生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)

この掲示板は、生長の家の「今の教え」と「本流復活」について、自由に議論をするため に作成したスレッドです。
生長の家に関連する話題なら、広く受け付けます。
どの立場の人の投稿も歓迎しますが、谷口雅春先生の説かれた教えを支持、共鳴する人のためにサイトです。
生長の家創始者・谷口雅春先生のご人格や教えへのご批判をされる内容の投稿は一切許可しません。
明らかに目的外の投稿は、削除の対象となります。
目的外の投稿の判断は、最終的には、管理人である「トキ」の判断になります。
アラシ投稿や他の投稿者様を誹謗中傷する投稿をする人は、警告なしに削除します。また、アラシ投稿をする人は投稿制限をかけます。
以上の方針に同意された方のみ入室してください。

管理人宛の連絡は、 sandaime-kanrinin@ymail.ne.jp へお願いします。

旧・生長の家「本流復活」について考える(したらば版)

生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)

生長の家「本流復活」について考える(せっかく版)

際どい話題は、「生長の家「本流復活」について考える(せっかく版)」にお願いします。

傍流掲示板

別天地の掲示板です。
名前
メールアドレス
スレッド名
本文
画像
URL
削除キー 項目の保存


🌈元信徒の部屋 別館 原宿本部資料編🌎💎🎀 (59387)
日時:2023年07月01日 (土) 14時00分
名前:元信徒

こちらには、
原宿本部のことについて
語った方の言葉を集めていきたいです。

原宿のご本部、雅春先生と時代を共にされた方がいらしゃいましたら
思い出など書いて下さい。

3代目 トキ様、又一つスレッドを下さい。

志恩様より (59388)
日時:2023年07月01日 (土) 14時01分
名前:元信徒



> ここからは、余談になりますが、昔々、
山口悌治先生が、総合企画局局長の時、
山口先生のご趣味の1つは、「囲碁」でしたので、
囲碁盤が、企画局にありまして、本部の仕事が
終わった後、山口先生は、同じ企画局の先生と、
時おり、囲碁をされているお姿を、私は見ていました。

山口悌治先生は、4年に1回しか、回ってこない うるう年生まれの
2月29日生まれのお方でしたので、先生が、60歳の時、
「山口先生の15歳の誕生日を祝う会」、というのを企画局内で
ジョークで企画しまして、企画局の人たちでお金を出し合って
うちうちで中華料理店へご飯を食べに行きました。その時、内緒で
私もその集いに招かれて参加しましたので、よく覚えております。
ですから、山口先生は、私よりも40歳も年上の先生だったのです。

ちなみに、「将棋」がお好きだった先生は、渋谷晴雄先生でした。

あの頃の山口先生のお話では、囲碁も将棋も、
先を読むという、思考が、光明化運動につながるのだと
もうされておられました。



エピソードより前に本題を、それはあなたの仕事 (59389)
日時:2023年07月01日 (土) 15時20分
名前:次世代

高齢化社会だからって古い人の思い出だけでは原宿本部会館がどんなにすばらしくて大事だったのかわからぬまま、お年寄りのおしゃべり倶楽部になるだけ

……
五十年史でも何でも、とにかくよく調べて、昭和29年に雅春先生と全国信徒の物心両面からの祈りとまごころによって建てられた会館の歴史的事実を、まずちゃんと伝えてからエピソードを募集してほしいな、スレッド作るなら

それからそんなことに気持ちがある人からの投稿にも門戸を開いてほしいな、当時本部にいなかったら人でも本部会館への思いのある人の
本部にその時いた人だけって狭き門だし、あ、そうで終わってこれからの生長の家につながらないなんて残念

 (59392)
日時:2023年07月01日 (土) 16時44分
名前:元信徒

> エピソードより前に本題を、それはあなたの仕事 (59389)
日時:2023年07月01日 (土) 15時20分
名前:次世代

高齢化社会だからって古い人の思い出だけでは原宿本部会館がどんなにすばらしくて大事だったのかわからぬまま、お年寄りのおしゃべり倶楽部になるだけ

……
五十年史でも何でも、とにかくよく調べて、昭和29年に雅春先生と全国信徒の物心両面からの祈りとまごころによって建てられた会館の歴史的事実を、まずちゃんと伝えてからエピソードを募集してほしいな、スレッド作るなら

それからそんなことに気持ちがある人からの投稿にも門戸を開いてほしいな、当時本部にいなかったら人でも本部会館への思いのある人の
本部にその時いた人だけって狭き門だし、あ、そうで終わってこれからの生長の家につながらないなんて残念




素晴らしいではありませんか、

貴女の思い通りの事、ご自分でお部屋をお作り下さい。

それか、お給料を支払ってどなたかを雇って、素晴らしいものをお作り下さいましよ。

>>
本部にその時いた人だけって狭き門だし、あ、そう。 で終わってこれからの生長の家につながらないなんて残念 <<


その当時、まさに雅春先生が陣頭指揮された本部に奉職されておられた、「神様に選ばれた雅春先生の直弟子」とも言える霊の戦士、まさに手弁当を持ち込んで奉仕された方々の大事で貴重な証言、エピソードを
簡単に 狭き門 と言ってのける貴女の気持ちが私には理解できない。

立教当時の熱く燃えた生長の家とかけ離れた現状では、
今のこのまさに神様不在に見える場所、本部職員が伝道しない安楽で尚且つ、破壊された実態から
次世代につなぐなんて、
どれだけの時間がかかるか、貴女には測れないでしょうね。

私達の時代には、
神様がおわしまして、各人に生きて働いておりました。
神様が雅春先生を通してお働き下さいましたよ。そして、神様の言葉を直接読む事が出来て、神様が全ての信徒の中に輝いていた時代。
何も無い所から全人類の幸福をひたすら祈り、仕事が終わってから伝道し、ゼロから沢山の事、組織、学校、道場を作り上げて来た黄金に輝く素晴らしい時代でしたとも言えます。

今、「私には霊感などありません。」と仰る方の作成したお経を有り難がって読んでいる現状とは、全てにおいて共通するものなど無いと思います。

貴女の仰る通り、次世代とはステージがつながらず、この使命に邁進していた時代は終わりで、今につながっていませんから、歴史は一旦終わっていると感じてます。
いわゆる、劣化変質、破壊していて信徒には聖典、聖経がなくなっていますね。

それは、もう歴史がつながりません。
途中で、切れていると思います。

それが本当の一番の残念な事です、私にとって。

ですので、貴女が好きなように
作成したら良いですよ。
私は貴女の言葉に誠実や信仰にたいする
愛を感じる事はできませんので。
貴女に何か言われて作成したくありません。









自分で好きなように作ってごらん。





様々なご意見がありましょうが、 (59393)
日時:2023年07月01日 (土) 16時54分
名前:元信徒


すみませんが、
こちらでは、本部会館が中心でなく、
まずは、雅春先生ご夫妻、ご家族様とのエピソードを集めたいです。

雅春先生をご存知の方はもう少ないです。

先生がご自宅に宿泊された方のお話。
もう、そのようなお話はなかなか聞けません。
少し前までは、直接ご接待された方も御存命でしたが。

若い頃からやっておけば良かった。


わかりました (59394)
日時:2023年07月01日 (土) 17時28分
名前:次世代

スレッド名からてっきり本部会館が中心だと思ったけど
ではここにやってきて投稿できる限られた人々のエピソードを楽しみにします

自分は世代もずっと下だから生の体験はないけど
先生やご家族さまの人間味あふれるエピソードでとても心に残ってる本は4冊

谷口輝子先生
「いのちを拝む」
「わが心の窓」
栗原得二先生
「谷口雅春先生のご日常」
徳久克己先生編著
「谷口雅春先生が語る 叡智の語録」

まあ、このレスが空気を読んでない招かれざる客のものなら消してと遠慮なく言って

それなら躊躇なく消えるけど、さっきの発言も消すけど、わざわざ言ってしまったのはおしゃべり倶楽部なら微笑ましくても本部会館のことだったから本能的に口を出しちゃったのだけど

追伸
さっきの投稿はパスワードを間違えたみたくて自分で消せないので、目障りならお手数ながら管理人に頼んでください

 (59395)
日時:2023年07月01日 (土) 17時56分
名前:元信徒

様々なご意見を
そのまま残しておきます。

そして、
素晴らしいご本の後紹介をありがとうございます。

どうか、貴女が本格的にされたいのでしたら、思いのままに作成されて下さい。

すでに一度本になっているのは、それはそれで、大切にしたいですね、貴重なもののご紹介をありがとうございます。

ただここでは、

本になっていない方々の素晴らしいお話を聞かせて頂く事が出来ると言う事が私にとっては嬉しいですし、有難いです。
本になっていないならこそ、この掲示板の読者の方は、初めて聞いた知らない事を聞けて、尚更嬉しいはずです。

私は、志恩さまの、お話が大好きです、
私だけでなく、私の昔の仲間からは志恩さんの雅春先生ご夫妻さまとの直接のやりとりなど、本部のエピソードは大人気で、皆んなとても尊敬しております。とても羨ましいと思ってもおりますよ。


当時の婦人局の超有名な先生のお名前やら、地方のやはり奇跡を沢山排出してお人様を助けた素晴らしい先生のお名前やらが出て、その憧れの救済力のある先生と一緒にご旅行されたお話など、絶対に志恩さんからでないと聞けません。素晴らしい貴重なご体験であることは、生長の家を愛して、奉仕し、挺身した職員なら誰でもうらやましい時代のお話であると思っております。
当時の清純無垢な志恩さん達の若い頃の素敵な写真など、可愛いらしくてとても貴重です。昔の優しくて感じがよくって、テキパキと優秀だった本部の構成員の方々ですから憧れてしまいます。
雅春先生時代の本部職員の方は憧れの的でした、

とにかく志恩さんは、
沢山、本部のお話をしてくださいますが、スレッド事にお話下さいます形の掲示板ですので、スタイルが、アチコチバラバラなのが、とてももったいなくて、大事にしたいと思い前から思っておりました。
ですので、一つに集められたら良いかと思った次第です。

意図のかけらでもご理解いただければ幸いです。


次世代さん、
貴女貴方かな、訊け氏かも、頑張って。 応援してます。
いろいろとありがとうございます。
また、ご訪問下さい。



(🧕志恩ー)元信徒様、新しいスレッドを立ててくださって、ありがとうございます。 (59404)
日時:2023年07月01日 (土) 23時02分
名前:志恩

かって、生長の家には、
創始者・谷口雅春先生が総裁先生でいらした時代の、
原宿本部会館時代の、黄金時代がありました。

その時代を知る者の一人として
今から60年も前に、その原宿本部に、たった8年間だけ
奉職していた人間ですが、私は地方講師でも何でもない
一信徒に、すぎませんけれど、
元信徒様がごしんせつに、このスレッドを立ててください
ましたので、微力ながら、お話しさせていただくことに
いたしました。皆様、ご了承くださいませ。

原宿時代のことは、
シオの部屋からの転載もございます。
━━━━━━━━━━━━━━━
まずは、今は、取り壊されてしまって、一部しか残って
いない原宿本部とは、

原宿本部会館について...


生長の家教団のHPより

【生長の家 原宿 光明の塔】
“万教帰一”を象徴する光明の塔
原宿光明の塔は、生長の家の布教の中心拠点として、
谷口雅春・生長の家創始者の構想に基づき、

1954年(昭和29年)に竣工しました。

地階を含めた七層構造の塔は、聖書の『ヨハネの黙示録』に
記された「七つの燭台」に由来し、“七つの燭台(燈台)”
すなわち世界の宗教に真理の燈を点じて調和をもたらすという、
生長の家の“万教帰一”の教えを象徴したものです。

※光明の塔の設計者:岸田日出刀
(きしだ・ひでと1899-1966)
━━━━━━━━━━━━━━━
志恩ー
原宿本部会館が、信徒の皆様の献資によって
建てられた1954 (昭和29)年、のその頃は、
私は、まだ生長の家の存在を、知りませんでした。

母と私が、生長の家の存在を知り、生長の家に入信した
のは、1956(昭和31年)のことで、私が中2の時でした。

母の友人が母に「真理」という本を貸してくださって、それを
拝読した母と私が感動したのが入信のきっかけです。

その母の友人から、飛田給道場で夏の中高生の練成会が
開催されるから、行くといいよと私は勧められて、ある雑誌の
手記には、中学生の時なので、中学生練成会に初めて参加した
と書きましたが、本当はその頃は、中学生練成会は、やっておらず、
高校生練成会しか、やっていませんでしたので、中3でしたが、
初めて参加した練成会は、実は、高校生練成会だったんです。
(中学生でも参加していいと、問い合わせたらOKしてもらい)

私は、当時は東京の私立女子中高一貫校へ通学しておりました。
校長は、クリスチャンで生長の家にも熱心な鳩山薫先生でした。

私は、春休みも夏休みも、熱心に飛田給の練成会に参加し、
徳久克巳先生、菊地藤吉先生、加藤栄太先生に可愛がられて、
東山半之助先生も特別講師でいらしていたので、知り合いに
なって大事にされました。

私は、高2の夏休みの時、初めて、原宿本部へ行きました。
本部の白鳩会に出れば、谷口雅春先生に直にお目にかかれる
と教えていただいたからでした。

私は、高校生の制服を着て本部白鳩会に参加し、マイクを持ち、
憧れの谷口雅春先生に感謝の気持ちを述べまして、最後に、
谷口雅春先生に是非、私と握手していただきたいとお願いしたの
ですが、谷口先生は照れたように笑って、
握手は、してくださいませんでした。

その頃、生長の家本部にて、生長の家東京都高校生連盟が発足し、
ある本部講師の先生から、私に、副委員長になるようにという要請が
あり、私は、お受けして、初代、東京都生高連の副委員長に
就任して、張り切りました。

大学1年の時、夏休みに、宇治別格本山の落慶式、直前の
一般練成会(10日間)を受講しに宇治に行きました時、
加藤英太本部講師から、本部職員にならないかとスカウトされ、
母に電話で相談しましたら、
「生長の家本部は、宇宙一の大学だから、そっちへ行け」と
大喜びで、私に本部行きを勧めましたので、私は大学を中退して
昭和36年1月1日付で、原宿本部へ奉職いたしました。

それは、原宿本部会館が建って、7年目のことでした。

入った部署は、白鳩会中央部(婦人局)でしたが、入って間も無く
自分が住んでいる東京都の地区にだけ、青年会支部がないことを
知りまして、責任を感じ、青年会支部を 作ろうと決意しました。

それで、同じ地区の立教大学生で
私よりも1歳年下のF君が、一緒に戸別訪問してくれると言ってくれまし
たので、早速、実践に移し、本部の仕事帰りとか木曜日の休みの日とか、
F君と二人で、熱心に戸別訪問して歩いて、念願の青年会支部会を
結成しました。

F君が委員長になり、私が副委員長になり、青年会を、運営しました。

F君は、実に性格が明るくて頭もよく話術にも長けており、
コミュニュケーション能力も抜群に優れていて、集まってくださる
青年会員一人一人をほんとうに、心から神の子として大事にして
くださったので、どんどん参加者が増え続け、月一で開催していた
青年会には、毎回38名ほどの青年が集っていました。

青年会は、あまり人が増えすぎて、入りきれなくなったので、
2つにしましたが、その当時、私たちの青年会は、
東京一のすばらしい青年会だ、集まっている男女の青年たちは、
全員が、委員長クラスのすごいメンバーが揃っていると、
講話に来てくださる先生が、来る先生、来る先生、そう言ってくださって、
当時の「理想世界」誌や「光の泉」誌や「生長の家の新聞」にまで記者が
取材に来て、載りました。


当時のご講習会の時、谷口雅春先生も私たちの青年会のことを
取り上げて褒めてお話してくださいました。大変光栄に存じております。



---------------------------------------------------------------
飛田給道場で開催された生長の家夏季高校生練成会で
一緒に参加していた年上の高校生だった「長嶋大」さんが
法政大学卒業後、本部へ奉職され、練成部担当の本部講師に
なられました、原宿本部裏玄関前にて(昭和42年12月)
 長嶋本部講師と志恩

当時の東京都の一地区の私たちの青年会は (59406)
日時:2023年07月01日 (土) 23時48分
名前:志恩

青年会主催の[子ども会]も、開催していました。
生長の家を担ってくれる後輩たちの育成を
考えて、皆でやっておりました。

第1回目の[子ども会]の参加者は、50名でした。
参加費は、子どもなので、一人、10円にして、
10円分のお菓子を参加者全員にプレゼントしました。

私の父は、その頃、相愛会の連合会長をしていて
自宅では生長の家誌友会も開いていましたので、
私たち青年会が開催する[子ども会]に、協力を惜しみ
ませんでした。

(私の父とは、私の生みの父は、大東亜戦争に派兵され戦死し、
戦後、私と、母の実母である私にとっては、祖母の二人を連れて、
母が再婚した男性です。

その継父と母の間に生まれたのが、私の弟妹たちです。

継父は、宗教が大嫌いな人間でした。

父は、私が生長の家に入信し、お小遣いを貯めて買った『生命の實相』全巻
(普及版、全巻20巻)を私が学校へ行っている間に、庭に 20巻、全巻を
放り出して、石油をかけて燃やしてしまったくらい宗教嫌いの人でしたが、
ある日、心変わりして、生長の家に入信してくださいまして、その後は
本部の早朝神想観に通ったり、弟妹たちを通わせていた本部の
新教連主催の生命学園のPTA会長になったり、
相愛会の連合会長までやってくれていたほど、
生長の家は、本物の素晴らしい教えなのです)

私の弟妹たちも、[子ども会]のチラシ配りなど協力してくれました。

あの当時は、中学生だったでしょうか、私よりも7歳年下の
次女の妹は、私と一緒に毎回、私たちの青年会に参加してくれていて、
将来の自分の夢は、同時通訳になることだと言っていましたが
大人になって、UCLAを優等生で卒業し、見事に、その夢を
果たし、カリスマ同時通訳者と言われて、現在も現役で活躍
していますし、他の弟も別の妹も、素晴らしく成功して、
生長の家の教えを実行して生きていったおかげで、今も
皆、幸せに生きております。

なのに、なぜ、この素晴らしい生長の家が、こうなって
しまっているのか、と、思いますと
とても残念に思っているところです。

偏屈さが、蔓延してしまっているからだ、と思いますけれどね。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
生高連時代から可愛がってくださっていた
東山半之助先生(理事・本部講師)と志恩

昭和38(1963)年1月1日、
原宿本部の大道場で開催された
「新年祝賀式」終了後の時、
原宿本部会館、裏の方の 玄関前にて


ありがとうございます。 (59408)
日時:2023年07月02日 (日) 00時24分
名前:元信徒


志恩様、
思いがけず、素晴らしい体験談をありがとうございます。
途中で、お話しますと、話のこしをおりますといけませんので、
楽しみに、楽しみに、静かに傾聴させて頂きます。

嬉しいです、貴重な体験談をありがとう存じております。

昭和30年代後半から昭和40年代前半の、東郷神社の宮司さんの話。 (59429)
日時:2023年07月02日 (日) 14時35分
名前:志恩

当時の原宿本部は、東郷神社と、明治神宮に挟まれた
中間の位置にありましたので、高級霊のご加護を感じていました。

あの当時の東郷神社の宮司さんは、
熱心な生長の家の信徒さんでした。

人間味あふれる、とてもいいお方でした。
宮司さんのご好意で東郷神社の1室を無料で貸してくださっていました。
「生長の家の本部のお方でしたら、どうせ、部屋は空いておりますので
いつでも私に言ってください。無料でお貸ししますからね。」
とおっしゃって。

その宮司さんのお言葉に甘えて、
山口悌治先生を中心にした本部の総合企画局の皆さんや、
共同通信社の記者さんや、
日本教文社の各神誌の編集長さんたちが、集まり、
月一の読書会の勉強会を開くこともできました。
(佐脇嘉久先生と私の二人は、お世話係と記録係を、
山口先生から仰せつかっておりましたので、毎回、
私も、その勉強会に参加していました。)

ちなみに、参加費用は、一人500円でした。
当時は、天津丼、親子丼、カツ丼、どれも500円で
近くのお店から、配達してもらえた時代でした。つまり、
500円は、各自、自分もちの夕食代だったのです。


東郷神社では、当時も、結婚式も やっていました。

私たちが、勉強会をしていますと、
毎回のように、宮司さんが突然、ドアを開けて、様子を見に
部屋へ 入ってこられてまして、

ある時は、お菓子を 振舞ってくださったり、
ある時は、結婚式で、余った縁起のいい祝い酒だからと言われて、
お相伴ですよ と言いながら、一升瓶を抱えて、
部屋(会議室のようなテーブルと椅子席の部屋)へ
入ってこられまして、
みなさんの湯のみに、宮司さん自らが、お酌して回ってくださった
微笑ましい出来事も毎回のように、ありました。

何が申し上げたいかと、言いますと、
本部の幹部級の方々、神誌の編集者、共同通信の記者さんも
含めて、今後の光明化運動のために、たゆまぬ研鑽を
積んでいらしたということです。
そして、佳き教えには、佳き協力者も、このように
自ずから表れていたというご報告です。


ーーーーーーーーーー
原宿本部会館の廊下にて
山口悌治先生と志恩 (1967(昭和42)年12月)

❤️❤️❤️ (59431)
日時:2023年07月02日 (日) 15時46分
名前:❤️❤️❤️

🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹

ご神像を彫刻された服部仁郎先生と奥様のこと。鳩山一郎氏ご夫妻のこと。 (59433)
日時:2023年07月02日 (日) 16時01分
名前:志恩

服部仁郎先生は、神癒祈願部の部長さんでした。
各地へ御教の講演にも出かけて居られたと伺っております。
ご自宅では、誌友会も開催されておられました。

服部仁郎先生の奥様は、個人指導部の本部講師を
されておられました。

奥様は、草木染めが趣味でいらしたので、本部の女子職員の
希望者に、本部の仕事が終わったあと、無料で、草木染めを教えて
くださっておられました。
私も教わりました。草木染めの帯を、母と自分用のと2本、
作った記憶がございます。


ちなみに、鳩山一郎氏が高血圧に倒れて伊豆に療養中、
たびたび指導に行かれたのが服部仁郎先生であり、
谷口雅春先生の直接の文書による御指導もあって
鳩山一郎氏は病から立ち上がり政界に復帰し、
のちに総理大臣になったのだそうです。


そして、鳩山一郎氏の奥様の鳩山薫様は、
お山での誌友会に、お忍びで参加されたリ、
何か、重要なご相談事があると、原宿本部へこれも、お忍びでいらして
谷口雅春先生ご夫妻に、ご相談にいらしていました。

私が、原宿本部に在職中でも、3回、本部へお越しになられまして
私が、鳩山薫様を会議室までご案内させていただいたり、お三方で
会議中のところへ、お茶をお運びしておりました。


原宿本部時代、本部へ谷口雅春先生ご夫妻に
お忍びで重要なことを相談にいらしていた頃の
鳩山薫先生
私は1月1日の午前中は、本部の新年祝賀式に参列致しまして、
例年、午後からは、文京区音羽邸にお住まいの鳩山薫様に新年のご挨拶
をするために、一人で音羽邸に伺っておりました。

ある時、音羽邸の玄関先に伺いましたら、女中さんではなく、
薫先生が自ら玄関まで出ていらして
「あら、ちょうどよかったわ。今ね、外務大臣が、お帰りになったところ
なのよ」
と私に申されました。

鳩山薫様は、私の学校の校長先生でしたし、
音羽邸の離れでは、毎月、白鳩会支部会も開いておられましたので
私が伺いますと、とても喜んでくださって、二人で、応接間にて、
生長の家に関する楽しい話題に花咲かせておりました。
だいたい、いつも、2時間ぐらいでした。

私が帰るときは、いつも、いただき物で悪いけれどと、
虎屋の羊羹セットや、文明堂のカステラセットなどを
山のようにたくさん、お土産にいただいて帰っておりました。

今は、懐かしい思い出です。


このように、谷口雅春先生が総裁先生でおられる時代は、
政界の大物のお方から、学業界の校長先生から、
作家では、山岡荘八氏、歌舞伎俳優の片岡一座が本部へ
谷口雅春先生にお目にかかりに、集まっておられましたという
これも、ご報告の1つです。



当時の鳩山薫様のお写真です。
大変気品のあるお方でした。

小学生時代の谷口雅宣君、谷口輝子先生、志恩が一緒に写っている写真 (59435)
日時:2023年07月02日 (日) 18時03分
名前:志恩

(シオの部屋より転載)
昭和36(1961)年と、メモしてありましたが、
一番手前の小学生の男の子が
谷口雅宣くん。(現在の谷口雅宣総裁先生)

谷口輝子先生が、原宿本部の白鳩バザーへお買い物に
いらした時の写真です。輝子先生の手前の娘さんは、
一般信徒さんの娘さんです。(本部・神泉の間)

志恩は、一番奥のところで黒いスーツを着て写っています。
この日は、輝子先生がお買い物された品を持つように言われ、
あまり近くへ行っては失礼かと考えまして少し離れた位置に
私はおります。
志恩のすぐ手前の、モナリザのようなお顔をされている
小柄な中年女性が、片岡松枝白鳩会事務局長です。
(服部仁郎先生を生長の家に導かれた彫刻家の片岡環先生の
奥様です)


※写真をマウスでクリックすると拡大します

原宿本部時代の懐かしい清超先生からのメモの一部  (59436)
日時:2023年07月02日 (日) 18時16分
名前:志恩

(シオの部屋より転載)

私は和文タイプのやり方を
お山に通って、清超先生に個人教授で教わりました。

それは、輝子先生が私に
「清超先生が和文タイプができますから、
わざわざ和文タイプの学校へ
習いにいかなくても、清超先生に教わるといいですよ。
そうなさい。」
とおっしゃってくださったので、

私は、お山へ通って、
清超先生に個人的に和文タイプを教わったでした。

当時は、清超先生はまだ40歳ぐらいで、
そんなに多忙ではありませんでしたので、一本部職員に
そのような愛行もしてくださる
時間的余裕があったのだと存じます。
(シオが20歳の時、清超先生は43歳。)

あの頃は、パソコンもスマホもない時代ですから、
本部の庶務に、お山宛の手紙を預けますと、夕方、
庶務の職員さんがそれらをまとめて、お山へ持参し、
翌朝に、庶務の職員さんが、お山へまいりまして、
お山からの伝言や返信を、あづかって来て、各部屋に
配達に来て下っていました。

その中で、私の和文タイプの先生でいらした
清超先生から私への
メモには、

和文タイプに関する注意書きや、
○と○と○という漢字を、僕とあなたの二人分、
注文してください。
和文タイプについて申し上げたいことがありますから
○時にお山へおいでください。
サンキューベリマッチって500円、私にくださってる。
(メモには、宛名の、私の個人名が書いてありますので、
それは見えないように工夫して、写しました。)


というようなやり取りのメモが
10枚以上も、アルバムにたいせつに貼ってありましたので、
一部のみ、スマホのカメラで写して公表させていただきます。


当時は、本部講師も、本部職員も、直接、お山へは電話しては
いけないことになっており、お山へ何か用事がある時は、庶務を
通して、お山さまという宛名で、お山宛に用件を書くことになって
おりましたが、私の場合は、清超先生が、私の和文タイプの
先生でしたので、特別に、困ったことがある場合、いつでも
直接、お山へ電話していいという許可をいただいておりました。


ある時、全国の白鳩県連に通達するための、原稿を見ながら
和文タイプを白鳩会中央部の部屋で、私が打っておりましたところ、
和文タイプの機械が、どうやってもこうやっても、作動しなくなり、
大変困りましたので、お山にお電話して、電話口に、清超先生に
出ていただきまして、
その旨、お話ししまして、どうしたらいいでしょうか、とご相談すると、
ちょっと、そのままで待ってて、すぐに、僕がそちらへ行って、
見ますからと言われて、10分もしないうちに、清超先生が、車で
駆けつけてくださって、部屋にて、機械の不都合なところを、
修理してくださったこともございました。
本当に、しんせつに してくださいました。


輝子先生に、私が清超先生に教えていただいて、
婦人局の原稿を和文タイプで打ったものを、お山便にて、
見ていただき、
輝子先生からも、もっとこうしたほうがいい、上はもう少し
空けてと、いうような、ごしんせつな細かい注意書きの
お手紙もいただきました。
それも、大事に保存してありますが、
輝子先生からの私宛のお手紙は、載せるのは、
控えさせていただきます。

昔の時代は、このように家庭的でありました。

私の原宿本部時代の理事長先生 (59437)
日時:2023年07月02日 (日) 18時25分
名前:志恩

(シオの部屋より転載)





∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴‥∵‥
 中林 政吉先生のプロフィール

明治36(1903)年 越後川口生まれ

(略)

生長の家、昭和15(1940)年6月満洲国駐在講師として
赴任される。

著書は、『真理は民族を超えて』
(昭和47年、日本教文社)
∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴‥∵‥
 

理事長室にて  
当時の理事長・中林 政吉先生と志恩(25歳)
昭和42(1967)年12月

(中林先生は私の昭和44年の、結婚式の時にも
生長の家本部理事長として、ご出席くださいました。)

❶昭和37年9月号の『婦人画報』 (59438)
日時:2023年07月02日 (日) 18時33分
名前:志恩

昭和37(1962)年9月号の『婦人画報』という雑誌に
好意的に「新興宗教 特集」を組むので、
生長の家からも、中年女性一人と,若い女性一人の手記を
いただきたい、と婦人画報の編集部から、生長の家本部に
申し入れがありまして、谷口雅春先生にお伺いしましたところ
OKしてくださいまして、生長の家からは、2名と言いますので、
その時、谷口雅春先生が、この人を載せるようにと言われて
選ばれたのが、
中年女性は、当時、西宮市で地方講師をされていた法貴雪子様で、
若い女性は、なんと原宿本部職員の志恩を選んでくださいまして、
手記と写真(写真は、婦人画報のカメラマンが本部へ来て撮影)が、
載りました。
あの時は、なんとも感じませんでしたが、今となって考えますと、
大変光栄なことであったと深く感謝いたしております。

つづく


その雑誌は、大切に保存してございましたので
掲載させていただきます。
昭和37年9月号の『婦人画報』の表紙です。

❷昭和37(1962)年9月号『婦人画報』 (59439)
日時:2023年07月02日 (日) 18時37分
名前:志恩


「特集・3 新興宗教
くらしの中の信仰
こころの中の信仰」

には、6人の女性の手記が載りました。
創価学会
生長の家
立正佼成会

の3つの新興宗教の中年の女性と若い女性の
手記が載りました。


こちらが目次の部分です。
(志恩の実名が載っていますので、そこはふせました。)

❸ 昭和37年9月号の『婦人画報』 (59440)
日時:2023年07月02日 (日) 18時41分
名前:志恩


生長の家信徒として載った記事


法貴雪子様の手記
(この当時は、地方講師、
のちに全国白鳩会会長に就任

❹昭和37(1962)年9月号『婦人画報』 (59441)
日時:2023年07月02日 (日) 18時46分
名前:志恩

生長の家信徒として載った手記。

谷口雅春先生に選ばれて、生長の家の若い女性として、
20歳の時、志恩が書いた手記です。

∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴

    題・ 【光明の灯をかかげて】

  生長の家 東京都 〇〇 〇〇(志恩・20歳)

おばあちゃん子で、ひ弱で、内気で、無口な子供であった私は、
学校に於いて自分から進んで質問したり手をあげて積極的に
答えるということが出来なかった。対人意識が出てくるに従って、
「あの人いつも手をあげない」と友達に思われてやしないかという
劣等感と、自分に対するもどかしさ、歯痒さに苦しみ、私は何て
勇気のない弱虫なのかしら、私みたいなものが、どうして生まれて
来たんだろうかという人生の根本的問題の壁にぶつかった。
世の中には、こんな消極的な子供が多くいるものです。

中学3年の夏休みのこと、私は、ある機会に知った生長の家の
中学生練成会に参加することになった。
”こんないやらしい自分を捨ててしまいたい”私は蝉が脱皮する時の
懸命な努力を自分に望んでいた。

練成道場の玄関に立った時、なんともいいがたい柔らかい雰囲気に
私は包まれた。練成会の五日間、それは素晴らしさに尽きた。
私は偉大な宇宙や、あの輝く太陽をも創造した不可思議な叡智(神)
と一つ生命の神の子であり、人間は皆な生命の兄弟であるという
真理を知らされた。また小さな路傍の石でさえも存在する意義や価値が
あること、ましてや人間においておや、生きることが無価値なはずがない。

私は最後の日の祈りにおいて電撃の如く神の声を聴いた。
「今までのおまえはない。神のいのちが汝に生きているのである」と。

突如として私の観は一転し、自己限定と劣等感はきれいに拭い
去られた。私は完全に以前の自己から脱却できたのであった。
その時 私は新たな明るい光の中の自分を発見し、前とは異なった
祝福に満ちた周囲を観じた。
この世の全てが私に対するあらゆる祝福で満ちあふれているように
おもわれた。
以来、私は、積極的で明朗な人間に生まれ変わったのであった。

夏休みが終わって学校へ行くと、私の変わりようにみんな驚いた。
そして多勢の素晴らしい友を得た。何人かの悩める友に、
生長の家の真理を伝えると、暗黒に灯を点じたように悩みは消え
明るくなってくださった。

クラスで社会科の時間に裁判の実修をやった時、弁護人に選ばれたり、
無口だった私が、校内放送委員に選出されたり、卓球の選手になったり、
学内弁論大会にも出場できるようになった。

眼の前に顕れる色々な問題は、神が私を祝福するため、また魂の向上の
ために与えてくださったクイズのようによろこんで受けられるようになった。

それにもまして嬉しいことは、
日本の国の尊厳を知り、日本人としての誇りを持つことが出来たこと。
そして自分の母校に、先生に、友人に、高い誇りと友愛を深く’感じること
ができるようになったこと。

気づかなかった両親の愛情の何と尊くありがたいことかと、魂の底から
私は沸沸と生きていることの悦びが湧いてくるのを感じたのでした。

生長の家総裁、谷口雅春先生の著書『生活と人間の再建』の中において、
谷口先生は、「真理は頭脳智で知ることは出来ないのである、頭脳知で
求めたり、研究したり、議論したり、討論したりすることによって得られる
のではないのである。真理は、はげしい颱風の中にもなければ、あれくるう
焔の中にもないのである。しかしそれは静けさの中に、幽かなる魂の
ささやきの中にかすかに聞こえる幽玄のひゞきとして魂の底から汲み
出されるのである。」と書かれています。

生長の家の光明思想を実践する人が多くなればなるほど、真の
世界平和が近づくものと信じています。
谷口先生に限りない感謝でいっぱいです。
∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴





原宿本部に奉職中の志恩(20歳)
(名前の部分は、ふせました)

志恩様 (59442)
日時:2023年07月02日 (日) 21時25分
名前:元信徒


ありがとうございます。

短時間の間に、さすが、「 あっ」という間に移動して下さりありがとうございました。

元信徒でしたら、こんなに早いお仕事はできません、きっと一緒に働いていたら、志恩先輩にめっちゃ、迷惑かけていたでしょう。

やっぱり、私は、私の時代がちょうど良かったのかも。笑

これからも、雅春先生とのお話がありましたら、大切にこちらに移動させて頂きます。
どうぞ、これからも宜しくお願い致します。合掌🙏 感謝🙏




元信徒様 (59443)
日時:2023年07月02日 (日) 21時34分
名前:志恩

私がここのスレッドを1つ増やすたびに、他のお方の
スレッドの上に行きますので、だいたいの
ところを急いで終わらせようと思い、急ぎました。笑

元信徒様も谷口雅春先生との思い出、ありますでしょう。
元信徒様も書いてくだされば、嬉しいです。
よろしくお願いします。

 (59448)
日時:2023年07月03日 (月) 02時20分
名前:元信徒

ありがとうございます

周囲を気遣わせてしまい申し訳ございません。でもこれからもさがしたりして少しずつ収集していきたいと思っております。
ご協力をありがとうございました。

元信徒は 残念ながら 遠くからお見かけしたくらいで、、、。
上司を通して
先生のご用はいたしましたが、直接お話した事はございません。

又、直接お目にかかりましたらお話させて下さい。

志恩様 (59453)
日時:2023年07月03日 (月) 10時13分
名前:元信徒

岡先生の部屋から

> 昭和44(1969)年のことですが、
私が結婚するときに谷口輝子先生から私に
結婚祝いの色紙ができたので、お山まで取りに来るように
という連絡がございましたので、お山まで まいりますと
谷口雅春先生が色紙に次のように書いてくださって、それを
丸い額に入れたものを、輝子先生が、私に手渡してくださいました。
そして輝子先生から、結婚のお祝いとして、1万円までいただきました。
(当時の1万円は、今ですと、いくらぐらいなのか不謹慎ながら調べてみますと
3万円から4万円以上のようです。
私だけではなく、当時は、本部職員が結婚する場合、お山様は皆さんに
差し上げていたと、いただいたあと、白鳩会中央部の片岡松枝事務局長から
私は、聞きました)

