。ですんで 貴殿とのやり取り、非常に有意義に感じております。
さて本文に入りますが、まあ、今回の貴殿ご返信なのですが・・・もう少 し吟味したいと考えます。ですので時間を頂戴できませんか?と、申します のも、370に於ける以下ご文章の、その意味を捉えかねているためであり ます。その文章とは、
――――――――――――――――――――――
1、『生命の實相』のアンインストール状態が 受け身的であるということです。
2、人間は、もっとポジティブに『生命の實相』の アンインストール状態を引き受けている。 これがわたくしの考えです。
――――――――――――――――――――――
・・・うーん、いまひとつよく消化できておりません。ですのでもう少し、 お時間頂戴致します。
追伸1
関連するかどうか不明ながら(私は関連すると思っているのですが)、本 日ブログに新記事をアップ致しました。テーマは「すでに創造済みの世界」 であります。 「五官で認知できぬにせよ、我々は神創造の完全の中にいる」このあたりの 消息にテーマを絞ったものです。ぜひご訪問ください。
●「ことすでに成れり」 http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65558460.html
追伸2
雅春先生と倉田百三さんの件ですが・・・たしかに「花見と火事」もおも しろかったです。ですけど、この(たしか)39巻にあった往復書簡内容は、 圧巻です。もう段違いにハイレベルと申してよいでしょう。 どれくらいの圧巻かと申せば、(無論独断+偏見ですが)この39巻で雅 春先生、「ついに論破さる!」てな感じの挑戦状を受けるのです。私はこの 倉田百三氏の書簡(雅春先生への質問状)を読み、「あらら・・・雅春先生、 ひょっとして論破されてないか?」と思ったくらいでありました(内容をご 確認くださいwいや、ぜーったい、貴殿好みの議論ですってwネタバレして よいならば、私、ガンガンに語りますがw)
まあしかし・・・この倉田百三氏の質問状に対し、雅春先生ですが、約15 ページ分くらいに相当する、そんな返信を起草されております(笑)そして もう、この内容たるや「完璧」なんですよ、完璧(笑)もうこの、返答文を 拝読しますとですね、一瞬とはいえ「雅春先生、ついに論破さる?」なんて 思った自分が恥ずかしくなるくらいです。
それくらいにこの、倉田百三氏と雅春先生のやり取り、凡人が抱く疑問を ハイレベルに(それでいて言葉は平易に)解釈してくださっておられるものです。 もしも貴殿が未読なのならば「非常にもったいない」と申し上げたいくら いです。・・・しかし雅春先生、「この往復書簡を第39巻にもってくると は(笑)」
378: トキ :2011/06/18(土) 11:21:39 新しいスレッドについて。
少し他の宗教の板も見ました。やはり、複数のスレッドを使い分けている板がいくつかありました。 が、中には、作ったけど、長期に渡り、書き込みがないスレッドも散見されました。あまりたくさん 作るのも、問題はあるようです。メインのスレッドを活用し、マイナーな話題は、使い分けるような 場面もありえるようです。スレッドは作るのは1分で作れるのですが後の管理等は大変みたいです。
で、投稿者様の中で、「こういうスレッドを立てて欲しい」という希望がある場合は、こちらのメインの スレッド(2)に、名称や趣旨を詳しく書いて、投稿して下さい。他の投稿者のご意見も聞いた上で、時期を見て作り ます。
それと、生長の家の迷走がいつから始まったのか? という疑問にこたえるべく、「生長の家政治連盟と その影響」(仮称)という文章を書きましたが、あまりも長く、内容も異質なので、これを、こちらか 別のスレッドに投稿すると、そのスレッドが破壊されるので、別のスレッドを立てる事にします。 御了承のほど、お願いを申し上げます。
合掌 ありがとうございます
379: 初心者 :2011/06/18(土) 12:01:44 ブログ「雅春先生に訊け」管理人様へ
面白い展開になってまいりました。とりあえずここからは、パースペクティブ一本槍で押すことにいたします。
生長の家では、ブログ管理人様のブログで書かれておりますように、実相の完全円満な姿を念のレンズをとおして見ることで、ほんらいは完全である実相世界が、不完全で歪んだ形となって見えてくる、とこのように説かれているように思います。
この念のレンズをパースペクティブと置き換えることはできませんでしょうか。パースペクティブのない実相世界にパースペクティブを効かせる。すると、自と他の違いが生じ、物事がゆがんで見えてしまう、不完全な現象世界があらわれる。現象世界のあらわれ方を、このように単純化して考えることができるのではないかと思います。
昨日の記事で申しましたように、野球やサッカーは、パースペクティブがなければできないはずです。ドライブや写真の趣味もパースペクティブあればこその楽しみです。この世界からパースペクティブが奪われるようなことになれば、多くの楽しみが奪われることになります。
ここで、実相顕現とは何かを、こうした話の流れから考えてみます。いうまでもないことですが、実相顕現とは、この世界からパースペクティブが奪われてしまうということなのです。
パースペクティブが奪われることを、人々ははたして望んでいるのでしょうか。これがわたくしの疑問です。むしろ人々はパースペクティブを守ろうとしている。わたくしはこのように考えます。人々は、実相が顕現しようとする力と戦っています。パースペクティブを守るために、人々は実相の力と戦っている。わたくしはこのように思うのです。
人間は、『生命の實相』のアンインストール状態を甘受しているのではなく、むしろインストールされることに抵抗している。パースペクティブを守るために、アンインストール状態をポジティブに歓迎している。このようなことを昨日は書いてみたような次第です。
380: 山ちゃん1952 :2011/06/18(土) 12:18:04 「生長の家」を辞めて久しい。「生長の家」の迷走がいつから始ったかという質問はやはり「雅宣」氏が教団に入ってからではないか? 最早、理屈をつけても行く付く先は「雅宣」氏である。根本的に戦後教育を受けて育ち、それを受容したのが崩壊の始まりです。 政治連合の廃止も起因はそこに行きます。清超先生はそこまで行くことは文章を読んでいてそう思いますが、講習会で日本軍の中国侵略という言葉を 言われていたのは事実であります。 しかしそれを後押ししたのが、「雅宣」氏であったのは間違いない。 それこそ運動方針や教義も違う発想が「生長の家」の崩落に指標したのではないか。 まだ崩落していないといわれるが、いまは似非生長の家である。似ても似つかぬ生長の家が存在はしているが 今の生長の家は本来の生長の家ではない。生命の實相を棄て、「天皇信仰」を放棄し、「愛国心」はソコソコ で、「先祖供養」は後回し。 一に「環境」、二に「環境」、三に「環境」と環境の家しか頭にない雅宣氏、いや それしか語れないのです。
もう一度根本の『生命の實相』に還るのが生長の家を救う道であろう。
381: 初心者 :2011/06/18(土) 13:37:39 山ちゃん様へ
この掲示板でわたくしは、近代的知性にどう向き合うかということで、和解、温存、否定の3つの道があると語ってきました。いたずらに否定することで近代的知性に呑み込まれてしまうことの危険性についても語ってきました。
基本的にわたくしは、「温存」というスタンスをとっています。近代的知性に向き合うにも、こうしたいくつかの立場があるということをご理解いただき、わたくしのような立場を、どうか広いお心で許容していただきますようお願いいたします。
382: トキ :2011/06/18(土) 13:43:59 >>380
山ちゃん1952 様
ご投稿、ありがとうございます。 この問題は、やはり体験をされた方でないと書けない部分が多いので、今後も、ご指導をお願いします。
谷口雅宣総裁については、青山学院大学在学中、新左翼運動をしていた、との投稿が「本流復活」の掲示板に 出ていました。ご本人は、「小閑雑感」で、当時の写真をアップし、自分は生長の家の活動をしていた、という 趣旨の反論をされました。続いて、「大論争5」で、生長の家本部には出入りしていたが、持ち物、着るものも 上等で、貧乏な中で活動をしていた仲間を鼻で笑うような高慢な態度だった、という投稿がありました。 このあたり、実態はどうだったのか? という点が気になります。
生長の家政治連盟ですが、当時の政治路線の当時でも、信仰の指導はきちんとされていました。 しかし、今は、信仰よりも、環境という雰囲気で、内部はしらけています。
御指摘の通り、「生命の実相」に今こそ、戻るのが大事だと感じます。
合掌 ありがとうございます
389: 山ちゃん1952 :2011/06/19(日) 20:07:04 初心者様へ >近代的知性にどう向き合うかということで、和解、温存、否定・・・< すいません抽象的な言葉ではわかりません。近代的知性といってもわかりにくいので 具体的な言葉でお願い致します。<
私は和解とか温存とか否定とかいうのではないのです。申し訳ありませんが「妥協」しかない と思っています。それぞれ各個人での思想とか異なっております。生長の家を信じていても何にを 信じて活動されているのかにより異なります。その点は同一性はありえない。 そこで、どこが和解できるのか、ある一点を除き和解出来ないのか、それとも全てが和解できないのか 違います。 そこには妥協されているかどうかであります。そこに経験などが付加され理解するのだと思います。
1番大切なことはドグマという宗教的な要素を理解しているのかどうかです。たとえば教義に異論がないかどうかでしょう。
それが、その宗教の正当性を見出す要素です。私はそこを問題にしているだけであります。 誰かさんが違う意見を持っていても当り前であります。そんな内容を聞いても「仕方」がない。
そのドグマに異論がありかどうかであいます。 生長の家の重要な教義のなかで「天皇信仰」があります。決して生長の家は環境が教義ではありません。
そして『生命の實相』であります。その中に「天皇信仰」もあり、教義の原点があるのです。
それが異なると「生長の家」は似非になるのです。教義を変えなければいけません。 それならば入信もしていません。
トキ様 1回生の時に少しだけ練成には参加していたようです、左翼的な活動はされていません。
ただ態度が傲慢であり、信仰者としての素質が無かったと聞いています。
私は初期から聞いていますが、生長の家の根本的な真理を言っていたかは懐疑的です。
390: トキ :2011/06/19(日) 22:14:50 >>389
山ちゃん1952様
ご教示ありがとうございます。なるほど、わかりました。 そういう事だったのですね。
合掌 ありがとうございます
392: 初心者 :2011/06/19(日) 22:55:58 山ちゃん1952様へ
カトリックの堕落を見て、大勢の人々がプロテスタントに改宗しました。改宗した人々の心に何がおこったのでしょう。宗教の堕落は矛盾です。矛盾のなかに、人々は共通する何かを見いだしたとはいえないでしょうか。
矛盾のなかに何らかの同一性を見いだしたからこそ、人々は心をひとつにして、新しい信仰に魂のよりどころを求めはじめた。このように考えるのは不可能なことでしょうか。同一性を見いだすこともできずに、それでも人々は心をひとつにできるものなのでしょうか。強大な敵と命がけで戦えるものなのでしょうか。
たとえプロテスタントが同一性を見いだしていたにしても、それでは生長の家はどうなのでしょう。おっしゃっておられるとおり、教団内に生じている矛盾のなかに何らかの同一性を見いだせるのかというと、たしかなことは何もいえません。もしも同一性を見いだせるチャンスがあるとすれば、それはルターのような人物があらわれたときだけなのかもしれません。
「妥協」というのは、誰の何にたいする妥協なのでしょうか。わたくしのいう「和解」とは、弁証法でいうアウフヘーベンのことであり、「温存」とは、「矛盾のなかに同一性を見いだすことを認める」という、わたくし流の弁証法的決着の方法なのです。この掲示板ではこういう論法でこれまで書いてきました。
「和解」と「温存」という言葉を、わたくしは、これまでのところ弁証法に限定して使っています。それ以外の意味で使ったことはありません。もしも「妥協」という言葉を弁証法以外の意味で使ってらっしゃるのであれば、話がかみ合うことはありません。いまいちど吟味していただければありがたく存じます。
ちなみに、近代的知性とは、「戦後の学校教育によって育まれた知性」という意味で使ったものです。今のところ、こうした定義で十分ではないかと思います。
393: 義春 :2011/06/19(日) 23:35:00 >>391 初心者さま 歴史は好きなんですけど…どうも西洋哲学はキリスト教が下地になってますやん? それで私は歴史学んでるとキリスト教はどうも好かん様になってしまって、結果、西洋哲学も苦手になってしまった・・・という訳なんです。
だから友人に『義春の考え方は(確か)デカルトだね』とか言われても、いや俺は自分なりに生きやすい考え方をしたら、こうなっただけで勉強してないよ〜としか言えないのです。
どちらかと言うと、私は東洋専門なんですよ。まぁ…食わず嫌いもダメだから、一寸ずつ西洋も勉強してますけど…中々、大変ですよね…。
394: 山ちゃん1952 :2011/06/20(月) 10:36:15 初心者様 いやいや宗教の堕落は矛盾といっても様々あります。一言ではいえません。 欧米の宗教をここで説明されても駄目だと思います。 「生長の家」においての矛盾を説明されないと広範囲すぎてほかの人はわかりません。 「妥協」というのは書いているように人と対峙するする場合に様々の観点があり、その人なりに こうですとは言えません。だからこそ「トキ」さんに書いたように教義の部分に集約しての矛盾が ないかどうかを確認すればいいだけであります。
ここで書いておられる人のなかには矛盾はわかっているのだけれど、今までの様々な付き合いのなかで 断絶できないでいるからこそ迷うのであります。 その断絶は今の「生長の家」は違うからこそ「わかっているから」悩むのだと思います。 それを隠蔽しながら活動されている人も多くいます。 だからこその妥協が必要なのです。どこまで妥協できるかはわかりません。 それでもわからない人もいますし、全く無理な人もいます。
だからこそ妥協といいながら”分派”しかないとも思っているのです。
分派は最初に書いています。
またアウフヘーベン弁証法といっても、それだけの高尚なる哲学と力量が必要です。 アンチテ−ゼとテ−ゼとの統合には其々の感情をどう抑制するかが必要であります。
私はそれしか信じないという人には難航します。だからこそ同一性のテ−ゼが必要であります。
でも、それでもその人にどれほどの寛容があるかが大切であります。 難しいですが、違いを見つけてそれを寛容する精神で包容できるかどうかでしょう。
395: 初心者 :2011/06/20(月) 11:34:32 山ちゃん1952様へ
いろいろとご教示いただいてありがとうございます。大変に失礼な言い方であるかもしれませんが、山ちゃん1952様にたいしましても、わたくしはようやく、役行者様からいただいていたのと似たようなご愛念を感じられるようになってまいりました(本当に深いご愛念を感じております)。
妥協の意味はわかりました。それで、「教義の部分に集約しての矛盾がないかどうかを確認すればいい」ということですが、たとえば矛盾が生じた場合にこの矛盾をどう扱うべきであると考えておられるのか、矛盾のタイプによってケースバイケースであるといわれてしまいそうですが、基本的にはこの矛盾をどう扱えばよいと考えておられるのか、それをお聞かせいただければと思います。
>またアウフヘーベン弁証法といっても、それだけの高尚なる哲学と力量が必要です。 アンチテ−ゼとテ−ゼとの統合には其々の感情をどう抑制するかが必要であります。
おっしゃるとおりです。適切にアウフヘーベンしてゆくには、高尚なる哲学と、十分なる知識量、豊富なる経験と高き見識、重厚な思考力といったものまでも含めた総合的な力量、それと、ともすれば野放図に展開してゆこうとする感情のコントロールなどが必要になってまいります。とても品性下品(げぼん)なるわたくしごときの及ぶところではございません。
わたくしの主張はつねに「矛盾を条件とした同一性を認めることを許す」という、たとえ凡夫であっても実現可能と思える方向性でございます。簡単に申しますなら、悪が存在しなければ善を知ることはできないという、単純な方法でございます。これならわたくしのごとき凡夫にも到達できる、解決の方法であるのかもしれないと考え、日夜努力しておるところでございます。
また「生長の家の矛盾を示せ」といわれましても、わたくしが今の状況を知ったのは、わずか2、3週間前のことでございます。ただいまあれこれと模索している最中でございまして、その模索の手段として西洋の宗教改革を参考にしようと考えてみたような次第であります。それを否定されたのでは、模索のしようがございません。とりあえずあれこれ考えてみる。下手な鉄砲もかず撃ちゃあたる。現状はそういったところなのでございます。
いずれにしましても、わたくしは、現在の生長の家の問題にかんしましては、まだまだ初見参者のようなものでございます。適切なご教示をいただければありがたく存じます。
397: 初心者 :2011/06/20(月) 12:08:52 義春さんへ
キリスト教が嫌いというのは同感です。キリスト教に改宗せざるものは悪魔である。改宗せざる異教徒はただちに殲滅せよ。これを神の命令として信じる人々は恐ろしいです。
ルターの宗教改革にしても、神秘学徒であるわたくしの立場からすれば、否定的とならざるを得ません。わたくしは反プロテスタントであり、むしろ堕落せしカソリックに共感をいだくものです。
純粋信仰は恐ろしいです。神が存在すればすべてが許される。これが、一神教的純粋宗教が最終的に行き着く場所だろうという気がしています。堕落せしカソリックのように、聖が俗と一体化できれば、一神教を信じる人々のなかで寛容の精神が養われるものと考えます。
東洋といえば、タオイズムはお好きですか。わたくしは、タオイズムとシャーマニズムに関心はあっても、まだまだ遠い場所をうろついているだけのような気がします。初心者の名称は、じつはシャーマニズムから取ったものなのです。初心とは初発心、「予期されぬ心」という意味なのです。
398: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/20(月) 13:32:52
>初心者さま
―――――――――――――――――――――――――――― (367貴殿ご投稿文章より)
「現象の悪の背後では神が躍動している」。これはたしかで あります。「確実に在る」。これもたしかです。ではなぜ、 それが「善が表に出てこようとする衝動」であるにもかかわら ず、「悪らしき姿」となって見えなければならないのでしょうか?
この「悪らしき姿」が単なる迷いであるとか、転倒妄想であると かといってみたところで、何の解決にもなっていません。なぜ迷 っているのか、なぜ妄想を抱くのか。つまり「迷い」や「妄想」 にしたところで、これにもたしかな根拠があるはずなのです。 この根拠を明らかにしなければ、真理を説いたことにはならない と、わたしはこのように考えます。
簡単に申しますなら、現象の悪はどのようにしてつくられるのか、 これを明らかにする必要があるのではないかということです。 「現象はない!」ではなく「現象がなぜあるのか」 ――――――――――――――――――――――――――――
一応返答を兼ねまして、雅春先生と倉田百三氏の対話をブログにアップし ております。http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65559391.html ・・・貴殿ご提題は「倉田百三氏のそれと同類である」というのが私見な のですが、いかがでしょうか?
なお、雅春先生のご返信文ですが・・・もう少し時間をください(笑) なにせ雅春先生ですが、倉田氏の4ページ分の問い合わせに対し、なんと20 ページ分にも及ぶ返答を作成なされておられます(!)しかもこれですが 「ああっ!」てな気づきに溢れたご文章になっておりますんで、まあ、お楽 しみに(笑)
>トキさん
「生長の家政治連盟とその影響」の件、まことにありがとうございます。 当初は「難しい注文ですね」というご返信を頂戴しましたので、私は、 「ああやはり・・・いくらトキさんとは申せ膨大な作業量になろうなあ」 と諦めるところでありました。ですから貴殿新スレ、まことに嬉しい限り です。
今後熟読させて頂きます。よろしくお願い致します。
399: トキ :2011/06/20(月) 14:11:51 >>398
ブログ「雅春先生に訊け」管理人様
コメント、ありがとうございました。
実は、家には結構、資料は残っているのですが、これを見ると、もう、量がもっと増えるので、 うろ覚えで書きました。さっそく、初歩的なミスが見つかり、訂正する事になりました。ご指摘 下さったエンジェル様には深く感謝申し上げます。
実は、かなり危険な論文を書いたのは承知しているので、最初は気が進まなかったのです。でも、生長の家政治連合には たくさんの人が関わったのです。あれが無視されているのは、その人達の事を考えると、すごくやるせない想いがありまし た。その意味で、是非はどちらでもいいから、もう一度、光を浴びせたい、という願いがありました。
まあ、難しいし、読んでも勉強になるのではなく、面白くもないのですが、関係者には、今でも触れれば 血が出るような生々しい話です。
どうも、お返事が遅れて、すみませんでした。
合掌 ありがとうございます
400: トキ :2011/06/20(月) 14:16:09
401: 初心者 :2011/06/20(月) 18:02:02 ブログ「雅春先生に訊け」管理人様へ
大変なお手間をとらせてしまいました。おっしゃられているとおり、雅春先生と倉田百三氏のあいだでかわされた「寂光論争」をひとつの前提として、パースペクティブ理論を押したててみたのはたしかです。この「寂光論争」で展開された内容を見るかぎり、わたくしは倉田百三氏の立場に近いといえなくもありません。
ただこの論争にかんしましては、ほとんど記憶しておりません。「寂光」という言葉だけがやけに印象に残った。この程度の記憶でございます。もしよろしければ、全文の掲載は無理にしても、かいつまんだ内容だけでもご紹介いただければありがたく存じます。
わたくしは、「この世になぜ悪らしき姿があるのか」ということを、できるだけわかりやすく説明してみたいのであります。そのためにパースペクティブを持ち出しました。もちろんパースペクティブが主役というわけではありません。主役はもちろん人間ということになります。
誤解をおそれずにいえば、人間は実相と戦っている、というのがわたくしの主張です。戦いの場が「悪らしき姿」となってあらわれてくるのです。戦いをやめて、実相が出てこようとする力と調和すれば「悪らしき姿」は消える。こうしたきわめて単純な考え方なのであります。
このように考えることで、神が躍動しているはずの世界に悪らしき姿があらわれてくる理由が、きわめてわかりやすく簡単に説明できてしまいます。もちろん、実際に考えておりますことは、これよりはいくらか複雑でありますが、簡単にいえばこのようになるのであります。
倉田百三氏も加わってくださいましたので、話がだんぜん面白くなってきたように思います。倉田百三氏は、「すべてはみ心のままに」と言っておられるようでもありますので、このあたりは、わたくしの主張とは異なっているようにも思われます。いずれにしましても、わたくしのこの主張は変更OKです。そのあたりはフレキシブルに考えておりますので、どうか遠慮なく、ビシビシと直球でも変化球でも投げ込んでくださいますようお願いいたします。
つけ加えますなら、資本主義の暴力性もまた、人類と実相との戦いによって生じているという考え方で説明できてしまいます。人類は、実相が出てこようとする力に徹底抗戦している。その戦いの場が資本主義の暴力性となってあらわれている。このように考えることが可能です。
ここで最初の弁証法にもどることになります。ブログ管理人様がおっしゃっておられますように、実相と調和して戦いをやめた人々であれば、矛盾を前提としない神の同一性の認識が可能となりますが、そうではなく、戦いを続行中の人々にとりましては、矛盾を条件とした神の同一性の認識だけが可能となる、ということなのであります。もちろんこの認識はポジティブなものである可能性もあります(つまり、わかってやっている人がいるかもしれない、ということです)。
402: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/21(火) 08:57:00 >大変なお手間をとらせてしまいました。
いやこれが不思議な話でありまして・・・なかなか楽しい作業なのです よ、これが(笑)なにせあの往復書簡ですけど「他書で見たことないよ」 というほどの圧巻さです(少なくとも個人的には)そして、あの内容は 「ほとんどの読書階級が行き着く疑問」だと思っている次第でありまして、 今、全文アップの使命感に燃えております。あの往復書簡が「世界で初め てWEBにアップされる(しかも全文を!)」という事業です。がんばろう、 オレ(笑)
>おっしゃられているとおり、雅春先生と倉田百三氏のあいだでかわされた「寂光論争」をひとつの前提として、パースペクティブ理論を押したててみたのはたしかです。
うむ、なんで突如、実相世界はどんなかたちなの?≠論点提示された のか「正直に申せば意味不明」でありました(笑)
>この「寂光論争」で展開された内容を見るかぎり、わたくしは倉田百三氏の立場に近いといえなくもありません。
うん(笑)絶対そうだと思います(笑)と申しますか、普通の読書階級− 特に哲学系−ならば一度は行き着く疑問だとも思います。そして皆、この疑 問に対して良質の回答を与えきれていないと云う・・・私が知る限り、谷口 雅春を以て嚆矢とする次第なんですが。
>ここで最初の弁証法にもどることになります。ブログ管理人様がおっしゃっておられますように、実相と調和して戦いをやめた人々であれば、矛盾を前提としない神の同一性の認識が可能となりますが、そうではなく、戦いを続行中の人々にとりましては、矛盾を条件とした神の同一性の認識だけが可能となる、ということなのであります。
ああなるほどね!そういう意味でしたか。今ようやく気づいた次第という (笑)
追伸
他のご文章に関してですが・・・「まあ、雅春先生のご返信文を乞うご期 待」とだけ,申しておきます。時間を見つけてアップしていきます。 その雅春先生のご文章を拝読後に、どんなやり取りが生まれるのか期待して おります。
403: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/21(火) 09:13:56 >トキさん
<生長の家政治連合と「今の教え」を考える>
今回、愚生が如き浅学の身が「余計な要請」をした事が発端でありました が、貴殿に於かれましては「いやもう、大変」というのが正直な所であろう と、このように推察する次第であります。 いや、それにしてもトキさん・・・かなりリスクを取って書いてくださっ ておられますね(笑)いやー、読み手の私は「おおお、おっ!」みたいな感 じで楽しめております。
・・・まあこの五歳児がなにか申せば「うぎゃぎゃぎゃあ!」なことを言わ れそうですんで(現段階では)コメントを避けますけど、ひとつ分かった点、 これをご報告致します。
なにが分かったかと申せば、まず、
●私のメンタリティは「初期 谷口雅春先生時代」のものである
というものですね。そして、大勢の方(本流掲示版など)は「中期以降の メンタリティ」が強いのかなあ、なんて感想を持った次第でありました。 私は『生命の實相』からしか、生長の家と接しておりません。つまり「初期」 に書かれた本を元に、生長の家を把握しているわけであり、そしてその認識を 元に、種々の議論を眺めている次第なのです。 そしてこの私が「なんでそんなことに、皆さん怒るわけ?」な疑問が生じる のは、「この立ち位置の違いなんでしょう」ということ・・・これが判明し た次第です。
まあしかし・・・あっ、現段階ではコメントを避けます。これからもこちら の方の話題も、ご掲載の労をよろしくお願い申し上げます。(本当にありがと うございます!)
