生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)

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私と体験。神癒への誘導燈(ガイドライト) (60140)
日時:2023年07月30日 (日) 09時12分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。
岡正章先生の旅立ちに際しましては、
皆様に大変お世話様になりました。
ありがとうございました。
岡先生のご家族様からも、
「皆様のお心のこもったご弔慰を賜りまして
ありがとうございました。温かいお気持ちに
家族一同深く感謝しております。・・・
生前お世話になった方々に、ご挨拶もできずにいたことを、
故人は大変気にしており、挨拶状を書きかけていたところ
でしたが、仕上げることは叶いませんでした。
『あとは任せた』と次の世代に託し、その心の内にあった
手紙が、皆様に届くように念じております。」
との御挨拶状が届いております事、ご報告いたします。

貴啓示板にご挨拶させていただいた折に、私(はうら 
ひとひら)の拙い体験を紹介させていただきます、と
書いておりました。志恩様からも、スレッドを立ち上げて
紹介して下さいと言われておりました。
表題のように、私にとりまして体験は、正に誘導燈です。
体験は『結果』ですから、その人のその時の身意口
(しんいく)が原因になっての顕われです。
その原因を探す為にも、この場所をお借りすることを、
お許し下さい。また皆様だったら、どのようにされるか、
ご意見や、ご感想などを戴けましたら、幸甚です。
体験について、聖典から二つの事が浮かんできました。

《『色々の艱難(かんなん)を“敵”だと思い、“障害”
だと思って、それを憎(にく)んだり、それから逃げ
出そうと思ってはならないのである。
艱難を敵だと思えば、艱難は“害する敵”の如くに
あらわれ自己を時として傷つけるが、艱難を自分の
魂(たましい)を研(と)ぎ鍛(きた)えるための
学習であると考え、それを素直(すなお)に受けて、
その艱難が自分に神が何を教えようとしあらわれて
いられるかを知ろうとして努力するとき、その時、
その艱難の体験は光を放って、自分自身の魂を祝福
する神の愛のあらわれであることを証明するに至る
のである。人生に於(お)ける色々の障害と見える
事物も、事件も、本来“障害”であるものは何一つ
神は創造し給(たま)うてはいないのである。
すべては祝福と教養の世界である。』》
(『聖経 続真理の吟唱』258頁)

《『そんな理屈の考えられる以前から心臓は
動いている。』》
(『生命の實相』頭注版第33巻 83頁)


■私の体験(時空を超えて)

先日二十年ぶりとなる、前回携わった大きなダムの
改修(設備更新)の仕様書がメールでどさっと
届いた。少し違和感を覚えて、よく検討したら、
更新する制御機器が、更新しないで残す機器と
整合(マッチング)していない事が判明した。
それには十六年前に生産中止となったある
インターフェイス機器が必要であった。
それがなければ、全て新規製作となり、数千万円の
追加費用と半年程の納期が必要である。

少し祈った。そして「わが願いは既に成就されております
事に感謝いたします」と結んだ。
必要機器をメーカーに問い合わせた。
次の日メーカからメールで回答があった。
「このシリーズは既に生産中止されているが、お申し越しの
その機器のみ、現在も生産されております。」
思わず感謝し、合掌し、その後で腰を抜かす程驚いた。

☆真理(理論)

《人間はすでにすべてを与えられている。
われわれの父なる神は「求めぬ前(さき)に、
われらの必要なる物を知り給う」のである。》
(『生命の實相』頭注版第30巻 239頁)


△思う事

こちらのダムは、上流から下流までに16のダムがある。
制御室(コントロールルーム)には絨毯(じゅうたん)
が敷かれていて、物を大事にされている。
以前訪れた時、筆記用具を床に落としたが、見つからず、
床に寝転んで探した事を思い出す。ふかふかの床だった。
『久遠の今』に立った時、過去-現在-未来が一点に集約
されていて、全てが一の展開である事が実感された。
『甘露の法雨』に
《神は無限》
《これを握れば一点となり、これを開けば
無窮(むきゅう)となる》
を感じたような体験でした。
第一原因者である神の行う事に、理由はない。
ただ与(あた)うのである。
ただありがたいだけの、生かされて生きている
人生である。

ありがとうございます。








はうらひとひら様 (60142)
日時:2023年07月30日 (日) 10時10分
名前:志恩

はうらひとひら様、
このたびは、”私と体験。神癒への誘導燈”
のスレッドを立ち上げてくださいまして、
大変嬉しく、期待に、胸をふくらませております。
ありがとうございます。

はうらひとひら様の2冊の小説とも、世にも珍しい
ような宗教的、物理的、その他、また男女の軽くない
恋愛も織り交ぜてあり、すごく魅力のあるいい小説です。

私は『葉裏のそよぎ』の次に『ひとひらの夜明け』も1度目は
拝読が終わったのですが、
とても面白い読み応えのある内容ですので、

『ひとひらの夜明けは』は、出かける時、いつも
ハンドバックに入れて、短い時間ができるつど、
再読させていただいております。

今後ともよろしくお願いいたします。

光はどこから来るか。 (60146)
日時:2023年07月30日 (日) 17時22分
名前:はうら ひとひら

志恩 様
温かいご支援に感謝いたします。
体験は大体、自分の失敗を世にさらす
ようなものなので、人は余り出したがら
ないと思います。
しかし私は『山上の垂訓(すいくん)』
で有名なマタイ福音書第5章3-10
の後に続く次のご文章
《 また人は燈火(ともしび)をともして
升(ます)の下におかず。燈台の上におく。
斯(かく)て燈火は家にある凡(すべ)て
の物を照らすなり。斯のごとく汝らの光を
人の前にかがやかせ。これ人の汝らが善き
行為(おこない)を見て、天にいます
汝らの父を崇(あが)めん為なり。》
(『マタイ伝福音書』第5章 15-16)

燈火を升の下におくことは、自分だけの
足下をてらして、他を省みないと気付いた
からです。

拙書『ひとひらの夜明け』まで読んでいただきまして、
ありがとうございます。
『葉裏のそよぎ』をキリスト教篇、『ひとひらの夜明け』
を仏教篇と表面上はなっておりますが、もう少し
異なる思いをもって書かせてもらいました。

・3.11の意味する事をどうしても書きたかった。
・何故私の友達二人が、一人は室町時代初期に開堂
した古刹(こさつ)の27世住職に就いたのか。
もう一人は『歎異抄(たんにしょう』に興味をもち
最後には、仏教系大学の文学部部長にまで何故
なったのか。
・何故台湾の国民が自主的に、3.11の時義援金を
世界で一番多く援助されたのか。
・何故現地(台湾)の人々に親しまれ、命がけで
夫が造ったダムに、妻が身を投じなければならなかったのか。
・何故ここぞとばかりに『原発反対』と言うのか。
今迄恩恵を受けていたではないか。

それらを私なりに見つめ直した旅でした。

■体験(光はどこから)

最近職場(教育施設の清掃、管理)で、二千人収容出来る
講堂に、偶然が重なって唯一人閉じ込められた。
周囲は漆黒(しっこく)の闇である。
その時咄嗟(とっさ)に思い浮かんだ事がある。
自分の中に、暗い思い、人を閉じ込めるような思考を
しなかったか、と反省した。
誘導灯も見えない。壁一つ隔てて、外は陽の光が照り
輝いているのに・・・
少し落ち着いてきた。そして「徳山(とくさん)」の
話を思い出した。
それは『無門関』に出て来るあの徳山である。

『金剛経(こんごうきょう』に精通していると自他共に
認める徳山は、旅の途中で空腹を覚え茶店の婆さんに
餅(もち)を求めた。
婆さん「貴公(あなた)は餅を所望しているが、過去、現在、
未来のどの心で餅を望んでいるのか。過去の心は巳(すで)
に滅して今は無い。現在の心は、現在とそれをつかまえ
たときもう過去になって了(しま)っているから現在の
心も無い。未来の心はまだ来ないからこれも無い。
さあどの心か。答えられなければ、餅は売れぬ』と迫られ
徳山は、答えられずに、婆さんに背負い投げを食らった。
彼は「久遠常在の今」がわからなかった。
しかしそこから徳山は発奮(はっぷん)した。
自分が異端としていた禅宗の宗師に五里かけて行き、
教えを乞うた。その熱心さは、夜が更けるまでおよんだ。
今晩はこの位にしましょう、と宗師。
簾(みす)を上げて外に出てみると、真の闇である。
そこで宗師は紙燭(ししょく)を点(てん)じて徳山
の手に渡そうとした。徳山がそれを受け取ろうとした時、
宗師は、その燭(ともしび)を吹き消した。
その時徳山は忽然(こつねん)として悟ったのである。
外が暗いと思っていたのは、自分の心が暗かった
のである。じっと見つめていると、どんな暗いところ
にも光があって見えて来るのである。外から光を
頂こうと思っていたその心が迷いであったのである。
(『無門関解釋』214〜220要約)

そうだ自分の中に光があるではないか、と覚悟した。
すると見えなかった誘導灯が見えたのである。
階段から落ちないように周到に歩いて、誘導灯の
近くに行った。二重扉は堅く施錠されていて内部からは
解除出来ない。しかしその場所から携帯電話が通じた。
程なくして救出された。
自分の周辺が暗かったのは、自分が暗かったからである。

☆真理

《 躓(つまず)く刹那(せつな)に光明に転向せよ。
それはわれわれの内部より無限の力を引き出さんとして
その動機を与え給うている。》
(『生命の實相』頭注版 第28巻 34頁)

△思う事

普段なかなか体験出来る事ではない。、
《肉体人間の智慧は「暗(やみ)」のようなもので、
実相人間は「光」のようなものである。
「暗」はそれを淡(うす)くすることによって、
光の存在を知るのである。暗とは「光の虚(きょ)」
である。
(『生命の實相』頭注版 第24巻 115頁)

逆境の来た時、何を想い、どう行動するかは、常に
現象界では問われている問題である。
まず恐怖心をおこさない事が、問題解決の初歩と
思った。大変よい経験をしたと思っている。

ありがとうございます。










はうらひとひら様 (60152)
日時:2023年07月31日 (月) 04時58分
名前:志恩

(はうら様ー)
>『葉裏のそよぎ』をキリスト教篇、
『葉裏のそよぎ』と表面上はなっておりますが、もう少し
異なる思いをもって書かせてもらいました。

・3.11の意味する事をどうしても書きたかった。
・何故私の友達二人が、一人は室町時代初期に開堂
した古刹(こさつ)の27世住職に就いたのか。
もう一人は『歎異抄(たんにしょう』に興味をもち
最後には、仏教系大学の文学部部長にまで何故
なったのか。
・何故台湾の国民が自主的に、3.11の時義援金を
世界で一番多く援助されたのか。
・何故現地(台湾)の人々に親しまれ、命がけで
夫が造ったダムに、妻が身を投じなければならなかったのか。
・何故ここぞとばかりに『原発反対』と言うのか。
今迄恩恵を受けていたではないか。

それらを私なりに見つめ直した旅でした。<

志恩ー
『葉裏のそよぎ』では聖書や、生長の家の真理、
その他のエッセンスを練り込んでいらっしゃいます。
愛するが故の殺人もあり、そこから、主人公が立ち
上がってゆく、驚くような展開もあります。

『ひとひらの夜明け』は仏教篇ですが、自殺もあります。
でも、心を光明の真理に向けることにより、もちろん救いもあります。
そして、この2つの小説の登場人物の中に、名前は変えてありますが、
はうらひとひら様ご自身も、なにげに登場させている、ということも、
わかりまして
面白いなと感じております。

『ひとひらの夜明け』
p200
>それは、生まれ変わっても前世のものが蓄積され、それを
背負って現世に生まれてくる。人間は善行と悪行を重ね
ながら、現世においての半期決算期に、収支精算をしな
ければならない。逃げ得、奪ったもの勝ということはない。

真理を歪めて、勝手に解釈し、真理は環境や時代によって
変わるものであると言っている、宗教屋とても同じである。
からなずその精算は迫られる。因果くらまさずとは、この
ことである。

業の負債は、各人の魂のうちにあるので、自分の魂が
それを支払わなければならない。

それは体験によって、魂が前非(過去の過ち)を悟るという
形式によって、支払わなければならない。

そしてそれらの業から離れるためにも、またその業を超越する
ためにも、哲学や宗教は必要である。

それは物質の世界ではなく、霊の世界であり、全人類を包含
する救済について考えるからである。<
ーーーーーーーーー
『ひとひらの夜明け』は、仏教篇ですが、キリスト教のことも
書いてございます。

p225
>聖書によれば、死を悲しむラザロの家族を見て、またラザロの
死を見て、[イエス涙を流し給えり]と書かれている。
明らかにイエスは、ラザロの死と、家族の悲哀の現実を見たのである。
それを見て悲しみを自己の内に取り込んだ時、イエスも共に悲しみ、
イエスも共に泣いたのである。
われわれは他人の悲しみを見て悲しみ、他人の悪を見て憤る。
それを悲しまず、
憤らない者は、その生じたる悲しみ、その憤りの原因である人の
[苦痛]や[悪]を自己のものとして摂取しない人であり、したがって、
その[苦痛]や[悪]を浄めることができないのである。

ラザロの復活の奥には[イエス涙を流し給えり]という行為が
あったのである。
他人の悲しみに対して同悲して泣き、他人の苦しみに対して同苦に苦しむ。
それは愛であり、そこから抜苦与楽の慈悲の働きが生じるのである。
慈悲は観自在菩薩の救いの霊的波動である。

人の苦しみ、悲しみを見て自分とは関係ない。
それは現象であってないのである。と平然としている者は、木石であって、
愛ある人ではない。木石は人の悲しみも苦しみも見ないが、
それを癒す働きはないのである。

人の悲しみや苦しみを癒そうとするときには、
まずその人と同じ悲しみを摂取しその人と同じ苦しみを自分の内に
取り込む。そこから、それを脱却しようとの処置を思い致すのである。

その処置が実際に重荷を背負っている人に対して、
する深切なる行為となり、母親の子供に対する愛護と同じ行為となり、
諸々の慈善事業ともなり、社会活動ともなるのである。
実際的な深切の行為の人を、唯現象悪にとらわれている人と観るのは、
間違いである、それでは実際的な愛の行為の完全なる否定となる。



ここにわれらの愛は、
[イエスの死せるに非ず、生けるなり]と悲しみや苦しみの仮の相を観ず、
悲苦を超えた永遠の[生]の實体を観じる、観行にまで及ぼして
實体の大地にまで導かねばならない。

しかしラザロを復活させてイエスの實体界に導く観行は、
[イエス涙を流した給えり]の境地を通過してのちの、観行でなければ
ならないのである。
ただ人の苦しみを冷然と見て[そんな現象はない]と空嘯いていては、
木石の無感覚さであって、實体の完全で円満なる大地に導くことは
できないのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

はうら様は、閉じ込められた体験でも、あの著書の、
あのページの。。。と、その体験にふさわしい著書とページを
ピンポイントで、指し示し、照らし合わされて、いつも書かれますので、
大変驚きます。

頭の中にある本棚の、蔵書の整理整頓が、きっちりできていらしてて、
私には、到底、真似の、できないことです。




神の事 (60162)
日時:2023年08月01日 (火) 17時54分
名前:はうら ひとひら

志恩 様
拙書『葉裏のそよぎ』を読んでいただきまして、
感謝いたします。
この書は巻末に『この小品における事件等は、
虚構(フィクション)である。』と述べさせて、
いただきました。
確かにそうなのですが、一つだけ虚構でないのは、
あの悲惨な事が、実際に起こっていたという事実です。
そこから、私のこの事件への探索が始まっております。
(下記年齢は、私の年齢です。)

16歳・世界で最も厳しい修道院と言われているところで、
悲惨な事件が発生した。
23歳・この事件が余りにも強烈なため、宗教とは何かという
私の旅が始まった。
キリスト教作家である、三浦綾子氏、遠藤周作氏の作品を
ほとんど読み、また書簡を送り、カトリック教会の門を
たたいて、聖書の勉強や、真理の勉強もさせていただき
ましたが、三位一体(父と子と聖霊)が理解出来ずに
一年程でリタイアした。現地には何度も取材に行った。
30歳・この問題にけじめをつける為に、小説を書きましたが、
主人公が、逮捕されるところまでで、終わらざるを得ません
でした。
この年、私にも事件が起こり、負け戦を承知で、7人で
会社を興し、一時は日本での最先端技術集団と言われた
事もありますが、7年後数億円の負債を抱えて、倒れて
しまいました。
48歳・私は自覚出来なかったが、巨大な癌が見つかり、
兄弟は皆、喪服まで用意したそうである。
(自身癌専門病院に入院する事自体不思議であった)
生長の家の末端に名前だけ連ねていた姉から「何も出来ない
ので、神癒祈願をさせてもらった」という。
私は、神や仏に祈って病気が治るのだったら、医者や
病院などいらない、と反発心があった。
全身麻酔をして、臓器を取り出す手術をする二日前
カーネギーの『道は開ける』を読んでいた時、突然
その開いていた頁一杯に御顔と声と文章が映し出され
「何も心配する事はない。全ては任せなさい」
と知らされて、何故か安心感を得た。
なんだ、任せればいいのか、これ程楽な事はないと。
手術は右腎臓とともに、それよりもおおきな癌が
自分で自滅して、腐って取りだされた。
しかし、手術ミスが起こり、輸血より出血が多くて、
三日後に救急車で輸血液をとりよせ、土曜日にも関わらず、
緊急手術がおこなわれた。
私は従容(しょうよう)として、死を覚悟した。
医者からは、最悪の場合も考えてほしいと家族に言われた
そうである。出血箇所がわからず、麻酔医がもう時間です。
手術を終了して閉じて下さい、との指示があった。
その時、出血箇所が偶然見つかったという。
その後、何事もなかったように、抗癌治療もせず、化膿
止めの薬を数度飲んだだけである。

私と同じような症状の人が、隣の病室にいたが、退院間際に
「実はあなたは癌だった」と告げられ、驚きのあまり、
その日から容体が急変し、三日後帰らぬ人となった。


「何も心配するな」と言った人が、生長の家の大神
(住吉大神)と知ったのは、それから二年程経って
からである。
生長の家との出会いは、このようなものであった。

尊師の説かれる神観が物凄い力となって、あの悲惨な
事件を解く鍵となった。

69歳・定職を離れて、数か月後『葉裏のそよぎ」を
書きはじめ、一年程で書きあげた。
この時念じたのは、なんとかして、被害者の女性の
母親の救済をしたいという事であった。
文学で救えなければ、現実生活の救済など出来るもの
ではないと思って、書かせていただいた。
少し長くなってしまいましたが、これからの私の体験に
度々住吉大神が出てくるのは、この様な経緯からである。

尊師から教わった神観の事

・《 人は両(ふた)つの世界に住んでいる。
一つは『創世記』第一章二十七節の「神その像(かたち)
のごとくに人を創造(つく)りたまえり・・・
神その造りたる諸(すべ)てのものを視(み)たまい
けるに甚(はなは)だ善(よ)かりき」と言われた
「エロヒムの神」の完全な世界と『創世記』第二章
七節後半に出てくる、「エホバ神、土の塵(ちり)
をもって人を造り」とある物質的、肉体的な世界の二つ。
これは「原因結果」の唯心所現の目に見える世界である。》
(『生命の實相』頭注版第23巻 75〜78頁要約)
と喝破(かっぱ)された。

・古事記に出てくる
《 鹽椎神(しほつちのかみ)が生長の家の大神
であり、住吉大神であり、キリストはわれの別名》
(『終戦後の神示』より)
(『新講甘露の法雨』解釋20.21頁)
《生長の家本部会館正門入口の上に服部仁郎氏製作の
神像として安置されているのがそれである。》
(《秘められたる神示』神示講義 秘の巻 8頁)

・『生命の實相』第一巻の表紙のすぐ次に
(目次や神示や序文より前)突如として出現する
『ヨハネ黙示録(もくしろく)』第一章の白髪の老翁
(ろうおう)なるキリストとは、生長の家の大神
(住吉大神)であった。


・神と神々
《 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とは
固有名詞ではなく天球(てんきゅう)の御中(みなか)
にまします主(しゅ)なる神という内容を表す言葉。
(『生命の實相』頭注版第12巻152頁)

「第一義の神様は姿形が見えずして偏在(へんざい)
であり、宇宙至る処に、何処(どこ)にでも充満して
をられて、吾々の生命(いのち)となってををられる。
第二義の神様は第一義の神様の無限の姿の一つの姿を
化身(けしん)として現す。
例えば観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)とか白髪の
老翁(ろうおう)の姿の神というような方。
自然は第三の神様に属する。人間の心が和順(わじゅん)
すれば、自然環境も和順調和す。
黴菌(ばいきん)も自然靈である。》
(『神ひとに語り給ふ』神示講義教の巻』108.113.119頁)

神との出会いの体験は、別項に少しその詳細を紹介する
予定です。

ありがとうございます。




はうらひとひら様 (60168)
日時:2023年08月02日 (水) 07時29分
名前:志恩

はうらひとひら様の小説『葉裏のそよぎ』は、
ご指摘のとおり
巻末に『この小品における事件等は、
虚構(フィクション)である。』と書かれてございました。

しかし、私はこの
小説を読み進んでいるはじめの頃のときには、
もしかしたら、この主人公の青年は、ひとひら様なのかしら、
と思い始めていた頃もございまして、人間には、愛するが故に、
殺さなければならないこともあるんだなぁと、深く考え込みながら、
読み進んでいた時もありました。

でも、この主人公の青年は、ひとひら様ではなかったのだと、
いうことは、だんだん読み進うちにわかってまいりました。

この青年のお母様は、生長の家という名ではなく、他の名にして
書かれてありますが、絶望のどん底から、魂が救われる場面も
ございますよね。

この主人公も他の登場人物たちも、人それぞれに波乱万丈の
人生を歩んでいくのでした。

私のように、昔から、ボーッとして、生きている人間にとっては、
すごくスリリングで、この先、どうなるのかしらという、ハラハラの
連続で、飽きることなく、面白くて、まるでサスペンスドラマに、
信仰や物理科学が加わったような中身の濃いストーリーで、すごく
面白く読まさせていただきました。

できましたら、皆様にも読んでいただきたい著書だと思わせて
いただきました。

この小説の中には、
虚構でないことも書かれているそうですね。

ひとひら様は、まだ現役で、社会でご活躍中の若い時代に、実は
重い癌にかかっていて、本当なら、死んでいるところ、癌自体が
自分で腐っていって、その腐った癌を取り出して、
一命を取り留められまして、

70代後半(私よりも3歳年下)でいらっしゃる今も、お元気で、
全然ボケることもなく、今も、お仕事をされたり、ボランティアをされたり、
インターネットにもお詳しいお方で、貴重なお方だと思っております。

私と、真面目に会話を交わされればされるほど、なんだ志恩さんて
見掛け倒しもいいとこだ、全然、悟ってもいないし、真理も体得して
なんか、いないじゃんか、、という
ことが、バレバレに感じられることとは、存じますが、

私相手ではなく、閲覧者の皆様宛に、佳き体験を語っていただきたいと
願っておりますので、今後とも、週3回か、4回は、書いてくださる
ご予定でいらっしゃるということですので、どうぞ、志恩のアホさ加減に
呆れても、あきらめないでご投稿くださいますようにお願いいたします。




よい心の波動(ひびき) (60239)
日時:2023年08月04日 (金) 20時05分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

『神癒(しんゆ)』というと、畏(かしこ)まりたくなりますが、
新陳代謝が神癒となると、生きている事自体が、神癒の連続
であり、人間は奇蹟(きせき)の神の表現という事になります。

《 相手の実相の完全さを本当に私たちが“祈る人"となって
みつめるとき、その完全なる実相の体が、現象界に映し出さ
れて、瞬時に癒えることもあれば、実相の完全さが徐々に
映し出されて、日増しに健康が回復する。
その回復の遅速は、病者本人の意識が、その真理をどの程度に
受け入れるかによって定まるのである。・・・
そして、神癒は、感謝するところに常にアルのである。
大体、毎日吾々の肉体に新陳代謝が行われていることが、
神癒が行われていることにほかならない。》
(谷口雅春先生著『生長の家』誌 昭和39年4月号の法語)

先日、知人の誌友会にZOOMで出席して、何か言わなければ
ならないので、2.3例として、私の最近の体験を話した。
その話に対して、教区(教区連合会)の大幹部の人が次の
ような発言をした。
「その人を救うことが、その人の魂の向上の為になるか
どうかを考えなければ、ならないと思う。前教化部長も
そのような事を言っていて、深く考えさせられた。」と。

直訳すると、「悶え苦しんでいる人がいても、その人を
救うことが、その人の魂の向上の為になるかどうかを、
よく考えて行動せよ」という事らしい。
『今の教え』はそういう事を教えているのかと、背後から
鉄砲で打たれたような、悲しみの痛みがあった。

確かにそのような教えを示されている所もあります。
しかし、それでは、宗教人の前に生身の人間として、
あまりにも冷酷ではないのか。
(多分次のようなご文章中の解釋であろう)

《 真実の願いの基準
(1)私は真にそれを欲しているか、又真にそれが必要であるか。
(2)その願いの成就(じょうじゅ)が自分又は他の人の
魂の向上に役立つか。却(かえ)って魂の向上に邪魔(じゃま)
になるか。
(3)その願いが成就することによって、他の人に損害
又は迷惑を懸(か)けることにならないか。
(4)その願いが成就することが、家庭、社会、国家、人類
等に役立つか。》
(新版『生活の智慧365章』107頁)
(『實相と現象』259.260頁)

ここでまたあの徳山に背負い投げをした、餅売りの婆さん
の再登場が必要となる。

《 或る一人の僧(そう)が五臺山(ごだいさん)の麓
(ふもと)まで来て道が両岐(ふたまた)に分かれている。
右すべきか、左すべきかわからず、婆さんに訊(き)いた。
一方は物質で出来た道を訊いたのであるが、婆さんは
人倫(じんりん)の道、そして同時に天地の道、宇宙の
道に引掛けて答えた。
「道か、道なら真直(まっすぐ)に行けよ」と答えた。
「二つの道」とは現象を見てのことであり、「唯一つの道」
とは実相一路(いちろ)の把握である。
右するか、左するかの現象の選択ではなく、本来一つしか
ない神の道を行く。生命は神より出(い)づるから
そのまま完全である。
(『無門関』解釋 241.242頁要約)
前述の魂云々(うんぬん)の問題に通じると思う。
あまりにも、人間智恵に頼り、右だ左と言っても
婆さんに嘲笑(あざわら)われるだけである。

・あの講堂に閉じ込められた体験で思う事がある。
今、私達(わたしを含めて。あなたは違うと思うが)は、
暗闇の空間に閉じ込められている状況のように感じる。
そして60年前の事が語られていた『原宿本部資料篇』が
ガイドライト(誘導燈)だと思う。
灯(あか)りは灯(とも)っているので、携帯電話
(神への一本道)をすればよいだけである。
すぐ助けは来るはずである。
その一つのヒント、一助として、私の体験を読んでいただければ
望外の幸せである。
(『原宿本部資料篇』は尊敬と驚きと感謝と讃嘆と勇気を
与えてくださった。それをしっかりと受け継いでいく義務が
少なくとも私にはあると思う。
久遠の今に立てば、すべては、『今』の道標(みちしるべ)
を先人達は作ってくださった、と思っている。)


《・・・・神は靈であるから、われらは神の霊波に波長を
合わせなければならない。その波長を合わすための
方法が、祈りであり、神想観である。
・・・・神と偕(とも)なれば不可能はない。》
(『如意自在の生活365章 204頁)

・よい心の波動(ひびき)は、霊界の救済の波長
に同調する。

私はどこかで述べたように、日曜日以外朝4時半から
帰宅の10時半まで6時間を使って、3時間の清掃の
仕事をしている。そしてその間、雑念も入るが、
ほとんどが『甘露の法雨』を唱えている。
職場では、ほとんど冗談しか言わない、へんな
おっさんで通っている。
本日(8月4日)も新しく入った女性に、「どうですか」
と声をかけ「暑くて余り元気がない」というので、
天井の照明を指して、「電気(元気ではない)があれば
何でもできる」
「『午後の紅茶』は、午前中に飲んでも、憲法違反に
ならないのか」と言って滑っている。
楽しくなければ、やっていけない仕事である。

■ 体験

五十年近くの会社生活の後、少しの間を置いて、
ある教育施設の清掃の仕事に就いた。
初めての肉体労働。モップの洗い方さえわからな
かったが、通勤、掃除の間を通して聖経『甘露の法雨』
を唱え、心に蓄積していたゴミを取る事に専念した。
掃除は手順書では一教室30分だが、私はこの時間を
短縮して残った時間を他の仕事の手助けをしたい
と思い、業務内容を分析して試行錯誤(しこうさくご)
を繰り返し、7年かかってついに 17分で出来るように
なった。それは「無我帰一」の魂の養成とでもいうべき
行動であった。

☆ 真理

《一見つまらぬように見える仕事をしているうちに
いつのまにか武芸の奥義というものを体得するに
至る経過である。》
(『生命の實相』頭注版 第26巻 77頁)

■ 体験

先日職場で、女性のリーダー格の人が、蒼(あお)ざめて
作業終了間際(まぎわ)に、休憩所にうずくまっていた。
理由を聞いたら、「動悸(どうき)がして苦しい」という。
さすがに私は「その動機は?」とは言えなかった。
帰り道、歩きながらその人の実相を観て、聖経『甘露の法雨』
を唱えた。それきりその事は忘れてしまった。
翌日、その人にあったので「どうした」と聞いたら、
帰ってから、眠くなったので、少し眠ったという。
目が覚めたら、動悸が治っていたという。
その時間は、私が聖経を唱えていた時間に一致していた。
心で神に感謝した。

☆ 真理

《「言(ことば)は神である」と云(い)う其(そ)の
言葉とは生命のバイブレーション(振動)である。・・・
言と神とは同じものである。》
(『新版『ヨハネ伝講義』14.16頁)

《 人間はなぜ救われるか?それは
「すでに救われている神」が内在するからである。
凡夫往生(ぼんぷおうじょう)を説く仏教もあるけれども
凡夫と見えているその奥に「すでに解放されている者」
(仏性(ぶっしょう))があるからこそ、その真理を
知れば、凡夫と見えるものが仏陀(ぶっだ)となる。
その救いの本源たる神(または本来自由なる者―
仏性)は個(こ)の内に内在すると同時に、普遍的
存在として外にも上にも下にも、あらゆる処(ところ)
にましまして全人類を一体に包んでいるのである。
(『生命の實相』頭注版 第39巻 2.3頁)

△ 思う事

よい心の波動(ひびき)は、霊界の救済の波長
に同調する。これは間違いのない事で、何度も
体験している。その波動は、感謝の言葉でもよいし、
慈悲喜捨(じひきしゃ)の四無量心(しむりょうしん)
でも、言葉はいろいろであるが、「救済」は必ず成就
します。これは誰でも出来る事です。
ああ、かわいそうだな。なんとかして助けてやりたい。
自分はどうでもよいから、助けてやりたいという、
その心の波動、振動をおこせば、自分も相手も
救われるのである。
その為には、自分は完全である。そして相手も完全
であると観た時、観た通りに顕われるのである。

《唯(ただ)「信じ」「観(み)る」のである。
み業(わざ)は神が為(な)したまうのである。》
(改装版『神癒への道』106頁)
(『詳説 神想観』217頁)



ありがとうございます。


はうらひとひら様 (60240)
日時:2023年08月05日 (土) 01時19分
名前:志恩

はうらひとひら様は
お仕事をさながら、冗談を言って、お仲間の方々を
愉快にさせておられるなんて、素晴らしいことだと思います。
そして、心の内では、『甘露の法雨』を唱え続けて、いらっしゃる
のでした。

『原宿本部資料篇』のことも触れてくださいまして、
とても光栄に存じました。
あのように善意に受け止めて、書いてくださいまして
なんだかほっとして、心が安らぎました。
本当に嬉しかったです。
ありがとうございました。

ここへ書いてよいかどうかわかりませんが、書いたのが
不味かったなら、おっしゃってくだされば、この件はすぐに
削除いたしますけれど、

はうらひとひら様も、阪田先生同様に、毎月、
『ひかりのお便り』というのを発行されてます。
様々な谷口雅春先生の著書から真理の言葉の
エッセンスを謹写されておられまして、すごいな、と
思っております。

業を直截破壊する。 (60268)
日時:2023年08月07日 (月) 18時05分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

聖経『甘露の法雨』で「神」の項の次に「霊」の項が
出てきます。
しかも、その「霊」の項の内容は、
「神が神の叡智(えいち)による正しい想念によって
創造された<第一次創造の世界>の「霊」の世界では
なく、「原因が変われば結果が変わる」三業(さんごう)
身意口(しんいく)の業について述べられている。
身(み)の行いと意(こころ)と言葉が蓄積されて、
業として生まれ変わっても前世のものが蓄積されていて、
ある縁がきっかけとなって、現われる、やっかいなもの
である。
『霊界』にも現象界と同じように、両(ふたつ)の世界
がある。
「物質の奥に、肉体の奥に、靈妙(れいみょう)きわまり
なく完全なる存在あり。」(聖経『甘露の法雨』物質の項)
と、「迷い迷いて流転(るてん)せる心はその信念が
形となりて仮の相(すがた)を現(げん)ずべし。」
(聖経『甘露の法雨)霊の項)

因果(いんが)昧(くらま)さず、として原因結果の法則
は厳然として存在する。しかしそれは余りにも厳しい。
過去の身意口の行動も責任を負わされる・・・

《 現象若(も)しありとすれば、吾等は罪業(ざいごう)
よりのがれることは出来ない。
吾等は一歩一歩煩悩(ぼんのう)の足跡を印(いん)する
のである。その足跡を業(ごう)と云う。
ところが現象なしとすれば、吾等の生活にはもう足跡は
印せられない。もう吾等にとって業は存在しないのである。
あの虚空(こくう)を見よ、鳥の飛ぶにまかせ、
雲の行き交(か)ふにまかせて、ひとつも跡がつかぬので
ある。鳥を飛ばせないのではない。雲を通はせないのではない。
鳥も飛び、雲も通ふ。
それでゐて跡がつかないのである。吾等の生活もかくの如く、
煩悩が飛び交はないのでもない。欲望があらはれないのでもない。
煩悩が飛び交ひながら、欲望があらはれながら、その侭(まま)
にそんなものはないのである。》
(《美しき生活》「虚空を眺めて」200頁 新版 210頁)

しかしながら、好き放題に、自分の欲望のままに生きていて
よいはずはないのである。
やはり神の一本道を歩む必要があると思う。
そのままの心が大切である。

《 一、天地一切のものに感謝すべし。
皇恩に感謝せよ。汝の父母(ちちはは)に感謝せよ。
汝の夫又は妻に感謝せよ。汝の子に感謝せよ。
汝の召使に感謝せよ。一切の人々に感謝せよ。
天地の万物に感謝せよ。

二、そのままの心を大切にすべし。
そのままは零(れい)なり、一切なり、〇(まる)なり、
円満なり、無礙(むげ)なり、無限供給なり、調和なり、
病なきなり、一切の不幸、災厄(さいやく)病難(びょうなん)
はそのままを外したるときあらわれるなり、、顧(かえり)
みてそのままの心に復(かえ)るとき、一切の不幸は滅す。
(『生長の家』信徒行持要目 より)

《 いったい宗教の目的は何にあるかと言えば業を破壊する
ということにある。業を破壊し、因縁(いんねん)を超越し、
業に支配されない自由な世界に人間を解放することこそ
宗教の救いの意義があるのである。・・・
生きた宗教は業を直截(ちょくせつ)的に破壊できる、
そしてその証拠として実生活の上に業障(ごっしょう)が
消滅し現実生活が光明化しいっさいの不幸苦悩(くのう)
が消し去られるのである。
(『生命の實相』頭注版 第21巻194頁要約)

■ 体験

少し前の事である。一週間ほど29年前の事が頻(しき)りに
夢に出てきた。
29年前、5名の近親関係者が突然目の前から消えた。
始めは、妻の母(同居していた)クモ膜下出血で69歳で、
会社の社長が大腸癌で、工場長が肝臓癌で、相談役が
肺癌で。留めは私の仕事のパートナーである下請けの
女性社長が、休日出勤後、帰宅電車から自転車に乗り換え
自宅に向かう途中で、くも膜下出血で倒れ、雨が降ってきて
暗い夜道で、そのままとなり、夜明けに発見された。
わずか2ヶ月の間にである。
その年は、自身命がけである仕事をしていた。
夏のある日、異変を感じ、自分自身が腎臓癌で周囲が諦め
て葬式の準備をした時でもあった。
負の連鎖は続くかにみえた。業の流転である。
あの時、住吉大神が出てこなければ、自分自身が
6人目となって現象界から消滅する時であった。
その時やっていた仕事の改修(設備更新)の情報制御設計
業務が、29年の時を経て先日、私の所に突然依頼があった。
全く面識も繋(つな)がりもない部署と担当者からであった。
何故か縁(えにし)が深く感じられ、感謝し礼拝して、
その業務を受けさせていただいた。

☆ 真理

《 このように業(ごう)(波動)があっても「縁」(えん)
がない時には現われない。・・・
業がある「縁」にふれて現れるのである。》
(『生命の實相』頭注版 第27巻 133頁)

△ 思う事

業を断ち切るには、真理を知っていなければ出来ない。
唯断ち切ったのでは、それが自分にふりかかってくる。
皆様は真理を知っていらっしゃるので、その真理を知らせて
あげて、困っている方がいたら救済していただきたい。
それには正しい思念と観と自分も相手も完全であると、観る
事が肝要である。

《 人間は神の子で、罪も病も不完全も醜(みにく)さも
ない、神の人間理想美の最高実現である完全な存在である、
と実相を肯定するための思念を用いるのである。
この思念が難(むづか)しい場合は、その思念の言葉の
意味が書いてある『甘露の法雨』をよむのである。》
(新編『真理』第5巻 124頁)

ありがとうございます。 








はうらひとひら様 (60273)
日時:2023年08月08日 (火) 05時57分
名前:志恩

永年、「甘露の法雨」は、読誦していますが、
>『霊界』にも現象界と同じように、両(ふたつ)の世界
がある。<
とか、

業の捉え方とか、

そのように深く、言葉の意味を考えながら読んでは
いませんでしたので、大変興味深く勉強になりました。

そのままの心を大切にすべしとは、好き勝手にして良い
と言う意味ではなく、
やはり根本とすべきこと、そして、実践すべきことは、

《 一、天地一切のものに感謝すべし。
皇恩に感謝せよ。汝の父母(ちちはは)に感謝せよ。
汝の夫又は妻に感謝せよ。汝の子に感謝せよ。
汝の召使に感謝せよ。一切の人々に感謝せよ。
天地の万物に感謝せよ。<

なのですね。
ご教授くださいまして、ありがとうございました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

>《 いったい宗教の目的は何にあるかと言えば

業を破壊する

ということにある。業を破壊し、因縁(いんねん)を超越し、
業に支配されない自由な世界に人間を解放することこそ
宗教の救いの意義があるのである。・・・
生きた宗教は業を直截(ちょくせつ)的に破壊できる、
そしてその証拠として実生活の上に業障(ごっしょう)が
消滅し現実生活が光明化しいっさいの不幸苦悩(くのう)
が消し去られるのである。
(『生命の實相』頭注版 第21巻194頁要約)<
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
志恩ー
私は、あまり、業と言うことも、考えて いませんでした。
業は、あるのかないのか、私には考えてみましてもわかりませんので、
自分でわからないことは、考えないようにして、神様に全託して生きる
という呑気な生き方をして まいりましたので。

でも、これは、自分自身のことで、
不幸ばかり続く他人のお方に対しましては、業についても、
考えなきゃいけないことなのだと思います。
特に、本部講師とか、地方講師とか、他人を個人指導するお立場のお方は、
業についても、学ばないと、わかっていないと、個人指導は、できませんものね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(はうらひとひら様ー)
>■ 体験

少し前の事である。一週間ほど29年前の事が頻(しき)りに
夢に出てきた。
29年前、5名の近親関係者が突然目の前から消えた。
始めは、妻の母(同居していた)クモ膜下出血で69歳で、
会社の社長が大腸癌で、工場長が肝臓癌で、相談役が
肺癌で。留めは私の仕事のパートナーである下請けの
女性社長が、休日出勤後、帰宅電車から自転車に乗り換え
自宅に向かう途中で、くも膜下出血で倒れ、雨が降ってきて
暗い夜道で、そのままとなり、夜明けに発見された。
わずか2ヶ月の間にである。
その年は、自身命がけである仕事をしていた。
夏のある日、異変を感じ、自分自身が腎臓癌で周囲が諦め
て葬式の準備をした時でもあった。
負の連鎖は続くかにみえた。業の流転である。
あの時、住吉大神が出てこなければ、自分自身が
6人目となって現象界から消滅する時であった。
その時やっていた仕事の改修(設備更新)の情報制御設計
業務が、29年の時を経て先日、私の所に突然依頼があった。
全く面識も繋(つな)がりもない部署と担当者からであった。
何故か縁(えにし)が深く感じられ、感謝し礼拝して、
その業務を受けさせていただいた。

☆ 真理

《 このように業(ごう)(波動)があっても「縁」(えん)
がない時には現われない。・・・
業がある「縁」にふれて現れるのである。》
(『生命の實相』頭注版 第27巻 133頁)

△ 思う事

業を断ち切るには、真理を知っていなければ出来ない。
唯断ち切ったのでは、それが自分にふりかかってくる。
皆様は真理を知っていらっしゃるので、その真理を知らせて
あげて、困っている方がいたら救済していただきたい。
それには正しい思念と観と自分も相手も完全であると、観る
事が肝要である。

《 人間は神の子で、罪も病も不完全も醜(みにく)さも
ない、神の人間理想美の最高実現である完全な存在である、
と実相を肯定するための思念を用いるのである。
この思念が難(むづか)しい場合は、その思念の言葉の
意味が書いてある『甘露の法雨』をよむのである。》
(新編『真理』第5巻 124頁)<
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
志恩ー
はうらひとひら様の体験談は、
実際に、ごく最近に、現実に起きている生の体験談ですから、
非常に貴重な体験談だと思います。
楽しみに、教えていただきながら、拝読いたしております。






ご先祖供養 (60293)
日時:2023年08月09日 (水) 11時11分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

お盆『盂蘭盆会(うらぼんえ)』(新盆(七月中旬)
旧盆(八月中旬)の時期です。

《 人は皆、神のいのちを先祖から祖父母、父母の愛
をとおしていただき、今、存在しています。
ご先祖様は自分から父母、祖父母と30代遡(さかのぼ)り
ますと、約10憶7千万人となり、この内の一人が欠けても
自分は存在しません。そしてご先祖様は、常に子孫の
幸せを願って、護り導いて下さっています。
ですから、私たちが先祖から受け継いだ尊いいのちを、
常に感謝と喜びを持って輝いて生きること、家族が
仲良く暮らし、子孫が繁栄していくことが、ご先祖様
へのご恩返しとなり、何よりの供養となります。》
(『白鳩』誌 平成24年6月号)

《 ・・・“悟り”ということは、ここに生きている
此(こ)の個人としての生命が、神に始まり、先祖
を通し父母を通して全体の生命とつながりがある
という自覚が、悟りなんです。その悟りを如実に報恩
の姿をもって現すのが、先祖祭祀(さいし)であって、
そこに神と祖先の諸霊たちとの生命的一体感を起こす
ことになる。それが先祖祀(まつ)りの意義である。
ですから子孫が感謝の心を起こすことが、祖先が
一層善き悟りを得る契機になる。》
(新版『人生を支配する先祖供養』175頁)

《 人間の運命の半分は過去の業(ごう)の精算、
残りの半分は現世の本人の努力、残りは高級霊の
先祖のご加護。》
(『生命の實相』頭注版 第9巻 102頁 要旨)

《 汽車が疾走中大風吹き来たって自由意志ならず
して転覆(てんぷく)して千人を殺傷(さっしょう)
しようとも、その汽車には自由意志がなき故に
罪悪とはならないのである。
極端な宿業観は人間の道徳を否定する。
『生命の實相』第五巻(はうら注:愛蔵版)には、
宿業1/3、自由意志1/3、高級霊の修正1/3、と
なっている。》
(『光明道中記』281頁)

《 原因があれば結果を生ずる。これは宇宙の大法である。
それを仏教では「因果、昧(くらま)さず)」と教えて
いる。悪業(あくごう)を重ねながら現世に於(お)いて
悪果(あっか)が出て来ないとて、人生を馬鹿にしては
ならない。・・・その帳尻(ちょうじり)が出て来ないのは
どこかに、その帳尻の総決算がおこなわれる世界がある
という証拠である。その世界が霊界及び未来世である。
・・・現世で帳尻の合わない悪業が霊界に於いてその精算を
させられるために苦しんでいる霊魂(れいこん)が
たくさんある。・・・それらの苦しみによる浄化の過程にある
霊魂が苦しみの叫びをあげ、悩みの呻(うめ)きに喘(あえ)
ぎながら、“救(たす)けてほしい”と思って子孫や
親類縁者の名を呼ぶのである。・・・
此の世界の霊魂の想念の波動を感受したその霊魂の近親者
が病気(概(おおむ)ね現代医学で解決し得ない奇病)
としてあらわすのである。・・・“悪業”を浄化消滅する
自然の道は、苦しみによって償(つぐな)うことで精算
されるが、それには長時間かかる。・・・
これを急速に救い得たならば、苦しむ霊界の霊魂及び
影響を受けている現実界の両様(りょうよう)の救いと
なる。・・・霊魂の浄化には消極的には“懺悔(ざんげ)"
と積極的には“真理を悟る”の二方法がある。
“真理を悟る”とは、「人間の実相」は本来
“如来(にょらい)"であり、“神の子”であるという
真理を述べた経典(きょうてん)を現実界の縁者から
読誦(どくじゅ)して貰(もら)い(これを聖経供養と
謂(い)う)その真理の靈波を霊界で感受して、本来
“無罪"の実相をその霊魂が自覚して、悪業存在の世界
から解脱(げだつ)して“如来”の実相地に超入する
ことである。この“如来地"(如来の境地)に入ることを
成仏(じょうぶつ)するという。
先祖及び縁者の霊魂を成仏させてあげるのが、現実界の
子孫及び縁者の義務でもあり、それはまた自分自身に
報いられて来て家族全体の健康ともなり、繁栄ともなる。》
(新版『人生を支配する先祖供養』2〜5頁要約)

■ 体験

少し前の事。ある方から電話をいただいた。
「子供が長い間、引き籠もっているがどうしたらよいか」
という事である。
「先祖供養をされていますか」と私。
「しています」
「どのような」
「教化部に霊牌(れいはい)を出しています」
「それも大事ですが、ご自分で真心を込めて感謝の
気持ちをもってやってください」と私。
「どこまでやればいいですか」
「わかる範囲でよろしいので全てです」と私。
「わかりました」

