| 他スレッドの「公明党の連立離脱に思う」に、私が原宿本部時代、鎌田久子本部講師と私の二人は、選ばれて、選挙カーに乗りウグイス嬢をやったことを書きましたが.. (73576) |
- 日時:2025年10月19日 (日) 13時44分
名前:志恩
トキ掲示板の他スレッドより、転載 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 過去文再掲;原宿本部の本部講師、並びに本部職員が、 やっていた生政連の活動について (73529) 日時:2025年10月17日 (金) 16時32分 名前:志恩
私は本部に奉職したのは昭和36年1月からでした。 その本部へ奉職した数年後から、実際は、生長の家は 政治活動を始めていたのです。
生政連の事務局が開設したのは昭和39年でしたが、 その前から、です。
生長の家で、生長の家議員として 参議院選挙で当選したお方は、 wikiに載っているのは、次の4名です。
玉置和郎さん(1965年)昭和40年 初当選
村上さん (1980年)昭和55年 初当選 寺内さん (1986年)昭和61年 初当選 小山さん (1995年)平成7年 初当選
しかし、wikiには書いてありませんが、 実際は、 玉置和郎さん(1965年)昭和40年初当選の 3年後の昭和43年に
生長の家教団は、生長の家の思想に全面的に賛同して くださっていた 生長の家推薦で、参議院全国区選挙で、 重宗雄三(882,036票で当選)+玉置猛夫(627,897票で当選) 2人を当選させています。
私が、本部に奉職していて、 政治活動に全面的に携わっていたのは、
昭和40年、玉置和郎さんを、初当選させたときと
昭和43年、 生長の家推薦で、参議院全国区選挙で、 重宗雄三(882,036票で当選)+玉置猛夫(627,897票で当選) 2人を当選させた時の、2回です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 生長の家政治連盟の件 (66719)
日時:2024年08月06日 (火) 06時14分 名前:志恩
生政連の活躍により @ 昭和41年12月9日、「建国記念の日」の制定 A 昭和51年11月10日、「天皇陛下御在位50年奉祝行事」の全国民的実施 B 平成11年11月21日、「国旗国歌法」の制定施行 また、「元号法改正」が法制化された という素晴らしいニュースもありますが、
それをするには選挙に、それを率先してやってくれる 参議院全国区選挙などに、生長の家としの立候補者を 立てなければなりません。 それが、生政連活動です。
谷口雅春先生時代は信徒数が多くてですね。300万人いた。 ですから、組織を挙げて、選挙活動して、当選させることが できたのです。
最初、昭和40年に玉置和郎さんを当選させた時の投票数は、 857,474票で当選させたと書いてあります。
次の昭和43年には、生長の家推薦で、参議院全国区選挙で、 重宗雄三(882,036票で当選)+玉置猛夫(627,897票で当選) 2人を当選させています。
この昭和40年、昭和43年の選挙時代に、私は原宿本部におり ましたので、選挙運動にかり出されてボランティアで、電話戦術や 選挙カーに乗って うぐいす嬢 もやりました。
つまり生政連活動をするには、 信徒数が、いるということです。
昔は300万人、 今、30万人の信徒数では、誰も当選させることもできず、 政治に口出ししても、なんの力にもなれないということです。
では、生政連活動をした場合、 本部職員の下っ端は、どのようなことをさせられるのか、 具体的に書いてみます。 (66720) 日時:2024年08月06日 (火) 06時52分 名前:志恩
昭和40年の玉置和郎さんの時は、 初めて生長の家から参議院選挙に玉置さんを 立候補させたので、 全国組織あげて、本部講師も、本部の若い職員も 地方講師も、全員が、オルグになって、全国の組織の 隅々まで、玉置和郎さんをよろしくと言って回りましたが、
原宿の本部職員だった、白鳩会中央部では、若手の三十代だった 本部講師の鎌田久子先生と、二十代だった事務員の志恩がオルグに選ばれまして、
あの時は、本部会館の会議室でだったか個人指導室でだったかは 忘れましたが、選挙期間中の1ヶ月間は、朝から夕方まで、電話戦術 をやらされておりました。
選挙期間中は、木曜日も、お休みは、なしでした。
昭和43年のときは、 重宗雄三さん+玉置猛夫さんの2人を推薦しましたが、 白鳩会中央部からは、 若手だった鎌田先生と志恩の2人が再びオルグに 選ばれまして、 その時は、参議院会館の玉置和郎議員宿舎へ1カ月間 直接通い、 玉置和郎さんの議員会館の部屋で、電話戦術などの選挙活動を やらされておりました。