404: トキ :2011/06/21(火) 10:29:49 >>403
ブログ「雅春先生に訊け」管理人 様
ご丁寧なコメント、ありがとうございました。
あの論文は、結構、穴だらけなんです。例えば、「国際平和信仰運動」ですが、谷口雅宣先生が総裁にご就任後に提案、とありますが、実際には、副総裁に就任して、すぐに言い出したのです。後で気がついたのですが、そのままにしておきました。
あと、生長の家政治連合ですが、谷口雅春先生のご真意がわかる文章が、昭和43年10月号の「明窓浄机」に掲載されています。長い文章なので、要約します。
この時、生長の家政治連合は参議院選挙で大勝したのです。 が、谷口雅春先生は、これを期に、信仰優先の組織指導に戻したい、と書かれているのです。組織が政治運動に挺身するあまり、教団から純粋な信仰姿勢が薄れ、そのため、純粋に真理を求める人の中には、失望して教団を去る人も出て来た事実を書かれています。 そのため、聖使命会員も減少した事実等もあげられ、選挙のために組織が相当の無理をしているので、これを危惧されたのです。谷口雅春先生は、政治が宗教からの負債で勝ったのだ、という表現をされています。
「今、私は、今度の参院選で勝利を得て、勝に乗じて尚進んで政治戦に力を尽くすべきか、暫く退いて宗教の純粋圏に止まるべきかについて考へをめぐらすとき、今暫く退いて宗教の純粋圏のサークルをもっと大きくすることに力を尽くすべきだと思わずに いられないのである。」(p93)
と書かれ,信仰第1の運動方針に戻す事をご提言されています。
私の印象ですが、谷口雅春先生は、生長の家政治連合をされましたが、あくまでも信仰が第1であり、政治などは第2のものとお考えだったようです。
405: 山ちゃん1952 :2011/06/21(火) 14:22:39 初心者様 明恵上人のことですが、昨年10月頃に京都嵯峨の高山寺に行きました。
明恵上人の歌で
あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月
ただ見た月の美しさを現した歌であります。
その歌とともに
くまもなくすめる心のかかやけば我が光とや月おもふらむ
この明恵上人は月の歌をたくさん詠っています。 月の明恵に桜の西行と言われております。 また自然を愛する心は卓越しておられます。
あはれ知れと我をすすむる夜はなれや松の嵐も虫の鳴く音(ね)も
川端康成はノ−ベル文学賞の授与の時、ストックホルムで 雪月花に象徴されるような自然美が日本美の精神であり真髄であるとして、道元や明恵上人、西行、良寛などの歌を通じて説く。例として、良寛の歌を挙げている(p13〜14)。
霞立つ永き春日を子供らと 手毬つきつつこの日暮らしつ
風は清し月はさやけしいざ共に 踊り明かさむ老いの名残りに
世の中のまじらぬとにはあらねども ひとり遊びぞ我はまされる
その時に川端康成はこの明恵上人を讃えて詠っています。
雲を出でて我にともなふ冬の月 風や身にしむ雪や冷めたき
明恵上人の詠が取り上げられ、明恵上人がいかに自然と融合しているかを川端は語る。和歌とは自然との合一を目指すもの であると言っているようだ。和歌だけでなく、花にしろ、お茶にしろ自然との合一を目指すものであるとも言っている。
406: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/21(火) 16:58:02 本日ブログにて、雅春先生のご回答―倉田百三氏宛て―をアップしました。 是非ご高覧あれ、であります。
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65559793.html
いやー、雅春先生の御言葉をそれこそ、20ページ分書き写し(PCなんで打ち 写し)しましたけど、スゴイ効果ですね(笑)もう今私の脳内は、雅春先生 ご主張(しかも昭和11年ヴァージョン)で一杯です。ええ、原理主義者と言わ れる方以上の原理主義者と言えるでしょうか(笑) まあ、素晴らしい機会となりましたこと、皆様に御礼申し上げます。
合掌
407: 商人 :2011/06/21(火) 20:41:22 我が尊敬するブログ「雅春先生に訊け」管理人さま 本日のブログは実にすばらしく大変な作業だったんだろうとおもいました。 それとトキさんのすばらしい長文で私も生長の家の過去から現在に至るまでの経緯が、 アバウトですが分りました。 どうもありがとうございました。
408: 初心者 :2011/06/21(火) 22:56:44 山ちゃん1952様へ
「近代は自然状態からのひきこもりによって始まった」というのが、わたしの好きなジジェクの主張ですが、説明がいまひとつ理解できずにおります。コギトを思いついたデカルトが、そのときたまたま、あまりの寒さに耐えかねて暖炉部屋にひきこもっていた、というのが論拠のひとつになっているようです。巨大な頭脳を持て余すような人は、このような些細なことから、重大なる真理に到達できるようでもあります。
現代人が自然状態からのひきこもりを続けているのはたしかなようです。ただし、ジジェクがいう「自然」とは、たんなる自然的世界ではなく、客観的世界の意味を持つようです。客観的世界から主観的世界へのひきこもり?ことの重大さが、わたくしにはまだわかっていないのかもしれません。
ひきこもりとは、言語の問題のようでもあります。言語とは何か?これを追求するのが文学者であるとするなら、川端康成は何らかの回答を用意していたのでしょうか。それとも文学者は、言語ではなく、言語の美を追求するのでありましょうか。であれば、川端康成は、自然の美に言語の美を重ね合わせていたということになります。
はたして言語は、どこまで自然的世界について語ることができるのでしょう。言辞の道といわれる和歌は、自然的世界を歌っているのでしょうか。それとも和歌は、主観的世界を歌っているにすぎないのでしょうか。もしも主観的世界だけを歌っているとするなら、自然の美は主観のなかにだけある、ということになってしまいそうです。
明恵上人は、世界はマボロシだといっていました。たとえそれがマボロシであったとしても、人はそのマボロシから逃れることができないともいっていました。20年以上も前に読んだ本のなかの遠い記憶です。
明恵上人は、それがマボロシであることを知りながら、自然的世界を歌として詠んでいたのでありますね。明恵上人は、どのようなお気持で月をながめ、それを歌に詠んでいたのでありましょう。明恵上人の気持ちがわかれば、わたくしもコギトへのひきこもりをやめられるのでありましょうに。よき知恵をおさずけください。
413: 初心者 :2011/06/22(水) 21:39:06 わたくしは『生命の實相』にふられたものでございます。 なんどか言い寄ってはみましたが、その都度ふられしものです。
いくらページをめくってみても、ストンと入ってくるものが何もない。 奇跡は起きたのか起きてないのか、わからない。 何かが得られたという実感もない。 現職員、妻様は「生長の家を捨てようとした」といっておられますが、 わたくしは、生長の家に捨てられたのです。
ふられた相手にうらみつらみを述べ立てる。 「見返してやる〜ぅ」と切磋琢磨する。 相思相愛でうまくいっている人々に嫉妬する。 ふられたものの考えることとは、だいたいこのようなものでございます。
見返すための、独学がはじまりました。 飢えたチンパンジーのごとく、食えそうなものには見境なく飛びつきました。 何年かの年月がすぎ、気づいたときは、すっかり真理オタクと化しておりました。
「パラノイアとは堕落した理想主義だ」といってる人がいました。 まさにそのとおりだと思いました。 ふられて自暴自棄となったわたくしは、信仰者としての道をはずれて堕落しました。
>初心者さま隠れファンは、 案外多いんですよ
わたくしは、みなさまから見れば、道を踏み外した外道でございます。 そんなわたくしを受け入れてくださる方がおられるのであれば、 こんなうれしいことはございません。
昨日は、ブログ管理人様のおはからいにより、 『生命の實相』の奥義にふれることができました。 少しばかり手応えを感じました。
山ちゃん1952様も救いの手を差し伸べてくださってます。 わたくしはひょっとして回心できるのでありましょうか。
まだまだ道は険しゅうございます。 ふられていじけまくり、 ついには道を踏み外してしまった外道がどこまで回心できるのか。 それが試されているような気がいたします。
414: 役行者 :2011/06/22(水) 22:39:55 初心者様
お久しぶりですね。 しばらく見ないうちに、状況は一変してました(*_*)ちょっと、待っててください。私も参戦しますので・・・
それにしても、雅春先生に訊けブログ様、貴男には敬意を表します!
トキ様、生政連の問題は生長の家にとって、避けては通れない、必ず解決しなければならない問題です。タケシのテレビタックル、朝まで生討論どころか、一週間徹夜討論をしなければならない逃げられない問題なのです! 生長の家が新生するためにも、近未来に必ず、全信徒でこの踏み絵を踏み、赤裸々に語る日が来なければならないのです!
415: 初心者 :2011/06/22(水) 23:01:29 役行者様へ
よそで浮気でもなさっておられたのでありましょうか。本当に久方ぶりにお会いするような気がいたします。
今回の「寂光論争」は、わたくし的には、真理の中核に位置する大問題なのであります。わたくしの考え方は、そうとうに倉田百三氏よりでありますが、いささか手の込んだものとなっております。
乾坤一擲、皇国の荒廃この一戦にあり、の覚悟で論争にのぞむ所存であります。とはいえ、誌友会的雰囲気で和気あいあいと語り合ってゆきたいというのが本音でもあります。なごやかな雰囲気で、いと高き真理の味わいを心ゆくまで楽しもうではありませんか、です。
416: 役行者 :2011/06/22(水) 23:48:54 初心者様。手始めに、お伺いします。 現象世界は矛盾を内包している、だからこそ、神を見いだせる。 矛盾が存在するからこそ、神を観ることができる。 と初心者様は仰っていると思います。 このことに関しては、なるほど、その通りだと思います。 そして、その矛盾は、バースペクティブにより生じた。 神は良しとした。そうですね。ここは、谷口実相哲学からいうと、 認められません。如何に?
417: 役行者 :2011/06/23(木) 06:43:44 >初心者様へ 先ほどの投げかけを、もっと膨らましてお伺いします。
>この念のレンズをパースペクティブと置き換えることは できませんでしょうか。パースペクティブのない実相世界に パースペクティブを効かせる。すると、自と他の違いが生じ、 物事がゆがんで見えてしまう、不完全な現象世界があらわれる。 現象世界のあらわれ方を、このように単純化して考えることが できるのではないかと思います。
つまり、パースペクティブが現象を生んだことになります。 それでは、パースペクティブはだれが創造されたのでしょうか?
別の言い方をすれば、 >簡単に申しますなら、現象の悪はどのようにしてつくられるのか、 これを明らかにする必要があるのではないかということです。 「現象はない!」ではなく「現象がなぜあるのか」
これだと思います。現象はなぜ存在するのか? このような内容になると、倉田百三氏との「寂光論争」で果たして補えるのか、どうか・・・ 地球という三次元空間、誕生秘話、と話が進んできます。 元に話を戻しますと、まぼろしの現象世界を生んだ パースペクティブの正体は一体何なんでしょうか? 初心者様はもちろん、雅春先生に訊けブログ管理人様ほか、 皆様。どう思われますでしょうか?
418: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/23(木) 09:55:27
>役行者さま
わお、突然お現れになったと思いきや、もうそのやり取りを開始されまし たか(笑)貴殿も入って頂ければこれ、おもしろい話になりそうですね。貴 殿が初心者さまに問いかけられた点、これ、愚生理解と(ほぼ)同様です。 今後のやり取りを同じOSで行えそうでありまして、大いに期待をする次第と いう・・・
・・・さて以下、余談めいた話をツラツラと。まあ、余談とは申せ、「藤 原先生ならばなんと返答するだろう」なんてことを、妄想してみようかと・ ・・ まあ、このジジェク要塞≠ナありますが、攻略命令(※)を拝した光軍 (こうぐん)藤原第一師団ならば、どんな方針を下知されるでありましょう か。そして、戦術指示を待つ我が小隊において、もしも下士官が「師団長閣 下のご決心、いずこに在りや?」と問うてきたならば、小隊長の私はどう返 答すべきでしょうか。
たぶん今の私ならば、こう返答すると思います。「藤原閣下はおそらく、抜 刀銃剣戦術は採用せぬであろう」と。そして「要塞内部に対し宣撫戦を展開 されるであろう」と。 つまり「あの要塞は溶かす≠ノ限る」てな下知が「我が小隊に届くであろ う」と。まあたぶん、そんな返答が適当なものになりましょうか。
・・・藤原敏之先生が、もしもこのジジェク氏と対峙したならば、おそら く「それ、設問が間違っておりますなあ」くらいのことを、軽やかな関西弁 にて、おっしゃるのかもしれません。上述喩え話の意味を補足するならば、 まあ、そんな所になろうかと。
<註>
※ 攻略命令 (>初心者さま) 云うまでもないことですが、これ、「言葉のアヤ」ってヤツですんで(笑) あと、http://www.youtube.com/watch?v=_GD69Cc20rwにてジジェク氏の主張 を(まあ、概要になりますが)把握した点は、ご報告申し上げておきます。 有益なやり取りを期待する次第です。
419: 役行者 :2011/06/23(木) 11:24:28 >雅春先生に訊けブログ様
ジジェク氏の演説を聴こうと、紹介してくださったURLを開きました。 ニューヨークにてこれは、ジャーマン語ですか・・・私には到底、理解できる 能力がなかったのです。とりあえずご報告まで。
420: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/23(木) 11:58:33
>役行者さま
これはスロベニア訛りのイングリッシュでありましょう(笑)まあ私のヒア リング力は、フィリピンパブ仕込みときてますから、不確かではありますが。
しかし余談が過ぎますが、フィリピンパブ嬢の話す日本語・・・正調だった りすることがあります(笑)まあ彼女らが使う日本語テキストが、戦前の日本 語をベースにしているためなのかもしれません。「ソレハ、イサギヨシトシナ ーイ(それは潔しとしない)」なんて言われ、感動したことありましたが(笑)
421: 初心者 :2011/06/23(木) 12:12:22 ブログ「雅春先生に訊け」管理人様へ
ブログ管理人様は英会話が堪能でらっしゃるのでしょうか?わたくしも、20代のころには、英国人、米国人、オーストラリア人などの知人がいて、そこそこに会話が成り立っていましたが、その後、言語学の問題にとりつかれて、「言葉とは何か」と考えているうちに、「英語を使うとバカになる」という結論を得たのであります。
最近になって同様の主張をする学者があらわれ、わたくしの考えは間違っていなかったとの意を強くしているところです。負け惜しみとも捉えることができますが、以来、英語とは極力かかわらないように生きてきたために、比較的、聞き取りやすいと思えるジジェクの発音にたいしてさえ拒絶反応が出てまいります(たしかにキャピダリズムとか言ってますね。それと、スラブ語なまりとでもいうのでしょうか。英語だかなんだか、どうもよくわからず、スラブ語圏の言語のようにも聞こえてまいりますね)。
英語にかんしては、会話だけでなく文字にたいしても拒否反応が出てまいります。「大和民族は英語を使うな」。これがわたくしの主張なのであります。かつて、ロラン・バルトという言語学者が来日したことがあるそうです。わずか2、3週間の滞在であったそうですが、このわずかな期間に「日本語は天皇制によって支えられている」と看破したといいます。
ロラン・バルトはフランス人ですが、欧米の言語と日本語のちがいを明らかにしました。バルトは「シニフェなきシニフィアン」とこのように日本語を位置づけました。シニフィアンが、キリスト教学的シニフィエによってガチガチにしばりつけられた欧米語をバルトは嫌悪し、シニフィエに縛られることなく、シニフィアンが自在に跳梁跋扈する日本語を、バルトは好意をもって評価したということです。
シニフィエなきシニフィアンが可能であるのは、天皇制あればこそだとバルトは言っていたそうです。キリスト教学的体系に支配されざるを得ない欧米語と、天皇制によって支えられた空虚によって織りなされる日本語は、本質的にまったく異なる言語であるとわたくしは理解しました。負け惜しみと捉えられそうですが、この理解により、英語とは、ここ四半世紀、まったく疎遠となっております(わたくしが英語を嫌うのは、キリスト教にたいする嫌悪感が土台にあるような気がいたします)。
できますならば、ジジェク発言にかんしてのブログ管理人様による解説をお願いしとうございます。
422: 初心者 :2011/06/23(木) 12:17:09 役行者様へ
役行者様のご参戦により、なんとも面白い展開になってまいりました(とってもワクワクしております)。
パースペクティブにかんしましては、すでに拙文において明示しておりますように、「根拠はない」、「何となくそんな気がする」といった程度の理解であります。あえてパースペクティブ理論を提示いたしましたのは、これを用いることで説明が簡単となり、理解していただくのが容易になると考えたためであります。
したがって、パースペクティブ理論は、わたくしの本筋の理論とはかなりかけ離れたものなのでありますが、いちど提示いたしましたる以上は、これを使い続けざるを得ないということです。説明に一貫性が欠けるとか、矛盾が生じるとかの弊害が出てくるとは思います。かなり苦しゅうございますが、このまま使い続けることといたします。
これからのわたくしの課題は、本筋の理論とパースペクティブ理論の整合性をどのようにして確保するか、ということになってまいります。これはかなり難度の高い作業であります。しかし、こうした作業もまた、わたくしにとりましては勉強のひとつでありましょう。
このような次第でありますので、先の見通しは立っておりません。途中でボロが出る可能性がありますが、とりあえずはじめることにいたします(役行者様に突っ込まれまして、本当にかなり苦しいのでございます)。
おっしゃられておりますように、倉田百三氏の「寂光論争」でこの問題を捉えるのは、ほとんど不可能であるといえます。「寂光論争」を超えるために、まずはひとつの仮説を提示いたします。「3次元空間はパースペクティブによって創造された」。これを仮説として提示いたします。
この仮説に基づいて、役行者様が提起されました「パースペクティブはだれが創造されたのでしょうか?」の問いについて考えることにいたします。すると、「パースペクティブは神によって排出された」という答えが、わたくしの本筋の理論との整合性から導き出されるのであります。パースペクティブは、創造されたのではなく排出された。これが現時点でのわたくしの答えであります。
423: 役行者 :2011/06/23(木) 14:08:55 >雅春先生に訊けブログ様
それはそれは、フィリピンパブにて武士道を教わるとは・・・ ネオン街もまんざらではないですね。わたしも結構好きですから・・・
>初心者様
>このような次第でありますので、先の見通しは立っておりません。 途中でボロが出る可能性がありますが、とりあえずはじめることに いたします(役行者様に突っ込まれまして、本当にかなり苦しいので ございます)。
ゆっくりと、いきましょう。お互いにスキだらけの人生を楽しみましょう。
>「3次元空間はパースペクティブによって創造された」。 これを仮説として提示いたします。
>この仮説に基づいて、役行者様が提起されました「パースペクティブは だれが創造されたのでしょうか?」の問いについて考えることにいたします。 すると、「パースペクティブは神によって排出された」という答えが、 わたくしの本筋の理論との整合性から導き出されるのであります。 パースペクティブは、創造されたのではなく排出された。 これが現時点でのわたくしの答えであります。
私の方も、難題を質問してしまいまして、逆に追いつめられております。 神によって、排出? 排出とは 内部にある不要の物を外へ押し出すこと。ですよね。 エデンの園追放劇ですね。
となると、神の地球計画において、神により排出された存在により現象が 生じた。 なるほど、現象はない!!と断言する神からは認められてないという ことですね。 パースペクティブは神からなぜ排出されなければならなかったのか?
この矛盾に満ちた現象世界を創造するためにですか?
その矛盾のなかから、リベンジをパースペクティブは神から与えられた のでしょうか?
つまり、具体的にいうと、生活していると世知辛い矛盾が押し寄せてくる。 それを、ポジティブに捉える。そこに、神を観じる。 いや、そこに神が現れる。
神によって、不要なものとして出されたパースペクティブは、 何故に現象世界を創造されたのでしょうか?
424: トキ :2011/06/23(木) 15:13:41 >>414
役行者 様
ご意見に賛同します。
生長の家政治連合は、今なら、当事者が多数おられますから、きちんと総括をするべきだと思います。
谷口清超先生も、当時の理事長だった和田英雄先生もこの数年で亡くなられました。今後の運動のあり方を考える上でも、 徹底的に考えるべきです。
合掌 ありがとうございます
425: 初心者 :2011/06/23(木) 16:18:35 役行者様へ
おたがい、ギリギリの勝負となってまいりしまたね。 このような早い時期に、核心部分にまで追い込まれるとは、思ってもみませんでした。
>パースペクティブは神からなぜ排出されなければならなかったのか?
