生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)
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【『新版 真理 第5巻 女性篇』の第五章 妻としての真実の幸福】※指摘により件名変更 (68594) |
- 日時:2024年12月03日 (火) 20時21分
名前:本音の時代
上記の文章が掲載されている【『新版 真理 第5巻 女性篇』の第五章 妻としての真実の幸福】を先ず読んでいただきです。
第五章 妻としての真実の幸福
夫婦の意見の対立
先年、私がある道場へ出て人生相談を受け持っていた頃のことであります。一人の女の方が私の前にお進みになりまして、何か質問のことを半ば言いかけていらっしゃいましたが、聴衆の皆さんがその態度を見て、どっとお笑いになりました。皆さんが余りお笑いになるものですから恥しそうにして、言い淀んでいらっしゃいましたので、 「それなら白鳩会の集りでお聞きしましよう。」 といって、私の次の集りの白鳩会で、その方のお話をお聞きしたのでありました。その方は中々智慧のある奥さんでありまして,わざわざ富山県から問題を持っていらっしゃいましたのであります。 その問題は何であるかと言いますと、夫婦の中に子がないので、親類の娘を自分の子供にして貰おうということになったのでありますが、その親戚の娘には姉妹二人あるのですが、一人は二十一歳、一人は十八歳であります。ところで、その奥さんの欲しいの十八歳のお嬢さんであります。御主人が欲しいというのは二十一になる姉の欲しいのです。夫婦相互の意見が対立してどうしたらいいだろうと迷っているというのであります。 どうしての方がいやだとおっしゃるかというと、そのお嬢さんは身体が弱い、どうも胸の病気がありそうだから、そんな病気でいる者を家へ貰ったら死んでしまうかも知れないと云うので反対なさるのであります。 ところが奥さんは生長の家の熱心な誌友で、そんな病気なんか「人間・神の子」には本来ないのだから家へ連れて来たらよくなる、私の家庭の光明雰囲気につつまれたら、よくなるに決っている。何もいま病気だ、身体が弱いといってそれがいつまでも続くということはない。病気本来なしなんだから消えてしまう筈である――こういう意見なのであります。そこで夫と奥さんとの意見が対立してどうしたらいいのかわからないと仰言るのあります。
気性の荒い娘
「では奥さんはどうして上の方の娘が嫌いだと仰言のですか」と訊くと、「姉娘はどうも気性が荒いのです。あの気の荒いお嬢さんでは到底私の娘に貰ってもどうしても調和のしようがないのです。ですから、身体が弱くても十八歳の方は性質がやさしいから、今は病気でも本来病気は人間にはないのだから、家に貰って仲よくしでいるうらに健康な身体にして育ててゆくことが出来ると考えるのでございます」と言われるのです。 「御主人の言われるようになさいませ」 と私は突然返事をいたしました。するとその奥さんは、 「だってそんな気の荒い娘では、私はとてもかなわんのです」とっしゃるのです。 「併し、その弱い方のお嬢さんをお貰いになっても、その病気治りませんね。」 と私は答えました。 「それじゃ、生長の家では病気はないといっていながら、その病気は何故治らないのですか、生長の家でも結核は治らないとおっしゃるのですか。」と反問せられました。 「それは、あなたの御主人とあなたと争っていらっしゃるからですよ。夫婦が争っている間に育つ子供というものは多くの場合に於いて病気にかかって、しかも、それが往々重症の肺結核とか肺炎とかになってそれが中々治らないで死ぬ実例が沢山ある。今現にあなたは夫のいうことをきき入れないで、そして自分の意見を通して、そしてその優しい方の身体の弱い方を貰いたいといっていらっしゃるのは、それは夫と意見が対立して心の中で争っていらっしゃるのだから、争っているあなたの家にそのお壌さんを連れて来て、 そしてそのお嬢さんが健康になるということは保証することが出来ません。夫婦の心が争っていることが心の病気なんだから、その心の病気が子供に映ると、子供の病気としてそれがあらわれるのだから、あなたがた夫婦が互いに意見が対立して、争っているという場合には、余程頑丈な体質の子供でも病気になることがあるのだから、そんなもう既に病気にかかって弱々しい身体を、その心の争いの中に連れて来るということは、それは却ってそのお嬢さんを殺すことに-なりますよ。」
