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聖経(集) (8582)
日時:2013年05月21日 (火) 04時49分
名前:伝統

このスレッドにおいては、聖経「聖使命菩薩讃偈」「甘露の法雨」「天使の言葉」
「続々甘露の法雨」「顕浄土成仏経」と関連記事を集めて参ります。



【招神歌(かみよびうた)】

  生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)
   元津霊(もとつみたま)ゆ幸(さきは)え給え。

  吾が生くるは吾が力ならず天地(あめつち)を
   貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)。

  わが業(わざ)はわが為すにあらず天地(あめつち)を
   貫きて生くる祖神(みおや)の権能(ちから)。

  天地(あめつち)の祖神(みおや)の道を伝えんと顕(あ)れましし
   生長の家大神(せいちょうのいえのおおかみ)守(まも)りませ。

  (昭和5年11月1日 『招神歌』発表 )

・・・

招神歌~神をわが家に招待するには


あなたが誰かを自宅に招待したいと思うならば、
単に「あの人が訪問してくれればよいのにナ」と思うだけではなく、
現実にその人を招待することを言葉又は手紙で伝えなければならない。

そしてその人が訪ねて来て呼鈴(ブザー)を押すならば、
門に出かけて、扉を開いて招じ入れねばならないのである。

若しあなたが、
神が来たって自分の要請に応え給うことを欲するならば、
神を言葉で招待して、心の扉を開いて、
神の来り給うことを待たなければならないのである。


神への招待状が『招神歌(かみよびうた)』であり、
心の扉を開いて神を導き入れる行事が『神想観』なのである。

            谷口雅春師 『白鳩』誌 40年7月号

   (”童子 さま”のブログから拝借いたしました。
    ”童子 さま”のお許しをお願いいたします。

     → http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/23913943.html )

           <感謝合掌 平成25年5月21日 頓首再拝>

「招神歌」から始まる (8604)
日時:2013年05月22日 (水) 05時04分
名前:伝統

       *Web榎本恵吾記念館 文書館(1)Ⅱ~10から抜粋

   聖経『甘露の法雨』を開きますと、例えば四部経などでは、愛行の聖経とも言うべき
   「聖使命菩薩讃偈」や「大調和の神示」よりも先に、この「招神歌」が書かれています。

   この順序には何か大きな意味があると考えられるのではないでしょうか。

   素直に素直に、この「招神歌」の中身を受け取るのを遠慮しないことが大切です。
   第一のものを第一とすることです。

   第一とは神であり、實相であり、そのまま円満ということであり、
   「生きとし生けるもの」が、神そのものとして、神に愛され生かされているという
   ことです。

  ・・・・・

  招神歌の詳細については、スレッド「招神歌の意味(8605)」にて確認できます。
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1609

           <感謝合掌 平成25年5月22日 頓首再拝>

『聖使命菩薩讃偈』 (8633)
日時:2013年05月23日 (木) 05時00分
名前:伝統

掛巻くも畏(かしこ)き宇宙の大神、
人類の苦悩を見そなはし、応化して仮に聖姿(せいし)を顕じ、
広大の慈門を開き給えり、名づけて生長の家と謂(い)う。

一切衆生を証入せしめんがためなり。
人天誰か入らざるものあらんや。
 
如何なる宗派に属するものなりとも、此の広大なる慈門は、
すべての宗派を超越して、人類の苦悩を消滅し、滅罪清浄ならしむるなり。


殊(こと)にみずから功徳を受くるのみならず、
或は更に進んで衆生を救済指導せんがために、それに要する堂塔伽藍道場等を供養し、
或はみずから進んで神より選ばれたる聖使命を感得して、聖使命会員となるは、

菩提心を起して己れ未(いま)だ度(わた)らざる前(さき)に、
一切衆生を度(わた)さんと発願修行するもの、即ち誠に菩薩の位に進むものにして、
その功徳能く無碍の実相、完全の相(すがた)を生長せしむる基(もとい)を開くものなり。


無碍の実相、完全の相が顕現するとき、自他おのずから悟りに転ぜらるるは勿論、
其の利益普く有情非情に蒙(こうむ)らしめて余すところなし。

たとい過去の一家一門悪業多く重なりて悟りの障(さわ)りとなるべき因縁ありと雖(いえど)も、
ひとたび聖使命を感得して菩薩の位に進むとき、その功徳あまねく無尽の法界に充満して、
一門家族親族縁族の面々の悪業は消滅し、すべての悪因縁は解脱せしめらる。

如何(いか)に況(いわ)んや聖使命の菩薩自身の因縁をや。


爰(ここ)に聖使命を感得して、命(いのち)の涯(かぎ)り衆生救済に身を挺し、
心を致(いた)し資を献げて、人類救済の誠を尽さんと誓える、
聖使命の菩薩の誠魂を【龍宮住吉本宮の】宝筺に奉安して、
大神の御前に捧げ、【吾等遥かに拝(おろが)みて】聖経を読誦す。


聖使命の菩薩の実相と当来(とうらい)は、必ず仏陀なり。

たとい此の世の使命終り誠魂現象界を去ると雖も、
常に必ず大神の広大の慈導を受け、
更に深く真理を体得して仏陀とならんこと必定なり。

それ挺身、致心、献資の功徳は、
最上、最尊、甚深微妙不可思議なり、仏耶諸聖既に悉く証明したまえり。

爾等(なんじら)本来仏子、仏子まさに菩提心を起して菩薩行に精進するとき、
金剛不壊の仏果を証すること確実なり。

大神、須(すべから)く冥鑑(めいかん)を垂れ、
更に一層これら聖使命の菩薩たちの浄信を深めしめ、神通妙用を発揮せしめ、
その功徳普く尽十方に瀰綸(みりん)せんことを。


(昭和29年11月 聖使命会員に「聖使命菩薩」の称号を贈る。「聖使命菩薩讃偈」を発表。)

・・・

「聖使命菩薩讃偈」については、谷口清超先生によるご解釈が
「菩薩は何を為すべきか」第二章に収録されております。


参照スレッド「『聖使命菩薩讃偈』の意義 及び 『誠魂奉安』の意義NEW (8711) 」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1631

・・・

  <関連として、スレッド「聖歌 ~ 聖使命菩薩讃歌」があります。
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1613 >

           <感謝合掌 平成25年5月23日 頓首再拝>

【 聖経「甘露の法雨」 】 (8649)
日時:2013年05月24日 (金) 06時33分
名前:伝統


  Web:生長の家愛国源流 [ 谷口雅春先生の大復活 ] より

   → 前半 http://blogs.yahoo.co.jp/aikoku2672/3275898.html
   → 後半 http://blogs.yahoo.co.jp/aikoku2672/3275910.html

  神           
       
或る日天使生長の家に来たりて歌い給うー
創造の神は
五感を超越している、
六感も超越している、


至上
無限
宇宙を貫く心
宇宙を貫く生命
宇宙を貫く法則
真理
光明
知恵
絶対の愛。

これらは大生命ー
絶対の神の真性にして
神があらわるれば乃ち
善となり、
義となり、
慈悲となり、
調和おのずから備わり、
一切の生物処を得て争うものなく、
相食むものなく、
病むものなく、
苦しむものなく、
乏しきものなし。

神こそ渾ての揮て、
神は渾てにましまして絶対なるが故に、
神の外にあるものなし。

神は実在のすべてを蔽う。
存在するものにして
神によって造られざるものなし。

神が一切のものを造りたまうや
粘土を用い給わず、
木材を用い給わず、
槌を用い給わず、
鑿を用い給わず、
如何なる道具も材料も用い給わず、
ただ『心』をもって造りたまう。

『心』はすべての造り主、
『心』は宇宙に満つる実質、
『心』こそ『全能』の神にして偏在したまう。

この全能なる神、
完全なる神の
『心』動き出てコトバとなれば
一切の現象展開して万物成る。

万物はこれ神の心、
万物はこれ神のコトバ、
すべてはこれ霊、
すべてはこれ心
物質にて成るもの一つもなし。

物質はただ心の影、
影を見て実在と見るものはこれ迷。
汝ら心して迷いに捉わるること勿れ。

汝ら『実在』は永遠にして滅ぶることなし。
『迷』は須臾にして忽ち破摧す。
『実在』は自在にして苦悩なし
『迷』は捉われの相にして苦患多し。

『実在』は真理、
『迷』は仮相、
実在は五官を超越し
第六感さえも超越して
人々の感覚に映ずることなし。



 霊  

感覚はこれ信念の影を視るに過ぎず。

汝ら霊眼を備えて霊姿を視るとも
実在を視たるに非ず、
感覚にて視得るものは
すべて心の影にして第一義的実在にあらず、

霊姿に甲乙あり、
病める霊あり、
苦しめる霊あり、
胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊あり、
心臓も有たざるに心臓病にて苦しめる霊あり、
これすべて迷いなり。

斯くの如き霊、人に憑れば
憑られたる人或いは胃病を顕わし、
或いは心臓病を顕わす。

されど霊覚に映ずる
さまざまの苦しめる霊は、
第一義的実在にあらず、
彼らは誤れる信念によりて
流転せる迷の影なり。

迷い迷いて流転せる心は
その信念が形となりて仮の相を現ずべし。

されど如何に相を現ずるとも
仮相は永遠に仮相にして実在となることを得ず。

汝ら、実在にあらざる物を恐るること勿れ、
実在にあらざる物を実在せるが如く扱うこと勿れ。

実在にあらざる物には実在をもって相対せよ。
真にあらざるものには真をもって相対せよ。
仮相に対しては実相を以て相対せよ。
闇に対しては光をもって相対せよ。

非実在を滅するものは実在のほかに在らざるなり。
仮相を破るものは実相のほかに在らざるなり。
虚妄を壊するものは真理のほかに在らざるなり。
闇の無を証明するものは光のほかに在らざるなり。

