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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[319] 「禊祓祝詞講義」 『大祓祝詞の私解』
伝統 - 2014年12月26日 (金) 20時42分

          *「実相と現象」(P189〜227)より


《洗礼と禊(みそぎ)ということ》


今日は私の住んでいる処の氏神様のお祭の日であります。
氏神様と普通言うけれども、本当は、「産土の神」と云うのが正しいのです。
所謂る「鎮守のお宮」であります。

そのお宮のお祭の日でありますので、祝詞の講義をしようと思います。


何処の神社でも祭典の時には、祝詞(のりと)というのをあげるのであります。
先ず「天津祝詞(あまつのりと)」或は「禊祓之(みそぎはらいの)祝詞」と
いうのをあげます。

この祝詞というのは日本の民族が何時(いつ)の時代にこれを作ったのかはっきり判らんので
ありますけれども、従ってこれは日本の古代の民族が、誰いうとなしにこういうものが
出来て来て、自然と民族の叫びとして祝詞というものが現れてきたんだと言うことが
出来るのであります。
  
日本民族が、魂の底から信じておったところの信念がこの祝詞に結晶されているのであります。
丁度『古事記』の中に、日本民族の魂が表現されているというのと同じように、
この祝詞にも日本民族の民族精神が表現されているのであります。

如何に日本人が神を観たかと云う事は、この祝詞を読めば判るのであります。

大体此の「禊祓之祝詞」の、「禊(みそぎ)」又は「身滌(みそぎ)」と云う事は
どういう事であるかといいますと、身を殺(そ)ぐと云うことであります。
殺ぐというのは、鉛筆でも削る様に削ることを殺(そ)ぐと言います。

戦争中には禊といって、よく水を被(かぶ)ったように、
「水灌(みずそそ)ぐ」と云う意味にも「ミソギ」は通ずるものでありますが、
禊というのは、体っていうものを吾々は普通《ある》と思うのですけれども、
これは一つの迷いの観念であるから、この体は無いものであると剝(そ)いで削って
除(と)ってしまうというのが、これが「みそぎ」なのであります。


その行事は形にあらわせば「「水灌(みずそそぎ)」で、
水を被るという形式として表現されるのでありますが、それはキリスト教で言う洗礼、
精(くわ)しく言えば「浸礼(しんれい)」と云われているものと同じであります。

キリストの時代に洗礼と云うのは、浸礼でありまして、
ヨルダン河の中へスッポリ全身を沈めたのであります。

それに依って肉体が全部その姿を没して、
「肉体が本来無くなる。既に自分は肉体に非ず、霊的存在なり」という自覚に導く
象徴的行事としたのが、之が侵礼である訳です。

今はそれを簡便に省略して、牧師が被洗者に指先で水を振りかけると云う
象徴的行事で「洗礼」と云っているのであります。

           <感謝合掌 平成26年12月26日 頓首再拝>

[320] 《肉体の否定について》
伝統 - 2014年12月27日 (土) 08時42分


日本古来の「禊」もやはり同じ事であって、
身(からだ)を殺(そ)いでなくしてしまうことなのです。

罪を犯すものは身体(からだ)であるから、
その身体を「無」にまで否定してしまったら罪が消える、
それで禊によって罪が消えるとしたものであります。

肉体の否定はキリスト教に於いてはイエスが「十字架」上に
磔殺(たくさつ)されることによって万人の身代わりなったのですが、
日本では「禊祓(みそぎはらい)」の行事をするのであります。

仏教では、文覚(もんがく)上人の荒行などと云って、
矢張り水を被(かぶ)ったというような歴史的事実がありますが、
真言宗などでは灌頂(かんじょう)と云うて、頂(いただき)に水を注ぐことをするのです。

地蔵さまや、観音さまの石像に参拝するとき、その頂から水を掛けるでしょう。
或いはお墓へお詣りして、その墓石に水を灌(そそ)ぐ。

何のために水を掛けるかというと、水を灌(そそ)いで洗礼と同じく、
禊(みそぎ)即ち「身殺(みそぎ)」を行って、
本来肉体と云うものは無いのであるという事を表現する訳であります。

           <感謝合掌 平成26年12月27日 頓首再拝>

[321] 《万教はすべて同一真理を説いています》
伝統 - 2014年12月27日 (土) 17時42分

禊の事はそれくらいにしますが、生長の家は万教帰一ですから、
神道も、キリスト教も、仏教も、同じであり、身滌(みそぎ)の行事や、
洗礼や灌頂(かんじょう)なども、共通の真理を行なっているものであると云う
万教帰一の話をしたのです。生長の家は一宗一派ではないのであります。

キリスト教では、神様は遍在であると申します。
神は到るところに遍(あまね)く在(ま)しますのであって、
日本の神様みたいに、ある神社の中に在しますとか、そんなことは言わんのであって、
何処にでも在しますのが神様である、とこう言うのであります。

仏教でも矢張り同じ様に法身(ほっしん)の御仏(みほとけ)を
尽十方(じんじっぽう)に満つる無礙光(むげこう)として表現しています。
キリスト教のように「遍在」という言葉をつかわないだけのことであります。

毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)(ヴェローシャナ仏)は、華厳経では、
宇宙に充ち満ちていらっしゃる仏様であります。

毘盧遮那仏と云うのは、あの東大寺の大仏様がそれで、
その御姿を象徴的に鋳造したのでありますが、
あれは一宗一派の本尊たる仏様ではないのであります。

あの大仏殿の近くへ行って、その台座の処を御覧になった人は御存知でありましょうが、
そこにはいろいろ筋をひいて仕切りがしてあって、その一画一画に
別々の仏様の御姿が彫(きざ)んであります。

それから後光の中にも、亦復(またまた)仏様が彫んであって、
如来の分身というものが凡(あら)ゆる世界に充ち満ちているという姿が
現されているわけで、

これは一仏一切仏(神道的に謂えば、一神にして八百万神(やおよろずのかみ))
であることを表現しております。

ヴェローシャナ仏は、日本では「大日如来(だいにちにょらい)」とも訳されておりまして、
これが『古事記』にあらわれている「天照大神(あまてらすおおみかみ)」と
全く同じ方であります。

「天照(あまてらす)」と言いますと、太陽神であって、
お日様だけに鎮(しず)まります神かと思う人もあるが、実はそうではないのであって、
「天(あま)」というのは「天球」のことであります。

「天球」というのは天文学の、宇宙全体をあらわす語(ことば)であります。

「天照」(あまてらす)とは「天球」全体を照らし給う処の大神という意味であって、
虚空に充ち満ち、宇宙の何処にでも充ち満ちていられる所の神様が
天照大神(あまてらすおおみかみ)であるのであります。

そういう様に、キリスト教でも、仏教でも、神道でも、
皆本源の神は遍在普遍の本体であって同じ事でありますから、
決して他教を排斥する必要はないのであります。

           <感謝合掌 平成26年12月27日 頓首再拝>

[322] 《高天原(たかあまはら)とは大宇宙である》
伝統 - 2014年12月27日 (土) 19時40分

さて、この禊祓之祝詞(みそぎはらいののりと)でありますが、
これは「天津祝詞(あまつのりと)」とも称(よ)ばれておりますが、
この祝詞の初発(はじめ)にどう書かれているかといいますと、

「高天原(たかあまはら)に神留(つまり)ます」

とこう書かれているのであります。

高天原と云うのはもう度々(たびたび)日本の古典に出て来るコトバで御存知でありますが、
或る一ヵ所の地名ではないのであります。これをある一ヵ所の地名だと思っておった人も
あるのでありますけれども、本当はそうじゃないのであります。


「タカ」というのは、(「 |(タテ)」の線を下より上へと黒板に引きながら)
こうして「高くさかのぼる」と神に達する。吾々の生命(いのち)をその本源に縦に遡る
と神に達する訳で、|(タテ)の線をもって「生命(いのち)」又は「時間」を象徴的に
あらわします。

そして、「生命(いのち)」は「時間」のながれで続いているのでありますから、
これを象徴的にあらわすとき縦の線をもってあらわします。
この|(タテ)の線は時間であります。こうして高天原の「高」は時間の象徴であります。

それから「高天原(たかあまはら)」の「原(はら)」というのは、
(――(よこ)に――線を引いて、先の|と十字交叉せしめて十(プラス)と描きながら)
こうして横に拡がっている空間の象徴として広々とひろがる「原」をつかったのであります。

空間を――(よこ)の線をもってあらわします。

 
こうして|(じかん)と――(くうかん)とが十字交叉して一つの天球即ち
○(アマ)をなしているのが宇宙であります。

「アマ」とは「顕円(あま)」の義であり、古事記編纂当時すでに
宇宙が球状をなしていると直観によって知っていた日本人の霊的天分は
驚くべきものがあります。

即ち「タカアマハラ」とは時間と空間とが十字交叉して球状宇宙を形成している
と云う意味で「大宇宙」そのものを指すのであります。

 
それで「高天原(たかあまはら)に神留(かみつまり)ます」と云うのは、
大宇宙には、神様が充満してましますのであると云うことを説いているのであります。

ですから、キリスト教の「神は遍在である」と云う神観も、
日本の神道における神観もやはり同じ事であることがわかります。

だからキリスト教の人が日本の神道の神観について悪口を言う必要もないし、
また仏教の人が仏教に入らなければ助からんとか、キリスト教じゃ駄目だとか、
或は神道ではいかんとか、そういう他宗排撃の事を言う必要がないのであります。

どの宗教でも本来その教の来る本源たるものに達したならば、同じであって、
一神一切神(いっしんいっさいしん)、一仏一切仏(いちぶついっさいぶつ)と
なるのであります。

さて、序文はこれくらいにいたしまして
「禊祓之祝詞(みそぎはらいののりと)」の本文に入ります。
短いものですから全文を一寸読んでみます。


   「高天原に神留坐(かみつまりま)す。神魯伎(かむろぎ)神魯美(かむろみ)の
   詔(みこと)を以(も)ちて、皇御祖(すめみおや)神(かむ)伊邪那岐命
   (いざなぎのみこと)筑紫の日向(ひむか)の橘(たちはな)の小戸(おど)の
   阿波岐原(あはぎはら)に身禊祓(みそぎはら)ひ給ふ時に生坐(なりませ)る
   祓戸(はらいど)の大神等(おおかみたち)、

   諸々(もろもろ)の枉事(まがこと)罪穢(つみけがれ)を祓給(はらいたま)へ
   清給(きよめたま)へと申(まお)す事(こと)の由(よし)を、
   天津神(あまつかみ)国津神(くにつかみ)八百万(やおよろづ)の神等(かみたち)
   共に天(あめ)の斑馬(ふちこま)の耳(みみ)振(ふり)立(たて)て
   聞召(きこしめせ)と畏(かしこ)み畏(かしこ)みを白(まを)す。」

           <感謝合掌 平成26年12月27日 頓首再拝>

[323] 《天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とは固有名詞ではない》
伝統 - 2014年12月27日 (土) 20時49分

「高天原に神留坐(かみつまりま)す」は唯今講義しましたから、
その次の「神魯伎(かむろぎ)・神魯美(かむろみ)の詔(みこと)を以(も)ちて」
の意味であります。

神魯伎(かむろぎー)・神魯美(かむろみー)の解釈をするには、
更に遡(さかのぼ)って天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)のことを
説明しなければなりません。

古事記に「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原に成りませる
神の御名は、天之御中主神」とあって天之御中主神というのは固有名詞ではありません。

「天之」の「之」という字は説明につかった接続詞であって、
古事記の他のところに出て来る「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」とか、
「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」とか、

固有名詞に出て来る「アメノ」というのは、「之」がないので、
天之御中主神とは、「天(あま)」即ち「天球」の、
「御中(みなか)」なるところの主なる神という意味であります。

「御中」と云っても宇宙のまん中だけにあるのではなくって
宇宙を貫くという意味であります。

元来「中」という字は○が宇宙であって、その○(宇宙)をΦ(貫)く
(黒板に○を書いて真ん中に棒を引いてΦと書きつつ)「天」即ち「宇宙」をΦ(貫)く
主なる神様が、宇宙最初の本源の神であるというのであります。

Φ(○にタテ棒)はどちらにも偏っていないから「中道實相」という熟語にもつかいます。


宇宙を《つらぬく》と云っても、真中の中心点◎にだけあるというような意味ではない
のであって、支那の『中庸』という書に「喜怒哀楽未だ発せざるを中(ちゅう)という」と
書かれておりますように、どちらにも偏っていない、陰にあらず陽に非ず、
現象いまだ発せざる本源の「中」であります。

陰にあらず陽にあらざる処の、どちらにも偏らないで宇宙を貫いて
何処にても存在し給うのが天之御中主神であります。

「宇宙を貫いて」と言っても、団子を串にさしたように真中だけに刺し貫いてある
というのではないのであって、皆さんの生命の中にも、骨の中にも、
どんな硬いものの中にも貫いて、到る処にましますのであります。


