生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)
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聖旨を否定して得た五十万円──社会事業団講演会を視聴しての感想 (71319) |
- 日時:2025年05月17日 (土) 08時36分
名前:両面宿儺
「祝いの集い」と銘打たれた映像を拝見した。しかし私の胸に去来したのは、言祝ぎとは程遠い、得体の知れぬ寒気であった。「祝い」と「呪い」とは、紙一重の筆致である。喜びの文字が、呪詛のそれに見紛うのは、祝辞の裏に何か隠しているからではないか。果たしてこの「祝い」は、真に誰を祝していたのか──谷口雅春先生の聖なる御意志を祝したものか。それとも、先生のご決裁を否定し、五十万円をもぎ取り「我らこそ正統な守護者なり」とうそぶいた自讃の集いだったのか。
かつて、谷口雅春先生は、御自身の著作物より生じる印税について、ある種の峻烈な決断を下された。すなわち、革表紙『生命の實相』復刻版による収益のすべてを、ご遺族へ支払うよう命じられたのである。その御決裁は、当時の社会事業団の了承を得た上でなされたものであり、法人にとってはまさしく「聖旨」であり「不動の指針」であったはずだ。しかしながら、その“聖旨”は、先生の薨去から数十年余を経たある日、静謐を破るかのようにして否定された。
事業団は、突如としてその事実を反故にし、法廷へと訴え出たのである。「金を払え」と。かつて拝跪していたその命に背を向け、過去の忠誠はなきものとされ、御意志は単なる「金銭債権」に貶められた。さらに驚くべきは、講演の場において、社会事業団の岡村副理事長が「五千万円の印税不払い」と語ったことである。これは事実に反する。実際に裁判で争われた金額は五十万円に過ぎない。このような誇張が、意図的でないとしても、真実を歪め、結果として世論を誤導する危険を孕むものであることは言を俟たない。しかも、その「不払い」と表された意思決定者は、他ならぬ谷口雅春先生である。その決裁を受けた者たちが、「その決裁は無効である」と言わんばかりの論法をもってして訴えを起こし、わずか五十万円を得て「著作権を守った」と自賛している。この姿は、一体何を物語るのか。
これは、かつて帝の詔を賜りて出征した忠臣が、幾星霜を経てその御命を「あれは帝の失政であった」と断じ、恩賞を求めて法廷に赴き、わずかに得た褒美を握りしめながら「我こそ正統な近衛の血を継ぐものなり」と吹聴して回るようなものである。その者の掌にある金は、忠義の証か。それとも、裏切りの代償か。谷口雅春先生は、法の空隙を突いて権利を主張せよとは教えられなかった。契約の盲点を見つけて相手を追い詰めよとも、訓えられなかった。先生は、信義と誠実を尊ばれた。そして何より、御自身の肉声に近いかたちで書物を後世に遺すことを願われたはずだ。その御遺志を、こんなやり方で継げると本気で信じておられるのだろうか?
