[312] すべてを拝ろがむ(十二月光明道中記) |
- 伝統 - 2014年12月15日 (月) 03時17分
すべてを拝ろがむ(十二月光明道中記)〜上旬
《一切衆生のための祈り》
*「光明道中記」(12月はじめの祈り)より
わが毎朝念ずる衆生のための祈り――
私の生命は宇宙の生命と一体である。 されば吾は宇宙の凡てのものを知っているのである。
わが生命は神と一体なるが故に、わが欲(おも)うところは、 神必ずこれを成し給うのである。
光が昇れば隈なくすべての所を照らすが如く、 暗(やみ)のあるところにわが光明思念は必ず 行き亘り、悩みのあるところにわが念ずる光明の言葉は満ち亘るのである。
われは光明思念をすべての悩みありと迷える人々に送る。 送るに随って人々の悩みは消えるのである。
与えれば与えるほど殖えるのが法則であるが故に、 このことによって吾が光明は愈々輝き、 吾が健康は愈々増進するのである。
病める者、悩める者、重荷を負える者に、 われは「光明思念」の導管より生命の水を送るのである。 「今より後、罪も病も死も貧も争いも一切の不調和もなし」
われは今「光明思念」を放送する。わが光明思念は、 われを通して流れ出でたる神の生命であるから、 その光明思念は宇宙全体に充ちひろがり、すべての悩める者を癒すのである。
神よ、わが祈りを聴き給いしことを感謝します。
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十二月 すべてを拝がむ
《同志愛に徹底する日》
*「光明道中記」(12月1日)より
【自分の全力を出し切れば其処に無限の力が生ずる。(『生命の實相』第四巻)】 自分の親しい人が人類光明化の陣営から去ったとて、 その去った人に義理立てして吾らの同志から脱落しないでほしい。
吾々は世界を覆っている暗黒思想と戦っている光明思想の戦士達である。 吾等は幾多の戦友、百万人の戦友の屍(しかばね)を踏み超え、 踏み超えして進まねばならないのである。
斃(たお)れた戦友に義理立てする道は、戦友と同じく落伍することではない。 尚(なお)一層の元気を奮い起して人類暗黒化の敵陣に跳(おど)り込み 人類の敵を撲殺することに在る。
吾々は全世界を蔽う暗黒と戦わねばならぬのである。 「暗黒」が吾々の共同の敵である。
イエスは自分の人類光明化の軍勢から脱落して往った同志を “迷える一匹の羊”に譬えて、その一匹の羊が再び同志の陣営に還って来る ように、どんなに探求するかを、迷わざる九十九匹の羊を放置しておいて、
その一匹の迷える羊を探しに出かけるではないかとも言い、 まだ脱落した同志を家出していた放蕩息子に譬えて、 その放蕩息子が父の御許に還って来た時には、
父は家出しないで父の御許に忠実に仕えていた他の兄弟たちのことは放っておいて、 還って来た息子のために祝宴を催し、その指に宝石の指輪をはめてやって歓迎する ではないかといっている。
我らが脱落した同志の復帰を歓迎するのも斯くの如しであるのである。
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真理を諦(あきら)かにする日
*「光明道中記」(12月2日)より
【善業を積むとは私的でない利己的でない行いをすることである。 (『生命の實相』第二巻)】
宗教とは自分を諦(あきら)め行く真理である。
諦めるとは自分を思いあきらめてしまうことでもなければ、 自分を誤魔化すことでもない。 人間は時とすると、対向者が出て来る場合には、相手の欠点を探すために、 自分の手許がお留守になることが有り勝である。
そんな時に其の人は相手から打ち込まれて、お面(めん)をとられ、 お小手(こて)をとられても知らないで、まだ偉そうに構えている事がある。
多くの剣道の名人は、塚原卜伝もそうであったように、敵を斬(き)るために剣を学ばず、 ただ自分を完(まっと)うせんがために学ぶように教えたのである。
剣でさえも、敵を斬るために学ぶのではなく、自己を完うせんがために学ぶのである。
では真理は人を批(う)つために学ぶのではなく、 自己を完うし更に人をも完うせんがために学ぶのであると云うことを知らなければならない。