此の宇宙を貫いて御中(みなか)にして「主」なるところの神様は、
「神はじめに天地をつくりたまえり」と旧約聖書にある「主なる神」(Lord)とも
同じでありますし、キリスト教のゴッドとも同じでありますし、

さっき言いました仏教のヴェローシャナ仏即ち大日如来や、
或は浄土真宗ならば、阿弥陀如来も同じことであります。

こうして解釈して行きますと神道も仏教も同じことで、
別異を建てる必要がなくなるのであります。

阿弥陀如来は「尽十方無礙光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)」とも
称して十方凡(あら)ゆる方角に尽(ことごと)く充ち満ちていられる如来様と
云うのですから天之御中主神も同じ事であります。

この神様が宇宙の本源の神様であらせられ、
陰陽どちらにも偏っていられないのでありますが、

その本源の生命(いのち)が動き発して現れる時には、
「陰」と「陽」とになって現れて来られるのであり、

陽の方を「神魯伎命(かむろぎのみこと)」と云い、
「陰」の方が「神魯美命(かむろみのみこと)」と云うのであります。

           <感謝合掌 平成26年12月27日 頓首再拝>

[324] 《陰陽の分化と天地の創造》
伝統 - 2014年12月28日 (日) 03時09分


魯伎(ロギー)・魯美(ロミー)というのは、ギリシャ語の「ロゴス」と言う語と
同じく自然発生の「コトバ」と云う意味の語(ことば)に、男性活用の接尾語「ギ」と
女性活用の「ミ」とがついて変化したものであります。

ギリシャ語の「ロゴス」は支那の語(ことば)では「論(ロン)」であります。
「論」即ち「ロゴス」が男性として現れたのが「ロギー」であって、
ロゴスが女性として現れたのが「ロミー」です。

それに「神」をつけて「神ロギー」「神ロミー」と云ったのであります。

「ミ」という接尾語は「箕(み)」に当る。
「ギ」という接尾語は「杵(ぎ)」に当ります。

「箕(み)」は種を受けて篩(ふる)い分ける道具で、女性生殖器の象徴であり、
受動的な働をあらわし、これが女性の天分であります。

「杵(ぎ)」は餅をつく「杵(きね)」であって上から衝(つ)くのであります。
之(これ)が男性の働であります。

この様に「神ロギー」と「神ロミー」と云うように陽と陰とに分かれて
宇宙の創造が行なわれたのであります。

古事記では、「神ロギー」を高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、
「神ロミー」を神産巣日神(かみむすびのかみ)という字が当てはめてあります。

此の神産巣日神という女性の神が神魯美命で、
高御産巣日神と云う高く秀(ひい)でて立つところの男性の神様が
神魯伎命ということになって居る訳であります。

天理教では神様のことを月日(つきひ)と云って居ますが、
「月日(つきひ)」と言うのは、太陰と太陽で象徴されている
天地創造の陰陽のはたらきであります。


神様が創造者として、又は生々化育の自然造化のはたらきとして働く時には、
本来の偏らぬ「中」性をもって働かないで、その「中(ちゅう)」が破れて
陰陽の二つに別れて働くのであります。

陽と陰とに別れてそれが再び結び合うことによって、
はじめて「はたらき」と云うものが出て来るのであります。

電気でもそうであります。
電気になるエネルギーは何処にでも充ち満ちているのであります。

併し、その電気になるエネルギーも、「陰」と「陽」とに別れなければ、
電気の働というものはあらわれないのです。

「陰」と「陽」とに別れたエネルギーを、もう一ぺん結び合わすともとの「中」にかえる、
その「中」にかえる時に、ひとつの働を起こすということになる。

この結びの働ということが大切なんです。
「報恩行の神示」に書かれておりますように「むすび」のはたらきが大切なのであります。

           <感謝合掌 平成26年12月28日 頓首再拝>

[325] 《陰・陽むすびの働きについて》
伝統 - 2014年12月28日 (日) 07時50分

「結び」の働をあらわした神々がタカミムスビノカミ、カミムスビノカミであります。
ムスビは現代語で言えば「愛」でありますが、古い時代の日本では愛という言葉を
使わなかった。

近代に到ってloveという言葉の翻訳として「愛」という語が氾濫してまいりました。

「ムスビ」と云うのは、一旦離れたところの「本来ひとつ」であるものが結び合って
「本来の一つ」になることです。握手などすると互に親愛の情が通うのは、
結び合うからであります。

洋服のボタンでも左と右とを結ぶ。
左は男性の座であり、右は女性の座であって、互に結び合わす、
そうするとキチンとするのですけれど、だらしない恰好(かっこう)をしていると、
余り良くない。

ネクタイでも、左と右との両端をこう廻してきて結ぶでしょう、
そうすると服装がキチンとする。

また羽織(はおり)の紐(ひも)でも左右に垂れ下がっているのを結ぶ、
そこに新しい美が創造される。

御飯でもばらばらになっているものをこうやって左の手と右の手とで握るのです。
そうすると「おむすび」(握り飯)というものが出来る。

こうして「むすび」の働がはいりますと、普通の御飯より味がいいので、
子供などが食欲のないとき、「むすび」をこしらえてやりますと、
食欲が出て喜んで食べます。

昔は丸薬(がんやく)なんかも、みんな両掌(りょうてのひら)で
一つ一つ丸めたものであります。
掌(てのひら)からはプラナ即ち生命磁気が出ていて、
そのプラナが丸薬に吸収されて薬効を増す。

丸薬が効くというのは、一つには「愛」即ち「むすび」の働の作用によって
手のひらから放射されるところの霊気(プラナ)が染み込んでいるから
一層効果を増していたのですけれども、

近代の様に機械で粉砕して、機械で丸薬を拵えると、
漢薬でも昔のようには効かぬようになってしまいます。

無論それぞれのもっている化学作用というものがありますから、
その化学作用だけのことは、効かんという事はないけれども、
古来の神効をあらわした丸薬には矢張り多分に「愛念」が入っていたからであります。

その「愛念」の具象化で握り飯には普通の御飯と異る美味しい味わいが出て来るのであります。
これが「結び」の力であります。

それと同じく男性も女性もそれぞれ美しいけれども、それが結び合わされて夫婦となると、
又異る味わいが出て来て、そしてそこに新しい生命が産み出されて来ます。

このように「結び」云う語(ことば)は、現代語の単なる「愛」という語感よりも、
ずっと深い内容を持っているのであります。


「結び」は同時に新しい価値の創造を意味しております。
「愛」は時には単に「好き」とか「享楽」とかの意味に使われることがありますけれども、
「結び」は必ず「新しい価値」がそこから生まれて来るのであります。

「結び」が生ずれば単なる普通のばらばらの御飯と味が違うように
新しき価値が生まれるのであります。

普通のばらばらの男と女との愛情は、本当に結婚した仲の好い夫婦とは味が違うのです。
そこから「新価値の創造」として可愛い赤ちゃんがオギャーと生まれて来るのであります。
そういう深い意味がこの「むすび」という言葉には含まれているのであります。

           <感謝合掌 平成26年12月28日 頓首再拝>

[326] 《陰・陽むすびの働きについて》A
伝統 - 2014年12月28日 (日) 12時43分

さて、「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」様が
「神魯伎(かむろぎー)」「神魯美(かむろみ)」と剖(わか)れて、
その詔(みことのり)によって「皇御祖神伊邪那岐命(すめみおやかむいざなぎのみこと)」
が天地の創造をなさった。

尤((もっと)も伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)と
二柱(ふたはしら)で「結び」をなさって創造なさるのですけれど、
神魯伎・神魯美の命(みこと)は御言葉ですから、まだ具体的な人格として現われて
いないのであり、「陽」と「陰」との二つの「生命原理」とも云うべきものであります。

謂(い)わば「幽之幽(ゆうのゆう)」の神さまです。

ところがこの幽之幽の神様が伊邪那岐・伊邪那美の両柱(ふたはしら)の神として
お現れになりますと、此の両神は人間みたいな体をそなえていられるのではないけれども、
「幽之顕」の神様として多少人格化した働として男女性がはっきりとして出ておられる
のであります。

それで、実はこの二柱の神様で宇宙を創造なさるのだけれど、
その創造の積極的代表者は男性であります。

それで「皇御祖神伊邪那岐命(すめみおやかむいざなぎのみこと)」という風に
男の神様だけがここに名前が書かれているのであります。

いつも言いますとおり伊邪那美神は「波」の神様です。
女性は波の天分を持っています。
やわらかく、しなやかに、曲線美で、心が波立つのであります。

ところが、伊邪那岐神はナギ(凪)の天分をもっておられる。

波は動揺するものであり、水平(平和)を細分してこれを《ゆるがす》ものであり、
これはすべてを「分割して支配する」科学文明の象徴でもあります。

その動揺する波を静かにする働がナギ(凪)であります。

伊邪那岐神は東洋の霊的文化(すべて人類は一つであるという霊的直観の文化)を代表し、
此の伊邪那岐と科学文明の伊邪那美神とが結び合いましたら、
「四海波静(しかいなみしずか)」と云う事になるわけであります。

今や、日本は国連に加入して非常任理事国として選ばれようとしており、
その発言力が重視されて来つつありますから、やがて東西文化の融合に力をつくして、
原爆水爆の細かく破壊する文明に東洋の霊的一元の宗教精神をもって結び合せ、
四海波静かなる世界を実現する中心国となる使命実現に近づいて来たのであります。

           <感謝合掌 平成26年12月28日 頓首再拝>

[327] 《陽の響き=言葉で宇宙を浄化する》
伝統 - 2014年12月28日 (日) 21時51分

さて、此の伊邪那岐神様が何処で禊祓(みそぎはらい)をせられたかと言いますと、
「筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(をど)の
阿波岐原(あはぎはら)に御禊祓(みそぎはら)ひ給う時に生坐(なりませ)る
祓戸(はらいど)の大神等(おおかみたち)」とこう書かれているのであります。

伊邪那岐神様は天地創造の積極原理としてはたらきたまう宇宙の大神であります。
それですから、“ツクシ”と云うのは、九州の“筑紫”という字が当て嵌(は)めて
書いてありますけれども、本当はそうじゃない。

ツクシは「尽」(ツクシ)なのであります。
十方あらゆる方角を尽くして宇宙全体に広がって充ち満ちておられる
光の神様が伊邪那岐神様である。

次に、筑紫の“日向(ヒムカ)”でありますが、“日向(ひむか)”を九州の
“日向(ひゅうが)”だと思って“日向(ひゅうが)”と読む人があるけれども、
“日向(ひゅうが)”は「日向(ひむか)」が転じた語(ことば)であります。

“ヒムカ”と云うのは、見渡すかぎり光に向かっている意味でありまして、
「尽十方光明遍照の国」の意味であります。
尽十方光明遍照の大宇宙に於いて、宇宙の大神が禊祓をせられた。

だからこれは荘厳極まりなきすばらしい宇宙浄化の行事であります。
小さな人間的形体をそなえた神様が九州の一角でちょっと祓式(はらいしき)を
やっているようなことではないのであります。

此の祝詞を見ても、日本人は随分雄大な信念を持っておった民族であることが
わかるのでありまして、皆さんの祖先は実にすばらしいのであります。

島国に住んでおったようですけれど、心は宇宙に充ち広がっておって、
自分たちは宇宙の大神の子孫である、即ち「神の子」であるという信念を
もっていたのであります。

この伊邪那岐神様は“ツクシ”即ち“尽十方”の“ヒムカ”
即ち“光明遍照の世界”に於いて、禊祓をせられた。

“ミソギ”と云うことは“浄化”することを云うのであって、
その浄化は何によってするかと云うと「光」でするのです。

伊邪那岐神様は「光」の大神であって、宇宙を「光」で満たして暗黒を消し、
世界に平和を持ち来す御働きの神であります。

伊邪那岐神様が、「光」の神であると云うことは、
後に宇宙を照らす天照大御神をお生みになったので明らかであります。

「光」で「暗黒」を消すと云っても、物質的な光線ではありません。
それはどんな光によって禊祓をせられたかと云うと、
「橘の小戸(タチハナのオド)」であります。

「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」と地名の如く書かれてありますが、
これは地名じゃないのでありまして、地名に象(かたど)って
その御働きを象徴してあるのであります。

“タチハナ”と云うのは“竪端(タチハナ)”でありまして、
“オド”は“小戸(おど)”と書いてありますが「音」(おと)であります。

物質の光ならざる「光」によって「暗黒」を消すと云うのは、
「言葉の光」によって「暗黒」を消すのであります。

此の世界は言葉によって創られて居る。
(注。ヨハネ伝第一章「太初に言(ことば)あり、言は神と偕にあり。言は神なりき。
万ずのものこれによりて成り・・・云々」)と云う事は何時も申し上げるのでありますが、
此の言(ことば)の最初の根元的な陽性の言が、「竪端の音(たちはなのおと)」
であります。


