生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)
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| 生長の家の男と女の説き方 (68594) |
- 日時:2024年12月03日 (火) 20時21分
名前:本音の時代
【『新版 真理 第5巻 女性篇』の第五章 妻としての真実の幸福】からです。
第五章 妻としての真実の幸福
夫婦の意見の対立
先年、私がある道場へ出て人生相談を受け持っていた頃のことであります。一人の女の方が私の前にお進みになりまして、何か質問のことを半ば言いかけていらっしゃいましたが、聴衆の皆さんがその態度を見て、どっとお笑いになりました。皆さんが余りお笑いになるものですから恥しそうにして、言い淀んでいらっしゃいましたので、 「それなら白鳩会の集りでお聞きしましよう。」 といって、私の次の集りの白鳩会で、その方のお話をお聞きしたのでありました。その方は中々智慧のある奥さんでありまして,わざわざ富山県から問題を持っていらっしゃいましたのであります。 その問題は何であるかと言いますと、夫婦の中に子がないので、親類の娘を自分の子供にして貰おうということになったのでありますが、その親戚の娘には姉妹二人あるのですが、一人は二十一歳、一人は十八歳であります。ところで、その奥さんの欲しいの十八歳のお嬢さんであります。御主人が欲しいというのは二十一になる姉の欲しいのです。夫婦相互の意見が対立してどうしたらいいだろうと迷っているというのであります。 どうしての方がいやだとおっしゃるかというと、そのお嬢さんは身体が弱い、どうも胸の病気がありそうだから、そんな病気でいる者を家へ貰ったら死んでしまうかも知れないと云うので反対なさるのであります。 ところが奥さんは生長の家の熱心な誌友で、そんな病気なんか「人間・神の子」には本来ないのだから家へ連れて来たらよくなる、私の家庭の光明雰囲気につつまれたら、よくなるに決っている。何もいま病気だ、身体が弱いといってそれがいつまでも続くということはない。病気本来なしなんだから消えてしまう筈である――こういう意見なのであります。そこで夫と奥さんとの意見が対立してどうしたらいいのかわからないと仰言るのあります。
気性の荒い娘
「では奥さんはどうして上の方の娘が嫌いだと仰言のですか」と訊くと、「姉娘はどうも気性が荒いのです。あの気の荒いお嬢さんでは到底私の娘に貰ってもどうしても調和のしようがないのです。ですから、身体が弱くても十八歳の方は性質がやさしいから、今は病気でも本来病気は人間にはないのだから、家に貰って仲よくしでいるうらに健康な身体にして育ててゆくことが出来ると考えるのでございます」と言われるのです。 「御主人の言われるようになさいませ」 と私は突然返事をいたしました。するとその奥さんは、 「だってそんな気の荒い娘では、私はとてもかなわんのです」とっしゃるのです。 「併し、その弱い方のお嬢さんをお貰いになっても、その病気治りませんね。」 と私は答えました。 「それじゃ、生長の家では病気はないといっていながら、その病気は何故治らないのですか、生長の家でも結核は治らないとおっしゃるのですか。」と反問せられました。 「それは、あなたの御主人とあなたと争っていらっしゃるからですよ。夫婦が争っている間に育つ子供というものは多くの場合に於いて病気にかかって、しかも、それが往々重症の肺結核とか肺炎とかになってそれが中々治らないで死ぬ実例が沢山ある。今現にあなたは夫のいうことをきき入れないで、そして自分の意見を通して、そしてその優しい方の身体の弱い方を貰いたいといっていらっしゃるのは、それは夫と意見が対立して心の中で争っていらっしゃるのだから、争っているあなたの家にそのお壌さんを連れて来て、 そしてそのお嬢さんが健康になるということは保証することが出来ません。夫婦の心が争っていることが心の病気なんだから、その心の病気が子供に映ると、子供の病気としてそれがあらわれるのだから、あなたがた夫婦が互いに意見が対立して、争っているという場合には、余程頑丈な体質の子供でも病気になることがあるのだから、そんなもう既に病気にかかって弱々しい身体を、その心の争いの中に連れて来るということは、それは却ってそのお嬢さんを殺すことに-なりますよ。」
知性の勝った奥さん
私はそういうお答えをしたのでありました。その奥さんは中々頭のはっきりした、判断のしっかりした奥さんで、或る点では非常に素晴らしいのですが、その奥さんに子供が生まれないということが、ちょっと奥さんがしっかりし過ぎていて夫の言葉を容れてやらないという事を表しているのであります。夫の言葉と云うものは、言葉は命(みことのり)であり、「命」でありますから、夫の「命」を素直に受けて育てないことがあらわれているのです。 このように奥さんが余り夫にうち克っているような生活の家庭に於いては、往々子宝を恵まれないことがあるのであります。『古事記』の伊邪那岐・伊邪那美の命(みこと)の「国生み」の段(くだり)に、その生れた子が水蛭子(ひるこ)であり、淡島であって不完全な子であるからとて流して捨てた。そして何故こんなに不完全な子が生れたのであるかと天津神(あまつかみ)におたずねすると、「女人(おみな)を言先だちて良(ふさ)わず」と天津神はお答えになったと書いてあるのです。夫婦の中で、女性の方が強くて、夫はこういうのだけれども、一遍生長の家へ往(い)って講師先生に聞いで見よう。生長の家の先生が自分と同じ意見だったら、夫の考えを押しつぶして自分の考えを押し通そう、と思って出て来るのは、そのことが既に女の方が強いことを現わしているのであります。
世間知と宗教的救いとは異なるのです
その奥さんの態度から考えられましたことは、唯素直にハイと夫に無条件に従えと言いましても「夫だって間違うことも時々あるわけだから、私の意見だって尊重しなければならない」そういうような見識の高いところが見えるのであります。これは世間の普通の見識と云うものでありまして、宗教の救いと云うものはその世間の見識を超えたところ、一ぺん何もかも捨てて「無」になったところから浮び上って来る光であって、常識でつべこべ言っている間は駄目なのであります。そこで私は申しました。 「あなた、無我になって、自分の意志というものを悉く捨ててしまって、そして仏の御心を行ずる、或は神の御心を行ずるというその決心にならなければすべてのことはよく行きませんよ。自分が斯うしたいと言うことを固く握っておれば、必ず相手が斯うしたいという考えと衝突するものです。要するに信仰というものは、是は仏の御心を生きること、神の御心を生きることであって、自分の都合の好いように工夫することではない。自分が本当に一ぺんカラッポになって、其処から出直してくるんですよ。」 ところがその奥さんは言われました。 「夫の言う通りに従うということが、必ずしも神のいのちに適うかどうか分らないでしよう。或は夫の迷いの心に従っているのかも知れないでしよう。夫が本当にいつも神と一体であり、その言葉が神のお言葉であれば好いのですけれども。」 私は答えました。 「それが常識と云うものです。宗教は常識を超える。結局夫というものは、家長としてその家の中心座にいるときはそれは家長の理念、言い換えると父の理念の表現です。父の理念というのは結局、神の理念であって、宇宙の親様の理念というものがそこに姿を現しているのが、家長の理念であり、それは、古事記で言えば、伊邪那岐命の理念がそこに現れているのであるから、伊邪那岐命のみことのりのまにまに伊邪那美命に当る妻が従って行ったならば、そこに必ず好いことが実現するのです。それなのに妻が夫に反(そむ)いて自分の我を通して行こうという場合には何事も思うように行かなくなります。古事記の所謂水蛭子(ひるこ)や淡島が生れるのであります。夫に従うということは、実はそこに肉体をもって現れていらっしゃるところの伊邪那岐命のみこころに従うということになるのですよ。併しまだ入信の最初はそんなことをいっても納得が難しいでしょう。あんな荒々しい気性の娘を貰って、此の家の中が円く治まる筈がないというようにお考えになるでしょうけれども、それは途中のことであって、途中の過程はそういう風に見えても絶対にあなたが自分というものを無我にして、素直に夫にお従いになったら、その貴女の素直な柔かい心がその娘さんに反映して、その娘さんも素直な柔かい心の方におなりになりますよ」ということをお話したのであります。
