【広告】楽天市場から5と0のつく日ポイント4倍開催中

谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

◆書き込みルール   ◆TOPへ戻る    ◆其の壱へ   

Counter

こちらの関連記事へ返信する場合は下のフォームに書いてください。

[401] 常の祈りと云うこと
明鏡 - 2015年01月25日 (日) 10時54分




『 白鳩 』 誌  昭和二十三年五月号  谷 口 雅 春 先 生



常の祈りということが大切であります。


一日に十五分間や、三十分間位、熱心に祈りましても、

あとの二十三時間何十分間は その反対に暗いことや、不景気なことや

不健康なことを思っていましては、思念の力が暗い方に傾きますから、

それでは 何の役にも立たないのであります。


と云って、二十四時間が二十四時間とも祈ると云うことは 到底出来ないこと

であります。


そこで吾々は 祈りの技術と云うものが必要になるのであります。


常住、神に祈るには どうしたら好いかと云うと、

すべての触れるものに 常住感謝すれば好いのであります。


それには 物を見るのに 其の物の実相を 見るのであります。

これは 神の生命、仏の生命のあらわれである。

比較を絶したところの有難い 絶対的な存在が そこに相(すがた)を

現しているいるものであると云うことを思出して、


ああこれは有難いものである、こんな相(すがた)に身を やつしていらっしゃるけれども、

これは 仏様なんだ 神様なんだ、神様が我々に利用されんがために

この様に 相(すがた)をやつして そうして此処へ出ていらっしゃるのだと気が付いて、


本当に有難い、( 本当にあり得ない不可思議功徳であると云う意味 ) 新聞の一枚も、

或は 御飯の一粒も、お汁の一滴も、漬物の一切も、或は 机も、書物も、


有りとあらゆるものは、本当に心の眼をひらいて見たならば、

みんな仏(ほとけ)が 相(すがた)をあらわして、われわれを生かそうとしていられる、

仏様の生かさずに置かないところの大慈悲が現れて、

ここに森羅万象としてあると云うことが 本当にわかるのです。


それは 実に 「‘ あり得ない ’」 ところの恵みなのであります。

だから 「 ありがたい 」 と云うのであります。


ですから 心の目がひらいて この世界を見れば

「 有難い世界 」 だと云うことがわかるのであります。


もう天地万物 悉く、仏(ほとけ)の生命(いのち)、神の生命(いのち)が充満しておって

眩(まぶ)しい位で、合掌をせずにはおられない。


ああ有難い、空気 吸うても有難いし、日光に触れても有難いし、机に向っても、

食卓に向っても、皆それを神のめぐみ、仏の生命として拝めるのであります。


そうして凡ての人々を見れば、

そこには やはり仏の生命、神の生命が 色々の仏菩薩(ぶつぼさつ)の相をして

そこに現れて いらっしゃるのであります。


決して 只の物質の人間じゃないのであります。

仏(ほとけ)の生命(いのち)、神の生命に いかされて いらっしゃるところの皆様なのであります。 



・・・・つづく




[403] 2.
明鏡 - 2015年01月26日 (月) 10時54分



ところが唯物論的に人間を見ますと、

我々は 蛋白質とか、脂肪とか、澱粉とか、窒素(ちっそ)とか、

炭素とか云うようなものに生かされている自分であります。


吾々は いままで学校で そう云う唯物論を習って来たのであります。

そうすると人間は別に尊いことも有難いこともない。


人間の尊さを教える宗教教育を

日本では怠っていたから残虐行為などを平気になるようになったのであります。


これからの人間教育は 「 神の子 」 として教育しなければならぬのであります。


吾々が単に物質が捏ね固められた魂であるならば、

人間は大して有難いものじゃないのであります。


「 人間 」 そのもののみならず、天地一切のものは

唯物論の世界からみれば、本当の有難さと云うものは感じられないのです。


我々が若し本当に有難い世界を見出そうと思ったら、

唯物論を清算して、仏一元の世界、神一元の世界と云うものを

見なければなりません。


そこからのみ 本当に有難い光明一元の世界が あらわれて来るのであります。


