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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱

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[173] 眞・善・美の生活
童子 - 2013年04月01日 (月) 06時39分



 昭和33年5月4日 原宿本部会館で開催された第6回青年特別教修会に於ける谷口雅春先生の御講話録です




 『真理』の第九巻の336頁の終りから二行目のところに、「善のみに心を振り向ける神想観の念じ方」というのがありますね。

 目をつぶって、そして、私が一句を二回づつ朗読しますから、一回目は聴いておって頂いて、二回目は私と一緒に心の内で同じように念じて頂きます。それでは、始めますから目を閉じて下さい。



 「私は、今日、善なるもの、美なるもの、光なるもの、愛なるもののみに心を振り向けるのである〈繰返す〉。 悪は私の心の視野から去ったのである〈繰返す〉。 醜なるもの、暗黒なるもの、憎悪、怨恨等は私の心の中から去ってしまったのである〈繰返す〉。

 心のうちに思うものが実現するのであるから、今後、私の身辺には、善なるもの、光なるもの、美なるもののみが実現するのである〈繰返す〉。心配や恐怖や取越苦労はわが心の中に座を占めることはできないのである〈繰返す〉。

 ただ神のみ、わが心の中に座を占めたまうて、其処より、善なるもの、美なるもの、光なるもの愛なるものを放射したまうのである〈繰返す〉。 私はその事を自分の心に、言ってきかせることを怠らないのである〈繰返す〉。

 われは神の子である。神はわが内に宿りたまう。わが内に宿りたまう。わが内に宿りたまう神は宇宙遍満の神である〈繰返す〉。」



 終りました。目を開いて下さい。

 さて、これが「善」と「美」と「眞」とを自分の内に実現するところの神想観の念じ方であります。



 さて、「眞・善・美」と言いますが、「眞」とは何であるか。「眞」というのは「真(まこと)」であります。

 「まこと」というのは一体何かと言いますと、「ま」というのは円(まる)いの「ま」であります。「まること」であります。「まること」の「こと」というのは、「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、万の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし」という、「言葉が神であるという“こと”」でありますね。

 その「こと」が「まる」というのは、少しも欠けないことを「まる」というのであります。少しも欠けていない満月の「満」でありますね。少しも欠けていない神様がこしらえた‘そのままの完全な「姿」’を「真」というのであります。それは「実相」と言ってもよろしいです。

 現象界のモノを見ると全て欠けてしまっているのであります。どんなに健康な人でもどこかにシワができているとか、あるいは黒子や切傷があるとか、白髪があるとかいうわけであって、どこか欠けたところがあるのでありますが、この神様の創り給うたままの「まること」 ―― 少しも欠けないところの姿 ―― これが「真」というものであります。


                      〜 つづく

[175] 2.
童子 - 2013年04月02日 (火) 03時08分


 青年諸君は ―― 青年だけでもありませんけれども ―― 全ての人間は生き甲斐というものを求めるのであります。

 「生き甲斐」というのは一体何かと言いますと、これは「値打の自覚」であります。「値打」というのは語源から言いますと「音(おと)」という字です。


 皆さんが、金貨でも、あるいは銀貨でも、銀行へ持って行ったら、それが本物か偽物かを調べるには、それをチャリンと板の上に叩きつける。そうすると値打が分かるんです。その内部にあるところの「生命(いのち)の響き」です。

 「生命の響き」というのは言葉であります。「内在の言葉」です。そのものに内在しているところの「生命の響き」がどれほどの値打があるかということは、「音」を出してみたら分かるんですね。

 「音」というと、物質なら音がしますけれども ―― 人間は殴ったら音がするかもしれないが ―― その人が「何を心に思うか」ということです。その人が「いかに観ずるか」ということによって、内部から「生命の響き」というものが出てくる。それによって、その人の「値打」というものが分かるわけなんです。


 もっとも全ての人間は、「真」が顕われ、「真価」が顕われたら、‘実相そのもの’が出てくるんですけれども、多くの人達はその「真」というものが覆い隠されてしまっておって、「人間はただの物質である。単なる肉体である」という考えで、そして、「値打の自覚」というものが、「肉体を喜ばすことが値打の自覚だ。物質を愛してそれを撫でさすったり、嘗めたり、キスしたりして、それで快感を得る。その快感が値打の自覚だ」というくらいにしか〈考えず〉、本当に内在の「生命の本質」を発揮させていないというような状態でなっているものですから、その人には本来は神と同じ「生命の値打」が宿っているんだけれども、それが発揮されている程度がいろいろ違うということになっているわけなんです。