彼らに生命の實相を教えよ。
彼らに生命の實相が神そのものにして完全なることを教えよ。

神はすべてなるが故に
神は罪を作らざるが故に
神のほかに造り主なきが故に
此の世界に犯されたる罪もなく
報いらるべき罪もなきことを教えよ。

三界の諸霊
三界の諸生命
この真理を観じ、
この真理をさとりて、
一切苦患の源となるべき
顛倒妄想を摧破すれば、
天界の諸神ことごとく真理の合唱を雨ふらし、
現世の生命ことごとく光を仰ぎ、
惑障ことごとく消滅し、此世はこの儘にて光明世界を示現せん。



 物質   

汝ら感覚にてみとむる物質を
実在となすこと勿れ。

物質はものの実質に非ず、
生命に非ず、
真理に非ず、
物質そのものには知性なく
感覚なし。

物質は畢竟『無』にしてそれ自身の性質あることなし。
これに性質を与うるものは『心』にほかならず。
『心』に健康を思えば健康を生じ
『心』に病を思えば病を生ず。

そのさま恰も
映画の舞台面に
力士を映せば力士を生じ
病人を映せば病人を生ずれども、
映画のフィルムそのものは
無色透明にして本来力士も無く、
病人も無く
ただ無色透明の実質の上を蔽える
印画液によりて生じたる色々の模様が、
或いは力士の姿を現じ、
或いは病人の姿を現ずるが如し。

されど健康なる力士も
虚弱なる病人も
印画液の作用によりて生じたる
影にして実在に非ず。

汝ら若し活動写真の映写機に
印画液によりて生じたる色々の模様なき
無色透明のフィルムをかけて
舞台面にこれを映写すれば、
やがて老いて死すべき健康なる力士もなく
虚弱なる病人は無論なく
ただ舞台面にあるものは光明そのもの、
生命そのものにして
赫灼として照り輝かん。

汝ら今こそ知れ、
汝らの『生命』は健康なる力士の生命以上のものなることを。
如何なる健康なる力士も
彼が肉体を実在と観、
肉体即ち彼なりと観る以上は
彼は滅ぶる者にして真の『健康』に非ざるなり。

真の『健康』は物質に非ず、肉体に非ず、
真の『生命』は物質にあらず、肉体に非ず、
物質の奥に、
肉体の奥に、
霊妙きわまりなく完全なる存在あり。

これこそ神に造られたる儘の完全なる『汝そのもの』にして、
常住健康永遠不滅なる『生命』なり。

汝ら今こそ物質を超越して
汝自身の『生命』の実相を自覚せよ。



 実在  

天使また続いて説き給わくー
実在はこれ永遠、
実在はこれ病まず、
実在はこれ老いず、
実在はこれ死せず、
この真理を知ることを道を知ると云う。

実在は宇宙に満ちて欠けざるが故に道と云う。
道は神と倶にあり、
神こそ道なり、実在なり。
実在を知り、実在に住るものは、
消滅を超越して
常住円相なり。

生命は生を知って死を知らず。
生命は実在の又の名、
実在は始めなく終わりなく、
滅びなく、死なきが故に、
生命も亦始めなく、終わりなく、
亡びなく、死滅なし。

生命は時間の尺度のうちにあらず、
老朽の尺度のうちにあらず、
却って時間は生命の掌中にあり、
これを握れば一点となり、
これを開けば無窮となる。

若しと思う者は忽ち若返り
老いたりと思う者は忽ち老い朽つるも宣なるかな。

空間も亦決して生命を限定するものにはあらず、
空間は却って生命の造りたる『認識の形式』にすぎず、
生命は主にして空間は従なり。

空間の上に投影されたる
生命の放射せる観念の紋、
これを称して物質と云う。

物質は本来無にして
自性なく力なし。
これに性質あり、
また生命を支配する力あるかの如き観を呈するは
生命が『認識の形式』を通過する際に起こしたる『歪み』なり。

汝ら、この『歪み』に捉われることなく、
生命の實相を正観せよ。
生命の實相を知る者は
因縁を超越して生命本来の歪みなき円相的自由を獲得せん。



  智慧     

智慧はこれ本来神のひかり、
実在に伴う円相的光なり、
それは無量光、無辺光にして局限なし、
局限なきが故に
一切のものに満ちて
一切のものを照し給う。

人間は光の子にして常に光の中にあれば
暗きを知らず、
躓きを知らず、
さわりを知らず、
かの天人が天界を遊行するが如く
また海魚が水中を遊泳するが如く
光の世界に光に満たされ法悦に満たされて遊行す。

知恵はこれ悟りの光にして、
無明の暗を照破する真理なり。

真理のみ実在、
無明はただ悟らざる真理にして
これを喩えば悪夢の如し。
汝ら悪夢を観ることなかれ。

悟れば忽ち此の世界は光明楽土となり、
人間は光明生命なる実相を顕現せん。

神は無量光、無辺光の知恵、
かぎりなき善、
かぎりなき生命、
一切のものの実質、
また一切のものの創造主、
されば神は一切所に偏在し給う。

神は偏在する実質且つ創造主なるが故に
善のみ唯一の力、
善のみ唯一の生命、
善のみ唯一の実在、
されば善ならざる力は決して在ることなし、
善ならざる生命も決して在ることなし、
善ならざる実在も亦決して在ることなし。

善ならざる力即ち不幸を来す力は畢竟悪夢に過ぎず。
善ならざる生命即ち病は畢竟悪夢に過ぎず。
すべての不調和不完全は畢竟悪夢に過ぎず。

病気、不幸、不調和、不完全に積極的力を与えたるは吾らの悪夢にして、
吾らが夢中に悪魔に圧えられて苦しめども
覚めて観れば現実に何ら吾らを圧える力はなく
吾と吾が心にて胸を圧えいるが如し。

まことや、悪の力、
吾らの生命を抑える力、
吾らを苦しめる力は
真に客観的に実在する力にはあらず。

吾が心がみずから描きし夢によって
吾と吾が心を苦しむるに過ぎず。
仏の道ではこれを無明と云い
神の道ではこれを罪と云う。

完全円満の生命の實相をさとらざるが故に無明と云う。
完全円満の生命の實相を包みて顕現せしめざるが故に罪けがれと云う。



無明

かく天使生長の家にて歌いたまう時、
一人の天の童子あらわれて問いを設けて云う。

「願わくは人々のために、人々のさとりのために、無明の本質を
明らかになしたまえ」と。

天使答えて云うー
無明はあらざるものをありと想像するが故に無明なり。
真相を知らざるを迷と云う。

快苦は本来物質の内に在らざるに、
物質の内に快苦ありとなして、
或いは之を追い求め、
或いは之より逃げまどう、
かかる顛倒妄想を迷と云う。

生命は本来物質のうちにあらざるに
物質の内に生命ありとなす妄想を迷と云う。

本来物質は心の内にあり。
心は物質の主にして、
物質の性質形態はことごとく心の造るところなるにもかかわらず、
心をもって物質に支配さるるものと誤信し
物質の変化に従って
憂苦し懊悩し、
われとわが生命の円満完全なる実相を悟ることを得ざるを迷と云う。

迷は真実の反対なるが故に無明なり。
迷は実在に反するが故に非実在なり。
迷若し実在するものならば
迷より生じたる
憂苦も懊悩もまた実在ならん。

されど、迷は実在の虚なるが故に
憂苦も懊悩もただ覚むべき悪夢にして実在には非ざるなり。



  罪

『罪は実在なりや?』とまた重ねて天の童子は問う。

天使の答うる声聞えて曰く、
すべて真実の実在は、
神と神より出でたる物のみなり。

神は完全にして、
神の造りたまいしすべての物も完全なり。

然らば問わん。汝は罪を以て完全となすや?
此の時天の童子答えて曰くー
『師よ、罪は完全に非ず』と。

天使また説き給うー
罪は不完全なるが故に実在にあらず、
病は不完全なるが故に実在にあらず、
死は不完全なるが故に実在にあらず、
汝ら神の造り給わざるものを実在となすなかれ。
在らざるものを悪夢に描きて恐怖すること勿れ。

罪と病と死とは
神の所造に非ざるが故に
実在の仮面を被りたれども
非実在なり、虚妄なり。

我れは此の仮面を剥いで
罪と病と死との非実在を明らかにせんが為に来たれるなり。

嘗て釈迦牟尼如来もこの為に来たりたまえり。
嘗てイエスキリストもこの為に来たりたまえり。

若し罪が実在ならば
十方の諸仏もこれを消滅すること能わざるなり。
イエスキリストの十字架もこれを消滅する事能わざるなり。

されど汝ら幸いなるかな、
罪は非実在にして迷の影なるが故に、
十方の諸仏も
衆生を摂取してよく罪を消滅したまえり。

イエスキリストも
ただ言葉にて『汝の罪赦されたり』と云いてよく
罪を消滅したまえり。

われも言葉にて
『生長の家の歌』を書かしめ、
言葉の力にて罪の本質を暴露して、
罪をして本来の無に帰せしむ。

わが言葉を読むものは
実在の実相を知るが故に
一切の罪消滅す。

わが言葉を読むものは
生命の実相を知るが故に
一切の病消滅し、
死を超えて永遠に生きん。



人間

吾は『真理』なり、
『真理』より遣わされたる天使なり。
『真理』より照りかがやく『光』なり、
迷を照破する『光』なり。

吾は『道』なり、
吾が言葉を行うものは道にそむかず。
吾は生命なり、
吾に汲む者は病まず死せず。

吾は救いなり、
吾に頼む者はことごとくこれを摂取して実相
の国土に住せしむ。

天使かくの如く説き給えば
天の童子また重ねて問う。
『師よ、人間の本質を明かになし給え。』

天使答えたまわくー
人間は物質に非ず、
肉体に非ず、
脳髄細胞に非ず、
神経細胞に非ず、
血球に非ず、
血清に非ず、
筋肉細胞に非ず。

それらすべてを組み合わせたるものにも非ず。

汝ら、よく人間の実相を悟るべし、
人間は霊なり、
生命なり、
不死なり、
神は人間の光源にして
人間は神より出でたる光なり。
光の無き光源はなく、
光源の無き光はなし。
光と光源とは一体なるが如く
人間と神とは一体なり。