神の心の中には悪いものはない
だいたい信仰というものは、無我になって、ただひたすら神の心を実現することであります。我が意を実現するのでないのであって、神の心を実現するというのが是が本当の信仰生活であります。そして神の御心を本当に実現出来たならば神の御心の中には悪いものはないのだから、現実世界はまた必ずよく行くものであります。 こんなことを申上げていますと、その奥さんは「中々私はそんなに修養が出来ていませんから先生のおっしゃる様には出来ません」とおっしゃるのであります。それが矢帳り「我」を突っ張っている姿なのであります。それで私は、 「あなたは出来ませんとおっしゃるけれども、決して出来ない事はない。何か重いものを持って来いとか、つかみ難いものを努力してつかめとかいうのなら出来ないかも知れないけれども、私の言うのは何を持って来いということでも提げて来いということでもない。握っているのを捨てなさいというのだから、誰でもしようと思えば出来るのですよ。私は言いました。 本当の信仰は無我になることから始まるのでありますから、無我と謂うのは握っているものを先ず捨てることなのです。「私は斯うしたい」と思っている其の「たい」を捨てればいいのであります 「無我即神」と言った人もありますが、「無我」のところに神があらわれるのであります。慮知の心(思慮分別の心。人間のはからいごころ)を起して用意周到に斯うなさいと言うのだったら、捩じ鉢巻で考えなければなれないから難しいかも知れませんけれども、自分の心を捨てなさいと言うのだから難しいことはないのであります。本当にこの婦人が「修養が足りない」と自己批判したのだったら、そんな「足りない慮知の心」を握っている筈はないのです。口には「修養は足りない」と言っていながら、それは自分の考えを捨てたくない為の口実であって、本当は「私の修養が足りておるから自分の思う通りにやりたい。自分の考えは正しいから第三者から文句を言って貰うまい」と思っているのであります。こう云う風な人は、謙遜のようで、実は慢心している。慢心の我が、その慢心を誤魔化しながら自分の我を推し進めるために、「私は修養が足りないから、無我になれぬ。」と云うことを口実にする。本当に「自分は修養が足りぬ」と気がついたら、まことに申訳なくて自分の「我」など主張できなくなるのです。 そういうわけで私は「捨てなさい、捨てたら、屹度いいことが出て来るのですよ」と言いますけれども、その奥さんは、 「本当にまあ、そんなことでしょうか」、と余り信用なさらない語調で仰言います。 私はそんなとき何時も話すアンデルセンの童話の『おじいさんのすることに間違はない』という物語を話し出したのです。それは、もう知っていらっしゃる方も、何遍もお聞きになった人もあるのですが、又初めての方も読者の中には沢山おありのようでありますから、次に簡単に申上げることにいたします。
おじいさんの言うことに間違はない
それは、或るところにおじいさんがあって、そして一匹の立派な逞しい馬を持っていらっしゃったのですね。何十万円もするような立派な競馬用の馬ですが、その馬を市場へ持って往って金を拵えたいというので、売りに往ったのであります。その途中で、向こうから一人の博労が乳房の脹れた牝牛を連れて来るのです。そして、 「その馬とこの牛と交換してくれませんか。この牛はこんなにお乳が出るのです。馬はどんなに立派でもお乳が出ませんからね。この牛は牛乳が沢山採れていいですよ」おじいさんは、成る程と思って、その牝牛と、自分の逞しい馬と換えてやったのであります。おじいさんはこの牛は乳が出るから馬より好いと考えて喜びながら牛をつれて歩いていますと、今度は一人の羊飼が向こうから山羊を連れて来るのです。そして山羊を連れて来た羊飼は言いました。 「あなたの牝牛とこの山羊と取りかえてくれませんか。牛にもお乳が出ますけれども、山羊は一層よいお乳が出ます。山羊のお乳というものは牛のお乳よりも消化がよくて滋養になります。紙屑を食べさせておいても、それがお乳になるのですから大変いいのですよ。だからこの山羊をあなたの牝牛と換えてあげましょう。」 おじいさんは、羊飼のその話にうかうかと乗って、牝牛を羊飼に渡して、自分は山羊を貰って、此の山羊はよいお乳が出るなと思って喜んで歩いていますと向こうから鶏を連れている男が来たのです。そして、 「この鶏を山羊と交換してくれませんか。山羊は卵を産みませんが、鶏は卵を産みますから、山羊より鶏の方がいいのですよ。」 「じゃあ、交換しであげましょう。」 というわけで、おじいさんは山羊をその男に渡しまして鶏を抱えて歩いていますと、向うから腐った林檎を袋に入れて担いで来る男があります。 「おじいさん、あなたの鶏とこの林檎と取換えてくれませんか。鶏は餌の世話をしなければならんけれども、この林檎は腐ったりと雖も林檎ですから、餌をやる世話はなし、腐った部分を取去れば其の儘たべられるんですかもな。」と言いました。 おじいさんは、最初自分の家から連れ出した立派な馬を到頭そんな腐った林檎に取換えましたので、もう市場に行っても売れないものですから帰ろうというので、自分の家の方へ向って歩いていますと、後から「モシモシ」という人がある。振返えると立派な風をした大地主の旦那です。そして、 「君は、あんな立派な馬を連れて来て、とうとうそんな腐った林檎と取換えてしまっただろう、家帰ればおばあさんに叱られるよ。」と申しました。 すると、おじいさんは、 「自家のおばあさんは好いおばあさんで、わしが何をしても“おじいさんのすることに間違はない”といいますよ」と答えます。 「そんな馬鹿なことがあるものか。それはちょっと位の間違なら、そういうかも知れないけれども、こんな何十万円もする馬を腐った林檎と取換えたりしたら、おばあさんは屹度、腹を立てて叱りますよ。」と地主は言います。 「いいえ、うちのばあさんは、やさしいばあさんですから、きっとおじいさんのすることに間違はないというにきまっています。」とおじいさんはいうのです。 「そんな莫迦なことはない。若しおばあさんが、そんなことを言うようであったら、私の持っている地面をみんなお前にやってしまうよ。それなら賭をしよう。」 こう地主は言って、おじいさんと一緒に連れ立って帰って来ました。 「ばあさんよ、今帰ったよ」と言うと、ばあさんは、 「あの馬はいい値段で売れたでしょうね。」 「いや、実はおばあさん、あの馬を連れて行っておったら向うから牝牛を連れた男が来て、牝牛と馬をかえてくれと言うからそれと換えてやったよ。」 「おじいさんのすることに間違はない。牝牛と取換えなさったら、牝牛はお乳が出るから、それはよかったですね。」といっておばあさんは喜ぶのです。 「いや、ところが牝牛も、向うから山羊を連れて来た人があったので、その山羊と取換えてやったのだよ。」 「そうですか。本当におじいさんのすることに間違はない。山羊のお乳は牛乳よりも、非常に消化が好いですから、こんな結構な事はない」と、おばあさんは又大喜びです。 「ところが、その山羊も今はないんだよ。その山羊を連れて行っておったら向うから一人の男が鶏を連れて来たよ。そしてその鶏と取換えてくれと言うから取換えてやったのだよ。」 「そうですか。それは善いことをなさいました。山羊は卵を生まないけれど、鶏は卵を産んでくれるから、おじいさんのすることに間違ない。」とおばあさんはいうのです。 「ところがその鶏も、実は向うから腐った林檎を一籠担いで来てその鶏と取換えてくれというから、とうとうその鶏をやって、腐った林檎を持って帰ったよ。」 とおじいさんは言いました。 大地主は今度こそおばあさんが怒るかと見ていますと、 「本当におじいさんのすることに間違ない。」 とおばあさんはいうのです。―― 「今しがた近所の貧しい隣れな人が来て、食べ物がなくて困っているから何か恵んでくれというから、戸棚をさがして見ても何にもないから、何かあんたに差上げたいと思うけれども、どこ探しても腐った林檎一つないわいなと答えて帰したところです。