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『生命の實相』 (773)
日時:2012年08月26日 (日) 08時02分
名前:伝統

このスレッドでは、『生命の實相』に関する題材を紹介して参ります。


開祖・谷口雅春先生「實相訓」

『 生命の實相と申候事は、
 此世界が此儘神の国であり、
 人間は其儘神の子なりと申事に候。

 観ずればそれが現るゝものに候。
 観ぜざれば現れる事なく、
 さればこそ心を静めて實相を見よと申すに御座候。

 現象に如何なる悪現れ申候とも、
 いづれも神の作り給へる實在には無之候間、

 気にかけずに唯實相円満なる相のみを観ずれば、
 結局は円満なる實相現るゝものに有之候 』

        (昭和二十二年正月、新居浜 秋月家)

           <感謝合掌 平成24年8月26日 頓首再拝>

「實相訓」原文 (867)
日時:2012年08月30日 (木) 08時10分
名前:伝統

     *谷口雅春墨滴集より

上の記事(773)は、原文では、次のようになっております。


「生命乃實相と申候事は
 此世界が此儘神乃国であり
 人間は其儘神乃子なりと申事に候

 觀ずれバそれが現るゝものに候
 觀ざれバ現れる事なく
 さればこそ心を静めて實相を見よと申すに御座候

 現象に如何なる惡顯れ申候とも
 いづれも神の作り給へる實在には無之候間

 氣にかけずに 唯實相圓満なる相のみを觀ずれば
 結局ハ圓満なる實相現るゝものに有之候」 敬白」

 昭和廿ニ年正月」 谷口雅春」
 秋月輝子様 

・・・

(原文にふりがなを表示すると)


「生命乃實相と申候事(もうしそうろうこと)は
 此(この)世界が此儘(このまま)神乃国であり
 人間は其儘(そのまま)神乃子なりと申事に候

 觀ずれバそれが現るゝものに候
 觀(かんぜ)ざれバ現れる事無く
 さればこそ心を静めて實相を見よと申すに御座候

 現象に如何なる惡顯(あらわ)れ申候とも
 いづれも神の作り給へる實在には無之(これなく)候間(あいだ)

 氣にかけずに 唯(ただ)實相圓満なる相のみを觀ずれば
 結局ハ圓満なる實相現るゝものに有之(これあり)候」 敬白」

 昭和廿ニ年正月」 谷口雅春」
 秋月輝子様 

           <感謝合掌 平成24年8月30日 頓首再拝>

生命の実相(ほんとうのすがた) (1172)
日時:2012年09月07日 (金) 04時37分
名前:伝統



    *『生命の實相』第一巻総説篇/實相篇上 序文(P3~P5)より抜粋

『生命の実相』とは私たちの生命の実相(ほんとうのすがた)のことである。

変化してあらわれているものは現象であり、その奥にある”常住の本体”が「実相」である。
肉体が変化しても、その奥にあって死滅しないで継続している実在としての生命(せいめい)を、
わたしは”生命の実相”と名づけたのである。

そしてそれこそが”人間の真物(ほんもの)”であるのである。
その”人間の真物(ほんもの)”は老病死のごとき変化を受けないものであるから、
”病むことなき完全円満なる自己”である。

この”病むことなき完全円満なる自己”を自覚することが”自性円満”の自覚である。

           <感謝合掌 平成24年9月7日 頓首再拝>

『生命の實相』を筆写する講師 (1623)
日時:2012年09月20日 (木) 04時29分
名前:伝統


  *生長の家“本流宣言”掲示板 内スレッド「『生命の實相』を筆写する講師 (290) 」より
    →  http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=74

F県教化部のI講師は87歳、なおかくしゃくとして威儀端然だ。

平成20年より早朝神想観と聖経読誦の後、
毎朝1時間『生命の実相』を第1巻より順次筆写して8巻に至り、
喝破して言われるには、

『書き写して初めて気付くに、これでもかこれでもかと
次から次に〃實相〃という文字が出てくる。

これは神様が谷口雅春先生を通して、いくら説いてもまだ分っていないから繰返すのだ、
と仰せられているように思う』と。

           <感謝合掌 平成24年9月20日 頓首再拝>

「實相訓」Ⅱ (2000)
日時:2012年09月29日 (土) 05時08分
名前:伝統


開祖・谷口雅春先生「實相訓」Ⅱ

『生命の實相を悟ると申候事は、
 今此処の生命を久遠の生命と自覚して
 不恐、急がず唯ひたすら其の儘に生きることに候。

 今の生命を大切に遊ばさるべく候。

 一瞬の中に久遠、
 一挙手の内に無限の存することを知り
 萬事をゆるがせにする事なく、

 一瞬、一瞬を喜びて感謝して生きるとき
 其処に無限の供給あり、
 其処に無限の健康有之候』

 (昭和二十二年十月二十六日、姫路 田中家)

           <感謝合掌 平成24年9月29日 頓首再拝>

無量の勝方便は實相を思うより得 (2287)
日時:2012年10月07日 (日) 04時58分
名前:伝統


  *『聖光録』(P316)より

佛説観普賢菩薩行法経には

  無量の勝方便は實相を思うより得・・・
  一切の業障海は皆妄想より生ず、 
  若し懺悔せんと欲せば端座して實相を念え 
  衆罪は霜露の如し、 慧日能く消徐す。

とある。

この聖句には「罪本来無し」の真理がはっきり示されているのである。

'''衆(もろもろ)の罪は、端坐して実相を観ずれば、
智慧の太陽の光によって、霜や露が消えてしまうかのように消えてしまう'''のであるから、

罪というものは、実相においてはない。

それは妄想の結果である。
妄想とは”無いもの”を”有る”と思い違いして夢を見ているようなものである。

実相を観ないから”無い”ものが”ある”ように見えるのであるから、
端(ただ)しく座って実相を観じさえすれば、

本来”無い”のであるのに、
あるかの如く見えていた”罪”も”業”も消えてしまうというのである。

”善悪と知る樹の果”を食して、
本来「悪」はないのに「悪」もあると妄想してエデンの楽園から追放された
アダムの真似をして、自分も実相の楽園から追い出されてはならないのである。

           <感謝合掌 平成24年10月7日 頓首再拝>

「実相覚」 (2444)
日時:2012年10月12日 (金) 04時33分
名前:伝統


    *『生命の實相』第2巻・實相篇下巻第3章(P104~109)より抜粋

(1)存在(もの)の実相(ほんとうのすがた)を観るには、
   「自分の実相(ほんとうのすがた)」によって存在(そんざい)の実相を
   照らし出して見るほかはないのであります。