他の欠点を斬り審判(さば)こうと思っている限りに於て 自分の欠点に気が着くものではない。
時々地方の支部から、近接地の支部のやり方の悪いことを指摘して、 「何とかして貰わないと、あれではあの行持(おこない)では、 羊頭(ようとう)を揚げて狗肉(くにく)を売るものです。 光明を揚げて暗黒を売るものです」と云う報(しら)せを頂く。
欠点と云うものは指摘して直るものなら簡単だが、 唯、私は泪(なみだ)を嚥(の)むほかない。
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すべて自己の責任と知る日
*「光明道中記」(12月3日)より
【隠れたるところにて人を賞め得る人となれ、其の人の心境は朗(ほがら)かである。 (『生命の實相』第十巻)】
私は第二次世界大戦が欧州に勃発した時の日記に次のように書いている。
「すべて私の責任なのである。私はみずから顧みて恥じるほかない。 考えて見れば欧州の天地で、 ヒットラーが英仏を向うに廻して戦っている姿も私の心の影である。
私が『ヒットラーよ、もう戦争を止めてくれ』と言ったら、 ヒットラーが『ハイ』と答えて戦争を止めてくれるほどになれないのは、 まだ私の力が足りないからなのである。
力が足りないのは偉さの徴候ではない。 私がまだそれほど偉くなれないのは私が悪いからである」
私はそんなにまだ偉くなれていないのである。 まだまだこれからだと思う。 光明思想が世界に弘(ひろ)がることを待ちかねている。
光明思想を弘めている誌友のなかでまだ家庭が調和せず、 「何とか指導して貰いたい」と云う愬(うった)えが 私のところへ時々来るのは悲しいことである。
併し、わが実相哲学は直(ただ)ちにこうした悲しみから、 また私を立ち上がらせて、その人のために祈ることができるのである。
実相は皆”神の子”の兄弟で、争っていないのである。
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困難を遊戯化する日
*「光明道中記」(12月4日)より
【苦しみも戯(たわむ)れに化する時人生は光明化する。何事も魂の生長の養分である。 (『生命の實相』第四巻)】
自分の言いなり通りが必ず通ると云うのは、その人にとって一つの誘惑であることがある。 通らないことが時にはあるので、自分が過って「我(が)」でものをやろうとしていた そのことに反省の機会が与えられるのである。
『生命の實相』のなかにも書いてあるがナポレオンの辞書には 「不可能」と云う字がなかったが、彼は「我」の力を極度にまで信じていて 「何でも自分の言いなり通りが通る」と信じていたのである。 そして最後に蹉跌が来た。
「我」の力は如何(いか)に強大であろうとも最後に崩壊が来るものである。 それは「我」と云うものは本来無いからである。
無いものを有ると思って、我の道を通ると陥穽(おとしあな)に陥(おち)るのである。 無いものは陥没するほかはないからである。
同じく陥没する位なら大事に至らないうちに陥没する方が好い。 早く「自分の言いなり通りが通らぬ場合」が出て来る方が好い。 コツンと一つ頭を打って自分の頭(ず)が高かったことに気附くのである。
ヒットラーが世界大戦を惹き起こしたとき、ヘンダーソン前駐独英大使が、 ヒットラーを評して「彼は何事にも『諾(イエス)』と答える人間に囲まれている 誇大妄想狂だ」と言った語(ことば)を思い出すが、
人は何事にも「諾(イエス)」と答える人間に囲まれているとき 却って災厄を惹き起こすのである。
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常住微笑の日
*「光明道中記」(12月5日)より
【悲しい時ほど笑わなければならぬ。笑いぬくとき悲しさは征服される。 (『生命の實相』第四巻)】
仏教では「人身得ること難し」と説かれている。
何故人身に生まれることを、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪趣に生まれるよりも、 また天上に生まれるよりも尊き事とされてきたかと云うと、 前(さき)の四悪趣は苦しみの世界、争いのみの世界であり、 後の天上は楽のみの世界であるからである。
