生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)

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旧・生長の家「本流復活」について考える(したらば版)

生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)

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古神道と生長の家(信仰雑談を改題) (65081)
日時:2024年05月13日 (月) 21時45分
名前:暁烏

 生命の實相には、「古道」「古神道」という言葉が再三、登場します。いわゆる神道とどう違うのか。これは神道の歴史を辿る必要があります。

 元々、神道が誕生したのは、縄文時代だと言われています。すなわち1万年以上も前に日本人は神を崇拝していたわけです。一般には、アニミズムと言われる信仰内容ですが、実は、そのような簡単なものではありません。古代の日本人は、宇宙の生命の一部である地球をも含めて「第生命」として畏敬の念を持って参りました。自然を拝むというのは、単にある種の自然霊を崇敬するのではなく、そこにある大生命を拝むという発想だったのです。

 古神道の発想として、山は天と地を結ぶ「柱」であり、大切な存在であるとされていました。現在でも、各地にある古代遺跡の多くが山にあるのは、その名残でもあります。

 この時代の神道は、教学が整っておらず、口伝での伝承でしたから、体系化されていませんでした。これを後世の人々は、「古神道」と称したのです。

(続く)

古事記、日本書紀 (65142)
日時:2024年05月16日 (木) 21時34分
名前:暁烏

 「古神道」はアニミズムと考える人もいますが、私見ですが、スピリチュアイズムと表するのが適当でしょう。あくまでも大生命との交流をメインに考える信仰というべきです。

 日本古来の信仰は、このように体系化されず、書籍化もされていませんでした。が、大陸との交流が盛んになると、そのままでは難しくなりました。

 中国から「四書五経」と言われるものが入ってきたり、仏教が伝来すると、古来の信仰を体外的にも、国内向けにも説明するような書籍の必要性が生まれてきました。

 このような背景から生まれたのが、古事記であり、日本書紀だと言われています。

 この辺りから神社が整備されたり、儀式が整備されたみたいです。ただ、幽斎と顕祭という言葉があるように、スピリチュアルな交流をメインにする幽斎と、儀式を重きに置く顕祭は等しく重視されていました。

 平安時代の「源氏物語」に「生霊」の話が書かれていたり、同じ時代に陰陽師が活躍した通り、平安時代の人たちにとって、スピリチュアルな問題は日常と密接に関連した問題だったのです。

(続く)

『神皇正統記』 (65161)
日時:2024年05月17日 (金) 22時59分
名前:暁烏

奈良時代、平安時代は、いわゆる貴族政治の時代ですから、祭祀というものが制度化され、幽斎も顕祭もきちんとされていました。が、鎌倉時代になり、武家の時代になるとこのような祭祀は軽視されるようになりました。

 ただ、これを憂いて、神道の復活を図る動きはありました。

  いわゆる南北朝時代に、南朝公卿の北畠親房が著した歴史書『神皇正統記』は有名です。彼は、この本で古事記、日本書籍にも言及し、日本の国体のあり方を論じました。この本の影響力は大きく、戦争中に国家観の中心となった平泉澄先生(東大教授)の「皇国史観」は、この『神皇正統記』の考えをベースにしていると言われています。

 この本が書かれていた時代は、南北朝時代ですから、歴史観の確立という観点から古事記や日本書紀も論じられました。道徳や国家観という観点からあるべき姿を論じたので、いわゆる顕祭は論じられますが、幽斎については伝わる部分は少なかったとも思われます。しかし幽斎というのは、もともと、口伝で伝わる部分が多かったですから、これは仕方がなかったとも言えるでしょう。

(続く)

林羅山 (65176)
日時:2024年05月18日 (土) 22時18分
名前:暁烏

一部には、このように神道を復活させようという努力はされていました。が、戦国時代は世の中が混乱しておりましたので、宗教どころではありません。さらに江戸時代になると、幕府の側は朝廷の権威を高めるような思想は都合が悪いので、朝廷の権威を貶めるような方策を進めます。

 例えば、林羅山は、幕府お抱えの筆頭儒者だったのですが、「神武天皇は古代の豪族の一人にすぎない」と言い出し、露骨に朝廷の権威を軽視するような姿勢を取りました。新井白石は、その著「古史通」の中で、「神は人なり」と書いています。要するに、幕府は天皇陛下を単なる人間にすぎないと思っており、その権威は自分達のために利用する道具に過ぎないという程度の考えであったのです。

 このような時代ですから、当然、神道特に古神道が顧みられることは少なかったのです。

(続く)

「国学の四大人(しうし) (65190)
日時:2024年05月19日 (日) 22時48分
名前:暁烏

 このように江戸時代の幕府は御皇室への崇敬の念は薄く、そのために支配層の人々の神道などへの関心も薄かったです。古事記、日本書紀などへの関心も一般には薄かったです。
 が、幕藩体制が揺らぎ、世情が混乱すると、日本や日本人のアイデンティティを再評価する動きが始まりました。徳川家のような支配層でも、水戸藩のように「水戸学」と言われる勤王思想を確立し、「大日本史」を編纂する藩が出てくるようになりました。

 民間では、本居宣長、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤(「国学の四大人(しうし)」と言われる)のような思想家が出て、大きな影響を与えました。この中には、本居宣長のような実証主義的な観点から「古事記」「日本書紀」の研究を続けた人もいれば、平田篤胤のようにスピリチュアルな観点から「古事記」「日本書紀」の研究を続けた人もいます。平田の思想は、「復古神道」と言われ、信仰として神道を考えるものでした。これらの思想は、倒幕運動に多大な影響を与えました。それゆえに、彼らの思想は、信仰というよりも、政治思想という観点から考えられることが多くなってきました。

神道霊学 (65196)
日時:2024年05月20日 (月) 08時56分
名前:暁烏

 少し先の話になりますが、国学の四大人の思想は倒幕運動の強力な原動力になります。が、幕府が倒れ、明治維新になると、影響力が低下します。これは、西洋列強の侵略に対抗するため、日本を急速に近代化する必要が生じたため、教育の分野で「洋学」派が影響力を増したためです。また、明治政府は、日本を統一する思想の必要性を感じたため、神道を重視しましたが、その中から霊的な部分は省いた神道をメインにしたため、スピリチュアルな部分を重視する古神道は影響力を失いました。

 さらにいうと、倒幕運動の思想的な礎となった国学も、政治運動という場面上、イデオロギーという面が重視されました。

 しかし、このような傾向に反発して、古神道の復活を図る動きも生じました。その代表格とも言えるのが、本田親徳の唱えた「神道霊学」です。

(続く)

本田親徳翁 (65197)
日時:2024年05月20日 (月) 09時59分
名前:暁烏

 「縄文期の超太古の昔から、我が国に一つの信仰形態として伝えられた言葉や作法、つま行法というものがありますが、それはもちろん体系づけられたものではありません。そ
もそも古神道には、教祖も教義もなかったということは、前にも述べたとおりです。古代においては神道などという名目もありませんでした。神ながらなる大道として、おのづか
らなる命が、極めておおらかに立っていたのであります。


「しかし、古神道に理論的根拠のようなものがないということではなく、たとえば、言霊や一霊四魂という考えがあるように、古神道特有の宇宙観ないし生命観があるわけです。
 とくに江戸時代になると、神道を見直す気運がさかんになり、平田篤胤や本居宣長など多くの国学者が輩出してきます。そして幕末の頃から明治維新にかけて、神道霊学という言葉をさかんに唱えその再興のために活躍されたのが本田親徳(ほんだ ちかあつ)翁というお方です。

 本田親徳翁は、鹿児島県の加世田の地頭職のご子息として生まれ、若い頃から水戸に遊学して会沢正志斎に師事され、それから神伝霊学に志されて、四十余年間研鑽を積まれた
後、静岡や東京など各地で神道霊学の講義を開設され、縄文の時代から伝わっている鎮魂法とか帰神法を伝えられたのです。

 明治初年、東京や静岡県で講義をなさったときには、江戸の三舟のひとりと称された鉄舟こと山岡鉄太郎、後に外務大臣となった副島種臣、羽衣伝説で有名な三保の松原にある御穂神社の宮司をしていた長沢雄楯翁なども、一緒に学んでいます。 副島種臣は明治天皇の侍講を勤められたお方だし、長沢宮司は後に入門された出口王仁三郎に鎮魂法や帰神法
を伝えておられる。とにかく本田親徳翁は、明治維新の前後に活躍した優れた人材に神道霊学を広め、それがまた次々と受け伝えられていったわけです。

 出口王仁三郎は、大本開祖の出口ナオに認められて養子となり、やがて「大本の聖師」と言われるような人物ですが、 その王仁三郎に四天王といわれるお弟子さんがいます。 生長の家を興された谷口雅春、三五教の中野与之助、熱海に本拠を構える岡田茂吉、神道天行居の友清歓真。この四天王といわれる方たちの力をえて、大本が天下に名を馳せたわけですが、鎮魂法や帰神法はこの方たちにも伝えられて、富士山の裾野のように全国的に拡がったわけです。

 本田親徳翁はこういう経緯のある大人物ですが、翁の神道霊学が唱えることは、とにかく人間のみならず宇宙間のいっさいのものが霊的存在であるということです。自覚して知
性でもって知る霊的対象物としての宇宙の認識、また、地球の自然万物生命に相対する人間としての生き方、そうしたことをすべて含めた学問を神道霊学と名付けて世に広められ
たわけです。 」

古神道入門 小林美元著 評言社 平成二十一年七月十五日 第6版 p146?ス?147より抜粋

補足 (65215)
日時:2024年05月21日 (火) 21時13分
名前:暁烏

 少し補足すると、今でこそ「幽斎」と「顕祭」と分けますが、「幽斎」の部分は、文字で残されておらず、口伝で代々、各地の神官の家に伝わってきました。当然、伝承者がなくなると、そのまま教えが消えたものもありました。

 例えば、「天の数歌」として言われる「ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここのたり ももち よろず」という天津祝詞の太祝詞は、大和の石神神社と愛媛の大山祇神社で唱えられていた言葉です。

 本田親徳翁は、各地の神社を訪問し、その神社に伝わってきた秘伝をまとめて、記録し、体系化したのです。これが「神道霊学」です。特に、神道霊学で中心となる鎮魂法や帰神法などは、弟子の長澤宮司から出口王仁三郎師に伝わり、それが谷口雅春先生に伝わりました。大本教の教義が谷口雅春先生によって初めて体系化されたとも言われていますが、大本教に伝わった鎮魂法や帰神法などの「神道霊学」が、谷口雅春先生により「皇道霊学」としてより緻密に体系化されたと思われます。

(続く)

余談 (65218)
日時:2024年05月22日 (水) 03時25分
名前:暁烏

 これは余談ですが、江戸末期から、教派神道と言われる団体が急増します。

 歴史の教科書では、天理教や金光教、大本教などの団体ができたという事実と、これらの団体が政府から弾圧を受けたという事実だけが書かれています。が、その背景については説かれることは少ないです。