知性の勝った奥さん
私はそういうお答えをしたのでありました。その奥さんは中々頭のはっきりした、判断のしっかりした奥さんで、或る点では非常に素晴らしいのですが、その奥さんに子供が生まれないということが、ちょっと奥さんがしっかりし過ぎていて夫の言葉を容れてやらないという事を表しているのであります。夫の言葉と云うものは、言葉は命(みことのり)であり、「命」でありますから、夫の「命」を素直に受けて育てないことがあらわれているのです。 このように奥さんが余り夫にうち克っているような生活の家庭に於いては、往々子宝を恵まれないことがあるのであります。『古事記』の伊邪那岐・伊邪那美の命(みこと)の「国生み」の段(くだり)に、その生れた子が水蛭子(ひるこ)であり、淡島であって不完全な子であるからとて流して捨てた。そして何故こんなに不完全な子が生れたのであるかと天津神(あまつかみ)におたずねすると、「女人(おみな)を言先だちて良(ふさ)わず」と天津神はお答えになったと書いてあるのです。夫婦の中で、女性の方が強くて、夫はこういうのだけれども、一遍生長の家へ往(い)って講師先生に聞いで見よう。生長の家の先生が自分と同じ意見だったら、夫の考えを押しつぶして自分の考えを押し通そう、と思って出て来るのは、そのことが既に女の方が強いことを現わしているのであります。
世間知と宗教的救いとは異なるのです
その奥さんの態度から考えられましたことは、唯素直にハイと夫に無条件に従えと言いましても「夫だって間違うことも時々あるわけだから、私の意見だって尊重しなければならない」そういうような見識の高いところが見えるのであります。これは世間の普通の見識と云うものでありまして、宗教の救いと云うものはその世間の見識を超えたところ、一ぺん何もかも捨てて「無」になったところから浮び上って来る光であって、常識でつべこべ言っている間は駄目なのであります。そこで私は申しました。 「あなた、無我になって、自分の意志というものを悉く捨ててしまって、そして仏の御心を行ずる、或は神の御心を行ずるというその決心にならなければすべてのことはよく行きませんよ。自分が斯うしたいと言うことを固く握っておれば、必ず相手が斯うしたいという考えと衝突するものです。要するに信仰というものは、是は仏の御心を生きること、神の御心を生きることであって、自分の都合の好いように工夫することではない。自分が本当に一ぺんカラッポになって、其処から出直してくるんですよ。」 ところがその奥さんは言われました。 「夫の言う通りに従うということが、必ずしも神のいのちに適うかどうか分らないでしよう。或は夫の迷いの心に従っているのかも知れないでしよう。夫が本当にいつも神と一体であり、その言葉が神のお言葉であれば好いのですけれども。」 私は答えました。 「それが常識と云うものです。宗教は常識を超える。結局夫というものは、家長としてその家の中心座にいるときはそれは家長の理念、言い換えると父の理念の表現です。父の理念というのは結局、神の理念であって、宇宙の親様の理念というものがそこに姿を現しているのが、家長の理念であり、それは、古事記で言えば、伊邪那岐命の理念がそこに現れているのであるから、伊邪那岐命のみことのりのまにまに伊邪那美命に当る妻が従って行ったならば、そこに必ず好いことが実現するのです。それなのに妻が夫に反(そむ)いて自分の我を通して行こうという場合には何事も思うように行かなくなります。古事記の所謂水蛭子(ひるこ)や淡島が生れるのであります。夫に従うということは、実はそこに肉体をもって現れていらっしゃるところの伊邪那岐命のみこころに従うということになるのですよ。併しまだ入信の最初はそんなことをいっても納得が難しいでしょう。あんな荒々しい気性の娘を貰って、此の家の中が円く治まる筈がないというようにお考えになるでしょうけれども、それは途中のことであって、途中の過程はそういう風に見えても絶対にあなたが自分というものを無我にして、素直に夫にお従いになったら、その貴女の素直な柔かい心がその娘さんに反映して、その娘さんも素直な柔かい心の方におなりになりますよ」ということをお話したのであります。
神の心の中には悪いものはない