生長の家は今までの学校で習った唯物思想を清算して、

唯心論に目覚めしめます。


唯心論を唯物論者は 「 観念論だ、観念論は迷信だ 」 と

独断的攻撃戦法をもって来て反駁しますが、

観念論が何故迷信であるかと云う理由はあげ得ないのであります。


凡そプラトンでもカントでもヘーゲルでもフィヒテでも、

世界の名だたる大哲学は観念論であります。


唯物論こそ迷信です。何故 唯物論が迷信であるかと云うと、

「 心は物の作用である 」 として 心に独自の主権を与えていない彼らは、

何物も 「 迷信である 」 と断定する 「 心の主権 」 がないからであります。


吾々の観念論は 「 実証観念論 」 であって、

これは 「 生長の家の横の真理 」 であります。


これは心に描いた観念が 肉体や環境にあらわれる具体的実例によって

‘ 実証される ’ 観念論でありますから、精神科学とも云い得るのであります。



・・・つづく



[404] 3.
明鏡 - 2015年01月26日 (月) 15時37分



さて これは 生長の家の「 横の真理 」 でありますが、

「 縦の真理 」 ( 根本実在の真理 ) は 唯物 唯心を超越しているので

あって、これは唯心論ではない。唯神実相論とでも云うべきところの人生観、

世界観であります。


「 横の真理 」 即ち 現象顕現の法則は、釈迦も、三界は唯心の所現だ、と

云われまして、目に見えている世界は 心の現れである、と云うことを

説いていられたのであります。


キリストも 「 汝の信ずる如く成れ 」 と被仰いたまい、

「 芥子種ほどの信仰だにあれば 此の山に彼処に往いて海に入れと云うとも

必ず成らん 」 とお説きになりまして、信に裏付けられた観念の通りに、

肉体や環境が具象化することをお説きになり、またそれを多くの

所謂(いわゆ)る 「 奇蹟 」 と云うもので実証せられたのであります。

生長の家もまた是を実証しつつあるのであります。


しかし釈迦もキリストも、いつまでも 「 心で信ずる通りに顕れる 」 と

云う横の真理だけで満足していられたのではなかったのであります。


現象はどう見えようとも、実相 ( 真実在 ) は 破壊しがたく

円満完全なものであると云うことを

釈迦は 「 衆生 劫尽きて 此の世の焼くると見る時も吾が浄土は安穏なり 」

( 法華経 ) と説きて明かにせられ、


キリストは 「 我はアブラハムの生れる前よりあるものなり 」 と仰せられて

明かにせられました。


この二聖は、唯物、唯心の境を超えて、更に 「 唯神実相論 」 とも云う

世界観に跳入していられたので、生長の家の説いているところの世界観と

同じなのであります。



・・・つづく



[405] 4.
明鏡 - 2015年01月26日 (月) 16時53分



唯心・唯物と云う問題は 時々 間違う人がありまして、

唯心論のつもりで唯物論になっている人が随分あるのであります。


名前は 「 唯心 」 ですけれども、唯物論と何処が ちがうかと云うと

ただ 「 物 」 と云う字を 「 心 」 と読みかえた位の唯心論であります。


例えば 物心一如と云うような考え方であります。


物心一如と云う。そうすると一如と云うのは、一つでそのまま同じことだと

云うのでありますから、物とは心であり、心とは物である。

そうなりますと、心イコール物となります。

心=(イコール)物であるならば、唯心論=(イコール)唯物論であって、

それなら唯心論と云っても唯物論と云っても同じことであります。


そうすると別に唯物論を排撃する必要もなく、

唯心論の方がえらいと云う必要もないのであって、

心イコール物では同じことになるのであります。


こうして物心一如論に落着いて、それで もう悟を開いたのだというように

思っていらっしゃる人も中にはありますけれども

それは単に 「 横の真理 」 の入口でありまして、

そういう唯心論 唯物論を超えて 実相の 「 真実在の世界 」 に超入しなければ

生長の家の説いている真実在の世界を悟ったとは云えないのです。


生長の家の世界観は、そういう唯心 唯物を超えて、

「‘ 心もない ’」 と云うところまで入っているのであります。

( 観普賢菩薩行法経 「 心を観ずるに心無し 」 )