神は、神ならざるものを創造する必要があった。 世界は神一元であり、神ならざるものはどこにも存在しなかった。 そこで神は、神ならざるものを創造する必要があるとお感じになられた。
神ならざるものを創造できるのは神だけ。 しかし神は、神ならざるものが何であるかをご存じではなかった。 なぜなら、神ならざるものはどこにも存在しなかったから。
神は、どのようにすれば神ならざるものを創造できるかとお考えになられた。 神はとりあえず、神ご自身のいちぶを排出してパースペクティブをこしらえてみられた。 するとそこに、神ならざる世界があらわれた。
神はお喜びになり、パースペクティブによって出現した神ならざる世界を使って、 神ご自身をながめてみようとなされた。
そのために、神の本質としての実相を、 パースペクティブによって虚構された神ならざる世界に注ぎ込んでみられた。
これにより、神ならざる世界に神が出現した。 神は、神ならざる世界に神ご自身を置くことに成功なされた。
神は、神ならざる世界の探索をおはじめになった。 探索の結果、神ならざる世界に「悪らしき姿」や「不完全そうな姿」が充満していることをお知りになった。
神は、神ならざる世界の「悪らしき姿」を見ることにより、 神ご自身が善なる姿であることをお知りになりました。
神は、神ならざる世界の「不完全らしき姿」を体験することにより、 神ご自身が完全な姿であることをお知りになったのです。
>つまり、具体的にいうと、生活していると世知辛い矛盾が押し寄せてくる。 それを、ポジティブに捉える。そこに、神を観じる。 いや、そこに神が現れる。
役行者様のおっしゃられるとおりだと思います。 神は、神ご自身についてお知りになるために、 神ならざる世界に神ご自身をあらわしてみようとなされた。 この場において、このようなストーリーを提示いたしました。
とりあえずは、わたくしが提示いたしましたストーリーを吟味していただいて、パースペクティブによって虚構された世界にかんします見解が一致いたせば、雅春先生から提示していただいた「寂光論争」へと突入いたしたく存じます(そうなれば、ますます苦しい立場へと追い込まれるやもしれませぬ。ブログ管理人様は、仕事でいそがしいのをよいことに、役行者様とわたくしを戦わせておいて、ご自分は高みの見物をきめこんでおられるのでありましょうや)。
いずれにしましても、「神はどのような方法でパースペクティブを排出なされたのか」や「どうやって神ならざる世界に神を注入なされたのか」といった問題が未解決なままに残っております。このあたりの問題へのツッコミはしばらくご遠慮いただいて、『生命の實相』への突入(乱入?)を最優先に考える、というのはいかがでありましょう。
426: 役行者 :2011/06/23(木) 19:01:43 >トキ様 実現までの工程表を作成しなければならないですね。大がかりですよ。 その時には、初心者様も雅春先生に訊けブログ様も同席のほどを!!(笑)
>初心者様 確かにぎりぎりで、腑に落ちないところがありますねぇ〜
>神は、どのようにすれば神ならざるものを創造できるかとお考えになられた。 神はとりあえず、神ご自身のいちぶを排出してパースペクティブをこしらえてみられた。 するとそこに、神ならざる世界があらわれた。
これはあくまでも物語であると知っていながら突っ込みますが、ここが短絡的すぎます。 神一元であるのに、排出はできません。
生長の家で説かれている、神の第一創造、神の第二創造という教えがあります。それは、創世記から由来されているのですが、途中で神の名称が、“神”から“主なる神”に変わるのです。雅春先生は、現象世界は神の第二創造によってなされたと、仰っています。 また、神と創造主の二元論によって創られた世界というのが、生長の家出現前、雅春先生が、“聖道へ”という書物で綴られておられます。 ご参考にしてください。
まあ、難解です。ここのところは互いに深く学ばねば、また魂を一層向上させねば・・・と、これからおいしいビールを飲みに行くので、しばし・・・(笑)
427: 初心者 :2011/06/23(木) 20:22:13 役行者様へ
>これはあくまでも物語であると知っていながら突っ込みますが、ここが短絡的すぎます。 神一元であるのに、排出はできません。
やはり突っ込まれましたか。突っ込まないようにと、いちおうクギを刺してはおいたんですけど。
この部分なんですよ、問題は。排出であれ、流出であれ、神一元の世界においては、これは不可能なんです(ここまで追い込まれるとは、まったく予想もしておりませんでした)。
ですけども、何が問題かというと、神が神ご自身の姿を知るためには、どうしても神ご自身を外在化する必要があるということです。これはたしかなのですね。外在化できなければ、神は神自身の姿を見ることができないのです。
しかもこの問題を、何が何でも、二元論ではなく、神の一元論で解決しなければならない。こういう厳しい制約があるわけですね(だんだんと追い込まれてゆく自分を感じております)。
つまりですね、問題は、自分で自分の姿を見るということなのです。どうやれば、自分で自分の姿を見ることができるのか。この問題を解決すればよいということなのです。
ここでの大問題は、神は神ご自身の姿をご存じではない、ということなのです。神にとって外部は存在しないわけですから、外から自分の姿を見るわけにはゆかない。したがって神は、神ご自身の姿をいちども見たことがないということになりますので、神はご自分の姿をご存じではないということになるのです。
こういう厳しい条件のなかで、神は神ご自身の、いちども見たことのない姿を、あるはずのない外部に外在化しなければならないのです。これができなければ、神は永遠に、神ご自身の姿を見ることができなくなってしまわれるのです。
そこで神は特別な装置をお作りになりました。その装置とは、なんでもかんでも映し出せる装置でした。とにかくデタラメに、意味のありそうなものもなさそうなものも、ありとあらゆるものを映し出す装置です。
この装置には、じつは重大な仕掛けがほどこされていて、映し出したものとおなじものが神のなかにあれば、たがいに共鳴して、ピンポーンとランプが灯る仕掛けになっていたのです。ランプが灯ったのを確認した神は、映し出されている映像をハードディスクに記録します。こうやって記録の量を増やしてゆけば、神にかんする大量の情報がハードティスクに記録されてゆくことになるのです。
そうしてこの情報をもとに、映像をこしらえます。この映像こそが現象世界なのです。ハードディスクには、神にかんする情報がランダムに記録されていますから、映し出された映像は、一見すると不完全に見えます。しかしそこには、神にかんする十分な情報が映し出されているということになるのです。
ここから神の体験がはじまります。不完全な映像のなかに、神は、神ご自身の姿を見いださねばならないのです。これこそがまさに、自分で自分の姿を見るという困難な作業なのであります。この作業を遂行するために、神は、ありとあらゆる断片に、神はご自分の姿を見なければならないのです。
リンゴは神の一部なのです。イヌやサルもまた神の一部なのです。山も川も神の一部です。そのひとつひとつを体験しながら、神は神ご自身の全体像をこしらえなくてはならないという、そういう困難な作業を、この現象世界でおこなっておられるのです。
これがパースペクティブとどういう関係があるんや?いえいえ、ここまで追い込まれますと、パースペクティブがどうのこうのとは言っておれませぬ。なりふりかまわずデタラメな情報を書きまくって、混沌のなかにひそんでいるであろう有用な情報を、役行者様に拾い集めていただくことにいたします。こうした作業こそが、この現象世界で神がおこなっておられる作業なのですから(ほとんどやけになっております)。
人が困りはてているときにビールでござりまするか。情報の拾い集めは、役行者様にすべておまかせいたしまするぞよ。
428: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/24(金) 04:05:46
いやー人が仕事している間に、なんかトンデモない展開を見せているじゃ ないですか。ああもはや「一区で出遅れた〜」な感じの、高校駅伝チーム状 態ですね。 とは云え、まあ、この「人が仕事している間に」の、この仕事内容につい てですが、実は「キャバクラで接待」の意味ではあるのです・・・あっ、誰 ですか、「気楽でいいですね」なんて申される方は。もう今回の接待ですが、 ホント最悪でしたよ(現象的には、ねw)団塊世代のオヤジ、否、ロマンスグ レーなナイスミドルのおじさま方による「オヤジギャグ・フェスティバル」と 化しました今回接待、でありまして、さらに「オレらが若い頃ワ〜」節も炸裂 し、そしてその上・・・(中略)・・・まあ、要件などを。
いやなんか、参入タイミングを逸している感、アリアリです(笑)もうすこ し状況を見ながら割り込んでいこうかと、こう考えております。今は頭の中、 オヤジギャグが炸裂中で・・・(中略)・・・モードチェンジ不能と云う。
429: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/24(金) 07:30:33 >初心者さま >役行者さま
『人間死んでも死なぬ』よりアップしました。 http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65560893.html#more
たぶん、解決のための一転語≠ニは成りえぬでしょう。しかしながら、 錯綜する議論に於いて「新論点の提示」「話し合い再開のための糸口」くら いにはなろうかと、このように愚考致します。
追伸
昔、先輩が教えてくれた「仕事、早いね!」と言われるためコツ。 それは・・・予定される資料を用意した上で「 設 問 を 設 定 し て い く こ と 」(笑)
いやしかし、予定より早くなりましたんで、焦りましたが(笑)
430: 役行者 :2011/06/24(金) 07:56:35
やあ、初心者様、混沌としてきましたね。初心者様の頭の中が・・・(笑) されど、神は秩序なり。と私は信じています。
>ですけども、何が問題かというと、神が神ご自身の姿を知るためには、 どうしても神ご自身を外在化する必要があるということです。 このことは、理解できます。まあ、このようにして、人間の知性が、 神なるイメージを想像してきたのでしょうね。そのなかで、 究極の真理を悟られた方々によって、聖典という書物が編纂されてきた ものと信じております。 そこで人類の英知によって編纂された聖書を紐解いていくのが 宜しいのではないかと、存じます。 雅春先生が説かれている、神の第一創造、神の第二創造という教えは、 創世記を紐解いておられるのですが、途中で神の名称が、 “神”から“主なる神”に変わるのです。神の項では、神の地球創成物語、 主なる神に突然変わりまして、そこからはまず、地球のチリによって アダムが創造され、森羅万象一切のものが創造されたあと、最後に、 アダムが深い眠りに就いて、イブがアダムの肋骨より創造される。 これぞ、骨の骨、肉の肉と、言われて・・・と続くのです。 ここで、初心者様の言葉を持ってきます。
>「近代は自然状態からのひきこもりによって始まった」というのが、 わたしの好きなジジェクの主張ですが、説明がいまひとつ理解できずに おります。コギトを思いついたデカルトが、そのときたまたま、 あまりの寒さに耐えかねて暖炉部屋にひきこもっていた、 というのが論拠のひとつになっているようです。 巨大な頭脳を持て余すような人は、このような些細なことから、 重大なる真理に到達できるようでもあります。
現代人が自然状態からのひきこもりを続けているのはたしかなようです。 ただし、ジジェクがいう「自然」とは、たんなる自然的世界ではなく、 客観的世界の意味を持つようです。客観的世界から主観的世界への ひきこもり?ことの重大さが、わたくしにはまだわかっていない のかもしれません。
聖書のおける第一創造は、自然界の客観的世界でした。 それが、第二創造において、主観的世界にストーリーは進んでゆくのです。 つまり、認識の世界が展開されているのではないかと、思っております。
>ここから神の体験がはじまります。不完全な映像のなかに、神は、 神ご自身の姿を見いださねばならないのです。これこそがまさに、 自分で自分の姿を見るという困難な作業なのであります。 この作業を遂行するために、神は、ありとあらゆる断片に、 神はご自分の姿を見なければならないのです。
このことは、神の第二創造のことを述べられているのではないでしょうか?
客観的世界から主観的世界へのひきこもり?これは、太古の昔からあった のかもしれません。
そのようななか、和歌をとおしたりしながら、>リンゴは神の一部なのです。 と、そこに神を観たりしていたのでは・・・
そこで、山ちゃん1952様。 >明恵上人のことですが、昨年10月頃に京都嵯峨の高山寺に行きました。
いいですね。わたしも是非、行ってみたいところの一つです。
あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月
何とも・・・月のなかに神を観、客観的世界の絶賛でしょう!! 山ちゃん1952様。贅沢な願いですが、もっと、日本的情緒の世界を 垣間見てみたいです。
雅春先生に訊けブログ様。やあ、接待とはゆえ、いいですね。わたしゃ、 ビアガーデンで、旧友とカン首相の悪口を言って、帰ってきました。 カンさん、植物人間となり、延命させられてまっせぇ〜 消費税導入まで何が何でも、辞めないような気がします。 タケシのテレビタックルでも言っておりましたが、 やっぱり、まず、税収が20兆も減ったのですから、 税収から貪っている公務員給料の是正から始めるべきではないか・・・ 順序が違うよ。やあ、思わず愚痴を・・・(笑)
431: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/24(金) 08:30:21 >役行者さま
この議論に合わせブログ記事をアップしましたが・・・役行者さまご主張の 線でお進めください。しばらく静観させて頂き等存じます。(非常におもしろ そうなので)
ちなみに余談が過ぎるわけですが、
>税収が20兆も減ったのですから、 >税収から貪っている公務員給料の是正から始めるべきではないか・・・
に関してですが、これに関しては愚生、ある疑問を抱く次第であります。 結論から申すと「日本政府には¥、まだまだザクザクある」というのが私見 です。 一例を挙げますと、日銀の通貨介入額なんですが、3.11以降増大しており ます。総額なんと100兆円規模(!)とか。(ちなみに納税者ひとり当たり換 算でいきますと¥300万円という規模です)まあ私は菅総理(財務省のエージ ェント)の申す「政府に¥がないのよ〜」「だから国民、ガマンしてよ〜」 てな主張、全 く 信 用 し て お り ま せ ん (笑)
余談の余談
オヤジギャグフェスティバルよりも、真理の話を行ないたいものです(いや これ、本音です)
432: 初心者 :2011/06/24(金) 09:10:12 役行者様へ
>やあ、初心者様、混沌としてきましたね。初心者様の頭の中が・・・(笑)
何をおっしゃるウサギさん、でございまするよ。わたくし初心者は、いやしくも真理オタクでございまするのよ。これまでの話の展開を、これからビシッと整理してお目にかけまする。
何が話し合われているのかといえば、それはいうまでもなく「寂光論争」なのであります。そこで、これまでの展開が、正真正銘の「寂光論争」であることを、これより説明いたしまする。
そのために、「神は情報なり」と仮定いたします。神は情報によって構成されている、とこのように見なします。もちろん、情報とは、神にふさわしき情報でございます。「寂光論争」とは、この情報がどこにあるのか、という問題なのであります。
雅春先生がお説きになっておられる事柄を、畏れながら「実相モデル」と呼ばせていただくことといたします。倉田百三氏の考えを「寂光モデル」とします。実相モデルと寂光モデルとでは、情報の在り処が異なっておるのでありまする。
実相モデルでは、情報はハードディスクに記録されております。ハードディスクを読み取ることで情報が取り出せます。取り出した情報をもとに映像をこしらえれば、それが完全なる実相世界の風光となります。
寂光モデルの情報は、空間に、波動として保存されております。この情報は、取り出すことができません。情報のすべてが、混然と一体化され、分離も分割も不可能だからです。そのために、読み取ることができないのです。
読み取ることができないために、それは「寂光」と見なされます。しかし、この情報を取り出す方法がひとつあります。それが、昨日紹介いたしました「ピンポーンとランプが灯る装置」なのであります。
仕組みは、テレビのアンテナとほぼ同じであります。波動の共鳴や共振といった現象を利用すれば、分割不可能な情報を、分離して取り出すことが可能となります。この場合は、情報を、試行錯誤をくり返しながら、ひとつひとつ取り出すことになりますので、すべての情報を取り出すには、無限ともいえる膨大な時間が必要です。
「ピンポーンとランプが灯る装置」を使って取り出した情報を、そのつどハードディスクに記録いたします。この情報をもとにつくられた映像が現象世界です。ハードディスクの情報は、時間がたつにつれて増大いたします。無限の時間をかけて、徐々に神の姿に近づいてゆくことになります。神のすべての情報が記録されたとき、このハードディスクは、実相モデルのハードディスクとほぼ同じものとなります。
寂光モデルの「ピンポーンとランプが灯る装置」と「外付けハードティスク」は、神がおつくりになったと考えるよりほかはありませぬ。またパースペクティブ理論を寂光モデルに適用する必要はなく、むしろ実相モデルにこそ適用が必要であると考えます。
以上が、これまで話し合われてきた「寂光論争」の骨子なのでありまする。
433: 初心者 :2011/06/24(金) 12:09:15 役行者様へ
>聖書のおける第一創造は、自然界の客観的世界でした。 それが、第二創造において、主観的世界にストーリーは進んでゆくのです。 つまり、認識の世界が展開されているのではないかと、思っております。
仰せのとりおです。鋭い読みだと思います。役行者様の言葉から、またしてもドイツ観念論の話となりますが、ドイツ観念論の硯学、シェリングを思い出しました(ちょっとばかし格好をつけさせてくださいまし)。
役行者様がいわれておりますことは、まさしくシェリングがたどった道であります。シェリングは自然的世界をながめることで、不思議な感慨にとらわれることが多かったといいます。その感慨とは、自然的世界とシェリング自身の内的世界が深くつながっているのではないかという予感であったようです。
こうした予感からシェリングの哲学がはじまります。自然は沈黙しているけれども、いつか自分にたいして語りかけてくるのではないか。あるいは、シェリング自身が、自然にたいして語りかけることのできる言葉を、いつか持てるのではないかと、こうした予感をいだくようになったといいます。
シェリングは、自然的世界を神の第一創造と捉えていたはずです。その自然的世界と深くかかわりを持つことで、神の第二創造が成し遂げられるとも捉えていたはずです。役行者様がいっておられることそのままを、シェリングは予感し、この予感から哲学的思索がはじまったといってよいのかもしれません。
ひょっとすると、明恵上人も、シェリングと同じような契機から、自然的世界をながめていたのかもしれませんね。
あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月
これは、明恵上人が、月を題材に、自然的世界に語りかけた言葉であるのかもしれません。島に手紙を出した。明恵上人は、自然的世界と深くつながることのできた人であったのかもしれません。
役行者様の鋭き洞察力に感謝いたします。
434: 初心者 :2011/06/24(金) 12:12:06 ブログ「雅春先生に訊け」管理人様へ
ジジェクの話す姿と、動く姿をはじめて見たです。 これだけのド迫力演説を見せつけられれば誰だって、 ムチでぶって〜 ローソクたらして〜 てな気持ちにもなろうってものです。
それにしてもブログ管理人様は、 これからも参観王を続けられるおつもりでありんすか。
435: 役行者 :2011/06/24(金) 12:48:25 初心者様へ。 いやはや、花金が消えそうです。
感無量!圧巻であります。 東西の融合ですね。実に気持ちいい。 ただ、一点、疑問があるので、また、後ほど!!
436: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/24(金) 15:31:51 >初心者さま
いやー参入障壁がありまして(笑) いま2点ほど「うーむ」な疑問がありまして、ですね、そしてこのタイミ ングで提示しちゃいますと、役行者さまご提題を邪魔してしまいそうなので す。ですんでしばし、静観します。 (ちなみに仕事中の「チラ見の見物」ではありますが、決して高見の見物 ではございませんw)
一点だけ感想を述べますと、貴殿がご提示なされた視点ですが(ハードデ ィスク云々)これ、ニール・ドナルド・ウォルシュという人が『神との対話』 で触れておられます。まあ彼のは「ゲームを喩えに」したものでありまして、 そして「ゲーム機のジョイスティックで、いろいろな結末があるでしょ?」 てな趣旨のお話しをしておりましたね。「神は常にあなたに問うておられます。 『どんな結末が欲しい?』と」そして(望まないものが現れたら)「また選択し 直せば?」とも。
ただブログ更新は貴殿さま達のお陰を持ちまして、超頻繁になっております が(笑)本日も千客万来でありがとうございます。
437: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/24(金) 15:38:42 ↑補足
グーグルで「谷口雅春」を検索語に致しますと、2位表示されるくらいに なりました(笑) しかしなぜか「本流管理人殿」への掲示文が、今でも視聴率が高いのが残 念ですがね(笑)「藤原先生のも、読んでよ」なんですけど・・・
438: 初心者 :2011/06/24(金) 19:23:12 ブログ「雅春先生に訊け」管理人様へ
>いま2点ほど「うーむ」な疑問がありまして、ですね、そしてこのタイミ ングで提示しちゃいますと、役行者さまご提題を邪魔してしまいそうなので す。ですんでしばし、静観します。
今のブログ管理人様のお立場は、まさしく「香厳上樹」ではおじゃりませぬか。 「道」を尋ねるものがおるにもかかわらず、ものが言えぬとは、 いかほどのことがおじゃって、そのようなことが言えるのでおじゃりましょうぞ。
439: 役行者 :2011/06/24(金) 19:39:49 枝を噛んで、全身を支えているので、仕方なきことでしょう。 あと、一時間半、待っててください。 花金を捨てました。
440: 役行者 :2011/06/24(金) 21:12:40 はあ・・・
>初心者様 >雅春先生に訊けブログ様
はあ・・・
10分しかないので結論を述べます。
>そこで神は特別な装置をお作りになりました。その装置とは、なんでもかんでも映し出せる装置でした。とにかくデタラメに、意味のありそうなものもなさそうなものも、ありとあらゆるものを映し出す装置です。 この装置には、じつは重大な仕掛けがほどこされていて、映し出したものとおなじものが神のなかにあれば、たがいに共鳴して、ピンポーンとランプが灯る仕掛けになっていたのです。ランプが灯ったのを確認した神は、映し出されている映像をハードディスクに記録します。こうやって記録の量を増やしてゆけば、神にかんする大量の情報がハードティスクに記録されてゆくことになるのです。 そうしてこの情報をもとに、映像をこしらえます。この映像こそが現象世界なのです。
上記と、下記です。
>「ピンポーンとランプが灯る装置」を使って取り出した情報を、そのつどハードディスクに記録いたします。この情報をもとにつくられた映像が現象世界です。ハードディスクの情報は、時間がたつにつれて増大いたします。無限の時間をかけて、徐々に神の姿に近づいてゆくことになります。
現象世界というのは、三界は唯心の所現という真理がございます。これが、現象世界です。 つまり、>神は特別な装置をお作りになりました。その装置とは、なんでもかんでも映し出せる装置でした。とにかくデタラメに、意味のありそうなものもなさそうなものも、ありとあらゆるものを映し出す装置です。 という世界です。
>「ピンポーンとランプが灯る装置」を使って取り出した情報を、そのつどハードディスクに記録いたします。この情報をもとにつくられた映像が現象世界です。
でなくこれは、
>「ピンポーンとランプが灯る装置」を使って取り出した情報を、そのつどハードディスクに記録いたします。この情報をもとにつくられた映像が現象世界のなかで、神が良しとした世界!!
ということです。あしからず、時間が来ました。
441: 初心者 :2011/06/24(金) 23:01:35 役行者様へ
>花金を捨てました。
捨てておられんのではございませぬか?
>「ピンポーンとランプが灯る装置」を使って取り出した情報を、そのつどハードディスクに記録いたします。この情報をもとにつくられた映像が現象世界のなかで、神が良しとした世界!!
神が良しとした世界!!
生きてみることにいたしました。
現実の世界にもどります。
では、これにて。
442: 役行者 :2011/06/24(金) 23:39:57
>初心者様
しばし、また話を膨らませます。
>神は特別な装置をお作りになりました。その装置とは、 なんでもかんでも映し出せる装置でした。とにかくデタラメに、 意味のありそうなものもなさそうなものも、ありとあらゆるものを 映し出す装置です。
これは、明らかに寂光と定義できるでしょう。 実相なる神からは、寂光を排出することができないのでは・・・ この世界は、明らかに、先ほども触れましたが、「三界は唯心の所現」 なる世界で、現象世界です。
この混沌とした、矛盾の内包された現象世界から
>「ピンポーンとランプが灯る装置」を使って取り出した情報を、 そのつどハードディスクに記録いたします。 この情報をもとにつくられた映像が現象世界のなかで、 神が良しとした世界!!
つまり、矛盾の奧に、神を見いだす。すべての出来事をポジティブに捉え、 そこに神が現れる。そのとき、ピンポーンとランプが灯るのではないでしょうか?
> 「ピンポーンとランプが灯る装置」を使って取り出した情報を、 そのつどハードディスクに記録いたします。
これは、神の第二創造において、つまり、現象世界において、 神を見いだした記録です。第二創造で、やがて人間は、 エデンの園から追放されます。神の第一創造である自然的世界を 観なかったからです。しかし、この自然的世界と深く関わった人たちが、 神を現し、ハードディスクの情報に記録されていくのです。
>ハードディスクの情報は、時間がたつにつれて増大いたします。 無限の時間をかけて、徐々に神の姿に近づいてゆくことになります。 神のすべての情報が記録されたとき、このハードディスクは、 実相モデルのハードディスクとほぼ同じものとなります。
そのとき、神の地球計画は、千秋楽を迎えるのです。 神の地球計画物語でした(笑)。
443: 初心者 :2011/06/25(土) 12:57:13 役行者様へ
あまりに戦況が不利でありますので、現実世界への逃走をはかりましたが、役行者様の追走にあい、逃げきれずに、ふたたびもどってまいりました。あいも変わらず、先の見通しがたっておりません。その場しのぎの言説を弄し、狙撃手の影におびえる日々でございます。
今一度、ここでの対話の目的を明確化いたしますなら、それは「一致点を見いだす」ということであります。わたくしが、ブログ管理人様の参加を促しますのは、一致点を見いだしたあとに登場された場合には、ふたたび一致点を見いだす作業にとりかからねばならなくなるということであり、それならば、三つ巴の関係のなかで一致点を見いだす作業をおこなったほうが、よりダイナミックな議論ができてよいのではないかと考えるからなのであります。どのような形であれ、とりあえずご参加願いたいと考えるゆえんであります。
さらに、ここで何が話し合われているのかといえば、神一元論で現象世界の出現が説明できるか、ということであります。もしも説明できないということになれば、神一元論を否定しなければならなくなるという事態でもあります。
役行者様におかれましては、神一元論よりの現象世界の出現の仕組みを、ふたつの段階にわけてご説明なさろうとしておられます。第一創造においては、神が直接かかわり、第二創造において人間がかかわってくると、このように説明しておられるように理解いたします。
こうした2段階説において、役行者様から
>つまり、矛盾の奧に、神を見いだす。すべての出来事をポジティブに捉え、 そこに神が現れる。そのとき、ピンポーンとランプが灯るのではないでしょうか?
との発想が導きだされたわけでありますが、見事な発想の転換であるというよりほかはありません。役行者様のこの発想は、わたくしに重要なインスピレーションをあたえてくれるものであります。
役行者様のご主張をひと言でまとめますと、第一創造においては、「ピンポーンとランプが灯る装置」は必要ないということだろうと思います。この点で、わたくしの発想とのあいだで不一致が見られていたわけであります。
こうした不一致は、本源的存在である神の情報が読み取れるのか否や、の見解の違いであるように思われます。わたくしは、情報は読み取れないという立場であり、これが倉田百三氏の「寂光説」を支持する根拠となっております。
「寂光説」の弱点は、「情報を読み取る」という行為にあると思われます。その理由は、「寂光説」では、情報の読み取り手は、あきらかに「外部」に存在しなければならないからであります。「外部」から、ほんらいであれば読み取れるはずのない情報を読み取る。こうした作業をおこなっているものが存在することになるのであります。
つまり、「寂光説」では、「神の外部」を認めなくてはならなくなるのであります。神は、神ご自身の情報をけっして知り得ない立場にあり、神になり代わって、外部の存在が神の情報を読み取る役割を担うことになるのであります。
つづく
444: 初心者 :2011/06/25(土) 12:58:20 前回のつづきです。
こうした考え方を「寂光説」で押しとおすとするなら、もはや、通常の「内部」と「外部」という思考方法では理解し得ないということになってまいります。「寂光説」においては、内部とは何か、外部とは何か、ということにかんして、哲学的ともいえる定義が必要になってくるということになるのであります。
宇宙という存在について考えてみます。宇宙には、たしかに外部があります。しかし、宇宙の内部の存在者たる人間にとって、宇宙の外部は存在しません。人間には、宇宙は内部だけでできているように見えるのです。
「寂光説」の神一元論においても、こうした考え方が成り立つものと考えます。神一元論は、一元論であって、しかも二元論ともなりうるということです。神一元論において、わたしたち人間は神の内部を経験しているわけでありますが、こうした内部にも、じつは、わたしたちには経験不能な外部が存在するという話になってまいります。
わたしたちには体験不能な外部こそが、神の本質であるとはいえないでしょうか。わたしたちが、神の一元論として体験している世界がこの宇宙でありますが、しかし、宇宙には、人類には体験不能な外部が存在します。神は、神ご自身の一部をひずませることによって、神の内部に神ならざる空間をおこしらえになった。このひずみこそが宇宙であり、わたしたちは「ひずみ」の外に出ることはできないということなのではないでしょうか。
わたしたちは、神の内部にありながら、神ならざるものという意味で、神の外部の存在として生きているともいえるのではありますまいか。もしそうであるなら、神は、わたしたちには体験不能な「寂光」と感じられることになるはずです。
それなら、わたしたちはどうやって、「寂光」ともいうべき体験不能な外部の情報を読みとっているのでしょうか。それはおそらく、この世界が「ひずみ」であることと関係しているはずです。それが「ひずみ」であるなら、元にもどろうとする力がかならず働いているはずです。この力こそが実相へともどろうとする力であるはずなのです。
元にもどろうとする力に、神の情報が、何らかの形で含まれていたとしても不思議ではありません。この隠された情報を「ピンポーンとランプが灯る装置」で読み取っている。このように考えますなら、これはまさしく、役行者様がいっておられる、第二創造におけるピンポーンなのであります。
445: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/25(土) 15:16:26 >初心者さま>役行者さま
どうも(笑)呑気にチラ見参戦(?)させて頂いておりまして、非常に申しわけありません。 今、幼稚園のPCをお借りしまして、そしてこんな書き込みをしております。
本日はバザーでありまして、私は責任者のひとりになっております。いやー、 ですんでなかなか参戦できませんが、一応「間接参加」をさせてもらってはおります のですよ。
まあここ最近、本件に関する話題を、ブログにアップ中です。ここに直接書き込み しますと、まあなにか、不調和なものを生みそうですんで・・・まあ、焦らず、ノンビリ 行きましょう(笑)別に「何月何日までに、結論を出せ!」てな問題でもないので ありますし・・・いかがでしょうか。
ちなみにバザーですが・・・3時間連続で「焼きそば」を焼いています(笑) 無論こちら、「炎天下」ときてまして、そしてこの「焼きそばコーナー」は誰も なり手がつかないという担当箇所なんですけど・・・いやー神の子無限力、今、これ をデモンストレート中という(笑)
「暑い」「キツイ」「疲れた」・・・こんな意識が浮上するたびに、ですね、私は 「ああこれで、これらの嫌感は消えた!神様ありがとうございます!」てな認識で 重労働をこなせております。これから片付けに入りますけど、30代のオトーサンから も「すごい体力ですね」と感嘆されている最中です。 いややはり、雅春先生の御教えは偉大過ぎまして畏れ多い・・・
追伸
本日アップした記事http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65561280.html に関して・・・
一緒に焼きそば焼いているオトーサンがいるんですけど、彼、養護学校の先生 とか。さっきまでこの、ヘレンケラーネタで盛り上がっておりました(笑) ヘレンケラーネタを話題にしながら炎天下で焼く「焼きそば」・・・なぜか整理券 が出るくらいに繁盛してます(笑)ああ畏るべし「焼きそば・ヘレンケラー」
・・・ということで後日、彼には『生命の實相』を献本しようかと。
446: 初心者 :2011/06/25(土) 15:28:14 これより、役行者様によって論破された「寂光モデル」について、言い訳じみたことを書かせていただくことにいたします。
「ピンポーンとランプが灯る装置」で語られる「寂光モデル」は、わたくしはいちおう理科系の人間でありますので、現代物理学の主張にたいする対抗手段として考案したものであります。もちろんわたくしは、物理学者でもなければ物理学徒でもありません。素人的な好みで、現代物理学の周縁部をかじってみたにすぎないことを、前もって断っておきます。
標的は量子力学と「ひも理論」でした。量子力学にはいくつもの解釈があり、そのなかで、かつては「標準」とされたコペンハーゲン解釈を、寂光モデルの中心部に取り込みました。情報の読み取りが不可能という「寂光」とは、いまや「古典戦士」と揶揄される、物理学者のデイヴィッド・ボームの理論を取り入れたものなのであります。
ボームは、量子力学を哲学的に解釈した数少ない物理学者のひとりです。量子力学のコペンハーゲン解釈は、人間の意識を中心におきます。世界の出来事は人間の意識によってつくられる。これがコペンハーゲン解釈の主たる主張であると理解しております。
ボームは、量子力学のパイロット波解釈を提出した物理学者でもありますが、中心はやはりコペンハーゲン解釈でした。寂光モデルの中心部に取り込むのに値する、壮大で、あまりにも宗教的すぎる世界観を、ボームは構築してくれていました。
わたくしは、ボームの世界観を中心においた寂光モデルを考案しました。標的は、量子力学の多世界解釈と「ひも理論」です。「ひも理論」の中核は、いまや、Dブレーンとホログラフィック理論のふたつであろうと考えられます。これはいってみれば、宇宙は、Dブレーンと呼ばれるディスプレーに、ホログラフィックな映像として映し出されたマボロシである、という主張です。これ自体は、宗教界としては歓迎すべき主張であります。わたくしが提示いたしました「寂光モデル」にも、当然のことながら取り込まれています。
宗教界にとって問題となるのは、「ひも理論」がたどりついた、マルチバース、あるいはメガバースと呼ばれる理論であり、それと、現代の量子力学で主流となりつつある多世界解釈と呼ばれる主張なのです。このふたつの主張は、これまで宗教界が拠り所としてきた、人間中心の宇宙観を木っ端みじんに打ち砕いてしまいます。ボームのファンタジックな世界観を完膚なきまでに破壊します。宗教界は、何としてでも、マルチバースや多世界解釈に対抗しうる哲学を打ち出さなければならないのです。
昨日、ブログ管理人様より、「神との対話」のなかでふれられているという「ジョイスティック」の話が提示されました。わたくしは、ジョイスティックが何かを知らず、「神との対話」もそのごく一部を読んだにすぎません。したがって推測で書くしかないのでありますが、ブログ管理人様からご紹介いただいた内容は、多世界解釈を強く意識したものであるとの印象を受けました。
「いくつもの結末があり」、「選択し直せる」というのは、あきらかに多世界解釈です。多世界解釈の本当の恐ろしさを、ほんどの人はご存じない。それが地獄の世界を記述するものであることに、ほとんどの人は気づいていないはずです。「神との対話」にもしも多世界解釈が忍び込んでいるとするなら、これはゆゆしき問題となります。
寂光モデルの外付けハードディスクを無限の台数に増やすとします。しかも、そのなかのいくつかはゆるやかなLANによってつながれている。このように考えれば、これが多世界解釈となります。LANでつながれることがまったくないとすれば、これがマルチバースやメガバースであると考えることができます。
外付けハードディスクに記録できるデータに制約はあるのか。もしも何の制約もないとすれば、そこには、たとえば人間が永久に老化しつづけるという、地獄のような世界が出現します。宗教界は、現代物理学が、人間を地獄へと誘う理論を展開しつつあることに、いまだ気づいてはおりません。「寂光モデル」は論破されましたが、しかしこのモデルが、現代物理学にどこまでも対抗してゆこうとするわたくしの意志を表象したものであるという事実に変わりはありません。現代物理学を取り入れ、しかもそれに対抗しうる世界観の構築が急務と考えるゆえんであります。
447: 初心者 :2011/06/25(土) 15:51:39 ブログ「雅春先生に訊け」管理人様へ
>まあここ最近、本件に関する話題を、ブログにアップ中です。ここに直接書き込み しますと、まあなにか、不調和なものを生みそうですんで・・・まあ、焦らず、ノンビリ 行きましょう(笑)別に「何月何日までに、結論を出せ!」てな問題でもないので ありますし・・・いかがでしょうか。
お気持ち、お察しいたします。会社を経営なさり、しかも地域の顔役ともなれば、口にふくむべき枝の多きことは容易に想像できます。
役行者様によって崖っぷちにまで追い込まれ、イラ○と呼ばれるどこかの総理ほどに無様ではござりませぬが、わたくし、相当に苛立っております。苛立ちの矛先が、高みの見物をきめこんでいると思えしブログ管理人様に向けられてもおります。
この苦しき立場から逃れたい。このことばかりを考えております。逃れるために、言い訳じみた言説を連発しようかとも考えております。連発のなかで、ブログ管理人様が標的になることも多々あるかと存じます。あさましき人の姿とおぼしめしいただき、広きお心で、笑って許してやっておくんなまし。
448: 名無しさん :2011/06/25(土) 17:45:58 ゆっくりと行きましょう!!