   「存在(そんざい)の実相」と「自分の実相」とが互いに照らし合わされ触れ合って
   カチカチと如実に鳴る、そこに存在の不思議な円満な実相がありありとわかる。

   なるほどこの世界は神が創造(つく)り給うた完全円満な世界であるとわかるので
   あります。
   
(2)この存在(もの)の実相(ほんとうのすがた)を知る力は五官ではない。
   これは「実相覚」といって一種の霊覚であります。

   われわれが確実に存在(もの)そのものの実相(ほんとうのすがた)を知るには、
   五官を超越し、第六感さえも超越してこの「実相覚」によるほかはないのであります。

(3)存在(もの)の実相をとらえるには、われわれは「実相覚」によって「一つの神」
   すなわち、在りとし在らゆるものを在らしめている一つの力、生きとし生けるものを
   生かしている一つの力を認めねばなりません。

(4)あなたは真の人間――すなわち「神の子」で神人(ゴッドマン)なのであって、
   今あなたが、これこそ自分の身体(からだ)だと思っているその肉体は
   「ウソのあなた」「念の影のあなた」なのであります。

   皆さんめいめいが今既に実相の世界においては、霊妙な円相の人間、光明身の人間、
   自在身の人間、清浄身の人間、虚空身の人間、無憂苦の人間、絶対無病の人間
   であられるわけで、それが本当の”あなた”なのであります。

           <感謝合掌 平成24年10月12日 頓首再拝>

實相顕現のための手紙  (2881)
日時:2012年10月27日 (土) 04時39分
名前:伝統



實相と申候ことは神のつくりたまへるその侭の世界のことにて候、

その實相世界のそのままがあらはれるれば、すべての人、すべてのもの、
諸事ことごとく圓満に調和した相(すがた)にあらはれるものに候へども、
その實相の完全な相(すがた)は、観ずることによってあらはれるものに候。

人々、おのおの観ずる力の相異により、現実には色々の有様にあらはれるものに御在候。

         
    *”童子 さま”ブログ(2012/10/26)より拝借いたしました。
      http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/23606794.html
        (谷口雅春師 『白鳩』誌 46年11月号)

           <感謝合掌 平成24年10月27日 頓首再拝>

聖典『生命の實相』の読み方について (3433)
日時:2012年11月10日 (土) 05時08分
名前:伝統

      *『生命の實相』第三巻 光明篇(下)/生命篇(上)(P98)
      *『生命の實相』第四巻生命篇下(P2)より
        (若干漢字の使い方に違いがありますが、同じ文章です)
        (ですので、生命篇の巻頭の言葉としての位置づけになります)
        

人間の本質は神であり霊的存在である。
「神なる人」こそ人間自身の実相であります。
自由自在の霊性こそ人間自身の本来の面目であります。

われらの本来の面目は神本来の面目にひとしいのでありますから、
われらは自己の全存在のすみずみまでも完全であり、万徳円満であり
自由自在で不悩不苦であるはずであります。

この真理を知ることは、人をして、
あらゆる束縛から解放せしむることになるのであります。

しかもこの真理は、人の生命の実相に穿ち入る者には
何人も知ることができるのであります。

人の生命の実相に穿ち入るにはこれを霊的に理会することが必要であります。

頭で真理を理会するということは、真理の周囲をどうどう廻りして
真理の外的な姿を知るに過ぎませんが、霊的に真理を理会するということは、
「生命」の実相そのものに全身全霊をもってつらぬき入り
力の本源をつかむことになります。

全身全霊をもって、生命の実相につらぬき入るには、
この書を頭で読もうとせず、前身全霊で読む、黙読する、朗読する、
目で読み、声で読み、声のリズムの中に自分を溶かし込んで読む、
そして静かに端坐して「神想観」を行じ、行じ終わって動き出すとき神(愛)の生活を生きる。

かくする時、知恵と愛とのそろった生活が実現するのであります。

           <感謝合掌 平成24年11月10日 頓首再拝>

「生命の実相」を自覚すれぱ病気は消える (4018)
日時:2012年11月27日 (火) 05時06分
名前:伝統

    *『生命の實相』第1巻・實相篇上~光明の真理(P42)より

自性(じしょう)円満の「生命の実相(ほんとうのすがた)」を大悟すれば、
忽然(こつねん)として病自消す。

生命はこれ神性そのものにして本来無病なればなり。

悟らざるを「迷い」といい「迷い」の相(すがた)を病という。

往昔(むかし)、維摩は自ら身に病を現わして「生命の実相」を説明する機縁となせり。

病にそくして、「生命の実相」のほんらい無病、無罣礙(けいげ)、自由自在なることを
説明し、読んで病の自消する体験によって、自己生命の無病、無罣礙、自由自在なることを
自証せしめんとするもの本篇なり。

        ・・・・・・・・・・

生命の実相を自覚すれぱ病気は治る

    *『生命の實相』第1巻・實相篇上~光明の真理(P73)より抜粋

生命の実相は完全円満。
  
伝道者にこの自覚が失われる程度にしたがって、
その宗教に生命があるかないかのわかれるゆえんがあるのであります。

「生命の実相」を真に自覚した伝道者が教えを説けば、どの宗教でも生きてきますし、
「生命の実相」を自覚しない伝道者が教えを説けば、どんな良い宗教でも生命(せいめい)が
なくなるのであります。

よく既成宗教はだめだという批評を聞きますが、それは既成宗教がだめなのではない、
それを説く人がだめなのであります。

           <感謝合掌 平成24年11月27日 頓首再拝>

真理はなんじを自由ならしめん (4314)
日時:2012年12月05日 (水) 05時00分
名前:伝統


    *『生命の實相』第1巻・實相篇上~光明の真理(P79)より

キリストのいった「真理はなんじを自由ならしめん」というのも、
釈迦がいった「大覚(さとり)をうれば因縁を超越してしまう」というのも、

ひっきょうは自分の生命の本質すなわち実相を知ることで、
これができれば因縁を超越して完全な自由がえられるのであります。

その人は因縁を超越しますから、
物質的な原因結果に束縛されるようなことがけっしてなくなる。

遺伝がどうの、体質がどうの、冷たい空気がどうの、固い食物がどうの――
そんなことに縛られないで「生命」それ自身の本質の完全な状態――
すなわち「真の人間」が表に出てくる、そのときすなわち病気が治ってしまうのであります。

           <感謝合掌 平成24年12月5日 頓首再拝>

生命(せいめい)の実相(ほんとうのすがた) (4694)
日時:2012年12月16日 (日) 06時18分
名前:伝統


    『生命の實相』の頭注版に序して より抜粋

「生命の実相」とは私たちの生命(せいめい)の実相(ほんとうのすがた)のことである。

現象としての生命(せいめい)は条件の変化によっていろいろのあらわれ方をする。
すなわち現象生命は無常である。しかしかくのごとく移り変わるものは実在ではない。

現象の奥に”常住の本体”があるのである。これが「実相」である。
肉体が変化しても、その奥にあって死滅しないで継続している生命(せいめい)を
”生命の実相”と名づけたのである。そしてこれこそが”人間の真物(ほんもの)”で
あるのである。

