生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)
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| 谷口雅春著 「我ら日本人として」 (74730) |
- 日時:2025年12月18日 (木) 11時24分
名前:教団所属の本音の時代
はしがき
利己主義者は自分で自由に振舞って生活しているようで、實は非常に孤獨である。 自己を主張するだけで誰とも本當に一緒にいのちを融け合わして生活することができないからである。誰も魂の底から自分について來ないし、自分も誰にも魂の底からついて行けないからである。自己愛と云うものは結局無限の楽しさにおそわれることになるのである。人間は決して自己愛だけで眞に幸福な生活を送ることはできない。私たちが本當に生きるためには、私たちは自分の生命をしずかに見詰めて、その生命が何處から来たものであるかを知らなければならない。 自分の生命は父母にこれをうけ、父母の生命は祖先にこれをうけた。その祖先が此の日本國を建てたのである。この日本國には祖先の生命がそそがれている。その日本國に私たちは生を享けたのである。祖先がなく、日本國がなかったならば私たちは無いのである。私たちの生命はそれゆえ、私たちの祖先の生命と切りはなすことはできないし、日本國からも切りはなすことはできない。私たちは日本人であるほかはないのである。日本人にとって日本國は、自分の生命が現實的には肉体から切り離すことができないのと同じ程度に、切り離しがたき”魂の住む郷里”である。私たちは自分の肉體がたとい今如何なる健康状態にあろうとも、自分自身を愛せずにいられないのと同じように、私たちは、戦後の日本國が如何なる状態をしておろうとも、日本國を愛せずにはいられないのである。「いまの日本國の現状が愛するに價する有様でないから日本國を愛することが出来ない」と云う人が往々あるけれども、「愛する」とは、美しい間だけは可愛いがって、醜くくなったら嫌いになるような遊冶郎の”まこと”ではないのである。「愛する」とは、自分の妻が美しい間も、病んで醜くくなっても愛することである。そしてその”病い"をなおして更に美しくしたいと意志し、努力する心である。 今の日本国は、「愛するに値するほど美しい」とは言い得ないかも知れない。けれども、日本国が醜くければ醜くいほど、それを愛し育てて理想的な美しいものにしたくならずにいられないのが日本人の国民的貞操でなければならない。美しい女から美しい女と愛を遷して行くドン・ファンのように、愛すべき姿の日本國であるあいだだけ愛して、その愛を他國に遷して行くような人間は日本人としての国民的貞操がないのである。そう云う人間は、日本人の顔をしていても日本人ではないのである。私は眞に日本国を愛する日本人であることを欲するのである。 眞に日本を愛する愛をもたない人間は結局は、人類としても傍観者であるほかはないであろう。 「日本を愛するよりも、先ず人類を愛せよ」と先覚者ぶって言った人もある。しかし人類とは抽象概念であって、どこかの国民でない”人類”なんてものは、具體的には存在しないのである。具体的人間は必ず「日本人」であるか「某國人」かである。そして日本國を清く正しく美しく愛してこれを正しい方向に育てて行くことによってのみ、日本人は世界の平和に貢獻し、人類全體の幸福に寄与することができるのである。 真にその人が"戀人"を愛するならば、自己の理想を戀人に移入して此を理想化せずにはいられないであろう。そしてその理想化の熱情が高度であればついに現實の醜くさを焼きつくして、その戀人を理想的な姿にまで変貌してしまうことができるのである。 私はこの戀人の熱情のように日本国を愛し、どんなにまだ現實が「まだ愛するに足りなく」とも、その熱情の焔をもって、現實の醜くさを焼きつくして、日本国を理想の美しさにまで変貌せんとするものである。私は日本を愛している間が幸福であり、魂が孤獨でないのである。そのために私が書きつづけた文章および折りに觸れて講演した論策をあつめたのが本書である。しかし空想を私は述べているのではない。我ら日本人として「国」を如何に考うべきか、國際的立場を如何に考うべきか、民主主義と民族主義とは一致するか、国会はどうすべきか、日本の建国の問題、愛国心の問題、憲法改定の問題、マルキシズムの問題、世界平和の根本的基礎、やがて来る人類の運命等、刻下の日本人にとって是非知らねばならぬ具體的な問題について述べたものである。若し諸君が日本の前途についてに憂えるところがあり、日本人としての生き甲斐と榮譽とを知り、日本の政治や、日本國のあり方を、少しでも一層よくしたいと思われるならば是非本書を読んで更に熟考して欲しいのである。 昭和三十三年一月二十日 著者識す (つづくがいつになるのか未定)