公益財団を名乗るのであれば、なおさら問われねばならぬ。「これは本当に、谷口雅春先生のための行動だったのか?」と。
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両面宿儺(訊け)の焼き直し主張 (71331) |
- 日時:2025年05月17日 (土) 12時33分
名前:感想
革表紙『生命の實相』復刻版による収益のすべてを、ご遺族へ支払うよう命じられたのである。その御決裁は、当時の社会事業団の了承を得た上でなされたものであり、法人にとってはまさしく「聖旨」であり「不動の指針」であったはずだ。〉〉
法律上印税は事業団にあり。 「聖旨」とばかりに横槍を入れ遺族の所得を増す行為をする、これが正しい行為か。
さらに驚くべきは、講演の場において、社会事業団の岡村副理事長が「五千万円の印税不払い」と語ったことである。これは事実に反する。実際に裁判で争われた金額は五十万円に過ぎない。〉〉
一冊1万の頒価のものの印税は如何ほどか。総額どれほどになるのか。 たったの50万ということもなかろうに。
御自身の肉声に近いかたちで書物を後世に遺すことを願われたはずだ。〉〉
世界平和のために、全人類の光明化運動をするのだ、と掛け声は盛んなれど、 全世界の言語にどのようにして翻訳するのだろうか。 一番広がっているブラジルにさえ、日本語の「生命の実相」そのままのニュアンスで書かれているとは思えない。
公益財団を名乗るのであれば、なおさら問われねばならぬ。〉〉
もともと生長の家社会事業団は、公益法人して出発したものでも、養護施設としてだけで設立されたものではない。 事業団設立趣意書を読まれたがよい。
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(71336) |
- 日時:2025年05月17日 (土) 14時28分
名前:法律遵守
公益財団は公共目的で設立され 特定の宗教の布教に用いたり 他の主張を排撃するために 公益財団を用いることはできない 憲法に規定される「信仰の自由の尊重」を 久保や内田は理解していない
事業団に対して国が認定しているのは 「児童・青少年の健全育成」とともに 「学術・科学振興」と「文化・芸術振興」を 生長の家の思想に基づき行うこと
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大阪万博での一般人が天皇陛下の御装束を着用した事件に匹敵する不敬 (71341) |
- 日時:2025年05月17日 (土) 18時15分
名前:梅雨の走り
聖旨 とは、 天子のおぼしめし、天皇陛下のお考え キリスト教では「みむね」と読んで神の意志 つまり谷口雅春先生が偉大な師でいらっしゃるからといって先生の御意志を天皇陛下やキリスト教の神に使う言葉で表すことは不敬であり谷口雅春の「お考え」に反すると確信する
「先生の薨去」 やめて下さいAIさんだか勉強しない似非日本人さんだか 薨去 とは、 皇太子以下の皇族(や、三位以上の者)のお亡くなりになること
他人の誤読を問題視するような御仁が自分の書くコトバを実にいいかげんに 杜撰に無能な機械任せに並べ立てて 自分で確認しながら丁寧に書くことをしない姿勢には 呆れも怒りも通り越して ただ悪い影響の拡散に憂慮の念やまず
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賛同はしないが。 (71342) |
- 日時:2025年05月17日 (土) 18時33分
名前:神の子
まあまあ、そこはわかった上で事業団にとっては雅春先生は神の如き天子の如き存在だと見立てた前提で考えるとそういう言い方も有りじゃないかな。
聖旨の言葉の使い方にちょっと違和感を感じるけど言いたい事はわかる。比喩的表現だよ。
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本流派、こんな程度です。 (71343) |
- 日時:2025年05月17日 (土) 19時34分
名前:⊕「訊」⊕
本流派、こんな程度です。
以上
追伸
そんなことよりハイレベル掲示板の言論統制こそ不敬ですよ。あれは、日本の伝統的価値の否定ですから。
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詞(ことば)の警察に告ぐ──畏れと敬慕の混淆について (71344) |
- 日時:2025年05月17日 (土) 20時12分
名前:両面宿儺
「聖旨」なる語を用いたことが、天皇陛下に対する不敬である、という。なるほど、それは文字通りを以て咎め立てする者の理屈であろう。されど、その「文字通り」こそ、近代国語の頽廃であり、文脈という血脈を見失った、無機質なる規格の独裁ではないのか。わたしはこの語をもって、谷口雅春先生の御裁断を「天皇」と並列したのではない。ましてや、神と同格に祀ったのでもない。ただ、この国において最も畏れ多く、最も厳粛で、最も揺るぎなき命として受け止めるべきもの、それをたとえるに最もふさわしい言葉として「聖旨」を選んだまでである。
