生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)
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| 谷口清超さんと中曽根康弘さんの関係 (74421) |
- 日時:2025年11月30日 (日) 21時57分
名前:教団所属の本音の時代
雅宣さんのfacebookは、谷口清超大聖師十七年祭での雅宣さんの挨拶のビデオであった。雅宣さんは“本邦初公開”の情報として、谷口清超さんが中曽根康弘総理に送った手紙の内容を読み上げていた。雅宣さんは谷口清超さんと中曽根康弘さんの関係を知っていたのだろうか。谷口清超さんと中曽根康弘さんは東大の同期です。 村上正邦著『だから政治家は嫌われる』には次の記述があります。 【生長の家の創始者で、初代総裁の谷口雅春先生は福田派を推していたので、その流れで中川さんを推すと、ところが、のちに二代目総裁となる谷口清超先生は、東大で中曽根さんと同期だったんだな。それで中曽根支持だ。】 また、魚住昭著『証言 村上正邦 我、国に裏切られようとも』では、 【生政連が活動停止を宣言してから数日後、京都府宇治市にある生長の家の別格本山で盂蘭盆会がありました。その折、私は清超先生にこう言われました。「あなたの今後のことは、中曽根さんに頼んでおいたからね。中曽根さんは、ぜひあなたを中曽根派に欲しいと言っている」】 雅宣さんは、村上正邦さんを嫌っているが、谷口清超さんと村上正邦さんとの関係も知らないことが多いのだろうな。人と人とはいろんなところでリンクしている。雅宣さんは人とのつながりが少なく浅いように感じます。雅宣さんは、実際の人とのつながりの講話も記憶にありません。
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| 谷口雅宣総裁FBで、「宗教の本質に還る」の動画を私も拝見しました。 (74427) |
- 日時:2025年12月01日 (月) 02時47分
名前:志恩
谷口雅宣総裁のお話 谷口清超先生(大聖師)17年祭 2025年10月28日、森の中のオフィスより配信 (7;30) https://www.facebook.com/reel/663365673524681
志恩ー 雅宣総裁は、「生長の家の歴史の中で、清超先生は、一番大切な ことをされた、という話をします。」と最初におっしゃっいました。
で、何をされたのかなと続きを拝聴しておりますと、
1975年1月13日、谷口雅春先生ご夫妻が、 東京から九州総本山へ移転されたのち、
生長の家の運動は、清超先生に任されたが、その時、 清超先生がされたことは、「変化の中で普遍を護る」ことを されたことだ。
つまり、宗教の純粋性を護るために、 雅春先生から生長の家の運動を託された清超先生が、 されたことは、 「生政連からの撤退と生政連活動の停止でありました。」 ともうされました。
1982年4月 雅宣先生、普及協会常任理事に就任 1982年12月 雅宣先生、本部理事 就任
1983年2月 玉置和郎、参議院から衆議院へ鞍替え
1983年8月15日、清超先生、生政連活動撤退を宣言(聖使命新聞にて)
そのことは、谷口雅宣著「歴史から何を学ぶか」(上)に、
2003年の生長の家教修会の時、話したことをまとめたものだ そうですが、そこに詳しく書いてありますから、 生長の家の政治に関する歴史のことを詳しく知りたいお方は、 ぜひお読みください、と言われました。
聞きようによっては、谷口雅春先生が政治に足を突っ込んで、 宗教の純粋性を損ねた失敗を 雅春先先生が、九州に移転されて、
東京に残って運動を託された 「清超先生が、生長の家の歴史の中で一番大切なことをしたのです。」 それは「政治から、手を引いたことです。政治活動を停止したことです。」
と言われたように、受け取れました。
いつものように 谷口雅春先生のされてきた失敗を、谷口清超先生が、このように 頑張ってカバーしたのですと、言いたげに。です。
私は、前にも、トキ掲示板へ書かせていただきましたが、
私自身、原宿本部時代、生長の家の政治運動に駆り出されて、 色々と、たとえば、選挙カーに乗って、ウグイス嬢も、しましたが、 私自身は、政治運動をするのは、大嫌いでありましたから、
生長の家が、政治活動から、撤退したことは、それで、良かったと 思っている人間ですけれど、雅宣さんの、あの、言い方は、 ないんじゃないかと 動画を視聴しながら、だんだんと、腹が立ってまいりました。
雅宣さんは、いつもながらですが、雅春先生のされた失敗を、 このように清超先生が、カバーされて、直されました。 という言い方をされてました。
何でもかんでも、 雅春先生を悪者に仕立てて、雅春先生の失敗を、このように 清超先生が、カバーしたのです、というふうに 清超先生の手柄にされた 言い方を、なさいます。
ほんとうに、すごい雅宣さんの悪いクセです!!!!
