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『英霊の言乃葉Ⅱ』 (49)
日時:2014年09月02日 (火) 03時50分
名前:伝統

光明掲示板第二「『英霊の言乃葉』 (11341)」からの継続です。
  → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2160

             ・・・

以下は、今月(平成26年9月)の靖国神社の社頭に掲示されている遺書の紹介です。

************************************************************************* 


遺書

陸軍少佐 森本三郎命
昭和十八年九月三日
ニューギニア ウエワクにて戦死
兵庫県印南郡別所村出身 
二十六歳


一、

皇民トシテ錦旗ノ下ニ死ス
之臣ノ無上ノ光栄ナリ死シテ
皇居守護ノ鬼ト化シ猶悠久ニ
皇國ト共ニ生クルヲ喜フ


二、

死ニ臨ミ悔ケレト未タ御奉公ノ
足ラサリシト垣内ニ逆臣名利ニ
趨ル徒輩ノ絶エサルヤヲ憂フ
老幼男女階級ヲ問ハス眞ニ皇民
タルノ光栄ニ感激シ各々ノ使命
ヲ自覚シ己ノ最大ヲ傾ケ皇ニ奉
シ顧ミテ恥サルヲ望ム


三、

遺品ヲ残シ遺族ノ涙ト化スヲ欲
セス皇國ニ生レ彼蒼ニ散華シ
遺骨ノ帰省固ヨリ期セス何処ニ
散ルトモ八紘建設ノ浄土ト化サン


四、

両親ノ恩ニ報イルニ心配ノ累積ヲ
以テセシ罪今日ノ壮行ニ免シ許シ
給ヘ

                 三郎
(原文のまま)

************************************************************************* 
            

一、

皇民として錦旗の下に死す

之臣の無上の光栄なり死して

皇居守護の鬼と化し猶悠久に

皇國と共に生くるを喜ふ


二、

死に臨み悔けれと未た御奉公の

足らさりしと垣内に逆臣名利に

趨る徒輩の絶えさるを憂ふ

老幼男女階級を問はす眞に皇民

たるの光栄に感激し各々の使命

を自覚し己の最大を傾け皇に奉

し顧みて恥さるを望む


三、

遺品を残し遺族の涙と化すを欲

せず皇國に生れ彼蒼に散華し

遺骨の帰省固より期せす何処に

散るとも八紘建設の浄土と化さん


四、

両親の恩に報いるに心配の累積を

以てせし罪今日の壮行に免し許し
給へ

                 三郎
(カナを平がなに変換)

・・・

森本三郎少佐の「遺書」に示された高き魂意識を、多くの英霊が共有しておりました。

このような高き魂意識を持つに到った当時の日本の英霊へ多くの影響を与えた書に、
次の2つの書があるといわれております。

(1)谷口雅春先生編著『天皇絶対論とその影響』
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=20
     (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)


(2)軍神・杉本五郎中佐遺著『大義』
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=227
     (本流宣言掲示板)


         <感謝合掌 平成26年9月2日 頓首再拝>

藤井陸軍憲兵准尉の遺書 (316)
日時:2014年09月13日 (土) 04時36分
名前:伝統

以下は、昭和47年3月の靖国神社の社頭に掲示された遺書の紹介です。

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獄中より最後の願ひ


陸軍憲兵准尉 藤井 力 命

昭和二十一年四月二十二日 上海にて法務死 

徳島島麻植郡鴨島町出身 四十一歳

   ---------------------------------------------


一、私は敏子を離別します。
一、敏子に再婚させて下さい。
一、私に成仏させて下さい。

私は敏子が現在の不幸に打勝つて再婚し、母となり幸福になつた時成仏出来ます。
その他に成仏はありません。
追善供養は不要です。

お父様、お母様、敏子をいたはつてやつて下さい。
彼女が涙もかれてしまひ、精も根もつきる程の不幸に落したのは私です。

亦悪い星の下に生れた私であり敏子でありました。
どうかいたはつて下さいませ。

最後の願はこれ丈です。


彼女が戦火の中に身を挺して来てくれたのも
斯うなる私に天が与へた最後の御慈悲であつたことでせう。

私は人生の喜びも、彼女によつて与へられました。

収容せられても此の淋しい獄舎にて、暖い便りや衣類を送つて呉れ、
その愛情につゝまれて居ります。

私の心は幸福でした。

前後の事情は彼女がお父様、お母様に報告して呉れませう。

皆様にも、もう会へませんが、左様なら 左様なら。


  お父様お母様御長生下さい。御機嫌よく。


  三月二日              力


お父様

お母様


  -----------------------------------------------------------

(『英霊の言乃葉』第二輯/P101-102 昭和四十七年三月 靖國神社社頭掲示)

*************************************************************************


藤井憲兵准尉に関しては、次の補足があります。

「昭和19年12月、中国の漢口を爆撃した米軍機が日本軍に撃墜され、中国人の捕虜と
なった搭乗員が護送される際、暴徒の襲撃を受けてこの捕虜が死亡してしまった。

この護送警備のために派遣されていた藤井憲兵准尉は戦後、上海の軍事法廷で何ら罪がない
にもかかわらず加害者とされた。

このように、敗戦国日本を待っていたのは、戦勝国による報復的な戦犯裁判であり、
事実誤認、人違い、日時場所の不正確など、さまざまな不確実要素がありながら、
起訴された多くの被告に過重な刑が科せられた。」

               (「国民の遺書」<P118~119>より)

また、タイトル『獄中より最後の願ひ』は、
「国民の遺書」では、『敏子に再婚させて下さい』となっております。

         <感謝合掌 平成26年9月13日 頓首再拝>

小松進陸軍大尉の遺書 (739)
日時:2014年10月02日 (木) 04時07分
名前:伝統

以下は、今月(平成26年10月)の靖国神社の社頭に掲示されている遺書の紹介です。

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遺言状
陸軍大尉 小松 進 命
昭和十八年十月十六日
ニューギニアにて戦死
長野県諏訪市出身
三十五歳