 これは、江戸末期以後の国学が、文学や道徳、政治的なイデオロギーという面が強調されるケースが多かったことが背景にあります。特に明治以降、政府は神道を国民統一の理念にしましたが、その時に、スピリチュアルな面を排除してしまったのです。
これが国家神道と言われるものです。

 このようなスピリチュアルな面を抜いたことで、国家神道では個人救済ができなくなりました。その間隙を運って、個人救済をメインにするスピリチュアルな教えが国民には歓迎されるようになりました。

 しかし、このようなスピリチュアルな教えを前面に出す教派神道は、国家神道を脅かす存在となります。政府が、このような教派神道を警戒するのは当然だったと言えるでしょう。

 

川面 凡児(かわつら ぼんじ) (65226)
日時:2024年05月23日 (木) 09時13分
名前:暁烏

 本田親徳と並んで、古神道の発展に尽くした人物として川面 凡児がいます。彼は、明治、大正期に活躍した人で、昭和四年に亡くなるまで古神道界だけではなく、社会的にも有名な人物でした。「禊」と言う滝行が知られていますが、これは大正時代に彼が普及させたと言われています。

 川面 凡児は、江戸末期に神職の家に生まれ、若い頃には自由人権運動に参加したこともあったみたいですが、ある時期から古神道の研究と普及に尽力しました。

  「1906年(明治39年)に下谷区三崎町に「全神教趣大日本世界教」を旗揚げし、稜威(みいつ)会を創立[5]、神道宣布に専念。1908年(明治41年)には機関誌『大日本世界教みいづ』を創刊、1908年(明治42年)から片瀬などで修禊を開始。1914年(大正3年)、男爵の高木兼寛を会長に、古典を通じて日本の神々を学ぶ古典考究会を設立、『古典講義録』を刊行。同会には秋山真之、八代六郎、平沼騏一郎、杉浦重剛、頭山満、筧克彦らが関わった[6]。
1917年(大正6年)から滝行など禊の行を会員とともに各地で始める。神宮奉斎会の会長で、大正期神道界の最高長老と言われた今泉定助が支持したことで[6]、各地の有力な神職の賛同を得て、海浜や滝水での禊行事が全国的に流行した[7]。1921年(大正10年)には団体が社団法人として認可され[5]、1926年(大正15年)には代表作『天照太神宮』を出版。1929年(昭和4年)正月に、片瀬で大寒禊の指導を行なったあと体調を崩し、2月23日に肺炎により68歳で死去[2][8]。特異な形のよく目立つ墓が多磨霊園にある。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/川面凡児

 川面 凡児は、本田親徳とは時代が違い、大本教とはあまりご縁がなかったみたいです。が、古神道ですから、基本的なマインドは同じです。

 ちなみに、生長の家では「万教帰一」を唱えますが、この言葉を最初に提唱したのが川面 凡児でした。本田親徳は「万教同根」を唱えますが、立正佼成会が、この「万教同根」を唱えています。

(続く)

 




 

川面の思想 (65230)
日時:2024年05月23日 (木) 22時48分
名前:暁烏

 「川面の思想は、古神道の宇宙観、霊魂観と神人合一法を西洋論理を用いて解き明かそうと試みた点に特色がある。例えば、荒身魂は肉体、和身魂は意識、直霊は最高意識ととらえ、人間は最高意識が受肉した存在であるから、すべての人間はその意味で「現人神(あらひとがみ)」であると主張した。(天皇だけが現人神ではない、という主張は注目すべきである)また、天御中主(あまのみなかぬし)を中心力、高御産霊(たかみむすひ)を遠心力、神御産霊(かむみむすひ)を求心力ととらえ、この三者のはたらきによって原宇宙が生成されたと説いた。川面は、古神道の神は、創造神ではなく、生成神であると考えている。創造神は、創造がある以上終末が訪れることを前提とした限定的な神であるが、生成神には、終末と見える現象はあったとしても、実際に終末はなく、永遠の生成発展があると考え、古事記の「天壌無窮」説を近代論理を用いて説明しようとした。川面の主張する日本民族の神は、一神にして多神、多神にして汎神であり、一神の躍動するはたらきの現れが、多神であり、汎神であるとし、この構造をもった神を「全神」となづけ、自らの教えを一神教でも多神教でもなく、「全神教」と名付けた。この神のダイナミックな構造は、およそ二百年後には、西洋にも理解されるようになり、西洋は、多神と祖霊も祀るようになるだろうと予測している。ただし、神は、知性で論理的に把握しただけでは足りず、体感、体認、体験しなければならないと説き、そのために禊、鳥船、雄叫び、おころび、祝詞などの一連の身体作法を体系的に行う必要があるとしている。(彼が提唱した禊は、その一連の身体作法の一部にすぎない。)なお、天皇が宮中でおこなう祭祀と行法が、本来の魂しずめと魂ふりであり、川面の祭祀と行法は、それから派生した傍流であると位置づけている。(『宇宙の大道を歩む』より抜粋)」

 西洋の思想では、自然は人間が征服する対象でしたが、古神道では大生命として拝む対象でした。西洋の信仰では、善か悪かを問題にしますが、古神道では、美しいか、醜いかを問題にしました。正義でも争うことは醜いという発想をしました。

 このような古神道の発想は、アニミズムとか古代の祭祀だとか言われて馬鹿にされてきました。

 しかし、最近のガザの戦争など、宗教が戦争を引き起こすという現状から、従来の宗教の在り方に疑問の声が出ています。また、環境破壊の問題も深刻になっています。このような趨勢から、外国人の中には、神道に関心を持つ人も増えていると言われています。アニメや漫画の影響もあり、外国人で神道を学ぶ人も増加しているようです。

 ひょっとしたら、200年後には、外国人も普通に神道を学ぶ時代が来るかもしれません。

(続く)

 

https://eumag.jp/spotlight/e0318/

平泉澄先生と筧克彦先生 (65249)
日時:2024年05月25日 (土) 00時34分
名前:暁烏

 古神道と国家神道は、同じ神道でありながら、性格がかなり違っています。古神道は個人の信仰という性格ですが、国家神道は国家主義と密接に関係します。

 少し変わった例ですが、平泉澄先生と筧克彦先生の言動を例に挙げます。

 平泉澄先生は東京帝国大学史学科教授として戦争中の国民指導にあたられました。東京帝国大学史学科を主席で卒業された逸材です。平泉先生は、元々が白山神社の神主の家の出身であり、よって国家神道を発展させた皇国史観の普及に勤められました。陸軍大臣や総理大臣を務めた東條英機大将の信頼を得てから、陸海軍幹部の指導にあたられました。その思想は、南北朝時代の神皇正統記をベースにしたもので、ある種の美学を強調したものでした。日本以外の思想については否定的だったみたいです。海軍機関学校の教え子の中から、人間魚雷回天の提唱者が出たとも言われています。

 筧 克彦先生は、東京帝国大学法学部教授で行政法の指導にあたられました。東京帝国大学法学部を主席で卒業され、欧州に留学。留学中に日本人としての在り方に目覚め、帰国後、川面の指導を受け、古神道に傾倒します。筧先生は、研究室には畳を置いた上に神棚を祀り、また大学での講義や文部省主催の講演などを始める際に柏手を打って、「惟神」(かんながら)を説く講義をしました。そのため、「いやさか先生」とのあだ名がつき、一部には神道の狂信者との評判がついたと言われます。が、終戦後、大学の思想審査会で調査したが、神道以外の思想を排斥したり、戦争を煽ったりするような言動はなく、公職追放を免れた経過がありました。貞明皇后が筧先生を信頼し、しばしば筧先生のご進行を受けています。

 どちらが良くて、どちらが悪いという意味ではなく、同時代に同じ立場にいた人でも、国家神道と古神道を信じる人では、このような差が出たというのは面白いです。

古神道 (65261)
日時:2024年05月26日 (日) 00時38分
名前:暁烏

 古神道が本流で、神社神道は古神道から生まれたと言えるのですが、現在、古神道は少数派です。

 古神道は、文字ではなく、口伝で伝わってきました。古神道を学びたいと思ったら、先ずは師匠を見つける必要があります。これが結構、難しいです。

 次に古神道は、「禊」に代表される激しい修行が必要です。「禊」の指導者であった川面ですら、「禊」の後で肺炎になって亡くなったのですから、ある意味、命懸けの修行だと言えるでしょう。

 さらに、古神道の代表的な行である、「帰神法」の実践に当たっては、神道霊学の提唱者である本田翁は、審神者を必ず置くようにと指導しました。生命の實相にもありますあが、神がかりになっても、低級な霊魂がかかってくることは珍しくありません。

 顕祭をメインにする神社神道では、これらのリスクはありません。
これが、古神道が少数派である理由であると思われます。
 

神がかりの系譜 (65280)
日時:2024年05月27日 (月) 01時28分
名前:暁烏

 「長沢雄楯は、この本田を静岡にたずねている。一時、政府が教部省を設けるや、静岡県では浅間神社内に中教院ができ、長沢はそこで教導職として顔を出す。 続いて明治七年皇学漢学の教授となるが、本居宣長、平田篤胤の本を渉猟し、両人の説になお訂正要すべきものありと主張する。いわば本居、平田の説は、コンクリートでいえばセメントの材料のようなもので、霊学という水がそそがれないとセメントとしての役を果たさないというような立場に立った。

 出口王仁三郎は、この長沢雄盾のもとで神憑りを実習し、神憑りを審神する免許ともいうべき審神業を明治三十四年(三十歳)に得ている。この長沢は、王仁三郎が訪ねてきたときのことを、「コチラニ参リマシテカラ神懸ノ修行ヲヤリマシタ。処が非常二神懸モ良イシ、学術モ能ク勉強シマシタ。宅へ来マス前ニモ一通り読書い出来タモノデアリマス。宅ニ来マシテカラハ主トシテ古事記トカ日本書紀ダトカ平田篤胤/著述物ヲズット勉強シマシタ」と速記にして残している(鈴木重道「本田親徳研究」)。

 この本田、長沢の系譜では、顕斎しか行わぬ国家神道のあり方に神道の本流はないとみ、幽斎の復活を志した。興味あることに、明治政府は神祇官の再興を行い、明治二年官制を定めたが、 大宝令との著しい違いは、鎮魂、御巫、ト兆などに関する職掌が除かれ、代わりに陵墓所管の役があてられていることである(岸本英夫編「明治文化史 宗教編」)。したがって長沢を継いだ出口王仁三郎はいやが上にも神がかりの系譜を重視する。」

(谷口雅春とその時代 小野泰博著 東京堂出版 p55、56)

 従来の生長の家の歴史では、谷口雅春先生が大本教に在籍されたことと、脱退されたことを強調しますが、大本教での修行の内容については、あまり詳しく触れられていません。しかし、重視するべきは、大本教というよりも、出口王仁三郎師が長沢雄楯師から継承した本田霊学、特に鎮魂法と帰神法の継承こそが重されるべきかと思います。

