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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[253] 人類の潜在意識とそれに打ち克つ道
明鏡 - 2014年11月01日 (土) 01時59分


『 精神科学 』  昭和27年11月号   谷 口 雅 春 先 生



一、病気を想念しないのに何故病気が顕れるか


病気を想ったこともないのに、何故病気があらわれたのだろう。

だから心に描くから病気があらわれるのは嘘だという人があります。


それは吾々が「人類意識」の大海原に棲息せる一尾々々の魚みたいな生物であることを

忘れているからであります。


吾々は「人類意識」の中にいて生を享けた。

それは、表面にあらわれていることもあるけれども

顕れていないこともあるところの、曾祖父の性格や容貌の一部を

その子孫が受け継いで有っていることは争うことの出来ない事実であるのと

同じように、吾々は、表面にあらわれているにしても、いないにしても、

「人類意識」の性格や、偏向や、迷信や病念を多少とも受け継いで、

それらを「広義に於ける潜在意識」の中に有っているのであります。



過去に於ける未発達な(現在に於いても発達の途上にあるに過ぎないのだが)

人類の経験の概ねは、荒れ狂う自然能力や、猛獣や、昆虫や、微生物との戦いであり、

それは自己弱小と病気と苦悩の連続であったと言い得る ― 

それは人類の原始時代に於いてそうであったばかりでなく、

諸々の高僧や聖者が、やはり同じような生活経験の中に、

「人間は弱きものである、死すべきものである、無常なるものである、

病むべきものである」という信念を不幸にも固めて来たのである。


こうして「人類意識」のうちの幾分かを、吾々が、吾々の潜在意識の中に

蓄えていないと言うことは難しいのであります。


これらの不幸な想念が人間の不幸や、制約や、病気の原因となって、

吾々個人が意識するとしないとにかかわらず、

「個人意識」の潜在的病念が、「人類意識」の病念の放送を感受することになり、

それが病気となってあらわれて来るのであります。


こんな訳でありますから、人間が老衰したり、病気や不幸にかかるのは

特別に、「老衰」や「病気」や「不幸」を思い浮べる必要はない。


そのまま人類意識の観念の波の中に、無抵抗にまかせ切って生活しているだけで、

老衰し、病気し、死んで行くことが出来るのである。


しかし、これを「病気を想わないのに病気に罹った」と抗議するのは間違っています。


それは人間の心の構造を知らないからです。

人間にはハッキリ意識して想い浮べる心(現在意識)と

現在意識が表面では健康になりたいとハッキリ思いながらも、

内実は、「病気の方が都合がよい」と言うような自己反逆の潜在意識があることを

知らねばなりません。

(メニンジャー博士著『人間の心』『おのれに背くもの』等参照。いずれも日本教文社発行)