恰度其処へ腐った林檎をあなたが持って帰って下さった。全くこれは誂えたようなものですよ。矢張りおじいさんのすること間違はない。どれこれかも隣りの人にこの腐った林檎を持って往ってやりましょう。」 斯ういって、その林檎をもって出かけて行きました。 大地主はびっくりしましたがとうとう賭に負けて、自分の地面をすっかりおじいさんにやったので、おじいさんは一ぺんに、大地主になったというのであります。聖書の「山上の垂訓」には「幸福(さいわい)なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん」とありますが、心が柔和で良人の言うことに少しも逆らわない者は斯うして地を嗣ぐ様になり、結局、最後は一等よい事になるのに間違はなかったのであります。 ところが、最後に達するまでの道中はだんだん状態が悪くなることがあるものです。名馬が牛になり、牛が山羊になり、山羊が鶏になり、鶏が腐った林檎にまでなった。そのように、だんだん途中は悪くなっても「おじいさんのすることに間違はない」と最後まで信じていますと、結局、「柔和なる者は地を嗣ぐ」ことになるのであります。
基本人権の平等と妻としての立場
そういう話をしていますと、又ひとりの白鳩会の奥さんがこんな話をなさいました。 「そのアンデルセンの童話の話は前に聞いたことがあります。その話をきいてから、私は“おじいさんのする事に間違はない”――こう紙に書いて部屋中に貼って、それを毎日読んで信ずることにしたのであります。そうしたら不思議にいいことばかりが起って来て、自分の娘は二人とも好いところに縁づきました。その中の一人は名古屋に縁づいて先生が名古屋の公会堂で御講演になった時にも夫婦で揃って講演を聞きに行っていました。」 とお礼を言われたのであります。 こんな活を致しますと、男女の基本人権が平等なのに、男性の人ばかり自分の意見を主張して、女性にばかり絶対無我になって従えなどと云うのは極端な封建思想だと思われるでありましようが、封建時代でも、民主主義時代でも真理は決して変らないので、女性が素直に男の要求を入れてやることによってのみ、子を生むことが出来るような肉体の生理的構造になっていることが、封建時代も民主主義時代も変らないのと同じように、これは永久に変ることなき真理なのであります。 無論、民主主義憲法の下で、民主主義法律に女性を主張すること出来ます。そして夫よりも立派な仕事を社会的的にやり遂げることも出来ます。併しひとたび、夫との対人関係になりますと、妻が絶対素直に夫に従う人でない限りは、夫との家庭生活も不幸でありますし、妻も不幸であります。多くの女流芸術家の家庭が面白くない例が多く、水谷八重子が守田勘彌とわかれて独立したり、平林たい子の夫がいつの間にか、その女中に子供を生ませて、平林たい子に離婚話をもちかけた時「たい子は自分の自由にならない女だったが、××子は自分の自由になる女だから、自分は××子を愛している」と言ったと云うことが新聞に出ていました。しかも社会的に文学者としても社会評論家としても毅然たる平林たい子が、夫が自分を愛することが出来なくなったことを知って女性らしく泣いたと云うことが新聞に出ていましたが、これが男女平等理論と、真実「女性なるもの」の本性との相違なのであります。女性が夫の心から離れて、社会的に成功し、貢献し得るとようことは別問題として、結婚した女性の本当の幸福はその夫に愛される事であり、そして夫に本当に愛されるためには恰も彼女の膣が「無」にして素直に夫の生命の没入にまかせるとき快美感を得る生理的構造になっていると同じように、妻は先ず「無」になって柔かく優しく素直に夫にそうとき真に妻としての幸福が得られるのであります。イエスは「山上の垂訓」で次のように教えているのであります。 「幸福(さいわい)なるかな、柔和なる者、その人は地を嗣がん。」
以上が【第五章 妻としての真実の幸福】(『新版 真理 第5巻 女性篇』 50〜66頁)であります。この続きとして第六章があると私は感じますので、これも掲載いたします。
第六章 夫婦の意見が対立する場合
人間は完全に自由である
人間を拝むと云うことは、「合掌」というオマジナイをすることによって、相手を自分の欲する状態にならしめると云うような霊術ではないのであります。相手の「神性」を信じ、礼し、敬することであります。「おじいさんのすることに間違はない」ということを各部屋に書いて置いて、自分の良人のすることはどんなことをしても、間違がないということを信ずるようにしたら、良人が素直になり、良人の方から妻を信じ妻の欲することを何でも、みずから進んでして下さるようにあらわれて来ると云う事実は決してマジナイの効果ではなく、神性を礼拝する効果なのであります。 或る日の白鳩会でこんな話をしておりましたら、ある一人の婦人が発言なさいました。何でもその奥さんはクリスチャンだった人ですが、その人が生長の家におはいりになって、今まで病身であったものが非常に健康におなりになったのです。それで神様はありがたいとお考えになりまして、御主人にも、生長の家をお奨めになるのですけれども、御主人の方は「神道」信じておられて、生長の家の方には余り熱心におなりになれなかったのであります。そしで、毎朝神棚の前に坐って、神道の祝詞(のりと)をお誦げになりますけれども、生長の家の『甘露の法雨』はお誦げにならないのであります。 生長の家に熱心におなりになっていた奥様はそれが不平でたまらない。従って家庭の互の感情がどうもシックリ行かなかったのです。ところが、或る日のこと奥さんは、人間は各自が神から完全な自由を与えられているのであるから、心で良人を強制するのが間違だったのだと気がつかれたのです。そして、「矢張り是は自分の我というものを持っておって、生長の家でなければならぬという我をつかんでおっでて、そして良人を自分に従わしめようと他を強制する心をもっているからいけないのだ」と気がつかれたのです。「味噌の味噌臭きは上味噌にあらず」と云う諺がありますように、生長の家でも「生長の家という我」を握ったら、もう既に本当の生長の家ではないのであります。 生長の家は「実相そのままの家」であり「実相」の中には無限相がやどっており、それが適時、適所、適人にあらわれて来るのであります。その適時、適所、適人にあらわれて来るためには、生長の家の教えを信じながらも、而も生長の家を握らない境地にならぬといけないのであります。その奥さんは、自分考えで観た生長の家という「我」を握って、そしてその「我」によって良人がついて来たらいいというような気持があったのであります。 ところが或る日のこと、この奥さんは「是は悪かった。是は私の我であった」と気がついて、「私はもう生長の家をすっかり捨ててあなたに従います。そしてあなたと一緒に毎朝、神棚に祝詞を誦げて、神様を拝みます」とそういう風におっしゃったのであります。すると、良人は、「お前はそれで、生長の家でいいのだよ。別に悪いところはない。お前は一日中生長の家をやっておったらそれでいいんだよ」とおっしゃったと云うことであります。
妻が心で良人を縛らなくなったら