一、君ニ召サレテ屍ヲ戦野ニ曝スハ固ヨリ武人ノ本懐ナリ

一、盡忠ノ大義ニ生ク晴天ノ如シ

一、忠誠ノ士ハ純情ノ孝子ナリト祖先ノ遺風ヲ顕彰セン

一、残レル妻ノ使命ハ孝養ト子等ノ教育ナリ

一、昭夫ハ承継ナリ重夫・恭夫ハ大陸ニ勇飛セン

一、久子ニハ良縁ヲ

一、今ニシテ各位ノ好意ノ大ナルニ比シ恩ニ報ユルナカリシヲ

一、各位ニ宜敷ク

 昭和十六年八月
                             進
妻ヘ


(原文のまま)

************************************************************************* 


一、君に召されて屍を戦野に曝すは固より武人の本懐なり

一、盡忠に大義に生く晴天の如し

一、忠誠の士は純情の孝子なりと祖先の遺風を顕彰せん

一、残れる妻の使命は孝養と子等の教育なり

一、昭夫は承継なり重夫・恭夫は大陸に勇飛せん

一、久子には良縁を

一、今にして各位の好意の大なるに比し恩に報ゆるなかりしを

一、各位に宜敷く

 昭和16年8月
                             進
妻ヘ


(カナを平がなに変換)

         <感謝合掌 平成26年10月2日 頓首再拝>

栗林忠道陸軍中将の遺言 (972)
日時:2014年10月11日 (土) 04時58分
名前:伝統

靖国神社の「英霊の言乃葉」を少し離れ、
今回は、大東亜戦争末期の硫黄島での戦闘指揮者である、
栗林忠道陸軍中将の遺言等を紹介いたします。


       *Web:「わかりすぎ日本近代史(栗林忠道 陸軍中将)」より

栗林忠道(くりばやし ただみち)陸軍中将は、
大東亜戦争末期の硫黄島での戦闘を指揮しました。

栗林が大尉時代、軍事研究などを目的に昭和3年~5年までアメリカへ留学し、
アメリカの軍事力だけではなく生産力、国民性など多方面に渡り熟知していた事は
有名な話です。

では、栗林忠道とはいったいどのような人物だったのでしょうか。


栗林は少将時代、南支派遣軍(第二十三軍)の参謀長として広東(現・広州)にいました。

階級社会の最たる軍隊にあって、
目下の者に気さくに接する栗林は異色の将官だったといえます。

入院した兵がいれば自ら車を運転し、果物などを持ち軍病院へ見舞いに行ったり、
マラリアにかかった兵がいれば自ら氷を届けたりもしました。


ある時、軍用犬のシェパードと共に記念写真を撮影する事になりました。

栗林は
「せっかくだから、貞岡も呼んでやろう」
と言い、全速力で走っても往復15分以上かかる宿舎へ使いを出し、
裁縫係の軍属(軍属とは、軍に勤務していますが、戦う事が任務ではない人)の
貞岡信喜(さだおか のぶき)を呼びに行かせます。

通常なら身分の異なる五十歳の陸軍少将が、
二十歳そこそこの裁縫係の軍属を15分も待つなど、絶対にありえない時代でした。

それを栗林は、写真を撮ってもらうという当時めったになかった機会を、
田舎から出てきて一生懸命働く若者に与えたのです。

ちなみに栗林が中将に昇進して東京の留守近衛第二師団に転任する事が決まったとき、
貞岡は自分も転属願いを出してついていっています。

1年後、栗林は総指揮官として硫黄島へ出向く際には、貞岡の同行を許しませんでした。

しかし、貞岡は栗林に黙って彼を追い掛け、
硫黄島北約270キロにある父島行きの船に乗りました。

父島に着いた貞岡がやっと通じた無線電話で栗林と話した時、
「そんなところで何をやっておるか!
絶対にこちらへ来てはならん!」
と怒鳴られています。

激戦が予測され、自ら死を覚悟していた栗林は、
軍属である(というより、未来ある若者である)貞岡を死なせたくなかったのです。

戦後貞岡は、
「うちの閣下に怒鳴られたのは、後にも先にもあの一度きりで、
あの時が閣下の声を聞いた最後でした。」
と、涙ぐみながら語っています。


栗林は小笠原兵団の兵団長(最高指揮官)で、
任命当初は父島へ指令部をつくり、そこから小笠原諸島(主に硫黄島)の防衛を
指揮するはずでしたが、彼は自ら、激戦地となりうる可能性があるにもかかわらず
硫黄島へ出向き、そこで直接指揮する事にしました。

では何故、水も食糧も豊富にあり安全な父島へ行かず、
水や食糧も乏しく危険な硫黄島へ出向いて行ったのでしょうか。

それは、彼自身が「指揮官は第一線で指揮をとるもの」と言い、
自ら一兵卒と同じ苦労をし現場の辛さや苦しみを経験しようとした為でした。


彼は将兵も一兵卒と同じ食事をし、一人一日与えられる水の量も一兵卒と同じとしました。

この事に対し食事を運ぶ当番兵たちは、栗林達将校の配膳に困惑しました。

将校の食事は他の一般の兵と違い、皿の数からして違っていたためです。

それを「他の兵士達と同じにせよ」と言われても、どうしてよいのかわからなかったのです。

しかし栗林は笑いながら、
「では、皿だけ並べておけばよい」
と言い、空の皿を前に食事をしたといいます。

水については、硫黄島には馬が3頭いましたが、
騎兵出身であった栗林は一度も乗る事はありませんでした。

馬を歩かせれば水をたくさん飲むから、というのがその理由でした。

硫黄島では水は一人一日、水筒一本と決められていましたが、
栗林自身もその規則に従い、見回りの時には総指揮官が来たというので
貴重な水で茶を沸かして出す部隊もありましたが、彼は口をつけることはありませんでした。

そして、洗面器ほどの器に入れた水で顔を洗い、
その後に副官であった藤田正善(ふじた まさよし)中尉が顔を洗い、
残りは丁寧に取っておき、便所の手洗水にしていました。

