生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)
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NHK朝ドラマ「あんぱん」の主人公の”やなせたかし”に関するスレッド (70359) |
- 日時:2025年04月08日 (火) 12時52分
名前:志恩
集英社オンラインより
【手塚治虫と、やなせたかしが、コンビを組んだ理由】
なぜマンガの神様・手塚治虫はアンパンマンの生みの親・やなせたかしにアニメ映画『千夜一夜物語』のキャラクターデザインと美術をお願いしたのか?
“アンパンマン”の生みの親として知られる作家やなせたかし。やなせは生前、同じく国民的作家でマンガの神様として知られる手塚治虫が総指揮をとったアニメーション映画『千夜一夜物語』で、キャラクターデザインと美術監督を依頼されている。映画にかかわった天才たちがやなせを仲間に選んだ理由とは。
『アンパンマンと日本人』より一部抜粋・
【天才たちが見込んだ「勇気と好奇心」】
なぜ、手恷。虫はやなせたかしに キャラクターデザインと美術を頼んだのか。 やなせたかし自身が不思議だったそうです。
そうでしょう、魅力的なキャラクターを造形することに長けた日本一の漫画家である手恷。虫が、あえて他人にキャラクターデザインを発注する、というのですから。自伝『アンパンマンの遺書』の中でも、やなせたかしはすでに亡くなっていた手怩ノ問いかけています。
「手怩ウん、なぜぼくに依頼したんですか?」
手怩セけではありません。なぜ、やなせたかしは、いきなり天才たちから声をかけられたのか。なぜ、素人なのに、頼んできた天才たちが満足するすごい作品をつくることができたのか。この2つの秘密、おわかりになりましたでしょうか?
こうしたケースには、共通点があります。それは、天才たちが頼んできた仕事の中身です。いずれも「誰もやったことのないはじめての仕事」だったのです。前例のない仕事は、クリエイティブの世界における「ベンチャー」であり「起業」です。
手塚治虫をはじめやなせたかしに仕事を依頼した天才たちはクリエイティブの世界の起業家≠ナす。彼らは、起業の仲間≠ニしてやなせたかしを選んだのです。
漫画の神様・手塚治虫
【なぜ天才たちは、やなせたかしを仲間に選んだのか。】
天才たちは過去を振り返りません。新しいことに挑戦するのが生き甲斐です。だから天才なのです。天才たちが新しいことに挑戦するとき、どんな仲間を選ぶのか? 新しいことに躊躇なく飛び込んでいける人に決まっています。
起業家が創業メンバーを選ぶときと同じです。メンバーには、ある意味で自分以上にぶっ飛んでいてほしい。今までにないビジネス、今までにない商品、今までにないサービスは、ぶっ飛んだ感覚からしか出てこないからです。
頼まれた仕事は何でもしていたやなせたかしは自らを卑下して「困ったときのやなせさん」と称しましたが、彼が受けた仕事の多くは、「まだ誰もやったことのない、前例のない仕事」でした。自分に経験がないどころか、声をかけてきた天才もやったことがない。つまりお手本がない。
「難しいかな、と思う仕事ほど引き受けてしまったりする」(『人生の歩き方 やなせたかし』)。
やなせたかしは「未知の仕事に飛び込む勇気と好奇心」の持ち主でした。天才たちは、やなせたかしの中にまったく新しい仕事をオファーしても躊躇なく飛び込んできてくれる「勇気と好奇心」をみたのではないでしょうか。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【なぜマンガの神様・手塚治虫はアンパンマンの生みの親・やなせたかしにアニメ映画『千夜一夜物語』のキャラクターデザインと美術をお願いしたのか?】配信
集英社オンライン
「頼まれ仕事で、母屋を乗っ取らない」
それだけではありません。一方で、やなせたかしは頼まれ仕事を請け負って大きな成果をあげても、決して自分がしゃしゃり出て主人公になろうとしない人でした。やなせたかしの仕事は、はっきり2つに分かれます。
1つは自分のライフワークです。もう1つは頼まれてやる仕事です。
ライフワークに取り組む際、やなせたかしは徹底的にがんこです。全部自分でやります。だから、すぐにヒットしたりしません。専門家や業界人から馬鹿にされたり、やめろと言われたりします。それでも、妥協しません。他人の言うことも聞きません。
だからこそ生まれたのが、雑誌『詩とメルヘン』に象徴されるやなせたかし流の抒情詩と絵の世界であり、漫画家が描く絵本の世界であり、アンパンマンの世界です。