これがつまり、自分が無我になった徳の力であります。自分の我が無くなって良人を縛る心がなくなり、「すべて良人に従いましょう」と思った時に、良人の方から「お前は一日中生長の家をやっておったらいいんだよ。何も天津祝詞を誦げなくても、それでいいんだよ」と云うように、良人が生長の家に反対しなくなって、妻が白鳩会に出席したり誌友会に出たりするのをいやがらないで、喜んで出して下さるようになったのであります。これはその奥さんが自分の「我」というものを捨てて、「自分」と云うものが何にもなくなり、神の御心の中に、融け込んで往った時にそこに御心が成就するということになったからであります。 神の御心の中には、悪いものがないのですから、自分の「我」がなくなりますと、神の御心と一体になります。神の御心の中には良人もすべて包容されておりますから、自分の欲すること、神の御心、それは同時に良人の心でありまして、その三者が三位一体となり神の御心が自からそこに実現して来たのであります。 夫婦生活をしております中には、夫婦の意見が対立するということが往々あるものであります。そしで良人は良人で「私は之を正しいと思う」と言う。妻は妻で「私は是を正しいと思う」と斯う主張して良人と奥さんとが相譲らないで、議論する。議論に熱心になって、ついに火花を散らして興奮して争う。その結果、良人はムシャクシャして面白くないので余所へ遊びに行く人もあれば、「もうお前には物を言いたくない」と互にムッツリしている家庭がよくあるのです。けれども、こんな家庭が民主主義の家庭になるほど殖えて来ました。そんな場合に、奥さんが本当に無我になっておしまいになったら、却って良人の方から進んで、妻が望むであろう通りにして下さるようになるのであります。 先日も白鳩会の集りで、船橋に住む或る婦人がこんな体験談をお話しになったのであります。その人の良人は少佐相当官円であっって南方から復員して来た。ところが内地へ帰って来て見ると日本の現状が予想に反した頽廃したものであったので、ヤケを起して相当の資産を酒に飲んでしまったのであります。毎日毎日飲んで歩くので、もう此の良人を殺してしまおうかとさえ思った。その時、妻が良人を絞殺して死体をバラバラにして川に棄てた新聞記事が出た。それを読んで、「自分の心持も此の奥さんと同じだ」と思った位だった。ところがその頃生長の家にその奥さんが触れ、今まで良人を「悪い悪い」と思っていたがそうではなかったと云うことに気がついた。そして生長の家本部の飛田給練成道場へ練成に来て、「良人の有様は自分の心の影である。自分は無我になって良人を拝もう」と決心して練成道場から自宅に帰ってくると良人が全然変ってしまっていて、「今まで自分が悪かった」と言って全然酒をのまなくなり、今では家運も非常に繁昌に向ってきたと云うのであります。これは妻が決心を変えるだけで、その妻の心が良人に波及して良人の気持が一変した実例であります。 こうして今まで生長の家を喜んでいらっしゃらなかった良人が、すっかり生長の家に共鳴して、奥さんが祖先霊を奉斎してある前で、『甘露の法雨』を読んで神想観をするときには、良人も一緒に『甘露の法雨』を読んで神想観し下さるようになったのであります。奥さんが無我になると、奥さんが欲するように、良人の方が従って下さるのであります。結局女性は無我になったとき良人を自由に支配することが出来るのであります。尤も支配などという語を使うのはいけないのであります。妻と良人とが一体になるから、妻の欲することは良人の欲することになるから、良人が自然に妻の欲するようにしてくれることになるであります。 「柔よく剛を制す」という諺がありますが、「柔」でもまだ「柔かい自分」がある間は、絶対無我ではないのであります。本当に何もなくなった時に、その時に良人と妻と一体であるところの御心が実現するのであります。 神とか仏とかいうものはどこにあるかというと、宮とかお厨子(仏像を安置する画扉の容器)の中にあるのではない、宮とかお厨子の中にある本尊は象徴であります。その象徴を一心に礼拝して「我」というものを全然なくした時に、そこに神仏が現れて来るのであります。その原理と同じことでありまして、良人を象徴として自分が無我になって良人の内部にる「神性」を拝んだ場合に、良人に神があらわれ、その神と自分とが一体になるということになって、良人が自分のものになるのであります。良人と自分との意見が対立すると云うのは、実は良人と自分との意見が対立しているのではなく、妻自身の心の中に自己分裂がありまして、それが対立してあらわれるのでありまして、無我になり、零になるとき自己分裂がなくなり、対立がなくなり、夫婦の意見が完全に調和するのであります。
以上が【第六章 夫婦の意見が対立する場合】(『新版 真理 第5巻 女性篇』 67〜73頁)であります。どうでしょうか、皆さんはお分かりになったでしょうか。
さて、雅宣さんはスレッド題に掲載した「真理」が「永久に変わることなき真理とはいえない」と【‟神の子“は性別によらず】という冊子の中で認めています。その部分を掲載します。
『真理』女性篇は昭和30(1955)年が初版の比較的古い本で、論争的(polemic)な性格があります。著者が何かに対して強く反論されているということで、そこには論争でよく使われる"強調表現"極端な表現法が含まれていると考えるべきです。また、引用された箇所は、(Q1)に答える時に説明した「性別」と「ジェンダー」の間に因果関係を想定する考え方がそのまま表現されていて、「永久に変ることなき真理」とは言えません。その後の科学的研究ではこの関係は証明されておらず、社会学的にはほとんどの先進諸国で不採用となっています。同書は、今から約七十年前の女性に向けて書かれたご文章ですから、二一世紀の私たちに向けて善かれたものではありません。このことはとても重要です。なぜなら、「真理は人・時・処に応じて説かれるべきだ」というのは、谷口雅春先生ご自身の信念だったからです。このことは、本冊子10〜13頁で、総裁先生が『生命の實相』(頭注版)を引用して説かれていることです。
以上が冊子からの抜粋になります。
そもそも第五章も第六章も宗教的見地から書かれたものですので認識が違うのです。谷口雅春先生は「世間知と宗教的救いとは異なる」、「宗教は常識を超える」と書いています。しかし、冊子は世間知とか常識にとらわれて判断しており、宗教的見解ではないのです。雅宣さんもこの冊子作成に関与した人は宗教的見解を満たしていないと考えるべきでしょう。したがって宗教を語れないということになります。これでは宗教として生長の家の教えを教団が広めることは無理だろうと感じます。
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| 本音の時代様 (68596) |
- 日時:2024年12月03日 (火) 21時32分
名前:志恩
【『新版 真理 第5巻 女性篇』の第五章 【妻としての真実の幸福】、 長文を謹写してくださいまして、大変でしたでしょう。 ありがとうございます。
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| 今の生長の家は、完全に谷口雅宣教になってしまいました。 (68598) |
- 日時:2024年12月03日 (火) 22時36分
名前:志恩
このような谷口雅春先生の真理のお話を、読んで、 心に響いて、本当にそうだと、思える人と、 雅宣さんや純子さんのように、これは古い考えだと、 切り捨ててしまう人と、人間の中には、いろいろあります。
私は、谷口雅春先生が総裁先生の時代からの古い信徒ですから、 このご文章を拝読しても違和感はありませんけれど。 この真理と波長のあった人だけが、わかる真理なのだと思います。 しかし、 波長の合わない人は、これを読んでも、どこがいいのか、 さっぱりわからないのだと思います。 きっと今の時代の考え方と合わない古い考え方だと思うのでしょうね。
それで、雅宣さんが主張される環境問題主体の個人の人間のことよりも、 地球と自然を大事にする考え方や、月一か月二の子ども食堂開催とか、 石上げの行などに、波長が合い、雅宣さんが作った 3つの讃歌経などを、読誦し続けることのできる方たちが、 今の生長の家教団の信徒として、今の教団に残っていくのだと 思います。
そして、谷口雅春先生の教えは、雅宣さんによって 完全に切り捨てられましたので、 谷口雅宣教が、生長の家の教えに、 三代目さんから、切り替わったのだという印象を強く感じております。
この、雅宣さんが指揮される 2024年11月19日(火)に北杜市の生長の家国際本部で行われた ”代表者会議”での 教団の3カ年計画ですが、その運動方針を、全国組織で進めた結果が、 今後、繁栄すれば、それでいいのでしょうけれど、 そうではなさそうなところに、公案がありそうです。
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| (68600) |
- 日時:2024年12月03日 (火) 23時00分
名前:和顔施
人間は完全に自由である の項、
「味噌の味噌臭きは上味噌にあらず」の下行 「生長の家とう我」とあるのは、 「生長の家という我」ですよね?