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| (74744) |
- 日時:2025年12月19日 (金) 10時47分
名前:教団所属の本音の時代
第一章 すでに危機は来ている
生長の家と鳩山さんとの關係
おたずねのことお答え申上げようと思います。私は社會党にも自民党にも属しないものでありますし、生長の家そのものも自民党に應援するものではありません。鳩山さんと私との共著『危機に立つ日本』があるからという理由で生長の家が自民党であるかの如き感を与えているかも知れませんが、決して生長の家が自民党ヒイキという譯ではありません。 鳩山さんが生長の家の教えに觸れて「もう一度人類のお役に立つなら、病気のそのままでもお役に立ちたい、生命は神より与えられたものであって、病氣から与えられたのではないから、自分のいのちは神が返却せよといわれるまでは、病氣から横取りされることはない」との大信念をもって半身不随のまま立ち上られたのであり、その大信念をもって総理大臣在職中あの病氣のままで、ソ連まで使いし、多忙な神経戦の多い政界の仕事を今日までやりつづけて来られたのは、生長の家のお陰だと大いに感謝していられるだけのことであって、生長の家が自民党ではなく、鳩山さんが生長の家党である譯であります。これを逆に考える人は、宗教が一党に偏するが如き誤った観念をつたえるのでありまして、それは大變危険なことであります。 決して生長の家は自民党に偏向しているのではありません。
自民党と社會党の言い分
それはさて置き先般ラジオ放送で自民党と、社會党と、勞農党との代表者がある婦人團體を聴衆にする放送討論會のようなものを放送しておりましたが、自民党は社會党の議會に於ける暴力行爲を取り上げて攻撃する。社會党はその暴力行爲が一應悪かったとはみとめるが、そこには懺悔もなければ反省もなく、その次に口を衝いて出る言葉は、「社會党が暴力行爲に出でざるを得なかったのは自民党が多數決と謂う暴力をつかうから防戦的に肉體的暴力を使うより仕方がなかった。吾々をして暴力を行使せしめるようにしたのは自民党が悪いのである。其處のところをよく諒承して貰いたい」というような辯解であった。 したがってこの辯解が通るならば「自民党が多數決の暴力で来る限り今後も社會党は肉體的暴力を用いざるを得なくなることはある」と依然として多数決に對抗するためには肉體的暴力は正しい「力」だと肯定しているのにあきれざるを得なかったのである。
民主主義のルールと實際
もっとも民主主義というものは、多数決によるのを原則とするのであり、多数の集團による決議というものは群衆心理によって、すぐれたる少数の叡智よりもレヴェルが低くなるのであるから、本当によき叡智は群衆心理の多数決によっては得られない、従って私は民主主義というものは政治の最高原理ではあり得ないということを『限りなく日本を愛す』(谷口雅春選集第十九巻・日本教文社刊)に「一人の叡智者の出現を待ちのぞむ」と書いて置いたのである。だから現在では民主主義だといっても多数の決議に持ち込むまでには、閣僚とか、委員會とか、少數幹部のブレン・トラストで政策を決定したり審議したりして、党議の決定となったものを、党員である代議士が、多少は自分の考えと異っていても、盲判式に賛成投票して多数決ということになるのである。だから、少数の意見を多数が雷同することを民主主義だといっているに過ぎないのである。こうして、自民党の政策は自民党の少数有力幹部の意見であり、社会党の政策は、社會党の少数有力幹部の意見であるに過ぎない。(それで社会党は統一社会党として左右兩派が合同したが、階級政党としての色を脱していないので、社会党左派の幹部の意見が圧倒的であると見られる)そして党員の数は、どちらの政策に賛意を表する國民の数が多いかということを、國民の代表である代議士の投票の数によって決定するために役立つのである。だから國民の賛否はそれを代表する代議士の賛否の投票数によって表現せられる。だから議會において賛成投票数の多い法案は、國民の大多数がそれに賛成していることを意味している。その賛成投票者が多数であることを「多数の暴力だ」といって少数が「肉體的暴力」によって阻止することになると、少數が暴力を使用して國民の意志を蹂躙することになるのであって、一種の(部分的)暴力革命であるのである。
果して憲法改悪か