一週間程して、早朝の清掃の仕事が終わる2〜3分前
にその方から電話があった。
「大変な事が起こった」という。
私に電話をした後、自宅蔵の整理をして、『過去帳
(かこちょう)』を探し出し、すべて霊牌紙に書いて
仏壇にて聖経を読誦したという。
その時、手箱のようなものに鍵が入っていたので、
それも持ち出したという。
鍵を銀行に行って相談したら、銀行の貸金庫の鍵であり、
それを開いたら、大金が出て来たという。
そして、引き籠もりの方は、自分で風呂に入って身を
浄め、髯(ひげ)をそり、和服の正装をして近く
の神社にお参りしたという。
(有名な神社であるが、名前を伏せます。)
およそそのような事を、一気に話をされた。
私はただ合掌して聞いていた。

☆ 真理

《 生長の家は今や、心の法則を発見し、霊界の法則を
発見し、それを日常生活に応用する道を発見しつつ
あるのです。》
(新版《真理』第9巻 9頁)

《 霊界も現象の世界であり、自覚によって環境が
変化する世界です。「今即久遠の世界」と云うのは、
現象界も霊界もともに包容(ほうよう)しながら、
それを超えた無限の世界である。
その無限の世界を「今」の一点に於いて白熱的に
凝縮(ぎょうしゅく)して生きるから「今」の一点に
久遠を生きることになる。その自覚を持たないで
「今」を一生懸命に生きても、それは「無限を白熱的
に凝縮した一点」を生きるのでなくて、単に
「断片的な今」を生きるに過ぎないことになる。》
(新編『真理』第4巻 56〜57頁)

△ 思う事

私達の誌友会の仲間で、毎月一週間程新幹線で地方の
道場(日本舞踊のお稽古場)へ行っている人がいる。
その人は、出張時必ず、祖先の墓参をされ、芸を磨き、
皆さんに日本文化を伝えるために、お稽古をされていて、
これがこの人の三位一体だという。
(お稽古場はさながら荘厳な修行の道場の観がある)
この人の日常は全てが整った生活をされていて、毎朝
20〜30回は笑いを家族全員でされているという。

この方が、11月に日本文化伝承の為に、発表会を行う
という。応援したいと思う。


《 ご先祖への聖経供養心得
1.唯、尊敬と報恩・感謝の念をもって誦(よ)むこと。
2.聖経の意味を説明する。
聖経を読む前に、先ず、この聖経『甘露の法雨』はあなたが
先祖から伝承して来た※※宗の教えの真理を最も解り易く、
現代語で書かれたものでありますから、心を集中して
此の聖経を聴き給うて、その真理を体得し、霊界に於いて
解脱(げだつ)を得て神通自在となり給いて仏陀(ぶっだ)
の境地に達し給わんことを冀(こいねが)う」と生ける
人に語るが如く唱えてから聖経を誦(よ)むがよい。
3.読誦の時間を定める。

皆様 暑さの折柄、ご自愛を祈ります。

ありがとうございます。

はうらひとひら様 (60297)
日時:2023年08月09日 (水) 18時12分
名前:志恩

ちょうど これから 旧盆(八月中旬)という時期に、

宝蔵神社盂蘭盆供養大祭
(令和5年8月16〜19日ご先祖供養が、ある時期に
ぴったりの適切な真理のお言葉の数々を、ありがとうございます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(はうら様ー)

>《 ・・・“悟り”ということは、
ここに生きている
此(こ)の個人としての生命が、神に始まり、先祖
を通し父母を通して全体の生命とつながりがある
という自覚が、悟りなんです。その悟りを如実に報恩
の姿をもって現すのが、先祖祭祀(さいし)であって、
そこに神と祖先の諸霊たちとの生命的一体感を起こす
ことになる。

それが先祖祀(まつ)りの意義である。
ですから子孫が感謝の心を起こすことが、祖先が
一層善き悟りを得る契機になる。》
(新版『人生を支配する先祖供養』175頁)


《 汽車が疾走中大風吹き来たって自由意志ならず
して転覆(てんぷく)して千人を殺傷(さっしょう)
しようとも、その汽車には自由意志がなき故に
罪悪とはならないのである。
極端な宿業観は人間の道徳を否定する。

『生命の實相』第五巻(はうら注:愛蔵版)には、
宿業1/3、自由意志1/3、高級霊の修正1/3、と
なっている。》
(『光明道中記』281頁)

《 原因があれば結果を生ずる。これは宇宙の大法である。
それを仏教では「因果、昧(くらま)さず)」と教えて
いる。悪業(あくごう)を重ねながら現世に於(お)いて
悪果(あっか)が出て来ないとて、人生を馬鹿にしては
ならない。

・・・その帳尻(ちょうじり)が出て来ないのは
どこかに、その帳尻の総決算がおこなわれる世界がある
という証拠である。その世界が霊界及び未来世である。

・・・現世で帳尻の合わない悪業が霊界に於いてその精算を
させられるために苦しんでいる霊魂(れいこん)が
たくさんある。・・・それらの苦しみによる浄化の過程にある
霊魂が苦しみの叫びをあげ、悩みの呻(うめ)きに喘(あえ)
ぎながら、“救(たす)けてほしい”と思って子孫や
親類縁者の名を呼ぶのである。・・・

此の世界の霊魂の想念の波動を感受したその霊魂の近親者
が病気(概(おおむ)ね現代医学で解決し得ない奇病)
としてあらわすのである。・・・“悪業”を浄化消滅する
自然の道は、苦しみによって償(つぐな)うことで精算
されるが、それには長時間かかる。・・・

これを急速に救い得たならば、苦しむ霊界の霊魂及び
影響を受けている現実界の両様(りょうよう)の救いと
なる。・・・霊魂の浄化には消極的には“懺悔(ざんげ)"
と積極的には“真理を悟る”の二方法がある。

“真理を悟る”とは、「人間の実相」は本来
“如来(にょらい)"であり、“神の子”であるという
真理を述べた経典(きょうてん)を現実界の縁者から
読誦(どくじゅ)して貰(もら)い(これを聖経供養と
謂(い)う)その真理の靈波を霊界で感受して、本来
“無罪"の実相をその霊魂が自覚して、悪業存在の世界
から解脱(げだつ)して“如来”の実相地に超入する
ことである。

この“如来地"(如来の境地)に入ることを
成仏(じょうぶつ)するという。

先祖及び縁者の霊魂を成仏させてあげるのが、現実界の
子孫及び縁者の義務でもあり、それはまた自分自身に
報いられて来て家族全体の健康ともなり、繁栄ともなる。》
(新版『人生を支配する先祖供養』2〜5頁要約)<
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(はうら様の体験談ー)
■ 体験

少し前の事。ある方から電話をいただいた。
「子供が長い間、引き籠もっているがどうしたらよいか」
という事である。
「先祖供養をされていますか」と私。
「しています」
「どのような」
「教化部に霊牌(れいはい)を出しています」
「それも大事ですが、ご自分で真心を込めて感謝の
気持ちをもってやってください」と私。
「どこまでやればいいですか」
「わかる範囲でよろしいので全てです」と私。
「わかりました」

一週間程して、早朝の清掃の仕事が終わる2〜3分前
にその方から電話があった。
「大変な事が起こった」という。
私に電話をした後、自宅蔵の整理をして、『過去帳
(かこちょう)』を探し出し、すべて霊牌紙に書いて
仏壇にて聖経を読誦したという。
その時、手箱のようなものに鍵が入っていたので、
それも持ち出したという。
鍵を銀行に行って相談したら、銀行の貸金庫の鍵であり、
それを開いたら、大金が出て来たという。
そして、引き籠もりの方は、自分で風呂に入って身を
浄め、髯(ひげ)をそり、和服の正装をして近く
の神社にお参りしたという。
(有名な神社であるが、名前を伏せます。)
およそそのような事を、一気に話をされた。
私はただ合掌して聞いていた。

☆ 真理

《 生長の家は今や、心の法則を発見し、霊界の法則を
発見し、それを日常生活に応用する道を発見しつつ
あるのです。》
(新版《真理』第9巻 9頁)

《 霊界も現象の世界であり、自覚によって環境が
変化する世界です。「今即久遠の世界」と云うのは、
現象界も霊界もともに包容(ほうよう)しながら、
それを超えた無限の世界である。

その無限の世界を「今」の一点に於いて白熱的に
凝縮(ぎょうしゅく)して生きるから「今」の一点に
久遠を生きることになる。その自覚を持たないで
「今」を一生懸命に生きても、それは「無限を白熱的
に凝縮した一点」を生きるのでなくて、単に
「断片的な今」を生きるに過ぎないことになる。》
(新編『真理』第4巻 56〜57頁)


《 ご先祖への聖経供養心得
1.唯、尊敬と報恩・感謝の念をもって誦(よ)むこと。
2.聖経の意味を説明する。

聖経を読む前に、先ず、この聖経『甘露の法雨』はあなたが
先祖から伝承して来た※※宗の教えの真理を最も解り易く、
現代語で書かれたものでありますから、心を集中して
此の聖経を聴き給うて、その真理を体得し、霊界に於いて
解脱(げだつ)を得て神通自在となり給いて仏陀(ぶっだ)
の境地に達し給わんことを冀(こいねが)う」と生ける
人に語るが如く唱えてから聖経を誦(よ)むがよい。

3.読誦の時間を定める。<
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

志恩ー
どれも大事な真理の言葉に思えて、長文を引用してしまいまして
すみません。

今回も、また、はうら様が個人指導されたおかたの、いい結果が現れた
素晴らしい体験談を書いてくださっています。

嬉しくありがたく感謝いたしております。合掌

不思議なしくみ (60300)
日時:2023年08月09日 (水) 23時14分
名前:本音の時代

《先祖及び縁者の霊魂を成仏させてあげるのが、現実界の
子孫及び縁者の義務でもあり、それはまた自分自身に
報いられて来て家族全体の健康ともなり、繁栄ともなる。》

勉強不足もあるのだが、先祖供養について色々思うことがある。
たとえば、霊界に行った人には、先祖及び縁者の霊魂を成仏させてあげる場がないということなのだろうか。
家系が絶えた場合は、先祖供養する人がいなくなるし、縁者といっても縁者にとっては迷惑な話だ。
所詮、人は自分以外の者に迷惑をかけ、お世話になる存在なのだが、あの世に行ったら、こちらの人に迷惑をかけないで済む、あの世で悟れる仕組みを作ってほしかったなぁと思うのです。

本音の時代様 (60308)
日時:2023年08月10日 (木) 17時03分
名前:はうら ひとひら

本音の時代 様
ありがとうございます。

私(はうら ひとひら)には、申し訳ありませんが
霊界の事については、よく解りません。
尊師もどこかで、霊界については、存在するという
事だけ知っていればよくて、あれこれ詮索しないほう
がよいとも述べられております。

尊師の「霊界」の定義ですが、
《 「霊界」と言ひますと「實相世界」と混同する人が
あるのですけれども、ここにちゃんと、その区別を
分けて示されてゐるのであります。
現象世界とは、現界、幽界、霊界をひっくるめて呼ぶ
言葉であります。そのうちの「幽界」といふのは、
霊魂の世界の“低い処”が「幽界」であります。
それからその霊魂の世界の稍々(やや)高い処を
「霊界」と謂ふのでありまして、その霊界のもう一つ
高い処を「神界」と言ってゐますが、それは最高級の
霊界でありまして、White Spirit即ち白色の靈光を
放つ靈の生活する靈圏であります。
「幽界」といふと、Red Spiritと称して一寸赤黒い様な
にぶい光をした霊魂が棲んでゐるところであります。
これが幽界であって、それからホワイト・スピリットと
レッド・スピリットとの中間にBlue Spiritといって
空の青みたいな光を放ってゐる霊魂がゐます。
これが霊界であります。
その上にこのホワイト・スピリットの白色の靈光を
放ってゐるところの靈の世界があって、これが神界で
あります。しかしそれは宇宙に充ち満ちている遍在普遍
の神様といふのではなくて、一度人間に生まれて来て
修行によって神格に到達されたところの個別靈であります。
即ち佛教でいふ「衆生」が悟りをひらいて「佛陀」と
なったと謂うやうな神通自在の境涯の霊魂なので
あります。》
(『神ひとに語り給ふ』神示講義 教の巻 169.170頁)

・無縁仏を祀ることについて
《 普通の人は無縁の靈を招ぶのは弊害があるのである。》
(新版『人生を支配する先祖供養』29頁)

・『甘露の法雨』靈の項の説明(一部)
《 「靈」とここにあるのは「霊魂」のことであります。
霊魂という場合は普遍的靈ということではなく、なんらかの
体を備えた個別靈のことであります。
仏教は「無我」の教えでありますから、「霊魂」という
ものを第一義諦(ぎてい)としては認めないのであります。
生長の家でも、先刻説明しましたように、第一義諦としては
迷う「我」も極楽へ行く「我」もないのでありますけれども、
現世、霊界等のスクリーンに投影された念像が、ちょうど
活動写真の銀幕(スクリーン)上に踊っている人物のように、
個別の姿をあらわして見えるのが、現世の銀幕においては
肉体であり、霊界の世界においては靈体であります。
この靈体を現している仮我(かが)を、霊魂というのであります。
霊魂という実体が実在するのではない、その正体は念の波
によって、そこに実在するかのごとくあらわれている活動写真
のごとき映像であります。》
(『新版『人生を支配する先祖供養』84.85頁)

・霊界の修行について

《 彼は再び地上に生を受けて進化するよりも、霊界に
いてそのまま自己の進化を継続したいという方の
スピリットであった。
「霊界における進化のための修行は、洗練された気質の
霊魂でない限りは非常に苦痛である。」・・・
「しかし地上に生を受けるよりもいっそうそれは興味
がある」・・・彼は苦痛多き地上生活のみやげ物をもって
霊界へ這入ったものである。
地上は彼にとりいちじるしく苦痛の生活であった。
しかし今は幸福である。自由に自己の意識をもって進化の
道程を選択しうる境涯に達したのであると・・・。》
(『生命の實相』頭注版第9巻 143.144頁) 

思いつくままに、聖典から引用させていただきましたが、
本音の時代 様へのお答えになっていない事は、重々
承知いたしております。
長々と申し訳ございませんでした。

いろいろと考えさせられる機会を与えてくださいました
事に感謝申しあげます。

ありがとうございます。













はうらひとひら様 (60311)
日時:2023年08月11日 (金) 03時21分
名前:志恩

はうら様のコメントは、本音の時代様宛のものでしたが、
尊師の説かれた「霊界」の定義の詳細なご説明を
谷口雅春先生の著から謹写してくださいまして、
ありがとうございました。
私も拝読させていただきました。

本音の時代様の疑問は、私には思いつかなかったこと
でしたので、とても いい質問だったと思います。

私たちが、ご先祖様方を供養するのは、感謝の気持ちを
ご先祖様に捧げることだと教わっていますが、霊界にいる
人々も喜びますが、喜ばれている供養をしている側の
今世の人たちも、同時に波動が上昇するので、いい波動の
青色スピリットとか白色スピリットとかの霊界の高級霊の救い
の波動の念波と共鳴し、
今世の子孫も、一緒に神癒され、幸福に導かれるというものですが、

霊界には、霊人同士で、お互いを 供養をするという システムが
ないのでしょうか、ということは、谷口雅春先生も、それにつきまして
そこまで霊界については、書いておられませんのでわからないこと
ですよね。



おじゃま虫  幽界で「迷いは無い」を知ることはできるのだろうか。 (60317)
日時:2023年08月11日 (金) 17時08分
名前:本音の時代

この世(現界)で谷口雅春先生の教えを知ることができてよかったわ。
霊界や幽界は似た者同士が集まるという文章を見たことがある。
霊魂の世界の“低い処”が「幽界」であるならば、そこにいる霊魂には人間としての向上心があるのだろうか。
メカニズムはわからないが、この世の子孫や縁者が行う供養が、それらの霊魂の向上心を呼び覚ますことになるのだろう。
霊魂はこの世を経緯している。肉体の父と母を持ち、この世を経験しなけれ次の世界に行けない。なのに、次の世界では先祖供養という観念はなくなるだろうか。別の観念があるのかもしれない。
この世では、生かされていることに感謝するのみだ。もちろん先祖があって生かされているのだ。ご先祖様、生かしていただき、ありがとうございます。

本音の時代様 (60324)
日時:2023年08月11日 (金) 23時38分
名前:志恩

横スレ失礼いたします。

もしも死後の世界について、詳しくお知りになりたいのでしたら、
元大本教で谷口雅春先生とご一緒にお仕事をされていらして、
仲良しでいらして、
「心霊科学研究所」を創設され、そこへ大本教を出られた
谷口雅春先生も、しばらくいらしたというところの、
浅野和三郎先生は、霊界についての日本の第一人者ですから、
浅野和三郎先生の知識を読まれますと、より、幽界、霊界、神界
については、お分かりになると存じます。

私と実母は、生長の家に入信する前は、浅野和三郎先生が創立
された「心霊科学研究所」におりました。

私は、浅野和三郎先生の著書は、数冊買って持っておりまして、だいぶ前に
読んでおりますが、買って読むほどではないと、感じました。
霊界のことは、霊界に行ってから、学べばいいと感じました。
今、本棚を探しましたが、他人や兄弟姉妹に貸し出したまま、帰ってこなくて
それらの本は、うちには、今は、蔵書がありませんでした。
数個だけ、読んだ人の感想をお読みになれば、
大体の内容は、わかります。買って読まれなくていいと
存じます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 『死後の世界について』
J.S.M.ワード著(イギリス人)。浅野和三郎訳。

”ブックレビューより”

5つ星のうち5.0
あの世の人たちからのメッセージを一番切実に伝えてくれる名著

前半のワード氏と亡き叔父さんとの霊界解説、後半は同じく死んで
地獄のどん底まで落ちた陸軍士官の体験記から成っています。
どちらも他の著書ではみられないほどにあの世の実相について詳細に
語られていて、必読レベルの名著と思います。
中でも後半の陸軍士官の体験した地獄の様子は、古今未曾有と言って
良いほどの内容で、血も凍るような恐ろしい内容が、浅野和三郎氏の
見事な翻訳でよみがえっている感じです。

浅野氏は他にも「小桜姫物語」「新樹の通信」など、
あの世の人たちの体験談を大変見事にまとめた著作を残していますが、

この「死後の世界」はイギリス人であり、
私たちとはまた違った国や宗教のもとで霊体験をしたワード氏の手記を
翻訳した著書として非常に価値の高いものと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

5つ星のうち5.0
死後の世界を知り、今をどう生きるべきかが分かる書

霊的なことに関心のある方には、非常に興味深い本です。
後半は地獄の下の下の方まで落ちた霊がそこから一念発起
文体も浅野和三郎先生の訳では分かりやすい方なので、
比較的読みやすいと思います。
どのような文体か、地獄の底の方から上の界層に上り始める
きっかけになった部分を、少し引用してみます。

この翻訳が難しいと思われる方は、浅野和三郎先生の原訳を
圧縮して現代文にした桑原啓善編著の『死後の世界』でくのぼう出版
があります。

上と同じ部分を引用してみます。
 『神はもしかしたら、俺が地獄におちている苦しみを知っているかもしれん。
神は愛ならば、多少のあわれみがあるだろう。
 そうだ、きっと神は俺を救い出してくれる、神があるならば。
ああ、俺はバカだった。なぜもっと早くこのことに気付かなかったんだろう
後悔しさえすれば、俺は救われる。』
しかし、まず悪行を後悔することが始まりとなります。
その後の様子がこの後に語られています。

地上においても、霊的真理を知ったり、後悔しただけで、
霊的に向上することはありません。
どのように生きるべきかを教えてくれる書でもあります。

 しかし、後者の桑原啓善編著の『死後の世界』では、
前半部分のワード氏の叔父であるL氏の霊界に入った時の体験から、
霊界とはどのようなものだと悟ったかという、興味ある話の多くが省かれて
短くなっていますので、できれば浅野和三郎版の方を読むことをお勧めします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

5つ星のうち5.0 素適な霊界通信

人間社会が余りにも無知な為に戦争・犯罪・病気・悩み等が多すぎる。
人間は物的肉体の前に霊そのものであり、永遠に生き続ける。
叡智という言葉の持つ本当に意味は、
という永遠の道を知り、更にその道に適った生き方が出来る人である
(行おうとする者も含まれる)。
私が選んだこの五つ星マークは、いずれもそれらを知る材料となり、
死後の生命とはいかなるものであるかを教えてくれる貴重な資料となるからです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
5つ星のうち5.0 死後の世界

「死後の世界」強烈な題名なので・・・またまやかし?
と思いながら読みましたが、まんざら嘘でもないと思いました。
 死への恐怖感が薄らぎ、霊界も悪くないと思いました。
牧師が善行を行って死ぬ時のシーンは感動しました。やはり死んで終わりじゃないと
改めて痛感しました。一日一日の人生を人のために尽くすのも悪くないかなと思いました。
 死んでからも、生活があることをわからせて頂きました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
浅野和三郎(わさぶろう)wiki

誕生1874年8月9日
茨城県稲敷郡源清田村
死没1937年2月3日(62歳没)
神奈川県横浜市
職業作家、文学者、英米文学研究者
英語文献翻訳、英語教官、研究者
心霊主義研究・運動家
国籍日本
最終学歴東京大学英文学科
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
志恩ー
人間は肉体ではないという生長の家の「唯神実相哲学」に
触れられたことが、いずれゆく霊界においても、どれだけ役立つか
しれない幸運なことかということが、よくわかります。

 (60329)
日時:2023年08月12日 (土) 09時02分
名前:元信徒

すみませんが、

どんな事件があったのですか?
それについて話をしていますか?

原本を読んでいない方にも分かるように書いてくれませんか?

スレッドが増えるたびに何を話しているか分からないのですが。

できたら、体験も少し詳細に書いてくれませんか。

普通起業する時は、成功をめざして開業しますが、なぜダメ元で始めたのですか?
ダメ元の理由や強行しなければならなかった理由は何ですか?

宜しくお願いします

霊魂の事など (60359)
日時:2023年08月14日 (月) 13時11分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

志恩様 明解なるご処置に感謝申しあげます。
今回は、徒然(つれづれ)に、相変らず
脈絡(みゃくらく)なく、霊魂などという
少し難しい事を、聖典などから引用させて
いただいて、お盆の時節を考えたいと思います。

・霊魂進化の過程を短縮するには

《 「神の子」なる人間の実相を現象界(現界、
幽界、霊界等を通じて)に実現するのが人生の
目的である。そして人間の運命とは「神の子」
なる人間の実相(因子(たね))が現象界に
投影する時間的空間的に展開するのに、おのず
から一定の順序を追(お)うて展開してゆくように
大体定められているのをいう。・・・
かくのごとく、「神の子」なる実相人間もその
投影の現象界に完成するのには大体一定の時間を
要し、植物が日光に逢(あ)い、雨露(うろ)に
逢うがごとく、あるいは幸福に恵まれ、あるいは
逆境(ぎゃっきょう)と戦うことによって、ついに
実相人間の現象界への投影を完成するのである。
しかし、その投影が完成するには、その投影は
「念波の集積」で成り立っているし、人間は
心の自由をもち、自由に実相の悟りによって念波を
清めえもすれば、迷いによって念波を汚(けが)す
こともできるのであるから、現象世界に実相人間を
顕現(けんげん)する過程(進化の過程)を、
心しだいで縮(ちぢ)めることも長くすることも
できるのである。霊魂進化の過程を短縮するのは
念の浄化(じょうか)による。念の浄化には実相を
悟ることが第一であり、物質欲に捉(とら)われ
ざることが第二である。物質欲に捉われざるため
には「物質本来無し」の真理を悟るのが第一である。
「物質本来無し」の真理を悟る程度に達せざる者には、
物質の快(かい)に捉われざるためにみずから進んで
苦を求めて喜ぶか、物質の快を求めてかえって
苦難(くなん)をうける体験を通して、ついに
物質欲に捉われざるにいたるかの二途(にと)しか
ない。前者はみずから進んで嘗(な)める苦行
(くぎょう)であり、後者は他動的に業運(ごううん)
として来る苦難である。その他に過去の宿業(しゅくごう)
の自壊(じかい)する過程として、靈的流動的に擾乱
(じょうらん)を起こす病苦もある。苦難がみだりに
取り去られず、多くの霊魂が苦行の価値を力説している
のはこれらのいろいろの理由によってである。》
(『生命の實相』頭注版 第9巻 102.103頁)


・「霊魂の高さ」の徴証(ちょうしょう)を知るには

《 ともかくわれらの地上において霊魂の進化の程度を
測定する標準はあるのだろうか?・・・
ヴエツテリニは答える一
「直覚(ちょっかく)的認識―霊魂による霊魂の認識
のほかに、外より見える徴証(しるし)もたくさんある。
そのうちの一、二をここにいってみよう―
第一、雅量(がりょう)である。しかしここにいう
ところの雅量は人間霊魂の深き認識より出発したる
他(た)に対する赦(ゆる)しである。それは聡明
(そうめい)なる雅量であって寛大(かんだい)と
峻厳(しゅんげん)との必要を知るところの雅量で
ある。Bonte-severite(寛大なる峻厳)こそ向上せる
霊魂の特徴(とくちょう)として記憶すべき一つで
ある。第二、卑(いや)しき者、世に出(い)でざる
者、弱きものに対する愛―社会的成功、名誉、地位
等に対する無関心によってともなわるる愛である。
第三、哲学的思索(しさく)の傾向、霊魂の神秘を
知らんとする熱望、その神秘に貫(つらぬ)き入ろう
とする努力―これらは霊魂の進化そのものである。」》
(『生命の實相』頭注版 第9巻 120頁)

・体温は靈によって

《 吾々が体温を維持しているのは其処(そこ)に
霊魂が宿(やど)っているからであります。
霊魂がなくなると体温はなくなります。死体は
冷たいのはそのためであります。・・・
これは、靈は陽(よう)であり、肉体は陰(いん)
でありますから、肉体だけでは冷たく感じるのであります。
肉体に霊が宿って、陰陽相合(あひがっ)して体温という
ものが、保たれているのであります。》
(一部現代語にて表記させていただきました。)
(『到彼岸の神示 神示講義 自覚の巻 217頁)

・靈界で神を見る

《 人間の靈は永遠である。靈は時間と空間とを超越
している。靈はこの世の肉体を捨てて永遠の世界に
移され、そこに神をまのあたりに見るのである。・・・
なぜならわれらは皆逝(ゆ)かねばならぬからだ。
これは始めであり、終わりである。わが子よ、神は
実在する。そして人間の靈は永遠で神聖であるのだ。》
(『生命の實相』頭注版 第10巻 40頁)

・霊魂は騎手

《  肉体は乗馬であり霊魂はその騎手(きしゅ)である。》
(『生命の實相』頭注版 第9巻 170頁)

・人間の自由度

《 スピリットはある程度までは自由である。
人間は正邪(せいじゃ)を甄別(けんべつ)しな
ければならない。進化を促すのは研究で有り、理会
(りかい)せんとする努力である。
もし人間に『真理』ばかり与えられるならば『真理』
に到達せんとする努力はなくなり、彼らの進化は
停止するのだ。》
(『生命の實相』頭注版 第9巻 175頁)

・業を消す

《 現象時間の流れの中で、“無窮(むきゅう)"を
生きようと思うと、肉体の寿命は無窮には生きられ
ないけれども、“今”の一点に“久遠”の絶対時間を
生きると、過去も現在も未来も今ここに一つに把(つか)
まれてしまう、ということになるのであります。
そうすると、吾々は今ここに自己の内に過去も現在も
未来も把んでいるから、過現未が自分の掌中(しょうちゅう)
にあるのです。普通過去は変化することは出来ないという
けれども、過去も変化できる。そこから吾々は真理を自覚
すれば過去の業(ごう)を消すことが出来るということが
わかる。》
(『無限供給の扉を開く』 237頁)

・認めないと存在に入らない

「ロンドンの霧は、詩人がこれを詩に表現した時に
初めて存在に入ったのである。それまではいくら霧が
あっても、霧は存在に入らなかった。」
(オスカー・ワイルド)

《 『獄中記(ごくちゅうき』〉を書いた当時の
オスカー・ワイルドにとっては、芸術家とはもう画布
(カンバス)の上に色彩を美しく塗り付ける絵かきの
ことではなかった。・・・
ワイルドは獄中において、感覚上のどんな美しさでさえも、
獄中で課せられた労役に小さな思いやりある手伝いをして
やることや、それを受ける者の感謝の情操(じょうそう)
ほどには美しいものでないことを発見したのであった。・・・
憐憫(あわれみ)と赦(ゆる)しの大(おお)いなる
感情を人生に製作することであった。》
(『生命の實相』頭注版 第19巻 56.57頁)

■ 日常の行い

私は、朝6時から9時まで、教育施設の掃除をしている。
掃除仲間で、80歳位の女性がいる。歩くのでもやっと
歩いている。いつも辞めたいと言っているが、辞めさせ
ないで、週に1〜2回休暇を与えて、仕事をしてもらって
いる。組織の上司は、この人が辞めたら、すぐ足腰が
たたなくなる事を知っているから、愛の鞭(むち)を
ふるっている。私はその人が背がちいさくて、黒板の上部
に手が届かないので、上部のみ消してあげて、清掃が
終わって帰る時、タイミングがあえば、数キロの重さの
ある、掃除道具が入ったバケツを持ってあげて洗濯場まで
行っている。(5〜6分の距離であるが、何度も休んでよろよろ
しながら歩いているのを、見てはいられないからである。
ただそれだけの事であるが、大変感謝されている。
オスカー・ワイルドの気持ちが少しは感じられる。

・光は闇を破壊する

《 【釈迦に何故提婆(だいば)があるか】

何故、天照大御神(あまてらすおおみかみ)のような
和魂(にぎみたま)の慈愛(じあい)そのもので
あらせられる女神の弟君に、素戔嗚尊(すさのおのみこと)
のような乱行(らんぎょう)をする者が出たのであろうか。
何故、釈迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)には敵対する提婆
がああり、キリストには主を売る反逆の弟子ユダがあり、
親鸞聖人(しんらんしょうにん)には善鸞(ぜんらん)
のような不肖(ふしょう)の子があり、天照大御神は
ついに素戔嗚尊を追放し、親鸞聖人は善鸞を追放したので
あった。三界は唯心の所現、環境は心の影と云(い)う
原則から云うならば天照大御神の環境に素戔嗚尊が
あらわれたのは、天照大御神の心の反映としての
素戔嗚尊の乱行であり、親鸞聖人の心の反影としての
善鸞の不信があり、イエスの人を売る心の反影としての
ユダであり、釈迦の心の反影としての意地悪の提婆が
あると言い得るだろう。

 【心の影と云う意味】

しかし、反影と云うものは如何なることであるか。
反影には二つの場合がある。鏡に映(うつ)るように
そのまゝが映る場合と、漆器(しっき)の滑澤(かったく)
なる表面が愈々(いよいよ)清く拭(ふ)き清められて
いる場合には、小さな埃(ほこり)がその面におかれても
ハッキリと眼に映る場合がある。

  【光は闇を破壊する】

暗(やみ)は光を慕(した)って集まるが、集ったもの
は光の下では必ずしも優遇せられない。集魚燈の下に
集った魚は漁(すなど)られて殺され、誘蛾燈の下に
集った昆虫は焼き殺されたり捕殺(ほさつ)せられる。
光の救う力は必ずしも甘くはない。その救いは峻厳である。
しかし本統(ほんとう)の救いは其(そ)の峻厳な優遇
せられない事の中にあると言い得るのである。
必殺必浄(ひつじょう)である。
磨かれた滑澤な漆器面にある微(かす)かな埃(ほこり)
は看(み)のがされないで拭き除(と)られる。
看過(みのが)されないで拭き除られることの中に、
埃自身の浄化(じょうか)があり、昇華(しょうか)があり、
業(ごう)の自浄(じじょう)があるのである。
魚は集魚燈のために見出され本来の使命を完(まっと)うして、
その霊魂は一層高き段階に上(あが)るのである。
誘蛾燈で捕殺された蛾(が)すらも、本当は死んでいないで、
一段高き「生命」としての自己の浄化を遂(と)げるのである。
素戔嗚(すさのお)の乱行は、あまりにも明るい天照大御神の
光の為である。光それ自身の中に埃はないけれども、
埃は光によって一層ハッキリとあらわれるのである。
光は温(あたた)める(愛)と同時に審判(さば)(智慧)
くのである。神は愛であると共に智慧である。
神は盲愛(もうあい)でなく智慧ある愛である。
イエスは愛を説(と)いたが、再臨(さいりん)のイエス
は最後の審判(智慧)を約束するのである。
光の前に行われる乱行は業の自壊作用である。滅(めっ)
せんとする際の自壊過程である。
素戔嗚尊は其の乱行の果てに、爪を抜き、髪を抜かれて、
尖(とが)ったところをなくし、円満化されて放逐
(ほうちく)されたのであった。
かくて八岐大蛇(やまたのおろち)を退治(たいじ)し、
葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定(へいてい)
するのである。それは、天照大御神の和魂が素戔嗚尊を
円満化して放逐した結果であった。
側近に置くのが必ずしも愛ではない。放逐するのも愛
である。側(そば)に於(お)いて堕落(だらく)
するものは放逐して発奮(はっぷん)せしめ、
遠くにいて堕落(だらく)するものは近くへ誘(さそ)いて
捕殺する。捕殺するとは表面のこと、一層浄(きよ)めて、
その魂を向上せしめるのである。
神の計画は深謀遠慮(しんぼうえんりょ)。
凡慮(ぼんりょ)の及ぶところならずと知るべきである。》
(一部現代仮名つかい、現代語を使用させていただきました。)
(『新生の書』 219〜220頁 )

ありがとうございます。





はうら ひとひら様 (60371)
日時:2023年08月15日 (火) 02時08分
名前:志恩

お盆の時節になりました。
ちょうど、この時期に、谷口雅春先生の聖典などから
引用されて、貴重な霊魂のことを、多岐に渡って、
取り上げてコメントくだり、
誠にありがとうございました。

はうらひとひら様は、
いつものことですが、ピンポイントで
聖典の箇所を、お示しくださいますので、
すごいな、と尊敬申し上げております。

おかげさまで、霊魂について
大変勉強になりました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(はうら様ー)
・霊魂進化の過程を短縮するには
・「霊魂の高さ」の徴証(ちょうしょう)を知るには
・体温は靈によって
・靈界で神を見る
・霊魂は騎手
・人間の自由度
・業を消す
・認めないと存在に入らない
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(はうら様ー)
■ 日常の行い
【釈迦に何故提婆(だいば)があるか】
【心の影と云う意味】
【光は闇を破壊する】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
志恩ー

また、はうらひとひら様の最近の日常の体験談も
とても、はうら様のご性格と言いますか、生き方といいますか
それとなく、相手を思いやる愛の行為に、感動いたしております。

はうら様は、ずっと以前から知的な高度な機械設備の設計の
お仕事に携わっていらしたお方ですが、最近は、教育設備の
清掃の仕事を朝6時から9時まで、されていらっしゃるなんて、
とても素晴らしいことだと思っております。

私が原宿本部に奉職していた時、二人の清掃の高齢の
女性と、私は親しくさせていただいておりましたが、二人とも
いいお方で、一人のお方は、小学校の校長先生の奥様でしたが、
ご主人が亡くなられましたので、本部の清掃専門の仕事をする
本部職員にならまして、明るくお仕事をされておられました。
そのお方は、銘田さんで、もう一人のお方は、中根さんという
女性でした。お二人とも、私よりもかなり年上のお方でした。

原宿本部資料篇 番外篇 (60439)
日時:2023年08月21日 (月) 17時58分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

今回は『原宿本部資料篇』番外篇として述べさせて
いただきます。
私が『生長の家原宿本部』に行っていなければ、
今の私はありませんし、今生きていたかもわかりません。
そのような話です。

「生長の家 本部」
《 かくのごとき生活の原理を私は諸君に代って
インスパイアされて発表するのである。―
言い換えればかくの如き役割をわたしは大生命から
振り当てられているにすぎない。その発表機関が
月刊雑誌《生長の家』である。『生長の家』に発表
される思想のインスピレーションの根元が本当の
生長の家本部であって、それは神界(しんかい)
すなわち「実相の世界」である。かりにその地上的
執務の中心を生長の家本部と名づけ、出版部を本部
においてこの雑誌の執筆発行等の事務をとるのである。》
(『生命の實相』頭注版第1巻 初版のまえがき 7.8頁)

■ 体験・私の原宿本部

・48歳の時、自分では自覚しなかったが、腎臓の周囲に
癌が取り囲み(腎臓よりも大きな)2.3の病院を経由して
都内有数の癌専門病院に入院した。癌でない自分が何で
こんな所にいるかが不思議であった。その訳は退院の時に
担当医師から聞いたが、生存率の低い人には、告知しない
そうであった。兄弟は葬式の用意までしたと後で聞いた。
北海道にいる姉が、白鳩会の名前だけの会員であったが、
「遠くて、見舞いに行けないので、神癒祈願をした。」
と言う。その時反発心しかなかった。
「そんなもので治るんだったら、医者や病院はいらない」と。
しかし、事の重大さに気付いたのか、姉は手術日から上京して
3ヶ月毎日見舞ってくれた。
奇蹟的な事がいろいろ起こり、何とかお粥(かゆ)が取れる
ようにまで、回復を見届けて、姉は帰っていった。
その時、暇だったら読んでと一冊の本を置いていった。
その本を見て、いきなり大きなハンマーで頭を叩かれる
思いがした。
「病はナイ」(『智慧と愛のメッセージ』谷口清超著 41頁)
「世の中には、いい加減なことを書いても売れる本もあるんだ」
とその時思った。
退院後しばらくして、「生長の家」というのが気になって
一度でよいから行ってみようと思い、原宿駅の反対側に降り
道に迷った。(右も左もわからない田舎もので、まっすぐな
道がある事がわからなかった。餅売りの婆さんに背負い投げ
をくらったのである。)
そのまま帰ろうとしたが、気を取り直して、本部に電話して、
やっと辿(たど)り着いた。
建物の壁面に「真理への道はただ一つ― 人間は神の子だと
云うことである。」キリスト教かと思ったが、佇まいが違う。
本部受付で、住所を管轄する教化部を紹介してもらい、そこ
の受付でも、何も聞く事もなかったので『甘露の法雨』を
求め、帰宅後、仏壇で読んでみたが、なんの事かさっぱり
わからなかった。
その後、神誌といわれた『光の泉』を購入したら、近くの
相愛会長にさそわれて、会員になったが、大勢の人の後ろ
について行くだけであった。(主に、毎月の神誌の配布と
講習会、全国大会、教区大会の案内が主な行いであった。)

・3.11の時から毎月原宿本部に神癒祈願をするようになった。
祈願内容は
「日本國実相顕現・生長の家実相顕現」それだけだった。
本部から何か言ってくるのではないかと思った。
3ヶ月程して、受付窓口で神癒祈願を差し出したら、男性
職員がいきなり出てきた。
「あなたが、はうら さんですか。あなたの祈願内容は
素晴らしいので、特別枠で祈願させていただいております。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。」との事であった。
その時思った事は、まだ地上の生長の家は大丈夫だ、と思った。
(その方がどなたで、今どうされているかは、知らない。)
祈願の時、必ず東郷神社側の表面玄関の上部のご神像を礼拝し
暫くそこに佇(たたず)んでいた。


・3.11から少しして、本部でチラシをいただいた。
『新生日本の実現に邁進する祈り」
(「谷口雅宣先生のウエブサイト」の『小寒雑感』
2011年4月11日・ご発表)とある。
確かに、 少し寒いが違わないか?
通りがかりの男性職員にその話をしたら、「ああ」と
言っただけである。知っていて、訂正もしない。
少し前のご本部では考えられない事であった。
少しずつ、何かが綻(ほころ)んでいくような気がした。
(老婆心ながら、『小閑雑感』だと思うが読んだ事がない)

・本部会館(講堂)で2度、日曜誌友会の少し前の時間に
前講で話す機会に恵まれた。1度目は自身の生長の家に触れる
事となった体験を話した。
2度目は「猫が神想観」をしていますか、と開口一番話したら
良本峯夫本部講師が、「おお」と身を乗り出してきたのには
驚いた。話は、癌になって前途を悲観しながら道を彷徨(さまよ)い歩きながら、捨て猫に出会い、猫に癒されて、生きようと
した人の話であるが、無門関第一則にひっかけて話しようと
したが、失速してしまった。しかし、人間は神想観をしようが、
しまいが、救われ済みである事だけは、話が出来たと思う。 

☆ 真理

《 趙州和尚(じょうしゅうおしょう)、因(ちな)みに
僧(そう)問ふ、狗子(くし)に還(かえ)って佛性
(ぶっしょう)ありや也(また)無(なし)や。
州(しゅう)云(いわ)く。「無(む)」。》
(『無門關解釋』15頁)

・「犬」にも仏性はあるか」に対し、「無」と答えた。
というだけの内容であるが、禅者が最初に与えられる
課題であり、これを解くのに3年はかかるといわれる
程の難問である。しかし私達は、その真理の書で、
即座に修行僧のレベルにまで引き上げられる機会に
常に恵まれているのである。
大変ありがたい事である。


・仕事が多忙を極め、徹夜につぐ徹夜が続いていた頃、
原宿本部は突然引越してしまった。
あの時、道に迷いながらも、本部を訪ねていなかったら、
自分は多分この世には、すでに存在しなかったと思う。
何度か、死を覚悟し、その度に、このみ教に救われた。
本部が引越して、本部での「神癒祈願」がなされなく
なったので、それでは、自分が癒された御礼の萬分の一
の御礼にと、「24時間 365日 個人相談の受付け」
を神に許しを得て行ったのは、それから暫くしてからである。

ありがとうございます。


 




はうらひとひら様 (60443)
日時:2023年08月22日 (火) 01時18分
名前:志恩

はうら様は、生長の家に触れられたのは、今から30年ほど
前のことでしたのね。
48歳の時、腎臓癌の手術をされる時、北海道在住の
お姉様から、谷口清超先生の、生長の家の本を献本され
それを初めて読まれたそうなのですから。

>北海道にいる姉が、白鳩会の名前だけの会員であったが、
「遠くて、見舞いに行けないので、神癒祈願をした。」
と言う。その時反発心しかなかった。
「そんなもので治るんだったら、医者や病院はいらない」と。
しかし、事の重大さに気付いたのか、姉は手術日から上京して
3ヶ月毎日見舞ってくれた。
奇蹟的な事がいろいろ起こり、何とかお粥(かゆ)が取れる
ようにまで、回復を見届けて、姉は帰っていった。
その時、暇だったら読んでと一冊の本を置いていった。
その本を見て、いきなり大きなハンマーで頭を叩かれる
思いがした。
「病はナイ」(『智慧と愛のメッセージ』谷口清超著 41頁)<

私に取りましては、30年前なんて、つい最近のことに感じますので
大変驚きました。
なのに、このように深く真理を体得されておられる
とは...。

はうら様は、ご自分の小説の中でも、他のお方のお名前に
なっていますが、腎臓癌の手術の模様を事細かに描写されて
おられます。

小説によりますと、(葉裏のそよぎ251頁)

「腎臓は、2つありますが、その手術直前の腎臓の画像では
この周りに全周1.5cm程度の厚さの輪が見えます。これを
取り除くために、腎臓ごと摘出します」

その後、出血があり、止まらなかったのですが、出血箇所が
奇跡的に見つかり、再手術後、〇〇医師から説明を受けた。

「今回の事は、誰がみても癌でした。
これはかなり大きな。取り出した時、ほとんどが自滅して、
自分で死滅した状態で、腐った状態でした。
これはかなり特殊な説明のつかない事です。
今まであまり例がありません。癌細胞がことごとく自分で
死に絶えるとは、、、。摘出した腎臓は、まだ動いていました。
また心配した転移はどこにも見当たらないので、今回の癌
騒動は、一応終了したと考えて良いと思います。」


不思議なことがあるものです。癌が、自ら死滅した状態で
取り出されるなんてことが、世の中にはあるものなのでしょうか。

そういうわけで、
はうら様は、腎臓が2つあるうちの1つないのです。
それを、「ボクは無尽蔵」と洒落でおっしゃる愉快なお方です。

はうら様は、
原宿本部が解体される少し前に、初めて、原宿本部へ
いらしたとは、そして、日曜日の誌友会で、前座を2度も
勤められたとは、もうその時は、地方講師でいらしたのでしょう、
すごいですね。良本先生もいらした時なのですね。

つづく

[つづき]:はうらひとひら様 (60444)
日時:2023年08月22日 (火) 02時13分
名前:志恩

>2011・3.11の時から毎月原宿本部に神癒祈願を
するようになった。
祈願内容は
「日本國実相顕現・生長の家実相顕現」それだけだった。
本部から何か言ってくるのではないかと思った。
3ヶ月程して、受付窓口で神癒祈願を差し出したら、男性
職員がいきなり出てきた。
「あなたが、はうら さんですか。あなたの祈願内容は
素晴らしいので、特別枠で祈願させていただいております。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。」との事であった。
その時思った事は、まだ地上の生長の家は大丈夫だ、と思った。
(その方がどなたで、今どうされているかは、知らない。)
祈願の時、必ず東郷神社側の表面玄関の上部のご神像を礼拝し
暫くそこに佇(たたず)んでいた。<

志恩ー
はうら様は、2011.3.11以降、毎月、1回原宿本部の
祈願部へ
「日本國実相顕現・生長の家実相顕現」という神癒祈願を
するようになられた。

ご自身の健康祈願ではなく
「日本國実相顕現・生長の家実相顕現」を祈願されたとは
珍しいお方ですよね。

2011年3月からと申しますと、初代トキ様が、2011年6月に
トキ掲示板を立ち上げられた年でもあります。

で、その後 間も無く、2014(平成26)年1月から5月にかけて、
雅宣総裁は、2億6千万円の解体費用を清水建設に支払い、
原宿本部会館を清水建設に解体させてしまいました。

ほんの一部の建物だけ残して、原宿本部会館を解体した
跡地には、生長の家 原宿 “いのちの樹林”という、
名前だけは、素敵に聞こえますが、その樹林と称する庭は、
実際、見にいって来ましたが、見てガッカリする なんの魅力のない
一度は行っても、2度とは行きたくない、すごくつまらない 狭い
庭になっておりました。

そして、
2013(平成25)年7月に、北杜市の八ヶ岳南山麓に森の中の
オフィスが完成し、そこへ生長の家国際本部は移住。
同年10月1日から、森の中のオフィスは、開所しました。

というわけです。

あの日から、10年の歳月が流れました。

その後、本部には、祈願部がなくなりましたので、
はうら様は、

>・仕事が多忙を極め、徹夜につぐ徹夜が続いていた頃、
原宿本部は突然引越してしまった。
あの時、道に迷いながらも、本部を訪ねていなかったら、
自分は多分この世には、すでに存在しなかったと思う。
何度か、死を覚悟し、その度に、このみ教に救われた。
本部が引越して、本部での「神癒祈願」がなされなく
なったので、それでは、自分が癒された御礼の萬分の一
の御礼にと、「24時間 365日 個人相談の受付け」
を神に許しを得て行ったのは、それから暫くしてからである。<