神は霊なるが故に
人間も亦霊なるなり。
神は愛なるが故に
人間も亦愛なるなり。
神は知恵なるが故に
人間も亦知恵なるなり。

霊は物質の性に非ず、
愛は物質の性に非ず、
知恵は物質の性に非ず、
されば、
霊なる愛なる知恵なる人間は、
物質に何ら関わるところなし。

まことの人間は、
霊なるが故に、
愛なるが故に、
知恵なるが故に、
生命なるが故に、
罪を犯すこと能わず、
病にかかること能わず、
死滅すること能わず、
罪も、
病も、
死も、
畢竟汝らの悪夢に過ぎず。

汝ら生命の実相を自覚せよ。
汝らの実相たる『真性の人間』を自覚せよ。

『真性の人間』は神人にして
神そのままの姿なり。

滅ぶるものは『真性の人間』に非ず。
罪を犯すものは『真性の人間』に非ず。
病に罹るものは『真性の人間』にあらず。

地上の人間よ、
われ汝らに告ぐ、
汝ら自身の本姓を自覚せよ。

汝ら自身は『真性の人間』にして、
そのほかの如何なるものにも非ず。

されば人間は真理の眼より見る時は
罪を犯す事能わざるものなり、
病に罹る事能わざるものなり、
滅ぶること能わざるものなり。

誰か云う『罪人よ、罪人よ』と。
神は罪人を造り給わざるが故に
この世に一人の罪人もあらず。

罪は神の子の本性に反す、
病は生命自身の本性に反す、
死は生命其自身の本性に反す、
罪と病と死とは、
畢竟存在せざるものを夢中に描ける妄想に過ぎず。

実相の世界に於ては
神と人とは一体なり、
神は光源にして
人間は神より出でたる光なり。

罪と病と死とが
実在すると云う悪夢を、
人間に見せしむる根本妄想は、
古くは、
人間は塵にて造られたりと云う神学なり。

近くは、
人間は物質にて造られたりと云う近代科学なり。

これらは人間を罪と病と死との妄想に導く最初の夢なり。
この最初の夢を摧破するときは
罪と病と死との
根本原因は摧破せられて
その本来の無に帰するなり。

汝ら『生長の家』を読んで真理を知り病の癒ゆるは
この最初の夢の摧破せらるるが故なり。
最初の夢なければ
次の夢はなし。
悉く夢なければ本来人間清浄なるが故に
罪を犯さんと欲するも
罪を犯すこと能わず、
悉く夢なければ自性無病なるが故に
病に罹らんと欲するも
病に罹ること能わず、
悉く夢なければ本来永生なるが故に死滅
すること能わず。

されば地上の人間よ
心を尽して自己の霊なる本体を求めよ、
これを夢と妄想との産物なる物質と肉体とに
求むること勿れ。

キリストは
『神の国は汝らの内にあり』と云い給えり。

誠に誠にわれ汝らに告げん。
『汝らの内』とは汝ら『人間の自性』なり、
『真の人間』なり。

『汝らの内』即ち『自性』は神人なるが故に
『汝らの内』にのみ神の国はあるなり。

外にこれを追い求むる者は夢を追いて走る者にして
永遠に神の国を有る事能わず。
物質に神の国を追い求むる者は
夢を追うて走る者にして
永遠に神の国を建つる事能わず。

キリストは又云い給えり、
『吾が国は此の世の国にあらず』と。
此の世の国は唯影にすぎざるなり。

常楽の国土は内にのみあり、
内に常楽の国土を自覚してのみ
外に常楽の国土は其の映しとして顕現せん。

内に無限健康の生命を自覚してのみ
外に肉体の無限健康は其の映しとして顕現せん。

人間の五官はただ『映しの世界』を見るに過ぎず。
『映しの世界』を浄めんと欲すれば心の原版を浄めて
迷の汚点を除かざるべからず。

われ誠に物質の世界の虚しきを見たり、
物質の世界が影に過ぎざることを見たり。
われまた人間が神より放射されたる光なる事を見たり。
肉体はただ心の影なる事実を見たり。

汝ら、物質は移りかわる影にすぎざること
恰も走馬灯に走る馬の如し。
されば、影を見て実在となすことなかれ。

人間真性はこれ神人、
永遠不壊不滅の霊体にして
物質をもって造り固めたる機械にあらず、
また物質が先ず存してそれに霊が宿りたるものにもあらず、
斯くの如き二元論は悉く誤れり。

物質は却ってこれ霊の影、心の産物なること、
恰も繭が先ず存在して蚕がその中に宿るには非ずして、
蚕が先ず糸を吐きて繭を作り
繭の中にみずから蚕が宿るが如し。

人間の真性は先ず霊なる生命にして
心の糸を組み合せて肉体の繭を造り
その繭の中にわれと吾が霊を宿らせて、
はじめて霊は肉体となるなり。

汝ら明かに知れ、繭は蚕に非ず、
然らば肉体は人間に非ずして、
人間の繭に過ぎざるなり。
時来らば蚕が繭を食い破って羽化登仙するが如く、
人間もまた肉体の繭を食い破って霊界に昇天せん。
汝ら決して肉体の死滅をもって人間の死となす勿れ。

人間は生命なるが故に
常に死を知らず。
想念に従い
時に従い
必要に従いて
肉体と境遇とに様々の状態を顕せども、
生命そのものは病むに非ず、
生命そのものは死するに非ず、
想念を変うることによって
よく汝らの健康と境遇とを変うること自在なり。

されど汝ら、
ついに生命は肉体の繭を必要とせざる時至らん。

かくの如きとき、
生命は肉体の繭を食い破って
一層自在の境地に天翔らん。
これをもって人間の死となすなかれ。
人間の本体は生命なるが故に
常に死することあらざるなり。

ーかく天使語り給うとき、
虚空には微妙の天楽の声聞え
葩は何処よりともなく雨ふりて、
天の使いの説き給える真理をば
さながら称うるものの如くなりき。


(聖経終)

願わくは此の功徳を以て普ねく一切に及ぼし、
我等と衆生と皆倶に実相を成ぜんことを。


・・・

関連として、次のスレッド、Webがあります。

(1)生長の家“本流宣言”掲示板
   甘露の法雨・世界平和の祈り ムーブメント (58)
    (日時:2011年03月23日 (水) 16時37分 名前:2011 )
  → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=29

(2)生長の家“本流宣言”掲示板
   田中静壹大将と甘露の法雨 (4660)
    (日時:2011年09月25日 (日) 21時38分 名前:山ちゃん1952 )
  → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=980

(3)生長の家“本流宣言”掲示板
   甘露の法雨について 語ろう そして読もう・・・今だからこそ (3530)
    (日時:2011年07月22日 (金) 10時48分 名前:2011 )
  → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=697

(4)生長の家光明掲示板
   奇蹟の『甘露の法雨』 (126)
  → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=64

(5)『天使』に就いて (1101) 日時:2012年09月05日 (水) 11時42分(名前:童子)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=264

(6)生長の家光明掲示板
   御皇室の弥栄と日本國実相顕現のために『甘露の法雨』を読誦しましょう。(1~4)
  → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1411

           <感謝合掌 平成25年5月24日 頓首再拝>

【聖経 「天使の言葉」】 (8853)
日時:2013年05月31日 (金) 06時10分
名前:伝統


天使(てんのつかい)また語りたまう ――

言葉(みことば)は天に舞いて五彩の虹を現じ、
地にひろがりて最(い)と妙(たえ)なる交響楽を奏すれば、

天童(てんどう)たちこれに和して、
花爛漫(はならんまん)の樹枝(こえだ)を手にし、
身に羅綾(うすもの)のいと妙(たえ)なるを纏(まと)い、
翩翻(へんぽん)として御空(みそら)に舞えば、
 
花葩(はなびら)さんさんと地に降(ふ)りて、
地上はさながら妙楽(みょうらく)の天園(てんのその)と化したりき。


さて天使(てんのつかい)の言葉はのたまわく ――
われは完(また)き神の啓示者なり。

神の与え給いしところのものを
吾れも亦汝らに与えん。
神の語り給いしところのものを
吾れも亦汝らに語らん。

吾れは創造神(つくりぬし)より遣(つか)わされたる者なり、
吾れは創造神(つくりぬし)の道(ことば)なり、
吾れは創造神(つくりぬし)の波動(ひびき)なり。
吾れは創造神(つくりぬし)より来りて汝らを言葉にて照り輝かさん。

創造神(つくりぬし)の光波(ひかり)は吾れにして
吾が光波(ひかり)の射(さ)すところ
暗黒(やみ)なく
病なく
老(おい)なく
死なし。

信ずる者は限りなき生命(いのち)を得て永遠に輝かん。

我は創造神(つくりぬし)の言葉なればなり。
吾が言葉は吾が息の言う処に非ず、
神、我と偕にありて、
吾れも亦吾が言葉の内に神の声を聞くなり。
吾れは喇叭なり。


汝らよ ――
吾れ個神(ひとり)を善しと云う事勿れ。
形に現れたる神を讃(ほ)むること勿れ。
吾れに宿る善きものは皆普遍なる神より来(きた)る。

汝ら吾が示すところの神を崇(あが)めよ。
吾れを崇めよと云うには非ず。
吾れはただ天使(つかい)なり、
吾れみずからの本性の神なることを観たれば、
吾れ汝らの本性の神なることを悟らしめん。