鎮魂法 (65292)
日時:2024年05月28日 (火) 11時59分
名前:暁烏

 鎮魂法については、以下のような説明があります。

「本田霊学では、鎮魂の際に「生きた石」を用いる。直径約五分大(一・五センチ)の円形が理想とされる。石質は黒く堅くて底光りのあるものがよい。この石に審神者より、天之宇受売大神の御霊を鎮祭してもらう。さらに、この石を白地の羽二重で包み、その上になお金襴の袋で覆うとされる。実際に鎮魂を行うときには、この石を金襴の覆いからとり出して、「眼通り」の高さに天井からつるし、これを半眼で凝視し、「吾が霊魂が石に鎮まる」と強く思念するという。

 かくて長沢が審神者をつとめた神憑りの中でもっとも大きな収穫は明治二十七年の宮城島金作に八千彦命が漂って日清戦争を予言したことと、明治三十四年上田喜三郎(王仁三郎)に小松林命がかかり、日露戦争の詳細な予言をしたことがあるという(佐藤前掲書)。

こうした鎮魂石代わりに綾部の和知川へ大本信者は鎮魂に使う石笛として石を拾いに行ったようで、大正九年の地を訪れて石を拾った学生に笠井鎮夫(現東京外語大学名誉教授)がある。六月二十七日に初参し、八月の末か九月朔から十日間にわたって「亀嘉」という旅宿に滞在、鎮魂帰神を実習している。鎮魂は、午前と午後の講演のあとで必ず行われ、初参のときは霊の発動が激しかったが、二度目からはいたって静かで、「鎮魂中のわが心(意識)は有るが如く無きが如く、神韻標として身は恰も晴れ渡った虚空にボカンと思ったような妙境に入ったのは、一週間ばかりたった後のこと」(「さすら」第五十五号)と記しており、氏はかくて約二十センチ四方の紙片に「鎮魂自修認可」の証をもらって帰っている。そしてこの滞在中、金龍殿で知り合った地方出身の青年と和知川の川原へ石笛を拾いにゆ き、鶏卵二倍ほどの石を東京まで持ちかえり、それ以後この笛を用いて多くの人々に鎮魂を施して神怒り状態を導いたという。」

(谷口雅春とその時代 小野泰博 東京堂出版 1995年3月 初版 57pから58)

 なお、本田霊学では、審神者の存在が重要であり、審神者なしに鎮魂法や帰神法を行うことは危険だとされています。

 この発想は、基本的に生長の家にも継承されていると思います。

(続く)

帰神法 (65307)
日時:2024年05月29日 (水) 20時29分
名前:暁烏

 大本教の出口王仁三郎師の霊能力について、大本教は出口王仁三郎師と本田霊学の関係については触れられていません。

https://oomoto.or.jp/wp/kyouso/

 確かに、出口王仁三郎師は霊的な修行を重ねて霊的な力を持った人でしたが、本田霊学の教えを活用したのも事実です。

「生長の家を興された谷口雅春、三五教の中野与之助、熱海に本拠を構える岡田茂吉、神道天行居の友清歓真」という4名のお名前が出てきますが、これらの人々にも鎮魂法などの本田霊学が伝わります。が、その後の態度は異なります。

 神道天行居の友清歓真師は、谷口雅春先生が大本教に行かれた時には、既に神経衰弱と称して大本教とは距離を置かれていたそうですが、その後、大本教を脱退し、公然と出口王仁三郎師を糾弾します。と同時に、その後、友清歓真師は、出口王仁三郎師の師匠にあたる長澤宮司を訪問して本田霊学を学び神道天行居を設立します。従って、神道天行居の教義は、本田霊学をベースにした古神道と言えるでしょう。

 生長の家の谷口雅春先生の場合、皇道霊学の著書を出版されるなど本田霊学を深く習得されました。が、生長の家については、古神道の教えもベースに置きますが、鎮魂法などスピリチュアルな修行とは少し距離を置いています。

 これについては想像するしかないのですが、鎮魂法などの修行が困難だというのも理由かもしれません。また、生長の家の場合、はっきりと生長の家の大神という指導神がおられる以上、神想観で直接のコンタクトを取れば良いのですから、本田霊学による修行をする必要がないというのも理由かもしれません。

 が、友清歓真師も谷口雅春先生も、その境地に至る原点は、古神道の帰神法などの修行があったと拝察する次第です。

(続く)

 

 

 
 

天皇信仰 (65325)
日時:2024年05月30日 (木) 22時51分
名前:暁烏

  友清歓真師は、出口王仁三郎師の師匠にあたる長澤宮司を訪問して本田霊学を学び神道天行居を設立しました。これに対して、谷口雅春先生は、大本教の先達である浅野和三郎師と共同で心霊研究を続けられました。

 浅野和三郎師は、英語が堪能であったので、海外の心霊研究についても詳細な知識を持ち、多角的な視点での研究をされました。ですから、古神道というベースはありましたが、生長の家の大神のご啓示を受けた後は、独自の視点で生長の家の教えを展開されたのです。

 ただ、古神道がベースにあるとわかると、生長の家の教えにも古神道の信仰が継承されている部分があると理解できます。例えば、山川草木国土悉皆が神の現れというのは古神道の発想です。

 生長の家の教義の中心の一つである「天皇信仰」も、古神道(と、言うよりも、生長の家大神が日本の古来の神様である以上、霊的な中心としての天皇なくして日本はあり得ないことになります。)がベースにある以上、欠かせないものとなります。

 ただし、ここにいう「天皇信仰」は、神意の展開としての天皇という霊的な意味であり、政治的な意味ではありません。この点は、戦争中の皇国史観の展開としての天皇への帰一とは意味が異なると考えます。

 余談となりますが、大本教が官憲から弾圧を受け、また谷口雅春先生を始めとした出口王仁三郎師の弟子が大本教から離れた原因の一つが、本田霊学を基本とした大本教が天皇ではなく出口家が日本の中心となるとする考えを持ったことだと言われています。これは、谷口雅春先生が書かれていますし、また、第2時大本教事件で京都府警特高課の刑事だった銅銀松雄氏の回顧録『最後の特高」(白川書店 昭和48年2月1日 127p)でも言及されています。

 大本教は戦後、分裂をします。また、生長の家も分裂をしますが、本田霊学を継承しつつも、天皇信仰を軽視したことが原因である可能性を感じています。

(続く)

神想観 (65330)
日時:2024年05月31日 (金) 21時22分
名前:暁烏

 神道天行居の友清歓真師の求道の姿勢は、谷口雅春先生も称賛されていたほどで、神道天行居では確かに奇跡が生まれていたみたいです。

 ただ、古神道とくに本田霊学は、真剣に信仰的な修行をしたいと思う人には魅力的ですが、一般の人にはかなりハードルが高い存在だと思います。また、帰神法などを実践しある種の「神様」が降りてきても、審神者が見たら低級な霊魂だったということもあります。この点、生長の家の神想観は、最初から生長の家大神という高い神様と波長を合わせ、その御守護の元で神と一体になるのですから、安全で確実だということは言えます。

 ある種の修行者にとっては、このような真剣な修行は必要ですが、一般に生活する人には、このような修行は困難です。

 谷口雅春先生が、霊界研究について、「青年の書」の端書で書かれておられますが、過度に心霊問題に青年が興味を持つことは有害だとされています。それは、心霊研究については、危険性があり、一つ間違えると人生を棒に振ることもあるからだと拝察します。

 このような理由から、谷口雅春先生は、古神道の行ではなく、神想観を確立されたと考えます。

(続く)

岡田式静座法 (65380)
日時:2024年06月05日 (水) 01時39分
名前:暁烏

 岡田式静座法という瞑想が、大正時代に流行しました。

http://www.seizanotomo.jp/index.html

 岡田式静座法は、形式としては神想観と似た部分があり、一部には神想観には岡田式静座法の影響があるのではないかとの憶測があります。

 ただ、谷口雅春先生のご著書には、岡田式静座法に言及することがあっても、その影響については書かれていません。

 私個人は、直接の影響はないのではないか、と想像しています。

 なお、考案者の岡田虎二郎氏は、人間的には魅力あふれる人であり、その人格も相まって信奉者が増えたが、49歳で岡田氏が急死してから衰退しました。が、今日でも細々ですが、有志による自主的な勉強会が運営されています。

(続く)

幽斎と顕斎 (65477)
日時:2024年06月13日 (木) 23時55分
名前:暁烏

 このように、幽斎と顕斎では、性格がまるで違います。が、この両方が揃わないと、この人間界では問題が生じます。

 例えば、幽斎だけでは、現実離れした世界になり、ネットの世界で言う「電波系」という言動をすることになります。が、顕斎に走ると、宗教が形骸化する危険性があります。現在では、仏教が「葬式仏教」と批判されますが、それが正しいか、どうかは別にして、一例と言えます。また、戦前、国家神道がキリスト教を攻撃したり、逆に植民地獲得競争でキリスト教が他宗教を排斥しましたが、これは形式を過度に重視した結果、生じたものです。

 幽斎と顕斎に近い発想は、どの宗教にもあり、問題点も類似しているようです。

 キリスト教でも、このような形骸化を嫌って、内村鑑三氏が「無教会派キリスト教」を唱えましたが、残念ながら、キリスト教の主流とはなっていないみたいです。

 この無教会派キリスト教から生まれた「キリストの幕屋」の創始者 手嶋郁郎氏が

 「現在では、牧師になろうとしたら、大学に4年間通って勉強をしなければいけない。が、そのような牧師が奇跡を起こしたとは聞いたことがない。だいたい、キリストはどこの大学を出たと言うのか。」

という趣旨の発言をされていますが、確かに、形骸化した教義や霊性を軽視した宗教指導は、信徒にとっては迷惑千万な存在だと言えます。

(続く)

歎異抄 (65548)
日時:2024年06月18日 (火) 23時51分
名前:暁烏

 生長の家でも、最近、一部では宗教には学問的な素養が必要だとか、講師になるのには大卒でないとだめだ、とか、おかしな事を言い出す人がいます。既成宗教では、既に宗教系の大学を出て、学士様にならないと、その世界では偉い宗教家になれない、というところがありますが、生長の家がそのような轍を踏まないことを祈るのみです。

 誤解がないように申し上げますと、谷口雅春先生は、大学は出ても良いし、出なくても良いと言われています。現に、生長の家でも大卒で立派な講師がたくさんいます。が、文字も読めないが、多くの人を救った立派な講師になった人もいます。カンボジアのポルポトのように、インテリを否定するのも間違いです。が、ポイントは表面意識の問題ではないのです。

 例えば、音楽家でも、音大を出て大成した人もいれば、音大を出ていないが大成した人はいくらでもいます。松任谷由実さんは大学での専攻は染色ですし、私が調べた範囲では歌手のMisiaさんは大学教育を受けていません。要は実力があれば良い世界です。そして、これは宗教の世界でも同じことが言えます。