現在に至っておられます。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
志恩ー
ちなみに
北杜市の八ヶ岳南山麓の、
森の中のオフィスの新築費用は、150億円だったと聞いております。
清水建設が建てました。

国際本部移住後の
雅宣総裁の生長の家の運動方針は、

@SNIオーガニック菜園部  
ASNI自転車部  
BSNIクラフト倶楽部

プラス
ノーミートの実践と、
石上げの行です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「半分」「やれ!」 (60537)
日時:2023年08月25日 (金) 20時45分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

以前どこかで話させていただいた事がありますが、
5千万円負債の事について、時間経過を経ながら、
述べさせていただきます。
何故時間経過の説明が必要かと言いますと、例えば
この負債の発生した職場は、7回目(最後の会社務め)
の職場ですが、この職場への入社手順は通常と逆です。
普通その会社に入社する時は、その会社へ行って、
履歴書を出して、受験なり面接なりして、相手の会社側が納得すると、採用となりますが、この7回目の会社は
私がその会社へ行って、その会社の社長と面談し、会社の
体制を見せていただき、自分の思い(仕事)がこの会社に
託せるかどうかを判断し、自分の責任において、
決定して、それでは宜しくお願いします。
という処から出発しております。
ですから、5千万円の件は、自分に全責任があります。
なぜ逆なのか。また今この年齢で、会社組織から離れていて、
一人で何の営業もしないで、国関係等の重要な仕事をやらせて
いただいているのかも、時間経過とともに説明させていただか
ないと解らない事です。それらを少しずつ、あちこち寄り道を
しながら、述べさせていただきます。
もとより無学で、練成会に一度も出た事もなく、聖典もほんの
少し斜め読みしただけの私の、体験など大した事はないのですが、
その代わりに、該当するようなみ教えの箇所を述べさせて
いただいて、その雰囲気の一端を読み解いていただければ、
嬉しく思います。

《 【神を賛美し神に感謝し奉(たてま)る祈り】
神は無限智であり、遍在(へんざい)し給(たま)い、
時間・空間の制約の外に立ち給う。それゆえ神に
とっては現象界を超越しながら、何時(いつ)如何(いか)
なる処(ところ)へんも自由自在にあらわれ給い、わが
願うところの一切の希望を成就(じょうじゅ)すること
が出来るように、われわれ人間を内部から導き給うのである。
われ神に感謝し奉る。神が無限智(ち)であらせられると
言うことは、無限の美しき善きアイディアを内に包蔵
(ほうぞう)し給うということを意味するのである。
わたし達は神に“心の波”を合わすことによって、神の
世界にあるすべての美しき善きアイディアを受信できる
ことが出来るのである。われ神に感謝し奉る。》
(『聖経 続真理の吟唱』31頁より)

■ 体験

今から22年前の55歳の時の事である。
当時数十人のある町工場に18年間務め、取締役技術部長
をしていた時。
(先代の創業者が急死し、社葬で私が弔辞を述べさせて
もらった。二年後に三代目として先代の次男が社長に
なっていた時の事)
些細(ささい)なことで大変叱責(しっせき)され
「あなたの今迄の事は一切評価しない」と言われた。
18年の、生活を犠牲にしてまで仕事に打ち込んできた行為が
音を立てて崩(くず)れる思いがした。
すぐに辞意(じい)を伝えると、今度は懲戒免職にするという。
周りの皆の取りなしでそれは無くなったが、3ヶ月間再雇用
契約を結び、嘱託として過ごした。
職を探したが、不景気で募集している会社とてなく、もう
技術屋をやめようかとも思った。
数か月後、5倍程規模の大きい会社に何とか入れた。
通勤に片道2時間程かかった。

規模も大きいし、自分一人位目立たずにひっそりと仕事を
しようと思った。数か月後与えられた仕事は、前任者が
2人で3ヶ月かかっても解決出来なかった制御装置であった。
しかも現場は「耶馬渓(やばけい)」に近く、また
今盛り上がっている「慶応義塾」の創始者「福沢諭吉」翁
の生家の近くでもある、終末処理場(下水処理)であった。

全く余談であるが、今回優勝された「慶応義塾高校」の
勝因の一つに、リスクマネジメントがあったと思う。
10分間のクーリングタイムを1分刻みで管理し、対策して
いたという。素晴らしい管理能力であると思った。

制御装置のメインはロータリープレス(回転式脱水機)で
次世代型と言われ、理論は正しいが、その制御はまだ誰れも
成功したことがないというカナダ製のものであった。
それが4連繋がっている人の倍位の大きさのものであった。
失敗すれば、出入り禁止の状態であったらしい。
設計と製作に3ヶ月程かかった後、現地に納入した。一人で
現地調整、納入立会いに向かうおり、現地の空港から
バスで現地の近くの大きな駅に向かう間、(およそ2時間程)
出来るだけの親切心を起こして、乗客の荷物の積み降ろし
などひたすら手伝った。そして、空いた時間はただ
制御の事のみを考えていた。
現地で最初に電源を入れたら、パソコンの電源が入らず、
他社の人から借りて、電源を入れたら、今度はマウスが
固まって作動せず、これも他者から借りて何とか調整準備
が出来た。すると驚いた事に、まだ調整もなにも出来て
いないのに、処理場の市(し)役所の職員が十数人集まって
きて、立会いだと言う。
制御装置に電源を入れて、全自動でスタートさせたが、
全くうまく作動しなかった。
あれほど、入念な準備をし、かなりの自信があったのであるが。
私は制御装置の物陰に隠れて、どうするか考えようとした。
心(頭)は真空状態であった。何も考えが浮かばなかった。
祈りもしなかった。(心の底で祈っていたかもしれないが)

すると声がした。
「半分」 あの方の声(叡智者)だとすぐわかった。
懐かしい声だった。しかし、
驚いた。「半分ですか?」と心で問いなおした。
「やれ!」という声がまたした。
私は「はい、わかりました」と言って、早速行動した。
この制御装置はPID(比例、積分、微分制御)をしていて、
百分の一気圧の精度で、ロータリープレスに汚泥(おでい)
(下水)を圧入させる為、回転させその時発生する圧力で
下水を脱水してケーキ状に制御しようとするものであった。
それを制御する為に7つの調節器のデータの打ちこみに
5日程要したが、そのデータの値から、PIDの数値のみ
現状の半分にせよとの事なのである。
データは調節器メーカーの専門技術者とかなり時間をかけて、
理論的には納得していたが、それを半分の数値にする事は、
人間知恵ではかなりの勇気が必要であったが、「やれ!」
という。言外に何を躊躇(ちゅうちょ)している、という
響きがあった。
2時間ほどかけてデータを打ち換え、再起動したら、
理論通りの綺麗(きれい)な正弦波(せいげんは)
(サイン波)を描いて、完全な制御が出来た。
立会いは一瞬で終了し、現場に安堵感(あんどかん)が漂った。

この事は直(す)ぐ装置発注元から私の勤めている会社に
伝えられたようである。

―つづく―

《 【高級神靈の導きを受ける祈り】
われは常に欲するところのものがおのずから来たり欲せざる
ところのものが自(おのず)から去るのである。
それは恰(あたか)も如意宝珠(にょいほうじゅ)を掌中
(しょうちゅう)にせるが如(ごと)しである。
われ神に感謝し奉る。
人間の運命は「ふと思いつくことを行動する」ことによって、
おのずから結果が展開して行くのである。ある人は、良き
アイディアを「ふと思いつく」ことによって、それを
行動に移して大成功したが、ある人は「ふと思いつく」
ことを実行したために大火災を起こして大変な損失を蒙
(こうむ)ったのである。・・・
ふと思いつかせる神秘者(しんぴしゃ)は、人間の脳髄
(のうずい)の中には居(い)ないのである。
それは靈界から何らかの靈がわれわれに靈波(れいは)を
送って来てふと思いつかせるのである。》
(『聖経 続真理の吟唱』193〜195頁より)

・現場である耶馬渓(やばけい)について

《 「認め」の倫理(りんり)的価値は、遥(はる)かに
さかのぼれば『法華経(ほけきょう)』の「常不軽菩薩品
(じょうふぎょうぼさつほん)」において、常不軽菩薩が
万人(ばんにん)を成仏(じょうぶつ)すべきものとして
礼拝(らいはい)したのに始まる。
認めて初めて存在に入るのである。この時からして万人は
成仏すべく定められたのである。大通智勝如来
(だいつうちしょうにょらい)が十劫(じっこう)の間を
道場に坐してもなお成仏しなかったのは、本来「仏」で
ありながら「認め」が存在しなかったからである。
近代文学において認めの価値を力説したのはオスカー・
ワイルドであって「ロンドンの霧は詩人がこれを歌うまでは
存在に入らなかった」といった。
また頼囊(らいのぼる)が
「耶馬渓(やばけい)をもって海内(かいだい)第一とするは
頼山陽(らいさんよう)より始まる」と豪語(ごうご)した
のも、「認め」の価値を力説したのである。》
(『生命の實相』頭注版 第13巻 187.188頁)

ありがとうございます。













はうらひとひら様 (60549)
日時:2023年08月26日 (土) 15時08分
名前:志恩

はうらひとひら様の体験談は、
普通の体験談と違いまして、
生長の家の真理を学び直すことのできる
とても内容の濃い素晴らしい体験談だと
思いながら、いつも楽しみに読ませていただいて
おります。

はうらひとひら様が携わってこられたお仕事は、
技術関係のお仕事で、私は難しいことはわからない
のですが、
「制御装置」の 設計と製作をされていたという、
大手の会社で数人かかってもできなかったことを、
はうら様おひとりで完成してしまったりとか、
奇跡のようなお方ですが、
元々の頭は理系の人間でいらっしゃるのでしょうけれど、
はうら様作の2冊の小説を拝見しますと
音楽や文学や宗教などにも含蓄が深くていらして、
文章を書かれる脳力にも大変長けていらして、いったい、どういう
人間でいらっしゃるのだろうかと思えるような謎めいた人物です。

はうら様、
つづきを楽しみにしております。
よろしくお願いいたします。
ーーーーーーーーーーーーーーー
志恩、追加:ー

はうらひとひら様著は
『葉裏のそよぎ』と
『ひとひらの夜明け』
がございますが、

どちらも約300ページもある大作です。
読まれた方々から、この小説を読むと
『生命の實相』に書かれていることが、
より深く理解できたという声が多くある
とのことです。
ーーーーーーーーーーーーーーー
はうらひとひら様著「葉裏のそよぎ」
著者名は、実名に近いペンネームなので
伏せました。

『心の壁』 (60615)
日時:2023年08月29日 (火) 20時18分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

今回は最後のほうで、私なりの「心の壁」について
述べさせていただきます。(勝手な解釋です。)

《 [七月十五日の法語 神は遍満(へんまん)し給う]

神の生命は海の水が海にみつるように満ちており、
吾々の自分でつくった心の城壁(じょうへき)が
くずれるとき、滾々(こんこん)と流れ入るのである。
謙遜(けんそん)になれ、幼な児(おさなご)の心になれ、
我(が)を捨てよと云うのも、心の城壁を取去って、
神の愛と生命(いのち)とを流れ入らしめんがためである。
「タオルを手拭(てぬぐい)かけに掛けるように、私は
私の生命を神様にすっかりもたれかけさせました」
と云う心境になって胃癌(いがん)の治った体験談を
した人があった。タオルは自分で空中に引っかかろうとは
しない。全托(ぜんたく)である。》
(『新版 光明法語【道の巻】 189頁)

因(ちな)みに上記の聖典のはしがきで、尊師が東京から
長崎に引っ越された事について、下記のようにご教示されて
います。

《 併(しか)し私が長崎に移転したのは決して運動の
第一線から退くためではなかった。第一線より更(さら)に
奥深く現象界の前線よりも一層深く現象以前の世界と交通
するためであった。私は此(こ)の長崎の地に移転してから
「竜宮住吉本宮」を建立した。・・・
本書と偕(とも)に、続刊の書も繰返し日々精読(せいどく)
いただければ、生長の家の指導の神・竜宮住吉大神の
歓喜(かんき)の御守護(ごしゅご)を読者は授かること
になり、光明一元の幸福生活を如実(にょじつ)に現象界
に実現し得られることとなると思う。》
(同書はしがき 2.8頁)

■ 体験(前回の続き)

立会い検査は無事終ったが、その後いろいろの問題が出て、
解決する為に、6度耶馬渓(やばけい)の近くの現地を訪れ、
3ヶ月かかった。
その後、1年半で、北海道から九州まで6カ所その装置の
仕事が続き、年の半分は出張であった。
北海道に装置のソフト変更で日帰り出張した事もあった。
出張用作業道具やパソコンは現場の匂いが染みついて、
トイレの臭いがしていた。
そんな或る日、ある制御機器メーカーの課長から電話があった。

「知ってます」
「いや、知りません」
「あなたの前の会社が倒産しましたよ」
「えっ!」
突然の事で、理解するのに暫く要した。
しかし、それからすぐ決断した。
[ その倒産した前の会社の仕事は全て私が引き継ぐ]と。
直ぐに、職場の専務に事情を話し、すぐに内諾を得た。
石橋を叩いても渡らないS社長の説得は、専務にまかせた。
それは、最終の顧客(こきゃく)またその顧客からの受注先
であるメーカー(前の会社にとっては発注先)そして
前職場の従業員すべてに迷惑をかけないですむ方法は、
それしかないと思ったからである。
発注先を回り、前会社の従業員の希望者を取り纏め、
1ヶ月後には、前会社の従業員十数人を入社してもらい、発注先
の指定工場認定の書類を整え(A4ファイルで厚さ30mm)
認定検査の審査を受けたのは、社長が承諾して1週間後だった。
指定工場の認定がなされ、なんとか国関係の仕事に支障が
出なかった。下水処理場の仕事はなくなったが、仕事は
多忙を極めた。しかし出張がなくなったので、通勤時間は
榎本恵吾著『弟子像』を電車の中で読んだ。
凄い先達がいるものだと、ただただ感心していた。
日本最大の建築壁資材メーカーの新工場にサーボ制御を
取り入れ、成功して今度はこちらの工場への全国展開を
行った。私は設計と取り纏めが主であったが、たまには
出張もしていた。


そのような日々のある日、知人のKさんから連絡があった。
この人は大の宗教嫌いであった。
「あのさ、宗教で病気が治るの?」
そう来たかと思った。
「病気位治るでしょう。どうしました。」と私。
「実は、糖尿病で失明寸前なんだってさ。余命二年とか
言われたよ」
「わかりました。祈らせていただきます。」
2日後にKさんから又連絡があった。
「あのさ、俺の弟子でMというのがいるんだけれども、
咽喉癌(いんこうがん)で手術するらしい。余命何ヶ月
とか言っていた。俺のいのちなんかはどうでもいいから、
喉(のど)を切って声が出なくなるのは仕方がないが、
いのちだけはなんとか助けられないか・・・」
私はその時思った。
ああ、この二人は癒されると。
「わかりました。じゃあこうしましょう。貴方はMさん
を祈って下さい。私はあなたを祈りますから」
実はその頃会社のS社長が見えなくて、よく聞いたら
膀胱癌(ぼうこうがん)だという。
3名の実相を祈らせてもらう事になった。
(その頃はまだ、原宿本部に神癒祈願を出してはいたが)
祈りながらふと、3名も、と思った時である。
「お前がやるんじゃない!」
一喝(いっかつ)された。ひたすら自分の非をお詫びした。
3週間後、Kさんから、Mさんが完治したと、カラー写真
付きで、手術なしで治った報告があった。
KさんもS社長も完治した。
S社長には、先祖供養をし、両親に感謝するように伝え
ようと思ったが、多忙に紛れて、また上司でもあるので、
言いそびれてしまった。

数年後、私が出張中にS社長が突然入院し、そのまま
帰らない人となった。
後継者がいなくて、黒字倒産した。
百数十名の従業員が一瞬で職を失った。
しまった、あの時先祖、両親の感謝を、と何故言わなかった
かと悔やんだが、おそかった。42歳の短い生涯であった。

―つづく―


☆ 真理

【神が為し給う】
《 メタフィジカル・ヒーリング(神癒)に於いては、
ヒーリングの祈りを行う人は、癒(いや)されるべき人を、
患者として観(み)ないで、彼を、神の心の中にある
「完全人間」の理念の顕現(けんげん)と観るので
ある。神想観中に彼は自分の心の中に相手の何処(どこ)
にもどんな病気も欠陥(けっかん)もない「完全人間」
の理想を描き、それを「信じ」且(か)つ「観(み)る」
のである。そして自己が心に描くとおりに、(神が「法則」
の形に於いて)その無限絶大の創価力によって、それを
現象界に具現化(ぐげんか)するのを信ずるのである。
自分の念力(ねんりょく)が相手を治療するのであると
考えて、圧倒的な思念力を送り出そうなどと力む心を
もってはならないのである。唯(ただ)「信じ」「観る」
のである。み業(わざ)は神が為したまうのである。》
(『改装版『神癒への道』 106頁)
(『詳説 神想観』 217頁)

△ 思う事

最近読んだ本で感動した本がある。
『日立の壁』(東原敏昭著・東洋経済新報社刊)
実は上記に出てきたKさんは、その日立製作所の出身であり、
私もその出身で、Kさんは部署が異なるが、同じ工場の
先輩にあたる、文学部クラブの仲間でもあった。
どこかで書いたが、ルネサスエレクトロニクスの出身母体の
一社である。そこで、しっかりやれと、不遜(ふそん)にも
書いた。
日立製作所は1910年創業の110年企業だが、2008年に8千億近く
の損失を出し、経営危機に陥っていた。
原因は、「事なかれ主義」「失点の少ない人が出世する
官僚主義」「自分の処が赤字を出しても他が頑張ればという
甘えの構造」があったという。そこでこの東原社長がたった
一人たちあがり、高い壁をぶち壊(こわ)し、6年間で、
世界有数の会社に代えたという。
しかも出身はローカルの大学・本流でない事業所を経てである。
その思いはただ一つ、『ひとりの思いにこたえる』だ。
さまざまな社会課題を解決する為として、社員37万人が
子会社も含めて、一糸乱れず行動している。

こんな事があった。日立が世界経済フォーラム(WEF)
から日本初のライトハウス(燈台)に選出されたのを記念
に、ネットで技術フォ-ラムが発表された。私の仕事とも
関連があるので、出席してみた。
3日後、日立から女性技術者から電話があり、フォーラム
出席のお礼とともに、何か困った事があったら、一緒に
考えさせていただきます、との提案である。
個人に対してである。この会社は本気だと思った。
世界中を見渡しても類を見ない、IT(情報技術)と
OT(作業制御技術)を融合したAI(人工知能)を
駆使して、継ぎ目のない「一人の思いに応える」という。
そしてこの分野で世界一を目指すと。どんなに収益が上がって
いる子会社でも、方向性が違う分野であれば、売却する。
同じ方向性で、自社に不足のものがあれば、1兆円出しても、
買収し、独自の子会社として、そのノウハウを吸収する。
売り上げ10兆円の会社がである。
しかも自分自身独走しないよう、社外取締役を増やした。

そこにはこんな思いがあるという。
「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない
一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、うまれて
きたかいがないじゃないか」
(『路傍の石』山本有三)
「相手の立場にたって考え行動しよう。共感力を持ち、
利他の心で仕事をすることで、私は学び、成長すること
ができたのだと思います。」と著者は結んでいる。
私に問いかけているような文面であった。

時あたかも『340年前のふるまいを謝罪する』として、
頭を下げて西本願寺と東本願寺は和解した。

人間はやれば出来るのである。
壁は心の中にだけあったのである。


ありがとうございます。





















はうらひとひら様 (60632)
日時:2023年08月30日 (水) 09時01分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)

『心の壁』 (←志恩:注:今回の、はうら様のテーマ)

■ (はうら様の)体験(前回の続き)

立会い検査は無事終ったが、その後いろいろの問題が出て、
解決する為に、6度耶馬渓(やばけい)の近くの現地を訪れ、
3ヶ月かかった。
その後、1年半で、北海道から九州まで6カ所その装置の
仕事が続き、年の半分は出張であった。
北海道に装置のソフト変更で日帰り出張した事もあった。
出張用作業道具やパソコンは現場の匂いが染みついて、
トイレの臭いがしていた。
そんな或る日、ある制御機器メーカーの課長から電話があった。

「知ってます」
「いや、知りません」
「あなたの前の会社が倒産しましたよ」
「えっ!」
突然の事で、理解するのに暫く要した。
しかし、それからすぐ決断した。
[ その倒産した前の会社の仕事は全て私が引き継ぐ]と。
直ぐに、職場の専務に事情を話し、すぐに内諾を得た。
石橋を叩いても渡らないS社長の説得は、専務にまかせた。
それは、最終の顧客(こきゃく)またその顧客からの受注先
であるメーカー(前の会社にとっては発注先)そして
前職場の従業員すべてに迷惑をかけないですむ方法は、
それしかないと思ったからである。
発注先を回り、前会社の従業員の希望者を取り纏め、
1ヶ月後には、前会社の従業員十数人を入社してもらい、発注先
の指定工場認定の書類を整え(A4ファイルで厚さ30mm)
認定検査の審査を受けたのは、社長が承諾して1週間後だった。
指定工場の認定がなされ、なんとか国関係の仕事に支障が
出なかった。下水処理場の仕事はなくなったが、仕事は
多忙を極めた。しかし出張がなくなったので、通勤時間は
榎本恵吾著『弟子像』を電車の中で読んだ。
凄い先達がいるものだと、ただただ感心していた。
日本最大の建築壁資材メーカーの新工場にサーボ制御を
取り入れ、成功して今度はこちらの工場への全国展開を
行った。私は設計と取り纏めが主であったが、たまには
出張もしていた。


そのような日々のある日、知人のKさんから連絡があった。
この人は大の宗教嫌いであった。
「あのさ、宗教で病気が治るの?」
そう来たかと思った。
「病気位治るでしょう。どうしました。」と私。
「実は、糖尿病で失明寸前なんだってさ。余命二年とか
言われたよ」
「わかりました。祈らせていただきます。」
2日後にKさんから又連絡があった。
「あのさ、俺の弟子でMというのがいるんだけれども、
咽喉癌(いんこうがん)で手術するらしい。余命何ヶ月
とか言っていた。俺のいのちなんかはどうでもいいから、
喉(のど)を切って声が出なくなるのは仕方がないが、
いのちだけはなんとか助けられないか・・・」
私はその時思った。
ああ、この二人は癒されると。
「わかりました。じゃあこうしましょう。貴方はMさん
を祈って下さい。私はあなたを祈りますから」
実はその頃会社のS社長が見えなくて、よく聞いたら
膀胱癌(ぼうこうがん)だという。
3名の実相を祈らせてもらう事になった。
(その頃はまだ、原宿本部に神癒祈願を出してはいたが)
祈りながらふと、3名も、と思った時である。
「お前がやるんじゃない!」
一喝(いっかつ)された。ひたすら自分の非をお詫びした。
3週間後、Kさんから、Mさんが完治したと、カラー写真
付きで、手術なしで治った報告があった。
KさんもS社長も完治した。
S社長には、先祖供養をし、両親に感謝するように伝え
ようと思ったが、多忙に紛れて、また上司でもあるので、
言いそびれてしまった。

数年後、私が出張中にS社長が突然入院し、そのまま
帰らない人となった。
後継者がいなくて、黒字倒産した。
百数十名の従業員が一瞬で職を失った。
しまった、あの時先祖、両親の感謝を、と何故言わなかった
かと悔やんだが、おそかった。42歳の短い生涯であった。

―つづく―
ーーーーーーーーーーーーーーー


△ 思う事

最近読んだ本で感動した本がある。
『日立の壁』(東原敏昭著・東洋経済新報社刊)
実は上記に出てきたKさんは、その日立製作所の出身であり、
私もその出身で、Kさんは部署が異なるが、同じ工場の
先輩にあたる、文学部クラブの仲間でもあった。
どこかで書いたが、ルネサスエレクトロニクスの出身母体の
一社である。そこで、しっかりやれと、不遜(ふそん)にも
書いた。
日立製作所は1910年創業の110年企業だが、2008年に8千億近く
の損失を出し、経営危機に陥っていた。
原因は、「事なかれ主義」「失点の少ない人が出世する
官僚主義」「自分の処が赤字を出しても他が頑張ればという
甘えの構造」があったという。そこでこの東原社長がたった
一人たちあがり、高い壁をぶち壊(こわ)し、6年間で、
世界有数の会社に代えたという。
しかも出身はローカルの大学・本流でない事業所を経てである。
その思いはただ一つ、『ひとりの思いにこたえる』だ。
さまざまな社会課題を解決する為として、社員37万人が
子会社も含めて、一糸乱れず行動している。

こんな事があった。日立が世界経済フォーラム(WEF)
から日本初のライトハウス(燈台)に選出されたのを記念
に、ネットで技術フォ-ラムが発表された。私の仕事とも
関連があるので、出席してみた。
3日後、日立から女性技術者から電話があり、フォーラム
出席のお礼とともに、何か困った事があったら、一緒に
考えさせていただきます、との提案である。
個人に対してである。この会社は本気だと思った。
世界中を見渡しても類を見ない、IT(情報技術)と
OT(作業制御技術)を融合したAI(人工知能)を
駆使して、継ぎ目のない「一人の思いに応える」という。
そしてこの分野で世界一を目指すと。どんなに収益が上がって
いる子会社でも、方向性が違う分野であれば、売却する。
同じ方向性で、自社に不足のものがあれば、1兆円出しても、
買収し、独自の子会社として、そのノウハウを吸収する。
売り上げ10兆円の会社がである。
しかも自分自身独走しないよう、社外取締役を増やした。

そこにはこんな思いがあるという。
「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない
一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、うまれて
きたかいがないじゃないか」
(『路傍の石』山本有三)
「相手の立場にたって考え行動しよう。共感力を持ち、
利他の心で仕事をすることで、私は学び、成長すること
ができたのだと思います。」と著者は結んでいる。
私に問いかけているような文面であった。

時あたかも『340年前のふるまいを謝罪する』として、
頭を下げて西本願寺と東本願寺は和解した。

人間はやれば出来るのである。
壁は心の中にだけあったのである。
ーーーーーーーーーーーーーーー
志恩ー
はうら様は、谷口雅春先生が、長崎のあの地に
なぜ、総本山を建立されたか、その他の、大切なことも
雅春先生の著書から謹写されておられますが、

はうら様の体験談とそして、最近、読まれて感動した本で
あるといわれる
『日立の壁』(東原敏昭著・東洋経済新報社刊)から
引用された文章にも、「心の壁」を打ち破るヒントが
隠されていると思いました。

はうら様は、本当でしたら、死んでもおかしくなかった
重度の腎臓癌の癌が、自ら腐って出てきたという奇跡的な
神癒の体験を、谷口雅春先生の教えで、体験された
お方ですので、神の存在を、実感として、持っておられる
貴重なお方で、いらっしゃいます。

そして、ご自分の長編小説を、2冊も
出版されたほどの、抜群の文章力にも長けたお方ですので
大変説得力を持ったご文章も表現できるお方です。

最近、トキ掲示板に、時々、出てくださって、このようにコメントくださる
ことは、大変嬉しいことだと、心から感謝している次第です。

はうら様のコメントには、生長の家教団のみならず、
学ぶ会、社会事業団の、今後の復活の鍵が
隠されていると思います。

はうらひとひら様の
続きのご投稿を、楽しみに、お待ちしている一人です。
ありがとうございます。


光は闇を破壊する。 (60722)
日時:2023年09月01日 (金) 21時25分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

聖経『甘露の法雨』の中に、「光」「ひかり」という言葉が
32箇所出てきます。32は31の素数(1とその数自身以外に
約数をもたない絶対の数)と33の観世音菩薩
(かんぜおんぼさつ)の慈悲の霊的波動の間にあって、
闇を消す役目をしています。闇はあるように見えても光に
あえば瞬時に消える非存在です。一回『甘露の法雨』を
読誦(どくじゅ)すれば32個の光を発して、人類意識の
三暗黒(罪・病・死)を消します。
是非『甘露の法雨』の光を多く点灯させて、悪しき人類意識
を消滅させましょう。

《 「愛する」とは、相手の肉体の姿や、服装の外見が
どうあろうとも、たとえば相手が癩患者(らいかんじゃ)
で肉体が崩れていようとも、彼の靈なる実相は“神の子"
であり完全円満であり、如来であり、三十二の瑞相(ずいそう)
をことごとく備(そな)え給える仏陀(ぶっだ)であることを
見ることである。》
(『神 真理を告げ給う』 74頁)

《 生長の家の「光明一元の世界観」が多くの人々に理解
され難(がた)いのは、多くの人が「現象宇宙」と「実在
宇宙」とを混淆(こんこう)し、「現象人間」と「実在人間」
とを混同し、釈迦が「久遠常在(じょうざい)の霊鷲山
(りょうじゅせん)(実在界)を説(と)いているのに
衆生(しゅじょう)は「久遠常在の霊鷲山」を見ることを
えずして、焼け尽きて憂怖諸(うふもろもろ)の苦悩(くのう)
ことごとく充満せる現象世界」を見、この世界を
「苦悩ことごとく充満せり」と見ているのです。・・・
しかも「物質なし。肉体なし」と否定しきったとき、その
否定の妙用(みょうよう)として自然に現世利益
(げんぜりやく)の整(ととの)うのは、あなたが
「神旨(みむね)ならばと委(まか)せきったとき」
自然に病癒(い)え、金光(こんこう)教祖が
「ままよと委せきったとき」現世利益が整うと言われた
のと同様、現象世界に引っかからなくなると同時に
実在世界の「妙有(みょうう)の自然発現(はつげん)
があり、実在世界は妙(たえ)なる妙々(みょうみょう)
の完全円満祥福(しょうふく)の世界であるゆえ、それが
発展してくるのであります。・・・
実在世界の完全円満なる風光(ふうこう)(光)が
顕現(けんげん)すれば相対世界(現象世界)の不完全
なる風光がその「妙有」に同化せられて、妙有の完全に
類似(るいじ)せる状態を現象するという結果になるのです。
病気が治(なお)るという理由もそこにあるのです。》
(『生命の實相』頭注版 第39巻 73.74頁)

■ 体験

前回の続きです。
S社長の処には、9年お世話になった。
然し全くそのようには感じず、2.3年のような気がした。
正月は元旦から出勤して、休みはほとんど取らなかった
のにである。それだけ充実し、緊張した日々だったのだろう。
それが目前から突然消えたのである。
齢(よわい)64。もういいだろうと思った。
取引先に迷惑をかけた事を謝り、もうこれで一線を退き
たいと告げた。お疲れさんと言われると思った。
取引先の部長が怒りだした。
「何を言ってるんですか。これからダムの仕事がどんどん
出てくる。これを誰が出来るというんですか。あなたしか
いないでしょう。それは困る。だめだ。」
凄い剣幕(けんまく)である。あの穏やかな部長が初めて
見せた姿に圧倒された。
「ああ、はい」
とは言いながら、世の中は不景気で、テレビは連日雇用を
守るために、助成金を出すとか報道しているし、と思った時
「テレビはテレビだ!」という声がした。
あの「半分」「やれ!」と指示された、叡智者の声だった。
半分怒っていた。
言外(げんがい)に「現象は無い」「掴(つか)むな」と
教えているのに、お前は解っていないのかと言いたいようで
あった。そうだった。申し訳ないと思った。

帰宅後すぐにパソコンで検索して、数百社の中から九社を
選び出した。
もう一社気になる所があったが、どうも適合しないなと
思いながら、何度か検討して、取敢えず追加した。
そしてその十社に対して営業部長あてに提案書を送った。
『私(はうら)はある情報制御装置の仕事をしていて、
事情があって、その製作の会社を探しています。
場所と製作の人員を用意いただきたくお願いいたします。
営業、設計、取り纏めは私が行います。この仕事は数年
続きます。ご検討いただきたく、突然ですが、ご連絡させて
いただきました。』
通信文送付後、1時間後にあの一番適合していないという
M会社のM社長から、電話があった。
「是非当社を検討してみてください。・・・」
レスポンスのよさと、熱意を感じ次の日に来訪を約束した。
翌日までに、9社から返事があった。
M社のM社長は30代で3代目。会社のスペースは充分あったが、
現状の仕事が、数十人ほとんどが、客先からの図面支給、
部品支給の工数賃だけの仕事が主であったが、その社長の熱意
と行動力をかって、この会社に世話になる事に決めた。
だから、資金繰り以外はすべて一人で行った。
ISOは取得していたが、全く役立たないので、また指定
工場の認定を受ける為書類を作成し(A4ファイル35mm)
1ヶ月後無事認定を受けて巨大なダムの制御監視装置を作成
しだした。
営業・見積り・承認図設計・製作図設計・資材手配・納期管理・
製作指導・検査指導・立会い検査対応・発送手続はすべて一人
で行った。
社内立会い終了後、発注先から15名ほどのソフト屋さんが
来て、1ヶ月程模擬試験を徹底的に行い、その後現地に向け
出荷となる。その為にも工場のスペースが必要であった。
M社までは、4回乗り換えその後バスで片道2時間程要した。
その間ひたすら『甘露の法雨』を読誦していた。
仕事が間に合わない時は、電車で見積りもしたが。
1年後位に、電車の中で、読誦していて『人間』の
項を読みだしたら、いきなり、ロウソクのような炎が出て
きた。慌てて周りをみたが、見えるのは自分だけのようで、
その炎は読誦し終わっても続き、聖経を閉じてやっと消えた。
気がついたら、3年間で1万巻を読誦していた。
それから、雪崩(なだれ)を起こすように、奇蹟的な事が
次々とおこった。

そのような時、誌友会出講先で Tさんと出会った。
彼は青年会を退会のち、相愛会に移行する時、生長の家を
辞めようとしていたという。誌友会会場主に誘われ、世話
になったので1回だけ出席してしまいにしようとしていた。
私はその時下記に示す『就寝直前の神想観』と『久遠の今』
について話した。私の話が終わってTさんは開口一番
「いやあ、相愛会は違う。こんな話が聞けるとは」
と言って驚いたようだった。青年会誌友会では「今の教え」
や環境の話ばかりで、もう生長の家はいやだと思っていた
という。
帰り道が同じだったので、いろいろ話をしながら、何か
あったらと言って、私の名刺を渡して別れた。
暫くたった2月11日朝3時15分 Tさんからメールがあった。
『個人指導』をしてほしいとの事であった。
私は朝メールを開けて、予定があるので2月14日午後に決めた。
少し気になったので、Tさんのご家族の霊牌(れいはい)を
書き、『甘露の法雨』を読誦させてもらった。
14日お合いした時およそ次の話があった。

2月10日夜半 Tさんのご母堂が2回大量に血を吐いた。
(薬の副作用で肺炎になっていたらしい)
2月11日 朝3時15分頃、私(はうら)にメールを入れて
個人指導を申し込む。
救急車を呼ぼうとしたが、休日でもあるし、少し落ち着いて
きたので、安静にしていた。
2月12日Tさんのご母堂が、大きな病院へ行ってCT検査を
したら、肺炎が完治していたという。
今後は定期検査のみでよいとの事であった。
個人相談の内容が解決したので、Tさんは自身がまだ独身で
母を安心させる為にも、伴侶(はんりょ)を得たいとの
事であった。(その件は未だに解決していない)
1年程して、またTさんから連絡があり、指導して欲しいという。
内容とそれに対して本人がどう思うかを尋ねた。
やはり、母の病の事で『病は無いという事は知っているが
・・・」私はその相談を断った。
真理を頭で知っているだけでは、何の役にも立たない。

かなり恨(うら)まれたようである。

《 これを「生長の家」では「愛深き冷淡療法」と
言っている。》
「『生命の實相』頭注版 第17巻 8頁)

Tさんは私より信仰のキャリアは長いし、いろいろな事を
知っているし、何とかして真理の次には実証を体得して
ほしかった。正しい誌友会をする必要性を痛感していた。


《 【就寝直前の神想観】

あなたが一日の仕事を終わって、眠りに入ろうとする直前、
時間が許さなかったら極(ごく)短時間でもよいから
神想観をして、先ず神に感謝を述べ、一日じゅう仕事の
事に熱中して、いろいろの外界の問題を心に掴(つか)んで
いたその心の“掴み”を放して、その問題を神に委(ゆだ)ねて、
心の重荷を軽くしてから眠りに入るのがよいのである。
次の如くに神想観中に念ぜよ。
「今日いちにち中、神の愛によって護(まも)られ、神の智慧
によって導かれ、健康と繁栄との道を歩ませて頂きました
事を感謝いたします。私が今日の生活中、腹立ち人を
憤(いきどお)り憎みました事が少しでもありましたら、
その心の汚れを潔(きよ)めたまえ。今、わたしは全ての
人々を完全に赦(ゆる)しました。その如く神よ、私の
過(あやま)ちを赦したまえ。わが生命をすべての仕事を
神さまあなたに委(ゆだ)ねて眠りに入らせて頂きます。
私の眠っています間にわが魂に平和を、わが肉体に健康を、
わが精神に自信と断行の勇気とを、わが事業に繁栄の智慧
を与え給え、すべてを神様あなたにお委(まか)せいたします。
ありがとうございます。」
このように念じて、神が凡(すべ)てを良くしたまうことを
信じ、本当に一切の思い煩(わずら)いから脱却して、
心の重荷を解除してから安らかな眠りに入るのである。》
(『神と偕(とも)に生きる真理 365章 321.322頁)

―つづく―


△ 思う事

Tさんはその後、私の出講先に必ず同行されて、真理を
学ばれる機会をつくられた。
勉強熱心な方である。


ありがとうございます。





















はうらひとひら様 (60734)
日時:2023年09月02日 (土) 09時01分
名前:志恩

はうらひとひら様は、ほんとうは、岡先生の
ご逝去のことをお知らせにトキ掲示板へ出ていらしてくださって、
あとは、ご投稿されないおつもりだったそうですが、

こんなに深く真理を体得され、体得されただけでなく
日常生活に、それをしっかりと実践されておられ、奇跡の
ような数々の良い体験もだされていらして、それを、私たちに
具体的にわかりやすく書いてくださるので、大変学びが多く
私は、大昔に原宿本部にたったの8年間、いたという
だけの信徒ですが、いつも、はうらひとひら様のご投稿文を
読ませていただくたびに、新たな、いい発見がございます。
はうら様、ありがとうございます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【光は闇を破壊する。】(はうら様の今回のテーマ)

(はうら ひとひら様ー)
>聖経『甘露の法雨』の中に、「光」「ひかり」という言葉が
32箇所出てきます。32は31の素数(1とその数自身以外に
約数をもたない絶対の数)と33の観世音菩薩
(かんぜおんぼさつ)の慈悲の霊的波動の間にあって、
闇を消す役目をしています。闇はあるように見えても光に
あえば瞬時に消える非存在です。一回『甘露の法雨』を
読誦(どくじゅ)すれば32個の光を発して、人類意識の
三暗黒(罪・病・死)を消します。
是非『甘露の法雨』の光を多く点灯させて、悪しき人類意識
を消滅させましょう。<

志恩ー
私は、『甘露の法雨』の中に、「光」「ひかり」という言葉が
いくつ出てくるか、など、考えたことはなく、ただ、ひたすら読誦
しておりました。「甘露の法雨」には、光という言葉が、32も
出てくるとは。
聖なる光の波動が、聖経に充ち充ちて、いるのですね。
ですから、これを熱心に読誦することにより
三暗黒(罪・病・死)が、自ずから消えるのですね。
最初の、ここだけ読んだだけでも、私は大変得るところがございました。

《 「愛する」とは、.....

《 生長の家の「光明一元の世界観」が多くの人々に理解
され難(がた)いのは.....

そして、この度の、はうらひとひら様の体験談も、
普通では「あり得ない」ことを、「あり得た」にされた
大変素晴らしい体験が書かれています。

ひとひら様は、お仕事の面でも、まれに見る優秀なお方だ
ということも、わからせていただきました。
そして、はうら様は、多くの人を喜ばすことを、最優先に
されて生きていらっしゃることも、わかりました。

言うは易し、行うは難き、ですのに。
はうら様は、お仕事の面でも、
不可能を可能にされておられるのは、
これも神癒の体験なのでしょう。

就寝前の神想観は、私も大事だと思っております。
大切なこと、教えてくださってありがとうございます。

それから、
はうら様は、阪田先生同様に、毎月1回、「ひかりの
お便り」という魂の交流文を、発行されておられます。

私宛にも、光栄なことに、無料で送ってくださっています。
印刷代や、送ってくださる送料もかかりますのに、
このままで無料のままで、いいのでしょうか。
はうら様の2冊の小説も、私は前に希望して送っていただきましたが
同封のお手紙に、代金は、決して送らないでくださいと
書いてございましたので、まに受けて、いまだに何もお送りしておりません。
ほんとうに無料のままで、いいのでしょうか。
「光のお便り」令和5年9月号(第38号)が、昨夕、届きました。

内容は、その月のテーマにふさわしく
谷口雅春先生の様々な著書からの謹写で溢れています。
今回は、「感謝」がテーマでした。
「現象の善さよりも魂の善さを」は、
雅春先生著「新版 生活と人間の再建」
からの引用でした。

私は、現象世界で暮らしておりますので、どうしても、現象世界の
ことに心が向き、1つ1つに引っ掛かりがちでおりますが、
私も、はうら様を見習って生きていきたいと思いました。

ありがとうございます。


『和解とは感謝する事である。』 (60835)
日時:2023年09月04日 (月) 20時08分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

生長の家の守護神について。
(思いつくままに。他意はありません。)

《 汝ら天地一切のものと和解せよ。
天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは
汝の味方である。・・・
われ嘗(かっ)て神の祭壇(さいだん)の前に供物
(そなへもの)を献(ささ)ぐるとき、先(ま)ず
汝の兄弟と和(わ)せよと教えたのはこの意味である。・・・
天地萬物(ばんぶつ)と和解せよとは、天地萬物に感謝
せよとの意味である。・・・
われは愛であるから、汝が天地すべてのものと和解したとき
其処(そこ)にわれは顕(あらは)れる。》
(《大調和の神示より)

・この神示の全文が『生長の家の教義』になっている。
・われとは・・・生長の家の大神(住吉大神)
『終戦後の神示』で、「七つの燈台に燈(ひ)を点ずる者]
であり、「鹽椎神(しほつちのかみ)」であり、キリストは
われの別名であり、別名は住吉大神(『新講甘露の法雨』
20.21頁)であり神武天皇の祖父君にあたられる彦火火出見尊
(ひこほほでみのみこと)を竜宮海にご案内された神。
・昭和10年1月25日刊行された黒表紙版『生命の實相』第一巻
以降掲載されている、表紙のすぐ次に(目次や神示や序文
よりも前に)突如として出現する『ヨハネ黙示録(もくしろく)』
第一章の白髪の老翁(ろうおう)なるキリスト。
すべて同一神である。

・われ嘗(かっ)ての「われ」はどなたで、嘗てとは何時(いつ)
のことか。

イエス・キリストの「山上の垂訓(すいくん)で

《 ・・・この故(ゆえ)に汝もし供物(そなえもの)を祭壇
(さいだん)にささぐる時、そこにて兄弟に怨(うら)まるる
事あるを思い出(いだ)さば、供物を祭壇のまへに遺(のこ)
しおき、先(ま)ず往(い)きて、その兄弟と和睦(わぼく)
し、然(しか)るのち来(きた)りて、供物をささげよ。
なんじを訴(うった)ふる者とともに途(みち)に在(あ)るうちに、早く和解せよ》
(『マタイ伝福音書』 5-23〜25)

生長の家の教えに触れた人々はなんという、幸福な人達であろう。
凄い神に護られているのである事を感謝しましょう。


■ 体験

前回の続きです。
M社の世話になって4年目になっていた。
製作現場も慣れてきて、協力してくれたり、積極的に
提案するようになっていた。
それで、少し新しい分野に手を広げて、新しい部署から
食品の製造する新工場の為の、製造設備装置を受注した。
暫くして、その仕事が停滞しだした。
度重なる変更、仕様追加、納期短縮と次々と問題が出てきた。
発注先担当者は、徹夜で対応していたが、遂に精神異常を
きたして不在となった。それを受けてKN部長が直接陣頭指揮
をとるべく、M社に詰めて、夜遅くまで生産状況を監督しだした。
私は、日中は変更図面や現場対応に追われ、夜中になってから
設計図を書く日が続いた。生産現場は間に合わなくて、
毎日20名程の人が、交代で外部から応援者が来た。
7月から12月までの約半年間、ほぼ徹夜で、仮眠をとっても
2〜3時間程度であった。
何とか最後の装置を納入して、一息をつく間もなく費用を
算出したら、トータル5千万円の追加支払いが発生する
ことが発覚した。
早速KN部長に相談したが、全く取り合ってもらえな
かった。KN部長側の費用も予算の数倍に膨(ふく)れあがって
いて、それを補填(ほてん)してくれたら、5千万円の
件は考えてもよい、という全く話になったものではなかった。
6ヶ月の間会社に顔を出さずに雲がくれしていたM社長から
毎日のように「どうするんだ」という内線電話があった。
或る日私は覚悟した。「すべては自分に責任があります」と
M社長に言って、退路を断った。
そしてKN部長と電話で交渉したが、らちがあかずに
「あなたのところの対応が悪くて、このような状況になった
のに、なんなんですか。!」と激しい言葉が出てしまった。
話は平行線をたどった。解決の目途(めど)などたたなかった。

数日して、頭を冷やし前回はつい怒ってしまったので今回
は絶対に怒らないようにしようとした。
うず高く積まれた書類の中から、メモ用紙を取り出した。
今回は絶対に怒らない、と書こうとして、絶対に感謝と
書いてしまった。そうしたらその『感謝』という字が光った
のである。ああ、今度は上手(うま)くいくと思った。
そして数分間『和解の神想観』をしようと思った。

《 私はあなたを赦(ゆる)しました。あなたも私を赦し
ました。私とあなたとは神において一体でございます。
私はあなたを愛しております。あなたも私を愛しております。
私とあなたとは神において一体でございます。
私はあなたに感謝しております。あなたも私に感謝しております。
ありがとうございます。ありがとうございます。
私とあなたとの間には、今何らの心の蟠(わだかま)りも
ございません。私は心からあなたの幸福であることを信じ
祈ります。あなたがますます幸福でありますように」》
(『私はこうして祈る』8頁)

祈っている間、霊界であろうか、3人の手が映しだされた。
一人は自分か自分の親族縁族かの手、一人はKN部長または
KN部長の親族縁族かの手、真ん中にもう一人の手があって
左右の手の握り合うのを仲介している手があるが、どなたか
顔がわからないので、判断のしようがないが、とにかく
三人の手がガッチリと握手している。
祈っている間中それが見えた。