ある部隊長が、水槽から汲んだ水に手ぬぐいを浸して身体を拭ったのを見た時、
彼は烈火の如く怒り、
「銃殺に値する」
とまで言いました。

この島ではそれほど水は貴重だったのです。

硫黄島へ着任した栗林は、将兵の象徴とも言える軍刀を持たず、
代わりに長い木の棒を持っていたと言います。

そしてその棒には目盛りが刻まれており、
何か作業をするときには物差し代わりに使用していました。

硫黄島で生き残った兵士のほとんどは、栗林を見たり話したと証言しています。

通常、一般の兵が総指揮官と顔を合わせるなど、他の基地ではありえない事でしたが、
栗林は毎日毎日島を歩き周り兵達を励まし、時には自らが作業を手伝ったといいます。

つまり、階級にかかわらずすべての将兵が不便を分かち合い、
苦楽をともにすべきであるとの方針に加え、食事を同じとしたのは、
部下達の栄養状態を熟知しておく事が必要だと考えたためでした。


プライベートでは、家族宛ての手紙を数多く出しています。

特に末っ子のたか子の事を「たこちゃん」と呼び、気にかけていました。

出征当時、いつもは聞き分けのいいたか子(当時9歳)は大泣きして栗林を困らせました。

死を覚悟して硫黄島へ出向いた栗林は、
たか子が幼くして父親を亡くす事を案じて不敏に思い、
たか子宛ての手紙を数多く書いています。

そのほか妻の義井(よしい)宛ての手紙には、
出征前にお勝手の隙間風を防ぐ措置が出来なかった事を気にかけ、
風の防ぎ方の説明を詳細に絵に描き送っています。

「私からの手紙は、これからはもう来ないものと思って下さい」
と書いた遺書代わりの手紙を数多く送っています。

その一つをご紹介いたします。

「最後に子供達に申しますが、よく母の言い付けを守り、
父なき後、母を中心によく母を助け、相はげまして元気に暮らして行くように。

特に太郎は生まれかわったように強い逞しい青年となって
母や妹達から信頼されるようになることを、ひとえに祈ります。

洋子は割合しっかりしているから安心しています。
お母ちゃんは気が弱い所があるから可哀相に思います。
たこちゃんは可愛がってあげる年月が短かった事が残念です。

どうか身体を丈夫にして大きくなって下さい。

妻へ、子供達へ、ではさようなら。夫、父」

追伸1

 持って来たものの中、当座いらないものをこの便で送り返します。
 記念(かたみ)の品となるとも思います(遺品、遺骨の届かない事もあります)。
 軍用行李が届いたらあるいはまた送り返すものがあるかも知れません。

 ウィスキーその他の追送は一切不要です。
 届くか届かないかも不明だし、届いてもその時はもう生きていないかも分かりません。


追伸2

 家の整理は大概つけて来た事と思いますが、お勝手の下から吹き上げる風を防ぐ措置を
 してきたかったのが残念です。
 太郎に言いつけて来たことは順々にやった事と思います。
 師団の林はまだあれきりでしょう。


追伸3

 私は今手紙をどこへも一切出しておりません。
 もし昔の兵隊や友達などから問い合わせのあった時は、
 ただ南方某地へ出征したという事だけ返事してやって下さい。



出征直前には天皇に拝謁して直接激励され、2万余りの兵を束ねる最高指揮官が、
遺書代わりの手紙で最後の心残りとして記したのが、
留守にしている台所の隙間風だったのです。

しかしこの手紙は遺書にはなりませんでした。

ほかには、風呂の湯垢の取り方や、妻の赤ギレや子供への小遣いの心配など
家族の生活を心配する手紙を、毎回遺書として米軍上陸までの約8ヶ月間に41通も
出しています。

彼自身は水も無い地獄の島で明日の命もわからないにもかかわらず、
ただ家族の心配をし、家族の為に自らの命を懸けて戦う覚悟をしていたのです。


1945年(昭和20年)3月16日、彼は最後の総攻撃を決心し、
16時過ぎに大本営に宛てて訣別電報を発します。


その最後には辞世が三首読まれていました。

その始めの一首をご紹介しますと、

「国ノ為重キツトメヲ果タシ得デ 矢弾尽キ果テ散ルゾ悲シキ」

とあり、彼は将兵達の命を懸けた戦い振りと死んでゆく将兵達を思い、
軍人にあるまじきタブーである「悲しき」という言葉をあえてしたためたのです。

しかし、この訣別電報が新聞に報じられる時、
1億玉砕を唱える大本営は「散るぞ悲しき」を「散るぞ口惜し(くちおし)」と
変更するようマスコミに通達したのです。

翌17日には地下洞窟内にいる全員に一杯の酒と恩賜のタバコ2本を与え、
別れの盃を交わしています。

そして3月25日、ついに彼は最後の訓辞を述べます。

「予が諸君よりも先に、戦陣に散ることがあっても、
諸君の今日まで捧げた偉功は決して消えるものではない。

いま日本は戦に敗れたりといえども、日本国民が諸君の忠君愛国の精神に燃え、
諸君の勲功をたたえ、諸君の霊に対し涙して黙祷を捧げる日が、いつか来るであろう。
安んじて諸君は国に殉ずべし。」

通常なら最後の総攻撃の際、総指揮官は陣の後方で切腹するのが常識でしたが、彼は自らが
「予は常に諸子の先頭に在り」
と宣言したとおり、

陸海軍約400名の先頭に立ち、1945年(昭和20年)3月26日朝、ついに戦死します。

この栗林の最後の総攻撃は、日本軍特有の玉砕覚悟のいわゆる「バンザイ突撃」ではなく、
物音ひとつたてずに敵に近付き攻撃するという最大の混乱と破壊を狙った優秀な計画であった、
とアメリカ軍は「米海兵隊戦史『硫黄島』」に記しています。

最後の総攻撃の時、白襷をし日本刀を手に先頭を突き進んだ栗林は、
右大腿部に重傷を負いましたが、司令部付曹長に背負われながらなおも前進し、
その後出血多量で死亡したとも、拳銃で自決したとも言われており、
彼の死因や亡くなった場所は定かではありません。


戦史に残る壮絶な戦いを指揮した軍人「栗林忠道」は、
ひとたび戦地へ出向くと年齢や階級の分け隔てなく平等に対応し、
兵士達の厚い信頼を得て(そのことはアメリカ軍側に発狂者が続出したのに対し、
日本軍側には一人の発狂者も出なかった事からも伺えます)、