 歎異抄で唯円が「経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと、この条すこぶる不足言葉の義といひつべし。」と書いていますが、学問的な価値で宗教を語るのは、極めて危険であると言えるでしょう。

(続く)

 (65644)
日時:2024年06月24日 (月) 06時56分
名前:人生の旅路編

めちゃめちゃおもしろいっす。

感じ入る事海の如し………。🌁

潜在意識 (65648)
日時:2024年06月24日 (月) 13時45分
名前:暁烏

 顕祭は、個人ではできませんが、幽斎は基本的に個人が主人公です。審神者が必要な場合はありますが、それは幽斎自体の仕組みが要求するだけで、これを組織化する必要はありません。

 基本的に、西洋でも東洋でも、宗教をしている人の相当数が瞑想を重視します。これは潜在意識の浄化です。その浄化を自力でするのは限界があります。人間の潜在意識は、深い部分では、霊界の影響も受けますし、自己内在の神様が原動力ですから、この部分をどう強化するか、または浄化するかが問題になります。

 その部分をどう変革するかが人間の運命を大きく変えるのですが、その手段が古神道では「幽斎」ということになります。人間の外観の部分、例えば、地位とか学歴とか職業とかは目に見えますが、潜在意識の部分は目に見えません。が、人間の意思決定を決める背景には、この部分は大きく作用します。

 仮に、ある人が、潜在意識の大きな劣等感を持っていたら、新しい挑戦をするのは控える傾向にあるでしょう。自己中心的な考えを潜在意識に持っていたら、何か逆境にあった場合、自分が助かるために、平気で他人を見捨てると思います。

 このような潜在意識の改革は、自力では限界があり、かつ、危険性もあります。

 これを大きく、正しい方向へと変えるのが、幽斎であります。故に、生長の家では、神想観が重視されているのであります。

(続く)

カルト (65672)
日時:2024年06月25日 (火) 22時29分
名前:暁烏

 カルトと健全な宗教との違いですが、基本的にカルトでもまともな宗教でも原則は同じで、潜在意識の改革を神仏の力を借りて行うものです。ただ、カルトは、潜在意識に徹底的に恐怖心や罪悪感を叩き込み、その上で教団の支配者の道具にしてしまいます。対して、優れた宗教は自己肯定感を高めて、精神の心境を高め、自己実現の価値を高めます。

 しかし、まともな団体でも、一つ間違うと、暴走してしまいます。それは、カルトでも真面目な宗教でも、基本的な原理は同じであり、ただ、そこに罪悪感や恐怖心を叩き込むか、自己肯定感を高めるかの違いだけです。そして、指導者が間違うと、まともな宗教でもカルト化するのです。

 どこの宗教かは伏せますが、大正時代にある教派宗教の団体のトップが地方を巡錫する際に、地方の教会の幹部に宿泊先で若い女性を「御伽係」として差し出すように命じていたという言い伝えがあります。その団体も、発祥の頃は民衆を救った優れた教えでしたが、組織が巨大化し、時代が経るに従い、変質してしまったのでしょう。

 実に宗教の指導者は、脚下照顧が必要だと痛感する次第です。

(続く)

 (65676)
日時:2024年06月26日 (水) 02時30分
名前:人生の旅路編

🌁自己実現は自己統治の価値を高める

ご指摘、ありがとうございます。 (65682)
日時:2024年06月26日 (水) 08時57分
名前:暁烏

誤植、訂正します。ありがとうございます。

 (65684)
日時:2024年06月26日 (水) 12時41分
名前:人生の旅路編

自身でとりわけ好き反応した一行をメモさせて頂いた迄でした👋

 (65685)
日時:2024年06月26日 (水) 13時09分
名前:人生の旅路編

しかしながら、この段落を能く能く読み返してみますと、さすが訂正文の方が的確ですね。🤓

 宗教は、世界平和に貢献できるのか? (65709)
日時:2024年06月27日 (木) 13時00分
名前:暁烏

 宗教は、世界平和に貢献できるのか?

 「現役の信者」さんが、松下松蔵さんについて書かれています。

https://bbs5.sekkaku.net/bbs/toki2/mode=res&log=8145

この中で重要なのは、松下松蔵さんが、大東亜戦争の勃発を予言しており、それを回避するために奔走するも、結局、防げなかったという点です。

 昭和16年ですが、戦争直前に、日本のカソリック信者 井川 忠雄さん(元 大蔵省官僚)が中心になり、陸軍の岩畔 豪雄大佐、ジェームズ・E・ウォルシュ司祭、 ジェームズ・ドラウト神父などのアメリカのカソリック教会の協力を得て、戦争回避の活動をしていました。彼らは、当時のルーズベルト政権のフランク・ウォーカー米郵政長官も協力していました。最終的には「日米諒解試案」と言われる調停案をまとめるに至りましたが、当時、外務大臣だった松岡洋介(プロテスタントの信徒だった)が、自分を外して成立したことに腹を立てて、これを拒否したので潰れてしまいました。

 戦争直前には、日米のカソリックの信者が戦争の回避を祈りますが、結局は開戦に至ったのは残念なことでした。が、歴史を見ると、宗教団体が行動を起こして、戦争を回避できたのは稀だと思われます。

 釈尊は、自分の出身である釈迦族を滅ぼそうと進軍してきたコーサラ国の王様を説いて3回は撤退させます。が、これは業のなせるわざであると悟り、4回目は止めませんでした。結果として、釈迦族は全滅しました。

 スピリチュアルな発想では、戦争はある日突然に起きるものではなく、いわゆる想念の世界では、長い間の人々の念が集積して起きるとされています。例えば、地震はある日突然におきますが、それにはマントルや地殻の変動によりエネルギーが集積して、それがある日突然に解放されて地震になります。それと似た発想です。

 宗教が政治家の真似をして動いても、限界はあります。もちろん、平和を実現する動きに宗教団体が協力することはできるし、それは実例があります。が、宗教団体が独自の動きで世界平和を実現できる可能性は低いです。

 古神道の発想では、個人の想念を浄化すること、それを通じて、念の世界を浄化し、戦争の原因となる念のエネルギーを作らないようにすることが、遠回りですが、世界平和の運動となります。

 生長の家で、「世界平和の祈り」をするのは、そこに理由があるのです。

(続く)

ひとりごと  (65823)
日時:2024年06月29日 (土) 20時03分
名前:桜咲く

明日は大祓ですね。
超本部では、
榎本先生が祭司をおつとめになられるのでしょうか

大祓の意義を奏でます。

これは余談です (65861)
日時:2024年07月01日 (月) 14時02分
名前:暁烏

 これは、個人的な感想ですので、本論とは関係がありません。その点はご注意ください。

 宗教が世界平和に貢献できるか、という点について、古神道の観点から限界があるとの感想を述べました。ただ、それでも、宗教が世界平和に貢献できる部分はあるとは感じます。

 例えば、中東の春では、独裁者が倒れて民主化が進みましたが、逆に原理派の勢いが増して政治情勢が不安定になりました。宗教の力を軽視した外国の政治勢力が、民主化すれば問題が解決するという程度の介入をしたことが原因かもしれません。この場合、歴史的な観点から、地元の宗教的な価値観を重視する姿勢が、民主化に伴っていたら、このような混乱は避けられたかもしれません。

 ただ、今の宗教指導者たちに、そのようなことを期待できるか、どうかは疑問です。

 そもそも、世界の紛争の相当な部分は、宗教が原因となっています。イスラム教でもシーア派とスンニ派では仲が悪いですし、イスラム教の原理派は神様をネタにテロを起こしています。国内政治でも、イランでは原理派の指導部に対して国民がデモを行い、道徳警察が弾圧を繰り返しています。

 まあ、このような宗教の対立が蔓延るのはそれなりに背景がありますが、それでもこのような信仰間の対立が勢いを増すのはどうかと思います。宗教というのは、独善性と排他性が売り物みたいな部分があります。これを信仰の純潔性とか言っていますが、要するに自分以外の宗教を商売敵みたいに考えているのでしょう。

 アフガニスタンを統治しているタリバンが中国と接近しているのは有名です。が、その中国は国内ではイスラム教を弾圧していますが、タリバンの指導部はその点については沈黙を守っています。その一方で、タリバンは自国民の女性の人権を侵害しています。こうなると、タリバンの指導部の信仰のあり方が理解できなくなります。

 谷口雅春先生は、万教帰一を説かれましたが、世界平和という観点からすると、このような発想こそが今後、求められると思います。

原始キリスト教 (65901)
日時:2024年07月03日 (水) 23時05分
名前:暁烏

 「日本共産党の研究」「臨死体験」や一連の田中角栄問題で有名になった立花隆さんは、ご両親が無教会派キリスト教だったと書いています。海外から伝わったキリスト教ですが、日本では讃美歌も聖書も文語調であり、かなり修身や道徳色の強い信仰になっていました。立花さんは、そのようなキリスト教に一種のコンプレックスを感じていたそうです。

 が、後日、立花さんがエルサレムを訪問し、現地のキリスト教の中でも、特に原始キリスト教と言われる言われる人達の様子を見ると、かなりアニミズム的な雰囲気があり、日本のキリスト教徒との違いに驚いたと書き残していました。つまり、現在に伝わっているキリスト教は、当初、イエスキリストが説いた教えと違っている可能性があるのです。

 キリスト教は、そもそもはイエスキリストが神様から伝えられたのですが、当時は多くの福音書があったと言われています。が、当時の権力者により、都合の悪い福音書は禁書にされ、あるいは内容を変えられたと言われています。これは、最近の発掘調査で、現在では存在しない福音書がいくつか発見されたことからも伺えます。

 また、キリスト教が日本に本格的に流入したのは、明治維新以後であり、当時のキリスト教の伝道者は多くが武士だった人が多かったと言われます。すると、当時の武士の価値観や考え方が色濃く反映したキリスト教の信仰の在り方になった可能性はあります。

 キリスト教は、誠に優れた良い教えですが、原始キリスト教と現在のキリスト教徒の違いを見ると、顕斎と幽斎の例えでいうと、外野から見ると、幽斎の部分が薄くなったのかもしれません。

本多清六博士 (65912)
日時:2024年07月04日 (木) 13時09分
名前:暁烏

 明治から昭和に活躍した林業の大家で、本多清六という人がいました。この人は、東大教授であり、日本の林業学の基礎を作った人です。日本最初の林学博士です。明治神宮外苑や日比谷公園などの有名な公園や森の設計なども手掛けました。宇治川のそばの山が崩落した時には、彼の指導で修復作業がされ、現在のような風光明媚な土地になっています。ドイツ留学中に、指導教官から投資の大切さを教わり、帰国後、節約してお金を貯め、それを投資に回したら、最後には現在の資産価値で500億円ものお金ができました。彼は、それを晩年には公益事業に寄付しています。晩年、彼の生き様は広く知られ、多くの人の共感を呼び、自伝はベストセラーになっています。