前にも「大東亜戦争は、聖戦ではなかった、と述べられた清超先生のご功績」 というのも、ありましたよね。
あの時も雅春先生の間違いを、 清超先生が、このように公式に発表して、カバーしたのです、 ということでした。
生長の家が国会で法制化しようとして頑張ってきた優生保護法改正は、 自民党の国会の採決で、過半数の賛成が得られなかったので、残念ながら 法制化しませんでした。それを、自民党の裏切り、と言われますが、
自民党の支持母体が、全国医師会なのですから、支持母体の賛成を得られず、 日本全国の国民の意識も、中絶絶対反対、という意識に及ばないので 玉置和郎さんが、国会内で、期待に報いたいと思って、法制化させよう と頑張ったにもかかわらず、法制化に至らなかったことを、 玉置さんは、後で、ずいぶん残念がって、 責任を感じておられましたが、
玉置さんが、努力して頑張ったのに、 実現しなかったことは、仕方がなかったことだと思っております。
法制化には至りませんでしたが、生長の家が全国の組織を上げて、 人命尊重運動の一環として、優生保護法改正運動を、大々的にやった ことは、私は、無駄だったとは、思っておりません。
それから、谷口雅春先生が、九州総本山に移転されたのちのことだそうですが、 玉置議員が、参議院から衆議院へ鞍替えしたことは。
ネットで今、 調べてみましたら、参議院よりも衆議院の方が、格上なので、総理大臣も 衆議院議員から選ばれるので、参議院議員の人は、格上を目指して、 衆議院選挙に鞍替えして、立候補する人が多いと載っていました。
すごく頼りにしていて、自分を推してくれていた谷口雅春先生は、 東京から九州に移転され、 生長の家教団の、実際の実権が、2代目の清超先生に、 そして、雅春先生とは考え方とは、まるで異なる、 孫の雅宣さんが、本部の理事になったのだと 玉置さんが、知ったとすれば、
玉置さんだって、次期選挙で、生長の家教団の支持が得られるか どうか、わからないと感じて、衆議院の方へ鞍替えされたのかも、 しれません。その時の事情は、ご本人に聞いてみないと わからないことだと思います。
谷口清超先生と、時の総理大臣、中曽根康弘さんとが、 お手紙のやり取りをされていた ということは、今回、私は初めて知りました。
それは素晴らしいことだったと思いますが、
では、なぜ中曽根さんが清超先生と文通したのかと言いますと、 これも、今、 ネットで調べたのですが、中曽根さんの若い時の愛読書は、 「聖書」と「生命の實相」だったと、明記されていました。
もとはと言えば、谷口雅春先生の生長の家の教えに共感されていらした 中曽根さんだったわけです。
首相として初めて、靖国神社へも、公式に参拝したという中曽根さんでした。
清超先生と中曽根さんは、東大時代の同期だったというよしみも もちろんあったと思いますが、根本的な中曽根さんの思想は、 「生命の實相」に感化されていたから 生長の家の2代目さんと文通されたのだと存じます。
雅宣さんは、中曽根さんの愛読書は若い時から 「聖書」と「生命の實相」だったそうです、ということは、 おっしゃいませんでしたよね、
そんなことは、ネットで、ちらっと調べれば、どこにでも 書いてあります。
たまには、谷口雅春先生の業績も、褒めて差し上げたら、いかがでしょう。
いつもながら、谷口雅春先生の、失敗探しばかりみたいなお話ですと、 古い信徒たちは、悲しくなって、寂しくなって、生長の家は、もうダメだと 痛感しますから、あきらめて、黙って去ってゆくと思います。
清超先生が「宗教の本質に還る」という生長の家の歴史の中で 一番大切なことを されたと言われるのでしたら、
その、もとに還した宗教の本質を、密閉してしまい ノーミートと環境問題運動に変質させてしまった
雅宣先生のご功績は、一体、なんなのでしょうか。
と、考えております。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ✳️AI による概要 「中曽根康弘元首相は、若い頃の愛読書」として、
聖書とともに**『生命の實相』**(生長の家創始者・谷口雅春の主著) を挙げていました。 ー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ✳️AI「参議院議員が衆議院議員への鞍替えをしたがる主な理由は」
参議院議員が衆議院議員の方より、 政治的な影響力が大きいためです。 主な理由は以下の通りです。
内閣総理大臣の指名権:内閣総理大臣は衆議院議員の中から指名される のが慣例となっており(憲法で衆議院の優越が定められている)、
参議院議員は原則として首相になれません。
衆議院の優越的な権限:法律案の再議決(出席議員の3分の2以上の多数決)