さて其の放送討論會をきいていると、自民党を攻撃するのに「憲法改悪」という形容詞をつけてすぐ議論するが、「改悪」か「改善」かは、その改めねばならぬ理由や由來や内容をよくきかな いですぐ「改悪」という言葉で聴衆や読者の感情に訴えて「憲法を改めることは是が非でも改悪だ」と云うような印象をラジオや新聞で与えることは、ラジオや新聞が、社会党に味方してい ることをあらわしているのであって、これは、公平なジャーナリズムということはできないのである。 社会党や労農党の辯士は、憲法改定が改悪であるという理由は、改定の目的が、再軍備を容易にし、再軍備は直ちに戦争に直結し、再軍備はアメリカの手先となる軍隊をつくることであって民衆の敵だ、その軍備費をけずって、貧しい國民を救うように使うべきだという風に説くのであったが、私はそうは思わないのであります。
憲法改定の主要點は何か
憲法改定が必要なのは、再軍備だけではなく日本の國のあり方の根本問題にかかわるものであり、日本の国が如何にしてハジマリ、如何にして建ったかの根本を定めるものでありますが、現法は日本国を弱體化するための連合軍の意向の下に制定せられたので、建國の根本が明かになっていないで國民が主權者になっております。しかし現在の國民は建國の主権者ではなく、既に建てられたる国の総承者に過ぎないのであります。(拙著『限りなく日本を愛す』第一章参照)
軍備は國家の威厳であって戦争に直結しない
この點を改定憲法では明かにすべきものだと私は考えます。軍備を戦争に直結するのは間違であって、軍備は国家の威厳であって、現在この威厳なきために公海に李承晩ラインやブルガーニン・ラインなどの線をひかれて、日本の漁業権が不當に侵略せられ、漁民の生活權は不當に奪われているのであります。 立川基地や砂川基地問題でその地の住民の生活を奪われるといってアメリカ基地立退きを迫ることに賛成している社會党が、漁業權を、ひいては漁民の生活權を侵略する韓國やソ連を少しも批難しないのは、漁民は社會党では勞働階級とみとめのであろうか。そこに何か爲にするところがあって議論を強いて曲げている感じが受けとれるのであります。 せめて韓國に劣らない軍備が日本にあればその威厳に恐れて、韓國は竹島を占領もしないでしょうし、公海にて漁業をする日本人の漁船を一方的宣言で捕獲し漁民を捉えて監禁するような無法なことはしなかったにちがいないのであります。漁民の生活權をまもるためにも軍備が必要なのであるのは斯くの如く明かであります。社會党が真に漁民をも含めての労働階級の味方ならば社会党は何故漁民を守る武備の必要を説かないのでしょうか。 軍備があるのが戦争誘發だと考えて、日本の威厳をなくして丸腰にならせようとするのは、日本の軍備をなくして、赤兒の手をよじるように、日本をソ連の手籠めにさせるための陰謀だと私は考えるのであります。
(つづくがいつになるのか未定)

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| (74799) |
- 日時:2025年12月22日 (月) 09時48分
名前:教団所属の本音の時代
再軍備は却って勞働者に職業を與える
次に軍備につかう金を平和産業に向ければ、貧民がたすかるとか、日本が中共のように社會主義になれば失業者はなくなるとかいって、それにひっかけて"再軍備は可かぬ"――と云うような理論が社會黨の人たちから説かれるようでありますが、これなどは、經濟的のアタマのない大衆には受ける言葉でありますけれども、こんな馬鹿な矛盾した理論はないのであります。軍備がなくなれば重工業に従事している工員はその大部分が失業して、その工員の貧乏さが一層貧乏になるのであります。これは終戦直後の日本人の失業狀態の甚しかったことでもわかるし、最近の例を挙げれば横濱の××自動車株式會社が米軍の一部撤退のため軍用自動車の受註がなくなると、数千人の工員が解雇せられることになり、解雇反對のストライキをやっていた事実は何を語るでありましょうか。軍備反対の総評の統率下にある労働者でも軍備を縮少すれば失業が殖える事實に直面したのであって、軍備につかう金を平和産業につかえば失業者がなくなると云うようなことはただの宣傳にすぎないのです。むしろ日本が再軍備をすることは日本の労働者に職業を與えることになるのであって、却って勞働者を富ましめること斯くの如きであります。平和産業への轉換と云うようなことも安易に叫ばれますけれども、平和産業たる化繊業界では生産過剰で五十パーセントの操業短縮を決議したと云うことです。 ラジオできいていますと、ある主婦が「軍備につかう豫算を貧民を救濟するように使えば貧民がたすかる」と、複雑な經濟関係を唯の簡單な加算と引算とで割り切ったようなことをいっていましたが、貧民救濟に勞働する「場」を與えないで豫算を救濟金の形で与えたりしますと、国民の依頼心を増長せしめ、救濟金を受けることを権利のように考えるようになり、國民の獨立自活のコ性を失わしめることにもなります。 