 余談ですが、旧姓は折原でしたが、本多家に養子に入っています。妻の銓子さんは日本で四人目の医師免許を受けた人で、義父は彰義隊の元頭取の本多晋という大変な人達でした。本多博士は最初は養子に行くのが嫌で、見合いの時にわざと汚い身なりで行き、出された料理を三人分食べたら、逆に奥さんが気に入り、結婚したという話が残っています。

 本多博士は、家が貧しく、若い頃は苦労したそうです。頭脳明晰で努力家だったのですが、貧乏でひねくれ、若い頃は大変に性格が悪かったと言います。それを心配した知人が、天源淘宮術という占いの一派に連れて行きました。もともと、天源術は占いでしたが、江戸時代に御家人の横山丸三が「運命は変えられる」「性格は変えられる」という立場で改良をし、独特の理論を打ち立て、「性格を変える」というスタンスで指導をするようになったようです。(現在は、 一般社団法人日本淘道会 として活動中)
 
 本多博士は、ここで自分の性格の欠陥を知り反省し、天源淘宮術の理論を実践して自分の性格を変えるように努力をしました。天源淘汰宮術の場合は、現在で言うところの心理学を活用して性格を変えるみたいです。ともあれ、「心の持ち方を変える」ことが成功の秘訣であるのは、すでに100年前に本多博士が実証しているようです。

「宇宙からの帰還」 (66413)
日時:2024年07月18日 (木) 22時01分
名前:暁烏

 
  立花隆さんの晩年の著書「知の旅は終わらない」(文藝春秋 文春新書)に彼の最初のベストセラーである「宇宙からの帰還」について触れた部分があります。彼は、田中角栄研究や科学についての著作で有名です。が、彼が一番熱心だったのが、アメリカの宇宙飛行士へのインタビューだったみたいです。

 以下の部分は、古神道のバックグランド、ひいては生長の家の信仰とも繋がる部分があるので、興味深い点があります。



 アポロ1号に乗って月面に降り立ったエド・ミッチェルは、宇宙飛行士時代に、もっと
も思索的でもっともインテレクチュアルな飛行士と言われた人物です。ちょっと長くなり
ますが、彼と僕とのやりとりを紹介しておきます。

(あなたは科学者であると同時に、聖書の言葉をすべて正しいと信じる熱心な南部バ
プティストのクリスチャンだった。) あなたはいかにして科学的真理と宗教的真理の対立
を克服したのか。それは宇宙体験と関係があるのか。

「まさしくその通りだ。私は二つの真理の相剋をかかえたまま宇宙にいき、宇宙でほと
んど一瞬のうちに、この長年悩みつづけた問題の解決を得た」

――それは、宇宙体験のどの部分なのか。

「宇宙から地球を見たときだ。(中略)月探検の任務を無事に果し、予定通り宇宙船は 地球に向かっているので、精神的余裕もできた。落ち着いた気持で、窓からはるかかな
たの地球を見た。無数の星が暗黒の中で輝き、その中に我々の地球が浮かんでいた。地
球は無限の宇宙の中では一つの斑点程度にしか見えなかった。しかしそれは美しすぎる
ほど美しい斑点だった。それを見ながら、いつも私の頭にあった幾つかの疑問が浮かん
できた。私という人間がここに存在しているのはなぜか。私の存在には意味があるのか。
目的があるのか。人間は知的動物にすぎないのか。何かそれ以上のものなのか。宇宙は
物質の偶然の集合にすぎないのか。 宇宙や人間は創造されたのか、それとも偶然の結果
として生成されたのか。我々はこれからどこにいこうとしているのか。すべては再び偶
然の手の中にあるのか。それとも、何らかのマスタープランに従ってすべては動いてい
るのか。こういったような疑問だ。
いつも、そういった疑問が頭に浮かぶたびに、ああでもないこうでもないと考えつづ
けるのだが、そのときはちがった。疑問と同時に、その答えが瞬間的に浮かんできた。
問いと答えと二段階のプロセスがあったというより、すべてが一瞬のうちだったといっ
たほうがよいだろう。それは不思議な体験だった。 宗教学でいう神秘体験とはこういう
ことかと思った。心理学でいうピーク体験だ。詩的に表現すれば、神の顔にこの手でふ れたという感じだ。とにかく、瞬間的に真理を把握したという思いだった(中略)」

――その神というのはつまるところ何なのか。(中略)

「神とは宇宙霊魂あるいは宇宙精神(コスミック・スピリット)であるといってもよい。
宇宙知性(コスミック・インテリジェンス)といってもよい。それは一つの大いなる思
惟である。その思惟に従って進行しているプロセスがこの世界である。人間の意識はそ
の思惟の一つのスペクトラムにすぎない。宇宙の本質は、物質ではなく霊的知性なのだ。
この本質が神だ。(中略)キリスト教の枠組は狭い。あまりにも狭い。あらゆる既成宗
教の枠組は狭い。硬化している。既成宗教の枠組の中で語ろうとすると、その宗教の伝
統の重みにからめとられてしまう。伝統による人間の意識の束縛は大きすぎるほど大き
い」

すると、あらゆる宗教の神は、本質的には同じということか。

「そういうことになる。つまり、宗教はすべて、この宇宙のスピリチュアルな本質との
一体感を経験するという神秘体験を持った人間が、それぞれにそれを表現することによ
って生まれたものだ。その原初的体験は本質的には同じものだと思う。しかし、それを
表現する段になると、その時代、地域、文化の限定を受けてしまう。しかし、あらゆる真の宗教体験が本質的には同じだということは、その体験の記述自体をよく読んでいく
とわかる。宗教だけに限定する必要はない。哲学にしても同じことだ。真にスピリチュ
アルな体験の上にうちたてられた哲学は、やはり質的には同じものなのだ」》

(同書 253pから256p)

 (66431)
日時:2024年07月19日 (金) 15時02分
名前:星の子

問いと答えが同時に自分の内から湧きあがるということは、全て知っていたことを「おもいだす」ということでしょうか。量子的飛躍、クウォンタムリ─プスともいうそうです。

余談 (66432)
日時:2024年07月19日 (金) 16時12分
名前:星の子

私は全ての全てとの一体感、
融合の大悟はありません。

が、。
やはり生長の家での行事のさなかに谷口雅春先生作詞、『久遠いのちの歌』を初めて耳にしたとき、小小小悟を体験しました。
おそらく多くの人がある事でしょうねえそんな瞬間が。


「キリスト教の原点は土着宗教」 (66546)
日時:2024年07月25日 (木) 00時34分
名前:暁烏

立花隆さんの晩年の著書「知の旅は終わらない」(文藝春秋 文春新書)に「原始キリスト教 (65901)」の拙稿の原点になった文章がありました。ご紹介します。(p169から172)


キリスト教の原点は土着宗教


これまでに何度か「キリスト教の土着性」について触れましたが、ここで少し詳しく述
べておきます。

キリスト教は、イスラム教、仏教と並ぶ世界三大宗教のひとつですが、現代人、特にヨ
ーロッパ以外のところに住んでいる人というのは、キリスト教の原点を見失ってしまうこ
とが多いのです。そしてヨーロッパ人であっても、抽象的な宗教論議を得意とするような
インテリにとっては、そのことがつい頭から飛んでしまうのですが、キリスト教の原点は、もともと土着宗教であったという事実のなかに見出せるのです。

 どういうことかといいますと、キリスト教は、紙の上に書かれた教義を抽象的に理解す
るだけではまったくわからない世界だということなのです。つまり、その土地の人々の日
常生活と密着した、地域のすべての文化的伝統、ならびに日常的共同行動と切り離せない
ものなんですね。 

 僕はキリスト教の歴史や教義については、相当に知っているつもりでした。ところが、
ヨーロッパでいろんな宗派の教会、寺院などを訪ね歩き、ミサなどの典礼にも列席してみ
たりするうちに、自分が頭のなかで理解していたキリスト教と、リアルな西欧文明世界に
存在している現実のキリスト教とは異質なものなのだということに、ある日、忽然と気が
ついたのです。
 最初、それに気がついたのは、エルサレムのゴルゴタの丘にある聖墳墓教会(キリスト
が十字架に架けられた場所が大きな教会になっていて、いろいろな教派で共同管理されている。勢力的には、西方教会より東方教会=ギリシャ正教の影響が強い)に行ったときのことです。

 あ、これは土着宗教なんだと直感したのです。

次にそれを強く感じたのは、スペインのセビリヤの大聖堂で、ミサの一部始終を観察し
たときのことです。地元のおばさんたちの一挙手一投足を細かく追っているうちに、あ、
やはり、これは土着宗教なんだと思ったのです。日本人にとってのキリスト教は、ちょっ
とモダンで、外国風で、知的で洒落ているという感じがあると思うのですが、そういう感
じはまったくない。その土地に根付いている昔ながらの宗教儀式という感じなのです。そ
れは何とも泥くさい、古い密儀宗教的要素を色濃くもっていました。僧たちが、煙をモクモク出しつづけている香炉を長い鎖の先にぶら下げ、それを打ち振りながら、会堂のなか
グルグル歩く。呪文のような言葉をブツブツと唱えつづける。思い出したのは、真言宗
の護摩焚きでした。ああ、そっくりじゃないかと。

 ちなみに、日本の仏教を研究していくと、もっともわかりにくいのが真言宗です。なぜ
わかりにくいかといえば、真言宗もキリスト教と同じく、土着宗教の要素が大きいからで
す。真言宗というのは、新しく入ってきた仏教と日本土着の宗教がつながって成立したも
のです。特に、密教部分の核を形成しているのは、土着宗教の要素です。だから真言密教
では、護摩木を焚いたり、真言を唱えたりといった、合理性では説明できない「怪しげな
「儀式的要素」が大きな意味をもったり、特にその部分がありがたがられたりするわけです。

こうした密教と似た土着の民衆宗教的な側面が、カトリックの歴史にもあるのです。さ
らにいえば、実は、東方教会は、その性格がより強く、土着宗教の要素がさらに濃い。そ
して、こうした知識は、神学的な解釈について分析した本をいくら読んでも得ることはで
きません。だから、ヨーロッパに伝わるさまざまな聖者たちの伝説を集めたような『黄金
伝説』といった本が必要になってくるわけです。いまでも一般大衆は、そのような伝説的
な要素を信じ込んでいます。そして、これは、たいていキリスト教以前の、その地域の文化の最古層に昔からあった要素なんですね。

 宗教というのは、面白いことに、あるところで生まれて、それが周辺の文化圏に広がり
伝播していく過程で、必ずその土地に古くからある別の宗教思想と激しくぶつかり合い、
その衝突過程で、お互いに影響し合い、相手を変えるとともに、自分も変わっていくとい
う現象を起こします。これが、「接触と変容」と呼ばれる現象なのです。