合掌
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| >(68600) (68601) |
- 日時:2024年12月03日 (火) 23時36分
名前:本音の時代
ありがとうございます。 訂正しました。
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| >長文を謹写してくださいまして、大変でしたでしょう。 (68602) |
- 日時:2024年12月03日 (火) 23時43分
名前:本音の時代
ありがとうございます。 投稿することは、学びでもあります。
「新版 女性の幸福365章」の方もありますので、もう少しがんばります。
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| 書き忘れましたので、追加します。 (68603) |
- 日時:2024年12月04日 (水) 06時09分
名前:志恩
今の生長の家の3カ年計画の運動方針の中には、 強制ではありませんが、雅宣総裁ご夫妻が、 率先して実践されているノーミート運動も 当然、含まれる、と思っています。
生長の家教団の全国の部下たちも信徒たちも、 なるべく肉食は控えた生き方をする、です。
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| (68605) |
- 日時:2024年12月04日 (水) 08時13分
名前:神の子
肉は食べ過ぎないようにする。控えめにする。 酒もタバコも同様に。それぐらいが良いと思います。
それにしても…タイトルが長すぎるよ! シオンさんじゃ無いんだから。
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| 男女平等 (74319) |
- 日時:2025年11月26日 (水) 08時19分
名前:教団所属の本音の時代
私の所有する谷口雅春先生の数少ない女性に関する書籍で、「新版 女性の幸福365章」から抜粋掲載します。
模倣は同権ではない
男女同権ということは、互いにその生命の本質が「不可侵権」をもつもの――即ち「神の子」である―― という事実から出発する。そして、女性が男性と同じような働きをすることによるというように、行為において男性模倣によって同権になるのではないのである。女性は愈々女性たることの権利を有すること、男性が愈々男性たることの権利を有するのと同じでありながら、相互に尊ばれるということが男女同権である。 権利の主張ばかりになってしまっては、人生は索漠として味気のないものになってしまう。愛情を感ずる人には自然に仕えたくなるものなのである。その自然の衝動を殺して、男女同権だと頑張って、ただ機械的に職務だけを遂行するのが“新しい女”だということになれば、そこには“人間”もなく“女”もなく、ただ“機械”と“制度”とだけがあることになる。好意とか愛情とかは、ただの“職務”だけ以上、“機械的”以上に、献げるからこそ表現され、美しい人情というものが湧いてくるのである。ただ権利の主張だけでは、人生は争闘であり、人情の美しさは湧いて来ないのである。(「新版 女性の幸福365章」 245頁)
“構える心”は美を失う
男女の絶対平等論で「社会に進出する婦人には、男女に絶対平等主義を貫くべきだ」と主張している坂西志保さんが次のように言っているのは面白い。「お茶汲みをするということにつきまして、日本の女性は少しノイローゼになっていると思うのです。お茶汲みがほんとうに最下級のものであって、それをしておれば男から軽蔑され、男と対等の能力のないものに見られている、と自分で決めてかかる。こういうことはいまの社会に適応しない一つの考えかたで、私が会社に入ってお茶汲みさせられたならば、世界一の立派なお茶汲みになって、できるだけ早くそういうものを卒業して、もう一歩高いところに行こうという努力をしてこそ認められると思うのです。」 女性が「女らしくある」というのは「本来の自然」であるから、 「構える心」がなくなったとき本当に正しい女らしさを発揮するのである。しかし此頃の若い女性のうちには「近代的らしく」あろうと「構え」ている人が多いのである。「女らしく」あろうと構えるのも「近代的らしく」あろうと構えるのもどちらも其儘の美を失った姿である。
男性と女性は位相が異(ちが)う
「男と対等になりたい」という女性の考えそのものが「対等でない」という劣等感から来るのである。そして女らしいものを抛棄(ほうき)して、男性類似になりたしと思う。しかし男性類似は、どこまでも類似品であって、男性と同等にはなれないのである。そんな事では何時まで経っても真物(ほんもの)と類似品との距離がある。女性が男性と同等になろうとして、女性的なものを拒むのは、本来の天分を否定して、「女性でない女性」――そして男性類似品(つまり不具者(かたわ))になろうとすることである。不具者は 「完全なる女性」よりも一層不完全なものであることは明かである。 女らしさ 柔らかさ、しなやかさ、愛情の深さなどというものが、男らしさ、剛(つよ)さ、固さ、知的な深さというような諸徳にくらべて劣っているというわけは全然ないのである。それなのに女らしさの諸徳を、男らしさの諸徳よりも劣っているが如く宣伝するのは或る外国が日本の美しい家庭秩序をこわして、社会生活を混乱に陥れたい陰謀にのせられているのである。位相の差によって生ずる秩序は、美的調和の生ずる根本原則である。(「新版 女性の幸福365章」 246〜247頁)
女は女らしいのが天性
男女同権になろうとするために、出来るだけ“女性的なもの”を自分から排除しようとする――その事自体が女性意識過剰なのである。病気から治ろう、治ろうと考えること自体が病的意識過剰のようなものである。「病気」を心から放ってしまったときに、「病気」が治っているように、「女性的なものを排除しよう」とか「男性の如く強くなろう」とかいう考えを捨ててしまったときに、「本当の人間」があらわれる。「本当の人間」があらわれるまでの過渡時代の人間は、すべて歪められたる人間像である。女と生まれてその人の「本当の人間像」があれわれたら、その人は「本当に女らしい」のではあるまいか。もっとも,「本当の女らしさ」は、構えて「女らしく」する女らしさではなく、自然の女らしさである。 数学の天分ある者が数学で人生に貢献し、絵画の天才が絵を画いて人類の文化に奉仕し、科学者が科学的発明によって人間の福祉を増進するのはよいことである。何故ならそれは各々の天分により能力により、人類に幸福を与えるものであるからである。では女性がその「女らしさ」の大天分で誰かを喜ばし人生に花を添えることがどうして悪徳であるのか。
名もあり豊かで美しく
えらくなることと、幸福になることとは別のことである。社会的に名声をあげながら、家庭生活が不幸な女性は沢山ある。却って地位も名前もない女性の中に本当の幸福を味わっている女がいる。