比喩とは、真実への階梯であり、絶対への指差しである。それを「字義通りに使うべし」との指摘は、いわば俳句における「春は春、夏は夏」としか認めぬとする句会の因循に似て、詩的生命を絞殺するに等しい。
また「薨去」の語に過剰な反応を示されているが、これもまた「語の品格」にこだわり過ぎた末の、無理解の咆哮である。三位以上云々といった勅撰辞典のような定義をふりかざし、「谷口雅春ごときに」と暗に言外で述べる態度こそ、先生に対する敬意の欠落ではないのか。先生は宗教界の一賢人などという小さな範疇で収まり得る人物ではなかった。その思想の気高さ、その文体の峻厳、その霊性の直観は、現人神の時代を生き、戦後の廃虚に魂の神殿を建てんとした、まさに“霊的皇族”とも称すべき存在ではなかったか。それを「薨去」と表したのは、文法ではなく情緒、定義ではなく感情、すなわち畏敬の涙を流さんがためである。
あなたの指摘は、辞典には正しく、言霊には貧しい。あなたの怒りは、敬意ではなく、規範への依存である。あなたの忠告は、倫理の装いをして、表現の首を絞めている。そしてAI云々の罵倒に至っては、あなたが論の筋道では勝てぬと自認したことの証左であり、それゆえ、私はもはや恐れぬ。
私は、比喩によって思想を掲げ、誤解されてもなお言葉を貫く。それが、雅春先生より教えられた、「神ながらの道」にほかならないからである。
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感想様へ (71348) |
- 日時:2025年05月18日 (日) 00時11分
名前:クエスチョン
>もともと生長の家社会事業団は、公益法人して出発したものでも、養護施設としてだけで設立されたものではない。 事業団設立趣意書を読まれたがよい。
谷口雅春先生がご存命だった頃、事業団において「政治運動及び文化運動も含めた国家社会救済の一大運動」など、ただの一度も行ったことはありません。
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クエスチョンさん (71349) |
- 日時:2025年05月18日 (日) 01時21分
名前:感想
谷口雅春先生がご存命だった頃、事業団において「政治運動及び文化運動も含めた国家社会救済の一大運動」など、ただの一度も行ったことはありません。〉〉
事業団設立趣意書を読まれたがよい、に従い読まれた上での質問とお見受けします。
趣意書は書かれたが、
「政治運動及び文化運動も含めた国家社会救済の一大運動」は行動に移さなかったと云うわけですね。
確かに農園は不在地主で没収され、政治運動は共鳴者が出ず頓挫はしました。 そんな中、創価学会公明党が政治権力を擡頭させるに付き、森田安東下の青年会はこのお題目の実践を目指したのではないですか。
そして生政連の終焉に伴い、安東一派とその他に別れた。その安東一派のうち宗教活動外での活動、政治方面の担当の日本会議系の活動と、そして教団に飽きたらないいわゆる本流と云われる人達を糾合する学ぶ会の宗教活動になった。
そんな昭和50年前後の青年会活動を経験していない阪田氏が章の入れ替えを含む新編『生命の実相』の発売はまかりならんと森田氏同道で安東氏訪ね直談判をする。
しかし森田氏談として安東とは二度と会わないと伝えられている。つまり 話し合いもせず裁判に訴える事業団が悪い、との投稿ばかりが目立つが、 最初に話し合いをしても始まらないとして、光明の音信で口撃を仕掛けたのは阪田氏。
実践する気のない誇大妄想を提案したというのしょうか。
ところで昭和21で19歳としてももう100歳です、「ただの一度も行ったことはありません」と断定する所以はどこにありますか。
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(71350) |
- 日時:2025年05月18日 (日) 05時49分
名前:ウ一ン
昭和21年で19歳として今100歳て どなたのことですか
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よくお読みください。 (71351) |
- 日時:2025年05月18日 (日) 06時16分
名前:クエスチョン
>「ただの一度も行ったことはありません」と断定する所以はどこにありますか。
よくお読みください。
谷口雅春先生がご存命だった頃、事業団において「政治運動及び文化運動も含めた国家社会救済の一大運動」など、ただの一度も行ったことはありません。
「事業団において」と書いています。
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