いずれも、専門家や業界人は当初、「絶対うまくいくわけがない」「つまらない」「幼稚だ」と馬鹿にしていました。結果は、ご存知の通りです。一方、頼まれ仕事の場合、やなせたかしは与えられたオーダーに120%応えます。
「千夜一夜物語」の制作にあたって手恷。虫のオーダーに数々のキャラクターデザインで応えたように。しかも頼む側にとって安心だったのは、やなせたかしが母屋を乗っ取るようなことは絶対にしない人だったからです。
ビジネスの起業の世界では、起業家と創業メンバーとが途中で仲違いして、起業家の地位を後から加わった創業メンバーが乗っ取ったりする事件がしばしば起きます。アップルを創業したスティーブ・ジョブズは、後から雇ったペプシコーラ出身のジョン・スカリーたちに10年以上も追い出されました。
やなせたかしは、天才たちに声をかけられて知らない仕事の世界に飛び込みます。そして成果をあげます。が、声をかけてくれた天才たちを出し抜こうとしたり、仕事をぶんどったり、ということはいっさいしていません。
その姿勢には、彼の中のデザイナー体質が大きく関わっている、と思います。デザイナーはクライアントからの発注があって初めて仕事が発生します。どんなに素晴らしいデザインを施しても、主人公ではない。主人公は製品や作品であり、その製品の経営者です。
やなせたかしは、アニメ映画やテレビドラマ、舞台、コンサートなどさまざまな仕事の現場で「デザイナー」として仕事をしてきました。人と作品とのインターフェースとなるデザインの仕事は、最も重要な領域です。ただし、やなせたかしはデザイナーの立場を超えてまで頼まれた作品づくりの中枢に行こうとは微塵も思っていない。
だから、天才たちは安心してやなせたかしに声をかけることができたのでしょう。 やなせさんならば、安心してまかせられる、と。 ーーーーーーーーーーーーーーーーー 追記;
あんぱん』第1話、NHKプラスの視聴数が 歴代朝ドラ・大河含む全ドラマで最多を記録 4/10(木) https://news.yahoo.co.jp/articles/137bcc0f7a469765407acdde0a816c4d00196b2d
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志恩ー 最近、やなせたかしに関する情報が多く載せられるようになりましたので、 スレッドを1ついただきました。
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やなせたかし、母への愛と『アンパンマンのマーチ』“もう一つの歌詞”に刻んだ祈りと希望 (70645) |
- 日時:2025年04月19日 (土) 07時15分
名前:志恩
FNNプライムオンライン
4/18(金)
朝ドラ「あんぱん」のモデルとしても注目されている高知県出身の漫画家・やなせたかしさん。いま一冊の伝記が多くの読者の感動を呼んでいる。執筆した作家の梯久美子さんが伝えたかったのは、母親と妻・暢(のぶ)さんを愛し、生きることを肯定し続けたアンパンマン作者の深い人生哲学だ。
「おうちに戻って、暢さんと毎日夕食を食べてらっしゃる」 3月発売の伝記『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』(文藝春秋)。本人はもちろん、これまであまり知られていなかった妻・暢さんの人生も丹念な取材をもとに描かれている。
著者でノンフィクション作家の梯久美子さん(63)は、20代の頃に7年ほど、やなせさんが編集長の雑誌「詩とメルヘン」で編集者を務めるなど、生前のやなせさんと親交があり、東京・新宿で夫妻と同じマンションに暮らしていた時期もある。
朝ドラでは今田美桜さんが演じている妻・暢さんとは話す機会がほとんどなく、「上品な奥様で控え目な感じ」という印象だったが、執筆のために調べると「ものすごく元気で積極的で、前向きで明るい“はちきん”だった」と分かったという。(はちきん:元気な女性を意味する土佐弁)
梯さん: 「(やなせさん夫妻は)それぞれが自分の世界を持ってらっしゃって、暢さんも登山をしたり、お茶の師範までなさった方。やなせ先生のお仕事に対しては全く口を出さない。」
やなせさんは仕事とプライベートを完全に分けていて、仕事の付き合いで食事に行ったり、接待を受けたりということはなかったのだという。マンション3階のスタジオで仕事を終えると、「6階のおうちに戻って、暢さんと毎日夕食を食べてらっしゃるという感じ」。 ------------------------------------------------------------- 音読の宿題で…母親たちから大きな反響