色紙には、次ぎのように書かれてございました。

【雲上月在 地上華実在 両人幸福有   谷口雅春】です。

この場合、月が真象で、雲が虚象、だと思います。

創造主である神様は、実相の世界の善一元の世界を
現象世界に創造されたのである。

月が雲に覆われてしまって見えない場合、月は、ない、と
感じるだろうけれど
実際には、雲の上には、ちゃんと月が煌々と輝いているのだ。

結婚すれば、いろいろなことがあると思うが、この
精神を忘れずに、結婚生活を送ってください。
そうすれば、食べるものにも困らずに幸福な結婚生活が送れます。

という意味かな、と私は受け取らせていただいておりました。

 (59460)
日時:2023年07月03日 (月) 12時54分
名前:元信徒

志恩さんが
輝子先生と歌舞伎に行かれた時のこと。
どこかにありましたね。

研修だけ (59467)
日時:2023年07月03日 (月) 20時31分
名前:元信徒

元信徒は、
振り返りますと、
本部は研修にしか行っていないのでした。

原宿本部の玄関で、どちらからお帰りでした清超先生がお一人で入って来られて、
丁度、皆んなで外へ出る時に遭遇しましたから、「 わー‼️ 清超先生だー‼️ 清超先生ー‼️ 握手して下さい。」など、歓声に急に囲まれて、清超先生が目をパチクリ驚いたご様子で後退りしておられました。
本当に、先生との思い出は、これくらいしか無いです。💦💦
あとは、場所が違う所ですね。


原宿本部には、私はいなかったので
頭に浮かばないはずでした。笑

私は、三浦先生と牧野先生他が新入研修をして下さいました。



【谷口雅春先生】 (59477)
日時:2023年07月03日 (月) 22時16分
名前:志恩

(シオの部屋より転載)


空間と時間のはざまを
実相と現実のはざまを
自由に極限まで
駆け抜けることができる
お方がおられました

この世では
男性なのに体重は 約43kgで
血液型は AB型でしたが

水晶のように純粋に透きとおり
かなしいほど凛としたまっすぐな魂の
持ち主でした

そんな魂から生まれた
彼のいのちの群れ(著書、聖経)を
識る多くの皆様方が
今でも震えるほど
そのお方やいのちの群れを
愛しているのです

私事ですが、昔、私が輝子先生に誘われて、 谷口雅春先生ご夫妻とご一緒に観劇した「太宰治の生涯」 (59479)
日時:2023年07月03日 (月) 22時52分
名前:志恩

昭和42年(1967年)4/29~6/26、
「日比谷芸術座」にて、上演された「太宰治の生涯」を
谷口雅春先生ご夫妻が、観劇にいらした時、

輝子先生から白鳩会中央部の私にお電話が、ございまして、
「あなたも、いらっしゃい」と、光栄なことにお誘いを受け、

白鳩会中央部の白鳩会全国講師の、田中イサノ先生、
藤原安子(旧姓、森安子)先生と、ともに、私も、
谷口雅春先生、輝子先生とご一緒に、
「太宰治の生涯」を観劇にまいりました。

幕間に、劇場の食堂で、前もって、輝子先生が予約してくださっていた
幕の内弁当を、小さいテーブルを間に 向かい合って、
谷口雅春先生と輝子先生とご一緒に私もいただきました。

ちなみに、その幕の内弁当には、肉料理も、ありましたが、
谷口雅春先生ご夫妻は、肉料理を避けたりせずに、
感謝しながら、キレイに召し上がっておられましたのを、
私は、目の前で拝見いたしておりました。
谷口雅春先生は、普段は、肉食は謹んでおられますが、
外で、肉食が出た場合は、感謝して召し上がっておられたのでした。


私は、谷口雅春先生が総裁先生時代に起きていた
歴史的ささやかな事実を、当時を生きていた生き証人の
一人として、書かせていただいております。






東宝現代劇「太宰治の生涯」
演出菊田一夫。主演 中村吉右衛門。
歌舞伎俳優で、昭和42年に「太宰治の生涯」に主演した
若き頃の中村吉右衛門さんの写真が表紙になっている雑誌


 (59480)
日時:2023年07月03日 (月) 23時01分
名前:元信徒

うーー、、、
谷口雅春先生、若いーー‼️
懐かしーーーーー‼️

谷口雅春先生の体重について、 (59481)
日時:2023年07月03日 (月) 23時11分
名前:志恩

谷口雅春先生の体重は、
栗原 得二著『谷口雅春先生のご日常』
に記されてありましたので、知りました。

雅春先生の血液型はAB型で、
輝子奥様はO型です。

それは、私が原宿本部時代に、
私が直接、輝子奥様に問うて、
輝子奥様が、お答えくださったことなので、確かなことです。

身長については、正確なことはわかりません。
原宿本部会館にて
谷口雅春先生ご夫妻が、何かのことで、会議室へお越しになった時、
向こうから歩いてこられた雅春先生に

その時は、
私が原宿本部へ奉職したばかりの時でしたので、
当時、白鳩会全国会長でいらした高瀬不二先生が、
私を谷口雅春先生にご紹介くださいました。

そうしましたら、
つつつっと、雅春先生が、私の真ん前まで歩いて
近付いていらして、
右手で、ご自分の頭と 私の頭を、比べられまして
「あんた、背が高いのね」と
言われて、ニコッと笑ってくださったので、
私は、思いがけない出来事に驚いたことを覚えております。

その時、私よりも、雅春先生は多少、背は高かったように思います。
その頃の私の身長は、162pでした。

(今から60年以上も前の話です。
その頃の日本女性の平均身長は、150pとか
それ以下の人たちが多かった時代のことです。)

それから、東京都内での大講演会の時、
壇上で講演されていらっしゃる
谷口雅春先生に、

私は、お山係を仰せつかっていた時もあり、お茶を
お運びするのですが、ハイヒールを履いていた私が、
先生よりも背が上にならないように
壇上では、なるべく低姿勢でお茶を机の上に置くように心がけた
ことも覚えております。
(次回から私は、ぺたんこシューズにしましたが)

ですから、谷口雅春先生の身長についての正確な数字については
私は存じません。


元信徒様 (59485)
日時:2023年07月04日 (火) 00時09分
名前:志恩

原宿本部時代、毎年のように歌舞伎座へ観劇に
行っておりましたが、

あれは、白鳩会中央部の
全国講師の皆様が、揃って、歌舞伎好きだったからです。
ですから、白鳩会中央部の慰労会といえば、歌舞伎でした。笑

新宿末廣亭(演芸場)も、部屋の皆で、慰労会で行きました。
当時は、落語家の柳家金語楼が出ていた時代です。
柳家金語楼なんて、だれも知らないでしょう、今の時代の人は。


当時、NHKテレビ(まだ白黒の時代)番組の「ジェスチャー」に
柳家金語楼 が男性群のトップ
水の江滝子が、女性軍のトップ
で、出ていました。

元信徒様は、この時代は、まだ この世に
生まれていらっしゃらないか、生まれていても
幼い時代のことだったでしょう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ネットに動画がありました。名人芸と言われていました。
柳家金語楼  ー柳家金語楼芸の問わず語りー
1993/09/27 (1972/05/06)

視聴時間 23:24
https://www.youtube.com/watch?v=aGW8lFzNR7Y
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1961(昭和36)年3月28日 NHK ジェスチャー 
司会:小川宏 
出演:柳家金語楼 水の江瀧子 長門裕之 小山明子 
フランキー堺 ほか

視聴時間5分
https://www.youtube.com/watch?v=zHbcCeNgKSk
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 (59486)
日時:2023年07月04日 (火) 00時52分
名前:元信徒

今は、慰労会じたいがなくなってきましたから。

懐かしい楽しい時代です。昔、イヤホンガイドの無いときの歌舞伎はちんぷんかんぷんでした、わたしは。😆
白鳩会だけでなく、全体では、旅行などはどちらへ行かれましたか。

それにしても、本部で雅春先生とご対面して、背丈を測って頂くなんて、夢のまた夢のようなお話です。

雅春先生は早朝行事は、ご自宅で済まして出勤されたのか、本部で集まってされたのですか?
朝の朝礼はどちらでどのように
行われたのですか? 覚えている範囲で構いません。
雅春先生と一緒に神想観が出来る時間はありましたか?
雅春先生と神想観した場合、何か感じた事はありましたか。

慰労会 (59488)
日時:2023年07月04日 (火) 05時51分
名前:志恩

○慰労会のこと
他の部局のことは存じませんが、
白鳩会中央部(婦人局)の白鳩会全国講師の方々は、
4名から5名おられましたが、
その4名から5名の全国講師は、全国各県の白鳩大会、
白鳩一泊見真会へ、講師として招かれて、
ご指導とご講話に行っておられました。

行事があった、各県から、全国講師に、帰るときに
ご指導料金が払われます。

それをいただいて帰ってこられた先生方は、
その中から、白鳩会中央部の会計へ、部屋の積立金を
どの先生も寄付金として、渡されていました。

その寄付金のたまったお金で、白鳩会中央部の皆は、
歌舞伎座へ行ったり、
旅行へ行ったり、中華料理屋さんやお寿司屋さんへ、
慰労会と称して行っておりました。

本部の会計からは、一円も出してもらっていませんでした。
つまり、信徒の浄財は、一円も使っておりませんでした。

先生方が、自分たちで、稼いだお金を積立ておいて、
部局の皆さんのためにそれを使っていたのです。

旅行は、毎年はいっておりません。
近場の温泉旅行だったり、秋は十和田湖などへ一泊旅行へ
行きました。宿泊先の旅館は、信徒さんが経営している旅館へ
泊まりましたから、信徒さんのご好意で、安く泊まれたみたいです。

○原宿本部職員の慰安旅行は
毎年、春と秋にありました。いづみ会という、職員の会があり、
旅行積立金と言って、毎月、お給料から、当時の金額で、500円
だった思いますが、差し引かれた金額が、職員に支払われており
ました。旅行の時は、本部が半分、本人が半分、もちで、近場へ
一泊旅行へ行っていました。

○クリスマス
毎年、クリスマスイブには、
大道場の舞台を使って、各局ごとに、出し物を演じました。

畳じきだった大道場には、机を置き、お菓子と飲み物の
簡単なものが出ました。

いづみ会委員数人が、御徒町のお菓子の問屋街へ電車で行き
安く仕入れてきたお菓子でクリスマス パーティーもどきを
やりましたが、お金がない時代でしたので、ケーキも食事も
出ませんでした。

その頃、ある年、渋谷晴雄先生と、斎藤さんという聖使命部の女性と
私の3人が、いづみ会委員で、御徒町へ電車に乗って、
職員全員のお菓子の買い出しに行きました時、

渋谷先生が、電車の中で
われわれに向かって、突然、真面目な顔で
「おかちまちへ、おかちを かいにいくなんて 、おかちぃね」
と言ったので、斎藤さんと私の二人で、大爆笑したことを
覚えております。

(これは渋谷先生が、まだ本部講師になられる前の
渋谷さんだった時のお話です。)

また、
企画局の大峡(おおはざま)先生と私の二人が、いづみ会の
旅行委員に選ばれた時は、企画力に優れた 大峡先生が
「箱根旅行」を
二つのコースに分けて、自分たちの行きたいコースを自分たちで
えらばせるという、楽しい試みをやり、皆様に喜ばれました。






昭和39年6月3日
白鳩会中央部の皆さんと
慰労会の一泊旅行へ行った時の写真。
近場の温泉旅行へ行ったのですが、どこへ行ったか
場所を書き忘れていて、書いていないので、場所は不明です。

もう一人、平岡初枝全国講師が、おられましたが、この旅行へは
参加されていません。

最前列、向かって左から、古川恵偉全国講師、 田中イサノ全国講師
2列目、向かって左から、藤原安子全国講師、高瀬不二全国講師(当時の
白鳩会全国会長)
3列目、片岡松枝 事務局長
4列目、向かって左から、志恩  、 藤田美代子経理事務担当。






谷口雅春先生と神想観と、本部の朝礼。 (59489)
日時:2023年07月04日 (火) 06時10分
名前:志恩

(元信徒ー)
>谷口雅春先生は早朝行事は、ご自宅で済まして出勤されたのか、
本部で集まってされたのですか?<

志恩ー
あの頃、毎月、土曜日の午後1時から3時まで、月一で、お山にて、
「輝子先生を囲む女子職員の会」というのが、開かれておりまして、
女子職員のどなたかが「雅春先生は、朝夕、おうちのどこで、
神想観をされていらっしゃるのですか」と、輝子先生に聞かれた
人がいました。

あっ、どなたかがって、あの時、私が輝子先生に聞いたんだ。笑

すると、輝子先生は、
「朝は、お風呂のフタ(硬い木製のフタ)の上に座ぷとんを、おいて、
その上に正座されて、神想観をしているのですよ。なぜかと言いますと、
朝、女中さんたちが、家じゅうの掃除をしますから、
お風呂場が
掃除をする時に、一番邪魔にならないし、一番静かだからです。」
とお答えくださいました。

夕方は、ご自分のお部屋で、神想観をされていると、
答えてくださいました。

(元信徒ー)
>雅春先生と一緒に神想観が出来る時間はありましたか?
雅春先生と神想観した場合、何か感じた事はありましたか。<

志恩ー
谷口雅春先生と、われわれが一緒に神想観することは、めったに
ありませんでした。大きい行事の時、大道場にて、
谷口雅春先生は、神想観をされますから、その時にご一緒に
していました。

雅春先生の「イユーッ」という気合いのお声が、とても澄み切っていて、
柔らかいのに鋭くて、やはり、本家本元は違います。
直にお聞きしますと、全身全霊がピリッとして清まりました。

直にお目にかかりましても、カリスマ性が漂っておられました。
普通のお方では、ありませんでした。

(元信徒ー)
>朝の朝礼はどちらでどのように<

志恩ー
朝は、先生も職員も全員が、大道場に集合しまして、やっておりました。
そして、必ず、最後に録音テープで流される聖歌を皆で合唱しておりました。
いつも、毎朝でしたが、最前列の真ん中に、祈願部の井上如水先生が
おられました。ものすごい音痴なのに、胸を張って堂々と  大きいお声で
聖歌を歌っていらっしゃいました。
井上先生は、純粋そのものの先生で、大好きな先生でした。



井上如水先生についての、余談ですが、

私の父は、ある時期、熱心に本部の早朝神想観に
通っていまして、その頃の早朝神想観の指導講師が井上先生でした。

そして、父は、井上先生の大フアンになりまして、
ぜひ、わが家で開いている誌友会に
講師として、井上如水本部講師に、うちに来てもらいたい、
それで、本部職員である私から、
井上先生に、うちの誌友会に来てもらいたいと、
頼んでほしいと、父が、私に言いますので、

「あのね、本部講師は、小さい個人の誌友会へは
出講しては、いけないという本部の決まりがあるんだから、
それはできないのよ」と
父に私が言いましたら、

父は私に「おまえ、何のために、本部職員でいるのだ。
そんな決まりごとは さておいて、おまえが、来ていただきたいと、
個人的に井上先生に直接、頼めば、いんだよ」と、詰め寄りますので、

私は、父の気持ちも
理解できましたので、一応、ダメもとで、井上先生に、こっそり、お願いしてみましたら、

井上先生は、「大丈夫、本部にはね、出講に行くと 言わなけりゃいいのよ。
シオンちゃんちに、ワシが個人的に、遊びに行くということに、すればいいのよ。
黙って行けばいいのよ。ワシは、行ってあげるぞ!」
とおっしゃってくださいました。

ですので、うちの誌友会の日に、本部終了後、
井上先生を、私の自宅まで私は、ご案内して
井上先生に うちの誌友会の講師として、
本部には、内緒で、お越しいただいたことがございました。

もう、あれから、60年も経ちましたから、この話は時効です。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
追記:
井上如水先生は、原宿本部時代、神愈祈願部におられた先生です。

その昔は、警察官でしたが、生長の家に触れて、本部講師になられた
そうです。

「宇宙銀行総裁井上如水 預金払戻証」というのも、あの当時、
井上先生は、ご自分で作って、信徒の希望者に差し上げて
おられました。

商売繁盛のコツを教えてくださっていました。

私の父は、中小企業の社長でしたから、ますます商売が繁盛
することを願っていたのだと思います。

また、祈願部では、晒し布一反に、墨で「甘露の法雨」を
写経したものが置いてありまして、妊婦のお方には、
安産祈願として、無料で貸し出してもいました。
祈願部の井上先生は、本当に人類愛の深い先生でした。

旧トキ掲示板を見ましたら、
goroさんというハンドルネームで
投稿されたお方ですが、

どうも、当時、井上先生に可愛がられていたお方のようで、
井上先生のことを「タコ入道」と呼んでいたとか、
井上先生は、甘いものが大好物だったので、総入れ歯になっていたとか、
普通は入れない「祈りの間」に、自分は特別に入れてもらった、とかいうような
愉快な裏話を書いているのを読みました。




井上如水先生 (59490)
日時:2023年07月04日 (火) 11時16分
名前:かつての青年会員

志恩さま
初めまして

かつての青年会員と申します

一昨年実家を整理しておりました時
父に宛てた
宇宙銀行総裁井上如水 預金払戻証 金一億万円也
という証書が出てきまして

井上如水先生とはどのような方なのか大変気になっておりました
お名前の読みは、にょすいでいいのか
男性なのか、女性なのか等々

私が青年会におりましたのは、雅春先生の10年祭の前後でして
当時の仲間に聞いても知っている方はおらず
もしよろしければ、どのような先生だったのか
もう少し教えていただけると嬉しいです

預金払い戻し証と共に
井上如水先生作 福の神の歌
というのもありました

かつての青年会員様 (59491)
日時:2023年07月04日 (火) 11時57分
名前:志恩

井上如水先生は、私は、「にょすい」先生と、
昔、お呼びしておりましたが、正しい読み方なのか
どうかは、わかりません。

井上先生は、男性ですが、当時、60代後半ほどの先生でした。

goroさんが井上先生のことを
「タコ入道」と呼んでいたと、書いていらっしゃいましたが、
まさしく、首から上は、タコ入道で、お顔は、ものすごくブサイクで、
お声も、浪曲師のようなに、つぶれたお声で、
はっきり申し上げますと、見た目は、妖怪っぽい感じの
先生でした。

私は、井上先生の容姿は、好みではありませんでしたが
でも、人間性と言いますかお人柄は、純粋でかわいゆくて
大好きな先生でした。

これも、旧トキ掲示板に、goroさんが、井上先生の
エピソードとして書いてありましたことですが、

ある夏の日、祈願部の扇風機が、動かなくなってしまって
困っていた時、井上先生が、「どうしたの?」と聞いていらしたので、
「扇風機が動かなくなったんです」と言いましたら、
「そうか!それじゃ、ワシが、気合を入れて、なおしたるわ!」
と言われて、井上先生が
大真面目に、扇風機に向かって、「イユーッ、イユーッ」って
気合を入れておられたそうです。

で、ふと、その時、goroさんが、「扇風機の、元が、コンセントから
外れているということに気付いて、コンセントをさしたら、
すぐに扇風機が動いたのよ」
と笑って、書いておられる文も読みました。

壊れた扇風機でも、自分が、気合いを入れれば、直ると、
かたく信じておられた機械音痴の井上先生でしたが、

井上先生は、毎朝、夜中の2時半に起床されまして、
光明の塔の上の方にあった小さい、祈り間にこもって、
祈願を依頼された、お一人お一人の、お名前を真面目に
心を込めて、読み上げて、
本当に、全快を祈り、
皆様の幸福を全身全霊で、祈っておられた純粋な先生でした。

ですから、このような純粋な先生の祈りに応えて、
高級霊たちが降りてきて、数々の、奇跡的神癒が、実際に
起きていたのだと思います。


ネットには、井上如水先生のお写真は
どこにも載っておりませんでしたが、
井上先生がお書きになられたという掛け軸が
ネットオークションに載っていました。

 (59493)
日時:2023年07月04日 (火) 14時13分
名前:かつての青年会員

志恩さま

井上如水先生のこと
詳しく教えていただきありがとうございました

宇宙銀行総裁と名乗るお方はどんなお方なんだろうと思っていました(笑)
如水先生の名前から、女性なのかな?とか

見た目はともかくとして、素晴らしい先生だったんですね!

ありがとうございました

❤️ (59494)
日時:2023年07月04日 (火) 14時16分
名前:❤️

🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹

「生命の實相」を精読されて、心の眼が開かれたと おっしゃっておられた各界識者・名士の方々 (59496)
日時:2023年07月04日 (火) 21時20分
名前:志恩

谷口雅春先生が総裁先生時代の「生長の家」は
国内の錚々たる各界識者・名士からの支持を受けていました。

皆様、「生命の實相」を精読されて、心の眼が開かれたと
おっしゃっておられた方々です。

(敬称・略、政治家を除く、一部ですが、掲載。
「聖使命新聞」昭和60年8月1日号より)――

・山岡荘八(作家。「徳川家康」(全26巻、ベストセラー)の著者)
・朝比奈宗源(円覚寺管長)
・片岡仁左衛門(歌舞伎俳優、
今の15代目・片岡仁左衛門(片岡孝夫=人間国宝)の先代)


 黛 敏郎(作曲家)・葦津珍彦(評論家)・大石義雄(京都大学名誉教授)
・佐藤通次(皇學館大学前学長)・斉藤 忠(国際政治評論家)・村松英子(女優)
・高澤信一郎(明治神宮宮司)・庭野日敬(立正佼成会会長)
・高田好胤(薬師寺管長)・岡田 斎(世界救世教教主)
・杉 靖三郎(東京教育大学名誉教授)・ 松久朋琳(大仏師)
・植芝吉祥丸(合気道場主)・矢島鈞次(青山学院大学教授)
・樋口清之(国学院大学名誉教授)・山野愛子(山野美容専門学校長)
・瀬島龍三  (伊藤忠商事相談役)
・難波田春夫(関東学園大学学長)・児島 㐮(作家)・勝田吉太郎(京都大学教授)
・杉浦幸雄(日本漫画家協会会長)・筧泰彦(学習院大学名誉教授)
・加瀬英明(外交評論家)・稲生平八(前森永製菓会長)・浅野 晃(詩人)
・小牧久時(農学博士)・石田和外(元最高裁長官)・ 桜田 武(日経連会長)
・林 房雄(作家))・林 武(洋画家)・三島由紀夫(作家)
・徳川夢声(随筆家)・小原国芳(元玉川大学学長)
・市村 清(元リコー社長)・岡 潔(奈良女子大名誉教授)
・千 宗室( 裏千家家元)・若乃花幹士(横綱)・川上哲治(野球評論家)その他多数・・・・・。
=====================
志恩ー

・片岡仁左衛門(歌舞伎俳優)さんについて

先代の歌舞伎俳優の片岡仁左衛門は、
ご本人だけでなく奥様も熱心な生長の家の信徒さんだったと
伺っておりました。

当時、生長の家の立教記念日に、片岡仁左衛門は
一門の方々とご一緒に本部へいらして、本部の大道場の舞台で、
日本の伝統芸能の歌舞伎を奉納披露してくださっていました。

一度ではなく、毎年、いらして、
歌舞伎を奉納披露してくださっていました。

楽屋として、原宿本部会館1階の広い和室
「聚楽の間」を使用されていました。

ブラボー👏👏👏☝️☝️☝️☝️ (59497)
日時:2023年07月04日 (火) 21時50分
名前:元信徒


雅宣さん、是非‼️

見にお越し下さい。

素晴らしいですから、

(59404)スレッドの補足です (59498)
日時:2023年07月04日 (火) 22時15分
名前:志恩

(志恩ー)
>昭和36年1月1日付で、原宿本部へ奉職いたしました。
それは、原宿本部会館が建って、7年目のことでした。

入った部署は、白鳩会中央部(婦人局)でしたが、入って間も無く
自分が住んでいる東京都の地区にだけ、青年会支部がないことを
知りまして、責任を感じ、青年会支部を 作ろうと決意しました。

それで、同じ地区の立教大学生で
私よりも1歳年下のF君が、一緒に戸別訪問してくれると言ってくれまし
たので、早速、実践に移し、本部の仕事帰りとか木曜日の休みの日とか、
F君と二人で、熱心に戸別訪問して歩いて、念願の青年会支部会を
結成しました。<


志恩ー
上記のことですが、
私は、最初は、たった一人で、「理想世界」誌を20部ほど購入し、
それを携えて、自分の地元を一軒一軒、闇雲に戸別訪問したのですが、
その当時は、創価学会の折伏戦略行為の全盛期の時代でしたので、
訪ねてみますと、やたらと創価学会信者の家にぶつかりまして、
私が生長の家からまいりましたなどと言おうものなら、そのころは、
創価学会の宿敵は、生長の家でしたので、大変な議論になり、
前に進めなかったのです。

この方法では、早急にと、
私が目標としていた「生長の家青年会結成」には、ほど遠くなるという
ことを実感したのでした。

それで、神想観して、新たに思いついたのが、

一度でもいいから、今までに「理想世界」誌を読んだことのある人
を対象に、戸別訪問した方が、非常に確率が高い、ということでした。

それは、自分自身で、とっていなくても、
親とか親戚の人から送られてきて読んだことがある、でもいいですから、
とにかく、「理想世界」を、一度でもいいですから、読んだことのある人を
対象に、戸別訪問しようと、思いついたのでした。

それには、「世界聖典普及協会」で、かってでも、今でも、「理想世界」を
読んだことのある人の名簿を教えてもらわなくてはなりませんでした。

そこで、本部で信用のある人、あれは、確か谷口輝子先生の親戚である
と聞いていた、私のことをとても可愛がってくださっていた
経理部の半田大定先生だったと思うのですが、その信用のあるお方に、
私は事情をお話して、〇〇さん(志恩)が、世界聖典普及協会へ行くから
教えてやってください、という口利きを、先にしていただいて、
先方からの承諾を得て、それで、一人で普及協会へ行きまして、
名簿を確保することができたのでした。

そして、若い女の子一人で、都会の夜の街をうろつくのは、
危険が伴いますので私と一緒に戸別訪問をしてくれる人を
探していましたところ、

幸いにも大学生のF君という
優秀な人材が現れて、頼んだら、一緒にやってくれるというので、
二人で、夜の大都会の街を、戸別訪問することができたのでした。

今度は、名簿を基にやりました。
その結果、思っていたよりも、効果的に スムーズに生長の家青年会
支部を、発会できる運びとなりました。

というわけです。

一ヶ所失礼します (59500)
日時:2023年07月04日 (火) 22時26分
名前:岡潔先生に学ぶ

錚々たる著名人の紹介をありがとうございます
さて
>・岡 潔(元奈良女子大名誉教授)
の「元」は付けちゃいけないのでは?
名誉教授は終身が原則では?
だから「元」が付いたら名誉教授の称号を剥奪されたってことにならない?
退職した教授で名誉教授の称号をもらえなかった人は「元教授」
だけれども、
一度称号を与えられた人は永久に「名誉教授」で「元名誉教授」はめったにいないのでは?

聖使命新聞が間違っておられたのかは見てないからわかりません

岡 潔先生に学ぶ様 (59501)
日時:2023年07月04日 (火) 22時40分
名前:志恩

ご指摘、ありがとうございます。
ネット検索してみましたら
岡 潔(奈良女子大名誉教授)でした。
元がついているのは、間違いですよね。
訂正します。すみませんでした。
https://www.nara-wu.ac.jp/aic/gdb/nwugdb/oka/

谷口雅春先生は (59512)
日時:2023年07月05日 (水) 16時17分
名前:志恩

谷口雅春先生は頭注版『生命の實相』第1巻の14頁に
[『生長の家』とわたし]という題で、次のような
ご文章をお書き下さっています。

>わたしは『生長の家』の教祖ではない。
諸君と共に『生長の家』の教えを聴聞し。
ひたすらその教えのごとく生き行こうと努力する
一人の求道者にすぎない。」<

というお言葉を書かれておられます。

>「宗教的な深さをもったものは教えであれ、
芸術であれ源(みなもと)は霊界にある。」<

>『生長の家』を書こうとしてペンをもって机に向かう時は
もう普段のわたしではない。霊きたりてわたしを導く<

と谷口雅春先生が原稿をお書きになっている現場を
透視した人のことも具体的にお載せくださっています。

”一求道者”とまでおっしゃる谷口雅春先生が
真理を自分だけのものにされずに、
よく私達に広く真理を宣布して下さったと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
また、頭注版『生命の實相 』第2巻 97頁にも
同じようなことが、書かれています。

 >ともかく、私(志恩:注;雅春先生のこと)は 皆さんとともに
「生長の家』の一読者として、それを読み、習い、修養して皆さんとともに
一歩一歩向上さんと努力している一求道者にすぎないのであります。

私だって道をはずせば立ちどころにそれが具象化するのであります。

 かくのごとく『生長の家』は単なる人間なる私が書くのでないからこそ
尊い現代の経典たるを得るゆえんで読んで病気が治るほどの真理が書けて
いるのであります。
聖書やお経も肉体のキリストや釈迦の言葉ではなく神の啓示が、
キリストや釈迦の口からほとばしり出たからこそ尊いのであります。<


谷口雅春先生でさえも、間違ったことや、
道から外れると、具象化すると言われているのです。

信徒であるわれわれも、間違ったことや、道を外れたことをすれば、
具象化するのです。

ですから、『生命の實相』に説かれている真理に対して中心帰一をし、
聖典を典拠にして、われわれは、生きてまいりましょう。

 

 


そこでした。 (59527)
日時:2023年07月06日 (木) 15時05分
名前:元信徒


> ですから、『生命の實相』に説かれている真理に対して中心帰一をし、
聖典を典拠にして、われわれは、生きてまいりましょう。


それが一番大切ですね。

教団をやめた私への正解をありがとうございます。
志恩さんは?まだ会費を納めて会員でいらしゃる方はどうなりますか。

まだまだ続いていきます。 (59528)
日時:2023年07月06日 (木) 15時13分
名前:元信徒


志恩様

沢山の原宿ご本部での体験談をありがとうございました。

また、何か思い出しましたり、どこかで雅春先生ご夫妻と本部員の交流を見つけたら
教えて下さい。宜しくお願いします。

私も見つけたら、貼り付けいたします。

感謝 合掌

井上如水先生、原宿本部の職員旅行、静岡県伊豆修善寺にて (59533)
日時:2023年07月07日 (金) 09時22分
名前:志恩

古いアルバムの中から
偶然にですが、井上如水先生と私が一枚の写真に写ってて。
井上先生のお顔がよくわかるお写真を、見つけました。

昭和36(1961)年5月18日(一泊旅行)
原宿本部の職員旅行、静岡県伊豆、修善寺にて、「修禅寺」を拝す。

「修禅寺」は、 静岡県伊豆市修善寺に建立されている曹洞宗の禅寺です。
大同二年に弘法大師、空海によって開創されました。

私は36年1月1日に原宿本部に奉職しましたから、
初めての職員旅行に参加した時のものです。
最前列で拝んでいるのが私です。
この頃の私(19歳)の写真も貼りました。デッパに写っていますが、
私はデッパでは、ありませんよ。笑
goroさん曰く「タコ入道」みたいなお方が、井上如水先生です。

写真をマウスでクリックすると拡大します。

 (59534)
日時:2023年07月07日 (金) 16時39分
名前:元信徒

ありがとうございます。
宜しくお願いします。感謝 合掌🙏

❶ここからは、谷口雅春先生と、ニューソートの方々との交流について。 (59556)
日時:2023年07月08日 (土) 06時22分
名前:志恩

ロイ・E・デーヴィス氏というアメリカのニューソートの
霊的指導者のことを、
皆様は、ご存知でしょうか。

古い信徒のお方ならば、ああ、あの人か、と思い浮かぶのでは
ないでしょうか。
生長の家と彼との関係は非常に深いものがございました。

彼は、谷口雅春先生にお会いされるために
日本へは、昭和39年、昭和53年の二回、来日し、
生長の家の各地の道場で講演されて、深い感銘を与えられました。

日本教文社からは、谷口雅春先生譯「人間とは何か」、
谷口雅春先生、伊藤正氏譯「心の力の秘密」が出ています。

最初に来日された昭和39(1964)年の時、私は原宿本部に奉職中でした
ので、よく覚えております。

谷口雅春先生と、ロイ・E・デーヴィス氏のお二人の
「日米合同光明講演会」が新宿の厚生年金会館で開催されまして、
その通訳をされたのが渋谷晴雄先生でした。

ロイ・E・デーヴィス氏は、その壇上で、「生長の家名誉講師」の称号を
谷口雅春先生から授与されました。その名誉講師のバッジを、
ロイ・E・デーヴィス氏のスーツの胸に、振袖姿の和服で、壇上で
つけるように、私は前もって谷口雅春先生に言われてて、付けさせて
いただいたのは、志恩でしたから、その時のことはよく覚えているのです。





つづく

ロイ・E・デーヴィス
谷口雅春先生譯
「人間とは何か」

❷昭和54年、米国光明思想家・R.E.デーヴィス と生長の家青年会会長・森田征史の対談、 (59558)
日時:2023年07月08日 (土) 08時00分
名前:志恩

谷口雅春先生の「生命の實相」を学ぶブログより、引用
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
理想世界誌昭和54(1979)年1月号に、

デーヴィス師と当時の森田青年会会長との対談が
掲載されていますので、それをこのブログに紹介させてもらいます。

(志恩:注:私は昭和44年に結婚のため、原宿本部を退職して
おりますので、昭和54年の時は、原宿本部におりません。)


 霊的目覚めの時代の夜明け

<日米を結ぶ理想対談N>
米国光明思想家R.E.デーヴィス 生長の家青年会会長森田征史

【森田】 前回は、昭和39年、1964年に日本においでになった
ということですが、今回再びおいでになって、
六ヶ所で講演会をしたいただいたんですけれども、
前回14年前においでになったときと今回おいでになっての
日本の印象の違いはいかがですか。

【デーヴィス 】 この前は日本が初めてで、
ただ物めずらしいという感じだったんですけれども、
今回は少しなれて、日本のいろいろなものに接して、
見ることがで きました。

そして、講演のとき、聴衆の皆さんの反応が非常に
すばらしかったのは前回と同様でしたが、
生長の家組織そのものが、前回のときよりも非常に
大き くなっているという感じを抱きました。

【森田】 前回おいでになったころは、まだ神誌の発行部数が
百万を出てなかったですね。それが、今回はもう三百万に
なってるし、青年の機関誌である「理想世界」だけでも
百万になっているわけですから、
それだけ大きくなった印象を持たれたのでしょうね。
ところで、デーヴィスさんがこうした霊的な世界を自覚された
動機は、どんな  ことだったんですか。

 霊的世界、"東洋" への目覚め

【デーヴィス 】自分はハイスクール時代から霊的なものに関心を
持って、世界のいろいろな宗教の経典を読むことが好きでした。
それで、18歳のときにヨガナン ダの自伝を読んで感動しまして、
カリフォルニアに行き、ヨガナンダに直接お会いして弟子入りし、
四年間ずっといっしょに、そこの修道院みたいな所にいて、
訓練をしたのです。そういったことが動機なんです。

【森田 】ヨガナンダというのは東洋の方ですね。
それまでデーヴィスさんの世界というのはキリスト教の世界だった
と思うのですが、それがどうして東洋の世界の指導者に深い印象を
持たれたのでしょうか。