この世の中は濁った音や拗(まが)った音を除くと、五十音あるのです。

“アイウエオ”“カキクケコ”“サシスセソ”と竪(たて)に五十音を
順に竝(なら)べますと、その「竪(たて)の端(はな)にある音」と云うのが、
竪端の音であって、「アイウエオ」の五つの音なんです。

この五つの音(おん)を「父音(ふいん)」と云う。
他の音は「子音(しおん)」と言うんですが、「父音」の“アイウエオ”は、
「父」でありますから陽音(ようおん)であります。

伊邪那岐神様は此の陽の音「アイウエオ」をもって宇宙のコトバを浄化されたのであります。

           <感謝合掌 平成26年12月28日 頓首再拝>

[328] 《陽の響き=言葉で宇宙を浄化する》A
伝統 - 2014年12月29日 (月) 04時43分

「陽」というのは之は「あらは」(露出)と云う字で、はっきり、
こうあらわれている音であります。
それから子音は陰音で陰(かく)れている音であります。

そして「アイウエオ」を除く、カキクケコその他の四十五音は、
子音に陽音が加えられて、陰陽相交叉して出来ている夫婦音であります。

これはローマ字でもって書いて行くと判り易いのであります。

例えばKA(カ)の発音のなかのK(子音)だけを考えて見ますと、
この子音にア(A)イ(I)ウ(U)エ(E)オ(O)が入らなかったら、
これだけでは発音出来ないのです。

Kは不完全音であって、これだけでは犬が咽喉に骨をたてて「ケケケ------」
と吐き出しているような声であります。

これを完全音のカ(KA)と発音しようと思ったら
「K」に「A」(ア)という陽音が入って、
はじめてKA(カ)と完全に発音する事ができる。

「K」に「I」(イ)が入って、KI(キ)と発音出来る。

こうして陽音が陰音を刺し貫いたとき、完全音になるのであり、
この陽音即ち「アイウエオ」(AIUEO)の“竪端の音”が入らなかったならば、
言葉は完成しないという訳であります。


それでこの世界を浄めるには、言換えると、此の世界を完成するには、
「アイウエオ」という此の五つの「陽の響」をもって
宇宙を浄化しなければならないのです。

陽音は「光の響」であって、陽音が入ると、不完全な聞こえ難い陰音が、
皆はっきり聞こえる完全音に変化するのであります。

言(ことば)が浄まるということは、言(ことば)によって成り立っている此の世界に、
はっきりと實相の完全なる相が現われて来るという事であります。

           <感謝合掌 平成26年12月29日 頓首再拝>

[329] 《本質の平等のうちに差別がある》
伝統 - 2014年12月29日 (月) 08時53分

言葉の質の上から云いますと、
日本語は皆、語尾に此の「アイウエオ」が付いて居るのですね。 

“KA(カ<クア>”、“SA(サ<スア>)”、“TA(タ<ツア>)”、
“NA(ナ<ヌア>)”などみな陽音の“ア”がついているでしょう。

その他の発音でも日本人の発音には陽の音が語尾について、
はっきりした発音をなしているのであります。
此処に日本民族の優秀性ということがあらわれているのであります。


言葉と云うものは、まことに大切なものであって、
不完全な“ひびき”のある言語(ことば)を使うと、
それだけ吾々の人格も品性も不完全な状態になって来る。

言葉が少ない国の民族はそれだけ文化が発達していない。
言語を混乱させると人心が頽廃(たいはい)したり乱暴になったりします。

現代は言語の混乱時代であって、これはラジオの娯楽放送などが、
国民の心に対する影響を考えないで、ただ新奇や奇矯(ききょう)や
煽情(せんじょう)をねらっているからこんなことになるのであります。

日本はすべてを包容する国民性だけに非常に多過ぎる言語をもっているので、
制限漢字とか常用漢字とか、色々制限を設けて子供が覚えやすいようにするけれども、

これは子供の為の便宜主義であって、日本全体の文化の発達という事から考えると、
記憶の難易などで言葉を制限しないで、ニュウアンスの悪い言葉を制限して、
或る高い風格を備えているような言葉は、どんなに字画数が多くとも、
これを保存しておく程善いのであります。

同じ意味でも言葉のニューアンスがそれぞれ違うのであります。
言葉のニューアンスというのは言葉の色艶(いろつや)と云うべきか、
匂(におい)と云うべきか、響きの感じと云うべきか、兎(と)も角(かく)、
その感じが同じ意味でも発音によって違う。

「私(わたくし)」と言うのと「私(わたし)」と言うのと「俺」と言うのと
「手前(てめえ)」と言うのと「拙者(せっしゃ)」と言うのと、「それがし」と言うのと、
「あたし」と言うのと、「わたい」と言うのと、「わい」と言うのと皆、
「自分」のことを指すのですが、感じが違うでしょう。

外国人に、この「俺」と言うのと「僕」と言うのと「私」と言うのと、
それぞれ別々の感じの出るように翻訳してくれと言っても、
それは出来ないことであります。

英語なら、「私」でも「俺」でも「僕」でも皆「I(アイ)」と翻訳してしまう。
そうすると、日本人には、「私」とか「俺」とか「僕」とかいう言葉の感じを
区別して細かく味わい別ける能力を持っているけれども、
外国人にはそれが出来ないことをあらわしております。

彼等は、“民主主義”と云うので、人間は皆「I(アイ)」で平等だと云うんです。
けれども現実には「平等」なんてものは《ひとり》もいないから、
皆さんの顔を見たらそれが分かる。

同じ平等な顔しとるものは一人として居ないのであります。

それの微妙な感じをみんな味わい別けないから、
「人間はみな平等だ」などと平気で云うのであります。

どの人間も皆眼が横について鼻が縦(たて)につき、口が横についているから、
みんな同じじゃと云う。しかし「同じ」だと云うのは抽象概念であって、
その横についている眼も縦についている鼻も、よくよく見れば皆その形がちがう。

みんなその感じ、味わいが違う。

「拙者」と「俺」と「僕」と「私」とが皆感じが違うように、顔の感じが皆違う。
それを言葉で豊富に言い表わしているのが日本人なのであります。

それなのに、意味さえ判ればいいんだという実用一点張りの言語で、
皆一つの「I(アイ)」にしてしまうような物の考え方が西洋的な物の考え方
なのであります。

それで個性的区別があり、価値実現の程度が各々異なっている人間を、
みんな平等に分子的に、単元にしてしまって、人間は平等だと云う。

これは人間生命の「本質の平等」と、「価値実現に差等」があると云うこととを
混同しているのであります。

すべてを抽象的に平等に考えると、具体の《ものそのもの》に現われている所の
美しさやら味わいというものを撥無(はつむ)してしまうということになるので、
それでは悪平等となります。

本質の平等のうちに差別があると云うことを知らぬといかんと思うのであります。

           <感謝合掌 平成26年12月29日 頓首再拝>

[330] 《本質の平等のうちに差別がある》A
伝統 - 2014年12月29日 (月) 17時30分

さて“アイウエオ”と云う言葉が語尾に入りますと、
“S”なら“S”で、そのままでは完全に発音できない音が、
A(ア)が入るとSA(サ)と、言(ことば)が浄まってはっきり出て来るのであります。

TならTで、其の発音がこれだけでは、どうも声がハッキリ出て来ないのですが、
それに“アイウエオ”の「竪端(たちはな)の音(おと)」が入ると、明瞭な発音となって、
“タチツテト”(TA TI TU TE TO)となって来るのは、
“アイウエオ”(AIUEO)という“陽のコトバ”がはいって、
夫婦陰陽完成した音になって来るからであります。

即ちコトバの陰陽が揃う事になって完全音となるからであります。
< タ(陰陽調和)=T(陰)A(陽) >。(・・・P211左上枠内)

“T”は陰のことばで、陰(かく)れていてはっきりしないが、
“A”が陽のことばで、それを交合すると、TA(タ)となって、
はっきりした言(ことば)を実現するのであります。

日本語は概(おおむ)ね斯う云う陰陽調和の立派なことばを古代から使っていましたが、
現代は言語が混乱して居るのです。


その人の語る言葉を聞けばその人の品性が分る事になります。
だから、此の頃のように何とも言えない言葉が混乱して、
人間が、皆、単元的に平等な語(ことば)を使う。

そして男が喋(しゃべ)っているのか、女が喋っておるのか、
《ごろつき》が喋っているのか、愚連隊(ぐれんたい)が喋っているのか、
紳士が喋っているのか、ラジオできいているのではハッキリ判らんようになって
来ているのは、

それだけ社会の秩序が混乱していることの現われでもあり、同時に言語が混乱したから、
その反映として人心が混乱状態に陥っているとも云えるのであります。

男と女が同じような言語を使うから、男も《よろめければ》、
女も《よろめいて》もよいというようになり「よろめき夫人」が沢山でて来る。

吾々は言葉を吟味して正しき、そして感じのいい言葉を出来るだけ選んで使う事に
依(よ)って、日本の国の言葉が浄まって来て、
日本人の生活が浄まって来るのであります。

日本人の生活そのものが浄まらないで、
日本人が東亜民族のリーダーになるなどと云うことはできないのであります。

それで伊邪那岐の神様が宇宙を浄められたのも、言葉に依って浄められた、
そのことが「竪端の音」で“アハギハラ”せられたという事であります。

           <感謝合掌 平成26年12月29日 頓首再拝>

[331] 《宇宙浄化の働は永遠につづく》
伝統 - 2014年12月29日 (月) 23時07分

“アハギハラ”と云うのは、「筑紫の日向(ひむか)の阿波岐原(あはぎはら)」
という風に、場所の名前になっておりますが、

“ア”と云うのは“あらわす”ことで、

“ハギ”と云うのは“追剥(おいはぎ)”の“ハギ”と同じ事で、
偽物(にせもの)のヴェールを“剥(は)ぎ”とって
覆いを取り除いてしまうことであります。

即ち「光明の言葉」の力で、本来無い処の偽物の迷いを、それを除いてしまう、
これが禊祓(みそぎはらい)なんであります。

「光明の言葉」の力に依って人間の心の暗黒を取り去り給うたそのお働を、
宇宙の大神たる伊邪那岐神様がせられた時に、その宇宙浄化の働が人格化して
現れて祓戸(はらいどの)大神と云われる神様が四柱(よはしら)
お生まれになられたのであります。

それでこの禊祓の祝詞には、「伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
禊祓たまふ時に成りませる祓戸(はらひど)の大神たち」となっているのであります。

それで神社その他で祭典をする時に、先ず祓式(はらいしき)と云うのをやる時に、
祓戸四柱(はたいどよはしら)の神様のお名前を一柱ずつ唱えて
この宇宙浄化の神様のお働を勧請(かんじょう)するのであります。

簡単にやれば、お名前を呼び奉らずに、この「禊祓(みそぎはらい)の祝詞(のりと)」
だけを読めば、言葉の力によって祓戸の大神の宇宙浄化の働きが
動き出して下さるのであります。

この祝詞に「禊祓(みそぎはら)ひたまう時に」とありますのを、
「禊祓ひ給ひし時に成りませる」と読む人がありますが、

伊邪那岐大神の宇宙浄化の働きは過去にもありましたが、
今も永遠につづいていますので、「禊祓ひ《たまう》時に成りませる」と
現在の動詞活用で読む方が正しいのであります。

祓戸の四柱の神様は大祓祝詞(おおはらいのりと)の中に名前が書かれておりますから、
何(ど)ういう神様であるか、大祓祝詞を次に読んでみることに致します。


   「彼方(をちかた)の繁木本(しげきがもと)を焼鎌(やきがま)の
    敏鎌(とがま)もて打掃事(うちはらうこと)の如く遺罪(のこるつみ)は
    あらじと祓給(はらいたま)ひ清給(きよめたま)ふ事を、

    高山之末(たかやまのすゑ)短山之末(ひきやまのすゑ)より
    佐久那太理(さくなだり)に落ち、多岐都速川(たきつはやかわ)の
    瀬に坐(ま)す瀬織津比刀iせおりつひめ)」


先ずその一柱は瀬織津比盗_(せおりつひめかみ)という神様であります。
女性の神様になっているのは「水」の働きであるからであります。

「多岐都速川(たきつはやかわ)」即ち、瀧(たき)の様に早く流れている所の
急な流れにましますところの“急流の神様”で、噴流式の洗濯機のような御働で、
速やかに宇宙浄化の作用をなさる神様であります。