程なくしてKN部長に電話したら、今までの修羅場
(しゅらば)が全く平坦(へいたん)になっていて、
「わかりました。すぐ振り込みます。」と言って、
今後この件については、双方一切異議を申し立てない事の
念書を取り交わし、見積書も請求書も出さずに、2日後に
5千万円が振り込まれて、この問題は解決した。

しかし、周囲は多くの人が、体調を崩したり、精神的疾患
を患(わずら)っていた。
私自身は、夜中考えながら廊下を歩いていて、柱にぶつかり、
眼鏡を割り、激しい胃潰瘍になり、歯が2本割れたが、大丈夫
そうであったが、息苦しさは残っていた。
KN部長は降格して、閑職についたらしい。
大変申し訳ないと思った。
年末の社内健康診断で、肺が真っ白になっているので、至急
大きな病院に行くようにと言われた。
息苦しの原因はそれかと思った。


―つづく―


☆ 真理

《  「霊」が人間であり、「肉体」はその使命遂行の道具
であり、肉体の構造過程を指導するのは「霊」であるが、
それは「潜在意識」(心の深い底にあって気がつかぬところ
で働く精神)を媒介(ばいかい)として、肉体を構築する
工人(こうじん)が監督せられる。「霊」は設計者であり、
潜在意識は現場監督の技師であり、細胞は工人である。
人間の「霊」は神の分霊(ぶんれい)であるから、人体を
完全に設計しているのであるけれども、潜在意識と云(い)う
技士は時々「自分考え」をもっていて、「霊」が本来設計
した通りに工人を指導しない事がある。
潜在意識が憎(にく)しみの念や、自暴自棄(じぼうじき)
の自己破壊の念にかられている時には、それによって指導
が歪(ゆが)められ、設計通りに肉体と云う建造物が
出来上(あ)がらない事がある。》
(新版『真理』第9巻 302.303頁) 


△ 思う事

問題が起った時、霊界からの助けは是非とも必要である。
しかし、それは眼には見えないので、やはり波動を
整えて、よい波動にする必要がある事を、強く感じた。
また逃げ場をなくして、退路を断たないと、後ろから矢が
飛んでくる。それは何度も経験した事である。
霊界の事はよくわからないが、必要に応じて、見えたり、
声が聞こえるので、その声が、エホバ神の横の真理で
現象的な事なのか、エロヒム神の経(た)ての真理なのかは、
よくよく注意しなければならない。

退路を断ては

《 背水の陣を布(し)け》
(『生命の實相』頭注版 第7巻 62頁)
によって、癌の手術で半身不随(ふずい)になった時、この部分を
拝読していたとき、「お前は自分で治せるのに、何故
人に頼るのだ」と一喝(いっかつ)されて、瞬時に半身不随
が治った事を思い出した。

ありがとうございます。














はうらひとひら様   (60888)
日時:2023年09月05日 (火) 12時25分
名前:志恩

『和解とは感謝する事である。』
(志恩:注:はうらひとひら様の今回のテーマ)


(はうら ひとひら様ー)
>生長の家の守護神について。
《 汝ら天地一切のものと和解せよ。
天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは
汝の味方である。・・・
(略)》
(《大調和の神示より)

・この神示の全文が『生長の家の教義』になっている。

・われとは・・・生長の家の大神(住吉大神)

『終戦後の神示』で、「七つの燈台に燈を点ずる者]
であり、「鹽椎神」であり、キリストは
われの別名であり、別名は住吉大神(『新講甘露の法雨』
20.21頁)であり神武天皇の祖父君にあたられる彦火火出見尊
(ひこほほでみのみこと)を竜宮海にご案内された神。(略)

イエス・キリストの「山上の垂訓で

《 ・(略)・略先ず往きて、その兄弟と和睦
し、然るのち来りて、供物をささげよ。
なんじを訴ふる者とともに途に在るうちに、早く和解せよ》
(『マタイ伝福音書』 5-23〜25)

生長の家の教えに触れた人々はなんという、幸福な人達であろう。
凄い神に護られているのである事を感謝しましょう。<


志恩ー
生長の家の根本の教えは、大調和の神示の教えですけれど

谷口雅宣総裁先生ご夫妻は、実母である谷口恵美子先生を
それは2013年頃のことですが、まだ原宿のお山に
谷口雅宣先生ご夫妻と谷口恵美子先生が同じ敷地内で、隣同士で
住んでいらした時のことですが、
谷口雅宣先生は、お母様の恵美子先生を軟禁し、
ご自分の部下である本部職員に朝から晩まで恵美子先生を監視させて、
恵美子先生に誰から電話があったかも逐一、調べさせて、
恵美子先生の実子や孫が恵美子先生に会いに来ても、あわせず、
そして、谷口雅宣先生は、
毎月、恵美子先生から
高額な家賃まで、ふんだくっていたことは、有名な話です。

それで、恵美子先生は、精神を病み、うつ病になられ、
大変な目にあっていたところを、みるにみかねた高知県にお住まいの
次女の寿美様が、恵美子先生を、救い出されて、その後は、寿美様ご一家とともの
恵美子先生は、高知県の寿美様ご一家のもとで、心穏やかに、お暮らしであることは
谷口貴康先生が当時のご自分の田舎もんブログに、書いておられましたから、
これは、事実の話であると、われわれは思っております。

その後も、谷口雅宣先生ご夫妻は、例年、ご自分たちの子供たちを呼び寄せて、
恵美子先生のところには一度も、ご挨拶にいかず、純子奥様の伊勢市にあるご実家
ばかりに、正月に、集まっておいでなのは周知の事実です。
谷口家のご兄弟との交流も、聞いたことがございません。

ということは、生長の家の教えの大調和の教えとは、総裁ご夫妻は、真逆なことを
昔から実践し続けていることになりますよね。

そして、これからは、はうらひとひら様への質問なのですが、
復興G様が、2011年に、トキ掲示板に書かれたお言葉ですが、
あれから、10年以上も経った今年の、復興G様は10年後に亡くなられる前も。
この10年前と、同じお気持ちでいらしたのでしょうか、ということを
はうら様が、もしもご存知でしたら、教えていただきたいと存じております。

復興G様が、2011年に、トキ掲示板に書かれたお言葉とは、
次の御言葉です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
復興G:2011/07/31(日) 20:05:19

>142 :初心者様ー

現総裁のような人物がトップにあらわれたのは、
けっして意味のないことではない。
これが、わたくしが言いつづけてきた ことなのですね。
その意味を考えようともせずに、
ただ辞めていただくというのが、
はたして最良といえるのか。
略<


復興Gー

 以下、今私が思うことです。

 谷口雅春先生時代には、
先生がいくら「皆さんが谷口雅春である」とおっしゃられても、
「われわれ凡人と谷口雅春先生とは天と地ぐらいの
開きがある」という
観念から抜け出すことがむつかしかった。

「皆さんが住吉大神の全心全霊である」と言われても、
それを実感自覚することは難しかった。
そのときに、二代目・三代目の総裁になられた方が
谷口雅春先生と同様に凡人とは大きくへだたりのあるような
霊的、宗教的なお方だったら、いつまでも「われわれ凡人は……」と言って、
外なる総裁におすがりするばかりで、
内なる神に本当に目覚め、釈迦・キリストと同じ者である、
一切者であるというような自覚を得ることは
むつかしいままで終わるのでしょう。

 ところが谷口雅宣総裁は、
「私は神ではない。普通の人間だ。
私の言葉は住吉大神の言葉なんかじゃない。
私の言葉は私の言葉だ」というようにおっしゃってくださって、
「私も信徒皆さんもおなじ人間です」と宣言されて、
私たち信徒皆の大いなる神性開発の道を開いてくださっているのです。
まことに素晴らしい神の摂理である。

 これこそ、初心者様が

『教団で起きているゴタゴタは、
谷口雅春先生がわたくしたちに示された禅の公案です。
雅春先生は、こんにちの事態をすでに予知しておられたはずです。
それを承知の上で世襲制を承認し、わたしたちに公案として
残して行かれたのではないですか。
弟子として恥ずかしくない答えを出しましょう。』

 とおっしゃった、
谷口雅春先生から与えられた公案なのだ、と思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここからは、
今回、はうらひとひら様が、今回、このスレッドに
書いてくださいました。体験談についての
話題に変わります。
 ↓
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(はうらひとひら様の)
■ 体験

前回の続きです。
M社の世話になって4年目になっていた。
製作現場も慣れてきて、協力してくれたり、積極的に
提案するようになっていた。
それで、少し新しい分野に手を広げて、新しい部署から
食品の製造する新工場の為の、製造設備装置を受注した。
暫くして、その仕事が停滞しだした。
度重なる変更、仕様追加、納期短縮と次々と問題が出てきた。
発注先担当者は、徹夜で対応していたが、遂に精神異常を
きたして不在となった。それを受けてKN部長が直接陣頭指揮
をとるべく、M社に詰めて、夜遅くまで生産状況を監督しだした。
私は、日中は変更図面や現場対応に追われ、夜中になってから
設計図を書く日が続いた。生産現場は間に合わなくて、
毎日20名程の人が、交代で外部から応援者が来た。
7月から12月までの約半年間、ほぼ徹夜で、仮眠をとっても
2〜3時間程度であった。
何とか最後の装置を納入して、一息をつく間もなく費用を
算出したら、トータル5千万円の追加支払いが発生する
ことが発覚した。
早速KN部長に相談したが、全く取り合ってもらえな
かった。KN部長側の費用も予算の数倍に膨(ふく)れあがって
いて、それを補填(ほてん)してくれたら、5千万円の
件は考えてもよい、という全く話になったものではなかった。
6ヶ月の間会社に顔を出さずに雲がくれしていたM社長から
毎日のように「どうするんだ」という内線電話があった。
或る日私は覚悟した。「すべては自分に責任があります」と
M社長に言って、退路を断った。
そしてKN部長と電話で交渉したが、らちがあかずに
「あなたのところの対応が悪くて、このような状況になった
のに、なんなんですか。!」と激しい言葉が出てしまった。
話は平行線をたどった。解決の目途(めど)などたたなかった。

数日して、頭を冷やし前回はつい怒ってしまったので今回
は絶対に怒らないようにしようとした。
うず高く積まれた書類の中から、メモ用紙を取り出した。
今回は絶対に怒らない、と書こうとして、絶対に感謝と
書いてしまった。そうしたらその『感謝』という字が光った
のである。ああ、今度は上手(うま)くいくと思った。
そして数分間『和解の神想観』をしようと思った。

《 私はあなたを赦(ゆる)しました。あなたも私を赦し
ました。私とあなたとは神において一体でございます。
私はあなたを愛しております。あなたも私を愛しております。
私とあなたとは神において一体でございます。
私はあなたに感謝しております。あなたも私に感謝しております。
ありがとうございます。ありがとうございます。
私とあなたとの間には、今何らの心の蟠(わだかま)りも
ございません。私は心からあなたの幸福であることを信じ
祈ります。あなたがますます幸福でありますように」》
(『私はこうして祈る』8頁)

祈っている間、霊界であろうか、3人の手が映しだされた。
一人は自分か自分の親族縁族かの手、一人はKN部長または
KN部長の親族縁族かの手、真ん中にもう一人の手があって
左右の手の握り合うのを仲介している手があるが、どなたか
顔がわからないので、判断のしようがないが、とにかく
三人の手がガッチリと握手している。
祈っている間中それが見えた。

程なくしてKN部長に電話したら、今までの修羅場
(しゅらば)が全く平坦(へいたん)になっていて、
「わかりました。すぐ振り込みます。」と言って、
今後この件については、双方一切異議を申し立てない事の
念書を取り交わし、見積書も請求書も出さずに、2日後に
5千万円が振り込まれて、この問題は解決した。

しかし、周囲は多くの人が、体調を崩したり、精神的疾患
を患(わずら)っていた。
私自身は、夜中考えながら廊下を歩いていて、柱にぶつかり、
眼鏡を割り、激しい胃潰瘍になり、歯が2本割れたが、大丈夫
そうであったが、息苦しさは残っていた。
KN部長は降格して、閑職についたらしい。
大変申し訳ないと思った。
年末の社内健康診断で、肺が真っ白になっているので、至急
大きな病院に行くようにと言われた。
息苦しの原因はそれかと思った。


―つづく―


(はうらひとひら様ー)
☆ 真理

《  「霊」が人間であり、「肉体」はその使命遂行の道具
であり、肉体の構造過程を指導するのは「霊」であるが、
それは「潜在意識」(心の深い底にあって気がつかぬところ
で働く精神)を媒介として、肉体を構築する
工人が監督せられる。「霊」は設計者であり、
潜在意識は現場監督の技師であり、細胞は工人である。
人間の「霊」は神の分霊(ぶんれい)であるから、人体を
完全に設計しているのであるけれども、潜在意識と云う
技士は時々「自分考え」をもっていて、「霊」が本来設計
した通りに工人を指導しない事がある。
潜在意識が憎しみの念や、自暴自棄
の自己破壊の念にかられている時には、それによって指導
が歪(ゆが)められ、設計通りに肉体と云う建造物が
出来上(あ)がらない事がある。》
(新版『真理』第9巻 302.303頁) 


△ 思う事

問題が起った時、霊界からの助けは是非とも必要である。
しかし、それは眼には見えないので、やはり波動を
整えて、よい波動にする必要がある事を、強く感じた。
また逃げ場をなくして、退路を断たないと、後ろから矢が
飛んでくる。それは何度も経験した事である。
霊界の事はよくわからないが、必要に応じて、見えたり、
声が聞こえるので、その声が、エホバ神の横の真理で
現象的な事なのか、エロヒム神の経(た)ての真理なのかは、
よくよく注意しなければならない。

退路を断ては

《 背水の陣を布(し)け》
(『生命の實相』頭注版 第7巻 62頁)
によって、癌の手術で半身不随(ふずい)になった時、この部分を
拝読していたとき、「お前は自分で治せるのに、何故
人に頼るのだ」と一喝(いっかつ)されて、瞬時に半身不随
が治った事を思い出した。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
志恩ー
はうらひとひら様のご投稿文は、
どれも「生命の實相」の真理の言葉の
要約に感じますので、引用しすぎますが
おゆるしくださいませ。

はうら様は、
日常生活の中に真理を生かされてい
るというよりも、真理の中で日常生活を
生きているというような体験談だと存じます。
いつもあり得ないことをあり得るにされていらして
すごいな、と尊敬いたしております。

つづきをよろしくお願いいたします。












はうらひとひら様 (60897)
日時:2023年09月05日 (火) 20時01分
名前:志恩

急ぎませんので、質問への
解答をお願いいたします。

志恩様への公案のお返事 (60898)
日時:2023年09月05日 (火) 20時09分
名前:はうら ひとひら

志恩様
公案をありがとうございます。
まず公案の話をもって、お返事いたします。

無門関解釋(58〜67頁)より(一部現代語使用をお許し下さい)
『第五則 香厳上樹(きょうげんじょうじゅ)』

《 口に樹(き)の枝を啣(ふく)み、手は枝を握って
いない。脚(あし)は樹を踏んでいない。
全(まった)く口の力で空中から千仞(せんじん)の
断崖(だんがい)上にぶら下っているのだ。その時、
樹の下に『祖師西来(さいらい)の意(い)如何(いかん)』
と問う人があったらどうするか。應(こた)へなければ
禅家(ぜんけ)の礼儀を破ることになる。若(も)し口を
開いて應へれば身は千仞の谷底に墜落して木端微塵(こっぱ
みじん)となって命を失う。正(まさ)しく恁麼(こんな)
とき作麼(どんな)に処置したら好(よ)いか。」》
(同書62頁)

《 こんなことを公案(こうあん)だの本則(ほんそく)
だのと取扱ったかと思うと腹が立って全身憤慨(ふんがい)
の眼玉となって睨(にら)み付けてやりたい位だ」と云(い)う
のが無門の頌(じゅ)である。何故(なにゆえ)この公案が
そんなにも馬鹿々々(ばかばか)しいものであるかと云うと、
机上(きじょう)の閑空想(かんくうそう)の葛藤(かっとう)
であるからである。葛藤本来なく、進退両難(りょうなん)
本来なしであるのに、わざとわが心で葛藤を作り、進退両難
を為(つく)っているからである。》
(同書 64頁)

《 概(おほむ)ね斯(こ)う云う両刀(りょうとう)論法、
進退両難を解決する道は、両刀論法はない、進退両難は無い、
本来大調和、このまま寂光土(じゃっこうど)なる実相を
把握するにある。はじめから病むことなく苦しむことなき
人間のいのちの実相を直悟(じきご)すれば、その
刹那(せつな)に両刀論法も進退両難も消えるのである。》
(同書 63頁)

《 「進退両難」などと云うものはないのである。
肉体は本来無く矛盾(むじゅん)も本来ない。
着陸地が無いなどと云うこともない。
「着陸地が無い」と云うことは、ただ心の世界に空想に
描(えが)いた閑葛藤(かんかっとう)に過ぎないのである。
着陸の必要がある限り、着陸地は到るところにあるのである。》
(同書 65.66頁)

私(はうら)が思うには、公案などと大上段に構えて
いるだけで、言葉遊びをしているとしか思えない。
宗教ごっこをしたい人には、させておけばよいと思います。
その人の責任において行えばいいだけの話です。
因果律の法則は厳然としてあるからです。
決算は必ずどこかでしなければなりません。

岡先生は、私達に誌友会を指導するようになったある日、
誌友の一人が今の組織の状態についてどう思うかと
問われて「これからは、組織ではなく、個人個人の
問題である」といわれて、ハッキリと今の組織のありよう
を否定された。そして『私達のめざすすもの』として、

・私たちは『生命の實相』を深く学び実相にズームイン
(超入)、実相から出発して、エデンの楽園に遊楽し
無限生長する  幸福なる神の子を拡大します。

・私たちは「生長の家の七つの光明宣言」に則り、地上
天国実現をめざします。

・私たちは「人間は皆神の子、命の兄弟姉妹」という
のが日本の理想であることを信じ、世界平和の理想実現
をめざします。

と示されました。

私(はうら)は難しい事は解らないので
・「宗教」なら救済しよう。
・「実相哲学」なら、物理学(現象)を超越しよう。
・「生長の家」なら本来一つの大調和の教義を実現しよう。
と勝手に解釋しています。

私(はうら)は凡夫(ぼんぷ)など、一人もいなく、
凡庸(ぼんよう)な人など、一人もいない、と思う。
凡夫、凡庸などと言うのは、造り主を冒涜(ぼうとく)
する言葉であり、それは10年前の岡先生であっても否定
はされないと思います。神の摂理と言っているのは、
エホバ神からの摂理(横の真理)であって、
エロヒム神の摂理(経(たて)の真理でないと思います。
現象界は光と影があって成り立っています。
光ばかりで影がなければ、姿、形が見えません。
送り物を送られてそれを受け取らなかったら、送り主に
その品物はかえされます。受け取らない自由もあるのです。
今の教えも受け取らなければ、よいだけの話です。

・無いということは、あっても大丈夫ということなので
ある。(榎本恵吾先生著『神癒の展開としての人類光明化
運動』


お返事になりましたでしょうか。
いつも過分なるコメントを頂戴いたしまして、
恐縮いたしております。
感謝申しあげます。

ありがとうございます。
















今の教えも受け取らなければ、よいだけの話です。 (60899)
日時:2023年09月05日 (火) 21時13分
名前:本音の時代

このような考え方が教団の中で広まっていくのかが、今後の生長の家の課題です。そのためには個人が賢くならなければいけません。
谷口雅春先生がお説きになった真理の言葉を思い出せば難しいことではないのですが、その真理の言葉の学びを実践している人は少ないように感じます。

谷口雅宣総裁が、「私は神ではない。普通の人間だ。私の言葉は住吉大神の言葉なんかじゃない。私の言葉は私の言葉だ」と言おうが、信徒の「総裁の言葉は神意である」がもてはやされ、谷口雅宣総裁もそれを戒めるようなことはしません。大部分の信徒の考え方は雅春先生の存命時から変化していない(真理信仰ではなく人物信仰)のではないでしょうか。総裁が今の教えを説けば、久遠の教えさえ過去の教えでとなり、今の教えが正しくて過去の教えは古いだという考えてしまう信徒の思考回路は一体どうなっているのでしょう。結局、基本がなってないということになるのではないでしょうか。

はうらひとひら様 (60901)
日時:2023年09月05日 (火) 22時34分
名前:志恩

早速にすばらしいご教授、
ありがとうございました。

おかげさまで、
考え方が、わかりました。

本音の時代様 (60902)
日時:2023年09月05日 (火) 22時37分
名前:志恩

おっしゃる通り
われわれは谷口雅春先生が
教えてくださった教えの通りを
今後も生きていけば間違いがないと
私も思いました。ありがとうございます。

『実相直視(じきし)』 (60943)
日時:2023年09月07日 (木) 20時03分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

「本音の時代」様 適切なコメントありがとうございます。
今回は、先ず実相哲学の 哲学とは、からです。

《 哲学(metaphysics)と云う言葉はその文字の組立てが
示す如く、physics(物理学)と云う言葉にmeta(超越する)
と云うことばが結合されている。
従って物理的なもの以上のものを意味しているのである。
それ故哲学を生活する又は哲学を行ずると云うことは、
超物質的自覚の下に生活することである。
哲学は吾等が今見るところのもの― 現象を遡(さかのぼ)って
その原因を探究する。それは現象の究極的な原因と、この
世界を顕現して今ある如き物質的形態にその現象をあらわした
法則とを、探究するのである。・・・
と云うのは、吾々の光明哲学は人間が小宇宙であること、
大宇宙において行われた創造の過程は小宇宙においても
真であること、一 換言すれば想念は物に化(な)ると云う
ことを明らかにするからである。そして宇宙を支配する
法則を暁(さと)って、これと調和するならば、人間は
無限の自由を獲得し、あらゆる制約を超越して、無礙無縛
(むげむばく)の状態になり得ることを明らかにするのである。
(『人生は心で支配せよ』13〜15頁)

■ 体験

前回の続きです。
週末(土曜日)の検査室は、閑散としていた。
健康診断の結果を受けて大きな病院で肺のCT検査を受けた。
「肺が真っ白になっていますね」
検査技士はすまなそうに、そっと原画を見せてくれた。
確かにそうである。誰が見ても。
その時、私は突然心で決断し宣言した。
「病気がないのなら、消す」と。
治すのではなく消す、と宣言したのである。
絶対の「信」と「観」があれば出来る筈である。
いや出来ないほうがおかしい。
医師との面談は4日後であった。その間といっても
土曜日の半日と日曜日だけであったが、三正行(さんしょう
ぎょう)と言われるものを行なった。愛行が難しいが、
個別訪問して、生長の家の真理を知らせるべく、呼び鈴を
ならした。無我になって行った。
4日後医師と面談して、「肺が真っ白になっていて・・・
あっ、治った跡がある」と慌てている医師がそこにいた。
一度画像として映し出されたものが、消えて正常な状態に
なっていたのである。物理学では考えられない。
私は消すとはこういうことだったんだ、と思った。
なにをどのように消すかと思ったのかなど、考えもしなかったが。
面談は何の処置もなく終了した。
「信」と「観」の力は物理学を超えて、過去を修正したのである。

一年後、突然M社が発注先の指定工場の認可から外された。
5千万円の傷痕(きずあと)は深い。
私は即座に退社を決意し、発注先に来て務めないかと、何人かの
方に声をかけられたが、すべて断って、仕掛の仕事を終了後、
50年近くの会社務めに終わりを告げた。
7回転職し、M社には5年お世話になった。69歳であった。

2.3ヶ月ぼーとしていたが、近くの教育施設の掃除仕事に就いた。
3時間であるが、掃除の移動で3万歩。暫く筋肉痛があった。
ひたすら心のゴミを掃除しようとしていた。
そして40年来の思いだった、小説を2年かけて、2冊出した。
2冊目をお世話になった方に発送し終わった時、前の発注先
の管理部長から連絡があった。
「時間があったら、仕事を手伝ってほしい」と。
お世話になったので引き受ける事にした。
メールで技術仕様のやりとりを発注先としていたら、C.C
(カーボンコピー)欄にあのKN部長の名が出てきた。
5千万円問題で降格され、3年後部長への復職の最初の仕事
であった。これは心してあたらなければと思った。
あの時のご恩返しである。
仕事は巨大な国際施設の、電源装置、通信装置、上下水道装置
の制御維持管理の設備更新(リニューアル)で、遅延や失敗は
国際問題にまでなりかねない、重要な仕事であった。
丁度年末、年始にかかっていて、技術的問題が起っても、誰にも
聞けない状態で、徹夜の連続で年始、皆が出社する時に、制作図
が提出できた。予定通りであった。結局設計だけで3ヶ月かかった
が、KN部長には迷惑はかからなかった。

そのような中、女性の地方講師の依頼で、ある母親教室に出講
する事になった。「実相完全円満祥行」を頼まれたが、やった
事がないので、手伝ってくれという。
私もやった事がなかったが、ちょっと気になったので、それ
では「祈り合いの神想観」をしましょうと提案して、
(実はこれも自身主導でやった事はなかったが)実施した。
出席者は7名。先ず真理を少し話をし、それからその人の
実相を皆で祈らせてもらった。
皆さん喜んでくれた。帰りに皆で食事をしながら話を聞いたら、
祈ってもらう方のご主人が30代で植物状態だった事がわかった。
程なくして、それがもう大丈夫という状態にまでなった。
何度か「心臓が止まった」という連絡をもらったが、掃除の
仕事中であったりで、心でその人の実相を祈った。
その都度、大丈夫という声がきこえたが、半年の後、永眠された。
この事はかなりショックだった。もう少ししっかり祈ってやれ
なかったか。いや寿命であれば、しかたがなかった。とも思った。
そして一層の事、この事を契機にして『24時間365日の個人相談
の受付』を始めることにした。
出講時、必ずこの話をして、連絡先を知らせた。
数十人の人から相談を受けた。
或る日、掃除の仕事が終わって自宅で音楽『ミルテの花・献呈』
(シューマン)を聴きながら、うとうととしていたら、
巨大なものが出てきて(多分叡智者だと思う)
「しっかりやれ」と個人相談の受付を褒めてくれた。
その傍(そば)で手を振っている女性らしき人がいる。
よく見たら、観世音菩薩らしかった。
おもわず合掌した。この相談の受け付けは許可されたと思った。

程なくして、岡先生に誌友会の指導をお願いした。
私は会場整理、下足番、連絡係をさせてもらった。

今回で一応5千万円の負債の体験は終わらせていただきます。
一連の流れから話さないと、何故そうなったかを、述べるのに
うまく話せそうになかったからです。
何となく雰囲気だけでも感じていただければ、幸甚です。

☆ 真理

《 現象時間の流れの中で“無窮(むきゅう)"を生きようと
思うと肉体の寿命は無窮には生きられないけれども、“今"
の一点に“久遠"の絶対時間を生きると過去も現在も未来も
今ここに一つに把(つか)まれてしまう、ということに
なるのであります。そうすると、吾々は今ここの自己の内に
過去も現在も未来も把んでいるから、過現未が自分の掌中
(しょうちゅう)にあるのです。普通、過去は変化すること
が出来ないというけれども、過去も変化できる。
そこから吾々は真理を自覚すれば過去の業(ごう)を消す
ことが出来るということがわかる。》
(『無限供給の扉を開く』237頁)

《 兎も角(ともかく)、一度も倒されないで立っている
者は倒れたときに如何にすべきかを知らないであろう。
彼はまだ未熟である。倒れて、再び起きあがった人は、
倒れないで今迄来た人より偉大である。・・・
吾人の価値は、未だ一度も倒れたことがないというのでは
なく、幾度も倒れながら再び起きあがって、そのために
多くを学び魂を磨き、且(か)つ鍛えてきたことである。・・・
倒れるということも前進である。倒れたままで失望する
のでは値打ちがない。
倒れた瞬間にすぐ起き上がって光明に面するのが生長の家
の生き方である。
(『新版 叡智の断片』117.118頁)

△ 思う事

M社は私が退職して、暫くして、こじんまりとした社屋に
引っ越した。あのスペースがなければ私の仕事は完結しな
かった事を思うと、縁(えにし)の不可思議さを感じる。
皆さんに支えられ、皆さんに大いに迷惑をかけて会社生活
後半の14年は終了した。
これからどのような事がおこるか、楽しみである。

ありがとうございます。







はうらひとひら様   (60958)
日時:2023年09月08日 (金) 15時57分
名前:志恩

 『実相直視』 (今回の はうら ひとひら様のテーマ)

前半の、はうらひとひら様のコメントは、
本音の時代様宛のものでしたので、
私は、パスさせていただきます。

途中からの、はうらひとひら様の体験談についてから
にさせていただきます。ありがとうございます。


志恩ー
はうら様は、
<大きな病院で肺のCT検査を受けられたら、
「肺が真っ白になっていますね」
検査技士は、すまなそうに、そっと原画を見せてくれた。

そして、はうら様は、消す、と決意され。
4日後医師と面談して、「肺が真っ白になっていて・・・
あっ、治った跡がある」と慌てている医師がそこにいた。
一度画像として映し出されたものが、消えて正常な状態に
なっていたという体験をされた<
体験談を書いてくださいました。

で、私は、
「肺のCT検査を受けて
肺が白くなっている場合は、」で調べてみましたら、
肺がん、肺結核、肺炎などの場合、異常部位が白い影として映ります。

とネットに載っていました。

その肺が、真っ白に写っていたのが、4日後には真っ白が消えていたとは
それは、物理学では考えられない神癒が、また行われたことに
なると存じます。すごいことですね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(はうら様の体験談の続きー)

(はうら様ー)
>69歳であった。
2.3ヶ月ぼーとしていたが、近くの教育施設の掃除仕事に就いた。
3時間であるが、掃除の移動で3万歩。暫く筋肉痛があった。
ひたすら心のゴミを掃除しようとしていた。
そして40年来の思いだった、小説を2年かけて、2冊出した。<

志恩ー
はうら様は、永年、本格的な頭脳を緻密に働かせるお仕事をされていらした
お方ですが、69歳以後の、本格的なお仕事とお仕事との合間に
一日3時間、3万歩も歩きながら行うある教育施設の清掃のお仕事も
されておられるそうです。私は、その歩きながらされるお仕事も、
非常に免疫力のつく、万病予防に効く素晴らしいお仕事をされて
いらっしゃると思っております。生き方が素晴らしいと思っております。

ご投稿、ありがとうございます。
またよろしくお願いいたします。




「住吉大神」 (60992)
日時:2023年09月10日 (日) 20時15分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

“神の間”の話からです。

《 生長の家本部の建物に円塔がある。(元原宿本部)
これは七階につくられていて、その最上階が“神の間”
であり、そこには何も物質的な形あるものは安置していない。
本尊の像も象徴もない。全然“無一物”であり“空”である。
入口の襖(ふすま)だけは荘厳につくられて、如何にも
その内部は神の御座所であるようにしつらえているのである。
その下の部屋が“神癒祈願の間”である。ここで祈願部の
職員が祈るのである。“神の間”が何もなく空(くう)で
あるのは、普遍(ふへん)の超越神の御座所であり、何かを
安置すればそれだけ超越神を、人間の観念で限定することに
なるから、それを避ける為である。》
(『白鳩』誌昭和48年3月号(18日の箴言(しんげん))

《 【絶対の神は、相対の人格神となって自己完成
するのである。】
超越的絶対者は、それは“絶対者”であるが故に、われらに
話かけて対話を交えることはあり得ない。
それ故に絶対者の慈悲を体現(たいげん)したところの
相対的に顕現(けんげん)する人格神、又は天使、又は
菩薩(ぼさつ)、又は教祖があらわれなければ、絶対者は
その救済を具体化することが出来ない。
救済を具体化することが出来ないような神は“神”と
称(しょう)されるにしても、ハタラキに於いては
神ではない。“神”が救済を完(まっと)うし得る本当の
神となりうる為には、絶対者が相対的神としてあらわれて
救済の御業(みわざ)を現実になさなけらばならない。
即(すなわ)ち法身(ほっしん)の阿弥陀仏(あみだぶつ)
が、報身(ほうしん)又は応身(おうしん)の佛如来
(ぶつにょらい)として顕現しなければならないし、
「天にまします父」なる神が、地に降誕(こうたん)した
イエス・キリストとして顕現しなければならないし、
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が住吉大神
(すみのえのおおかみ)として顕現しなければならないし、
宇宙普遍の神が、ある教祖として顕現しなければならない。
神の神たる慈悲の本来をあらわし、神たる使命を完成する
為には、色々の宗教において“教祖神”として“神”
はあらわれなければならないのである。神の具体的な
人格的慈悲の完成は、応身の教祖となって顕われることに
よって完成する。》
(『白鳩』誌昭和48年3月号(14日の箴言)

《 天之御中主(あめのみなかぬし)とは固有名詞ではなく
天球(てんきゅう)の御中(みなか)にまします主(しゅ)
なる神という内容をあらわす言葉であります。》
(『生命の實相』頭注版第12巻 152頁)

《 天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原
(たかあまはら)に成(な)りませる神の名は、天之
御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神
(たかみむすびのかみ)、次に神産巣日神(かみむすびのかみ)。此の三柱(みはしら)の神は、並(みな)独神(ひとりがみ)
成り坐(ま)して、身を隠(かく)したまいき。》
(『古事記と現代の預言』12頁)

上記のご説明

《 その一元の天之御中主神様が、高御産巣日神、神産巣日神
とこう二つの働きを現し出されて、三神一体の働きをせられる。》

《 天地(てんち)の初発(はじめ)にまず、一如(いちにょ)
の世界からコトバの展開として陰陽(いんよう)二柱
(ふたはしら)の神様、言い換えると陰陽二つの原理が交錯
(こうさく)してそこに回転運動が始まり、至大天球
(たかあまはら)すなわち真(ま)ン円(まる)い宇宙が
でき上がったのであります。
(『生命の實相』頭注版 第12巻 166.167頁)


■ 体験

或る日、教化部の早朝行事の役で、早めに礼拝殿に一人
入った。空気はピーンと張り詰めていて、超高圧の雰囲気
がそこにはあった。善以外、光明以外のものは全く寄せ付け
ない、邪悪なものはふきとばされる、ひれ伏すのが精一杯
の場所を体感した。(實相額の前に何もおかなかった時代に)

その頃(平成26年・2014年頃)私達三名は頻繁(ひんぱん)
に会っていて、今後信徒としてどう行動するのかを真剣に
話合っていた。そのような時に急に飛び込んできた重大な
問題。『生長の家』機関誌で平成26年11月21日・22日の
生長の家総本山秋季大祭・谷口雅春大聖師御誕生日121年祭
記念式典で、造化の三神を勧請(かんじょう)するという。
早速教化部での講師研修会で教化部長に質問する事になった。
私が天之御中主は畏れ多いし、固有名詞ではないから、そんな
事をしてはならないのではないか。
岡先生がそれに続いて、造化の三神の理論的説明。
そして最後にEさんが実相独在の話をして、質問を終わらせる
予定であった。
研修会の教化部長の講話が終わり講師会長が原発反対の話を
始めたら、いきなり手をあげて立ち上がり質問した人がいた。
岡先生である。目が点になった時の「シオ」様状態になった。
そんな話は聞いていないし、まだ質問する時ではないし・・・
岡先生の原発の安全性の話で皆白けた雰囲気になっていた。
仕方がないので、私一人で、造化の三神の勧請が、いかに
行ってはいけないかを、話したが、殆(ほとん)どの講師が
造化の三神の事は知らなかった。
神だから、多く祀ったらいいんじゃないの的で、全く質問は
効果がなかった。
終了後の反省会で、結局教化部長を困らせるだけで、このような
事はもうやめようという事になった。一人ずつ光を発しようと。

この時の大祭では重大な発言なり決定がなされた。

・「宇宙浄化の祈り」なし。「甘露の法雨」読誦なし。
・『観世音菩薩讃歌』『大自然讃歌』読み上げ追加。
・住吉大神とともに、造化の三神(天之御中主神・高御産
巣日神・神産巣日神)の追加祭祀。
・大東亜戦争は雅春先生は聖戦と言っているが、侵略戦争である。
・現憲法は理想憲法。
・大都会は自然を毀して、愚かな事をしているので、宗教は
都会を離れるのが当然である。
・宗教は時代と環境によって変化しなけらばならず、変化には
儀式もふくまれる。時代の要請に応じて、時代の必要に応じて
戦略的にやっていく。


関連があるかどうかは不明ですが。
・御嶽山爆発(平成26年9月27日11時52分)
靈山神社は少彦名命(すくなひこなのみこと)(高御産巣日神
のお子)を祭祀されている。
その他不可解な、事故や地震や落雷による停電などが
その日の前後で発生した。


・宇宙浄化の祈り

《 「招神歌(かみよびうた)」四首朗唱
住吉大神(すみのえのおおかみ)出(い)でまして
宇宙を浄(きよ)め給う
あー、おー、うー、えー、いー、
住吉大神わが日の本(ひのもと)を浄め給う
あー、おー、うー、えー、いー、
住吉大神ここにあつまれるすべての人々の生命(いのち)
を浄め給う
あー、おー、うー、えー、いー、
「気合」イユウー、

「光明思念の歌」二回朗唱
(『詳説 神想観』253頁)


☆ 真理

【龍宮無量寿国(りゅうぐうむりょうじゅこく)に入る祈り】

《 われ今、住吉大神の威神力(いじんりき)に乗託
(じょうたく)して龍宮海を渡り、龍宮城の″神癒の社
(やしろ)"に入(い)り、住吉大神の神前に坐すのである。
超高圧の龍宮無量寿のいのち神癒(しんゆ)の社に満つ。
住吉大神、龍宮無量寿のいのちの泉を汲(く)み給いて
われに灌(そそ)ぎ給うのである。いのちの泉、五彩七彩
(ごさいしちさい)の色を放ちてわれに灌がれ、滔々乎
(とうとうこ)として光の波となって、わが全身の細胞
(さいほう)に流れ亘(わた)り、わが全身ことごとく潔
(きよ)められて、すべての汚(けが)れと濁(にご)り
とは完全に洗い流され、全身の細胞ことごとく龍宮無量寿
のいのちに満たされ賦活(ふかつ)せられ、若返り、ひとつ
ひとつの細胞ことごとく最高のダイヤモンドの輝きに優(まさ)
りて、無量寿の生命の光輝(こうき)を放つ。
その光荘厳を極(きわ)めて、如何(いか)なる悪(あ)しき
微生物も病菌もヴイールスも近付くこと能(あた)わず、もし
近づけば、光に近づく暗(やみ)の如(ごと)く消えてしまう
のである。
かくて住吉大神、更に滔々乎として龍宮無量寿のいのちをわれに灌ぎ入れ給うにより、わが全身ますます霊化(れいか)せられて
清浄(せいじょう)無垢(むく)無量寿の霊光を放つのである。
大神さらにいのちを注(そそ)ぎ給い、われに於(お)いて
無量寿のいのちを増幅強化したまいて、わが全心身を人類
光明化の光の波の増幅および放送アンテナとなし給いて、無量寿
のいのちを善人類に放送給うのである。われに頼る者、神縁
(しんえん)ある者、仏縁(ぶつえん)ある者、人縁(じんえん)
ある者、すべての龍宮無量寿のいのちの放送を受信し得、それを
受像し得て、まことに"神の子"にふさわしき燦然(さんぜん)
たる霊光を全心身より放つのである。
この霊光を受(う)くる者、次第に数を増して全人類に及び、
今より後、病いあることなく、悲しみあることなく、憂(うれ)
いあることなく、苦しむことなく、人類ぜんたいは光明化
せられて地上の生活そのままが天国となるのである。
大自然も霊化されたる人心の輝きを反映して、み空には
常に朝の太陽さし昇り紫雲(しうん)かがやき、美しき鳥、
翼(つばさ)をひろげて舞い遊び、天国の讃歌を唱(うた)
う。その妙(たえ)なる声音(せいおん)、天地に満ち、
虚空(こくう)にひろがり、楽音(がくおん)そのままが光
の波となりて、あるいは紫の光を放ち、あるいは緑の光
を放ち、あるいは微妙(びみょう)に変化するエメラルドの
光となり、サファイアの光となり、あるいは黄金色の荘厳
なる輝きを帯(お)び、すべての妙なる光、たがいに
交錯(こうさく)して、波の揺(ゆ)れるが如く、光の揺れ
に従って、微妙に変化する光の音譜(おんぷ)を奏(かな)でる
のである。その美しきこと、その麗(うる)わしきこと、
その妙なること言語に絶(ぜつ)す。
まことに今、此処(ここ)住吉大神の無量寿のいのちと、
無限の叡智(えいち)と、無限の聖愛との展開せる
実相浄土、“住吉の世界”そのものであるのである。われら
今此処、まことの極楽世界の厳浄(ごんじょう)をわが心身
をもちて直下(じきげ)に体験せしめ給いし事に深く篤(あつ)
く感謝し奉(たてまつ)る。
ありがとうございます。
(『聖経 続真理の吟唱』16〜19頁)

△ 思う事

招神歌にある
「・・・天地(あめつち)の祖神(みおや)(天之御中主神)
の道を伝えんと顕(あ)れましし生長の家の大神
(住吉大神)守りませ。」と祈りながら、何故造化の三神
などという事を考えるのであろうか。
人間知恵では何事も出来ない事を知るべきである。



ありがとうございます。



















造化の三神を祀る (61000)
日時:2023年09月11日 (月) 09時23分
名前:本音の時代

迷いの典型です。ナイものをアルとしちゃ、イカンと思いますよ。
ナイものはナイのですよ。
真相を知らないことをマヨイという。
生長の家の大神守りませですね。

はうらひとひら様   (61009)
日時:2023年09月11日 (月) 13時09分
名前:志恩

(はうら様ー)
>《 天之御中主とは固有名詞ではなく
天球の御中(みなか)にまします主
なる神という内容をあらわす言葉であります。》
(『生命の實相』頭注版第12巻 152頁)

《 天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原
に成(な)りませる神の名は、
天之御中主神、次に高御産巣日神次に神産巣日神。
此の三柱(みはしら)の神は、
並(みな)独神(ひとりがみ)
成り坐(ま)して、身を隠したまいき。》
(『古事記と現代の預言』12頁)

上記のご説明

《 その一元の天之御中主神様が、
高御産巣日神、神産巣日神
とこう二つの働きを現し出されて、
三神一体の働きをせられる。》

《 天地の初発にまず、一如(いちにょ)
の世界からコトバの展開として陰陽二柱
の神様、言い換えると陰陽二つの原理が交錯
してそこに回転運動が始まり、至大天球
(たかあまはら)すなわち真(ま)ン円(まる)い宇宙が
でき上がったのであります。
(『生命の實相』頭注版 第12巻 166.167頁)


■ 体験

或る日、教化部の早朝行事の役で、早めに礼拝殿に一人
入った。空気はピーンと張り詰めていて、超高圧の雰囲気
がそこにはあった。善以外、光明以外のものは全く寄せ付け
ない、邪悪なものはふきとばされる、ひれ伏すのが精一杯
の場所を体感した。(實相額の前に何もおかなかった時代に)

その頃(平成26年・2014年頃)私達三名は頻繁(ひんぱん)
に会っていて、今後信徒としてどう行動するのかを真剣に
話合っていた。そのような時に急に飛び込んできた重大な
問題。『生長の家』機関誌で平成26年11月21日・22日の
生長の家総本山秋季大祭・谷口雅春大聖師御誕生日121年祭
記念式典で、造化の三神を勧請(かんじょう)するという。
早速教化部での講師研修会で教化部長に質問する事になった。
私が天之御中主は畏れ多いし、固有名詞ではないから、そんな
事をしてはならないのではないか。
岡先生がそれに続いて、造化の三神の理論的説明。
そして最後にEさんが実相独在の話をして、質問を終わらせる
予定であった。
研修会の教化部長の講話が終わり講師会長が原発反対の話を
始めたら、いきなり手をあげて立ち上がり質問した人がいた。
岡先生である。目が点になった時の「シオ」様状態になった。
そんな話は聞いていないし、まだ質問する時ではないし・・・
岡先生の原発の安全性の話で皆白けた雰囲気になっていた。
仕方がないので、私一人で、造化の三神の勧請が、いかに
行ってはいけないかを、話したが、殆(ほとん)どの講師が
造化の三神の事は知らなかった。
神だから、多く祀ったらいいんじゃないの的で、全く質問は
効果がなかった。<
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
志恩ー

はうらひとひら様も本音の時代様も
谷口雅春先生が、解説されていらした
【天之御中主神、次に高御産巣日神次に神産巣日神。
此の三柱(みはしら)の神は、
並(みな)独神(ひとりがみ)】

の、「独神」とは、どのような神なのかを、
しっかりと理解されておられて、さすがでいらっしゃると
存じました。

谷口雅宣総裁先生は、ご自分の頭で、思い込んだ
”天之御中主神は、独神(ひとりがみ)”という
解釈によりまして、
あろうことか、
實相額の前に、造化の三神をお祀りされて、
谷口雅春先生の教えを補充されたような
満足感を得ておられるのだと、失礼ながら思って
おります。

大体、雅宣先生は、霊的見地から「古事記」を学ばれたこともなく
学びたいとも思われなかったのではないかというふうにお見受けします。

「新教連」を教団から追放した理由は、「新教連」が「古事記」を
教えているからだという理由だったと、聞いたことがございます。
真偽のほどは、わかりませんけれど。
それが、事実なのでしたら、とんでもない愚かなことです。

私が、原宿本部時代から尊敬していて親しくさせていただいていた
谷口雅春先生が、最も信頼していると言われていた新教連講師の
野木清司先生が、教団に居られなくなったからという理由で、
教団を去り、独自に始められた古事記の勉強会である
「和耕軸(塾でなく、軸)」という古事記の勉強会へ、
縁あって、結婚後、私は、入会しておりまして、
毎月、会費を納めながら、それは、通信教育でしたが、
毎月、会員には
野木先生がテープに講話を録音したものが、送られてきていたの
ですが、そのような方法で、私は、「古事記」は、個人で学び続けて
おりましたから
「古事記」をあまり知らない方々よりは「古事記」については、詳しいです。

(野木清司先生は教団を離れて、伊勢神宮の離れで、
伊勢神宮の宮司さんに信頼されて、ひっそりと暮らして
おられましたが、死ぬまで、唯一の師は、
谷口雅春先生だとおっしゃっておられた先生でした)

その野木先生の新教連の書は数冊、ありますが、その中に、
「古事記物語」というのがございます。

その10ページ、11ページに、
【天之御中主神は、独神(ひとりがみ)】の意味が、
詳しく書いてございます。


⭕️谷口雅宣総裁先生は、「独神」=「ボッチ」と解釈されました。
ですから、造化の三神を、祀られたのでしょうね。

しかしこれは、谷口雅春先生、野木清司先生の解釈とは、まったく
異なる解釈を、雅宣先生は、独自で、されておられる。

それは、
元々の、生長の家の教えとは、別の、雅宣教の教えだと
私は、 造化の三神を、全国組織に命じて。祀らせた時、
そのように痛感いたした次第です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
新教連発行、筆者は、野木清司先生の、
「古事記物語」の10−11ページからの引用ー

