[146] 真の宗教 ― 『生長の家』誌 昭和24年10月号 巻頭言 |
- 童子 - 2014年10月02日 (木) 14時27分
真の宗教は、生を明らめ、生きる道を明らかにし、人間の生活をして真に幸福ならしめるところのものである。
真の宗教は決して教会や寺院で勝手に定めて、それを信者に強制する教條や規則ではないのである。
その意味に於いて、却って職業宗教家よりも、自由思想家、寧ろ無宗教家と云われている人側に真の宗教を体得した人々があると云うことが出来るのである。
真の宗教は所謂る宗教家の独占ではないのである。
真の宗教家はみずから真理を実践し、みずから真理の生活をいとなみ、自己の生活に真理を実践し、神の智慧と愛と生命とを具象化するものでなければならない。
人生の行路には色々の迷える人が満ちている。 そして苦しんでいるのである。 或る人は病いに苦しみ、或る人は経済苦に苦しみ、或る人は家庭不調和に苦しむ。
真の宗教家はかかる人々に面して如何なる態度をとるべきであろうか。
彼らと同一水準に降り来って一緒に同情の涙をかき垂れて号泣すべきであろうか。 それとも物質的な施しを与えて彼らを一時的に救うべきであろうか。
イエスはラザロの死せるを見たとき、同情の涙を流したことが聖書に書かれている。 しかしいつまでも彼は泣いていなかったのである。 「死せるに非ず、寝たるなり」 と彼は云った。 同情して涙を流すは現象面のことである。 現象面にいつまでも執へられてはならないのである。 直ちにひるがえって実相健全の姿を見るとき、却って其の相手は復活し救われるのである。
又、イエスは病にて脚の立たぬ病人にただ 「起きて床をとり上げて歩め」 と云っているのである。 「ああ可哀相に!」 と云って、一緒にそこに倒れふし泣き濡れて動けなくなっているのではないのである。 すべての人間は神の子であるから、 「起きて床を取り上げて歩む力」 を持っているのである。 倒れているのは 「迷い」 の具象化にすぎないのである。
「迷い」 に同情してはならないのである。
その 「迷い」 を見ず、「立ちて歩み得る実相」 を直指して、その力を引き出すのが真の宗教家の使命であるのである。
真の愛と 「苦痛の共嘗(きょうしょう)」 とは異るのである。 苦痛に同悲して相手と一緒に墜落して泥まみれになるのは真の宗教家のつとめではないのである。
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既出でしょうか? でもいいですよね。
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