 そこに、人格の高下の段階というようなものが現れてくるわけです。


 全ての人間の「真」は、あるいは全ての人間の「実相」は皆、「神の生命」であるから百点満点の立派な値打があるわけなんだけれども、それを自分自身は、物質である、肉体であるところの感覚的意識によってごまかされて、そこにそういう迷いというものをこしらえているわけでありますね、

 それで、まず吾々は人間の本質というものをよく知る必要なんであります。

                           〜 つづく

[180] 3.
童子 - 2013年04月04日 (木) 05時36分


 『真理』第九巻の139頁の中ほどのところに、「自己を“霊的人間”として悟りましょう」と、こう書かれていますね、朗読してみます。




 物質は物質にあらず、霊の表現である。現象人間は人間にあらず、霊的人間の表現である。

 その表現に誤差があって、完全に霊的人間の完全さを表現していないのは、霊的人間から或るマイナスをして、「霊的人間」と見ないところの自覚の錯誤から来るのである。恰度、色盲が実際ある色から或る色をマイナスして美しき色彩を見ないと同様である。

 その自覚の錯誤を捨てて「神の子」なる人間として、自分を自覚し、物質と見ゆれども物質人間ではなくして、此の身このまま「霊的人間」であると云う一如的な自覚を得るとき、もう其処に病気も不幸もなく、エデンの楽園〈仏教的に謂えば極楽浄土〉に住んでいる其のままの「完全なる人間」を実現することになる。

 併し感覚面に映る有様を見てその自覚がグラついて来たときに再び病気や不幸があらわれて来るのです。内在の「神の子」を常に神想観して自覚し直すことが大切であります。一度悟ったからと云っても感覚面への印象は人間の「霊的実在」としての自覚を覆しがちだからです。




 と、こう書かれているのであります。

 最近、私は『白鳩』に涅槃経の講義 ――  昭和33年7月号の掲載の原稿を書いているのでありますが、その7月号に載せるところを読んでいましたら、涅槃経というのは、釈尊がいよいよ涅槃に入り給う ―― 即ち通俗の言葉でいうと死のことです ―― いよいよ釈尊が死なれるというので、全ての弟子、菩薩達、それだけではない、ほかのあらゆる動物まで来たと言いますが、みんな嘆いて集ってきて、そして純陀という純粋な弟子が「お食事をどうぞ。もう最後のお別れですから、私の作ったこの立派な美味しいのをお上がり下さい」と言って出すのですが、その時に「自分は未だかつて、百千万億阿僧祇劫、未だ物質の食物を食べたことはないのである」と言って、釈尊が捧げられた物質のお食事をお受けにならない、と書いてあるのであります。

[183] 4.
童子 - 2013年04月08日 (月) 06時39分


 如来身というのは如来の身体ですね。如来の身体というのは、それが「真」であります。皆さんも如来なんです。『神の子』というのは『如来』ということです。


 「如」というのは、宇宙に遍満しているところの「そのまま」、「真如」です。その真如から真如の生命が生まれて、真如から来たくて生まれる、来生したというので「如来」です。


 皆さん、如来なんです。だから、「釈尊だけが如来だ」と思って、涅槃経を読んでも本当のことは分からない。この生長の家のお経を解釈しても、あるいは聖書を解釈しても、今までの解釈の仕方と違うのは、そういうように違うんです。

 「如来と言ったらお釈迦さんだ」とか、「あれ(如来)は阿弥陀如来である」とか、「西方極楽浄土の遠い所にいらっしゃるのが如来である」とか、そう思っておったんですね。ところが、『如来とは自分である』ということを自覚するのが、この生長の家の宗教なんです。



 そこで西方極楽浄土の、死んでから行く世界が現実になるんです。だから、おじいさん、おばあさんが、「南無阿弥陀仏」と唱えて、死んでから極楽へ行くような話なら、じいさん、ばあさんしか集らんけれどもですね、「今ここに“如来の生命”を生きる」というのが、生長の家の生活なのであります。だから、どんな若い人も、今、「如来の生命」を宿していて、今、生きるのですから、「これは誰も今、必要な宗教である」というわけなんです。



 それで、この如来というものは、そういう食べ物をこね上げてできているような肉体ではないのである。私の詩に『生きた生命』という詩がありますね、あの中にも “人間は、食べ物をこねあげてつくった身体ではなんだ” という一節がありますが、それを釈尊は非雑食身(ひぞうじきしん) ―― 雑食をして生きてできている身体ではないのである〈と説かれた〉。