”人間の真物(ほんもの)”は老病死のごとき変化を受けないものであるから、
”病むことなき完全円満なる自己”である。

自己の真物(ほんもの)が病むことなき完全円満なるものであることを本当に自覚するとき、
老病死の恐怖は消え、病悩苦がその自覚の影響によって現実に消え去るのである。

           <感謝合掌 平成24年12月16日 頓首再拝>

『生命の實相』読誦の功徳について (5156)
日時:2012年12月31日 (月) 05時03分
名前:伝統


        *『真理』第9巻(生活篇)<P397> より

『生命の實相』を読んで病気が治る。
これは無数の礼状が実証するところである。

しかしこれは谷口雅春の功績ではない。
「わが神殿は既に成れり、名づけて『生命の實相』と称う」
と神は仰せられているのである。

『生命の實相』は神がその御栄えをあらわしたまうための道具である。
其処に奇蹟を生ずるのである。

しかし、心が頑固で其処に書かれている真理を素直に受容れることの出来ない人には
治病の奇蹟は起らない。

神の力が及ばないのではない。
光は充ち満ちていてすらも、眼を瞑じている人には光を受容れることができない
のと同じことである。

しかし、眼を瞑じている人にも光があれば明暗ぐらいは分るのである。
明暗をたよりに、其処に光があることを自覚して眼をひらけよ。

            <感謝合掌 平成24年12月31日 頓首再拝>

不滅の聖典『生命の實相』誕生「満81年」 (5180)
日時:2013年01月01日 (火) 08時24分
名前:伝統


不滅の聖典『生命の實相』がこの世に顕現したのが、昭和7(1932年)年1月1日。
今日は、満81年を迎えました。

不滅の聖典『生命の實相』誕生「満81年」をお祝い申し上げます。

以下は、昭和57年1月1日「聖使命」からの紹介です。

   *”うのはな さま”の記事(2012/11/28(水) 19:56:29)からの転載です。
    ”うのはな さま”にはいつも感謝致しております。
     今年もよろしくお願い致します。
     ( http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1333192083/877 )


《不滅の聖典『生命の實相』 奇蹟を生み続け半世紀 目指せ、世界の精神革命》

昭和五十七年一月一日、全世界の生長の家信徒にとって、まことに記念すべき日が訪れた。
不滅の聖典、新時代のバイブル、と讃えられる『生命の實相』の初版本が
昭和七年一月一日に発刊されて以来、この日をもって満五十年という節目を迎えたからである。

この『生命の實相』こそは、文書伝道という全く新しい宗教活動の形態をとり、
数多くの聖典をもつ生長の家の中でも、最も基本となるもので、特別の地位にあるものといえよう。

同書につき、生長の家大神自らが語られた「声字即実相の神示」(昭和七年一月十一日)には、
「吾が第一の神殿は既に成れり、名付けて『生命の實相』と云ふ。....吾れに神殿は不要であると
嘗て示したことからあらう。吾れは道(ことば)であるから、吾が道を載せた『生命の實相』こそ
吾が神殿である」とある。

この神示によれば、『生命の實相』は神の神殿であり、本体であって、
神ご自身のお言葉そのものである。

谷口雅春先生が「本当の著者は私ではない」「私は神のラッパであって、教祖ではない」
と謙虚に言われるのも、この点にあろう。

そしてそれ故こそ、同書の権威と影響力は絶大となる。
それを証明するのが無数の具体的実例である。

『生命の實相』を読むだけで、不治の病いが治った、家庭が調和した、
性格や運命が一変した等々の体験談は、発刊当初、谷口雅春先生ご自身をも
驚かしめたものだが、今日でも、何ら変るところはない。

先の神示に「『生命の實相』を披くだけで病念は去り、煩悶は解決し、人々ただ自己生命の実相を
(ほんとのすがた)を知り、歓喜踊躍して手の舞ひ足の踏む所を知らないに至る位はその三番艘
(さんばんそう)に過ぎない。」と神が述べておられた通りの相が実現しているのである。

険しく厳しい求道の旅に出発した旅人の道標となると共に、こうした直接的功徳を万人に
もたらし続けた故に、発刊五十年にして読者層はいよいよ広まり、発刊部数はついに
千六百万を超えるに至ったのである。

それは国内だけの事象ではない。海外でも同様である。
既に英語、ポルトガル語、ドイツ語、スペイン語、韓国語、中国語に翻訳され、
世界各地で読み続けられている。
(その五十年間の歩みについては下記の年表を参照していただきたい)

ところでこの記念すべき時に当り、生長の家信徒は如何に対処すべきであろうか。

その第一は“御教えの原点に立ち還り、更に真摯な求道を”ということである。

かつて谷口雅春先生は「人々は私を神様扱ひするが、私は神様の前になほ罪人として
『すまない、すまない』と思ひ続けてゐるのである」(『愛は刑より強し』)と
述べられたが、このような尊師の真剣さを忘れてはなるまい。


その二は“全人類にこの聖典を伝えよう”という事である。
本紙第五面に掲載のように、これまで宗教などには無関心だった若者達が、
神秘の世界(特に東洋の叡智)を強く求めるという傾向が、世界的規模でおこっている。

ちょっとした書店には必ず、“精神世界の本”というコーナーが設けられ、
宗教書やオカルト書、更にはテープまでがズラリと並べられるようになった。

こうした世界的傾向へ適切に応えることができるならば、
『生命の實相』は、正に“新時代のバイブル”となるであろう。

又そうする為に、惜しみない努力を積み重ねて行くことこそ吾々の使命である。

 聖使命 昭和57年1月1日

           <感謝合掌 平成25年元旦 頓首再拝>

『生命の實相』や『生長の家』誌に書かれた一言一句は「神の言葉」 (5395)
日時:2013年01月09日 (水) 06時51分
名前:伝統

        (「生命の實相」第一巻實相篇<P153>)より

(「生長の家」の出現の使命)   

ジャーナリズムは自覚せずして資本主義に買収されて知らずしらず
人類生活暗黒化運動に参加していることになり日々世界中に十数億の印刷物をバラまいて、
人類を暗黒の病的想念で一呑みにしようとしているのであります。