予算の議決、条約の承認、内閣不信任決議など、 多くの重要事項で衆議院の議決が優先されます。
これにより、衆議院の方が「政治の中心」としての役割や影響力が 大きいと見なされています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ✳️記者たちの夏1985年:中曽根首相 靖国「公式参拝」
中曽根氏は周到だった。「政教分離原則」を定めた憲法との 兼ね合いについて、官房長官の下に有識者の懇談会を設置。 論議を進めて、参拝の仕方によっては 憲法に抵触しないという報告書を受け取った。
中曽根氏は神道の参拝形式を薄めたやり方で、 歴代首相が見合わせてきた公式参拝を実現したのだった。
その後、首相による靖国参拝は、 小泉純一郎、安倍晋三氏らが行ってきたが、 「私的」か「公式」か、などは問われないままだ。
(朝日新聞)
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森の中のオフィスでの 谷口雅宣総裁のご講話の時のテロップより
画面をマウスでクリックすると拡大します。

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| 本邦初公開? (74433) |
- 日時:2025年12月01日 (月) 19時57分
名前:教団所属の本音の時代
谷口清超さんと中曽根康弘総理の文通の話は、『理想世界』誌 昭和58年10月 「門」欄(谷口清超)に記載があります。
【(略)近頃はタイプライターが発達したから、これを使うときれいな字が打て、事務的書類はこれに限るようだ。がこの時でも、本人のサインは必ず自分で書くのであって、「他人に書かせる」などということはルール違反である。私の手紙は近頃は大抵この方式で書き、ワード・プロセッサーかタイプに打ってもらったのに、私自身がペンで署名して出している。そうしないと、とても日常事務はさばききれないし、相手にも判りやすい文書をとどけることが出来るからである。いつだったか中曽根首相からの手紙の返事にも、これ式のものを出したことがあるが、この時は墨と筆で署名して、おまけに判子までついて、封筒も書いた。中曽根さんの手紙も墨で書かれたものが多く、とても肉太のいさましい字である。字は心をあらわすということは、たしかに言えるらしい。字ばかりではなく、文章でもそうだ。中曽根さんのは巻紙に大きく書いた手紙もあり、そういう時は私もなるべく巻紙に筆で書くことにしようと思い、一ぺん巻紙でだしたことがある。中曽根さんは時には電話もかけてくる。先日も参議院選挙が終わったあとで、かけて来られたが、電話でも敬意をはらう時は、必ず相手が電話口に出るより以前に自分が出ているので、その点中曽根さんは実に礼儀正しく、必ず自分が先に出ておられる。(略)】
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| 教団所属の本音の時代様 (74434) |
- 日時:2025年12月01日 (月) 22時47分
名前:志恩
>教団所属の本音の時代ー
谷口清超さんと中曽根康弘総理の文通の話は、 『理想世界』誌 昭和58年10月 「門」欄(谷口清超)に 記載があります。<
志恩ー
本音の時代様、よく覚えていらっしゃいましたね。 私は昭和44年に結婚しまして、その後は、生長の家誌、白鳩誌は とっておりましたが、理想世界誌は、その頃は、とっていなかった と思いますので、その文は、拝読した記憶がありませんでした7777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777¥77==5でした7777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777777¥77==5。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ✳️AI による概要ー
元総理の中曽根康弘氏と「生長の家」創始者の谷口雅春氏の間には、 思想的な背景や、政治的な文脈での接点が指摘されています。
思想的な近さ: 谷口雅春氏が提唱した「生長の家」の教えや思想 (特に天皇信仰や憲法改正など、保守的な政治思想と関連する部分)は、 一部の政治家や支持者に影響を与えました。
政治活動との関連: 「生長の家」は1960年代から80年代初めにかけて 「生長の家政治連合」(生政連)などを通じて活発な政治活動を展開しており、
建国記念の日制定や元号法制定などの成果を上げました。