汝らの先ず悟らざるべからず真理は、
『我(われ)』の本体がすべて神なることなり。

汝ら億兆の個霊(みたま)も、
悉くこれ唯一神霊の反映(うつし)なることを知れ。
喩えば此処に一個の物体の周囲(まわり)に百万の鏡を按(お)きて
これに相対(あいたい)せしむれば一個もまた百万の姿を現ぜん。

斯くの如く汝らの個霊(みたま)も
甲乙相分れ、
丙丁互に相異なる相(すがた)を現ずるとも
悉くこれ唯一神霊の反映(うつし)にしてすべて一つなれば
これを汝ら互いに兄弟なりと云う。

すべての生命(いのち)を互いに兄弟なりと知り、
すべての生命(いのち)を互いに姉妹なりと知り、
分ち難くすべての生命(いのち)が一体なることを知り、
神をすべての生命(いのち)の父なりと知れば、
汝らの内おのずから愛と讃嘆の心湧き起らん。

されば汝らよ、
肉体の外形(そとのかたち)に捉わるること勿れ。
外形(がいけい)によって兄弟を相隔(あいへだ)つること勿れ。
外形(がいけい)は唯自己の信念の影を見るに過ぎず。
無限の生命(いのち)が、
如何にしてか老い朽つべき肉体のうちに宿ることを得んや。

天使(てんのつかい)斯くのたまえば ――
翩翻としてみ空に舞える天童たち
舞い終わりて一斉に天使(てんし)に対(むか)いて一揖(ゆう)す。

 
此時(このとき)天の童子のうちより、
緑色の羅綾(うすもの)にその玉の如き身を包める
いと﨟(ろう)たけたる一人進み出で、
『されど生命の長老よ』
と呼びかけて反問す。

『近代の科学者は頭脳にて物を思考し、
神経細胞にて物を感ずると云うに非ずや。
頭脳なく、神経細胞なければ
如何にしてか、物を考え、
物を感ずることを得(う)べけんや』と。

天使(てんのつかい)再び答え給わく ――
汝ら、
『肉体細胞』と呼ぶ物質のうちに
快あり苦あり感覚ありと思うは虚妄(まよい)なり。
肉体は本来『無(む)』なるが故に、
それはただ想念の影なるが故に、
吾らが肉体を忘れて忘我の境(きょう)にあるとき、
吾らの肉体は最も完全にその職能(はたらき)を発揮するなり。

肉体はその背後に『心(こころ)』ありて
想念(そうねん)のフィルムを回転して
『現世(うつしよ)』の舞台面(スクリーン)に肉体の映画(すがた)を現ぜるに過ぎず。  
        
汝ら自己をば肉体なりと観ずる夢を破れ。
現世(うつしよ)に於ても優れたる科学者は
人間を肉体なりと観ぜず、
感覚は肉体の背後にある心の感じなる事をあきらかにせり。

嘗(かつ)て伊太利(イタリー)の大医(たいい)ロンブロゾーが
或る神経病者を取扱いし記録を見ずや。
患者は感覚の転位を起して
眼球をもって物象(かたち)を見ることを得ず、
指頭(ゆびさき)をもって物象(かたち)を見ることを得しにあらずや。

指頭(ゆびさき)には眼球なく、
網膜なく、
視神経なし、
されど彼の指頭(ゆびさき)はよく物象(かたち)を見ることを得しに非ずや。

この事実は、
感覚が肉体になく、
神経細胞になく、
その背後にある『心(こころ)』に在ることを立証するものなり。

『心(こころ)』にして見ることを肯(がえ)んずれば、
指頭(ゆびさき)も尚(なお)物象(かたち)を見るを得べく、
また其の指頭(ゆびさき)すら無(な)くして
なお物象(かたち)を見、ものを聞くことを得べし。
天眼天耳(てんがんてんじ)と称するもの即ちこれなり。

かの楽聖(がくせい)ベートーベンの
有名なる諸作品は
彼の肉体の耳聾(し)いて
物体の音響を殆ど弁別(べんべつ)し難き晩年に到りて作曲せられしに非ずや。
       
彼の肉体の耳は聾(し)いたれども
心の耳ひらけたれば、
こころの耳はピアノの鍵盤(けんばん)に触るるに従いて
その微妙(たえ)なる奏曲を分別(ふんべつ)し得たるなり。


かくの如く人は
心だに肉体に捉われざれば
眼(まなこ)なくして物を見、
耳なくして物を聞き、
体なくして物に触るることを得るは事実にして理論にあらず。

この時、天の童子反問す ――
『主よ、眼(まなこ)なく耳なくして、物を見、物を聞くを得るは聞きしことあれども、
体(からだ)なくして物に触るることは不可能にあらずや』と。


天の使こたえ給う ――
汝ら近頃の心霊科学の実験を見しことなきや。
被実験者は椅子に緊縛(きんばく)せられて一毫(いちごう)もその肉体は動く能わずして
尚(なお)、凝念(こころ)の力によりて
或は机を空中に浮揚せしめ、
或は手風琴(てふうきん)を空中に飛翔(ひしょう)せしめ、
或は空中のメガホーンより声を出(い)ださしめ
或は空中より手風琴を奏せしむることを得(う)、
これ体(からだ)なくして物(もの)に触れ物(もの)を動かし得る実例なり。


心が『物(もの)』を動かすことを得るは
『物(もの)』と心が全然別物に非ずして
『物(もの)』は『心(こころ)』の痕跡(こんせき)なるが故なり。


例えば美術家が巧(たく)みなる絵を描くに
絵は美術家の心の痕跡(こんせき)にすぎずして、
絵は美術家そのものに非ざるが如し。

斯くの如く人間の肉体も人間の心の痕跡にして
人間そのものには非ざるなり。

念(こころ)に従って、
肉体の相貌(かたち)或は美しく或は見苦しく変化し、
健康もまた念(こころ)に従って変化す。       
人この理(ことわり)をさとれば
意(こころ)のままに自己の肉体を支配して変化せしむることを得ん。


迷妄(まよい)は云う『人とは肉体也』と。
されど肉体は人には非ざるなり。
『人』の実相は神の子にして、
生きとおしの生命(せいめい)なれば
生滅(しょうめつ)つねなき肉体を以て代表せしめ得るものには非ず。


すべて生滅(しょうめつ)常なきものは
実体に非ずして
ただ信念の反映(かげ)に過ぎず。
信念を変うればまたその相(すがた)も変化せん。

物質は事物の実相に非ず、
ただ念(こころ)に従って生滅(しょうめつ)す。
物質は念(こころ)の影なるが故に、
それ自身意識を有せず、
感覚を有せず、
痛みを感ぜず、
病を感ぜざるを本性(ほんせい)とす。

然(しか)るに物質にあり得べからざる痛苦(いたみ)を
物質なる肉体が感ずるは、
唯『感ずる』と云う念(ねん)あるが故(ゆえ)なり。

肉体に若(も)し催眠術を施して
彼の念を一時的に奪い去れば、
針にて刺すとも痛みを感ぜず、
メスにて切るとも痛みを感ぜず、
無痛刺針、無痛施術等自由自在に行われるに非ずや。

『念(ねん)』全く去りたるものを死体と云う。
汝ら死体が痛みを感じたるを見しことありや。
死体は『念(ねん)』去れるが故に痛みなきなり。
『念)ねん)』に従って一つの組織を現ぜるもの
この『生ける肉体』なり。

されば『生ける肉体』は念(ねん)に従ってその状(すがた)を変ず。
『健(けん)』を念ずれば身健やかとなり、
『病(やまい)』を念ずれば身に病(やまい)を現ず。
されば汝ら常に『健』を念じて
『病』を念ずること勿れ。

若し、汝の『念(ねん)』肉体を去れば、
生ける肉体死体と変じ、
死体はその状態を維持する『念(ねん)』の力の去ると共に、
分解して宇宙の要素に復帰せん。

肉体を去りたる『念(ねん)』は、
その念の力にてなお一つの個性を持続し、
幽界に於て生活(いとなみ)をつづけん。

汝らの霊魂と称するもの是にして、
『念(こころ)』の浄(きよ)まるに従って
それに相応(ふさ)わしき高き霊界に入り、
『念(こころ)』の浄まらざるものは、
それに相応(ふさわ)しき環境を『念(ねん)』の力にて仮作(けさ)し、
その環境にいて苦しまん。


されば汝ら、
常に心を高く持して
苟(いやしく)も悪を念ずること勿れ。
苟(いやしく)も不浄を念ずること勿れ。
また苟(いやしく)も苦(くるしみ)を念ずること勿れ。
また苟(いやしく)も病を念ずること勿れ。

悪と不浄(ふじょう)と苦(くるしみ)と病(やまい)とは、
神の創造(つく)り給いしものに非ざれば、
ただ汝らの『念(ねん)』の妄想せる幻に過ぎざるなり。

汝ら暗(やみ)を見て、
暗(やみ)を実在すと信ずること勿れ。
暗(やみ)は唯(ただ)是(こ)れ光の非在に過ぎず。
悪と不浄(ふじょう)と苦(くるしみ)と病(やまい)とは
ただ神の創造(そうぞう)の無をあらわす。

神の創造(そうぞう)なければ
其処(そこ)に実在なし、
実在の『無(む)』 ―― これを称して悪と云い不浄と云い苦と云い病と云う。

されば汝ら何(なん)の故(ゆえ)に実在に非ざる苦(くるしみ)を恐るるや、
何(なん)の故に実在に非ざる病を恐るるや、
暗(やみ)の中にいて恐怖すれば
枯尾花(かれおばな)も幽霊の姿を現ず。

