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自分の限界? 09.02.23
よくアスリート達が、まるで、 共通のルールのように言う言葉が 『自分に勝つ!』というヤツ。
これはつまり、自分自身の、 今まで限界だと思われる場所を 超える事を言うのかな?それとも、 言葉通り、自分自身の「ああ、もうだめだ!」を 絶対言わない事を言うのかな?
まあ、要するにその両方なんだろうけど、 『自分に勝つ!』勝った後はどうするのか?と フト思う。
自己満足の世界でしかない事に なっちゃわないといいけどな。 世界新記録保持者といわれたら、 誰もが成功者かというと、 記録はすぐ破られるためにある。 でも、人間の体の作りからして、 そうものすごい記録の更新は、 そうそうないことだ。
水泳がいい例だと思う、 あんなにコスチュームが 変わってしまった競技も珍しい。
いつのまにか、柔道着に青が加えられた事も驚くが、 水泳ほどじゃない。 アレじゃあ、まるで、競技内容が 変わってしまったのと同じだとおもうんだけどな? これは少し、きつい言い方かな? つまり、速く泳ぐという 科学的な追求から生まれた水泳競技用スーツ。
その他の競技でも、いろいろと同じ理由で、 少しづつは変わっているのかもしれないけど、 あれほどじゃない。
マラソンなんか、ここ50年くらい 変わっていないんじゃないかなあ?
もちろん、化学繊維や、これ以上の記録を伸ばすには、 人間自体の体系の研究、空気力学や水の圧力など・・・ とてつもない研究の末に変わっていってるんだと おもうんだけどね。
そうなると、今の競技は昔のそれとは まったく違う競技になっているってことかな? ルールだって、ずいぶんと違ってきたし、 人間の体格そのものも、多分ずいぶんと 違うのかもしれない。
食べ物の科学や体質の改善により、 一層の人間強化は、アスリートの世界では しのぎを削っているのかもしれないね。
昔よく選手の中では筋肉増強剤や、 興奮剤など、薬で、競技に出場する選手なんかもいて、 そのケミカルなイメージとスポーツという 神聖なる人間の偉業とが結びつかなくて、 なんかすべての競技がむなしく見えた時期もあったな。
並外れた巨体とかあり得ない記録とか、 そういう言葉に俺たちは本当に弱いよね。 それは、きっとどこかにスーパーな異次元空間を ほしがっているからじゃないだろうか?
人間はこんなもんじゃないというなんか、 とてつもない強靭な人間がいてくれれば、 地球上をもっと胸を張って歩ける。
だけど、肉体だけの力や、闘争心、生命力など、 凶暴性、強靭さなんかを、野生の動物と比較すれば、 きっと、人間の限界なんて容易い事だと思い知らされる。
どんなに強い相撲取りでも、 飢えたホッキョクグマにはかなわないし、 100メートルを7秒台で走る人間がいても、 時速80キロで走るチータにはかなわない。 像にレスリングが通用しますか?
裸の人間の限界は地球上の野生動物と比較すると、 赤ん坊のようなものですよね。
でも、スポーツは感動する、???いや、 感動したい???いや、感動させてほしい。
そう!僕らは感動させてほしい動物なんだ。
一見、記録を争っているかのようで、 実はその裏に秘められた彼らアスリート達の 涙の秘話を知る事で、心にグっとくる何かを 探そうとするのだ。
それって、競技そのものはどうなる? そういう精神的なものを求めるとすると、 スポーツじゃなくてもいいという事になってしまうから、 世界記録があるんだ。
世界記録という限界点を自ら作り出し、 そこに挑戦する事で、これでもかという記録をだす。
そうなんだ、僕らが求めてるのは、これなんだ! 歓喜にむせび泣くアスリートの顔、金メダル・・・ 国の威信をかけた意地の張り合い? 自分たちのつつましい生活を ひととき忘れさせてくれる心の逃げ場。 それが世界規模で繰り広げられるのがオリンピックだ。
毎年、変わる国の数。 行われる都市空間をまるで理想郷のように改造して、 4年に一度のたった2週間を走り抜けるためだけに 国の財産や税金すべてを使い果たしても、 ものすごい会場を準備することで、成り立つ競技達。
政治的敵対国や、歴史的敵対国、 宗教的違いの喜び方のポーズ。
実は僕らの見ているオリンピックは、 スポーツの祭典ではなくなっている。 これは美式である。
世界がなんとなく、丸く収まっているように 見せるために仕掛けられた、実に手際のいい、 マジックショーだ。
だけど、人間は不思議だ、 こんなにも、ものにあふれる世界を 構築していながら、満足しない。
野球だってサッカーだって、 金のながれる方向は既にみんなが承知している。 それでも、いいんだオレたちは。
・・・だって、感動したいんだもん。
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By H美
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| (619)/2009年02月25日 (水) 02時58分 |
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