[577] 4月の祈り 〔講義〕 赦しの祈りは人間を解放する |
- 童子 - 2015年04月02日 (木) 10時02分
私は神の子である。 “神の子”であるということは神より小さき者という意味ではないのである。 “神の子”とは“神の具体化”であり、姿形の幽なる神が、姿形が顕なる神として自己実現して来たという意味なのである。 それゆえに神のもちたまえる全徳をわが身に体現し得るのが“神の子”なる人間である。 もし神の完全なる姿を具体化することができなかったならば、それは完全な神の実相が宿っていないからではなく、神の完全な実相が宿っていながら、それを自覚しないからに過ぎないのである。
“神の子”は、神の完全さを、自己の実相として内部に包蔵するのである。 それゆえに神の完全なる生命はわが内にあり、それを神想観によって自覚するば、その生命力はますます健全となるのである。 また“神の子”なる人間には神の完全なる智慧はわが内にあり、神想観によって、その智慧を自覚する程度に従って、それは自己を導く光となり、日常生活にも、職業方面にも、あらゆる企画や行動に決して躓くことがなくなるのである。
人間は神の子であり、神の完全なる愛が自己の内に宿っているのであるから、私の愛は完全であり、如何なる人の罪をも完全にゆるして咎めることはないのである。 そして罪は本来存在しないのであるから、その人に罪があらわれているのは、その人の実相が陰になって隠されているだけであるから、その人の完全なる実相を観じ、真理の光をもって陰の暗黒を消し去るようにしてあげれば必ずその人の完全なる実相が顕われ、かつて敵と見えたりし者は味方となり、自分の協力者となり、相ともに真理の道を進むようになるのである。
神の愛は全包容的であり、如何なる人々をも看過すということはないのである。 それゆえに神の子なる私の愛も全包容的であり、如何なる人々をも赦すのである。 唇にて“彼を赦す”というのは容易であるけれども、私は単に言葉にて「赦しました」というだけではなく、全精神を以ってすべての人々を赦すのである。 赦すというよりも、すべての人々の実相を観ずるとき、すべての人々の実相は神の子であるから、赦すべき罪もなきことを知って、その実相の完全さを解放するのである。 本当の赦しというのは、相手の悪や罪をみとめて、それを怺えながら赦してやるというのではなく、罪なき彼の実相を観じて、それを解放し顕現さほせるのであるから、彼自身がそのまま完全になるのである。
われ今、すべての人間の“神の子”たる実相の完全さを観じて、この世界がまことに神の創造になる完全世界なる事を知り、一人として罪人も悪人もなき事を知り、悦びに満たされているのである。
(『真理の吟唱』 129頁 「智慧と愛と赦しのための祈り」)
【講義】 この中で注目すべきことは、 「罪は本来存在しない」 ということであります。 そして赦すということは如何なることであるか、ということが書かれているわけです。
それで、「あいつは悪い奴で罪深い奴だけれども、我慢して怺えてやって赦してやる」というのは本当の赦しではない、というのであります。 罪のナイところの彼の実相を観じて、それを解放して顕現させるのが、それが本当の赦しであるというのであります。
多くの病気は、人を赦さないために現われているのであります。 これは少しく精神分析 〈psychoanalysis〉 を勉強した人、あるいは精神身体医学 〈psychosomatic medicine〉 を研究した人は大抵知っていらっしゃるでしょう。 多くの病気は攻撃精神というのから起こります。 攻撃精神、あるいは赦さない心というのが病気の原因になるのです。
この頃、テレビの放送やラジオの放送を聞いていると、赦さないことがいっぱい出てきます。 賠償の要求であるとか、相手を責めることばっかり一所懸命にやっています。 これはまことに地獄相です。 地獄の世界というところは責めることばっかりの鬼がおる世界なんです。
それで人を責める代りに、もっと人を礼拝する、拝む心を起すようにしたら、もっとわれわれの住む世界が幸福な、極楽みたいな状態になると思うのであります。
人間に基本人権があるということは一体どういうことかというと、それは神の生命(いのち)が宿っているから基本人権がある、神のみが絶対の存在者であって、その絶対の存在者が宿っているから基本人権という絶対価値あるものが人間に宿っているんです。 その基本人権を認めれば、それを拝まなければいかんと思うんですね。 それを拝んだら、その立派な相が出てくるんです。 これは本当に仏教の生き方であり、それから 『法華経』 の生き方であります。
『法華経』には、こういうことが書いてあります。 「常不軽菩薩品」というところに、常不軽菩薩の不軽というのは“軽んぜず”と書いてありますが、「われ人を軽んぜず」と言って、すべての人間を拝んだ菩薩の話が書いてあります。