梯さんは2015年に子供向けの伝記『勇気の花がひらくとき やなせたかしとアンパンマンの物語』(フレーベル館)を執筆。小学5年生の国語教科書にも掲載された。すると宿題で子供が音読するのを聞いた多くの母親から反響があったという。
梯さん: 「お母さんたちはみんな、子育ての時にアンパンマンにとってもお世話になってますよね。子供と一緒に見てきたアンパンマンの作者が、さみしい少年時代があったり、戦争で苦しい思いをしたり、『こういう人だったんだ』と初めて知って、『そういうことがいろいろあって、あのアンパンマンの物語ができたんだ』と。」
「ずっとお母さんのことが大好きだった」 やなせさんは幼い頃に父親を亡くしている。朝ドラでは松嶋菜々子さんが演じる母親は再婚し、離れて暮らすことになった。
梯さん: 「ものすごく寂しかったと思うんですが、先生はお母様のことを1度も恨んでないんです。ずっとお母さんのことが大好きだった。子供を置いて再婚したので『ひどい母親だ』と言われたらしいけれども。」
やなせさんは、母親が再婚せずに自分を育てようと「いろんなお仕事を探して、習い事もいっぱいしていた」ことを知っていたという。梯さんは「戦前、女の人がなかなか自活できない時代に、頑張ってくれたけれども再婚せざるを得なかったことを理解して、母を愛し続けたところが先生の“愛する力”」と強調する。
「誰かをずっと好きでいるのは意外と難しいことだと思うんです。 ------------------------------------------------ 『アンパンマンのマーチ』に“もう一つの歌詞”が
2019年、そんな梯さんの背中を押す出来事が起きる。やなせさんの故郷である香美市にある墓を初めて訪問。近くにあるアンパンマンミュージアムで、やなせさん作詞のアニメ主題歌「アンパンマンのマーチ」の手書き原稿を見た時のことだった。
『そうだ うれしいんだ/生きる よろこび/たとえ 胸の傷がいたんでも』と歌われる有名な歌詞。しかし、もともとの原稿では『たとえ 胸の傷がいたんでも』の部分が、『たとえ 命が終わるとしても』となっていた。それが線で消されて『胸の傷がいたんでも』に書き直されていたのだ。
「楽しくて明るい、子供がみんな好きなアンパンマンの物語の中には、死というものが含まれていた」ことに改めて気付かされた梯さん。「命は終わるけれども、次に伝わっていくものが必ずあると先生は思ってらっしゃたような気がした」という。
『何をして生きるのか』やなせさんのメッセージ 梯さん: 死を含んでいるけれども同時に希望もある。生きることはむなしいことではなくて、生きているうちに精一杯、楽しいことをして人も喜ばせてあげようという考え方。 先生は確かに亡くなったかもしれないけれども、先生が残した物、それは作品でもあるし、私個人的にも先生から受け継いだ物があるはずだと思って、先生が残してくれた物を大事にしていこうという気持ちになれて、その歌詞とぴったり合った気持ちになった。」
今もやなせさんを「先生」と慕う梯さん。愛弟子が一冊の本に刻み込んだのは、高知に生まれ“愛と勇気の物語”を生み出し続けた一人の漫画家の人生だ。
(高知さんさんテレビ)
https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/fnn/entertainment/fnn-859544 ------------------------------------------------------------------- 志恩ー >やなせさんは仕事とプライベートを完全に分けていて、 仕事の付き合いで食事に行ったり、接待を受けたりということは なかったのだという。 マンション3階のスタジオで仕事を終えると、 「6階のおうちに戻って、暢さんと毎日夕食を食べてらっしゃるという感じ」。<
やなせたかしが、生前住んでいらした新宿片町のビル(マンション)の、 3階は、仕事場(スタジオ)で、6階をお住まいにしていらしたことが、 この記事によって、わかりました。
奥様ののぶさんが、生きていらっしゃる時は、 きちんと6階のお住まいに、かえられていたようですが、 「詩とメルヘン」の当時の彼の絵日記によりますと、 スタジオの片隅にベッドを置いて、寝てる、と書いて ありました。
奥様が、癌で亡くなられ、独りぼっちになってからは、 仕事を中心にして、 臨機応変に暮らしていたのかもしれませんね。

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「妻がいないと生きていけない」やなせたかしさん『アンパンマン』大ヒットの陰にあった愛妻の余命3カ月がん宣告 (70712) |