【デーヴィス 】自分はもともとキリスト教の家に生まれ育ち、
教会に行っていたわけですけれども、キリスト教の布教の
やり方は単に情緒的なもので、理性的に考えるとどうも
納得できない点がたくさんあったのです。
で、言ってみればこれは私の運命みたいなものだと
思います。西洋の人間はこれからいろいろ東洋的なヨガとか
禅目覚める時代になってきている。
そういう時代の要求に応えるべき運命を、私は持っていたんじゃ
ないかと思うわけです。

 谷口雅春先生との出会い

【森田】 そうですか。そうした中で、とりわけて谷口雅春先生との
出会いは、どのようなものだったのですか。

【デーヴィス 】最初の出会いですか? 
 リリジャス・サイエンス教会のポール・ブルネーという方から、
 谷口 先生の本の一番最初の英訳ー
 Divine Education and Spiritual Training of Mankind
(「生命の実相」倫理篇・教育篇の英訳)という本をもらって
読みましたら、
まさにここには実相一元の哲学があり、
そしてまた"現象は心の影 "
というたいへんすばらしい思想がある。

それは私の考えていた思想と一致していたので
非常に関心を持っておりました。ところが同じ年に
そこでお会いする機会を得たのです。

そしてまた、私が谷口先生に感動したことは、
 いろいろな思想がありますけれども、
谷口先生の、世界光明化の理 想、
多くの人々を救おうとする御決意、
そして実行力、教団のもつ大きな力、
といったようなものにたいへん感銘を受けたわけです。

【森田 】デーヴィスさんは、谷口先生にお会いになる前は、
すでにアメリカで、ご自分でヨガナンダから学んだことについて
布教運動をなさっていたわけですか。

【デーヴィス 】そうです。私は20歳でヨガナンダ先生から
教師としての資格をもらって、それから二年間兵役に出ました。
そのときは医療部隊だったのですが朝 鮮に行き、
そういう光明思想系の団体といっしょに運動を推進していました。

【森田 】なるほど、そうですか。ところでデーヴィスさんが行われている
布教のあり方と、その規模はどういったものですか。


 アメリカでの文書伝道と練成

【デーヴィス 】第一に文書伝道です。
 それは、自分は今までに十六冊の本を書いて、
また一冊作りましたけれども、自分は二万人のリストを
持っていて、その人た ちに手紙で、本ができると知らせる
というやり方、それから、ユニティ教会とか、
リリジャス・サイエンスという教会を経由して
そこで本を頒布する、といった 形をとって、
まず文書伝道による布教をしています。

 いま自分の本で外国語に翻訳されているのは十四冊で、
日本語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、
フランス語などに訳されて真理を伝えています。
 そのほかには、雑誌による布教をやっています。
それは、TRUTH JOURNALという月刊雑誌で、
八千部出しています。そのうち四百部は、
光明思想系の牧師に無料で進呈しています。
そうしていろいろな方にこの真理を伝えているわけです。

 そのほかには、トレーニング・スクール(練成道場)を持って
練成指導をしています。
世界中から、その練成を受けに人々がやってきます
二百人は収容できる練成道場です。

 そして、そこでの練成の講話を録音テープにとって、
必要な方々にすぐテープを送るということによる布教もしています。
 なお、自分のところには印刷所があり、自分の著書や、
同じような思想をもった他の著者の本を印刷して、
出版しているのです。

【森田 】そういった形で人々は、活字や講演される真理の
コトバによって、真理、実相を知ることができると思うんですが、
さらにわれわれの真の自覚ということ については、
瞑想が非常に大きな位置を占めていると思うんですけれども、
私たちは"神想観"を先生から教わっておりますが、
デーヴィスさんの瞑想のしかた というのはどういうものなんですか。

【デーヴィス】 私たちは瞑想を二つのレベルで考えています。
まず入門的なもので、一般の人を対象にして、
これは気持ちをリラックスさせるということで、
静かに瞑目して坐って呼吸を静かにするというものです。
 もっと上級の場合は、この宇宙を流れる永遠の声とい
本当に心を静めて、実相と一体になるーーこういった体験を通して、
魂の目覚める方法をやっているのです。

 それから、これは特殊な人に対してですけど、
ヨガの伝統にあるやり方で、体の底部にあるところの霊的な
エネルギーをよびおこして、それが全身を流れてあふれ出る、
というヨガの伝統に従った瞑想法を教えています。
 また、瞑想を通してもっと具体的な実践的な人生の生き方、
つまり積極的にものを考えたり、常に明るい生活をするといった
ようなことも同時に教えています。

【森田 】そうですか。ところで  デーヴィスさんのところに救いを
求めてくる方々は、どういう問題を抱えている人が、いちばん
多いのでしょう。

 人間とは何か?を学ぶ
 
【デーヴィス】 まあ、初めて来る人はいろいろな好奇心で、
実際に自分が求めているものは何であるかということがわから
ないで来る方が多いんです。

そういう人たちに、本当の人間とは何であるかということを教えて、
心の平安、心が澄み切って目覚めるということを教えるわけです。

 そして、私は瞑想しているときに何か物が見えるとか、
そういった異常体験などには関心を強く持たないで、
本当の実在、実相と一体になるというところを目指して教えて
いるわけです。

【森田】 なるほど。それは非常によいあり方だと思います。
デーヴィスさんの主宰されている、真理を学ぶクラスを
写真で見ますと、若い人たちも結構多いですね。
この若い人たちは、とりわけ何を求めて来ているのでしょうか。

【デーヴィス】 若い人たちは、人生の目的を求めて来ている
方が多いし、また心の安らぎを求めるという方が多いようです。
私のところには二十代、三十代、また 十代の人々も来ていますが、
アメリカではご承知のように、麻薬を飲むという悪い習慣があって、
その悪習慣から離れて瞑想を求める、という
人たちもあります。
 
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

志恩ーなお、昭和39年9月に、谷口雅春先生のお招きで
初来日された米国光明思想家R.E.デーヴィス氏でしたが、
その時、原宿本部職員の有志たちは、マイクロバスで
羽田飛行場へ、デーヴィス氏を歓迎に参りました。

で、私は、お山様から、本部代表で、和服で、デーヴィス氏に
花束を贈呈するようにと仰せつかっておりましたので、
9月の真夏の暑い日、
お振袖の和服姿で、羽田飛行場に行きましたことを覚えております。

谷口雅春先生ご夫妻が、第一回の海外ご巡錫をされたのは昭和38(1963)年 (59559)
日時:2023年07月08日 (土) 10時03分
名前:志恩

北米、ブラジルへ ご巡錫をされました。
その時、私は原宿本部に在職中でした。
そして、海外ご巡錫中の雅春先生ご夫妻に、
本部職員全員で、各部屋ごとに順番に激励のお手紙を
書きまして、お送りしておりました。

谷口雅春先生が、北米にいらした時、谷口雅春先生の
お世話をされたのが、デーヴィス氏でありました。

谷口雅春先生は、デーヴィス氏を若いけれど、素晴らしい
光明思想家である、と言われ、

翌年には、日本へ来てください、と依頼され、
それで、昭和39年9月に、デーヴィス氏は、
谷口雅春先生の招きで、日本へいらしたのでした。

谷口雅春先生は、彼に生長の家名誉講師という称号を
差し上げました。通訳は、渋谷晴雄先生でした。
(渋谷晴雄著『光の国から』261ページ参照)



先に書きましたが、
私は、お山様から、本部代表で、和服で、デーヴィス氏に
羽田飛行場で、花束を贈呈するようにと仰せつかりましたことと、
もう1つは、新宿厚生年金会館の講演会の会場の壇上で、
谷口雅春先生が、彼に、生長の家名誉講師の称号を
与えるので、その時も、和服姿で、壇上へ出てきて、
そのバッジを、彼のスーツの胸のところに、つけてくださいと
仰せつかっておりました。






昭和39年9月の真夏の暑い日に、
お振袖の和服姿で、
羽田飛行場にて
来日されたデーヴィス氏に花束を贈呈する志恩
(花束は、本部が用意しました)

数年前のR・E デーヴィス氏の動画がネットに載っていました。 (59564)
日時:2023年07月08日 (土) 15時20分
名前:志恩

Roy Eugene Davis: My Time with Yogananda
Center for Spiritual Awareness

https://www.youtube.com/watch?v=ey4R4u-xgto&t=309shttps

2019/10/07 #Yogananda #kriyayoga #RoyEugeneDavis
Mr. Davis recounts some of his personal experiences with Paramahansa Yogananda from 1949 to 1952 during the Centennial celebration at Ananda in 1993.
Thanks to Dave Bingham for producing this, and allowing us to share it.
Center for Spiritual Awareness

志恩ー
放映されたのは2019年。
生長の家名誉講師の称号は、どうされたのかしらと思います。
昭和39(1964)の時にお目にかかってから、
平成31(2019)年とは....、あの日から55年も経った時の
デーヴィス氏の姿です。

谷口雅春先生譯の、デーヴィス氏の著書は
「人間とは何か」「心の力の秘密」
この2冊とも、私は持っておりますが、本には、
彼は、1931年生まれだと載っていました。
アメリカのオハイオ州生まれ。哲学者、宗教家。
18歳でヨガの指導者パラマハンサ・ヨガナンダに
師事し、霊的修行を積み、その後、ニューソート派
の光明思想を学んだとあります。
彼の本は、5カ国後に訳されていると載っています。

ということはデーヴィス氏が、
昭和39年に来日された時のお年は、なんと、33歳だったのです。

あの時の彼は、まるで外国の映画スターかと思えるようなハンサムで
宗教的雰囲気にも満ちたステキな青年でした。

2019年とは、あの日から55年後ですから、88歳。
そして、今年で、92歳。

現在も、生きておられるのかどうかは、わかりませんが、
数年前まで、このようにアメリカの宗教界でご活躍だったとは、
驚きです。

======================
ちなみに、生長の家教団の本部講師のお方で、
「ニューソート」について、まとめられたお方がいらっしゃいます。


久都間 繁 先生のashikabiブログより「ニューソート」
http://ashikabi.cocolog-nifty.com/blog/cat4811924/index.html

=====================

 (59565)
日時:2023年07月08日 (土) 17時56分
名前:も信徒


うわっあ‼️‼️ スゴイ‼️

志恩様のご本部でのご活躍と素晴らしい生きた内容に、感動、感動!です。

アメリカに住んでおりました時、一度だけSeattleの生長の家を訪ねてみました、その時は日本人だけでしたか、日本の生長の家の方と何らも変わりない愛深く親切な方々ばかりでした、その時初めて行った現地在住の伯母も生長の家は良い所だわと申して、お財布からのからの気持ちを寄付しておりました。

懐かし国思い出しました。

志恩様、雅春先生に任命されて、お振袖で花束で歓迎されて、また、壇上で、名誉会員の
バッチを付けて差し上げて。
本当に素晴らしくて、目をパチクリ、感動と驚きで興奮するほど嬉しくてたまりません。

志恩様、良くぞ書いて下さいました。
こんなに素晴らしいお話しが聞けるなんて、有り難くて、有り難くて。
心より感謝申し上げます。

誠に ありがとうございます。 合掌🙏 礼拝。

も信徒様へ (59580)
日時:2023年07月09日 (日) 08時19分
名前:志恩

大昔のこと書いてみても大昔の写真を貼ってみても
しょうがないのでは、、と思いながら、
せっかくご愛念で元信徒様が、親スレッドを立てて
くださいましたので、

生長の家教団内で起きた、1つの歴史の
一コマとして、ささやかな出来事を書かせていただいている
のですが、いつも、あたたかな善意溢れるコメントを書いて
くださって、ほんとうにありがとうございます。

言葉で言うよりも写真を見られた方が、わかりやすいかしら
と言う考えで、旧いアルバムから、いくつか写真をとりだし、
スマホのカメラで、写して載せさせていただいております。

下の写真は、先のスレッドに貼った再掲なのですが、
私が、本部へ奉職した時代は、本部にお金がない時代
でしたが、その中で、やっと、私という若い子が、
白鳩会中央部に入ったということで、どちらかと言いますと
若い子は、少なかった本部ですから、どの部局の皆様からも、
私は、まるで家族のように、あたたかく接していただき、どの
先生からも、可愛がっていただいていた、幸せな時代でした。

白鳩会中央部の、(この時は、平岡先生は参加しませんでしたが)
全員で、近場のところへ一泊の温泉旅行へ、慰労会と称して
部内で貯めたお金で、行った時の、写真をご覧ください。

皆様、揃って、一点の曇りのない輝く笑顔をされているでしょ。

もちろん人間同士ですから、部局内で、細かい、いさかいも
先生同士では、意見の相違から、あったこともありましたが、
総合的に見ましたら、仲良しでした。

谷口雅春先生の光明化運動に、絶対的信頼と尊敬の念が
あったからだと存じます。

そしてもう1つ、お気づきでしょうか、
白鳩会全国講師5名
事務局長1名
経理事務員1名
事務員1名(志恩)

私が、入るまでは、片岡事務局長が、お一人で、
事務局長兼、事務員をされてたと言うことです。
そこへやっと、志恩という若い事務員が入ったのですから、
皆さん、喜んで、家族のように可愛がってくださるのも、
当然の状況だったのです。

すぐ隣の、総合企画局なんか、山口先生はじめとする
錚々たる男性のメンバー(全員が、のちに本部講師、各県の教化部長)が、
9名も いましたのに、高齢者の事務員と、若くていおとなしい
女子事務員が、2名しかいませんでしたので、

私だって、当時は白鳩会中央部では
事務員は、私一人でしたのに、企画局の仕事も
頼まれて、2局の事務をやっていたくらい、人手が足りない
時代でした。





当時の、白鳩会中央部の皆さん

写真ー(写真には写っていませんが、これプラス平岡初枝全国講師)
最前列、むかって左から・古川恵偉全国講師、 田中イサノ全国講師
2列目、藤原安子全国講師、高瀬不二全国講師(当時の白鳩会全国会長)
3列目、片岡松枝 事務局長
4列目、志恩  、 藤田美代子経理事務担当。
(昭和39年6月、白鳩会中央部、部内一泊温泉、慰安旅行にて)


企画局の仕事も、私は残業をしてまで、協力してやっていましたので (59581)
日時:2023年07月09日 (日) 08時52分
名前:志恩

いつも、シオンちゃんは、企画局の仕事も、
よくやってくれているからと
いうわけで、
当時、総合企画局、創立10周年記念に部局内で積立してきた
お金で、箱根一泊旅行へ行くことになったので、
シオンちゃんの費用は、皆でカンパして出すから、シオンちゃんは
ただで、参加してくださいと、山口悌治先生が私を、特別に
部局内の旅行へ お誘いくださいましたので、

昭和39年4月22日、と23日、私は内緒で、企画局の皆様と
ご一緒に、箱根一泊旅行へ参加させていただきました。


その時の、写真です。

上の写真は、集合写真で、前列の真ん中が志恩です。
別に目立とうと思って、こんな位置に いたわけでなく、
山口先生が、ここへ来なさいというので仕方なく、
前列の真ん中に来たのですが、私が普通に立つと、
皆様より、背が高くなるので、しゃがんで写したのでした。
私の当時の身長は、162センチでした。


下の写真は、
箱根の芦ノ湖で、モーターボートに乗った時のものです。
写真は、山口先生が、写してくださいました。
鳥うち帽子をかぶっている若い男性は、運転手さんです。

モーターボートの
前列、向かって、左から、林光彦本部講師、佐脇嘉久本部講師、
後列、向かって一番、右端が、大峡麗三本部講師、

 (59582)
日時:2023年07月09日 (日) 09時05分
名前:志恩

これは、その企画局の箱根一泊旅行の帰りの時の
ロマンスカー車内。

向かって左が、山口悌治先生、佐脇嘉久先生、志恩。
なお、私の隣の席には、林光彦本部講師が座っていました。

このように  40歳年上の、山口先生とも、まるで家族のように
気軽にお話できた佳き時代でした。


当時、企画局へ行った時、山口悌治先生がお部屋に入ってこられ
まして、お席に座られましたので、私が、企画局の皆さんの前で
「私、山口先生のフアンなんです。」と、大きい声で申し上げましたら、
山口先生も、皆さんの前で「僕も、シオンちゃんのフアンなんです。」と
ジョークで返されたので、皆さんで、大爆笑したことがございました。
昔の先生は、皆さんを楽しまるジョークも、お上手でした。

 (59590)
日時:2023年07月09日 (日) 12時37分
名前:元信徒

志恩様
本当に素晴らしいご本部のお仲間と言うか、私達にとっては大先生であらせます本部の超有名で信仰深い先生方との暖かい交流のお写真を見せて頂きまして、涙がでました。誠に有難う御座います。

この時代は、お金が無くても自費を積立て旅行して、それでも皆様あのように抱き合って仲良くして、お写真が今でも輝いておられます。

志恩さんは、本部の部局を超えて尊敬されている素晴らしい先生に沢山可愛いがられて、、、
亡きお父様のお計らいをどうしても感じてしまいます。 お父様の深い愛、本部の先生を通して愛してくださっていたのですね、そうとしか思えません。

信仰深い愛深い先生だからこそ、お父様も山口先生などの先生方を通して働く事は容易だったのかも知れません。
私、結婚する時、と言うか婚約して結婚間近になった時、主人の顔が写真でしか見たことが無かった祖父の顔とそっくりになって、その祖父が私におじいちゃんだよ、おじいちゃんだよ。と、主人がその祖父の顔付きで私に写真の祖父の顔の表情が呼びかけていました。不思議でならなかったです。

不思議な事なので、両親に報告しておきました。
そして、結婚して、生長の家の末端組織で先祖供養した時、祖父の命日に私達は結婚していました事が分かりました。

霊界からは、何でも見えて、肉体を超えて愛を表現しに来てくれるのは本当です。
祖父とは一度も会った事もないのに、私の側にいて助けて守ってくれている事を実感した次第です。結婚して実家を離れても私の側で愛し見守ってくれている事だと思いました。いや、離れてさえも、付いて来てくれて、と言う方がしっくり来る感じです。

だからこそ、先祖供養は有り難くて有り難くて、ご先祖に感謝のお手紙を書くように
霊牌を書いて感謝せずにおれません。

話しが脱線してすみません。

志恩様のご労力に感謝しております。
どうも有難う御座います。


元信徒様 (59606)
日時:2023年07月09日 (日) 17時32分
名前:志恩

元信徒様の貴重な体験談を書いてくださって、
誠にありがとうございます。

元信徒様のおっしゃるとおり、私のことでも
ご先祖様のご守護とお導きがあるのだと存じます。

旧いアルバムもそうですが、旧い日記帳を見ていましたら、

昭和42(1967)年10月15日(日)原宿本部で行われた
「実相研鑽会」
での谷口雅春先生の結語の言葉が、メモしてありました。

当時は、大道場で行われる行事は、各部屋に、全館放送されて
仕事をしながら、本部職員も 皆で 拝聴できたのです。
∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴
 ⭐️谷口雅春先生の結語のお言葉ー

私達は、神様から求める(お陰を得る)ことばかり考えている。
しかし、私達は、神様から全てのものを、すでに与えられている。
この事実を、ほんとうに理解すること。
求める祈りから感謝する祈りに。
ただ自分は神様に感謝するだけ。
与えるだけの祈りをすること。
自分の全生命を神様に与えたら、神様の全生命をいただける。

神と私という相対的立場でなく、自分は無く、神だけ自分の中に
存在するという絶対的立場に立つこと。
自分の一部でなく、自分の全部を神様に与えてしまうこと。

祈りが生活の根本だが、自分の祈りでは駄目。
常に次のように心の中で黙念すること。

「私の周囲に、神の無限の愛が、とりまいている。
神の祝福を受けている。
神に守られている。」
と、ただ黙念する。

これが信仰の根本。
常じゅう神想観。
そこから無限の形式が出てくる。

「神の救いの力が、常に自分のうちに生き生きと、
今、生きている。」

そうたえず思うこと。
それが、神を愛すること。

そこから本当の心から悦べる生活や、光明化運動、
真の勇気や愛も生まれてくる。

∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴
志恩ー
今、読み返しても、スッと心の底に
落ちる、すごい深くて、端的な真理の言葉だなぁと、
思いました。





スゴーイ‼️ (59609)
日時:2023年07月09日 (日) 17時47分
名前:元信徒


有難うございます。

雅春先生の素晴らしい真理のお言葉を聞きながら、お仕事が出来たなんと幸運な時代でしたね。

私は、時代の時代はだらけてふざけた時代でした。
恥ずかしくて体験談も話せません。

私が存じ上げているのは、本部講師になる前の渋谷晴雄さんのことです。 (59616)
日時:2023年07月09日 (日) 19時27分
名前:志恩

古くからの生長の家のお方でしたら、知らない人は
いないと思いますが、
大変頭脳明晰で詩人でもいらした亡き渋谷晴雄先生のこと。

渋谷先生は、大正13(1924)年に、宮城県にお生まれに
なられました。

今後は、本部講師前のことですので、渋谷さんにします。

渋谷さんは、東北大学経済学部をダントツの一番で卒業されまして、
就職された先は、大日本印刷の外人担当部署でした。
(英語がしゃべれましたので)

そして、仙台市で、生長の家青年会活動も熱心にされて
いらした時に、親友だったのが、本部、企画局に勤務されて
いた大峡麗三先生でした。

その大峡先生のご紹介で、渋谷さんは、昭和36(1961)年4月に
原宿本部の渉外局へ奉職されました
それは渋谷先生が、37歳の時で、いらっしゃいました。

渋谷さんは、その後、52年間、教団でお仕事を続けられまして
平成24(2012)年6月19日に、白鳩誌の歌壇の選者という
現役のまま、89歳で亡くなられました。

それまでに、たくさんの要職を務めらまして....。

さて、話をもどしますが、
私は、昭和36年1月に原宿本部に奉職しておりまして、
わずかの差のその年の4月に、たしか、渋谷さんは本部へ
奉職されました。

私は、先に本部におりましたので、渋谷さんよりも先に
本部の各部局の様子を見ていました。

そして、感じていたことは、各部局の、横のつながりが、ない
ということでした。他局の人たちが、どんな考えをお持ちなのか、
知ることができなかったのです。
(すぐとなりの総合企画局のことだけは、よく知っていましたけれど)

それで、聖使命部のSさんという先輩の女性と、たまたま話し合う
機会がありましたので、どうしたもんかと、二人で話し合いながら
考えまして、
そうだ、横のつながりをもつには、「本部職員の会報」を作り、本部職員
全員に、なんでもいいから考えていることを、一人一人順番に
書いてもらうのは、どうかということで、意見が一致しまして、

それで、本部の職員会は、いづみ会という名で存在しておりましたので
いづみ会の委員長に、二人で、会報を作りたいのですが、と相談に行き
ましたところ、作ってもいいですよ、どうぞ、ご自由に!と言われました。

それで、誰に会報の編集長になってもらおうか、ということで、
今度、すごく頭のいい人が本部に入ったと、評判になっていた
渋谷晴雄さんという人に、会報の編集委員長になってもらわない?
とSさんと話し合って決め、早速、私が渋谷さんに、なってもらいたい
と、直接、聞きに行きましたところ、やってもいいですと、お答えくださったの
で、いづみ会会報の編集委員長を渋谷さんにして、Sさんと私が、編集委員
になり、早速、会報を作りはじめました。

毎月ですと大変なので、発行は、隔月にしました。

渋谷さんの会報作りの条件は、印刷所へ出すのではなくて、
全部手作りでやるというものでした。

昭和36年のその日から、昭和40年の春まで、私達は、会報を出し
続けておりました。約4年間です。

(その後、他のメンバーに会報作りは、バトンタッチいたしましたが、
その後の方達は、自分たちでやるのは大変なので、印刷所へだして、
印刷してもらっていました。)

「いづみ会報」は、発行後、本部の皆様から大好評で、各部局の横の
つながりにも、一役、担っていたと思っております。

その会報の編集長時代、渋谷さんは、昭和39(1964)年9月に
米国の光明思想家・デーヴィスさんが来日された時、通訳もされて
おられました。


そして昭和40(1965)年の8月に、渋谷さんは、本部講師の資格を得られ、
渋谷さんから、渋谷先生になられまして、ハワイの教化総長として、
ハワイに旅立って 行かれまして、私たちとは、遠い存在となりました。


ちなみに、当時、私は、渋谷さんの奥様と、仲良しでした。
私は、奥様に、よく誘われて、あちこちへ、二人で出かけておりました。
渋谷さんの奥様は、宮城県時代は、中学の国語の先生を
されていたそうですが、東京にいらしてからは、新教連の事務員、
その後、ハリウッド・ビューティサロンのメイ牛山さんの秘書をされて
おられました。


昭和38(1963)9月
本部職員一泊旅行で、河口湖方面に
行った時の集合写真の一部です。

渋谷さん39歳、志恩21歳

向かって左、メガネの男性の隣りの、
スマートな人が、渋谷さんです。
志恩は、向かって右端。

渋谷さんの後ろで、左手を上げている若い男性は寺内さん。
玉置和郎議員の秘書をされていた寺内弘子さんの旦那様
ですが、若くして、病気で亡くなられました。

(寺内さんの左手の先に、青い光が写っていますが、これは
写真をスマホで写した時に、何かの光が映り込んだのだと
思います。心霊写真では、ありません)

 (59617)
日時:2023年07月09日 (日) 19時46分
名前:元信徒


大 峡 さん 何と お読みしたら良いですか。

フリガナがあれば有難いです。

あと、谷口雅春先生のお言葉メモが他にありましたら、又、教えて下さい。

谷口雅春先生のお言葉を世に出すことは、世の中に大光明が出でるのと同じだと思います。

ちなみに、信徒が知る雅春先生のお言葉は、晩年でしたので、ビデオテープや新聞に全部になっています。
お年でしたから、出勤はされておられませんでしたから、志恩さんのようにメモしたくても、ありませんでした。


元信徒様 (59619)
日時:2023年07月09日 (日) 19時54分
名前:志恩

大 峡 さんは、「おおはざま」さん、と読みまして、
当時、皆さん、私も含めて、彼のことは、
「オッパさん」という愛称で
呼んでいました。

大峡さんは、のちに、政治局の事務局長をされていたお方です。

谷口雅春先生のお言葉ですね、また、日記を読み返して
見つけましたら、書かせていただきます。

いつも私のこと、フォローしてくださって、すみません。
感謝しています。

 (59622)
日時:2023年07月09日 (日) 20時05分
名前:元信徒


いえいえ、
家族始め、みんな 大喜びしております。

職員会報、志恩様が発案、お作り下さいましたか、私も2.3回順番が来て書かせて頂きました、懐かしいですが、志恩様が創始者さんでしたとは、感激しております。
職員コラムで、遠い職員が元気で頑張っている事や、
会話も弾みました。どうも有難うございました。 合掌。

何年か後にこんな素晴らしい事が分かり、なんか感動で泣いてしまいます。


私が初めて参加した飛田給練成道場での夏季高校生練成会の、飛田給道場の庭で写した集合写真がありました。 (59648)
日時:2023年07月10日 (月) 11時03分
名前:志恩

当時の高校生練成会は
こんなに大勢の参加者があったのです。

昭和31(1956)年の8月。日数は、5日間でした、。
私が中学3年生の時に参加した高校生練成会の集合写真です。

この時、参加していた 先輩の長嶋大さんと
私の二人が、体験談発表者に、選ばれまして、壇上で二人は
体験談と言いますか、練成会に参加した感想を発表
させられたのでした。それは、提出した感想文の中から
本部講師が選んで、選出されました。

でも 長嶋さんが、どこに写っているのか、
私がどこに写っているのか、印をつけていなかったので、
今、見ても 大勢すぎて、わかりません。笑

最前列の真ん中に、当時の飛田給道場総務の
徳久克巳先生が写っています。

先きの写真がぼやけていましたので、写し直しましたが
あまりに大勢すぎて、このような形でしか、写せず、
貼れませんでしたので、ご了承ください。

すみませんが、首を横にされて、みてください。

 (59650)
日時:2023年07月10日 (月) 12時26分
名前:元信徒

ええ?ス栫I

スゴイ人数! 人口が多い時代?何人位ですかね?相当ですね。

徳久先生もお若いてす。
当時も2泊3日くらいでしたか?

お風呂、食事、どうなっていたのでょう! ビックリ‼️
地元白鳩会の応援がないと出来なかったでしょう。

元信徒様 (59651)
日時:2023年07月10日 (月) 12時47分
名前:志恩

私はこれ以後、ずっと、夏の高校生練成会、
春の高校生練成会に参加していましたので、
その折々の集合写真が、アルバムにあるのですが、
同じように、ものすごく大勢の高校生が写っていますよ。

人口が多かったからでなくて、当時は、信徒数が多かった
からです。

なにせ、谷口雅春先生のご講習会の時なんか、両国
国技館に入りきれなくて、壇上にまで、信徒が上がって
正座して、谷口雅春先生のご講話を、拝聴していましたもの。

 (59653)
日時:2023年07月10日 (月) 13時17分
名前:元信徒

信徒数が多くて子供が集まる!

私達の時代はこの方々はどこに行ってしまったのでしょう?
人数がこんなにいませんでした。

はやり初代がいて、熱心な志かないと人は動きませんね。
私の時代は、養心女子大学寮が訳70名キル位で、寮母の田中吉野先生がこのままでは、運営が難しいと仰っておられて、
昔は、全国から約130名位も来られて、ブラジルからも留学生が来ていたと。
二代目になって、教勢が維持体制に変わってきたのではないでしょうか。

なんでも初代は、やる気が違いますよね、
我が家でも二代目は楽ですから、父とは違います。

生長の家も早く 中興の祖が現れないかと祈るばかりです。


それにしても、志恩さま、こちらでも体験発表されて、どこにいらしても頭角をあらわされて、優秀でいらしたのですね。

私の高校一年生の頃は、先生のお話しがチンプンカンプンでしたよ。笑
又、部活や遊びたいのに、閉じ込められた感があり、嫌々いた感じです。笑

たしか、谷口雅春先生の東京での最後のご講習会にも行かせて頂きました、母は隣で涙を流しながら聞いていましたが、私は意味がわかっておりませんでした。泣

今、思うと非常にもったい無い事をしたと反省しております。



大人になってからは違います、キチンと聞けて内容も理解できました。




数えてみました。徳久先生以外の数は、403名です。 (59667)
日時:2023年07月11日 (火) 03時51分
名前:志恩

>昭和31(1956)年の8月。日数は、5日間でした、。
私が中学3年生の時に参加した高校生練成会の集合写真です。<

写真を拡大して、一人一人の顔に、蛍光ペンで
印をつけて、数えてみましたら、徳久先生以外の数は、
403名でした。この中に、本部講師もいるでしょうから。
参加した高校生は、390名くらいでは、ないでしょうか。

佐脇嘉久本部講師と、林光彦本部講師の著書 (59700)
日時:2023年07月12日 (水) 17時17分
名前:志恩

【佐脇 嘉久(さわき よしひさ)先生】は、

早大政経学部、国立音大卒で、
ピアノと作曲を学ばれ、
本部では、聖歌隊の指導も されておられました。

大変宗教的なお方で、もの静かでおちゃめで
人格者でもありました。

著書に
『やさしく書いた日本の神話」』(日本教文社)
『國と人のロマンを語ろう』(日本教文社)

があります。

=====================
【林 光彦先生】は、

著書に
『心と光のプレリュード、巨(おお)いなる意識改革』(たま出版)
『光がこだまする』  (日本教文社)     

が、あります。
================
佐脇嘉久先生は、山口悌治先生と共に
基礎文化研究所も、企画局と兼任されてました。

もう一人、企画局の久永先生(本部講師)も
基礎文化研究所で
佐脇先生と共ににお仕事をされておられました。
=================



原宿本部内、基礎文化研究所のお部屋へ
何かのことで、私が、佐脇先生をお尋ねした時、

久永先生がカメラで写してくださいました。

昭和40(1965)年9月


 

 (59710)
日時:2023年07月13日 (木) 09時48分
名前:元信徒

佐脇先生ご本を書かれたのでお名前は、有名ですぬ、林光彦さんも聞いた記憶があります。

基礎文化研究所は今は無くなっています?いつ頃何故無くなってしまったのですか。
当時は、こちらでどのような事をされていましたか?

あと、飛田給練成道場で幸福科学研究所の看板がかかった建物の写真をみました。

大川隆法の団体より、生長の家の方が早いわ、マネしてるのかな?とも思いました。
そこは、ご存知ですか?