斯(か)くの如く心の暗(やみ)の中にいて病を恐怖すれば
非在の病も実在の如き姿をもって現れん。
されど病は実在に非ずして
ただ恐怖の反映(かげ)に過ぎず。        

心の暗(やみ)の中に光(ひかり)射(さ)し来りて
汝らの恐怖心消ゆるとき
病はおのずから自消自滅して本来の『無』を露(あら)わさん。

されば汝ら、
心の中に常に円満完全清浄なる実在の相(すがた)を描けよ。
常に円満完全無病なる神の子の相(すがた)を描けよ。
人は神の子にして其の他(ほか)の何者にも非ざるなり。

円満完全なる神より不幸は生ぜず、
円満完全なる神より病は生ぜず、
不幸と病は唯これ五官の妄想(まよい)に過ぎざるなり。

汝ら病を恐るること勿れ。
五官の感覚に描かれたる病は
一毫(いちごう)も汝らの生命の実相を病(や)ましむること能(あた)わず、
一毫(いちごう)も汝らの生命の実相を不幸ならしむること能(あた)わず、

如何なる病も
如何なる不幸も
ただ『生命の実相』の表面を掩(おお)える
叢雲(むらくも)の如き幻に過ぎざるなり。

その幻はすべて
『生命の実相』を知らざる迷いより生ず、
汝ら『生命の実相』を知り、
迷(まよい)滅すれば恐怖滅し、
恐怖滅すれば
一切の不幸と病おのずから滅せん。


かく天使(てんのつかい)語り給えば ――
虚空(こくう)に蓬莱島(ほうらいとう)の如き理想郷実現し
島の頂(いただき)には水晶(すいしょう)にて造れる宮殿ありて
その甍(いらか)も柱も悉く水晶なり。

天使(てんのつかい)その主座(しゅざ)に坐し給えば
天童たちその甍(いらか)を透過(つらぬ)きて天より舞い降(くだ)りて
悉(ことごと)く天使(てんのつかい)の周囲に輪を描く。

此の時いずこともなく天楽(てんがく)の音(ね)嚠喨(りゅうりょう)として聞え、
天童これに和し羅綾(うすもの)を流(ながれ)の如く引いて舞えば
島(しま)をめぐれる紺青(こんじょう)の海に
ベニスのゴンドラ船の如き
半月の船(ふね)静かに辷(すべ)りていと平和なる状態(すがた)なり。


此の時天使(てんのつかい)の声水晶宮(すいしょうきゅう)より出でて虚空に轟(とどろ)き、
地を指(ゆびさ)して宣(のたま)わく、

『見よ、これ実相世界なり、
実相世界は父の国なり、
天国なり、
浄土なり。
父の国には住居(すまい)多し。

実相世界の住居(すまい)は悉くこれ「生長の家」なれば
住民(すむひと)に飢えなく、
悲しみなく、
争いなく、
病なく、
万(よろず)の物ことごとく意(こころ)に従って出現し、
用足りておのずから姿を消す。

円満具足清浄微妙の世界、
これ実相世界、
これ汝らの世界、
そのほかに世界あることなし。』

斯く天使(てんのつかい)宣(のりた)まうとき、
天使(てんのつかい)指(ゆびさ)し給う方を見れば

『生長の家』無数に建ち並びて
甍列(いらかれつ)をなし
炊煙(すいえん)春の霞(かすみ)の如く棚引(たなび)きて
住民悉く鼓腹撃壌(こふくげいじょう)し、
其処はただ常楽(じょうらく)の世界を現じたりき。

  (聖経終)

  願わくば此の功徳を以って普く一切に及ぼし、
  我等と衆生と皆倶に実相を成ぜんことを。
        
           <感謝合掌 平成25年5月31日 頓首再拝>

久遠いのちの歌 (8854)
日時:2013年05月31日 (金) 06時12分
名前:伝統

是(こ)の身は霓(にじ)の如し、
霓(にじ)は久しく立つに能(あた)わず、
須臾(しゅゆ)にして消ゆ。

是の身は泡の如し、
泡は久しく立つ能わず、
須臾にして消ゆ。

是の身は幻(まぼろし)の如し、
幻は久しく立つ能わず、
須臾にして消ゆ。

是の身は響(ひびき)の如し、
響(ひびき)は久しく立つ能わず、
須臾にして消ゆ。

是の身は稲妻(いなずま)の如し、
稲妻は久しく立つ能わず、
須臾にして消ゆ。

是の身は浮雲(うきぐも)の如し、
浮雲は久しく立つ能わず、
須臾にして消ゆ。

是の身は水流(すいりゅう)の如し、
水流は久しく立つ能わず、
念々(ねんねん)に流れ去る。

是の身は芭蕉(ばしょう)の如し、
実(じつ)ありきと見ゆれども、
中空(なかくう)にして実あらず。

是の身は焔(ほのお)の如し、
温かく見ゆれども、
一切を焼き尽くして空(むな)し。

是の身は夢(ゆめ)の如し、
実ありと見ゆれども、
虚(きょ)にして空(むな)し。

是の身は迷いより出(い)ず、
実ありと見ゆれども、
妄(もう)にして空し。

この身は主(しゅ)なし、
主ありと見ゆれども、
主なくして空し。

この身は心性(こころ)なし、
心性ありと見ゆれども、
瓦礫(がれき)の如く心性(こころ)なし。

この身は生命(いのち)なし、
旋風(せんぷう)に舞う樹(こ)の葉の如く、
唯(ただ)業力(ごうりき)に転ぜらる。

是の身は不浄(ふじょう)なり、
美しく見ゆれども、
内(うち)に醜(みにく)きもの充満(じゅうまん)す。

是の身は無常(むじょう)なり、
堅固(けんご)なりと見ゆれども、
必ずや当(まさ)に死すべき時(とき)臨(きた)らん。

泡の如く、霓(にじ)の如く、
幻の如く、響(ひびき)の如く、
過ぎ去るものは実在に非ず。

汝ら実在に非ざるものを、
『我(われ)』なりと云うべからず、
当(まさ)にこれを『我(われ)』と云うべからず。

空(むな)しきものは『我(われ)』に非ず、
死するものは『我(われ)』に非ず、
無常なるものは『我(われ)』に非ず。
 
法身(ほっしん)こそ応(まさ)に『我(われ)』なり。
仏身(ぶっしん)こそ応(まさ)に『我(われ)』なり。
金剛身(こんごうしん)こそ応(まさ)に『我(われ)』なり。

不壊(ふえ)なるものこそ応(まさ)に『我(われ)』なり。
死せざるものこそ応(まさ)に『我(われ)』なり。
尽十方に満つるものこそ応(まさ)に『我(われ)』なり。

           <感謝合掌 平成25年5月31日 頓首再拝>

【 聖経 続々「甘露の法雨」 】 (9657)
日時:2013年07月05日 (金) 05時05分
名前:伝統

或る日、再び天使(てんのつかい)「生長の家」に来りて歌い給う━

汝(なんじ)らよ恐れずに人生の行路(こうろ)を進むべし。
恐怖なき者には不幸は決して近づかず、
全ての不幸と悲惨(ひさん)とは神の所造(しょぞう)に非(あら)ざるなり。

恐怖なく人生の行路を歩む者には
不幸も俯垂(うなだ)れて避(さ)けて通り、
病気も帰順(きじゅん)の意を表(ひょう)して
その「本来の無」に還帰(げんき)して消滅せん。

その昔、

沢庵禅師(たくあんぜんじ)が虎の檻の中に平然と押し進み
恐れずに其(そ)の虎を見詰めしとき、
虎は首を俯垂(うなだ)れて猫のごとく優しくなれりと謂(い)うにあらずや。

汝ら「人間・神の子」の真理を自覚して
恐れずに虎に立対(たちむか)えば虎は頸垂(うなだ)れ
熊に立対(たちむか)えば熊は避けて後退(あとずさ)りせん。

その如く「人間・神の子」の真理を自覚して
病気に立対(たちむか)えば病気は消え、
不幸に立対(たちむか)えば不幸は滅せん。

汝ら病を恐るること勿(なか)れ。
不幸を恐るること勿れ。

心に恐怖なければ
肉体の潰瘍(かいよう)も加答児(カタル)も無し。

すべての「迷の心」を摧破(さいは)すれば
すべての不幸と疾患(やまい)とは夢の如くに消失(きえう)せん。

神は決して肺結核も、
腸カタルも、
風邪(ふうじゃ)も、癌腫(がんしゅ)も、
凡(あら)ゆる病いも創造(つく)らざるなり。

すべての病気は人間の「仮想(まよい)の念(こころ)」の中(うち)に
描かれたる信念の投影(かげ)に過ぎず。

人間・神の子・本来無限力の実相(じっそう)を自覚して
汝の迷(まよ)いの念(ねん)を去るべし。

かくて汝の迷い消え、一切の恐怖去るとき、
すべての病患部の炎症と、爛(たた)れと、腫脹(しゅちょう)とは、
おのずから癒(い)えて健全なる相(すがた)をあらわさん。

炎症と爛(ただ)れとはただ恐怖心のあらわれに過ぎず、
若し恐怖心なければ
傷つくとも炎症を引き起こさず、
瘡面(そうめん)は爛(ただ)れず、
立所(たちどころ)に新しき肉芽(にくが)は再生し
健全なる細胞(さいほう)は新生せん。

無生物なる物質に起る科学的法則と
生きている生命体に起る生命的法則とは異なるなり。

無生物の物質をいかに試験管内にて組合すとも
決して生(い)ける生命体は生(しょう)ぜざるなり。

無生物なる栄養成分が
人体の一部を構成し、
「生ける肉体」に変ずるには、
物質的補給が兎(と)も角(かく)も「生命(せいめい)」の支配下に置かれざるべからず。

生命(せいめい)の支配下に物質が置かれるとき
単なる化学的法則にて離合(りごう)せし物質が、
又別の法則にて離合(りごう)するなり。

生命(せいめい)は物質の法則をも取入(とりい)れて利用すれども
生命(せいめい)は物質の法則を超えたる自主的支配力を物質の上に及ぼすなり。

生命(せいめい)は物質の法則を利用しつつも
物質の法則には縛(しば)られざるなり。

物質の法則を乗り超えて、
みずからの欲する相(すがた)に肉体を構成するもの
これ生命(せいめい)なり、《いのち》なり。

されば、
吾々は生ける肉体に関する限り
物質の法則は生命(せいめい)の法則の従位(じゅうい)にあり。

例(たと)えば食物(しょくもつ)にビタミン欠乏せば、
生命(せいめい)はみずからビタミンを作るを得(え)、
肺臓に空洞を生ずれば
生命(せいめい)はみずから新しく肺臓の組織を造るを得(う)。