だいたい信仰というものは、無我になって、ただひたすら神の心を実現することであります。我が意を実現するのでないのであって、神の心を実現するというのが是が本当の信仰生活であります。そして神の御心を本当に実現出来たならば神の御心の中には悪いものはないのだから、現実世界はまた必ずよく行くものであります。 こんなことを申上げていますと、その奥さんは「中々私はそんなに修養が出来ていませんから先生のおっしゃる様には出来ません」とおっしゃるのであります。それが矢帳り「我」を突っ張っている姿なのであります。それで私は、 「あなたは出来ませんとおっしゃるけれども、決して出来ない事はない。何か重いものを持って来いとか、つかみ難いものを努力してつかめとかいうのなら出来ないかも知れないけれども、私の言うのは何を持って来いということでも提げて来いということでもない。握っているのを捨てなさいというのだから、誰でもしようと思えば出来るのですよ。私は言いました。 本当の信仰は無我になることから始まるのでありますから、無我と謂うのは握っているものを先ず捨てることなのです。「私は斯うしたい」と思っている其の「たい」を捨てればいいのであります 「無我即神」と言った人もありますが、「無我」のところに神があらわれるのであります。慮知の心(思慮分別の心。人間のはからいごころ)を起して用意周到に斯うなさいと言うのだったら、捩じ鉢巻で考えなければなれないから難しいかも知れませんけれども、自分の心を捨てなさいと言うのだから難しいことはないのであります。本当にこの婦人が「修養が足りない」と自己批判したのだったら、そんな「足りない慮知の心」を握っている筈はないのです。口には「修養は足りない」と言っていながら、それは自分の考えを捨てたくない為の口実であって、本当は「私の修養が足りておるから自分の思う通りにやりたい。自分の考えは正しいから第三者から文句を言って貰うまい」と思っているのであります。こう云う風な人は、謙遜のようで、実は慢心している。慢心の我が、その慢心を誤魔化しながら自分の我を推し進めるために、「私は修養が足りないから、無我になれぬ。」と云うことを口実にする。本当に「自分は修養が足りぬ」と気がついたら、まことに申訳なくて自分の「我」など主張できなくなるのです。 そういうわけで私は「捨てなさい、捨てたら、屹度いいことが出て来るのですよ」と言いますけれども、その奥さんは、 「本当にまあ、そんなことでしょうか」、と余り信用なさらない語調で仰言います。 私はそんなとき何時も話すアンデルセンの童話の『おじいさんのすることに間違はない』という物語を話し出したのです。それは、もう知っていらっしゃる方も、何遍もお聞きになった人もあるのですが、又初めての方も読者の中には沢山おありのようでありますから、次に簡単に申上げることにいたします。
おじいさんの言うことに間違はない
それは、或るところにおじいさんがあって、そして一匹の立派な逞しい馬を持っていらっしゃったのですね。何十万円もするような立派な競馬用の馬ですが、その馬を市場へ持って往って金を拵えたいというので、売りに往ったのであります。その途中で、向こうから一人の博労が乳房の脹れた牝牛を連れて来るのです。そして、 「その馬とこの牛と交換してくれませんか。この牛はこんなにお乳が出るのです。馬はどんなに立派でもお乳が出ませんからね。この牛は牛乳が沢山採れていいですよ」おじいさんは、成る程と思って、その牝牛と、自分の逞しい馬と換えてやったのであります。おじいさんはこの牛は乳が出るから馬より好いと考えて喜びながら牛をつれて歩いていますと、今度は一人の羊飼が向こうから山羊を連れて来るのです。そして山羊を連れて来た羊飼は言いました。 「あなたの牝牛とこの山羊と取りかえてくれませんか。牛にもお乳が出ますけれども、山羊は一層よいお乳が出ます。山羊のお乳というものは牛のお乳よりも消化がよくて滋養になります。紙屑を食べさせておいても、それがお乳になるのですから大変いいのですよ。だからこの山羊をあなたの牝牛と換えてあげましょう。」 おじいさんは、羊飼のその話にうかうかと乗って、牝牛を羊飼に渡して、自分は山羊を貰って、此の山羊はよいお乳が出るなと思って喜んで歩いていますと向こうから鶏を連れている男が来たのです。そして、 「この鶏を山羊と交換してくれませんか。山羊は卵を産みませんが、鶏は卵を産みますから、山羊より鶏の方がいいのですよ。」 