[317] 【 生長の家の神は「根本中」也 】 |
- 伝統 - 2014年12月20日 (土) 05時00分
*「善と福との実現」(P185〜189)より
八宗九宗みないずれをもわが宗の中におさめて、 聖道、浄土の二門とはわかつなり。
聖道門に大小あり、権実あり、 浄土門に十方あり、西方あり、西方の門に難行あり、正行あり、 正行に助行あり、正定業あり、
かくして聖道はかたし、浄土はやすしと釈しいるなり。 (源空聖人「東大寺十問答」)
戦後吾等が得た恵福は、国民が信教の自由と言論の自由とを恢復(かいふく) し得た事である。されば私は今後方便に偏せず、真実を説くことが出来る事になり、 愈々真理開顕のときが来たのである。
今まで吾等は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と阿弥陀とゴットと 天地の創造主とを、同一の本源唯一神(ゆいいつしん)なる生長の家大神 (うちゅうぜんたいのおおかみ)の別名であることを『生命の實相』で説いて来たのであり、
老子の説く如く「道」(コトバ即ち神)は本来無名であり、神名又は仏名にとらわれて、 他宗排撃の固陋(ころう)に陥ってはならない、万教は互に手を繋いで、 唯一の神を信じ讃えようではないかと説いて来たのである。
生長の家を一宗一派の宗教のように思いちがえている人があるが、 「教」と云わずして「家」と云ったのは一宗一派の宗教ではなく、凡(あら)ゆる宗教が 一つに会して集まることの出来る団楽の家と云う意味をあらわさんがためであったのである。 生長の家は云はば「無宗派的宗教運動」なのである。
「生長の家」とは「生」は┃(たて)に伸びるであり、時間を表し、陽の原理を象徴する。 「長」は━(よこ)に延びるのであり、空間を表し、陰の原理を象徴する。
┃━(たてよこ)時間空間、陰陽の結びによって生まれ出づる本源たる十(たてよこ) 拾字の交叉点たる一点 ―― 一点もなき絶対無の「統(ス)」「巣(ス)」が「生長の家」である。
「巣」が家であると云うのは「家」は一切のものが其処より出でて其処に帰る 中心本源であるからである。(註、蜘蛛の巣の形を見よ) 乃(すなわ)ち、 「生長の家」とは時間空間を一つに包み、万物を生み出す本源すなわち「真如」 そのものであり、無一物中無尽蔵の「無」にして「空」なる「根本中」である。
即ち、宇宙全体である。
されば生長の家の神とは宇宙本源の大神と云う意味であって固有名詞ではないのである。 既成宗教の使っている本尊の神名又は佛名を使わないで「生長の家大神」と称して、 普遍的な名称を使ったのは他宗嫌いの既成宗教で凝り固まった人にも、 救いを均霑(きんてん)せしめんがための深謀遠慮(ふかきはからい)なのである。
旧約聖書に於ける天地の創造主たるエロヒムの神、キリスト教のゴッド、 黙示録に於ける七つの燈台の間を歩み給う久遠無窮を表象せる白髪白髯の生と死との鍵を 持ちたまえるキリスト(これを吾々は『七つの燈台の点燈者』と呼び奉っているのである) 仏教の大日如来、阿弥陀、観世音菩薩等は、
いづれも宇宙の大神の化身又は化現又は同一の神の名称のみの相異に過ぎないのであって、 是を古事記は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と称しているのである。
「天(あま)」は至大天球なる大宇宙を指し、御中(みなか)の「御(み)」は美称、 「中(なか)」は「中庸(ちゅうよう)」に「喜怒哀楽(きどあいらく)の未(いま)だ 発せざるは之を『中(ちゅう)』と謂う」とあるところの「中」である。
喜怒哀楽とは一切の「気指(キザ)シ」(萌<キザ>シ)を四語にて代表せしめたのである。 一切の萌(キザ)シの現れいでる本源を『中(ちゅう)』と云うのである。
されば中庸には「中なる者は天下の大本(たいほん)也」とある。 即ち|−(たてよこ)十字に交叉して一切の時間空間の発現する中心の一点が 「中」であるのである。