吾々の潜在意識の中に、そのような「自己反逆の心」があると言うことが

わかってまいりますと、それに対抗するために吾々は、

正しい積極的な想念―(無病の想念・不老の想念・偉大の想念・完全自由の想念―等)―

を出来るだけ起すようにしなければなりません。

吾々を破壊し撃沈しようと企てているところの潜航艇がいると言うことがわかれば、

それを駆逐するための駆潜艇を出来るだけ沢山つくっておく必要があるようなもので

あります。


その潜在意識の自己破壊の潜航艇を駆逐する駆逐艇のうちで最もすぐれたものは、

神との一体感だと言わなければなりません。



つづく・・・




[256] 2.
明鏡 - 2014年11月02日 (日) 08時41分




二、自己の無力を痛感する時こそ神を呼べ


この世の中に最も強力な善なる力は 神の力であります。

神を瞑想すること、神に祈ることにもまさって、

潜在意識中の自己破壊性を無力になし得る方法はありません。


神を瞑想し、神に祈ることは 神との一体感を増加するからであります。

あなたが自己の無力を痛感する時こそ、振返って神を呼ぶべき時であります。


まだ自分に何らかの力があると力(りき)んでいる限りは、

神への全面的廻向と言うことは不可能になるのです。


併し、如何にその人が能力すぐれたる人であろうと、

その人の自力に頼っている限りにおいて、

何か 「 足りないもの 」 を軈(やが)て感ずる時が来るに違いないのであります。


それは何故かと言うと、神との結合をみずから断ち切って

彷徨(さまよ)いあるいているからであります。




三、自己破壊の潜航艇を駆逐する言葉


何よりも先ず、あなたは神の子だと言うことを知らなければなりません。

神を想い出すことです。神を意地の悪い継父(ままちち)としてではなく、

愛ふかき永遠の父にして母なるものとして思い起すことであります。


そして其の父にして母なる神は常に我れを愛したまい、

常に内からも外からも護り給うていることを思い出さねばなりません。


神は普遍であり、宇宙に充ち満ちていたまうがゆえに、

そしてその生命が我等に宿って「われら」と成りていたまうがゆえに、

わが思うことは 「 神想い給うこと 」 だと自覚しなければなりません。


仏典に、「衆生、仏を憶念すれば、仏、衆生を憶念したまう」と示されているのは

それであります。


「 私と神とは一体である。私と神とは一体である・・・ 」

幾回でもこの言葉を繰返すことは、自己破壊の潜航艇を駆逐するのに

最も必要な唱え言(ごと)であります。



つづく・・・




[258] 3.
明鏡 - 2014年11月03日 (月) 09時26分



四、この手は神の手だ、取れ 汝の求むる物を!


或る婦人が此の光明思想の教えを受けました。そして人間は神の子だと知らされました。

神の生命が自分に流れ入って自分の生命となっているのである。

だから自分の生命の念願することは 神が念願したまうことだと考えました。



彼女は多くの救われたい憐れな人たちがこの世界に充満しているのを助けてやりたいと考えました。

金の欲しい人には金をやりたい。自由を求めている人には自由を与えたい。

健康を求めている人には 健康を与えたいと思いました。

彼女は自分の手を見詰めていました。その手は空っぽでした。

与うべき何ものもないかの如く思われました。



与うべき何ものもない。・・・しかし与えたくて仕方がない。

私は神の子だ、私の念願するところは 神が念願したまう処だ!

それが実現し得ない筈はないのだ。彼女はじっと自分の開いた掌を見詰めていました・・・



その時、彼女に天空から閃(ひらめ)く稲妻のように

「 この手は神の手だ。病める者には必要な健康を、悲しめる者には必要な悦びを、

貧しき者には必要な富を、追放されている者には必要な自由を、

これら全てを与えることが出来るところの神の手だ、

この神の手から滾々(こんこん)と此れらの人たちに与うべき恵みが流れ出ているではないか 」 と

いうような声なき声をきいたのです。



彼女は全く自分自身の人格が輝いて見えるような気がしました。

それから彼女は自分に対して助けを求めて来る人に対して、

「 此処に、貴方の求めるものがある。それをおとりなさい!

あらゆる貴方に必要なものは此の手にあるのです。この手は神様の手だ! 」



こう断々乎として言い放って何等(なんら)不自然を感じなくなったのであります。

彼女は人格が変ったのです。人類の潜在意識の上に超出したのです。

罪(包ミー神性の隠蔽―無自覚)が消えたのです。



彼女は、肉眼で見たら、彼女の手には何にも有っていなかった。

しかし彼女が、 「 この手は神の手だ。とれ 汝の求むる物を! 」 と断々乎として言いますと

色々の奇蹟が現れて来ました。

彼女に相談するだけで自家(うち)へ帰って見ると必要なものが到着していたり、

病人が治ってしまっていたりするのである。



或る日彼女のところへ、外国で戦犯として処刑されて 長期の服役をしている人の家庭が何とかして、

それが減刑になって本国へ帰還することが出来ますように祈って貰いたいと言って頼んで来ました。

それは外国の管轄内にあって、内地の人の力ではどうすることも出来ない状態におかれていたので

あります。


ところが信念の深い彼女は、

「 よろしい! 貴方の求むる処のものを取れ。これは神の手だ!