 ビタミンがいくらで、ミネラルがいくらで、タンパク質がいくらで、脂肪がいくらで、そんなものが集ってできている、それが私である ―― そんなものだったら、もうどんなに長生きしたって百五十歳も生きるのはめったにないことになって、実につまらん人間なですよ。

                        〜 つづく

[184] 5.
童子 - 2013年04月10日 (水) 11時43分

 ところが、皆さんの本質というものは、そういう八十年や百年や百五十年で死ぬような、そんなくだらない生命じゃないであって、「如来の生命」なんです。非雑食身、金剛身である。


 「金剛」というのは金剛石、ダイヤモンドの金剛、ダイヤモンドは一番硬いので砕けないということの譬えで使うのであります。あらゆるもののうちで一番硬い砕けないところの金剛不壊の身体であるというわけなんですよね。


 それで如来は、非象非相ですね。如来というものは、この肉眼に見えているところの象(かたち)とか相(すがた)とかいうものではないのである。それなら「どんな相もないのであるか」というと、涅槃経を見ると、素晴しい言葉が書いてあるのですね。諸相荘厳極りなき ―― あらゆる相を荘厳極まりなく備えているもの、これが如来であると。


 そうすると「象に非ず、相に非ず」ですね。しかも「あらゆる相を備えて荘厳極まりない」というのですから、これはちょっと普通の常識では分からない。

 それは吾々の常識というものは、この肉眼で物質的なものを見て、それを判断する。そして今まで肉眼で見て判断して、「こういうものがあるんだ」と思っていたその範囲以内の判断力をもって、「そういうものがあるんだ」というのでありますからね。

 この感覚的世界を超えたところの実相の真(まこと)・真(しん)というものがちょっと分からないと、そういう常識的な言葉をもって表現することはできないわけなんです。



 だからまた涅槃経には、文字に非ず、声に非ず、説に非ず ―― 文字に表わすことはできないし、声に表わすことはできないし、説教をして説明することもできない、そういう素晴しい荘厳極まりなき生命(いのち)の実相、それが私であると、お釈迦さんは言っているんです。

 「それはお釈迦さんだけか」と思ったらいかんのですよ。「皆さんがそれなんだ」ということなんです。その荘厳極まりなきところの生命(いのち)の実相が、それが形の世界へ表現された時に、『甘露の法雨』に書いてあるところの ――


     神があらわるれば乃ち
     善となり、
     義となり、
     慈悲となり、
     調和おのずから備わり、
     一切の生物処を得て争うものなく、
     相食むものなく、


 というように書かれているのですが、皆さんが如来 ―― 「如来」も「神」も同じですが ―― その如来の実相が現われてきたら、そしたら「善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり」と書いてありますね、

 あれを読んだ人が ―― あれは北海道の講習会でしたが ―― あれ(『甘露の法雨』)を読んでいると『美』という字がないんですが、「生長の家では“美”ということはあんまり説かんのですか」といって質問されたことがあるんです。

                      〜 つづく

[185] 6.
童子 - 2013年04月15日 (月) 09時29分


 「美」というのはですね ―― 「美」という言葉が使っていないけれども ―― 「調和おのずから備わり」というのが、あれが「美」なんです。

 「美」というものは「調和の姿」である。それで本当に生命というものが発現して、実相の生命が完全に発現したら、「真」は「まること」でありますから、「まる」は完全であって、欠けることがない調和の姿でありますからね、だから完全に調和が現れてくるわけです。

 肉体にその調和が現われてきたならば、「肉体美」というものも自ずから現われてくるし、「健康美」というものも自ずからそこに現われてくるということになるわけなんです。



 それで吾々は、この肉体の健康を追求するといっても、その肉体の健康を追求するために体操をしたり、滋養物を食ったり、いろいろしても悪いことはないけれども、その前にすべきことがある。それは何かと言うと、自分の実相を観ずることであるわけですね。

 実相、即ち如来なる諸相、荘厳なるところの諸々の相が完全に荘厳極まりなく備わっているところの自分の『実相身』というもの、『如来身』というものを観ずる。それを観ずることが、即ち『祈り』です。

 『祈り』というものは生命(いのち)をもって宣言する。自分の生命をもって、自分の実相というものはこういう素晴しいものだということを心の内で深く宣言をする。これが神想観なんですよ。

 「吾れ今五官の世界を去って実相の世界に入る」と、五官で見た姿は老衰もあれば、病気もある。いろいろ衰弱した格好もあるけれども、そんなものに目を閉じて、五官の世界を去って、そして実相の世界に入って、実相の輝かしい自分をじーっと観ずる。

 これが祈りなんですが、「祈りだけじゃ駄目である」と、徳久克己博士が言われる。

                     〜 つづく



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