「じゃあ、交換しであげましょう。」 というわけで、おじいさんは山羊をその男に渡しまして鶏を抱えて歩いていますと、向うから腐った林檎を袋に入れて担いで来る男があります。 「おじいさん、あなたの鶏とこの林檎と取換えてくれませんか。鶏は餌の世話をしなければならんけれども、この林檎は腐ったりと雖も林檎ですから、餌をやる世話はなし、腐った部分を取去れば其の儘たべられるんですかもな。」と言いました。 おじいさんは、最初自分の家から連れ出した立派な馬を到頭そんな腐った林檎に取換えましたので、もう市場に行っても売れないものですから帰ろうというので、自分の家の方へ向って歩いていますと、後から「モシモシ」という人がある。振返えると立派な風をした大地主の旦那です。そして、 「君は、あんな立派な馬を連れて来て、とうとうそんな腐った林檎と取換えてしまっただろう、家帰ればおばあさんに叱られるよ。」と申しました。 すると、おじいさんは、 「自家のおばあさんは好いおばあさんで、わしが何をしても“おじいさんのすることに間違はない”といいますよ」と答えます。 「そんな馬鹿なことがあるものか。それはちょっと位の間違なら、そういうかも知れないけれども、こんな何十万円もする馬を腐った林檎と取換えたりしたら、おばあさんは屹度、腹を立てて叱りますよ。」と地主は言います。 「いいえ、うちのばあさんは、やさしいばあさんですから、きっとおじいさんのすることに間違はないというにきまっています。」とおじいさんはいうのです。 「そんな莫迦なことはない。若しおばあさんが、そんなことを言うようであったら、私の持っている地面をみんなお前にやってしまうよ。それなら賭をしよう。」 こう地主は言って、おじいさんと一緒に連れ立って帰って来ました。 「ばあさんよ、今帰ったよ」と言うと、ばあさんは、 「あの馬はいい値段で売れたでしょうね。」 「いや、実はおばあさん、あの馬を連れて行っておったら向うから牝牛を連れた男が来て、牝牛と馬をかえてくれと言うからそれと換えてやったよ。」 「おじいさんのすることに間違はない。牝牛と取換えなさったら、牝牛はお乳が出るから、それはよかったですね。」といっておばあさんは喜ぶのです。 「いや、ところが牝牛も、向うから山羊を連れて来た人があったので、その山羊と取換えてやったのだよ。」 「そうですか。本当におじいさんのすることに間違はない。山羊のお乳は牛乳よりも、非常に消化が好いですから、こんな結構な事はない」と、おばあさんは又大喜びです。 「ところが、その山羊も今はないんだよ。その山羊を連れて行っておったら向うから一人の男が鶏を連れて来たよ。そしてその鶏と取換えてくれと言うから取換えてやったのだよ。」 「そうですか。それは善いことをなさいました。山羊は卵を生まないけれど、鶏は卵を産んでくれるから、おじいさんのすることに間違ない。」とおばあさんはいうのです。 「ところがその鶏も、実は向うから腐った林檎を一籠担いで来てその鶏と取換えてくれというから、とうとうその鶏をやって、腐った林檎を持って帰ったよ。」 とおじいさんは言いました。 大地主は今度こそおばあさんが怒るかと見ていますと、 「本当におじいさんのすることに間違ない。」 とおばあさんはいうのです。―― 「今しがた近所の貧しい隣れな人が来て、食べ物がなくて困っているから何か恵んでくれというから、戸棚をさがして見ても何にもないから、何かあんたに差上げたいと思うけれども、どこ探しても腐った林檎一つないわいなと答えて帰したところです。恰度其処へ腐った林檎をあなたが持って帰って下さった。全くこれは誂えたようなものですよ。矢張りおじいさんのすること間違はない。どれこれかも隣りの人にこの腐った林檎を持って往ってやりましょう。」 斯ういって、その林檎をもって出かけて行きました。 大地主はびっくりしましたがとうとう賭に負けて、自分の地面をすっかりおじいさんにやったので、おじいさんは一ぺんに、大地主になったというのであります。聖書の「山上の垂訓」には「幸福(さいわい)なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん」とありますが、心が柔和で良人の言うことに少しも逆らわない者は斯うして地を嗣ぐ様になり、結局、最後は一等よい事になるのに間違はなかったのであります。 ところが、最後に達するまでの道中はだんだん状態が悪くなることがあるものです。名馬が牛になり、牛が山羊になり、山羊が鶏になり、鶏が腐った林檎にまでなった。そのように、だんだん途中は悪くなっても「おじいさんのすることに間違はない」と最後まで信じていますと、結局、「柔和なる者は地を嗣ぐ」ことになるのであります。
