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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[95] 念佛者は無碍の一道なり   『白鳩』誌 昭和27年9月号 巻頭言
童子 - 2014年09月01日 (月) 16時45分


 「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐる程の悪なきが故に」 と歎異抄の中で親鸞聖人は云っていられるのである。

 弥陀の本願とは、 「彼佛如来、去って去る処なく、来って来るところなく、生なく滅なく、過現未来に非ず、ただ願に酬い、生を度せんがために仮に西方におはします」 と大無量壽経にかかれているところの、空間的去来を超越し、時間的過去現在未来を超越し、現象的生滅を超越していたまう宇宙の本体たる弥陀如来の本願である。

 本願とは単に希望とか願いとか云う軽いものではない。 本来のコトバの響きである。 宇宙の本体のコトバの鳴り鳴りて成り就るところの實相である。 實相のみ実在であるから、そして仮相は、仮にあらわれているけれどもウソ即ち 「虚」 のすがたであるから本来ないのである。 

 悪はいくらあらわれていようとも、それは仮相であり、虚であるから、それをおそれることは要らないのである。 だから 「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐる程の悪なきが故に」 とは、 「いかなる現象も、實相も妨ぐる程の現象なきがゆえに怖るべからず」 と教えられたのである。

 
 「悪をもおそるべからず」 とは決してどんな悪をしても救われると云う意味ではないのである。 法然上人が 「どんな罪悪深重の凡夫でも念佛すれば救われる」 と朗々と説法しておられたときに、盗賊の耳四郎がお寺の宝物を奪わんものと本堂の下に忍び込んでいて、その説法を聞き、 「こんな泥棒のような罪悪深重の者でも救われるのか」 と思うと、歓喜勇躍、落涙流涕して感激したけれども、これで自分は極楽往生疑いなしと安心決定して一生泥棒をしたと云うのは、 「悪をもおそるべからず」 の意味を取違えて、 「どんな悪をしても救われる」 と思ったからである。

 現代でも真宗門徒の中には 「門徒もの知らず」 などと放言して阿弥陀を念じてさえ置けば、どんなに悪いことをしても救われるのだと、平然として不道徳なことをする者があるのは誠に歎かわしいことで、嘗て、中外日報が調べて発表していたところによると、刑務所に於ける受刑者の宗教別調査によれば、真宗信者が最も多かったと云うのは、そのような取違いから来ているのだと思う。

 「悪をもおそるべからず」 とは 「悪は仮相である、非実在であるから、そんなことに心を引っかかせるな」 と云う意味である。 「悪をしてもよいから為よう」 と云うのも、悪を実在と見、何らかの価値があるからしようと思うのであって、結局、悪にひっかかっていることになっているのである。 

 「悪をしまい」 と思うのも、悪を実在だと思うからそれから避けようと思ってアセルのである。 ひっかかってアセルから益々つまずいて悪をすることになる。 そこで 「悪」 をしようとも思わず、避けようとも引っかからず、親鸞聖人の所謂る 「善悪総じてもて存知せざるなり」 とぱっと放してしまって、唯、念佛 「私は阿弥陀と一体だ」 と念ずれば阿弥陀仏の生活が現れて来るのである。

 
 これが即ち 「念佛者は無碍の一道なり」 〈歎異抄第7章〉  である。



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