お互いの魂磨きですから!
449: 初心者 :2011/06/25(土) 18:24:59 もしもこの掲示板の「寂光論争」を読んでおいでの方がおられるとすれば、「なぜこのようなラチもないことを言い合っているのか?」との疑問を持たれると思います。「寂光だろうが実相だろうが、どっちでもいいではないか」、とお考えになられると思います。
ここで「何が問題なのか」ということをはっきりさせておこうと思います。問われているのは「実相のあらわれ方」なのです。実相はどのようにしてあらわれてくるのか。これが問題になっているのです。
「実相モデル」の場合は、実相を覆い隠しているのは「念のレンズの曇り」といわれています。実相はすでに、すぐそこにあるにもかかわらず、「念のレンズの曇り」によって見ることができずにいるということになるのです。
「実相モデル」では、実相を見るためには「念のレンズの曇り」を取り除けばよいということになります。取り除きさえすれば、そこに完全なる実相があらわれてくるということになります。
「寂光モデル」の場合は、実相は、いまだ完全にはあらわれていません。実相は今も流出中ということになるのです。したがって、「念のレンズの曇り」を取り除いただけでは実相を見ることはできません。実相を見るためには、実相が流出してくる現場をキャッチしなければならないということになるのです。
わたくしがシャーマニズムやタオイズムに惹かれますのは、シャーマンやタオイストが、今まさに流出せんとしている実相をキャッチしようとしているからです。シャーマンは、24時間油断なく、実相が出てくる現場を嗅ぎまわっています。実相をとらえるために、どんな些細な出来事にも注意を払おうとしています。
流出の現場に運よく出くわせたとしても、それだけでキャッチできるわけではありません。必要なのは「初心」つまりは「予期されない心」なのです。これはむかし友人から聞いた話です。
男が山にこもって修行をしていました。目的は悟りを得るためです。あるとき、サトリと名のる小動物があらわれて男の邪魔をするようになりました。修行をはじめると、かならずあらわれて男をからかうようになったのです。
男はサトリを捕まえようと、いろいろと画策しますが、すべて失敗してしまいます。男は、サトリに心を読まれていたのです。
ある日、男が斧で巻き割りをはじめました。サトリがあらわれて、男をからかいはじめました。男は、サトリを無視して巻き割りをつづけました。すると、何かのはずみで斧の先が飛んでサトリに当たりました。サトリは気絶し、男はようやくサトリを捕まえることに成功したのです。
この話は、香厳和尚が悟りを開いたときの話と似ています。香厳和尚は、竹ぼうきで道を掃除していました。ほうきの先が、道に落ちていた瓦のかけらにあたり、飛ばされたかけらが竹にあたって、「コーン」と音がしました。この音を聞いて香厳和尚はにわかに悟りを開いたのです。
いったい何がおきたのでしょう。この音こそが「ピンポーン」だったのです。実相が流出する現場を、香厳和尚はキャッチしたのです。しかしなぜ、いつもはキャッチできなかったのに、このときにかぎってキャッチできたのでしょう。
それは、キャッチするためには「予期されない心」が必要だからなのです。実相は、狩人が狙う獲物です。修行者は狩人です。狩人は、獲物の心と動きを読まなくてはなりません。そのために、心をつねに獲物に集中させておく必要があるのです。
しかし、それだけでは獲物を捕らえることはできません。獲物に心を読まれてしまっていたのでは、いとも簡単に逃げられてしまいます。そればかりか、下手をすると、狩人自身が獲物にされてしまいます。
実相をキャッチするには、こちらの心を読まれてはならない。狩人は、つねに「予期されない心」でいなければならない。サトリの話や香厳和尚の逸話は、このことを教えてくれているようにも思われます。
「寂光論争」で問われているのは、実相はどうやればキャッチできるのか、ということです。このキャッチの仕方に、「実相モデル」と「寂光モデル」では大きな違いがあると考えて、共通した見解を見いだそうとしているところなのです。
450: ぼるぼ :2011/06/25(土) 18:30:12 突然、ですが、ROMだけでは物足りない衝動にかられて、書き込みます。 自分勝手な、神の自覚のせいでしょう。
何故、神は自己表現を欲し給うか
それは美人が鏡の前に立って自分の顔や姿を飽くことなく眺めていたいのにも似ている。 鏡に映るところの姿は、既に自己に備わっているところの諸々の姿である。 「既に全てがあるのに何故神は表現せずにはいられないのか」と疑問を投げかけた人がいつかあったが、 既にあるからこそそれを表現したいのである。 既に美人であるからこそ、鏡の前に立って自分自身の姿を鑑賞せずにはいられないのと同じことである。
谷口雅春「神 真理を告げ給う」171p
最近、本流やブログ管理人さんやここなどの生長の家関連の個人掲示板が活性化していて、嬉しい展開であります。 私も、大いに刺激を受け、埃をかぶっていた雅春先生の本を読み直しました。
再読するほどに、その深い真理が全身の細胞に染み渡る心地がしてきます。
私は、若い頃飛田給道場で生活していたことがあります。生長の家によって再生した命であります。 生長の家を愛してやまないのですが、教団には参加していません。 一個の個人事業者として、日本人として、真理を生きることをだけ願うものであります。
451: 初心者 :2011/06/25(土) 18:39:32 どなたかは存ぜませぬが、ご助言、かたじけのうございます。
たしかに、魂磨きでありまするよね。この苦悩は、きっと魂の向上につながるのでありましょうぞ。
何にしましても、論争の意義と目的をあきらかにいたしましたる以上は、できるだけ大勢の人に参加していただきたく存じます。ここで提示いたしましたる問題は、生長の家にとりましても、けっして看過できない重要な問題であると認識いたします。
大勢の人を巻き込んでこの論争が発展いたしますなら、各人の自覚の向上に、少なからず貢献するものと考えます(わたくしはすでにバテバテでありますので、誰かに代わりにやってもらいたいというのが本心であります)。
まあ、ブログ管理人様も同じことを言われておりますので、あせらずゆっくりいきましょう。「名無しさん」も、たとえ戦況が不利になったとしても、けっしてお逃げになってはなりませぬぞ。
452: 初心者 :2011/06/25(土) 18:57:23 ぼるぼ様へ
>私も、大いに刺激を受け、埃をかぶっていた雅春先生の本を読み直しました。
素晴らしいではございませぬか。バテバテになりながらも、続けてきた甲斐があろうというものです。
ここでの問題のひとつは、神はどのようにして神ご自身が美人であることを知り得たのかということなのであります。「実相モデル」と「寂光モデル」とでは、このあたりの見解にかなりの違いがあるようなのです。ぼるぼ様も、よいお考えがあれば発表なさってください。
この掲示板では、相手の意見を否定するのではなく、批判をとおしてたがいの魂の向上をめざそうとしています。お気づきになったことを書き込んでいただければ、ありがたく存じます。
のちほど、管理人のトキ様よりご挨拶があると思います。何か関連したご発言があると思います。
453: トキ :2011/06/25(土) 19:18:31 >>450
ぼるぼ様
ご投稿、ありがとうございます。ご参加を心から歓迎申し上げます。
飛田給で魂を磨かれたのですか。素晴らしいですね。徳久先生などの指導も受けられたと拝察します。 たいへん的確な助言を初心者様にされたので、関心しました。 また、谷口雅春先生のご著書を再読される契機になったとの事、管理人として、光栄に思います。 感謝、感謝です。
このスレッドも、おかげさまで活況を呈しておりました、これも皆様のおかげです。 一応、1000の投稿でおしまいになり、次のスレッドを立てるのですが、次に立てる ときは、何か「名称」をつけて、スレッドを立てたいと考えています。もし、ご賛同 いただけるのなら、皆様から名称を募集したいとも考えています。でも、まだ半分ですから 先の話ですが。
管理人としてはまだまだ「青葉」マークですから、至らない点があると思います。 なにとぞ、ご指導、御鞭撻のほど、お願い申し上げます。
では、これからのご投稿を心から期待しております。
合掌 ありがとうございます
454: トキ :2011/06/25(土) 19:20:08 >>453
誤植です。お詫び申し上げます。
×関心しました。 ◎感心しました。
あと、御不明の点は、お気軽にお尋ね下さい。
管理人敬白
455: 役行者 :2011/06/26(日) 02:06:38 >>448 の投稿は、初心者様のお察しのように、役行者でございます。
いま、パソコンを使える状況ではないので、携帯からコメントしている次第です!ただ、そのためのミスです。
いやはや、初心者様の求道心プラス負けず嫌い、完敗しました。
私はただ、真理の追究とともに、魂磨きをしたいと、そう願っているものです。 できれば、ゆっくりと、時間をかけてゆきましょうぞ! 魅力溢れる掲示板を、つくっていきましょうぞ!!
それから、先ほどの設問ですが、美人がどうして、美人を知り得たのか? それは、鏡があったからです。
つまり、神がなぜ、神を知り得たか?
それは、神性を映し出す鏡があったからでしょう。果たして鏡とは何か?ちょっと、考察中です。 ちょっと、目覚めたので、コメントしました。(笑)
456: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/26(日) 05:19:13 >皆様
いやー、素晴らしい展開ではないですか。
私は理屈民族でありまして、そしてこれは「理屈で腑に落ちぬことは、い かにしても同意しがたい」を意味しまして、同時に「理屈で把握できぬこと は、たとえどんな高名な方のご主張であろうとも不同意を表明する」ことを 意味するのですが・・・ああ皆さん、ここにいらっしゃる方々は「同じ民族、 だ(笑)」てな感想を持つ次第です。実にオモシロイ(笑)実生活では皆さん、 「ああなんでアンタは、そんなに理屈っぽいのw」と差別されておられること と愚考します(笑)でもしかし、そんな差別に遭おうともこのテーマ・・・や り取りせずにはオレナイという(笑)
そしてまあ、既述になりますが、このテーマに関し、まあ議論の大枠を確認 していくならば「ゆっくり行きましょう」が正解だと思います。なぜと申して、 これ、「一転語は存在しない」ことは確かであります。雅春先生すら「迷いに 迷われ」た上で、ようやく気づかれたというテーマなのでありますから、まあ、 我々の様な凡夫ならばなおのことでありましょう(とは申せ、我々には御教え があるわけです。それこそ若き雅春先生の思索の「一万分の一時間」ほどで 「容易に同意に至るであろう」そのことは付記できようかと)
>初心者さま
ご配慮をありがとうございます。でもしかし「月末なんでこんな話、してい る場合じゃない!」なんて言葉よりも「実にオモシロイ」という言葉が飛び出 してしまうのが愚生です。「実にオモシロイ」が本音なので、ああこれ、経営 者としては失格かもしれませんね(笑)そんな真理に関することよりも、「ち ゃんと仕事しろよ」と言われかねない、そんな時間配分で生きておりますんで (笑)
>「寂光論争」で問われているのは、実相はどうやればキャッチできるのか、ということ>です。このキャッチの仕方に、「実相モデル」と「寂光モデル」では大きな違いがあると>考えて、共通した見解を見いだそうとしているところなのです。
まあ大凡の展開−今後、愚生が提示するであろう話―を事前告知致しますと、 以下記事になりましょうか。
●再度問う。「現象、とは?」 http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65560893.html
(同記事より抜粋) 『現象無し』と云うことは、何にも無いということではない。其処にその 現れているもの≠ヘ無いということである。現れているものは無いけれども、 現れていないもの≠ェあるのである。肉体は現れて見える。肉体は現象であ り、現象は無いのであり、従って肉体は無いのである。現れて見える肉体は無 いけれども人間“そのもの”は無いのではない。
その他記事も関連があるのですけど、まあ「上記を膨らませながらの話にな るのかも」という、そんな展開を予想しております。そして頃合を見て参戦予 定であります。(まあ既に、意識の上では参戦中ではありますが) 今後もどうぞ、よろしくお願いします。
457: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/26(日) 05:26:32 >トキさま
>次のスレッドを立てるのですが、次に立てる >ときは、何か「名称」をつけて、スレッドを立てたいと考えています。もし、ご賛同 >いただけるのなら、皆様から名称を募集したいとも考えています。
<私の希望するスレ名称>
【理屈上等】なんでない≠フにある≠だよ?!
458: ぼるぼ :2011/06/26(日) 08:51:55 トキさま
不特定多数の一般閲覧者の中から、突然書き込んだ一言に対して、どんなボール球でもヒットにしてしまう天才長嶋のようなレス、さすがです。
本流を出て一躍人気掲示板と成り得たのもむべなるかな。
しかし、今更長嶋はなかったかな。古すぎると、反省。
僕が飛田給にいたのは30才の頃で、ざっと30年前なんですが、徳久先生はアメリカの教化総長だったので不在でした。
僕は一番下の位の道場員でありまして、農事部に所属していて、雅春先生の指示にしたがって鶏の世話をし卵をお山に届け、徳久先生宅の草刈や、雅春先生が磨り潰して飲むという
麦の若芽にあんまり綺麗とは言えない水をやったりして下座業に励んだものです。
もちろん、教団のすべての雑務、法供養、錬成、講習会もろもろの裏方としての仕事をやりました。
当時は雅春先生が家長で、生長の家はひとつの大家族で観がありました。
組織の常として、上位のポスト争いはマキャベリズムがカビのように蔓延ります。
僕の生得の体質で、茶坊主が嫌いで、神にのみ信を置くという潔い生き方をするには教団組織外で生きるほうが
自分にはふさわしいとの結論を得て、本部へ就職を断り、当時職員だった女性と結婚して無一文で一般社会に回帰し今日に至りました。
その妻も3年前に他界しました。我が国にも大転換の兆しが感じられる今日この頃です。
自己紹介ついでにスレッドも紹介しておきます。
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=5267&forum=8
459: 役行者 :2011/06/26(日) 09:00:37 >訊けブログ様
いま、パソコンを使える状況ではないので、簡単に挨拶します。
面白くなってきました。 実相のみが存在する。 いいですね。
460: 役行者 :2011/06/26(日) 09:08:31 訊けブログ様
なんでないのにあるんだよ! に、座布団10枚!!
初心者様
もう、始めから仮説なので、当然なのですが、実相モデルも寂光モデルも人間がつくった神観です。
それでも、宇宙創造の神は存在します。
461: ぼるぼ :2011/06/26(日) 09:45:09 読み返して気になるので、誤字訂正します。錬成→練成、下座業→下座行。
462: 初心者 :2011/06/26(日) 11:48:29 おやっ! 「いやはや、初心者様の求道心プラス負けず嫌い、完敗しました」と言われし役行者様。 負けをお認めになられたということですね!
短期決戦と心得ておりましたが、 役行者様より、 予想外というべきか、予想どおりというべきかの手痛い反撃をくらい、 思いのほかの長期戦となってまいりました。 戦力の一斉投入をと考えておりましたが、ここはひとつ、戦力の消耗をふせぐために、 小出し戦術に切り替えますでございまする。
ブログ管理人様へ
>実生活では皆さん、 「ああなんでアンタは、そんなに理屈っぽいのw」と差別されておられること と愚考します
わたくしは、小学校の1、2年生のときの担任の女教師より 「この子は、おとなになったら理屈ばかり言うようになって人から嫌われる」 と言われておったでござりまする。
この大予言を肝に銘じて、人前ではできるかぎり理屈は言わぬようにと、 このように考えて生きてまいったでござりまする。 理屈が言える場があるというのは、じつに素晴らしいことではございませぬか。
463: ぼるぼ :2011/06/26(日) 12:15:51 初心者さま
あなたは既に十分真理の書を読み、科学的知識も豊富にお持ちであるにも拘らず、神について何故こんな妄想をしてしまうのでしょう。
>ここでの問題のひとつは、神はどのようにして神ご自身が美人であることを知り得たのかということなのであります
神というのは、藤原敏之さんの言葉を借りれば、「生命であり、理念であり、愛であり、慈悲そのものをいう」
「相対でも、有限でもなく、無限であり、絶対である」
これが生長の家では常識であるはずなんですが・・・・
今、藤原敏之さんの本をパラパラと読みながら思いついたので書き込んでいますが、続いて
「このような神を捉えるには、知識や学力によるのではなく、直感(生命)による以外はないのであります。身体を通し、実際の
生活を通し、さらに動かすことのできない事実を通す以外に方法はないのであります。全てにおいて生かされている事実に目覚め、
その中から救いが実感として生まれるとき、ただ感謝以外にないことを驚きと共に気付くのであります。この状態を信というのであります。」
さすがに実力ある生長の家講師であった故藤原先生は的確な指摘をしているなあ、と感じました。
初心者さまにかけているものはまさにこの信である、とズバリ指摘させていただきます。
464: 初心者 :2011/06/26(日) 15:27:02 ぼるぼ様へ
ご登場なさって、さっそくの愛深きお言葉に感謝いたします。ですがわたくし、四面楚歌でございます。
無敵をほこった項羽は、戦えばかならず打ち破ってきた劉邦の軍にかこまれます。四方から聞こえてくるのは、故郷であるはずの楚の歌ばかり。楚の人びとにも見放されたかと、項羽は失望落胆いたします。今のわたくしには、項羽の気持ちが痛いほどわかります。
>「相対でも、有限でもなく、無限であり、絶対である」
「美人」とは相対でありましょうか?それとも絶対でありましょうか?有限でありましょうか?無限でありましょうか?
465: 初心者 :2011/06/26(日) 15:47:55 役行者様へ
>それから、先ほどの設問ですが、美人がどうして、美人を知り得たのか? それは、鏡があったからです。 つまり、神がなぜ、神を知り得たか? それは、神性を映し出す鏡があったからでしょう。果たして鏡とは何か?ちょっと、考察中です。
「鏡があった」というのは順序が逆ではありませぬか。 鏡がなかった。だから鏡をおこしらえになった。こういうことではありませぬか。
神は、神ご自身の姿を見るための鏡をおこしらえになった。 これが第一創造でありましょう。 その鏡こそがこの宇宙なのでは? 宇宙を鏡として、神は神ご自身の姿を見てみようとなされた。 見えたときが「ピンポーン」の瞬間なのでは?
