[44] 「正しい信仰」 とは |
- 童子 - 2014年07月24日 (木) 09時38分
正しい信仰は、聖書、経典、その他霊感にもとずいて、肉眼に見えざる完全な “霊なる實相” を、先ず心の世界に観ることによって、完全な實相を地上に現実化する力を得るのである。
『生命の實相』 を読誦し、先ずあなたの實相の完全さを観、観ることによって実践の勇気と力とを得、地上に天国をつくるために邁進するがよい。
正しい信仰は前途に光を見、疑いは前途に暗黒を見る。 光を見る者は前進して “生き甲斐” を感じ、暗黒を見る者は前進することが出来ないで、暗澹たる泥沼に陥って、ただもがくばかりである。
正しい信仰とは、 「真理」 を見つめる信仰である。 「真理」 とは、神のみが実在であり、神は美であり、善のみが実在であり、人間は “神の子” であり、神の善徳を継承して地上に出現した霊的実在であるから、悪しき運命にとざされることは絶対にないとの信仰である。
信仰ある者は、現象の悪があらわれて来ても決して狼狽することもないのである。 何故なら、神のつくりたまえる世界には根本的に “悪” なるものは存在しないことを信ずることが出来るからである。
どんなに破壊的現象が仮に起こって来たにせよ、それは種の胚芽がいよいよその逞ましい生命力を外に顕わそうとするときに、種を包んでいた殻を破壊して、新しい嫩葉が、その破壊の隙間から姿をあらわすのにも似ているのである。 現状の破壊を恐れてはならないのである。
■ “信仰” と “知識”
信仰は永遠なるもの、幽玄なるもの、霊的なるものを知る力であり、単に知るだけではなく、それを自己の生活に実現するところの力である。
「信仰」 は “高きもの” “幽玄なるもの” “超感覚的なるもの” に向う心であるが、 「知識」 は、自分と同等の高さのもの、物質的なるもの、自分の周囲にあるもの、感覚の対象になるものに向う心である。
「理性」 は 「信仰」 と 「知識」 との中間にあって、自分の内部に向う心である。 そして 「信仰」 と 「知識」 とを、調和ある相において結びつける。
この “結び着け” が人間に出来るのは、人間は 「自己の内面」 に “霊的なるもの” “幽玄なるもの” を蔵し、 「自己の外面」 に “肉体” を装い、 “物質なる世界” に生活しているからである。 理性が自己の内なる霊的なるものに向うとき、それは “純粋理性” となり、理性が、肉体の住む物質世界に向うとき “実践理性” となるのである。
行動が “純粋理性” によって導かれるとき、それは宗教的行為となり崇高な輝きをもつようになる。 行動が “実践理性” によって支配されるとき、それは道徳的行動となり、その行動者は円満なる道徳家となる。
行動が “実践理性” の支配を受けず、肉体的欲望のみに支配されるようになるとき、かれは理性を失い、人間失格となり、動物と同じく衝動の奴隷となるのである。
信仰ある者は逆境に処しても崩れることはない。 困難に抵抗するためには信仰がなければならない。 目に見える力が尽きたときにも、信仰は、 “目に見えない力” を呼び出してくることができるからである。
物質の誘惑に屈しない力は信仰によって得られるのである。 かれは物質よりも “尊貴なるもの” が自己の内にあり、その “尊貴なるもの” は物質の誘惑を排除したとき、内部から 「われ世に勝てり」 とその人を称賛するからである。
わたし達は物質を嫌悪するのでも、物質から逃げ出すのでもなく、物質を使わないのでもなく、ただ物質の奴隷となることを嫌うのである。 わたし達は自己の “霊” の優位をみとめ、 “霊” を主体として、その主体性を枢軸として物質を自己の目的にまで奉仕させるのである。
信仰にもとずく行為は、たとえそれが失敗しても、その行為は貴いのである。 たとえその行為は表面 “敗北” に見えたにしても、やがてその行為の影響力は全世界を支配する時が来るのである。
イエス・キリストの十字架がそれであり、三島由紀夫の自刃もそれである。 その行為は “実践理性” の高さを越えて “純粋理性” の行動化となったのである。
イエスが十字架に釘けられたとき、彼の人生は恰も敗北したかのように見えたのである。 そしてユダヤ人たちは 「人を救いて己れを救い得ざる者よ」 といって嘲ったのであった。 けれどもキリストは言った。 「われ世に勝てり」 と。 そしてやがて全人類はキリストの愛の前に跪いたのであった。
『理想世界』誌 昭和47年4月号
※一度提出したものでしょうか? でも、何度も繰返して読みたい御文章です
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