>昔ー昔ー大昔のお話です。
どのくらい昔のことか。と申しますと、この宇宙には
地球もー
太陽もー
星もー
星雲も無かったほどの、昔のことです。

そこは、現在科学的には真空と言われている
世界の、そのまたもっと本質に近く、高天原と
よばれている、理念と法則の世界です。

その高天原には、
”天之御中主神”という神様お一人の言葉だけが
鳴り響いておりました。ー

”天之御中主神様”の神意に、明るく、楽しい、円満完全な
理想が完成しました時、ー

”高御産巣日神”という”天之御中主神様”の理念を司る神様と

”神産巣日神”という、”天之御中主神様”の理念を、現象世界に
表現していく、

正反対の方向を司るお力を持ったお二人の
神様が、お生まれになりました。

お二人の神様がお生まれになりましたので、
高天原には、三人の神様が並んでおいでのように
思われますが、

⭕️三人でお一人という 独神(ひとりがみ)の神様なのです。

⭕️そして、お姿は現象世界に見せることのない。”隠身”なのです。

三人がお一人で、その上、お姿をお隠しになっているのは、
どうしてかと申しますと、

”天之御中主神様”は、木の種を宇宙としますと、
その種の中いっぱいに満ちている生命のようなお方だからです。<

(⭕️は、志恩がわかりやすくするために付け加えました)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
つまり、三人で おひとりの神というのが、独神の神様、という意味。
神様が、三人いる のでは ないし、
ぼっち神(独身の神)という意味でもない のです。

そして、谷口雅春先生は、その神様は、隠身だと書いておられました。
わざわざ、祀らない神様だということでした。

谷口雅宣先生は、谷口雅春先生の教えでは、そのようには説いて
おられないことを、ご自分の思いつきや考えで、次々に行われる先生で
いらっしゃるな、というのが、古くからの信徒である私の感想です。

谷口雅宣先生は、お父様の二代目の谷口清超先生のことは、大変敬慕
されていらしてて、かけがえのない清超先生と、よくもうされます。

しかし、雅春先生については、かけがえのない先生とは、おっしゃいません。
余程、雅春先生のことは、気にくわないことが、おありになったのかしらと、
雅宣先生の数々の正直なお気持ちの発露であるコメント類を読むたびに、
そのように感じます。

これは、私の間違った受け取り方なのでしょうか。
でも、ご講習会に行って雅宣先生のご講話を拝聴しても
懐かしいおじいちゃん、かけがえのないおじいちゃんという言葉は、
いいエピソードもですが、ただの一度も聞いたことがありません。
そこが信徒として、
正直言って、いつも寂しいな、と思いながら、ご講習会を後にして帰る
道道、考えることでございます。

雅宣先生にとって、お父様の清超先生が、なぜ、そんなにも、
雅宣先生が、よくおっしゃるような、雅宣先生にとっては、
かけがえのない先生なのか、ということを考えますと、

私は原宿本部を、結婚を機に退職した後、何度も何度も原宿本部へ
行っている人間なのですが、
それは、谷口雅春先生が九州に越されました後で、
清超先生が総裁先生になられて、雅宣先生が副総裁に
なられていらした時のことですが、

原宿本部の私の知っている後輩の本部職員数人と本部にて、
親しくお話ししましたら、
本部職員の方々が、口を揃えて、私にこう言われたのです。

「清超先生が、総裁だけれど、全実権を握っているのは、
息子の雅宣さんなのよ。
なぜかというとね。清超先生は、雅宣さんのいうことは、
100%受け入れてるから、
なんでもかんでもハイなのよ、息子さんのいうことには。だから、
何事も、決めているのは、雅宣さん。
それに対して、逆らえる人は、本部には、今、誰ひとり、
いないの。逆らえば即、首にさせられるから
誰も逆らえないのが現実なのよ」と
そっと教えてくれました。

清超先生は、優しくて、深切でとてもいい先生です。
私も個人的には、大好きな先生です。

清超先生は、雅春先生が、総裁先生の時も、
雅春先生のおっしゃることは、
100%ハイで生きてこられたのではないでしょうか。

ですが、清超先生が、総裁になられたのは60歳すぎて
からですから、
頼りになる信頼できる頭のいい
30代の息子が副総裁になり、自分を全面的に支えてくれてる
のですから、すごく嬉しくてありがたくて、
今度は、息子の雅宣さんのいうことを、全面的に
100%受け入れて、生きておられたのではないのですか。

そして、雅春先生が、いうことよりも、雅宣さんのいう
ことを優先して、雅宣さんのことを、雅春先生から、
全面的にかばっていらした、生涯を通じて、雅宣さんの
味方をされていらした。
なので、雅宣先生にとっても、ご自分たちご夫婦にとっても、
かけがえのない素晴らしい清超先生だったのではないでしょうか。

石信仰もノーミートも、環境問題も前面に出せば、
新しい信徒は、なかなか
生長の家に入信しないでしょうね。
古い信徒は、やめていくでしょうね。
そのことも充分、雅宣総裁ご夫妻は、納得されているはずです。

全国の組織に属しておられる幹部の皆様も、心の底でも、
わかっていることですが、決して
口には、出せないことです。
うっかり言えば、即、左遷、首にさせられますから。

ですから、古くからの信徒の皆様たちは、組織には属さずに、
各々、谷口雅春先生の著書を拝読して、生長の家信徒で、
いるのだと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
志恩ー

はうらひとひら様、本音の時代様、

全国の組織に属しておられる多くの幹部の皆様が、

口に出しては決して言えない大切なことを、

思い切って書いてくださいまして

このたびは、誠に、ありがとうございました。




今の教えも受け取らなければ、よいだけの話です。その2 (61018)
日時:2023年09月11日 (月) 23時10分
名前:本音の時代

>古い信徒は、やめていくでしょうね。

やめないでほしいですね。
生長の家教団なので、谷口雅春先生の教えを学ぶ信教の自由があるのです。雅宣さんがそれを咎める行為をすれば、信教の自由を侵すことになるのです。ましてや、雅宣さんは創始者の教えを継承している地位にいる人なのだから。
古い信徒は創始者の教えを学ぶ場を広げてほしいですね。

 (61019)
日時:2023年09月11日 (月) 23時26分
名前:本音の時代

志恩さん、造化の三神の記述ありがとうございます。
私は造化の三神のことはよくわかっていないのでした。
単純に谷口雅春先生は必要がないから造化の三神を祀らなかった。
それだけのことなのです。

徳久克己先生は講話の中で生長の家を信仰するというのはについて話されていて、それを例えにするならば、雅宣さんの言葉を信仰することは、それは生長の家ではなく雅宣教であるとなります。

本音の時代様 (61022)
日時:2023年09月12日 (火) 06時23分
名前:志恩

いつも貴重な書き込みをありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。

『両(ふた)つの世界』 (61044)
日時:2023年09月13日 (水) 20時35分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

生長の家は人間が神に直結する運動と理解しております。
それは人間は神の子であり、神と直結しているので
ありますから、神に直結している、という自覚を得さえ
すれば、よいと思います。その自覚の確認が「神想観」
であると思います。
真理は時代を超えて「永遠不滅」であります。
今の教えとか、真理が時代遅れというのであれば、
『聖書』は古すぎて、時代にあわないのでしょうか。
時代や環境によって変わらないものが、真理であります。
立教の使命に立ち帰り、宇宙的スケール、今、此処、極楽
を味わいましょう。

教団のいう 〜神・自然・人間が大調和した“新しい文明”
に向けて〜について思うことです。

・神について

《 【両(ふた)つの世界】

人は両(ふた)つの世界に住んでいます。
その一つは「創世記」第二章七節に「エホバ神、土の塵
(ちり)を以(もっ)て人を造り」と書いてある人間
――物質的存在として、肉体的存在として幾様(いくよう)
にも物質に縛(しば)られている人間であります。
もう一つは「創世記」第一章二七節に
「神その像(かたち)のごとくに人を創造(つく)りたまえり
・・・神その造りたる諸(すべ)てのものを視(み)たまい
けるに甚(はなは)だ善(よ)かりき」とある神のイメージ
としての人間、至善至妙(しぜんしみょう)自由自在としての
人間であります。この二つの人間、実相の人間と物質の人間
とが、「創世記」第二章の後半で交錯しているのであります。
ここに迷いの元があります。すなわち「土の塵」という物質的
制約の中へ、神はその精霊(せいれい)なる「生命(いのち)
の気を吹き入れ給うた」――それによって人間は「生きる霊」
から「生ける物」へと転落したのであります。
実際は転落したのではない、五官の眼が迷って霊が物へと転落
したように見えているだけであります。
ここに人間は自由自在であると同時に、不自由極(きわ)まる
物質的制約の中にある、いわゆる現象人間が出来上がった
のであります。
それで「土の塵」にて造られたる(換言(かんげん)すれば
物質にて創(つく)られたる)人間ばかりを見ていて、
これが「人間」であると思っている人間は、「エデンの園」
(自由自在の実相境(きょう))を逐(お)い出された
不完全な罪ある人間ばかりを観て、人間は罪人だ、罪人だ
と言っているのであります。そういう人には五官に見える
物質的な人間ばかりしか視えないのですから、無罪、無病、
不苦(ふく)不悩(ふのう)な「神の造ったままの人間」
(「創世記」第一章において神が「己(おの)れの像(かたち)
に造った人間)が視えないのです。そして人間は罪あるもの、
病にかかるもの、苦しむもの、悩むものだと思っているのです。
そう思っているから自分の「念の創作力」によって罪を顕
(あら)わし、病を現わし、苦しみ悩んでいる――
言い換えれば「創世記」第二章のように、エデンの楽園から
逐(お)い出されているのであります。
神は、病にかかるような人間をなぜ創造(つく)ったか。
罪を犯(おか)すような人間をなぜ創造ったか。
不完全に人間を創造っておきながら、
神はなぜ人間を罰(ばつ)するのか。
神は力が足りないのか、理性(りせい)を失っているのであるか。
・・・反クリスチャンのこうした反駁(はんばく)に答えうる
人はいわゆるキリスト教徒にはほとんどないのであります。

そういうキリスト教徒には、「創世記」の第一章にわれらの
創造主(つくりぬし)なる神が、明らかに“Elohim"と録
(しる)されており、第二章では“Jehovah”と録され
ているのに気がつかないのであります。
「エロヒム神」がわれらの創造主(つくりぬし)であり、
エホバ神はわれらの「ニセ物の創造主」なのであります。
「エロヒム神」は靈なる「言葉」をもってわれら人間を
神の像(みすがた)のごとく完全に罪なく悩みなく創造
り給うていっさいの物を支配する権利を与え給うたので
あります。「エロヒム神」を創造主とせる人間は靈的実在
であって罪もなければ病もない、悩みもなければ苦しみ
もないのであります。
ところが「創世記」の第二章では、われらの「エロヒム神」
がいつのまにか、「エホバ神」という名前に擦(す)り
かえられているのであります。諸君はここに気をつけねば
なりません。・・・
本当の親神を信ずるのが本当の正しい信仰であります。》
(『生命の實相』頭注版 第23巻 75〜78頁)

《 第一義の神様は姿形が見えずして偏在(へんざい)で
あり、宇宙到る処に、何処(どこ)にでも充満(じゅうまん)
してをられて、吾々の生命(いのち)となってをられる。・・・
第二義の神様は第一義の神様の無限の姿の一つの化身(けしん)
として現ず。たとえば観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)とか、
白髪の老翁の姿の神様というようなお方。
第三義の神様は霊魂(れいこん)即(すなわ)ち霊魂(みたま)
の神。
(『神ひとに語り給ふ』神示講義教の巻 108.119頁)


・ 自然とは

《  ・・・「自然」とは、物質以前の不可視(ふかし)の
本体であるから、「神」なのである。》
(『新版 真理』第10巻 74頁)

《 自然は第三義の神様に属する。
人間の心が和順(わじゅん)すれば、自然環境も和順す。
黴菌(ばいきん)も自然靈である。
(『神ひとに語り給ふ』神示講義教の巻 113頁)


《 すべての生命の動き――それが行動にせよ、生理作用
にせよ――あらゆる生命のいとなみの奥には、想念と感情
とが織(お)り合(あ)わされて、あなた達の生活の織物
(おりもの)は織(お)り成(な)されているのである。
その想念感情の奥には過去の想念感情及び行動並びに言葉
の蓄積が業力(ごうりき)となって操(あやつ)っていて、
それが太陽系統から放射されたる神秘的な霊的糸と繋(つなが)
っていて人間の運命に大いなる影響を与えているのである。
地震、津波、集中豪雨(ごうう)、台風の進路などもその
神秘的な霊的糸の操りの関係から起って来るのであるから、
人間の物理学などで、地震や、台風や、水位の上昇が、
何処(どこ)に何時(いつ)起(おこ)るなどと研究して
みたとて、そういう物質的面のみからの研究ではわかりっこ
はないのである。》
(『神真理を告げ給う』 113.114頁)


■ 体験

・2020年(令和2年)8月、台風9号・10号が九州方面を直撃
する様相を呈していた。その前月、同じ九州に豪雨が
あった。私はとてもその状態を直視出来なくて、真剣に
祈った。当日台風はどちらも九州から下がって、被害が
少なかった。気象予報士は説明のつかない状況であると
説明していた。私が祈ったからとは言わないが、何か
わからないが、感じられる事があった。

・20年程前国立系の研究所でスーパーコンピューターを
導入して、「地震予知研究棟」を立ち上げた。
私は、ほお!と思った。予知が出来るのかと。
10年程後、その名称は、「地震調査研究棟」と名称が変更
された。私は内心ほっとした。人間知恵、物理学などですべてが
わかる筈はないと思った。

・ある春の日、伝道で一人個別訪問をしていた時。
あるご家庭を祝福した後、チャイムを鳴らそうとした時である。
サーという音のない音がして後ろを振り返ると、
「大生命のみ空から光線のように降りそそぐ生命の讃歌」
そのままに、黄金色の荘厳な輝きを帯びた、妙なる光が
間断なく降り注いでいた。畑には花々が咲きこぼれ、猫が
蝶(ちょう)と戯れていた。穏やかな、安らかな永遠の
平和が続くような春の時がそこにあった。
その妙なること言語に絶(ぜつ)すとの表現がそこにあった。
平易な日常のすぐ奥に、このような極楽世界が常にある事
を昂然(こうぜん)と実感した。


☆ 真理

《 【エホバ神は観世音菩薩と同じである】

“蛇の智慧"を“唯物論的人間観"であると解するならば、
その蛇の呪縛(じゅばく)から脱却(だっきゃく)して
自由を得るには、“唯物論的人間観"を精算しなければ
ならないのは当然であるのである。唯物論的人間観から
脱却するには、靈的人間観ーそしてしかもそれは、神一元
の、神のみ実在するとの唯神実相論哲学に超入することが
必要なのである。唯神実相を自覚したとき、ただ神以外
のものを拝まなくなり、畏(おそ)れなくなり、無畏
(むい)の境涯(きょうがい)に入ることができるのである。
一切の“悪"や“災い"や“貧しさ"や“病い"には何ら実在性
はなく、ただ妄想の“心の力"が仮りに力を賦与(ふよ)
したものであるから、“心の力"を抜いてしまえば、それは
存在から消されてしまうことになるのである。
そしてエホバ神とは宇宙普遍の“心の法則"であり、時には
人格的姿をもってわれらに呼びかけ給うことがあるけれども、
それは仏教においては、観世音菩薩が観自在(かんじざい)
の原理であって、“世音"すなわち世の中の人々の心を
観じ給うて、相手の心相応の姿に、三十三身にまでお姿を
変貌(へんぼう)し給い、時には夜叉身(やしゃしん)
を現じて、それによって相手を善導(ぜんどう)したまうのだ
と説かれているのであるが、それと同じく、旧約聖書においては、
エホバ神が“怒りの神"“嫉(そね)みの神"“復讐の神"
と観じて相手を救い給うというように表現されている
のである。すなわち観世音菩薩もエホバ神も宇宙普遍の
「観自在(かんじざい)・応現自在(おうげんじざい)の
“心の法則"であり、相手の心に応じて時には夜叉神と
現じ、ときには“怒りの神"と現じて人々にあらわれ
給うのである。》
(『如意自在の生活365章』 309.310頁)

△ 思う事

現教団が、“新しい文明 ″といいながら、石積などを
しているのは、文明の概念自体が物質の唯物論的考えで
あり、物質は無いから、消滅するしかないのである。
認めなければ、存在に入らず、やがてそれは消えていくもの
である。光を点じれば、暗(やみ)は消えるように、唯物論
は実相哲学の前に消滅し、無になって消えるのである。


ありがとうございます。









@ はうらひとひら様   (61051)
日時:2023年09月14日 (木) 12時33分
名前:志恩

『両(ふた)つの世界』 (今回の、はうら ひとひらのテーマ)

>生長の家は人間が神に直結する運動と理解しております。
それは人間は神の子であり、神と直結しているので
ありますから、神に直結している、という自覚を得さえ
すれば、よいと思います。その自覚の確認が「神想観」
であると思います。
真理は時代を超えて「永遠不滅」であります。
今の教えとか、真理が時代遅れというのであれば、
『聖書』は古すぎて、時代にあわないのでしょうか。
時代や環境によって変わらないものが、真理であります。
立教の使命に立ち帰り、宇宙的スケール、今、此処、極楽
を味わいましょう。

教団のいう 〜神・自然・人間が大調和した“新しい文明”
に向けて〜について思うことです。<

>・神について

《 【両(ふた)つの世界】

人は両(ふた)つの世界に住んでいます。
その一つは「創世記」第二章七節に「エホバ神、土の塵
(ちり)を以(もっ)て人を造り」と書いてある人間
――物質的存在として、肉体的存在として幾様(いくよう)
にも物質に縛(しば)られている人間であります。
もう一つは「創世記」第一章二七節に
「神その像(かたち)のごとくに人を創造(つく)りたまえり
・・・神その造りたる諸(すべ)てのものを視(み)たまい
けるに甚(はなは)だ善(よ)かりき」とある神のイメージ
としての人間、至善至妙(しぜんしみょう)自由自在としての
人間であります。この二つの人間、実相の人間と物質の人間
とが、「創世記」第二章の後半で交錯しているのであります。
ここに迷いの元があります。すなわち「土の塵」という物質的
制約の中へ、神はその精霊(せいれい)なる「生命(いのち)
の気を吹き入れ給うた」――それによって人間は「生きる霊」
から「生ける物」へと転落したのであります。
実際は転落したのではない、五官の眼が迷って霊が物へと転落
したように見えているだけであります。
ここに人間は自由自在であると同時に、不自由極(きわ)まる
物質的制約の中にある、いわゆる現象人間が出来上がった
のであります。
それで「土の塵」にて造られたる(換言(かんげん)すれば
物質にて創(つく)られたる)人間ばかりを見ていて、
これが「人間」であると思っている人間は、「エデンの園」
(自由自在の実相境(きょう))を逐(お)い出された
不完全な罪ある人間ばかりを観て、人間は罪人だ、罪人だ
と言っているのであります。そういう人には五官に見える
物質的な人間ばかりしか視えないのですから、無罪、無病、
不苦(ふく)不悩(ふのう)な「神の造ったままの人間」
(「創世記」第一章において神が「己(おの)れの像(かたち)
に造った人間)が視えないのです。そして人間は罪あるもの、
病にかかるもの、苦しむもの、悩むものだと思っているのです。
そう思っているから自分の「念の創作力」によって罪を顕
(あら)わし、病を現わし、苦しみ悩んでいる――
言い換えれば「創世記」第二章のように、エデンの楽園から
逐(お)い出されているのであります。
神は、病にかかるような人間をなぜ創造(つく)ったか。
罪を犯(おか)すような人間をなぜ創造ったか。
不完全に人間を創造っておきながら、
神はなぜ人間を罰(ばつ)するのか。
神は力が足りないのか、理性(りせい)を失っているのであるか。
・・・反クリスチャンのこうした反駁(はんばく)に答えうる
人はいわゆるキリスト教徒にはほとんどないのであります。

そういうキリスト教徒には、「創世記」の第一章にわれらの
創造主(つくりぬし)なる神が、明らかに“Elohim"と録
(しる)されており、第二章では“Jehovah”と録され
ているのに気がつかないのであります。
「エロヒム神」がわれらの創造主(つくりぬし)であり、
エホバ神はわれらの「ニセ物の創造主」なのであります。
「エロヒム神」は靈なる「言葉」をもってわれら人間を
神の像(みすがた)のごとく完全に罪なく悩みなく創造
り給うていっさいの物を支配する権利を与え給うたので
あります。「エロヒム神」を創造主とせる人間は靈的実在
であって罪もなければ病もない、悩みもなければ苦しみ
もないのであります。
ところが「創世記」の第二章では、われらの「エロヒム神」
がいつのまにか、「エホバ神」という名前に擦(す)り
かえられているのであります。諸君はここに気をつけねば
なりません。・・・
本当の親神を信ずるのが本当の正しい信仰であります。》
(『生命の實相』頭注版 第23巻 75〜78頁)

《 第一義の神様は姿形が見えずして偏在(へんざい)で
あり、宇宙到る処に、何処(どこ)にでも充満(じゅうまん)
してをられて、吾々の生命(いのち)となってをられる。・・・
第二義の神様は第一義の神様の無限の姿の一つの化身(けしん)
として現ず。たとえば観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)とか、
白髪の老翁の姿の神様というようなお方。
第三義の神様は霊魂(れいこん)即(すなわ)ち霊魂(みたま)
の神。
(『神ひとに語り給ふ』神示講義教の巻 108.119頁)


・ 自然とは

《  ・・・「自然」とは、物質以前の不可視(ふかし)の
本体であるから、「神」なのである。》
(『新版 真理』第10巻 74頁)

《 自然は第三義の神様に属する。
人間の心が和順(わじゅん)すれば、自然環境も和順す。
黴菌(ばいきん)も自然靈である。
(『神ひとに語り給ふ』神示講義教の巻 113頁)


《 すべての生命の動き――それが行動にせよ、生理作用
にせよ――あらゆる生命のいとなみの奥には、想念と感情
とが織(お)り合(あ)わされて、あなた達の生活の織物
(おりもの)は織(お)り成(な)されているのである。
その想念感情の奥には過去の想念感情及び行動並びに言葉
の蓄積が業力(ごうりき)となって操(あやつ)っていて、
それが太陽系統から放射されたる神秘的な霊的糸と繋(つなが)
っていて人間の運命に大いなる影響を与えているのである。
地震、津波、集中豪雨(ごうう)、台風の進路などもその
神秘的な霊的糸の操りの関係から起って来るのであるから、
人間の物理学などで、地震や、台風や、水位の上昇が、
何処(どこ)に何時(いつ)起(おこ)るなどと研究して
みたとて、そういう物質的面のみからの研究ではわかりっこ
はないのである。》
(『神真理を告げ給う』 113.114頁)<

志恩ー
はうらひとひら様は、谷口雅春先生がお説きくださいました
本物の教え(真理)の真髄をしっかりと把握されていらっしゃる
すごいお方で、生長の家に触れられたのが今から30年前の
お方だなんて、思えない心から尊敬申し上げずにはおられない
お方でいらっしゃいます。
私は、古いだけの信徒ですが、いつも、はうら様の投稿文を
拝見するたびに、目から鱗が落ちております。
いつも、大事なことを教えてくださいまして、
ありがとうございます。
ーーーーーーーーー

■ 体験(この度の、はうら様の体験談)

>・2020年(令和2年)8月、台風9号・10号が九州方面を直撃
する様相を呈していた。その前月、同じ九州に豪雨が
あった。私はとてもその状態を直視出来なくて、真剣に
祈った。当日台風はどちらも九州から下がって、被害が
少なかった。気象予報士は説明のつかない状況であると
説明していた。私が祈ったからとは言わないが、何か
わからないが、感じられる事があった。

・20年程前国立系の研究所でスーパーコンピューターを
導入して、「地震予知研究棟」を立ち上げた。
私は、ほお!と思った。予知が出来るのかと。
10年程後、その名称は、「地震調査研究棟」と名称が変更
された。私は内心ほっとした。人間知恵、物理学などですべてが
わかる筈はないと思った。

(略)

☆ 真理
《 【エホバ神は観世音菩薩と同じである】

>後略<

つづく







A続・はうらひとひら様(長文になりますので、2つに分けました) (61052)
日時:2023年09月14日 (木) 12時39分
名前:志恩

>・ある春の日、伝道で一人個別訪問をしていた時。
あるご家庭を祝福した後、チャイムを鳴らそうとした時である。
サーという音のない音がして後ろを振り返ると、
「大生命のみ空から光線のように降りそそぐ生命の讃歌」
そのままに、黄金色の荘厳な輝きを帯びた、妙なる光が
間断なく降り注いでいた。畑には花々が咲きこぼれ、猫が
蝶(ちょう)と戯れていた。穏やかな、安らかな永遠の
平和が続くような春の時がそこにあった。
その妙なること言語に絶(ぜつ)すとの表現がそこにあった。
平易な日常のすぐ奥に、このような極楽世界が常にある事
を昂然(こうぜん)と実感した。<


志恩ー
上記の、はうらひとひら様の体験談を読ませていただきまして、
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
渋谷晴雄先生著「光と風を聴く」に書かれている「至高体験」
のことを書いた小林秀雄氏と、渋谷晴雄先生の言葉を、
思い出しておりました。

この書の、谷口雅春先生の推薦の序文のお言葉を、一部引用します。

>存在していると見えるものに、真実の存在と虚像とがある。
たいていの人々は虚像を真実と思いちがえて、虚像の中に
むなしき生活を生きているのである。この書は、真実の存在を
知り、真実の世界に生活させてくれる導きとなることが確かである。<

渋谷晴雄(先生)ー
p11
1,美を訪ねる
ー小林秀雄(氏)の「美を求める心」をめぐってー
「美しさの経験」

(小林秀雄ー)
「私は、美の問題は、美とは何かというような面倒な議論の問題
ではなく、私たちのめいめいの小さな、はっきりした美しさの経験
が根本だとかんがえる」と述べられているように、
小林秀雄はこの論で「美について」の美学的饒舌ではなく、
「美しさ」というものを、
めいめいに経験せよ、と言っているようである。」


インドの聖者ラーマクリシュナの6歳の時の体験(p12一部引用)
「わたしは、稲田の間を仕切る狭い畦道を通っていた。
飯をムシャムシャ食べながら、眼は空にむけたわたしは黒い嵐雲が
瞬く間に広がるのを見た。それは空いちめんを覆った。....突然、
その雲のへりをかすめて、雪のように白い鶴が、わたしの頭上を
よぎった。その対象があまりに美しかったので、わたしは意識を失って
倒れた。。。誰かがわたしを抱き上げ、家までかかえて行った」
あまりの美しさにラーマクリシュナは失心してしまったのである。


小林秀雄も、
彼自身、初めてゴッホの麦畑の絵を見た時、「腰が抜けて動けなくなった」
とその感動について述べている。「美を求める心」のなかでも、彼は、いやおう
なしに迫ってくるものに打たれ、沈黙を強いられ、それに耐えている時間、
それが美の体験ということなのだ、という。

次に、画家の林 武氏の体験も書かれていますが、長文なので省略します。

この著書の中で、渋谷晴雄先生もご自身の至高体験の体験談も詳しく書いて
おられますが、至高体験とは、、本当の存在に触れる体験だと思います。

宗教的に言えば、現象の奥にある実相に推参すること。
本当にあるものに触れ、打たれること。

渋谷晴雄ー(p150より)
私たちの人生の一瞬一瞬は神の智慧と愛と生命で満ち満ちています。
それはあらゆるものの内奥に隠れ、それが見事に花開きます。
目を開いてみると、あたりは神秘的な美しさでいっぱいです。
素直な、幼子のような魂には、その驚きで、存在の美しさが開示されます。

自然というものが、ヴェールを取り去って美しく輝くのに出会います。
その自然は、実は、私たちの魂の内部なのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
志恩ー
至高体験とは、実在を実感できる宇宙意識なのだと思います。
はうらひとひら様の得た体験も、その貴い体験の一つだと存じました。

ありがとうございます。

はうら様、次回のご投稿を楽しみにお待ちしております。




『古事記』余滴 (61085)
日時:2023年09月17日 (日) 19時36分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。
志恩 様
小林秀雄氏が出てきたのには、驚きました。
あのキザで明晰(めいせき)な巨人の私見を述べてみたい
と思います。(独断と偏見で)

《 そういう菩薩(ぼさつ)たちが集まって来て、そうして、
哲学中でも最も難解な一番高い実相哲学を、もっとも判(わか)
り易く、それを聞かして頂いて悟りを開く、そしてただ
自分が聞いて悟るというだけじゃなくて、それを
「己(おの)れ未(いま)だ渡(わた)らざるに他の
人達を渡す」と云うハタラキをして頂くのであります。
渡すというのは彼岸(ひがん)に渡す。彼岸とは実相
(ホントニアルモノ。実在)の世界のことであります。
実相の世界を「彼岸」と言い、現象(あらわれて見える
カタチ<つねに変わります>の世界を「此岸(しがん)」
と言います。此方(こなた)の岸、即(すなわ)ち
現象世界におりながら、ここがこのまま実相の世界で
あることを自覚した人が、即ち彼岸を渡った人である
というわけであります。そして彼岸に渡るところの方法
に六つあると言って釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)
が「六波羅蜜(ろくはらみつ)」とこう言われたのであります。
波羅蜜の「波羅」というのは「彼岸」ということです。
これはサンスクリット語でありますけれども、日本の語源
(ごげん)にも、やはり良く似ております。
神道で、実相世界のことを高天原(たかあまはら)という
あの「原(はら)」であります。
その「高天原」−彼岸ー実相の世界というものは、実に
不思議なる世界で、そこにある事々物々はすべて物質では
なく霊的存在であり、相即相入(そうそくそうにゅう)
の世界、相即相入、互いに一つなんです。
互いに一つである。すべての人間が別々のように見えて
おるけれどもみんな一つである。
こういうものの考え方は、これは華厳(けごん)哲学に
ある考え方なのであります。》
(『新版 真理』第7巻 8.9頁)

■  体験、的な・・・

若かった頃、傷ついた心を癒すために旅に出、小諸の
懐古園(かいこえん)で草笛禅師と出会った。
そしてその生き様に触れ、生きる力をいただいた。
その時の事を思い起こしていた時、ふいに『落葉松
(からまつ)』(北原白秋)の情景が浮かんできた。
確かあの時求めた絵葉書があると思い、探してみたが、
引越の際紛失したらしい。やむなくWEBサイトで
検索したところ、『落葉松』の合唱曲が出てきた。
早速聴いてみた。『・・・落葉松の陽(ひ)のある雨に
わたしの思い出が濡れる・・・』重厚な歌だが、何処か
違う。作詞野上彰・作曲小林秀雄とある。
あの『モオツアルト』の小林?やはりそうであった。
昭和47年に作曲されたものらしい。その5年後、小林秀雄
の思想の集大成として、12年かけて
『本居宣長(もとおりのりなが)』が刊行された。
『本居宣長』といえば、源氏物語から万葉集そして古事記
へと研究を進め、言靈(ことたま)の世界に到達したと
言われ、古代人の生き方を、千年の時を経て掴(つかみ)
その源泉に立ち還(か)えさせたと言われる国文学者である。
小林秀雄の『本居宣長』は昭和52年に刊行され、全611頁の
重厚なものである。無謀(むぼう)にも私はそれに挑んでみた。
しかしながらその中に『古事記』の事柄が出てくるのは、
本文の半分以上も過ぎた322頁(28章)からである。
しかし31章で<「古事記」は文學としては、興味あるものだが、
歴史としては、信用するわけには参(まい)らない・・・>
<「古事記」の神代之巻(かみよのまき)の荒唐無稽
(こうとうむけい)な内容は、・・・>と一般大衆に迎合
(げいごう)してしまった。
<・・・「言靈信仰(ことたましんこう)といふ現代語は机上
(きじょう)のものだ(34章)>と小林自身諦観(ていかん)
し投げ出してしまった。
然(しか)らばと梅原猛(うめはらたけし)の『古事記』は
どうかと寄り道してみた。
「自国の伝承(でんしょう)を否定し、自国の神話を否定
してしまった国に未来があるとは思われない」と威勢がよい。
しかしながら始めの文章の一文
< 高天(たかま)の原に・・・>で一発アウト。
何故なら

《 この「高天原(たかあまはら)」というのを「たかまがはら」
と読む人がありますけれども、これは「あま」と読むのが
正しいということが『古訓(こくん)古事記』の頭註
(とうちゅう)に『高ノ下ノ天(あま)ハ“アマ"ト訓(くん)
ズ』とわざわざ書いてあるのであります。だから「たかあま
はら」と読むのが正しいのであります。》
(『古事記と現代の預言』12頁)

渡部昇一(わたなべしょういち)にいたっては
『古事記』はオカルテイズムでエロチックだと述べている。
しかし渡部の紹介文で

「この著書の『古事記論』は靈的に他に類を見ない
第一級の図書である」として、激賞(げきしょう)している。
尊師谷口雅春先生の戦前の『古事記講義』であり
戦後の『古事記と現代の預言』がそれである。

尊師は歴史を研究する目的について
《「その歴史を掴(つか)む事によって、『今』を知り、
『未来』を知りそして、『久遠(くおん)』を知る事が
出来る。日本人よ、もっと自己の尊厳(そんげん)を知り、
自国の尊厳を知れ。世の事物は象徴(しょうちょう)である。》
(『古事記と現代の預言』 序より)

『古事記』はすべて漢字(中国語)で書かれている。
その当時漢字しかなかった。しかしどうしても居心地
(いごごち)が悪い。そこで賀茂真淵(かものまぶち)
や本居宣長は、漢字と漢字の字音と和訓(わくん)を
併用して書き表す表記法を考え出した。それは日本古来から
もっていた本来の思考法で、言葉の響(ひび)きの中に
全てが存在し、そこから全てが発生すると捉(とら)えていた。

本居宣長はこの事を
「敷島(しきしま)の やまと心を人とはば
朝日ににほふ やまざくら花」
と詠(えい)じた。
しきしまの“し"は静かのし、“き"は極(き)で、頂上の
現れ、宇宙(くに)静か、世界の精神の雰囲気が和順
(わじゅん)になる。日本国とはそのような、明(さや)
かな、清々(すがすが)しい柔らかな国、もののあはれ、
しみじみとした同情、共感、そして優美さ、繊細(せんさい)
さ、可憐(かれん)さ、を宣長は直観(ちょっかん)で
知っていた。水源(理念)のない川(結果の現れ)は
あり得ない。

(元始(はじめ)に言靈(ことたま)あり。言霊は神とともに
あり。(ヘボン訳・明治元訳聖書)

『しきしまの 大和の国は 言靈のさきはう国ぞ
まさきくありこそ』
(柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)・万葉集3254)


☆  真理


《 霊的文化と物質文明

こうして伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が
「自分はこれから唯物論で汚(けが)された世界の禊
(みそ)ぎ祓(はら)いをしなくてはならない」
というので、禊ぎ祓い(世界浄化)をされた時に生まれて
きたところの神様が、住吉(すみのえ)の大神であるので
あります。
(『古事記と現代の預言』95.109頁)


△  思う事

尊師の聖典の中でも特に
『叡智の断片』『ヨハネ伝講義』『古事記と現代の預言』
は言靈を駆使して読み解かないと、その真意がなかなか
伝わってきずらい。ところが生長の家の信徒は、楽々と
それを乗り越えて、体得し、それを生きておられるよう
です。凄い事だと思う。
皆様哲学者でいらっしゃると思いました。


ありがとうございます。









はうらひとひら様   (61103)
日時:2023年09月18日 (月) 20時08分
名前:志恩

はうら様は小林秀雄のことも、詳しくご存知で
いらしたのですね。

あの原宿本部時代ですから、今から約60年前のこと、
山口悌治先生はじめ、渋谷晴雄先生、佐脇嘉久先生、
林光彦先生など、本部で知的水準の高くていらした
先生方が、こぞって、小林秀雄のことを高く評価して
何かと話の中に出てこられた人物のお一人が小林秀雄
でした。あと高坂なんとかというお方の名も上がっており
ました。高坂 正堯だったかしら。
私は、小林秀雄というお名前だけは、記憶いたしておりましたが、
そのお方についての詳細は、知りませんでした。
このたびは、詳しく教えてくださいまして、とても嬉しかったです。
ありがとうございました。



『神の手』 (61116)
日時:2023年09月20日 (水) 17時14分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。
今回と次回は、生長の家に入信前、後の肉体的な
体験です。前は『神の手』後は『指なくして堅(た)つ指』
二人の医師からいただいた、不思議と思える体験です。
(生長の家の真理に深い皆様への体験報告としては、当たり前の
事かと、思いますが。)

この体験とは余り関係ない真理からです。
(あくまでも、『病なし』の真理から外れます事、
お許し下さい)

《 薬が最もよく効(き)くのは、薬に対する人類の信念と、
薬を与える医者の信念と、それをもらう患者の信念とが
ピッタリと合ってクライマックスに達したときであります。
ところが難治病者(なんちびょうしゃ)は、
(1)自分自身にこの薬をのんだら必ず効くという信念なく、
(2)医者自身この薬で彼を治しうるという自信なく、
(3)人類全体が「薬では治らぬ」と信じているのですから、
薬の最も良く効く部分(信念)が去勢(きょせい)されて
しまっていて何もない。否(いな)むしろ「薬では治らぬ」
という人類的信念の心的波動の影響を受けて、薬を用いれば
用いるほど治らぬことになるのであります。》
(『生命の實相』頭注版 第2巻 36頁)

■ 体験

48歳の夏にしては寒々としたある日の昼頃である。
(その年は、どこかで書きましたが、義母、当時の勤めて
いた職場の社長、工場長、相談役、私の仕事上のパートナー
だった外注先の女性社長が突然現界から姿を消していた)
10分間程、地底に引き込まれそうな、精神の異常を覚えた。
30分程机に伏せていたが、やっと動けるようになったので、
自宅に電話した。妻が「頭の何か異常かもしれないから、直ぐ
医者に行って」と言う。
その少し前、妻の母(私達と同居していた)が、くも膜下出血
で、急逝(きゅうせい)したばかりであった。
とは言え、その義母の看病やら、葬儀(そうぎ)やらで休んで
かなり仕事が停滞(ていたい)していたので、昼休み後に
職場の近くの『やぶ医者』と言われている所に行った。
医療機器などほとんどない、診療用ベッドが一個あるだけで、
奥さんが受付兼看護士の仕事をされていた。
医師もかなり年配の方であった。
「どうしました」
「頭が気持ち悪くて」
すると、いきなりベッドに横にさせられた。
頭だと言っているのに・・・
そして、お腹を触診していたが、不思議な事を言い出した。
「お腹に何か盛り上がるものがあるので、至急大きな病院で
検査してください。至急ですよ」という。
あとは、何もしなかった。
頭の違和感など無かったように。
私は、頭でなかったのか、と思いそのままにしておいた。
3日後、その医師から、自宅に電話があり、私が検査に大きい
病院に行ってなかった事を知り、妻が怒られたという。
「何をしているのですか。至急と言った筈です。すぐ行かせて
ください」と。
週末、大きな病院で、お腹周辺のエコー検査を受けた。
すぐ終わりますよ、といわれたのが、3名の検査技士が
3回検査し、1時間以上かかった。
そして、腎臓周辺に異常に大きなものがあるので、
これを取り除く必要があります。こちらでも手術は出来る
のですが、安全を見て、専門病院を紹介します、と言う。
「取らないと駄目ですか」と私。
「腎臓は二つありますから、一つ除(と)っても大丈夫です」
そんなものかと思った。
紹介された所は、都内有数の癌専門病棟である。
(入院日直前徹夜して、仕事を終わらせ朝方病院に向かった)
病室は私以外の人は皆、癌だと言って、放射線治療などして
いたが、私は何故癌でもないのに、この場所にいるかが不思議
であった。
その頃、家族や兄弟は大騒ぎをしていたらしい。
巨大な癌が腎臓周辺を取り巻き、手術しても、駄目な時は、その
まま閉じると言われたらしい。
兄弟の中で、喪服(もふく)の用意をしだしたらしい。
(この病院では、生存率の低い患者には告知をしないらしい)
そして、手術2日前の事、姉の神癒祈願の賜物か、読んでいた
カーネギーの『道は開ける』の開いた頁一杯に『住吉大神』
が顕われ「何も心配する事はない。全ては任せてなさい」と
ご尊顔と言葉、文章とで示された。
(勿論この方が、住吉大神と知ったのは、生長の家入信後、
2年程たってからであったが)
そして、そのご尊顔が、ふっと、微笑(ほほえ)まれた。
それは、大きな安心感があった。
手術は成功し、腎臓とともに、腎臓の2倍ほどある巨大な
癌腫(がんしゅ)は、自分で自滅して、腐って取りだされた。
しかし、その後手術ミスがあり、医師が、「手術ミスでした」
と謝罪された。どんなに検査しても、出血箇所は見つからず、
5日後の土曜日に、救急車で輸血を取り寄せ、全身麻酔で再手術
し、麻酔医が「もう時間です。終了してください」と言った
直後に出血箇所が見つかり、生還させていただいた。
そして、癌の治療薬は一切使用せずに、3日程化膿(かのう)
止めの薬を飲んだだけであった。
そして、その後、姉がくれた聖典を頼りに、生長の家への
本部を道に迷いながら訪れるのであった。

腎臓は背中の方にあって、お腹の方からは、触診ではわから
ないという。それを、頭の具合が悪いと言って訪れた
『やぶ医者」と言われる医師は、触診でそれを見つけた。
神の手と言わざるを得ない。
理論や机上では説明出来ない世界の体験であった。

ありがとうございます。




はうらひとひら様   (61120)
日時:2023年09月21日 (木) 00時38分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)
『神の手』 (テーマ)

>今回と次回は、生長の家に入信前、後の肉体的な
体験です。前は『神の手』後は『指なくして堅(た)つ指』
二人の医師からいただいた、不思議と思える体験です。
(生長の家の真理に深い皆様への体験報告としては、当たり前の
事かと、思いますが。)

この体験とは余り関係ない真理からです。
(あくまでも、『病なし』の真理から外れます事、
お許し下さい)<

(略)

(はうらひとひら様ー)
>■ 体験

48歳の夏にしては寒々としたある日の昼頃である。
(その年は、どこかで書きましたが、義母、当時の勤めて
いた職場の社長、工場長、相談役、私の仕事上のパートナー
だった外注先の女性社長が突然現界から姿を消していた)
10分間程、地底に引き込まれそうな、精神の異常を覚えた。
30分程机に伏せていたが、やっと動けるようになったので、
自宅に電話した。妻が「頭の何か異常かもしれないから、直ぐ
医者に行って」と言う。
その少し前、妻の母(私達と同居していた)が、くも膜下出血
で、急逝(きゅうせい)したばかりであった。
とは言え、その義母の看病やら、葬儀(そうぎ)やらで休んで
かなり仕事が停滞(ていたい)していたので、昼休み後に
職場の近くの『やぶ医者』と言われている所に行った。
医療機器などほとんどない、診療用ベッドが一個あるだけで、
奥さんが受付兼看護士の仕事をされていた。
医師もかなり年配の方であった。
「どうしました」
「頭が気持ち悪くて」
すると、いきなりベッドに横にさせられた。
頭だと言っているのに・・・
そして、お腹を触診していたが、不思議な事を言い出した。
「お腹に何か盛り上がるものがあるので、至急大きな病院で
検査してください。至急ですよ」という。
あとは、何もしなかった。
頭の違和感など無かったように。
私は、頭でなかったのか、と思いそのままにしておいた。
3日後、その医師から、自宅に電話があり、私が検査に大きい
病院に行ってなかった事を知り、妻が怒られたという。
「何をしているのですか。至急と言った筈です。すぐ行かせて
ください」と。
週末、大きな病院で、お腹周辺のエコー検査を受けた。
すぐ終わりますよ、といわれたのが、3名の検査技士が
3回検査し、1時間以上かかった。
そして、腎臓周辺に異常に大きなものがあるので、
これを取り除く必要があります。こちらでも手術は出来る
のですが、安全を見て、専門病院を紹介します、と言う。
「取らないと駄目ですか」と私。
「腎臓は二つありますから、一つ除(と)っても大丈夫です」
そんなものかと思った。
紹介された所は、都内有数の癌専門病棟である。
(入院日直前徹夜して、仕事を終わらせ朝方病院に向かった)
病室は私以外の人は皆、癌だと言って、放射線治療などして
いたが、私は何故癌でもないのに、この場所にいるかが不思議
であった。
その頃、家族や兄弟は大騒ぎをしていたらしい。
巨大な癌が腎臓周辺を取り巻き、手術しても、駄目な時は、その
まま閉じると言われたらしい。
兄弟の中で、喪服(もふく)の用意をしだしたらしい。
(この病院では、生存率の低い患者には告知をしないらしい)
そして、手術2日前の事、姉の神癒祈願の賜物か、読んでいた
カーネギーの『道は開ける』の開いた頁一杯に『住吉大神』
が顕われ「何も心配する事はない。全ては任せてなさい」と
ご尊顔と言葉、文章とで示された。
(勿論この方が、住吉大神と知ったのは、生長の家入信後、
2年程たってからであったが)
そして、そのご尊顔が、ふっと、微笑(ほほえ)まれた。
それは、大きな安心感があった。
手術は成功し、腎臓とともに、腎臓の2倍ほどある巨大な
癌腫(がんしゅ)は、自分で自滅して、腐って取りだされた。
しかし、その後手術ミスがあり、医師が、「手術ミスでした」
と謝罪された。どんなに検査しても、出血箇所は見つからず、
5日後の土曜日に、救急車で輸血を取り寄せ、全身麻酔で再手術
し、麻酔医が「もう時間です。終了してください」と言った
直後に出血箇所が見つかり、生還させていただいた。
そして、癌の治療薬は一切使用せずに、3日程化膿(かのう)
止めの薬を飲んだだけであった。
そして、その後、姉がくれた聖典を頼りに、生長の家への
本部を道に迷いながら訪れるのであった。

腎臓は背中の方にあって、お腹の方からは、触診ではわから
ないという。それを、頭の具合が悪いと言って訪れた
『やぶ医者」と言われる医師は、触診でそれを見つけた。
神の手と言わざるを得ない。
理論や机上では説明出来ない世界の体験であった。<
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
志恩ー
>手術は成功し、腎臓とともに、腎臓の2倍ほどある巨大な
癌腫(がんしゅ)は、自分で自滅して、腐って取りだされた。<

