藤井陸軍憲兵准尉の遺書 (316) |
- 日時:2014年09月13日 (土) 04時36分
名前:伝統
以下は、昭和47年3月の靖国神社の社頭に掲示された遺書の紹介です。
*************************************************************************
獄中より最後の願ひ
陸軍憲兵准尉 藤井 力 命
昭和二十一年四月二十二日 上海にて法務死
徳島島麻植郡鴨島町出身 四十一歳
---------------------------------------------
一、私は敏子を離別します。 一、敏子に再婚させて下さい。 一、私に成仏させて下さい。
私は敏子が現在の不幸に打勝つて再婚し、母となり幸福になつた時成仏出来ます。 その他に成仏はありません。 追善供養は不要です。
お父様、お母様、敏子をいたはつてやつて下さい。 彼女が涙もかれてしまひ、精も根もつきる程の不幸に落したのは私です。
亦悪い星の下に生れた私であり敏子でありました。 どうかいたはつて下さいませ。
最後の願はこれ丈です。
彼女が戦火の中に身を挺して来てくれたのも 斯うなる私に天が与へた最後の御慈悲であつたことでせう。
私は人生の喜びも、彼女によつて与へられました。
収容せられても此の淋しい獄舎にて、暖い便りや衣類を送つて呉れ、 その愛情につゝまれて居ります。
私の心は幸福でした。
前後の事情は彼女がお父様、お母様に報告して呉れませう。
皆様にも、もう会へませんが、左様なら 左様なら。
お父様お母様御長生下さい。御機嫌よく。
三月二日 力
お父様
お母様
-----------------------------------------------------------
(『英霊の言乃葉』第二輯/P101-102 昭和四十七年三月 靖國神社社頭掲示)
*************************************************************************
藤井憲兵准尉に関しては、次の補足があります。
「昭和19年12月、中国の漢口を爆撃した米軍機が日本軍に撃墜され、中国人の捕虜と なった搭乗員が護送される際、暴徒の襲撃を受けてこの捕虜が死亡してしまった。
この護送警備のために派遣されていた藤井憲兵准尉は戦後、上海の軍事法廷で何ら罪がない にもかかわらず加害者とされた。
このように、敗戦国日本を待っていたのは、戦勝国による報復的な戦犯裁判であり、 事実誤認、人違い、日時場所の不正確など、さまざまな不確実要素がありながら、 起訴された多くの被告に過重な刑が科せられた。」
(「国民の遺書」<P118~119>より)
また、タイトル『獄中より最後の願ひ』は、 「国民の遺書」では、『敏子に再婚させて下さい』となっております。
<感謝合掌 平成26年9月13日 頓首再拝>
|
|