これらの活動は、 中曽根氏のような保守政治家の掲げる政策目標と方向性を同じくすることが多く、 人脈や活動面での繋がりがあったとされています。
具体的な人脈: 谷口氏の門下生や影響を受けた人物が、 中曽根氏の周辺や保守系の政治団体に存在していたことが、 関係性を示すものとして言及されることがあります。 ----------------------------------------------------------- 志恩ー
「生長の家政治連合」(生政連)の政治活動によって、 優生保護法改正の法制化は、国会で賛成票が過半数を とることができませんでしたので、 法制化は実現しませんでしたが、
谷口雅春先生がされた(生政連)の政治活動によって
日本人にとって重要な、 「建国記念日の制定」や「元号法制定」などの 成果は 上げたのでしたね。
ですから、 谷口雅春先生がされた 生政連の政治活動は、決して無駄では なかったと思います。

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| 生政連活動停止について (74441) |
- 日時:2025年12月02日 (火) 00時34分
名前:教団所属の本音の時代
生長の家政治連合と「今の教え」を考える掲示板に次の投稿がありましたよね。
【26: エンジェル :2011/06/21(火) 22:22:02 トキさまが書かれた<政治活動停止の疑問点>についてのT考察のために
実は私もこの事が本当はどうだったのか知りたくて (古今物語の掲示板でも話題になったことがあったので)
もしかしたらあの当事雅春先生の最もお側におられた貴康先生なら ご存知かと思いうかがった事があります。
それまでは、清超先生が政治活動を嫌っておられてという噂もあったのですが お話を聞いて驚きました。
私が、清超先生は政治活動がお嫌いだったのですかと貴康氏にお聞きすると 「好き嫌いの問題ではない、僕は玉置和郎の事務所で一年間丁稚奉公させられたんだよ、 預けられたりは清超先生だよ笑、嫌いな世界に息子を預けはしないだろーよ」
「それでそのうちに玉置先生に見込まれちまって村上さんもいたんだけど 俺の跡継ぎになってくれないかと誘われてね、僕も若かったから本気にしちゃって・・・」
「て゛もね、清超先生はおまえは生長の家を勉強して政治家ではなく 政治家を使う立場の人間になれと言われたんだよ」
だからその後長崎の雅春先生の下に行かれたのだそうです。 でもこの当事は選挙のたびに全国を応援に行き、特に村上さんの初当選の選挙では奥さんの 臨月の日を超えて駆け回り、村上さんの当選確実が出た日にMさんは生まれたそうです。
さて、二回目の(一度雅春先生自身が活動停止を言われたことがあります) 生政連の活動停止(凍結)になった時の話ですがここからは実際にお聞きしたことを 会話形式にして書きます(文責はエンジェル)
「あの日ね、清超先生から朝お電話があってね、 あんたは政治活動にとても興味があったし誤解の無いように伝えておきたいことがあって・・・」
(実はこの当事、総本山の落慶大祭後、長崎に貴康先生の尽力で長崎『玉置会』が 三菱関係を中心とした企業が参加して出来上がり、地方議員連盟も大いに拡大中で 貴康さんも各地に応援に行かれていた等の背景があったようです)
清超先生「生長の家は自民党に結局利用されてしまったことは君も 今度の法案の扱いや名簿順位の扱いで理解していると思う」 「信徒をこれ以上純粋な信仰活動よりも政治に関わらせて失望させるわけにいかない。
ここは一時政治活動を凍結して純粋な信仰活動にもどり、 圧倒的な信徒の増大を図って出直さなければならないと考えたわけで、 先ほど雅春先生にこの決断をお伝えして了解を戴いたところだからね理解して欲しい」 貴康氏 「活動の凍結とは信徒数が倍増した日には再び政治活動に参加するということですか」 清超先生「そう思ってもらってもよい、ただ自民党と今までのように協力するかはわからない」 貴康氏 「もし信徒さんを拡大できたら自分たちの政党を作る可能性もあるのですか」 清超先生「そういうこともあり得る、何しろこれからは政党に他の団体と天秤にかけられるようなことの 無いように信仰的に熱烈に、 信徒数においても圧倒的な力を蓄えなければならないということだ」 貴康氏 「そういうことならば全く異論はありません。先生のおっしゃる通りです」
このようなお話があったそうで他の誰にもしばらくはお話にならなかったそうです。
このことから解るように、生政連は一活動が凍結されそれは、 解散と云うことではなかったわけで 実際、経理上も生政連の会計と財産はその後何年も残っていたようです。