汝等(なんじら)母の体内にありて卵子(らんし)たりしとき、
肺臓も心臓も胃袋も無(な)かりしなり。

一切の内臓なき卵子も、
その中(なか)に生命(せいめい)が宿るとき、
生命(せいめい)は、肺臓も、心臓も、胃袋も、
みずからの力にて「無(む)」よりして創造(そうぞう)するなり。


病気は近づき来(きた)る猛獣にはあらず、
「生命(せいめい)」と存在の王座を争い
「生命(せいめい)」を脅ざ(おびやか)すごとき積極的存在には非(あら)ざるなり。

病気よ、何者ぞ。
汝は「無(む)」の別名に過ぎざるなり。
汝は「生命(せいめい)」がそれ自身の力を自覚せず、
生命(せいめい)の力を殊更(ことさら)に主張せざるとき顕れる消極的存在に過ぎざるなり。

光がみずからを顕(あらわ)さず、
光がそれみずからを主張せざるとき、
そこに暗(やみ)と云うものあるかの如く顕(あらわ)れて見ゆ。

その如く、
「病い」は「生命(せいめい)」がそれみずからを顕(あらわ)さず、
それみずからを主張せざるとき、
朦朧として顕(あらわ)れる「暗(やみ)」に過ぎず、
「病(や)み」と「暗(やみ)」とは即ち語源を同じゅうす。

死刑囚に目かくしして
「汝を頸(けい)動脈切断の刑に処(しょ)すべし」と宣告し、
微温湯(びおんとう)の滴々(てきてき)をその頸筋(くびすじ)の皮膚に滴(したた)らしたる時、
恐怖心により遂にその死刑囚が気死(きし)した記録を見よ。

如何に多くの病患者が、唯(ただ)恐怖心にて気死(きし)したるか。

喀血や、吐血や、子宮癌の出血にて、
唯(た)だ恐怖の為に死に導かれたる数(すう)は、
戦争が人類を殺戮(さつりく)したる数(すう)よりも多きなり。


汝ら決して出血を恐怖すること勿れ。
生命(せいめい)は血液よりも偉大なるものなり。

出血の次の瞬間よりして、
生命(「せいめい)はその出血部の血管を
自然療能力にて結索(けつさく)し、
新たなる血液を造り始め、
日ならずして汝の身体(しんたい)はその浄(きよ)らかな血液を倍加(ばいか)せん。
 
恐怖せざれば人間は出血にて死せざるなり。

汝ら、発熱を恐るるなかれ。
そは汝の憤激(ふんげき)か、恐怖か、焦躁(いらだち)の心の反影に過ぎざるなり。
汝が憤激(ふんげき)をやめ、
恐怖をやめ、
焦躁(いらだち)の心を鎮(しず)めて平和ならば、
平熱(へいねつは安らかに再び汝を訪れ、
発熱(はつねつ)はおのずから消滅(しょうめつ)せん。


心を鎮めて平和ならしむるの秘訣は
唯(ただ)「有難う」と一切のものに感謝するにあり。
一切の人に、事に、物に、症状に感謝するとき、
其処(そこ)に本来の平和は汝の心を訪れん。



心の平和は
神の癒(いや)しの波動と同波長なり。
 
心の平和あるところに
神の癒しの波動は宿り来りて
健康の姿となって顕るべし。

汝らよ、心安(やす)らかなれ。
健康は既に汝を訪れたりと知れ。

(【 聖経 続々「甘露の法雨」 】) (9658)
日時:2013年07月05日 (金) 05時06分
名前:伝統

天使(てんのつかい)つづいて説きたまう──

汝の身体(からだ)が若し単なる物質ならば
いかなる寒冷の空気に触るるとも
病いにかかることなきが道理(ことわり)なり。

巌石(がんせき)は単なる物質なるが故に風邪(ふうじゃ)に罹)かか)らず、
銅像は単なる物質なるが故に結核に罹らず、
巌石や銅像が風邪(ふうじゃ)に罹らず
結核に冒されざるは、
巌石や銅像が単なる物質なるが故なり。

人間が寒冷なる空気に触れて
洟(はなみず)や痰咳(たんせき)を生ずるは、
物質が寒気(かんき)に触れて凍結し破壊する法則とは全然別なり。

そは唯(やだ)「迷いの心」の法則にて起る。
一切の症状は単なる物質には起らず、
症状はただ「迷いの心」がみずから恐怖せる反応に過ぎず。


汝ら恐るる心を捨て、
生命(せいめい)の不可思議なる癒能(ゆのう)を讃歎(さんたん)せよ。
「迷いの心」なければ
病気なく症状(しょうじょう)なし。
病気とは「迷いの心」の表現に過ぎざるなり。

「心」をもたざる胃袋の剥製(はくせい)に
石塊(いしころ)を如何に詰め込むとも胃病は起らず。
  
されど生ける胃袋の石塊(いしころ)を詰め込めば
恐らく多くの人々は激しき胃腸(いちょう)加答児(カタル)を惹起(ひきおこ)さん。
加答児(カタル)とは「迷いの心」の恐怖せる表現に過ぎざるなり。


汝ら恐怖心を去れ。
その時こそ汝の病気は癒えはじむるなり。
迷いなければ、内臓の炎症もなく、糜爛(びらん)無く、腫脹(しゅちょう)なし。

無機物が硫酸の劇作用に触れたるときの破壊と、
肉体に起る炎症又は糜爛(びらん)とは別物(べつもの)なり。

たとい硫酸が胃の粘膜の内面を破壊するとも
その次の瞬間より瘡面(そうめん)に腐爛(ふらん)なき新肉芽(にくが)を発生し
回復を続けるもの、

これ生ける生命体(せいめいたい)なり。

物質療法はただ結果を見て、
結果を緩和する処置をするに過ぎず。

病いの原因は「心」にあり。
しかも「迷いの心」にあり。
汝ら「迷い」に捉わるることなかれ。
「迷い」を去り、汝の生命(せいめい)が「神の生命(せいめい)」なる実相を諦(たい)観せよ。


血液の循環は心に従って自在に変化す。
速脈も遅脈も恐るることなかれ。

ただ羞恥の感情すらも
血液の流れを顔面に逆流せしめ、
ただ驚愕(きょうがく)の感じすらも
心臓をして早鐘(はやがね)のごとく動悸(どうき)せしめん。

心平和となれば心臓の働きも亦平和に恢復(かいふく)せん。

すべての病を癒す道は
先ず汝の感情を平和ならしむるにあり。

憎(にく)みによる心の不調和により生じたる病いは
憎(にく)みに代(か)うるに愛を以(もつ)てすれば癒えん。

不平に伴う心の不調和より生じたる病いは
不平に代(か)うるに感謝をもってすれば癒えん。
 
悲しみによる心の傷より生じたる病いは
悲しみに代(か)うるに悦(よろこ)びの情(こころ)を起せば癒(い)えん。


汝ら常に愛し、
感謝し、
悦びて公(おおや)けの仕事にいそしめば、
すべての病いは汝を冒(おか)すこと能(あた)わず、
既に病いある者も速(すみや)かに癒(い)ゆること必定(ひつじょう)なり。


すべて病気は念(こころ)の影なるが故に、
病気を癒やさんと思いて
常に病床(びょうしょう)に横たわり、
「この病気」「この病気」と常に心を労すれば
病気は却(かえ)って増悪(ぞうあく)せん。

病気を心に描けば病気来(きた)る。
病床に横たわりて病気を常に心に描きながら
病気の癒(い)ゆることを希(こいねが)うは
火を握(にぎ)りつつ冷たきを希(こいなが)うが如し。


病人は殊更(ことさら)に病気を心より放つべし。
而(しか)して、唯(ただ)愛せよ、唯(ただ)感謝せよ。

国を愛せよ、
人を愛せよ、
家族を愛せよ、
すべとの物と事と人とに感謝せよ。

さらに特に汝の父母に感謝せよ。

常に悦びて何か必ず人のためになる事を為(な)せ。
愛と感謝の感情は、
病いの癒(い)ゆる生命(せいめい)波動を感受する最善の波動なり。


汝ら今、生命(いのち)あることを悦べ、
今、生きてあるその「今(いま)」を悦ぶべし、
汝の悦びは汝の病いを癒やすべし。

誤りて母の死を報ずる電報を受けしとき
汝の心はその誤りを真実と誤解して悲しまん。
汝の心が悲しめば汝の肉体は苦しみ、
顔色(がんしょく)は青褪(あおざ)めん。

やがて、母の死は虚報なりしと
訂正の電報来(きた)るならば
汝の心の悲しみは消え去り、
汝の肉体の苦しみは回復し、
顔色(かおいろ)も血色(けっしょく)鮮(あざ)やかに輝かん。

 
斯(か)くの如く、汝の肉体の苦しみは
汝の心の反映(かげ)なるが故に、
汝の肉体に起(おこ)れる病気の状態は
虚報の電文にて起れる蒼褪(あおざ)めた顔色(かおいろ)と同じく