最後は総指揮官として玉砕ではなく任務を真っ当した戦いを見せた、
帝国軍人らしからぬ軍人でした。

それと同時に、家族と自宅のお勝手の隙間風が心配で仕方のない夫であったのです。

         (http://vmz.jp/ch.php?ID=wakarisugi&c_num=50214

         <感謝合掌 平成26年10月11日 頓首再拝>

市丸利之助海軍中将の遺書 (1223)
日時:2014年10月21日 (火) 04時41分
名前:伝統

前回は、栗林忠道陸軍中将の遺言を紹介いたしました。
今回は、同じく硫黄島の戦いで散華された市丸利之助海軍中将の遺書の紹介です。


市丸海軍中将は硫黄島における海軍側の最高指揮官で、
栗林陸軍中将と市丸海軍中将の2人の将軍の人柄はよく溶け合って
軍の士気を支えたと言われている。

・・・

市丸 利之助(いちまる りのすけ、1891年(明治24年)9月20日-1945年(昭和20年)3月26日)
は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将(戦死による特進)。
佐賀県東松浦郡久里村(現在の唐津市)出身。


市丸少将は遺書としてアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた
『ルーズベルトニ与フル書』をしたため、これをハワイ生まれの日系二世三上弘文兵曹に
英訳させ日本語、英語各一通を作りアメリカ軍が将校の遺体を検査することを見越して
これを村上治重大尉に渡した。

村上大尉は最後の突撃の際にこれを懐中に抱いて出撃し戦死。

『ルーズベルトニ与フル書』は目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、
7月11日、アメリカで新聞に掲載された。

それは日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、
ファシズムの打倒を掲げる連合国の大義名分の矛盾を突くものであった。

「卿等ノ善戦ニヨリ、克(よ)ク「ヒットラー」総統ヲ仆(たお)スヲ得ルトスルモ、
如何ニシテ「スターリン」ヲ首領トスル「ソビエットロシヤ」ト協調セントスルヤ。」

(ルーズベルトは4月12日に死去したため、『ルーズベルトニ与フル書』は
本人は目にしていないとみられる。)

尚、公式な戦死日は訣別の電報が打電された3月17日とされている。
市丸の最期を確認した者はおらず、遺体も発見されていない。

市丸が所有していた刀を米兵が拾い、ニュージャージー州の骨董店に並べられていたが、
市丸の遺品であることが判明しNHKのテレビ番組を通じ遺族の元へ戻っている。


・・・

《ルーズベルトに与うる書【口語訳】》

日本海軍市丸海軍少将が、フランクリン・ルーズベルト君に、この手紙を送ります。

私はいま、この硫黄島での戦いを終わらせるにあたり、一言あなたに告げたいのです。

日本がペリー提督の下田入港を機として、世界と広く国交を結ぶようになって約百年、
この間、日本国の歩みとは難儀を極め、自らが望んでいるわけでもないのに、
日清、日露、第一次世界大戦、満州事変、支那事変を経て、
不幸なことに貴国と交戦するに至りました。

これについてあなたがたは、日本人は好戦的であるとか、これは黄色人種の禍いである、
あるいは日本の軍閥の専断等としています。
けれどそれは、思いもかけない的外れなものといわざるをえません。

あなたは、真珠湾の不意打ちを対日戦争開戦の唯一つの宣伝材料としていますが、
日本が自滅から逃れるため、このような戦争を始めるところまで追い詰めらた事情は、
あなた自身が最もよく知っているところです。

おそれ多くも日本の天皇は、皇祖皇宗建国の大詔に明らかなように、
養正(正義)、重暉(明智)、積慶(仁慈)を三綱とする八紘一宇という言葉で
表現される国家統治計画に基づき、

地球上のあらゆる人々はその自らの分に従ってそれぞれの郷土でむつまじく暮らし、
恒久的な世界平和の確立を唯一の念願とされているに他なりません。

このことはかつて、

   四方の海
   皆はらからと 思ふ世に
   など波風の 立ちさわぐらむ

という明治天皇の御製(日露戦争中御製)が、あなたの叔父である
セオドア・ルーズベルト閣下の感嘆を招いたことで、
あなたもまた良く知っていることです。

わたしたち日本人にはいろいろな階級の人がいます。
けれどわたしたち日本人は、さまざまな職業につきながら、
この天業を助けるために生きています。

わたしたち軍人もまた、干戈(かんか)をもって、
この天業を広く推し進める助けをさせて頂いています。

わたしたちはいま、豊富な物量をたのみとした貴下の空軍の爆撃や、
艦砲射撃のもと、外形的には圧倒されていますが、
精神的には充実し、心地はますます明朗で歓喜に溢れています。

なぜならそれは、天業を助ける信念に燃える日本国民の共通の心理だからです。

けれどその心理は、あなたやチャーチル殿には理解できないかもしれません。

わたしたちは、そんなあなた方の心の弱さを悲しく思い、一言したいのです。

あなた方のすることは、白人、とくにアングロサクソンによって
世界の利益を独り占めにしようとし、有色人種をもって、その野望の前に奴隷としよう
とするものに他なりません。

そのためにあなたがたは、奸策もって有色人種を騙し、
いわゆる「悪意ある善政」によって彼らから考える力を奪い、
無力にしようとしてきました。

近世になって、日本があなた方の野望に抵抗して、有色人種、ことに東洋民族をして、
あなた方の束縛から解放しようとすると、

あなた方は日本の真意を少しも理解しようとはせず、
ひたすら日本を有害な存在であるとして、かつては友邦であったはずの日本人を
野蛮人として、公然と日本人種の絶滅を口にするようになりました。

それは、あなたがたの神の意向に叶うものなのですか?

