[288] 「 牝鹿の脚 」 の話 |
- 明鏡 - 2014年11月27日 (木) 07時33分
・・・それでは その後脚は どうしたら前脚の踏んだ道を正確に歩むことが出来るか。
山登りの先達は云う。「 あまりこの動物は近代文化にさらされ過ぎたのです 」 と。
また白髪の老人は云った。 「 牝鹿の後脚がどう歩むかと云うことは神様が、‘そのまま’に教えて
下さっているのです 」 と。
そうだ!‘そのまま’に帰ること、そのままに神の生命をわがものとし、
神の智慧をわがものとし、神の叡智をそのままに 一挙手一投足をまかせ切れば好いのである。
‘そのまま’になるには‘そのまま’の世界と、人間の‘そのまま’の生命とが
既に完全なることを知らねばならない。
それには白髪の老人の言った「主の祈り」が、「みこころの天になるが如く地にもならせ給え」の祈りが
最も力をあらわすのである。
神の完全なみこころは‘既に’、「天」即ち実相の世界に、其処にすめる‘実相の人間’に
すでに成っているのである。
それを知ること、とそれを見ること、観ずること、想念すること、言葉にあらわすこと −
それらのはたらきが 「 一 」 に成っているものが真の正しき祈りなのである。
「 まず神の国と、神の国の義(ただ)しきとを求めよ。其の余のものは汝らに加えられん 」 と
イエスは云った。
神の国は、神の人は 既にあるのである。
ただそれを毫厘(ごうり)でも踏みはずして、疑いをさしはさめば、
それだけ谷底へ墜落するのであると云いたいのである。
『 新版 善と福との実現 』 219頁〜220頁 谷 口 雅 春 先 生
|
|