「生長の家運動」がこのとき起こらなかったら、
われわれ人類はこの暗黒の想念の大きな口に鯨がイワシの群れを呑みほすように
一呑みにされるかもしれないのであります。

しかし、神はわれわれ人類をまだ見棄て給わなかった。
そしてこの真理の言葉の運動を起こすべくわれらに起つように命ぜられたのであります。

本書(『生命の實相』)や『生長の家』誌を谷口雅春個人の機関誌だと思っていられる方が
あればそれはたいへんな勘違いであります。

これは神が起こされた「神の国運動」の一つのあらわれであって、谷口雅春はただ、
神から霊感的に示された言葉をペン尖(さき)にふくませたインキで文字にしてゆく。

『生長の家誌』に書かれた一言一句も、肉体なる谷口雅春の言葉はない。
外国物の紹介でさえも「神の言葉」である。

            <感謝合掌 平成25年1月9日 頓首再拝>

神示天降りの日(昭和7年1月11日) (5462)
日時:2013年01月11日 (金) 04時57分
名前:伝統

声字即実相の神示(昭和七年一月十一日神示)

わが第一の神殿は既に成れり。名付けて『生命の實相』という。
完成(ななつ)の年になりてわが第一の神殿が完成するのも生命の顕現には
周期的波動があるからである。七つが事物の顕現の周期律になっている。

われに神殿は不要であると嘗(かつ)て示したことがあろう。
われは道(ことば)であるから、わが道(ことば)を語るところに吾が神殿は築かれる。
わが道(ことば)を載せた『生命の實相』こそわが神殿である。

『生命の實相』はわが本体であり、無形の「生命の實相」を形にあらわしたのが
『生命の實相』の本である。

「言葉」を載せた書物を「本」と言うのも、「言葉」こそ事物の本(もと)であり、
本質であり、本体であり、本物であるからである。

「言葉の宇宙」が先ず出来て、「形の宇宙」がその映像(かげ)としてあらわれるのである。
今迄の宇宙は、「言葉」が実相を語らず、不調和で濁っていたから、
宇宙の万物の運行が乱れて生活苦や病気や、天災や戦争など不調和なことばかり
起こったのである。

『生命の實相』の本が出た以上は、言葉が実相を語り、善き円満な調和した言葉の
「本(もと)」が調(ととの)うたのであるから今後何事も急転直下する。

『生命の實相』を開くだけで病念は去り、煩悶は解決し、人々ただ自己の生命の実相
(ほんとのすがた)を知り、歓喜踊躍(かんきようやく)して手の舞い足の踏む所を
知らないに至る位はその三番叟に過ぎない。

その歓びの相(すがた)こそ人間の生命の実相である。
わが道(ことば)を「生命の実相」と呼ばしめ、それを本の形にして、披(ひら)いて
読むものにさせたのも象徴的因縁あることである。

『生命の實相』が展開(ひら)けば形の理想世界が成就するのである。
今は過渡時代であるから、仮相(かりのすがた)の自壊作用として色々の出来事が突発する。

日支の戦いはその序幕である。神が戦いをさせているのではない。
迷いと迷いと相摶(あいう)って自壊するのだ。

まだまだ烈しいことが今後起こるであろうとも
それは迷いのケミカラィゼーションであるから
生命の實相をしっかり握って神に委(まか)せているものは何も恐るる所はない。

                         (昭和七年一月十一日神示)

            <感謝合掌 平成25年1月11日 頓首再拝>

生命力を振起させる文章が『生命の實相』 (5809)
日時:2013年01月21日 (月) 04時54分
名前:伝統

     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P20(1月21日)>より

病は”ある”ように見えていても本来無いという思想は人間を光明に導く。
生長の家がこの思想を発明してから実に多くの人が救われている。
”ある”と思えば恐れられ生命力は萎縮し、生命力は萎縮すれば病気は治らないのである。

心の変化で、人体を流れる電流に変化を来たすことは早大心理学教室で発明した嘘発見器以来
周知の事実である。そして感応電流を人体に通ずれば健康にある影響を及ぼすのも周知の事実
である。それすれば心の変化が人間の健康に影響を与えるのも当然のことである。

しかも今までの医学は、その診断を正確に患者につげることを道徳的責任のように思って、
患者の心を動揺せしめることの悪影響を考えなかった。
この点では医学は診断学であって、医術ではない場合が多かった。

患者の心を動揺せしめないで、生命力を内から振起せしめるのは術である。
読書によって生命力を振起せしめる文書術の極致を示したのが『生命の實相』である。

これから後世に、もっと強く生命力を振起させる文章が出て来るかもしれない。
出ることを望む。

ともかく、薬物でないと生命力は振起しないと思われていたのを
文書術によって生命力を振起する道を拓いたのが『生命の實相』である。

            <感謝合掌 平成25年1月21日 頓首再拝>

自己内在の光 (6057)
日時:2013年01月29日 (火) 04時32分
名前:伝統


        *『生命の實相』第35巻功徳篇(P150)より

生長の家の光明書籍類は諸君自身の内に宿る力を指示するために執筆されたのである。

他(ひと)に依頼する心を持つ者は躓くであろうが、
自己の内に埋蔵されたる宝庫の方へ幸いに振り向く人は救われるであろう。
救いの力は諸君自身の内にあるばかりであって、わたしはその在り所(か)を指示するだけである。

われわれの光明思想に諸君の心が転向した結果病気が治るというのも諸君自身がそういう
思想になった結果であってわたしはただ指(ゆび)さすのみである。

文章力の力による指(ゆび)さし方が懇切丁寧を極めているので、
文章の力が病気を治したともいいうるが、くわしく言えば文章の力は、
よく諸君の心を振り向けただけである。

そこに自己内在の光を見、そこに自己内在の無限の力を見出すのは諸君自身の力であって
わたしの力ではないのである。光栄は諸君自身の「内」にこそ帰せられるべきものであって、
わたしはただのラッパであり、指南者である。

指を月とまちがえわたしの書いた符号を本物と取り違える者は実相を見ることができないであろう。
わたしはただ諸君を振り向かすために、文章で叫ぶだけにすぎないのである。

わたしという人間を尊敬せずに真理をこそ尊敬せられたいと思う。

            <感謝合掌 平成25年1月29日 頓首再拝>

『生命の實相』の著者は「久遠を流るるいのち」なのである (6312)
日時:2013年02月07日 (木) 04時26分
名前:伝統

        *『生命の實相』第27巻久遠仏性篇上(P147~149)より抜粋

「生長の家」は「久遠を流るるいのち」の所有(もの)である。

「生長の家」で、ただ書を読むだけによって病気が治るというがごとき奇蹟すらも
生じているのは、「谷口」というわたしの《いのち》に触れるのではなく
「久遠を流るるいのち」に触れることになるからである。

その意味において、『生命の實相』の著者は「久遠を流るるいのち」なのである。

『生命の實相』はやがて出版法規や、対社会的な版権問題が云為(うんい)されない時代がきた
時には著者としてのわたしの名前は抜いてしまってよいし、また抜いてしまうべきものである。