オルグは、白鳩会中央部からだけでなく、他の部局からも 選ばれた人たちが数人、行っていましたが、
選挙カーには、鎌田先生と私の2人が選ばれて、乗りました。 いわゆる うぐいす嬢 としてでです。
いうまでもなく、毎日、手弁当ででした。 参議院会館の食堂でご飯を食べる時もありましたが、 全部、自払いでした。
ですから、生政連活動をやると一番大変な目に合うのは、組織の 下っ端である われわれのような立場の人たちで あるのです。
余談ですが、私は若い時は、とても真面目な性格で、 一所懸命 仕事を やるタイプだったものですから、 当時、玉置和郎さんの秘書だった 寺内弘子さんからすごく気に入られまして、 本部を辞めて、玉置さんの秘書にならないか、 と私は勧誘されたほどでした。 政治嫌いの私は、即答で、お断りしましたけれど。笑 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー (49851)うぐいす嬢について 日時:2022年03月28日 (月) 18時46分 名前:志恩
うぐいす嬢の、昭和40年代初期の日当は、 調べて見ましたら、15,000円くらいです。 昔の金額に直すと、1000円か1500円くらいでしょうか。
本職の人たちに頼むと、候補者は、そのくらいの アルバイト料を払うわけですが、宗教団体の支援が あれば、宗教団体に所属している職員に無料で うぐいす嬢も、やってもらえるわけですから、 候補者は、お得です。
とにかく、あの当時は、毎日、鎌田久子先生と私の二人は、 選挙カーに乗り、うぐいす嬢として連呼してまわり選挙運動を 熱心にやっていたということは事実のことです。手弁当、無報酬で。
鎌田久子先生は、今でもご健在でいらっしゃいますでしょうから 当時、うぐいす嬢としても、オルグとしても、政治の件で頑張った ことは 覚えていらっしゃると思います。
鎌田先生は、当時は、すでに立派な本部講師でいらっしゃいましたが、 私は役職もない下っ端の、ただの若い事務員でした。
その下っ端だった人間が、役職に関係なく、宗教活動ではなく 政治活動をボランテアでやらされていた時期があったという一例の話を させていただいたのです。
政治は 宗教団体の組織の長が好む政党や政治家に肩入れしがちです。
「学ぶ会」の上層部は、 以前から自民党議員で日本会議の重鎮である衛藤晟一議員と通通の仲ですから、 自民党の応援団です。 ですから学ぶ会という宗教団体の組織に属していれば、いざ、選挙運動となれば、 上層部の指示に従って、自民党のためにボランティアで選挙を支援するでしょう。
「生長の家教団」の雅宣総裁は、以前から、反自民で、立憲民主党支持者ですから、 いざとなれば組織の部下たちは、いやでも、雅宣総裁の指示に従うでしょう。 生長の家の教団ですと、総裁の指示に従って、立憲民主党の支援をするので しょうね。
両方ともですが、このことが、ご自分の組織にどのような影響及ぼすかということは、 組織の長にとってはどうでもいいことだと思っているように、見ていると感じます。
それだけ、政治には、アバエク現象とおなじで、魔力が宿っているからだと思います。
(※「オルグ 」とは、「オルガナイザー」の略で、 組合や政党や本部から派遣されて、 ・組織や、大衆の中で、宣伝・勧誘活動を行う人のこと。)
◆_______________________________________◆ >>昭和43年7月に行なはれた第八回参議院選挙において、 生政連は優生保護法の改正の実現を期するために、 当時、参議院議長であつた【重宗雄三氏】と、 新人の玉置猛夫氏を全国区に立てることになった。<< (生長の家五十年史より)
・鎌田久子先生と私の二人がウグイス嬢に選ばれて、 選挙カーに乗って、東京のあちこちへ毎日毎日お願いして回った 生長の家の候補者は、 この【重宗雄三】さんでした。
【重宗雄三】さんも、玉置猛夫さんも、 この時の選挙では、二人とも当選しました。 ◆________________________________________◆
志恩ー それで、当時の鎌田久子先生と私のツーショット写真はなかったかしらと アルバムを繰って見ましたら、ありましたので、ここへ載せさせていただきます。 1つのスレッドに、1枚しか、貼れませんので、3スレッドに分けて 載せさせて いただきます。
昭和41(1966)年10月19日、20日にかけて 青森県へ 白鳩会中央部の、全国講師4名と事務員4名で、 一泊 慰安旅行へ行った時の写真の一部です。
昭和10月20日、十和田湖湖畔にて
向かって左が、鎌田久子 本部講師 向かって右が、志恩(24歳)です。 (逆光ですが)
マウスでクリックすると拡大します。

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