- 日時:2025年04月21日 (月) 06時14分
名前:志恩
女性自身
4/20(日) 11:00
「妻がいないと生きていけない」やなせたかしさん『アンパンマン』大ヒットの陰にあった愛妻の余命3カ月がん宣告
【前編】やなせたかしさん&暢さん 穴あき共同トイレにも大喜び! 国民的漫画家を後押しした“はちきん妻”の素顔から続く
両親との別離、飢えに苦しめられた戦場の経験、愛する弟の戦死――幾重もの喪失を抱えたやなせさんは、戦後に就職した高知新聞社で妻の暢(のぶ)さんと出会った。やなせさんは彼女の後を追うようにして上京、そして’49年に結婚。
’53年には三越の宣伝部を退職し、34歳にしてとうとう漫画家として独立を果たしたやなせさん。自身の器用さが災いして代表作に恵まれない時期が長く続いたが、’73年に発表した『あんぱんまん』が大きな転機をもたらすことになる。
やなせさんの元秘書・越尾正子さん、彼の伝記を著した梯久美子さん、かつて親交があった漫画家・里中満智子さん。複数の証言から浮かび上がるやなせ夫妻の姿とは――。 ■最晩年の妻に振る舞った思い出のカツ丼 作曲家のいずみたくさんに「『あんぱんまん』でミュージカルをやろうよ」と声をかけられた。
’76年に始まったこのミュージカルは子供たちに大好評、ロングランに。 「敵役が足りない」ということで、ばいきんまんもここで誕生した。
すると出版社からも依頼が続き、’83年から’85年にかけて『アンパンマン・ミニ・ブックス』を25冊刊行。’88年にはアニメ『それいけ! アンパンマン』(日本テレビ系)が放送開始されたのだった。
69歳にして、とうとうヒット作を生み出したやなせさん。
しかしこのころ、はた目から見てもふさぎ込むことが多かったという。
その異変に気付いたのは、漫画家の里中満智子さん(77)だった。
「日本漫画家協会の理事会のとき、ずっとうつむいてぐったりされていたんです。ご気分がすぐれないのかと思って、会が終わって帰るとき、お声がけしたんです」 立ち話だったが、やなせさんはせきを切ったように不安を吐露した。
「実は妻が……。妻がいないと生きていけない。どうしたらいいのかわからないんだ」 暢さんが乳がんに侵されていたのだ。肝臓にも転移しており、余命3カ月だと伝えられていた。
里中さんは言う。
「希望を失っていたようでしたが、私が『やなせ先生、私も子宮がんだったんですよ。でも、今はピンピンしているでしょう』と言うと、先生は『え、君、がんだったの』って、この日、初めて顔を上げたんです」
里中さんは急いで自宅に帰り、何枚ものA4用紙に自身が受けた治療や食生活の改善について書いてファクスで送った。
「すぐに先生から電話がかかってきて『これを全部やるよ』と、前向きになってくださったのです」 闘病中でも暢さんは気丈に振る舞っていたと、越尾さんが語る。
「先生には仕事に集中してもらいたかったのでしょう。『苦しい』『つらい』という言葉は一切聞いたことがありませんでした」
暢さんは自分が死んだ後、誰が夫を世話してくれるのかが不安で、越尾さんには何度も「辞めないでね」とお願いしていたという。
「アニメがヒットしましたが、奥さんは『人気なんていつなくなるかわからないのよ。将来、仕事がなくなるかもしれない。そうなったらあなたから“色くらいなら、私も塗れます”って言ってね。何度もしつこく、あなたから言ってね』と、ご自分の体はつらいのに、先生の心配ばかりで……」
いっときは35キロほどにまで減ってしまった暢さんの体重も徐々に戻りはじめ、休んでいた茶道の師範の仕事を再開することも考えるほどだった。
やなせさんに勲四等瑞宝章が贈られたのは’91年のことだった。
「ふだんは表舞台に出ない暢さんですが、夫婦で出席されました。先生としては長い間2人で歩んできたからこその受勲だという思いだったはずです」(越尾さん)
その後の『アンパンマンの勲章を見る会』のパーティでは、アンパンマン・カーに乗ってやなせさんが登場。いつもはパーティに出席したがらない暢さんも「こんな面白いパーティは初めて」と感激し、喜びを夫婦で分かち合った。
暢さんは’93年に入り、体調が悪化するなかでも、やなせさんとの穏やかな日常に小さな幸せを見いだしていった。最晩年のあるとき、暢さんはうれしそうに、越尾さんにこう話した。
「昨日は、主人がカツ丼を作ってくれたのよ。すごく美味しくてね。“花婿修業”をしているのよ」 そのときよみがえったのは、まだ漫画家として代表作のない時代、働く暢さんのために、やなせさんが用意してくれたトンカツの懐かしい味だったに違いない。
やなせさんと過ごした幾多の思い出とともに、暢さんは’93年11月、75歳でこの世を去った。
