[474] 智慧は一切のものを浄める |
- 明鏡 - 2015年02月19日 (木) 17時27分
新版 『 真 理 』 第 7 巻 悟入篇 (258〜259頁) 谷 口 雅 春 先 生
神は 無限の生命であり、愛であり、智慧であり、
供給であり調和であり、喜びである。
神様の有(も)ちたまえる御徳(おんとく)をながめますと、
いろいろ無数にあるのですけれども、根本になるものは何でありますかと
言いますと、智慧と、愛との二つに縮約することができるのであります。
しかし、更にもう一つ縮約したならば、神は智慧であると
言っても可(よ)いのであります。
世界の二大宗教であるところの 「 仏教 」 ― これは 智慧の宗教であります。
「 仏陀 」 というのは悟りを開いたものという意味でありまして、
至上の最も高き智慧を得たものが 仏陀であるわけであります。
キリスト教などは、 「 神は愛なり 」 と言って居(お)りまして、
「 愛 」 の方が強調されておるようでありますが、
しかし その愛を如何(いか)にして成就するかと言いますと、
智慧がなければ 本当に愛していても 愛を成就することができないのであります。
あらゆるものは 智慧によって整理せられ、智慧によって浄(きよ)められる。
愛も、智慧によって浄められないかぎり、其(そ)の愛は 汚(よご)れ
たる愛であり、濁(にご)っている愛である。
それは また 溺(おぼ)れた愛であり、執著(しゅうじゃく)の愛である。
智慧というものは、一切のものを浄め、あるべきものをあるべき所に
あらしめる素晴(すばら)しい働きをするのであります。
そこで、この智慧を如何(いか)にして得(う)るかということが
問題になるのであります。
宗教の本質と智慧による自己発見
宗教の本体は 宗教的感情などと言われておりまして、
感情が主体(しゅたい)になっているようでありますが、
智慧と云う筋金(すじがね)が その宗教的感情に一本スーッと通って
いませんと、それは迷信と云うことになるのであります。
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