福田さんのエッセイ拝読致しました。
宮沢賢治作品、いくつか読んでいますが、恥ずかしながらこの「永訣の朝」は初めてでした。
福田さんのエッセイに触発されて読んでみました。何と言ったらいいか、今まで読んだどの作品よりも魂を揺すぶられる作品でした。
「アメユジュ トテチテケンジャ」最初は、何のことかもわかりませんでしたけれど、何度もこの言葉を繰り返しているうちに、この言葉には、深い深い意味があるのが分かりました。
(なお、標準語に直せば「雨雪を取ってきてくれて」。賢治の故郷の花巻弁ですよね)
折しも、今現在、当地方ではアメユジュ(雨雪)が降っております。今夜には雪に変わるのでしょうか。
こんな優れた作品を紹介してくれた福田さん、本当に有難うございます。
*さてさて、今日は追伸です。
「アメユジュ トテチテ ケンジャ」の「ケンジャ」の部分ですが、上記のコメントを書いた後日、この詩の、ある人の解説を読んでいたら、ここを「賢治ゃ」と賢治に頼んだのだと書いてありました。賢治は賢治に頼んだにしても、ここは、名前ではないのでは?と思ったのです。
この地方では物を頼む時「〜してくれるんだ→〜してけるんだ」と言っていた記憶があります。(50年ほど前に花巻地方にに勤めていた時の記憶ですから、定かではありませんが)
だから、トシの言葉は「トテチテ ケルンダ」が「トテチテ ケンダ」そして更に→トテチテ ケンジャ」になったのではないかな?と推察しました。あと、2つ目として、「トテチテ ケロジャ」から「トテチテケンジャ」になったのかも知れないとも思いましたがいかがでしょう?とにもかくにも、 尊敬する兄さんを呼び捨てにするわけがないと私は思っているのです。 (21日 記)