生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)

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谷口雅宣さんの研究 (66525)
日時:2024年07月24日 (水) 10時52分
名前:本音の時代

生い立ち

東京都出身。清超夫妻の二男だが、長男は夭逝しており、実質的に長男である。高校時代は生長の家高校生連盟に所属しており、のちに雅宣と対立することになる新教育者連盟の機関誌に憲法無効論を訴える文章を寄稿したり、三島由紀夫と親交を持つなど、「右翼少年」であった。その後、青山学院大学法学部に入学するも、生長の家学生会全国総連合には所属せず、民族派学生運動とは距離を置いていた。卒業後は米コロンビア大学に留学し、修士課程修了(国際関係論)。

新聞記者から教団幹部へ
帰国後は産経新聞横浜支局に新聞記者として勤務する。1979年、当時スチュワーデスをしていた小野純子と結婚する。その後、新聞社を辞して生長の家の教団に奉職し、主に広報・出版・総合企画部門で手腕を振るう。その後、教団の理事の一人に名を連ねることとなった。

雅宣が理事である間に、教団では宗教的な伝道を重視する「教団派」(本部派)と、安東巌や椛島有三ら政治活動を重視する日本青年協議会系の「飛田給派」との対立が激しくなっており、一時期は教団派の理事長が事実上更迭される事態も起きていたが、優生保護法改正に自民党が消極的なことから教団理事会では自民党への不信感が高まり、1983年には生長の家政治連合は活動を停止する。雅宣はこの時から教団派のメンバーであったとみられ、飛田給派が後に生長の家本流運動を結成することとなった。

1985年6月17日に雅春が死去すると、同年11月22日に父の清超が第2代総裁に就任。その後、教団の副理事長となる。

副総裁時代
1990年11月22日に、副総裁に就任。清超と共に講習会への講師としての出講を行うようになっていく。1993年、「国際平和信仰運動」を提唱し、太平洋戦争(大東亜戦争)への反省や戦争責任の追及、人権感覚からの女系・女性天皇の推進を表明するなど、これまでの方針からの転換を進めている。また近年では、地球環境問題や遺伝子操作・生命倫理問題、エネルギー問題などの現代科学に対する主張が多く、教団の教義にもその意向が強く現れてきている。一方で、立正佼成会をはじめとするリベラル派宗教団体との連携も行ったため、前述のような路線変更が重なったこともあり、左翼的であるとの批判の声が出てくるようになった。その結果、1998年には生長の家社会事業団が教団とは独自路線を歩むようになり、2003年には新教育者連盟(新教連)が教団による支配を弱める内容の「財団法人新教育者連盟寄付行為施行細則」の改正を強行、新教連の教団系の支部長(全体の八割を占めた)がそれに抗議して辞任する事態となった。これに対して、雅宣や彼を支持する教団幹部は、2005年に教団の「国際教修会」を開催し、生政連の活動停止に至る経緯を検証するなどし、雅宣の路線こそが雅春・清超の正当な後継路線であることを訴えた。

2005年2月頃、清超が体調を崩したことにより、総裁職の業務の大半を行う「総裁代行」を兼務。以後実質的な教団の指導者として運営を行っている。

総裁就任
2008年10月28日、清超の死去に伴い、2009年3月1日の立教記念日に「生長の家総裁法燈継承祭」を執り行い、第3代生長の家総裁に就任。

(『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

谷口雅宣さんの研究 (66526)
日時:2024年07月24日 (水) 10時58分
名前:本音の時代

私は小学校から大学まで、東京・渋谷にある青山学院へ通った。この学校では、小学校を「初等部」、中学校を「中等部」、高校は「高等部」と呼んでいる。だから、高等部のクラブ活動で発行している新聞は『青山学院高等部新聞』といった。この新聞の第1号は昭和25(1950)年12月18日の発行で、同43(1968)年2月に第100号が出たというので、その年の6月末に「100号記念」の縮刷版を出版したのだった。私がこの出版部に所属していたのは、昭和42年から足かけ3年間だから、この縮刷版の終りに近い部分に、当時の私が書いた記事や企画が載っているのである。それを読んでみると、おぼろげな記憶の中から高校時代の自分の思いや考え方が立ち上がってきて、実に興味深い。しばらく時間を忘れて“若い自分”と対面することになった。

 私の高校時代は、ちょうど「70年安保」の前夜で、社会は年とともにしだいに騒がしくなっていた。生長の家高校生連盟に所属していた私は、休日には原宿の生長の家本部などで生高連の仲間と顔を合わしたりしながら、騒然としつつある社会状況を憂えていたのだと思う。「だと思う」などと書くのは、もう40年近くも前のことで記憶が定かでないからだ。しかし、この縮刷版の記事を読んでみると、その“憂い”の内容が伝わってくる。実際の記事をここでお見せすることはできないが、簡単に言ってしまえば、私は当時、日本がいわゆる“左翼”の暴力革命によって転覆されてしまうのではないかと不安に思っていたのである。特に、青山学院はキリスト教系の学校で、当時のキリスト教の傾向は一般的に“左向き”で、大学の教授陣や高校以下の教師の中にも“左向き”の人が多かった(例外もあったが)から、当然、高等部の新聞もそういう論調だった。