 (66569)
日時:2024年07月26日 (金) 00時03分
名前:波動

宝蔵神社特別版 『霊供養入門』 谷口雅春著

第四章 迷霊の干渉と高級霊の守護

(259ペ一ジ)地球のエ一テル体

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

是非。

 (66581)
日時:2024年07月26日 (金) 16時27分
名前:人生の旅路編

🌁「接触と変容」

双方に化学変化が起こること。



『チベット死者の書』 (66962)
日時:2024年08月17日 (土) 22時38分
名前:暁烏

 チベット死者の書は、チベット仏教の経典で、世界的にも有名な本です。人間が死ぬときの有様を詳細に記述したものです。この中で、ある日本人がこのように書いています。

 この本に書かれている内容は、他の類似の本、例えば日本で平安時代に書かれた源信の「往生要集」などと極めて似ています。当時、チベットと日本で連絡が取れた可能性は低いことを考慮すると、お互いにそれなりの研究なりインスピレーションの結果、書かれたものだと言えるでしょう。


第一の光明の体験
チベット亡命政府のある北インドのダラムサラで長く生活し、 チベットの人々がどのように死を考えているかを見てきた翻訳家の三浦順子さんはこう語っています。

チベット人は、死んでゆく瞬間を、修行したけれどあまり高いレベルまで行けなかった人でも、パッと飛躍できるときだと考えているようです。なぜかというと、私たちの心は非常に凝り固まっているわけで、死の瞬間に自分の心がバラバラになって、上の層からだんだん崩れてゆくのですね。
その瞬間に、われわれの仏性という隠れていたエッセンスが、 基層から出てくるので、それを捕まえれば、覚りが開かれるというように考えたのです。チベット人にとっては、死の瞬間は、ものすごくいいスプリングボードだと考えられるのですね。


チベット仏教では生命の本質は心であり、その心の本体は純粋な光だと考えています。 生きている間には、肉体や心も多層的な構造をとっているため、その本質の光明はなかなか現われません。
しかし『チベット死者の書』では、死の直後に、この純粋な光明が誰にでも現われてくると説かれているのです。
呼吸がまさに止まろうとする、その瞬間に(ポワ)によって意識が外に出るのが最も望ましいのですが、もし、それができない場合には、次の言葉を唱えます。


チベット死者の書: 仏典に秘められた死と転生 (NHK出版)
49ページ  第3章 臨死における光の導き~『チベット死者の書』を読む  より

 (66969)
日時:2024年08月18日 (日) 12時12分
名前:人生の旅路

苦しみのセツナに肉体から意識(魂)(霊)が脱け出て、天井付近からベッドで苦しんでいる身体を観ていたというような臨死体験といわれる例が医師に多く報告されていますね。

 (66970)
日時:2024年08月18日 (日) 13時26分
名前:余談ですが

本日もうすぐ
「そこまで言って委員会NP」

仏教&神道&新宗教

日本の宗教を考える!

ゲストは誰かまだわかりません

生長の家の名が出るかでないか

出ないか出るか…です

 (66971)
日時:2024年08月18日 (日) 15時18分
名前:余談ですが

統◯◯会、◯◯学会、◯福の◯学、
そして神◯◯庁の名が少し挙がった。
ゲストは鈴木エイト氏、笑い飯。

暁鳥さんスレを読んで少し予備知識があったのでカンシャ。



外国人が書いた大本教 (66997)
日時:2024年08月20日 (火) 22時22分
名前:暁烏

大本教の鎮魂帰神法について、説明をした書籍があります。外国人による著作ですが、それだけにわかりやすい内容になっていると感じます。

 鎮魂帰神法の実践は、おもに三つの要素から成り立っていた。鎮魂石、特別な姿勢と手の組み方(印)、審神による音楽と朗唱の三つである。鎮魂石は小さく重い石で、理想を言えば奇跡が起こって霊界から受け取れればいいのだが、そのようなことはめったになく、予測できることではないので、神社の境内や聖なる山、河床、海岸などで適切な石を探した。適切なものが見つかったら丁寧に水で洗い、塩で浄め、錦の袋に入れて小さな祭壇に納めた。

霊媒となる 「神主」は適切な姿勢を取る。すなわち、右足の親指が左足の親指の上に乗るような形で正座をする。両手を胸の前で組み、両人差し指を上に向け、他の指を手のひら側で絡ませる鎮魂印(天沼矛と呼ばれる)を結ぶ。左手の親指は右手の親指の上に乗せる。 神主は二〇~三〇分間目を閉じて座り、 念と霊とが石の中で合一するよう集中する。

審神は、鎮魂の瞑想をする神主の霊の状態に注意を払わなければならない。 神主が適切なトランス状態に達したら、霊がかかる準備が整う。その状態を導くために審神は手を鳴らし、石笛を吹い幽玄な雰囲気を醸し出す 。 審神は天津祝詞と天数歌を唱える。 霊がかかったら、審神は一連の問答を行ってその霊の種類―正邪、階級、由来を判定しなければならない。 本田によると、正霊にも邪霊にもそれぞれ一八一の階級があるという。 審神は霊を正しく見分けるために、神道の神々の一柱一柱を説明している古典に精通していなければならない。

大本教は、人にかかる霊は四種類であると教えた。 上級神、正守護神と副守護神、動物霊、祖霊である上級神は鎮魂帰神のときにのみ人にかかり、言葉を伝え終えると離れる。上級神がかかる対象として選ぶのは、宗教的実践を積んだ者のみである。正守護霊は神の分霊であり、一人一人の丹田に宿り、霊的な導き手として働く。 東アジアの多くの文化で伝統的に生命力の中心と考えられていた腹部の重要性について、王仁三郎は次のような歌を詠んでいる。

この腹は高天原の腹にして生命の神のつどひます腹

うかれゆく魂を招きて丹田にをさめ生かすを魂鎮めとう

副守護神は人の身体機能を司り、人の完全な支配をめぐって正守護神としばしば争う 。 両霊のバランスが重要なのである。副守護神が勝つと、その人はつまらない性格になる。
下級の動物霊や祖霊も身体に憑くが、長期にわたってとどまり、病気や不幸の原因となる。 民俗信仰と同じく、人間に憑きやすい動物は狐と狸である。祖先の霊も、一族の問題に不満を抱いたと注意を促すために子孫に憑くことがよくある。
ひとたび霊を特定したなら、次の大目標は、その霊と、霊が憑いた人を大本教と道徳の「真の「道」へと向け直すこととなる[1]。下級の霊は審神により身体から追い出される。

(138pから140p)

出口王仁三郎
帝国の時代のカリスマ
2009年6月29日 第1刷
著者 ナンシー・K・ストーカー
・井上順孝
監訳者・
いわさかあきら
訳者・
·岩坂 彰
発行者・
・成瀬雅人
発行所・ ・・・ 株式会社原書房

[そこまで言って委員会NP] 仏教&神道&新宗教…日本の宗教を考える! (66999)
日時:2024年08月21日 (水) 00時22分
名前:志恩

読売テレビ
8月18日(日)放送分

(1:11:36)
https://tver.jp/episodes/epufhi3xz1

(⬆️スタートして5分12秒ぐらいから
 番組が始まります。)

様々な宗教行事が入り混じる日本…
仏教はなぜ日本人に浸透したのか?
祇園祭を巡る有料サービスの是非は?
そして”統一教会”のイマとは…
専門家を交え徹底分析&徹底討論!
Webサイト限定のオリジナル動画コンテンツ。
!素顔のパネラーが見せる本音トークを動画で配信!
限定映像をどうぞお見逃しなく!


出演者
丸田 佳奈
野村 明大
竹田 恒泰
山口 真由
田嶋 陽子
フィフィ
門田 隆将
大野 裕之
須田 慎一郎
紀藤 正樹
島田 裕巳
哲夫
笑い飯
鈴木 エイト

(C)ytv

志恩ー
まだ最初のところだけしか、私は視聴しておりません。
これから、ゆっくり視聴します。
(インターネットがつながったばかりですので)


親鸞聖人と聖書 (67152)
日時:2024年08月31日 (土) 12時46分
名前:暁烏

 親鸞聖人が、聖書を読んでいた、というのはネットや書籍で流布されている話です。そこで、調べてみると、以下のような話が書いてありました。親鸞聖人の教えと聖書の教えには共通点があると指摘されていますが、仮に親鸞聖人が景教(ネストリウス派キリスト教の中国での呼称)の本を読んでいたとしたら、それも納得できます。



浄土真宗とイエス・キリスト1 親鸞も聖書を読んでいた。

13

Shi mada Tomitoshi
2024年7月18日 14:20 フォローする
「私は実際、浄土真宗西本願寺に行って、この『世尊布施論』について聞いたことがあります。寺の人に、「景教の書物がこの寺に保管されていると、本で読んだのですけれども、それはありますか。見せてもらえないでしょうか」と聞きました。しかし、何人かに聞きましたけれども、「いいえ、そういうものはありません」と言う。
「でも、こうやって写真まで出ているじゃないですか」と、私が持っていた本を見せました。それでも「知らない」と言います。そのうち、私がねばっていると、奥の方から責任者らしいおじいさんが出てきました。
「はい、たしかにあります」
と言ってくれました。「でも、大切にしまわれているものですし、古くて傷みやすい状態なので、普通はお見せしていません」とのことでした。「でも、どうしてもと言われれば、お見せすることもしていますが、それを撮影した写真がありますから、普通はその写真を見ていただいています」と。
それで、写真を見せていただきました。それは私の持っていった本のものと同じでした。こうして、西本願寺に景教の書物があるのは本当だと知ったのです。あの浄土真宗の開祖、親鸞が、これを何時間も読んで学んだということは、私にとっても感慨深いものでした。」
(ケン・ジョセフ著「〔隠された〕十字架の国・日本」徳間書店)より引用。
この人物。ケン ジョセフ ジュニア 氏は、東京都生まれの在日アッシリア系米国人で、景教研究家であり日ユ同祖論研究家。また、千葉大学客員特任教授でもある。
(景教については聖徳太子とイエス・キリスト2の記事で触れているので参考にして下さい)
さて、ジョセフ氏が求めた西本願寺に伝わる宝物「世尊布施論」とはイエス・キリストの『マタイの福音書・山上の垂訓』の漢文訳なのです。漢文で書かれているため、仏典として、また親鸞が学んだため、西本願寺の宝物として保存されてきたのです。
(次回に続く)
マタイによる福音書 5:1-2 新共同訳
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
※親鸞(しんらん、承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日 は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の仏教家。親鸞聖人と尊称され、鎌倉仏教の一つ、浄土真宗の宗祖とされる