大東亜戦争によって、いわゆる大東亜共栄圏が成立すれば、
それぞれの民族が善政を謳歌します。

あなた方がこれを破壊さえしなければ、全世界が、恒久的平和を招くことができる。
それは決して遠い未来のことではないのです。

あなた方白人はすでに充分な繁栄を遂げているではありませんか。
数百年来あなた方の搾取から逃れようとしてきた哀れな人類の希望の芽を、
どうしてあなたがたは若葉のうちに摘み取ってしまおうとするのでしょうか。

ただ東洋のものを東洋に返すということに過ぎないではありませんか。
あなたはどうして、そうも貪欲で狭量なのでしょうか。

大東亜共栄圏の存在は、いささかもあなた方の存在を否定しません。
むしろ、世界平和の一翼として、世界人類の安寧幸福を保障するものなのです。

日本天皇の神意は、その外にはない。
たったそれだけのことを、あなたに理解する雅量を示してもらいたいと、
わたしたちは希望しているにすぎないのです。

ひるがえって欧州の情勢をみても、相互の無理解による人類の闘争が、
どれだけ悲惨なものか、痛嘆せざるを得ません。

今ここでヒトラー総統の行動についての是非を云々することは慎みますが、
彼が第二次世界大戦を引き起こした原因は、一次大戦終結に際して、
その開戦の責任一切を敗戦国であるドイツ一国に被せ、極端な圧迫をする

あなた方の戦後処置に対する反動であることは看過すことのできない事実です。

あなたがたが善戦してヒトラーを倒したとしても、
その後、どうやってスターリンを首領とするソビエトと協調するおつもりなのですか?

およそ世界が強者の独占するものであるならば、その闘争は永遠に繰り返され、
いつまでたっても世界の人類に安寧幸福の日は来ることはありません。

あなた方は今、世界制覇の野望を一応は実現しようとしています。
あなた方はきっと、得意になっていることでしょう。

けれど、あなたの先輩であるウィルソン大統領は、
そういった得意の絶頂の時に失脚したのです。

願わくば、私の言外の意を汲んでいただき、
その轍を踏むことがないようにしていただきたいと願います。


市丸海軍少将


<参考Web>

(1)教科書に記述すべき資料
   → http://buzz-bomber.com/japanism/archives/564

(2)ねずさんのひとりごと「ルーズベルトニ与フル書 市丸利之助中将」
   → http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1416.html

(3)米国大統領への手紙―市丸利之助中将の生涯
   → http://www.yoyokaku.com/itimarurinosuke.htm

(4)you tube「ルーズベルト大統領への手紙」 市丸海軍少将
   → https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=8L08VeIOGNU

         <感謝合掌 平成26年10月21日 頓首再拝>

姫野清馬命の遺書 (1442)
日時:2014年11月02日 (日) 06時33分
名前:伝統

以下は、今月(平成26年11月)の靖国神社の社頭に掲示されている遺書の紹介です。


************************************************************************* 

遺書
海軍二等機関兵曹
姫野清馬命

昭和十七年七月五日
アリューシャン列島アガツ島付近にて戦死
福岡県糸島郡福吉村出身
二十六歳




母上様には、色々と御心配を掛けまして申し訳ありません。

海軍軍人となったこの上は、誠心誠意奮闘する覚悟です。

軍人たる者何時身を捨つることあるや、今から決心してゐます。

母上様の並大抵ならぬ苦労は、身に沁みて有難いと思ってゐます。

小生今までの御不孝をお許しください。

「一死報國」以って繕はして戴きます。

母上様に対して深甚の感謝を捧げます。
  
                          敬具

昭和十一年五月三十日

                      姫野清馬
 
母上様
(原文のまま)

         <感謝合掌 平成26年11月2日 頓首再拝>

海野馬一陸軍少佐の遺書 (1729)
日時:2014年11月16日 (日) 06時10分
名前:伝統

陸軍少佐 海野馬一命

歩兵第五十四聯隊 
昭和二十三年四月三日 ボルネオ島にて法務死 
岡山県出身


愛児へ

児等よ嘆ずること勿れ。父の死は決して汝等を不幸にはしない。
汝等は父の死によって何でもよいから一つの教訓を得よ。
他の人の得ることの出来ぬ教訓を得よ。そして立派な人間となれ。

汝等よ。汝等の母は日本一の母なることを汝等に告げる自身あり。
母の言をよく守れ。母の言は即ち父の言だ。
和幸君瑞子様誠子様仲よくよき母の許にてよく勉強して立派な人となれ。

人間は何も高位高官の人となる義務はない。
国家のため人にためになる人になるのが人間の義務だ。

和幸君よ父は汝に将来如何なる職業に進めと云ふ権能はない。
又汝の性格も判らぬから申さぬ。然し弱きを助けるのが男だ。
父は軍隊生活中この気概を持してやって来た。(中略)

「弱きを助ける人となれ」これが父の言葉だ。
汝未だ五才と雖も父の言を忘るる勿れ。

瑞子様はお姉さまだから父の心がよく判るであらふ。
和幸や誠子が成長するに従ひ父の心を傳へて下さい。

(靖国神社 平成15年<2003年>9月 社頭掲示)

         <感謝合掌 平成26年11月16日 頓首再拝>

海野馬一と『生命の實相』 (1901)
日時:2014年11月22日 (土) 03時22分
名前:伝統

”山ちゃん1952 さま”ブログ(2014年03月02日)より
      (勝手な判断で、編集変えを行いました。
       ”山ちゃん1952 さま”のお許しをお願いいたします)
    
私はこのブログで海野馬一少佐の遺書を書いた。
その海野少佐は『生命の實相』五巻の冒頭にある聖経『天使の言葉」の
活字の下に針孔の字で遺書を書いた。

その内容は


遺言

どなたでも この本をお讀みの方は、
針の穴で書いておきます遺言を
私の兄にお届け願ひます

海野馬一

岡山縣邑久郡朝日村東宝伝。


《醍醐中将について》
日記
昭和二十二年十二月五日


12月5日
昨日、醍醐海軍中将に死刑執行命令が来た。
閣下は平然としておられる。実に立派なものだ。
一、二日のうちに死んで行く人とは思えぬ位に。
かつて侍従武官までされた人だったのに。

12月6日
海軍中将侯爵醍醐閣下銃殺さる。
余りに憐れなご最後だったが、併しご立派な死だった。
国歌を歌い、陛下の万歳を唱し斃れられた。

その声我が胸に沁む。
天よ、閣下の霊に冥福を垂れ給え。

予と閣下とはバタビア刑務所以来親交あり、
予の病気の時は襦袢まで洗って頂いたこともあり、
閣下は私のお貸しした「生命の實相」をよくお読みになり、
死の前日、そのお礼を申された。

閣下の霊に謹んで哀悼の意を表す。


海野馬一

合掌

・・・・・


どうでしょうか?

