「拝む と云うこと」~『行』誌(昭和15年2月号)の巻頭言 (2080) |
- 日時:2014年12月02日 (火) 03時48分
名前:伝統
今回は、『行』誌(昭和15年2月号)の巻頭言 「拝む と云うこと」を謹写させていただきます。
拝(おが)むとは『我(が)』が無くなることなり。 『自分』が虚(むな)しくなることなり。
『自分』があって拝んでも、それは真に拝んでいるのではない。 少しでも『自分』があったら拝み切ってはいぬなり。
『自分』が、これだけしている《のに》とか、 これだけ尽くしたらもう赦して貰っても好い筈だとか思うのは まだ『自分』を捨てていぬなり、拝んでいぬなり、無条件ではなきなり。
自分の註文があるなり。 自分の註文がある間(あいだ)はまだ『我(が)』が壊(くだ)けていぬなり。 『我(が)』がくだけていぬ間(あいだ)は『自分』が零(ゼロ)に成っていぬなり。
『自分』が零(ゼロ)になっていず、『自分、自分』と把(つか)み乍(なが)ら、 相手を私は拝んでいますなどと考えるのは増上慢なり。
『拝む』と云うことは『自分が拝んでいます』と誇らしげに云うことには非(あらざ)るなり。 相手の前に無条件にひれ伏すことなり。
前号精神分析の第42話、本号精神分析43話に現れたる『これだけ私は尽くしている』 と云う婦人の尽くし方の効果が顕われぬ理由、よくよく読んで勘考せらるべし。
拝むとは『零(ゼロ)』になることなり。 『無条件』になり切ることなり、どんな仕打ちでも苦情を云わずに、 無条件に有り難く受けることなり。
『我(が)』がくだけて了(しま)えば、一切の業(ごう)なし。 業は『我(が)』が背負っているものであるからである。
業なければ、一切の禍(わざわい)なし。 『我(が)』がくだけたとき、天地変貌し、肉体も変(かわ)るのは当然なるなり。
<感謝合掌 平成26年12月2日 頓首再拝>
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