この手は其の人の釈放の指令書だ!目覚めよ!そしてこの指令書を受取れ。

其の人はもう自由だ! 」

断乎として こう言って彼女は 其の人に自分の手を差し出しました。



そして彼女は、その言葉の通りを信じて、成行(なりゆき)を神に委せたのでした。

その言葉の通り、突然、その海外の服役者は釈放されたのでした。

( エミール・キャディ氏の 『 神の慈手 』 による )




つづく・・・




[260] 4.
明鏡 - 2014年11月04日 (火) 05時49分



五、神の番頭になって借金を返済した話



神と一体の自覚、そして自己のうちに 神が働き給うとの信念、

そして欲する事物は 神が欲したまうのであるから 既に 成就せり との信念、

それを断乎として表現するコトバ、これが最も大切なのであります。



今年の八月に北海道で教修会があっての帰り途、私は酒田市で講習会を開きましたが、

山形県の生長の家連合会長をしていられる医師小野新作氏が 斯う言う話をせられたので

あります。




「 自分は医者であるから、医業だけを真面目にやっておれば

生活に困難すると言う事もないのだけれども、

私は前に野心を起して或る事業に手を出した。

それが大失敗して三百五十万円ほどの借金が出来ました。その時私は考えましたが、

三百五十万円という金は誠に大金である。

コツコツ医者をして健康保険の低料金の治療を一生涯つづけても

中々この三百五十万円と言う金は返せるものでない。

これは実に困ったことになったと思った。



その内私は 『 生命の實相 』 を読んだ。


第一次欧州大戦の船成金であった山下市助と言う人が大正九年のパニックで

無一物になり 逆に六百万円も借金が出来た。この六百万円と言うのは大金である。


迚(とて)も自分の力では支払うことが出来ないと思ったので、

ある先生のところへ相談に往(い)った。


するとその先生が、“ お前には払えないか知らぬが、神なら払える。

今日から神の番頭になれ、そして一々神様から指示を受けて商売をせよ ” と

言われた。



それから神の番頭になっていると、間もなくその六百万円が美事に支払われて、

あとに三十五万円残ったと言うようなことが書いてありました。


これを読んだときに、‘ 神なら払える ’!と言う言葉が私の心の中へ

焼きつくように入ったのです。


そしたら私は本来 内科医でしたが、その頃 私は、或る漢方薬の研究家から、

痔の塗り薬を教えられました。

その塗り薬を痔に試みますと、軽いのは一週間〜十日位の入院で、

その痔の部分の病的組織が脱けてとれて あとには健全な肉と粘膜が出来、

手術したあとのように長びかない。

七回も手術して、肛門括約筋を切り過ぎて失敗して、もう外科医には

どうすることも出来ないようなのも治ると言うことが発見されました。



而(しか)も大抵 痔を外科手術にすると内蔵の方の疾患が悪くなる例が

多いのですが、この治療によると痔が根本的に脱落して、

新しい肉が新生すると共に 胃腸や肺臓の方も強健になることがわかりました。


顕微鏡で見なければわからないような小さな痔核でも全部一緒に除かれてしまう。

痔瘻(じろう)などは、その瘻口(ろうこう)に薬を注入して置くと

周囲の不良の肉が筆の軸のような管になって脱落して治ってしまう。



そこで、私は内科の医者であったが、痔の治療が評判になって、

今では痔専門の医者みたいになっている。

そしてその三百五十万円の借金をいつの間にか支払って 今では病室が

満員つづきなので、新築の病院を三百五十万円ほどの建築費の見込みで

建てつつあります。


神の番頭となれ!神なら払える!これは全く本当です! 」




六、運命創造の秘訣は 神と一体の信仰にある



「 これは神の手だ!此処に汝の欲するものがある! 」

「 神の番頭になれ。神なら払える! 」

ここに神癒の秘密があり、秘訣があるのです。



この信念が、人類の潜在意識の 「 自己破壊 」 の想念を駆逐するのです。

この信念ある者は人の病気を治すことも出来る。

人間を追放より解除することも出来る。富を呼び出すことも出来るのです。




   つづく・・・




[262] 5.
明鏡 - 2014年11月05日 (水) 11時46分



七、事物の消極面を見てはならない



決して自己の( 又は他人の ) 消極的方面を見てはならないのです。