466: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/26(日) 16:13:08
>ぼるぼさま
初めまして。本議論へのご参戦誠に歓迎する次第であります。 さて早速ではありますが、議論の現況を、わたくしなりにご解説申し上げ ます。
我々は種々のやり取りを行っておりますが、現在、本議論に於けるポイン トのひとつは、「現象をいかに解釈すべきや」であります。そして「もとも と五官では認知不能」であるのが實相界なのであるが「いかにせば、五官認 知可能な言葉で以って説明できようか?」といったものも本議論には含まれ ているように感じております。ですので「(理解するには)信しかない」と の貴殿お言葉でありますが、これに対しましては「まあ敢えて申すならば、 そこを『信』なき衆生には、どう説明するべきでありましょう?」という一 文を以ってお応えする次第という・・・
追伸
とは申せ、貴殿ご言及のお言葉でありますが・・・藤原第一師団小隊長( 私のことw)としましては「それが正解」なる一文をもって、お応え申し上 げる次第です。 初心者さまとのやり取りでありますが、最終的にわたしが結論するであろ う言葉の概要は、まあ、その部分になろうかと予想しております。ただしか し、現時点の初心者さまに於かれては、「最終的には『信』しかない」なる 言葉ですが――「論理が飛躍したカタチにしか映らない」と思われることと 愚考致します。(この主張根拠は・・・「わたし自身が元・無神論者であっ たからワカル」というものですがwまあでも初心者さまは「無神論者」とは 言い難い御仁でありますけれどもね)
467: 初心者 :2011/06/26(日) 17:13:33 ブログ管理人様へ
いやいや、ひさしぶりに楚歌以外の歌声が聞こえてきたような心地でござる。ご解説、まことにもってかたじけのうござる。
じつはわたくし、ぼるぼ様の真意がわからぬ段階でこのようなことを書くのは僭越と思いながら、ぼるぼ様のご意見が、これまでここで語られてきたことにたいする、ひとつのアンチテーゼとなっているような気がしなくもないのでございます。
おそらく、ぼるぼ様のお考えは、美は相対ではなく絶対であるというものだろうという気がします。絶対的な美が存在すると、このようなお考えを示されているのではないかと、このように推察いたしております。
もしそうであるとすれば、「寂光論争」に、これまでの議論を根こそぎ否定しかねない、きわめてやっかいな問題が持ち込まれたことになります。わたくしの推測では、ぼるぼ様によって持ち込まれたのはプラントのイデア論なのです。
プラトンのイデア論では、美は絶対的な観念として存在することになります。誰が反対しようとも、それは神の象徴としての絶対観念ということになってくるのです。そして神はまさに、ぼるぼ様が言っておられるように、この絶対観念の表現者ということになってくるのです。
ヘーゲルは、人類の意識は、弁証法的発展をとおして進化し、やがて絶対観念に達するということを言っていたように思います。もしもプラトンのイデア論が正しく、ヘーゲルが正しければ、わたしたち人類は、この現象世界においてすでに表現された神の絶対観念を最終ゴールとしたレースの参加者ということになってしまうのかもしれません。
このような重大な問題が提起されてしまったと、わたくしは勝手に解釈いたしております。もしも神が、真善美の絶対観念をすでに表現なさっておられるとすれば、わたくしたちが直観すべきは神の絶対観念だけということになってまいります。雅春先生や生長の家の諸先生方は、はたしてこのようなことを説いておられるのでありましょうか。
468: ぼるぼ :2011/06/27(月) 01:07:19 ブログ管理人さま
>初めまして。本議論へのご参戦誠に歓迎する次第であります。
と、申されますが、貴殿のブログは開始直後から「お気に入り」にしていますので、なんだか旧知のような
気がしています。そちらでは、広大なる慈門という名前でコメントしています。
貴殿の熱情的な雅春先生への傾倒ぶりには圧倒されています。私は生の雅春先生と接していた世代の人間ですが、
貴殿の世代の生長の家は、像法の時代であって、仏教でいうなら、維摩経が釈迦と同時代人の悟りとすると、釈迦滅後、集大成され北伝し、さらに空海によって日本国教化された大乗仏教の悟りが求められている。
これは、大変きびしい要請であり、おそらく雅春先生の弟子の誰一人として、生長の家再興はできないであろう。
しかし、仏教にも中興の祖という人物が現れたように、時代の要請にあった宗祖的興隆は有りうる。
法然とか、日蓮みたいな宗祖が、現代の日本の混迷せる社会に現れる必要がある。
インターネットという新しい視野が広がっているので、ネット経由での真理普及も多数試みられている。この掲示板や貴殿のブログもそのひとつである。
不特定多数参加者は、練成や講習会に参加している有縁の信者と考えればよいと思う。
質問者にはその気根に適した回答が、どこからともなく、神意によって与えられる。
469: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/27(月) 06:30:46
>ぼるぼさま
>広大なる慈門という名前でコメントしています。
ああ!これはこれは(笑)いつもありがとうございます。 コメント欄へなかなか返信できずに、すみません。以前、コメント欄が不調 となりまして(コメントを入れると全文消去なんて事件がw)非常に神経質に なっております(笑)でも、歓迎致しますのでどうぞよろしくお願いします。
>私は生の雅春先生と接していた世代の人間ですが、
羨ましい限りであります。「い――(30秒)――な――(30秒)――」 が本音でございます。
>インターネットという新しい視野が広がっているので、ネット経由での真理普及も多数 >試みられている。この掲示板や貴殿のブログもそのひとつである。
特にこの掲示板は、可能性無限大でありましょう。なにせ管理人様が聡明な 方であります。やはり管理人は(黒澤映画に喩えるならば)志村喬さんでなく ては勤まらぬでしょうね・・・あっ、これは別に他の掲示板が「管理人が三船 敏郎だ」と言っているわけではありません(笑)そして「管理人も三船敏郎だ けど、投稿者まで三船敏郎だ」なんて、一言も申しておりません(笑)
>不特定多数参加者は、練成や講習会に参加している有縁の信者と考えればよいと思う。
いやーしかし、柔軟な発想をお持ちの方ですね。これからもご指導をよろし くお願い致します。こちらの掲示板でならば(コメント不調に見舞われず)活 発に意見表明ができそうです。
>初心者さま
いかにせば、五官認知可能なコトバや事象≠ナ真理を表現できるのか? ・・・非常に楽しみなやり取りです。そして貴殿なかりせば、こんなやり取 りは不能でありましょう。
ただ我々が取り組むテーマですが云うまでもなく、かの道元すら「半生をか けて悩みぬいた」という、壮大なものであるという・・・
470: 初心者 :2011/06/27(月) 10:42:42 ブログ管理人様へ
真理を「五官認知可能なコトバや事象」で語り、その妥当性について語り合うということは、とくに「真なき衆生」においては必要なことでありましょう。何を信じてよいのか、それさえわからぬのが「真なき衆生」でありますから。
「絶対観念」なる言葉が登場したことでもありますし、ここでの論点をわかりやすくまとめておきたいと思います。わたくしは、雅春先生がなぜ実相世界をお説きになられたのか、根本のところでそれが理解できずにおります。倉田百三氏がいわれているように、「寂光であればついてゆけるが、実相世界ではついてはゆけぬ」ということになるのであります。
実相世界と実相は異なるものだと思います。寂光に実相はありますが、寂光は実相世界ではありません。雅春先生がお説きになっておられる実相世界とは、具体的な形として存在する、神の創造せし世界であると理解しております。
ここでひとつのことが明確になります。実相世界が存在するのであれば、それですべてが完結するということであります。完結するということは、「現象はない」ということになってくるのであります。
これはきわめて明確な理屈であります。実相世界が存在するのであれば現象世界は必要ない。これは、当然の論理的帰結であります。
ここで神はなぜ実相世界を創造なされたのかと考えてみます。当然のことながら、それは真善美を表現するためであります。この表現が、実相世界において完結します。ただし、この真善美とは、神の絶対観念であります。絶対観念とは、いっさいの経験を経ずして知りうる観念であり、何らかの方法で表現しうる観念であるかと存じます。
これは、言葉を変えていえば、実相世界は神の絶対観念によって支配された世界ということになります。どんなにあがこうとも、神の絶対観念の外に出ることはできないという世界なのであります。
これは、あらかじめ先行きがすべて決定せられた世界ということでもあります。最終的には、神の絶対観念にしたがうしかないという世界であるような気がいたします。雅春先生がお説きになられた実相世界とはこのような世界ではないかと、わたくしには感じられてならないのです。
ここでは、実相世界に対抗するモデルとして「寂光モデル」を取り上げています。「寂光モデル」では神の絶対観念は存在せず、神の本質である真善美を表現するのは、現象世界における人間ということになってまいります。このあたりの対抗軸をわたくしが想定しておりますことを、まずはご理解ください。
当然のことながら、こうした対抗軸には相当な問題点がござりましょう。こうした点についても話し合ってゆければと考えております。
471: 初心者 :2011/06/27(月) 11:55:47 >質問者にはその気根に適した回答が、どこからともなく、神意によって与えられる。
回答があたえられるべきは、わたくしではなくあなた様であるような気がいたします。
472: 役行者 :2011/06/27(月) 12:05:12 >初心者様
いまだ、パソコンを使える状況ではなく、携帯からなのでご了承ください。
初心者様はただ単なる負けず嫌いだけではなく、論文に筋が通っております。ここまで来ると、本当に頭が下がります。
さて、トキさんから待ったがかかるかも知れませぬが、私も谷口実相哲学の範疇から外れるかもしれない持論から話すしかない状況下に置かれてきました。
まず、実相世界が存在するなら、そこは無限生長の世界でしょう。つまり、矛盾はないのですが、弁証法的に進化向上していく世界と存じます。
次に、ここからはますます持論なのですが、実相世界は来るべき地球の未来に必ず実現すると信じております。
確かに、いまは寂光世界と存じます。いや、地球創成のころから、寂光は宇宙に内包されていたと思います。 でないと、人間を中心とした神の第二創造に理由が付かないのです。
初心者様の仰る通り実相は神の理念として、存在しておりますが、実相世界は、現象的にはいまだ存在してないのでは? いまは、神の地球計画最終章第一幕といったところでしょうか?
473: トキ :2011/06/27(月) 13:25:33 >>472
待ったはかけませんから、気にしないで書いて下さい。
474: 役行者 :2011/06/27(月) 14:23:22 >トキ様
お言葉に甘えて。
475: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/27(月) 17:16:56 >皆さま(笑)
熱い議論がつづいておりますね(笑)おそらくたぶん、種々真理探求サイ トあれど、ここまでハイレベルなやり取りは「他に存在せぬ」とこを確信す る次第であります。道元禅師も「うむむむむ」と申されておいでのことであ りましょう。
さて過熱する議論に「入りたいけど入れない」そんな方々のために資料を 用意致しました。今後この議論に入られる際に参考になさってください。
● 五つの人生観 http://blog.livedoor.jp/con5151/preview/edit/2e90e990bfbdc233b98a7e6cf5ccd3f8
雅春先生ですが、世の中の思想を五種類に大別されておられます。現在の やり取りに関して「あっ、初心者さまのこの仮説は(3)ではないか?」 「役行者さまのは(4)から(5)なのでは?」「ブログ管理人・・・実は貴様、お前の意見 は(1)だな!?」などという使い方が出来ようかと思います。
まあ云わば便利な「思考判定用モノサシ」と云えるでありましょう。
<一部抜粋>
(1) ※※※※※※※※※ ※ 現象 ※ ※ ※ ※ 即我 ※ ※※※※※※※※※
真我も仮我もそんな区別はない、「我」というのは一種の肉体現象であって、 肉体我というものの他に「我」というものはなく肉体が消えれば「我」も消えるという説。
(2) ※※※※※※※※※ ※※※※※※※※※ ※ ※ ※ 我 ※ ※ 肉体 ※ ※ ※ ※ ※ ※ 【霊魂】 ※ ※※※※※※※※※ ※※※※※※※※※
この見解は一方では現象の他に超越神を見、肉体の他に「我」というもの を仮定し「我」は肉体と別にある。肉体が滅しても「我」というものは霊界 に残るが、その「我」はつまるところ現象我すなわち変易するわれであって 常恒のものではなく、いろいろに生まれ更わったり変易して苦しむという説。 (現世の他に霊界の存在を認む)
(3) ※※※※※※※※※ ※ 現象我 ※ ※ ※ ※ 【真我】 ※ ※※※※※※※※※
真我は現象我の内部にあると観る。 現世、霊界の現象我を有り≠ニ観ている。
(4) ※※※※※※※※※ ※ 真我 ※ ※ ※ ※ 【現象我】 ※ ※※※※※※※※※
真我の内部に迷いの要素ありて、真我が迷いの影を映して生じたのが現象我であ ると観る。
(5) ※※※※※※※※※ ※ ※ ※ 真我 ※ ※ ※ ※※※※※※※※※
實相独在、真我独在であると観、現象は顕われていても顕われなくとも、 捨てても捨てなくても、そんなことに関せずに、如来があり、涅槃がある。 即身即仏久遠実成の説である。
476: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/27(月) 17:18:09
ああやはり・・・改行で表が破壊されました(笑) まあ詳しくは、弊ブログまでお越しください。
477: 初心者 :2011/06/27(月) 17:58:03 役行者様へ
携帯でのご投稿、まことにご不便なることとお察しいたします。たとえ短い文章であったとしても、ご意見をお聞かせねがえれば、ありがたく存じます。
>確かに、いまは寂光世界と存じます。いや、地球創成のころから、寂光は宇宙に内包されていたと思います。 でないと、人間を中心とした神の第二創造に理由が付かないのです。
わたくしも、役行者様と同意見です。実相世界がすでに完成しているとすれば、神の意志としての第二創造の説明がつきません。
ただこのことにかんしましても、「反・生長の家」的ともいえる持論があります。
神が神ご自身を表現なさるために実相世界をおこしらえになったとすれば、つづいて、鑑賞者としての人間をおこしらえになったと考えられます。神は、「わが創造せしすばらしき世界を讃嘆せよ」と、このように人間に命じられたことでありましょう。すかさず人間たちは、「さすがに神がつくられた世界だ。どこまでも完璧でスキがない」と、口々に讃嘆しあいました。しかしそのうち物足りない気分におそわれることになります。実相世界では、9回裏ツーアウトからの大逆転もなければ、役行者様のお好きな花金もなかったのです。
人間たちは、「こんな退屈な世界はもういやだ」と考えるようになりました。やがて念のレンズをこしらえ、それをゆがませることで、実相世界を、パースペクティブの効いた不完全な世界として見るようになったのです。
こうして人間たちは、実相世界からの逃走をはかりました。神様があらわれて、「こんな不完全な世界は、本物ではない。わが創造せし完全なる世界にもどれ」と説得しますが、人間たちは聞こうとしません。ああだこうだと押し問答となり、この不調和な波動により、現象世界にさまざまな悪が出現することとなりました。
今も人間たちは、実相世界にもどそうとする力と戦っています。戦いがつづくかぎり、現象の悪が消えることはありません。それでも人間たちは、「あんな世界にもどるのはいやだ」と戦いをつづけているのです。
このシナリオでは、当然のことながら、実相世界にもどそうとする神の力のほうが、やや優勢であります。やがて人間は力つき、実相世界へとつれもどされてしまいます。役行者様の「実相世界は来るべき地球の未来に必ず実現すると信じております」とのお言葉が実現することになるのです。
>初心者様の仰る通り実相は神の理念として、存在しておりますが、実相世界は、現象的にはいまだ存在してないのでは?
こちらのシナリオが、これまでここで話されてきた「寂光モデル」でありますね。わたくしもこのように考えます。ですから、雅春先生が実相世界をお説きになっておられる理由を判然と理解することができないのです。
ただひとつはっきりしておりますのは、もしも雅春先生が、実相世界ではなく寂光を説いておられたとすれば、教義は今よりずっとわかりやすいものとなり、仏教界からの反発もなければ、倉田百三氏による疑問も提出されることはなかっただろうということです。
しかしこれでは、生長の家ではなく、並の宗教として、仏教の一派ぐらいに数えられるのが関の山であったと考えられます。「いまだ実相世界は顕現せず」。このように説くのはやさしいことなのですが、それをなされず、「絶対観念」の問題や「第二創造不要論」、あるいは「人類造反説」も含めて、より困難な説明を要するであろう「実相世界はすでに顕現せり」のお考えを雅春先生がお説きになられたということは、やはり何か重要なお考えがあってのことだという気がしてなりません。
それにしましても、役行者様が「持論」を隠し持っておられたとは、まったく存じておりませなんだ。ひょっとして生長の家に、隠れ持論保持者はあんがい多いのでありましょうか。
480: 役行者 :2011/06/27(月) 18:25:48 >雅春先生に訊けブログ様
五つの人生観!なかなか、いいタイミングにもってこられました。 鋭いです。
雅春先生は、唯神実相までの過程に、神を裁く、神と創造主の二元論でこの世は成り立っているという、聖道へなどの思想を経由しております。 そのように、汗と涙と血の滲むような努力のなか、実相が流出し、全身で感じ取られたのでは。
確かに、初心者様が仰る通り、実相をキャッチするには雅春先生同様多くの聖者が体験してきたよう、予期されない心が大切だと、存じます。ただ、雅春先生に限らず、実相を体現された方は必ず、いとも簡単に、ただ気づけば良いんだよ!と仰るのです。
聖者の方々のお言葉に甘えてみるのも、また一つ、悟りに近づく方法かもと、思う今日この頃なのです。聖者の方々の血の滲むような努力に敬意を表しながら・・・
481: 役行者 :2011/06/27(月) 18:28:42 トキ様
478 479 を削除お願いします。
482: 初心者 :2011/06/27(月) 18:37:30 ブログ管理人様へ
そこはやはり企業経営者。機を見るに敏。 センスがよろしくてございます。
役行者様、携帯で苦労しておられるようでありますね。 めげずに投稿をお続けなさってくださいませ。
483: トキ :2011/06/27(月) 18:52:50 >>481
了解しました。
484: 役行者 :2011/06/27(月) 18:54:12 >初心者様
これほど遠大な実践哲学ですから、それは隠れ持論保持者は山といるでしょう。
確かに、実相世界はすでに顕現せり。の言葉には何かがあります。
485: 役行者 :2011/06/27(月) 19:26:59 初心者様
小出しにいきますが、(笑) 確かに私を含め、人間は現象世界、娑婆をこよなく愛してますね〜女、名誉、酒、権力と・・・どうしようもなく離れられないのでしょう。
もっと、大いなる歓喜が存在するのにも関わらず・・・
486: 初心者 :2011/06/27(月) 19:56:58 役行者様へ
>確かに、実相世界はすでに顕現せり。の言葉には何かがあります。
そうですね。たしかに何かがありそうですね。 その「何か」を理屈で推測してみました。
今は寂光の時代であること。 未来において実相世界が顕現すること。
ここまでは、理屈で確定しています。
続いて推測です。
実相世界は時間を超越しているという可能性がある。 もしそうであれば、未来において顕現するはずの実相世界が、 すでに現在において顕現している可能性がある。
これにより、進化した神がすでに存在している可能性が出てきます。
理屈で推測できるのはここまでです。 ますますわけがわからなくなってきたような気がします。 このあたりのことをたたき台に、何かよい理屈が見つかればよいのですが。
小出しで「女、名誉、酒、権力」でござりまするか。 大出しにしたら、何が出でくるのでござりましょう?
487: 初心者 :2011/06/27(月) 21:41:40 役行者様へ
ここから先は、理屈だけではどうにも手に負えぬ胸つき八丁がつづくと思われます。 前に進むには、雅春先生の文献を当たって見るのがよいかと存じます。
どういたしましょうか。 やはりあの、生長の家の誇る大文献学者、ブログ「雅春先生に訊け」管理人様のご協力をあおぐ、・・・というのは、ちと難しゅうございますでしょうか?
488: 役行者 :2011/06/27(月) 23:53:16 >初心者様 >実相世界は時間を超越しているという可能性がある。 もしそうであれば、未来において顕現するはずの実相世界が、 すでに現在において顕現している可能性がある。 これにより、進化した神がすでに存在している可能性が出てきます。
これですね。素晴らしい仮説です。私はビックリしました。 そうなんですよ。この広大なるまた、悠久の昔より存在する宇宙には、 太陽系に類する天体があると聴いたことがあります。 そればかりか、未確認飛行物体、宇宙人が存在しないとも言えませぬ。 それが三次元の物質構成より、緻密で精度が良い波動体で構成されてる 可能性も高い・・・ 雅春先生は、昭和4年12月13日、現象はない!!との声と共に、 確かに実相世界を観ていらっしゃるのではないでしょうか。 それは、理念の実相ではなかったと思うのです。 なんか、幸せな気持になってきました。地球の未来に・・・
>小出しで「女、名誉、酒、権力」でござりまするか。 大出しにしたら、何が出でくるのでござりましょう?
それは秘密です(笑) しかし、この世をこよなく愛着し続け、こんな世知辛い世の中に なってしまったのに、いまだ気づかぬのが人間。私も含め・・・ いや、流石にもう気づき始めているか・・・
神の地球計画、最終章第一幕まで来ていると観てます。
>生長の家の誇る大文献学者、ブログ「雅春先生に訊け」管理人様 のご協力をあおぐ、・・・というのは、 ちと難しゅうございますでしょうか?
ですよねぇ〜 いい感じになってきました。 実相世界の存在をしっかりと確かめたい気持です。
これほど人間が世知辛い世の中を
489: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/28(火) 10:32:56
挑発には乗らぬが「誉められると弱い」、ブログ管理人です。いやー皆さ ん、卑怯ですよ。皆さんから生長の家の誇る大文献学者≠ネんて云われた ら・・・ノコノコ出てこざるを得ないではないですか(笑) さて本議論の現況に関して、関連記事を提示致します。しかし「この段階 でこの文献を出せば」ですよ、師団長から「もう出すか!それ!」なお叱り を受けかねませんという・・・しかも「今出しタラ、ツマンナイよ!」と、 理屈好き同閣下から言われそうなんですが、それでもまあ・・・思考の補助 線的な記事ならば、オモシロクなるのではなかろうかと思うわけです。議論 を盛り上げるためにも雅春先生のご文章、以下に掲示致します。
―――――――――――――――――――――――― <<実相世界がすでに完成しているとすれば、神の意 志としての第二創造の説明がつきません。>> に関しての関連記事 ―――――――――――――――――――――――― ●「全託」か?「努力」か? http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65545527.html#more ●「ことすでに成れり」 http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65558460.html ●現象の正体とは? http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65559286.html#more ●<まとめ>現象≠チてなんなのよ http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65562454.html
――――――――――――――――――――――――――― <<実相世界は時間を超越しているという可能性がある。 もしそうであれば、未来において顕現するはずの実相 世界が、すでに現在において顕現している可能性があ る。これにより、進化した神がすでに存在している可 能性が出てきます。>>の関連記事 ―――――――――――――――――――――――――――
(●以下に関連しそうな記事二つを投稿います)・・・これは現在、探索中 です(笑)いやなにせ、議論大枠がまさに大枠≠ナありまして、「たくさ ん、ありますよ」なんですよ(笑)ここはひとつ、藤原第一師団の小隊長と しましては、隣接陣地の近衛師団(トキさまw)のご助力を要請したいもの だと(笑)
でもまあ初心者さまが・・・もしも雅春先生の本を(ほとんど)未読でこ の仮説にたどりついたのであれば・・・これ、スゴイことですよね。 ・・・なお、初心者さま提示の<<雅春先生が実相世界をお説きになって おられる理由を判然と理解することができないのです。>>は・・・小出し 言及することと致します。まあこの部分は雅春先生、直接言及はあまりされ ておられない様に思います。ですので「私見」というカタチで今後(笑)
また議論本筋からは外れますけど、初心者さまご言及の「もしも雅春先生 が、実相世界ではなく寂光を説いておられたとすれば、教義は今よりずっと わかりやすいものとなり、仏教界からの反発もなければ」云々の箇所ですが、 これ、卓見だと思います。
追伸
あと・・・「反・生長の家」的言説投稿について。 これ云うまでもないことですが、大歓迎ではないでしょうか(笑)ていう か・・・あっ、いきなり女子高生コトバになりましたけど、ていうか、「大 反論なくしては議論は盛り上がらない」わけでありまして(笑)隠れ持論保 持者の皆さんも「ガンガンに来て欲しいものだ」と、こう思う次第です(笑) まあその際、できますれば「私の持論はまあ・・・思想(4)に該当する と思いますが」みたいな補足を、冒頭で述べて頂くと助かりますけど。