川の水というものは凡(すべ)てを浄化する。
農村なんかでは水道の水が無いから、川で洗濯している。
襁褓(おむつ)でも何でも洗っている。
その下(しも)の方でお米を炊(かし)いだりしているものもある。

まことに乱暴な話で、それは衛生に悪いと思われますが、
それでもその割りに伝染病にかからないのは、
速川(はやかわ)の流れる働で浄化されるからであります。

兎(と)も角(かく)、何でも彼でも浄めるのは此の川水の働でありまして、
この浄化の働きを人格化したのが瀬織津比刀iせおりつひめ)と
称せられる神様です。

此の瀬織津比刀iせおりつひめ)と云う神様が、
「大海原(おおわだのはら)に持出(もちいで)なむ」とありまして
この川の御働としてあらわれてまします宇宙浄化の神様が、

一切の地上の不浄物を大海原(おおわだのはら)即ち
大海原(おおうなばら)へ流しだされる。

すると、大海の浄化の働と云うものは又素晴らしいのであります。

           <感謝合掌 平成26年12月29日 頓首再拝>

[332] 《実相の世界へ息吹は放つ》
伝統 - 2014年12月30日 (火) 03時08分


海には地上にある凡(あら)ゆる汚いものが流される。
都会では、皆さんの大小便 ―― 水洗便所 ―― を通じてみんな此処へ流されていく。

それが何時の間にか浄まって、それで皆さんが泳いだり、その海の中で呼吸したり、
餌(え)をくったりしている魚を、皆さんが「美味(おい)しい」と云って
おあがりになるのです。

まあそう云う様な具合になっているのが、宇宙浄化の大自然の働であって、
どんな汚いものでも全部呑み込んで、浄化したまう働をして下さる。

この大自然力が、大海原(おおうなばら)の神様で、
この神を「速開津比盗_(はやあきつひめのかみ)」と申上げる。
大祓祝詞には次のように書かれています。 


   「大海原(おおわだのはら)に持出(もちいで)なむ。
    如此持出往(かくもちいでいな)ば荒鹽の鹽の八百道(やおぢ)の
    八鹽道(やしおぢ)の鹽の八百會(やおあい)に坐(ま)す、
    速開津比刀iはやあきつひめ)と云神(いうかみ)」


此の「速開津比刀iはやあきつひめ)」と云う神様が、
海の浄化神様になっておるのです。
どんなものでも、口を開いて呵々(かか)として呑んでしまうのです。

だから、大祓祝詞には、


   「速開津比刀iはやあきつひめ)」と云ふ神 持可々(もちかか)呑(のみ)てむ。」


と、ぐーっとこう呑んでしまうと書かれているのであります。
こうして大海が一切の不浄物を呑み込んでしまうと、どうなるかと言うと、
大祓祝詞には、


   「如此可々(かくかか)呑(のみ)ては気吹戸主(いぶきどぬし)と云ふ神
    根之国底之国(ねのくにそこのくに)に気吹(いぶき)放てむ」


とあります。之(これ)は風の神の働を云ったのであります。
此の「気吹戸主神様(いぶきどぬしのかみさま)のおん働が大切であります。

大自然の力・台風みたいな働を人格的に拝して
「気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)」と申し上げたのです。

海上や山間にああ云う台風のような風が吹かなんだら、
地上の不浄物は一網打尽的に海へ流れないし、又幾ら海へ流れ込んだとて、
完全に浄化しないのであります。

ああやって、ザーザーと、風の働によって波を立てて
吾々が地上でつくった汚(けが)れを浄化して下さるのであります。

そうするとどんな汚い物でもきれいなものに変化してしまう。

           <感謝合掌 平成26年12月30日 頓首再拝>

[333] 《実相の世界へ息吹は放つ》A
伝統 - 2014年12月30日 (火) 10時31分

その浄化するというのは、どこへ其の汚物をやるから浄化できるのであるかと云いますと、
「根の国底の国に気吹(いぶき)放(はなち)てむ」とあります。

「根の国、底の国」というのは、
事物の生ずる「根底の国」即ち「實相の国」のことを云うのであります。

「實相の国」にはどんな汚れもない、それは「光ばかりの国」でありますから、
「光ばかりの国」へ、暗の「気枯(けがれ)」を追いやったら、
暗は自然に消えてしまうのであります。


わたし達が春秋の大掃除の時に、畳を叩いてホコリを落とすと、
濛々(もうもう)としてホコリが立ちのぼる。ところが、何時の間にか
大気がきれいに澄み切ってその埃(ほこり)が無くなってしまっているのであります。

あれは気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)のおん働によって
根の国底の国 ―― 實相世界 ―― へ追いやられて浄化されてしまう。

科学的に云えば、いろいろな物理化学的現象によってそれが浄化されるのですが、
その働の根元は實相世界から来ている。

實相の世界にはどんな埃(ほこり)も無い。現象の世界には埃がある。
そこで實相の世界へ気吹(いぶき)放ってしまうと、現象世界の汚れが
浄化されるのであります。どうして浄化されるかと云うと、大祓祝詞には、


   「根の国底の国に坐(ま)す速佐須良比刀iはやさすらひめ)と云(いう)
    神持(かみもち)佐須良比(さすらひ)失(うしなひ)てむ。」


とあります。

速佐須良比当ス(はやさすらひめのみこと)と云う
“霊的波動”のはたらきによるのであります。

此の速佐須良比盗_と云う神様のお働を分り易く言うと、擦(さす)る神様です。
大宇宙をマッサージする神様です。

皆さんでも、肩が凝ったと云うときには、そこに心の埃(ほこり)が溜(たま)っている、
換言すれば、其処に心の執着や焦(あせ)りのストレスが出来ているのであります。

その時に、按摩(あんま)をして貰(もら)うと、その凝(こ)りがとれて、
気持がよくなる。気持が良くなるのは浄化されたのであります。

按摩は擦る働即ち速佐須良比盗_様の一つのお働きで、
それで気持が良くなるのであります。

さすれば、實相の正しい血液循環のそのままの姿というものが、そこに現れて来て、
凝りや病気が消えると云う事になるのであります。

これは、人間界の出来事に喩(たとえ)をもって来て分り易く云っている
のでありますが、大自然界に於いても、ああ云う具合に台風が吹くのも、
或る意味から言うと宇宙浄化の働であります。

だから吾々の心が濁(にご)ると、
それだけ余計浄化せねばならんから余計台風が吹くと云う事になるのであります。

あの台風に依って、人間のつくった心及び物の汚いものが皆浄化されて、
清らかに澄み切った世界が出て来るので、吾々の心が、浄化を要しない位に
浄まらないと、毎年1回や3回位は速佐須良比当ス(はやさすらひめのみこと)に
台風を起こして擦(さす)って貰わんと、一度に溜めておいて浄化するとなると、
それこそ大変、地球の滅亡にもなりかねないのであります。

           <感謝合掌 平成26年12月30日 頓首再拝>

[334] 《ストレス=凝りを均す働》
伝統 - 2014年12月30日 (火) 17時55分

新派の柳英二郎と云う役者がありましたでしょう。

近頃はあまり新派の舞台には出ないで映画の俳優になって、
時々ラジオにも声優としても活躍していますが、
あの柳さんの奥さんが、何時も肩が凝るという持病があったと云うのです。

その頃、今は福岡にいられる真澄静子さんが生長の家の誌友で東京にいられた。

その人が指圧療法の先生でありまして、まだ生長の家の誌友になる前に、
肩を凝らしている新派の俳優の所へ指圧の治療に行くようにしていられた。

その真澄静子さんが毎月1、2回は柳英二郎さんの奥さんのところへ
指圧治療に行くのでした。

何時も指圧していると其の人の肩が凝っているか凝っていないかと云う事は
一寸(ちょっと)手を当てると、もうすぐに分かるのでした。

処が、或る日、真澄静子さんが行って、柳夫人の肩に手を当てると、
何時も凝って固くなっている肩の筋肉が凝っていないで、柔らかなのです。

ハッと気付いた真澄静子さんが、「貴女、悟ったですねえ」と斯う言われた。
「貴女何か心に悟った事あるでしょう」。そうしたら柳夫人が、
「実は生長の家の本を読んだのです」と言う。

「生長の家の本ってそんな好(よ)い本ですか」と云う訳で、
それから真澄静子さんが生長の家に入って勉強し、地方講師になり、
熱心に生長の家の教を人々に伝えられるようになったのであります。

心が穏やかになり平静になって、
實相に調和した心境になったら肩が凝らんのであります。

地球だって本来生き物でありますから矢張り肩が凝るのですよ。
地球には肩がないけれども、地殻の一部にストレスを生ずる、
それは肩が凝るのと同じことだ。

そうすると色々な現象が出て来る。
たとえば噴火山が爆発するのは、あれは地殻の内部圧力が不平均だから
爆発する処が出来るのでしょう。

また地震が起るのは地殻内部の圧力の不平均を均(なら)す働でありましょう。


地球をとりまく雰囲気である大気中にも又気圧の不平均と云うものも起って来る、
これらは地球のストレス即ち肩が凝っているのであります。

その気圧の不平均と云うものを均(なら)す働きというものが
さあっと起って来るのが、台風であります。

普段にも少しづつ風も吹いているし、波も起っているのですが、
あれは速佐須良姫(はやさすらひめ)のサスル働によって、
地球のストレスが始終少しずつ浄化して行きつつあるのであります。

併し徐々に浄化が行われるだけでは足らんものですから、
ときどき、もっとひどい浄化作用がやって来る事がある訳です。


地球だって人間だって生き物でありますから良く似ているのです。

人間も夏になったら汗が出るでしょう、冬になったら皮膚が乾いてカサカサになる。
地球だってそうなんです。

夏近くなったらじめじめとした雨季が来、
台風をともなう大雨が来て諸方に洪水が起って来たりします。

人間が夏季になると発汗作用が起るように、
夏季には地球の水分が表面へ出て来るのです。

処が冬になると、人間の皮膚の発汗作用が減退して来るのと同じように、
地球も汗をかかんようになり渇水期と云うのを迎えます。

汗をかくと云うのは生きている証拠でありますが、
夏でも心境を涼しくしておったら、やっぱり涼しい感じがして汗をかかん人もあります。

           <感謝合掌 平成26年12月30日 頓首再拝>

[337] 《浄化と時間の経過》
伝統 - 2014年12月31日 (水) 14時35分

ところで地球の生命と人間の生命とは互いに連関しておりますので
地球上に住んでいる人類全体が、汗をかかん様な焦(あせ)らない、静かな、平和な、
心境になっておったら、そう云う天災地変というものも減って来ると云う事になる。

天災地変と言うけれど、
雨が降るのは瀬織津比当ス(せおりつひめのみこと)の御働であり、
地震や火山爆発は速佐須良比刀iはやさすらひめ)の御働であって、
宇宙を浄化し地球を浄化しているのであります。

若し宇宙に斯う云う浄化の働きがなかったら、私たちが《うんこ》でも流したのが、
いつまでもその辺に浮いておって、もう汚くて汚くて、海水浴なんて
できない事になるけれども、

それをちゃんと速佐須良比当ス(はやさすらひめのみこと)が擦(さす)ってくれて
波を起して、「可々(かか)呑(のみ)てむ」というわけで不浄物を「無」の世界に
皆呑み込んでくれるものですから、どんな不浄物を海に流しても
浄化してしまうわけであります。

風呂へ入って皮膚の表面を擦(こす)ると垢(あか)がとれる。
それと同じことが宇宙にもおこなわれる。

此の宇宙浄化の働を神格化して、祓戸四柱の神として、
日本神道ではこれに礼拝し感謝するのであります。それで、


   「祓戸(はらいど)の大神等(おおかみたち)諸々(もろもろ)の
   枉事(まがこと)罪穢れ(つみけがれ)を祓給(はらひたま)へ
   清給(きよめたま)へと申す事の由(よし)を、

   天津神(あまつかみ)国津神(くにつかみ)八百萬(やおよろづ)の
   神等(かみたち)共に天斑駒(あめのふちこま)の耳振立(みみふりたて)て
   聞召(きこしめせ)と畏(かしこ)み畏(かしこ)みも白(まを)す」


天斑駒(あめのふちこま)と云うのは、古事記に、
須佐之男命(すさのおのみこと)が天斑駒を逆剥(さかはぎ)に剥(は)いで、
天照大神が機(はた)を織っておられた所へ投げ込んだと云う事が
書かれているのであります。

此の天斑駒(あめのふちこま)と云うのは、天之“まだらうま”と云うことで
これは“時間”の象徴であります。

あのガソリンに「ペガサス・ガソリン」と云うのがあるでしょう。
あのペガサスと云うのが天を翔(かけ)る馬であって、商標を見ると、
馬に翼(つばさ)がついているでしょう。あれが天斑駒(あめのふちこま)です。