物も ‘ ない ’ し、心も ‘ ない ’。

物心一如もないのであって、 ‘ ある ’ ものは 円満完全な実相のみである。


そうして直接そのただ円満完全なる実相の生命に

直下(じか)に触れるのであります。


心の影だと、まだ 「 心 」 を掴んでいる間は

本当の生命に入ることが出来ない。


その心を超えて、その心の奥まで入って行って

生命そのものを捉えなければならぬ。


黒住教祖は これを 「 生き物を掴め 」 と云って教えられました。

生命の実相をつかんだとき、我々は、病気しておっても

病気していないところの人間を見出すことが出来るのであります。



・・・つづく



[407] 5.
明鏡 - 2015年01月26日 (月) 23時59分



先日、小豆島の土庄(とのしょう)町と云うところで講習会がありました。

観海楼と云う料亭の大広間が会場でありましたが、この料亭の板場をしているのが

森川政輝さんと云って、生長の家のまだ発祥時代、私の住吉宅へ来られて修行をした人であります。


肺病が なかなか治らなかった。心をかえなければならぬと 心を掴んで どうかしようと思ったが、

その心が自由にならなかった。


ところが或る日 「 生命の實相 」 を読んでいると、

「 心も無い 」 と悟った。「 肉体もない 」 と悟った。

だから肉体は 病気を顕していても、病気していないのが自分の実相だと悟った。


すると、心の問題が問題でなくなり、心が自由になって病気が治ってしまったと

云う深い体験談をせられたのであります。


我々の本体が単に 「 心 」 であり、 「 心 」 が 病めば 肉体に病気を現わすと云うのだったら、

心が人間の本体である限り、人間の本体実相も病気するものであると云うことになり、

これでは 人間は救われないのであります。


これでは 涅槃経に釈迦がお説きになったような、

「 我は仏身なり、法身なり、金剛不壊身なり、雑食身にあらず、

人間は未だ曾て病まざるものである 」 と宣言せられたような、

崇厳なる久遠神性の自覚へ入ることが出来ないのであります。


心が病めば病気になる ― そう云う心と云うものを超えて、

実相(真実在)のその奥まで入った時に初めてこの生長の家の説く真の悟境を

理解することが出来るのであります。


この悟境に於いては 森川政輝君に病気が現れていても、

病気はないと断言することが出来るのであります。


こう云う断言が出来るのは、その人は、心にもあらず、肉体にもあらずと知り、

病める如く見えている肉体を見ながらも、

その奥にあるところの 不病不老の生命と云うものを直視するのであります。


自分の生命の実相が、存在の実相とカチカチと触れ合うような直接認識によって、

本当に ここに神の生命がいらっしゃるのだ、自分の生命は神の生命だ、

無病不老の存在だと自覚するのであります。



      ・・・つづく



[412] 6.
明鏡 - 2015年01月28日 (水) 18時28分



生長の家の所説を華厳経の 「 唯心偈(ゆいしんげ) 」 から来たように

批評した方もありましたが、あの 「 唯心偈 」 にあるように

「 心が迷えば衆生となり 悟れば仏となる、心と衆生と仏と三無差別 」 だと

云うだけでは、今 悟って仏になっても、又迷えば仏でなくなり、衆生になり、

腹がたったら鬼になる、争って阿修羅になると云うようなことになる。


これでは折角、 「 仏 」 になっても 「 現象仏 (ぶつ)」 であって

久遠実成(くおんじつじょう)の仏ではありません。


我々は 永遠に金剛不壊な 自分の生命の実体(実相)を

つかまねばならないのです。


そこで、吾々は 人間の本体をしるために、物を超え、肉体を超え、

更に心を超えて、仏の生命(いのち)なるものへ跳入して行くのであります。


そうすると我々が、今まで 「 自分 」 だと思っておったところのものが

悉く嘘であったと粉砕されてしまうのであります。

そうして一度、自分の我が崩壊してしまうことが必要であります。


生死に迷う罪悪深重の凡夫だと云った親鸞も

「 超世の悲願 ききしより、我等は 生死の凡夫かは 」 と、

肉の自分を超えて、超世の悲願そのもの ロゴスそのものの自分を

見出したのであります。


かくて此処に見出すところのものは何であるかと云うと、

未だ曾て病まず、老いず、死せず、苦しまず罪を犯したることなき、

仏の生命(いのち)、神の生命が自分であると云うことがわかったのであります。



・・・つづく