程子は「中」を釈して曰く「中散為萬事、末複合為一理、放之則夷彌六合、巻之則退蔵於蜜。」 (中は散じて万事となり、末また合して一理となる。之を放てば六合に彌(わた)り、 之を巻けば退きて蜜に蔵(かく)る)と云っている。
即ち「中」は事の本源であり、これを「無」と云っても好い。 「無」と云っても有無相対の「無」ではなく、 「絶対無」即ち無一物中無尽蔵の「無」である。
これを達磨大師は「無心」と云った。 無心を、「心もない」と云う意味にとれば、その「心」とは精神現象の「心」である。 一切の精神現象的な「心」を否定し去って、更に高次の本源にある「心」が「無」である。
「無心」をそのまま「無の心」と解けば、 有無相対を超えた「無」のこころであり、無門関の「無」である。
『無』は「無い」のではなく一切現象否定の象徴として「無」の字が用いられている のであり、一切現象を否定した奥に實相の肯定がある。 即ちこれを単に「無」と云わずして「中無」と謂ってもよい。
その實相こそが、宇宙の御中に主となるところの実在(即ち天之御中主神)である。 「アメノミナカヌシノカミ」とは宇宙の本源なる「中」にして無なる隠身(かみ)である。
その「中庸」の世界に超入するを「吾れ今五官の世界を去って實相の世界に入る」と 生長の家では云うのである。「中無」の世界は無一物中無尽蔵の世界であり、 無限智・無限愛・無限生命の七宝充満不老郷であるが故に龍宮海とも云う。
海(ウミ)とは蓋し「生(ウ)ミ」である。
一切の時間空間は此処より発し此処に復(かえ)る本源であるから、 それは一切の「生(ウ)ミの根底」であり「ウミの底」であるから、 それを象徴化して「龍宮海」と云う。
龍とは変幻出没自由自在の譬えである。 換言すれば「無」よりして、一切を変幻し顕現するの謂(イイ)である。 その龍宮海の神を古代の神話では住吉大神と称し奉る。
住吉大神とは住ミ吉キ極楽世界の主人公と云う意味であって、 仏教に於ける阿弥陀仏と同体であり、創世記に於いてはこれを「エデンの楽園」と云う。 それは不滅不老の楽園である。
阿弥陀仏は無量寿世界の仏であり、住吉大神は不老郷の神であり、 阿弥陀仏の極楽世界は欲する財宝悉く充足する世界であり、 住吉大神の龍宮海は七宝充満の世界である。
本来同一神仏であり、その一致見るべきである。
その一致の来る所以(所以)は、「中無」の世界「極楽世界」「龍宮海」 「エデンの楽園」など色々云うが悉く同じき實相世界を別の名称で云い現したに 過ぎないからである。
併し、そんな不思議な世界が果たしてあるであろうか。
それは「《無》心」の「《無》」の中に突入することによって (この「無心」をキリストは「凡そ神の国に入る者は此の幼児の如き者なり」 と云ったのである)、
また「《無》我」の「《無》」の中に突入することによって、 天之御中の「ミナカ」の根本「中」に突入することによって、 「吾れ今五官の世界を去って實相の世界に突入する」ことによって
そこに無一物中無尽蔵の世界がひらかれ、 其処に住吉世界(住ミヨキ世界)が実現するのである。
その無尽蔵の無量寿の住ミヨキ世界・極楽浄土・エデンの楽園・龍宮海・高天原は 《今此処》にあるのである。「今此処」の語、注意すべし。 これから浄土を建立するに非ず、既にある仏国土を浄むるなり。
法蔵菩薩の四十八願も建立浄土の願なり、浄仏国土の願なり、 既にある仏国土(ほとけのくに)を浄めるのである。 心の眼を浄めて見るのである。
浄土既に此処にありと云うと雖も、肉眼で「今此処」と指さす指を見るべからず、 五官を去って、「今此処」の生命の本源の世界に突入すべきのみ、 今此処に真実浄土、真実無量寿、無限供給の世界が存在するのである。
(以上で完了)
<感謝合掌 平成26年12月20日 頓首再拝>

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