追伸の追伸
あえて、唯物論+無神論者時代の自分を再現し、そして皆さんに対し「挑 発的な言動」を試みることもやってみようかと(笑) 思考スタンスは(1)であり、「霊≠ネんて、あるものかあ!」「だか ら宗教やってるヤツはバカなのよ!」てな感じの、非常に厄介な人です。HN は「大前研一に訊け」であり、ザ・唯物論なんですが、追い詰められた途端、 いきなり(2)〜(3)になるという柔軟(?)な人でもあります(笑) そしてさらに「相手がたは(2)(3)に変更したこと、気づいてないぜ。 ひひひ」とか思ってますが「既に周囲にはバレている」という、そんなオチャ メさもある人・・・とまあ、そんな感じで登場してみましょう(笑)まあこん な、デヴィルズ・アドボケイト(悪魔の反論)も、真理到達には不可欠であり ましょうから(笑)
490: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/28(火) 10:35:30 ※上記(●以下に関連しそうな記事二つを投稿します)対応記事
縦と横の世界、すなわち平面に住むところの虫というものは、前に進め ば横にも行く、けれども厚みの世界を知らない。それで卵を産むと、その 卵を一定のところにちゃんと置いて自分の粘液でぐるりと圏線を描いてし きりをしておく。そうすれば自分は勿論、自分と同種の虫もそのしきりの 中に入ることはできませんから「安心」と思うわけです。
ところがまたそれ以上の次元に住む人間がやってきて、上からその卵を取 ってしまう、すると虫はいったいどこから侵入して取ったのだろう。ちっと も自分が作っておいた城壁は壊されていないのにと不思議がるのです。それ は縦、横だけの世界しかないと思っていて、まだこの上には厚みの世界があ るのだということを知らないからであります。
『生命の實相』第二十七巻 40ページより
実在は「全一」(※)である。
「全一」は表現せられない。 「全一」は一度に知覚せられえない。 そのことはわれわれの記憶内容全体のようである。
われわれは生まれてからいろいろの機会に触れ、見、聞き、経験した事柄 を記憶しているのであるけれども、その全体が一度に記憶の表面に浮かび上 がって来ないのは、「全一」なるものは、無数の相が超時空的な世界に重な り合っているから、知覚することができないためである。それを記憶心象と して脳髄の知覚面に浮かび上がらせうるには、「全一」の中から、必要でな いものを残し置いて、「今」必要なものだけを、空間的表象面に浮かび上が らせなければならぬ。
それと同じく、「全一」なる実在が、それが知覚しうるように表現せられ るためには、「全一」の中からある物を呼び出して来て、他を「全一」の中 に残しておかなければならぬ。表現はコトバであり、コトバは呼び出しであ るのはこのためである。われわれは善きコトバの力によって善き物を創造す ることができるのである。
※ 意味:すべてを包容した完全な一体
『生命の實相』38巻103ページ
<了>
491: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/28(火) 10:55:08 489に関する補足です・・・・
―――――――――――――――――――――――― <<実相世界がすでに完成しているとすれば、神の意 志としての第二創造の説明がつきません。>> に関しての関連記事 ―――――――――――――――――――――――― ●「全託」か?「努力」か? http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65545527.html#more ●「ことすでに成れり」 http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65558460.html ●現象の正体とは? http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65559286.html#more ●<まとめ>現象≠チてなんなのよ http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65562454.html
―――――――――――――――――――――――――――
これに関しましては、以下順番で読まれることをお勧めしようかと・・・
●<まとめ>現象≠チてなんなのよ http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65562454.html ●「全託」か?「努力」か? http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65545527.html#more ●現象の正体とは? http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65559286.html#more ●「ことすでに成れり」 http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65558460.html
よろしくお願い致します。
492: 初心者 :2011/06/28(火) 11:56:32 ブログ管理人様へ
さすがに、彗星のごとくあらわれ、きら星のごとく燦然と輝いておられる、大文献学者様でございます。これほど早く、しかも適材適所に、参照すべき文献を配置なさるとは、まことに信じがたき神業を見し思いでございます。
これから、ブログ管理人様によってご提示いただいた文献を心ゆくまで味わうことにいたします。雅春先生のご文章を、これほどの深き味わいとともに読ませていただくのは初めてでございます。これもひとえに、ブログ管理人様の日頃の精進努力の賜物かと存じます。
雅春先生によってお示しいただいた、滋味あふれる深き真理の世界と、現在の教団でおこなわれていると推測される「浅き夢見し世界」とどちらが本当に面白いのか。これはみなさまに判断していただくよりほかはございません。
何にいたしましても、日本全国津々浦々より「隠れ持論保持者」のみなさまが参集くださいましたなら、まことにもって面白き掲示板になること請け合いでございます。「隠れ唯物論保持者」のブログ管理人様のご活躍も楽しみでございます。
トキ様のご出座も、いよいよ間近かと。
役行者様へ
>雅春先生は、昭和4年12月13日、現象はない!!との声と共に、 確かに実相世界を観ていらっしゃるのではないでしょうか。
実相世界を観てらっしゃらなければ、寂光をお説きになったはずでございますよね。雅春先生はたしかに実相世界を直視せられた。だからこそこれは大問題なのです。
493: 初心者 :2011/06/28(火) 17:28:56 神は完全なる世界と人間をおこしらえになり、 人間に自由な表現力をおあたえになった。
このあたりの説明がわたくしには腑に落ちぬのであります。 神は、絶対観念、あるいは純粋観念を表現するために 実相世界を創造されたわけでありますよね。
だとすれば、人間はただその絶対観念や純粋観念を鑑賞すればよいのであります。 それですべて「こと足れり」であります。 人間に自由なる意思をあたえることで、 いったい何が生まれるというのでしょう。 絶対観念や純粋観念を超える、何か新しい価値が生まれるというのでありましょうか。
神は人間をプログラムミスなさった。 それで人間に逃げられた。 こちらのほうが、わたくしとしてはよっぽど腑に落ちるのであります。 人間として生まれてこれてよかったと思えるのであります。
あたえられた自由ではなく、自分で勝ち取った自由。 それが本物の自由だという気がするのであります。
「あたえられた自由」というものが、はたして存在するのでありましょうか。 それは自由ではなく、たんに許可あるいは許容されたもの、 という気がしてならないのであります。
494: トキ :2011/06/28(火) 20:46:08 本筋とは少しずれますが、最近、感じる事を書いてみます。
宗教と科学というのは、どうも天敵のような感じで見られる事が多いです。昔は宗教が神様の名前の下で科学を弾圧し、 「それでも地球は回っている」と言ったとかいう話は有名です。反面、科学の暴走に宗教がストップをかけることができない 場面もあります。ノーベル賞の汚点と言われるノボトミー手術などもそうでしょう。 今日に目をやると、米国のような先進国でも、進化論を巡って論争が継続しているのは周知の事実です。科学と宗教との 緊張関係は、生長の家以外の世界では、容易には解けないような気がします。
個人的には、大学の物理学の授業で、「ビッグバン」仮説を知ってから、宇宙の発生前の世界に関心をもち、ここに宗教の 存在意義があるのではないか、という期待を持った事もありました。(ビッグバン仮説というのは、宇宙は137億年前に 大爆発の上で出来たという発想です。今日では「標準理論」として、認められています。)
が、生長の家の真理、特に実相論を学び、感じたのでは、過去の宗教の多くは「現象」というレベルでの解決に終始していた 事、そして、「現象」というレベルで話をする限り、永遠に科学と宗教は対立した存在であるという事です。もし、「実相」 という存在、それが信仰になって、初めて、科学と信仰は矛盾しない存在になるだろう、という事です。
まあ、そうすると、ビッグバンから素粒子がうまれ、原子が誕生し、宇宙が生まれ、現在も加速度的に発展しているように この世の森羅万象の法則は、「実相」が根本にあり、全ては「実相」を根底にして、有機的に連結をしておりまして、この点を知って 初めて理解できる、という発想もできるのかもしれません。(余談ですが、最近、米国で「タイムマシン」の理論的な構築は 終わっており、人類が「時間」を有る程度は左右できる日が来るかもしれません。時間すらも絶対の存在ではないという訳 ですね。)
ただ、私の様に、何十年も生長の家をしていると、生長の家という枠組みから離れた発想をするのが難しいとは思います。 ですから、あまり邪魔をしないほうが、皆様のためかと拝察する次第です。
でも、楽しく投稿は拝見しているので、これからも、活発な議論を期待しております。
まとまりの悪い文章を書いて、すみません。
合掌 ありがとうございます
495: 初心者 :2011/06/28(火) 22:22:29 トキ様は大学で物理学を習っておられたのですか。それならやはり、そちら方面のご関心も持っておられるのでありましょうね。
かつてのわたくしは科学万能論者でありましたが、生学連の練成で、ほかの仲間たちの情熱的な話を聞いているうちに、科学でわかることには限界がある、という思いをいとも簡単に持つようになりました。
その後は量子力学をかじるようになって、科学と宗教はそれほど離れてはいないという印象を持つようになり、「物質なし」の真理を実感できるようになったのも、じつは科学のお陰であったと考えております。
ところで、137億年前のビッグバンと聞くと、どうしてもあることについて書きたくなってしまう初心者なのであります。わたしたちが見ている宇宙とは、過去の宇宙を見ているわけでありますよね。100光年先には100年前の宇宙があり、100億光年のかなたには100億年前の宇宙が見えているわけであります。
するとどこまで見えるのかというと、137億光年先までであります。それより以前には宇宙は存在していなかったわけですから、見えるのは137億年過去の宇宙までであります。137億光年かたなの宇宙が、地球から見ることのできるいちばん遠くの宇宙ということであります。
するとここで、とてつもなく不可思議な事実と出くわすことになります。137億光年先には何があるのかといえば、それはビッグバン直後の宇宙であります。137億光年のかたなに見えるのは、まちがいなくビッグバン直後の宇宙なのであります。
ここでビッグバン直後の宇宙について考えてみます。ビッグバン直後の宇宙の大きさは、針の先よりもはるかに小さなひとつの点でしかなかったのであります。この小さな点が急激に膨張して、巨大な宇宙へと成長をとげたのであります。
この小さな、宇宙のはじまりの点が137億光年の先には見えるわけです。もちろん現実には、そのような遠くの小さな点は、どのように高性能な望遠鏡をもちいても見えるはずがありませんが、原理的には見えていることになるわけであります。
そこで問題となるのは、この小さな点はどこにあるのかということであります。地球から見て、いったいどの方向にこの小さな点は見えるのでありましょうか。驚くべきことに、この小さな点は、どの方向にも見えるのであります。137億光年かなたの宇宙には、どの方向にも、ビッグバン直後の宇宙が見えていなければならないのであります。
なぜ小さな点でしかないビッグバン直後の宇宙が、この広大な宇宙のあらゆる方向に見えてしまうのでありましょうか。1個しかなかったはずのビッグバン直後の宇宙が、なぜありとあらゆる方向に見えてしまうのでありましょうか。この摩訶不思議な現象が、パースペクティブとともに、この現象世界がかかえる「差延」の問題なのであります。
ここで「実相世界に差延はない」という、どこかで聞いたような話になってくるわけでありますが、あまりにも不可解な話でありますので、ボロが出るまえにやめることにいたします。
496: 初心者 :2011/06/29(水) 08:27:00 反応がございませんね。どうしたことでしょう。
わたくしの疑問は、おそらく教義の核心部分にふれるものだと思います。 「寂光モデル」も広義の意味では実相独在論であるかと存じます。 ブログ管理人様から昨日ご提示いただきました文献の「現象≠チてなんなのよ」 のなかで雅春先生は「神はその第一念によって実相世界を創造し給うた」と説いておられます。
これはあきらかに「寂光モデル」とは異なっております。 ですから、実相独在論と区別するために、「実相世界独在論」と呼ばせていただくことにいたします。 「実相世界独在論」の問題点は、絶対観念の問題が重くのしかかってくることと、人間中心の第二創造の意味が説明できないという2点にあると考えます。 この2点についての疑問を、昨日は提出したような次第であります。
この疑問にたいして何らかの返答をいただかなければ、話を先に進めることができません。 みなさま方はたしかに「直観」でわかっておられるは思いますが、 生長の家は「直観」だけの宗教ではございません。 理論的に教義を説明できる、おそらく世界で唯一の教団であるはずです。
絶対観念の問題をひと言でいえば、実相世界においてすでに神の純粋観念が表現されている状況において、表現の自由をあたえられた人間が、神の純粋観念以外のいったい何を表現すればよいのかという問題であります。表現すべきものがまだ何かほかに残っているのかという問題であります。
こうした問題について、この場でダイナミックな検討をおこないたいと考えております。 なんども申しますが、わたくしは外道でございます。 雅春先生のみ教えの神髄を知りたいがために、ここにまいっているのでございます。 何も反応がなければ、わたくしは、外道の身でありながら自分で考えなくてはならなくなります。
497: トキ :2011/06/29(水) 09:57:20 >>496
きっと、私が書き込みをしたため皆様が遠慮をされたのでしょう。どうも、申し訳ありません。
直接関係がない話をまた書きます。身内に法律を学んだ人がいます。で、法律の本を借りて読んでいました。 そうしたら、「部分社会」という概念があるのを知りました。
現在の日本国憲法には、第3章に国民の権利がずらずら書いております。 憲法14条では人間が平等であると書いております。第二十一条 では「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」 とあります。しかし、会社に行けば、社長は社員よりも威張っていますし、学校に行けば、授業中は黙っていなければいけません。 これは、憲法の人権保障という観点からは、不合理です。しかし、別の観点から、これを合理化できます。これを「部分社会の法理」と命名しております。 つまり、国家や社会を規律するのは法律だが、その社会の中に、特定の目的のために小社会の存在を許し、独自の規律を認めるべきだ、という発想が あります。そのほうが、いくつかの点で、好都合だ、というのです。これは、憲法や法律を無視するのではなく、憲法や法律自体が認める「例外」なのです。 それを認める事が、実は、憲法や法律が目指す目的に近寄ることになる、と考えているのです。
あと、知人がガンになり、亡くなる前にお見舞いをしました。生長の家の人ではなく、仕事でバリバリ活躍をした人ですが、その人が 「私が、寝ずに仕事を頑張っていた、と思っていたが、どうも、自分は、何かの力に動かされていたような気がします」
と述懐されていました。
余計な事を書いて、話の腰をおりました。あまり出て来ないようにしますから、皆様、どんどん、書き込んで下さい。
合掌 ありがとうございます
498: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/29(水) 10:48:33
>初心者さま
まずは貴殿の読解力に感謝を申し上げます。前々から感じていたことなん ですけど、いやー貴殿は実に素晴らしい方ですね。WEBのやり取りで一番 嫌なことって「主張を誤読されること」だと思うのです。そしてさらに、そ の「誤読を元に反論(?)」を寄越されて「この方は反論できませんでした」 なんてカタチに、議論を終了させられることだと思います。ホニャララ掲示 板に於ける一白鳩会員さん追放劇でも・・・(中略)・・・その点は貴殿と のやり取り、そのあたりの齟齬が発生しないので満足しています。まあもし も、貴殿が相手でなかったならば、あの「寂光論争」・・・第39巻該当箇 所の全文アップなんて、ヤル気も起きなかったと思いますよ(全部で27ペ ージ分、14,784文字ですたw)
いやさて、そんな挨拶はさて置きまして本日要件の本論に入ります。 貴殿ご提示の493ご文章ですが・・・「まさにその通り」であります。こ こが肝心とのご主張でありますが、愚生もここが「本議論の天王山でありま しょう。」(※)と、同意を表明する次第です。貴殿が今日まで投稿された ご文章――パースペクティヴ仮説や「寂光モデル」とその付随例を要約致し ますと、493ご文章の以下十二行抜粋を以って、その貴殿提示理由が明確 になろうかと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
神は完全なる世界と人間をおこしらえになり、 人間に自由な表現力をおあたえになった。
このあたりの説明がわたくしには腑に落ちぬのであります。 神は、絶対観念、あるいは純粋観念を表現するために 実相世界を創造されたわけでありますよね。 だとすれば、人間はただその絶対観念や純粋観念を鑑賞 すればよいのであります。 それですべて「こと足れり」であります。 人間に自由なる意思をあたえることで、 いったい何が生まれるというのでしょう。 絶対観念や純粋観念を超える、何か新しい価値が生まれると いうのでありましょうか。
―――――――――――――――――――――――――――――
上記がこの、初心者さまなる御仁のご主張内容となりましょう。そしてこ こから、我々は議論をスタートさせることと致しましょう。今までのやり取 りは前哨戦――正確に云うと違うが――であったのであり、旅順攻略前の南 山要塞であったわけであり、日本海海戦前の旅順港閉塞戦であった次第なの です(少なくとも愚生にはそう映ります) ――「神は完全なる世界と人間をおこしらえになり、人間に自由な表現力を おあたえになった。」と、雅春先生は申されます。そしてそれは、人間を神 の操り人形とせぬためだ、とも説明されておられます。しかしそれでは浅学 の(我が)身には「人間に自由なる意思をあたえることで、いったい何が生 まれるというのでしょう。」という疑問が、当然のごとく発生する次第です。
自説をお持ちの諸賢に於かれましては、本議論、ぜひご参加願いたいもの だと切望する次第であります。
<註> ※ ここが本議論の天王山でありましょう。
無論、結論に至っても、そこから派生してくる「なんらかの新たな疑問」 ・・・これは当然生じるでしょう。けれども、まあ愚生、自身の思索経験か ら申しても「この493ご文章が肝心な点である」と確信する次第です。
499: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/06/29(水) 10:51:06
>初心者さま
追伸
昨日、私は「無神論者+唯物論者として議論に参戦する」と宣言しました ね?ハンドルネームを「大前研一に訊け」として書き込みを行おうと思って いたのですが、これ、この「大前研一に訊け」に書かせようと思っていた主 張は、貴殿493ご文章とほぼ同意のものでありました(笑)「いやー、先 を越されたか」てな次第で、貴殿の読解力に舌を巻いております(笑)
以下参考までに、この「大前研一に訊け」の主張――唯物論+無神論者時 代の私の日記からの抜粋を記します。ちなみに以下日記は、2006年11 月23日のものであり、「信仰歴4ヶ月と20日時点のものである」ことを 付記しておきます。「ああオレ、確かにこんなこと考えていた(笑)」てな 懐かしさ一杯でありますが(笑)
―――――――――――――――――――――――― (雅春先生の御教えを「素晴らしいものだ」と絶賛したあとの文章)
・・・ただしかし疑問がないわけではない。その疑問とは、「完全であるは ずの神は、なぜ現象界を造り損なったのか?」というものだ。 X氏に疑問をぶつけたのだが同氏曰く「いや、完全に造ったら、人間に自由 意志がなくなるよね?」とのことだった。しかしオレの疑問は「いや、完 全でなくなろうとも≠サっちのほうが良いですよね」というものになる。だ って「實相は完全」なわけでしょ?實相は完全なんだから、自由意志なんて、 神から貰いたくないもんだよ(笑)そんな「自由意志」なんてものを神が与 えたゆえに、人間は不完全な現象を生きねばならぬわけでしょ?だったらそ んな「自由意志」なんて、オレは欲しくないな。操り人形であれ、實相その ままの世界を生きてみたいものだ。
なんかオレ、宗教関係者から騙されてはいないか。谷口雅春がオレを騙して いるとは考えにくいけれども、それでも突き詰めていけば谷口雅春理論にも、 大きな穴があるんじゃないか?そして大半の信者は妄信により「谷口雅春は 素晴らしい」と思い込まされているだけじゃないのか?
――――――――――――――――――――――――
「信仰は理屈ではありませんよ」なのかもしれませんが、思想傾向(1)(2) の層から見れば「そのご主張、『信仰は理屈ではありませんよ』こそ屁理屈 ですよね」と返されるのがオチでありまして(笑)我が国は思想傾向(1)〜 (4)が大半なのでありまして、そしてそれぞれの層に向けての対機説法を 明確にすることは、これ、雅宣総裁を撃つこと以上に大切なことであろうと 思います。そしてやはり、教勢拡大に於ける対機説法では、理屈は大切であ りましょうし、また雅春先生が素晴らしいのは「その理屈で以って真理を説 かれた点」これになるのでありますから(戦前は博士クラスが帰依したわけ でしょ?やはりすごい教えですよw)
・・・ですんでもう、本流宣言掲示板の方々、諸賢の皆さんにもこのテー マ「参戦義務がおあり」ですぞ。森の中にオフィスが建とうが建つまいが、 そんなこと・・・(中略)・・・ちなみにこれ、挑発にあらずですぞ(笑)
500: 名無しさん :2011/06/29(水) 12:28:58 ブログ管理人様へ
わたくしの申したいことを、ここまで印象深く饒舌に語られるとは、感心をとおりこして、いやはや、あきれはてるばかりでございます(しかも、わたくしの「大文献学者」発言にたいする反撃までなされるとは、畏れ入るばかりであります)。
とりあえず、絶対観念なるものについて、自己流の解説をいたします。「美人のたとえ」が出ておりますので、これに関連してご説明いたします。
ひとりの女性がいます。この女性は、自分の姿をいちども見たことがありません。美人と称される人物も、不美人といわれる人物も見たことがございません。さらには、「美人」という言葉さえ知らず、美人について語られる言葉を聞いたこともありません。しかしこの女性は、自分が美人であることを知り、しかもそれを表現できるのであります。
なぜこのようなことが可能かといえば、この女性が直観知性を持ち、この直観知性をもちいて「美人の絶対観念」にアクセスし、その絶対観念と女性自身とが一致していることを確認し、さらには直観知性をもちいてそれを表現しえたからであります。
神であれば、これくらいのことはできるかもしれません。直観知性を駆使して、あらゆる絶対観念にアクセスし、神ご自身との一致を確認なさったあとに、あらゆる絶対観念にもとづいた完全無欠なる実相世界を、神は創造なさる。このようなことは、神であれば可能であるということになるのかもしれません。
しかし問題はこのあとなのです。この問題について、ブログ管理人様から簡潔に語っていただきました。まさしくこれは、外道が仏道に帰依できるかどうかの天王山であるような気がいたします。
巷ではいろいろと批判されておるのでありましょうか。「部分社会」でございますね。
501: 名無しさん :2011/06/29(水) 15:20:02 気づいたことがあるので、簡単にメモします。
真善美は絶対観念。 知情意は、はたしていかに。
知情意は観念にあらず?
知の働き。 思考、集中、記憶、判断・・・。 知性は、意識の明るい部分にあり、かなりのところまでコントロールが可能。
情の働き。 憎しみ、嫌悪、愛着、嫉妬・・・。 感情は、意識のいくらか暗いところにあり、コントロールは難しい。
意志の働き。 意志は、意識のまったく暗い部分あり、その所在さえ知ることはできない。
これはなぜなのでありましょう。
神は知性を創造できた。ゆえに知性はコントロール可能。 他力本願も可能(神のめぐみ)。
神は感情を半分しか創造できなかった。 ゆえに、神によって創造された知性では、感情のコントロールは難しい。
神は意志を創造できなかった。 よって、すべては人間の力にゆだねられている(努力)。
人間には感情を表現する余地がある? 何物にもしばられない、意志する自由がある?
結論:人間は、意志と感情の働きによって現象世界を欲した?
悟りとは現象世界に没頭すること(飯を食ったら茶碗を洗え)?