[419] 7.
明鏡 - 2015年01月30日 (金) 11時01分



キリストは 「 神の国に入ろうと思ったならば、すべての持物を捨てて

十字架を背負うて我に従え 」 と、こう云う風に仰しゃったのでありますが、

すべての持物と云うのは、必ずしも財産のみではない。


財産もすべての持物の中の一つかも知れませんが、決してこの物質の富を

捨てるだけが すべての持物を捨てるのじゃないのであります。


心も捨てなければならぬ、物も心もすべて捨てて、

もう何もなくなってしまって 一切のものを礫殺(クロスアウト)して

しまったときに 神の国に入ることが出来るのであります。


すなわち 実相金剛不壊の円満完全な世界を発見するのであります。


物を捨てるのは まだ易しいですけれども

「 心 」 を捨てることは 一層難かしいのであります。


私が云っている その心を捨てなければならない。

しかしその 「 心 」 を 「 ある 」 と思って掴んでいる間は

なかなか捨てられないのです。


「 心もない 」 と悟ることが必要であります。


「 わしの心 」 ―  此の 「 我 」 と云うものが、だんだん進化して行って

そうして 仏(ほとけ)になるのではないのであります。


法華経に 「 唯仏与仏乃能究尽(ただほとけほとけとのみ よくぐうじんす) 」 と

あるように 「 我 」 という心、 「 私の心 」 「 この私が修行している 」と

云うような そんな 「 私 」 と云うものが 悉く粉砕されてしまって、

換言すれば、そんな肉我が 十字架に付けられてしまって、

内在の 「 仏(ほとけ) 」 のみが出て来る。


「 私 」がなくなって 無我になってしまう。

わしがわしがと云っている 「 心 」 と云うものが、

それが本当に本来ないものだから、

そんな「 心 」が迷っていても迷わずにいても 我々は 初めから仏である。

初めから神であるのであります。


瓦を磨いて珠になるのではなく、

はじめから珠だから

磨けば一層光が出て珠になるのであります。



・・・つづく




[422] 8.
明鏡 - 2015年01月30日 (金) 19時24分



そこで我々は転回するのですね。英訳では コンヴァーションと申します。

今まであった濁水がだんだん澄んできて、そうしてそれが澄明な水になるように、

仏(ほとけ)になるのじゃないのであります。


その濁っているのは はじめから埃だけで、水はどこまでもH2Oの純水の水である。

どんなに濁っているように見えても、水そのものは濁っていないように

「 人間 」 の実相 「 純粋の人間 」 そのものは 濁っても汚れてもいないのであります。

これが悟であります。悟れば一躍して 「 自分 」 が変るのです。


今までの自分だと思っておったのが、それは 「 自分 」 ではなく単に混入の埃であり

「 自分 」 そのものは 真清浄無垢の仏身、法身だとわかるのです。


今までとは異るものが出て来るのであります。

全然異るものが出て来て、「 神なる自己 」 「 仏なる自己 」 が

発見されるのであります。


だから今までのものを悉く抹殺してしまわなければならないのです。

すべてを十字架にかけてしまわねばならぬ。


物心一如と云う風に考えておったような、そんな中途半端な心を抹殺してしまう。

物もなし心もなし。そんなら一体何処に私がいるのだろうと思っても、

やはり‘ 此処 ’ に今 「 仏 」 なる自分がいるのであります。


・・・つづく




[427] 9.
明鏡 - 2015年01月31日 (土) 21時02分



『 法華経 』 の 「 自我偈」 に

「 我 常に 此(ここ)にありて 説法す 」 と云うことが

お釈迦様の言葉として出ておりますが、

あの 「 常に 此(ここ)にある 」 ‘ 自分 ’ というものを発見するのであります。


皆さん、あなた方は 「 自分と云うものはオギャァと生れてきて、

オギャァと生れる以前になかった。オギャァの十ヶ月以前はなかった 」 と

普通 お考えになりましょうが、


十ヶ月前に母の胎中へ入ってきて、オギャァと出て来て、

やがて何年か経つと死んでしまうような自分は

「 我 常に 此(ここ)にありて説法す 」 と云うような久遠不滅の我ではない。


「 常に 此にあり 」 と説かれたところの 「 久遠の存在 」 を、

単にお釈迦様だけだと思うといけない。

皆さん自身が釈迦と同じく久遠不滅の存在なのであります。


生長の家にお入りになって功徳があると云うのは、