先の大戦で生長の家信徒の人も沢山御亡くなられています。

しかも、立派な人が多いのであります。

次回はその提督・醍醐忠重を書きたいと思います。

私は「歴史」を環境などというものだけに運命を賭けるようなものであってはいけない。

人を救い、国を救うのが「生長の家」なのです。

住吉大神の御守護が神功皇后の御影の地である。
本住吉神社から神示を給わったのではないか。

神功皇后が自ら住吉大神をお祀りになったと伝えられる古社で、
のち大阪にも祀られるようになったところから『本住吉』と称される。

旧地名であります御影町にある本住吉にちなむいわれを次のように説明しています。
つまりこの地(阪神電車ガ-ド下)に「玉の井」(玉の井ではなく「澤の井」が正解)
という清冽な泉が噴出する地があり、

この水に神功皇后が「御影」をお写しになったところから地名御影の名が生まれ、
その付近から出る花崗岩を称して御影石の呼称ありとし、
さらに谷口雅春先生は本住吉と自らに因縁について、次のように述べられている。


「毎朝風呂場で禊をして、その浄まった直ぐのけがれのない体で、
毎朝、その本住吉神社に参拝して日本国の隆昌のために祈っておった時、
霊感をいただいて始まった教えが生長の家であって、

その教えの本尊即ち本統(ほんとう)の教祖は住吉大神であらせられるので、
私はただその教えのラッパに過ぎないのであります」

(『神秘面より観たる生長の四十年史』26頁



その生長の家の教団が「住吉大神」を隠蔽するようでは「生長の家」でないことを
宣言しているに等しい。

    (http://tecnopla1011.blog.jp/archives/2014-03-02.html )

         <感謝合掌 平成26年11月22日 頓首再拝>

片岡正光 陸軍大尉の遺書 (2065)
日時:2014年12月01日 (月) 03時34分
名前:伝統

以下は、今月(平成26年12月)の靖国神社の社頭に掲示された遺書の紹介です。

************************************************************************* 

遺書

陸軍大尉 片岡正光 命

昭和十九年十二月五日
フィリピンレイテ島レイテ湾にて戦死

熊本県鹿本郡菊鹿村出身
二十七歳



父上様、愈々私の真価を発揮する時が参りました。
日本男児として、そして又、父上様の子として立派に皇國に殉じます。

今や皇國存亡の決戦に臨んで居る日本人は、総て生死を超越し、
一筋に任務を完遂し皇國を守護し奉るべきであります。

何卒この機この決戦場に送り得る子を持たれたる幸を心して下さいませ。

御老体のこと故、何かと御心労も多き事と思ひますが、
姉上様と共に健やかにお過ごし下さいます様お願ひ致します。

もう少し生きて貰ひたかつた、せめて孫の顔位見たかつたと
お考へになるかも知れませんが、私としましては、今斯くして
死場所を得る事が最上と信じます。

武士の道、帝國陸軍将校の道、皇國の必勝を信じて淡々と勇躍出発します。

何も思ひ残す事はありません、私の戦死をせめてもの喜びとして下さいます様。

では、くれぐれも御身御大切にお過ごし下さいませ。

老いの目に涙殺して笑み給ふ
        父上の姿伏し拝みつつ

 
十一月十八日

    正光

父上様

(原文のまま)



・・・

参考

     *Web:「特攻・石腸隊の最後」③より

石腸とは、「鉄心石腸」という中国の古語から取った言葉で、
強固な信念、鉄石の心という意味。


片岡正光   

  熊本県、航士57期、同じく石腸隊隊員として12月5日、特攻散華。

  片岡大尉は小学校を卒業するとすぐ山口県岩国市の薬局に勤め、
  そこで勉強しながら陸軍工科学校の試験を受けて見事合格、
  勉学に励みながら隊勤務を経て陸士、航士と進んだ立志伝さながらの努力の人でした。

  彼は厳しい訓練中も武者小路実篤の人生読本や夏目漱石の著書を次々に読了し
  「人生は誠なるかな」「真面目は人間の勝利」を痛感するなど、
  人生の機微を味会う余裕を見せて、潤いのある武士の一面を持った人柄でした。

    (http://blogs.yahoo.co.jp/siran13tb/44907487.html

         <感謝合掌 平成26年12月1日 頓首再拝>

塚本太郎 海軍大尉の遺書 (2270)
日時:2014年12月11日 (木) 04時34分
名前:伝統

************************************************************************* 

出陣に際して

海軍大尉 塚本太郎命
昭和二十年一月二十一日
中部太平洋方面にて戦死
茨城県稲敷郡龍ヶ崎町出身 二十二歳


父よ、母よ、弟よ、妹よ、そして永い間はぐくんでくれた町よ、学校よ、さようなら。
本当にありがとう。こんな我ままものを、よくもまあほんとうにありがとう。

僕はもっと、もっと、いつまでも皆と一緒に楽しく暮らしたいんだ。
愉快に勉強し皆にうんとご恩返しをしなければならないんだ。

春は春風が都の空におどり、みんなと川辺に遊んだっけ、夏は氏神様のお祭りだ。
神楽ばやしがあふれてる。昔はなつかしいよ。

秋になれば、お月見だといってあの崖下に「すすき」を取りにいったね。
あそこで、転んだのはだれだったかしら。

雪が降り出すとみんな大喜びで外へ出て雪合戦だ。昔はなつかしいなあ。
こうやって皆と愉快にいつまでも暮らしたい。

喧嘩したり争ったりしても心の中ではいつでも手を握りあって
――然しぼくはこんなにも幸福な家族の一員である前に日本人であることを
忘れてはならないと思うんだ。

日本人、日本人、自分の血の中には三千年の間、
受け継がれてきた先祖の息吹きが脈打ってるんだ。 (中略)
至尊の御命令である日本人の血が湧く。永遠に栄あれ祖国日本。

みなさんさようなら――元気で征きます。

 昭和十八年十二月十日

*************************************************************************


<参考Web:「忘れ難い人たち 塚本太郎」
       → http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/konadac-tukamoto.htm