いちおうメモしておきます。
502: 名無しさん :2011/06/29(水) 19:29:51 かの文豪ゲーテは、感情の世界にひたすら留まりつづけ、理念の世界に進もうとはけっしてしなかったそうです。ゲーテにとって、感情や感性の世界は、理念や観念の世界とはくらべものにならぬくらいに重要であったようです。
理念や観念の世界にはけっして振り向こうとせず、感情や感性の世界にひたすら留まりつづけようとする態度は「ゲーテ的態度」と称されるようで、同時代のドイツ観念論の哲学者からも高く評価されていたようであります。
完全な知性というものはあるにしても、完全な感情というものは、おそらくはないと考えます。完全な生物は感情を持たぬはずです。なぜなら、感情とは不完全であるがゆえに感情なのであり、完全であれば、それは論理的思考となってしまうことでありましょう。
してみると、感情とは、神の失敗作なのでありましょうか。それとも苦心の作なのでありましょうか。それは神のみぞ知るといったところでありましようが、いずれにしても人間は感情を持ってしまったようであります。
情緒、情念、情感によってつむがれる世界は、おそらく実相世界には存在せぬはずです。実相世界とは、完全なる観念と理念とによって織りなされた世界ということでありましょう。感情的世界を生きることのできる人間は、いまだ神が表現せざる世界を生きている。このように考えることも、けっして不可能というわけではありますまい。
ゲーテはこのことに気づいていたのかもしれません。であるがゆえに、理念や観念への傾斜を避け、感情的世界にひたすら留まりつづけようとしたのではないでしょうか。神の絶対観念がすでに表現されてしまった実相世界において、人間のはたすべき役割があるとすれば、それは感情的世界の表現ということであるのかもしれません。
わたくし、いつもは「知性、知性」と何かのひとつ覚えのように言っておりますが、じつは、感情を知性の上位に置いているのであります。神秘学の説くところによれば、知性はエーテル体に属するものであり、感情はアストラル体に属するものということになっております。
エーテル体は肉体の消滅とともに消え去ります。たとえどれほど高き知性を宿し、豊富なる知識を得ていようとも、それらのものは、肉体の死とともに無に帰します。アストラル体は、肉体の死後も存続いたします。情感豊かに生きることができれば、その体験は来世へと引き継がれます。寒々とした感情で生きた人は、それがそのまま来世の感情となるのかもしれません。
ことに恐ろしいのは、「死ねばすべてが終わりで何もない」と思いながら生きた人の来世は、その思いが実現して、虚しく虚無的な人生になるとも言われております。たとえどのような知識を持とうとも、来世に引き継がれるのは、せいぜいのところが、肉体的な特徴として、その幾ばくかが反映されるといった程度でありますが、感情や思いはこのように、来世に決定的な影響をあたえることになると言われているのであります。
知的に思考された観念や理念は、来世にほとんどいってよいほどに何も残しません。どのような感情で生きたかということが、来世にも残る足跡としてきざまれるようです。ことほどさように、観念や理念よりも、感情や感性のほうが、霊的にはよほど重要であります。このことが、今ここで問題となっていることがらと深く関係しているように思われてなりません。
505: 初心者 :2011/06/30(木) 10:44:40 これほど重要な局面で反応がないというのは、意外であるとともに、残念で仕方がありません。
ここで何がなされているのかといえば、「五官で認知可能なコトバと事象」によって真理の全体を語ろうということです。わたくし、あるいはわたくしたちは、ときに「反・生長の家」的ともいえる言説を弄しながら、「実相モデル」と「寂光モデル」をつなぐことのできる思考の枠組みを、たとえそれがいかに稚拙な方法であろうとも、抽象的な言説へと流れることなく構築してきたつもりであります。
現段階で問題となっているのは、対抗するモデルが提示されていないということであります。比較対照すべきモデルが提示されていないために、これまで築いてきた、あるいはこれから築こうとしている思考の枠組みの正当性を確認できないでいるということなのであります。
生長の家の正統派モデルが必要であります。正統派モデルの全体像を「五官認知可能なコトバと事象」で語っていただくことが、今は必要なのであります。生長の家の正統派を任じてられるみなさま方にお願いいたします。真理の全体を今すぐ語ってくださいませ。
部分を語るだけであれば、いくらでもごまかしがききます。全体を具体的な言葉で語ろうとすれば、ごまかしはききません。どうかごまかしのない真理をお聞かせください。
506: トキ :2011/06/30(木) 11:26:37 今、時間がないので、短めの文章になりますが、お許し下さい。
生長の家の正当派の主張では、縦に「人間=神の子」の唯神実相論、横に「三界は唯心の所現なり」の心の法則が説かれています。 一見、相矛盾する考えですが、この説明を「五官認知可能なコトバと事象」で語ると、こういう発想が可能かと思います。
以前、部分社会という発想を提示しましたが、この人間界で生活をしている我々には、憲法に相当する「唯神実相論」が適用される と共に、部分社会の規律に相当する「心の法則」も適用されます。高校生の正当手帳に「校則」が印刷してあり、学校生活では、 法律よりも「校則」が優先して適用されるように、ある範囲では、横の真理=心の法則が優先して適用されます。 しかし、例えば、部分社会の規律が、あきらかに上位規範の憲法や法律の認める範囲を超えると、その部分社会の規律は無効となります。 生長の家が、心の法則を説きながらも、唯神実相論を追求するのは、それが上位規範であるという認識をもっているためかと思います。
ところで、生長の家の考えでは、「霊界」も「現象の世界」であると言います。 ですから、肉体の有無を別にして、人間界で通用する事は、だいたい霊界でも通用します。つまり、人間界も霊界も「部分社会」である のは同じであり、規律の内容は少し違いますが、似ている、と説明ができると思います。
また、投稿します。
合掌 ありがとうございます
508: トキ :2011/06/30(木) 13:37:20 あと、ビッグバン仮説を前提とするのなら、宇宙は137億年前に誕生した事になっています。ご存知の通り、地球の膨張は観測されており、ドップラー効果から計算すると、これはかなり確立の高い仮説だとされています。すると、137億年前には、この「現象世界」は存在しなかった可能性が有る訳です。可能性がある、と言ったのは、人間界とか物質界という観点に限定されたら、断言は出来ます。が、生長の家では、霊界も現象界だと規定します。 霊界まで広げると、ビッグバン以前には存在しなかった、と言い切るだけの材料を私は持っていませんからです。しかし、おそらくは、存在しなかったと言えるのではないかと考えています。
137億年というのは、たかだか100年も生きられない人間を基準とすると、気が遠くなるような長い時間です。しかし、神様の目から見たら、たかだが137億年という発想が可能だと思います。ひょっとしたら、ビッグバンは過去、何度も存在した可能性があるのかもしれません。とにかく、何故、ビッグバンが起こり、宇宙が誕生したのか、という質問への返答は困難ですが、神の意思という説明は可能だと思います。その意思を持った存在を 生長の家の観点からは、第1義の神様と呼べると思います。その後、現象世界の想像と発展により、その中で、一見、独立したようかに見える意思が生まれ、それが生長の家でいう第2義、第3義の神様という事になったような気がします。さて、正当派の生長の家からは、どう説明をしたら良いかは難しいですが、もう少し、ましな説明の方法があるかもしれません。また、その時は、投稿をします。
509: 初心者 :2011/06/30(木) 14:28:23 トキ様、ありがとうございます。
トキ様を相手に持論をぶつというのはあまり本意ではありませぬが、とりあえずここで「全体」ということについて語らせていただきます。「寂光モデル」では、「三界は唯心の所現」は、部分ではなく全体に組み込まれるのであります。
アーノルド・ミンデルという心理学者がおります。教文社からも何冊か書籍が出版されておりますので、ご存じの方もおられると思います。ミンデルは、MIT(マサチューセッツ工科大学)で修士課程まで量子物理学を専攻し、その後、ユング派の心理学者に転向した、きわめて変り種の心理学者であります。
ミンデルは、宇宙には自己反射的な傾向があると主張します。そうした傾向は、量子波動関数の数式のなかに見いだせるともいっております(このことにかんして、わたくしは関知しておりません)。ミンデルによれば、宇宙の自己反射的傾向は、物理学的な法則でもあるようです。
宇宙の自己反射的傾向が人間をとおしてあらわれたのが「三界は唯心の所現」の法則であります。この法則により、人間は、自分自身を他者、あるいは他物に反射させて見ているということになります。
ここで重要であるのは、こうした傾向は宇宙的法則であるということであります。宇宙がなぜこうした傾向を持つにいたったのか。答えは、神が神ご自身を見るためであります。神が神ご自身をご覧になるために、自分が自分自身を反射するという仕組みをおこしらえになったと、このように考えることが可能となります(「他者」や「他物」に見えているものが、じつは自分自身だったということになってまいります)。
このあたりのことを考えますなら、「三界は唯心の所現」の法則は、横の真理といいますよりも、神にとって最重要の法則ということになってまいります。神は、神ご自身をお知りになるためにこの世界をおつくりになった。これが「寂光モデル」の核心にある考え方であるからです。
この意味で、「三界は唯心の所現」の法則は、宇宙の存在理由そのものであり、したがって、部分ではなく全体に組み込まれるべき事象となるのであります。「寂光モデル」では、「三界は唯心の所現」は、物理的法則としての説明も可能であり、全体と部分とにわけるでもなく、全体のなかの一本の流れとして説明できるのであります。
「三界は唯心の所現」の法則にかんしますなら、これを縦と横とに分離せざるを得ない「実相モデル」よりも、全体のなかに組み込むことができる「寂光モデル」に優位性があると考えます。「三界は唯心の所現」とは、言葉をかえていいますなら、「自分で自分を見る」という、宇宙の大真理ということになるのです。
わたくしは、「自分で自分を見る」ということが宇宙の大真理であると考えております。「三界は唯心の所現」の法則は、この意味において、わたくしが「寂光モデル」を支持する有力な根拠となっております。アーノルド・ミンデルは、わたくしが「寂光モデル」を支持するにあたっての切り札的存在であります。
「正統派」といわずに、「○流」というべきであったような気がいたします。「○流」は出てきそうもありませんので、「正統派」の方々とは和気あいあいと語りあってゆきたいものであります。
510: 初心者 :2011/06/30(木) 18:51:57 これは「○流」にたいするひとり言です。
教義の根幹にかかわる疑問が提出されたにもかかわらず、 誰ひとりとして答えるものなし。
あいもかわらず、おなじような批判ばかりをつづけて、 教義の危機には無頓着。
「直観」だけなら、あたしは18年前に悟りをひらいて、 それからずっとハッピーに生きてます。
「直観」といっておれば、そりゃ楽だわね。 説明責任からは逃れられるもんね。
何を訊かれても「直観ゆえに言葉にはできない」と いっておればいいもんね。
教義の危機がおとずれても「直観」はゆるがない。 説明できないのは、それが「直観」ゆえだから。
ちゃんと言葉で説明してよ。 でなきゃ、生長の家は終わっちゃうよ。
511: 初心者 :2011/06/30(木) 20:01:28 正直いって、 あたしは谷口哲学が理解できない。 理解したくとも、理解不能なのだ。 悟りはとりあえずひらいてみた。 宇宙の神秘を味わえるようにもなった。 死の恐怖も克服した。 やりたいことはすべてやった。 もう何も思い残すことはない。 そう思って生きてきたが、 肝心の谷口哲学が理解できないままなのだ。
正直いって、 谷口哲学への嫌悪感がある。 どう考えても間違いなのだ。 神の第一念による実相世界の創造は じっさい不可能なのだ。 神が第一念を発する前に何がおきたのだ。 神はなぜ第一念を発したのだ。 発しなければならないような 何か特別な出来事があったのか。 第二念ではなぜだめなのだ。 第二念の創造なら可能であるはずなのに。
正直いって、 谷口哲学を理解したい。 これだけ大勢の人々を救ってきた 谷口哲学を理解したい。 あたしの悟りが救ったのはあたしだけだった。 あたしはあたしの真理によって救われた。 でも、救えたのはあたしだけだった。 ほかの誰ひとりとして救えはしなかった。 あたしが味わえたのは、 あたしひとりが救われた喜びだった。 それは誰とも共有できない喜びだった。
正直いって、 あたしは谷口哲学が嫌いだ。 間違っているのに大勢の人を救った。 だから嫌いなのだ。 間違ってないとわかれば きっと好きになれるだろう。 神はなぜ第一念を発したのだ。 第一念の前に何があったのだ。 誰も本当のことを教えてくれない。 誰も何も語ってくれない。 きっと誰もそのことは知らないのだ。
512: トキ :2011/07/01(金) 10:40:43 >>511
先は長いですから、じっくりと腰をすえて勉強すればいいと思います。 私も勉強中です。がんばりましょう。
合掌 ありがとうございます
513: 初心者 :2011/07/01(金) 13:18:56 わたくしは、正直なところ、多くのことで失望しております。昨日は、失望のあまりキレかかりました。なかばキレたといってもいいでしょう。現職員、妻様だけではありませぬ。わたくしも、ここで無様な姿をさらすことにいたします。この期におよんで、「いい子ぶりっこ」にいかなる意味もないことははっきりとしておりますから。
言いたいことは山ほどあります。ここに集まってらっしゃるみなさま方の反応はいっさい気にせずに書かせていただくことにいたします。何を失望しているのか。それは、ひとつやふたつではございません。
本流掲示板。あそこは社会の縮図のような場所であります。人と人とのコミュニケーションとは何なのか。これを見事に説明できる場所なのであります。まず最初にいっておくべきことは、あそこに集まっておられる方々は、教義を理解できておりません。理解できていないがゆえに、足らざるところを精神的高揚にておぎなおうとしているのでございます。
あそこの掲示板に見られるのは、真理ではなく精神的高揚です。勇ましい言葉を吐き、現教団にたいする優越性を誇示することで、みずからの精神を高揚させているだけなのであります。
さてここで、わたくしは重要なことがらについて申し上げます。ひとつの真理について語ります。ここ最近のわたくしの発言は、おそらくみなさま方にとりましては、そうとうに異様な発言として感じられておることでありましょう。おそらくそうだろうという気がいたします。
ではなぜこれが異様に感じられるのかというと、これにたいする明確な答えをお持ちの方はおられないだろうと考えます。わたくしの発言がもしも異様に感じられているとするなら、なぜそれが異様であるのか。これを明確に説明できる方が、はたしておられるでありましょうか。
この異様さこそが、人と人とのコミュニケーションの本質をあらわしています。コミュニケーションとは、虚しき言葉と言葉のやりとりなのでございます。
虚しき言葉とは、はじめから拒絶されることがわかっていながら語られる言葉であります。「総裁よ、しりぞけ」の言葉にしても、森のオフイスの批判にしても、はじめから拒絶されるのがわかっている申し出であります。こうした申し出を延々とくり返しているのが本流掲示板なのであります。
ここでコミュニケーションの正体があきらかとなります。コミュニケーションは「やりとりそれ自体を目的としておこなわれる」ということでございます。コミュニケーションとは、それによって具体的な何かを実現しようというのではなく、やりとりを続けることそれ自体を目的におこなわれるのがコミュニケーションなのでございます。
人と人とのコミュニケーションとは、はじめから拒絶されるのがわかっている言葉と言葉の応酬なのでございます。人に贈り物をするとき、日本人は「つまらないものですが」といいながら手渡します。当然のことに、この「つまらないものですが」の言葉は相手によって拒絶されます。もらった相手は、包装紙のなかにつまらないものが入っているとはけっして思っていません。
「つまらないものですが」は、はじめから拒絶されるのがわかっている言葉なのです。こうした虚しき言葉の応酬で、実質的に社会が成り立っているということがいえるのであります。
ここで言葉に真実なる意味をつめこもうとする人物があらわれたとします。この人物とは、拒絶されることを拒否する人物です。言葉に実質的な意味をつめこみ、拒絶されないことを前提に、他者に語りかける人物です。
こうした人物の発言は、はじめから拒絶されることがわかっている申し出のやりとりによって成り立っている通常のコミュニケーションに慣れ親しんでいる人々には、きわめて異様な発言として映ります。
拒絶されることを前提に語られた言葉は人々によって受け入れられますが、拒絶されないことを前提に語られた言葉は、逆に人々によって拒絶されてしまうのです。こうした出来事が、通常のコミュニケーションのなかでしばしばおきているのであります。
本流掲示板で語られているのは、はじめから拒絶されるのがわかっている申し出ばがりであります。この虚しき応酬によってあの掲示板は成り立っております。拒絶されないことを前提に言葉を語るものは、やがて追放されてしまいます。これが、やりとりそれ自体を目的とする本流掲示板の正体なのであります。
ところでわたくしは、当掲示板において、拒絶されないことを前提にした言葉を語ってしまいました。むろんそれは、異様な発言として拒絶されたことと存じます。しょせんコミュニケーションとはこういうものなのです。コミュニケーションの虚しさをしみじみと実感しております。
514: 初心者 :2011/07/01(金) 20:48:24 きのうのつづきを書きます。
正直なところ、わたくしは、「実相世界」という言葉を聞くと、少なからぬ嫌悪の情をいだくことになります。嫌悪の情は、避けがたく出てまいります。
実相世界の存在が、嫌悪の情をいだかざるをえないほどリアルに感じられる、というわけではございません。これは記憶なのです。それはおそらくわたくしが、過去に実相世界に住んでいたことがあるという、その記憶より発せられる嫌悪感なのでございます。わたくしはたしかに、実相世界より逃げて、ここにまいったのでございます。
それは根源的な記憶。もしかしたらそうなのかもしれません。何が正しいといえるものではありませぬが、嫌悪の情は、たしかな記憶であるといえるものなのかもしれません。
ある人の説明によれば、実相世界は、風景にしても、音楽にしても、住む人々にしても、何もかもが完璧で素晴らしいものであるそうです。ですが、完璧であるために変化がない世界なのだそうです。
変化するものは無常です。無常とは、形がつねに変化して定まることがないということであります。完璧なる世界に無常はありません。無常でないがゆえに変化もないということになるのです。
変化がないということは、おなじパターンが永久にくり返されるということです。実相の世界では、おなじパターンが、空間的にも時間的にも、永遠にくりかえされていると、このように言っている人がいました。
この人は、実相世界に行って、じっさいにそこにあるものを見てきた人のようです(たしかに実相世界はあります!)。この人は、実相世界を見て、自分がかつてこの世界に住んでいたことがあり、そのあまりの退屈さに耐え切れずに逃げたしたことを思い出したそうです。
思い出したということは、記憶がどこかにあったということです。おなじ記憶がわたくしのなかにあったとしても不思議ではありません。おそらくわたくしは、こうした記憶に基づいて、実相世界にたいして、嫌悪の情を避けがたくいだいてしまうようなのであります。
それとわたくしは、神の第一念による実相世界の創造はありえないとして、生長の家の教義である「実相モデル」を否定しているわけでありますが、この点に関しましては、トキ様よりひとつのご回答をいただきました。
ビッグバン以前にも世界は存在した。これがトキ様よりの回答です。ビッグバン以前の世界を想定しますならば、この世界における神の第一念による実相世界の創造は可能となります。ただしこの場合、ビッグバン以前の世界がどのようにしてつくられたのか、という問題が依然として残ります。
そこまで深く考える必要はない。いちおうそういうことにしておきます。実相世界はすでにある。それはたしかなことのようですから、この問題には、これ以上は深くかかわらないことにいたします。さてでは、わたくしはこれから、実相世界とどのように向き合うべきなのでありましょうか。
現象世界がそれほど住みよい世界でないのはたしかであります。実相世界とくらべて、はたしてどれほどマシな世界であるのか、それはわかりません。さりとて、実相世界にもどろうという積極的な気持ちがおこるわけでもありませぬ。
自分のまわりに、泥に咲く蓮のごときプチ実相世界をつくってみるのも悪くはないかもしれませぬ。無常のなかに実相のあらわれを見て楽しむ。実相のなかにドップリとつかるというのではなく、そういうちょっとした幸せを味わうというのが、わたくしには向いておるようでございます。
515: トキ :2011/07/01(金) 21:13:36
初心者様と同じような考えは、立花隆さんの「臨死体験」の中に出てきます。 子供の頃、臨死体験をしたアメリカの科学者が、学者になってから、擬似的な臨死体験ができる装置を作り、自分が実験材料になったそうです。すると、 子供の頃に会った天使が出て来て、この世界は実在ではなく、顕れである事等 生長の家で説く事と同じような事を話しだしたのです。で、その動機は、神が 実相世界の退屈さに飽きた、という説明をしているのです。(笑) ですから 初心者様だけの考えという訳ではないと考えています。
ところで、人間は死んでも、霊界に行きますが、そこも「現象世界」であるのは同じです。ただ、肉体がない分、「実相世界」の存在を実感する事は、可能かもしれません。そこで、ある人が、過去に「実相世界」を経験したとしたら、霊界でもハイレベルの状態である、神界におられたとか、ある 状況により、実相世界を実感する経験が出来たと思います。しかし、実相世界 自体は、この現象世界を生み出すパワーの源でもありますから、少し範疇が違うような気がします。
そのような霊界の記憶は、今生に生まれる時に、一度、リセットされますが しかし、潜在意識に残っていると言われています。ですから、初心者様が紹介した方は、実相世界と類似の状態におられたのではないか、と拝察する次第です。
初心者様が、そのような意識を持つに至ったのは、何か、前世か霊界で独自の 経験をされた事が背景にあると思います。すると、これとどう向き合うかは、 人間がはしから言うのは難しいでしょう。可能性があるとしたら、「行」しか ないかもしれません。
以上、勝手な事を書き並べて、すみませんでした。
合掌 ありがとうございます
516: 役行者 :2011/07/02(土) 06:24:57
>雅春先生に訊け管理人様 >>491 いやあ、見事に順序まで付けていただいて・・・感謝です。 魂の底に真理の言葉が深く流れ入り、実相に包まれているいい気持ちに なりました。ありがとうございました。
それから、
>我が国は思想傾向(1)〜(4)が大半なのでありまして、 そしてそれぞれの層に向けての対機説法を明確にすることは、 これ、雅宣総裁を撃つこと以上に大切なことであろうと思います。 そしてやはり、教勢拡大に於ける対機説法では、 理屈は大切でありましょうし、また雅春先生が素晴らしいのは 「その理屈で以って真理を説かれた点」これになるのでありますから (戦前は博士クラスが帰依したわけでしょ?やはりすごい教えですよw)
同感であります。このように、生長の家も進化向上することによって、 より人々に救いの手を差し伸べることができるようになると存じます。 素晴らしい提案だと思います。訊け管理人様。やりましょうぞ!!
>初心者様 やあ、しばらく見ないうちに、書いていますね〜(笑)
まず、 >ある人の説明によれば、実相世界は、風景にしても、音楽にしても、 住む人々にしても、何もかもが完璧で素晴らしいものであるそうです。 ですが、完璧であるために変化がない世界なのだそうです。
変化するものは無常です。無常とは、形がつねに変化して定まることが ないということであります。完璧なる世界に無常はありません。 無常でないがゆえに変化もないということになるのです。
これなのですが、前にも述べたのですが、実相世界が存在するなら、 そこは無限生長の世界だと思うのです。つまり、矛盾は存在しないのですが、 弁証法的に進化向上していく世界と存じます。 つまり、歓喜に満ちあふれた世界が展開されているのが、 実相世界かと存じます。どうですかね〜実相世界とはどんな世界なのか? 訊け管理人様にもお伺いしたいです。
517: 役行者 :2011/07/02(土) 06:30:43 続きです!!
>初心者様
>確かに、いまは寂光世界と存じます。いや、地球創成のころ(ビックバン) から、寂光は宇宙に内包されていたと思います。 でないと、人間を中心とした神の第二創造に理由が付かないのです。
と私が述べたとき、
>わたくしも、役行者様と同意見です。実相世界がすでに完成していると すれば、神の意志としての第二創造の説明がつきません。
ただこのことにかんしましても、「反・生長の家」的ともいえる持論が あります。
神が神ご自身を表現なさるために実相世界をおこしらえになったとすれば、 つづいて、鑑賞者としての人間をおこしらえになったと考えられます。 神は、「わが創造せしすばらしき世界を讃嘆せよ」と、このように人間に 命じられたことでありましょう。すかさず人間たちは、 「さすがに神がつくられた世界だ。どこまでも完璧でスキがない」と、 口々に讃嘆しあいました。しかしそのうち物足りない気分におそわれること になります。実相世界では、9回裏ツーアウトからの大逆転もなければ、 役行者様のお好きな花金もなかったのです。
人間たちは、「こんな退屈な世界はもういやだ」と考えるようになりました。 やがて念のレンズをこしらえ、それをゆがませることで、実相世界を、 パースペクティブの効いた不完全な世界として見るようになったのです。
との説を初心者様は、繰り広げられたのですが、パースペクティブの効いた 不完全な世界を人間が果たしてこしらえることができましょうか?
そして、トキ様が、 >ビッグバンから素粒子がうまれ、原子が誕生し、宇宙が生まれ、 現在も加速度的に発展しているように、この世の森羅万象の法則は、 「実相」が根本にあり、全ては「実相」を根底にして、有機的に連結をして おりまして、この点を知って初めて理解できる、という発想もできるのかも しれません。
と述べられ、ビックバンからの宇宙創生には、実相のエネルギーが意志として 働いていると思いました。
そうすると、
>なぜ小さな点でしかないビッグバン直後の宇宙が、この広大な宇宙のあらゆる 方向に見えてしまうのでありましょうか。 1個しかなかったはずのビッグバン直後の宇宙が、なぜありとあらゆる方向に 見えてしまうのでありましょうか。この摩訶不思議な現象が、 パースペクティブとともに、この現象世界がかかえる「差延」の問題 なのであります。
ここで「実相世界に差延はない」という、どこかで聞いたような話になって くるわけでありますが、あまりにも不可解な話でありますので、 ボロが出るまえにやめることにいたします。
つまり、ビックバンのとき、パースペクティブとともに三次元空間が 生まれてしまった。そこに、すでに矛盾の芽があったのです。 なぜ、ビックバンが生じたのか・・・大切な問題です。
>ビッグバン以前にも世界は存在した。これがトキ様よりの回答です。 ビッグバン以前の世界を想定しますならば、この世界における神の第一念 による実相世界の創造は可能となります。ただしこの場合、 ビッグバン以前の世界がどのようにしてつくられたのか、 という問題が依然として残ります。
まあ、そのとおりだと思います。イエスが、この世のはじまる前からの ことを説きましょう。と述べられておりますが、この実相世界のこと なのでしょう。
果たして、神の第一創造から第二創造の境界に、何があったのか? 人間の知性で、理解し得るものなのでしょうか?
また、これからパソコンを使える環境でなくなるんで、ご了承のほど!!
518: 初心者 :2011/07/02(土) 11:59:45 トキ様、ありがとうございます。
「嫌悪感」につきましては、あくまでも推測でありまして、さしたる根拠があるわけではありません。ただはっきりしておりますのは、そうとうに強固な嫌悪感がある、ということでありまして、これにはやはり、それなりの理由があるのはたしかなようであります。
その理由が何なのかを明確に語ることはできません。ただこれもはっきりといえるのは、それが、実相世界の存在を否定しようという方向の嫌悪感ではないということであります。存在することにたいする嫌悪感。こういうものだろうと思います。
わたくしが紹介した人物というのは、ロバート・モンローです。教文社からも本が出てます。ロバート・モンローは、体外離脱を可能にするヘミシンクと呼ばれる音響装置を開発した実業家です。モンローは、この装置を使い、「環体」や「インターステート」とモンローが名づけた霊的世界の探索をつづけます。
そうした探索のなかで、インスペックと呼ばれる高次の存在と出会い、その導きによって「魂のふるさと」と呼ぶべき場所に案内されます。そこでの体験を、「じつに素晴らしく退屈であった」といったふうにモンローは記していました。
わたくしもじっさいにヘミシンク音が録音されているCDを購入して聞いて見ました。18枚組でありましたが、まだ数枚を聞いた程度で、長いこと聞いておりません。じつはわたくしは、自分が気づかぬうちに、自然と体外離脱してしまうところがあって、そのために、ひと様に多大な迷惑をかけてしまったようなのです(あまりの出来事に、寝込んでしまった人もいるようです)。
体外離脱したあと、覚醒した意識でいられるのは1分程度です。あとは夢の世界で、それでも、高速での移動や降下といった身体的な感覚だけは維持できています。このような事情により、離脱後の行動をコントロールする必要性を感じたものですから、ヘミシンクCDを購入して聞いて見たという次第です。
結論からいうと、なんらかの効果はあったように思います。聞きはじめてすぐに身体的にかなり大きな変化がありました。その後は、体外離脱を禁止する物理的な手段を見いだすことができましたので、ここ3年以上、体外離脱はしておりません。
このようなことから、わたくしももしかしたら、ロバート・モンローとおなじように、何らかの方法によって実相世界か、あるいはそれにいくらか近い世界を体験した可能性がないとはいえません。それが今の嫌悪感となってあらわれているのかも、とは思います。
あらぬことを書いてしまいましたが、これも体験ではありますので、紹介いたしましたる次第であります。
519: 初心者 :2011/07/02(土) 12:15:09 役行者様へ
最近、なぜかブログ管理人様がお出ましになられません。わたくし、何か失礼なことでも申し上げてしまったのでしょうか?天照大神の天岩戸隠れにも似たさみしさが感じられてなりません。
>との説を初心者様は、繰り広げられたのですが、パースペクティブの効いた 不完全な世界を人間が果たしてこしらえることができましょうか?