消極的方面が たとい現にあらわれておりましょうとも、

それを見ることは 自分の信念を弱体化し、

神のつくり給える完全の世界を見る眼を曇らせてしまうことになるのです。



吾々は 何処(どこ)までも、神の創造(つく)りたまえる実在の世界

( 『 実相 』 とも言う)に於いては、


人間は神の子として無限の力を与えられており、

何らの制限もないから、病気に罹(かか)ると言う事も夢に過ぎない、

経済的不如意であることも夢に過ぎない。夢、夢、夢・・・だ。

静かに斯う念じて 実相を観ずるが好いのであります。




八、「 好ましき状態 」 を既にあると観ぜよ


かくの如く観じたときに、客観世界(現象世界)に観じた通りに直ぐ善きものが

現れて来るかどうかと現象世界を見詰めてはならないのです。


現象世界と言うものは、実相燈明の世界の上に、自分の想念に描いた相(すがた)を

二重映ししているのでありますから、

若し 吾々があまりに早く現象世界の状態に心を振向け、

依然として現象にあらわれている 「 好ましくない状態 」 を感覚して、

もう一度それを想念に描きますと、

その 「 好ましくない状態 」 が再び映像せられますから、

結局その 「 好ましくない状態 」 は消えないことになるのであります。



現象の裏には必ず、それに相応する想念があるのであり、

「 想念 」 こそ現象の‘ 原因 ’でありますから、原因を絶ち切らない限り、

「 結果である現象 」 を根本的に改善することが出来ないのであります。


そこで原因たる 「 想念 」 を 「 好ましき想念」 たらしめることが必要であり、

そのためには、好ましくない状態を見ないことが必要であり、

(見れば心に想念するから)好ましい状態のみを常に心に想念することが

必要となるのであります。


而(しか)して 「 好ましい状態 」 のみを常に心に想念するには

「 好ましき状態 」 を既に‘ ある ’既成事実として観じなければならないのであります。


それはキリストの教えた祈りの法則  

「 汝ら祈りて何事にても求むる時、既に それを受けたりと信ぜよ、乃ち汝は是を得ん 」 と

言うことに一致するのであります。



つづく・・・




[264] 6.
明鏡 - 2014年11月06日 (木) 06時34分



九、断々乎として祈りに徹底せよ



実相の完全なる相(すがた)を心に描きながらも、

往々にして依然として「好ましくない状態」が継続することもあり、

更にその状態が却って悪化したかの如き状態があらわれて来ることもあり得るのであります。

状態は或は一進し、或は一退するかもしれない。



しかし、現象は依然として 「 心の影 」 想念の映像でありますから、

そのような現象の変化によって心を動揺せしめないで、

断乎として既に 「 好ましき状態 」 茲(ここ)にありと宣言し得るようになったとき、

大分あなたは真理に通暁(つうぎょう)したと言えるのであります。



即ち、「これは神の手だ。汝の求むるものを取れ」と叫んだ婦人のように、

或は「借金なら払ったら好い、お前には払えないかも知れぬが、神なら払える。

今日から神の番頭になろう」と決心した人のように、



断乎として「欲する事物は既に与えられている」と宣言し得るだけの信念を

有たなければならないのであります。



それにはどうしても「現象は、如何に‘ ある ’かの如くあらわれていても無い」

「あるものは完全な実相ばかりだ」と言う真理の根本義を把握しなければならないのであります。



不調和をいくら見つめていても調和があらわれることはない。

何故なら調和は調和からのみくるからであります。




十、心を自由に支配し得るよう自己訓練を怠るな



あなたは、あなたの心を訓練しなければなりません。

何を心に想おうと、神はあなたに完全なる「想念の自由」を与えていられるのでありますから、

欲しないものを心に描く必要はないのであります。



それだのに多くの人は自分の欲しない「悪」の状態を却って常に描き勝ちであります。

それは、あなたが、自分の心を充分調御し得ていないからです。



自分の心は、自分の自由に、欲するものを描かしめねばなりません。

それは、自分の乗馬をどの方向へでも欲する方向に手綱(たずな)をとるのと同じです。



馬に、勝手に歩かせて置いては、彼は騎手の欲しない方向へ駆るかも知れません。

乗馬を操縦し得ない人間が馬に乗るほど危険なことはありません。