真に存在するものには非(あ)らざることを知らば、
忽(たちま)ち汝の心に平和恢復して
汝の肉体の症状は消え去るなり。

(【 聖経 続々「甘露の法雨」 】) (9659)
日時:2013年07月05日 (金) 05時08分
名前:伝統

天使(てんのつかい)また説き給う──

神は善(ぜん)なるが故に、
すべては「一」の展開なるが故に、
一切のところに遍(あまね)く調和は行(ゆ)きわたり、
不調和はありと見ゆれども
真に不調和は存在せざるなり。

真に不調和は存在せざれども、
不調和を心に描(えが)きて見詰めれば
不調和は心の投影(かげ)として顕現せん。

病気の伝染を聴きて恐(おそ)るれば
恐怖の心境(こころ)の影としてその病気はあらわれん。

若(も)し毛虫が首筋(くびすじ)に這(は)うと聴かさるれば
真(しん)に毛虫が居らざるときにも
過敏なる皮膚には蚯蚓(みみず)腫れを生ずべし。

「毛虫無し」と聴かさるれば
その蚯蚓腫(みみずば)れは立所(たちどころ)に消散せん。

凡(およ)そ内臓各器官の炎症も
此の毛虫を心に描(えが)きたる愚人(ぐにん)の
頸筋(くびすじ)に於ける蚯蚓腫(みみずば)れに異らず。


其処(そこ)に黴菌(ばいきん)ありと知らさるれば
黴菌なくとも炎症を生じ、
其処に黴菌なしと知らさるれば、
炎症は忽(たちま)ち消えて
黴菌の生育に不適当なる状態を生ずべし。

されば黴菌性の病患者にも
「汝に病菌寄生せり」と告ぐること勿れ。

「病菌なし」と告ぐれば
言葉の力にて患者は安心し、
安心は心の調和を生じ、
心の調和は肉体の炎症を克服し、
炎症なき肉体には病菌も寄生し難きに至るべし。


されば全ての病患者に、──
「汝は霊性にして物質に非ず」と告げよ。

霊性には黴菌(ばいきん)寄生すること能(あた)わず、
霊性は神なり。
神は病むこと能わざるなり。
霊性は物質の法則に支配されざるなり。

働けば疲れ、禿(ち)び、病み、傷つくと云うが如きは、
是れただ「物質の法則」に過ぎざるなり。

霊性なる汝は「物質の法則」によって支配せられず、
若(も)し汝が働き過ぎたるがために、
エネルギーが消耗し、疲れ、病むならば、
その疲労も、病気も、
結局汝の
「人間は物質的エネルギーの集成にして
働き過ぎれば疲れ、病む」と云う信念の具象化に過ぎず。

信念を変(か)うれば、疲労は快復(かいふく)し、
健康なる生命の実相は顕現せん。


生命(せいめい)の本性は「動」にして「静」に非ず、
人間は生命の本性に随(したが)いて働けば
疲労し病むこと能(あわ)わざるなり。

生命の実相は働けば働くほど
健康の実相を露呈するなり。

人間は霊性なるが故に、
霊の法則にのみ支配せらるるなり。


霊の法則には
疲労の法則なく
病気の法則なく
ただ健康の法則のみあり。

されば汝に如何なる症状顕るるとも
病気は本来なし
病気はただ「信念の反影(かげ)」に過ぎずと断定せよ。

如何(いか)五官に疲労と病気とが顕るるとも
そは決して人間生命の実相には非(あら)ざるなり。

生命の実相より観ずれば
病気はただ覚(さ)むべき一場の悪夢に過ぎざるなり。

病いを癒さんとする者は
「人間神の子、病気は非実在なり」と知らざるべからず。


病気を癒やすとは、
畢竟(ひっきょう)、本来完全なる「神の子・人間」を顕現することに他ならず。

汝ら「人間・神の子」の自覚より
更に進んで「神の子・人間」の自覚に入(い)るべし。

「神の子・人間」には病い無きなり。
「神の子・人間」の上には、
神の法則のみ支配す。

神は愛なるが故に
神罰の法則は汝を支配すること能(あた)わず。

神は生命なるが故に、
死の法則は汝を支配すること能(あた)わず。

神は知恵なるが故に、
知恵は処を得て一切処に満つる秩序なるが故に
「神の子・人間」には如何なる不調和も存在し得(う)べからず。

不調和なければ病いなし。

「神の子・人間」よ、
汝ら病気の症状を恐るることなかれ。

病気の症状はただ恐怖心の具象化に過ぎず、
恐怖滅するとき症状もまた滅するなり。

「この病気は、この心の迷いの影」などと
「迷い」をいちいち詮索すること勿れ。

「迷い」本来無ければ
「迷いの影」も本来無し。

「この病気は何の罪の結果ならんか」と
罪の種類をいちいち詮索すること勿れ。

罪本来無ければ、
罪の種類も本来存在せざるなり。
汝ら存在せざるものを追うこと勿れ。


汝の生命の実相は
久遠の神なり、
金剛身なり、
不壊身なり、
本来円満完全なる仏身なり。

何処(いずこ)にか迷いあらんや、
何処にか罪あらんや、
また何処にか?(けが)れあらんや。

「色々と悟らせて頂きました」などと
種々の罪や迷いに心を執(とら)わるるは
却(かえ)って悟りに遠きこと
暗(やみ)に執(とら)われて光を忘(ぼう)じたるが如し。


罪も、迷いも、病いも、
畢竟、「無」なるものの一場の夢に過ぎず。

「因果はめぐる」の法則も
南柯(なんか)の一夢(いちむ)に過ぎざるなり。


因果を超え、
業苦を超えたる
真清浄(しんしょうじょう)、真無垢なるものこそ
汝の生命(せいめい)の円満完全なる実相なり。


罪を右顧左眄(うこさべん)すること勿れ。
迷いを右顧左眄すること勿れ。
病いを右顧左眄すること勿れ。

汝ら百尺竿頭より一歩跳ぶべし。
更(さら)に空中に遊歩すべし。

空中遊歩の神人とは
汝らの「生命」の実相なり。
実相のほかに真の汝なし。

肉体ありと見ゆれども
そはただ心の波動の投影(かげ)に過ぎず、


真の人間は「神の子・人間」なり、
真清浄、真円満なる「神の子・人間」なり。

汝ら驀(まっしぐ)らに「神の子・人間」を自覚せよ。

「神の子・人間」を自覚して
罪と迷いと死の夢を消し去るとき、
汝の恐怖滅し、
汝の病気も完全に滅し去らん。

(【 聖経 続々「甘露の法雨」 】) (9660)
日時:2013年07月05日 (金) 05時09分
名前:伝統

天使(てんのつかい)また説きたまう。──

肉体は「汝」に非ず、
肉体のことに就(つ)いて思い煩(わずら)うこと勿れ。

思い煩えば恐怖生じ、
恐怖生ずれば恐怖の反影(はんえい)として
肉体の不調和は持続せん。

汝の心を肉体より一層高きものに一転せよ。
「一層高きもの」こそ真の「汝」なり。

若(も)し汝の心にて恐怖を滅せんと努力して、
而(しか)も恐怖を滅することを得ざるときには、
恐怖を捨てんとする努力をさえ止(と)め、
ただ実相(そのまま)であれ。
唯(ただ)そのままであれ、
ただ実相(そのまま)であれ。


如何(いか)なる恐怖も
「生命(せいめい)」の実相(そのまま)の中(なか)には存在せざるなり。
無き恐怖を滅せんとする必要も亦(また)あらざるなり。

汝は汝の「生命(せいめい)」の実相(そのまま)で宜(よろ)しきなり。
恐怖しながら、そのまま恐怖本来無きなり。

そのままに真(しん)に委(まか)せ切るとき、
実相(じっそう)なる神は一切の恐怖を拭(ぬぐ)い去り給わん。


神の法則のみ真に一切を支配す。
物質の法則は汝を支配すること能(あた)わず、
罪の法則は汝を支配すること能(あた)わず、
迷いの法則は亦(また)汝を支配すること能(あた)わず。


されば汝らは金剛不壊の実相身にして、
物質的寒冷も、暑熱も、気候風土も、黴菌も、
汝を害すること能(あた)わず。

かかる物質が汝を冒(おか)したりなどと考(かんが)うることを止(や)めよ。
かかる罪が自分に報(むく)いられたりと思うことを止(や)めよ。
かかる迷いがこの病いの原因なりと考うることを止(や)めよ。