女性も知識を積み経験を重ねて、常に一層賢くなることは必要ではあるが、それよりも尚一層必要なことは、新しい自己の発見てある。生れたままの、野生の、幼児のような“自己中心の自我”から脱却して全体につながる自己――“自己没却の自我”を発見することが一層大切なことである。“近代的婦人”と誇称するものの中には、実は幼児そのままの、社会性をもたない自我の主張が多かったり、“封建的女性”とさげすまれているものの中に、実に自己没却に徹し切って、社会性の中に融け込んでいる崇高な自我を発見することがあるのも実に皮肉である。
経済的に独立しても
女性は自己の力で生活し、経済的には自立していても、それだけでは決して幸福にはなれないのである。人間の幸福は、経済的に豊かなだけで得られるものではない。どんなに経済的に独立していても、「愛情」は心の問題であるから自慰するわけにはゆかない。どんなに経済的に豊かな女性も、誰かに力強いものにじっと抱きしめてもらいたい衝動が起って来る時が来るのである。 自分で経済的に独立していない女性が、はじめて経済的に独立した生活を得たときには「我れ勝てり」というような喜びを感ずるときがあるかもしれないが、それは空腹のときに食を得て満腹した場合の生き甲斐のようなもので、長つづきはしない。 その経済的独立がなんの変哲もなくつづいていると、やはり愛情がほしくなる。それが女性の天分である。立派な女社長が若い燕をこしらえたり、有名な女流作家が良人の浮気に泪を流してくやしがったりするのも、経済的独立だけでは女性の生き甲斐は得られないことを示している。
しかも自然に女らしく
自力で自己の生活を支え、はたらくことの中に人類の仲間として何事かを貢献している悦びを持ちながら、男子と対等の立場に立って、男の飼猫になることなく、しかも女の優しさを失わずに、夫婦互いに相愛し合う生活を送り得る女性は幸いである。自力で自己の生活を支える女にありがちな欠点は、その家庭生活でも女の優しさを失いがちなことである。マス・コミにおだてられて、今まで圧迫された階級の反動みたいな言語動作をするのは本物ではないのである。なんでも反動は行き過ぎであり、自然そのままではない。女性のそのままがあらわれながら、高い理想を失わずに、そのはたもきのうちに人類へ奉仕しながら、それでいて愛する人に事(つか)える喜びを楽しむ生活。 「男に負けてなるものか」という観念があって生活を自己で支えようというような力みの生活がウソの生活である。勝っとか負けるとかの概念がなくなって、女性でなければ与えられない種類の愛を男にささげ、男でなければ与えられない種類の愛を男から受けるべきであり、愛の種類が異なるだけで価値の上下がないことを相互に理解して愛し合うべきである。
対立観念は奴隷の心
男に対して対立観念をもっている間は、たといその対立観念が男を征服しようという考えに発展してさえも、女は男に対して奴隷である。女性が男性を征服したと思ったとき、彼女は男性の奴隷となっている。 ボーヴォワールはこのことを巧みに表現して、「交尾のあとで雄を食ってしまうカマキリでも彼女は雄を自己の快楽の道具に使おうと試みるが、それによって雄から解放されているとはいえない。なぜなも雄を引き寄せるために先ず雄に媚びなければならないからだ。アメりカの女は自分を偶像のように崇拝させようとして、彼女の崇拝者たちの奴隷になっている。彼女は、着るにも、息をするにも、ただもう男を気にし男を目あてにする」と。
結局、女性が男性よりも優越しようと思っても、対立観念で相対している限りは彼女は男の奴隷である。対立がなくなったとき、もう征服者も被征服者も、主人も奴隷もなくなり、そのまま調和した男女関係があらわれるのである。
男の仕事・女の仕事
妻の仕事が単調であると言って、女性ばかりが生活の重荷をひとり負わせられていると考えるのは間違いである。男のやっている仕事も随分単調なことばかりてある。毎日同じ乗物にのって出動する、同じ机に向って、同じ帳簿に向って、同じような数字を記入する。而も自分の生活とは殆ど関係のない会社の物品や金銭の出入である。まいにち同じ自動車を運転する商売の良人もあるし、同じ機械で同じような金属を削っている食業の良人もある。しかもその自動車も金属も「自分の持物」ではない。 それにくらべると、家庭の中で、自分の腹から出た子供を育てたり、自分の良人に着せる着物を手入れしたりする妻の方が、実際はたらき甲斐のある仕事をしているのである。何故なら、利害関係ばかりでなく、愛情を含んだ仕事をしているからである。家庭の仕事をまるで奴隷の仕事のように思って、家庭から逃げ出したがる女性があるが、どちらかというと、現代の分業的経済組織の世界では、男性の社会的仕事の方が愛情もない機械的な仕事をしているのだということを知らねばならない。
家事は女性の尊い天職
家庭的な仕事はもっと権威をもち、且つ尊重されなければならない。女性みずから家庭的な仕事(例えば炊事・洗濯・育児等)を軽蔑して、外部的仕事に進出することによってのみ、男女同権になれるというような考え方をするときには、女性の本性そのものをみずから軽蔑していることになるのである。炊事・洗濯・育児等が、会社の事務にくらべてまさるとも劣らない尊い仕事であることは、一日でも女性が家庭においてその仕事を廃したら生活が殆ど成立たなくなる事実によって知ることが出来るのである。女性の地位を向上させるということは、女性が外部的な社会生活に進出することによらないでも、内部の家庭的仕事が如何に重要であるかを男性に知らせることによってできるのである。 乾燥した会社の事務的な仕事だけが「人権」を確立するのであって、暖かい柔しい優美な家庭的な仕事が「人権」を低くするという考え方が間違っているのは、公平な眼で見たら誰にもわかる筈である。女性の人権を尊重せしめることは、女性が家庭的な仕事から逃げ出すことによってではなくて、家庭的な仕事の尊さを男性に覚らしめることによってである。
仕えることは自然の喜び
女性が、男の機嫌をとり、男の周囲を快適にするためのサービス的生活をするのを何か恥辱な生活のように感じて、その反対をすることが新しい女の生活のように宣伝している知識もある。しかし女を愛する男は、女の機嫌をとり、女の周囲を快適にするために自然にサービスしたくなるのである。男を愛する女がそれと同じ感情を持つことも自然ではないか。その自然の感情から美しい男女関係、夫婦関係が生まれるのである。その自然をこわして、互いに相手を快適にしてやらないように修行することが、民主主義というものだったら、民主主義は地上に天国を実現する資格をもたないものである。
人のために働くとき、その働きそれ自身が幸福感を招(よ)ぶ。さらに彼の働きによって恩恵を受けた者が喜ぶ笑顔や感謝する心の反応がつたわって来るとき、二重の幸福が重なって来る。人間は自分の存在が誰かの為になっているのだという自覚がないときは、生き甲斐が感じられなくなるものである。
おんな生ける意義あり