「生長の家」とはわたしのものでなく「久遠を流るるいのち」が、
人類を和するために生まれたのである。

            <感謝合掌 平成25年2月7日 頓首再拝>

『生命の實相』を読んで、躓かぬものは幸いである。  (6618)
日時:2013年02月21日 (木) 04時59分
名前:伝統


      *「光明道中記」(2月21日 躓かざる日)より

【他(ひと)が怒ったら、
 ことの善悪にかかわらず相手の心をかき乱して済まなかったと思え。(生命の實相第十一巻)】 


真理は時処(じしょ)と人とによって相(すがた)が変る。
一つの水でも蒸気にも氷にもなるから役に立つ。

『生命の實相』は両方面から書いてある。

腹を立てるなと書いてあるところと、
自然に立つ腹なら腹を立てても好いと書いてあるところとある。

薬を廃(や)めよと書いてあるところもあれば、
薬も使ったって好いじゃないかと書いてあり、
薬の服み方まで書いてあるところがある。

だからそれを修養の糧にしようとする人には修行の糧になるが、
自己弁解の資料にしようとする人には自己弁解の絶好資料ともなる。

また相手を非難攻撃する資料にしようと思えば、
どちらからでも攻め得るようにもなっている。
それに躓かない者は幸いである。

自分が長上から叱られながら「腹を立てるなと書いてあるよ」と
長上に反抗することも出来るであろうが、
扠(さて)また自分の方が善であると思える場合にでも、
相手が腹を立てて来たら、「相手の心を掻(か)き乱してすみませんでしたと思え」とも
書かれているのである。

人事処三相応である。凡そ吾がために躓かぬものは幸いである。

            <感謝合掌 平成25年2月21日 頓首再拝>

『生命の實相』は両方面から書いてある。 (6661)
日時:2013年02月23日 (土) 03時54分
名前:伝統

     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P61 (2月22日)>より

『生命の實相』を読んで薬を廃(や)めて病気が治る人もある。
薬を廃めないで治る人もある。
またかえって薬を拝んで服(の)むようになり、心境の一変とともに病勢とみに減ずる人もある。

これはその人ひとりひとりの心の悟りである。
刺身包丁を見て、それで人殺しをする人もあれば、自殺する者もある。
また包丁だけに魚肉(ぎょにく)だけを料理して喜ぶ人もある。

先日はまた医師がメスを出すのを見て発狂して鉄道自殺を遂げた美貌の若き母があった。
それはまたその人ひとりひとりの心境の問題である。

たまたま包丁で人殺しをしたり、メスを見て発狂または自殺をしたりする人があるからとて、
包丁やメスは危険であるからといって、その発売や所有を禁止したり、メスや包丁を殺人罪で
告発したら滑稽であろう。

『生命の實相』には病人に対してむやみに医薬の服用を止めよと書いたところは一句もない。
たとえば『生命の實相』の巻頭の神示には、

「《もし病人にして医薬を服用する者あらんには》それを四口(よくち)に分けて飲み、
”この同じ想念”をなして飲めば病(やまい)必ず速(すみやか)に癒えるのである。

すべての他の人の罪を恕(ゆる)すは、吾らの過(あやまち)をもまた大生命なる神より
恕(ゆる)されんがためである。

もしわれらが心を閉(と)じて他(た)を恕(ゆる)さなければ、
大生命の癒能(いやすちから)もまた閉ざされてわれらに流れ入ることはできないのである。」


この「”同じ想念”」をなすというのは

一口目を手にしては、これ今まで過ちて人に対して憎み怒りし自己の罪が神によって
赦されんがための供物(そなえもの)であると念(おも)いて服(の)み、

二口目を手にしてはこれすべての人の罪が神によりて赦されんがための供物(そなえもの)
であると念(おも)いて服(の)み、

三口目を手にしては是れ神の護りによりて自己が再び隣人を憎み怒るの罪を
犯さざらんがための供物(そなえもの)であると念いて服み、

四口目に一杯の飲料を手にしてはすべての人の罪をこの水の如くわが心より
洗い流して心にとどめざらんがための象徴(しるし)であると思って服(の)む」

べきことがその前行の文章にかいてあるのである。

これは薬物服用における心の持ち方の懇切なる指導である。
それが『生命の實相』の、特に巻頭に書いてあったのは、それが重大な事柄であるからである。

近代のサイコアナリシス(精神分析)は観念泄瀉(せっしゃ)が
心的原因の病気の治療に大いなる効果のあることを証明した。

この神示にはっきりと書いてあるところの方法は、
医薬の服用と同時に観念泄瀉(せっしゃ)を行なう方法であるともいえるのである。

『生命の實相』は現に医薬を服用していない者に「医薬を服(の)め」とは勧めてはいないが、
「《病人に対して医薬を服用する者あらんには》・・・かくかくの心持にて《服(の)め》」
と書いてあるのであって、「《服(の)むな》」とか「その服用を廃せよ」とは書いていない。

しかるに『生命の實相』を読んで、薬を廃(や)める者があるのは、仏教的真理「色即是空」
(物質本来無し)、または諸法皆空(現象本来無し)の思想に目覚めた結果、自己内在の
生命(せいめい)の自然療能力に頼ることを重んじて物質的薬剤に頼ることを軽視する
ようになるからである。

            <感謝合掌 平成25年2月23日 頓首再拝>

光明の理論「生命の実相」を心に蓄積せよ! (6746)
日時:2013年02月27日 (水) 06時17分
名前:伝統

     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P68 (2月27日)>より抜粋

この世は理で支配されている世界なのである。
理責めにすれば幽霊や病気でさえ消えることがある。

病患部に対し神想観をして、

「完全なる神の造り給いしこの世界には、本来病気は存在し得ないのだ」と
理論を繰り返す繰り返し黙念することによって不治の病が治るのは、
「ある」という病気の主張に対して「無し」という理責めの方が打ち勝つからである。

通俗医書を読んで素人が病気にかかりやすくなるのは、
「病気が《ある》」という理論の方がその人の心の中で優勢になるからである。

理責めのこの世界において、われわれの戦う人生の武器は「理論」である。

多少理論に飛躍があっても、光明のみがこの世に存在すると理論体験「生命の実相」を
自分の心のうちに蓄積する者は、病気を征服し、艱苦を征服し、
ついに自己の人生を征服して光明の人生と化しうる。