病い本来無ければ、
病いの原因も本来無し。
病いも無く、罪も無く、迷いも無く、死も亦(また)無しと知れば
何(いずれ)の処にか恐怖存在せん。

(【 聖経 続々「甘露の法雨」 】) (9661)
日時:2013年07月05日 (金) 05時10分
名前:伝統

天使(てんのつかい)つづいて説きたまう。

家庭の争い、
嫉妬、
憎悪、
復讐、
憤怒の心──
全ての悪念は健康の恢復を妨ぐるなり。

若しかかる悪感情起らば
速かに「神の子・人間」に本来かかる悪感情無しと観じて、
かかる悪感情を断ち切るべし。


悪感情ありと思うが故に
悪感情は捨て難きなり。

生命(せいめい)の実相(ほんとのすがた)に於いては
本来悪感情無きが故に悪感情は捨て得(う)るなり。


汝の心に常に「実相」の愛と平和と知恵と調和のみを満たせば、
生命(せいめい)の円満なる実相は形の上にも露呈せん。


物質がみずから進行し得ざるが如く
肉体的病気もみずから進行し得ざるなり。

物質が動くは、
心又は心が設計したる力にて動くなり。

肉体的病気の進行も心の力に依(よ)るものなれば、
心の力にて肉体的病気の進行を止(とど)め、
更にその働きを「無」にまで粉砕することも亦(また)可能なり。

如何なる病変来(きた)るとも
生命の実相(ほんとのすがた)は常に円満完全健康なることを信じて
心を常に平和にして動揺すること勿(なか)れ。

また刻々に変わる容態に
心を執(とら)えらるる事勿れ、


病気本来なければ
病気の容態も本来無し。

病気の容態を見詰(みつ)むるよりも
汝の心を注視せよ、
動揺するは病気そのものよりも汝の心自身(こころそのもの)なり。


心動揺すれば
病気の容態も動揺せん。

病気そのものが動揺するには非ず、
汝の心が動揺するなり。

汝の心の動揺を休(や)めよ、
汝の病気の動揺もまた止(や)むべし。


されど「動揺の心」を以(も)って
「動揺の心」を鎮むること難(かた)ければ、
不安の心にて不安の心を止(とど)めんとするも亦能(あた)わざるなり。


かくの如きときには、
ただ神に委ねよ
全(まった)き愛なる神に信頼して、
「神よ」と呼ぶべし。

神は常に汝に調和と平和とを与え給うべし。

神の中(うち)に汝の「心」を投げ入れよ。
「神よ、神よ」と称(たた)えつつ
汝の全存在を神にまで委(まか)せ切るべし。

神こそすべての渾(すべて)て、
神はすべてにましますが故に
神のほかに何ものも存在せず。

神は善にましますが故に
善のほかに如何なる「悪」も存在せず。

神は完全にましますが故に
不完全なる病いの存在することなし。

神は生命(せいめい)にましますが故に
生命のほかに「死」の存在することなし。

「悪」と「病い」と「死」とは
唯汝の心に描かれたる顛倒妄想(まよいのかげ)に過ぎず。

本来「無きもの」を「有り」と描きて恐怖するもの
これ汝の病いなり。

苦しみは是(こ)れ汝の心の中(うち)にあり、
痛みは是(こ)れ汝の心の中(うち)にあり。

心に恐怖を去り、
苦しみを去り、
痛みを去れば、
何(いずれ)の処にか病患(やまい)あらんや。

(【 聖経 続々「甘露の法雨」 】) (9662)
日時:2013年07月05日 (金) 05時11分
名前:伝統

天使(てんのつかい)また更に説きたまう。──

汝ら是(これ)らの真理を聴き了(おわ)りたる後
肉体に激変起るとも恐るること勿れ。

高く建ちたる建物の壊(くだ)くるときには
轟然たる響きを発せん。

その轟然たる響きにも似たる病変は
高く建ちたる汝の過去の迷いの消ゆる響きなり。


迷いの建物低ければ激動少し、
迷いの建物高ければ激動多し。

されど此らの病変を恐るること勿れ。
壊(くだ)くるものは汝自身に非ずして「迷い」なり。

壊(くだ)くるものは汝自身に非ずして「迷い」なり。
「迷い」壊くるとも本当の「汝」は壊(くだ)けず。
「迷い」苦しむとも本当の「汝」は苦しまざるなり。


汝は神の子なり、仏神なり、
金剛身なり、不壊身なり、
無病身なり、常楽身なり。

感覚主義、合理主義に陥りて
金剛不壊の常楽身を見亡(みうしな)うこと勿れ。

今すべての病者は癒えて
その病床より起(た)ち上(あが)らん。


天使(てんのつかい)斯く啓示したまうとき
すべての人類の病患は忽(たちまち)ち消え
盲人(めしい)は眼(まなこ)ひらき、跛者(あしなえ)は起ち上り、
歓喜し相擁(あいよう)して
天日(てんじつ)を仰ぎて舞踏するを見る。


夢にあらず、実相なり。

天童たち仰ぎ見て讃嘆し、
敬礼して軈(やが)て歌いて云う。

「神はすべての渾(すべ)て、神は我がみ親、わが光、我らを救い給えり」と。

此のとき、大神の天の宮なる太陽は
円舞するが如く照り輝き、
神光(みひかり)は花葩(はなびら)の如くさんさんと地に降り濺(そそ)ぎ、
五彩の虹、雲の柱となりて空にかかり、
実相の国そのままのみ栄を実現したりき。
                              (聖経終)


《成願文》

  願わくば此の聖経の功徳により一切衆生の迷い消え、病い消え、悩み消え、
  地上に天国浄土の実現せんことを。


《健康を回復する思念の言葉》

  神は我を赦したまいて其の無限の愛もて我を抱き我を包みたまう。
  我は既に癒(いや)されてあり。

      (聖経読誦後、又は随時病者みずから十数分間念ず)

           <感謝合掌 平成25年7月5日 頓首再拝>

【 顕浄土成仏経 】 (10195)
日時:2013年07月28日 (日) 04時56分
名前:伝統

【大正(又は昭和、又は平成)○○年○○月○○日を】 現世(うつしよ)の限りとして、
幽世(かくりよ)に還(かえ)りましし、<    >《俗名》の霊(みたま)よ。

汝、今し肉体の繋縛(けばく)を離れ、
【幽体浄化の四十九日の期間を終えて】
魂の本地たる浄土に往(ゆ)く。

【而して解脱名を○○○○と称え奉り】
今此処極楽なることと肉体の繋縛を離れて
愈々(いよいよ)明らかならん。

○○○○よ。〈戒名を称える〉
此の土(ど)を何(なん)が故に、名づけて極楽と為すか。
その国の衆生、もろもろの苦しみあることなく、ただ諸(もろもろ)の楽しみのみ受くゆゑに
極楽と名づく。

○○○○よ。〈戒名を称える〉
極楽国土には七重(ななえ)の欄干あり、
七重の薄絹(うすぎぬ)をもて張りめぐらし、
七重の街路樹立ちならび、
金・銀・瑠璃・水晶の四宝を連ねたる、
美しさ極りなき網をもってあまねく飾り、
その麗(うるは)しく楽しきこと限りなし。

故に名づけて極楽と名づく。

また○○○○よ。〈戒名を称える〉
極楽浄土には七宝の池あり。
八功徳ある水その中に充満せり。

池の底にある沙(まさご)は、純金の粉末にして輝きみてり。

四辺には階道あり、
金・銀  瑠璃(るり)・玻璃(はり)をもて合成(ごうじょう)されたり。

上に楼閣あり、
金銀・瑠璃・硨磲(しゃこ)・紅玉・瑪瑙(めのう)をもってこれを巌飾せり。

池の中に蓮華あり、大(おお)いさ車輪の如し。
青き花には青き光、
黄(きいろ)き花には黄き光、
赤き花には赤き光、
白き花には白き光ありて微妙香潔(みみょうこうけつ)なり。
       
極楽浄土には是(かく)の如きの功徳荘厳(くどくしょうごん)を成就せり。
また、
彼の仏の国土には常に天樂(てんがく)を作(な)す。
黄金をもって地となし、
昼夜六時に曼荼羅を雨ふらす。

彼(か)の国に生れたる衆生、
常に心清くして仏を供養し、
禅定を以って実相を観じ、
実相世界の功徳を満喫す。

○○○○よ。〈戒名を称える〉
かくの如き功徳充満せる極楽浄土に、
今や汝は生れたれば、
一切の罪障(ざいしょう)消え、
自然(じねん)に念仏・念法・念僧の心を生ず。
     
念(ねん)に随って、孔雀・鸚鵡(おうむ)・迦陵頻伽(かりょうびんが)等の名鳥来り
 囀りてその声(こえ)微風(みふう)の如く、
汝の耳朶(じだ)をゆるがすに、
その声(こえ)千仏(せんぶつ)の読経の如くきこえ
心愈(いよいよ)きよまりて邪念なし。

○○○○よ。〈戒名を称える〉
汝、心愈(いよいよ)浄まりたれば、
今ぞ仏の御姿をみる。
光明無量にして、十方の国を照すに障碍(しょうげ)あることなし。
この故(ゆえ)に号して阿弥陀と謂う。

彼(か)の仏の寿命無量なるが故に、
無量寿仏とも謂う。
その国に生まれたる者、皆ともに
寿命無量なり。
歓喜(かんき)無量なり。
悦ぶべし悦ぶべし。

ゆえに称(たた)え言(ごと)を唱(とな)えて、次の如く称名念佛す。

南無阿弥陀仏 

南無阿弥陀仏 

南無阿弥陀仏
     
・・・

<附> 延命十句観音経

  
観世音(かんぜおん) 南無仏(なむぶつ) 

与仏有因(よぶつういん) 与仏有縁(よぶつうえん)
 
仏法僧縁(ぶっぽうそうえん) 常楽我浄(じょうらくがじょう) 

朝念観世音(ちょうねんかんぜおん) 暮念観世音(ぼねんかんぜおん)
    
念念従心起(ねんねんじゅうしんき) 念念不離心(ねんねんふりしん) 

・・・

<註>

○本経は、谷口雅春生長の家総裁が母堂谷口きぬ刀自百ケ日法要対伝供養のために奉げられた
 ものであるが、特に先祖供養の際『甘露の法雨』等の聖経と併せ読誦されるとよい。

○「先祖代々」の諸霊への供養読誦の際は、【  】内を省略し、
 <俗名>も<戒名>も 【○○家先祖代々の霊(みたま)】と読みかえます。

○観世音菩薩は仏教諸宗共通の語法の菩薩なれば終りの「称名念仏」の次に
 附録の「延命十句観音経」を読誦せられるがよろしい。

○日蓮宗の方は終りの「称名念仏す」を「称名題目す」とよみかえて
 「南無妙法蓮華経」と三唱し、

 禅宗の方は「称名す」とよみかえて「南無釈迦牟尼仏」と三唱し、
 真言宗の方は、「高祖宝号す」とよみかえて「南無大師遍照金剛」と三唱し、

 その他の宗旨や仏教徒でないときには「実相円満誦行す」とよみかえて
 「実相円満完全」を三唱してもよろしい。

・・・

<参考スレッド:「「顕浄土成佛経」の神秘なる功徳 (114)」
        → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=60 >

           <感謝合掌 平成25年7月28日 頓首再拝>  



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