元信徒様 (59722)
日時:2023年07月13日 (木) 15時37分
名前:志恩

元信徒様は質問上手ですね。
おかげさま様で、色々な話ができます。

基礎文化研究所は、どのような仕事を
していたかにつきましては、60年前の
当時は、詳しく聞いていたのですが、
今は、その記憶が、おぼろげです。

生長の家の今後の発展のために
生長の家の歴史や出来事を記録するだけでなく、

例えば、仏教のこと、ニューソートのこととか、その他
様々な分野のことを詳細に調べて研究していた部屋
だったと記憶しておりますが、微妙に違うかもしれません。
いつなくなったかについても、知りません。

どなたか詳しいお方いらしたら、教えてください。


>飛田給練成道場で幸福科学研究所の看板が
かかった建物の写真をみました。<


これも、見たことがなくて、知らないことです。

谷口雅春先生についてを学ぶ    (59816)
日時:2023年07月16日 (日) 07時21分
名前:志恩

「楠本加美野ウェブサイト」より

[谷口雅春先生について]
谷口雅春先生は、精神世界的な生き方をした。
生命の実相哲学を説いただけでなく、人々の日常生活に根ざした
救済活動をめざして、先祖供養や病気治しなどのテーマも扱った。


[論点1  先祖の考え方]
「大地は神様、根は先祖、幹は両親、子供は枝葉」という
谷口先生の言葉がある。
供養は、肥料のようなもので、そこに先祖供養の重要性がある。

[論点2 指導霊としての先祖]
個人の運命は、
半分が前世の徳、四分の一が現世の努力、残りの四分の一が
高級霊の支援によってきまる。
ここで高級霊と言うのは、先祖霊の中の霊格の高い方のこと。

[論点3 カルマの解消と先祖―潜在意識、自己責任]
「先祖の業」というのは、自分が潜在意識の中に掴んでいるもの。
「自分」が掴んでいる業、カルマは、「自分で」「潜在意識を浄化する
ことによって」解消するしかない。

[論点4 先祖供養と感謝]
先祖供養とは先祖への感謝。
親に感謝できると自然に先祖にも感謝できるようになる。

[論点5 先祖供養と法施]
霊界と現界の関係は、現界は霊界の写しであり、
密接な関係がある。
枝葉が繁栄しているということは、根がしっかりとはっている
ということ。
根は見えないども、樹木にとっては一番大切なところ。
霊界を変えれば現界が変わる。
祖先霊の悟りのためにも
真理の言葉を供養すべきである。

[論点6 先祖供養と祈り]
隣人のために祈る行為は、隠れた愛の奉仕である。
こういう小さい行いの中に、本当の報い求めぬ与え
ばかりの愛がある。
そしてそれは神の前に大いなるものとせられる。

[論点7 波長同通の法則と先祖供養]
たとえ身近に迷っている先祖霊がおられても、
自分の想念が浄化され、意識の波動が上がってくると、
その迷いの念波と同調しなくなる

[論点8 方便としての先祖供養]
宗教的な行として行うかぎりは、先祖供養も方便である。
大事なことは、「自分の命をひたすら味わう」ことである。

おわりに
先祖供養とは霊魂治療ではなくて、
真理の自覚を深めていくことであり、
先祖に感謝するということである。


*********要約ここまで********

【谷口雅春先生について】

生長の家は、宗教団体ではあるのですが、精神世界的な考え方と
非常に親和性があると思います。
というより、精神世界の思想そのものと言ってもいいと思います

生長の家を創った谷口雅春先生は、
過去に日本で伊邪那岐之命、ギリシャでプロティノスとして転生している
と言われています。

もともと、魂の生地として、日本神道と、プラトン哲学(観念論、汎神論)
の光線の系統の中にあります。

また、谷口先生を主に指導していた住吉の大神とは、
天之御中主神そのひとであり、
谷口先生の光一元の光明思想は、
この神様から与えられたものです。

天之御中主神は、アメリカのニューソートを指導していました。

ニューソートは、
ニューエイジの源流であり、ニューエイジの土台の上に
今の精神世界の潮流があります。

谷口先生は、ニューソートだけでなく、当時のイギリスの
神霊主義の書籍も翻訳して
ご自身の教えの中に取り入れていました。

イギリスの神霊主義とは、江原さんなどで一般的となった
スピリチュアリズムのことです。

それに加え、谷口先生は、
若い頃に大本教の出口王仁三郎先生
の下で霊的な修行をされています。

シャーマニズム的な霊性や、裏側の世界も
学んでおられるのです。

ですので、谷口先生自身は、
精神世界的な思想を生きた方である、
といえると思います。

本来、谷口先生の思想の核は、プラトン哲学であり、
また天之御中主神の光一元思想であるので、
それをそのまま人生百般に応用する
ことは、誰にでも出来ることでは ありません。

抽象的、観念的な哲学的概念を使って
「自分で考える」ことができるためには
すでにある程度霊性の目覚めがなければなりません。

哲学的思索を通して霊性の目覚めを促すということは、
ニワトリと卵のような難しさがあります。

そこのところを、
谷口先生は、ご自分の文章力を駆使して、
「中学生でもわかるような優しい言葉を使って、
人類の最高度の悟りを伝える」ということへの挑戦をしたのです。

「生命の実相」という言葉も、このような文書伝道への
熱意と努力の中から生み出されてきたものであると思います。

「人間は神の子である。物質はない。病気もない。
迷っている自分も本来無い。
実在するのはただ、神の子の実相だけである。」

このコンセプトが、どれほどの福音を人類にもたらしている
か計り知れません。


谷口先生がかつてプロティノスとして生まれたとき、
知を磨き、神の理想について学問的に問いつめ、
神の光とは何か、神の国神の光とは何か、
神の国とは何かということを、知の原理として
世に知らしめました。

しかし、天上界に帰ってその結果を見たとき、
それが実は知の遊戯にすぎず、人々の生き方にとって、
人々を救う糧にならなかったのではないかと、深い反省を
されたそうです。


そのため、今回谷口雅春として日本に生まれたときには、
いやがらずに、新興宗教の教祖と呼ばれようとも、
邪教の神と呼ばれようと、人々の日常の生活において、
しっかりと根付いたものとして、多くの人々を光明化し、
人々を神のもとにもどしていく、そういう力添えをするために、
生きようと言う計画を立て、その通りの生涯を生きたのだそうです。

生長の家の練成会で行われている内容は、
こういう視点から、理解するとわかりやすいと思います。
先祖供養という論点も、ていねいに、しっかりと説明してく
ださっていると思います。
法施という愛の実践なのです。
**************************************


谷口雅春先生が総裁先生でいらした時代の【新教育者連盟の野木清司先生】  (59841)
日時:2023年07月18日 (火) 14時15分
名前:志恩

志恩の昔の日記より



昭和41(1966)年3月22日(火)

お昼休みに婦人局(白鳩会中央部)へ新教連の野木清司先生が
いらしてくださり、局長はじめ みなさんのお習字を見てくださった。

その後、野木先生は、午後1時から4時半までは、お山へいらした。
お山でも、清超先生には書道を、お子様たちにも色々と教えていらっしゃる。

お山でご指導されたあと、また野木先生は、婦人局へ戻っていらした。

それから、
婦人局に だいぶ いらして お話ししてて 遅い時間になったので
帰る方向が同じなので、野木先生と片岡事務局長と私の
3人は 一緒に、同じ電車に 乗って 帰った。

野木先生は、天才型のお方で、
書道はもちろんのこと、古事記の研究や、和歌も油絵も彫刻も されるし、
学校の建物の設計も されるし、カメラも一流で、植物についても
専門家のように お詳しい。

夜は、あまり食事は召し上がらないとかで、夜は、ほとんど寝ずに、
なんでもされるそうです。仙人みたいなお方です。

帰りの電車の車中は 遅い時間帯なので 、ガラガラに空いていて  
野木先生、片岡さん、私の3人とも座席に座れた。

野木先生は、淡々と 静かに宗教的なお話をしてくださる。

先生は私におっしゃった。

「自分の理想を 捨てると、気楽になれますよ。
光は、求めては いけない。
光は 、求めるものでは ない。
自分が 光になることだ。..」と。

すごく 意味深い言葉だなぁ と思った。



これは、昭和41(1966)年に野木清司先生から
私宛(自宅)に、送られてきた直筆の年賀状です。

「  常勝無限力
何がよいか悪いかは
人間知では わかりません
大きな神の御力の流れに
生きることは
まさに常勝無限力の道であります。
             野木清司   」

(発信人の住所と電話番号のところは
伏せました)

谷口雅春先生は、当時、一番信頼されていらした野木先生に生長の家の学校の素案を依頼されていました。 (59842)
日時:2023年07月18日 (火) 17時14分
名前:志恩

シオの部屋より転載

(29291)2020.6.10記

谷口雅春先生は、未来の日本を担う青年を育成したいという
強い願望と夢をお持ちで、生長の家大学建設の「素案」を、
あの頃谷口雅春先生が、宗教的な面でも人間的な面でも
一番信頼されていた
新教連の野木清司先生に直接、依頼されていらしたと。
野木先生ご本人に私は、伺っておりました。

ところがだいぶ経ってから野木先生がおっしゃるには、
(それは
私が本部を辞めた後も、新教連の練成会に子供たちを連れて行った時も
先生とお話しましたし、その後、先生が始められた古事記研究会の和耕軸
にも私は参加しておりましたので、先生との交流があったからですが、)

”あの生長の家の学校建設のことは、清超先生が、作らなくていいと、
反対されたので、やめになった。”と  おっしゃってました。

しかし、「新教連」は生長の家教団から、追放の目に遭いましたよね。

その記事を読みますと、実は、学校建設に反対だったのは、
谷口雅宣三代目現総裁だったということが載っていました。

結局、その後、野木先生は、生長の家にいられなくなり、生長の家を
離れられたのですよね。でも、野木先生は、生長の家を離れられましても
生涯、谷口雅春先生を師として、敬慕されていらっしゃいましたよ。
死ぬまで。
(野木先生は、平成24(2012)年12月10日、84歳でご逝去。)

ですから、結論を言えば、
当時の生長の家は、信徒数が多かった時代ですから、
創価学会のように、本当は大学を作ろうとすれば
作れたのにもかかわらず、清超先生と雅宣先生が、反対されたために、

谷口雅春先生が、願望されていた大学建設は、出来なかった。
というのが、真実の話ではないかと、思っております。

私のいうことが、違っていましたら、
教団の上層部のお方、反論をお願いいたします。

そして、もしも、反対したということが、本当のことでしたら、
もしよろしかったら、反対した理由を信徒として知りたいです。


野木清司先生のお写真は、ネット上を探しましたが、
どこにも載っていませんでした。それで、私の古いアルバムに
1枚だけ、ありましたので、それを貼らせていただきます。

昭和41(1996)年3月、原宿本部白鳩の間にて教育講演中
の野木先生(37歳)。テーマ「誰でも天才になれる」

原宿本部時代の新教連の先生方 (59851)
日時:2023年07月18日 (火) 21時06分
名前:志恩

学芸大附属中学・高校の校長をされていらした
鹿沼掲揚先生、そして、野木清司先生、原酉三先生が、
あの当時は、新教連の先生で、一番印象に残っている
先生方です。

鹿沼先生のことは、有名ですから、皆様、よく
ご存知でいらっしゃると思いますが、

あの当時は、野木先生も、本部職員の希望者に
和歌を教えてくださっていましたし、白鳩会中央部の
全員に書道を、週一に教えにきてくださっていました。
もちろん、無料でした。

原先生という新教連の先生は、元水泳のオリンピック選手
でいらしたので、本部職員の希望者には、代々木ブールで
無料で、水泳を教えてくだったり、白鳩の間でデンマーク体操
を教えてくださったり、英語まで教えてくださる愛深い明るい
先生でした。

私も、原先生には、水泳、英語、デンマーク体操と欲張って
全部教えていただいていました。

この写真は、白鳩の間でデンマーク体操を教えて
いただいている時の写真です。

後ろ姿で教えている先生が、原先生。
前列、向かって右側から志恩、真ん中が鎌田先生(黒の上下)。



昭和40(1965)年10月
白鳩の間でデンマーク体操を
原先生に、習っているところ

新教連の原先生と、鎌田白鳩会全国講師 (59852)
日時:2023年07月18日 (火) 21時13分
名前:志恩

原酉三先生と鎌田久子先生

昭和40(1965)年10月
原宿本部 白鳩会中央部にて

(59498)の補足、経理部の「半田大定」先生のお写真を見つけました (59860)
日時:2023年07月19日 (水) 12時50分
名前:志恩

>神想観して、新たに思いついたのが、

一度でもいいから、今までに「理想世界」誌を読んだことのある人
を対象に、戸別訪問した方が、非常に確率が高い、ということでした。

それは、自分自身で、とっていなくても、
親とか親戚の人から送られてきて読んだことがある、でもいいですから、
とにかく、「理想世界」を、一度でもいいですから、読んだことのある人を
対象に、戸別訪問しようと、思いついたのでした。

それには、「世界聖典普及協会」で、かってでも、今でも、「理想世界」を
読んだことのある人の名簿を教えてもらわなくてはなりませんでした。

そこで、本部で信用のある人、あれは、確か谷口輝子先生の親戚である
と聞いていた、私のことをとても可愛がってくださっていた
経理部の半田大定先生だったと思うのですが、その信用のあるお方に、
私は事情をお話して、〇〇さん(志恩)が、世界聖典普及協会へ行くから
教えてやってください、という口利きを、先にしていただいて、
先方からの承諾を得て、それで、一人で普及協会へ行きまして、
名簿を確保することができたのでした。<





当時、世界聖典普及協会へ理想世界誌の読者の
名簿を、志恩さんに、教えてあげてくださいと、
口利きしてくださった、経理部の半田大定先生のお写真を
昔の本部職員旅行の集合写真の中から見つけました。


これは、昭和38年9月、河口湖方面へ旅行へ行き、
白糸の滝の前で写したものです。

向かって右端のインディアンハットを
かぶっているお茶目な童顔の男性が、半田大定先生です。

普段の半田先生は、こういう感じではなく、いたって真面目で
正義感が強くて、口下手で、ピリッとしたところのある先生でした。

ご神像を彫刻された服部仁郎氏を生長の家に導いた彫刻家の友人の片岡環氏と、その奥様の片岡松枝様のこと (59861)
日時:2023年07月19日 (水) 17時09分
名前:志恩

生長の家四十年史からというネット記事より

>服部仁郎氏が肺炎に肋膜炎を併発して危篤状態
だったときに、

彫刻家の友達である片岡環(たまき)氏が見舞いに訪問して、

生長の家の"人間神の子"の真理を語り、『生長の家叢書』の
うちの「こころ我を生かす」一冊と、招神歌を書いたメモを
置いて帰ったあとで、
服部氏は仰臥したままその一冊のパンフレットを読み、
更にメモに書かれている招神歌の第二首目の
「わが生くるは吾が力ならず天地を貫きて生くる
祖神(みおや)の生命」を読んだとき、突然服部氏は
霊感が来たのであった。

 「自分が生きているのは自分の力で
生きているのではない。天地を貫いて生き給う
大生命なる親さまの生命によって生かされている
のである。
大生命の親さまの生命に病気がある筈はない。
病気は無いのだ。」

 服部氏の「病気は無い」という自覚は、
理論でも理屈でもなかった。
まことに『生命の實相』の分冊である「こころ我を生かす」
一冊の文章の力と招神歌を媒介として、神の啓示のように
直感的にその自覚が湧いて来たのであった。

 氏は立ちあがって、
「心の影」と題して制作しかけて病気のために
制作半ばにして放置せられていた彫刻の仕上げにかかった。
そしてそれはその秋の帝展に無事出品するように完成した。<

志恩ー
片岡環氏は、総本山にお祀りする「観世音菩薩像」を、
谷口雅春先生から依頼されて、彫刻し、総本山に納めた
お方です。
片岡環氏は、生長の家の地方講師でもありました。

その奥様の片岡松枝様は、白鳩会中央部(婦人局)の
事務局長でありました。

片岡松枝様から私が直接伺った話では、片岡先生ご夫妻は、
昔、貧しかったので、新婚旅行に行っていなかったそうで、
コツコツ貯めてきたそのお金で、ご夫婦で、初めて京都奈良へ
三泊四日の旅行へ行くことになったのだそうです。

それで、松枝奥様が、
私におっしゃるには、
「夫は、とても無口な人で、真面目そのものの人で、
夫と二人で、旅行へ行っても全然楽しくないと思うから、
シオンちゃん、お金は、私たちが積み立ててきた中から、
あなたの分は出すから、あなたは、ただでいいから
私たちと一緒に旅行へ行ってくれない?
シオンちゃんが一緒に行ってくれたほうが、
私たちの旅行は、明るく楽しい旅行になると思うから」

と言われまして、それは、昭和39年8月のことでしたが、
お言葉に甘えまして、光栄なことに、
私も片岡環氏ご夫妻とご一緒に
京都奈良の三泊四日の旅に、行かせていただいたこと
がございました。

奈良に行った時は、奈良県の生長の家教化部会館に宿泊し、
京都へ行った時は、宇治別格本山へ、二泊した記憶が
ございます。

片岡環先生のお写真が、なくて残念ですが、
奥様の片岡松枝様(婦人局事務局長)と私が、
その旅行の時に写してもらった
宇治別格本山の書籍売り場に立っている写真は
ありますので、貼らせていただきます。



昭和39(1964)年8月、
宇治別格本山にて
向かって左から、志恩、片岡松枝様

(写真をマウスでクリックすると拡大します)

ちなみに (59862)
日時:2023年07月19日 (水) 18時32分
名前:志恩

>原宿本部の円塔の1階にあった白鳩型の
噴水の水鉢(御影石)<

その一対(二羽)の「白鳩像」は、「神泉の間」にありまして、
片岡環先生が彫刻されたものでした。

原宿本部会館ができた頃は、その「白鳩像」の口から、噴水の
ように、水が出ていたと聞きましたが、私が、本部へ奉職した
7年目の時は、水は、止められていたのでしょう。
出ていませんでした。

今は、その「白鳩像」は、ございません。
本部会館が壊される時に、建物と一緒に「白鳩像」は、処分されて
しまったのかもしれません。
噴水の水鉢(御影石)のほうは、七重の塔を作る時、一部利用したと
教団関係のページに載っていましたが。


ありがとうございます (59867)
日時:2023年07月20日 (木) 00時29分
名前:元信徒

志恩様

次から次へと素晴らしい思い出をありがとうございます。
そうなんだ、そうなんだと、楽しみながら読ませて頂きました。

連休は忙しく、毎日出ていました、最終日は歌舞伎座に向かって行きました、銀座界隈で軽く遊ぼうと早くでました。途中高島屋でぼたんちゃんと勸玄君のお土産を買ってあと、團十郎さんのお祝いを買って電車に乗りましたら、冷房が全くいていない車両で気分が悪くなり、途中下車するか迷うくらいどんどん気分が悪くなり、それから5分位我慢していると、電車が地下に入って日光が遮られてから冷房が効くようになり、そこから一気に体温が下り、落ち着きました。汗が止まらず、めまいがしてました。今も全快ではありませんが。

三連休の祝日の日、37℃だかの日、人がほとんどいなくて、あんな暑い日だれが出かけるか!のような人は街には少なかったです。ですが、切符がその日指定ですから、行かねばならず、頑張って行きました。今回は2階東の桟敷席でしたからテーブルがついていましたが、コロナの影響か? お茶はでませんでした。花道のぼたん、勸玄、團十郎さんの決めポーズはしっかり正面となりました。素晴らしかったです。

さて、どれも素晴らしいお写真をありがとうございました。
何か、懐かしいお写真が。
鎌田久子先生、養心に来て下さいまして、講話を何回も頂きました。その他は、校歌の歌い方のアドバイスやらです。その後、私、結婚するのよ、皆んなが知っている有名な方なの。と、嬉しそうに言われていましたが、その後どうなったか、結婚していない感じですね。テレビに出ていた方でした、当時。 鎌田久子先生、白いイメージの素敵な先生でした。

それと、学校の事。知らなかったです。
雅春先生がそこまでの思いがあったのに。当時は資金面もまだ早かったのかもしれませんが、昭和の後期など、バブル景気があったのですから、そこでサッサとやれば良かったのです。
私が、谷口貴康先生から直接聴いたのは、学校を建設するかも知れないから、今、先に先生を育てていくつもりで、幹部養成学校を作ったのだよ。と。
私があまりに、学校建てて欲しいと、毎日言うからそのように逃げたかか知りませんが、そのように聞きました。それからいまだに出来てませんけど、どうなっていますか?ね?
でも、まあ、あの2人なら建てないだろうな。

それと
生長の家のブロンズ像、
あの扱いも本部で会議があったそうで、一つは、総本山で、一つは、本部にしますか?となった時に、清超先生が本部はいらない。と仰ったので、楠本先生が手を挙げて宇治でもらいます。と言ってもらってきたそうです。

どこかの古物商が持ち込んで来て購入してください。と来たそうです。2個持ち込んで来た。と聞いております。

宇治の練成道場玄関の生長の家大神様のブロンズ像はそのように宇治に来ましたよ。

あと、志恩さんのお若いころ、八頭身のモデル体型でとても素敵ですね。皆様に可愛いがられて当たり前みたいな素晴らしい素敵な方でしたね。
何か、面白いのは、ご夫婦のお子様のように旅行に誘われて、人徳ありますね。
なんだか、本当の家族のようにほのぼのした良い時代です。

安全で仲良くて、日本って本当に昔は良い国でした。

割り込んで感想をすみません。











元信徒様 (59881)
日時:2023年07月20日 (木) 09時11分
名前:志恩

今年の、7月15、16、17日の連休は、例年以上の猛暑日が
続いておりましたが、その連休に、元信徒様は、忙しく、毎日出て
いて、最終日は歌舞伎座に行ってこられたとはタフですね。
團十郎さん、ぼたんちゃん、勸玄君(新之助君)の出演する
舞台を、2階東の桟敷席のテーブルまでついている客席で、
ご覧になり、

>花道のぼたん、勸玄、團十郎さんの決めポーズは
しっかり正面となりました。素晴らしかったです。<

とは、連休の最終日には、羨ましいような素晴らしい体験を
されましたね。


>何か、懐かしいお写真が。
鎌田久子先生、養心に来て下さいまして、講話を何回も頂きました。その他は、校歌の歌い方のアドバイスやらです。その後、私、結婚するのよ、皆んなが知っている有名な方なの。と、嬉しそうに言われていましたが、その後どうなったか、結婚していない感じですね。テレビに出ていた方でした、当時。 鎌田久子先生、白いイメージの素敵な先生でした。<


鎌田久子先生のお話を直に聞かれたことが、おありでしたか。
鎌田先生は、ほほえみの会の理事長にもなられまして、ご活躍
でしたね。最近も、お元気なのでしょうか。そうだと いいけれど。
結婚を、されたというニュースは、聞いていませんね。


>学校の事。知らなかったです。
雅春先生がそこまでの思いがあったのに。
当時は資金面もまだ早かったのかもしれませんが、昭和の後期など、
バブル景気があったのですから、そこでサッサとやれば良かったのです。
私が、谷口貴康先生から直接聴いたのは、学校を建設するかも知れないから、
今、先に先生を育てていくつもりで、幹部養成学校を作ったのだよ。と。
そのように聞きました。それからいまだに出来てませんけど、どうなっていますか?ね?
でも、まあ、あの2人なら建てないだろうな。<



学校は、建ったほうが良かったのか、建てなくて良かった
のかは、私には、わかりませんが、今は、無理でしょう。

もしも、学校を建てようとしても、今は、建てられないですもの。
信徒数が激減しているということですので、お金がないですし
それに、青年会が、全国的に撲滅しているそうですから、
学校へ、入学する青年も 集まりませんし、ね。
老人学校を 作っても しょうがないですものね。



>生長の家のブロンズ像、
あの扱いも本部で会議があったそうで、
一つは、総本山で、一つは、本部にしますか?
となった時に、清超先生が本部はいらない。
と仰ったので、楠本先生が手を挙げて宇治でもらいます。
と言ってもらってきたそうです。
どこかの古物商が持ち込んで来て購入してください。
と来たそうです。2個持ち込んで来た。と聞いております。
宇治の練成道場玄関の生長の家大神様のブロンズ像は
そのように宇治に来ましたよ。<



初めて聞くニュースでした。
教えてくださって、ありがとうございます。
生長の家も、歴史が古くなりますと、
いろんなことが、あったのですね。


>日本って本当に昔は良い国でした。<


昔、詩人でもあった、
やなせたかし先生(アンパンマンの創始者)が、言われました。
「詩人が何冊も詩集を出しますが、どの人の詩集を
読んでもね、処女出版の、1番目の詩集が 最高にいいんです」
と。

生長の家原宿本部に集まった、われわれも、ほんとうに
出世とかお金には、まったく関係なく、谷口雅春先生も、信徒だと
おっしゃってましたから、私たちも、その谷口雅春先生の後に続いて、
世界の皆様が、幸せになることを目標において、毎日、
私心がありませんように、神様の御心のままに、生きられます
ようにと、念じながら、日々を真剣に祈りながら、生きておりました。

私が原宿本部で、一番親切に、よくしていた人たちというのは、
食堂のおばちゃん、お掃除の2名のおばちゃん、電話交換手の
2名のおばちゃんでした。
つまり、縁の下の力持ち的存在の方達でした。
私には、そういう方達が、とても立派な方達に思えたからです。

それと、本部を退職された富山県在住の
平岡初枝先生にお目にかかりに、私は自費で、上野駅から、夜行
寝台列車に乗って富山県まで行き、翌日、また夜行寝台列車で、
東京に帰ってくるを、3回も、繰り返していました。

それらの、どれをとっても、私の出世には、つながらない行為だったと
今、考えても思います。

谷口雅春先生を見習って、あの頃の私は、とても純粋な気持ちで、
神様を対象に生きていたからでした。

私は、たった8年間でしたが、
原宿本部時代、お山様にも、本部の皆様のどなた様からも
とても可愛がられて愛されていたことが、最高の、あの時のご褒美だった
と、今さらながら、感謝して思っております。

あの光栄な輝かしい時代の体験に背中を押されて、今も生長の家の
信徒らしい生き方をしようと私は、ささやかながら、日々、心がけております。

過去は、ないと、いうので、過去はないのですが、

昔の佳き時代のことを書いたり、たくさんの旧い写真を
貼っても、元信徒様は、いつも好意的に受け止めてくださいますので、
ほんとうに、ありがたく感謝しています。ありがとうございます。




 (59882)
日時:2023年07月20日 (木) 12時23分
名前:元信徒

いえいえ
勿体無いです、こちらこそありがとうございます。
大躍進し、快進撃をしているご本部時代を共有させて頂き、こちらこそ嬉しくて嬉しくて、こんなに有難い事はございません、本当にありがとうございます。

富山県の平岡初枝先生、今も本が出ているか分かりませんが、知らない方にどのような先生でどんな体験をお持ちで、
又、志恩様が夜行に乗ってまで会いにいかれた理由なども書ける範囲で教えて頂ければ有難いです。


鎌田久子先生、最終的に結婚はやめたのでしょうね。

学校は、何か、学校を建てても内部で文部省からいろいろ言われて生長の家の教育が出来なくて、ただの普通の学校になるから建設しても仕方ないとかも聞きました。

創価学会は政党を用いて、政府にいろいろ言える強い立場を持つので、その権力で何でもできたのではないでしょうか。
現実には弱肉強食が勝つのですかね? 創価学会は今でも若い方が多く組織も元気です。
池田大作さんが亡くなっても10年は知らせず組織を維持するみたいな事は2チャンネルに書いてありましたですけど、真偽のほどは分かりません。

同じ宗教ですけど、創価学会は最強ですね。

幸福の科学も太刀打ち出来ない感じです。

なので、学校は生長の家の教えが反映されないなら

やっぱり練成会が良かったですね。


良かったですが、途中から信仰がなくなり環境のみになるとは、、、

両輪で走らないから信徒も大激減したと思います。
でも、生長の家は、ヤクザとつながらず、嫌がらせもせず、真っ当な素晴らしい団体でした。今は分かりませんが。内部にだいぶ変な方がいらして、それを正しく導ける力がありませんからね。 大変ですね。


すみません、又ぐちぐち言いました。

志恩様、宜しくお願い致します。


元信徒様 (59896)
日時:2023年07月21日 (金) 04時27分
名前:志恩

ご質問ありがとうございます。
昨日もでかけていまして、今日も
朝から慶應スポーツクラブへ行きますので、
夕方か夜に、平岡初枝先生についてを書かせていただきます。
写真を先に見つけましたので、写真を先に貼ります。


なお、
平岡先生の著書は、日本教文社から2冊出ていたのですが、
中古では売っていましたが、日本教文社で、今も売っているか
どうか、見ましたが、わかりませんでした。多分、もう売っていない
と思います。

平岡初枝著『こどもを見つめて』 1965.11.10発行
平岡初枝著『しあわせを見つめて』1967.12.14発行



原宿本部会議室にて
昭和38年10月09日(明治24年10月09日生まれ)
平岡先生の誕生日を祝ってワインで乾杯。
東京都の白鳩会の幹部の皆様たちや、婦人局の
藤田経理担当事務員(和服)も、笑顔で写っています。

ワイングラスを持っておられる真ん中のお方が、平岡先生で、
向かって、左(平岡先生の隣)に志恩が写っているのですが、
志恩を入れると、向かって、右端の堀静先生が、スマホの写真に
入らなくなりますので、志恩は写さず、堀先生を入れました。

平岡初枝先生について   (59921)
日時:2023年07月21日 (金) 21時26分
名前:志恩

私が、なぜ、高齢のため、ご自分で退職を選ばれて
退職し、富山県の故郷に帰られた先生のところへ
3度も、夜行列車に揺られながら、お目にかかりに
行ったかという理由ですが、
それは、私が、平岡先生のことが、大好きだったからです。
ただ、会いたくて、行っただけでした。悩み事の相談とか
そういうことは、何もなくて、ただ、お目にかかりに行きたかった。
というのが、3度も、東京から富山まで行った理由です。

平岡先生のどこに魅力を強く感じていたかと言いますと
普通女性というのは、自分のこととか、自分の身内のことしかに
頭が回らないものですが、平岡先生は、愛が深くて心が豊かな
お方でしたから、お話を聞けば聞くほど、魅力を感じる人だったから
です。個人としての平岡先生も、お顔はぶっちょこでしたが、心は
とてつもなく美しい人で、多くの信徒さんから愛されていました。
私も平岡先生を愛する一人でした、

平岡先生というお方は、日本全国の女性が、より幸せに生きることや
貧しい人たちでも、公平に医療が受けられるようにとか考えられて、
それらを
ご自分で率先して、低額で受診できる病院を作り、経営されていたり、
当時は、日本の女性は、参政権がなかったのですが、婦人運動家の
平塚らいてう氏とともに、平岡先生は、大変雄弁家でしたので、
書記長として、運動に参加し、その結果、日本の女性に
参政権を与える、という成果も出してこられた女傑のようなお方でした。

平岡先生は、その昔は、今で言う、熱心な社会運動家だったのです。

しかし、平岡先生は、ある時、重い病に倒れました。
当時は、難病といわれていた 「脊椎カリエス」になってしまったのです

そして、あるきっかけで、大阪の阿倍野道場、直属の本部講師・寺田繁三先生
のご指導を受けられ、「生命の實相」を読み、
持病だった「脊椎カリエス」という難病が、神癒により完治してしまったことは、
平岡先生の口から直に私は、お聞きしたことがございます。

その寺田先生の勧めで、平岡先生は原宿本部へ奉職されました。
そして平岡先生は、本部ご在職中も、本部を退職後、生まれ故郷の
富山市へもどられて地方講師として、再び光明化運動に挺身されていらした時も、
亡くなるまで生涯、「脊椎カリエス」が再発されたことは、ありませんでした。


※ 余談ですが、平岡先生は、ご自宅のすぐ近くにある
小さい神社の神主さんでもあられました。


平岡先生の亡き娘さんも熱心な生長の家でしたが、
お孫さんご夫婦も、勿論、生長の家の信徒でおられました。

平岡先生のお孫さん(男性)が、東京の早稲田大学在学中に
飛田給の練成会を受けた時、私の夫も大学生でしたので、
同じ時に、一緒に飛田給練成会を受講し、友達になったという話を、
私は、結婚後に、亡き夫から聞きました。
  
  


つづき (59922)
日時:2023年07月21日 (金) 22時07分
名前:志恩

【平岡初枝先生】とは、
明治24年、富山市に生まれる。
明治42年同県立富山高等女学校を卒業すると
富山県内の小学校で教鞭をとり、昭和5年3月まで
教育に情熱をそそぐ。
昭和7年9月から昭和18年まで大阪市内で興亜病院を経営。
治療費など破格の安価で奉仕をする。
終戦後、富山市で平和建設婦人同盟を組織し、
戦後の国内処理に力を尽くす。
その後、第一次富山県教育委員に当選。
生長の家本部講師、本部理事、全国白鳩会副会長として
婦人運動、教育運動に活躍。
昭和53年11月29日’87歳でご逝去。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ちなみに、ともに婦人運動をしていた 平塚らいてうさんは、
本名を平塚明(はる)と、いい、ペンネームは、平塚明子、
平塚雷鳥ともいいますが、
頭注版『生命の實相』の第26巻に載っているお方でした。


日野君のブログより一部抜粋ー

 谷口雅春先生の主著である『生命の実相』頭注版第26巻
「教育実践篇下」の第四章「宗教教育をいかに施すか」
という座談会形式の一篇にも、
平塚明子の名前で平塚雷鳥が登場している。

 そこで、宗教とは何かと思うのか、との
谷口雅春先生の問いに対して、平塚雷鳥はこう答えている。

平塚――言い方によって言葉はさまざまにどうでもいいだとうと思いますが、
ただ神とともにあるそれが宗教だ、そういう言葉を使いませんでも、
体験的自覚として、いろいろ「個々のもの」が、「渾てのもの」と一つ
に融合(とけ)たといいますか、「個」というものと「全体」というものが
一つになって、一つの中に「全体」がありまた全体の中に「個」という
ものもあるというふうな、その意識といいますか。
谷口――なるほど……
平塚――結局、それは神とともにある、といっても異存はございません
けれども、ただ「個」と「全体」とが……
谷口――神という名前をつけなくても、生命でもよし、大生命でもよし、
あるいは、仏性でもよしですか。
平塚――なんといっても、すべてのものが一つに帰したという意識でございますが。
谷口――大調和の渾然とすべてのものが一つであるという自覚がこれが宗教と
いわれるのでしょう。
平塚――そうおっしゃっても結構だと思います。
いろいろ言い方がございますが、どの言葉を選んでも異存はないのでございます。結局そういうふうに自分が得た体験が宗教だと思っております。
(谷口雅春『生命の実相』「頭注版 第26巻」114〜115頁)

 この座談会は戦前に行われたものであり、
当時は谷口雅春先生も平塚雷鳥もどちらも権力に弾圧される
側としての連帯意識もあったのであろうが、
平塚雷鳥が思想的にエマーソンや谷口雅春先生の光明思想に
近かったのも事実である。
しかしながら米田氏のブログにもある通り、
戦後フェミニズム活動家として活躍していく平塚雷鳥は
この保守派とも親交を深めていく姿勢が「保守反動」であるとして
他のフェミニストから批判される理由となっているhttps://note.com/tomokihino/n/n18b233ce1f76
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

原宿本部時代の先生方の年齢 (59924)
日時:2023年07月21日 (金) 22時42分
名前:志恩


昭和40(1965)年
----------------------
谷口雅春先生  71歳
谷口輝子先生  69歳

谷口清超先生  46歳
谷口恵美子先生 42歳

谷口雅宣先生  14歳(中学2年生)
谷口貴康先生  10歳(小学5年生)


山口悌治先生  61歳
藤原敏之先生  57歳
楠本加美野先生 43歳
野木清司先生  36歳
渋谷晴雄先生  41歳
佐脇嘉久先生  40歳

平岡初枝先生  74歳
            
 
(志恩は、23歳)


「坐亡」 (59925)
日時:2023年07月21日 (金) 22時48分
名前:志恩

旧時掲示板より
本流対策室/5

3590 :志恩:2013/12/30(月)
皆様へ

楽天ブログに
「山岡鉄舟の臨終の見事さ」という文章が載っていました。

鉄舟は、涅槃の時を悟り、身を清めてから正座して、
家族や、彼のもとを訪れた勝海舟に穏やかに 別れの言葉を
告げ、その後、「坐亡」されたのでした。

鉄舟は、胃癌だったそうです。
東郷平八郎は、喉頭癌だったとあります。

昔は、鎮痛剤も今のようには 進歩していなかった
時代でしょうから、武士道は、我が身を襲う 末期癌の
痛みにも 強かったのでしょうか。

すごいことですね。

この鉄舟の武士道は、仏教から得た、とありました。
http://plaza.rakuten.co.jp/jifuku/8001/


生長の家にも、
使命を果たされた後、穏やかに「坐亡」された
本部講師がおられましたことは、
生長の家のお方ならどなたでもご周知のとおりです。

榎本恵吾先生が、そうでした。
「坐亡」されたお方でした。

榎本恵吾先生は、
平成17年7月12日、

3時まで神想観の先導をされ、
部長会議にも出席され、その日の仕事を終えられた
榎本先生は、ご帰宅。
不調を訴えられて、市内にお住まいの三女・四女 を
呼び寄せられ、すぐに一子奥様もご帰宅。
ご家族と居合わせた藤原職員とで聖経を読まれました。
          
その後、駆けつけた祈願部の畑本職員に
翌日の神想観先導に関する指示をし、
「聖経を読んでくれるかね」と自宅に招き入れた。
そこに、なんと服部仁郎先生自筆の人型が届いた。

実は、榎本先生はお若い時に服部先生に学ばれ、
先日の教修会で 服部仁郎先生自筆の人型を
持っているという古くからの信徒さんに、
コピーさせてもらう為に送ってもらう事を 
お願いしておいたのだそうです。

しかし送られてきた日、
時間はまさに、その日の その時間であった。
榎本先生は、
「祈願に携わる者にとって こんなに喜ばしいことはないねぇ」
と、心から喜ばれたそうです。

そして引き続き聖経「甘露の法雨 」を家族とともに読誦。
最後に「實相を観ずる歌」を皆で音読。
その直後、姿勢を正されたまま、『坐亡』されたのでした。

ちなみに、
徳久克己本部講師は、現場を離れて、1時間後くらい
に亡くなられておられるそうですし、
藤原敏之先生も、ご自宅で眠るように大往生されてますし、

平岡初枝先生も、そうですし、

私の存じ上げている人類光明化運動に生涯挺身された
大先輩の生長の家の先生方は、ご臨終の折りも、
皆様 見事でいらっしゃいました。

やはり、生長の家でも、仏教でも、キリスト教でも、
道を極めた方々は、ご臨終の時でも、共通している見事さが、
ございますね。

平岡先生と仲良しでいらした堀静先生(女性、本部講師)のこと (59926)
日時:2023年07月21日 (金) 22時57分
名前:志恩

昔,昔、本部会館のすぐ前の質素なアパートに、平岡先生と堀先生は、
2階と1階に、お住まいでした。

平岡先生は、アパートの2階。
堀先生は、1階にお住まいでした。

私は、平岡先生をとても慕っておりましたが、堀先生と平岡先生とは
仲良しでしたので、堀静先生とも、私は時々お話させて頂いていました。

当時、堀先生は、個人指導部の先生でいた。

堀先生は、生涯独身でいらして、元は看護婦さんだったとお聞き
しています。

私は、何かの折りに、堀先生の、そのアパートのお部屋に、
1晩泊めて頂いた事がありましたが、
堀先生は、早朝に起床され、神想観をすまされたあと、
上半身裸になられて、なんと「たわし」で、全身を
マッサージされてました。
それは、日課にされてると、うかがいました。