出典  https://note.com/lovely_clover535/n/nbd616162a60c

「親鸞聖人と聖書」感想 (67153)
日時:2024年08月31日 (土) 13時16分
名前:暁烏

 仮に、親鸞聖人が聖書の影響を受けていたとすると、親鸞聖人のそもそもの教えはかなりスピリチュアルな内容で、権威主義的存在ではなかったと思われます。唯円が「歎異抄」で親鸞聖人が遷化された後の浄土真宗の教団が、急速に権威主義化、官僚化したのを嘆いたのは、当然だと思われます。

 親鸞聖人の死後、浄土真宗の教団は急激に衰退します。が、200年後、蓮如聖人が歎異抄を再評価した時期から浄土真宗は急激に勢いを舞します。が、その蓮如聖人ですら、歎異抄を安易に公開するべきではないとしています。

 神仏が説かれた信仰でも、それを受け取った側は、あくまでも人間です。そこに難しい点があるとは思います。

親鸞聖人 (67167)
日時:2024年09月01日 (日) 02時22分
名前:暁烏

 浄土真宗の教えでは、「臨終の時に念仏を唱えたら、阿弥陀様が迎えに来てくれて、極楽浄土に行ける」とか学校では習った記憶があります。子供の頃は、あまり感心しなかったのですが、チベット仏教の「死者の書」にある説明を読み、感じたことがあります。(『チベット死者の書』 (66962)参照)

 すなわち、チベット仏教と浄土真宗の説明では、臨終直後にある言葉を唱えることで、宗教的な覚醒が得られるとあります。

 ここから先は憶測ですが、両者の間には、何かのつながりがあったのではないか、と思っています。

二・二六事件 (67528)
日時:2024年09月20日 (金) 00時31分
名前:暁烏

 二・二六事件は、のちに、電話通話の記録が公開されました。一時期、青年将校のバックには軍の将官がいたとの憶測が流れ、生存していた青年将校たちがこれを強く否定するなどの論争がありました。今日では、軍の将官がバックにいたという説は否定されていますが、北一輝と西田税については、その影響力については議論が続いています。

 実は、北一輝は彼の奥様を霊媒として霊界通信をしており、その「お告げ」を根拠に種々の指導をしていたことが、当時から知られていました。

 この点について、青年将校運動に参加していたが、北一輝と西田税には強く批判的だった常岡瀧雄氏(当時、陸軍大尉)が、「もう一つの昭和維新運動」と題して、「歴史と人物」 特集 二・二六事件(昭和56年2月号、中央公論社 134p)に詳しく書いています。

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 北は皇軍の一部を彼の改造法案を教典とする革命軍にした。彼は早くから妻女
を使って霊告と称して青年将校を盲信せしめて来た。
 村中は事件直前の二月二十二日、蹶起について北の意見を求めたが、
そのときも霊告を告げ、二十四日夜、最後の意見を求めるため北を訪うたときも、
「大内山に光射す、暗雲なし"と御告げが出た、大内山に光射すというのは、蹶起将校の目的は天聴に達せられることで、暗雲なしとは、純真な人によって、組閣が順調に進み、したがって皇室も御安泰であるということであり、青年将校の目的は、必ず達成されるであろう」
と述べて激励した。
二・二六事件勃発後、蹶起将校たちは軍内閣を主張し、その首領に真崎を押すものと柳川を押すものとがあって統一ができていなかった。北はそれを真崎一本に統一する必要ありと考え、二月二十七日午前十時、
「人無し、勇将真崎あり、国家正義軍のため号令し、正義軍速かに一任せよ」
との霊告があったと言い、西田が首相官邸にいる磯部に電話してこの霊告を伝え 
ると、磯部は、
「御告に国家正義軍と出たですか、不思ですね、私共は昨日来、尊皇義軍と言
昔っています」
と言って快哉を叫んだ。 そして真崎に無条件で事態の収拾を一任することになっ
た。
二十八日朝、北は、
「神仏集い賞讃々々おお嬉しさの余り涙込み上げた、義軍勝って兜の緒を締めよ」
と霊告に出たと西田に告げた。しかし奉勅命令が出て、 十時十分遂に起軍は討
伐されることとなった。
正午頃、北は栗原よりの電話によって、青年将校が責を負って自決することにな
ったと聞き、
「自決するなどと、そんな弱気ではだめだ、昨日の軍事参議官の回答を待つべき
だ、自決は最後の手段だ」
と栗原に答えた。
午後一時半頃、陸相官邸の村中から、
「奉勅命令が出てわれわれを討伐するということですが、その真偽はまだ不明で
とす」、
と言ったのにたいし、北は、「奉勅命令は多分おどしだろう。君等はこれに乗せられてはいけない・・・・・・」
と教え、また午後五時頃にも栗原を激励している。
西田は磯部から、
「自分は最後まで残り、一戦を交える決心だがどうだろうか」
「そこまでやらなくてはなるまい」。
と指示した。
世間には霊告と称して人をだますものがおるが、だますことは罪なことである
とともに、だまされるほうもどんなものか。いずれにしても、この霊告なるもの
はことごとく当らなかった。

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 二・二六事件の結果、軍部の暴走が制御できなくなり、遂に戦争に至ったと言われます。が、その原因が、いわゆる「霊のお告げ」出会ったのは、興味深いことです。

 余談ですが、この事件の時に、谷口雅春先生ご夫妻が、一身に祈っておられたのは石川貞子先生の回顧録に残っています。また、押し入れに隠れていた岡田啓介首相を反乱軍の下士官が見つけていたが、これを上官には報告せず、隠したが、この下士官がのちに生長の家の地方講師となったという因縁もありました。

 先に書いた「本田霊学」では、審神者の重要性を強調していたという話を書きましたが、北一輝の「霊告」には、審神者を使った痕跡はありません。その結果、敗戦にまで至ったのですから、北一輝の奥さんにかかっていた霊は、かなり問題のあった霊であったみたいです。

 結果として、北一輝、西田税、青年将校の多くも処刑され、襲撃された人たちも多く亡くなったのですから、北一輝が審神者を使わなかったのは残念としか言えません。

 

松下松蔵氏の教団について (67608)
日時:2024年09月26日 (木) 06時29分
名前:暁烏

 松下松蔵氏の創設した教団については、調べても詳細が不明でした。ところが、佐野眞一氏の「阿片王 満州の夜と霧」という本に松下松蔵氏の創設した「祖神道会」という宗教団体についての記述がありました。

 「阿片王」は、戦前、満州で阿片王として知られた里見甫という人物の伝記です。戦後、A級戦犯として収監された里見氏は、戦後、緑内障が奇跡的に治ったことから、この宗教を熱心に信仰するようになったとあります。その中で、熊本に本部を置く「祖神道会」三代目管長の松下延明氏や別に東京に本部を置く「東京祖神道会」二代目代表の三谷亨氏の取材もされています。それによると、初代の存命中は日本だけではなく、朝鮮、ハワイ、ロスアンゼルス、満州にも信徒はいたが、現在はそう多くはないとのことでした。この本が出版されたのは2005年ですから、現在ではかなり厳しい状況になっているようです。信徒の中には東條英機元総理の私設秘書として知られた実業家の若松華遥氏や東郷平八郎元帥の側近として有名だった小笠原長生中将もいて、それなりの力を持っていたそうです。

 ところで、若松氏は一時、熱心な信徒でしたが、ある日、突然、やめました。それは、東京祖神道会の初代管長だった落合宏則氏が、若松氏の娘が不倫をしたと言い出し、それに激怒した若松氏が「祖神道会」を辞めたためです。若松氏の娘は、二代目の若松華遥を襲名していますが、プロ野球選手の土井恒武氏と結婚しており、信徒だった土井氏もそれを契機に信徒を辞めたとあります。

 これを読むと、おそらく「祖神道会」の信仰は、松下松蔵氏のような霊感に基づく内容だったと思われます。現在でも不知の病という緑内障を治したというのもその一例でしょう。が、当外の予言をして信徒を傷つけたのもその一例だと思われます。初代の松下氏の霊感は優れた者でしたが、弟子になると問題が生じたようです。

 なお、現在、「祖神道会」は、宗教法人としての法人番号は存在しておりますが、ホームページなどは見当たらず、活動は熱心とは言えないようです。

 この辺りは霊感系の信仰の難しさを示すものだと思います。

 

マウスの実験 (67755)
日時:2024年10月07日 (月) 19時24分
名前:暁烏



 岡山県のバイオ企業 林原は、インターフェロンなどのハイテク技術で有名でしたが、2011年に会社更生法の適用により、社長が交代しました。その時の林原 健社長の回顧録に霊についての記述がありました。

 米国などでは、電磁気の検査により、霊を探知することが行われていると聞いたことがあります。今後、この方面の研究が進むことが期待されます。

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浮世離れついでに言えば、私には霊が見える。どのように見えるかというと、ブルース・
ウィルス主演のハリウッド映画「シックス・センス」をイメージしてもらえばいい。町中の至る所で、死んだ方たちが私の前に現れる。
「ねえねえ、あそこに幽霊がいるよ」
物心ついたときからこの力が備わっていたので、子供の頃はよく周りの大人に話していた。
けれど、誰も彼もが、気持ち悪がった。黙っていたほうがみんなから嫌われなくて済む。 それが分かってから、人に話すのをやめた。高名な僧侶に頼んで、霊が見えなくなるお経を教えてもらったこともある。毎日唱えていると一時見えなくなったが、次第に元に戻ってきたので、今はもう何もしていない。
どうせなら科学的に霊を検証してやろうと、林原でひっそりと研究をしていた。専門家に生物のエネルギーを計測する装置を作ってもらった。
その装置にハムスターを載せると、ハムスターから電気エネルギーが出ているのが分かる。
けれどそれとは別にもう1つ、電気ではないエネルギーの存在が電磁波のゆがみによって分かる。ハムスターが死ぬと、前者のエネルギーは消えるが、後者のエネルギーは残る。一方、妊娠したハムスターを載せると、その胎内に電気ではないエネルギーが複数計測できる。 出産させてみると、その数とぴたりと合う。つまり、受精卵の段階で電気でも光でもない特殊なエネルギーが生まれ、これは死んでも残るのだ。この現象はそのまま人間にも当てはまるはずで、それが霊だと考えている。(p100?ス?101)

林原 健
1942年(昭和17年) 岡山市生まれ。61年、 慶應大学在学中に父の死去に伴い、 林原の4代目社長に就任。 林原を研究開発型の世界的な食品素材、 医薬品素材メーカーに育て上げる。2011年、会社更生法の適用を申請し、辞任 

