父母に感謝して食事する心 (1810) |
- 日時:2014年11月19日 (水) 05時00分
名前:伝統
*”山ちゃん1952 さま”のブログ(2014年08月19日)より
私は以前に海野馬一陸軍少佐のことでこのブログに書き留めた。 その一部ですが抜粋します。
《「生長の家」の人 ;海野陸軍少佐》
海野馬一
12月31日
昨夜金刀比羅様と安仁神社の夢を見た。私は加護されてゐるのだ。有難い。
山桜 No.120855
昭和23年元旦
兎に角元旦を迎へた。目出度い。五十歳になった。
一,日一日を正しく楽しく生きる為,元旦に次のことを誓ふ。
一,腹を立てぬこと。
二,物事を悪意に解しないこと。
三,人に親切にすること。
四,小言を云はぬこと。
五,迷信にとらわれないこと。
自分の欠点はよく判ってゐながら,それが矯正できなくて苦しんでる。 自ら神の子であることの実相が見えずに苦しんでゐる。
「神よ(我即実相)なることを悟らしめ給へ。(我は神なり)と云ふことを悟らしめ給へ」
牢獄の粗食なれ共父母に お供へして我はいただく
若水に洗身するや星淡し
牢の暮ひねもす聖書読みにけり
君が代の声あり牢の春の朝
牢の朝遊び来れる蝶二つ
初日の出鉄格子より拝みけり 山桜 No.120860
引き続き遺書を発表します。
海野馬一氏 岡山県出身。陸軍士官学校卒業。陸軍少佐。 昭和23年4月5日,ポンチャナックにて刑死。49歳。
遺 書
児等よ。この本の余白に父の手記がある。 文章の下手,字のまずいことを笑ってくれるな。 牢屋の内で監視の目をかすめながら,内々に書いたものだ。
長さ五分にも足らない鉛筆の芯に,椰子の葉の筋を括りつけてかいたものだ。
予は敵俘虜を戦場の勇者として愛の心で接してゐたし, 部下もよく自分の言を守ってやって呉れた。 之等の部下は後備兵で、直接俘虜達と交戦してゐず,皆温和だった。
武装は解除したが,俘虜のもってゐた金は私有財産として引き上げなかった。
私の父母は信仰家で,母は予の出征の際懇々と「無用の殺生をしないやうに」と戒め, その言は耳に沁みている。私は人を斬ったことはない。
キリストの言葉である「汝の敵を愛せよ」を常に心してゐた。
ポンチャナック刑務所では4月18日,4月20日,4月24日,5月5日非常な私的制裁を受けた。 然し予はキリストの「人もし汝の右の頬をうたば左をも向けよ」との教を心に持ち, 「こんなことをする者も亦神の子だ」と思ひ,心に愛を充たしてゐた。
当地の住民や刑務所の看守等で当時のことを知ってゐる者は 私に感謝の意を述べるものが多い。
「海野が俘虜斬殺に関係してゐたら完全な身体で本日迄ゐる筈がない」 と言ふて呉れる看守もある。
此等のことを裁判の時陳述しやうと思ひ書いておいたが, 弁護士さんが「日本内地の裁判なら効果があるが,此処の裁判では、 このやうなことも述べると悪い結果になるのでやめた方がよい」と云ふので 一言も述べなかったし,弁護弁論の中にも加へられなかった。
取調を受けたのは4月18日より10月に亙り6回であったが, 9月30日の取調では,調書を読み聞かせられることなしに署名させられた。
・・・
私はこの人こそ「生長の家」の鏡のような人であると思います。
牢獄の粗食なれ共父母に
お供へして我はいただく
こうした姿勢にこそ信仰としての素晴らしさがあるのではないでしょうか?
私自身でも父母に感謝して食事をいただくことは少なくなっています。 本当に感謝して頂くことが本当の大切なことです。
それを忘れて何が生長の家なのか、 私は現在の生長の家の人は海野馬一陸軍少佐の遺書や遺詠としての書かれたものを 是非読んでいただきたいものです。
(以上までが、”山ちゃん1952 さま”のブログからの引用です。 ”山ちゃん1952 さま”のお許しをお願いいたします)
(http://tecnopla1011.blog.jp/archives/11505704.html)
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海野馬一 陸軍少佐の”別の遺書”をスレッド『英霊の言乃葉Ⅱ』内で 「海野馬一陸軍少佐の遺書 (1729)<2014年11月16日>」として紹介してあります。 そちらも参考にできます。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=28
<感謝合掌 平成26年11月19日 頓首再拝>
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