そのせいでしょうか、
堀先生は、病気1つ無く、全身健康体でいらっしゃいました。

のちの話では、堀先生は、退職されるとき本部から戴いた
100万円を全額、本部に寄付されて故郷に帰っていかれた
そうです。

当時の100万円は、今に換算すると、
4.3倍だとネットに載っていました。

高潔で可愛くて素敵な本部講師のお一人でいらっしゃいました。


夫もたまに来ますが、最近のは、夫ではないと思います。 (59928)
日時:2023年07月22日 (土) 06時01分
名前:志恩

シオの部屋より転載

私が原宿本部に奉職していた時、
私が尊敬申し上げていて、親しくしていて、
可愛がってくださっていた本部講師の先生方は
皆様、私よりも、20歳も40歳も年上でいらしたので、
あの頃は、大先輩のそういう先生方の方が、私よりも
先に死ぬ、と単純に 私としては、考えておりまして、
私は、4名の本部講師のお方に、
"死んだら私の守護霊になっていただきたい"、と、まじに
お願いしてございます。
どなたも、なりますよ、とはお答えくださいませんでしたけれど。
私の守護霊になってくださいね、とお願いした先生方は、今、思えば、
次の4名の先生方でした。

山口悌治先生
佐脇嘉久先生
渋谷晴雄先生
平岡初枝先生

ですので、真顔でお願いしてござますので、この中の
お一人ぐらいは、ほんとうに"私の守護霊"になって
くださっているといいなぁ、
というのが、私の高望み的希望的観測です。

原宿本部企画局(のちに教化部長)林光彦 本部講師著『光がこだまする』1987.1.1(日本教文社発行) (59929)
日時:2023年07月22日 (土) 06時15分
名前:志恩

林光彦著『光がこだまする』(P83〜87)より

【魚は呼べばいい】

かつてニ百カイリ制限がしかれ、
漁業の関係者たちが嘆いていたとき、
谷口雅春先生は、いとも軽くおっしゃったことがある。

「魚は呼べばよいのだよ」と。


【マグロは『甘露の法雨』が大好き】

それではここで、マグロの大群も、
聖経『甘露の法雨』が大好きだという、
愉快な話をご紹介しよう。

昭和57年の初夏のことだ。

漁港で有名な鳥取県の境港では、
当時不漁つづきで、漁民やその家族、
水産関係者の人たちがみな、頭をかかえていた。

そこで、生長の家の誌友が揃って、
誌友会場や、由緒ある山の上の大湊神社で、
集団早朝神想観を実修した。世界平和は勿論、
産土神社であるので、
その地域の人々の平和と幸福、
それから大漁祈願や繁栄祈願も実修した。
毎朝である。鳥取県の教化部でも合わせて、
そのことが祈られた。

やがて、7月2日、ふってわいたような
ビッグニュースがとびこんできた。

日本海の赤碕沖に、
とつぜんマグロの大群が押し寄せてきたというのである。
マグロといえば、これまで日本海でとれたことがない
のである。
それなのにマグロがやってきた。

しかも、その大群に出逢って、
いちはやく水揚げしたのは共和水産の船であった。
社長の和田義孝氏は長年の聖使命会員。
第一報をうった無線技師の柏木さんは家族ぐるみの生長の家。
船にも『甘露の法雨』がお護りとして飾られていた。

実は、柏木さんの奥さんも祈りのメンバーの一人であった。
ご主人が漁に出かけれる6月30日の朝、
奥さんの明子(はるこ)さんは、
ちょうどお風呂に入っていた。

玄関を出ようとするご主人のけはいを感じた明子さんは、
あわててとび出し、
「お父さん、一寸待って! これもっていってよ、忘れないでね! 」
といって、
裸のままとびだし、お守り『甘露の法雨』をご主人に手渡した
のだった。
ご主人も思わず笑いながら、出かけた2日後の朗報である。

境港は、ときならぬマグロの大漁で、
おおいに賑わった。なにしろ35年ぶりの豊漁。
その上、日本海にはいないはずのマグロの珍客、
それも大群で ―― というわけで、
テレビや新聞、ラジオもこのニュースでもちきりになった。

アフリカ沖のマグロと違い、
近海ものの本マグロは値が高い。
一匹二十万円前後、それが千本も水揚があったのだから、
しめて2億円以上の売上げだ。
境港では、マグロを解体する専門家がいないので、
急遽、大阪や焼津などの各地から
呼び寄せての売りさばきであった。


【龍宮からのプレゼント】

ところが、この日かぎりかと思っていたら、
なんと次の日にも奇蹟がやってきた。
しかも当ったのが共和水産の船。
前日につづくマグロの大漁で、この日もまた
1億5千万以上の収入であった。

二日続きの、ときならぬ豊漁に、
さすがの海の男たちも、初めてのことで、
「信じられない」と語っていた。

毎日、産土の神を通して、大漁祈願をしていた
生長の家のメンバーは、大喜びである。
生長の家の神様は龍宮の神様である。

これは神様の龍宮からのデラックスなプレゼントだ
というわけで、手放しの歓びよう。
祈りは必ず実現するということを
みんなが体験したのであった。


【還ってきたマグロの大漁】

さて翌年のことである。
諺にも、柳の下にいつもドジョウがいるとはかぎらない、
と言われるが、なんと次の年にも、
その奇蹟が訪れたのであるから、
なんとも不思議というよりほかはない。

しかも、これを射とめたのが、
これまた和田義孝氏の共和水産の船団であった。
大量の無線を打ったのは柏木さん。

マグロは、よくよく『甘露の法雨』がお好きなようだ。

7月7日の七夕の日。
本マグロ約千匹、一匹平均約百キロ前後
しめて約1億5千万であった。

他の船団もチャンスを狙って遊弋(ゆうよく)していたが、
第2回目の大漁が、名和の御来屋(みくるりや)沖で上がった。
この日も共和水産の船団が発見し、約1億円といわれた。

”還ってきたマグロの大漁”に、
幸運つづきの境港市は、喜びに湧きたった。
2年続きのマグロフィーバーに、市をあげて
わいたのも無理からぬこと。
全国的にマスコミの絶好の話題となった。

生長の家の祈りのグループは、
これまたおどろいて、神に感謝を捧げた。
ビッグな大漁のニュースも、決して偶然とは思えなかった。

生長の家では
「環境はすべてこころの影」と教えられている。
湧いてくるもんだと、
境港の浜ッ子誌友さんたちも、
デッカイ体験に目をぱちくり。

宇宙は一つ。
呼べば、答え給うのが神の世界である。
幼な子のごとき無垢なる心をもって神に祈るとき、
供給の扉は我らの前に無限に開かれるのである。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
林光彦先生は、この著書の他に次の書著も出版されてます。
『心と光のプレリュード―巨(おお)いなる意識革命 』単行本 –
1994.4.7(たま書房発行)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

原宿本部時代の志恩の日記より (59930)
日時:2023年07月22日 (土) 07時03分
名前:志恩

昔の志恩の日記より


あの頃は、生長の家の真理をより深く学ぶためにも
光明本も、皆で読み、研鑽しようという機運に、
満ちていました。

以下は、原宿本部に近い港区青山にご自宅があった
企画局の佐脇嘉久先生宅で、
佐脇先生の奥様も交えて、

気の合う少人数の人たちで、
”天皇陛下にまつわる”ことを学ぶ
読書会を開いた日の日記。

佐脇先生と奥様は、
生長の家青年会活動で 知り合われたそうです。
奥様は青山学院大学英文科卒、
鎌倉のいいとこのお嬢様でした。

佐脇嘉久先生は、
早稲田大学(政経学部)と国立音楽大学(ピアノ、作曲)
の二つの大学卒、
ピアノの演奏もお上手で、お声も美声で、歌もお上手で、
原宿本部では、聖歌隊の指揮者も されておられました。

佐脇先生宅での少人数制による読書会は、
月一で 開催されていました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

昭和40(1965)年8月25日(水)晴れ

本日の佐脇先生宅での読書会
午後5時〜8時半

(本部の仕事は、午後4時半で終わるので
 本部職員の参加者は、一緒にタクシーで移動。
 夕食は、佐脇先生の奥様の手料理が、 
 毎回、振舞われた。参加費無料。)

本日のテキストは、
 昭和40(1965)年に文芸春秋から出た単行本

入江相政著 『濠端随筆』。(ほりばた ずいひつ)

入江相政氏は、昭和天皇の侍従を長く勤めた人物。
話題は多様で、明治天皇のこと、昭和天皇が著作を
出された際の校正の大変だったこと、
えびいもの美味しさ、戦後すぐの行幸と鉄道事情など。
天皇陛下の話題が多岐にわたって、書かれていた。

本日の出席者は、佐脇先生ご夫妻、林光彦さん
黒木さん、私

入江氏の趣味の多さには、驚いた。
人間的魅力にも溢れていることが読んでいてわかる。
しかし、趣味が多いから、人間的魅力が溢れるとは
限らない。

_______________________________
先に、>昭和40(1965)年8月25日(水)晴れ
本日の佐脇先生宅での読書会<

というのを書きましたが、

話が前後してしまいますが、日記を見直しましたところ、
その日よりも
7ヶ月前の1月に
なんと、ハワイへご赴任される前の、
”渋谷晴雄先生”を 特別ゲストにお招きしての、
佐脇先生宅
読書会が行われていたのでした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 昭和40(1965)年1月24日(日)晴れ

本部の仕事終了後、午後5時から8時半、
佐脇先生宅で読書会が行われた。

本日の読書会の特別ゲストは、渋谷晴雄先生。

数日前に、私が、ダメもとで渋谷先生に
「読書会に来てくださいませんか?」、と
お願いしてみましたら、
快く即答で
OKと承諾してくださったのでした。 
ダメもとで聞いてみるものですね。

本日の参加者は、
ゲストの渋谷先生の他は、
佐脇先生ご夫妻、林光彦さん、黒木さん(女性)、私。

テキストは、渋谷先生が、昭和37(1962)年に
文理図書出版社から自費出版された 
渋谷先生ご自身の詩集『噴水』。

その詩集は、渋谷先生が、
われわれ参加者全員にプレゼントしてくださった。

しかし、この詩集の詩は、
どれを読んでもわれわれにとっては
難解だった。

たとえば
一つだけ、載せてみましょうか。

   題・ 『噴水』   P.19

ほとばしる巨きな力が
すみずみまでも わたしをつらぬき
くりひろがる大気のなかに わたしを保ち
かつ 浮ぶ無数の微分を ひとつに集め支えている

わかれゆく昂まりに 樹立は映り
まっ青な空は おちこみ
泡立つばかりのはげしさが いつまでも一定の高さを占める
みちながら刻々に うしなわれてゆく
めくるめく果てもない むなしさ

消えながら
サファイアの弓なりに まどろみ
仰向いておちてゆく ながれ
深いおもてに わずかに記憶のように 水紋(みなわ)を広げて...



こんな、渋谷先生の難解な詩だけでなく
渋谷先生の解説も、超難解な言葉の連続だったので、
頭の程度が、渋谷先生のように、東北大学経済学部を
ダントツ一番で出た人間とは、私の頭のつくりは異なるので、
残念ながら、私には、さっぱり わかりませんでした。

わからなかったのは、私だけかと、落ち込んでいましたところ、
他の、出席者の皆様も全員、わからなかったという
感想を、後で 私は聞きました。

(この日は、読書会以外の話も たくさん いたしました。
個人情報のことが、たくさん日記に書いてあるのですが、
それは、省略します。)

(今日、イギリスのチャーチル首相が死去された。)


志恩ー

実は、
渋谷先生と、
ここへは書いていますが、この頃は、
佐脇先生は、本部講師でいらっしゃいましたが、

渋谷先生は、
この年の8月に、ハワイに赴任されるときに
本部講師になられましたので、
この時は、まだ渋谷先生ではなく 
渋谷さんだったのです。

私は、後日、渋谷さんに本部でお会いしたときに、
読書会に来てくださったことに対しては
お礼を言いましたが、
私より 18歳も年上でいらっしゃる
渋谷さんに、次のように 生意気にも言いました。

「あのね、話をする時、あんな難しい言葉ばかり
使って喋ったら、誰も わからないじゃん。

佐脇先生も、林さんも言ってましたよ。
詩も、難しくて、わからなかったけれど
渋谷さんの話も難しすぎて、何に言ってるんだか、
全然わからなかったって。
私も、さっぱり、わからなかったけれど。

だから、渋谷さんが、もしも、本部講師になって、
みなさんの前で、お話する時は、
あんな難解な言葉ばかり使わずに、
もっと、みなさんがわかるような、易しい
言葉で、話さなきゃよ、だめよ!! (-_-💢)」と。

その後、昭和40年8月に
渋谷本部講師になられた渋谷先生は、
ハワイに派遣され、
ハワイ教化総長のお役目を務め、2年後に
帰国されて、原宿本部に戻られたご講演の時、
私も、たまたま聞きましたが、
易しい言葉を 使って 、信徒の皆様に、
ご講話されてました。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
前にも書きましたが、
佐脇嘉久先生は、
日本教文社から二冊の著書を出版されてます。

『国と人のロマンを語ろう』
『やさしく書いた日本の神話』

渋谷晴雄著『光と風を聴く』1977.12.10(日本教文社発行) (59933)
日時:2023年07月22日 (土) 08時53分
名前:志恩

本書は、現代文明超克の道を、
タゴール、リルケ、小林秀雄などの
世界的な詩人、思想家の魂の深みに
分け入って、宇宙意識の夜明けを持ち
来たらそうとする名著。
谷口雅春師 絶賛推薦の書。

新教連の野木清司先生に師事して油絵を習っていらした渋谷晴雄先生の奥様。 (59938)
日時:2023年07月22日 (土) 11時36分
名前:志恩

渋谷晴雄先生は、昭和40年8月に
ハワイの教化総長としてハワイへ単身赴任されてましたので、

渋谷先生の奥様は、昭和41年の5月までは、日本にお一人で
いらっしゃいました。

その頃、渋谷先生の奥様は、新教連の事務局員として
働いていらっしゃいましたから、
野木先生は新教連の講師でいらしたこともあり....、
野木先生を非常に尊敬していた渋谷先生の奥様は、
野木清司先生に師事して、油絵を習っておられました。

野木先生と私は、家へ帰る方向が、偶然同じでしたので
原宿本部から、時々、二人で同じ電車に乗り、座席に座れる時は
二人並んで座り、いろいろなお話をしながら帰っていました。
乗り換える駅も同じで、乗車時間は1時間半ぐらいでした。

その後、私は結婚が理由で、本部を 退職しまして、
結婚後、私は、三人の小さい自分の子供たちを引率して
新教連主催の河口湖練成道場での夏の練成会に参加した時、
野木先生は講師として、参加されておられました。

あの時、野木先生は私に、こうおっしゃいました。

「僕は、事情があって生長の家を去ることになりましてね。
ですから
この練成会が、僕の最後の練成会なんです。」
と、おっしゃいました。

野木先生は、ご自分のご講義の担当ではないプログラムの時も、
大道場の一番後ろのところに、正座されて、真摯な態度で
しみじみとした表情で、全部を通して 参加されておられました。

あの時のことを、私は、今、懐かしく思い出しております。

その練成会の時、早朝に、
富士山の五合目まで皆さんでバスで行く行事が
あったのですが、その時も、
野木先生と私は二人ならんでバスの席に座りまして、色々と
お話していました。

それからのちに、野木先生が、古事記を学ぶ和耕軸を主宰者
になられて、されていた時のことですが、

日吉のうちのすぐ近くに
私よりも9歳年下の女性で、元、新教連の事務員をされていた
ものすごい野木先生のフアンのお方がいましてね、
そのお方が、私に和耕軸のことを
教えてくださいましたので、途中から私も会員にさせて
いただいておりました。

以上のような ご縁で、私は、野木清司先生が
亡くなられるまで、野木先生との交流がございました。

尚、和耕軸は 野木先生が亡くなられた後は、ありません。

野木清司先生は、最後の最後まで
谷口雅春先生のことをご自分の唯一の師として
全身全霊で尊敬されておられたお方です。

いまでは、野木先生のことは、ご存知ない方も
多いでしょうけれど、

生長の家の たいせつな回顧録の一つとして
書かせていただきました。

全然、興味のないお方は、読まないでください。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
昭和40年8月22日、
渋谷晴雄先生がハワイへ羽田飛行場の
国際線で、飛び立たれる日、
その朝、東京は台風に直撃され暴風雨の日でしたが、
原宿本部職員の有志たちは悪天候にもめげず
マイクロバスをチャーターして、
こんなに多くの人たちが、
渋谷先生をお見送りに行ったのでした。
そして、台風の中、夜8時、飛行機は飛び立ちました。


羽田飛行場にて
渋谷先生と、お見送りをする本部職員の有志の皆様との
記念写真。もちろん、私も行きました。

この日、お見送りに行った人たちは20名以上もいました。
この当時の本部職員の皆様も、心のあたたかな人たちでした。

渋谷晴雄先生は、昭和40(1965)年8月は単身でハワイへ赴任されました (59939)
日時:2023年07月22日 (土) 12時16分
名前:志恩

渋谷先生の奥様は、翌年の5月に
渋谷先生の待つ、ハワイへ旅立たれました。





これは、単身で、羽田飛行場の
搭乗口へ向かう、渋谷先生(41歳)です。

原宿本部時代の谷口雅春先生が総裁先生でいらした時代は (59950)
日時:2023年07月22日 (土) 17時11分
名前:志恩

私の知る限りでは、

谷口雅春先生は、ご自分の部下たちに対しては、
深い愛情を持っていらして、排除したり、左遷したり
されたことは、いっさいありませんでした。

原宿本部時代の昭和41(1966)年の日記より (59959)
日時:2023年07月22日 (土) 19時36分
名前:志恩

【昔の志恩の日記より】

__________
昭和41(1966)年4月20日(水)

新宿の京王デパートで、明治、大正、昭和における
知名人『伊藤博文、西郷隆盛、夏目漱石、他の書道展』
を開催しているというので、本部の仕事が終わった後、
佐脇嘉久先生と林光彦さんと私の三人で観に行った。

それぞれ とても個性的な筆跡で素晴らしかった。
デパートを出た後、
新宿の”ときや”という喫茶店に三人で寄って、
夜七時頃まで、約1時間ほど、お話をした。
佐脇先生は、聖使命新聞の編集もされてるので、
聖使命新聞の記事についてのお話をされた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

昭和41(1966)年4月25日(日)晴れ

ここ二週間くらい、お昼休みの12時から12時半まで、
地下においてある卓球台で、『卓球』を、
佐野一郎さん(当時31歳)、長嶋大さん、と私は、やっている。

私は学校時代は、卓球部にいて、対校試合にも出ていた
くらいで、卓球の選手だっだから、卓球は強い。

佐野さんも、長嶋さんも、卓球が とても強くて うまい。

勝負は、勝ったり負けたりだったが、
スマッシュしても、途切れず
続けて 打ち合える のが楽しい。

佐野さんが
「シオンちゃんは、ラケットを振るフォームができてるし、
フォームがきれいだね。」
と私を、ほめて下さった。
佐野先輩に そんなふうに ほめられて、嬉しかった。

それから、急いで、「白鳩の間」に移動し、
田島さん(聖使命局)、黒木さん(企画局)、私の三人の女性たちで、
神想観の実習をした。これも、最近、毎日、続けている。
三人でしたほうが、一人でするよりも、不思議と真剣にできる。

夕方、また、黒木佳子さんと私の二人で、「白鳩の間」に行き、
祈り合いの神想観をした。

______________
※佐野先輩のプロフィール

本名・佐野一郎
昭和10(1935)年 宮崎県に生まれる。
昭和28年 生長の家の御教えにふれる。
昭和37年 「理想世界ジュニア版」初代編集主任。
昭和45年 本部講師を拝命。
昭和49年 栄える会中央部初代事務局長に就任。
昭和56年 山梨教区教化部長、長野教区教化部長、福井教区教化部長を経て、
平成17(2005)年 生長の家本部練成道場総務
     ⬆️(上の情報は)
佐野イチロー著『ユーモア先生起死回生の旅』より

2019年1月で、生長の家本部練成道場総務退任

元信徒様へ 今朝9時に神戸市在住の阪田先生にお電話して聞きました。 (60004)
日時:2023年07月23日 (日) 19時29分
名前:志恩

先日、元信徒様が、
基礎文化研究所って、どんなことを研究されてたんでしょうね。
と聞かれましたので、

私の、原宿本部時代の時の、山口悌治先生が局長で
その部下に、佐脇嘉久先生と久永先生がいらした頃の
基礎文化研究所のされてることは、おぼろげながら覚えて
いましたが、私が退職した後のことは、わかりませんので、

志恩が退職後、山口先生に基礎文化研究所に来るように言われて
行ったとおっしゃる阪田先生は、山口先生とともに、基礎文化研究所で
どのような研究をされていたのか、今朝、阪田先生にお電話して、聞いて
みました。

阪田先生の話では、阪田先生の時代の基礎文化研究所は、
元は、基礎文化研究所にいた
佐脇先生は、その時は、長野県の教化部長になっていて、久永先生は、
相愛会の方へいらしていたそうです。

で、山口先生の部下として基礎文化研究所に行った阪田先生は、その時は
山口先生に、次の3つのことをやるように言われたそうです。

@大東亜戦争の戦場時代の実態
A戦況下の実態
B中国の問題

そして、阪田先生は、@Aを熱心に調べているうちに、
基礎文化研究所では、『生長の家の五十年史』を山口先生を
編纂委員長にして、作ることになった。

すると、阪田先生は、山口先生に、
「阪田君は、通史を担当してください」と言われたので、
阪田先生は、通史を、一所懸命に研究したそうです。

そんな時に、山口先生は理事長にもなられ、山口先生はすごく多忙になり、
体調が悪くなって、理事長になって間もなく昭和53年7月16日に亡くなられた。

でも、阪田先生は、山口先生に言われた通り、『五十年史』の完成を目指し、
昭和55年に、五十年史を、やっと完成することができたのだそうです。

以上が、阪田先生が、基礎文化研究所時代にやっていたことですと、教えて
くださいました。


ですから、その時代時代で、基礎文化研究所で研究することは、
変遷があったということですね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
山口悌治先生のこと

ちなみに、山口先生が生長の家教団の理事長になられた時、
生長の家は、参議院全国区に、生長の家独自の立候補者をたてて、
全国の組織をあげて、当選に向かっての選挙運動もしている時期
でもありました。

で、その時の私は、
原宿本部は、とうに退職し、既婚者になっておりまして、
日吉に住んでおりましたが、
山口先生とは年賀状のやり取りとか、たまーにでしたが、
文通もしておりましたので、
山口先生は、私の住所をご存知でいらして、

ある日、山口理事長先生から、私宛に、お手紙が届きました。

手紙の内容は、
自分、山口のために、確かに、候補者に投稿してくれる人、30名を、
新たに、作ってくれませんか
という私に選挙活動の依頼の手紙でした。

それは昭和52年の頃だったと思います。
その頃私は、ご近所のiさんというお宅の生長の家誌友会に属しており、
そこの家の誌友会にお手伝いに行ったり、そこへ家族全員の聖使命会費も、
払っていて、
すでに、選挙の票集めは、済んだところだったのですが、

ほかならない山口先生の依頼にお応えして、新しい人、30名、
頼んで歩いて、やっと作りまして、その氏名、住所、電話番号を
書いた書類を、山口先生に返送したことがございました。


山口悌治先生は、
私の知る限りでは、表立って運動を推進するタイプのお方ではなく、
コツコツと、地味に研究したり、調べて、本にあらわすというような
学者タイプのお方でいらして、
基礎文化研究所の所長さんが、一番、向いているお方でいらっしゃい
ました。

ですから、苦手なことをさせられて、
相当、ご本人はストレスがあったのではないかな、
と、亡くなられた報を聞き、勝手に思っておりました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


【山口悌治先生 プロフィール】

明治37(1904)年、神奈川県に生まれる。早稲田大学独文学科中退。
昭和10年、生長の家本部に勤務。
同23年、株式会社日本教文社常務取締役編集部長。
同27年より宗教法人生長の家本部理事を拝命、
同29年、新企画功労賞を受賞。
この間、財団法人世界聖典普及協会理事を兼務。
本部総企画局長、基礎文化研究所長を経て、
同51年生長の家本部理事長。同53(1978)年、74歳で、昇天。

著書に『万葉の世界と精神』前・後篇と
『中のこころ』『いのちを詠ふ』(日本教文社)がある。


⬆️の続き (60027)
日時:2023年07月24日 (月) 03時39分
名前:志恩

7月23日 (日)朝9時に、阪田先生にお電話しまして
約40分間ほど、いろいろな、お話をさせていただきました。

重要なお話も、いくつも 阪田先生は私にしてくださいました。
ですが、トキ掲示板に書いてもいいかな、と思うことだけ、
書かせていただきます。

このたび、私に阪田先生が送ってくださいました『光明の音信』
第27号には、
3頁から4頁にわたり、
【”大和の国の神示”と「生長の家社会事業団の設立」】と題されて、
阪田先生は書いておられます。

ここで裁判関係のことを書きますと、私が今度は、社会事業団の
久保理事長から、名誉毀損の訴訟裁判を起こされると嫌ですので
ここへは、裁判関係のことは書くのは、やめますが、

阪田先生は、本部在職時代は、長崎総本山の温故資料館の館長も
されておられた時期がおありになり、その頃は、長崎の総裁公邸に
お住まいでいらした、谷口雅春先生、輝子先生とは、まめに交流が
おありになったそうです。

それでそれは、昭和57年の12月のことだったそうですが、
阪田先生は総裁公邸にいき、応接室にて、谷口雅春総裁先生
ご夫妻と、お目にかかった時、今度、発行される谷口雅春著『大和国日本
占領下の啓示と その後の論策』の阪田先生が、雅春先生に提示された
”はしがき”の案を取り入れてくださるという話になって、正直、これは大変な
ことになったと、阪田先生は思われたそうです。

私は、この本を読んでいませんでしたので、Amazonコムへ
中古本を注文中です。


つづく

阪田成一先生について (60028)
日時:2023年07月24日 (月) 04時12分
名前:志恩

阪田先生ー
>今、人類はかってない一大変革の時にあります。
それはこれまでの唯物論的世界観から唯神実相論への
近くの転換期にあるということです。

それ故、今ほど「生長の家」が必要とされている時はありません。
それには生長の家の本来のあるべき姿を、あるべきところに
あらしめるとともに「生長の家」を伝えていかなければなりません。

そのために五十年史の編集者の一人として、この度、
『光明の音信』紙を発行することにいたしました。<




阪田先生は、かって、『生長の家五十年史』の編纂
『谷口雅春先生と生長の家人類光明化運動の五ヵ年の軌跡』を
編纂されました。

生長の家教団の現役時代は、

本部講師、生長の家本部理事、総合企画局局長、
基礎文化研究所の所長、青年会全国会長、
教化部長(9年間)、
飛田給道場の総務(4年4ヶ月)、
九州本山の温故資料館の館長、

など、数々の要職を勤められまして、
山口悌治先生、徳久克巳先生からも、絶大な信頼を受け、
なくなられた森田先生とは朋友の仲でした。

社会事業団の図書館には、
ご自分のあまたある谷口雅春先生に関する蔵書もたくさん
寄付されておられるお方です。

その社会事業団にとって、
大恩あるお方が、生長の家本部を引退されたあと
生まれ故郷の兵庫県神戸市に戻られましたが、

阪田先生は、現役引退後も、
谷口雅春先生のご恩に報いたいという思いで、
個人で自費で、会報である「光明の音信」
(枚数2枚、4ページ)を出され、
それを無料で知人友人に送付されておられます。


(今回は、裁判関係のことは、私は書きません。)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
志恩ー

阪田成一先生が、幹部候補生として総合企画局へ
奉職されたのは、昭和43年4月のことでした。

志恩が、原宿本部を結婚のため、やめたのが昭和44年
ですから私は、阪田先生の亡き奥様ののりこさまとは
お友達でしたので、原宿本部内でお話しして、よく存じ
上げておりましたが、昔の阪田先生とは、お話したことは
なく、すれ違う時、合掌してありがとうございますと、ご挨拶
したことしか、昔の記憶はありません。



⬆️の続々、阪田先生にお電話してお聞きしたことの続き (60033)
日時:2023年07月24日 (月) 08時13分
名前:志恩

阪田先生の別のお話によれば、
谷口雅春先生の菩提寺は、兵庫県神戸市にある
「願成寺」なので、年1回は、必ず、「願成寺」に
参拝にいらしていたそうなのですが、
その「願成寺」の御住職さまに阪田先生が直接
うかがった話によれば、

谷口雅春先生は、ご自分が年をとって、
神戸市の「願成寺」までお参りに来れなく
なることもあると考えて、九州総本山の奥に、
「願成寺」の本堂に模した建物を作ったと、
「願成寺」の 御住職さまに雅春先生が、語っていた
という話を御住職さまから阪田先生は、うかがって
います、とおっしゃっておられました。

それから阪田先生は、谷口雅春先生から、なぜ
自分は、日本の最西端のあの地に、総本山を建立
したのかという理由も、聞いていらっしゃいますそうです。

それも私にお話しくださいましたが、その話は、
次の『光明の音信』に
書かれる前に、私にお話しくださったそうですので、
私は、まだ、勝手に、ここへ書き込むことはできません。

『光明の音信』に阪田先生が、お書きになられました後に、
トキ掲示板へ書かせていただきます。


おわり
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
志恩:追記ー
「願成寺」なのに、まちがえて「成願寺」と書きましたが、
後から間違いを教えてくださるお方がいて、
訂正いたしました。ごめんなさい。🙇‍♀️
7/24午前10時半記

正しくは、「願成寺」です。

とんでもない間違い (60036)
日時:2023年07月24日 (月) 10時10分
名前:願成寺

成願寺?????

間違ったのは阪田先生?
まさかね

願成寺でしょ

正しくは「願成寺」でした。すみません。まちがえて。 (60037)
日時:2023年07月24日 (月) 10時26分
名前:志恩

お電話しながらコピー用紙にメモしていたのですが、
そのメモには、ちゃんと、ひらがなで、
「がんじょうじ」と、書いてありましたから、

まちがえたのは私です。
阪田先生では、ありません。

早速に、間違いを教えてくださって、
ありがとうございました。

皆さまへ、「成願寺」ではなく、「願成寺」ですので、
本文も訂正いたします。御免なさい。

私の父(継父)が、原宿本部時代、新教連のP T A会長となり、 (60063)
日時:2023年07月25日 (火) 14時59分
名前:志恩

私の父(継父)が、原宿本部時代、新教連のP T A会長を務めており、
父母代表として、新教連の大会で、体験談を発表したと、
先に、書きましたが、

その時の写真が、古いアルバムにありました。


日比谷公会堂でやったのでした。
昭和38(1963)年8月

アルバムに、写真が、はりついていて、はがれませんので、
アルバムのページそのままスマホのカメラで写しました。
写真の下のメモには、1964年と書いてありますが、
書き間違いで、昭和38年は、1963年です。
正しくは、1963年、昭和38年8月のことでした。

⑴原宿本部時代、本部職員の有志たちは、飛田給で練成会を受講していた (60064)
日時:2023年07月25日 (火) 15時30分
名前:志恩

第1回【本部職員 練成会】

於:飛田給道場

前列から2列目に、浜田先生、吉田武利先生、辻村彦次郎先生、
東山半之助先生、良本峯夫先生、野尻 稔先生の皆様が、おられますね。

ちなみに、野尻先生は、網走刑務所出身のお方でしたが、本部講師に
なっておられました。

アメリカの光明思想家のスター・デーリー氏も、
刑務所で神の愛に触れて、刑務所を出所されてから、光明思想家に
なられたのでしたよね。(古からの信徒様は皆様、ご存知です。)

菊地藤吉先生も、加藤英太先生も、生長の家に入信される前は
共産党の、熱心な活動家でした。

そういえば、私が、お慕いしていた平岡初枝先生も、生長の家に
触れる前は、平塚らいてう、山高しげり、市川房枝とともに活動されて
いらした、「婦選運動」の書記長までされていた、市民運動家でした。

谷口雅春先生は、懐の深いお方でしたので、そのような思想とか信条の異なる
方たちも、思想とか、信条を、変えて光明化運動の同士となって、
谷口雅春先生のもとに、集まられたのだと思います。



集合者写真の、
最後列の向かって左から4番目が、長嶋大先生、(白シャツ)
最後列の向かって左から9番目が、佐野イチロー先生(黒シャツ)
志恩は、前列から、2列目の向かって左端。

昭和39年(1964)年9月16日、17日、本部職員一泊練成会

(写真をマウスでクリックすると拡大します。)

◆野尻稔先生は、良本先生の向かって右隣のシャープな感じの男性です。

⑵原宿本部時代、本部職員の有志たちは、飛田給で練成会を受講していた (60066)
日時:2023年07月25日 (火) 15時33分
名前:志恩

⬆️と同じ

飛田給の食堂で、食事をする本部職員たちの風景

飛田給の庭で、祈り合いの神想観をする本部職員たちの風景



当時の本部職員は、このように
自己研鑽、自己改革にも励んでおりました

スター・デーリーのことを書かれた谷口雅春著もございます。 (60067)
日時:2023年07月25日 (火) 16時14分
名前:志恩

【愛は刑よりも強し】:
スター・デーリーの哲學及び宗教
(新選谷口雅春法話集) 単行本 – 1975/8/25
谷口 雅春 (著)

「あらすじー

極悪非道な犯罪を重ねて牢獄に入れら
れた米国人スター・デーリーが、
本書の主人公です。脱獄に失敗した
彼は、罰として両手を頭上に縛り上げ
られ、爪先立ちに吊るされます。
しまいに下半身が欝血し、人事不省に
陥った。そのとき、デーリーはキリス
トの幻覚を見ます。深い愛の雰囲気に
満ちたキリストの眼が、デーリーを
改心させました。消えた姿の後に残っ
たのは「愛」という文字でした。
「私は全ての人を愛する」という思い
が彼の魂の底に起こります。デーリー
はこうして生まれ変わったのです。
スター・デーリーの親友になる
終身徒刑囚ライファーは、本書で需要
な人物ですが、彼はデーリーにこう
言っています。「愛のない説教は
い未だ嘗て一人の魂も救ったことは
ないし、これからも決して救い得ない
だろう。人類を愛し抱擁することに
よってのみ、君は君の魂を救うことが
出来るのだ。」(53ページ)彼が
示した神の生活を生きる具体的
な実践方法とは、曜日ごとに課題を
振り分けること。例えば日曜日は
「愛の実践」、火曜日は「神の豊かな
生命を受ける」、金曜日「神の平和を
実践する」、土曜日「他を喜ばす」…
本書を読んだ青年囚人が実際に更生
したという話もあります。愛の強さを
実感することのできる感動の書です。

原宿本部時代の網走刑務所出身の野尻 稔先生との思い出 (60069)
日時:2023年07月25日 (火) 17時24分
名前:志恩

野尻先生は、飛田給道場の方におられましたが、
いつ頃だったからかは、忘れましたが、ある時から
原宿本部勤務になられました。

本部で練成会をやるようになってから、練成部
担当の本部講師としていらしていたと思います。

野尻先生は、網走刑務所出身のお方でしたが、
そのようには見えないというか、裏に怖さは
ひめているという雰囲気はありましたが、普段は
いたって優しくて、私のことも、シオンちゃんシオンちゃんと
呼んで可愛がってくれていました。

野尻先生は、本部の外回りの植え込みの樹木を剪定されたり
雑草をまめに抜いたりすることもお好きみたいで、よく庭に出て
作業をされていました。

あるとき、外にいた野尻先生が、 開いた窓から、室内にいた
私に向かって、
突然、大きな声で、

「あっ、悪いけどさ、シオンちゃん、紙くれない?!」というので、
私は、とっさに「トイレットペーパー?!」と、問いただしましたら、
野尻先生は、大爆笑して、「違うよ、なんかメモする紙だよ。」
と言われたことを、何気に、ふと思い出しました。

本部会館の外の庭とは、こういう庭です。
これは昭和42(1967)年2月に雪が降り積雪した時の庭です。

これは、おまけです (60070)
日時:2023年07月25日 (火) 17時33分
名前:志恩

昭和42(1967)年2月に、本部の庭に積雪しましたので、
私は急いで、仔熊だか、犬だか、の雪だるまを作成いたしました。
ま、今の 生長の家教団で言う、クラフト作業ですね。
私は、あなたに言われる前から、とうの昔からこのようにクラフトを
古い信徒ですが、実践しておりました。