基本人権の平等と妻としての立場
そういう話をしていますと、又ひとりの白鳩会の奥さんがこんな話をなさいました。 「そのアンデルセンの童話の話は前に聞いたことがあります。その話をきいてから、私は“おじいさんのする事に間違はない”――こう紙に書いて部屋中に貼って、それを毎日読んで信ずることにしたのであります。そうしたら不思議にいいことばかりが起って来て、自分の娘は二人とも好いところに縁づきました。その中の一人は名古屋に縁づいて先生が名古屋の公会堂で御講演になった時にも夫婦で揃って講演を聞きに行っていました。」 とお礼を言われたのであります。 こんな活を致しますと、男女の基本人権が平等なのに、男性の人ばかり自分の意見を主張して、女性にばかり絶対無我になって従えなどと云うのは極端な封建思想だと思われるでありましようが、封建時代でも、民主主義時代でも真理は決して変らないので、女性が素直に男の要求を入れてやることによってのみ、子を生むことが出来るような肉体の生理的構造になっていることが、封建時代も民主主義時代も変らないのと同じように、これは永久に変ることなき真理なのであります。 無論、民主主義憲法の下で、民主主義法律に女性を主張すること出来ます。そして夫よりも立派な仕事を社会的的にやり遂げることも出来ます。併しひとたび、夫との対人関係になりますと、妻が絶対素直に夫に従う人でない限りは、夫との家庭生活も不幸でありますし、妻も不幸であります。多くの女流芸術家の家庭が面白くない例が多く、水谷八重子が守田勘彌とわかれて独立したり、平林たい子の夫がいつの間にか、その女中に子供を生ませて、平林たい子に離婚話をもちかけた時「たい子は自分の自由にならない女だったが、××子は自分の自由になる女だから、自分は××子を愛している」と言ったと云うことが新聞に出ていました。しかも社会的に文学者としても社会評論家としても毅然たる平林たい子が、夫が自分を愛することが出来なくなったことを知って女性らしく泣いたと云うことが新聞に出ていましたが、これが男女平等理論と、真実「女性なるもの」の本性との相違なのであります。女性が夫の心から離れて、社会的に成功し、貢献し得るとようことは別問題として、結婚した女性の本当の幸福はその夫に愛される事であり、そして夫に本当に愛されるためには恰も彼女の膣が「無」にして素直に夫の生命の没入にまかせるとき快美感を得る生理的構造になっていると同じように、妻は先ず「無」になって柔かく優しく素直に夫にそうとき真に妻としての幸福が得られるのであります。イエスは「山上の垂訓」で次のように教えているのであります。 「幸福(さいわい)なるかな、柔和なる者、その人は地を嗣がん。」
以上が【第五章 妻としての真実の幸福】(『新版 真理 第5巻 女性篇』 50〜66頁)であります。この続きとして第六章があると私は感じますので、これも掲載いたします。
第六章 夫婦の意見が対立する場合
人間は完全に自由である
人間を拝むと云うことは、「合掌」というオマジナイをすることによって、相手を自分の欲する状態にならしめると云うような霊術ではないのであります。相手の「神性」を信じ、礼し、敬することであります。「おじいさんのすることに間違はない」ということを各部屋に書いて置いて、自分の良人のすることはどんなことをしても、間違がないということを信ずるようにしたら、良人が素直になり、良人の方から妻を信じ妻の欲することを何でも、みずから進んでして下さるようにあらわれて来ると云う事実は決してマジナイの効果ではなく、神性を礼拝する効果なのであります。 或る日の白鳩会でこんな話をしておりましたら、ある一人の婦人が発言なさいました。何でもその奥さんはクリスチャンだった人ですが、その人が生長の家におはいりになって、今まで病身であったものが非常に健康におなりになったのです。それで神様はありがたいとお考えになりまして、御主人にも、生長の家をお奨めになるのですけれども、御主人の方は「神道」信じておられて、生長の家の方には余り熱心におなりになれなかったのであります。