病院に駆けつけたやなせさんは涙をこらえて、暢さんとお別れしたという。
余命3カ月と宣告されたにもかかわらず、5年も長く生きることができた。
後にやなせさんは里中さんにこう語った。
「がんがわかってからの5年が、結婚してから夫婦でいちばん充実した時間だったよ」 アンパンマンに登場する好奇心いっぱいで天真爛漫なドキンちゃんの名前は、「胸がドキドキする」と「バイキン」が由来になっている。 キャラクターは暢さんの明るい性格に似ているという。
彼女はその最期に至るまで、やなせさんの希望となり、心臓を高鳴らせ続けたのだ。
■最期の言葉は「オブちゃん、ありがとう、ありがとう」 「黙々と仕事をしていました。それを見るのもつらい部分があったのですが、変になぐさめることもできず、黙って見守るしかありませんでした」(越尾さん)
やなせさんは暢さんの死後、憔悴して一時的に体重が落ちたが、3カ月ほどすると、気持ちを整理し、精力的に仕事を始めた。
そんなある日、里中さんにやなせさんからこんな電話があった。 「アンパンマンがヒットして、お金が入ってきちゃうんだ。
楽しく使っちゃおうと思って、高知にアンパンマンミュージアムを建てるんだけど、あんなところにわざわざ人が来てくれるのかわからない。
事業に失敗して貧乏になったらごはんをおごってね」
やなせさんと暢さんは子供に恵まれなかったため、アンパンマンがわが子のような存在だった。
「その“アンパンマンの家”を、故郷に建てたいという思いだったのでしょう」 (梯さん) やなせさんの心配は杞憂に終わり、’96年にオープンした「やなせたかし記念館アンパンマンミュージアム」は、わずか49日で来場者10万人を突破した。
生涯を通じて、楽しいことを企画し、みんなを喜ばせ続けたやなせさん。
東日本大震災が発生した後は92歳の高齢にもかかわらず、チャリティ活動に尽力していた。
ほどなくして膀胱がんを患ったやなせさんは、’13年に入ると入退院を繰り返すようになり、同年10月13日に永眠。94歳だった。
「最期の言葉は『神様仏様、ありがとう、ありがとう。お父さんお母さん、ありがとう、ありがとう。オブちゃん、千尋、ありがとう、ありがとう。みなさん、ありがとう、ありがとう』でした」(越尾さん)
今、やなせさんと暢さんはアンパンマンミュージアムから車で5分ほどの場所にある墓地で眠っている。
そこには、アンパンマンやばいきんまんの石碑も配されており、公園にもなっている敷地内には、朴の木が2本寄り添って立っている。
まるで公園で遊ぶ子供たちを優しく見守る、仲むつまじい夫婦のように――。
(取材・文:小野建史)
参考文献:梯久美子『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』(文藝春秋)
志恩ー お子さんがいなかったやなせさんご夫妻にとっては、あんぱんまんが、わが子 同然のお気持ちだったようです。愛する奥さんに、乳がんで、先立たれて、 やなせさんは、個人としては、一人ぼっちになって、寂しかったんだと思います。

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やなせさんの人柄は? (70714) |
- 日時:2025年04月21日 (月) 17時37分
名前:志恩
やなせたかしの人柄は? AI による概要
やなせたかしさんが泣いた「小学校の先生からの手紙」 | PHP ... やなせたかしさんは、アンパンマンを生み出した作者として知られる、
非常に優しい人柄と前向きな性格を持つ人物でした。
その人柄は作品にも反映されており、夢と希望を与える表現が多く含まれています。戦争体験や子どもたちとの触れ合いの中で培われた、周りの人々の「生」を大切にする考え方も、彼の作品に影響を与えています. やなせたかしさんの人柄を具体的に表す言葉には、「人生は喜ばせごっこ」や「無理聞いちゃうから簡単にできると思われちゃう」などがあります。また、彼は外出のたびに、周囲の人たちへのお土産を買ってきてくれるなど、細やかな気配りができる人物でもありました. やなせたかしさんは、子供たちの心に響くメッセージを作品に込めるため、自身の信念を貫き、しなやかな姿勢で活動を続けました。アンパンマンが「世界最弱のヒーロー」であるにも関わらず、強い力でなく、人を喜ばせることでヒーローになるというメッセージは、彼の信念が反映されたものと言えるでしょう. 彼の作品を通して感じられる優しさは、多くの人々を魅了し続けており、現在でも多くの人に愛されています. やなせたかしさんの人柄は、彼の作品からだけでなく、彼自身との交流を通して知ることができ、彼の作品に込められたメッセージは、現代社会においても多くの人に響くものとなっています. ーーーーーーーーーーーーーーー やなせたかしwiki 1919年(大正8年)2月生まれ 2013年(平成25年)10月没(94歳) ーーーーーーーーーーーーーーーー
