[319] 「禊祓祝詞講義」 『大祓祝詞の私解』 |
- 伝統 - 2014年12月26日 (金) 20時42分
*「実相と現象」(P189〜227)より
《洗礼と禊(みそぎ)ということ》
今日は私の住んでいる処の氏神様のお祭の日であります。 氏神様と普通言うけれども、本当は、「産土の神」と云うのが正しいのです。 所謂る「鎮守のお宮」であります。
そのお宮のお祭の日でありますので、祝詞の講義をしようと思います。
何処の神社でも祭典の時には、祝詞(のりと)というのをあげるのであります。 先ず「天津祝詞(あまつのりと)」或は「禊祓之(みそぎはらいの)祝詞」と いうのをあげます。
この祝詞というのは日本の民族が何時(いつ)の時代にこれを作ったのかはっきり判らんので ありますけれども、従ってこれは日本の古代の民族が、誰いうとなしにこういうものが 出来て来て、自然と民族の叫びとして祝詞というものが現れてきたんだと言うことが 出来るのであります。 日本民族が、魂の底から信じておったところの信念がこの祝詞に結晶されているのであります。 丁度『古事記』の中に、日本民族の魂が表現されているというのと同じように、 この祝詞にも日本民族の民族精神が表現されているのであります。
如何に日本人が神を観たかと云う事は、この祝詞を読めば判るのであります。
大体此の「禊祓之祝詞」の、「禊(みそぎ)」又は「身滌(みそぎ)」と云う事は どういう事であるかといいますと、身を殺(そ)ぐと云うことであります。 殺ぐというのは、鉛筆でも削る様に削ることを殺(そ)ぐと言います。
戦争中には禊といって、よく水を被(かぶ)ったように、 「水灌(みずそそ)ぐ」と云う意味にも「ミソギ」は通ずるものでありますが、 禊というのは、体っていうものを吾々は普通《ある》と思うのですけれども、 これは一つの迷いの観念であるから、この体は無いものであると剝(そ)いで削って 除(と)ってしまうというのが、これが「みそぎ」なのであります。
その行事は形にあらわせば「「水灌(みずそそぎ)」で、 水を被るという形式として表現されるのでありますが、それはキリスト教で言う洗礼、 精(くわ)しく言えば「浸礼(しんれい)」と云われているものと同じであります。
キリストの時代に洗礼と云うのは、浸礼でありまして、 ヨルダン河の中へスッポリ全身を沈めたのであります。
それに依って肉体が全部その姿を没して、 「肉体が本来無くなる。既に自分は肉体に非ず、霊的存在なり」という自覚に導く 象徴的行事としたのが、之が侵礼である訳です。
今はそれを簡便に省略して、牧師が被洗者に指先で水を振りかけると云う 象徴的行事で「洗礼」と云っているのであります。
<感謝合掌 平成26年12月26日 頓首再拝>
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