そしで、毎朝神棚の前に坐って、神道の祝詞(のりと)をお誦げになりますけれども、生長の家の『甘露の法雨』はお誦げにならないのであります。 生長の家に熱心におなりになっていた奥様はそれが不平でたまらない。従って家庭の互の感情がどうもシックリ行かなかったのです。ところが、或る日のこと奥さんは、人間は各自が神から完全な自由を与えられているのであるから、心で良人を強制するのが間違だったのだと気がつかれたのです。そして、「矢張り是は自分の我というものを持っておって、生長の家でなければならぬという我をつかんでおっでて、そして良人を自分に従わしめようと他を強制する心をもっているからいけないのだ」と気がつかれたのです。「味噌の味噌臭きは上味噌にあらず」と云う諺がありますように、生長の家でも「生長の家という我」を握ったら、もう既に本当の生長の家ではないのであります。 生長の家は「実相そのままの家」であり「実相」の中には無限相がやどっており、それが適時、適所、適人にあらわれて来るのであります。その適時、適所、適人にあらわれて来るためには、生長の家の教えを信じながらも、而も生長の家を握らない境地にならぬといけないのであります。その奥さんは、自分考えで観た生長の家という「我」を握って、そしてその「我」によって良人がついて来たらいいというような気持があったのであります。 ところが或る日のこと、この奥さんは「是は悪かった。是は私の我であった」と気がついて、「私はもう生長の家をすっかり捨ててあなたに従います。そしてあなたと一緒に毎朝、神棚に祝詞を誦げて、神様を拝みます」とそういう風におっしゃったのであります。すると、良人は、「お前はそれで、生長の家でいいのだよ。別に悪いところはない。お前は一日中生長の家をやっておったらそれでいいんだよ」とおっしゃったと云うことであります。
妻が心で良人を縛らなくなったら
これがつまり、自分が無我になった徳の力であります。自分の我が無くなって良人を縛る心がなくなり、「すべて良人に従いましょう」と思った時に、良人の方から「お前は一日中生長の家をやっておったらいいんだよ。何も天津祝詞を誦げなくても、それでいいんだよ」と云うように、良人が生長の家に反対しなくなって、妻が白鳩会に出席したり誌友会に出たりするのをいやがらないで、喜んで出して下さるようになったのであります。これはその奥さんが自分の「我」というものを捨てて、「自分」と云うものが何にもなくなり、神の御心の中に、融け込んで往った時にそこに御心が成就するということになったからであります。 神の御心の中には、悪いものがないのですから、自分の「我」がなくなりますと、神の御心と一体になります。神の御心の中には良人もすべて包容されておりますから、自分の欲すること、神の御心、それは同時に良人の心でありまして、その三者が三位一体となり神の御心が自からそこに実現して来たのであります。 夫婦生活をしております中には、夫婦の意見が対立するということが往々あるものであります。そしで良人は良人で「私は之を正しいと思う」と言う。妻は妻で「私は是を正しいと思う」と斯う主張して良人と奥さんとが相譲らないで、議論する。議論に熱心になって、ついに火花を散らして興奮して争う。その結果、良人はムシャクシャして面白くないので余所へ遊びに行く人もあれば、「もうお前には物を言いたくない」と互にムッツリしている家庭がよくあるのです。けれども、こんな家庭が民主主義の家庭になるほど殖えて来ました。そんな場合に、奥さんが本当に無我になっておしまいになったら、却って良人の方から進んで、妻が望むであろう通りにして下さるようになるのであります。 先日も白鳩会の集りで、船橋に住む或る婦人がこんな体験談をお話しになったのであります。その人の良人は少佐相当官円であっって南方から復員して来た。ところが内地へ帰って来て見ると日本の現状が予想に反した頽廃したものであったので、ヤケを起して相当の資産を酒に飲んでしまったのであります。毎日毎日飲んで歩くので、もう此の良人を殺してしまおうかとさえ思った。その時、妻が良人を絞殺して死体をバラバラにして川に棄てた新聞記事が出た。それを読んで、「自分の心持も此の奥さんと同じだ」と思った位だった。ところがその頃生長の家にその奥さんが触れ、今まで良人を「悪い悪い」と思っていたがそうではなかったと云うことに気がついた。