その常不軽菩薩は、相手がどんな罪人であろうとも、どんなヤクザであろうと、そんなヤクザとか不良であるとかいうものは影の、表面の、ちょいと垢が付いたような姿であって、その奥には如来のいのちが宿っているのであるということを拝んだというんですね。
それでどんなヤクザでも拝んだら、そのヤクザが怒って 「俺を拝みやがって何しやがる! 俺は仏じゃないぞ、そんなにわしを拝んだって何のことになるか! 要らんことしやがると叩き殺してしまうぞ!」 と言って石を持ちあげて、それで常不軽菩薩を叩き殺そうとしたら、常不軽菩薩はその石の届かん所へ逃れて行ってまた拝みました。 そして、 「あなた様は如来のいのちが宿っておられます。 当来必ず如来の実相が顕われる素晴しい方でございます」 と言って拝んだというんですね。
そのように全ての人間を拝んだ功徳によって、その常不軽菩薩がいま釈迦牟尼如来として今ここに生まれ変って出てきているのでありますが、そのようにお釈迦さんは説教されたということが 『法華経』 に書いてあるんですが、どうですか? これが仏教の実践的神髄であります。
生長の家もこの仏教の実践的神髄を実行するんです。
例えば、東京では飛田給の練成道場で毎月初旬、1日から10日まで、10日間の練成をやっていますが、その練成道場に修行に来た人がはじめて門を潜ると、そこに練成道場員たちがズーッと並んで拝んでいる。 入って来る人をみんな拝んでいる。 するとはじめて来た人はびっくりして、“何を拝みやがるだ” 〈「有難うございます、有難うございます」と言って拝んでいるから〉 “何が有難いんだい!? みんな〈癩狂病院で〉気違いが集っているのとちがうか” と、こう思うんです。
ところが練成を受けて、4日、5日目位になると、自分もすべての人間を拝み出して、そうして、その拝みが徹底した人は病気が治り出すんです。
人を赦すっていうのは、罪あるのを我慢するんじゃなくて、罪はナイという実相を知って、その実相の如来のいのちが宿っている、その実相を拝み出すんだ。 そうしたら、相手の実相も顕われるし、自分の実相も顕われるんですね。 ・・・・・
またその練成会では 『祈り合い神想観』 というのがあるんです。 それは、ああいう所へは“病気が治りたい”と思って来る人が随分いるんですね。 いろいろの問題を持ってくるんです。 その問題を解決したいと思ってやって来ます。 また、悩みはないけれども“もっと如来のいのちを悟りたい”と修行のために来る人もある。
それで、自分の悩みとか病気とかを治して貰いたい人達を一方に集めて、そして自分は悩みはないんだけれども、もっと自分の内に宿る如来のいのち、神の子のいのちをもっとハッキリ顕わしたいという修行のためにやって来た人と2組に分けまして、それで互に合掌して相対して坐らせるわけなんです。
そして悩みのある人は、悩みのない方の人が自分の実相の完全な如来の姿を拝んでくれるのを素直に受ける気持になって、じーっと合掌して “かくの如くして神の子の完全ないのちが如来の完全ないま顕われつつあるのである、有難うございます” と念じながら、向う側に念じてくれている人のその信念を素直に受ける気持になる。
それで一方の方は、向かい合っている病人たちの病気とか悩みとかは観ないで、 “あなた達はみんな神の子であり、完全なお姿である、如来である” というようなことを、丁度 『法華経』の常不軽菩薩が ‘どんな人でも如来である’ として拝んだように、 “光明燦然と輝いてとどこにも悩みも病気なもないあなた様でいらっしゃいます” という念(おもい)をじーっと相手に対して、レンズで焦点を焦がすように集中する。 “あなた様は如来様である、神の子である、完全である” という念(おもい)を。 そうすると、不思議にその悩みが消えたり病気が消えたりするんです。
それは全く 「この世界は心の世界である」 「心に念ずるものが現われるんだ」 という心理学的実験にも当て嵌まるということになるのでありまして、いろいろの功徳を実現しているのであります。
大体、相手の悪を認めていると、自分だって苦しいでしょう。 ところが、そういう悪いものを観ないで、悪く見えている表面の奥に、如来の完全ないのちが宿っていらっしゃるというのを拝むんですね。 これが本当の赦しだというんです。 自分の心が赦さないでいると、自分自身が、自分のいのちが縛られることになって、その結果いのちが完全に動かないで、それで病気が起るのであります。
そしてリューマチなどで関節が痛んでいる人が、人を赦すよう教えられて、 “私はあなたを赦しました赦しました ・・・ あなたは完全な神の子でいらっしゃいます” と一心に祈る行持をつづけていると、その関節の痛みが消えてしまって病気が消えるというような実例が出てくるんですね。
まことに人の罪を観ず、それを赦してその実相 〈完全な如来の姿〉 を拝むということは、凡ゆる方面に功徳があるのであります。
『幸福への出発』 第665回 放送 より

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