・・・

「靖國のこえに耳を澄ませて」打越 和子

            *Web:日本会議広島 より


塚本太郎さんという方、この方は非常にお家が裕福だったこともあって、
お父様がスタジオを経営されていたんですね。

そのスタジオで当時としては珍しくレコードにこの、遺書と言うべきか、
次の文章を入隊前に録音していかれたのです。

                 ・・・

父よ、母よ、弟よ、妹よ。そして永い間はぐくんでくれた町よ、学校よ、さようなら。
本当にありがとう。こんな我儘なものを、よくもまあほんとうにありがとう。

僕はもっと、もっと、いつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ。
愉快に勉強し、みんなにうんとご恩返しをしなければならないんだ。

春は春風が都の空におどり、みんなと川辺に遊んだっけ。

夏は氏神様のお祭りだ。神楽ばやしがあふれている。昔はなつかしいよ。

秋になれば、お月見だといってあの崖下に「すすき」を取りに行ったね。
あそこで転んだのは誰だったかしら。

雪が降り出すとみんな大喜びで外へ出て雪合戦だ。昔はなつかしいなあ。
こうやってみんなと愉快にいつまでも暮らしたい。
喧嘩したり争ったりしても心の中ではいつでも手を握りあって

---- 然しぼくはこんなにも幸福な家族の一員である前に、
日本人であることを忘れてはならないと思うんだ。

日本人、日本人、自分の血の中には三千年の間受け継がれてきた先祖の息吹が脈打ってるんだ。

鎧兜に身をかため、君の馬前に討死した武士の野辺路の草を彩ったのと同じ、
同じ匂いの血潮が流れているんだ。そして今、怨敵撃つべしとの至尊の詔が下された。

十二月八日のあの瞬間から、我々は、我々青年は、余生の全てを祖国に捧ぐべき
輝かしき名誉を担ったのだ。

人生二十年。余生に費やされるべき精力のすべてをこの決戦の一瞬に捧げよう。
怨敵激攘せよ。おやじの、おじいさんの、ひいおじいさんの 血が叫ぶ。血が叫ぶ。
全てを乗り越えてただ勝利へ、征くぞ、やるぞ。

年長けし人々よ、我等なき後の守りに、大東亜の建設に、
白髪を染め、齢を天に返して 健闘せられよ。

又幼き者よ、我等の屍をふみ越え銃釼を閃めかして進め。
日章旗を翻して前進せよ。

我等今ぞいかん、南の海に北の島に全てをなげうって戦わん。
大東亜の天地が呼んでいる。
十億の民が希望の瞳で招いている。

みんなさようなら! 元気で征きます。

                 ・・・

(中略)



戦後においては、個人の命が一番だと言われてまいりました。
けれども死しても護るべきものがあるということをこの方々の遺書は伝えているわけです。

この塚本さんが陣中日誌を残していらっしゃるんですが、
その日誌の中の一部分をまた次に掲げました。


                 ・・・

俺ハ立派ナ日本人ニナレレバ満足ダ 
忠義一途ノ人間ニサヘナレレバ ソレガ人ニ知ラレズニ消エヤウト
誤解ノ中ニ葬ラレヤウト俺ハ満足ダ 

天上デ神様ガ褒メテ下サルダラウ
「オ前ハ駄目ナ奴ダナ無能者ダナ、デモヨクヤツタ努力ハ認ル
 ヨク苦シンダアハハヽヽヽヽ馬鹿ナ奴」

サウ言ツテニツコリ笑フダラウ サウナリタイ 
俺ノ知ラナイオ爺モ曾祖父モ喜デクレルダラウ ナントカシテサウナリタイ

                 ・・・


塚本さんは長男ですので回天の特攻隊に志願された時に一度は却下されるんですね。
長男だという理由で。しかし、それを血書嘆願して再び志願されて回天に乗り込まれました。

この塚本さんは「俺の待っていた兵器はこの兵器だ。絶対に俺はこれに乗る」
ということを繰り返し日誌に書いていらっしゃいます。

嫌々ながら特攻に行ったということが言われますが、私が取材した方はそうではない。
また「志願させられた」という言い方もされますが、
じゃあ何かが怖くて志願させられたというのならば、
塚本さんは一度志願して長男であるからと却下されたのですから、
「しめしめ」とそれで終わればいい。

けれどそうではなくて、長男であるからと却下されたのは悔しい。
絶対に俺は此れに乗ると言って、また血書嘆願して乗る。

そういう方が多くいらっしゃったその事実というものを見つめなければ、
その方に対して失礼だと思います。

ではこういう方々は戦局に対して盲目だったのかというとそうではない。
学徒というのは非常に優秀なエリートでしたので、国際情勢を見る眼と
いうものは持っておられました。

         (http://jp-pride.com/irei/yasukuni.html

         <感謝合掌 平成26年12月11日 頓首再拝>

上田貢 陸軍憲兵軍曹 の遺書 (2437)
日時:2014年12月21日 (日) 04時34分
名前:伝統

(『英霊の言乃葉』第九輯/P23-24 平成15年12月 靖國神社社頭掲示)

************************************************************************

愛児に遺す言葉

陸軍憲兵軍曹 上田 貢 命

第十四方面軍憲兵隊
昭和二十一年六月六日 フィリピン・マニラにて法務死
石川県出身 三十二歳

-------------------------------------------------------------------------

昭和二十一年四月二十八日

恵子が物心つく様になつたら次の事を良く教へて呉れ給へ。


(一)恵子の父さんは国に殉じた立派な人であつた事。

(二)恵子の母さんも祖父母さんも共に立派な人で、
   父さん無き後は、祖父母・母さん達の云はれる事を良く守つて、
   勉強して立派な日本女性となる事。

(三)父さんは何時も恵子と一緒に居るのだから、
   少しも淋しがらずに素直に成長する事。


以上を未だ見ざる我子に遺して行く。良く教へ導いて呉れ給へ。

見ざる子故に、尚さら瞼にはつきりと恵子の成長した姿が映じて来る。


素直に生きよ。


*************************************************************************

         <感謝合掌 平成26年12月21日 頓首再拝>

特別展「英霊に贈る手紙」 (2663)
日時:2015年01月03日 (土) 21時47分
名前:伝統

特別展「英霊に贈る手紙」 今年も、来年も、生命がある限り、靖国へお会いしに…


          *産経新聞 1月3日(土) より


平成27年、日本は戦後70年という節目の年を迎える。
先の大戦を直接知る人たちの高齢化は進み、
「70年」が証言を残せる最後の節目とも言われる。

靖国神社遊就館(東京都千代田区)は70年を前に、
26年2月から8月末まで遺族を対象に「英霊に贈る手紙」を募り、計584通が寄せられた。

その一部は遺品とともに1月1日から同館で展示される。
手紙には戦死した父や夫ら肉親への感謝の念があふれ、
残された遺族たちが懸命に生き抜いた“戦後史”も刻まれている。