「林原家 同族経営への警鐘」
二〇一四年五月二〇日 初版第一刷発行
著者 林原健

 (68499)
日時:2024年11月27日 (水) 06時46分
名前:桜咲く


【人生邂逅し 

    開眼し

      瞑目す】


今年出合ったことばです。

やはり【神想観】なくしてはものごとの本質
には出合えないと、感謝が湧き上がリます。

桜咲く様 (68500)
日時:2024年11月27日 (水) 07時22分
名前:志恩

>【人生邂逅し 

    開眼し

      瞑目す】


今年出合ったことばです。

やはり【神想観】なくしてはものごとの本質
には出合えないと、感謝が湧き上がリます。<

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ネット辞典より
【「解逅」とはどういう意味ですか?】
「邂逅(かいこう)」とは、思いがけず巡りあう事、偶然の出会いを表します。 昔は「わらくば」という読みもあったそうです。 出会いが与えるものを振り返ると、「人生で会うべき人には必ず会わされる。 それも一瞬たりとも早すぎもせず、遅すぎもせず(森信三)」という言葉に納得します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
志恩ー
深いお言葉、感銘しました。ありがとうございます。
私も神想観が、とても重要であると昔から常々思っています。

私は、これは実母に娘時代に教わったのですが、
神想観しては「自分がありませんように、神様、
あなたの想いが、私の想いでありますように」という
気持ちで、ずっと行動して生きてまいりました。

それでも気づかないうちに、現象世界にどっぷり浸かった
生き方をしている自分に、ふと気づくことがあります。

桜咲く 様 (68502)
日時:2024年11月27日 (水) 14時49分
名前:はうら ひとひら


桜咲く様

お元気でしたでしょうか。

文芸評論家で思想家だった
亀井勝一郎氏の

『人生邂逅し
 開眼し
 瞑目す』

の直筆による文学碑が函館市青柳町に
ありますので、貼らせていただきます。
(Ameba あのね様の投稿によるものです。
申し訳ありませんが、使用させていただきます。)

函館市青柳町には
石川啄木氏の文学碑で
『函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌やぐるまの花』
もあります。

亀井氏は
「人生は無限に深い。われわれの知らない
どれほどの多くの真理が、美があるいは人間が、
かくれているかわからない。」
と言われました。

私(はうら)は谷口雅春先生によって新生させて
いただきました。
まさに邂逅です。
因みに、函館は私の生家の近くです。

画像は探したのですが、紛失しましたので
「あのね様」のを借用させていただきました。

ありがとうございます。

画像はクリックすると拡大します。
IMG

 (68732)
日時:2024年12月17日 (火) 18時03分
名前:桜咲く


はうら ひとひら様

お久しぶりぶりです。

「人生は無限に深い。われわれの
知らないどれほど多くの真理が、美が、
あるいは人間が、かくれているかわから
ない。」


わたくしが見たい所、に真理や美を、
探すのでは薄っペらい人生で終了して
しまうのかも知れません。

この亀井勝一郎という御仁の思いには
はうら様を介して初めて出逢いました。

とても(わたくしなりに)共鳴します。


はうら様、志恩様、有難うございます。

 (68887)
日時:2024年12月28日 (土) 19時57分
名前:桜咲く

暁鳥様ご紹介
「宇宙からの帰還」(66413)

世に云う「宇宙」というスペースに行き
感受した飛行士の言葉が素敵です。

合掌有難うございます。


ありがとうございます。 (68889)
日時:2024年12月29日 (日) 02時07分
名前:暁烏

 宇宙飛行士の話は、以前、教団の記事でもとりあげられていましたが、今思うと深遠な話でした。

 ところで、松下松蔵さんは、神様からの啓示を「研究」と称してまとめているのですが、彼に「研究」には、「神様は人間にはかからぬ」というものがあり、これは谷口雅春先生のご指導とも一致しております。

 松下氏によれば、病気の原因として、物理的な理由による病気は少なく、大半がそれ以外のものであるとのことです。興味深いのは、病人自身が今世か前世で殺人などを起こして病気になった場合は、松下松蔵さんでも治せず、これは因縁が消えないと仕方がないとのことです。これは宗教による病気治しに限界があることの説明としては納得できます。


ミシャグジ信仰 (68928)
日時:2024年12月31日 (火) 02時38分
名前:暁烏

 日本の古神道は縄文時代に起源を発しますが、実は、日本には古神道とは別に、縄文時代に始まったもう一つの信仰があります。それが「ミシャグジ信仰」と言われるものです。この「ミシャグジ信仰」については、ネットで検索してもらうことにして、実は、現代ではすでに詳細が不明で研究者でもわからないことが多いとされています。ただ、その信仰の痕跡は諏訪大社など各地に存在しています。いわゆる古神道とは別の信仰ですが、自然を崇拝し、特に石を信仰の対象にしていたと思われます。(石神信仰)

 ミシャグジ信仰の痕跡は、長野県が多く、その他、山梨県や静岡県なども多いです。おそらく、日本の中部地方で盛んだった信仰だったみたいです。

 「ミシャグジ信仰」については現在では詳細が失われているのでどんな信仰だったかは不明ですが、現在の生長の家が、本部を山梨県の山の中に移し、「石あげの行」と称して石を拝み、「神・自然・人間は本来一体である」と言っているのは、「ミシャグジ信仰」との類似性が指摘できると感じます。スピリチュアル系統の人の中には、現在の谷口雅宣総裁の指導神が「生長の家大神」ではない、と言う人が散見されますが、仮に「ミシャグジ信仰」の系統の神様が現在の生長の家の指導神となっているのなら、これは谷口雅春先生が学ばれた古神道とは別の系統の霊だといえます。

 いわゆる本流復活派と言われる人だけではなく、現在では教団内部の幹部ですら、谷口雅宣総裁の信仰指導が、谷口雅春先生の信仰とは別の内容であると考える人が多くなっています。現在の総裁やその側近が自覚しているか、どうかは別にして、総裁の指導霊が、「生長の家大神」ではなく、「ミシャグジ信仰」の系統の神様であると仮定すると、現在、生長の家で生じていることが説明できるかもしれません。

暁鳥様 (68930)
日時:2024年12月31日 (火) 07時39分
名前:志恩

「ミシャグジ信仰」って、初めて知りました。
https://intojapanwaraku.com/travel/13786/6/

以前、旧トキ掲示板で、初心者というハンドルネームで
出ていらしたお方が、
今後の生長の家についてという壮大なテーマで大いに
語っていらした内容と、大変似ているな、と思いました。

アミニズム、縄文時代を生きるなどに通じているように
思いました。過去の初心者様の言語録は、あります。
初心者様は、あの2011年に出ていらしていた頃から、
アミニズムのこと、誰かとコンタクト(霊界通信)は瞑想によって
日々行っていると言われていました。
コンタクトしていた相手は、あれは、石に関する神だったのか。

初心者様は、雅宣さんか!、と言いますと、訴えられますので
断定はできませんが、あの初心者様が雅宣さんだったとしたら
アミニズムへ、石信仰へ走って行ったことは、うなずけることだと
思っております。

山口組三代目のご子息 (69644)
日時:2025年02月12日 (水) 21時25分
名前:暁烏

 指定暴力団 山口組三代目組長田岡一雄氏の長男 田岡満氏の著書に「魂世紀」というものがあります。


 田岡満氏は、お父さんの跡は継がず、慶応大学を卒業後、実業の世界に入ります。その後、女優だった英子さんと結婚し、一女を授かります。が、その奥さんが突然、自殺をします。絶望した田岡満氏は、自殺の理由を知りたいと、ある霊能力者に依頼して奥様との霊界通信を試み、この試みは成功します。その後、霊界に興味を持った彼は、霊界の研究を行い、やがて一冊の著書を出版します。これが、「魂世紀」です。

 正直に言って、かなりわかりにくい本ですが、彼は独自の心霊の研究集団をまとめあげています。百人会というもので、女性だけの会です。田岡満氏によれば、霊的な感性は女性のほうが優れているという理由らしいです。興味深いのは、神は霊媒にはかからない、という結論をだしていることです。

 田岡満氏によれば、お父さんはある種の霊的な雰囲気のある人で臨終のときにも不思議な出来事があったそうです。それだけの人だけに、あれだけの巨大な暴力団がまとまったのでしょう。逆に、田岡一雄氏の死去のあと、山口組が急激に迷走したのも理解できます。

 暴力団については、現在、任侠道など忘れ去られ、金がすべての世界になったと聞きます。そのため、弱体化も目立つみたいです。警察の取り締まりなども効果があったのでしょうが、やはり内部の堕落の最大の要因なのかもしれません。

璽光尊 (69772)
日時:2025年02月26日 (水) 04時02分
名前:暁烏

 戦後、璽光尊という宗教が流行しました。大相撲の双葉山や囲碁の呉清源が入信したことで有名になりました。が、朝日新聞がネガティブキャンペーンを張り、警察の手入れがあったことで「邪教」とされ現在では衰退し消滅しております。

 「双葉山の邪宗門」は、この団体について調べた労作です。この団体が弾圧された拝啓には、アメリカ占領軍の意向が働いていた可能性が高いと書かれています。戦前、大本教が弾圧されたころから新興宗教は危険であるという風評が広まりましたが、この事件以後、その傾向は特に強まったみたいです。確かに、璽光尊という団体はエキセントリックであり、行き過ぎもあったみたいです。が、それを強調することで、占領軍としては日本の精神的な復興を妨害する意図はあったみたいです。

 が、璽光尊が衰退したことの原因は、地道な救済に頼らず、世間から注目を集めたことで安易な宣伝での信徒の拡大をめざしたことのようです。現在の我々も反省するべきです。

暁烏様 (69773)
日時:2025年02月26日 (水) 06時53分
名前:志恩

璽光尊って、「じこうそん」と読むのですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%BD%E5%85%89%E5%B0%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6


志恩ー
世の中には、知らないことが多いものです。
教えてくださって、ありがとうございます。

 (69775)
日時:2025年02月26日 (水) 16時25分
名前:メモリ

(じこうそん)を興味本位で検索して
みたら、開祖の長岡さんの映像が3秒間程
ありました。

TBSスパ一クリング映像ライブラリー
Youtube.2020/02/04

【TBSスパ一クル】
1950年(昭和25)8月30日
 神様も踊り出す

璽光尊事件の真相に迫る! (69776)
日時:2025年02月26日 (水) 20時47分
名前:志恩

【武田鉄矢】〈前編〉伝説の横綱・双葉山の璽光尊事件の真相に迫る!
悲劇はこうして始まった!〔今朝の三枚おろし〕
(30;06)
https://www.youtube.com/watch?v=B5mfrSJ92gw


【武田鉄矢】〈後編〉双葉山の悲劇「璽光尊事件」、
後に時津風親方(元・双葉山)は昭和天皇陛下の横でどんな心境で
天覧相撲の解説をしていたのだろうか…〔今朝の三枚おろし)
(28;23)
https://www.youtube.com/watch?v=jhNUbWCQKgQ


志恩ー
武田鉄矢が、この事件を取り上げて、くわしく語っている
番組がありましたので、ご紹介します。

(随筆)双葉山を手玉にとった”じこう様”について  (69778)
日時:2025年02月27日 (木) 06時41分
名前:志恩

宮本百合子 朗読:向井智子
(2;21)
https://www.youtube.com/watch?v=q5FVDMSbuAM


志恩ー
こういう動画もありました。



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