苦しみのみの世界では苦しみを逃れんとして益々苦しみを招く。 楽のみの世界では楽に執着するから結局はその楽は苦に変じて天上から墜落するのである。 「自分の言いなり通りが通る世界」はこの天上界の世界と同様である。
吾々が生長の家の真理を知り、少しく神想観を実修して、 自由自在の世界が其処に実現して来ると、 「自分の言いなり通りが通る」ところのさながら天上界が実現するのである。
その時、自分の言いなり通りが通ることに深い反省と感謝とを持たずして 慢心してしまうならば、やがて其処からその「言いなり通り」への執着が増長し、 「言いなり通り」なれぬときに忽ち憤懣(ふんまん)して平常(へいぜい)の 悟りも何処へやら、周囲に当り散らしたり、
今迄での明朗の気持ちが陰気に変ったり、そんなことなら光明思想も 糸瓜(へちま)もないと言い出したりするようになるのである。
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貪(むさぼ)りを捨つる日
*「光明道中記」(12月6日)より
【白粉(おしろい)で化粧しても心情の下劣は隠せない。心で化粧せよ。 (『生命の實相』第十一巻)】
自分の言いなり通りが通る世界に永くいると、それに慣れて感謝と反省とを忘れる。 すると、その天上界の境涯が直ちに地獄に落ち、畜生に落ち、修羅に落ちる。
地獄とは如何なる世界であるかと言うと、閻魔と鬼とのいる世界である。 閻魔は審判(さば)く者であり、鬼は悪を爬羅(ほじくりだ)して責める者である。 人を審判き人を非難する者の住む世界が地獄である。
日々省みて、われ地獄の生活に堕ちてはいないかと反省せよ。
餓鬼とは如何なる世界であるかと云うと、貪(むさぼ)れば貪れど、 尚足らぬ飢え渇いた感じがしてたまらぬ者の世界である。 あるが上に欲しく、幾ら恵みが与えられていても尚不足に感ずる人はないだろうか。
げに常に不足を言うものは餓鬼の境涯に堕(お)ちているのである。 五感の快感のほかに喜びを知らぬ者は畜生である。 尤(もっと)も犬にも忠犬があり、義烈なる軍馬もあるが 、それは寧(むし)ろ仏性が出たのである。
また人を憎み嫉妬し腹立ち争う者は修羅である。
人間は、毎日自己が餓鬼に、畜生に、修羅に、堕ちていないかを反省しなければならぬ。
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人々互いに拝みあう日
*「光明道中記」(12月7日)より
【家庭でよき人たれ。家庭で尊敬されず喜ばれない者の価値は知れている。 (『生命の實相』第十一巻)】
地獄、餓鬼、畜生、修羅、天上の生活がどんなものであるかは既に述べた。
この5つの生活を同時に備えつつ、どの生活でも選べる自由があるのが人間の生活である。 その意味に於いて人間の生活は尊いのである。
併し人間の生活は、前(さき)の5種類の生活のうちどれでも選べるだけではなく、 なお一層尊い生活が選べるのである。 それはどう云う生活であるかと言うと、仏の生活である。
仏の生活とは拝み合いの生活である。 人間互いに拝み合っているときその人の生活は仏である。
自分の一群(サークル)だけ拝み合っていても、 派閥を造って拝み合い、吼(ほ)え合いするのは猛獣の生活である。
ギリシャ神話には半人半獣の怪人があるが、半仏半獣の怪人が世の中にあって、 自分の属する宗団だけでは拝み合い、他の宗団に対しては歯を剥き出しているのがある。 派閥を造り徒党を組むと云うようなことから吾々は超越しなければならないのである。
宗教新聞を見て気の毒に思うことは、 何宗内局の紛争とか、管長の更迭などに関する勢力争いなどが 大抵毎日書かれていることである。
宗教者よ、まずみずからの紛争を解決せよ。
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永遠の今を生きる日
*「光明道中記」(12月8日)より
【今日いちにち心乱さず神性の自覚に生きよ。(『生命の實相』第十二巻)】
