[57] 奈落にて(過去話、ボリング掌編) |
- ウホッ!いいユンボル - 2007年07月19日 (木) 21時16分
前に進もうとしているのに、泥のようなぬかるみに、足を取られて動けない。 何から逃げているのかもわからないまま、焦燥だけに追い立てられ、ズブズブと沈む足を懸命に動かす。 伸ばした彼の手の先には遠く、見覚えのある背中が闇の中にぼんやり浮かんでいる。 「あ……ア……」 伝えたかったのは謝罪なのか言い訳なのか、詰まったように引きつる喉からは 不明瞭なうめき声しか出てこなかった。
違う、殺したかったわけじゃない。裏切りたかったわけじゃないんだ。 助けて下さい。許して下さい。 あんたを売らなきゃ自分が殺されてた。オレは死にたくなかっただけなんだ――――!!!
叫んだつもりの彼の口からは、やはり押しつぶされたような喘ぎしか漏れない。 少しずつ足は前に進んでいるはずなのに、遠く背を向けた人影は、一向に近付く気配もない。 疲労の溜まった足が、ぬかるみの中で縺れた。倒れこみ、反射的についた両腕が肘まで泥に漬かる。 どろりとした生ぬるい感触に思わず引き上げた両手が、視界に入った瞬間彼は「ヒ……」と呼吸を止めた。 気付くとその足下は、濡れた両手と同じ一面の赤。 その場に這いつくばった彼の周囲を、複数の気配が取り囲む。 見回せば、暗がりにもはっきりと見える、朱にまみれたかつての仲間たちの顔。顔。顔。 ある者は恨めしげに、ある者は苦悶に表情を歪ませ、しかし多くは死者そのものの空ろな表情で 冷たい手を彼に絡めてくる。 何本もの腕に四肢を掴まれ、赤いぬかるみの中に引きずり込まれながら、悲鳴を上げることすらできず 彼は必死で白く浮かぶ背に指を伸ばす。 いつの間にか、追いすがる背中は彼の目の前に立っていた。 ゆっくりと、その背が振り返る。向き直ったその顔は白く瞳を濁らせ、胸には大きな風穴が穿たれている。 「あ……あ……ああああアアアアアアア!!!」 崩れ落ちる、かつての憧れだった男の死体に絶叫しながら、彼は赤い底なし沼に沈んでいった。
自分の悲鳴で目を覚ますと、ボリングはひとり、だだっ広いベッドの中で体を丸めていた。 時刻はまだ夜明けには遠い。寝起きのぼやけた頭で、無意識に隣の空間を探れば とうに体温の失せたシーツだけが、毛深い指に触れる。 そういえば、いつも通り俯いたまま逃げ出すように帰路につく相手を、薄ら笑いで見送ったのは ほんの数時間前の事だったと彼は思い出す。 少しだけ明瞭になった頭が、自分の目元に張り付いた涙の跡に気付く。 節くれ立った手が、冷えたシーツをきつく握り締めた。
居なくて良かったと思ったのか。 居て欲しいと思ったのか。 その瞬間、湧き上がった感情がどちらだったのかは、ボリング自身にもわからなかった。

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