心を操縦し得ない人間が心を有っている事くらい危険なものはありません。



併し、あなたは既に「心」を有っているのだから、

それを操縦し得るように自己訓練しなければなりません。



馬を訓練するには、鞭(ムチ)を使います。

心を訓練するのには言葉の鞭を使います。

言葉は声であって、声はコエ[心の柄(え)]であります。



槌(つち)を揮(ふる)うには、槌の柄(え)をもって打ち揮うでありましょう。

心を自由につかうには、「心の柄」即ち「声」又は言葉を使うのであります。



即ち心のうちに、実相の完全なる相(すがた)を表現する言葉を念ずるか、

『甘露の法雨』や『天使の言葉』のように真理を表現した聖語を朗々と読誦して、

真理ひとすじに心を統一する訓練をするのであります。



私は『日々読誦三十章経』や『健全の真理』の生活応用篇の中に収録されている瑜伽(ヨーガ)の

行者ヨガナンダの詩を皆さんが朗読されんことをお勧めしたいのであります。




つづく・・・




[265] 7.
明鏡 - 2014年11月07日 (金) 00時03分



十一、正しき祈り 及び 瞑想 の示標について



吾々が 祈りにより、又は 瞑想によって 或る事物を実現しようと欲する場合、

ただ一つ必要なことがあります。

それが 正しい祈りであるか、正しい真理の瞑想であるか と言う反省であります。



それが正しい祈り 又は 瞑想であると言う示標は、その祈り 又は 瞑想する事物が


(一)明るいもの、建設的なものであって、破壊的な又は頽廃的なものであってはならないことで

   あります。

 
(二)その祈りが成就しても誰れからも奪わない、誰れにも損をかけないものでなければなりません。

(三)貧しさを願うのではなくて、富を願うものでなければなりません。

(四)自分の利益になるばかりではなく 他の人の利益にもなるものでなければなりません。

(五)又 それは清浄なるもの 潔白なるものでなければなりません。



以上のような条件にかなう願いでありますならば、これらの願いは 既に、宇宙の願いと調和し、

それに後援される資格のある願いであると言うことが出来るのであります。 

   

以上のような条件にかなう願いでしたら、

その求むるものが 家であろうと、金であろうと、

会館であろうと、自動車であろうと、衣装であろうと、


何を求めても、恥ずることなく 神から与えられるものだと信じて、

常に心に念じ、又 祈っておれば、それは大生命の創化作用によって

形の世界に 必ず 実現して来るのであります。


神はこの点では潔白で清浄であって、少しの胡魔化しも許したまわないのであります。

だから、皆さんも、自分の祈り求めるものの内容を正直に検討して、

潔白ならざるものがあれば 容赦なく捨てることが必要であります。




十二、光明楽土に到る道



吾々の記憶して置かなければならぬことは、現在意識が何事をも想念していない時にも

潜在意識は習慣的に何事かを想念して その想念の結果として常に何事かを

現実世界に投影創作(プロジェクト)しつつあると言うことであります。



大抵の人の潜在意識は、人類意識の波に漂う小舟のように、

人類意識の波のとおりに揺られているのでありますから、


現在意識には 「 病 」 を思わないのに 「 病気 」 にかかり、 「 老 」 を思わないのに 「 老衰 」 し、

「 死 」 を思わないのに 「 死 」 に近づいて行きつつあるのであります。



若し 漂うている小舟に それを自由に操縦し得る船頭がいないとしたら、

動揺する人類意識の波のために 覆えされて沈没してしまうでありましょう。



船頭がいてその舟を櫓(ろ)を以って操縦して巧みに波を乗り切ることによってのみ、

その舟は安全に目的地に到着することが出来るのであります。



その船頭とは 「 現在意識 」 であり、櫓は、言葉の柄(え)であります。



善きコトバを 常に 黙念 又は 声に出して となえて、

明るい方へ、明るい方へと、生活の舟を操縦して行かねばなりません。



そうすると、ついにはコロンブスがアメリカ大陸を発見したように、

やがて あなたの生活は 「 光明楽土 」 に到達するでありましょう。




                        ( 了 )






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