志恩ー やなせさんは、顔は決してハンサムでは、 ありませんでしたが、 心は、大変ハンサムなお方でした。
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『あんぱん』は朝ドラ史上に残る名作になるのではないか。中園脚本の緻密さと深さが鮮明になった<パン食い競走>が表現したものは… (70770) |
- 日時:2025年04月23日 (水) 22時19分
名前:志恩
4/23(水) 12:32配信
婦人公論.jp
(『あんぱん』/(c)NHK)
今田美桜(28)が主演を務める朝ドラ『あんぱん』(NHK総合/毎週月曜〜土曜8時ほか)が話題だ。アンパンマンを生み出したやなせたかし・小松暢の夫婦をモデルとした物語。放送コラムニストの高堀冬彦氏が解説する。
◆中園脚本の緻密さと深さ
朝ドラ史上に残る名作になるのではないか。放送中のNHK連続テレビ小説『あんぱん』のことである。
脚本を書いている中園ミホ氏(65)はドラマ界の栄誉である向田邦子賞と橋田賞のダブル受賞者。この作品も緻密で奥行きがあり、それを技巧派が揃ったキャストが正確に読み取っている。
中園脚本の緻密さと深さが鮮明になった一例は第11回と12回である。
時代は第10回までの1927年から1935年に移り、今田美桜(28)が演じるヒロイン・朝田のぶ(幼少期・永瀬ゆずな)は8歳の小学校2年生から16歳の高等女学校5年生になっていた。現在の学制だと高校2年生である。
北村匠海(27)が扮する柳井嵩(幼少期・木村優来)は小学校の同級生なので、やはり16歳。旧制中学5年生になっていた。嵩の2歳下の弟・千尋(中沢元紀)は14歳の同中学3年生になった。
成長したこの3人の姿は第10回の最終盤で駆け足で紹介されたが、いじめっ子だった田川岩男(濱尾ノリタカ)ら周辺の人物のお披露目はまだだった。そこで中園氏が用意したのが、町内のお祭りとそのイベントのパン食い競走である。
この設定により、8年が経過した岩男らをひとまとめに見せられた。岩男は相変わらず粗野だ。のぶの2歳下の妹・蘭子(河合優実、幼少期・吉川さくら)、同じく4歳下のメイコ(原菜乃華、幼少期・永谷咲笑)は既に短く登場していたものの、パン食い競走の手伝いをさせることで、しっかりと紹介できた。
朝ドラにおいて子役を俳優にスムーズに交代させるのはそう簡単ではない。それぞれの人物を説明すると、時間がかかる。これによって物語の流れが一時的に悪くなったり、子役ロスの声が上がったりすることがよくある。
『あんぱん』の場合、流れが止まったという指摘を聞かない。子役ロスの声も上がらなかった。パン食い競走という場を整え、子役たちを一度に交代させたことが大きい。中園氏の技ありである。
それだけではない。パン食い競走を女性が参加できない設定にしたことにより、あの時代の著しい男女不平等を瞬時に表せた。『虎に翼』(2024年度前期)なども戦前の酷い男女不平等を表現したが、これも短時間で表すのは容易なことではない。現代人にとって、あまりにおかしな話だからである。
◆パン食い競走
のぶは参加資格がないことを無視する形でパン食い競走に出場し、1等になる。当然、のぶは失格となってしまうものの、このエピソードを使い、嵩との関係性の一端が表現された。
「失格なんて酷いね」(嵩)、「うちがアホやった」(のぶ)、「のぶちゃんは悪くない。男らしくないよね。みんな女の子に負けたのが悔しかったんだ」(嵩)
温厚な嵩が珍しく怒った。パン食い競走に出たかったのぶを参加に導いたのも嵩である。嵩がのぶに好意を抱いていることがあらためて示された。第13回のことだった。 パン食い競走をめぐるエピソードはまだ続いた。同じ第13回、繰り上げで1等になった千尋が、賞品のラジオをのぶに譲る。
「1等賞はのぶさんや。これはのぶさんが受け取ってください」(千尋)
朝田家にラジオがやってきた。これは作品にとって意義深かった。時代の説明を登場人物たちのセリフやナレーションに頼らずに済むようになった。ラジオを使って時代の色を伝えられる。『カムカムエヴリバディ』(2021年度後期)などもそうだったのはご記憶の通りである。
さっそく電源が入れられた朝田家のラジオからは1936年に開催されたドイツのベルリン五輪の国内予選が伝えられた。ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まるのは3年後の1939年。この時代はまだ平和だった。それが観る側に自然と伝わった。