写真をマウスでクリックすると拡大します。

梶猛弩様 (60078)
日時:2023年07月26日 (水) 01時46分
名前:志恩

後世である今の時代になって考えますと、
すごいことだったんだなぁと、
谷口雅春先生の考え方とその実行力に
感動いたしますが、
昔の当時は、それが当たり前のような気がしていた
未熟者の私でした。


一気読み (60079)
日時:2023年07月26日 (水) 01時47分
名前:元信徒

今、イッキ読みしました。

書き出すのは大変な作業です。沢山の素晴らしい記事をありがとうございます。
お写真までつけて下さいますので、生長の家大好きな方や本部の先生にはたまらなく嬉しく懐かしいでしょうね。

渋谷先生にご意見されて面白いですね。当時は皆様仲良くていらして18歳も下の若い方のアドバイスも良く聞いて下さる良き時代でしたね。
渋谷先生は養心女子大学寮にも講話に来て下さいました。当時70名だろうか?その位の生徒全員に先生の詩集の本をプレゼントしてくれました。
今、講話の内容は記憶にはありませんけどね。笑
ハワイ行きを皆様でお見送りしたなんて、本当に人間の温かい良い時代でしたよね。
その頃、元信徒の父や従業員の方も盛んに外国に勉強に行っている時代でしたから、私も良く羽田空港までは、行っておりました。今だに記憶がある飛行機会社は、ルフトハンザ、パンアメリカン、ブリティッシュエアウェイ でしたか?
飛行機会社から四角いビニールの飛行機会社の名前入りの肩下げバックをもらえたので、それを見て覚えました。 昭和四十年頃は1ドルが360円で、購入金額も決められていたらしく、それ以上はどこかで購入するしかなかったみたいですね。
その時代の羽田空港は悲しい思い出が満載です、私。
当時、まだ飛行機が墜落する時代でしたから、
両親が外国に行くたびに、小学低学年の私に遺言と後始末の仕方を言い渡して出かけるので、毎晩泣いていました。叔母が泊まりに来てくれていましたが、言い渡された内容が悲しくて、今も思い出すと、涙が出ますね、当時の自分が可哀想で。笑

あと、昭和42年の雪降りは記憶にあります。 父と妹と3人で雪だるまを作って楽しく遊び、写真も有ります。
同じ頃、志恩さんも雪だるまを作られておられたのですね。
同じ時代に同じようなことをしていて、とても嬉しくなってしまいました。
沢山積もりましたね。



志恩さんの
本部での研鑽が羨ましいです。
それと、本部外での自主勉強など、皆様仲良く真面目に研鑽してる所が素晴らしいです、私の時代の事は書けません。
宇治の榎本先生を慕ってお勉強しているお仲間はおられました。
今、現役の方の名前は伏せさせて頂きます。

あと、昭和の時代は、
刑務所からの練成員はとても多かったです。
それと、精神病院からの方も。

ですけど、網走刑務所の方は初めて聞いて驚きました、しかも職員にまでなられて。
ガジモド様まで出ていらして驚いておられるくらいですので、よほどスゴミのある先生でしたと拝察いたしました。

どのような経緯でご本部へいらしたのかお分かりですか?
聴いてみたいです。


飛田給道場、昔の建物は結核療養所で、それを徳久先生が産院にしようとして生長の家で買取り、しかし、練成道場になり、その建物は河口湖に移築したと聞いておりますが、
記憶ちがいでしたら、すみません。



https://www.kangoku.jp/index.html

網走刑務所

左上の3本線クリックして学びやその他の中に
網走刑務所のいろいろがあります。





元信徒様へ:野尻稔さんの原作「焔の記録」が、小林旭主演で『鮮血の記録』で映画化されたんです (60080)
日時:2023年07月26日 (水) 02時01分
名前:志恩

野尻稔役を小林旭が演じました。

『鮮血の記録』
原作 野尻稔
出演者 小林旭
田村高廣
岡田英次
音楽小杉太一郎
撮影峰重義
編集鈴木晄
制作会社日活
配給ダイニチ映配
公開1970年6月10日
上映時間93分
テンプレートを表示
『鮮血の記録』(せんけつのきろく)は、
1970(昭和45)年6月10日に公開された日活制作の
任侠アクション映画で監督は野村孝、主演小林旭。

あらすじ

インパール戦線で捕虜となった野尻が日本に復員した。
しかし恋人は行方知れずで、野尻は軍令に背いて殺された
ということが既成事実化されていた。
彼は戦友である原政久と偶然出会い、共に東京の闇市で商売を始めるが、
やがてそのシマを仕切る暴力組織の倉畑から煙たがられ、
倉畑らは原を脅して、野尻をハメてアメリカ軍に逮捕させた。
3年の後、シャバに戻った野尻は、かつて軍で上官で、
野尻らを置き去りにし、一人日本に戻った町田が自分を陥れて
逮捕させたことを知り、復讐を計る。

配役
小林旭 : 野尻稔
田村高廣 : 原政久
水野久美 : 由香
青木義朗 : 倉畑義人
郷えい治 : 飯田
岡崎二朗 : 高月二郎
河村有紀 : 加代
高樹蓉子 : 勝子
青木伸子 : 紀子
原恵子 : 里
中村竹弥 : 北村
岡田英次 : 町田精一郎
スタッフ
監督:野村孝
脚本:山口清一郎、山崎巌
原作:野尻稔 「焔の記録」
ーーーーーー
志恩ー

映画「鮮血の記録」は、今でも
Amazonコムのプライムビデオで
無料で観れます。上映時間:1時間33分。

ありがとうございます (60081)
日時:2023年07月26日 (水) 02時26分
名前:元信徒

野尻さんは作家?
その時一度だけ書いたかゴーストライターがいた?

映画化されたと言うことは、芸能を仕切る極道関係のどなたからの推薦があったのでしょうか。

練成を受けて本部職員になられたのでしょうか。

なんだかミステリアス


映画みてみたいです。アマゾンプライムでみつました、ありがとうございます😊




元信徒様 (60082)
日時:2023年07月26日 (水) 02時28分
名前:志恩

野尻先生の、詳しいことは、知らないのです。
といいますか、
あの当時は、なぜ、野尻先生が、生長の家に熱心に
なったのか、とか、その他のことも、
野尻先生にまつわる話は、詳しく聞いていたと思いますが、
60年も前のことですし、私は、野尻先生については、
あまり関心がなかったものですから、覚えていないのです。

 (60086)
日時:2023年07月26日 (水) 09時07分
名前:元信徒

映画を見ました。

これがリアルでこの方が本部の先生でしたか、、、

ノーコメントでお願いします。平和な時代に、コメントも無いです、ハイ。


思想結社「八千矛社」主宰 犬塚博英氏が書いた「田中忠雄先生と野尻稔先生」について (60089)
日時:2023年07月26日 (水) 16時31分
名前:志恩

則天去私様ブログよりー

2016年06月14日06:03

愛国教団「生長の家」の変質を問う-6
“宗教消滅”時代における生長の家雅宣体制の醜悪

  思想結社「八千矛社」主宰 犬塚博英



【田中忠雄と野尻稔】

筆者は現在、自らを「生長の家の人間ではない」と
思っているが、かつてその教団の中で特に親しく
指導してもらったのが、

田中忠雄と野尻稔だった。


見所があると思われたのか迷走ぶりを危惧された
のか、いま思い出しても深く濃い縁をもらった。

 田中忠雄は生長の家創始者・谷口雅春の弟子の中では
特筆すべき経歴。
田中が生長の家に帰依したというだけで、思想界、学界に
おける雅春の評価は大きく変わった。

田中は明治三十九年(1906年)、佐賀県生まれ。
京都大学文学部哲学科で西田幾多郎に師事。
卒業後、京都で英語教師のかたわら同人誌を主宰した。
昭和十二年(1937年)、治安維持法違反で二年間服役。
その間、澤木興道に傾倒して禅を追求。
出獄後上京し、上智大学でカトリック大辞典編纂に従事する。
戦後、谷口雅春の保守愛国思想に共鳴し、請われて
日本教文社に入社、編集局長。
その後は生長の家政治連合(生政連)会長としても活躍した。

 生長の家の人間で、一般社会においても評価され
見当たらない。澤木興道は「宿無し興道」の異名を
とりながら参禅教育に徹し、駒澤大学特任教授を兼任、
アメリカなど海外への禅普及にも力を尽くした
田中忠雄の功績である。

 筆者は学生時代から私淑し
生涯の恩師とした中村武彦の使いで、
若き日にしばしば生長の家本部を訪ね、
その中で何かと田中に教えを乞うた。
私か中村夫妻の仲人で昭和五十年春に結婚した際の、
式の主賓の一人が田中だった。

私の母や妻の両親は田中の参列と祝辞を格別喜んだ。
「幸せとは、魂と魂が“試合う“真剣勝負で激しくぶつかり合って
磨き合うことをいう。
筆者は四十年を過ぎた今でもはっきりと記憶している。
ーーーーーーーーー

あと一人、

⭕️野尻稔。

師事したというより、先輩として、筆者を弟のように
可愛かってくれた。

この人は現教団では忘れられているが、経歴はまったく異色。

大正十三(1924)年、東京生まれ。
医師の父親の勧めで東京医専(現・束京医科人学)に学ぶも、
二年修了時に明治大学政経学部に転部。

昭和十八(1943)年、学徒出陣で北支に派遣される。
決戦部隊として待機中に終戦。復員後、非国民扱いされた
トラウマで、軍人崩れの博徒の道を歩む。

傷害事件などでたびたび実刑を受け、
ある市街地開発案件では相手を殺めるも、
裁判中に殺人が傷害致死に変わり、七年の刑に減刑されて

網走刑務所に送られる。

母親が刑務所に生長の家の会誌を送り続け、
ある日、価値観を一変し、宗教に日覚めた。

六年の服役で、仮釈放。
出獄後、直ちに生長の家の飛田給長期練成道場の
訓練生となり、

後に本部講師となる。

 この野尻が昭和四十三年に出版した自伝が
『焔の記録』(原書房)である。

昭和四十五年(1970年)、『鮮血の記録』の題名で映画化もされる。
主演は小林旭。実話を題材とした敗戦混乱期の
ドキュメント映画と話題になった。

 生長の家・谷口雅春の教えの根本は、
「人間本来神の子、罪はない」という教えである。

アメリカにかつて、スター・デーリーという凶悪犯がいて、
半月、地下牢に吊るされている間に神の眼差しを実感し、
それか老囚人の手ほどきで敬虔なクリスチャンに回心する。

出獄後は「人間は回心すれば、いつでも変わることができる」
と国内外を説法して回った。

谷口雅春には『愛は刑よりも強し スター・デーリーの哲学
及び宗教』(谷口雅春法話集、

日本教文社)という著作があり、
デーリーは日本に来て各地で講演も行っている。

そして野尻は「日本のスター・デーリー」
「生長の家のデーリー」といわれていた。

 当時の生長の家は、
全国の刑務所や少年院に教誨師を送り、
受刑者の善導、救済を積極的に行っていた。

平成五年(1993年)、朝日新聞本社で社長と面談中に
壮烈な拳銃自決を 遂げた 野村秋介の『獄中日記』にも、

生長の家の教誨師の来訪と問答を楽しみにしていた
という記述が随所に出てくる。

当然、野村と 野尻には 交流があった。

 当時、手に負えないヤンチャな生長の家練成受講生は、
野尻が担当していた。

一端の不良を気取っている若者が、野尻の前では
おとなしくなる。
刀傷が生々しい。

野尻は家族連れで、私の結婚式に出てくれた。
田中忠雄を講師にした「大夢会」という勉強会にも、
私と一緒に積極的に参加した。

参議院議員として威勢のよかった玉置和郎も、
野尻の前では、殊勝だった。

ある生長の家の幹部が「君は誰と親しかった」と聞くので、
野尻の名を挙げると、「類は友を呼ぶからね」と言われたのには
笑った。

当時の生長の家は、奥が深かった。

親が熱心な信者で、その子供が影響を受けた二世や三世が
多かった。時折、愛国団体、運動関係者で生長の家に学んだ
という人に出くわすが、少年院で雅春の愛国書を読んだという
経験者も少なくなかった。

 この春、三代目・雅宣が打ち出した生長の家の運動方針は
「倫理的な  生活」
「ノーミート・低炭素の食生活」
「省資源、自然重視の低炭素生活」といった、
実に仰々しいものである。
そのために自転車部やフェス夕部といった
「プロジェクト型組織」を導入していくという。

お絵描き教室や高校生の文化祭クラブ活動のようなもので、
大の大人がやることではない。

「名誉を傷つけ、組織を誹諧中傷する言動があった者」は、
そのメンバーにはなれないという規約がつくられてぃるそうだ。
それだけならば分からないでもないが

「刑事訴追により禁固以上の刑が確定した者」も
加入できないという。

それならスター・デーリーや野尻稔、
またかって生長の家の教誨師に出会って回心した
受刑者たちは、どういう扱いになるのだ。

生長の家は、ここまで落ちたかと、嘆息せざるをえない。

生長の家創始者・谷口雅春は
「人間本来神の子、罪も病もない」と宣言し、
一度は道を誤った人々の魂の救済、人類光明化に熱心だった。

なのに、その孫の雅宣は、組織運動から 前科者を排除するという。
これが宗教なのか。
ーーーーーーーーーーーーーーー
http://tecnopla1011.blog.jp/archives/61613920.html

志恩ー
私も、Amazonプライムビデオで、『鮮血の記録』の映画を見ました。

それから、野尻稔先生は、私よりも18歳年上で、いらしたことが
わかりました。
私が22歳の時、野尻先生は40歳でいらしたのです。

 (60097)
日時:2023年07月27日 (木) 00時01分
名前:元信徒

生長の家を深く紹介してくださり有難う御座います。

しかし、雅春雅春と呼び捨てして、犬塚さんって何なんでしょう、
どんだけ偉い方なのですか? ちょっとビックリですね。

梶猛弩様、元信徒様 (60104)
日時:2023年07月27日 (木) 08時16分
名前:志恩

谷口 雅春 先生(著)【愛は刑よりも強し】:
(スター・デーリーの哲學及び宗教)の
「新選」 のほうではなく、
初版本の単行本は、 – 1949/1/1に

すでに発行されており、本部の落慶式には、スター・デーリーが
アメリカから、原宿本部へ来られて、祝辞を述べられたという話も、
聞いておりました時期ですから、

あの頃は、
網走刑務所出身の本部講師がいても、まったく不思議に感じて
おりませんでした。

そういえば、山口悌治先生も、生長の家に触れられる前は、
熱心な共産党員だったと聞いておりましたから、あの当時の
原宿本部の先生方は、過去を探れば、危ない人たちがいっぱい
いた、ということでしょう。

しかし、そういう過去をお持ちの方達は、過去の体験が
豊富でしたからでしょうか、人間的にも魅力もあり、
ご講話も、味のあるいい講話ができる人が多かったように
思います。

でも、犬塚氏の文を読みまして、
網走刑務所を出たばかりの野尻さんを、よく、徳久先生は、
飛田給道場の長期訓練生(研修生)にされたものだと、驚きました。


昭和39(1964)年9月16.17日に行われました
第1回「本部職員練成会」(於:飛田給道場)の
集合写真から、野尻稔先生のお写真のみ
アップしてみました。(当時、40歳)

写真は、少しぼやけましたが、
野尻先生は、淡いグレーのスーツを着ています。
シャープな雰囲気はお持ちのお方でした。

 思想結社「八千矛社」主宰 犬塚博英様のこと (60105)
日時:2023年07月27日 (木) 08時30分
名前:志恩

私は犬塚博英様とは、お目にかかった記憶は、
ありません。
行動派右翼の親分さんで、
民族革新会議の代表のお方だとは、伺っておりましたが。



明治神宮参拝
最前列の、真ん中の男性が犬塚様です。

⬆️の、続き (60106)
日時:2023年07月27日 (木) 08時40分
名前:志恩

Wikiより

【犬塚博英】は

日本の民族派運動家。
八千矛社代表。民族革新会議事務局長。
民族派の重鎮として知られる人物である。

1948年福岡県生まれ。
長崎大学に入学、民族派学生運動に従事し、
椛島有三らと公立大学初の学園正常化を成し遂げた。
全国学協書記長、民族派全学連結成準備会委員長を務めた。

1972年、鈴木邦男や阿部勉らと新右翼団体
「一水会」を創設。

代表的活動家であったが、
1980年に脱退して八千矛社を結成。
八千矛社は日本の主要右翼団体の一つとして知られる。


整体の患者をよそおって、谷口貴康先生宅を
訪れたときの、お写真。ヒゲの男性が、犬塚氏です。

田舎もんブログに載っていただいぶ前のお写真です。

野尻稔先生は (60119)
日時:2023年07月28日 (金) 01時01分
名前:志恩

野尻稔先生は、
生長の家の信徒さんの人で、美しい女性とご縁があって、
結婚され、お子さんもできて、野尻先生は、子煩悩で
奥様もお子様も大事にされて、幸せな家庭を持ち、
暮らしていると風の便りで聞きました。

私の原宿本部時代の回顧録は (60120)
日時:2023年07月28日 (金) 01時07分
名前:志恩

一応、この辺で終わりにしようと思っていますが、
もしかしたら、少しだけ、追加があるかもしれません。





原宿本部時代の志恩(21歳)
昭和38(1963)年10月30日
原宿本部会館、裏玄関前にて

原宿本部時代の、まだ追加、2.3ありましたので、載せさせていただきます。 (60167)
日時:2023年08月02日 (水) 06時15分
名前:志恩

シオの部屋より

[ 朝 ]
日時:2022年12月19日 (月) 04時53分
名前:シオ

明るくよろこびが部屋にさしこむ
清々しい光は 私の心の部屋をみたす
開かれた幅広の窓に
野鳥が さえずる

若い太陽が まぶしい
目を閉じて合掌すると
幸福が まぶたいっぱいになる
生きていることは 生かされていること

今の私は いなくなる
私は 一本の枝のかたちで
光に 向かって 腕を上げる
おそらく いっぱい 花をつけて

時を超えて 吹いてくる
あの頃の 懐かしく愛しい方々の
声を
私は 聴く




昭和38(1963)年5月23日・24日
原宿本部職員の慰安旅行で
茨城県・千葉県境の水郷へ行った時の 記念写真です。
その時に皆で宿泊した水郷・国際観光ホテル前にて
奥田 寛本部講師とも写っています。

(マウスで写真をクリックすると拡大します。)

元信徒様 (60196)
日時:2023年08月03日 (木) 16時32分
名前:志恩

(元信徒様ー)
>私は、今、シドニーにおりまして、
来週帰国してから投稿させて頂きます。
気温19℃ これから ハーバーブリッジ、オペラハウスに
いきます。
観光でギガが少ないので、これで失礼して帰国してか
ら投稿したいと思います。<

志恩ー
わぁ、驚きました。元信徒様は、今、オーストラリアのシドニーに
いらしてるんですか。いいですねぇ。優雅ですねぇ。
そちらは、気温が低いそうですから、過ごしやすいでしょう。
また、帰国されましたら、お話、聞かせてくださいませね。
楽しみにしています。


オーストラリア、シドニー
https://www.ana.co.jp/travelandlife/article/000223/

原宿本部は、私が結婚する時、退職しましたので、結婚式の写真が最後になると思います。 (60204)
日時:2023年08月03日 (木) 22時11分
名前:志恩

シオの部屋より

私が結婚のため
原宿本部を退職した理由は、夫と私の休日が、違っていたからでした。

私は、昭和44(1969)年に、26歳の終わり頃、

藤原敏之先生ご夫妻のご媒酌により結婚式を
東京の明治記念館で挙げました。
(お見合い結婚)

(藤原敏之先生の向かって左隣りは、平岡 初枝 先生です。
藤原先生ご夫妻は、宇治市から、
平岡先生は、富山市からご上京され、ご出席くださいました。)

藤原敏之先生の奥様の向かって右隣は、
当時の生長の家本部理事長の中林 政吉 先生です。

白鳩会中央部(婦人局)の4名の全国講師、全員、ご出席
くださいました。

古川恵偉先生、田中イサノ先生、
森(藤原)安子先生、鎌田久子先生。

それに、片岡松枝 婦人局事務局長も。

(古川恵偉先生は、中林理事長先生の向かって右隣りに着席
されておられるのですが、この写真には、写っていません。)

司会進行をしてくださったのは、鎌田久子先生です。

白鳩誌の編集長の瀬戸口久子様もご出席くださいました。

私の友人代表は、菊地藤吉先生のご長女の菊地恵美子様
でした。

(尚、夫は、一般人なので、顔は 伏せてあります。)


マウスで写真をクリックすると拡大します。

もう1枚、載せさせていただきます。 (60205)
日時:2023年08月03日 (木) 22時16分
名前:志恩

シオの部屋より

司会進行をお引き受けくださいました鎌田先生の
手が写っております



マウスで写真をクリックすると拡大します。

追加:性格が真面目すぎたため、恋愛経験がない私です。 (60208)
日時:2023年08月04日 (金) 06時29分
名前:志恩

私は、中学校から私立の中高女子一貫校に行き、
学生時代の友達は、皆 女性でしたし、
エスカレーター式で行った大学を中退して
原宿本部に奉職した部署も、
白鳩会中央部(婦人局)という
女性ばかりの部屋でした。

私が娘時代の原宿本部時代に、惚れていたのは、
おばあちゃんの年代の平岡初枝先生でした。
先生は、お顔は 美人では ありませんでしたけれど、
心はとてつもなく 美しく、素晴らしく、大好きな先生だな、
と 心の内で、お慕いして、憧れていただけのことでしたが。


私の娘時代のモットーは、清く正しく純潔で、でして、
大変まじめに日々を祈りの多い尼僧のような暮らしを貫いていました。

あの頃は、もしも、男性に映画を誘われたときは、それが自分が
観たい映画だった場合は、「妹も一緒でいい?」と必ず相手に言いまして
二人ではなく 3人で 映画にも食事にも行っていました。

男性と二人だけで交際して、肉体関係になるのが、嫌だった
からです。あの当時は、世間では、風紀が乱れていて
世間一般での話ですが、ふしだらな男女関係の噂を、よく見聞きして
いましたので、
自分は、男性と、そういうふしだらな 肉体関係になりたくなかったからです。

私は数人の男性からプロポーズもされましたが、自分が惚れたとか
好きになった男性は、残念ながら、ひとりも、いませんでしたので、すべて
お断りしました。

ですから、昔風の地味な お見合をして、結婚をしたのです。
結婚とは、愛を実践するための生活の場であり、恋愛ではありません。

結婚後も、浮気とか不倫とかも、私は何1つせず、恋愛とは
別の世界で生きてきて、81歳の現在に至り、夫亡き後の
今の友人たちも、女性ばかりです。

私は人間としては、
最高に幸福な人生を歩ませていただいておりますが、
今も幸せな人間ですが、
ひとりの女性としては、一度も、恋愛経験がなく、唯一、その点は、
自分が、女性としては、正直言って可哀想な気がいたしております。

たまに、孫たちと、ディズニー映画のロマンチックな恋愛ものの映画を
家でAmazonプライムビデオなどで、一緒に観ることがあるのですが、
今になって遅ればせながら、私は、登場人物たちに感情移入して、
ポロポロ 泣いたりして、美しい疑似恋愛をいたしております。

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
♡平岡初枝先生のこと♡

平岡先生は、
生長の家に触れる前は、婦人運動家でした。
「日本の女性にも参政権」を、という「婦選運動」を熱心にされまして、
それによりわれわれ、日本の女性も、政治に参加できるようにしてくださった
運動家の一人でした。

平塚らいてう、市川房枝、山高しげり(のちに社会党の参議院議員になった)が
平岡先生のかっての婦人運動家の同士です。

先生の経歴は、小学校の教職員の後、大阪で、お金のない人でも治療が
受けられる、お金のない人は、
無料で受診できる病院を、自ら設立して、病院の経営もしておられました。

高齢になってから、先生は、重度の脊椎カリエスを患いましたが、大阪の
生長の家 阿倍野道場 専属講師の寺田繁三先生の個人指導を受け、
『生命の實相』を読み、脊椎カリエスが、神癒によって、忽然と消えたそうです。

原宿本部に奉職されたのは、寺田先生の勧めだったそうです。
原宿本部が建った当初から、奉職されておられました。

平岡先生は、白鳩会中央部の全国副部長、白鳩会全国副会長、
全国講師、本部理事、を務められ
高齢を理由に、自ら、本部を辞め、故郷の富山市に、帰郷されました。

その直後、今度は、生長の家の地方講師に就任し、地元の若いお母さん中心の集いを
死ぬまで、開催し、ご指導をされ続けておられたお方です。

退職後も『生命の實相』全巻を、数回、読み直していると、今は、○回目よ、と、
私が、富山市の平岡先生宅に伺ったとき、平岡先生から私は直に、伺いました。

平岡初枝先生は、富山市新屋にある小さい神社の神主さんでもありました。

それから、これも聞いて驚いたことですが、
平岡先生は、ご自分が所有されていた2つの土地のうちの、富山駅に近い方の、
(交通の便のいいほうの)富山市の土地を、
生長の家に寄付されまして、(富山市の生長の家道場になっている)、

ご自分は、もう1つの、富山駅から、バスで40分も乗っていく
富山市のハズレのところにある辺鄙な土地に、小さい質素な家を構えて、
娘さんやお孫さんたちとともに静かに暮らすという慎しやかな余生を
送られました。

私は、原宿本部在職中からのことですが、
退職された大好きな平岡先生に
お会いしたくて、3回も、上野駅から寝台夜行列車に揺られて、富山の先生の
ご自宅まで
お目にかかりに、まいりました。

先生は、明治24(1891年)10月生まれですが、
昭和53年(1978年)11月、87歳の時に、ご自宅にて大往生で、
ご逝去されました。

私よりも51歳、年上でした。

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

写真が傷んでおりますが、
当時の平岡初枝先生(71歳のとき)です。

ありがとうございます。 (60267)
日時:2023年08月07日 (月) 17時05分
名前:元信徒

家族の夏休みから戻りました、ご心配をおかけしました。

志恩様、
沢山の素敵な一つ一つの記事をありがとうございました。
どのスレッドを見ても、内容が濃くて大切な事や学びがありました。
又、責任をもって志恩さんの退職されてご結婚された時期に至るまでをキチンと整えて書いて下さりありがとうございました。
志恩様の大切な大切な思い出の掲載をありがとうございました。
素晴らしい記憶力も感心いたしました。

懐かしく読ませて頂きましたり、存じておりませんでした深い体験をされた方々のお話などは、初めて聞きまして驚きやら納得しながら読みました、当時は、本当に飛田給道場や河口湖道場に行きますと、沢山その様な方々がいらして懐かしいです。

昔は、毎月の神誌に、沢山の奇跡体験や病気治癒、ヤクザの改心など、信じられない様な奇跡が頻繁で、奇跡さえも当たり前に思う、今思えば有難い素晴らしい、宗教法人を冠するご立派な生長の家でした。

今、環境のことは本当に大切です。
ですが、トップが祖父の雅春先生や信徒のおかげで、私立の小学校から大学、学費の超高いアメリカの大学院、又アメリカでの超高額の生活費や学校が春夏冬休みで帰国するたびに、昭和のその時代に輝子先生から、生活費とは別に、百万円の小遣いを貰って、又アメリカに行くわけです。

素晴らしく何不自由ない贅沢三昧の生活を当たり前とし、困窮する家庭や世間を遠目で見るだけで、宗教の根幹である救済を教化部長に任せてしまわれては、
トップにいる器ではありませんから、そこは、自覚して努力すべきでしたが、

彼の生長の家総裁を名乗るFacebookには、昔から残念ながら、何らかの努力の小さな痕跡さえ見当たりません。

環境とその時代、時代の魂の救済は両輪です。
片輪で、走るから信徒という大切な荷物が荷台から滑り落ちて行き、片輪の少しの幅にしがみつく何らか目的がある信徒しか残留していないと思います。
そして、その目的は善良なものとは思われません。

ですから、
雅春先生の純粋なる宗教があり、純粋な方々が支えて下さいました原宿本部会館での回顧録は貴重だと思います。
本当にありがとうございました。

あと、雅春先生が信徒さんに施した奇跡体験で何か印象強いものなどございますでしょうか?

志恩さんは、雅春先生に直接何か言って頂いたり、ご指導された事などありましたら思い出されたら又、お願い致します。
又、雅春先生の霊感など。

私は、昭和59年頃?
小林春恵先生と仰る霊感の強い先生がおられて、神想観の先導をする職員の右上に
こういう顔で、こう言う髪型、雰囲気の人があなたを拝んでいましたが、分かりますか。
などと言われて、その職員は亡くなった母です。などとお答えになっておられました。

後は、ある信徒さんが言われましたことですが、団参で雅春先生から
光がシュルシュルと円を描きながら自分に向かって出て来て、その光が口の中に飛び込んできて、自分が光になって輝いて驚いたそうで、その後、病院に行ったら胃癌が消えていた。と直接ある信徒さんから聞きました。

あとは、目の当たりに見ましたのは、
首肩のご飯茶碗位の腫瘍が練成会中に消えて無くなったのはビックリしました。
このような奇跡が全国あちこちであり、
奇跡など当たり前のように感じてしまいました。


この様な奇跡が出てナンボの世界が宗教の世界だと思います。

今の生長の家トップは
物心共に豊かなのは責めないでも、それなら尚更の事、「 人々を救済できる自分にして下さい。」と神仏に祈り修行しなくては、ならなかった、
それを自覚して努力しなければならなかったでしたが、トップは、それについては他者に丸投げで平気でしたから、衰退した奇跡の起こらない、ただの物質人間世界だけで環境を心配し、小手先作業をするだけの今の教団があります。

私達はせめても、
雅春先生時代はこのような事があった事実を語り、烏滸がましいですけど、少しでも再建する時代がやって来た時の資料になれたら、、と思います。

私の想像以上の志恩様の優秀なご資料の作成に心より感謝申し上げます。
私には、とてもとても書く事の出来ない、インテリジェンスの高いご文章ですから貴重です。
まだまだ
自分達も楽しみながら記入し続けていけたら、と思います。

どうぞこれからもよろしくお願い致します。
皆様もどうぞよろしくお願いします。

ひとまず、ありがとうございました。
心より、深く厚く感謝申し上げます。

感謝 合掌🙏

ちょっと、家族旅行で遠出しておりまして、お礼が遅くなりまして大変申し訳ありませんでした。






元信徒様 (60270)
日時:2023年08月08日 (火) 05時05分
名前:志恩

おかえりなさい。
元信徒さまが、
無事に日本へ帰っていらして、ほっとしました。

日本は、台風の影響もあり大雨で被害に遭われている
地域もあれば、蒸し暑い猛暑の地域もあり、はやく涼しく
なれば、いいな、と思っております。

私は、夏バテ予効にと思いまして、奮発して、国産うなぎの、
うな重も食べてありましたのに、

クーラーのきいた室内にいることが多いせいか、喉がやられて、
昨日は、喉はエゴエゴするわ、咳は出るわ、だるいわ、
熱は出ていないのですが、軽い夏風邪になり、葛根湯を飲んで
昨日は、静かにしておりました。

今朝起きてみましたら、早めに飲んだ葛根湯が効いたみたいで、
喉のエゴエゴも、咳もおさまっていて、やっと元気になれたところです。

元信徒様も、体調を崩さないように、お体、おだいじなさってくださいませ。


志恩様、沢山のご記入をありがとうございました。 (60277)
日時:2023年08月08日 (火) 12時33分
名前:元信徒


志恩様

沢山の回顧録のご記入をありがとうございました。

沢山の現象的にチカラのある方々が支えて来られた原宿本部が再度輝き始めたような気持ちになり、感無量でどう言葉にして良いか分かりません。

無くなってしまった私達の誇りでありました原宿ご本部が頭の中で、
映像として浮かびあがり輝きを取り戻し、私自身の中の深く沈み無くなったかとも思っていた、授かってきた使命の光が共鳴して再び光を取り自身でその存在を再び発見出来て、再度光を放ち始めたような嬉しい気持ちで一杯になりましたと言う事が正直な気持ちなのです。

消えてしまった使命感を持った魂に光を当てて下さって頂きました。
消えてしまった事さえ無自覚になっていました。


これからは、本来の使命に邁進しなくては、と反省しました。

これからは、神様にお詫びして神様の御心の通り素直に従います。

志恩さま、本当にありがとうございます。
出会いに感謝です。初代から今の管理人さままで感謝いたします、

皆様、有難うございます。

神の子の生命を再び吹き込まれました。
志恩様、誠にありがとうございました。

これからも宜しくお願い致します。


追伸、昨日の続きは昨日のスレッドに記入しました。
失礼致しました。


これも追加:原宿本部にあった「電話交換室」のこと (60390)
日時:2023年08月16日 (水) 14時49分
名前:志恩

昭和時代の電話交換手の1日を追った 
昭和の暮らし映像ch / 昭和物語
(1961年)昭和36年の映像
https://www.youtube.com/watch?v=NgJtNxOlE3c

志恩ー
昭和36年とは、私が原宿本部へ奉職した年。
その年に撮影されたという
「電話交換室」の映像が載っていました。

この映像は、田無郵便局の「電話交換室」の映像ですから、
大がかりですが、原宿本部に存在した「電話交換室」は
3畳ほどの洋間の小部屋でできていて、電話交換手は、
50代後半ぐらいの松本さんと、60代の深津さんという
2名の女性が、電話交換手専門の本部職員でした。


外部から生長の家本部の代表電話で「電話交換室」に
かかってくる電話を、
「〇〇部の、〇〇さんにお願いします」といわれると各部局の
内線に、いちいち つないでいました。

各部局の内線電話は、電話交換室を通さなくても、
内部で、つながっていました。

生長の家本部を、陰で支えておられるお仕事でしたが、
私はこういうお仕事をされるお方も、とても大切なお仕事を
されていると、尊敬しておりましたので、お二人と、仲良く
させていただいておりました。





元全国白鳩会会長、白鳩会全国講師、婦人局局長、本部理事・【古川恵偉(えい)】先生のこと (60415)
日時:2023年08月19日 (土) 06時39分
名前:志恩

「シオ・スレッド」より

昭和54(1979)年の「聖使命新聞」の切り抜き記事より。
(白鳩誌、百万部拡大運動の陣頭指揮をとっていらした
全国白鳩会長・古川恵偉先生)



私が原宿本部に奉職し、白鳩会中央部(婦人局)に所属したときの
「本部理事」、「婦人局長」並びに「全国白鳩会会長」は、
高瀬不二先生でしたが、

その後、昭和39年(1964年)から、
その役職は、
古川恵偉(えい)先生に、かわりました。

私が退職する時も、
本部理事で、全国白鳩会長で、婦人局長は、古川先生でした。

その先生が、昭和54(1979)年5月25日に、72歳で、その時は、すでに
長老になられてましたが、巡講先の和歌山県で高血圧による脳出血のため
ご逝去されたという小さ記事が聖使命新聞に載っていましたので、
それを私は大事に切り抜いて、昔の私の日記帳に挟んであるのを
先日、見つけましたので、ご紹介します。

__________
昭和54(1979)年の「聖使命新聞」より
「古川恵偉長老逝く光明化に捧げ尽くした全生涯」

古川恵偉先生(長老)は、全生涯を光明化に捧げ尽くした。

昭和11(1936)年、本部に婦人部が設立されるに伴い同部に勤務
してより、同昭和13(1938)年、学生道場開設とともに寮母として学生の
世話にあたり、戦後は昭和26(1951)年)より本部婦人局(白鳩会中央部)へ
勤務、同部次長、部長をへて、