さすがに役行者様であります。現時点では、これが最優先に考えるべきテーマであろうかと存じます。これについては、やはり諸説紛々ということでありましょうが、実相世界において神の絶対観念がすでに表現されてしまった状況において、それにつづく第二創造の意義を見いだすとすれば、人間がパースペクティブの効いた世界をつくりだすということが、神の計画の一部であったと考えるのが適当ではないかと考えます。
つまり、神は最初からそうした能力を人間にあたえていた、ということです。ただし、ロバート・モンローの体験した「魂のふるさと」はパースペクティブが効いた世界であったようであります。このあたりはまだ一考の余地があると考えます。
>これなのですが、前にも述べたのですが、実相世界が存在するなら、 そこは無限生長の世界だと思うのです。つまり、矛盾は存在しないのですが、 弁証法的に進化向上していく世界と存じます。
そうなのですね。わたくしは、役行者様がこれを書かれたとき、「おや!」と思いました。実相世界は、はたして弁証法的発展の場なのか、と思いました。生長するということは、変化するということです。だとすれば、実相世界はまだ完成されていない。いまだ神の絶対観念や純粋観念の一部が表現されただけで、すべてが表現されたわけではない。つまりは、実相世界においても実相の流入はつづいているのだろうかと、このようなことを考えるにいたったような次第であります。
雅春先生は、実相世界はすでに完成していると、このように説いておられるような気がいたします。完成しているとすれば、そこは変化無常の世界ではなく、永久不変の世界のはずであります。この世界に変化をあたえるのが、役行者様のいわれる弁証法なのでありましょうか。弁証法的発展が要因となって、永久不変であるはずの実相世界に変化、発展が生じる。このようなことを役行者様はいっておられるような気がいたします。このあたり、パソコン環境下でさらに詳しきところをお聞きしたく存じます。
520: トキ :2011/07/02(土) 13:35:50 初心者様
私が理解しているところでは、ロバート・モンローはアメリカの実業家で、自分が体外離脱を経験した事が 契機となり、私財をとうじて体外離脱の研究を始め、ついに人工的に体外離脱が出来るシステムの開発に成功 し、これを「ヘミシンク」と称しています。以前はテープでしたが、今はCDになっているのですね。面白そう なので、一度、聞いてみようかと思ったのですが、高そうだったので、止めました。
ヘミシンクについては、日本人で初期に経験した人が本を2冊書いています。それによると、魂のレベル に応じて、「フォーカス10」とか「フォーカス20」とか、称している様です。説明自体には、生命の実相 第2巻や霊界編などと矛盾する部分はないと感じています。ただ、何であれ、「体外離脱」をする訳ですから 一つ間違えば、そのまま、永久的な霊界へのご旅行になる可能性があります。おそらく、霊界から神界の近く まで体験するシステムなのでしょうが、アメリカのモンロー研修所など、しっかりした指導者の下でしないと 危険性はあるのかもしれません。
しかし、有名なキューブラー・ロス博士などもヘミシンクは使っていたみたいですし、立花隆さんの「臨死体験」 にも紹介されています。たいへん面白いシステムであると思います。初心者様が、あれを使っていたというのは、 面白かったです。すると、ヘミシンクの途中で会ったガイド(指導霊)から、何らかの示唆を受けているのかもし れませんね。
合掌 ありがとうございます
521: 初心者 :2011/07/02(土) 14:56:57 トキ様、ありがとうございます。
体外離脱は、じっさい危険です。遠くにいきすぎて、もどろうにも肉体の在り処がわからいという体験は、しばしばいたしました。本当にあせって探しまわるんですよ。どんなに探しても見つからない。こういうこともあります。見つからなければ、そのままあの世行きです。さんざん探しまわったあげくに見つかれば、ものすごい速度で移動します。最後に、なにか大きなものに飛び込むんですね。これがどうやら肉体のようです。肉体は、その後の数分間、はげしく振動して、それでようやく体外離脱が終了します。
でもわたくしの場合、体外離脱は自然に起きるようになったもので、ヘミシンクはほとんど関係なかったです。CDに録音されているヘミシンク音は、じつはほんの少しなんですよ。ほかの多くの時間は、ロバート・モンローがひとりでしゃべりまくってます(もちろん英語で、しかもかなり大きな声で)。なかなか集中できなくて、あまり役には立ちませんでした。
なんにしても、きちんとした指導者のもとでなければ、たいへんに危険です。肉体にもどれなくなるのは日常茶飯事なのです。
522: トキ :2011/07/02(土) 15:17:22 >>521
初心者様、ありがとうございます。トキです。
立花隆さんの「臨死体験」には、フィンランドのキルデさんという医者の体外離脱の経験が書いてありますね。
彼女の説では、世間にいる精神異常者のある程度の人の中には、体外離脱をして、霊界で異常な経験をして、 そのまま戻って来たケースがあるはずだ、と言っています。また、私は寝ている間に突然亡くなったとされる人 の中にも、体外離脱をして戻れなくなった人が相当数いるような気がします。
余談ですが、彼女は、亡くなった叔父(やはり医師だったそうです)の自動書記で「死は存在しない」 とう本を書き、世界的なベストセラーになったのですが、日本語には翻訳されていません。英語版でも 時間をかけて、探そうかと思っています。
523: 緑の意思 :2011/07/02(土) 16:20:46 横から失礼します。
ヘミシングは太平洋戦争中アメリカの軍事研究所で、兵士の市への恐怖心をなくす洗脳技術、 暗示による殺人任務を遂行させる誘導実験の目的で、音響差による脳への刺激を与える研究されていた みたいですね。
私も体外離脱の経験から肉体を離れてもありありとした感覚があるのに驚き、 興味からCDを持ちました。
ただ友達の弟の離脱体質から精神的に調子をくずしたことや、 色々分ると結局危険な幽界の遊びだとの認識を持ちました。 モンローの研究自体は使命があったのでしょうね。
すみません、お邪魔して。
524: トキ :2011/07/02(土) 16:42:09 トキです
>>523
緑の意思 様
貴重な情報をありがとうございました。臨死体験から、音響による体外離脱に至る論理関係が不明 だったのですが、軍事研究の応用なら、納得できます。 ヘミシング自体は、たいへん面白いテーマですが、実際には、アメリカに何度も行き、モンロー研究所 の正しい指導を長期に受ける必要があるでしょうから、普通の人にはまず無理でしょう。
体外離脱の場合、いわゆる「魂の緒」が体とつながっているから、自分の肉体に戻れるのですが、 間違って、あるいは誰かが故意に、それを切断すると、そのまま「ご臨終」という訳です。先に紹介 したキルデ博士の場合、その恐怖もあり、転じて瞑想を始めたようです。
生長の家の神想観の場合、最初にきちんと招神歌を唱えるので、大丈夫なのですが、あれがないと やはり危険なみたいです。
関心はもっているので、ヘミシングについて、詳細なご教示を頂戴できれば幸いです。
合掌 ありがとうございます
525: 初心者 :2011/07/02(土) 18:44:57 ヘミシンクというのはバイノーラルビートと呼ばれる音響技術のようです。モノラルを単一の音響とすれば、バイノーラルは、異なる周波数の音を、左右の耳から別々に聞かせる技術であるようです。
これはおそらく、左脳と右脳に異なる音響的刺激をあたえることで、通常は睡眠時にしか体験できない体外離脱現象を、覚醒した意識状態でも体験できるように工夫したものだと思います。
明晰夢は、それが夢であることを知りながら見る夢です。明晰夢においては、夢見手はほぼ覚醒した意識状態で夢を見ているはずです。こうした状況を人工的につくり出すのが、バイノーラルビートを応用したヘミシンク技術であると考えられます。
明晰夢を見る訓練をすれば体外離脱の体験が可能になるといっている人もいますが、何にしてもこれは、精神に大変な負荷をかける方法であるように思われます。ヘミシンクは、長いあいだ研究がつづけられておりますので、正式なトレーナーについて学ぶかぎりは、いくらか安全な方法であるのかもしれません。
ちなみに、わたくしが体外離脱をしてみようという気になったのは、真理の研究のためであります。本を読んだだけでは真理はわかりません。霊的世界をじっさいに体験してみたい。体験することでわかることがあると考えたためであります。
それなりに収穫があったとは思いますが、リスクもそれなりに大きかったと思います。不惜身命。この覚悟がなければ、あまりお勧めできる方法ではありません。
526: トキ :2011/07/02(土) 20:49:47 >>525
トキです。初心者様、ご説明、ありがとうございました。
すごい覚悟ですね。勇気というか、無謀というか。まるでイラクへ旅行に行くような感じです。
霊界については、浅野和三郎先生が、亡くなった子供からの霊界通信を記録した「新樹の通信」という本が 面白かったです。これは、生命の実相第2巻に一部が引用してあります。また、昭和初期の発行ですが、既に 大東亜戦争を予告した記述があります。しかし、霊界で、ガイドについて勉強をしていても、限界はあるみた いです。この当たりは、また、時間のあるときに投稿します。ありがとうございました。
合掌 ありがとうございます
527: 初心者 :2011/07/02(土) 22:22:05 役行者様へ
>つまり、ビックバンのとき、パースペクティブとともに三次元空間が 生まれてしまった。そこに、すでに矛盾の芽があったのです。 なぜ、ビックバンが生じたのか・・・大切な問題です。
この宇宙空間は、ビッグバン直後の宇宙に包まれているように 見えてるわけですよね。 まるで、ビッグバンが内側に向かって起こったような、 そんな姿が見えているわけであります。
このことひとつをとってみても、 この見えている世界がまやかしであるのはあきらかですが、 宇宙物理学者は、このまやかしの世界を観察して、ああだこうだと 言いあっているわけですから、学者たちの言い分が はたしてどこまで信じられるのだろうかという気になります。
それでも、ブラックホールの研究で有名な、ジョン・ホイーラーという物理学者は、 「宇宙は振り返って自分の姿を見る」といっていたそうです。 この言葉の意味するところはかなり衝撃的です。 過去の宇宙を振り返って見ているのは、人間ではなく、宇宙自身ということなのです。
宇宙は、自分自身を振り返ってみるために宇宙を創造した。 その創造の瞬間がビッグバンであった。 こういうことであるのかもしれません。
もしそうなら、人間の立場はどうなってしまうのでしょうか。 人間は宇宙にとって必要のない存在なのでしょうか。
たしかに、この宇宙は、まったく矛盾だらけの宇宙です。 どうしようもないほどの矛盾につつまれています。 さてここでジジェクの登場です。 ジジェクの手にかかれば、宇宙は矛盾につつまれているがゆえに 「精神異常の宇宙」となるやもしれませぬ。 創造の最初に、神は正気を失い、狂気にさらされていた、 ということにもされかねないのであります。
ブログ管理人様によってご提示いただいた5つのカテゴリーでいえば、 これは(4)の世界観です。 この支離滅裂な宇宙を見るかぎり、 あんがい(4)が正解なのかという気がしなくもありません。
528: 役行者 :2011/07/03(日) 07:24:30 >初心者様
携帯環境下ですが、簡単に問題提起させていただきます。
これは実相世界の定義の問題かと存じます。 実相世界とは如何なる世界なのか?つまるところ、訊け管理人様へ、舞台あればストリップショーでもお見せして、笑いのなか、ご出御願うところなのですが・・・いかばかりか・・・
ですから、絶対とか、完全の定義なのですよ。 世間的には、絶対とは権力と連動してしまうイメージがあります。中世のキリスト教文化圏で有名な、それでも、地球は動く!で象徴されるように。 絶対イコール動かない。 そんなイメージが潜在意識のなかに定着されている可能性があります。
絶対観念の世界とは?そこでお尋ねなのてすが、ドイツ観念論において、対立する観念からアウフヘーベンされて、ジンテーゼの世界に昇華するとき、光に包まれた矛盾なき対立からアウフヘーベンされて進化向上していくという考えは成り立つのでしょうか?
つまり、光と歓喜に包まれて、無限に進化向上してゆく変化ある世界を実相世界と定義付けたいのですが・・・
529: 初心者 :2011/07/03(日) 10:21:53 役行者様へ
>絶対観念の世界とは?そこでお尋ねなのてすが、ドイツ観念論において、対立する観念からアウフヘーベンされて、ジンテーゼの世界に昇華するとき、光に包まれた矛盾なき対立からアウフヘーベンされて進化向上していくという考えは成り立つのでしょうか?
難しい質問です。観念論で優先されるのは、つねに観念であるはずですから、「矛盾なき対立」が、はたして観念として成り立つか、ということがポイントになるかと思います。観念として成り立てば、あとは全体性へと向かう運動が可能となるやもしれませんので、そうなれば弁証法的発展の可能性が見えてくるかと存じます。
また、ヘーゲルのいう「絶対」とは「全体」のことであったと思います。ものごとの全体を見わたすことのできる観念が絶対観念であったかと存じます。世界をあますところなく包みこめる観念が存在すれば、それがヘーゲルの言うところの絶対観念となるように思います。
>つまり、光と歓喜に包まれて、無限に進化向上してゆく変化ある世界を実相世界と定義付けたいのですが・・・
「変化ある」というのが、「実相世界の完全性」と対立する概念として提起されてますね。たしかに、「完全性とは何か」の定義が必要になるところであります。しばし問答いたしましょう。ブログ管理人様を呼びに行かねばなりませぬ(どうもわたくしに腹を立てておられるような気がしてなりませぬ)。
ところで本日は、これとは異なる問題で、重要と思える投稿をいたしたいと考えております。難解な問題でありますので、ゆっくり小出しで投稿いたします。
530: 初心者 :2011/07/03(日) 10:25:10 ずっと考えてました。答えを模索していました。
>つまり、ビックバンのとき、パースペクティブとともに三次元空間が 生まれてしまった。そこに、すでに矛盾の芽があったのです。 なぜ、ビックバンが生じたのか・・・大切な問題です。
この問いかけに答えなければ、真理は崩壊する。 そう思ってました。問いかけの重さが、ずしりとのしかかってきました。 この問いかけは、見かけよりもずっと重く、難解です。 それでも答えなくてはならない問いかけでした。
答えが見つかりました。それは、とてつもない答えでした。 これまでの常識がすべてくつがえりました。 これまでの考え方が、すべて木っ端みじんに砕け散りました。
結論から申します。 ビッグバンによって生じたのは、パースペクティブによってゆがめられ、 差延によって偽られた、矛盾だらけの宇宙ではありませんでした。 ビッグバンによって生まれた宇宙は、パースペクティブもなく差延もない、 完全に調和した美しい宇宙だったのです。
真実の宇宙にパースペクティブはありません。差延もありません。 このことにようやく気づきました。 真実の宇宙はビッグバンによって生まれるしかなかった。 このことにも気づきました。 これから、真実の宇宙、美しい宇宙について語ります。
531: 初心者 :2011/07/03(日) 12:58:11 「見えている世界」と「見えない世界」。 このことについて語る人は多くいます。 見えている世界の奥には、見ることのできない世界がある。 このように言う人は少なくありません。
これから、「見えている世界」と「見えていない世界」について語ります。
ところで、見えている世界とは何なのでしょうか。 ここではっきりさせておくべことは、 見えている世界には、パースペクティブと差延が かならずあるということです。
見えている世界とは、光をモノサシにした世界です。 見えている宇宙の唯一のモノサシは光です。 光をモノサシにして、時間と空間があらわれます。
光の弱点は速度です。 毎秒三十万キロ。 十分に速そうに思えますが、宇宙のスケールでは十分とはいえません。
光が届くまでに、何万年、何億年とかかることもあります。 この遅さが差延を生み出します。 光をモノサシとした世界では、見えているのは、すべてが過去です。 わたしたちは、過去の世界、過去の宇宙だけを見ています。 見えている世界とは、すべてが差延によって生じた過去の世界なのです。
夜空を見上げながら、人は、宇宙を見ていることを実感します。 星空は、たしかな宇宙だと考えます。 しかし星空は宇宙ではありません。 見えている宇宙の果てには、 どの方角にもビッグバン直後の宇宙があります。 これは差延によって生じた宇宙です。 本当の宇宙ではなく偽りの宇宙なのです。
では本当の宇宙はどこにあるのでしょう。 本当の宇宙とは今の宇宙です。 見えている宇宙がたとえ過去の宇宙であったとしても、 今の宇宙は、かならずどこかにあると人は考えます。
真実をいえば、光をモノサシとした世界では、 「今の宇宙」という考え方は成り立ちません。
光をモノサシとした宇宙では、 「同時」という考え方が成り立たないのです。 すべてが過去であり、 今この瞬間に同時に存在するものは何ひとつとしてありません。 したがって、今この瞬間に同時に存在する宇宙は どこにも存在しないと考えるしかないのです。
光をモノサシとするかぎり、 存在できるのは過去の宇宙だけです。 今の宇宙はどこにも存在できません。 今の宇宙が存在できるとすれば、 それは光をモノサシとしない世界のなかだけなのです。
「見えない世界」とは何かといえば、 それは光をモノサシとしない世界です。 光をモノサシとしない世界が存在すれば、 それが「見えない世界」ということになります。
はたして、光をモノサシとしない世界が存在するのでしょうか。 存在するとすれば、 それが真実の宇宙ということになるのかもしれません。
はたして真実の宇宙は存在するのでありましょうか。 存在するとすれば、それはどんな宇宙なのでありましょうか。
このことについて考えてゆきたいと思っているところですが、 なにしろ相手がでかすぎます。 光をモノサシとしない真実の宇宙の存在は、 生長の家でこれまで語られてきた「実相世界」と「現象世界」の区別についても 一石を投じることになります。
これまで「ない」といわれてきた「現象世界」の真実の姿を わたくしはこれから明らかにしようとしています。 このことが可能なのかどうか・・・、 何しろ相手がでかすぎます。
532: ブログ「雅春先生に訊け」管理人 :2011/07/03(日) 15:29:53 >初心者さま
いやー別に腹を立ててなんて(笑)「どうしてそう思われましたの?」と 不思議です。 さて、いやー話題がすごい広がりを見せているではないですか(笑)私、 個人的流儀としましては、まあ、他者主張を了解してからでないと、返信で きぬ性質でして・・・少々お時間をくださいませ。
いやー、別に苦労自慢するわけじゃないんですが、今激務です(笑)週末 から本日にかけまして、
● 近所の高校野球部の遠征へ付き合い ● 夏祭りの打ち合わせ ● 近隣奉仕作業 ●(愚息が通う)幼稚園にて「陸上部」創設準備の手伝い
等々・・・みなさん、なかなか返信できずにスミマセン。
追伸
まあしかし、神の子無限力ですわ(笑)時間はないんですけど「疲労感はまったくない」という(笑)実に畏れ多きかな、光明思想であります。
533: 初心者 :2011/07/03(日) 15:56:17 ブログ管理人様。
出てきていただいて安心いたしました。 あなた様は、この掲示板にどうしても必要なお方なのであります。
534: 初心者 :2011/07/03(日) 16:07:47
真実の宇宙とは、今ここに同時に存在する宇宙です。 過去にではなく、今この瞬間に現存する宇宙です。
真実の宇宙を、わたくしたちは見ることができません。 わたくしたちに見えるのは、光をモノサシとした、偽りの宇宙だけです。 偽りの宇宙は、パースペクティブと差延によって成り立っています。
「同時」ということを考えてみます。 光をモノサシとした宇宙では、 宇宙の果てから果てまで情報が届くには、三百億年近くかかります。 これではとても同時とはいえません。 「同時」とは、宇宙の端から端まで、 情報が瞬時に届かなければならないということです。
ここで、宇宙の端から端まで、 情報が瞬時に伝わる宇宙を想像してみます。 この宇宙では、いったい何がおきているのでしょう。 300億光年を、情報がゼロ秒で伝わったとすれば、 それはもはや「伝わった」とはいえません。 ふたつの出来事が同時に起きた。 このように考えるしかなさそうです。
光のモノサシを用いない真実の宇宙とは、 あらゆる場所の出来事が同時に起きている宇宙です。 しかもその瞬間に、宇宙で起こっているすべての出来事を、 宇宙のすべての存在が理解していなければなりません。 宇宙の辺境で、今この瞬間に何が起きているのかを、 真実の宇宙では、すべての存在が知っていなければなりません。 これが真実の宇宙で起こっていなければならない出来事なのです。
こうした宇宙では、パースペクティブも差延も存在しません。 存在するのは、すべてのモノと出来事が ひとつに結びついているという現実だけです。 真実の宇宙では、すべてが一体化しています。 わたしはあなたであり、あなたはわたしなのです。 こうした現実によって成り立っているのが真実の宇宙です。 だからこそ、すべての出来事が同時に起こり、 すべての存在がそれを知ることが可能となるのです。
今の宇宙の姿をイメージしていただけたでありましょうか。 真実の宇宙では、すべてのモノや出来事は、 分割も分離も不可能です。 すべてがむすびついて一体化されています。 これが今の宇宙、真実の宇宙の姿です。
こうした今の宇宙が、 わたしたちが見ている偽りの宇宙の背後に存在しています。
偽りの宇宙をわたしたちは見ることができますが、 真実の宇宙を見ることはできません。 見ることはできなくても、真実の宇宙はまちがいなく存在します。 光のモノサシをはずしさえすれば、 その存在があきらかとなるはずです。 それは感じてみるしかない宇宙です。 その存在を自覚するしかない宇宙です。 それでも、真実の宇宙は、たしかにここに存在するのです。
536: 初心者 :2011/07/03(日) 17:50:12 アインシュタインの相対性理論では、 情報は光速を超えて伝わってはならない、とされています。 宇宙の端から端まで情報が瞬時に伝わるという考えは、 相対性理論では、けっして許されない考え方なのです。
ではなぜ、真実の宇宙では、辺境での出来事が、 全体に瞬時に伝わることができるのでありましょうか。 それは、真実の宇宙では、すべてが一体であるからです。 他と見えているものが、じつはすべて自分だからであります。
すべてが自分であるのなら、どこで何がおきているのかを、 たとえどんなに遠く離れていても知ることができます。 真実の宇宙で起きている出来事とは、 自分のことを自分で知るという出来事なのです。
そこで問題となるのは、真実の宇宙において、すべてが自分である という一体化が、なぜ実現したのかということであります。 その答えは、真実の宇宙がビッグバンによって 生まれたからなのであります。
ビッグバンによって、 宇宙のすべての物質が同時に誕生いたしました。 同時に誕生したことにより、 すべての物体の一体化がなしとげられたのです。
EPRパラドックスとは、情報が光速を超えて運ばれるが ごとく見える現象にたいしてつけられた名称です。 パラドックス。それはつまり「あり得ない」ということです。 情報が光速を超えて運ばれる? そんなことは絶対にあり得ない。 そう主張したのが、アインシュタイン、ポドルスキー、 ローゼンの3人の物理学者です。 この3人の頭文字を取って、この現象は EPRパラドックスと呼ばれるようになりました。
EPRパラドックスが起こる条件はただひとつです。 複数の物体が、こすれあうとかぶつかりあうとか、 過去になんらかの関係を持ったことがあれば それだけでEPRパラドックスが起きるといわれています。
複数の物体が、一度でも関係を持てば、 この関係は永遠につづくともいわれています。 ビッグバンで同時に誕生したすべての物質は、 その瞬間に関係を持ち、この関係は 永遠につづくことになったのです。 ビッグバンによって同時に誕生したことによって、 宇宙のすべての物質は、EPRパラドックスで結びつけられました。
EPRパラドックスで結びついた物体は一体化します。 真実の宇宙のすべての物質は EPRパラドックスで結びついています。 これにより、真実の宇宙の物質は、 そのすべてが一体化しました。 わたしはあなたであり、あなたがわたしとなる。 こうした宇宙が実現しました。
一体化が実現できたのは、 宇宙がビッグバンによって誕生したからであります。 もしも同時にではなく、バラバラに誕生したとすれば、 すべての物質がEPRパラドックスによって結びつけられることはなく、 したがって、一体化が実現することもなく、 真実の宇宙は誕生することがなかったと考えます。
「なぜ、ビッグバンが生じたのか」 これが役行者様からの問いかけでした。 この問いかけに答えられなければ真理は終わる。 そう考えました。 わたくしなりの答えを出してみました。
537: トキ :2011/07/03(日) 20:07:19 トキです。相対性理論の話題ですか。深淵ですね。
直接、関係ない話なのですが、体外離脱を経験した人が、場所の移動は瞬時に思っただけで可能だ、と言われています。これも、現象界について解明するヒントになるような気がします。
538: 初心者 :2011/07/03(日) 22:45:10
トキ様は、「関係ない話ですが」といわれながら、 いつも関係のある話をお書きになられます。 今回もソートーに関係のありそうな話でございます。
宇宙の果てまで瞬間移動したとすれば、 そこにはどんな世界が待っているのでありましょうか。 おそらく、果てまでいったとしても、そこが宇宙の中心で あることでありましょう。
わたしたちは、ともすれば、 「現象世界」とひと言で片づけてしまいがちですが、 なかなかにして複雑怪奇な世界であります。
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堀浩二さんは、2019年9月、伊勢原市の講習会の会場で、私は、見ましたが、その後のことは知りません。 (64876) |
- 日時:2024年05月01日 (水) 11時21分
名前:タンポポ
2019/9/29(日)神奈川県・静岡県共催の 生長の家ご講習会に参加してまいりました。
名前:志恩
私が、参加させていただいた会場は、 メイン会場の『伊勢原市民文化会館』でした。
伊勢原市民文化会館での ご講習会会場内での、出来事を詳しく書かせていただいた 私の文もあるのですが、 その文を、探したのですが、今のところは見つかっておりません。
当日、会場内では、 谷口雅宣総裁先生の男性の秘書さんと思われるお方2名が、 (お顔は記憶しておりますので お名前もわかりますけれど、その方々のお名前は、 伏せさせていただきます。)
谷口雅宣総裁先生のご講話中、会場全体を見回しながら 会場内に、変な奴がいないかどうか、 熱心に 警護にあたっておられました。
尚、 トンチンカン信徒様も そーれ様も ハンドルネームの名前を変えて、 今でも、時々、掲示板に出ていらしていると 思っております。
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うのはな(=シャンソン、禁止用語、コーヒーショップ、他)さんは、今? (64888) |
- 日時:2024年05月02日 (木) 08時43分
名前:タンポポ
長年に渡って、トキ掲示板の常連投稿者でいらしたうのはなさん、 風の便りによりますと、うのはなさんは、今も生きておられる と聞きましたが、もう1年間も、トキ掲示板へ出ていらしていません。
初代管理人さんのトキ様は、うのはなさんのために作られた 「傍流掲示板」を削除せず、三代目のトキ管理人さんも、 そのままにされておられます。 うのはなさんに対する深い愛を感じます。
うのはなさんの消息をご存知のお方、うのはなさんは、今、どうされて おられるか、教えてくださいね。
傍流掲示板 https://jbbs.shitaraba.net/study/11788/
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笑っていいともを32年間続けたタモリは今、 (64906) |
- 日時:2024年05月03日 (金) 03時30分
名前:タンポポ
生まれ: 1945年8月22日 (年齢 78歳), 福岡県 福岡市 南区 学歴: 早稲田大学、 福岡県立筑紫丘高等学校 既婚、お子さんはいない。
タモリは、単発で、今でも時折、テレビ、ラジオに出ているそうです。
さんま、鶴瓶も驚いた…タモリが32年も「いいとも」を 続けるために絶対にやらなかったこと
タモリはリハーサルと同じことを 本番では絶対にやらなかったという。 理由は、飽きるから、つまらないから。
タモリの座右の銘は 「適当」、 「俺は、努力ということをしない」。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー タモリの人柄を表すエピソード; 「タモリ(森田一義)アワー 笑っていいとも!」は 1982年から2014年までの32年も続いた生放送の バラエティー番組である。
笑福亭鶴瓶が驚いたタモリのある言動 笑福亭鶴瓶は以前、伊豆にあるタモリの別荘に招待された ことがある。
そこにはたくさんの木の切り株があり、 座るためのものかと鶴瓶が思っていると、 タモリは横で「あ、切ったんだ」とつぶやいた。
実はタモリは10本の古い木を気に入って土地を買い、 その木を活かした設計で別荘を建てていた。 そして鶴瓶を招待するにあたり、枝を手入れしてもらうつもりで 「木、切っておいて」と管理人に連絡をしていたのだ。
しかし管理人は勘違いをし、あろうことか10本の木そのものを すべて切り倒してしまった。 「切っちゃったもんは、しょうがない」と執着しないタモリに 「普通、怒るでしょ」と呆れる鶴瓶
さんまが驚愕したタモリの特異性 しかしタモリは「キチンと説明しない自分が悪かった」と 逆に鶴瓶をなだめたという。
こうしたタモリの執着のなさには驚嘆させられる。 明石家さんまはタモリの特異性として、 「われわれのようなお笑い芸人からすると信じられない 切り替えの早さ」をあげている。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー タモリは、笑っていいとも時代から、1日1食半生活 https://www.youtube.com/watch?v=olUwUiD8otA&t=372s
タンポポー 私は、普通に一日三食生活ですから、 タモリは、食生活でも、すごいな、と思います。
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金正恩 大将軍さま (65019) |
- 日時:2024年05月09日 (木) 17時47分
名前:タンポポ
金正恩vs日本警察
将軍TV
https://www.youtube.com/watch?v=tRSi5TUdKR8
タンポポー 日本へお忍びで?? と言いたくなるような 笑
日本の警察官が1人で金正恩に立ち向かう歴史的瞬間です と書きたいところですけれどね。
すでに警棒ぬいて臨戦態勢で来てるところが、 ほんとうは感動で泣く場面なんです。。ww
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【志村とジュリーのコント!】貴重映像! (65152) |
- 日時:2024年05月17日 (金) 14時14分
名前:タンポポ
https://www.youtube.com/watch?v=DlP5CbKxwKU
タンポポー 亡き 志村けん、懐かしいですね。 ジュリーもこんなに若い時があったのです。 仲が良かった〜ケン;ケン。 ジュリーはおじいちゃんになりましたが、今も 元気で芸能界で活躍中。 後に、志村の代わりにジュリーが映画「キネマの神様」で 主役を演じましたね。
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ケーシー高峰x4 (65157) |
- 日時:2024年05月17日 (金) 16時48分
名前:タンポポ
https://www.youtube.com/watch?v=dmEYvYpkRrI
タンポポー 以前にケーシー高峰という漫談士がいましたが、 あの人も死んじゃったんですよね、 彼は、常に医学について勉強し、ネタを考えていたそうですよ。 私も、もうまもなく、年ですから、死んじゃいますが。 以前の方が、志村けんにしても、面白い人が 多かったように思います。
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