            <感謝合掌 平成25年2月27日 頓首再拝>

『生命の實相』読誦の先には”光”がある (6926)
日時:2013年03月06日 (水) 03時40分
名前:伝統


        *『生命の實相』第三十五巻下化衆生篇(P71)より

『生命の實相』を読んでいてある瞬間に達すれば
必ず真理の光がたましいの中へ射し込んでくるのである。

その光は太陽の光よりも明るい光である。
自分の身体が透明になったような感じがする。
自己の生命が無限生命の光線の中につつまれる。

その無限の光線の中に溶け込みつつ燦然として輝いている生き通しの生命こそが
わが生命であることが悟られる。
これこそ自分の本当の生命であったのだ。

今生きつつある地上の生命の小さいことよ。
それはただ自分の《本当の生命》の輝きが、迷いの雲間に洩れて、
地上に記(しる)した小さな光の点々にすぎなかったのだ。

迷いの雲間は裂ける。
本当の自分は輝き出でる。

地上に晴天の日の太陽が照らすごとく、
本当の自分は無限の輝きを放って地上の生活を照らすのである。

            <感謝合掌 平成25年3月6日 頓首再拝>

『生命の實相』を繰返し読む  (7093)
日時:2013年03月13日 (水) 05時05分
名前:伝統


        *『生命の實相』第四巻生命篇下(P101)より

聖典を読むということは、覚えてしまったらもう読まなくてもよいというふうなものではないのです。
これは仏教のお経でも、神道の祝詞でも、キリスト教の賛美歌でも、この『生命の實相』でも
同じことです。

お経でも、賛美歌でも、言葉で出して唱えるところに、そこに言葉の力で、自分の心のなかと、
この大宇宙のなかに善き精神的リズムを生み出す ―― それが肝心なのであります。

『言葉』に出すと申しましても、必ずしも「音読」しなければならぬというわけではなく、
黙読もまた言葉です。

ともかく、読んでいるその時に起こる心のリズム「精神波動」が大切でありまして、
真理を読めば真理の精神リズムが発生し、それにしたがって迷える霊魂に悟りを開かせ、
神および高き霊魂を招き寄せ、病的念霊を退散せしめて、病気が治ることになるのであります。

だから、もう原理を知ったなら、記憶したなら、読まなくともよいというわけのものではありません。

            <感謝合掌 平成25年3月13日 頓首再拝>

『生命の實相』翻訳中の奇蹟  (7272)
日時:2013年03月23日 (土) 05時02分
名前:伝統


「谷口雅春先生をお慕いする掲示板」において、”童子 さま”による投稿記事
”『生命の實相』翻訳中の奇蹟(2013年03月18日、03月21日、03月22日)”が掲載されております。

是非、訪問の上、閲覧していただきますようお勧めいたします。

→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=35

以下に、このスレッドに関した部分に焦点を合わせ、その要点を紹介しておきます。


(1)訳文に深浅の相違が出て来るのは訳者の心境の深浅の問題であるのである。

(2)『生命の實相』を幾度も読み直して、真理の理解の度を深めて頂くと同時に、
   御自分の心境を進めて頂きたいものである。

(3)ドイツ語訳『生命の實相』の訳者ホルナーゲル夫人の体験

  ①『生命の實相』の序文を改めて翻訳いたしましたところ、
   更に深く判ったような感じが致します。

  ②(谷口雅春)先生は極く自然な方法で天国は‘今常に’茲に在りと
   お教え下さったのでございます。

  ③神の国に超入すれば人間はもはや唯物論者ではあり得ないのでございます。

  ④娘は流行性耳下腺炎に罹って三日目の夜は熱もあり、頭痛がしてかなり悪うございました
   ので、私は月刊英文『生長の家』誌一九六二年八月号から、“子供を健康にするには”を
   翻訳しはじめました。

   始めてすぐ私の心の不安は消え去り、全く平和になりました。
   終った時娘は全く朗かとなり、笑顔をみせるようになりました。
   痛みも消え、熱も下がりました。

(4)祈りが諾かれないことはないないのである。祈りは必ず諾かれる。
   心に深く思うことが、そのまま祈りである。

   その章に書いてある文章を、その中に含まれている深い意味をじっと心に咀嚼しつつ
   あることがその侭祈りであって、娘の痛みも消え熱も去ったのであった。

            <感謝合掌 平成25年3月23日 頓首再拝>

 一般新聞紙への投稿文 (7327)
日時:2013年03月27日 (水) 14時16分
名前:相良武雄

 一般新聞『富山新聞』のコラム欄「愛情」に掲載されたものです




      『生命の實相』   
                    長谷川ゆかり  


 母が初めての息子威(二十七歳)を亡くした時、あの子ぼんのうの母が、悲しさの中から喜びを見つけ『人間は生き通しなのだ』と言った。
 
 私はまじまじと母の顔を見た。それは観音さまのような表情であり、〃威(たけし)ちゃんが残して行った〃と手渡されたのが『生命の實相』谷口雅春著でした。

 その頃は終戦直後で物がなく、心も荒れに荒れていた時代であったので、この『生命の實相』という本に書かれている素晴しい人生観に驚いた。『宇宙に唯一の実在がある。それは永遠の我という実在である』 『何ものも自分を縛るものはない。自分の心のみが自分を縛るのである・・・・・』


 私はむさぼるように読みふけり、天にものぼる心地であった。その日から悲しいものが喜びに変わり、貧しいものが富になって見えて来た。見るもの聞くものが光でした。あたりまえがうれしいのである。『生命の實相』二十巻は私を変えました。

 今振り返ってみてあの時の感動はどこから来たのであろうかと思う。そして再びこんな感動はないだろうとも考える。以後、私はつまずきながらも今日までこれに支えられ、詩を作り、絵をかいて、悔いのない人生を送っている。


 〃真理は汝を自由ならしめん〃
とキリストは言ったが、今また戦後と違った公害攻めの時にあたって、一人でも多くの人がこの本に触れていただきたいものと心から思います。




 ※長谷川ゆかり氏 : 女流詩人(倉田ゆかり).白鳩会長


 谷口輝子先生の随筆にありましたので、その部分のみを紹介しました。ただ掲載日時が不明なのが残念です

生長の家では活字が道場であり、文章が教化の師である。 (7814)
日時:2013年04月22日 (月) 04時28分
名前:伝統


     *『生命の實相』第25巻教育実践篇上(P102~103)

この《生命の実相》というものは、今までは文字言語のよく説くところではない、
言詮不及(ごんせんふきゅう)、不立文字(ふりゅうもんじ)であると言われていた。

それを文字を立て、文章を立て、言葉の力によって生命の実相を悟らせるようにさせた
ところが生長の家の独特なところであるのであります。

今までは真理と言葉とが二つに分かれていて、
言葉や文章は真理を完全にあらわすものではないと思われていた。

ところが生長の家では言葉と真理、文章と実相とをピッタリ一致させた。

古来、直接説法、以心伝心でないと悟ることもできない真理を、
ただ文章を読むだけで悟れるように、文字の中に生命あり、生命の中に文字あり、
文字と生命と一体というような域にまで達せしめえたのであろうと思います。

さればこそ本を読むだけで、直接参禅しても得られなかったような悟りに到達する人が
多勢あらわれてきて、その影響を及ぼすところ、肉体の病気も治り境遇環境まで変化してくる
というようになってきたのであります。

(中略)