 例えば、私が入部する前の昭和42年3月22日付の『青山学院高等部新聞』には、「建国記念日に思う」と題して、当時の出版部長であるKさんが論説を書いている。そこには、次のような文章が見える−−
 
「なるほど、賛成側の人の中には、教育勅語を復活せよ、とか、欧米に負けずにアジアへ進め、とか、太平洋戦争は聖戦であった、とかいっている人もいるし、キリスト教者である内村鑑三氏なども、教育勅語に敬礼しなかったために教師の職をやめさせられたりしたことも事実である。今度は、賛成側の意見はこれも、ごく大ざっぱにいってしまえば、愛国精神を養う、祖先の辛酸と栄光の足跡をふりかえる、人に誕生日があるように国に誕生日があってなぜ悪い、というわけだが、人の誕生日は他人を戦争なんぞへかりたてる力はないでしょうネ。」
 
 これに先立つ昭和41年3月15日号は、「われわれの政治意識」という2面見開きの特集記事を組んでいる。そこにある「改憲論をつく」という文章には、こうある−−
 
「改憲論者は“第一に現憲法はおしつけられたものであり、第二に天皇の位置がアイマイであり、第三に自衛権が独立国に存在することは明確であるから、自衛軍を設置できるように”改定すべきだと主張する。
 が、憲法改定運動の発端は昭和25年に朝鮮戦争が勃発して、警察予備隊が設置されたときなのである。北鮮軍の進撃に脅威を感じたマッカーサー司令部が警察予備隊の設置を命令し現在の自衛隊の礎石をおいたときから改憲運動がおこったという事実は、現在の改憲論の本質を示唆するものである。
 すなわち、“おしつけられたものだからいかに内容が完全なものであっても外国人のつくったものであるかぎりは非民主的憲法であって断じて日本人の民主的憲法ではない”という第一の理由をふりかざしていながら、実は戦争放棄を規定している憲法第九条をあらためるための隠れ蓑にすぎなかったのだ。“自主憲法を制定する”という口実のもとに再軍備を推進し、戦争準備を着々と整えようという腹づもりなのだ。」
 
 まるで、過去のどこかの政党の機関紙のような論調だが、そういう考えの先輩がいるクラブへ入部しようと思った16歳の私は、恐らく悲壮な覚悟をしていたのではないかと思う。なぜなら、多くの読者はご存じのように、当時の生長の家は「建国記念日制定」や「自主憲法制定」などを前面に打ち出した政治運動を展開していたからである。高校生の私には、もちろんその“全貌”など見えなかったが、生高連を通じて、学校で「やるべきこと」の大筋は理解していたに違いない。
 
 谷口 雅宣

谷口雅宣さんの研究 (66564)
日時:2024年07月25日 (木) 20時38分
名前:本音の時代

昭和42(1967)年当時、私が入学した青山学院高等部ではいわゆる“左翼的”言論が普通に行われていたが、その出版部に私が何月に入部したかは、はっきり覚えていない。しかし、新学年は4月始まりで、5月までを“クラブ探し”の期間と考えれば、入部は5月中か6月からと推測していいだろう。その年の『高等部新聞』の7月20日号(第96号)には、文化祭に向けて、クラブ活動の紹介記事が掲載されているが、出版部については、「現在の出版部は1年生男子1名、2年生男子3名女子2名、3年生1名の計7名からなっていて」と書いてある。この「1年生男子」というのが、どうも私らしい。
 
 そう言える理由は、その号の新聞の第4面の編集スタッフとして「谷口(雅)」という文字が見えるだけでなく、その面の下2段通しで書籍広告が掲載されていて、スポンサーは日本教文社だからだ。書籍だけでなく『理想世界』と『理想世界ジュニア版』の月刊2誌の広告も載っている。入部後すぐにこんなことができたのは、恐らく部員が少なかったことと、部長が寛容だったか、もしくはいい加減だったのかもしれない。高校生だから、思想性などより紙面のバラエティや広告が採れることを優先したのかもしれない。

 その次に発行される9月23日号(第97号)では、もっと驚くべきことが起こる。第1面に7段組みで「日本国憲法をさぐる」という論説が掲載されるのだ。これが“左翼的”論説でないことは、書き出しの数行を読めばすぐ分かる−−
 
「現行の日本国憲法は正しい憲法ではない。と言ったら、多くの人達は驚くことだろう。それは本当にそうなのである。その理由の一つは、現行憲法の制定の方法に非常な不正と矛盾があるからである。(後略)」

 論説はこれ以降、現憲法が大日本帝国憲法の「改正」という形で制定されたものの、外国軍の占領下であり、かつ改正範囲を逸脱した改正であったから正しくない……などという点を掲げて論陣を張るのである。入部したての一年生部員にすぐに「論説」を書かせるというのも驚きだが、その内容が従来とまったく正反対だというのには、もっと驚かされる。こんなところは、高校生の出す新聞ならではの“自由さ”(あるいはいい加減さ)が表れているのだろう。この号の第一面下には、日本教文社の3段半分の書籍広告が再び掲載されているが、本の題名には我々にとって馴染み深いものがある−−
 
