[28] 谷口雅春先生のやさしさ |
- 山科 - 2014年06月30日 (月) 16時24分
≪神想観を30分間やると、足が痛い、手がだるい、時間が無い、朝は眠たいなどいろいろ言う人があります。≫ 谷口雅春先生は、いろいろ理由をつけて神想観をしていない信徒(私) の事をお見通しだったのですね。末端の信徒のこともご存じだったのですね。では「これだったら出来るでしょう」と小さな子供に教えるように最も簡単で楽な方法を教えて下さいました。先生のやさしさを感じます。
随時随所神想観(詳説神想観148P〜)
神想観を30分間やると、足が痛い、手がだるい、時間が無い、朝は眠たいなどいろいろ言う人があります。
しかし、本当は意志を振い起して行じ続けることが必要なのでありますが、また、一つの便法として、或いは休憩時間、或いは仕事のちょっと合い間など、随時随処に一分でも、二、三分間でも、一日数回短い時間神想観をたびたびやることもよろしいのであります。
瞑目して、静かに深呼吸しながら(手は合掌しても合掌しなくてもよろしいから)「神のいのち流れ入る」と観じ、そして 『われ心を空(むな)しくして神の御心に従い奉る。神の御心をわれに顕わしめ給え。』 右の如く、二、三回ないし数分間念じて、神様の御心を一心に心の耳をじっと澄まして聴く気持ちになるのです。
「心を空(むな)しくして」という事が必要なのです。そういう場合に、何か問題をひっさげて、「この問題をどうしたらよろしいか?」という事になりますと、これは一つの「我」が入って来る。
そして自分の「斯(か)くありたい」という願いが、神様のお示しであるかの如く出て来ることがある。これでは神の御心でなく、自分の潜在意識が出て来るだけですから何(なん)にもならない。
そこで「何事も願わない」という事が必要です。そして「われ心を空しくして神の御心に従い奉る。神の御心をわれに顕わしめ給え」と、こう念じて本当に受身になって、零(ゼロ)になって、神様のみ心に一心に聴き入る気持になるのです。
これを常に十回でも、二十回でも、各一分間でよろしいから、台所で仕事をしておってでもちょっとくたびれたなという時ででも念ずる。その時には外の雑念も何もなしに、自分の中に在(い)ます神様の御心をじっと聴き入る気持ちになることが必要なのです。
そうしておりますと日常生活が神様のみ心に自然と導かれた生活になって来る。そうすると日常ふと思いつく事が皆神様の御心に叶(かな)うところとなり、何の失敗も無くなるわけです。
何か問題をひっさげて神様に「こうして欲しい」というものは、本当の祈りではないんです。「神様のみ心の中には全然悪は無い。不幸はない。自分に都合の悪い事は無いんだ」──という根本的な神様の円満完全さに対する信頼というものが無くてはいけません。
「神様にこれを願わなかったならば、神様は与えて下さるものを忘れるかも知れない」など、神様を健忘症だと思って、そういうような気持で自分の願いを一心に祈るのは、もうすでに神様を不完全だと思っている証拠である。
神様は実相世界において、すでに全てを与えられておられるんですから、それを素直に心のレンズを透明にして、自分の我欲でレンズを曇らせないで、レンズをそのまま素通しにしたらよい。そこで何も注文しないで「神様の御心をわれに顕わしめ給え」とじっと神の御心を聴き入って、そしてその通りにやって行けば、間違いなく完全に行くということになるわけであります。

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