だから貧乏救濟には労働の「場」を與えなければならない。そのために私は『解放への二つの道』(日本教文社刊)の本の中で治山治水工事に全失業者を動員することによって毎年の颱風による農作物の被害を防ぎ、食料輸入を激減し日本を富ましめるように勸めて置いたのであります。 併し土建勞働に向かない人もあるので、これだけでは足りないのであります。「中共に失業者がない」というのは、軍備をしないからではなく、世界最大の軍備を整えるために「何カ年計畫」というようなことを繰返しやっているからであって、決して「軍備に使う金」を平和産業に振向けているからではないのであります。 ソ連に失業者がないというのも同様に軍擴にいそがしいからでありまして、日本が戦争 中に学生までも徴用して、「失業したい自由」がなかったと同様に、軍備にいそがしければ、何處の國でも失業者はなくなるのであります。ソ連がこの程「陸軍を百五十萬減じたからアメリカも軍縮せよ」と提案したのも、アメリカが一様に軍備縮少をやれば失業者が道にあふれて混乱状態に陥るのをねらったのであります。無論「軍需工場」を「平和産業工場」に轉換して同じ工員をその平和産業に専用すれば問題はないのでありますが、それは如何なる平和産業が需要されるかが問題であり、専門技術の上からも容易には轉換できません。南洋の未開國ならいざ知らず、大抵の文化国家は平和産業の生産品は過剰生産であります。だから、どこの国でも如何に生産原價をやすくして輸出を増大し、他國との貿易競争に負けまいとして骨を折っているのが現状であります。 そこで國際的貿易競争に打ち勝つために、日本のように原料品を他國から買わなければならない国では原料費を安く出来ないから、生産費をやすくしなければならない。そのためには工賃をやすくするか新鋭の能率の高い機械を設備するかしなければならないけれども、従来の機械を廢棄し、新鋭の機械をつくるには、新規事業をはじめるのと同様に設備費が非常に高價につくので、その設備の輸入代金や、設備費の消却費を考えると輸入超過にもなるし、製品の生産費も高くつくのです。そこで工員の収入を減ぜずにしかも國際貿易に負けない値段で製品をつくるには単位工賃を安くし、その代り從業時間を長くして工員の収入を殖やす(即ち生産性を高める)よりほかにその産業を維持すると同時に、日本が經濟的に生きて行く道がないのは明かです。それなのに、総評のやりくちを見ていると、工員賃金の増加だけを要求するストライキを指令して、工具の生産性を高めることには反対しているのです。彼らの要求するように、生産性を高めないで賃金を増加すれば製品価格が増大して、日本の製品が國際競争にまけることになる。これでは「軍需産業を平和産業に轉換せよ」という呼號は大衆の耳に入り易い美麗句に過ぎないのであって平和産業そのものが成り立たないことになるのであります。こうすることによって彼らは何を目的としているのかというと、日本の平和産業が國際競争に負けて崩壊し日本の産業秩序が混亂するのを悦んでいるかのように見えるのであります。こんな事が計画的に進められていて、口先ばかりで「軍需産業を平和産業に轉換すれば、貧民がたすかる」などというのは、空理空論の宣傳に過ぎないのであって、國民はこんな空理空論にまどわされてはならないのであります。
酒を飲んで政治をするのは止めて貰いたい
生長の家は中道實相の道を歩むのでありますから、社會党を批判しても、これは日本国のためを思うからでありまして、 自民党にのみ味方するのではありません。内閣官吏の汚職はわるいし、多久島のつかい込みもわるい。しかし汚職は唯物論の拝金主義者を政治家に選ぶかぎり、 そういう官吏や党員がでる。無論その政権担当者の監督不行届もあり責任問題もあるけれども、今までどの党が政治をやっても必ず汚職や賄賂の話が出なかったことはないのであります。今後たとい何党が政権をとったからとて同じような汚職がでないとは保障できない。ある人は社會党は貧乏だから政権をとったら一層賄賂の誘惑にかかり易いということを何かで書いていたのを読んだことがある。私はそれを信じはしないけれども、そうでないということも信ずる根拠はないのです。何故なら酒を飲んで政治をやるようなことでは、その酒代はすべてたとい代議士自身が自費で出してすらも代議士の歳費は「お手盛り」で議決して現在の高額にまで議決したものであり、國民の血税を議員の歳費にあてているものだから、たとい法律では汚職でないだろうが道徳上の汚職であるからだ。だから汚職々々の泥合戦はやめることにして、いたずらに他党を攻撃せず、みずからの不徳を反省して自肅すべきだと思います。
(つづくがいつになるのか未定)

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