女性が食事の支度をしたり、家族の着物の世話をしたりうるのは、女性が本来「育てる」天分をもつっているつづきなのである。赤ん坊がうまれたら、女性は直接的な“生みの親”として、食物を与え、着衣をととのえ、おむつなどを洗濯してやらなければならぬ。それが「母性」の仕事である。女性が、炊事をし、裁縫をし、洗濯を受持つのは、人間においては自然の天分の実現であって、決して女性侮辱でもなければ、女性に「低社会的地位」を与えたという訳でもない。良人が機械工場で重い金属を運搬し、油で腕や顔を真黒にしながら働いているのと、妻が家庭で、子供を育てたり、炊事や裁縫をしているのと、どちらが「高い社会的地位」というのであろうか。(谷口雅春著『をんな生ける意義あり』参照) “面倒だが婦人の役目だから仕方がない”と思って御飯を炊くことも自由であるが、お米や水や火に、それらを出現せしめたまうた神に、また農人や商人に感謝しつつ良人や子供に、美味しい食事を手ずから調理し得ることを悦びながら炊事することも自由である。同じことをしながら、前者は「苦痛の世界」に住み、後者は「悦びの天国」に住むのである。
これからの女性は
これからの女は、昔の女のように、自分の運命を男のやり口の上手下手にまかせて置くだけて、ただ男の儲けて来た金のうちの幾分かをヘソクリという形で貯えて置き、そのヘソクりの中にかすかな“自分の自由”を見出して楽しむというような消極的な考えではいけない。もっと高い理想と、大きな希望をもたなければいけない。ごく平凡な生活で、どうにか食わせて貰って満足しているような生活から、一歩進んで、女でなければ出来ないような社会的な仕事を見出して、男と争うのではなく、女性としての文化も築いて行くようにしなければならない。
肉体の柔かさと、容貌の美しさとだけを売り物にして、男に飼いならされて生きて行く飼猫のような生活は恥じなければならない。しかし ゴツゴツした男のような女になれというのではない。現代の生活がだんだん集中豪雨的な荒々しさになって行って、優美な言語動作が失われ行きつつあるのは人類の損失である。
もつと勉強しましよう
新しい経験には恐れずにぶつかって行くようにするがよい。そして会合なども出来るだけ出席し、新しい人にも出来るだけ対談する機会をつくるがよい。人生は触れ合うことによってて多く学ぶことがあるものである。引込み思案になっていてはいけないのである。 おおくの女性は書物や新聞雑誌を見ても、政治経済評論や学芸欄や哲学的な記事はあまり読まないで、小説や軽い随筆や、三面記事などに心をひかれがちである。だから世間話の種は沢山もっていても、物事の実体を正しく把握するために必要な、腰の据った、基礎的な資料や人生観をもっていないことが多い。「科学する心」と共に、もっと「哲学する心」というものを養うことが必要である。「哲学する心」とは五官で現象を見て、その状態の変化にフラフラさせられるような心ではなく、移り変る現象の奥にある真実の実体をつかもうとして真実を凝規する心である。
決断力を養うこと
決定的な瞬間が来ているときに、決断の表明を遠慮してはならない。決断の表明を遠慮していると自分の欲しないことが、恰も欲しているかの如く与えられることがある。それがその人の生涯の運命を決定することになりかねないのである。婦人はもっと自己の好悪をハッキリ表明する自由をまなばねばならない。 不快断はただ精神的に自己の活力を擦り減らすだけである。好きな人は好きてあり、嫌いな人は嫌いである。省みて悔いのない人生を生きるようにしなければならない。他を欺くことは無論悪いが、自己を欺くことは一層大なる悪徳である。 否(ノー)、ということを断じて言うことを遠慮したために、一生涯の運命を台なしにした女性も多い。悪事に対して否と言い得るばかりでなく、自己の快楽や物質的利益に対しても、それが魂の生長を裏切るものである場合には否と断じて言い得る女性にならなければなりません。決意と断行の勇は女性には殊更に必要です。決意と断行なければ、いたずらに生命力と時間とを浪費するのみです。
男ごころを知ることも大切
男というものは、どんなに深く一人の女を愛していても、そのほかの女の美に51きつけられたり、魅力を感じたりすることがあるものなのだ。だから、夫がほかの女に多少引きつけられることがあっても、妻への愛情がうすれた証拠にはならないのである。それなのにその夫が一人の妻を守りつづけるとしたならば、それはその夫が、道徳性が高く、意志が強固で、妻に対する愛情への責任感が強く、生理的な誘惑を自分自身で支配し抑制しているにほかならないのである。 軽い冗談のような嫉妬は、夫婦の愛情に一種の風情をそえることがあるが、真に女性が嫉妬したとき、その女性は醜くなり、却って魅力がなくなって、夫からきらわれる。夫が仕事に忙がしく、妻を顧みなくなったように見えても、妻は夫の愛情がうすれたのだと思って嫉妬してはならない。夫が妻を顧みないように見える場合に、実はその夫はもう完全に妻を愛しっていて、「妻は決して私からは離れ去らないものだ」と信じて、安心し切って仕事に従事していることがあるものである。
男の手連手管にのってはいけない
計画的な技巧の含まれた恋愛遊戯が、所謂る手練手管というやつである。男は時として犬を計画的技巧で飼いならすように、女を飼いならして自分の自由にすることがある。犬に餌をやるように、男は女に金をやったり、贈り物をしたりする。それを受けて 女は男から愛されていると思う。男の方もその女性を愛していないことはない。しかし、その愛情は、自分が計画的技巧で飼いならした犬を手ばなしたくないのに似ている愛情に過ぎないこともある。男からの贈り物に注意せよ。
男に自分の容貌や衣裳をほめられて“好い気”になっていると、男の誘惑にかかるものである。男は、その女に真に夢中になっているならば、その女の容貌などをほめるほどには余裕はないのである。女の容貌や衣裳をほめたりするのは、多少ともその女を客観的に離れて見る“心の余裕”がある証拠であり、女の心を動かそうと、多少計画的な技巧が含まれている証拠である。
弾力ある女性たれ
女性は優しくあれ。ドライな女性を好む男もあるが、それは女性的な男のみである。やさしくて心が強く、弾力性がなければならない。そして弾き返すべき時には敢然として弾き返す。“ノー”と言うべき時にはハッキリ“ノー”と言う。それでいて把むべきときにはシッカリと護謨のような弾力性で相手を把住しなければならない。風をひいたゴムのように弾力性のないドライな女性は、女性たる天分を失ったものである。 女が男に身をまかせてしまった後はガラリとその男に対する態度が変る。まるで、その男を女が占領したような気になるのである。占領者が被占領者に対するような態度で、妻が良人に対したならば、良人だってやり切れない。 婚前の交際中は美点のみを見せたり、遠慮勝ちな、つつましやかな態度をとっていた女性が、ひとたび結婚すると強情になり、まるで膨れっ面をする権利を獲得したようになるのは、女性みずからが自己の愛の基盤を履えしつつあるようなものである。家庭を幸福にしようとしまいと妻の心ひとつにあるのである。
虚栄心を捨てましよう
およそ人の上に立った感じで自己の尊厳を維持しようと思う者は、常にその尊厳を傷つけられないかを恐れて、いらいらしていなけれぱならない。虚栄心の多い女性はこうして苦しむのである。人の偶像になりたいような虚栄心は捨てるがよい。一番下に落ちたとき、人間の生命は安定する。 虚栄心が却って、自分を堕落の世界に落している場合がある。美しく自分を飾りたいために、身体を売っている女性もある。そしで身体を売るためには益々美しく自分を飾らねばならない。虚栄心は、阿片吸引の悪習慣と同じように悪循環をして、生涯彼女を縛りつづけるのである。 あらゆる財宝よりも「神」は尚一層すぐれたる財宝である 何故なら、あらゆる財宝は朽ち、滅びて無くなるものであるけれども、「神」は決して朽ち滅びて無くなることはないからである。神の御心に従って生きんことを願い、神の如く高く神の如く清くならんことを願い、しかもその願いを捨てずして、世俗の良人に誠心(まごころ)をつくす者、よき妻なる哉(かな)。