そして生長の家本部の飛田給練成道場へ練成に来て、「良人の有様は自分の心の影である。自分は無我になって良人を拝もう」と決心して練成道場から自宅に帰ってくると良人が全然変ってしまっていて、「今まで自分が悪かった」と言って全然酒をのまなくなり、今では家運も非常に繁昌に向ってきたと云うのであります。これは妻が決心を変えるだけで、その妻の心が良人に波及して良人の気持が一変した実例であります。 こうして今まで生長の家を喜んでいらっしゃらなかった良人が、すっかり生長の家に共鳴して、奥さんが祖先霊を奉斎してある前で、『甘露の法雨』を読んで神想観をするときには、良人も一緒に『甘露の法雨』を読んで神想観し下さるようになったのであります。奥さんが無我になると、奥さんが欲するように、良人の方が従って下さるのであります。結局女性は無我になったとき良人を自由に支配することが出来るのであります。尤も支配などという語を使うのはいけないのであります。妻と良人とが一体になるから、妻の欲することは良人の欲することになるから、良人が自然に妻の欲するようにしてくれることになるであります。 「柔よく剛を制す」という諺がありますが、「柔」でもまだ「柔かい自分」がある間は、絶対無我ではないのであります。本当に何もなくなった時に、その時に良人と妻と一体であるところの御心が実現するのであります。 神とか仏とかいうものはどこにあるかというと、宮とかお厨子(仏像を安置する画扉の容器)の中にあるのではない、宮とかお厨子の中にある本尊は象徴であります。その象徴を一心に礼拝して「我」というものを全然なくした時に、そこに神仏が現れて来るのであります。その原理と同じことでありまして、良人を象徴として自分が無我になって良人の内部にる「神性」を拝んだ場合に、良人に神があらわれ、その神と自分とが一体になるということになって、良人が自分のものになるのであります。良人と自分との意見が対立すると云うのは、実は良人と自分との意見が対立しているのではなく、妻自身の心の中に自己分裂がありまして、それが対立してあらわれるのでありまして、無我になり、零になるとき自己分裂がなくなり、対立がなくなり、夫婦の意見が完全に調和するのであります。
以上が【第六章 夫婦の意見が対立する場合】(『新版 真理 第5巻 女性篇』 67〜73頁)であります。どうでしょうか、皆さんはお分かりになったでしょうか。
さて、雅宣さんはスレッド題に掲載した「真理」が「永久に変わることなき真理とはいえない」と【‟神の子“は性別によらず】という冊子の中で認めています。その部分を掲載します。
『真理』女性篇は昭和30(1955)年が初版の比較的古い本で、論争的(polemic)な性格があります。著者が何かに対して強く反論されているということで、そこには論争でよく使われる"強調表現"極端な表現法が含まれていると考えるべきです。また、引用された箇所は、(Q1)に答える時に説明した「性別」と「ジェンダー」の間に因果関係を想定する考え方がそのまま表現されていて、「永久に変ることなき真理」とは言えません。その後の科学的研究ではこの関係は証明されておらず、社会学的にはほとんどの先進諸国で不採用となっています。同書は、今から約七十年前の女性に向けて書かれたご文章ですから、二一世紀の私たちに向けて善かれたものではありません。このことはとても重要です。なぜなら、「真理は人・時・処に応じて説かれるべきだ」というのは、谷口雅春先生ご自身の信念だったからです。このことは、本冊子10〜13頁で、総裁先生が『生命の實相』(頭注版)を引用して説かれていることです。
以上が冊子からの抜粋になります。
そもそも第五章も第六章も宗教的見地から書かれたものですので認識が違うのです。谷口雅春先生は「世間知と宗教的救いとは異なる」、「宗教は常識を超える」と書いています。しかし、冊子は世間知とか常識にとらわれて判断しており、宗教的見解ではないのです。雅宣さんもこの冊子作成に関与した人は宗教的見解を満たしていないと考えるべきでしょう。したがって宗教を語れないということになります。これでは宗教として生長の家の教えを教団が広めることは無理だろうと感じます。
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本音の時代様 (68596) |