今までの宗教のような直接説法、直接指導でなければ功を奏しないようでは
このおびただしい世界の人類をいつまでたったら教化しうるかすこぶるおぼつかない話であります。

これが今までたくさん宗教があるのに、新しく「生長の家」の出現した所以でありまして、
生長の家では活字が道場である。文章が教化の師である。

活字を印刷した新聞紙の行くところ、活字を印刷した小冊子の行くところ、
そこが道場化して人を救うということになるのであります。

            <感謝合掌 平成25年4月22日 頓首再拝>

『生命の實相』は文章芸術である (8045)
日時:2013年04月30日 (火) 07時30分
名前:伝統

      *『人間■んでも■なぬ』(P332)より

私の全集『生命の實相』を読んで病気が治ったと云う否定すべからざる事実が続々起ったり、
戦場に於て生■を超越して奮戦し得た実例を数多生じたる理由は、

それが『絶対■なぬ人間そのもの』なる哲学を感情的に移入する誰にでも理解され易い文章で詳解し、
その哲学を実際生活に生活し得るように誘導したからである。

生長の家に哲学が無いと云う人は、実は其人は私の全集『生命の實相』を読んでいないからである。

真理を感情的に移入する文章を芸術であると観るならば、
全集の『生命の實相』は私の文章芸術であるが、哲学そのものは難解なる哲学用語の外にある
ことを知らなければならない。

私は哲学を難解なる術語から解放したのである。
哲学するとは難解なる術語を使うと云う意味ではない。
真理を如実に把握して生きると云う意味である。

表現された真理をそのまま読者が生活に活きるように押し出す迫力があるのが哲学である。
哲学は哲学せしむる力を持たねばならぬ。

            <感謝合掌 平成25年4月30日 頓首再拝>

生命の実相の悟りとは、第一創造の世界へ跳入すること (8378)
日時:2013年05月14日 (火) 04時52分
名前:伝統


     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P131(5月14日)>より

すべては第一創造の世界にある。
神にし残しはないから、すべてはすでに与えられているのである。

それだのにわれわれにまでそれが現象世界に与えられないのは「因縁の法則」によるのである。
したがって「因縁の法則」とはすでに与えられたるものからマイナスする法則であるともいえる。

「因縁、因縁」と言っている者がかえって因縁に縛られて不幸が絶えないのも
「因縁の法則」とは「マイナスの法則」であるからである。
それは「雲の法則」であり、それにひっかかるだけ太陽の光は鈍くなるのである。

生命の実相の悟りとは、雲を一躍して太陽光線の世界へ跳入することである。
もうその世界には雲もなければ、因縁もない。
ただあるものは第一創造の完全世界ばかりである。

            <感謝合掌 平成25年5月14日 頓首再拝>

『生命の實相』は、芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教である (8754)
日時:2013年05月29日 (水) 04時06分
名前:伝統

     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P143(5月29日)>より抜粋

人を真に動かすものは「感情の力」である。
人を癒やす力も「感情の力」にあるのである。

世に迷信視されている「お婆さん」や行者の小宗教で病気が治る事実が続々あり、
それに理論が透らないという理由で、また、たまたま感情興奮を伴わない知的な人に試みて
治病成績が挙がらなかったという理由で、それらの治病宗教を詐欺視するがごときは、
治病の力が宗教的感情興奮にあるのであることを洞察しないものである。

『生命の實相』が、それを読むことによって病気が治るのは、
文章力による宗教感情を興奮せしめる力が強いのである。
この点において『生命の實相』は文章芸術である。

理論だけ簡単に透(とお)ろうと思って、手紙で簡単な返事さえ貰えばよいと思っている人は、
この点をみのがしているのである。

もっとも現代の知識人は「お婆さんの宗教信者」と違って理論が透らないものは頭から排撃
してしまって、いくら名文でも宗教興奮を惹起しうるものではない。

だから『生命の實相』は理論においても古今独歩、古来一切の宗教的理論の中枢を包容しつつ、
近代の精神科学から新興物理学理論までも一貫せる一大生命学の理論体系をなしているのである。
この点において『生命の實相』は一大哲学とも言えるのである。

芸術であり、哲学であり、しかしてその及ぼす治病の体験数は医者が一つの事実を肯定するに
用いるモルモットの実験頭数よりも多く、数千の実験礼状となって顕われているので、
実験の蒐集であるから科学であるとも言いうるのである。

しかしてその読書による感情興奮の種類は、個人と天地の大生命との調和的融合感を興奮
せしめるのであるから、宗教であるとも言いうるのである。

芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教であるのが『生命の實相』である。

            <感謝合掌 平成25年5月29日 頓首再拝>

『生命の實相』(真理の書)は何故幾度も読まねばならぬか (9076)
日時:2013年06月06日 (木) 05時02分
名前:伝統


         *『眞理』第九巻生活篇(P25)より

「人間・神の子・完全円満」と知っているだけではそれは形の世界に実現し得ないのであります。
赤い絵の具はたしかにあると知っているだけでは、赤い色は画面にはあらわれません。

『生命の實相』を読んで、「人間・神の子・完全円満」と知って、もう万事わかったと、
読むことを捨ててしまう人がありますけれども、これは「赤い絵の具はある」と知っただけで、
画面に赤い色を塗らない画家同じことです。

真理の言葉を繰り返し読むことによって、画面に「赤い絵の具」を繰り返し塗るのと同じで、
潜在意識に、「人間・神の子・完全円満」の観念を繰返し塗ることになるのです。

若しそうしなかったならば、間断なく外界からやって来る「人間は物質的肉体だ。死すべきもの、
病むべきもの、老衰する者だ」と云う観念の暗示で潜在意識がいっぱいに塗りつぶされ、
その暗示の通りに老い病み且つ死するのです。

            <感謝合掌 平成25年6月6日 頓首再拝>

『生命の實相』生活篇 (9495)
日時:2013年06月26日 (水) 06時44分
名前:伝統

     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P177(6月26日)>より

今日ひとりの誌友がわたしを訪問してこんな話をした。

「先生、先生は『生命の實相』の生活篇をお書きになるときに、どんな状態であの強い御文章を
お書きになったのですか? 」


「別にどういうことはない。あのころはわたしは会社へ通っていましてね、朝5時に起きると
すぐ朝風呂へ参りまして、帰ると短時間神想観をして、それから出勤時間まで、1時間ばかり
机に向かってペンを執るのが習慣でした。

何を書こうかということは筆を執るときまで考えていない。筆を執りはじめに、どんな本でもよい、
何かの教科書でもよい。有合(ありあわ)せの机上の本のどこでも手あたりしだいのページを
開いてじっと2、3行見つめていると、それが執筆を招(よ)び出す精神統一になって
書くべきことが頭に浮かんで来る。