 
《昭和20年1月、佐世保から、沖縄方面海軍根拠地隊司令として赴任の朝、
お迎えの車の前に、家族一同が並んでお見送りしたお父様の白手袋の挙手の礼、
無言で一人一人に万感の思いのこもったまなざし、あの姿がお父様との一生の別れとなりました》

当時17歳だった板垣愛子さん(86)=大阪府富田林市=は、
激戦地に向かう父親、大田實・海軍中将のりりしい姿がまぶたに焼き付いている。

家族に別れを告げた約5カ月後、
「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民二対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ…」と
玉砕寸前の司令部から海軍省に打電し、6月13日に自決した。54歳だった。

17年秋に父親と2人で伊勢神宮に参拝した際の
「お母様を大切にしてね」との言葉は忘れられない。



父親への手紙は多い。

《冬の寒い夜は布団に一緒に寝て暖め、
おとぎ話をして寝かし付けてくださったそのぬくもりを思い出します》

18年5月29日に米アラスカ州のアッツ島で戦死した
山崎保代・陸軍中将=当時51歳=の次女、花岡正子さん(81)=横浜市旭区。

家族そろって食卓を囲める鍋物を好んだ。
食事中でも部隊に電話をかけ、兵隊をわが子のように気遣っていたという。

 
《日本からの食糧、弾丸などの補給もない戦いで、若い兵隊さんや部下の方々の戦死を
どんなにか切なく断腸の思いで有られたことかと、親になった私には痛い程分かります》

花岡さんは部下思いだった父親の心中を察した。

 

亡き夫の言葉を胸に戦後を生きた遺族もいる。

《最後の日におっしゃった「君がいるから僕はどんな苦しい時でも幸せでいられる」
…本当に猛火と濁流の中、息の止まるその苦しい瞬間でも、私を想って幸せで
いてくださったの?》

 
18年10月22日に東シナ海で戦死した梅木靖之・海軍中尉=当時26歳=に
問いかけるのは妻の信子さん(94)=神戸市垂水区。靖之さんは出征前に
信子さんとの結婚を約束し、手紙でも「還りこぬ身として征く小生の唯一の贈り物」と記した。

読んだときは意味がわからなかったが、
軍人遺族には医学部進学の特典があると知り、息をのんだ。
自分の死後も伴侶が医師として生計を立てられるよう守ってくれた、と。

信子さんは白むく姿で靖之さんの遺影と並んで結婚式を挙げ、医学部に進む。
医師として現場に立つ信子さんは手紙をこう結んでいる。

《今年も、来年も、生命がある限り、(靖国神社へ)お会いしにゆきます。
靖之様、ありがとう。あなたに頂いたこの尊い一生を悔いなく終わることができますよう、
どうぞお見守りください》



■昭和20年、日本の転換点

70年前の昭和20年は、日本の歴史でも極めて大きな転換点となった年だった。

元旦からB29が東京に襲来したこの年、
米軍はルソン島、硫黄島、そして沖縄に次々と上陸。
持久戦に持ち込もうとする日本軍は、米軍の物量作戦を前に厳しい戦いを強いられた。

3月には東京大空襲で首都に焼(しょう)夷(い)弾が降り注ぎ、
8月には広島、長崎に対し相次いで原子力爆弾が投下されるなど、
一般市民にも大きな犠牲が出た。

さらにソ連が日ソ中立条約を無視して対日宣戦布告をする中、
8月15日、終戦詔書の玉音放送が行われる。

昭和史に詳しい伊藤隆東京大名誉教授は
「昭和20年は、終戦を境に、日本の歴史上初めて外国の軍隊の占領下に置かれた年だった。
そこで始まったのは、将来の日本が米国の脅威にならないようにするGHQによる
日本の改造だった。

日本人を四つの島に囲いこんで外界から切り離し、日本だけが悪であると断罪する
思想改造を行い始めた年でもある」と指摘。

「今年は、終戦から70年が経過してもなお、GHQによる改造を克服できていない
ということを考え、その克服の努力を加速し、次世代にきちんと渡していくことが重要だ」
としている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150103-00000509-san-soci

         <感謝合掌 平成27年1月3日 頓首再拝>

亀田榮藏 陸軍軍曹の遺書 (2820)
日時:2015年01月15日 (木) 04時55分
名前:伝統

(平成20年2月 靖國神社社頭掲示)

出発に際して

陸軍軍曹 亀田榮藏命

昭和二十年二月十六日
フィリピン群島ルソン島
コレヒドールにて戦死
東京都赤坂区新坂町出身 二十九歳


美栄子へ


兄に代りて弟妹を世話し父母に仕ふ。責任重且つ大なり。

責任は人を鍛ふ。
天與の試練なり。負けてはならぬ、きと負けて居られず。

率直に言ふ。平生兄の言酷なりし点ありたるも激して言ひたるわけならず。
美栄子の強くなる事幸福を祈るの一念より発す。
日本女性たるもの感奮せざるべからず。

兄の努力足らず美栄子に苦労をかけたり、恥ぢ入るのみ。
心からお詫びす。

されど未だ兄の目より見て苦労ずれして苦労に負けたるの感
拭ひきれざる様なるは終生の遺憾なり。
兄の妹ならもっと反駁力ある筈なり。

今後苦労は倍加すべし。
されど美栄子に強さを願ふ兄の気持も倍加す。
期待に副ふ事を切望す。

身だしなみ。女らしさ。しかも強さ。
むずかしき事なれど修養すべし。

以上。兄
(原文のまま)

         <感謝合掌 平成27年1月15日 頓首再拝>



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