“斑”(ふち)というのは、白と黒との“《ぶち》”のことで、
之は、“昼”と“夜”とを表わしているわけです。
“昼”と“夜”との交代によって幾日経過したかと分る時間の事なんです。

「天馬空を翔る」とか「白駒(はくく)の隙(げき)を過ぎるが如し」――
白い駒が隙間(すきま)を過ぎる様だ」――と云って時間を馬に譬(たと)える
語句があります。

このように支那の喩(たとえ)にも、「時間」を「駒」に譬えているが
日本でも「時間」を「駒」に譬えてりのであります。

此の世界を浄化するためには或る時間が要る。あまり急いだらいかん。
あまり急激に変革しようとして急いだらそれだけ余計激しい変動が起こらなければ
ならないから、悲惨が一層拡大するのであります。

だから徐々に時間の経過をとおして変化させて行く。
これが「天の斑駒(あめのふちこま)の耳振り立てて」であります。


病気でも早く癒(なお)る時には“ケミカライゼーション”即ち“迷いの自壊作用”
と云うものが起って今まで慢性の病気であったのが急激に急性の病気になったりして、
一時的には《ひどく》なってそれで却(かえ)って快(よ)くなると云うことがある。

或は此の社会でも良くしようと思ったら、革命と云うような、激しい事が起ってから、
それで善くなると云うことがある。

中共みたいにわずか数年の間に社会革命を起こして封建制度の世界から、
共産制度の世界を造り上げたと云うような場合には、あの為に、一千万人程度の人が
粛清されて殺されたということですね。

あんな大きな問題は、それ程の大自壊作用を急激に起すことによって、
急速に良くなるのであります。


だからどうしても此の世界を良くしようと思ったら、時間を経(へ)なければならない。

それで「祓ひ給へ清め給へ」と御祈り申し上げたならば、
天の神、地の神、八百万の神様がみんな一緒になって時間をかけて
天地の浄化を徐々にやって頂くように
「天斑駒(あめのふちこま)の耳振りたてて聞召(きこしめ)せ」と祈るのであります。

それは、時間の経過を経なければならないから、
「天斑駒の耳振りたてて」聞いて下さいという表面の意味で、
「聞召せ」と書いてあるけれども、耳で聞くだけではないんです。


大体此の世界の一切のものは言葉で出来ておりますから、
「物を動かす」ことをみんな「聞く」という語で表現することがあるのです。

たとえば、目で見るんだったら、
あの人は「目きき」である、「目ききが鋭い」などと言います。

此の世界は言葉で出来ているんですから鼻でそれを知る場合にも
「あの人は鼻が良く《きく》」というのです。また「香を《きく》」とも云う。

舌が物を言う場合には、「あの人は口《きき》じゃ」と云う。
「味わう」ことを「味を《きく》」とも言いますね。

また腕で実効するのに巧みな人を「あれは腕《きき》だ」と云う。
「手はきかぬが、足は《きく》」と云うことばもある。
兎も角皆実行する事を皆「きく」と云うのです。

是は此の世界の凡てのものは言葉に依(よ)ってつくられているから
それに反応を示すことをすべて「聞く」と云うのであります。

それで「天津神国津神八百萬の神等共に天斑駒の耳振立(みみふりた)てて聞召せ」と、
私たちは、時間の経過をとおして、どうぞ徐々に、あまり激しい自壊作用なしに、
此の世界を光明化して、浄化して下さいませ、と斯う云う風に祈り申し上げる言葉が
禊祓の祝詞なのであります。

これで禊祓いの祝詞は終っているのであります。

              (『生長の家』昭和32年12月・33年2〜3月号)

・・・

以上で、 「禊祓祝詞講義」の謹写を完了いたします。

次回以降は、関連として、『大祓祝詞の私解』を謹写していく予定です。
なおこの『大祓祝詞の私解』は、本流宣言掲示板にて、”童子 さま”により掲示
されておりましたが、今は消滅いたしております。
”童子 さま”のご了承をお願いいたします。


           <感謝合掌 平成26年12月31日 頓首再拝>

[343] 『大祓祝詞(おおはらいのりと)の私解』
伝統 - 2015年01月02日 (金) 06時16分

<大祓祝詞>

高天原に神留生(かむつまりま)す。

神漏岐神漏美命(かむろぎかむろみのみこと)をもちて八百万の神等(かみたち)を
神集えに集い賜い、神議りに議り賜いて、我皇御孫之命(すめみまのみこと)は
豊葦原の瑞穂國を安國と平けく知し食(め)せと事依(よさ)し奉りき。

如此(かく)依(よさ)し奉りし國内(くぬち)に荒振神等(あらぶるかみども)をば
神(かむ)問わしに問わし給い、神掃いに掃い賜いて、語(こと)問いし
磐根樹根立草(いわねきねたちくさ)の垣葉(かきは)をも語(こと)止(や)めて

天の磐座(いわくら)放ち天の八重雲を伊豆の千別(ちわき)に千別て
天降りし依(よさ)し奉りき。

四方(よも)の國中(くになか)と大倭日高見之國(おおやまとひたかみのくに)を
安國(やすくに)と定め奉りて、

下津磐根(したついわね)に宮柱太敷立(みやばしらふとしきた)て
高天原に千木(ちぎ)高(たか)知りて皇御孫之命(すめみまのみこと)の
美頭(みず)の御舎(みあらか)に仕奉りて、

天の御蔭(みかげ)日の御蔭と隠(かくり)坐(ま)して安國と平らけく知らし
食(め)さん國中(くぬち)に、成り出でん天の益人(ますひと)等が、
過犯しけむ雑々(くさぐさ)の罪事は、

天津罪とは畔放(あはなち)、溝埋(みぞうめ)、樋放(ひはなち)、頻蒔(しきまき)、
串刺、生剥(いきはぎ)、逆剥(さかはぎ)、屎戸許々太久(くそへここだく)の罪を
天津罪と、法(の)り別けて、

國津罪(くにつつみ)とは、生膚断(いきはだだち)、死膚断(しにはだだち)、
白人胡久美(しらひとこくみ)、己が母犯せる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、
子と母と犯せる罪、畜(けもの)犯せる罪、昆蟲(はうむし)の災、
高津神(たかつかみ)の災、蓄仆(けものたおし)、蠱物(まじもの)せる罪、
許々太(ここだ)くの罪出でむ。

如此(かく)出でば、天津宮事以ちて、天津金木(あまつかなぎ)を本打切(もとうちき)り、
末打断(すえうちた)ちて、千倉(ちくら)の置座(おきくら)に置き足らわして、
天津菅會(あまつすげそ)を本刈り断ち、末刈り切りて、八針(やはり)に取り辟(さ)きて、

天津祝詞の太祝詞事(ふとのりとごと)を宣(の)れ。

  ・・・

  (注:太祝詞事には、諸説がありますが、
     ここでは、次の「禊祓いの祝詞」を述べることとします)

 【高天原(たかあまはら)に神詰(つま)り坐(ま)す、
  神漏岐(かむろぎ)・神漏美(かむろみ)の命(みこと)以ちて
  皇祖神(すめみおやかむ)伊邪那岐命、筑紫の日向(ひむか)の橘の小門(おと)の
  阿波岐原(あわぎはら)に禊祓いたまう時になりませる祓戸の大神たち、
  諸々の禍事(まがこと)罪穢れを祓い給え、浄め給えと、白(もう)す事の由を、
  天津神、國津神、八百万の神たちと共に天斑駒(あめのふちこま)の耳振り立てて
  聞(きこ)し食(め)せと畏(かしこ)み畏み白す。】

  ・・・

如此乃良(かくのら)ば、天津神は天の磐門(いわと)を押し披(ひら)きて、
天の八重雲(やえぐも)を伊頭(いず)の千別(ちわ)きに聞(きこ)し食(め)さむ。

國津神は高山の末、短山(ひきやま)の末に上り坐して、高山の伊穂理(いほり)、
短山の伊穂理を撥(か)き別けて聞し食さむ。


如此(かく)聞(きこ)し食(め)しては〈皇御孫之命(すめみまのみこと)の朝廷を
始めて〉天下(あめのした)四方(しのえ)の國には、罪と云う罪は在らじと、

科戸(しなど)の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く、
朝(あした)の御霧(みぎり)夕(ゆうべ)の御霧を、朝風夕風の吹き掃う如く、
大津邊(おおつべ)に居る大船を、舳(へ)解き放ちて、大海原に押し放つ事の如く、
彼方(おちかた)の繁木(しげき)が本(もと)を、焼鎌(やきかま)の敏鎌(とがま)
以ちて打掃う事の如く、

遺(のこ)る罪は在らじと祓い給い清め給う事を、高山の末、短山(ひきやま)の末より、
佐久那太理(さくなだり)に落ち多支都(たぎつ)、
速川の瀬に坐す瀬織津比刀iせおりつひめ)と云う神、大海原に持ち出でなむ。

如此持ち出で往なば、荒塩の塩の八百道(やおじ)の、八塩道(やしおじ)の塩の
八百會(やおあい)に坐す速開都比刀iはやあきつひめ)と云う神、
持ち可可(かか)呑みてむ。

如此可可呑みてば、氣吹戸(いぶきど)に坐す氣吹戸主と云う神、
根の國底に氣吹き放ちてむ。

如此氣吹き放ちてば、根の國底の國に坐す速須佐良比唐ニ云う神、
持ち佐須良比失いてむ。如此失いては、罪と云う罪は在らじと、
祓い給い清め給う事を、諸々聞し食せと宣す。


・・・


『大祓祝詞(おおはらいのりと)の私解』

            *『光の泉』(昭和36年10、11月号)より

神社に於いて祓式を行い又は禊祓祝詞をあげましてから、
次にゆっくりと誦げる祝詞が大祓祝詞と言うのであります。

それは本当は六月晦大祓(みなづきつごもりのおおはらい)のときに奏上する祝詞なので
大祓祝詞と言ったのでありますが、神社参拝のとき毎に誦げてもよいのであります。

神道で祭典を執行する時、どの神道諸派でも神霊の前であげることになっており、
言葉の力で罪汚れを消すのであります。
或は「神言(かみこと)」とも言われているのであります。

祝詞の「祝(のり)」は祝うと云う意味ではなく、
支那で神祭りをして神と交通する者の言葉と云う意味であります。

初めの書き出しは禊祓の祝詞も大祓祝詞も同じ事になっております。

           <感謝合掌 平成27年1月2日 頓首再拝>

[347] 『大祓祝詞の私解』A
伝統 - 2015年01月04日 (日) 06時05分

【高天原に神留生(かむつまりま)す。神漏岐神漏美命(かむろぎかむろみのみこと)を
もちて八百万の神等(かみたち)を神集えに集い賜い、神議りに議り賜いて、
我皇御孫之命(すめみまのみこと)は豊葦原の瑞穂國を安國と平けく知し食(め)せと
事依(よさ)し奉りき。】


さてこの祝詞の解釈は十二通りもあると言われておりまして、
その象徴的意味を解釈して行くところの広い解釈もあるのです。

日本的に解釈する場合、世界的に解釈する場合、いろいろの解釈の仕方があるのであります。

皆さんが何処かで祝詞の解釈の本をお読みになりまして、
それと私の言ったことと違っておっても、それは間違っていないのであって、
色々解釈のしようがある。

十二通りと言っても十二種類とハッキリ決まっている訳ではないので、
十二というのは、十二吋(インチ)が一フィートであるというような意味において、
或は一ダースが十二個であると云うような意味において、
十二は完成の数で、無数に色々の解釈があると云う意味であります。

それで、爰には色々の解釈のうちで、単に字句のみの解釈に流れず、
真理の方から観て、一番こう言ったら分り易いだろう、一番真理に近いであろう
と云う様な話をしたいと思うのであります。


 
先ず此処には天孫降臨の事が書かれているのであります。

今時分、天孫降臨などと言いますといかにも封建的みたいで、
時代遅れの逆コースだと批難され、どうも生長の家はあれだから迷信だと
言われそうでありますが、その象徴的意味を解釈して行くことにいたします。

それで天孫と云うのは一体如何なる方を指すものかと言うことになります。
字句を表面から解釈して行きますと、「我(あ)が皇御孫之命(すめみまのみこと)」
とは天照大神様の孫に当られる天孫瓊瓊杵命(ににぎのみこと)でありますが、
もっと深く密義を解釈して行きますと、

この天孫と云う時の”マゴ”は”眞子(まご)”であって
”まことの御子(みこ)”であります。

天から天降ったところの”神の真の御子”が、八百万の神様の決議によって、
何処へ誰それを天降そうと云うので神廷会議〈神さまの庭での協議会〉が開かれまして、
そして愈々天降って来ると云う事になったのです。