別あって和あり
幼年期に、あまり男性・女性の区別をつけて教育してはならない。「お前は女だから、引込んていなければならない」と始終口癖のように言う母親は、自分の娘に劣等感を与えるものである。
性的特徴が肉体にもハッキリあらわれるような年齢になると、女性には女性にふさわしい天分が自然に開発されて来るのである。それは肉体的特徴や女声男声の声の特徴がハッキリあらわれて来るように能力の特徴もハッキリして来るものである。こういっても女性を唯「家」の中に閉じ込めて置けというのではない。社会に又は学的研究に進出するにしても女性に適するものと、男性に適するものとがおおよそあるのである。特殊の例外はこの限りでないが、社会は、男性と女性との特殊な力の扶(たす)け合いによって出来ているのである。男女の能力の調和した社会が理想的社会である。
女は女であることが幸せ
女性は男から「有(も)たれる」ことを望み、男性は女を「有つ」ことを望みがちでめる それは両者の天分がしからしめるところで、女性が男を「有つ」ことを望み、男性が女から「有たる」ことを望むようになったら、天地逆転である。近代の男女は多少この逆転の傾向がないでもない。 社会的に活動する婦人も幸福でないことはない。けれどもそんな婦人は特殊の天分をもって生れて求た女性だけに限られた幸福である。大多数の女性は「女が女であること」が幸福なのであろ。そこに受身の生理的構造をもった女性の天賦の幸福があるのである。一般に女は“愛される妻”となって、夫に「有たれる」ことに無上の幸福感を得るものである。 妻が夫から「有たれる」ことをわすれて、夫を「有つ」こと、夫を支配することを好むようになったとき、妻の幸福も、夫の幸福も共に逃げでしまうものである。そうした夫が、家庭の外にただ純粋に「有たれる」ことを悦びとする女を求めることになるのは、無理もないのである。(「新版 女性の幸福365章」 248〜265頁)
以上で抜粋掲載を終わります。

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| 虚栄心を捨てましょう (74339) |
- 日時:2025年11月26日 (水) 22時17分
名前:神の子
いやー良いこと書いてあるね。 あの人にも聞かせてやりたいね。
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| 男と女の天分 (74348) |
- 日時:2025年11月27日 (木) 11時50分
名前:教団所属の本音の時代
【男も女も、基本的人権は同じ高さにあるのだが、それぞれに天分が異ることは、一見した時、体格の相異に気づくことである。 神は、男女を同じ体格にお創りになっていない。それはそれぞれの天分が異るからである。男性の胸は巾広いが偏平であり、女性の胸は巾は狭いが豊にふくらみ、育児のための乳房となっている。男性は骨格が大きく、筋肉がたくましいが、女性は骨格が小さく、筋肉はたくましくなく、脂肪でやわらかく包まれている。両者は肉体が異るごとく天分も異り役柄も同じ役は勤まり得ないのである。錯倒したり混乱したりして、男性が女性らしくなったり、女性が男っぽくなったりしては、人生劇場は大根役者ばかりとなる。そこはもはや一流の劇場でなくなるのである。 榊猪之介氏が『ムコえらび』と題して書いて居られた民話を、私は面白く読んだことがあった。その一部を抜萃して見た。 徳川家康に小松姫という養女があった。家康はこの姫のムコを選ぼうとして、或る日独身の大名をお城に集めて小松姫に言った。 「そなたの好きな大名を、ムコに選んだがよい」 と。若い大名たちは平伏しているので顔が判らないので、姫は一人一人の前に行って、彼等の髷をつかんで引き起して顔を見た。大名たちは姫の無礼を不快に思ったが、家康の娘だからとて、黙って耐えていた。最後の大名は真田昌幸の子信光であった。 姫の手が信光のマゲにふれた瞬間、 「無礼者」 と、姫を一喝し、手にしていた扇子で、姫の横顔をしたたか殴った。殴られた姫は瞬間、顔をパッと赤らめたが、別に事を荒立てるでもなく、自分の席へ帰った。家康は、 「どうじゃ、気に入った者は居たか」 「ハイ」 「どの大名じゃ」 「あのう、あのお方です」 といって、自分の扇子で指した男は信光であった。姫は信光の妻となった。 家康の威光を傘に着て、青年大名たちに不当な無礼を働く姫、そして、自分の不利を恐れて堪えている意気地なしの大名たち、その中にあって、勇気をふるって姫を打った信光、彼こそ男らしい男であった。 高慢な姫は、男らしい男の前に屈服した。 信光がいなかったなら、小松姫は、髷をつかまれても平伏していた男たちの一人と結婚して、一生夫を見下して暮したことであろう。男らしい夫の前に平伏する姫は幸せだったと思う。 家康は悧巧な人であった。愛する小松姫の夫に、気骨のある男を選びたかったのであろう。内心口惜しがりながら、平伏しているような男は頼みにならないものである。 自分の正しいと信じることは、威武に屈しないで、堂々と発言し得る人が男らしいと言える。また、そのような人こそ真心の人だと言えよう。 九月二十三日の秋分の日、私たち夫妻は恵美子と三人で、本部の慰霊祭を終えて帰路についた。 清超は旅行中であった。 明治神宮へ参拝のためか、原宿駅はいっぱいの人であったし、表参道も左右両側ともおびただしい人出であった。 「何とさまざまな姿の人たちだろう。膝上のミニスカートの姿が消えたと思ったら、今度は反動的にロングスカートになった」 「女もズボンをはいてるね」 「あれはズボンと言わないけれど」 「似たようなものだ」 ぞろぞろと若い男女が織るように去来している。赤や青の奇抜な服を着ているが、それは男も女も着て歩いている。 恥ずかしそうでなく、当然のような顔をしている。全く無差別で混沌としている。ノドボトケを覗きに行かなくては判然としない光景である。 「この頃の世の中も変ったものだ」 と嘆声を洩した。中性の男女でいっぱいになって来たようである。 私は『らしさ』を強調したい。男性も女性も大根役者になっては恥ずかしいことである。男性は男性らしく、女性は女性らしく、 それぞれの天分を生かした名演技を演じて、素晴しい名優となって欲しい。】(『理想世界』誌 昭和49年12月号 谷口輝子先生の文章から)
谷口雅宣生長の家総裁は、『“神の子”は性別によらず』の中で、【「男女平等」についての生長の家の立場は、はっきりしていない】と書き、教団は【生長の家自身が長年、男女別による固定的な役割分担論を前提として運動を進めてきた】と書いています。それは、真理の視点から論じて、正しいのでしょうか。谷口輝子先生が書いていますが、天分が生かされているか、どうかが問われていると思うのです。

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