心の法則によって病気が治ったり、環境がよくなったりすることも

小さい功徳ですけれども、


「 我 常に 茲にありて滅せず 」 と こう 仰しゃるところの

お釈迦様と同じ生命が自分であるということが自覚出来ることが

大功徳なのであります。


「 我 常に 此(ここ)にありて滅せず 」 と お釈迦様が仰しゃったのは、

何十年か前にオギャァと生れた時に その 「 生 」 が初まったのだったら

「 常に 」 とは云えないのです。


「 我‘ 常に ’ 此にありて滅せず 」 と云うのは、

もっと無始無終、時間空間を超えたところの、

超時間、超空間、無時間、無空間の世界に

「 ‘ 常に ’ 此にありて 滅せず 」 と云うところの自分を発見するのであります。



・・・つづく




[430] 10.
明鏡 - 2015年02月01日 (日) 21時51分




今 この時間 空間的世界に現れているところの、脳髄の作用として

出ている 「 我(われ) 」 という意識、そう云う 「 我(われ) 」 というものが、

いくら書物を一所懸命読んで そうして学者になっても、

そんな 「 我 」 と云うものは大(たい)したものではない。



其の頭をコツンと一つ金槌で叩いて脳味噌を毀したら、

折角何十年勉強した勉強も一ぺんに忘れてしまって、

「 悟 」 だなんぞと大袈裟に云ったものも すっかり飛んでしまうのであります。



そんな途中で消えてしまうような 「 頭脳の心 」 は いくら修行させて見たって

大したことはないのであります。そんな頭脳の修養では 永遠の救済もヘッタクレもありません。



ですから、 「 我 」 とか、 「 我が心 」 とか云っているところの、

そんな脳髄の作用の意識を以て、そうして それを 「 本当の自分 」 であると思っていると

間違いなのであります。



そう云うものを超えなければならない。

そうして 「 常に此(ここ)にあるところの自分 」 久遠(くおん)の実在としての自分を

自覚しなければなりません。



そして 「 オギャァ 」 と生れる以前からあるところの 滅しないところの自分、

それこそが自分だ、自分は 釈迦牟尼仏と共に久遠の昔から存在するところの

仏(ほとけ)そのものだと自覚しなければならないのであります。



「 自分は 」 と申しましたが これは私のことだけじゃない、

皆さん御自分一人一人が 釈迦牟尼仏である。

「 我(われ)常(つね)に此(ここ)にあり 」 久遠に存して 滅せず であります。



自分が此処に神想観する時に、釈迦牟尼仏が神想観しているのだ、

釈迦牟尼仏 此処に坐禅したまえり、そう思って自分が神想観するが好いのであります。



我れ此処に坐るとき、此処に毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、

大日如来が法輪を転じたまうのだと自覚すべきであります。



吾れ毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)常に此(ここ)にありて坐禅し、神想観し、

説法し、法輪を転じているのである。



阿屎送尿(あしそうにょう)着衣 喫飯 悉く 毘盧遮那仏の説法である。


自分が坐禅し 自分が神想観するのじゃない、此処に如来の転法輪がある。

こう自覚するとき 旧我がなくなり、新我 ― 久遠の我 が出現する。

天地が変る。大地が六種に振動すると仏典に書いてあるのはこの事であります。



今迄 物質が充満している世界、黴菌の充満している世界、

色々の闘争が充満している世界だと思っておったが、

そんな見苦しい世界は‘ない’のであったと分る。



此処は 毘盧遮那仏の転法輪(てんぽうりん)の道場であって、

そのコトバ 即ち ロゴスが充満している、法の言葉が充満している、

真理のコトバが充満している、何と云う有り難い世界だと分からなければならぬ筈であります。


その時、万事 万物が、皆 仏(ほとけ)として拝まれるのであります。

これこそが常住の祈りであります。




                ( 了 )
  






お名前
メール
タイトル
本 文
URL
削除キー 項目の保存


Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】楽天市場から5と0のつく日ポイント4倍開催中
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板