ところで皆さんも天孫なのであります。
お祖父さんから数えて孫に当ると言うんじゃないのですよ。

天孫というのは天から天降ったところの「眞子」即ち
「真の神の子」であると云うことであります。
そして、皆さんの体は”豊葦原の水火(瑞穂)の國”である。

”豊葦原の瑞穂の國”と云うのは、皆さんの体は、水と火と、で出来ているから
”水火(みずほ)の國”なのです。

そう言うと変に思われるでしょうけれど、現代の科学がそう言っているのです。

すべての物質は原子が集って出来ていて、その原子は原子核と電子とが集ってできていて、
電子が原子核の周囲を回転している。原子核は陽電気を帯びた微粒子である。
電子は陰電気を帯びた微粒子である。「陰」は「水」であって「陽」は「火」である。

原子そのものが「水」と「火」とが集っている一つの「水火の國」である。
それが沢山集って出来ているのが皆さんの体なんです。
沢山に、葦の茂るように集っているから豊葦原なのであります。

それで皆さんの体が豊葦原の水火國であって、その体に”神の眞子”が天降るのです。
それは八百万の神様の協議によって、此の肉体には、此の”神の眞子”を天降そう
と云う訳で、その神意が産土神(うぶすなのかみ)につたえられ、
産土神の配慮によって皆さんの体に天孫〈神の眞子〉が天降っているのです。

そしてその天降った”神の眞子”たるものは”豊葦原の瑞穂の國”である
自分の体を安國(やすくに)と平けく、穏やかに平和に知ろし食(め)せ
 ―― 治め給えと、その八百万の神の協議によって、皆さんの体に”神の眞子”
なる魂が宿って来て此処に生きているという訳であります。


このように祝詞には人間の實相が書いてある。
そう云うすばらしい言葉が書いてあるから、
此の祝詞を読むと功徳があるということになる訳です。

何の意味か訳の分らぬものを読んでおっては、
それは言葉に内在の意味、〈生命の躍動〉が乏しいので功徳が少ないのですけれども、
訳が解って祝詞を誦げると尚一層功徳がある訳であります。

           <感謝合掌 平成27年1月4日 頓首再拝>

[352] 『大祓祝詞の私解』B
伝統 - 2015年01月06日 (火) 03時27分

【如此(かく)依(よさ)し奉りし國内(くぬち)に荒振神等(あらぶるかみども)をば
神(かむ)問わしに問わし給い、神掃いに掃い賜いて・・・】


ところが、この瑞穂の国に荒振る神がおるんですね。
色々迷える者どもがおるでしょう、皆さんの瑞穂の国にも。

たとえば、金儲けたいとか、バクチを打ちたいとか、
愚連隊のような真似をするものもおるし、太陽族みたいな
荒振る神みたいな野性の心が皆さんの心の中におるでしょう。

水火國即ち肉体には色々の荒ぶる本能や欲望の心がいる。
それは、自分の本心 ―― 〃神の眞子〃の心ではなく、〃神の眞子〃に仕える
番犬たる肉体のシェパードの心であって、是を私は「肉体心」と謂っています。

「肉体」は肉体として自己保存しなければならないから、食欲と云うものもある。
肉体を保持するためには或る物資を必要とするから、所有欲と云うのも
無くてはならんのですね。

また肉体は一代限りであと続かなかったら地上の人類が滅びるから
性欲と云うのも必要になる訳で、これらの欲望は肉体にオートメーション的に
起るようになっている。

それがうまく統制されていないのが所謂る「荒振る神」であります。

統制されて正しく整理されたら荒びていないのであって、
ちゃんと秩序整然となるのであります。

それでこの祝詞には、
「瑞穂の國の國内に荒振神等を神問わしに問わし給い神掃いに掃い賜いて」と
あるのであります。

「問う」と云うのは、検討することであります。

「お前は正しきものなりや、悪しきものなりや。お前の要求はそれで正しいか。
どの程度までは正しいけれども、それを越えるときは正しくならんぞ」と
云う様に色々と尋問をして、

そして追い掃うべき不適当なものは追払ってしまって、
愚連隊の追放、太陽族の追放と云うようにですね。

心の中の愚連隊やら太陽族を検討し、不適当なものを追放してしまう必要がある
訳ですから、「神掃いに掃い賜い」と書いてあるのであります。

           <感謝合掌 平成27年1月6日 頓首再拝>

[358] 『大祓祝詞の私解』C
伝統 - 2015年01月08日 (木) 08時36分

【語(こと)問いし磐根樹根立草(いわねきねたちくさ)の垣葉(かきは)をも
語(こと)止(や)めて】



「語問いし」と言うのは、議論を吹きかけたり、言葉で問をしかけることですね。

それで「磐根樹根立草の垣葉をも語止めて」 ―― 岩の根元やら、樹の根元や、
そんな下の方に隠れておって、そんな陰の方の暗い所におって、
風にそよぐ垣根草のように色々と屁理屈を言っている、

そういうものもみんな屁理屈で反抗することを止めて、天降って来る
〃神の眞子〃たる魂に帰順しなければならぬのであります。

「磐根樹根立草」は「岩根、樹立(このたち)、草の垣葉」と読む人もあります。
「立草」とつづけないで、「樹立(こだち)」とつづけたのであります。

           <感謝合掌 平成27年1月8日 頓首再拝>

[362] 『大祓祝詞の私解』D
伝統 - 2015年01月10日 (土) 05時08分

【天の磐座(いわくら)放ち天の八重雲を伊豆の千別(ちわき)に千別て
天降りし依(よさ)し奉りき。】


肉体と云う水火國のメンバーが反乱を起して立ちさわいでいたのが鎮まった其の時に
いよいよ本当に〃神の眞子〃の降臨があるのであります。

これは、〃第二の誕生〃とでも言うべきものでありまして
本当の蘇生(よみがえり)と云うものであります。

それは母の胎内から〃オギャァ〃と生まれたときに
〃神の眞子〃たる天孫は天降っているのですけれども、
それを自覚して、不統一に反乱状態にある肉体の本能や物質的欲望が世居るされ
統一されるまでは、本当に「生れ変り」ということは起らないのであります。

キリスト教的に言うなら、キリストの霊によって洗礼を受けた時に、
はじめて真の〃生れ変り〃 ―― 新生と云うものが起って来るのです。

もっともキリストと云うものは、皆さんの中にある処の「神性」そのものが
キリストなんですけれども、それを自覚しない間は、
本当に〃神の眞子〃が天降っているのではない。

自己の神性を自覚しないで迷いによって絶縁体が出来ておって、絶縁体があるから、
折角、神性が天降っていても、全身に神性の電流が通じない。
それで肉体が内在のキリストと云うものとぴたっと一つになれないのであります。

〃神の眞子〃は神道的に謂うなら「天孫」であり、
キリスト教的に謂うなら「内在のキリスト」だけれど、
仏教的に謂うたら「仏性」ですね。

内在の仏性、〃本来ホトケなるもの〃〃自己に宿る尊(みこと)なるもの〃
〃天孫なるもの〃であります。

肉体の欲望の荒ぶる神々が平定されないうちは、自分のうちに宿っているところの
此の〃天孫なるもの〃の統治が完全に行われない。

それは迷いによって隔たっているからであります。

その迷いの愚連隊や太陽族を皆追い払って、屁理屈を言う奴がみんな語(こと)止めて、
屁理屈を言わん様になってはじめて悟りを開いた時に、その時に實相の〃神の眞子〃が
真実にその肉体に君臨するのであります。


「天の磐座放ち」の「天」と云うのは、高次の存在である實相の世界であり、
「磐座」と云うのは、磐のように堅く砕けないと云う意味で、
「座」と云うのは「御座所(みくらどころ)」であります。

實相世界の金剛不壊の座から現象世界に降りて来られるのが、
「磐座放ち」で、「天の八重雲を厳々(いずいず)しくかき別けかき別けして」
真実の〃神の子〃が天降って肉体を全領せられることになると云うのであります。

これは形容句によって、悟りによって完全に「神の眞子」たる實相があらわれて
愈々此の肉体を治め給うことになることを言うのです。

           <感謝合掌 平成27年1月10日 頓首再拝>

[366] 『大祓祝詞の私解』E
伝統 - 2015年01月12日 (月) 06時40分

【四方(よも)の國中(くになか)と大倭日高見之國(おおやまとひたかみのくに)を
安國(やすくに)と定め奉りて、】


これを国家的に解釈しますと、大倭日高見之國と云うのは
日本の国と云う事になるのですけれども、

唯今皆さんの体に〃神の眞子〃が天降って来る自覚としての解釈を
しているのでありますから、吾々の生命に第二の誕生、自覚の一新、蘇生(よみがえり)、
或は〃新しく生れる〃という事が起こりまして、
初めて、吾々の身体が大倭日高見之國となるのであります。

「大倭(おおやまと)」とは大いに和合していること、大調和していることで、
「日高見」とは、日が高く昇って、いよいよ光明輝く健康なる世界に
この自分の全身がなると言うことであります。

そうなりますと、


【下津磐根(したついわね)に宮柱太敷立(みやばしらふとしきた)て
高天原に千木(ちぎ)高(たか)知りて皇御孫之命(すめみまのみこと)の
美頭(みず)の御舎(みあらか)に仕奉りて、】


と云うわけで、皇御孫之命即ち〃神の眞子〃の命がここに宿るところの
宮の柱がしっかりと建つことになります。

この「肉体」が即ち「神の宮」である。
その神の宮としてこの肉体を物質の基礎の上にではなく、
しっかりと實相の砕けない下津磐根に建てるのであります。

吾々は迷いの心で、この身体を物質的基礎の上に建ててはならない。
また時々変化する医学の学説などの上に建ててもならない。

實相の砕けない所の金剛不壊の下津磐根にこの神の宮なる肉体の、
依って立つ信念の柱を建てて、それで高天原即ち「大宇宙」に千木高知りて、
荘厳きわまりなき神人一体の人体を建てなければならない、と云うのであります。


「千木」と云うのは、あの社(やしろ)の屋根の上に切り棟の端の材を
棟の角より組み合わせて空につき出して立っている木ですけれども、
これは「智木(ちぎ)」即ち叡智の木が高く聳えてるのに喩えてある。

このように立派な〃神の眞子〃のお宮にまで此の肉体をしなければならぬのです。
それが「皇御孫之命の美頭の御舎に仕え奉りて」であります。

「美頭の御舎」とは、「瑞々(みずみず)しく美しい神の宮」と云うことです。


           <感謝合掌 平成27年1月12日 頓首再拝>

[370] 『大祓祝詞の私解』F
伝統 - 2015年01月14日 (水) 03時35分

【天の御蔭(みかげ)日の御蔭と隠(かくり)坐(ま)して安國と平らけく
知らし食(め)さん國中(くぬち)に、成り出でん天の益人(ますひと)等が、】


しかし、この神の宮なる肉体がどんなに瑞々しく美しく健康な神の宮となりましても、
「これは、わしが偉いから、悟りを開いたから、此の肉体がこのように立派になったのだ」
なんて高慢な考えを起したらいかんと云うことが書いてあるのであります。

「天の御蔭日の御蔭と隠れ」なければならない。
「天の御蔭」即ちおてんとうさまのおかげである。

「日の御蔭」お日様のお蔭、神様の御蔭であると自分の功をあらわさずに隠りまして、
はじめてこの国が平和に、すこやかに、安国と平けく治(しろ)しめすことができるのです。
住む人の心が謙った時に、はじめて此の世界も、此の肉体も「安国」となるのであります。


これは、今は体にたとえて説いているのですけれども、
世界でも日本の国でも同じ事なのであります。
世界が治まる原理の同じ事で、それが此の祝詞に書いてあるのです。

これは今、肉体を〃神の眞子〃なる生命の宿った一つの国と観て話をしている訳です。
これを「日本の国」として説くこともできますが、今それを説きますと、
封建的だというように考えられて誤解を受ける。

それは、じっくり良く話すと、解って頂けるのですけれども、
今は時間がありませんから、その様なことには触れないで、
「肉体」を一つの国として話をしているのです。

 
それで、

【安國と平けく所知(しろし)食(め)さむ國内(くぬち)に成り出でむ
天の益人等が過犯しけむ雑々(くさぐさ)の罪事は、・・・・】


とありますが、「天の益人」とは、皆さんが、天の益人です。
これを人口増加に連関して説明する人もある。
日本民族は繁殖力が旺盛で非常に増えるから、「ます〈増す〉人」と云うのです。

もう日本の総人口は九千万になったと言うことですが、いくら産児制限をしても、
天意によって増えるから、「天のます人」である。

「天の増す人」は人口だけではなく、天の恵みの増す人であり、
能力も増すし、経済力も、いくらでも無限に増すところの内在の力をもっているのです。

吾々の能力と云うものや、人格の高さと云うものは、
幾らでも無限に増してゆくものであって、これで行詰りと云うことがない。
だから、「天の益人」と云うのは、必ずしもまだ完成していない。