あとは頭に浮かんでくるままにペンを運べばよいのでした。
どんな本でも2、3行じっと見つめているというのはポンプの迎い水のようなものですね。

水晶球凝視法といって水晶の球を凝視していると、その水晶の表面にいろいろな形が現われて来る
現象がありますが、あれに似ていますね。わたしのは水晶球の表面に現われてこないで
頭に浮かんで来ます。」


「あの生活篇にはずいぶん力強い文章がありますね。わたしはあの一節を書き抜いて常に携帯して
歩いています。病人の枕許にあの一節を書いて貼り付けておいてやりますと、不思議に精神が
光明に誘導されて病気の治る人があるので驚いています。」


「あの生活篇の価値を多くの誌友は知らないのですよ。病気のことはほとんど書いてない。
生活の仕方を鼓舞するように書いてありますが、生活が整ってくると自然病気が治ってくる。
朗々と読むとよいのです。だからあの部分だけ集めて『光明の生活法』という一冊に纏めてある
のです。」


「あの中に『汝の床をあげて起(た)て! 』という実に力強い文章がありますが、あの一句を
わたしは脊椎カリエスで下(しも)半身不随になって歩くことのできない病人の枕許に肉筆で書いて
おいて、毎日これを読んで、自分の心を鼓舞するのですよ。

そして『起(た)てる、必ず起てる』とこれを読むごとに思うのですよ、と言っておきましたら、
数年間半身不随の青年が旬日のうちに起(た)ち上がったのです。
言葉の力というものは不思議なものですなア。」

            <感謝合掌 平成25年6月26日 頓首再拝>

「生命の實相」を五読十読しよう! (9846)
日時:2013年07月15日 (月) 06時35分
名前:伝統

    *掲示板<光明真成會>からの紹介です。
     http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=200
    (”素晴らしい未来予想図 さま”のお許しをお願いいたします)


          「生長の家」誌<昭和6年1月号>

しみじみと味わう心は尊い心である。

人生をしみじみ味わう。
大自然をしみじみ味わう。
絵を見てしみじみ味わう。
食べ物を食べるにもしみじみ味わう。

書を読むにもしみじみ味わう。


『生長の家』は幾度繰り返して読んでみても新しい感じがすると多くの読者は言って下さる。

聖書がそうである。
仏典がそうである。

すべて霊感によって書かれたものには無限の深い味わいがあって噛みしめれば噛みしめる程、
その味わいはなお深くなって来るものである。

不徳自分の如き者の手に持つペンから
これ程のものが書けると言う事が自分にとって実に不思議である。

私は自分の書いたものを見てそれに教えられる。
私自身五読十読して人生が明るくなり、健康が増進し、人生に処する自信力が高められる。

所詮は私が『生長の家』をかいたのではなくて、
或る『霊界の指導者』が私に『生長の家』を吹き込んで書かせるのだと思うほかは無い。

『生長の家』の誌友でなお自信力が欠けているとか、なお病弱だとか言う人が若しあれば、
屹度その人は『生長の家』を普通の雑誌のように一度きり読んで打ち捨てておく人である。

そんな人は今後1日1時間は是非本誌を繰り返し読む事に費やして欲しい。
そこから必ず無限の力が湧いて来る。

人生は明るくなり、健康は増進し、自信は満ち溢れて、
読むのに費やした以上の収穫が得られるのである。

真理は自己の全存在に滲み通ったとき始めて現実的力となるのである。

            <感謝合掌 平成25年7月15日 頓首再拝>

『生命の實相』は、言葉で読み、心で読み、行ないで読む (10290)
日時:2013年08月01日 (木) 04時56分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月1日>(P39)より抜粋


『生命の實相』は、言葉で読み、心で読み、行ないで読まなければ本当の悟りは得られぬ。
そして現象界は、心の世界の反映(かげ)であるから、
本当の悟りが心の世界に得られねば、「お反映(かげ)」はえられぬのである。

しかし世間には「言葉」で読むことさえも面倒くさいから、遠隔治療をしてくださいと
いうような不誠実な人たちもあるのである。こういう人にかぎって、治ったらもう用がない
と言って去り、治らなかったら「生長の家」は効かぬと悪評するのである。

お反映(かげ)は遠隔治療にあるのではなく、真理にあるのである。
真理を読むことを拒んで、その人たちは何を得ようとするのであろう。
誠実に実行するところに真理の治す力は作用(はたら)くのである。

       <感謝合掌 平成25年8月1日 頓首再拝>

『生命の實相』で繰り返し生命の水を汲む  (10339)
日時:2013年08月03日 (土) 04時34分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月3日>(P40)より

プラトンの対話篇を「水車を踏む」のに喩えた人がある。

私の『生長の家』も『生命の實相』もまた踏まれゆく「水車」のごときものである。

水車は同じ形をなしつつ、同じ中心を軸として繰り返し回転する。
万巻の大蔵経も同じ真理を中心軸として繰り返し回転した。

私の『生命の實相』も同じ形を示しつつ、いつも同じ真理の文章を読まされつつ、
そのたびごとに読者はいっそう豊富な生命(いのち)の水を汲みとるのである。

水車は同じ形をし、同じ中心を軸として回転するものであるから、
もう二度と繰り返し踏む必要がないと言っておれば、
生命(いのち)の水を汲み上げることはできないのである。

       <感謝合掌 平成25年8月3日 頓首再拝>

『生命の實相』は、人類を最初の青天白日の意識に蘇らす (10627)
日時:2013年08月16日 (金) 05時04分
名前:伝統


        *『生命の實相』第三十五巻下化衆生篇(P89)より

光は暗(やみ)を許さない。
暗(やみ)を許すことは暗(やみ)を存続せしめることになるのである。
光は最も有効に暗(やみ)を消すのである。

「生長の家」は罪のままで病気を治さない。
罪のままで病気を治したら、罪は罪のままで存続することになるのである。
病気は罪の自壊する過程であるからである。

たまたま『生命の實相』を読みて病気が消えるのは
《罪そのものが真理の光に照らされて消え、罪の自壊する必要がなくなるからである》。

罪の自壊には必然的に苦しみを生ずるのである。

キリストが十字架の苦しみを受けたのは、
人類の罪の代贖(あがない)のためであると云われている。

罪の代贖(あがない)とは人類自身が「罪あり」とする「罪の意識」に、
神みずからがその身を《供え物》とし給うたことである。

「罪あり」と思えば、その思う意識に縛られて、人はますます暗い世界へ落ちてゆく。

これを「罪無し」の意識にしてやる方法はないだろうか。
前科者は前科ありとの意識によってみずからを縛って重犯を重ねてゆく。
始めから無罪、青天白日にしてやったならば重犯はありえないのである。

わが『生命の實相』は、人類を最初の青天白日の意識に蘇らすために出現したのである。

       <感謝合掌 平成25年8月16日 頓首再拝>



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