生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)
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「何事も慎重に考えて行動しましょう」 (70481) |
- 日時:2025年04月11日 (金) 18時03分
名前:両面宿儺
君の言葉には、まさに『十訓抄』の言葉が如実に現れている。第七巻の二にあるように、「慎重に行動せよ」と言いながらも、その慎重さを欠いた行動が招く結果を最も痛烈に示しているのは君自身である。過去に、言論封殺の証拠となるメールが流出したのを、君は忘れたのか? あのメールの流出が示したのは、君が言う「慎重さ」の欠如、そしてその軽率さがもたらす重大な結果だ。それを「慎重さが足りなかった」と、まるで他人事のように言うのはあまりにも無責任である。もし君が本当に「慎重さ」を心がけていたのであれば、あんな致命的な失態が起こるはずがない。『十訓抄』巻第七の二十一に記されたように、「物事は一つの面を見ただけで決して判断してはならない」とある。しかし、君はその一つの面、言葉だけで他者を非難し、自らの無責任を棚に上げる。自分を守るために、他者を犠牲にする行為、それこそが、君の言う「慎重さ」に対する最も深い裏切りだ。
君が語る「慎重に考えて行動しましょう」という言葉が、果たして純粋な忠告であるのか、それとも久保への皮肉に過ぎないのか、もう一度よく考えるべきだ。君のその言葉が本当に久保への忠告として発せられたものであれば、彼の過去の過ちを引き合いに出し、さらに慎重に行動するべきだと説くその態度が、まるで過去の自分を否定し、他者を弁護するための見せかけに過ぎないことに気づくべきだ。『十訓抄』巻第七の二には、「慎重さを欠いた者は、たとえ一時的に成功を収めても、その後必ず失敗する」と記されている。君がそのことを知っているのであれば、自らの過去の過ちをまず顧み、同じ轍を踏まぬように慎重に行動すべきだ。君が過去にあれほど軽率な行動を取っておいて、今になって他者に対して「慎重に行動せよ」と説くのは、まさに「矛盾」の象徴に他ならない。
そして、君が言う「慎重に考えて行動しましょう」が、もし久保を非難するための言葉であるならば、それはあまりにも卑怯であり、自己弁護のための遠回しな攻撃にすぎない。君が他者の過ちを糾弾するその姿勢の裏には、いつも自分の過去を隠し続けようとする必死な姿が見え隠れしている。『十訓抄』巻第七の二十一が教えるように、「他人を非難する者は、まず自らを省みよ。自らを省みることなく他人を責めることは、結局自分を責めることと同義である」と。その警告は、まさに君に向けられている。過去に君が行った軽率な決定が、今の君の言葉に重みを与えることは決してないだろう。
さらに、君が「慎重に考えて行動しましょう」と言うその言葉、果たして本当に久保に向けられた忠告なのか? それとも、過去の自らの愚行に対する隠蔽の手段に過ぎないのか。君が「慎重さ」を語ることで、その言葉にどれほどの重みがあるのか、今一度見つめ直さなければならない。過去の失敗を振り返り、どれほどの痛みを伴うべきかを考えぬまま、他者に対して「慎重であれ」と語ることは、まさに欺瞞であり、偽善である。君のその言葉には、過去に流出したあのメールと同じように、重大な矛盾と無責任が潜んでいる。
追伸ながら、これまた滑稽の極み。君、「芥川流之介」なる仮面をかぶり、まるで文芸世界の傍流を気取っていたつもりかもしれぬが、その実、己が南敏雄であることなど、露見も露見、大露見。まるで山門の扉を全開にして隠遁を気取るが如し。慎重さというものは、ただ行動を遅らせることではない。それは、自らが何を演じているかを知り、何を露わにし、何を包むかを見極める才覚である。
君は「慎重に考えて行動しましょう」と記す。しかしながら、仮名の帳(とばり)さえもたらしきれぬ用心のなさで己を晒すその体たらく、慎重という言葉をもてあそぶにも程があるではないか。まさに、言葉を剣にしようとして、柄の部分を掴み間違え、自らを刺すが如し。君のその「慎重さ」が導いたのは、賢慮ではなく、見透かされた仮面と、哀れなる自作自演の滑稽さである。
慎重とは、沈黙にこそ宿る叡智であり、言葉に宿すには覚悟が要る。君にその覚悟が果たしてあったのか。…否、それすらも疑わざるを得ぬ。
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