實相の無限の完全さが現象世界に完成するには、無限の時間がかかるのであります。

實相に無限があっても、現象世界にそれが実現するのは時間を追うて完成してゆきますから、
その途中にいろいろの不完全があらわれるのも無理がありません。

不完全があらわれなが段々と、その罪が除かれて、それが完成の材料になって
進展してゆくのであります。


それで「天の益人等が過ち犯しけむ雑々の罪事」には色々あるが、
それは、大別すれば天津罪と國津罪とに別けることができると云うので、
次の如く、先ず天津罪として列挙しているのです。

           <感謝合掌 平成27年1月14日 頓首再拝>

[375] 『大祓祝詞の私解』G
伝統 - 2015年01月16日 (金) 04時45分

*前回の『大祓祝詞の私解』Fは、当方のミスで『大祓祝詞の私解』Eと重複して
 おりましたので、正しい内容へと差し替えを行ないました。お詫び申し上げます。

・・・

【天津罪とは畔放(あはなち)、溝埋(みぞうめ)、樋放(ひはなち)、
頻蒔(しきまき)、串刺、生剥(いきはぎ)、逆剥(さかはぎ)、
屎戸許々太久(くそへここだく)の罪を天津罪と、法(の)り別けて、】


これらの罪は、須佐男命が天照大神が機織(はたおり)の部屋へ
天の斑駒(ふちこま)の皮を逆剥に剥いで、血みどろのものを投げ込んで
そこへ乱入をして、「屎まり散らして」色々許々太久〈たくさん〉の罪を犯したとまあ、
そう云う風に古事記に書かれているのが引用されているのですね。

 
「畔放(あはなち)」と云うのは田圃の畔を放つ、これは一つの解釈である。
畔というのは日本の土地は傾斜面が多いですから、耕地が少ないので
一々段ばたけを拵えて、水が流れ出ない様にし、又その下に段ばたけを
拵えて水を溜めておくのです。

そういう風になって水田が出来ているけれど、畔を切り放ってしまったら
水が流れ出てしまって、そこが乾燥してしまって稲が枯れてしまう。
だから斯ういう働きをするのがいかんと云うのが字句そのままの解釈であります。

 
併し密義を解釈しますと、「ア放ち」の「ア」は、光という意味で
〈阿字は大日如来の實相である〉「ア放ち」は「光を放つ」ことで、
「光を放つ法則を破る」のが「畔放ち」の罪であります。

つまり、自己に宿る光を放たない者は天津罪を犯しているのであります。


次に「溝埋め」の罪でありますが、田畑には溝があって、
其処から水を引かねばならんのに、溝を埋めて水利を妨害する罪であります。

これは表面の解釈でありますが、密義は、空虚を埋めなければならない。
富める者は貧しき者に与えなければならない、これが法則でありますのに、
その法則に背く者が、「溝埋め」の罪を犯したことになるのであります。


それから「頻蒔(しきまき)」と云うのは、あんまり沢山種子を蒔くと、
密生し過ぎて日光を受けることができない。薄蒔法と云う農作法があって、
沢山収穫出来ることが判っています。

肥料の上から言っても、あんまり沢山蒔くと養分を互に奪い合いして、
雑草みたいに沢山生えるだけで、実りが少ないと云う事になる。

これは表面の解釈でありますが、
密義は乱倫乱交によって**の種を蒔き過ぎる性的犯罪であります。


「串刺」と云うのは斎串(いみぐし)と云うのを田畑の境界に立てて、
所有地の争いをすることでありますが、

〃クシサシ〃は〃カクシサガシ〃であって宇宙の神秘を探し求めることであって、
それによって人間が進歩する。
それをしないことが〃クシサシ〃の罪を犯したと云うことになるのであります。


それから「生剥(いきはぎ)」と云うのは生きているものを殺して皮を剥ぐこと。
「逆剥(さかはぎ)」と云うのは、逃れようとする動物をその意志に逆らって
生命を奪うことであります。

が、これも表面の解釈でありまして、
「生剥」は「生命の原理の探求」であり、
「逆剥」とは、「栄える原理の探求」と云うことで、

真理発表の努力をすることで、それをしないことが、
「生剥」「逆剥」の罪を犯したことになるのであって、
「屎戸(くそへ)」と云うのは祭殿を汚物でけがすことです。

即ち人体は神の宮であって一種の祭殿である。
その人体を汚れた快楽で汚すことであります。


天津罪とは表面は概ね、農耕に関する罪のようですけれども、
農耕の問題なら「天の罪」ではない筈です。
天津罪というのは霊的な罪であります。

その人の魂の発達を妨害する諸々の罪を云うのであって、
溝を埋めるとか畔を放つとか云う地上の問題だったら、
むしろ國津罪(くにつつみ)の方に入るべきものであります。

           <感謝合掌 平成27年1月16日 頓首再拝>

[384] 『大祓祝詞の私解』H
伝統 - 2015年01月18日 (日) 06時29分



【國津罪(くにつつみ)とは、生膚断(いきはだだち)、死膚断(しにはだだち)、
白人胡久美(しらひとこくみ)、己が母犯せる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、
子と母と犯せる罪、畜(けもの)犯せる罪、昆蟲(はうむし)の災、

高津神(たかつかみ)の災、蓄仆(けものたおし)、蠱物(まじもの)せる罪、
許々太(ここだ)くの罪出でむ。】



罪を天津罪と國津罪とに分類しまして、
天津罪をば、より一層‘天的’な〈霊的な〉罪を指し、
國津罪をば、より一層‘地的’な〈肉体的な社会的な〉罪を配したのであります。

生膚断というのは生きた生きている皮膚を傷つけることで、
死膚断というのは、死体の皮膚を傷つけることであります。
これは必ずしも自分の皮膚、他人の皮膚の区別はないのであります。

孝経に「身体髪膚これを父母に享く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり」とありますが、
古代の日本民族は、自分の皮膚を傷つけることも、他人の皮膚を傷つけることも、
いずれもこれを罪悪としたのであります。

無論、死骸の皮膚を傷つけてその皮を鞣し革にするが如きは罪悪でありますが、
もっと深い密義に解釈しますと、

この生き膚断ちというのは、生きている人と人との接触を断つという
人間関係に於ける罪をも謂うのであります。

人と人とが互に仲よく交わるということは善徳でありますが、
人と人との人間関係を断つと謂うのは國津罪なのであります。


死膚断と謂うのは、死者との人間関係を断つということで、
これが罪であるというのであります。

肉体は死んでも霊魂は死なない。
随ってそれらの霊魂との交通を断ち切って、
祖先の霊魂を祭祀しないことは国津罪であるというのであります。


白人胡久美は、表面の解釈では〃白人(はくじん)〃と〃胡久美(こくみ)〃とに分け、
白人(しらひと)は、全身が〃白なまず〃のようになる所謂る〃白子(しらこ)〃を指す
のであり、〃胡久美〃はコブやイボの如き贅肉を指すのだということになっております。

これは自分がそんなに醜い〃白子〃になろうと思ったり、
コブやイボをこしらえたりしようと思って造ったものでない。

謂わば、是は病気でありますのに、その「病気に罹ること」その事を國津罪として
罪悪に数えるのは少々酷な訳でありますが、爰にも日本古代民族の病気に対する考え方が
あらわれているのであります。

即ち〃白子〃になったりコブやイボが出来たりするのは
自分が罪を犯したことの顕れであるとして反省したのであります。

白人胡久美の密教的な意義は、〃白日床組(しらひとこくみ)〃であります。
白日の下に、白昼男女が床を組んで性交をする如きを古代民族は忌み嫌って
國津罪の中に数えたのであります。

現代では〃温泉マーク〃の連れ込み宿に、男女がインスタントに欲望を満足する例が
殖えて来たということですが、これなどは、さしずめ〃白人胡久美〃〈白日床組〉の
罪を犯すものであります。


「己が母犯せる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪」は、
自分の母を**(確認後掲載)し、自分の娘を犯し、母と娘と両方とを**(確認後掲載)する、
又は己が娘を通じておいて更に己が母とも相通ずる。

これらはすべて現代でも罪悪とせられておりますが、古代民族の穴居生活に近い狭い
住居の中で年頃の男女が肉体を接近させて眠っていたりするとこのような過ちを
犯し易い立場にあったでしょうし、人口が乏しい時代のことで、一族以外に配偶を
求めることが困難であることも、このような罪を犯し易かったと思われるのであります。

だからこれを國津罪にかぞえて、
そのような過ちを犯すことを厳(げん)に警戒したのであります。

 
「蓄犯せる罪」というのも人口の乏しい時代に、家族同士の性関係を禁じられると、
犬**(確認後掲載)(いぬたわけ)、牛**(確認後掲載)(うしたわけ)、鶏**(確認後掲載)(とりたわけ)などと言って、
他の動物を性交の道具に使う機会も多かったので、

これも國津罪の一種としていましめたのでありますが、
これは文字にあらわれた表面の解釈でありますが、


更に密義を解けば、

いかに家長であっても、母には母の天分や個性があり、
子には子としてそれぞれの天分や個性があるのであって、
その天分や個性の自由を束縛したりすることは、神の御心に反するのであるから、
それを家長が自分の権力をもって犯于するのは国津罪であるというのであります。

この点から謂えば、
日本の古代民族は大変に民主主義的性格をもっていたと言えるのであります。

           <感謝合掌 平成27年1月18日 頓首再拝>

[388] 『大祓祝詞の私解』I
伝統 - 2015年01月20日 (火) 03時20分

次に「昆蟲(はうむし)の災」というのは害虫による農作物の被害や、
蚊、蚤その他の吸血虫にる災などを指すのでありまして、
これは昆虫の方が犯罪者であって、

蚊などに螫(さ)された人間の方が被害者であって、
罪は無いように見えておりますけれども、実は、蚊や蚤に螫されたり、
害虫が跋扈して作物に害を与えたりするのは、こちら〈人間〉の心の持ち方に
間違いがあるからで、

今、福島県にいられる遠藤義雄氏が海南島の司政官として多くの大陸人の
虐殺を指揮したという容疑で死刑囚の監房に収容せられていたとき、
偶々『生命の實相』第六巻と『甘露の法雨』を鉛筆書きで写したのを得、
それを読んで、心機一転して神想観を実修していると、

蚊が全身に胡麻を撒いたようにとまっていても一匹も螫さず、
ベッドの南京虫は行列をして集団移動を開始して、遠藤氏のベッドには
南京虫は一匹もいなくなった如きは、

これら「昆虫の災」が、昆虫それ自体にあるのではなく、
人間側の「心の間違」にあることが明らかであります。

即ち、自分の心の持ち方で、昆虫が近づいて来たり、
遠ざかって行ったりするのであります。
だからこれら昆虫の災も、人間の犯せる國津罪として数えられているのであります。

《※註:遠藤義雄著『真理は死刑の鎖も断つ』
(日本教文社 37年初版)があります》


「高津神の災、高津鳥の災」の、高津神というのは、
霊界の諸霊及び天狗界の霊などを謂うのであります。

「天狗に子供をさらわれる」などと謂う実例は未開時代には随分あったらしい
のであり、また先祖の霊を祀らないために、先祖の霊がまよっていて、
それが救われたいために病気を起している実例も随分あります。

先日も札幌の講習会にまいりましたら、外飜足(がいほんそく)の子供で、
両脚が膝のところを中心にX状に両足が飜転してヒョコヒョコと千鳥足で
あるく子供がありましたが、

医者が「これは骨を削りとって整復しなければ真直にならぬ」と手術の準備を
していたのですが、祖先を祀って聖経『甘露の法雨』を誦すると、
その子供が「僕はもう真直ぐ歩けるよ、ほら手術はいらないよ」と言って

突然、真直に歩き出し、その年にはランニングで二等賞を得、
その翌々年にはランニングで一等賞を得たというような体験の発表がありましたが、

これなどは高津神即ち、自分よりも「高き先祖の神霊」の災が癒された実例であって、
そのような災を受けるのは、こちらが先祖に対して報恩感謝の念が足りない
からであります。

「高津鳥」というのは空を飛ぶ鳥であります。

ユダヤ人が最初、エホバ神より什一献金を神におさめるよう定められ、
それを実践している間は富んでいたが、自分たちが富むのはユダヤ人自身が
知能にすぐれているからであって、何も神のオカゲではないと判断し、

什一献金をやめたところが、どこからともなく幾百億匹のイナゴの大軍が
天日を覆うて真暗になるほど飛んで来て、全ユダヤの作物の上に降り、
またたく間にその作物を食いつくして、雲と霞と飛び去ったというようなことが
旧約聖書に書いてあるのでありますが、