◆自分の夢を追い求める決心
パン食い競走をめぐる話はまだ終わらない。第14回、競走中に倒れそうになったのぶを、千尋が支えてくれていたことが分かる。
ラジオも譲られているから、のぶは「ありがとう」と深く感謝した。これに対し千尋は「ワシ、大好きです!」と声を張り上げる。近くにいた嵩はうろたえ、蘭子とメイコは目を見張った。
もっとも、千尋の次の言葉は「朝田パンのあんぱん」だった。嵩は安堵するが、今後どうなるかは分からない。含みを持たせた。
パン食い競走にまつわる最大のエピソードは、のぶが自分の夢を追い求める決心をしたこと。事実上の1等になったことにより、どんな夢でもかないそうな気持ちになった。
のぶは第4回で急死した父・結太郎(加瀬亮)が遺した言葉も思い出す。
「なりたいものが見つかったら、思いっきり突っ走れ」
見つけた夢は学校の教師。女子師範学校に進むことを心に決める。ここでも中園氏の腕が見せつけた。朝田の家族関係と家族それぞれの人間像を一度に浮き彫りにしたからである。
◆釜次に「教師になりたい」と伝える
第13回、のぶから教師になりたいと伝えられた釜次(吉田鋼太郎)は「いかん、いかん。嫁に行きそびれる」と猛反対する。未亡人の母・羽多子(江口のりこ)を助けるべきだとも言い、蘭子が高等女学校に行かずに郵便局で働いていることも理由とした。祖母・くら(浅田美代子)も同調する。くらは保守的で釜次に抗わない。
一方、羽多子はのぶの意思を懸命に守ろうとする。釜次に向って「お願いします、のぶの夢を潰さないでください」と懇願した。普段の羽多子はひょうきん者だが、このときはまるで釜次と刺し違えるような迫力だった。
蘭子も「お姉ちゃんの夢はワテの夢や!」と声を上げた。のぶが進学することへの僻みは微塵もなく、釜次を睨みつけた。末っ子のメイコは何も言わず、うっすらと笑みを浮かべながら、結太郎の遺品であるソフト帽を釜次に被せた。のぶの夢をかなえるのは結太郎の遺志だと無言で訴えたのである。
これでは釜次はもう何も言えない。釜次はのぶが教師を目指すことを認めた。釜次は考え方がちょっと古いが、孫娘たちへの愛情は強いのである。
◆鮮明になった「家族の姿」
家族の姿を早い段階で鮮明にした意味は大きい。特に、ヒロインの人格形成に影響が大きい母親の内面を描くことは欠かせない。母親を見せることでヒロインの将来像も想像しやすくなる。
これを教えてくれたのはNHKドラマ制作者の1人。「朝ドラはホームドラマでもあるから、序盤で母親ら家族の姿を詳らかにするのはセオリー」。
『おしん』(1983年度)以前から、『カムカムエヴリバディ』『虎に翼』まで、名作と呼ばれる朝ドラはこぞってこのセオリーを守っている。
第11回から14回までに今後のストーリーの礎となるさまざまなエピソードが描かれたが、荷余り感やつながりの悪さを思わせなかった。パン食い競走という共通軸があったからだ。
◆嵩と千尋の実母・登美子
この朝ドラは今のところ分かりやすいキャラクターの登場人物が目立つ。たとえば全国を放浪する謎のパン職人・屋村草吉(阿部サダヲ)は口が悪いものの、心優しき善人だ。
第8回、結太郎が亡くなった直後に釜次も大ケガを負い、仕事ができなくなった。生活が逼迫した朝田家がパン屋をやろうと考え、屋村に職人になってくれと頼むと、「とりあえず1回だけだ」と無愛想に言った。だが、もう8年もいる。
複雑なキャラクターは嵩と千尋の実母・登美子(松嶋菜々子)。第3回、医院を営む義兄の柳井寛(竹野内豊)宅に兄弟を置き去りにした。再婚するためだ。登美子は元夫で兄弟の父・柳井清(二宮和也)と死別している。
第10回、登美子は再婚先を訪ねてきた嵩を「何しにきたの」と冷たくあしらう。それでいて再婚相手と離婚すると、8年ぶりに兄弟の前に現れ、寛に向って「しばらくこちらに置いていただけませんでしょうか」と同居を頼む。第15回だった。強心臓の鬼母である。
もっとも、兄弟に愛情がないかというと、そうは見えない。再婚は寛とその妻・千代子(戸田菜穂)には伝えたが、嵩には告げなかった。姿を消す際には「出掛けるだけ」と言った。罪の意識があり、本当のことを言うのは残酷だという自覚があったからではないか。
置き去りにした日、胸騒ぎをおぼえて追い掛けてきた嵩から登美子は「本当に迎えに来てくれる?」と尋ねられる。すると困ったような笑顔をうかべながら、うなずいた。やはり現実を口に出来なかった。