「この活動の凍結の決定はおそらく当事の理事会であったはずで、このころの理事会の書記は 森田征史さんだったろうから詳しくは聞いたらいいよ」とのことでした。
ちなみに、雅宣さんはとお聞きすると、あの当時は生長の家にはいなかったと思うよ、 完全に解散になるころには 本部に入っていて当然大きく関わったとと思う。との事でした。】
雅宣さんの解説は、間違っていますね。 清超さんは、「圧倒的な信徒の増大を図って出直さなければならない」と言っている。 貴康さんの「あの当時、雅宣さんは生長の家にはいなかったと思うよ」はの、事実誤認もあります。
生政連活動停止後の信徒数は増えていません。雅宣さんが実権を持ってからは信徒数は激減しています。純粋な宗教運動・信仰運動を40年以上やってきて成果が出ていません。どういうことなのでしょう。そこには雅宣さんは触れていませんね。

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| 雅宣さんは、清超先生が、生政連を活動停止にされる前年から、本部理事になって本部におられました。 (74442) |
- 日時:2025年12月02日 (火) 01時43分
名前:志恩
>このことから解るように、生政連は一活動が凍結されそれは、 解散と云うことではなかったわけで 実際、経理上も生政連の会計と財産はその後何年も残っていたようです。
「この活動の凍結の決定はおそらく 当事の理事会であったはずで、 このころの理事会の書記は 森田征史さんだったろうから 詳しくは聞いたらいいよ」とのことでした。
ちなみに、雅宣さんはとお聞きすると、 あの当時は生長の家にはいなかったと思うよ、
完全に解散になるころには 本部に入っていて当然大きく関わったとと思う。との事でした。」<
志恩ー 清超先生によって生政連、活動が凍結(活動停止)される その前の年に、雅宣さんは、本部理事に就任されていました。
清超先生は、本部理事にしてある息子の雅宣さんに 生政連を活動停止にすることは、 相談されなかったのでしょうか。
1982年12月 雅宣先生、本部理事 就任
1983年8月15日、清超先生、生政連活動撤退を宣言(聖使命新聞)
活動停止にしたのは、雅宣さんが 1982年12月に本部理事に就任された 翌年の、今から42年前の 1983年8月15日ですから、
雅春先生89歳、清超先生63歳、雅宣先生31歳の時。
42年も前のことですから、雅宣さんは、どうだったか きっと 忘れて、いらっしゃるのでしょう。
生政連活動 停止について、 清超先生が雅宣先生に 相談されたのかどうかということを。
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| 中曽根康弘さんと生長の家 (74468) |
- 日時:2025年12月03日 (水) 12時36分
名前:教団所属の本音の時代
昭和五十七年十一月に総理になった中曽根康弘さんは生長の家の二代目総裁・谷口清超先生と東大の同期だった。そのうえ奥様が生長の家の活動に熱心で、ご主人が朝出かけるときは 『甘露の法雨』を必ず背広の胸のポケットへ入れておかれるから、中曽根さんも法改正に積極的だった。
「(優生保護法改正に積極的だったのは)堕胎が奔放にやられるのを少し慎重にした方がいいと考えたのです。これは『生長の家』の考えで、参議院の村上正邦君とか、玉置和郎君とか『生長の家』の支持者が強く主張していました。私も昔から『生長の家』の機関誌を読んでいて、 それで甘露の法雨とか、生命の実相というのは、たいしたものだと思っていました。ある程度共鳴していたわけですよ。(中略)堕胎の実数というのは明らかにはなりませんが、生まれてくる赤ちゃんの数とあまり違わないかもしれませんね。もし、堕胎がなかったとすれば、少子化、高齢化問題もかなり解決するわけで、その意味では重大な問題ですね」(中曽根康弘著『天地有情五十年の戦後政治を語る』文藝春秋刊より)
こうして昭和五十八年の通常国会でようやく優生保護法の改正問題が再浮上した。だが、こ の動きに反対する女性たちの声をバックにした『母性の福祉を推進する議員連盟(森山眞弓代表)」も党内に誕生した。
結局、党内の混乱と女性の反発を恐れた自民党執行部は優生保護法の改正案提出を見送りました。 生長の家にしてみれば、 これは自民党の背信行為以外の何ものでもない。 選挙のときに利用するだけ利用しておいて肝心のときには何もしてくれないという不満が募った。それが後に生長の家が政治から手を引く原因の一つになったんです。(魚住昭著『証言 村上正邦 我、国に裏切られようとも』)
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