昭和39(1963)年に婦人局長、白鳩会長に就任。

燃えるような情熱と愛情を光明化運動に捧げ続け、
定年退職後も全国講師として変わらぬ情熱を燃やしつつ、
活躍してきた。

特に白鳩会長としての14年間(昭和39年ー昭和53年)には、

持ち前の強力な熱意に
より、全国の白鳩会員とともに強烈な神誌拡大運動を展開、

当初18万部だった『白鳩』誌を、133万部にまで拡大、
爆発的な成果を収めた他、

「建国記念日制定推進全国婦人大会」を開催、陣頭に立って、これを指揮、
同記念日制定に巨石を投じ、又、

白鳩会全国大会(例年五月に開催)
七回 連続 二万名 以上 突破 等々

その功績は 枚挙に 遑(いとま)がない。

昭和54(1979)年6月本部大道場にて、
谷口輝子先生が祭主で、副総裁先生ご夫妻御臨席のもと
「追悼慰霊祭」が行われることになった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
志恩ー
私が原宿本部に奉職中、全国白鳩会長、婦人局局長だった

>【古川 恵偉先生】は、

全国白鳩会長としての14年間
(昭和39年ー昭和53年)には、

18万部だった『白鳩』誌を、133万部にまで拡大、

「建国記念日制定推進全国婦人大会」を開催、陣頭に立って>これを指揮、
同記念日制定に巨石を投じ、又、

白鳩会全国大会(例年五月に開催)七回 連続 二万名 以上 突破 等々
その功績は 枚挙に 遑(いとま)がない。<

その全国会長を辞任された翌年に、ご逝去されたのでした。

古川先生は、白鳩会中央部に入られる前は、生長の家学生道場の
寮母を13年間されていたのでした。

古川先生が、全国白鳩会長に就任された昭和39年のとき、私も
白鳩会中央部におりましたが、そのとき、古川先生は、57歳、
志恩、22歳でありました。古川先生は志恩より35歳、年上。
(古川先生は、明治40(1907)年生まれです。)

古川先生は、毎年、5月に開催されていた白鳩会全国大会にて
7年連続で、2万名の、全国の白鳩さんたちを集めておられたのでした。

相愛会、青年会、白鳩会、合同ではなく、
7年連続ですよ、
白鳩会だけで、当時は、2万名も、集めていたということは、驚くべきことです。

今の生長の家教団が全国大会を開催したら、どのくらい集まるのでしょうか。

今年の4月に、学ぶ会の全国大会が、開催されましたが、2千名、集まらなかった。

その昔と今の違いは、何なんだろかと、考えているところです。


白鳩会全国大会の1つの思い出 (60416)
日時:2023年08月19日 (土) 07時58分
名前:志恩

もう60年も前のことで、詳しくは覚えていないけれど、
毎年、「白鳩会全国大会」の前は、ものすごく忙しかったこと
は、よく覚えています。

なにせ、「白鳩会全国大会」の主催者は、「白鳩会中央部」
なのですから。

全国の白鳩会の中から、例年、「努力賞」、「功労賞」を授与される
方々が選ばれまして、その方達には、表彰状と記念品をさし
あげていましたので、一人もオチがないように、お名前のミスが
ないように、胸につける記章の準備も しました。

プログラムも作成しましたし、
お弁当の手配もしましたし、
全国の県連白鳩会長も上京され、参加されますので、
あれこれと、お接待の準備もしました。

「全国大会」当日の昼のお山様の食事は、たいてい、「うな重」でした、
昼のお山様の休憩時間には、私は、お山係でもありましたので、
お吸い物の準備と、お茶の準備も、怠りなく、やらないといけません
でした。

それで、午後4時に全国大会が無事に終了し、
白鳩会幹部の皆様をお見送りしましてから、やっとホッとして
本部に一旦戻り、原宿駅に向かい、帰途につくのでした。

ところが、あるとき、「白鳩会全国大会」に参加した後、本部に
寄られて、これから、東京駅まで行き、地方へ帰るのだという
一人で上京したというおばあちゃんと原宿駅で、一緒になりまして、
はじめて、一人で、上京してきたので、どうやって、東京駅へ
いってよいやらわからないと、オロオロしている、おばあちゃんで。

私は、そのとき、綿のように疲れていたのですが、「わかりました。
私は本部の人間ですが、あなたを東京駅まで送って差し上げますよ」
と、私は言いまして、帰る方向と、東京駅は、違うのですが、
そのとき、そのおばあちゃんを、東京駅まで 送って行ったことが
ありました。

そのおばあちゃんは、「さすが、あなたは生長の家の本部の人ですね、
ご親切は忘れません、とても嬉しかったから、家へ帰ったら、お礼に
何かお送りしますから、あなたの住所とお名前を、紙に書いて
くれませんか」、と私に言われましたが、私は、「お礼なんかいりませんよ、
全国大会に来てくださってありがとうございました。
また、来年も来てくださいね」、と笑顔で言って、名も告げずに
東京駅で、バイバイしたことがありました。
 
今思えば、幼いころから おばあちゃん子だった私は、おとなったになってからは
困っているおばあちゃんには、いつも親切にする人間だったな、と娘時代の私を
思い出しております。




このお部屋いつも↑にあげたいな (60960)
日時:2023年09月08日 (金) 23時07分
名前:元信徒


みんな、見てね。

素敵な志恩さんの回顧録🌹🌺💐

元信徒様 (60964)
日時:2023年09月09日 (土) 06時33分
名前:志恩

元信徒様が 親記事を立ててくださった
このスレッドのおかげで、
私は、60年前、谷口雅春先生が総裁先生で
いらした原宿本部時代のことを書くことが
できました。

でも、続きは書いていませんでしたから、
見えない位置へ行ってしまいまして、
忘れ去られておりました。
このたびは。ご親切に、アップしてくださって、
ありがとうございました。

原宿本部時代のこと一つ、思い出しましたから、追加で書くべ (61125)
日時:2023年09月21日 (木) 16時45分
名前:志恩

原宿本部時代のことでした。
年月日は覚えていないのですが、
ある日、庶務部の原本部講師(男性)が、
私のいる白鳩会中央部に、1通の封書を手に
やってこられまして、私のところへ来て
「あのね、東京都のある人から本部宛に、
手紙が来ましてね、手紙によると、この人は
産婦人科医院の院長夫人だと書いてある。

で、本部宛の手紙には、
「知り合いから白鳩誌をいただいて読んだのだけれど、
すごく感激した。
それで、生長の家本部にいって、お話を聞きたいと
思っていますが、自分は、今、全身神経痛になっており、
自分の部屋で、寝たきりになってて、歩けないので、
本部へ行きたくても行けないから、
本部の人に、うちへ来てもらって、個人指導を受けたいのです。
それで、どなたか、本部の人に、うちへ個人指導に
来てもらえないでしょうか」
という依頼の手紙だったのでした。

で原部長が私にいうには、
「発信人の住所を見たら、志恩さんちに、近い住所だったのよ。
本部の人に、個人指導しに来て欲しいという希望なんだから、
志恩さんちに近いから、志恩さんが行くのが、ちょうどいいと思ってね、
それで、志恩さんに、頼みたい。この人の家に近いから、至急、
行ってあげてよ」

私は、驚いて、手紙に書いてあるその人の住所を見ると、
うちとは1丁目違いの産婦人科医院の住所が書いてありました。

私は、原先生に
「個人指導に来て欲しいというのですから、近くに住む地方講師の
先生に、お願いしたほうがいいと思います。
だって、私は、本部職員ではあるけれど、講師じゃないですもの。」

とお断りしたのですが、
原先生がいうには、
「近くに地方講師はいない。本部の人に来て欲しいと
書いてあるのだから、志恩さんが、本部から来ましたと
言えば、喜ぶから、行ってあげてよ。頼むよ!!」と、押し切られてしまいまして、
すぐに来て欲しいと書いてありましたから、すぐの木曜日の
休日の午後に、電話してから、その産婦人科へ、私は行きました。

何を持って行ったらいいかと考え、実母が母の友人から「真理」を
いただいて、母は救われましたので、「真理」と「聖経・甘露の法雨」と
「白鳩誌」を、お土産用に本部で買って、伺いました。

院長夫人は、産婦人科医院内の立派な個室内のベッドに休んでおられました。
私は、20歳ぐらいで、あちらの院長夫人は50代くらいの人でした。

私は院長夫人のお話を先に聞きまして、「失礼ですが、全身神経痛だと、
流産児がおられますよね」と申し上げましたら、「はい、四人います」
と答えられました、供養はしていないと言われましたので、一人一人
名前をつけて、本部の祈願部へ流産児供養をすぐにお願いすることと、
それだけじゃなくて、すごく恨んでる人も身近にいるでしょうと、言いましたら
苦しい胸の内を詳しく打ち明けてくださいまして、それで、私も、何を話したのかは、
忘れましたが、生長の家で教えていただいていることを、受け売りでしたが、
心を込めて、お伝えいたしましたところ、その院長夫人は、とても穏やかな
いい性格の人で、こちらが申し上げたことを、全部素直に受けいれて聞いて
くださいました。
私が、本部から来ましたと申し上げたので、すぐに来てくださって、ありがたいと
年下の私に、丁寧にお礼を言われました。
私の持って行った本と、聖経は、院長夫人に、プレゼントしました。

私は、翌日、原宿本部へいき、原先生に、昨日行ってきましたと
ご報告して、その件は、お役目が終わりましたので、すっかり忘れ去って
いましたところ、

それから半年ぐらい経った頃だったと思いますが、
その院長夫人が、ある日の夕方遅くに
私宅の私のところへ、菓子折り持参で 訪ねてこられまして、
「あれからすぐに、流産児供養を本部の祈願部に、郵送にて、
お願いをしたこと、
「甘露の法雨」を毎日、ご仏壇の前であげていること、
そして、、恨んでいた人もゆるして、「真理」の本に
書いてあることを実行していたら、あれほどひどかった全身神経痛が
きれいさっぱりなくなりました。治りました。
あなたが、個人指導に来てくださったおかげです。
ほんとうにありがとうございました。」
と私に、丁寧にお礼を言われたのでした。

私は、驚いて、

「えっ、あなたの全身神経痛が、ほんとに治ったんですか!」と
聞き直したくらい、自分でも信じられない出来事でした。

私は、ただ、生長の家の本に書いてある通りのことを、
すべて、受け売りで、お伝えしただけでしたが、ご本人がそれを信じて
実行したら、神癒が 行われた という体験談でした。








ご投稿をありがとうございました。 (61133)
日時:2023年09月22日 (金) 14時34分
名前:元信徒

思い出して下さり、素晴らしい内容のご投稿をありがとうございました。

昔は、生長の家本部に、教団全体に神霊がやどっておられましたからね。
ましてや、こちらの時代は、谷口雅春先生が陣頭指揮を取られておられて、それは最高に浄化されていらして、皆さんが活気があり、喜び充満した生長の家でしたからね。

雅春先生が御存命のときまでは、
本部の電話の応答の女性も優しくて、テキパキして、感じが良くて、生長の家ってさすがだな。
と思っていました。

それより以前の志恩様方々の時代は、誰もが皆魂が救われていたのでしたね。
感動しました。ありがとうございます。

あと、全身神経痛は流産児と
どう関係があるのですか?

流産児の症状はあとは、どんなのかありますか?

昔の個人指導は、奇跡の連続です。

聞いたお話でも何でも又
思い出されましたら、沢山書いてください。

当時は、雅春先生の奇跡は如何でしたか。
又、他の本部の先生方々の講話で印象に残った事や、奇跡の個人指導など、その都度、是非、宜しくお願いします。


志恩様のご訪問、信徒さんから見れば有難い事ですね。本当に。手厚くて。
良い時代でした。










元信徒様 (61138)
日時:2023年09月23日 (土) 05時30分
名前:志恩

最近、出ていらっしゃらなかったので、
どうされたのかしら、と案じておりましたが、
久しぶりに、ご投稿くださったので、お元気でいらしたのだ、と
わかり、とても嬉しくなりました。
元信徒様が、親記事を立ててくださったので、
思い出した時は、ここへポツポツと書かせていただいております。
ありがとうございます。


原宿本部時代の谷口雅春先生が総裁先生でいらした時代は、
毎月発行されていた五種類の神誌に、
谷口雅春先生が
人類救済のため
人類を光明化するため
人類を励まされるため
真理のお言葉の
数々を書いてくださっていました。

それだけではなく、著書へも、また、講演会でも、
そして、毎月第一と第三金曜日に本部で開催されていた
本部白鳩会では、お山のお四方の先生がご出席されまして、
集まった300名ほどの白鳩の皆様に
谷口雅春先生が、直接、質問に答えてくださっていました。
参加費は、無料でした。

ですから、たとえば、
全身神経痛になる原因とかも、私たち本部職員でも、自然に
学んでいましたので、知っていたのです。

原因を知っていただけでなく、
それでは、病に苦しんでいる人や、心が病んでいる人は、
どのようにすれば、どのように生きてゆけば、救済されるかも、
教えていただいていましたから、それを人様にお伝えし、
伝えられた人が、それを素直に実行さえすれば、人々は
苦しみから解放されて、光明の人生を歩むことでできるように
なれたのでした。

生長の家のご本尊である住吉の大神様は、浄化の神様
ですから、体の病も、心の病も、浄化してくださり、
神癒が、普通に行われていたのでした。

三代目の雅宣総裁先生になってから、住吉の大神様を、
隠されたので、生長の家の本来のお働きである救済が
昔のようには、行われなくなりました。残念に思っております。

三代目の谷口雅宣先生は、谷口雅春先生の説かれていた真理
をまったく理解できない魂の持ち主のお方でした。

谷口雅春先生の説かれる真理が理解できないということは、
谷口雅春先生のことも、いうまでもなく尊敬できないということです。

谷口雅春先生を尊敬もできないし。
真理の法則は、物理、科学、化学、生物学、医学などの現象学を超えた
法則ですが、そのような宇宙の法則であり、哲学でもある生長の家の真理も、
理解できない。
多くの人が読めば救われた「生命の實相」を読んでも、
理解できないから、なんとも感じないし、救われないし、
ありがたみも感じない。

そのような三代目さんですが、
2代目の清超先生は、雅宣先生のお父様なので、雅宣先生ご夫妻の
佳き理解者で、ご性格も優しく、東大出でしたので、頭もいいお方で、
谷口雅宣先生ご夫妻は、聞くところによりますと、清超先生から一度も
叱られたことがないそうなんですよね。
清超先生は、谷口雅春先生が原宿本部にて
総裁先生をされておられた時は、副総裁でした。

その時代は、清超先生は、雅春先生に100%イエスで
生きていらしたのだと思います。

しかし、谷口雅春先生が長崎の九州総本山に越された後、
清超先生が、原宿本部での責任者になられまして、その後、
雅春先生がご逝去され、
2代目総裁にご就任されますと、副総裁に雅宣先生が
就任され、その時から、清超先生の総裁は名ばかりで
実際の実権を握っていて、生長の家の組織の陣頭指揮を
とっているのは、清超先生ではなく、雅宣先生だということは
私の存じ上げていた数多くの本部講師や本部職員の方々から
聞いておりました。

ですから、それが事実だとしましたら、
谷口清超先生は、総裁になってからは、雅春先生に代わって
自分の息子である雅宣さんに100%イエスで生きていらした
のではないでしょうか。

大東亜戦争が聖戦ではなく、あれは侵略戦争だったと、
清超先生と雅宣先生の二人のコンビで、雅春先生も
間違えるのだということで、生長の家教団として公式に
発表されましたし。

雅宣先生ご夫妻は、よく清超先生のことは、絶賛されて、
「かけがえのない清超先生」という言葉を、よく使われます。

しかし、雅春先生については、かけがえのない雅春先生とは
おっしゃったことは一度もございません。
お母様の、恵美子先生についても、かけがえのない
恵美子先生と、おっしゃったことは、一度もございません。

これは、私の個人的な考えですけれど、
雅宣先生が、総裁になられることは、恵美子先生が望んだのだ
と聞いておりますが、
実際に、雅宣先生が総裁になられてから、
2013年頃でしたか、まだ雅宣先生ご夫妻が、お山で、2軒のお家
で、恵美子先生と雅宣先生ご夫妻が、隣同士でお住まいだった時、
雅宣先生がご自分の部下に命令して、おこなっていたというあの有名な
「恵美子先生・軟禁事件」というのがございましたよね。

その上、恵美子先生の実子や孫が、お山へ恵美子先生に
会いに来ても、雅宣先生の部下が見張り役でいて、
絶対にあわせなかったり、
一日中、恵美子先生に誰から電話がかかってきたか、部下が
メモをして、いちいち雅宣先生に報告させたりしていた。

当時、第二掲示板に書いてあったことですが、
恵美子先生の定期預金通帳と銀行の印鑑を
取り上げたという件、

そして、毎月、恵美子先生から
高額な家賃までとっていた件、

とうとう、恵美子先生は
精神的に参ってしまい、重いうつ病になってしまい、
心療内科へ通院をされていて、四国の娘さんの寿美様が
その状況を知り、見るにみかねて恵美子先生を内緒で
お山から連れ出して、四国の、寿美様の
お宅へ引き取られて、やっと、恵美子先生はお元気を
とりもどされたというニュースは、当時、谷口貴康先生が、
ご自分のブログである田舎もんブログに、書いておられましたから
信憑性は高い情報だと思っております。

それで、雅宣先生ご夫妻にとっては、
なぜ、父親である清超先生は、自分たちにとって、
かけがえのない存在なのか

それに反して、母親である恵美子先生は、
雅宣先生ご夫妻にとって、
かけがえのない存在どころではなく、
あのような、ひどい目に合わせていた存在だったのか、
ということを、私は自分なりに考えてみました。

私の考えでは、
清超先生が総裁になったのは、60代の時でしたから、
自分を裏切らない信用できる賢い30代前半だった息子の
雅宣先生が、副総裁として自分を支えてくれるために
原宿本部に入ってくれたのは、すごく、心強く嬉しいことだった
のだと思います。
それに、清超先生のご性格はとても優しくていい性格のお方ですから、

清超先生は、
以前に、雅春先生に100%イエスで、生きていらしたように、
今度は息子である雅宣先生に100%イエスで、生きていらした。
そして、雅宣先生のことを何もかもかばって生きていらした。
君の好きなように、やって良いとまで言われていた。

それで、雅宣先生ご夫妻にとっては
清超先生は、かけがえのない
素晴らしい先生なのでは、ないでしょうか。


恵美子先生は、では、どうだったか と考えますと。
恵美子先生は、清超先生の妻ではありますが、元はと言えば
雅春先生と輝子先生の一人っ子の娘さんですから、
娘というのは、一番、実の母親の言うことは素直に聞く性格でございますから、
雅春先生と輝子先生の、お気持ちや、お立場を、清超先生よりも、
雅宣先生よりも、はるかに、きっちりと、理解されていらしたはずです。

恵美子先生の場合、雅宣先生が総裁になることは望んだけれど、実際に
雅宣先生が総裁になりましたら、やることなすこと、清超先生のようには、
100%イエスではなかった。おかしいと思われたことは、おかしいと、言われた。
それで、面白くないと思うことが度々あった、雅宣総裁ご夫妻は、
母親である恵美子先生に対してあのようなひどい目に合わせていた。

と言うのが、私が考えました結果です。

違う場合は、雅宣先生でも純子先生でもご反論ください。




総裁になられた
谷口雅宣先生は、生長の家の真理は理解できなくても、
環境学だけは
理解できるので、生長の家を現象学である環境学と、
自然を愛するという理由で、
純子先生は、肉食をしないという教えを中心に置く教えに
改竄してしまいました。

石を拝むことも始められ、自転車に乗ること、クラフト、家庭菜園。
を組織の中心の運動におき、
住吉の大神様を後ろに引っ込めてしまいまして、
谷口雅春先生が、お祀りする神ではないと言われていた
「造化の三神」を全国教化部の道場の「實相額」の前と、
本部の直轄道場の大道場の「實相額」の前に、お祀りさせました。
ミニ七重の塔も、お祀りさせました。

その雅宣総裁先生のされたことの結果が良ければ、
生長の家は、生長の家(大宇宙の神)神様の祝福を得て
弥栄えるはずでした。

はずだったのです。
はずでした。

それから、
谷口雅春先生が総裁先生でいらした時代の
原宿本部の休日は、木曜日だけでしたけれど、
当時の谷口輝子先生のお話によりますと、本部職員は木曜日に
おやすみしていましたが、谷口雅春先生は、木曜日も
休みなく、人類光明化のためのお仕事をなさっておられると
私は、輝子先生から直に伺っておりました。

教団は本部職員の休日を増やしたそうですが
本来の救済をしない教団では、終わりに近くなる
ばかりだと思っております。



ここまで言うようになった私は、最近、サスペンス映画の
観過ぎかしら。。。

映画の感想文の影響で、あらすじを書いてくださいました。 (61142)
日時:2023年09月23日 (土) 10時29分
名前:元信徒

>
日時:2023年09月23日 (土) 05時30分
名前:志恩

最近、出ていらっしゃらなかったので、
どうされたのかしら、と案じておりましたが、
久しぶりに、ご投稿くださったので、お元気でいらしたのだ、と
わかり、とても嬉しくなりました。
元信徒様が、親記事を立ててくださったので、
思い出した時は、ここへポツポツと書かせていただいております。
ありがとうございます。


原宿本部時代の谷口雅春先生が総裁先生でいらした時代は、
毎月発行されていた五種類の神誌に、
谷口雅春先生が
人類救済のため
人類を光明化するため
人類を励まされるため
真理のお言葉の
数々を書いてくださっていました。

それだけではなく、著書へも、また、講演会でも、
そして、毎月第一と第三金曜日に本部で開催されていた
本部白鳩会では、お山のお四方の先生がご出席されまして、
集まった300名ほどの白鳩の皆様に
谷口雅春先生が、直接、質問に答えてくださっていました。
参加費は、無料でした。

ですから、たとえば、
全身神経痛になる原因とかも、私たち本部職員でも、自然に
学んでいましたので、知っていたのです。

原因を知っていただけでなく、
それでは、病に苦しんでいる人や、心が病んでいる人は、
どのようにすれば、どのように生きてゆけば、救済されるかも、
教えていただいていましたから、それを人様にお伝えし、
伝えられた人が、それを素直に実行さえすれば、人々は
苦しみから解放されて、光明の人生を歩むことでできるように
なれたのでした。

生長の家のご本尊である住吉の大神様は、浄化の神様
ですから、体の病も、心の病も、浄化してくださり、
神癒が、普通に行われていたのでした。

三代目の雅宣総裁先生になってから、住吉の大神様を、
隠されたので、生長の家の本来のお働きである救済が
昔のようには、行われなくなりました。残念に思っております。

三代目の谷口雅宣先生は、谷口雅春先生の説かれていた真理
をまったく理解できない魂の持ち主のお方でした。

谷口雅春先生の説かれる真理が理解できないということは、
谷口雅春先生のことも、いうまでもなく尊敬できないということです。

谷口雅春先生を尊敬もできないし。
真理の法則は、物理、科学、化学、生物学、医学などの現象学を超えた
法則ですが、そのような宇宙の法則であり、哲学でもある生長の家の真理も、
理解できない。
多くの人が読めば救われた「生命の實相」を読んでも、
理解できないから、なんとも感じないし、救われないし、
ありがたみも感じない。

そのような三代目さんですが、
2代目の清超先生は、雅宣先生のお父様なので、雅宣先生ご夫妻の
佳き理解者で、ご性格も優しく、東大出でしたので、頭もいいお方で、
谷口雅宣先生ご夫妻は、聞くところによりますと、清超先生から一度も
叱られたことがないそうなんですよね。
清超先生は、谷口雅春先生が原宿本部にて
総裁先生をされておられた時は、副総裁でした。

その時代は、清超先生は、雅春先生に100%イエスで
生きていらしたのだと思います。

しかし、谷口雅春先生が長崎の九州総本山に越された後、
清超先生が、原宿本部での責任者になられまして、その後、
雅春先生がご逝去され、
2代目総裁にご就任されますと、副総裁に雅宣先生が
就任され、その時から、清超先生の総裁は名ばかりで
実際の実権を握っていて、生長の家の組織の陣頭指揮を
とっているのは、清超先生ではなく、雅宣先生だということは
私の存じ上げていた数多くの本部講師や本部職員の方々から
聞いておりました。

ですから、それが事実だとしましたら、
谷口清超先生は、総裁になってからは、雅春先生に代わって
自分の息子である雅宣さんに100%イエスで生きていらした
のではないでしょうか。

大東亜戦争が聖戦ではなく、あれは侵略戦争だったと、
清超先生と雅宣先生の二人のコンビで、雅春先生も
間違えるのだということで、生長の家教団として公式に
発表されましたし。

雅宣先生ご夫妻は、よく清超先生のことは、絶賛されて、
「かけがえのない清超先生」という言葉を、よく使われます。

しかし、雅春先生については、かけがえのない雅春先生とは
おっしゃったことは一度もございません。
お母様の、恵美子先生についても、かけがえのない
恵美子先生と、おっしゃったことは、一度もございません。

これは、私の個人的な考えですけれど、
雅宣先生が、総裁になられることは、恵美子先生が望んだのだ
と聞いておりますが、
実際に、雅宣先生が総裁になられてから、
2013年頃でしたか、まだ雅宣先生ご夫妻が、お山で、2軒のお家
で、恵美子先生と雅宣先生ご夫妻が、隣同士でお住まいだった時、
雅宣先生がご自分の部下に命令して、おこなっていたというあの有名な
「恵美子先生・軟禁事件」というのがございましたよね。

その上、恵美子先生の実子や孫が、お山へ恵美子先生に
会いに来ても、雅宣先生の部下が見張り役でいて、
絶対にあわせなかったり、
一日中、恵美子先生に誰から電話がかかってきたか、部下が
メモをして、いちいち雅宣先生に報告させたりしていた。

当時、第二掲示板に書いてあったことですが、
恵美子先生の定期預金通帳と銀行の印鑑を
取り上げたという件、

そして、毎月、恵美子先生から
高額な家賃までとっていた件、

とうとう、恵美子先生は
精神的に参ってしまい、重いうつ病になってしまい、
心療内科へ通院をされていて、四国の娘さんの寿美様が
その状況を知り、見るにみかねて恵美子先生を内緒で
お山から連れ出して、四国の、寿美様の
お宅へ引き取られて、やっと、恵美子先生はお元気を
とりもどされたというニュースは、当時、谷口貴康先生が、
ご自分のブログである田舎もんブログに、書いておられましたから
信憑性は高い情報だと思っております。

それで、雅宣先生ご夫妻にとっては、
なぜ、父親である清超先生は、自分たちにとって、
かけがえのない存在なのか

それに反して、母親である恵美子先生は、
雅宣先生ご夫妻にとって、
かけがえのない存在どころではなく、
あのような、ひどい目に合わせていた存在だったのか、
ということを、私は自分なりに考えてみました。

私の考えでは、
清超先生が総裁になったのは、60代の時でしたから、
自分を裏切らない信用できる賢い30代前半だった息子の
雅宣先生が、副総裁として自分を支えてくれるために
原宿本部に入ってくれたのは、すごく、心強く嬉しいことだった
のだと思います。
それに、清超先生のご性格はとても優しくていい性格のお方ですから、

清超先生は、
以前に、雅春先生に100%イエスで、生きていらしたように、
今度は息子である雅宣先生に100%イエスで、生きていらした。
そして、雅宣先生のことを何もかもかばって生きていらした。
君の好きなように、やって良いとまで言われていた。

それで、雅宣先生ご夫妻にとっては
清超先生は、かけがえのない
素晴らしい先生なのでは、ないでしょうか。


恵美子先生は、では、どうだったか と考えますと。
恵美子先生は、清超先生の妻ではありますが、元はと言えば
雅春先生と輝子先生の一人っ子の娘さんですから、
娘というのは、一番、実の母親の言うことは素直に聞く性格でございますから、
雅春先生と輝子先生の、お気持ちや、お立場を、清超先生よりも、
雅宣先生よりも、はるかに、きっちりと、理解されていらしたはずです。

恵美子先生の場合、雅宣先生が総裁になることは望んだけれど、実際に
雅宣先生が総裁になりましたら、やることなすこと、清超先生のようには、
100%イエスではなかった。おかしいと思われたことは、おかしいと、言われた。
それで、面白くないと思うことが度々あった、雅宣総裁ご夫妻は、
母親である恵美子先生に対してあのようなひどい目に合わせていた。

と言うのが、私が考えました結果です。

違う場合は、雅宣先生でも純子先生でもご反論ください。




総裁になられた
谷口雅宣先生は、生長の家の真理は理解できなくても、
環境学だけは
理解できるので、生長の家を現象学である環境学と、
自然を愛するという理由で、
純子先生は、肉食をしないという教えを中心に置く教えに
改竄してしまいました。

石を拝むことも始められ、自転車に乗ること、クラフト、家庭菜園。
を組織の中心の運動におき、
住吉の大神様を後ろに引っ込めてしまいまして、
谷口雅春先生が、お祀りする神ではないと言われていた
「造化の三神」を全国教化部の道場の「實相額」の前と、
本部の直轄道場の大道場の「實相額」の前に、お祀りさせました。
ミニ七重の塔も、お祀りさせました。

その雅宣総裁先生のされたことの結果が良ければ、
生長の家は、生長の家(大宇宙の神)神様の祝福を得て
弥栄えるはずでした。

はずだったのです。
はずでした。

それから、
谷口雅春先生が総裁先生でいらした時代の
原宿本部の休日は、木曜日だけでしたけれど、
当時の谷口輝子先生のお話によりますと、本部職員は木曜日に
おやすみしていましたが、谷口雅春先生は、木曜日も
休みなく、人類光明化のためのお仕事をなさっておられると
私は、輝子先生から直に伺っておりました。

教団は本部職員の休日を増やしたそうですが
本来の救済をしない教団では、終わりに近くなる
ばかりだと思っております。



ここまで言うようになった私は、最近、サスペンス映画の
観過ぎかしら。。。

➖➖➖➖➖

はい、ガジモドさまの 映画評論家の映画紹介のおかげもあり、
志恩様は、全体のあらすじを書き、感想文を書くのが、今までもお上手でしたが、更に文章力が向上されました。

大半の皆様が思っている事を文章にしてくださいますから、気持ちが スカッとして、
頭が整理され胸がスッキリ致します。


又、
その頃の先生方のご指導の内容など、
思い出されましたら、これから後の方々の為に残して下さいませ。

雅宣夫妻の没後の助けとなると存じますので、志恩様のご発言は貴重です。
大変素晴らしい資料となると信じます。



どうぞ宜しくお願いします。




宝物 (61429)
日時:2023年10月19日 (木) 11時02分
名前:元信徒


このスレッドは私の宝物

戦前の生長の家本部 (61438)
日時:2023年10月19日 (木) 20時29分
名前:梶猛弩

 昭和10年に東京市赤坂区檜町4(当時の住所地番)に設置された生長の家本部の写真です。
 戦前は、この本部の講堂で谷口雅春先生が毎朝講話をなされていたとのことです。

 写真は、実家にありました。絵葉書のように印刷されています。
祖父母にとって大切な宝物だったのでしょう。

思い出した私が原宿本部時代の清超先生と和文タイプのこと (61442)
日時:2023年10月19日 (木) 21時50分
名前:志恩

私が原宿本部時代に輝子先生のお口利きで
清超先生に、私は和文タイプの個人教授を受けていた話は
前にいたしましたが、

ではなぜ、清超先生は、和文タイプを他人に教えるほど
お出来になっていらしたかについて、書かせていただきます。

今の時代背景では考えられないことかもしれませんが、
昭和30年代後半の頃というのは、パソコンもスマホもなく
コピー機もない、また、宅急便もない時代だったのです。

清超先生は、どこで和文タイプを習って習得されていたのかは
聞いたのでしょうけれど、私は覚えていないのですけれど、
あの当時、清超先生は、全ての原稿を東芝の和文タイプで
打って、書かれていたのです。

清超先生は、自分の字は、読みづらいから、
タイプで文を考えながら打つ方が、自分には
向いているのだ、と私にそうおっしゃっておいででした。

私に婦人局(白鳩会中央部)で、使うために買って
くださったのが、
清超先生が使っているのと、全く同じ機種の東芝の
和文タイプでした。

原宿本部で、その同じ機種の和文タイプを使っている人は
他にいませんでした。清超先生と私の二人しかいませんでした。

ですから、わからないことがあったり、機械が不調になった
場合、私は、婦人局からお山の清超先生に直接お電話して
聞いたり、不調になった時は、困って清超先生にお電話しますと
清超先生が、急いで車に乗って駆けつけてきて、婦人局まで
きてくださって、私の和文タイプの故障を直してくださったり
していました。

それは、私が、清超先生の和文タイプの生徒になってから
私が本部を退職するまで、続いておりましたから、5、6年間は
続いておりましたことです。

あの当時は、清超先生は総裁ではなく副総裁でいらした時期
ですので、そんなに忙しくはなかったから、私のような一事務員に
和文タイプを教える時間の余裕があったのだと思います。

それで、清超先生は、和文タイプで原稿を打つのですが、
生長の家のことを打つわけですから、宗教用語の言語が
頻繁に出てきます。普通の和文タイプには、宗教用語の
言葉がないので、その言葉が必要になりますと、
新しい言葉というか、活字を、活字屋さんに特別注文して
作ってもらっておられました。

活字屋さんは、秋葉原に店があり、その頃は、注文するのも
出来たのを、取りに行くのも、秋葉原の活字屋さんまで
清超先生に頼まれて、私が行っていたのです。
今、思えば、不便な時代でした。

私のアルバムに貼ってあった清超先生のメモの中に、
〇〇さん(志恩さん)「○」と「○」という活字を、活字屋に至急、
注文してください。志恩さんと僕と、二人分ねと、書いてあるのが
ございますが、

清超先生は、大変愛深いお優しいご性格のお方でしたので、
新しい活字を注文される時は、一事務員の私の分も、いつも
必ず一緒に注文してくださっていたのです。

それで、活字屋さんから私に、出来ましたから、取りに来て
くださいという電話がありますと、私は、秋葉原まで、取りに行き、
間違いがないかどうか、確認してから、お金を払って
受け取り、原宿駅からお山までは、あの時は、私は20歳ぐらいで
若かったので、すぐ近くに感じていましたので、お山の玄関先まで
清超先生に、お届けしていました。

あの頃の、別の思い出ですが、
お山へ行った時、お山に卓球台がありました。

私は清超先生に、「先生は卓球、されるのですか?」
とお聞きしましたら「しますよ」と言われたので
「実は、私、学生時代、卓球部にいて、対校試合にも出ていたので、
私も卓球はできますよ」
と言いましたら、「じゃ、試合しようか」と清超先生に誘われて
何度か本気で 試合を したことが、ありました。

清超先生に「本気出して、やって良いですか? 私が勝つかも、
しれませんが。」と聞きましたら、
「良いよ、本気でやって」というので、
まじで本気でやって、なんども私は、清超先生を打ち負かした
思い出もございます。
清超先生は、負けても、全然平気なお方で、
「あんた、強いね」と、笑って終わっていました。

あと、清超先生は、私に和文タイプを、
清超先生専用のお山の事務室(洋室)で
教えてくださっていたのですが、
いつもオペラを鼻歌で歌いながら、
笑顔で楽しい雰囲気で、教えてくださっていました。
とても響きのある良いお声をされていました。

雅宣総裁が、歌がうまいのは、お父上様の歌のうまい
遺伝子が来ているのだと思います。

以上のように、
私にとりましては清超先生は、気さくで、すごく性格のお優しい
とてもいい先生だったのです。大好きな先生だったのです。
プラスの印象しか、個人的には私は、持っておりません。

この頃の清超先生は、40歳代前後のお若い時のことです。

(清超先生は大正8(1919)年10月23日生まれですので
私よりも23歳年上です。志恩20歳の時、清超先生43歳。)

ですから、私が本部を結婚のためやめたあと、
清超先生が総裁になられてからの、
本部講師の多くの皆様や
本部職員の多くの皆様からの声を聞くたびに、
私は信じられない気持ちでおりました。

人間は、高い地位を持つと、別人格になるのかしらと、
大変 不思議に 思っております。

ありがとうございます。 (61445)
日時:2023年10月19日 (木) 22時42分
名前:元信徒

ガジモド様、志恩様

ご移動、ご記入をありがとうございます。

そろそろあげましょか (61889)
日時:2023年11月20日 (月) 00時52分
名前:元信徒


初めてお越しの方に

雅春先生時代の原宿本部を知っていただきたい。

元信徒様 (61890)
日時:2023年11月20日 (月) 06時09分
名前:志恩

しばらく出ていらっしゃらなかったので、
いくら書いても、..変わらないや、と、あきらめて、
ご投稿をやめられたのかと思いまして
寂しい気持ちでおりました。
どこか旅行へいらしてたのですか。
あきらめずに出てくださって、嬉しいです。
心強く思っております。
私も、もうしばらく、やめないで、出させていただく
ことにいたしました。
今後ともよろしくお願いいたします。

令和6年 (62451)
日時:2024年01月03日 (水) 11時20分
名前:元信徒



明けましておめでとう御座います。


新人さんにみて頂けますように、上にあげます。

原宿本部時代、佐脇 嘉久本部講師(本部理事)の提唱により、理事も本部講師も職員も一体となって実践していた【英雄的行為】。その他のグループのこと。 (62854)
日時:2024年01月26日 (金) 08時27分
名前:志恩

======================
▫「英雄的行為」とは 「自発的行為」である。
     (カーネギー)
======================
▫財産や名誉を得る事のみ執心し、
  己の魂を善くする事に努めないのを 恥とは思わないのか。

▫一番大切なことは、
 単に生きることではなく、善く生きることである。
   (ソクラテス)
=======================
志恩ー

当時、企画局の佐脇嘉久先生と林光彦先生は、
親友で、何をするのも、一緒でした。

佐脇先生宅で月一の、個人的 な「読書会」という勉強会をするときも
必ず、林先生が参加されておられました。

私も、佐脇先生と林先生とは、特に仲良しで個人的な
同じグループに、大概、おりましたので、私もお誘いを
受けて、佐脇先生宅の「読書会」にも月一で参加していました。
佐脇先生宅の「読書会」には、佐脇先生の奥様も参加されていました。
これも、5.6人の少人数のメンバーでやっておりました。
佐脇先生のお考えで、大勢のメンバーにすると話がまとまらないので
少人数でやると言われてました。

私は、本部内での、佐脇先生が先導されていた
「祈りの会」という
5.6名参加の
小グループのメンバーの一員にもなっておりました。
こちらも月一でした。

のちに書きます、「英雄的行為の会」というグループは、
佐脇先生の提唱により、理事も、本部講師も、本部職員、も
一体となってやっていた人類光明化運動をますます促進するための
啓蒙運動でした。会員は、約40名おりました。

ーことわざー
【川の水は 流れているから腐らない。
どのような清水でも、流れていない水は腐る。
つまり、毎日何らかの進歩がなければゼロということ。】
    ⬆️
これは、総合企画局の
山口悌治先生、佐脇嘉久先生、大峡儷三先生が、
当時、常々、自戒を込めて、おっしゃっておられた言葉です。

私が原宿本部に捧職したのは、昭和36年1月、
本部会館が建ってから、7年目のことでした。

ですから、最初から 本部に いらした本部講師の先生方は、
最初のときから、すでに7年間も、本部にいらしたわけです。

それで、佐脇先生が、言われました。

「本部のわれわれみんなは、あまりに問題がなさすぎるから、
平和すぎて、惰性に流れているというか、生き生きしさに、
欠けて 来ているという 残念な気が します。

もっと はつらつとした気持ちで 新鮮な気持ちで、光明化運動をしないと、
生長の家の真の発展はないと最近、痛感しています。

このままでは、駄目だ。
本部の、理事、本部講師、本部職員全員が、
一丸となって、
日々、自分のできる、身近な小さいことで いいから、
新しいことに挑戦する、日々進歩するという
自己改革の実践が、必須だという考えに至りました。」

と言われました。

なので、当時、佐脇先生が気に入っていらした
【「英雄的行為」とは 「自発的行為」である。
     (カーネギー)】
の、この言葉をとって、

「英雄的行為の会」という名の自己改革の運動を起こそう、と
佐脇先生が発案されまして、山口悌治先生にご相談されましたところ、
賛成してくださったというわけで、その「英雄的行為」の運動を
早速、始めることになりました。


早速、


佐脇先生が、
この原宿本部内での啓蒙運動である【英雄的行為の会】と名付けた
運動はスターしました。

それで【英雄的行為の会】の委員長は、〇〇(志恩)になるようにと
佐脇先生が突然私に言われまして、なぜだか、
私がその会の委員長にならされました。
副委員長は、佐脇先生が、なりました。


私は、佐脇先生に、急に委員長になるように言われましたので
おどろきまして、
私は佐脇先生が、委員長の方がいいと言いましたら、
それでは 駄目なんだ、
貴女を、委員長にしなきゃ、この会は、駄目なんだと言われました。

私は、まるで、全然それらしくないので、
それが、良かったのかもしれません。

名前は、「英雄的行為の会」という大袈裟な名ですが、
実際にやることは、今までとは違った、ささやかなことでいいから
自主的に、新しいことを、何か1日に1つやる。

そして、その新しくやったことを、メモ紙でも何んでもいいですから、
紙に書いて、廊下にかけてある
「英雄的行為」と書いた箱に、投函する。

そして、その投稿した紙を、1週間分集めて、担当者が、ノートに
書き写しまして、英雄的行為の会員になってくださった皆様に
回覧しrてみていただき、励みにしていただいて、ますます自己を
向上させてゆくという運動でした。

私は、そのノートに まとめて書き写すことも、担当者に
なりました。


この会の会員には、
白鳩会中央部の全国講師全員、片岡事務局長、渋谷晴雄先生、
山口悌治先生、林光彦先生、
大峡先生、土居先生、久永先生、東山半之助先生、堀静先生.など......