第9回、登美子は嵩に「元気にしていますか」などと書いたハガキを出した。わざわざ再婚先の住所まで書き入れていた。だから嵩は訪ねられた。どこかで子どもたちとの関係を断ち切りたくないという思いがあったからではないか。
登美子の文字は書き慣れてなく、十分な教育を受けているとは思えなかった。女性の自立が難しかった時代であることから、自分なりに考えた最善の策が兄弟を寛に託すことだったように思える。
登美子は嵩を誉める際、必ず「清さんの子どもだから」と強調する。自分の子どもだからとは決して言わない。登美子が清が生きていたころを愛おしんでいる表れだろう。
文:放送コラムニスト 高堀冬彦
志恩ー 私は、朝8時からのをみれない時は、Amazonコムのプライムビデオの NHKオンデマンドで、観ています。

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朝ドラ『あんぱん』史実でも戸籍から家族が消えて絶望… 書類上は1人ぼっちだったやなせたかし氏の孤独 (70778) |
- 日時:2025年04月23日 (水) 23時54分
名前:志恩
4/23(水) 16:00配信
NHK朝の連続テレビ小説『あんぱん』、第4週は「なにをして生きるのか」が放送中だ。いよいよ女子師範学校の受験日を迎えた朝田のぶ(演:今田美桜)。一方嵩(演:北村匠海)も高知第一高等学校への受験に臨もうとしていたが、母・登美子(演:松嶋菜々子)が神棚に受験票を置いていたせいで忘れていってしまう。のぶは自分の受験があるにも関わらず、嵩の元へ全速力で駆けていき、受験票を届けた後に自分の受験会場に駆け込んでいった。さて、この受験に際して、史実でもやなせたかし氏が突き付けられた「戸籍」問題があった。
■思春期に入った自分の感情を持て余して危険な行いをしてしまう
嵩さんは小学校を首席で卒業すると、高知県立高知城東中学校(現在の高知県立高知追手前高校)に進学した。この学校には縁があり、前身である高知県立第一中学校時代には、父・清さんと伯父・寛さんも通っていた。そして、後に弟の千尋さんも同じ中学校に通うことになる。
小学校時代は成績優秀だったが、中学に入ると嵩さんの成績は急降下した。とはいえ、田舎では尋常小学校を卒業したら学歴はそこでおしまい、というパターンも多かったなかで旧制中学校に進むのなら、ある程度優秀で恵まれた環境の生徒が揃うのは必然的なことだ。しかも、嵩さんの成績はそれでも200人中70〜80番くらいだったというから、取り立てて落ちこぼれというわけではなかった。
当時密かに漫画家、もしくは雑誌の挿絵画家や小説家といった道に進みたいと思っていた嵩さんだが、それを言えるはずもなかった。進路を心配した伯父の寛さんは「医者になるつもりはないか? もしあるのなら、この医院を嵩に譲ってもいいと考えてるんだが」と助け船を出したらしい。しかし、嵩さんは数学が苦手で、零点に近い点数をとったこともあった。そのため「すみません、僕は医者にはなりません」と返事をするしかなかったという。もちろん、寛さんも「それなら仕方ない」と受け入れた。
結局、嵩さんは高知高等学校(現在の高知大学)を受験することにした。旧制中学校は5年制だが、当時は4年修了した時点で受験することもでき、同じ中学でも優秀な生徒はその道をいくことも多かった。
そして受験のために戸籍謄本を取り寄せたとき、嵩さんは自分の境遇を改めて突き付けられることになった。父・清さんは病没、母・登喜子さんは再婚、そして弟・千尋さんはとっくの昔に寛さん夫妻の養子に入っており、戸籍から外れたことを意味する大きなバツ印がついていたのだ。嵩さんは寛さん夫妻の正式な養子ではなかったため、戸籍上は1人ぼっちだった。
志恩ー アンパンマンの創作者として、有名になったのは、やなせたかしが69歳の時。 かなりの高齢になってから、やっと売れたのでした。94歳まで行きましたが、 個人としては、奥さんには先立たれて、子供もいなかったし、人気者になっても、 一人ぼっちで、寂しい人だったのかもしれませんね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ・【やなせたかし:2025年度前期朝ドラの主人公】 父親客死、母親再婚、弟戦死。複雑な家庭環境。 大人気アンパンマンの作者の根底に流れる不変の真理はいかにして築かれたのか. https://www.youtube.com/watch?v=F1VKWXQKKiY
・朝ドラ「あんぱん」史実とは違う、のぶと嵩を幼なじみにした理由とは? https://www.cinematoday.jp/news/N0148521

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