私は、腎臓癌について調べてみましたが、初期は、何も反応が
ないと書いてありました。
癌が、進むと、血尿、腹痛、その他の症状が現れるとのことです。
はうら様の腎臓癌は、腎臓の2倍ほどある癌腫になっていて、頭痛
やら血尿やらの症状が出ていたのですから、重度の癌だったの
だと思います。そして、癌は、別の臓器に転移することも多い
と聞きますが、他の臓器には、転移していなかったし、癌が自ら
腐ってでてきたことも、普通では、起こらない奇跡の出来事だった
と存じます。大きい病院へ検査に行く前に、診てもらいに行った
ヤブ医者と言われていた医者が、実は神の手を持つ医者で、と
尋常では考えられないこと、神様に導かれた神ごとが、行われた
のだと存じます。

私の実母の姉にあたる伯母は、母が生長の家に導いた人でした。
東京都荒川区日暮里という街で、若い頃は三味線の師匠をやっていた
江戸っ子カタギの粋な伯母でしたが、いくつも 持病があった人でした。
その伯母が、生長の家に入信し、毎朝、「甘露の法雨」をあげるように
なりましたら、
全ての病気が忽然と消えてしまったのよと、伯母が、私宅の母のところへ
喜びの報告に来てくれていたあの日のことを、娘時代の私は、伯母の
話を、母とともに聞いていたので、昨日のことのように覚えております。
ですから、
私は、はうらひとひら様の体験談は、実体験談だと思っております。

はうらひとひら様
貴重なお話を書いてくださいまして、ありがとうございました。

つづきを楽しみにいたしております。




そら豆みたいな形の
二つあるのが腎臓

『指なくして堅(た)つ指』 (61167)
日時:2023年09月24日 (日) 12時17分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

今回は前回に続き、二人目の医師の紹介
『指なくして堅(た)つ指』の体験です。

《 【現象を飛躍する】

もう頼るべきものとてない。その無い精力で立たねばならぬ。
もう絶対絶命です。絶対絶命はついにわたしを生かして
くれた。
捨てたときに生きてきた。そこから運命が拓(ひら)けて
きたのであります。
諸君も悟ろうと思い、またはこの世で成功しようと思うには
祖先の礼拝を鄭重(ていちょう)にし、おのずから祖先の
加護(かご)を受けるようにせねばなりません。
禅宗に公案というのがありますが、この公案というのは
何かと申しますと、絶対絶命、右するも左するもどうすること
もできない。あたりまえの智慧分別(ふんべつ)では判断の
つかない問題の提出であります。
そこで現象を飛躍しなければならぬ。
禅家の飛躍は公案という観念の上で行われるのでありますが、
生長の家の飛躍は実際生活で行われるのです。
窮通(きゅうつう)の悟りーこれが生長の家の教えです。
現象智(ち)は必ず一方で都合がよくとも、それを実行して
いると一方で行きづまる。ーその行きづまりから悩んでいる
ー病気もその悩みの一つである。その行きづまりを解くには、
現象に捉(とら)われず、指なくして堅(た)つ指、杖(つえ)
なくして歩く中風(ちゅうふう)、薬なくして治(なお)る
生命、隻手(せきしゅ)で鳴る拍手を体験しなければならぬ。
指を捨て、杖を捨て、隻手を捨て、いっさいの物質を捨て、
なお堅(た)つ指があり、走る中風があり、拍手する隻手
がある。−これを自覚したとき、人間は本当の生命の
自由を体験するのであります。》
(『生命の實相』頭注版 第33巻 25〜29頁 要約)

■ 体験

九年前のある土曜日。
出勤途中のバスの中で脇腹に激痛が走り、歩く事もままならず、
なんとか午前中で早退した。
次の日は遠方の誌友会出講で、激痛のまま出かけた。
その頃、私が出講する時には、何人かが同行してくれていた。
この時は、私以外5名であった。その方たちの為にも、欠席
できなかった。(誌友会終了後、個人相談もあったので)
月曜日に大きな病院で検査し、尿管結石とわかった。
どうりで、土曜日以来一滴の尿も出ていない。
医師からこのままで、五日間結石が排出しなければ、
貴方の場合は腎臓が1個しかないので、
(その23年前に癌で1個腎臓を摘出していた)
死ぬと言われた。

3日分の錠剤と1週間後の再診の指示があった。
次の日から普通に仕事をし、5日目を迎えた。
顔や身体がむくみ、1滴の尿も出なくて、使命が
なければ死もやむなしと覚悟した。
その日の夜、尿意があり、便器一杯の血尿が出た。
(家族には大騒ぎになると思い、一切その事は言わなかった)
少したって、また便器一杯の血尿があった。
何の思いもなかった。ただ、尿が出たことが、有り難いと
思った。
そして三度目に全く普段通りのきれいな尿が出た。
次の日、医師から電話があった。病院ではなく自宅からだという。
「生きていたか。そうか治ったよ。もう病院に来なくてもいい」
との事だった。

この医師は人間に宿っている治癒力、生命力を信じていたに
違いないと思った。
『生命の實相』頭注版 17巻 129頁に
『胆石症』や『膀胱結石』の実例が紹介されていて、印象深い
体験であった。
恐怖心さえ起こさなければ、自然治癒力が働く事を知った。
人間知恵では何事も出来ない。ただ生かされて生きているので
ある。


ありがとうございます。

はうらひとひら様 (61176)
日時:2023年09月25日 (月) 02時53分
名前:志恩

(はうら ひとひら様ー)
>今回は前回に続き、二人目の医師の紹介
『指なくして堅(た)つ指』の体験です。

《 【現象を飛躍する】

もう頼るべきものとてない。その無い精力で立たねばならぬ。
もう絶対絶命です。絶対絶命はついにわたしを生かして
くれた。
捨てたときに生きてきた。そこから運命が拓(ひら)けて
きたのであります。
諸君も悟ろうと思い、またはこの世で成功しようと思うには
祖先の礼拝を鄭重(ていちょう)にし、おのずから祖先の
加護(かご)を受けるようにせねばなりません。
禅宗に公案というのがありますが、この公案というのは
何かと申しますと、絶対絶命、右するも左するもどうすること
もできない。あたりまえの智慧分別(ふんべつ)では判断の
つかない問題の提出であります。
そこで現象を飛躍しなければならぬ。
禅家の飛躍は公案という観念の上で行われるのでありますが、
生長の家の飛躍は実際生活で行われるのです。
窮通(きゅうつう)の悟りーこれが生長の家の教えです。
現象智(ち)は必ず一方で都合がよくとも、それを実行して
いると一方で行きづまる。ーその行きづまりから悩んでいる
ー病気もその悩みの一つである。その行きづまりを解くには、
現象に捉(とら)われず、指なくして堅(た)つ指、杖(つえ)
なくして歩く中風(ちゅうふう)、薬なくして治(なお)る
生命、隻手(せきしゅ)で鳴る拍手を体験しなければならぬ。
指を捨て、杖を捨て、隻手を捨て、いっさいの物質を捨て、
なお堅(た)つ指があり、走る中風があり、拍手する隻手
がある。−これを自覚したとき、人間は本当の生命の
自由を体験するのであります。》
(『生命の實相』頭注版 第33巻 25〜29頁 要約)

■ 体験

九年前のある土曜日。
出勤途中のバスの中で脇腹に激痛が走り、歩く事もままならず、
なんとか午前中で早退した。
次の日は遠方の誌友会出講で、激痛のまま出かけた。
その頃、私が出講する時には、何人かが同行してくれていた。
この時は、私以外5名であった。その方たちの為にも、欠席
できなかった。(誌友会終了後、個人相談もあったので)
月曜日に大きな病院で検査し、尿管結石とわかった。
どうりで、土曜日以来一滴の尿も出ていない。
医師からこのままで、五日間結石が排出しなければ、
貴方の場合は腎臓が1個しかないので、
(その23年前に癌で1個腎臓を摘出していた)
死ぬと言われた。

3日分の錠剤と1週間後の再診の指示があった。
次の日から普通に仕事をし、5日目を迎えた。
顔や身体がむくみ、1滴の尿も出なくて、使命が
なければ死もやむなしと覚悟した。
その日の夜、尿意があり、便器一杯の血尿が出た。
(家族には大騒ぎになると思い、一切その事は言わなかった)
少したって、また便器一杯の血尿があった。
何の思いもなかった。ただ、尿が出たことが、有り難いと
思った。
そして三度目に全く普段通りのきれいな尿が出た。
次の日、医師から電話があった。病院ではなく自宅からだという。
「生きていたか。そうか治ったよ。もう病院に来なくてもいい」
との事だった。

この医師は人間に宿っている治癒力、生命力を信じていたに
違いないと思った。
『生命の實相』頭注版 17巻 129頁に
『胆石症』や『膀胱結石』の実例が紹介されていて、印象深い
体験であった。
恐怖心さえ起こさなければ、自然治癒力が働く事を知った。(略)<

志恩ー
はうらひとひら様は、
『胆石症』や『膀胱結石』になられたときも、
神癒の体験がおありだったとは、驚きました。
谷口雅春先生の教えを信じて実践されておられる
方々は、奇跡のような体験をされる方々が多いですよね。
この度も、貴重な体験談を書いてくださいまして、
誠にありがとうございました。
私もおかげさまで無病でおります。

『霊界より』 (61199)
日時:2023年09月28日 (木) 19時07分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

今回は、『霊界より』としておりますが、そんな大層なもの
ではありません。

《 人間の霊は永遠である。靈は時間と空間とを超越して
いる。靈はこの世の肉体を捨てて永遠の世界に移され、
そこにて神をまのあたりに見るのである。お前はまだ
理解しえないにしても、今このことを知らなければならぬ。
なぜならわれらは皆逝(い)かねばならぬからだ。
これは始めであり、終わりである。わが子よ、神は実在する。
そして人間の霊は永遠で神聖であるのだ。》

(『生命の實相』頭注版第10巻 40頁)


■ 体験

先に紹介しましたように、18年間務めて取締役技術部長を
していた時、些細なことで、3代目の若社長から激しく叱責
されて「あなたの18年間の仕事は一切評価しない」と
言われ、6度目の転職した前後の事からです。
その職場には37歳で入社した。30歳で7名の仲間と会社を
起こし、負け戦とわかっていながら、世の矛盾に一石を
投じたかった。私が一番若かったが、社長になり、夕方まで
営業で歩き、皆が退社する時間から、設計図を作成する日々。
その頃まだ皆がほとんど手掛けた事がなかった、ロボットや
省力化、省エネルギー化、人間を単純作業や苛酷な作業から
解放する自動化などを手掛けて、数年後、世の中から一定の
評価を受けるまでになった。6年目に限界を感じて、社長退任。
その1年後に経営破綻し、数億円の負債を抱えることになった。
その負債の一部であるが、私の許にも請求がきた。
そのような中での、この職場への入社で、当初は嘱託として
入社し、定時後はゴーストライターなどをやって返済金を調達した。数年後負債を完済したので、正社員となり、ひたすら技術
を磨いた。この会社はある大手電機メーカーの指定工場であり、
社長は創業者であった。その社長には3名の子息がいて、長男は
設計技術関係、次男が営業関係、三男が経理関係をやっていた。
そのような中、私が技術部長になった為、長男が退社して
新会社を設立。社長が急逝した後2年社長の奥さんが社長をして、
その後、次男が3代目社長となった。その頃私が議長となって
毎週経営改善会議を行い、2年で売り上げ1.5倍 生産効率
1.3倍にまでなっていた。そのような時の突然の退職であった。
そして退職後、1年後に元職場は経営破綻をきたした。
私はその元職場の、顧客の仕事を引き受け、また元職場の
社員も引き受けて、仕事の継続を果たした。
あとで話を聞くと、経営破綻は、社長の放漫経営で
あり、自分だけ就職先を見つけて、他の従業員を
顧(かえり)みなかったという。

そして元職場の業務継続が完了して、なんとか軌道にのりだした頃、突然元職場の創業者が夢に出てきて、大変喜んでおられた。
創業者は、取引先の事、従業員の事を大変気にかけられていた
ようで、「よろしく頼む」といわれた。
霊界と現界は繋がっている。


△ 思う事

・或る日の岡先生のコメント

上記の体験に、創業者は、はうらさんの事はそうであるが、
本当は、子供達兄弟が、それぞれ力を出し合って、協力して
自分の起した会社を盛り立てていって欲しかったと思う。

谷口先生も、雅宣さん兄弟、力を合わせて盛り立てて欲しかった
と思う。雅宣さんも副総裁のなりたての頃は、清超先生の
言う事をよく聞いていたが、その内自分には何も決定権が
ないので、不満を感じて、ある時、一方的に理事や教化部長に
FAXを送って、副総裁を辞任します。といいだした。
清超先生は慌てて、「あなたの思う通りにやっていいから」
と慰留したらしい。そこから、そうだ、二代目法燈継承でも
自分の独自色を出したんだから、自分の思う通りやればよい
との考え方になったようだ。と。

・或る日の元教化部長の話

雅宣総裁が副総裁時代だった頃、昼の食事をしながら、
清超先生に聞いたという。「私は本当に法燈継承されて
いるんですよね」と。すると清超先生は
「あなたが、副総裁になった時点で、すでに法燈継承
されているんです」と。
これを聞いた、元白鳩会会長は小踊りして喜んだ。
「ほらね。皆さんよかったね」と。

・はうらの思う事。
法統継承はそんなに軽いものなのか。

又元教化部長はこのようにも言われた。
「いろいろ言われているが、百年後、千年後の生長の家の
継続を考えていく必要がある」と。

・はうらの思い。
「今」がなくて、百年、千年後があるとは思えない。



《 『教祖に背(そむ)いたことを自覚せぬ弟子たち』

・・・釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)やイエス・キリスト
は真理を正しく教えたけれども、その教えを祖述(そじゅつ)
する弟子が、その教祖先生たる釈迦牟尼世尊やイエス・キリスト
の教えられた真理を伝える時に、それを歪(ゆが)めて伝え、
人間の悪を強調したら救われるかと思って却(かえ)って
救わないことに成る。》

(『新版 真理』別冊 109〜111頁 要約)


《 「肉体を超えて諸君を護る」

もう私は、肉体的には、これから何歳生きられるか知らない
けれども、多分、年齢的には力及ばんけれども、肉体を
超えて諸君を護る。皆さんは、まだ若いのだからこれから
何十年でも生命の実相の真理を広めることができるんです。
ここに、皆さんの使命がある。この真理を聴いた皆さんは
全世界に永久平和を持ち来すところの聖使命があり、又
実力も神様からいただいて護られているのですから、
皆さんはこの聖(とうと)い使命を充分自覚して、
生長の家の説いている真理こそ、世界平和のための最高の
真理であると共に、自分自身が人間として、“神の子"
として、全能者の、善なる力をすべての人間に解放する
ところの、自己自身がその使命を受けたる中心であると
いう事を、自覚して頂きたい。
その使命は重く、それだけ諸君は生き甲斐ある仕事に
邁進(まいしん)出来る悦びがあると思うのであります。

(「第4回青年練成会」での御講話
 昭和51年6月27日 九州別格本山(総本山))

ありがとうございます。









嫌な話だ (61203)
日時:2023年09月28日 (木) 21時37分
名前:本音の時代

生長の家のことより自分のことが第一なんだから。
自分のことより生長の家を第一にしたのは谷口雅春先生と輝子先生だけだったのかなぁ。

はうら ひとひら様 (61204)
日時:2023年09月29日 (金) 06時32分
名前:志恩

(はうら ひとひら様ー)
>『霊界より』(今回のはうら様のテーマです)」<
(略)

>■(はうら様の) 体験

先に紹介しましたように、18年間務めて
取締役技術部長をしていた時、些細なことで、
3代目の若社長から激しく叱責されて
「あなたの18年間の仕事は一切評価しない」
と言われ、6度目の転職した前後の事からです。

その職場には37歳で入社した。
30歳で7名の仲間と会社を起こし、
負け戦とわかっていながら、
世の矛盾に一石を投じたかった。
私が一番若かったが、社長になり、夕方まで
営業で歩き、皆が退社する時間から、設計図を
作成する日々。

その頃まだ皆がほとんど手掛けた事がなかった、ロボットや
省力化、省エネルギー化、人間を単純作業や苛酷な作業から
解放する自動化などを手掛けて、数年後、世の中から一定の
評価を受けるまでになった。

6年目に限界を感じて、社長退任。
その1年後に経営破綻し、数億円の負債を抱えることになった。
その負債の一部であるが、私の許にも請求がきた。

そのような中での、この職場への入社で、当初は嘱託として
入社し、定時後はゴーストライターなどをやって返済金を
調達した。数年後負債を完済したので、正社員となり、ひたすら技術
を磨いた。

この会社はある大手電機メーカーの指定工場であり、
社長は創業者であった。
その社長には3名の子息がいて、長男は設計技術関係、
次男が営業関係、三男が経理関係をやっていた。

そのような中、私が技術部長になった為、長男が退社して
新会社を設立。
社長が急逝した後2年社長の奥さんが社長をして、
その後、次男が3代目社長となった。
その頃私が議長となって毎週経営改善会議を行い、
2年で売り上げ1.5倍 生産効率1.3倍にまでなっていた。
そのような時の突然の退職であった。
そして退職後、1年後に元職場は経営破綻をきたした。

私はその元職場の、顧客の仕事を引き受け、また元職場の
社員も引き受けて、仕事の継続を果たした。
あとで話を聞くと、経営破綻は、社長の放漫経営で
あり、自分だけ就職先を見つけて、他の従業員を
顧(かえり)みなかったという。

そして元職場の業務継続が完了して、
なんとか軌道にのりだした頃、
突然元職場の創業者が夢に出てきて、大変喜んでおられた。
創業者は、取引先の事、従業員の事を大変気にかけられていた
ようで、「よろしく頼む」といわれた。
霊界と現界は繋がっている。<

ーーーーーーーーー

志恩ー

「生長の家教団の行末は、あと5年か10年かだ、
と思うよ。
三代目の雅宣総裁が、
完全に谷口雅春先生の教えを隠蔽してしまったよね。
もうこの状態は、元へは戻らないよ、
志恩さんも、いい加減に、諦めろよ、
トキ掲示板から、いい加減に、撤退しろよ。」と

私の存じ上げている生長の家の昔からの青年会時代の
友人や知人や妹達や最近では私の娘までもが、私に
このように、忠告するようになりました。

このような大事な時期に、はうら様や本音の時代様や
カジモド様、訊け様、チコちゃん、元信徒様方...が、
諦めずに、トキ掲示板へ
出ていらしてて、私は、皆様のご投稿文を拝見するたびに
胸がいっぱいになっております。

私は、娘時代は原宿本部の正社員でしたが、
結婚後のほとんどの時期、専業主婦でしたので、
はうら様の今までの外での、お仕事ぶりを拝見しますと、
すごいなぁ、といつも頭が下がります。

私はトキ掲示板に投稿させていただく時、
今は神界や、霊界の住人になられておられます
谷口雅春先生、輝子先生、清超先生はじめ、
多くの原宿時代の尊敬する本部講師の皆様の
お顔が、時折、走馬灯のように、脳裏に浮かんだり
横切ったりしております。

霊界とこの世は、繋がっているそうですから、
神界、霊界におられる皆様方も応援して、ご覧
くださっていると思っております。

はうらひとひら様、いつも素晴らしい体験談や
ご意見をご投稿くださいまして、
私もトキ掲示板の一投稿者で、お仲間ですけれど、
心から感謝いたしております。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
>△ はうら様の思う事

・或る日の岡先生のコメント

上記の体験に、創業者は、はうらさんの事はそうであるが、
本当は、子供達兄弟が、それぞれ力を出し合って、協力して
自分の起した会社を盛り立てていって欲しかったと思う。

谷口先生も、雅宣さん兄弟、力を合わせて盛り立てて欲しかった
と思う。雅宣さんも副総裁のなりたての頃は、清超先生の
言う事をよく聞いていたが、その内自分には何も決定権が
ないので、不満を感じて、ある時、一方的に理事や教化部長に
FAXを送って、副総裁を辞任します。といいだした。
清超先生は慌てて、「あなたの思う通りにやっていいから」
と慰留したらしい。そこから、そうだ、二代目法燈継承でも
自分の独自色を出したんだから、自分の思う通りやればよい
との考え方になったようだ。と。

・或る日の元教化部長の話

雅宣総裁が副総裁時代だった頃、昼の食事をしながら、
清超先生に聞いたという。「私は本当に法燈継承されて
いるんですよね」と。すると清超先生は
「あなたが、副総裁になった時点で、すでに法燈継承
されているんです」と。
これを聞いた、元白鳩会会長は小踊りして喜んだ。
「ほらね。皆さんよかったね」と。

・はうらの思う事。
法統継承はそんなに軽いものなのか。

又元教化部長はこのようにも言われた。
「いろいろ言われているが、百年後、千年後の生長の家の
継続を考えていく必要がある」と。

・はうらの思い。
「今」がなくて、百年、千年後があるとは思えない。



《 『教祖に背(そむ)いたことを自覚せぬ弟子たち』

・・・釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)やイエス・キリスト
は真理を正しく教えたけれども、その教えを祖述(そじゅつ)
する弟子が、その教祖先生たる釈迦牟尼世尊やイエス・キリスト
の教えられた真理を伝える時に、それを歪(ゆが)めて伝え、
人間の悪を強調したら救われるかと思って却(かえ)って
救わないことに成る。》

(『新版 真理』別冊 109〜111頁 要約)


《 「肉体を超えて諸君を護る」

もう私は、肉体的には、これから何歳生きられるか知らない
けれども、多分、年齢的には力及ばんけれども、肉体を
超えて諸君を護る。皆さんは、まだ若いのだからこれから
何十年でも生命の実相の真理を広めることができるんです。
ここに、皆さんの使命がある。この真理を聴いた皆さんは
全世界に永久平和を持ち来すところの聖使命があり、又
実力も神様からいただいて護られているのですから、
皆さんはこの聖(とうと)い使命を充分自覚して、
生長の家の説いている真理こそ、世界平和のための最高の
真理であると共に、自分自身が人間として、“神の子"
として、全能者の、善なる力をすべての人間に解放する
ところの、自己自身がその使命を受けたる中心であると
いう事を、自覚して頂きたい。
その使命は重く、それだけ諸君は生き甲斐ある仕事に
邁進(まいしん)出来る悦びがあると思うのであります。

(「第4回青年練成会」での御講話
 昭和51年6月27日 九州別格本山(総本山))<
ーーーーーーーーーーーー
志恩ー
ありがとうございます。合掌

『何故外にたよるんだ!』 (61264)
日時:2023年10月04日 (水) 17時38分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

今回は、私が實相哲学に触れる、最初でまた最大の
(私にとりましては)体験です。

《 「背水の陣を布(し)け」とは「智慧の言葉」の
中に見出される金言である。諸君よ、いったん
「われこれをなそう」と決して起ち上がったならば、
「わが行くところ必ず勝利あるのみ」の覚悟が是非とも
必要である。逃げ路をあらかじめ準備しておいて事に
のぞむようなことでは、何人(なんぴと)も全力を
発揮することができないのだ。・・・
「進むほかに道なし」の覚悟は、われわれに平常の
肉体以上の力を発現させるものである。それは小さな
我(が)を滅ぼして、「無限の生命」から力を汲(く)む
一つの方法でもあるのである。・・・
一歩でも動けば、それは退歩ではなく進歩であるのだ。
げに「背水の陣」のうちに万物(すべてのもの)が備わって
いるのである。善き水泳教師は弟子を深みにつれて行って
手を放つのである。・・・
深みにつれて行かれて指導者に手を放たるれば、彼は
「自分で泳ぐか然(しか)らずんば死」である。・・・
自分の全力を出し切るところに、そこには無限の力が
「宇宙の大生命」から加えられる。「神はみずから助くる
者を助く」というスマイルズの金言はまことに真理である。・・・
全力を出し切るときにこそ、「神」という無限力の
貯蔵庫から新しい補給が開始される時である。・・・・
出しきれ!出しきれ!出し切ったときのみ無限力が開かれる。
自己を小さな者と見るな。自己を弱き者と見るな。
外の力にたよるな。・・・
諸君よ、自己を信ぜよ。自己に宿る神を信ぜよ。・・・
必要な力はすべて時に応じて神が与えてくださる
のである。神はここに見よ。かしこに見よというがごとく
にはあらず、内の力に全部頼りきるとき内から無限力が
発揮されてくるのである。

(『生命の實相』頭注版 第7巻 62〜68頁 抜粋)


■  体験

48歳の時腎臓癌で右腎を摘出し、手術ミスのおまけ
までついたが、まだ使命があったと見えて生還させて
いただいた。しかし手術後の痛みをこらえていたら、
半身不随のように右手が上げられず、寝ていても激痛
が走って、寝返りもうてなかった。
週2回程リハビリに通ったが、ほとんど効果がなかった。
暗澹(あんたん)たる日々が流れていた或る日、
『生命の實相』第7巻62頁の「背水の陣を布け」の箇所を
道を歩きながら拝読していた時である。
突然、雷鳴(らいめい)のような、大太鼓のような、
木が割れるような、銅鑼(どら)を打ち鳴らすような、
何とも形容しがたい物凄い大声が聞こえた。

「お前は、自分で治す力があるのに、何故(なぜ)外に
たよるんだ!」
バリバリという音がした。
ああ、そうか、と思った瞬間、あの激痛はなくなり、右手が
垂直にすっと挙(あ)げられて、それっきり治ってしまった。
その時は一切のものは吾が内にあるとは、完全に観じられ
なかったが、朧(おぼろ)げに思った事であった。
それからいろいろな体験が次々と出てきた。
あの時、「そうか」と理会(りかい)しなかったら、
いつまでも「鶏(にわとり)に白墨(はくぼく)の線」
の状態でいたに違いない。
ただ生かされている事に感謝するだけである、と思えるように
少しづつながら、なっていった。大変有難いことである。


☆  真理

《 鶏は白墨の線を見て、それが自分を縛る紐(ひも)だと
信じたがために、自由に起きて歩き廻ることができないので
ありますが、われわれ人間はそんなバカなことにだまされは
しないかというと、必ずしもそうではない。
人間は複雑な知恵をもっておりますから複雑にだまされる
のであります。》

(『生命の實相』頭注版 第2巻 71〜72頁)


《 直覚力(ちょっかくりょく)というものは実に
不思議な力である。それはたんなる想像力とも異なって
一種の洞察力(どうさつりょく)である。
片鱗(へんりん)を知って全体がパッと明るく頭の中へ
閃(ひらめ)いてくるところの霊感的な力である。・・・・
直覚力は直接的に物全体に突き入って、そのもの全体を
端的につかんでしまうのである。・・・・

宗教家にして奇跡(きせき)を知らず、死後を知らず、
生命のいずこより来(きた)りていずこへ到るかを知らず、
科学者にして大なる発明が出来ないのは、すべてこの霊感的
直覚の欠乏より来(きた)るのである。
すべて偉大なる芸術の創作や科学的発明は霊感的直覚の
助けなくして人間の頭脳知識だけでできるものではない
のである。・・・・
神秘を知らない人間ほど始末におえないものはない。
そんな人間にとってはどこにも不思議と称(しよう)すべき
ものはないのであって、至る所に満ちているのは、ただ
「当たり前」の興味のないガラクタ現象だけである。
彼は何を見ても不思議がらない。何もかも神秘ではない。
だから何を見てもなんのインスピレーションもないのである。
・・・・なぜ生物は生長するのか、なぜそれは生きているのか、
なぜ血液は循環するのか、なぜ心臓は動くのか―
あなたがたは、かくして世界の至るところに満ちている
ところのこれらの事柄に驚異を感じたことはないであろうか。》

(『生命の實相』頭注版 第14巻 155〜157頁 抜粋)


△  思う事

私は、他より余程歩みが遅いとみえて、ご指導いただいてから、
20年程経てやっと実相哲学の裾野(すその)にたどり着いた
感があります。
それはいまだに茫漠(ぼうばく)としております。
どうぞ皆様今後とも、ご指導の程お願い申しあげます。

ありがとうございます。





はうらひとひら様 (61270)
日時:2023年10月05日 (木) 07時56分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)
『何故外にたよるんだ!』 (今回のはうら様のテーマ)

>今回は、私が實相哲学に触れる、最初でまた最大の
(私にとりましては)体験です。

《 「背水の陣を布(し)け」とは「智慧の言葉」の
中に見出される金言である。諸君よ、いったん
「われこれをなそう」と決して起ち上がったならば、
「わが行くところ必ず勝利あるのみ」の覚悟が
(略)
(『生命の實相』頭注版 第7巻 62〜68頁 抜粋)<

>■ (はうら様の) 体験

48歳の時腎臓癌で右腎を摘出し、手術ミスのおまけ
までついたが、まだ使命があったと見えて生還させて
いただいた。しかし手術後の痛みをこらえていたら、
半身不随のように右手が上げられず、寝ていても激痛
が走って、寝返りもうてなかった。
週2回程リハビリに通ったが、ほとんど効果がなかった。
暗澹(あんたん)たる日々が流れていた或る日、
『生命の實相』第7巻62頁の「背水の陣を布け」の箇所を
道を歩きながら拝読していた時である。
突然、雷鳴(らいめい)のような、大太鼓のような、
木が割れるような、銅鑼(どら)を打ち鳴らすような、
何とも形容しがたい物凄い大声が聞こえた。

「お前は、自分で治す力があるのに、何故(なぜ)外に
たよるんだ!」
バリバリという音がした。
ああ、そうか、と思った瞬間、あの激痛はなくなり、右手が
垂直にすっと挙(あ)げられて、それっきり治ってしまった。
その時は一切のものは吾が内にあるとは、完全に観じられ
なかったが、朧(おぼろ)げに思った事であった。
それからいろいろな体験が次々と出てきた。
あの時、「そうか」と理会(りかい)しなかったら、
いつまでも「鶏(にわとり)に白墨(はくぼく)の線」
の状態でいたに違いない。
ただ生かされている事に感謝するだけである、と思えるように
少しづつながら、なっていった。大変有難いことである。<


☆  真理

《 鶏は白墨の線を見て、それが自分を縛る紐(ひも)だと
信じたがために、自由に起きて歩き廻ることができないので
ありますが、われわれ人間はそんなバカなことにだまされは
しないかというと、必ずしもそうではない。
人間は複雑な知恵をもっておりますから複雑にだまされる
のであります。》
(『生命の實相』頭注版 第2巻 71〜72頁)
------------------------------------------
志恩ー

《鶏は白墨の線》....は、
私にとりましも,懐かしい思い出のある教えです。

私の娘時代のことですが、私の父が、その頃、
「生命の實相」を読むようになってくれていた時期で、
《鶏は白墨の線》のページを読んだ父は、
近所に、鶏を数羽、飼っているうちが
ありましたので、そのうちの人に頼んで、鶏を
おりから出してもらい、父は、
鶏を一羽一羽、道のところに、横に倒して、
鶏の目の前に、
白墨で白い線を引くという実験をしてみたのです。

そうしましたら、数羽の鶏が、次々に、横に
なったまま、固まった状態になり、動かなくなりまして、
本当に、まるで死んだように、びくとも動かなくなりました。

父の実験を、私も母と弟妹達と近所の人と一緒に、
見ていましたから、
「本当だ、本当だ「生命の實相」に書いてある通りだ」、
と、皆で興奮して「すごいすごい」と、手を取り合って
喜び合いました。

ところがですね、
「生命の實相」には、白墨で鶏を催眠術に
かける方法は書いてあったのですが、
その催眠術から、鶏を、覚めさせる
方法は、書いてありませんでした。

なので、ずっと固まったままの鶏たちに、
父は、すごく焦っていました。

その後、固まった鶏を、父は、どうやって元へ戻したかは、
忘れましたが、やっと、元に戻して、近所の人へ鶏を
お返しした体験を、いまだに懐かしく覚えております。
------------------------------------------
(はうらひとひら様ー)

>《 直覚力(ちょっかくりょく)というものは実に
不思議な力である。それはたんなる想像力とも異なって
一種の洞察力(どうさつりょく)である。
片鱗(へんりん)を知って全体がパッと明るく頭の中へ
閃(ひらめ)いてくるところの霊感的な力である。・・・・
直覚力は直接的に物全体に突き入って、そのもの全体を
端的につかんでしまうのである。・・・・

宗教家にして奇跡(きせき)を知らず、死後を知らず、
生命のいずこより来(きた)りていずこへ到るかを知らず、
科学者にして大なる発明が出来ないのは、すべてこの霊感的
直覚の欠乏より来(きた)るのである。
すべて偉大なる芸術の創作や科学的発明は霊感的直覚の
助けなくして人間の頭脳知識だけでできるものではない
のである。・・・・
神秘を知らない人間ほど始末におえないものはない。
そんな人間にとってはどこにも不思議と称(しよう)すべき
ものはないのであって、至る所に満ちているのは、ただ
「当たり前」の興味のないガラクタ現象だけである。
彼は何を見ても不思議がらない。何もかも神秘ではない。
だから何を見てもなんのインスピレーションもないのである。
・・・・なぜ生物は生長するのか、なぜそれは生きているのか、
なぜ血液は循環するのか、なぜ心臓は動くのか―
あなたがたは、かくして世界の至るところに満ちている
ところのこれらの事柄に驚異を感じたことはないであろうか。》<
(『生命の實相』頭注版 第14巻 155〜157頁 抜粋)

>△  (はうら様の)思う事
私は、他より余程歩みが遅いとみえて、ご指導いただいてから、
20年程経てやっと実相哲学の裾野(すその)にたどり着いた
感があります。
それはいまだに茫漠(ぼうばく)としております。
どうぞ皆様今後とも、ご指導の程お願い申しあげます。<


志恩ー
私は古いだけの人間ですので、
実相哲学を真摯に学ばれて、次々に素晴らしい体験談も
発表されておられます はうら様に、教えられてばかりです。
大変ありがたく嬉しく存じております。
この度も、ありがとうございました。

はうらひとひら様 (61271)
日時:2023年10月05日 (木) 14時25分
名前:志恩

はうら様
本日、実相光誌友会魂の交流文の
【ひかりのお便り】、2023年10月号が
届きました。ありがとうございました。

これは、はうら様宅にて毎月第3土曜日の
13:30から15:30まで開催されている
ZOOM実相座談会に参加される皆様へ月一で
はうら様が、ご送付されている印刷物のお便り
なのですが、私は参加しておりませんけれど、
ごしんせつにお送りくださっているものです。
(無料で)

阪田成一先生も、月一で「光明の音信」を
やはり自費で発行されて、郵送料も自分もちで
自費で配布されておられますが、

はうらひとひら様も、このような貴い愛行を続けて
いらして、素晴らしい限りです。

本当は、メールで、届きましたと書いてお送りすれば
いいのでしょうけれど、大変内容が素晴らしいので、
一部でもご紹介させていただきたいと思いました。

ひかりのお便りは、A4のコピー用紙1枚の裏表に、
谷口雅春先生の真理のお言葉を、さまざまな
真理の著書から、抜粋して書かれておられます。

今回の1面のテーマは
「光明だけがあるのである。光明のないことを闇と云う。」
このことに関する
谷口雅春先生の真理の言葉を、
生命の實相第21巻、
生命の實相第39巻、
如意自在の生活365章
新版 ひかりの語録、より
ページも記載されて、抜粋されておられます。

2面のテーマは、
「体験に失敗はない。進歩のみある」
このことに関する
谷口雅春先生の真理の言葉を
新版 真理第2巻
新版 生活の知慧365章
続 真理の吟唱
新版 真理第10巻
新版 ひかりの語録
より
抜粋して書かれておられます。

どの真理の言葉も、現代の家庭生活や、
現代社会の出来事や、現代の社会情勢に、
ぴったり当てはまる言葉です。
どこにも古さは感じられません。

拝読するのは、あっという間ですが、
これだけの数の真理の著を、読まれて
その中から、真理の言葉を抜粋される作業は、
大変時間がかかるものと推察します。
そのご愛念に、頭が下がる思いです。
本当に、毎号、ありがとうございます。



もう1枚、真理の言葉が印刷されたものも
同封してございました。
それも、いい真理の言葉が書かれてありましたので
それはスマホのカメラで写して、ここへご紹介させて
いただきますこと、はうら様、ご了承くださいませ。感謝



(画面をマウスでクリックすると、拡大して
読みやすくなります。)

『問題は回答を連れてやってくる』 (61299)
日時:2023年10月09日 (月) 15時17分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。
今回の体験は、少し楽しいのですが、かなり以前の
ものです事、お許し下さい。

《 【問題は既に回答があるのが問題だ】

ところで、人生にどんな難問題があるかのように見え
ましても、本当は問題と云うものは解決し得(う)る
ためにあるのであります。数学の問題でもそうです。
どんなにあなたが自身にとって解決し得(え)ない
問題でも、実はその回答は既(すで)にあるのですが、
自分がそれを算出(さんしゅつ)し得ないだけの事
なのです。口で樹(き)の枝にぶらさがっていて、
さあ返答せよと云われる場合、口をひらいたら千仞
(せんじん)の谷底に落ちると云うが、それは自分で、
自分の手は動かないと信じて、自分の手で枝を握(にぎ)る
ことを忘れているだけのことであります。
この「動けるだけの力を、その時、その場、その人に
適する相(すがた)に動かす」と云うことは、是(これ)こそ
善の極意(ごくい)なのであります。
「禅機(ぜんき)の把握(はあく)」と云うことは
「全機の把握」でありまして、全体に行(ゆ)きとどいて
あらゆる点を動かし得(う)ることであります。
これは心が全相(ぜんそう)(あらゆるすがた)に達した
ときに出来るのでありまして、心が一部にのみ引っかかって
いるときには、その引っかかっていることに気をとられて、
他(ほか)になすべき道が無数(むすう)にあるのに、
それを行うことが出来なくなるのでありまして、自分で
自分の力を「これ位(くらい)のもの」と限ってしまう
から、二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなる
のであります。
『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』には、
「心、全相に達せざれを迷いと云う」と云うことが書かれて
おります。あらゆる部面(ぶめん)を悉(ことごと)く
知って適当な行いが出来ないのが迷いなのであります。
そこで全局(ぜんきょく)(全体の場面)を支配するには
すべてのものと自分が混然一体(こんぜんいったい)に
ならなけらば「対立」が残っているようなことでも思う
ようになりませぬ。》

(『新版 真理』第3巻 282.283頁)

《 本当にあなたが自分自身の無限力なる「神性(しんせい)」
を自覚したならば地球ぐらいは蹴(け)とばすことが出来るのが
当たり前なのであります。キリストも「もし辛子種(からしだね)
ほどの信(しん)だにあれば、この山に動いて海に入(い)れ
と云うと雖(いえど)も、必ず成(な)らん」と教えている
のであります。これが生命の実相をさとった境地(きょうち)
であります。》

(『新版 真理』第3巻 284頁)


■ 体験

生長の家の教えに触れて、二年目のある日、PL法案
(製造物責任法)の筆記試験があった。
(まだ実相も神想観もわからなかった頃である。
今でも解らないのですが・・・)
試験場で解らない問題が出たら、祈れといわれて
いた。そして解らない問題に遭遇(そうぐう)した。
問題
「この製品をテストする為の電気回路図を書け」
という問題である。
問題はわかったが、どの程度の事を要求しているのかが
わからなかった。
― とにかく祈った。
十数秒後、テレビ画面にテロップが流れるように、
空間に回答らしきものが映し出された。
電気回路図であった。心でスイッチを入れてみた。
完全に作動し、製品のテストが出来る事がわかった。

それを必死で書き写した。書き終わると同時に試験終了の
合図があった。
無事に『配電制御システム検査技士」の試験に合格した。
『生命の實相』』頭注版 第25巻 185頁のように
都合よくいって、受験に必要な知恵を授かることが出来、
貴重な経験であった。


☆ 真理

《 【神想観の効果の実例】

このようなのは、凝念(ぎょうねん)の最中に起った
できごとでもなく、
日常生活中にそのまま起こった精神活動の円滑現象で
あります。この精神活動の円滑現象を精神統一と言う
のであります。さらにわれわれの「精神」なるものは、
脳髄(のうずい)の表皮(ひょうひ)細胞(さいぼう)
内部だけにある「個精神(こせいしん)」のみとは観
(み)ずに宇宙に遍満磅礴(へんまんほうはく)せる
「心的内容」そのものであると見るならば、われらの
「心」が「個我(こが)」の境を超えて宇宙の全
「心的内容」」と統一融通(ゆうずう)するとき、
さらなる偉大なることを成し遂(と)げえられるかを
知らねばならない。宇宙は「すべて」であるがゆえに、
われらが宇宙の全「心的内容」と統一融合するとき、
宇宙の全運行が円滑状態を発揮し、欲(ほっ)する
ものおのずから集まるという『無量寿経(むりょうじゅきょう)』
のごときが、そこに顕現(けんげん)するということは
想像しうるに難(かた)くないのであります。・・・

これらは学童が凝念(ぎょうねん)によって問題を透視
(とうし)したのではありません。神想観によって
個精神(こせいしん)が、宇宙の全「心的内容」と統一
融通したがために、しぜんに周囲の事情と自分のたまたま
内部から催(もよお)してくる行(おこな)いが都合よく
いって受験に必要な知恵を授(さず)かったのであります。
われらのいわゆる「神想観」という精神統一法は無念無相
にあらず、凝念にあらず、「そのまま」なのであります。
そのまま、宇宙を動かしている全心的活動と、統一的
連繋(れんけい)をもって活動することであります。
これは信仰によってそうなれるのであります。・・・
今後この「神想観」を励(はげ)みて、今後の受験の
成功の上に、はたまた、人生一切万事(ばんじ)の成就の
上に、効(こう)を収(おさ)められんことを希望して
やまないのであります。》

(『生命の實相』頭注版 第25巻 183〜185頁抜粋)

△ 思う事

ある時上記の受験時の体験を話したら、IT関係の技術者が
「自分も、IT関係ソフトの国家試験時同じような事を
体験した」と話されて、大変心強く思った事があった。

ありがとうございます。








はうらひとひら様   (61301)
日時:2023年10月09日 (月) 19時42分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)
『問題は回答を連れてやってくる』 (今回の、はうら様のテーマ)

《 【問題は既に回答があるのが問題だ】
ところで、人生にどんな難問題があるかのように見え
ましても、本当は問題と云うものは解決し得(う)る
ためにあるのであります。数学の問題でもそうです。
どんなにあなたが自身にとって解決し得(え)ない
問題でも、実はその回答は既(すで)にあるのですが、
自分がそれを算出(さんしゅつ)し得ないだけの事
なのです。
(略)
(『新版 真理』第3巻 282.283頁)

《 本当にあなたが自分自身の無限力なる「神性(しんせい)」
を自覚したならば地球ぐらいは蹴(け)とばすことが出来るのが
当たり前なのであります。キリストも「もし辛子種(からしだね)
ほどの信(しん)だにあれば、この山に動いて海に入(い)れ
と云うと雖(いえど)も、必ず成(な)らん」と教えている
のであります。これが生命の実相をさとった境地(きょうち)
であります。》
(『新版 真理』第3巻 284頁)


■ (はうら様の)」体験

生長の家の教えに触れて、二年目のある日、PL法案
(製造物責任法)の筆記試験があった。
(まだ実相も神想観もわからなかった頃である。
今でも解らないのですが・・・)
試験場で解らない問題が出たら、祈れといわれて
いた。そして解らない問題に遭遇(そうぐう)した。
問題
「この製品をテストする為の電気回路図を書け」
という問題である。
問題はわかったが、どの程度の事を要求しているのかが
わからなかった。
― とにかく祈った。
十数秒後、テレビ画面にテロップが流れるように、
空間に回答らしきものが映し出された。
電気回路図であった。
心でスイッチを入れてみた。
完全に作動し、製品のテストが出来る事がわかった。
それを必死で書き写した。
書き終わると同時に試験終了の
合図があった。

無事に『配電制御システム検査技士」の試験に合格した。
『生命の實相』』頭注版 第25巻 185頁のように
都合よくいって、受験に必要な知恵を授かることが出来、
貴重な経験であった。


☆ 真理

《 【神想観の効果の実例】

このようなのは、凝念(ぎょうねん)の最中に起った
できごとでもなく、
日常生活中にそのまま起こった精神活動の円滑現象で
あります。この精神活動の円滑現象を精神統一と言う
のであります。
(略)
(『生命の實相』頭注版 第25巻 183〜185頁抜粋)
ーーーーーーーーーーーー

志恩ー
(はうらさまー)
>問題はわかったが、どの程度の事を要求しているのかが
わからなかった。
― とにかく祈った。
十数秒後、テレビ画面にテロップが流れるように、
空間に回答らしきものが映し出された。
電気回路図であった。
心でスイッチを入れてみた。
完全に作動し、製品のテストが出来る事がわかった。
それを必死で書き写した。
....
無事に『配電制御システム検査技士」の試験に合格した。<



そのようなことが現実にあるのですね。

普通は、ないことですけど。笑

でも、はうら様は、修行僧のようなお方ですから、
私は事実それが、あったのだと思っております。

私の場合は、不思議に、
思ってもいないような、いい方にいい方に、
導かれて、これまで生かされてきたことが全て、
私にとりましての奇跡的な出来事でありまして、
それは、生長の家の神様、ご先祖様のご守護によるものと
毎日、感謝しながら、幸せな気持ちで 生きております。

はうら様の体験談を拝読するたびに、励まされております。

ありがとうございます。


『波動二題』 (61344)
日時:2023年10月13日 (金) 17時52分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。
今回は最近の体験を通して、波動を考えて
みたいと思います。

《 【 客観世界は自分の心の具象化である】

この世界は波動の世界であって、波動が形にあらわれて
映画のようにあらわれているのである。
其処(そこ)には類似の波長のものが相(あい)集まって
来て、それがやがて形にまで実現するのは、テレビの
ようなものである。その波動を招(よ)びよせるのは
自分の心の波長であるから、謂(い)わば自分の心の
波動の具象化(ぐしょうか)が客観世界であるのである。
だから自分の心を変化せずにおって客観世界を変化しようと
思っても、決して客観世界は変化しないのである。
位置を変え、場所をかえて見ても矢張り同じような
状態が其処にあらわれるのは、自分の心の波長と同じ
ものを引き寄せるからである。
習慣的に如何なる波長を自分が起こしているかそれが
問題である。常に神想観して心の習慣的波動を明るく
しなければならぬ。》

(『新版 真理』第2巻 152.153頁)

《 弘法大師(こうぼうだいし)も『聲字即實相(しょうじ
そくじっそう)』と仰(おお)せられてをり、「聲」(こゑ)
即(すなわ)ちコトバ及び「字」(じ)即ちコトバが
形象化(けいしょうか)したものは、事物の「實相」即ち
「本質」であると説いている。
「太初(はじめ)」とは根本原因であり、、「第一原因」
と言ってもよい。・・・
生長の家はコトバの宗教であって、コトバの力によって
人類の心を浄(きよ)め、地上に起る事件を浄化し、この
世から一切の不幸を除去し地上に天国浄土を建設しようと
いう運動である。》

(『到彼岸の神示』神示講義・自覺の巻 126頁)