- 日時:2024年12月03日 (火) 21時32分
名前:志恩
【『新版 真理 第5巻 女性篇』の第五章 【妻としての真実の幸福】、 長文を謹写してくださいまして、大変でしたでしょう。 ありがとうございます。
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今の生長の家は、完全に谷口雅宣教になってしまいました。 (68598) |
- 日時:2024年12月03日 (火) 22時36分
名前:志恩
このような谷口雅春先生の真理のお話を、読んで、 心に響いて、本当にそうだと、思える人と、 雅宣さんや純子さんのように、これは古い考えだと、 切り捨ててしまう人と、人間の中には、いろいろあります。
私は、谷口雅春先生が総裁先生の時代からの古い信徒ですから、 このご文章を拝読しても違和感はありませんけれど。 この真理と波長のあった人だけが、わかる真理なのだと思います。 しかし、 波長の合わない人は、これを読んでも、どこがいいのか、 さっぱりわからないのだと思います。 きっと今の時代の考え方と合わない古い考え方だと思うのでしょうね。
それで、雅宣さんが主張される環境問題主体の個人の人間のことよりも、 地球と自然を大事にする考え方や、月一か月二の子ども食堂開催とか、 石上げの行などに、波長が合い、雅宣さんが作った 3つの讃歌経などを、読誦し続けることのできる方たちが、 今の生長の家教団の信徒として、今の教団に残っていくのだと 思います。
そして、谷口雅春先生の教えは、雅宣さんによって 完全に切り捨てられましたので、 谷口雅宣教が、生長の家の教えに、 三代目さんから、切り替わったのだという印象を強く感じております。
この、雅宣さんが指揮される 2024年11月19日(火)に北杜市の生長の家国際本部で行われた ”代表者会議”での 教団の3カ年計画ですが、その運動方針を、全国組織で進めた結果が、 今後、繁栄すれば、それでいいのでしょうけれど、 そうではなさそうなところに、公案がありそうです。
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(68600) |
- 日時:2024年12月03日 (火) 23時00分
名前:和顔施
人間は完全に自由である の項、
「味噌の味噌臭きは上味噌にあらず」の下行 「生長の家とう我」とあるのは、 「生長の家という我」ですよね?
合掌
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>(68600) (68601) |
- 日時:2024年12月03日 (火) 23時36分
名前:本音の時代
ありがとうございます。 訂正しました。
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>長文を謹写してくださいまして、大変でしたでしょう。 (68602) |
- 日時:2024年12月03日 (火) 23時43分
名前:本音の時代
ありがとうございます。 投稿することは、学びでもあります。
「新版 女性の幸福365章」の方もありますので、もう少しがんばります。
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書き忘れましたので、追加します。 (68603) |
- 日時:2024年12月04日 (水) 06時09分
名前:志恩
今の生長の家の3カ年計画の運動方針の中には、 強制ではありませんが、雅宣総裁ご夫妻が、 率先して実践されているノーミート運動も 当然、含まれる、と思っています。
生長の家教団の全国の部下たちも信徒たちも、 なるべく肉食は控えた生き方をする、です。
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(68605) |
- 日時:2024年12月04日 (水) 08時13分
名前:神の子
肉は食べ過ぎないようにする。控えめにする。 酒もタバコも同様に。それぐらいが良いと思います。
それにしても…タイトルが長すぎるよ! シオンさんじゃ無いんだから。
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