理事、本部講師、本部職員の壁を超えて

約40名の方々が 会員になるという署名をしてくださって、
会員になってくださいました。

しかし、青年会中央部の方々は、新会館の離れたところに
おられたせいか、
誰も会員には、なって くださらなかったと記憶しています。


その会は、昭和43年の12月まで、約5年間続きました。

私が結婚するために、本部を退職することになったので、
私の あとを引きついでくださる方を、探しましたが
残念ながら 見つかりませんでしたので、やむなく、
私の退職とともに、その会は、幕を閉じたのでした。

私は、「英雄的行為の会」の委員長でしたが、
委員長というと、聞こえは いいですけどね、やっていたことは、
会員の皆様のお世話係であり,雑用係でした。

1週間分まとめた紙を、ノートに書き写す作業も、
結構、時間と手間がかかりました。

私は、家に、1週間の投函された紙を持ち帰りまして、帰宅
してから、奉仕で ずっとノートに書き写していたのでした。5年間。

そして、「英雄的行為」を記録し続けた厚めのノートは、2冊、に
なっていました。

そのノート2冊は、佐脇先生が、私が本部を退職する時に、
記念にと言われて、私に、プレゼントしてくださいました。

それを、だいぶ長いこと
私は結婚後も、保管していたのですが、何度も引っ越す内に、
処分してしまったので、今は、私の手元に、申し訳ありませんが、
そのノートは、もうありません。

今、思えば、東山半之助先生とか堀静先生とか、
他にも有名な先生方が、されていた英雄的行為の体験がたくさん
載っていましたのに、ノートは取っておくべきだったと、処分して
しまったことを、大変後悔しています。どうもすみません。
ーーーーーーーーーーー
⭐️「英雄的行為の会」グループは、
本部職員の理事、本部講師、職員が一体となって
英雄的行為を実践する約40名いたグループでしたが、

この「英雄的行為グループ」とは別に、原宿本部内では、
佐脇先生を中心にした 5、6名のメンバーでやっていた
先に書きましたが、
⭐️「祈りの会」という小人数制の「祈りのグループ」も、ありました。

この祈りのグループは、本部の仕事が終わった後、ある部屋に集まって、
5、6人のメンバーで輪になって祈り合いの神想観をする会でした。

光明化運動がますます発展することなどを祈っておりました。

「祈りの会」は、月一で、
本部の仕事の終了後、この5.6人の少人数で、
小道場とか個人指導室とかに集合して、世界平和と
人類光明化実現の夢を描いた祈りなどの祈り合いの
神想観を 無私の精神で真剣に実践していた会です。


なぜ、この当時のことについて、私がこんなに詳しいかといいますと
この当時、私は、毎日、よろこび日記をつけていたからです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
追記;ー佐脇先生の奥様のことー

実は、最近、私は、東京都港区に今もお住まいでいらっしゃる
佐脇先生の奥様に、お懐かしく思いまして、
住所も電話番号も知っておりますので、
私は、久しぶりに、お電話を差し上げたのでした。

佐脇先生の奥様は、佐脇先生よりも、かなり年下でいらして、
私と変わらない年齢のお方なのですが、今も、頭もはっきり
されていて、とてもお元気にお暮らしでした。

私のことも、しっかり覚えていてくださっていて、
とても喜んで好意的に対応してくださいました。

読書会のことも、
祈りの会のことも、
英雄的行為の会のことも
奥様は、佐脇先生から、先生の生前に度々 聞いていらしたようで、
今でも大変よくご記憶されておられます。

佐脇先生ご夫妻には、娘さんが2人おられますが、
お2人ともとても立派なお人柄のお方に育っておられるご様子です。

佐脇先生が亡くなられた後も、林光彦先生とはご家族で
親しくされておられたそうですが、林先生は、だいぶ前に、
亡くなられておられますとのことです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「祈りのグループ」のメンバーの写真は、アルバムに貼ってあります。

本当は6名、写っていますが、掲示板へ載せると差し障りのあるお方は
除きまして、4名のみの写真をスマホのカメラで撮り直しまして
載せさせていただきます。

後列、向かって左から、佐脇 嘉久本部講師、林 光彦本部講師
前列、向かって左から、岸 由美子さん(渉外局)、志恩

岸由美子さんが、結婚のため、本部を退職することになりましたので、
「祈りの会」メンバー全員で、記念写真を撮ったときのものです。
(原宿本部、裏玄関を出たところにて)

英雄的行為の会 (62856)
日時:2024年01月26日 (金) 14時04分
名前:元信徒


いつも感動する素晴らしいエピソードをご投稿下さり、誠にありがとうございます。
英雄的行為 と言う言葉も初めて聞きまして、その言葉自体にもビックリしました。
自分を磨く為に一日一善みたいな会でしょうか。
当時の皆様は、どのような行為をされていらしたか、もし、ご記憶があれば、差し障りの無いようでしたら、エピソードをお話くださいませんか。

よろしくお願いします。

元信徒様 (62862)
日時:2024年01月27日 (土) 05時59分
名前:志恩

>英雄的行為 と言う言葉も初めて聞きまして、
その言葉自体にもビックリしました。
自分を磨く為に一日一善みたいな会でしょうか。
当時の皆様は、どのような行為をされていらしたか、
もし、ご記憶があれば、差し障りの無いようでしたら、
エピソードをお話くださいませんか。<

志恩ー
英雄的行為と言いますと、大袈裟な名ですが、
元信徒様が言われますように一日一善的な
ささやかなことで、いいですから
今までしなかったいいことを、1日に1つでも、
いいですから、実践してゆきましょうということです。

男性でしたら、今までは、キッチンに立った
ことがなかったけれど、食後にキッチンに立ち、
食器類を洗ったとか、
家の前の道路の清掃を初めてしたとか、

女性でしたら、
電車に乗っている時、老人に席を譲ったとか、
そのような、ささやかなことを、何か、1日に
1回でもいいですから、今まではしなかった
新しい いいことを実践し、
前の日にやった英雄的行為を紙に書いて、
英雄的行為の箱に投函するという会でした。

その投函された紙を、1週間分まとめて、担当者がノートに
書き写し、会員の皆様に回覧して読んでいただきますので、
それを読んだ会員の皆様は、各自 励みにし、

より、各々が進化してゆくという人類光明化運動の一環である
自己啓蒙運動でした。

「英雄的行為の会」は、原宿本部内では、5年間ほど細々と
続けて行われていましたが、
私が本部を退職する少しまえの昭和43年12月で幕を
閉じました。

先に書きましたように、
私の次に引き継いでくださるお方が、見つからなくて、
残念ながら私が本部を退職すると同時に、
その会は、終わりになりました。

でも、そのような会がなくても、
自分で実践してゆけば、いいことだと思います。

当時の原宿本部職員たちは (62863)
日時:2024年01月27日 (土) 06時38分
名前:志恩

私たち本部職員は、原宿本部内での、様々な啓蒙運動に
参加して、互いに熱心に心を磨きあっておりましたが、

原宿本部の仕事が終わって、地元へ帰ってからも、
地元で、生長の家の普及活動にも励んでおりました。

私の場合は、東京都の一地区の地元で、青年会支部会
を仲間とともに運営して、青年会主催の子ども会も運営
しておりました。

でも、あの当時は、それが当たり前でしたので空気のように
自然体で生きておりましたので、自分は頑張ってるとか、一度も
考えたことはありませんでした。

志恩さんへインタビュー (62867)
日時:2024年01月27日 (土) 14時27分
名前:元信徒


志恩様

志恩様ならではの素晴らしい思い出の記録をありがとうございました。

志恩様へ質問させて頂きます。

@現在は、国際平和運動と言っていますが、
雅春先生の
生長の家の 「人類光明化運動」とは 何だったのでしょうか。


A当時の本部内で職員の魂を鍛える雅春先生の講義はありましたか。


B当時の職員さんと雅春先生と直接触れ合うのはどのような時ですか。



以上 よろしくお願いします






元信徒様 (62879)
日時:2024年01月27日 (土) 17時49分
名前:志恩

>@現在は、国際平和運動と言っていますが、
雅春先生の
生長の家の 「人類光明化運動」とは 何だったのでしょうか。<

志恩ー
これにつきましては、元信徒様の方が、ずっと前から
勉強されてこられましたので、私なんかより
元信徒様の方が、よくご存知だと思いますので、
元信徒様にお説きいただきたく存じます。

私の場合は、人類光明化運動につきましては、
榎本恵吾先生のフアンなので
この真理についての深い考え方が素晴らしいなと思っております。
http://misumaru.la.coocan.jp/bunshokan3.html



>A当時の本部内で職員の魂を鍛える雅春先生の講義は
ありましたか。<

志恩ー
谷口雅春先生が総裁先生でいらした時代は、日常茶飯事が
そうでしたね。谷口雅春先生は、あの頃は、時折、新年の講習会
なども原宿本部の大道場でされてましたから、そういう時は、
全館放送で、各部屋で仕事をしながら、谷口雅春先生のご講話
を無料で私たちは直に拝聴することができました。

日曜日は、これまた
本部講師の先生方のご講話も全館放送されてましたから、
本部職員は、真理漬けのありがたい日々でした。


>B当時の職員さんと雅春先生と直接触れ合うのは
どのような時ですか。<

志恩ー
他局のことは、わかりませんが、私がおりました白鳩会中央部
(婦人局)では、白鳩会中央部主催の、本部白鳩会が、
毎月、第一、第3金曜日の午後1時から3時まで、白鳩の間、又は’
大道場で、開催されておりまして、そこへは、お山のお四方の
先生がいらしてくださいまして、集まった300名ほどの
白鳩の皆様に対して、無料で、質疑応答されておられました。
私は、幸運なことに、8年間も
その集いのマイク係を仰せつかっておりましたので、その都度、
谷口雅春先生はじめ、お山の先生方に、直にお目にかかって
おりました。
そして、谷口雅春先生のご指導を、直接、おそばで拝見する
ことができました。

また輝子先生は、月一の土曜日の午後1時から3時まで、
輝子先生を囲む女子職員の集いというのをお山でされて
おられました。
このようにその当時は、お山の先生は、本部職員の声も、
信徒たちの声も、直接に、じっくりと聞いて
くださっていましたから、信徒たちも本部職員たちも、いつも
心が満たされておりました。

あの当時は、皆が、大変恵まれていたと思います。

ご回答をありがとうございました。 (62881)
日時:2024年01月27日 (土) 21時18分
名前:元信徒

@のご回答の中から拾って参りました。

> ここに、いわゆる「人類光明化運動発進の宣言」と言われている尊師のお言葉を揚げておこう。これは『生長の家』誌創刊号に 『生長の家』出現の精神とその事業 と題されたご文章の冒頭の部分である。

 自分はいま生長の火をかざして人類の前に起つ。起たざるを得なくなつたのである。友よ助けよ。同志よ吾れに投ぜよ。人類は今危機に頻してゐる。生活苦が色々の形で押し寄せて人類は将(まさ)に波にさらはれて覆没(ふくぼつ)しやうとしてゐる小舟(おぶね)の如き観はないか。自分は幾度も躊躇した。起つことを躊躇した。自分は中心者として増上慢のそしりを受けることを恐れてゐたのだつた。一求道者(ぐどうしゃ)としていつまでも謙遜でゐたかつた。併し今は謙遜でありたいと云ふことが自分にとつては安易を貪る一つの誘惑と感じられる。自分はこの誘惑に打ち克って人類を救はねばならない。自分の有(も)つてゐる限りの火で人類を救はねばならない。自分の火は小さくとも人類の行くべき道を照さずにはおかないだらう。此の火は天上から天降つた生長の火である。火だ! 自分に触れよ。自分は必ず触れる者に火を点ずる。生長の火を彼に移す。自分は今覚悟して起ち上つた。見よ! 自分の身体(からだ)が燃え尽すまで、蝋燭(ろうそく)のやうにみづからを焼きつゝ人類の行くべき道を照射する。
 自分のかざす火は人類の福音(ふくいん)の火、生長の火である。自分は此の火によって人類が如何にせば幸福になり得るかを示さうとするのだ。如何にせば境遇の桎梏(しつこく)から脱(ぬ)け出し得るか、如何にせば運命を支配し得るか、如何にせば一切の病気を征服し得るか、また、如何にせば貧困の真因を絶滅し得るか、如何にせば家庭苦の悩みより脱し得るか……等々。
 今人類の悩みは多い。人類は阿鼻(あび)地獄のやうに苦しみもがきあせつてゐる。あらゆる苦難を癒やす救ひと薬を求めてゐる。しかし彼らは悩みに眼がくらんでゐはしないか。方向を過つてゐはしないか。探しても見出されない方向に救ひを求めてゐはしないか。自分は今彼らの行手を照す火を有(も)つて立つ。


谷口雅春先生の創刊号ですね。

ありがとうございます。


つづく

住吉大神 神❤️愛充満 (62929)
日時:2024年01月30日 (火) 11時04分
名前:元信徒

住吉大神様 ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。
生長の家大神様ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。

一、
必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。
必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる
二、
必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず言うことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。やってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。
三、
必ず善いことがやってくる。必ず善いことがやってくる。必ず善いことがやってくる。必ず善いことがやってくる。必ず善いことがやってくる。必ず善いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず言うことがやってくる。必ず言うことがやってくる。
四.
必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず言うことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。
五、
必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやって必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず善いことがやってくる。必ず善いことがやってくる。

➖➖➖➖➖

必ず善いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことがやってくる。必ず良いことばかりがやってくる。必ず良いことばかりがやってくる。良いことばかりがやってくる。良いことばかりがやってくる。必ず良いことばかりやってくる。必ず言うことばかりがやってくる。良いことがやってくる。良いことがやってくる。良いことがやってくる。良いことがやってくる。良いことばかりがやってくる。良いことばかりがやってくる。良いことばかりがやってくる。良いことばかりがやってくる。良いことばかりがやってくる。良いことばかりがやってくる。必ず強くなる。必ず強くなる。必ず強くなる。必ず良くなる。必ず良くなる。必ず良くない。良いことばかりがやってくる。良いことばかりがやってくる。こういうことばかりがやってくる。良いことばかりがやってくる。良いことばかりがやってくる。良いことばかりがやってくる。必ず良くなる。必ず良くなる。必ず良くなる。良くなる。良くなる。良くなる。良くなる。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。


追加@原宿本部では、結婚式も行なっておりました。 (63099)
日時:2024年02月05日 (月) 18時28分
名前:志恩

昔のアルバムを繰っていて、思い出したのですが、
あの当時、原宿本部でも、結婚式を挙行しておりました。
希望の信徒さんに、たまに、結婚式もやっておりました。
挙式会場は、「白鳩の間」でした。
披露宴は、いたしておりませんでした。挙式だけです。
その時、なぜだか、私が巫女に選ばれてまして、お祝いのお酒を
新婦さんに注いでいる写真が、アルバムに貼ってありまして、
思い出しましたので、追加で書かせていただきます。
この写真には、年月日は、記されていませんでした。
書いておくべきでした。ごめんなさい。

追加A 昔は、建国記念日(紀元節)の日には例年、谷口雅春先生の建国記念ご講習会が開催されておりました。 (63101)
日時:2024年02月05日 (月) 19時08分
名前:志恩

昭和38(1963)年2月11日、建国記念日(紀元節)。
谷口雅春先生の建国記念・講習会が開催されました。

会場は、日大講堂。
この日、併せて【全国日の丸連合会 結成大会】が
開催されました。

私は、お山係で、壇上でご講演されておられる
谷口雅春先生にお茶をお運びしたり、昼食の
お世話係もさせていただきました。

この写真の、向かって左端の男性は、
網走刑務所出身で、その後、本部講師になられた
野尻 稔(のじり みのる)先生です。
当時、野尻先生は私のことを気に入ってくださっていて、
「〇〇ちゃん、〇〇ちゃん」と、とても可愛がってくださって
いました。背が高くて、男前の先生でしたよ。笑
野尻先生は若い頃は大学の医学部に通学されてたそうですから
頭はいい人でした。

前列の向かって、左が、谷口佳代子さん、
(谷口雅春先生のお孫さんの佳代子さんです)
志恩(お誕生日前なので20歳の時)は、まん中です。


写真をマウスでクリックすると拡大します。

上のつづき (63109)
日時:2024年02月06日 (火) 04時28分
名前:志恩

>昭和38(1963)年2月11日、建国記念日(紀元節)。
谷口雅春先生の建国記念・講習会が開催されました。<

このとき、私は20歳ですから、すぐ下の妹は、7つ違い
なので、13歳(中一)のときですが、このご講習会にも
参加してくれていました。

前にも書きましたが、妹は、当時、私が作った東京都の
青年会支部会にも、毎回、欠かさず、私と一緒に参加して
くれていまして、将来は、同時通訳になりたいという夢を
抱いていた子でしたが、生長の家の教えを実行して、
見事、自分の夢を叶え、大人になって、”カリスマ同時通訳”と
その道の人たちに尊敬されて言われるような人間になりました。
妹は英語の教師が使用する英語上達の本も6冊も出しています。

谷口雅春先生の教えをそのまま素直に信じて実行して
生きてゆけば、誰でも、自分の夢を実現し、幸せな人生を
歩むことができるという一つの証です。



向かって左が志恩(20歳)、右が私の妹(13歳)
日大講堂の会場前にて、

これも追加:昭和36(1961)年頃、全国白鳩会会長だった高瀬不二先生の写真が、ありましたのでご紹介します。 (63110)
日時:2024年02月06日 (火) 05時00分
名前:志恩

私が昭和36年1月に原宿本部へ奉職した時の
全国白鳩会長は、古川 恵偉先生ではなく、
高瀬 不二先生というお方でした。

(全国白鳩会会長、婦人局長が、高瀬先生から古川先生に
交代したのは、昭和39(1964)年のことでした。)

高瀬先生は生長の家へ入信される前は、熱心な
クリスチャンでいらしたそうですが、その後、ご夫婦で
生長の家の信徒になられたそうです。

ご主人は、医学博士の高瀬 清氏ですが、個人病院を
長崎でされておられました。ところが、ある時、急に
東京へ越そうと思い立ち、東京の目白の駅前に越されまして、
そこで新たに高瀬医院を開院されました。

すると、東京へ越して間も無くのこと、
長崎へ原爆が落とされたそうで、それも住んでいらしたすぐ
近くへ落とされたそうで、
生長の家のおかげで、命拾いしたと感謝されて、原宿本部へ
奥様の高瀬不二さんは、無給でいいと言われて、本部へ
感謝の気持ちで奉職されまして、目白から通勤されて
おられたお方でした。


昭和37(1962)年4月、本部職員旅行で"城ヶ島"へ
行った時の写真です。
後列、向かって左から、⭐️高瀬不二先生、片岡さん、藤田さん
前列、向かって左から志恩(20歳)、鳥居さん(東京都連の事務員)

ご掲載を有難うございます。 (63125)
日時:2024年02月06日 (火) 15時44分
名前:元信徒


お顔が小さくてなんて素敵なのでしょう!
お洋服がピタリと身体に合ってこれ又素敵ですね。妹さんも素晴らしいですね。通訳は沢山いらしゃいますが、同時通訳にはなかなかなれません。よほど優秀でなくては。素晴らしいですね。
志恩さんも、三々九度をしたり、巫女さんみたいなお仕事もされて、本部では華々しくご活躍でしたね、お若く優秀でしたのでしょう。


佳代子さんのお若い時、ふっくらされていてビックリ‼️しました。
私の知る時は、既に子沢山で、ガリガリに痩せておられていつも幼い子がそばにいると言う印象です。 (東大出た光泰君始め、その下の子供さんです。)
佳代子さん、本部で働いていたのですか?

素晴らしいお写真を有難う御座いました。

又、よろしくお願いします。

元信徒様 (63136)
日時:2024年02月06日 (火) 18時58分
名前:志恩

>佳代子さん、本部で働いていたのですか?<

志恩ー
元信徒様は佳代子様のことはご存知でいらしたのですね。
佳代子様は、原宿本部へは、奉職は、されていませんでした。

佳代子様は、私の妹と、同じくらいのお年だと思うのです。

なぜかといいますと、当時、鹿沼景揚先生が、河口湖道場の
総務でいらした時、河口湖道場で、夏期中学生練成会が
開催されましてね、その時、私の妹が1人で、新宿から
だったでしょうか電車で、河口湖道場へ向かったとき、
偶然だったそうですが、佳代子様もその練成会へ参加
するというので、佳代子様と妹と2人で、同じ電車に乗って
中学生練成会に参加したことが、あったからです。

今年は閏年(うるうどし)、4年ぶりに2月29日が登場! (63573)
日時:2024年02月25日 (日) 16時08分
名前:志恩

閏年(うるうどし)と聞きますと、決まって
私は閏年の2月29日生まれでいらした
山口悌治先生(原宿本部理事、理事長、本部講師)を
お懐かしさいっぱいに思い出します。

山口悌治先生は、
明治37(1904)年2月29日、神奈川県生まれでした。
で、私が原宿本部におりました昭和39(1964)年の閏年の時は、
4年に一度くるお誕生日でしたので、
15歳(ほんとは60歳)のお誕生日を迎えられました。

その時、私は22歳でした。
山口先生は、根っからの学者タイプの先生でいらっしゃいましたが、
ユーモアも解するお茶目なところもある先生でしたから、
総合企画局の部下の皆様も、お茶目揃いで、
山口先生の15歳の誕生日を祝う会を、
お部屋の皆様で、うちうちに開催されておられました。

また、その年は、総合企画局の創立10周年にあたる年でも
ありましたので、その年の4月の初めに、企画局内で、月々
積立してきたお金で、記念の箱根一泊旅行へ行くことになり、
私は、他局のものでしたが、いつも企画局の仕事を手伝ってく
れているからという理由で、皆さんでカンパしてくださって、
私も一緒に、その旅行へ連れて行ってくださったというとても
光栄な楽しい思い出がございます。

企画局は、錚々たる男性のメンバーが9人、女性で参加したのは
企画局の事務員の西村さんという人と、私の二人でした。

旅行へ行った先は、箱根の湯河原でした。
その時の記念写真の一部は、前にも貼らせていただきましたが、
まだまだ、そのときの写真は、たくさんアルバムに貼ってありますので、
その中から、また新しいのを一部のみ、ご紹介させていただきます。

これは、もしかしたら、門外不出の写真だったのかもしれませんが、
もう事項だということで、いいでしょう、貼っても..。

管理人様、もしもこれは貼らない方がいいと思われるのでしたら
すぐにそうおっしゃってください。即、削除致しますので。

この写真は、湯河原の「宝泉荘」という旅館に全員で宿泊した
夕食時に、余興として食後に
山口悌治先生(60歳)が、タンバリン代わりに、丸い木製の
お盆をもたれて”カルメン”を踊ってくださったときの写真です。

私たち2名の女性のために「特別サービスですよ」とおっしゃって。
ですが、あまりハッスルされて、お盆を激しく叩きすぎましたので、
この木製のお盆は、割れてしまいまして、後で、旅館にお盆代を
弁償したのだと、聞いております。



企画局の皆様の前で、余興に
”カルメン”を踊られる山口悌治先生

感激‼️ (63574)
日時:2024年02月25日 (日) 16時21分
名前:元信徒


素晴らしいです。

同じときの写真です。 (63575)
日時:2024年02月25日 (日) 16時26分
名前:志恩

企画局の皆様の前で、という
証拠の写真も、貼らせていただきます。

写真の一番上座に、
山口悌治先生が、


写真向かって、一番右が佐脇嘉久先生、
次ぎ、私。

感激‼️ (63576)
日時:2024年02月25日 (日) 16時39分
名前:元信徒


一言書いたら投稿されてしまいました。

山口悌治先生って、あの素晴らしい御本を書かれた先生ですよね。

カルメンをお盆を持って、、ってどんなの?しかも割るほど張り切っていたのですね。笑笑

真面目なだけの先生かとおもいきや、お茶目で素敵な先生の所もあるのでしたね、以外でした。このような、楽しそうな人間的なお姿は、志恩様しか出来ない素晴らしいご投稿ですね。笑

このような素敵なお写真を見せて解説してくださり、誠にありがとうございました。
大事な大事な宝物を見せて頂いているように、勿体無くもあります、でも、せっかくですから、このように綺麗に保管されていらしゃますお写真をなかなか拝見させて頂くチャンスはありませんですから、只々、感謝で一杯です。
本当に本当にありがとうございます。
感謝 合掌🙏

志恩さまー、、、素敵過ぎるぅー。


ありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございます感謝充満です🙏😊👏❤️






同じときのものですが (63577)
日時:2024年02月25日 (日) 16時47分
名前:志恩

湯河原駅で下車して、
駅付近で皆で写した写真です。

写真、向かって、左から2番目が、
山口悌治先生。

私が、たくさん荷物を持っているのは、
カメラで写してくださる人の荷物を
かわりに 持ってあげているからだ、と
写真の裏に、書いてありました。

写真向かって、志恩の右で、コートを
肩にかけている男性が、
大峡(おおはざま)先生です。
のちに政治局事務局長になった人。
その右隣が、安積先生。

写真、一番左が、土居先生。
皆様、のちに各県の教化部長になられました。

乾杯‼️ (63578)
日時:2024年02月25日 (日) 16時55分
名前:元信徒


はい、シカと可愛い志恩様の満面の笑みを確認しました。

本当に太陽のような笑顔で皆様がホッとしてしまいますね、素敵だなぁ。

温泉旅行も、昔の生長の家の職員や先生方とでしたら、楽しくて安心ですね。

善い時代でしたね、志恩様。これは、裏山です、(うらやましいと言う意味。笑)



どこかで美味しい物を食べに行くより、どこか素晴らしい海外旅行に行くより、生長の家の職員同志みんなが秩序正しく、仲良くしていることこそが私にとっては、一番幸せだと思っております。





元信徒様 (63579)
日時:2024年02月25日 (日) 16時57分
名前:志恩

そうです。
あの有名な、山口悌治先生です。

元信徒様が、このスレッドを立てて
くださったおかげで、たまに思い出しては
写真とともに、光栄だった いい時代の
あの頃の思い出を書かせていただいております。

こちらこそ、ありがとうございます。

志恩様 (63580)
日時:2024年02月25日 (日) 17時02分
名前:元信徒


こちらのスレッドは
志恩様の素晴らしいご投稿で成り立っているので、

元信徒の部屋 原宿本部編

でなく、何かタイトルを変えたほうが良いかな?

と思いました。 タイトルによい言葉があれば意見を出してください。



元 職員の部屋
元職員 志恩さまの懐かしい原宿奉職の部屋

提案があればおっしゃってください。

三つ編み志恩ちゃん (63581)
日時:2024年02月25日 (日) 17時14分
名前:元信徒


本当に可愛いですね。
まだ10代ですか、先生方と親しく寄り添う事はなかなか出来ないですから、
時代の良さやどれほど皆様から可愛がられておられたか、伝わって参ります。

ほのぼのとした良いお写真ですし、お若い先生も沢山いらして活気がありそうです。
本部に神様の愛と住吉大神様の清らかさが充満していた素晴らしい時代です。

合掌 ありがとうございます。

元信徒様が立ててくださった親記事ですから、このままで、大丈夫です。 (63590)
日時:2024年02月26日 (月) 06時14分
名前:志恩

[元信徒の部屋 別館 原宿本部資料編]

このスレッドは、書く時、探さなくていいように、
”シオの部屋”に、入れさせていただきました。

ありがとうございます。

アイデア (63592)
日時:2024年02月26日 (月) 09時08分
名前:元信徒


分かりました、今はこのままで、
アイデアが出たときは、お知らせください。

宜しくお願い致します。

今日は閏年の2月29日。山口悌治先生、30歳のお誕生日、おめでとうございます。 (63637)
日時:2024年02月29日 (木) 04時20分
名前:志恩

山口悌治先生は、
明治37(1904)年2月29日生まれでしたので、
今日は、4年に1度しか誕生日が来ないので、
30歳のお誕生日です。
もしも、今も、この世で生きていらしたら、
実年齢は120歳でした。

原宿本部時代には、他局の事務員だった私のことまで
大事にしてくださって、可愛がってくださった光栄な思い出は
私は、今になっても忘れていません。

あの当時は、山口先生は、「万葉の世界と精神」という著書の
原稿を書いてもおられまして、原稿を書くにあたり、いろいろと
資料を集めていらっしゃいましたので、私も、その資料集めを、
頼まれて熱心に協力しておりました。

その頃、山口先生ご自身も、企画局の皆様も、手に入れることが
できなかった”あとがき”に使いたいとおっしゃっていらした
大熊信行著「国家悪」(その頃は、この本は、絶版になっていたので、
手に入らなかった)という本を、私は、手に入れてきて、
先生に提供したりしていました。

(当時は、ネット時代では、ありませんでしたから、
自分の足で歩き回って、資料を手に入れていたのです。)

そのように、その他のことでも、例えば、山口先生主催の
企画推進委員会の会議の時なども、世話係、記録係になるよう
山口先生に頼まれて、させていただいていましたり、

何かと私は企画局の仕事をお手伝いしておりましたので、
企画局の皆様で行く企画局創立10周年記念の
一泊旅行へも、仲間の一人として、連れて行ったいただいたり
しました。

また、「万葉の世界と精神」(前編、後編)が、完成し、
日本教文社から出版されたのは、私が結婚のため本部を
辞めた後のことでしたが、

山口悌治先生から「万葉の世界と精神」の発刊記念パーティを
東郷神社で開催することになったから、是非、来て欲しいと言う
ご招待のお手紙と、サイン入りの「万葉の世界と精神」(前編、後編)
をプレゼントしてくださったり、と、
これも、もったいないようなありがたい思い出がございます。

東郷神社での
 「万葉の世界と精神」の出版記念パーティは、
昭和48(1973)年3月1日にございました。

その時、私は長男を出産し、半年経ったばかりでしたが、
赤ちゃんを連れて、横浜日吉から、夫が運転する車に乗って、
出席させていただきました。

そして、出席者の一人として、山口先生にお祝いの
言葉を簡単に述べさせていただきましたが、赤ちゃん連れ
でしたので、赤ちゃんが泣き出したりしたら、皆様にご迷惑が
かかると思いまして、最後の集合写真撮影の時には入らずに
失礼して、早めに会場を、あとにしました。

ですから、その時の集合写真は、ないのですが、
最初の方の、山口悌治先生のお写真は、写して
まいりましたので、アルバムに貼ってございました。


昭和48(1973)年3月1日、東郷神社における
「万葉の世界と精神」出版記念パーティにて
山口悌治先生(当時・69歳)

(※この出版記念パーティには、亡き 岡正章先生も
御出席されておられました。)

「原宿本部時代の思い出」 (64033)
日時:2024年03月21日 (木) 00時22分
名前:志恩

原宿本部時代の思い出は
電車に乗って
遠い国から
やってくる
ドアが開くと
「やあ」
と言って
顔を出すくせに
もう
すぐに
遠い国に
帰っちゃうの



Number
Pass
管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板