■  体験

その一

数日前、義兄(妻の姉の夫)が脳梗塞で入院した。
面会は一日1回15分だけだという。長引きそうだとも。
いろいろ予定もあり、見舞いも余り迷惑になりそうなので、
義兄の家の霊牌を書いて、『聖経 甘露の法雨』を読誦
した。2日後、メールが来て、無事退院したという。
善い波動が伝えられると病等はなくなるのである。

その二

数日前のこと、隣街に住む6歳の孫娘に会った後、8年ぶり
かの酷い風邪をひいた。(彼女がゴホン、ゴホンやって
いて、不覚にもうつったらしい。それは酷い風邪で
喉をやられ、鼻水、くしゃみ、発熱等激しかった。
(当然ながら、早朝の仕事は休まなかったが)
通常2日程で、殆(ほとん)どの体調不良は治っていたが、
今回は5日程かかった。
原因を考えて、ある事実に行きついた。
その為、波動が極端に低くなり、その間隙をつかれたらしい。
あまり披露したくなかったが、あの〇〇讃歌を読んだ時の
あの精神波動と似ていたので、すぐに思いだした。
例の新『聖光録』だという、『“新しい文明”を築こう』
の内容を少し読んでからの事である。
(私はこの本の内容について悪評価をするつもりもなく、妨害
をするつもりも毛頭ないのですが)
兎に角気分が悪くなるほど、波動を下げられる事となった。

善い内容だったら、皆様にもお勧めしたいと思ったのですが。
(生長の家会員必携(ひっけい)とあったので)
そういうわけで、もしやむをえず読まれる時には、波動を
高めて、覚悟をもって読まれたい。
内容は差し控えます。)


☆  真理

《 環境といえば、外部的なもののように考えられますが、
環境も波動的存在であり、われわれの生命も波動(コトバ)
である。
(コトバは肉体となりて吾らの内に宿り給えり―
(「ヨハネ伝」第1章))そうすると、内外一体、環境は
わが心、わが心はわが環境ということになる。》

(『生命の實相』頭注版 第39巻121頁)


ありがとうございます。


雅宣さんは迷い (61345)
日時:2023年10月13日 (金) 19時41分
名前:本音の時代

雅宣さんが生長の家を名乗る宗教的な言葉は迷いです。
信じるのは谷口雅春先生の説いた言葉です。
何故迷いかというと、私欲や我欲があるからです。
清超先生も生長の家マークの件で雅春先生の指示に従わなかったのは私欲や我欲が出たためです。
書籍『生命の實相』で著作権、著作権と叫ぶのも私欲我欲です。私欲我欲で書籍『生命の實相』の日本教文社から継続出版を切りました。
生長の家教団は書籍『生命の實相』を広めるために作られたものであるといっても過言ではありません。学ぶ会や社会事業団にどれだけの広報頒布能力があるというのでしょうか。
清超先生が私欲我欲を出してから生長の家の中には私欲我欲が蔓延しました。
徳久克己先生は「生長の家指導者のための生命の實相講義」のなかで生長の家の教えの伝え方を説いています。

【生長の家の(地方)講師は、谷口雅春先生がお説きになっている生長の家の教えを間違いなく伝えることが第一です。谷口雅春先生以外の者が、「私はこう思います」と言えば、それは谷口雅春先生の教えではなくなってしまいます。
皆さんが質問を受けたのなら、それは『生命の實相』の何巻の何処にそういう答えが出ていますといって答えるのが一番正しいのです。私はこう思いますと言ったら徳久教になってしまうのです。いいですか、徳久があなたの質問に私がこう思うんだと言ったら、これは徳久教になるんですね。私たちは個人が人生相談を依頼している訳ではないのです。生長の家の講師として人生相談を受けてるのです。非常に大切なことですよ、これは。だから、お墓のことを詳しく知っていて、生長の家に入る前から墓相学をやっているからと言って、墓相学の知識をもってきて生長の家の話をしてみたり生長の家の講師として話をするのはこれはおかしいのです。そんなばかなことはないのです。姓名判断の話を生長の家に入る前から知っていると言って姓名判断の話を持ってきて地方講師の話をするのは間違いです。私はそう思います。そこはハッキリしなければいけない。私が医者だからといって医学の話をしたら誰も聞きに来ることないでしょう。私が生長の家の立場において医学の話をすればいいけれど、医学の立場において医者の話をするのだったら生長の家の話ではないのです。私がいかに医学の専門家であったって、そんなもの話にならない。だから、自分の人生経験で人にしゃべってはいかんということです。だから『生命の實相』にこう書いてあった、谷口雅春先生はこのように言われたということを伝えて行く、間違いなく伝えて行くということがまず第一に皆さんに根本的にそこから考え直していただきたいということです。だから果たして我々がそういう話をしとったか、あるいは自分の考えを述べとったか、そういうこともう一度反省しなくてはいけない。僕はもうこれ大変反省しているにです。生長の家の地方講師であり、本部講師であるのだったら、生長の家の話をするための講師であって、ほかの話をする講師ではないということ、これはなんでもないことですけれど、そういう話をもう一度反省してみる。私はそんなこと言ったら、最近のことじゃないのですが、生長の家に入った当時、ですから昭和17年くらいですね、誌友会に行って話を聞いたらですね、その先生が色々話をしとるのを聞いて、まるで自分が発明した話のように話しとる、谷口先生の受け売りをしてね、谷口先生のみ教えを正しく伝えていただくと思って聞いていたら、自分の意見言うのなら聞きに行くの嫌になる訳です。そこに私たちは地方講師あるいは講師としての純粋な立場を再確認して、自分が生長の家の立場において行動あるいはすべてのお話されているか指導されているか、これをとにかく反省しなくてはいけない。これは地方講師会においてもお互い反省しなくてはいけない問題ですし、吾々も僕たちが話しておって、ついいつの間にやら自分の勝手な話しとったら、すぐ反発がきます。ああ、これ間違っておったなと反省しますね。これわね、なんでもないことですけれでも、僕はこれをこのことをよーく反省していったら『生命の實相』を読まずにはいられなくなるはずです。『生命の實相』を読まなかったら話ができなくなるのです。】

はうらひとひら様 (61349)
日時:2023年10月14日 (土) 02時28分
名前:志恩

(はうら ひとひら様ー)
『波動二題』 (はうら様の今回のテーマ)

>今回は最近の体験を通して、波動を考えて
みたいと思います。

《 【 客観世界は自分の心の具象化である】

この世界は波動の世界であって、波動が形にあらわれて
映画のようにあらわれているのである。
其処(そこ)には類似の波長のものが相(あい)集まって
来て、それがやがて形にまで実現するのは、テレビの
ようなものである。その波動を招(よ)びよせるのは
自分の心の波長であるから、謂(い)わば自分の心の
波動の具象化(ぐしょうか)が客観世界であるのである。

(略)
自分の心の波長と同じ
ものを引き寄せるからである。
習慣的に如何なる波長を自分が起こしているかそれが
問題である。常に神想観して心の習慣的波動を明るく
しなければならぬ。》
(『新版 真理』第2巻 152.153頁)<

>《 弘法大師(こうぼうだいし)も『聲字即實相(しょうじ
そくじっそう)』と仰(おお)せられてをり.....
(略)
生長の家はコトバの宗教であって、コトバの力によって
人類の心を浄(きよ)め、地上に起る事件を浄化し、この
世から一切の不幸を除去し地上に天国浄土を建設しようと
いう運動である。》
(『到彼岸の神示』神示講義・自覺の巻 126頁)<


>■ (はうらひとひら様の)」 体験

その一

その二
(略)


>☆  真理

《 環境といえば、外部的なもののように考えられますが、
環境も波動的存在であり、われわれの生命も波動(コトバ)
である。
(コトバは肉体となりて吾らの内に宿り給えり―
(「ヨハネ伝」第1章))そうすると、内外一体、環境は
わが心、わが心はわが環境ということになる。》
(『生命の實相』頭注版 第39巻121頁)<
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
志恩ー
はうらひとひら様、

ごく最近の体験談を書いてくださいまして、
ありがたく思っております。大変ためになりました。
いい波動を持つことが最重要なことだと、わからせていただき
ました。ありがとうございます。

10月に入り、涼しくなりましたので、私は、今は、週4日は、
慶應スポーツクラブへ行き、健康保持のために運動を続け
ております。そこでは各クラスごとに、友人もでき、
色々な人たちとの会話もあり、時折、ランチにも一緒に行きますので、
その時は、友人たちから個人的な話も聞き、私は永年、
生長の家の教えで培ってきた
相手が、前向きに生きていかれるような、心が明るくなれるような
話が幸いなことに、できますので、友人たちは、私とランチに
行きたがる人が増え続けております。
これも皆、谷口雅春先生の教えのおかげと、日々感謝して
生活させていただいております。
友人たちの話を聞いていて、思うことは1番のストレスは、
一緒に暮らしている家族との人間関係のことが多いと知りました。
それは、生長の家の教えの得意分野ですから、
どのような友人とも、私は話し相手になれますので、
ありがたいことだと思っております。


本音の時代様 (61350)
日時:2023年10月14日 (土) 02時47分
名前:志恩

(本音の時代様ー)
【雅宣さんは迷い 】
(61345)
>雅宣さんが生長の家を名乗る宗教的な言葉は迷いです。
信じるのは谷口雅春先生の説いた言葉です。
何故迷いかというと、私欲や我欲があるからです。
清超先生も生長の家マークの件で雅春先生の指示に従わなかったのは私欲や我欲が出たためです。
書籍『生命の實相』で著作権、著作権と叫ぶのも私欲我欲です。私欲我欲で書籍『生命の實相』の日本教文社から継続出版を切りました。
生長の家教団は書籍『生命の實相』を広めるために作られたものであるといっても過言ではありません。学ぶ会や社会事業団にどれだけの広報頒布能力があるというのでしょうか。
清超先生が私欲我欲を出してから生長の家の中には私欲我欲が蔓延しました。
徳久克己先生は「生長の家指導者のための生命の實相講義」のなかで生長の家の教えの伝え方を説いています。
(略)<

志恩ー
本音の時代様、

谷口雅春先生の教えで救われた信徒の、多くの皆様の
本音のことを、書いてくださいまして、ありがとうございます。

しかし、雅宣先生ご夫妻にとりましては、迷っているのは、
谷口雅春先生が総裁先生時代からの古い信徒さんたちの
ほうだ、と思いこんでいらっしゃると思います。

先日、宇治別格本山ネットフォーラムを拝見していましたら、
宇治の練成部の本部講師補の榎本一子先生が、
「あるもの、と、あらわれているもの」の違いを話されておられました。
実相は、あるもの。
現象は、あらわれているもの、と。

これは、生長の家教団とか社会事業団や学ぶ会とかについての
ことをおっしゃったのでは、ありません。

普通の現象についてのことでしたが、

迷いと感じるあらわれているものは、時間経過とともに
消えていくというお話をされておられました。

でも、私が生きている間には、迷いは消えないで、
組織の方が、先に消えそうな気が致しております。

そこが、まさに迷い (61352)
日時:2023年10月14日 (土) 06時58分
名前:本音の時代

>雅宣先生ご夫妻にとりましては、迷っているのは、
>谷口雅春先生が総裁先生時代からの古い信徒さんたちの
>ほうだ、と思いこんでいらっしゃると思います。

やはり書籍『生命の實相』を読み込まなくてはいけませんね。YouTubeで雅春先生や高名なる先生たちの講話を視聴するも良し。

『誌友会の波動』 (61418)
日時:2023年10月18日 (水) 16時07分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

誌友会の波動について、述べさせていただきます。

《 彼(か)の仏如来(ぶつにょらい)は来(きた)
って来(きた)る所なく、去(さ)って去る所なく、
生(しょう)なく滅(めつ)なく、過(か)、現(げん)
未来に非(あら)ず、ただ願(がん)に酬(むく)いる」
ために如来として現われている、と『無量寿経
(むりょうじゅきょう)』に書いてある。
この願とは心のヒビキである、コトバである、コトバの
展開として一如(いちにょ)の仏(ほとけ)が相対的に
あらわれる― これが報身仏(ほうしんぶつ)である。
すると天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の
コトバの響きの展開として八百万(やおろず)の神々が
生まれるというのと、一如の世界から願に酬(むく)い
るために十方(じっぽう)の諸仏が生まれたというのと
同じであります。一仏(いちぶつ)一切仏(いっさいぶつ)
であります。》

(『生命の實相』頭注版 第12巻 166頁)


■  体験

29年前、自身の肉体の存続が脅(おびや)かされる
自体となり、『生長の家』の実相哲学によって救済された。
その頃子供(小学5年生の女児)が運動会で、お猿のかご
ゲームのかごから落ちて、念の為CT検査をしたら、
頭の半分程に水が溜まっていて、それが脳を圧迫していて、
少しの事でもそれが原因で脳出血が起こる可能性があると、
運動が制限された。子供は、普通に身体を動かしたいといって、
手術を希望した。
頭蓋骨にドリルで穴を開け、水を取り出そうとする寸前に、
医師が「小さくてかわいそうなので、暫(しばら)く様子
をみたい」と言って、手術は中止となった。
同じ頃、私は普及誌『光の泉』を読み始めていたら、近くの
相愛会長に誘われて、誌友会に出席するようになっていたが、
子供が何故か誘わなくても、一緒についてきて、会場で
寝そべってお絵描きなどをしていた。
それから半年程して、子供の頭の状態を検査したところ、
その水が忽然(こつぜん)と消えて,正常になっているという。
『生命の實相』頭注版 第32巻 60頁に
「父母の心病めば子の肉体に病現われ」の状態であったが、
誌友会の真理の靈的癒しの波動によって、癒されたと思われる。

当時は「淀川の水は、淀川の水にあらず、琵琶湖の水なり」
のような講話を聴いても、全く解らなかったが。
無いものは真理によって消えたのである。


△  思う事

岡先生は、ある時から、「誌友会は“ルルドの聖泉"と同じ
“神癒の場"である。」といわれて、出講の講師を指導
されていた。そして、その出講先で、皆それぞけ神癒を
体験していった事があった。
今そのような話は、余り聞かなくなったが、寂しい思いが
する。

・ルルドの聖泉の奇蹟については
『新編 ひかりの語録 「黄金の薔薇(ばら)」93〜98頁)
『愛と光との生活』130〜138頁)にご教示されています。感謝。

ありがとうございます。








はうらひとひら様 (61428)
日時:2023年10月19日 (木) 08時01分
名前:志恩

『誌友会の波動』 (今回のはうら様のテーマ)


>誌友会の波動について、述べさせていただきます。

《 彼の仏如来は来た)
って来たる所なく、去って去る所なく、
生なく滅なく、過、現
未来に非ず、ただ願に酬いる」
ために如来として現われている、
と『無量寿経』に書いてある。
この願とは心のヒビキである、コトバである、コトバの
展開として一如の仏が相対的に
あらわれる― これが報身仏である。
すると天之御中主神の
コトバの響きの展開として八百万の神々が
生まれるというのと、一如の世界から願に酬い
るために十方の諸仏が生まれたというのと
同じであります。一仏一切仏
であります。》
(『生命の實相』頭注版 第12巻 166頁)<


>■  (はうら様の)体験
29年前、自身の肉体の存続が脅(おびや)かされる
自体となり、『生長の家』の実相哲学によって救済された。
その頃子供(小学5年生の女児)が運動会で、お猿のかご
ゲームのかごから落ちて、念の為CT検査をしたら、
頭の半分程に水が溜まっていて、それが脳を圧迫していて、
少しの事でもそれが原因で脳出血が起こる可能性があると、
運動が制限された。子供は、普通に身体を動かしたいといって、
手術を希望した。
頭蓋骨にドリルで穴を開け、水を取り出そうとする寸前に、
医師が「小さくてかわいそうなので、暫(しばら)く様子
をみたい」と言って、手術は中止となった。
同じ頃、私は普及誌『光の泉』を読み始めていたら、近くの
相愛会長に誘われて、誌友会に出席するようになっていたが、
子供が何故か誘わなくても、一緒についてきて、会場で
寝そべってお絵描きなどをしていた。
それから半年程して、子供の頭の状態を検査したところ、
その水が忽然(こつぜん)と消えて,正常になっているという。
『生命の實相』頭注版 第32巻 60頁に
「父母の心病めば子の肉体に病現われ」の状態であったが、
誌友会の真理の靈的癒しの波動によって、癒されたと思われる。
当時は「淀川の水は、淀川の水にあらず、琵琶湖の水なり」
のような講話を聴いても、全く解らなかったが。
無いものは真理によって消えたのである。


△  思う事
岡先生は、ある時から、「誌友会は“ルルドの聖泉"と同じ
“神癒の場"である。」といわれて、出講の講師を指導
されていた。そして、その出講先で、皆それぞけ神癒を
体験していった事があった。
今そのような話は、余り聞かなくなったが、寂しい思いが
する。

・ルルドの聖泉の奇蹟については
『新編 ひかりの語録 「黄金の薔薇(ばら)」93〜98頁)
『愛と光との生活』130〜138頁)にご教示されています。感謝。<


志恩ー
はうらひとひら様は、よく波動のお話をしてくださいますが、
宇宙も草木も机も自分自身も、全て波動でできていますから
本物の良い波動が出ている谷口雅春先生の著書を読んだり、
聖経「甘露の法雨」を読誦したり、神想観をしたりしますと、
浄められ、波動が上がりますから
自ずから良い運命に導かれ、周囲の人たちにも良い波動を、おわけ
することが、できるのですよね。

谷口雅春先生は、人相だけでなくて手相も、波動をよくすると
良い人相になり、いい手相に、変わるのだ、と申されました。

おかげさまで、今、ユーチューブに、いい手相の見本というのがよく
出ていますが、守護霊に守られている手相、晩年幸せになる手相、
お金に困らないお金持ちになる手相、奇跡の手相、
周囲の人たちが助けてくれる幸運な手相、
それらの良い手相が、私の両掌に、全部、あらわれております。
お金持ちになるというのは、当たっていませんが、生活には
困っておりません。
これも皆、谷口雅春先生の教えを、一筋に信じて、実践して
生きてきたおかげだと、毎日、感謝しながら生きております。

はうら様の素晴らしいご投稿にいつも教えていただいて、
体験談のお話も、どれも、ためになるお話で、ありがたく
存じております。

今後とも、ご教授、よろしくお願いいたします。


明るい話 (61703)
日時:2023年11月10日 (金) 20時14分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。
2年程前、女性の地方講師の方から、「Fさんを宜しく
お願います」と、紹介された。
その話です。

☆ 真理

《 「二人の子供を伴れて自決しようとした私でございます。
何なりと先生のおっしゃるとおりにいたします」
とその奥様は答えた。
「今日から、良人を神様だと思いなさい。
良人のすることはみんな善いと信じなさい。
これが良人の実相を観るというものです。
そうしたらしばらくのうちにあなたの家庭は
救われます。」
悪い良人は本来無いので、悪く現われるのは、こちらの
心の影だったとよくよくわからせていただきました。
「あの一人の婦人が救われ、あの一つの家庭が救われた
だけでも、本部を東京に移転して来た甲斐があった。
見真道場のできるできぬは問題ではない」
と谷口先生はおっしゃった。

(『生命の實相』頭注版 第34巻 36.42.43頁)

■  体験

Fさんから、程無くして、電話をいただいた。
私は、Fさんについて、何のデータも持ちあわせては
いなかった。だから、感情や雰囲気からそれを知ろうとした。
ZOOMで話合いをしようとしたが、映像は出たが、端末の
容量不足からか、音声が調整しても出ないので、電話で
2時間程話をした。『生長の家』をどの程度理解されているのか
不明なので、人間は既に皆救われすみであるが、地上での
魂の向上の為に、いろいろな問題が出される事。
救済は、必ず相手と自分とが同時に救済されなければ、
どちらか一方のみ救済という事は、ありえない。
なぜなら、人間を遡(さかのぼ)っていけば、一つの大生命
である造り主に行き着くなどを話した。
ZOOMでの印象では異常に痩せている事であった。
風の便りに、Fさんは「拒食症」で、身内のどなたかを
強烈に怨んでいるという事がわかった。
しかし、そんな原因など知っても、どうにもならない。
半年程して、入院したという。半年程度だという。
これはチャンスだと思い、1日おきに、メールで
『お見舞い便』として、光明思想の言葉を送り続けた。
始めは、返事はぎこちなかったが、少しずつその送った
言葉を受け入れようとしているようであった。
2ヶ月後に退院された。
月一度であるが、光明の言葉を書いた印刷物を送り
続けた。時折返事があった。
つい数か月前、風の便りでFさんがふくよかな様子になった
事を知った。9月と10月のメールや書簡に明らかな変化
があった。

令和5年9月のメール
「合掌 ありがとうございます。
今月も素晴らしい『ひかりのお便り』をありがとうございます。
「感謝」の偉大さすごいです。
読んでいるうちに、心が軽やかに、心の目が開きます。
どんなに良い事でも、実践しなくては、頭での理解より、
実行あるのみ。宣言します。!
私は今から、感謝に変えて、生活します。
神様。ありがとうございます。」

令和5年10月の書簡
「合掌 ありがとうございます。
いつも『ひかりのお便り』をありがとうございます。
「明るい心が幸福のもと)の項に書かれていた、
神様と同じ波長、すなわち、明るい心を起こさなければ、
なりません。の文に改めて気づいた事があります。

私の名前です。そう!明子です!!
“ 明るい子 "なのです。
なんと嬉しく、有り難い名前なんでしょう。!!
といまさらながら、喜びあふれてきました。
名前の如く、私の内の光り、明るさを現し出さなく
ては・・・・
そして、
「真理の種子は暗黒の中にも生長する」では
私は神にすべてを全托するという事が欠けていました。

お任せする、一番良いように導いて下さる。という大切な
ことを・・・・
今回もたくさんの気づきにあふれるご文章を送ってくださって、
感謝いたします。
真理の言葉に力をいただきました。ありがとうございます。

この会の名前も“ ひかり ”本当に、神様のように
皆に光を与えて、ステキな誌友会の名前ですね。」

△ 思う事

普通、このような文章などは、匿名、または、公表を嫌がる
ものです。
私は誌友会後に、会のメモを数十名に送っておりますが、
この度の事を、メモで知らせたいので、匿名でよろしければ
記載してもよいですか、とFさんに尋ねたところ。実名で
発表していただけるだけで、嬉しいです。と返事をいただいた。
実に爽やかな生活を取り戻されたと思い、感謝している。
『生長の家』の光明思想は、凄い力をもっていることを、
再認識させられました。

ありがとうございます。

はうらひとひら様 (61722)
日時:2023年11月11日 (土) 18時49分
名前:志恩

はうら ひとひらの今回のテーマは
【明るい話 】(61703)
2年程前、女性の地方講師の方から、「Fさんを宜しく
お願います」と、紹介された。
その話。

■真理

(『生命の實相』頭注版 第34巻 36.42.43頁)

■  体験

ZOOMでの印象では異常に痩せている事であった。
風の便りに、Fさんは「拒食症」で、身内のどなたかを
強烈に怨んでいるという事がわかった。
しかし、そんな原因など知っても、どうにもならない。
半年程して、入院したという。半年程度だという。
これはチャンスだと思い、1日おきに、メールで
『お見舞い便』として、光明思想の言葉を送り続けた。
始めは、返事はぎこちなかったが、少しずつその送った
言葉を受け入れようとしているようであった。
2ヶ月後に退院された。

月一度であるが、光明の言葉を書いた印刷物を送り
続けた。時折返事があった。
つい数か月前、風の便りでFさんがふくよかな様子になった
事を知った。9月と10月のメールや書簡に明らかな変化
があった。

令和5年9月のメール
「合掌 ありがとうございます。
今月も素晴らしい『ひかりのお便り』をありがとうございます。
「感謝」の偉大さすごいです。
読んでいるうちに、心が軽やかに、心の目が開きます。
どんなに良い事でも、実践しなくては、頭での理解より、
実行あるのみ。宣言します。!
私は今から、感謝に変えて、生活します。
神様。ありがとうございます。」

令和5年10月の書簡
「合掌 ありがとうございます。
いつも『ひかりのお便り』をありがとうございます。
「明るい心が幸福のもと)の項に書かれていた、
神様と同じ波長、すなわち、明るい心を起こさなければ、
なりません。の文に改めて気づいた事があります。

私の名前です。そう!明子です!!
“ 明るい子 "なのです。
なんと嬉しく、有り難い名前なんでしょう。!!
といまさらながら、喜びあふれてきました。
名前の如く、私の内の光り、明るさを現し出さなく
ては・・・・
そして、
「真理の種子は暗黒の中にも生長する」では
私は神にすべてを全托するという事が欠けていました。

お任せする、一番良いように導いて下さる。という大切な
ことを・・・・
今回もたくさんの気づきにあふれるご文章を送ってくださって、
感謝いたします。
真理の言葉に力をいただきました。ありがとうございます。

この会の名前も“ ひかり ”本当に、神様のように
皆に光を与えて、ステキな誌友会の名前ですね。」

△ 思う事

普通、このような文章などは、匿名、または、公表を嫌がる
ものです。
私は誌友会後に、会のメモを数十名に送っておりますが、
この度の事を、メモで知らせたいので、匿名でよろしければ
記載してもよいですか、とFさんに尋ねたところ。実名で
発表していただけるだけで、嬉しいです。と返事をいただいた。
実に爽やかな生活を取り戻されたと思い、感謝している。
『生長の家』の光明思想は、凄い力をもっていることを、
再認識させられました。
ありがとうございます。<

志恩ー
はうら様は、しばらくの間、ご投稿されませんでしたので、
とうとう、はうら様も、いくら書いても、しょうがないや、と、
思われて、ご投稿されるのは、やめたのだと、
私はこのように思っておりましたが、予想に反して、
昨夕に、二つも深い内容のご投稿をしてくださいましたので、
私は、驚きました。
私は、いよいよ掲示板を去る予定でおりましたが、もうしばらく、
いさせていただくことに、変更させていただきました。

私にも光栄なことに「ひかりのお便り」を、月一で、無料で送って
くださいまして、ありがとうございます。
その時に、ぴったりの谷口雅春先生の真理のお言葉が
載っておりまして、いつも深謝しております。
ありがとうございます。



『あさがお』 (61974)
日時:2023年11月26日 (日) 12時11分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

以前現象世界のすぐ奥に、実相世界らしい荘厳な、
平和な穏やかな、黄金の雨降る世界をちらっと見た事を
お伝えしました。
そのような折、犬と猫とハムスタ−と会話することが
出来た時がありました。

☆  真理

《 『すでに実相は実相に相触れている】

「先生」と、このとき後ろの方から太い男の声がした。
「『甘露の法雨』を各国語に翻訳(ほんやく)
していただけないでしょうか?
今まで、われわれが異国の方たちから受けた恩恵は
かなりに深いものですから、今度はその御恩返しとして、
この尊い生長の家の教えを異国人の諸霊に
差し上げたいのですが。」
谷口先生は静かにおっしゃった。
「それは翻訳(やく)しても翻訳(やく)さなくてもよろしい。
実相の世界で相触れるものは、言語ではなくて
念波なのですから――だからもし、わたしたちが
神と思念を送ったならば、外国人の霊魂には、
それはGOD(ゴット)と響くのです。」》
(『生命の實相』頭注版 第34巻 140頁)

■  体験

最近「あさがお」の言葉を聞いた。
それは上記のような、犬などと同じ波動だと思っていた。
11月18日の弊誌友会で、ある方が
「橋本 健さん」のアルファー波
の話をされて、生物どうし会話をしているというのである。
私はそれだ、と思った。そのアルファー波に波長が合えば、
声が聞けるのだろうと即座に思った。

橋本 健さんは、人間の持つ不思議な能力を信じていて、
『四次元世界の神秘』などの著書があり、
ナメ子とナメ吉の話などは、
『二次元世界の生物は三次元をどう見るか』
と言われていますが、目に見えるものは、
本当にあるのではなく、次元をかえれば、
全く異なる世界がある事を示されたと思います。
観の転換である。

ありがとうございます。

はうらひとひら様 (61982)
日時:2023年11月26日 (日) 23時10分
名前:志恩

(はうら ひとひら様ー)

>以前現象世界のすぐ奥に、実相世界らしい荘厳な、
平和な穏やかな、黄金の雨降る世界をちらっと見た事を
お伝えしました。
そのような折、犬と猫とハムスタ−と会話することが
出来た時がありました。

☆  真理

《 『すでに実相は実相に相触れている】

「先生」と、このとき後ろの方から太い男の声がした。
「『甘露の法雨』を各国語に翻訳(ほんやく)
していただけないでしょうか?
今まで、われわれが異国の方たちから受けた恩恵は
かなりに深いものですから、今度はその御恩返しとして、
この尊い生長の家の教えを異国人の諸霊に
差し上げたいのですが。」
谷口先生は静かにおっしゃった。
「それは翻訳(やく)しても翻訳(やく)さなくてもよろしい。
実相の世界で相触れるものは、言語ではなくて
念波なのですから――だからもし、わたしたちが
神と思念を送ったならば、外国人の霊魂には、
それはGOD(ゴット)と響くのです。」》
(『生命の實相』頭注版 第34巻 140頁)

■  体験

最近「あさがお」の言葉を聞いた。
それは上記のような、犬などと同じ波動だと思っていた。
11月18日の弊誌友会で、ある方が
「橋本 健さん」のアルファー波
の話をされて、生物どうし会話をしているというのである。
私はそれだ、と思った。そのアルファー波に波長が合えば、
声が聞けるのだろうと即座に思った。

橋本 健さんは、人間の持つ不思議な能力を信じていて、
『四次元世界の神秘』などの著書があり、
ナメ子とナメ吉の話などは、
『二次元世界の生物は三次元をどう見るか』
と言われていますが、目に見えるものは、
本当にあるのではなく、次元をかえれば、
全く異なる世界がある事を示されたと思います。
観の転換である。<


志恩ー

橋本健さんは、植物同士が、波動を出し合い、会話していることを
科学的に実証していたお方でした。私が娘時代から有名なお方で
生長の家の神誌の一つであった「精神科学」誌にも、たびたび、載って
いました。橋本健さんは、本も出されているのですね。

今の時代は、橋本健さんだけでなく、当たり前のように、
植物同士が会話していることは、科学的にも実証される
時代になりました。

でも、植物同士は会話していても、はうらひとひら様のように
樹木の植物とか、花とか、
動物たちの話を 人間が聞くのは、珍しいことだと思います。

私は、昨日、次のような動画を観たばかりでした。

"はせくら みゆきさん"という女性が出演している
動画ですが、
大自然が自分に声をかける体験をされているという
動画でした。アカシックレコードにもアクセスしている
ということでした。真偽の程は、わかりませんが、興味
深く視聴しました。

私は、花や植物を、いつも大切にしている人間なのですが、
今まで、花たちや樹木に、声をかけられたことは、残念ながら
一度もありません。

現象世界は、すべて波動(周波数)で できているそうですから、
大自然や花の会話も、聞こえる人には、聞こえるのでしょうね。


「アカシックレコードにアクセスした女性とは?」
(31:02)
https://www.youtube.com/watch?v=2_RGMuJf6O4&t=193s
("はせくら みゆきさん"は、画家、作家、雅楽歌人)

『心の法則』 (62040)
日時:2023年12月03日 (日) 17時14分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。
数日前の体験です。真理は、新しいも古いもない。
環境や時代を超えて変わらないのですが、最近の話のほうが、
切迫感があると思いまして、投稿させていただきます。

☆  真理

《 “如意寶珠”(にょいほうじゅ)とは
“鹽乾珠”(しおひるのたま)と
“鹽盈珠”(しおみつのたま)との二つであります。
“珠”(たま)というのは“言靈”(ことだま)
又は“魂”(たましい)の象徴でありまして、
“鹽乾珠”は、「悪しき現象はアルが如く現れて見えていても
本来存在しないのである」と念じて、
それを否定する言靈又は想念であります。
病気の場合などには、「病気はアルが如く見えていても、
それは神が造らないものであるから
本来存在しないものであるから消えるのである。
既に消えたのである。!!
というように心の中で言葉で唱(とな)えて、
その存在を心の世界で否定してしまうことなのであります。
・・・・このようにして“心の世界”でその存在を
否定されてしまうと“心の支柱”がなくなって
それは存在し得なくなるのであります。
次に“鹽盈珠”というのは、心で否定して
そこが空っぽになったあとへ、
“實相”(又は“實在”と称(しょう)す)
の完全な相(すがた)を心の中に言靈をもって念じて、
實相の完全な相を、唯心所現の現象界にもってきて、
実現する方法であります。》
(『古事記と現代の預言』155.156頁)

■  体験

この春、私達誌友を命がけで指導してくれた
先達が率然と霊界に旅立たれた。
「あとはまかせた。」と。
その残された課題の一つに、
二つのWEBサイトの「コンテンツ」の維持管理があった。
(当然関係者のご了解は全てとらせていただいた。)
どちらも、ログインIDやパスワードなどの
情報が全く不明であった。
暑い夏の日、3名のITのプロが、
次次と先達の許を訪れパソコンに挑戦してもらった。
先達の関係者にも必死な支援をしていただいた。
一つは、何とか解明できた。
もうひとつが皆目ダメであった。

その少し前、先達が元気だった頃、
誌友会の資料作りに力が入りすぎて、
相当の費用を費やし、ご家族から「家計に響く」と
注意された事があって、相談されたので、
私はすぐさま、皆に相談して、支援金のようなものを
出してもらうようにしていた。
皆さんの協力で、それなりの金額が集まり、
ある程度の補填(ほてん)ができた。
そして先達が亡くなられて、その収支報告も
する時期が来ていた。
と同時にもう一つのWEBサイトの掲載有効期限が、
2023-11-30で一週間程しか猶予がなくなっていた。
久しぶりに、焦りのようなものを感じた。

このWEBサイトの「コンテンツ」は、
多くの人々の魂の救済に役立っていたので、
私の力不足で、一瞬にして情報が消える事だけは、
絶対にあってはならなかった。
11月27日、私は腹をくくった。
そして、二つの事を決断した。

一つは、前出の支援金の通帳の残高をゼロにして、
少額ではあるが、先達のご家族に全て「感謝」として、
誌友一同の名前で、持参する事であった。
もう一つは、11月30日に情報が解らずに、
消滅したら、私は「生長の家」の関係から、
全て離れて、その責任を取ろうと思った。
そう思ったら、気持ちが落ちついた。
11月27日朝、仕事の帰りに先達のご自宅を訪れ
「感謝」の気持ちを伝え、幾許(いくばく)かの
ものをお渡しした。
自宅に帰ってきたら、次次と不思議な事が起った。
先ず一人の方「要介護〇度」で体調を崩して施設に
入っているにも拘(かか)わらず、
郵送で支援金を送ってくれたのである。
もう一人の方は、支援金を口座に振り込んだという。
そして、姉妹の方が体調を崩して、入院されていたが、
二人とも完治したという。
他の一人の人は、小諸の島崎藤村の碑の元で、死を覚悟して
坐禅をくんで過ごした「草笛禅師」の弟子である、
あるお寺の住職から、庭の渋柿を干し柿にしましたので
と送ってくださった。
もう一人の方は、「田舎から送ってきたので・・・」と。
産物を送ってくださった。
なにかが確実に変っていく事を感じた。

そして、期限の11月30日は刻々と近づいてきた。
11月29日夜半(30日になろうとする時刻直前)
関係者からメールがあった。
そこにWEBサイト移管の情報であるログインIDや
パスワードなどの必要な情報が記載
されていた。期限日に移管作業が完了した。
私は、先達の強いご支援を感じた。
強烈な思いが残った数日であった。

△  思う事

想念、感情は、繋がっている事を強く感じた。
心を空(から)にして、「感謝」すれば、
(今回は、実際には報恩感謝の対価であったが)
それを満たす為に、完全なものが入ってくるのは、
真理であり、頭ではわかっていても、
その場面にならなければ、実行できない自分を
深く反省した次第である。

ありがとうございます。



はうらひとひら様 (62046)
日時:2023年12月04日 (月) 10時14分
名前:志恩

二つのブログとも、生長の家の主に古くからの信徒たちが、
ずっと以前からたいせつに思い、拝読させていただいていた
馴染みのブログでしたよね。

それの二つのブログの管理という大役を、ネット上から
消さないようにするために、はうら様は、ひきついで依頼されておられます
ことは、以前のはうら様のご投稿文に書かれていますから、私だけでなく、
そのことについては、ご記憶にある方もいらっしゃると存じます。

この二つのブログの書き手は、お二人とも、既になくなって
おられます。ですから、本来ならば、ご遺族の方々が、はうら様に
お願いすべきことではないかしらと、私は思っておりました。

しかし、皆様のお気持ちを最優先されていらっしゃるはうら様は、
ご自分のお金を感謝の印としてご一方のお方のご遺族に出されて
このブログの継続を可能にされたみたいで、一円の儲けも出ませんのに、
11月30日に期限が切れるブログの方も、無事に継続可能に
されたみたいで、色々と ご尽力を賜りましたこと深く感謝申し上げます。

私が、書きましたことで、不都合なところがございましたら、おっしゃって
くださいませ。その場合は、すぐに、訂正、削除などいたしますので。
なにも不都合がない場合は、このままにさせていただきます。

『無限供給余滴』 (62111)
日時:2023年12月10日 (日) 16時20分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。

11月13日付けの 志恩様が紹介された
「よろしかったら、ご覧くださいませ。
日本が世界を変える夢の技術です」
を大変興味深く拝見させていただきました。
「ドリーム燃料」ですが、
アインシュタインによる公式中最も有名な
『E=mc 2』をもって説明されているので
実現可能と思いました。、

この事から、全く異なる私の体験が想い起こされました。

29歳の時、やむにやまれず、矛盾だらけの社会、
組織に一矢報いようと7名で会社を起こした時の事が。
日本の風土として、独創的なものとか、
個の突出したものは、必ずつぶされる。
前例がないとか、生産的ではないとか、
それが何の役にたつのかとか。

その頃無限供給などという考え方は、
思い巡らすことすらできなかったが。

☆  真理

《 われわれは皆無限生命無限力量の同一タンクから
出ている一つ一つのパイプである。
一つのパイプから必要なだけの生命の水量の出て
来ない場合には、他のパイプを幾本でも
自由にそこに集めてくることができる。
神は全体であり、全体を支配しているのでありますから、
神は必要に応じて必要な援(たす)けを送り給うのである。
出せば出すほど殖(ふ)えるのが
生長の家の教えなのです。》
(『生命の實相』頭注版 第12巻 114.115.122頁)

■  体験

その頃、私達の事務所は東京、五反田にあった。
私は仕事にいきづまると、
五反田の山の手線の内廻りのホームに立って、
五反田から御殿山の坂の途中にあるソニーの方向
を見詰めていた。
ソニーに在職していたころの、
江崎玲於奈(えざきれおな)氏の思考の
過程の空気を感じようとしていた。
そのホームでの発想が、エサキ・ダイオードとなって
ノーベル物理学賞へとつながっていった。
失敗としか見えなかったその奥に、
理論を超えたものがあったのである。

私はそのホームで、資金繰りや、仕事のトラブルの問題や、
人の問題などを考えて、過ごしたものである。
社長になると、最終決断は自分しかいない。
極限の判断がいつも強いられた。
それを6年間続けたら、身体が崩壊しそうになって、
退任した。
そしてその1年後、会社は崩壊した。
その時の経験が、その後生きていろいろな局面を
乗り越えられたと思っている。
(あくまでも人間知恵であったが)

前に少しふれたが、今、日立製作所が
IoT(ITとOT)(情報技術と運用技術)分野で
世界一をねらっている。
それを「ルマーダ」と名付けられ注目を集めている。
英語で照す・輝かせるのイルミネートと、
データを組み合わせた造語で、「日常のデータに光をあて、
輝かせることで、新たな知見を引きだし、
経営課題解決や事業の成長に貢献する」事としている。

卑近(ひきん)な例で、
『ダイキン』は空調機器メーカでその高い技術で
有名であるが、それを支えているのは
機械化出来ない領域での職人技である。
その職人技を分析し、データ化し、
定量的に基準を設けて収集・デジタル化して、
システムとして技術伝承をしてみせたのが、
日立であった。

しかし、私達は、すでに48年前にその手法をもちいて、
自働化が困難といわれた分野で仕事をしていたのであった。

それがどうしたという亊ではないが、
機会はどこにでもあるという亊である。
人間の創造性は無限であるという亊である。
無限供給とは、そのような事なのかもしれないと、
ふと思った次第です。

ありがとうございます。

はうらひとひら様 (62130)
日時:2023年12月11日 (月) 06時37分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)
『無限供給余滴』 (今回のはうら様のテーマ)」

>(前略)
29歳の時、やむにやまれず、矛盾だらけの社会、
組織に一矢報いようと7名で会社を起こした時の事が。
日本の風土として、独創的なものとか、
個の突出したものは、必ずつぶされる。
前例がないとか、生産的ではないとか、
それが何の役にたつのかとか。

その頃無限供給などという考え方は、
思い巡らすことすらできなかったが。

☆  真理

《 われわれは皆無限生命無限力量の同一タンクから
出ている一つ一つのパイプである。
一つのパイプから必要なだけの生命の水量の出て
来ない場合には、他のパイプを幾本でも
自由にそこに集めてくることができる。
神は全体であり、全体を支配しているのでありますから、
神は必要に応じて必要な援(たす)けを送り給うのである。
出せば出すほど殖(ふ)えるのが
生長の家の教えなのです。》
(『生命の實相』頭注版 第12巻 114.115.122頁)

■  体験

その頃、私達の事務所は東京、五反田にあった。
私は仕事にいきづまると、
五反田の山の手線の内廻りのホームに立って、
五反田から御殿山の坂の途中にあるソニーの方向
を見詰めていた。
ソニーに在職していたころの、
江崎玲於奈(えざきれおな)氏の思考の
過程の空気を感じようとしていた。
そのホームでの発想が、エサキ・ダイオードとなって
ノーベル物理学賞へとつながっていった。
失敗としか見えなかったその奥に、
理論を超えたものがあったのである。

私はそのホームで、資金繰りや、仕事のトラブルの問題や、
人の問題などを考えて、過ごしたものである。
社長になると、最終決断は自分しかいない。
極限の判断がいつも強いられた。
それを6年間続けたら、身体が崩壊しそうになって、
退任した。
そしてその1年後、会社は崩壊した。
その時の経験が、その後生きていろいろな局面を
乗り越えられたと思っている。
(あくまでも人間知恵であったが)

前に少しふれたが、今、日立製作所が
IoT(ITとOT)(情報技術と運用技術)分野で
世界一をねらっている。
それを「ルマーダ」と名付けられ注目を集めている。
英語で照す・輝かせるのイルミネートと、
データを組み合わせた造語で、「日常のデータに光をあて、
輝かせることで、新たな知見を引きだし、
経営課題解決や事業の成長に貢献する」事としている。

卑近(ひきん)な例で、
『ダイキン』は空調機器メーカでその高い技術で
有名であるが、それを支えているのは
機械化出来ない領域での職人技である。
その職人技を分析し、データ化し、
定量的に基準を設けて収集・デジタル化して、
システムとして技術伝承をしてみせたのが、
日立であった。

しかし、私達は、すでに48年前にその手法をもちいて、
自働化が困難といわれた分野で仕事をしていたのであった。

それがどうしたという亊ではないが、
機会はどこにでもあるという亊である。
人間の創造性は無限であるという亊である。
無限供給とは、そのような事なのかもしれないと、
ふと思った次第です。<

志恩ー
はうら様は、大変、頭の良いお方で、
私にはわからないむづかしいお仕事をされてこられました。
お若い時は、社長さんもされたり、その後、社長さんを辞めたり、
何せ、自動化困難と言われた分野で、
不可能を可能にされながら、お仕事をされてこられましたお方の
ようです。

物理系理工系の頭脳のお方は、通常でしたら、現象世界の
分野だけを見て終わるお方が多いと思いますが、はうら様は、
それらを超越された高い精神世界の分野までも詳しくて
いらして、稀に見るお方でいらっしゃいます。

私たちが、昔から、心の糧として視聴してきている
二つの有名なブログの管理も、1円の儲けにもなりませんのに、
お引き受けくださって、愛行されていらして、深く感謝しています。
ありがとうございます。


はうら ひとひら様 (62223)
日時:2023年12月17日 (日) 16時46分
名前:志恩

はうらひとひら様

12月16日開催の『ZOOM実相ひかり誌友会』メモを
メールにてお送りくださいまして、ありがとうございました。

はうらひとひら様が、『生命の實相』第36巻より
谷口雅春先生の素晴らしい真理のお言葉を謹写
されましたので、載せさせていただきます。

参加者のお方の体験談も、いくつも 掲載されて
おりましたが、トキ掲示板へ載せても差し障りのない
ものだけ載せさせていただきますので、はうら様、
ご了承くださいませ。お名前の箇所は伏せました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下、
(文責 はうらひとひら様ー)

12月16日開催の『ZOOM実相ひかり誌友会』メモ


日時:令和5年12月16日 午後1時半より約2時間
・出席者( 略)

■  〇〇
今年を振り返って、岡先生のご帰幽はこたえました。
また、夏に体調を崩しましたが、皆さんに祈って
いただいて、回復出来ました。△△さんの舞いも
教化部で拝見出来てよかったです。
今「神想観」と同時に「日々読誦三十章經」を読誦
していますが、よい波動になれます。

■  △△
11月19日『岩手日報』が大谷さんのMVPを報じる
一方で、11月 6日の日本舞踊公演を「伝統つなぐ
舞 華やか」と写真入りで報道 されていて、褒める
教育にも言及されていて、うれしかった。
教化部でも二曲奉納させていただきましたが、
舞台とまた趣(おもむき)がちがっていて、よかった
です。

☆ 今月のテキスト『生命の實相』36巻

感銘した処

(はうら ひとひら様 編集)

《 幸福生活論はギリシャの哲学以来無数にある。
釈迦の仏教も一種の幸福論であり、イエスの山上の
垂訓(すいくん)もまた一種の幸福論であるという
ことができる。ただその異なるのは、人間の「幸福」
とは何ぞやという根本の出発点において、無数に
ある。・・・
快楽主義から、隠遁靜慮(いんとんせいりょ)などあるが、
・・・・
そこで変化し衰退することなき身の幸福を得んがためには
“第三の道”がなければならない。
それは隠遁主義に陥(おちい)らぬ積極的精神主義であって、
心の法則を活用して、世界と調和しながら物質的にも
肉体的にも幸福の領域を拡大してゆくところの方法である。
それは精神の巧妙(こうみょう) なる方法によって、
世界と調和し、世界と周囲の人々にも悦びを与えながら、
みずからも繁栄する道であり、心の力によって微妙に
肉体の健康をも支配してゆくことができるがゆえに、
過度の感覚刺激から快楽がかえって苦渋(くじゅう)
に変わることもなく、静かに逞(たくま)しく、
健康にして明朗なる幸福生活への道となるのである。
・・・
『功徳(くどく)篇は机上の空論ではない証しである。》
(『生命の實相』第36巻 はしがき1.2頁)