人間の成功の程度は形の大きさではないのである。 「宇宙の《いのち》」を今生きているとき、 「今」の瞬刻に永遠無量の《いのち》を生きているのである。
永遠無量の《いのち》を生きることに比ぶれば、形や大いさによって計られる成功は、 どんな大なる成功であろうとも取るに足りない。 太陽の前の星のようなものである。
《今》の瞬間に永遠の《いのち》を生きようとせず、ただ権力の増大や、名誉の高揚や、 自己の勢力範囲の拡大のために目指されたる成功は、その成功の範囲が如何に 大きかろうとも、宇宙大にくらぶれば、いと小さきものである。
では今の瞬刻に永遠の《いのち》を生きるにはどうすべきか。 外面的働きから見れば同じ仕事をしているかも知れない。 併し、内容が更正(うまれかわ)らなければならないのである。
その仕事の動機が自己拡大のためではなく、何らか相対的な対抗気分によるからでなく、 自己の権力増大のためではなく、ただ神への献身のために、 人類相愛の無我奉仕のためにその仕事が遂行されねばならないのである。
かかる無我奉仕にはおのずから外的成功が伴うが、それは随伴現象に過ぎない。
・・・ 近くに深切を尽す日
*「光明道中記」(12月9日)より
【我(が)を立て通して他(ひと)に喜んで貰えなかった時の魂の淋しさを想像せよ。 (『生命の實相』第四巻)】
支那事変の原因は色々あるであろうが、日本が満州に進出して急発展する民族的嫉妬も その原因の一つである。日本人が白人種であったら急発展しても中国人民は今まで白人が 中国大陸に進出しても反抗しなかったと同じようだったと思う。
一面から言うと、日中互に争ったと云うのは同族と云う自覚があるからである。
兄弟と云うものはよく喧嘩をするものである。 尤も他人とでも喧嘩をする人間はあるが、兄弟喧嘩ほど頻繁にやるものではない。 親しい筈の夫婦などよく喧嘩する。
毎日の宗教新聞を読んでいると、大抵宗教界の内紛が載せられていないことがない。 まことに一見鼻もちならぬ気持ちがするのであるが、これがやはり本当は互に親しい からなのである。
同級生のなかでも、首席になる者とピリ滓(かす)になるものとは互に争わないが、 同一点数位の者同士は大いに競い、大いに争うのである。
仲が好い者、同点数に近い者、そうした人たちが争うのである。 争いのように見えていて、本当は争っているのではない。 近似を自覚しての動きだと云うことを知らねばならない。
そして、「争いではない」と知ったときに、形の上での争いは消えて了うのである。
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自然に栄える日
*「光明道中記」(12月10日)より
【神が商売をするので自分は神様の番頭だと思いて経営すれば繁昌する。 (『生命の實相』第九巻)】
家族の幸福を希(ねが)い、子孫のために或る程度の蓄財を為すことは、 ともに自然の人間の衝動であって、何ら咎(とが)めるべきではないのである。
生長の家は出家道ではない、家を生長せしむる道である。 家の繁栄を願うことは当然なことなのである。
併し、それは正しき道を通じて願われねばならないのである。 正しき道とは「公(おおやけ)」なものに奉仕する道を通してである。
人間の弱点として、最初は「公」に奉ずる為に始めた仕事が、 その仕事の「公」なる本質上、自然に栄えるようになったとき、 その栄えを自分の《もの》に帰そうとする衝動が起り勝である。
そして《自分の》成功のために何時の間にか「公」を無視して、 その成功の為に拍車を掛けはじめる。これは甚(はなは)だ危険なことである。 それは公道を走っていた馬が急に私道を走り出し、 自動車道を走っていた自動車が人道を走り出したと同じである。
馬なら手綱(たづな)をしっかり引(ひき)しめなければならないし、 自動車ならば、気を附けてハンドルを向け換えなければならない。
自己拡大だけの欲望に自分の仕事が向かないように、 吾々は常に自分の心意の方向を調節しなければならないのである。
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