 谷口雅春著『青年の書』、同『第二 青年の書』、同『能力と健康の開発』、同『若人のための78章』、谷口清超著『生きる』、林房雄著『日本への直言』
 
 こうは書いたが、私が入部して以来、『高等部新聞』の論調が全く“逆立ち”してしまったわけではない。12月12日号(第99号)では「君のベトナム戦争に対する沈黙は人間的罪悪ではないか?」という大見出しの特集記事が載った。その次に出た2月22日号(第100号)では「70年闘争への展望」という“新左翼”まがいの論説が第2面に掲載されたかと思うと、第4面ではソ連の不正を糾弾する北方領土問題の記事や、国旗掲揚の意義を訴える記事が載っている。
 
 私は、この第100号に「建国記念日について」という論説を書いている。そのサワリの部分を再掲すれば−−
 
「米国にしても1776年7月4日の独立宣言の日を“建国の日”としているが、これも単に時間的起源を意味するものではなく、国家誕生の精神、意義、内容を重視しているからである。日本の場合も同じで、たまたま日本の建国が太古の昔であるから何年何月何日と断言できないだけで、日本建国の精神という史実より重要なものは、古事記、日本書紀等の古典によって、厳然として今日に伝えられているのである。」
 
 こうして『青山学院高等部新聞』は記念すべき第100号に近づくにつれて、内容の分裂が際立っていく。それは同時に、私の母校の外で起こっている日本社会全体の国論の分裂と呼応していたことは、言うまでもない。
 
 谷口 雅宣

谷口雅宣さんのこと (66565)
日時:2024年07月25日 (木) 21時08分
名前:志恩

>谷口雅宣さんの研究 (66564)
日時:2024年07月25日 (木) 20時38分
名前:本音の時代
昭和42(1967)年当時、私が入学した青山学院高等部では<

志恩ー
昭和36年(1961年)私が原宿本部へ奉職した年の
原宿本部の神泉の間でひらかれた白鳩会バザーに
雅宣さんは、輝子先生と一緒に、来られました。
私も、一緒に写真に写っています。(写真一番奥の
黒いスーツを着ている)

つまり、雅宣さん、輝子先生、志恩、3人が写っている
この写真は、以前にもトキ掲示板へ載せさせていただいた
写真でしたが、
雅宣さんは小学生としか、分かっておりませんでした。

しかし、本音の時代様が掲載してくださったご文章により、
逆算しまして、

昭和36年のときの雅宣さんは、小学4年生(9歳か10歳)だった
とわかりました。

ちなみに、この時、輝子先生は、64歳か65歳。

志恩は、19歳。
皆、若かったなぁ。



写真、
一番手前の男の子が、小学4年生の時の雅宣さんです。
(今、雅宣さんは72歳。12月の誕生日が来ると、73歳。)

本音の時代様 (66715)
日時:2024年08月06日 (火) 01時11分
名前:著作物引用の規約



○引用コピペ、出処明記。

 されていない

○引用以上の文章量必須。

 ただコピペのみ

今の生長の家がもしも生政連活動を始めたとしましょう (66722)
日時:2024年08月06日 (火) 07時17分
名前:志恩

そうしましたら、
雅宣総裁が、今の日本国で、法制化したいことは
なんだとお思いになりますか。

1、日本国民は、ビーガンになるべし
2、縄文時代のように、石を拝め
3、自動車はガソリン車に乗るのは不可、電気自動車のみ可
4、日本国民は都会に住んでいるものは、全員、俺のように森の中へ移住すべし
5、野菜は買うな、自分で庭とかプランターで栽培して食べろ
 それができないやつは、地産地消すべし
6、自転車に乗れ
7、屋根には太陽光発電を
8、クラフトをやるべし
9、子ども食堂も皆でやるべし

いったい、どれとどれを法制化するご予定なのでしょうか、
またそれを賛成してくれる議員が果たしているでしょうか。

皆様、頭を冷やして、考えてみましょうね。

雅宣総裁ご夫妻の楽しそうな会話 (66762)
日時:2024年08月07日 (水) 21時03分
名前:志恩

2024年8 月7日(水)

生長の家総裁のFB
1日 ·
【朝の日課】
( 略)この間、彼女は梅ジャムを作ったが、梅の木は家にはない。
魔法のようだ。

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生長の家白鳩会総裁のFB
11時間 ·
梅ジャムは梅シロップを作ったのですが、
シロップを取った後の梅を潰して種を除き、煮ただけです。
砂糖を加えなくても、サッパリした深い味わいのジャムができました。
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志恩ー
雅宣先生、梅がないのに、梅ジャムは作れませんわよ。フッフッ

 (66941)
日時:2024年08月17日 (土) 05時55分
名前:ん?

引用でなく、


無断転載と、

想像力タクマシイ女性のもしも話?!



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