イナゴは昆虫でありますが、こんなに大軍が天日を覆うほどにやって来て
害を与えるのは、「高津鳥の災」とみてもよいのであります。

また鳥や雀が飛んで来て作物をあらすのも「高津鳥の災」でありまして、
これは害を与えるのは鳥の方でありますけれども、

「一切万事自分の心に随って招び寄せられる」という心の法則から見れば、
これも、人間自身の罪だと言わなければならないので國津罪の中に入れられて
いるのであります。


「蓄仆(けものたお)し、蠱物(まじもの)せる罪」と言うのは、
隣地の人の所有せる家畜について妬みの念を起し、
それを禁厭(まじない)によって仆すなどの罪を言います。

まだまだ挙げれば〃罪は沢山ある〃というので
「許々太久(ここだく)の罪出でむ」と書かれているのであります。


           <感謝合掌 平成27年1月20日 頓首再拝>

[393] 『大祓祝詞の私解』J
伝統 - 2015年01月22日 (木) 03時22分


【如此(かく)出でば、天津宮事以ちて、天津金木(あまつかなぎ)を
本打切(もとうちき)り、末打断(すえうちた)ちて、千倉(ちくら)の
置座(おきくら)に置き足らわして、天津菅會(あまつすげそ)を本刈り断ち、
末刈り切りて、八針(やはり)に取り辟(さ)きて、天津祝詞の太祝詞事(ふとのりとごと)
を宣(の)れ。

如此乃良(かくのら)ば、天津神は天の磐門(いわと)を押し披(ひら)きて、
天の八重雲(やえぐも)を伊頭(いず)の千別(ちわ)きに聞(きこ)し食(め)さむ。

國津神は高山の末、短山(ひきやま)の末に上り坐して、高山の伊穂理(いほり)、
短山の伊穂理を撥(か)き別けて聞し食さむ。】



このような色々の天津罪や國津罪があらわれて来ましたならばどうしたらよいかと言えば、
「高津宮事以ちて」というのは「天津神を祭祀してあるお宮に儀式を取り行って」と
いう意味であります。

「天津金木を本打ち断ちて」というのは、宮中の儀式の場合の祝詞には、
「天津金木」の前句に「大中臣(おおなかとみ)」という文字があり、
「大中臣天津金木を・・・・」となっているのであります。

凡そ宮中で、祭祀(まつり)の祝詞は大殿祭(おおとのまつり)及び、
御門祭(みかどまつり)の際には、斎部氏(いむべうじ)が祝詞をのべられるのであって、
他の諸々の祭にあたっては中臣氏が祝詞を奏上する例になっていたのであります。

だから大祓の際には、中臣氏が祝詞を奏上するのが慣わしでありますが、
「天津金木を本打切り末打切り・・・・」するのに、天津祝詞をこれから中臣氏がのべる
準備の儀式であります。


「天津金木」と謂うのは「天授の神木」の堅緻で硬い木でありますから
「金木」と云ったものであります。

八卦占いに用いる「算木」という四角な堅木がありますが、
この算木の前進が「天津金木」なのであって、この金木に現在累積せる業又は罪の展開
としての色々の〃象(しょう)〃があらわれるのであります。

この天津金木の前端と後端とを切り揃えることが「本打切り、末打断ちて」であります。
そしてそれを「千倉置座」に安置するのであります。

「千倉置座(ちくらのおきくら)」とは須佐之男命が天斑駒(あめのふちこま)を
逆(さか)剥ぎに剥ぎて天照大御神の服織(はたおり)の室(へや)に投げ入れられたり
して乱暴をはたらかせた等・・・・の罪の報いを背負わされて追放せられたときに

「速須佐之男命に、千位置戸(ちくらのおきど)を負わせ」とある其の
「千位置戸(ちくらのおきど)」と同じく、罪業のあらわれたものを
沢山のせる台であります。

 
即ち「天津金木」には過去の罪業が〃象(しょう)〃として色々沢山にあらわれている
それを置く台が「千座(ちくら)の置座(おきくら)」でありまして、
その台に、「たくさん置き並べる」ことが「置き足らわして」であります。


「天津菅會(あまつすげそ)」というのは神聖なる「菅の葉」のことであります。
これは八卦占いの筮竹の前進だと言われています。

〃数よみ〃をする道具とするために菅の葉の繊維を揃えて両端を打切るので、
このことを「本刈り断ち、末刈り切り」と表現してあるのであります。

八卦でありますから、菅の葉を八つに割き、更に八つに割いて、
六十四卦をつくり出すのであります。

菅の葉を割く際に針を刺して本から末へ引くと、
その葉の繊維がきれいに繊維に分れるのであります。

 
さて準備が斯(こ)うして整うと、
「天津祝詞の太祝詞を宣れ」ということになるのであります。

爰で、中臣氏が吹(つぎ)の如く、朗々と天津祝詞の太祝詞〈太(ふと)は美称。
禊祓いの祝詞のこと〉を宣べることになるのであります。

吾々が大祓式をとり行うときには中臣氏ならぬ特定の祭司が次の禊祓いの祝詞を
朗々と宣べるのがよろしいのです。 ――


           <感謝合掌 平成27年1月22日 頓首再拝>

[397] 『大祓祝詞の私解』K
伝統 - 2015年01月24日 (土) 04時35分

『大祓祝詞の私解』Jまでが、
”童子 さま”により本流宣言掲示板にて掲示されておりましたものです。

以降につきましては、”童子 さま”のブログからの転写となります。
”童子 さま”のご了承をお願いいたします。

・・・

【高天原(たかあまはら)に神詰(つま)り坐(ま)す、
神漏岐(かむろぎ)・神漏美(かむろみ)の命(みこと)以ちて
皇祖神(すめみおやかむ)伊邪那岐命、筑紫の日向(ひむか)の橘の小門(おと)の
阿波岐原(あわぎはら)に禊祓いたまう時になりませる祓戸の大神たち、
諸々の禍事(まがこと)罪穢れを祓い給え、浄め給えと、白(もう)す事の由を、
天津神、國津神、八百万の神たちと共に天斑駒(あめのふちこま)の耳振り立てて
聞(きこ)し食(め)せと畏(かしこ)み畏み白す。】


このように祭官(さいかん)が朗々と天津祝詞を奏上いたしますと、
祓戸四柱の神々をはじめ天津神國津神、八百万神がそれを聞し食して
宇宙浄化のおはたらきを執行して下さることになるのであります。

「伊頭(いず)の千別きに別きて」の「伊頭」は「厳(いず)」であり、厳々しく、
荘厳に天空の八重に重なる雲を、数多くかき別けかきわけて活動して下さることに
なるのであります。


「聞(きこ)し食(め)す」という語(ことば)がありますが、
これは耳で聞くだけではなく、「活動し給う」という意味であります。

「眼がきく」「耳がきく」「鼻がきく」「舌がきく」「腕がきく」などと言いまして、
それぞれの器官が活動することを「聞く」というのであります。

これらの全部の意味を包容する漢字がないので、
「聞く」という聴覚に関する文字を使ったのであります。

(http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/22925080.html)

           <感謝合掌 平成27年1月24日 頓首再拝>

[410] 『大祓祝詞の私解』L
伝統 - 2015年01月28日 (水) 03時16分


【如此(かく)聞(きこ)し食(め)しては〈皇御孫之命(すめみまのみこと)の
朝廷を始めて〉天下(あめのした)四方(しのえ)の國には、罪と云う罪は在らじと、
科戸(しなど)の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く、朝(あした)の御霧(みぎり)
夕(ゆうべ)の御霧を、朝風夕風の吹き掃う如く、大津邊(おおつべ)に居る大船を、
舳(へ)解き放ちて、大海原に押し放つ事の如く、

彼方(おちかた)の繁木(しげき)が本(もと)を、焼鎌(やきかま)の
敏鎌(とがま)以ちて打掃う事の如く、

遺(のこ)る罪は在らじと祓い給い清め給う事を、高山の末、短山(ひきやま)の末より、
佐久那太理(さくなだり)に落ち多支都(たぎつ)、速川の瀬に坐す
瀬織津比刀iせおりつひめ)と云う神、大海原に持ち出でなむ。

如此持ち出で往なば、荒塩の塩の八百道(やおじ)の、
八塩道(やしおじ)の塩の八百會(やおあい)
に坐す速開都比刀iはやあきつひめ)と云う神、持ち可可(かか)呑みてむ。

如此可可呑みてば、氣吹戸(いぶきど)に坐す氣吹戸主と云う神、
根の國底に氣吹き放ちてむ。

如此氣吹き放ちてば、根の國底の國に坐す速須佐良比唐ニ云う神、
持ち佐須良比失いてむ。如此失いては、罪と云う罪は在らじと、祓い給い清め給う事を、
諸々聞し食せと宣す。】



括弧の内の〈皇御孫之命の朝廷を始めて〉は、宮中の儀式の際に唱えるので、
民間の大祓式には普通となえないことになっております。 

古代の日本人は罪と云うものは実在ではなく、
キリストが「汝の罪赦されたり、起ちて歩め」という〃言葉の力〃で罪を消去せられた
ように、天津祝詞(あまつのりと)の言葉の力にて宇宙の浄化力が働き出して、

罪と云う罪は、恰も、風を司る神なる科戸彦命(しなどひこのみこと)が風を吹かせて、
大空を幾重にもかかる叢雲を吹き放つが如く、朝の霧、夕べの霧を、朝風夕風が吹き掃う
ように、宇宙の浄化力が浄めて下さると云うのであります。

また〃大津邊(おおつべ)〃 即ち〃大きな湊〃のあたりにつないである大きな船の
舳の綱を解き放ち、艫綱を解き放って、船を大海に押し出すように、罪と云う罪を
海の彼方へ押し流してしまうのであり、

また高熱をもって鍛造し、焼入を完了した敏(と)き切れ味の鎌をもって、
彼方の繁みの樹々の下枝を打掃うように、どんな小さな罪も遺る罪はないように
切り祓い給うと高き山の彼方、低き山の果より、サクサクと那太理(なだれ)のように
落ちた水は滝壷で湧き多支津(たぎつ)で白い飛沫をあげる。

そうすると、瀬の速い川の瀬としてあらわれている宇宙浄化の神なる
〃瀬織津比刀iせおりつひめ)〃と云う神の御はたらきによって、
その切り払われ那太理(なだれ)となって滝壷におちた罪と云う罪は大海原に
流し出されるのであります。

このようにして大海原に流し出された罪と云う罪は、
荒海の無数の潮の流れが萬ず皆相会する一点にましますところの
速開都比刀iはやあきつひめ)と云う神にゆだねられる。

すると、その神は罪を可可(ガブガブ)と呑みほして、
それを下界の根の國底に到る道に排泄する。

すると、その根の國底の國に到る途中に「風輪(ふうりん)」がある。
順序は多少異なるが、仏教で説く、地水火風空(ちすいかふうくう)の五輪のうちの
「風輪」に当たるところの世界があって、

其処を司る宇宙浄化のハタラキが氣吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)と云うことに
なっているのであります。

その氣吹戸主神が〃氣吹き〃即ち〃風輪〃のハタラキによって罪と云う罪を
氣吹き祓い給いまして、それを根の國底の國即ち一切の「根底の世界」
「根元の世界」〈實相世界〉にその罪が吹き祓われて行きますと、

實相世界には常に常楽の波動又は振動が霊妙な響きをたてていて、
その霊妙な響き又は振動によって、一切の罪と云う罪を消滅せしめられるのであります。

其の事を「佐須良比(さすらい)失いてむ」というのであります。
「佐須良比」とは「擦(さす)る」「マッサージ」するということで、
按摩するように實相世界の浄楽の気持のよい振動を与えると、
一切の不純な心の凝り〈心でつかんでいる罪というの〉が、
按摩によって肩の凝りや筋肉の痛みがほぐれて消え去るように消えてしまう、
即ち「失いてむ」となるのであります。

こうして罪という罪悉くが「失いてば」罪と云う罪はもう全然消滅して何処にも存在しない。

そのようにして、祓戸四柱神なる瀬織津姫神、速開都姫神、氣吹主神及び速佐須良姫神が、
禊祓いの祝詞の〃言葉の力〃に感応し給うて、神々が皆ともに宇宙浄化におはたらき
下さるのであるから、それを心を浄めて聞き給えと爰に宣言すると云う意味であります。

                           (完)

              谷口雅春師 『光の泉』 36年10、11月号

・・・

以上で、『大祓祝詞の私解』の紹介は完了いたしました。

『大祓祝詞の私解』は、”童子 さま”が本流宣言掲示板に掲載されておりましたものと
”童子 さま”のブログに掲載されておりますものから転写させていただきました。

”童子 さま”に心より感謝申し上げます。

           <感謝合掌 平成27年1月28日 頓首再拝>



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