《 生長の家はいかにしてこのすでに与えられている
ところの神の無限供給をこの現世に引きだしたら
いいかということを研究しその方法を発表している
のでありまして、それを『生命の實相』に書いて
発表しておきましたところが、皆さんがそのとおり
行ってみて「まるほど、そうじゃ」と体験して
下さったのであります。》
(同書 4頁)

《 実相というのは仏教の方では第一義諦(ぎたい)とか
真諦(しんたい)とか申します。
(「諦」は仏道のさとり。真理:頭注)

そして病気が治り、無限供給が顕われ、治国平(ちこくへい)
天下が現象界へ出てくるのを世諦(せたい)と申します。
世俗の生活の上に真理が現われてくるのを世諦が成就する
と申すのであります。

世間には真諦ばかり、真理ばかりが貴いので、世諦などは
第二段のものだと軽蔑なさる方がありますが、それでいて
毎朝御飯をおあがりになりますのは世諦の方 でございます。
世諦があたりまえにできるのは、心の鍵(かぎ)の形が
実相の宝庫の鍵穴の形に一致しているからでございます。
・・・
われわれ人間はすべて実相は神の子であり、無限富者
(むげんふうじゃ)なる神の後嗣者(あとつぎ)として
無限供給の宝庫を擁(よう)しているのに、その宝庫を
ひらくことが出来ないのはまだ一人前になっていない
証拠です。・・・
真諦と世諦とを二つにわけて考えるのはまちがいであり
まして、真諦が悟れるから法爾自然(ほうにじねん)に
世諦が整うのであります。・・・・
われわれは朝起きて顔を洗うーーこれは現世利益
(りやく)を実行しているのです。やがて飯を食う。
これも現世利益であります。》
(同書 5〜7頁)

《 水は常に、永劫(えいごう)に久遠に澄(す)んで
おるのでありますのに、濁(にご)っておれば、
水が濁っているように思い、「人間」は久遠に健康で
ありますのに、肉体が健康でないと「人間」が健康で
ないと考えるとまちがいであります。
濁った中においても水それ自身は澄んでいるように、
罪の汚濁(おじょく)の中にいようとも、病気の中に
いようとも、未(いま)だかって汚(けが)れず、
いまだかって病気にかかったことがないのが人間
なのであります。それがわかった時にわれわれは
濁りに捉(とら)われて、自己暗示で自分の自由を
縛(しば)っていたその縛りが自然に解け、いのち
の本当の無限の自由を得(う)るのです。
いのちの本当の無限の自由を得た時、その濁りが
自然に澄むのでありまして、現象的に澄みきるのは
その後であります。ところがまだこの水は澄まぬ
澄まぬ、なんとか澄ませようと、揺(ゆ)すぶったり
掻(か)き廻(まわ)したりしておったらいつまでも
濁りは澄むわけはないのであります。
ですから現象的に濁りの現象を見ても、自分の本物
は蒸留水(じょうりゅうすい)であって汚(きたな)い
濁ったものではない
ということを知ることが必要であります。》
(同書 100頁)

《 現象界のありとしあらゆるものはすべて無常であり、
完全なものは無いのがあたりまえであると悟るのが、
悟りの半面であって、その無常な現象は本来無いのであって、
生き通しの完全な実相の自分は、水面の月のいかんに
かかわらず、永久にマン丸(まる)い完全なものである
と悟るのが、悟りのもう一つの半面なのであります。》
(同書 104頁)

《 自分の力でできるものはこの世の中に一つもない。
自分がこの世の中に生きさせてもらっている力さえ、
自分の力ではない。われわれはいろいろの力の世話に
なっている。・・・・
またこのいろいろの皆なの力で生かされている自分で
あればこそこの自分が尊い。・・・・
しかしわれわれの生命力はこの国宝よりも尊い、
いわば宇宙の宝である。》
(同書 129頁)

《 本当の生長、本当の進歩は外から強制して行なわれる
ものでなく、自分で自覚して自由意志で進歩してゆく
のであります。この進歩向上の自由意志を目覚めさす
ために、自分の心と同じ形をした境遇(きょうぐう)や
環境をわれわれの周囲にあらわして見せて下さるのは、
神様のお慈悲(じひ)であります。だから「類(るい)は
類(とも)を招(よ)ぶ》というのは法則であるとともに
お慈悲なのであります。
神はただの「法則〛ではなく、「法則」であるとともに、
「愛」であるというのはこのことでもわかると思います。》
(同書 129.130頁)

年末のある日 (62331)
日時:2023年12月25日 (月) 21時04分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。

年末年始の休みの時にCAD(コンピュータを設計作業用
として使用するツール)のバージョンアップを
考えていましたが、2週間程前倒しで行い、
関連のソフトウェアも同時にバージョンアップしたところ、
あちこち支障が発生して、その修復の為、
ほぼ1週間程費やしたため、投稿も空いてしまい、
申し訳ございませんでした。
(空いても人畜無害ですが)

最近の事柄を少し纏めてみました。

☆ 真理

《・・・・ 人の病気をしているのは仮相(かそう)
すなわち仮の相(すがた)、ウソの相であって
本来健康なのが本当の相だからであります。
この本当の相のことを生長の家では実相と言っている
のであります。・・・・病気になった時に周囲から
「甘い同情」を受けたために、その「甘い同情」の
甘美さが忘れられないために、世間にはもっと早く
治るべき病気の治療を遅らせている人がたくさんある。
そこへゆくと軍医が兵卒(へいそつ)を治すのは、
「気をつけ、前へ進め!」式に命令でドシドシ治してしまう。
もし「まだ治りません」などと言おうものなら、
患部をいっそう深くグリグリ刳(えぐ)りとってしまう。
軍人らしく活発で「甘い同情」など示さない。
麻酔剤も何も使わないで肉をグリグリ刳りとって
「これで治る」とやられるのですから、
「病気」という電気スイッチを握っても周囲の人達を
跳(おど)らせたり走らせたりすることができないものだ
ということがわかりますから、患者がいつまでも
「病気」という危険な電気スイッチを弄(もてあそ)ばないで
棄(す)ててしまうということになるのです。
これを「生長の家」では「愛深き冷淡療法」と言っている。
冷淡に見えていてその患者を生かすところの最も愛深き行為
なのであります。・・・

闇をいったんあると認めてその闇を握って掴(つか)んで
捨てようと思っても、闇というものは消えるものではない。
闇というものを消す方法は、闇がアルとかナイとかいう
ことに頓着(とんじゃく)しないで闇の反対ー「光」を出せば、
闇は消えてしまうのです。光さえ出せば幾億万年以来からの
濃い闇でも電燈一個でもともせば消えてしまうのです。
だから闇のことは頓着する必要はちっともないのです。》

(『生命の實相』頭注版 第17巻7.8.57頁)


《 汝(なんじ)若(も)し能(よ)く念々の
馳求(ちぐ)の心を歇得(かつとく)せば便(すなわ)ち
祖仏と別(こと)ならず。汝祖仏を識(し)ることを
得んと欲するや。汝、面前、聴法底(ちょうほうてい)
是(これ)なり。(臨済録(りんざいろく))

悟りというものは、一切を外的原因だとして、
責任を外に負わせていた者が、一転一切の責任は自己にありと、
脚下照顧、自己に反照(はんしょう)して、
一切万事吾より出でて吾に還ると知ることである。
外に神を求め、社殿に廟宮(びょうぐう)に寺院に
教会に跪(ひざまず)いて、此処(ここ)に神仏があり
自分を不幸にも幸福にもする力ありと思っていた迷信から
一転して、汝の祖師、釈迦仏(しゃかぶつ)も
キリストも汝の内にあり、功徳の本源は自己の内にありと
自覚する事が真の宗教であるのである。
引用せる臨済録の「馳求の心」とは外に求める心であって、
「外に求めていた心を歇(や)めてしまったら、
汝は便(すなわ)ち、今直(す)ぐ仏と同体だ。
汝、仏が何処(どこ)にあるか知りたいと思うか。
では教えてやろう。此(こ)の眼の前で仏法を聴いている
其奴(そやつ)が仏其(そ)の者じゃ」と
一喝(いっかつ)したのである。

生長の家の根本哲学『生命の實相』の冒頭の
「生命の実相の自性円満なることを自覚すれば
神の癒す力がはたらいてメタフィジカル・ヒーリング
となります」と書いてある。
「吾人(ごじん)生命の自性円満」とは即(すなわ)ち
仏性(ぶっしょう)なり。
神性(しんせい)なり。仏そのものであり、
神そのものである。それを自覚せずんばすなわち休(や)む。
自覚せば本来の円満性あらわれて神の癒す力が
実現するのである。神は外にあらず、内にまします。
今・此処に法を聴く者、本書を読む者そのままに仏也(なり)。

他に求める事をやめよ。他に求める心は争いの因(いん)也。
真の人格主義は他に求めず他を奪(うば)わず、
自己内在の力を礼拝して、一切万事我れより出でて
我れに還ると知るのである。
かく自分を仏と知りて、初めて他の人々を仏と知る。
仏と仏と相(あい)対せる世界此の世界なり。》

(『新版 叡智の断片』49〜51頁)


■ 体験

・『就寝直前の神想観』の途中でケータイの着信音
「モルダウ」が鳴った。一瞬緊張が走った。
この時間帯の電話は、ほとんどが緊急を要する。
Kさんからだった。
K「真理は知っているつもりだったが、吹っ飛んでしまった。」「どうしました」
K「一週間程前から肩から胸にかけて痛かったが、
検査で『帯状疱疹』だという。
針で刺されたような、焼けるような痛みで、眠れず、
食事もあまりとれない。
真理でどの様に思えばよいのだろうか。」
「痛くない処に感謝できますか」
K「身体中痛い感じで、それどころではない」
「痛いのはわかります。でも心臓は動いていますよね。
呼吸も出来ますよね。自分で考えなくても、
それが出来ているのは、生かされているからです。
そこに感謝です。」
K「業(ごう)の事もあるのだろうか」
「それも否定できません。現れたら消えるのが現象ですが、
掴(つか)んでいたら、認める事になりますから、
いつまでもそれは消えません。
無いモノは無いのです。認めなければ、現れたら消えていきます。感謝して見送ってください」
K「わかったけれども、痛い」
「もし使命がなかったら、この生命(いのち)なくなっても
よいという覚悟が持てますか」
K「そこまではまだ・・・」・・・・
そして約30分後
「これから祈らせていただきます。大丈夫です。
頑張ってください」

およそそのような事を話した後、Kさんの
『K家先祖代々親族縁族一切之霊位』の霊牌を書いて、
『甘露の法雨』を読誦させていただいた。
霊界からのご支援、ご援助を御願いして。

七転八倒しながら、真理の事を聞いてくるとは、
さすがに「生長の家」の方だけある。
そのあとどうされたかは、知らないが、
祈らせていただいている。


・この半年間、私達の誌友会は、
今迄の7年間の経験を踏まえて、
「実相を直視(じきし)する方法を主体にして進めてきました。(ねらいはそこですが、必ずしもそのようにはなって
いませんでしたが)
結果として、ほとんどの人が集まってくださらなかった。
(数の問題ではありませんが)
私は、私の非力を恥じます。今まで何をやってきたんだと。
残ったのは、真理は真理、それをどう生きるかという亊に
眼が届いていませんでした。
『生命の實相』36巻にありますように、
世諦(せたい)世俗の生活の上に真理が投映し顕すことが
出来なかったのです。

現象界は光と闇の交錯している所です。
それは、縦の真理で超越できればよいのですが、
横の真理も駆使してすべては、自分から出て、
自分に還ってくること、不完全な現れは、
自分の魂(たましい)の向上のためにある、
それによって相手も救済され自分も救われるということを、
徹底しなかった為に、このような事が起っていると思いました。
ですから、もう少しで「無の門関』を超えられるのに、
「残念ながら恐怖心は消えません」と
他人事(ひとごと)のように言って、
駆求(ちぐ)・・・走りまわり、求めて、
どこかに悟りがあるだろうとしている、
(『新版叡智の断片』49頁)
方がおりました。

最近私はある事があって、それが成就できなければ、
『生長の家』から、去る決意をしました。
そしてその思いと、物質的なものを全て無にするという
行動をしました。
そうしたら、その決心して行動した次の日から
『無限供給』が起こり、7日の後にその願いは成就して、
生長の家を去らないですむ事ができました。

この方にもその事を話して、会得してもらいたいと思いました。
そして最後の『無の門関』は自分で超えてください、
というところまでいきました。
そして、30分でもよいから、誌友会に出て、
私の体験の話を聞き、呼吸法を会得してほしかった。

(先ず全てを出す。すると入ってきます。(如意宝珠)
与えれば与えかえされます。
すべては、霊的に繋がっているからです。
すでに、すべては与えられすみなのです。
退路を断って進んでいけば、道は拓(ひら)けると思った
体験内容でした。)

しかし、この方は教化部の行事を優先し、
「後日指導下さい」と連絡が来るましたので、
「機会(チャンス)は今しかありません。後日はありません。」と断っていろいろ準備をして待ったが、出席されなかった。

そしてこの方を、現象を超越させる事が出来なかった。
無の門関を突破できなかった。
イノチがけでやったつもりなのですが、
どこかに隙(すき)があって、機会(チャンス)の前髪を
掴(つか)むことが出来なかった。
悲しい、本当に哀しい、悔(くや)しい、
毎日祈らせていただいているのに。
申し訳なかったと心から反省しています。

△  思う事

数日前、教区の講師会から書面で連絡があった。
講師の活動報告書(誌友会出講を含む)を提出しなさい
との事だった。提出者の氏名、人数、活動内容、
出講の時は、出稿内容を報告しなさいとの事であった。
それを強化部長が閲覧(えつらん)し、押印いただいて、
とり纏めて本部に提出するという。
本部に提出するとは、初めて耳にする言葉である。
そこまで来たかと思った。
(私は活動をしていないので報告書は出しませんが)

ありがとうございます。

はうらひとひら様 (62337)
日時:2023年12月26日 (火) 09時10分
名前:志恩

(はうら ひとひら様ー)
【年末のある日 】(今回のはうら様の題)

>☆ 真理
(前略)
今・此処に法を聴く者、本書を読む者そのままに仏也(なり)。

他に求める事をやめよ。他に求める心は争いの因(いん)也。
真の人格主義は他に求めず他を奪(うば)わず、
自己内在の力を礼拝して、一切万事我れより出でて
我れに還ると知るのである。
かく自分を仏と知りて、初めて他の人々を仏と知る。
仏と仏と相(あい)対せる世界此の世界なり。》

(『新版 叡智の断片』49〜51頁)


■ 体験
・『就寝直前の神想観』の途中でケータイの着信音
「モルダウ」が鳴った。一瞬緊張が走った。
この時間帯の電話は、ほとんどが緊急を要する。
Kさんからだった。
K「真理は知っているつもりだったが、吹っ飛んでしまった。」「どうしました」
K「一週間程前から肩から胸にかけて痛かったが、
検査で『帯状疱疹』だという。
針で刺されたような、焼けるような痛みで、眠れず、
食事もあまりとれない。
真理でどの様に思えばよいのだろうか。」
「痛くない処に感謝できますか」
K「身体中痛い感じで、それどころではない」
「痛いのはわかります。でも心臓は動いていますよね。
呼吸も出来ますよね。自分で考えなくても、
それが出来ているのは、生かされているからです。
そこに感謝です。」
K「業(ごう)の事もあるのだろうか」
「それも否定できません。現れたら消えるのが現象ですが、
掴(つか)んでいたら、認める事になりますから、
いつまでもそれは消えません。
無いモノは無いのです。認めなければ、現れたら消えていきます。感謝して見送ってください」
K「わかったけれども、痛い」
「もし使命がなかったら、この生命(いのち)なくなっても
よいという覚悟が持てますか」
K「そこまではまだ・・・」・・・・
そして約30分後
「これから祈らせていただきます。大丈夫です。
頑張ってください」

およそそのような事を話した後、Kさんの
『K家先祖代々親族縁族一切之霊位』の霊牌を書いて、
『甘露の法雨』を読誦させていただいた。
霊界からのご支援、ご援助を御願いして。

七転八倒しながら、真理の事を聞いてくるとは、
さすがに「生長の家」の方だけある。
そのあとどうされたかは、知らないが、
祈らせていただいている。<

志恩ー
はうらひとひら様は、24時間、個人指導対応と
おっしゃっておられますお方でいらっしゃいますが、
夜、遅い時間帯にかかってきたこのような時にも
ちゃんと電話に出られて、個人指導を
されておられることを知りまして、その愛の深さに
深く感動いたしております。


(はうらひとひら様ー)
>最近私はある事があって、それが成就できなければ、
『生長の家』から、去る決意をしました。
そしてその思いと、物質的なものを全て無にするという
行動をしました。
そうしたら、その決心して行動した次の日から
『無限供給』が起こり、7日の後にその願いは成就して、
生長の家を去らないですむ事ができました。

この方にもその事を話して、会得してもらいたいと思いました。
そして最後の『無の門関』は自分で超えてください、
というところまでいきました。
そして、30分でもよいから、誌友会に出て、
私の体験の話を聞き、呼吸法を会得してほしかった。

(先ず全てを出す。すると入ってきます。(如意宝珠)
与えれば与えかえされます。
すべては、霊的に繋がっているからです。
すでに、すべては与えられすみなのです。
退路を断って進んでいけば、道は拓(ひら)けると思った
体験内容でした。)

しかし、この方は教化部の行事を優先し、
「後日指導下さい」と連絡が来るましたので、
「機会(チャンス)は今しかありません。後日はありません。」と
断っていろいろ準備をして待ったが、出席されなかった。

そしてこの方を、現象を超越させる事が出来なかった。
無の門関を突破できなかった。
イノチがけでやったつもりなのですが、
どこかに隙(すき)があって、機会(チャンス)の前髪を
掴(つか)むことが出来なかった。
悲しい、本当に哀しい、悔(くや)しい、
毎日祈らせていただいているのに。
申し訳なかったと心から反省しています。

△  思う事

数日前、教区の講師会から書面で連絡があった。
講師の活動報告書(誌友会出講を含む)を提出しなさい
との事だった。提出者の氏名、人数、活動内容、
出講の時は、出稿内容を報告しなさいとの事であった。
それを教化部長が閲覧(えつらん)し、押印いただいて、
とり纏めて本部に提出するという。
本部に提出するとは、初めて耳にする言葉である。
そこまで来たかと思った。
(私は活動をしていないので報告書は出しませんが)<


志恩ー
はうら様は、毎月、誌友会も開催されていらして、
参加者の方々にも親身になって個人指導されておられるのでした。
ほんとに心から尊敬申し上げております。

最近は、地方講師の活動報告まで教化部へ提出し、
それを教化部長が閲覧し、押印をいただいて、
とり纏めて今度は、本部に提出するという。
ことになっているとは、初耳ですし、
大変驚いております。

はうら様は、地方講師でいらっしゃいますが、
まだ出講停止になっておられるそうなので、
報告書は出しておられないようですが。

本部は、そこまで、チェックするようになったのですね。

本部、と言いますか、雅宣総裁ですが、
総裁の意向と違ったことを信徒たちに
講話したり、指導したりしたら、直ちに、教化部長に、
きついお叱りが本部から来るのかしら。

なにせ、教団のひかりの言葉という来年のひめくり
カレンダーにも、谷口雅春先生のお言葉は、
一つもいれない、という方針の雅宣様ですから

雅宣様の方針を
講話せずに、元々の谷口雅春先生の教えばかり説いたら、
もしかしたら、谷口雅春原理主義者だという烙印を押されて、
そっこく教団組織から、排除されるのでしょうか。

私は14歳の時、実母とともに生長の家に触れましたので、
もう生長の家の信徒になって、67年の年月が経ちました。
はうら様は、今から30年前に、触れられたそうですから、私は
年月だけは、はうら様の倍近くも生長の家におりますわけです。

ですから私は、長いことおりますので、
教団関係の方々、学ぶ会の方々の
中に、かなりの数の(差し障りがあるといけませんので、
お名前は書きませんけれど)友人たちが、存在いたしております。

その方たちの多くの皆様の声によりますと、
「今の時代、教団も、学ぶ会も、社会事業団も、上層部がひどい」
と口を揃えて申されています。

教団は、雅宣さんの恐怖政治になっていて、皆様、震えながら
居ると聞きます。下手なこと言ったら、すぐに首になりますもので
恐ろしい時代を皆様、耐え忍んで生きておられるようですね。

生長の家に属されている皆様、体調を崩されませんように
ご無事に生き抜いて行かれますように私も一信徒の一人として
心から皆様のご無事を祈願いたしております。合掌








本年は大変お世話様になりました。 (62377)
日時:2023年12月30日 (土) 16時51分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。

本年は、ご縁をいただいただきまして、
私の拙(つたな)い『体験』にお付き合いいただきまして、
誠にありがとうございました。
お陰様で、年を越す事が出来ました。

ありがとうございます。

☆: 真理

《 われわれが祈っておれば「誰か行動を起こして
くれるであろう」などと、責任を他に転嫁(てんか)
して自分は何も行動を起こさないのは、卑怯(ひきょう)
である。吾々は卑怯であったり、偽善であったりしては
ならないのである。

人類救済に誰かが行動を起こす必要があるならば、
先ず自身が行動を起こすべきである。

地上天国実現に、誰かが行動を起こさなければ、
先ず自身が行動を起こすべきである。》

(『生長の家』誌 昭和43年5月号 10.11頁)


■  体験

上記のご文章は、重いお言葉です。
しかし、それを行った時、同志やご援助が必ず
出て来る事を、この年末も痛切に体験しております。
詳細は、事情があって控えさせていただきますが、
霊的には繫がっているのです。
高い志があれば、必ず道は拓(ひら)けるのです。

知人に、クリスチャンで『原罪』をテーマにして
42歳の時、雑貨商店の主婦から一躍ベストセラー
作家となった三浦綾子氏がいる。
(彼女が原稿を書いていた時、ご主人の光世氏は、
隣の部屋で一心に祈りこの小説が、懸賞を受賞する
と確信したという。)

自身を『この土の器をも』『病も神からの贈り物と
して生かされてある日々』として、難病を数多く
背負いながら、晩年夫に口述筆記をしてもらい
ながら、『人の幸せの為に生きる』と、百冊程の
著作がある。

私が実相哲学に触れる前に靈界に逝(い)かれた。
時々「もっと早く私が実相哲学に触れていたら、
三浦氏に“病気は無い”と言えたのに」と思う事が
あった。
が、ある時、実相哲学に教えられた。
「彼女は維摩詰(ゆいまきつ)であった」と。
維摩は文殊(もんじゅ)菩薩に
『衆生の病本来なし』
と教えた。

「菩薩の病は大慈悲から生じる。煩悩に苦しむ
人を見れば、煩悩ありとそのままに観じて、
倶(とも)に苦しみ、倶に悲しむ」

(『維摩經解釋』496頁)

「高原の陸地には蓮華(れんげ)は生ぜず、卑湿
(ひしつ)の汚泥(おでい)には乃(すなわ)ち
此(こ)の華(はな)を生じるが如し」

(一部現代漢字を使用させていただきました)
(同書 353頁)

そして今がその時である、と。
一人でも多くの人に実相哲学を知ってもらうように
務めるのが、三浦氏の供養になると、今は思っている。

皆様どうぞ佳いお年をお迎いください。

ありがとうございます。

感謝 合掌 はうら ひとひら 拝



はうら ひとひら様 (62385)
日時:2023年12月31日 (日) 09時11分
名前:志恩

本年の5月24日に岡正章先生がご逝去されまして、
そのご報告に、トキ掲示板へ出てくださった
はうらひとひら様が、一度だけご報告に、という
おつもりで、トキ掲示板へ出てくださいましたそうですが、
その後も、時折、このように出てくださいまして、
過去の体験談だけでなく、
ごく最近起こったご自身の神癒と思しき体験談を
書いてくださったり、
私よりもお年は、少し下でいらっしゃいますが、10も下では
ございません。
なのに、24時間、個人指導対応というすごい愛行も
継続して行っていらっしゃるという生長の家地方講師の
資格も持っていらっしゃるという素晴らしいお方です。

はうら様は、
岡正章先生のブログと、榎本恵吾先生のブログの
管理のお仕事も、無料奉仕でされておられるお方です。

私は、生長の家は古いばかりでして、おはずかしい
状態で、何も資格は持っておりません。

いつも教えていただくばかりです。

今年は、神縁でトキ掲示板の投稿者のお一人にも
なってくださいまして、大変光栄に思っております。

来年もどうぞよろしくお願いいたします。

ありがとうございます。




SAHASARITOTE (62555)
日時:2024年01月08日 (月) 11時53分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。
昨年は、喪中でもあり、年末年始は死んだふりをしておりました。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

☆: 真理

《 すべて生命の動きーそれが行動にせよ、
生理作用にせよーあらゆる生命のいとなみの奥には、
想念と感情とが織り合わされて、
あなた達の生活の織物を織り成されているのであります。

その想念感情の奥には、過去の想念感情及び
行動並びに言葉の蓄積が、
業力(ごうりき)となって操(あやつ)っていて、
それが太陽系統から放射される神秘的な霊的系と
繋(つな)がっていて、人間の運命に大いなる
影響を与えているのである。

地震、津波、集中豪雨、台風の針路なども、
その神秘的な霊的系の操りとの関係から起ってくる
のであるから、人間の物理学などで、
地震や、台風や水位の上昇が如何(いか)に
何時(いつ)起こるかなどと研究してみたとて、
そういう物質的方面からの研究では、
わかりっこはないのである。》

(『神 真理を告げ給う』 113〜114頁)

さはさりとて、辛いです。

☆:  真理

《 近頃この日本国に頻繫(ひんぱん)として
天変地変が起こる。

私は地球上に此(こ)のように人類が苦難を受ける
天災地変が起こらないように、
毎日祈っているのだけれども、私の徳足らず、
自然の大勢を転ずる如き霊力足らず、
且(か)つ尚(なお)真剣さ足らずして、
これら諸種の不幸な天変地変が地上に起らないように、
左右する事が出来ないので、
自分の不徳と力足らざる事を恥じて、
お詫(わ)びするほかないのである。

(『理想世界』昭和59年新年号掲載)

尊師に言われるまでもなく、お詫びするほかはありません。

■  体験
『生長の家』に入信したての頃、
「相手の実相を観よ」といわれるが、
よく解らずにいた。

或る日通勤電車内で些細(ささい)な事で
喧嘩(けんか)となり、「外に出ろ!」となり、
ホームで大声で争っていた人がいた。
私は吾知らず、その争っている人のスガタを観ず、
その二人の実相を心で念じた。

すると不思議な事が起こった。
突然一方の人が
「俺はここで降りるが、お前は電車が出るので早く乗れ!」
と大声で言った。
そして、争っていたもう一方の人が電車に乗って、
何事も無かったように、電車が出発したのである。

争っているように見えたのは、私の心の迷いだったのである。
常にこの世は争いのない調和した常楽の世である事を
ちらっとであるが、知ったのである。
混(こ)んでいる電車内に安堵(あんど)の空気が流れた。
この時の体験が、後々の事柄の処置に大変役立った。

ありがとうございます。


はうら ひとひら様 (62561)
日時:2024年01月09日 (火) 06時28分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)
【SAHASARITOTE 】(今回のはうら様のテーマ)

>☆: 真理

《 すべて生命の動きーそれが行動にせよ、
生理作用にせよーあらゆる生命のいとなみの奥には、
想念と感情とが織り合わされて、
あなた達の生活の織物を織り成されているのであります。

その想念感情の奥には、過去の想念感情及び
行動並びに言葉の蓄積が、
業力(ごうりき)となって操(あやつ)っていて、
それが太陽系統から放射される神秘的な霊的系と
繋(つな)がっていて、人間の運命に大いなる
影響を与えているのである。

地震、津波、集中豪雨、台風の針路なども、
その神秘的な霊的系の操りとの関係から起ってくる
のであるから、人間の物理学などで、
地震や、台風や水位の上昇が如何(いか)に
何時(いつ)起こるかなどと研究してみたとて、
そういう物質的方面からの研究では、
わかりっこはないのである。》

(『神 真理を告げ給う』 113〜114頁)

さはさりとて、辛いです。

☆:  真理

《 近頃この日本国に頻繫(ひんぱん)として
天変地変が起こる。

私は地球上に此(こ)のように人類が苦難を受ける
天災地変が起こらないように、
毎日祈っているのだけれども、私の徳足らず、
自然の大勢を転ずる如き霊力足らず、
且(か)つ尚(なお)真剣さ足らずして、
これら諸種の不幸な天変地変が地上に起らないように、
左右する事が出来ないので、
自分の不徳と力足らざる事を恥じて、
お詫(わ)びするほかないのである。

(『理想世界』昭和59年新年号掲載)

尊師に言われるまでもなく、お詫びするほかはありません。

■  体験
『生長の家』に入信したての頃、
「相手の実相を観よ」といわれるが、
よく解らずにいた。

或る日通勤電車内で些細(ささい)な事で
喧嘩(けんか)となり、「外に出ろ!」となり、
ホームで大声で争っていた人がいた。
私は吾知らず、その争っている人のスガタを観ず、
その二人の実相を心で念じた。

すると不思議な事が起こった。
突然一方の人が
「俺はここで降りるが、お前は電車が出るので早く乗れ!」
と大声で言った。
そして、争っていたもう一方の人が電車に乗って、
何事も無かったように、電車が出発したのである。

争っているように見えたのは、私の心の迷いだったのである。
常にこの世は争いのない調和した常楽の世である事を
ちらっとであるが、知ったのである。
混(こ)んでいる電車内に安堵(あんど)の空気が流れた。
この時の体験が、後々の事柄の処置に大変役立った。<
ーーーーーーーーー
志恩ー
『SAHASARITOTE 』=「さはさりとて」=「それはそうなのだが」
=「とは言え」、
ですよね。
シオの部屋の方に書いたのですが、昨日、原宿本部時代の
白鳩会中央部の後輩の女性から電話がかかって参りまして
1時間近くも話した中で、彼女は、長いこと生長の家の白鳩会の
幹部をしてきたので、生長の家の幹部達とのつながりができていて、
時折、皆で集まってお茶会とかして、皆で話すのだけど、異口同音に
白鳩の幹部の皆さんは、雅宣さんに対する愚痴ばかりよ、ということも
言ってました。
でも、性格が優しい彼女が言うには、「でもさ、雅宣さんは、
かわいそうな人だとも、私は彼に同情もしてるのよ、だって、彼は、
宗教のことは何もわからない、前に組織活動もしたこともない、
人の心も、母親の心も、兄弟の心も、わからない 愚かな人間
なのに、総裁の座なんかに座らされているんだもの。気の毒ったら
気の毒な話よね。でも、ほんの一部のイエスマン達には、総裁、総裁
とあがめまつられてるから、本人は、自分は総裁!だと気をよくしてるから
雅宣さんは総裁を辞めないだろうね。」とも言ってました。

私は、そのようなことは、言ってはおりません。彼女が言ったんです。

これは、『SAHASARITOTE 』=「さはさりとて」
=「それはそうなのだが」=「とは言え」、と、言えませんでしょうか。

しかし、私の場合は、雅宣さんが気の毒だと思ったことは一度もありません。
彼は、生長の家の今まで築いてきた全組織を使って、超高給をもらいながら
ご自分がやりたいことをやって、都会を離れて、キノコ と大自然に囲まれた
優雅な暮らしを楽しんで、おられるのですから。

一隅を照らす (62643)
日時:2024年01月14日 (日) 17時27分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。

「一隅を照らす・・・」の出典、

最澄(さいちょう)著『山家学生式(さんげがくしょうしき)』
には「国宝とは何物ぞ。宝とは道心(どうしん)なり。
道心ある人は名づけて国宝となす。
故に古人言わく、径寸(けいすん)十枚、是れ国宝に非ず。
一隅千を照す、此れ即ち国宝なり。」

☆: 真理

《 それは牆(かき)の陰から煙を見て、
ただ煙であると見るだけではなく、
それは煙草(たばこ)の煙であるか、
衛士(えじ)が落ち葉を焚(た)く煙であるか、
林間紅葉を焚いて酒を温(あたた)める煙であるか、
またそれは真に火事の煙であるかを見極めるだけの
全的把握の力がなければならぬ。
この實相の全的把握が《禅(ぜん)」なのである。
人間の肉体を見て、「人間は肉体なり」と観ているのは、
火事の煙を視て、「火事とは煙なり」と観るのと同じで、
不喞溜漢(ふしつりゅうかん)と圓悟禅師(えんごぜんじ)
に叱られようぞ。》

(『碧巌録(へきがんろく)解釈前編12.13頁)

■: 体験

高校時代に出会い、縁あって室町時代の初期に
開堂した古刹(こさつ)の27世(代)住職に就いた友人がいる。

彼は朝四時半から一時間半の坐禅に始まり、
一日三時間の坐禅と禅門第一の書と言われる
『碧巌録』の一時間半の講述を一日も怠らず続けている。
住職に就任してから、坐禅堂を建て、
春、夏、冬の学校の休みには、
子供達に宿泊の坐禅行を教えている。
彼にはとても及ばない。と常に思っていたが、
実相哲学に触れ、尊師の『碧巌録解釋』
(44年の歳月をかけてのご執筆の遺稿)を
拝読する機会がもてて、友の世界の一部分でも
共有する事が出来たと、ただ有り難さを感じている。

30歳の頃、彼から急に会いたいと云ってきた。
その時彼は、業界では指折りの著名な会社に席を置き、
あるプロジェクトのリーダーとして、
年齢に相応する地位にあり、多忙を極めていた。
「多忙の中で薄明りが射し込むのは、
坐禅であったという。仕事もある面では満たされていたが、
形而下(けいじか)の問題である。
しかし、自分が自分である為の何かが、
自分の全体重、存在を賭(と)して証明すべきものを
探す必要がある事に気がついた。
だからそれを見い出す為に一時今の生活を離れることとする。
暫(しばら)くは音信不通になるが、心配する事はない。」
以上のような事柄であった。

上野駅のホームで彼の後ろ姿を見送った時、
痛いほどの哀(かな)しみが胸を圧していた。
佐藤義清(のちの西行法師)が出家を決意した時、
泣いて縋(すが)り付く子供を縁(えん)の下へ蹴落とした事
によって、俗世との未練を断ち切ったように、
彼は私に向かって一度も振り向かなかった。

開悟という亊については、まったくの個人差があるようである。
それも段階があって、初めての扉(初関)を開く事が、
大変な苦行のようであった。

彼は福島の人里離れた僧堂に籠った。
厳しく降り頻(しき)る雪の夜、水垢離(みずごり)をし、
心の臓に鎌を突き付けて、「死ねるか!」「死ねるか!」
と問いながら、道を開こうとしていた。
水は凍り付き、風は雪を伴って、枝枝を揺さぶった。

ある夜半、瞬間に眼前に閃光(せんこう)するものがあった。
「わかった」その刹那、悟りは一瞬間のうちに消えていた。

三年後、彼から便りがあった。
初関を透(とお)り、生と死との問題は解決した事。
まだまだ禅の奥義を深めるには、時間がかかる事。
禅語が多くて経本を読むのに骨がおれるが、
楽しみがこみ上げてくるようであった。
「平常心是道。幸せだ・・・」とも書いていた。

そして、あの葵の御紋のついた古刹の住職として迎えられた。
この古刹では、全て外部から後継者を迎いいれ、
その住職に子供がいても、決して血脈はしていない。
それで27代も続いているのであろう。

彼は云う。「一隅を照らしたい」と。

私には永遠に追いつけない師であり、ライバルであり、
友人である。

ありがとうございます。





はうら ひとひら様 (62660)
日時:2024年01月15日 (月) 08時36分
名前:志恩

(はうら ひとひら様ー)
「一隅を照らす」(はうら様の今回のテーマ)




(略)

志恩ー
いま、トキ掲示板の他スレッドにて、
「一隅を照らす」についてのことが、
述べられているときに、ぴったりの題材で、良質な
ご文章を書いてくださいまして、誠にありがとう存じます。
はうらひとひら様には、
>高校時代に出会い、縁あって室町時代の初期に
開堂した古刹(こさつ)の27世(代)住職に就いた友人がいる。<

とのことで、彼のこと、そして彼とのエピソードも書いてくださいまして
興味深く読ませていただきました。ありがとうございます。

「一隅を照らす」については、

他スレッドで、元信徒様も記されておられましたが
先に、はうら様も記されておられますように、

「一隅(いちぐう)を照らす」という言葉は、
天台宗を開いた伝教大師・最澄が書いた『山家学生式』の冒頭に
載っていて、


「一隅」とは、今自分がいる場所や置かれた立場を指し、
自分自身が置かれたその場所で精一杯努力し、明るく光り輝くことを
「一隅を照らす」と言い、そういったことのできる人こそ、
何物にも代えがたい、貴い国の宝だと最澄は言っている。


「一隅を照らす」ということは、

「お金や財宝は国の宝ではなく、家庭や職場など、
自分自身が置かれたその場所で、精一杯努力し、
明るく光り輝くことのできる人こそ、何物にも代え難い
貴い国の宝である。」という意味。

たとえば、私のような高齢者の場合で言えば、

・笑顔、和やかな表情で人に接する
・相手が喜んだり前向きになれたりする言葉をかける
・思いやりのある行動をする
・自宅の掃除だけでなく、外のゴミを拾うなどの愛行の行動をする
・心をこめて「ありがとう」を言ったり、会釈をしたりする

いってみれば、もともとの生長の家の教えの生き方をしていれば、
一隅を照らす生き方をしているように私は、思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
余談ですが、最澄の法話に
「忘己利他(もうこりた)」というのがあるそうです。

”天台宗の最澄の法話集よりー”

「忘己利他(もうこりた)とは、
己を忘れて他を利すること、だそうです。

 「人間の性(さが)として、私たちはどうしても自分中心に考えて
しまうことがあります。もっと欲しい、こうして欲しい、とまわりに望む
ことが多くなりがちなのです。」
我欲が先立つのです。

 最澄の言葉に
『己(おのれ)を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり』
という言葉があります。

自分のことは後にして、まず人に喜んでいただくことをする、
それは仏さまの行いで、そこに幸せがあるのだという言葉です
つまり我欲が先に立つような生活からは幸せは生まれない
のだということです。

 「インドの母と言われた故マザー・テレサさんの講演のなかで
こういう話がありました。

 ある日、七人の子供をかかえる貧しい母のところへ、
マザーは両手にいっぱいほどのお米を持っていってあげたのでした。
するとその母親はそのお米の半分を手にして外へ
出ていきました。
マザーが問うと、隣りにも同じような貧しい親子がいるので、
そのお米を分けてきたのだと言うのでした。
一俵もあるお米ではありません。
自分の子供たちの一食分にも足りないお米でさえ、
それを半分にして、隣りの子供たちも喜ぶだろうと
分けてやれる崇高な精神にマザーも感動したのです。 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

はうら ひとひら様   (62805)
日時:2024年01月21日 (日) 14時56分
名前:志恩

志恩ー
1月20日開催の『ZOOM実相ひかり誌友会』メモ
を、メールにてお送りくださいまして誠にありがとうございます。

全部、読ませていただきましたが、とても中身の濃い、いい内容
でしたので、かなりの長文になりますが、
出席者のお名前などは、ABCに変えまして、
トキ掲示板へ載せても、いいかな、と思える箇所を
すみませんが、転載させてくださいませ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「R06-1-20 誌友会 メモ」

(はうらひとひら様ー)
「令和6年能登半島地震」でお亡くなりになられた方々に
謹んでお悔やみ申し上げます。
また被災されました皆様に心よりお見舞い
申しあげます。
(実相ひかり誌友会一同)

1月20日開催の『ZOOM実相ひかり誌友会』メモ
(文責)(はうらひとひら)
日時:令和6年1月20日 午後1時半より約2時間

■  A

お陰様で、姉ともども無事に新年を迎えることが出来ました。
真理を生活に生きるべく、今年も一歩づつですが、前進
したいと思います。
誌友会のテキストですが、『生命の實相』を終了後、
総まとめをした後、『真理』をテキストにして
一巻を数度に分けて研鑽する事はよいと思います。

■  B

今、『甘露の法雨』『天使の言葉』『続々甘露の法雨』の一括
千巻読誦をある目標を立てて行っています。

1. 『聴』 わが内なる神に振り向く
1. 『覚』 目覚め。覚醒。

実相と現象とを融合一体化させようとしています。
波動がよくなり、生活が整い、問題も数日には閃きがあり
その通り行うと善い方向に解決します。
徳を積む事の大切さを先達に教わりました。
例として
・大阪の栄える会の吉野さん。「朝の時間を活かす」ことにより
無駄な時間がなくなり、また自分の事よりも、他人を思いやる
愛の生活が出来、エビで鯨が釣れるようになった話。

・出光佐三さん(出光興産創業者)
「日本人にかえれ」という書を出し、人間性の復活、
社会奉仕を再優先し、日本精神は武士道である、として
実践。戦火でも、自身の製油所だけ焼けなかったり、
他が焼け野原になっても、自分の周囲だけは焼けなかった。
功徳を積むことによって、霊界からの援助が必ずある事が
実証された話。

・松下幸之助さん(松下電器創業者)
自分は運が良いと思えばよい。その思いが生活に現れてくる。

今日はいい事がある。今回の誌友会の案内にあった真理
を20回唱え実行しています。
よいと言われた事は実行できることはしています。

【新版  幸福を招く365章より】
(朝起きた時この簡単な方法で)
今、新生せり。こう云う考えは、私達は清らかな
新生活にまでおし進める力をもっているのである。
だから新年でなくとも、つねに今、新年だ。
今、新生だと常に考えることはまことによいことで
あるのである。吾々は毎日新生するのである。
毎朝毎朝が新生である。この新生の最初の時間 ー
ポッカリと目覚めたその瞬間に、善き事を考え
ましょう。
「私は神の子だ。健康だ。素晴らしい朝だ。好い事
が屹度(きっと)訪れて来る」とこう心の中で、
また言葉に出して二十遍(ぺん)となえてから起き
ましょう。そして神想観をすぐ寝床の上で坐(すわ)
って行いましょう。この簡単な方法が、あなたに
無限の可能性をひらいてくれる事になるのです。
無限に完全なあなたの実相への扉をひらいてくれる
のです。無限に円満な人格が日に日に大成(たいせい)
されて来るのです。
(『新版幸福を招く365章 4.5頁)

思いは必ず実現すると思います。
「直観」を大切にして、神の方向に常に振り向いて、
日本国の使命を神の御心を聴きながら、行じたいと思います。

・ はうら
今回のテキスト『生命の實相』37巻は、生長の家の教えの
纏めのようなものが凝縮していて、そのはしがきを拝読
するだけで、その実相哲学の波動が観じられますので、
輪読させていただきました。
また謹写させていただきます。
若柳さんの舞踊の発表会にありました楠木正成公のくだりも
輪読させていただき、あの時の発表会の楠木公の親子の別れ
を想い出して感動を再認識しました。


☆ 今月のテキスト『生命の實相』37巻
感銘した処
(はうら編集・謹写)

《 本書は地上に真に幸福なる天国浄土を現実にせんが
ために必要なる真理を、日記の形で、毎日一章を読むこと
によって読者の潜在意識に深く印象せんがために書かれたる
新天新地の言葉である。
真理とともに歩む者は常に新しき生命を生きるのである。
神は無限の愛であり、善であり、赦(ゆる)しであるから
神につながるものは過去のいっさいの罪はことごとく
浄(きよ)められて、常にその生命が新生するのである。
いたずらなる過去のなげきや悲しみに捉(とら)われる
ことなく、今われらは愛と赦しとによって新生し、新しい
日々を迎えるべきである。
諸君はこの書をよんで神の愛に照らされて新生するとき、
過去にありしいっさいの人々の悪、諸君に対する敵意、
すべての屈辱(くつじょく)、侵害、憎悪(ぞうお)等、
ことごとく消え去ってしまうであろう。
そして諸君は自己の内にキリストの生命を見、キリストの
愛を見、仏の四無量心(しむりょうしん)を自覚して
いっさいの罪人を赦し、すべての執着(しゅうじゃく)と
憎(にく)みとを捨て去り、完全に全人類とともに
喜ぶことができるであろう。
また人の喜びをもってわが喜びとし、人の悲しみをもって
しても、その悲しみを見ず、その奥に宿る完全なるキリスト
を見ることができるであろう。彼はキリストである。
吾もまたキリストである。彼は観世音菩薩である。
吾もまた観世音菩薩である。万人(ばんにん)が
観世音菩薩であり、キリストであり、迷えるもの、
悲しめる者、罪ある者は一人もいないのである。
もし真に自覚せるとき諸君は今仏の世界に住むのである。
仏(みほとけ)われらの周囲にめぐりて歓喜し讃嘆し、
天の使は紫雲(しうん)たなびく天上(てんじょう)
より曼陀羅華(まんだらげ)を雨ふらしつつあるのである。
諸君は本書とともに新しき世界に新生するであろう。
しかして暗(やみ)はくだけ、大地六種(ろくしゅ)に
振動していと妙(たえ)なる音楽を奏(そう)するを
聴(き)かん。新しき天と地とは実相の世界より天降
(あまくだ)りて地上に現前(げんぜん)せん。
今ここが天国である。諸々(も ろもろ)の堂閣(どうかく)
は種々(しゅじゅ)の七宝(しっぽう)もて荘厳(しょうごん)
せられ、宝樹(ほうじゅ)美しき花を爛漫(らんまん)と
開いて、果樹(かじゅ)豊かに実(みの)る。
天人(てんにん)諸々の伎楽(ぎがく)を奏(そう)し、
すべての人々遊楽(ゆらく)して舞踊(ぶよう)する世界が
今ここにあるのである。
諸君はかかる世界に今誕生したのである。
本書とともに、古き天地は消え去りその嘆(なげ)きも
哀しみもともに消えて、すべての人々は新たなる天と地とに
生(う)まれん。過去はない、いっさいの過去の争いも
憎みもないのである。今新天新地が開けたのである。
諸君はここに「黙示録(もくしろく)第二十一章に預言され
たる新天新地の現在せることを体験し、『法華経(ほけきょう)』
の如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)・自我偈(じがげ)に
しるされたる実相の荘厳(しょうごん)世界が自己の身辺に
現前せることを生活することができるであろう。》

(『生命の實相』第37巻はしがき1〜2頁)

《 一月二日
すんだことの中に生活せず、「今」のなかに生活せよ。
「今」は常に生きている。「今」の中にはあらゆるものが
輝いている。「今」は常に新しく、「今」は常に喜びに
満ちている。過去にどんな悲しいことがあったにしても、
それについて思い煩(わずら)うな。
「今」天地一新したのである。もう別の天地に生きている
のである。過去に寒風(かんぷう)に吹き暴(さら)された
ことを嘆(なげ)かないで、「今」梅の花は喜びに満たされ
て咲いている。梅の花よりも尊く強く逞(たくま)しいのが
人間である。喜ぶべきしかないのが人生である。》
( 同書5.6頁 )

《 一月三日
人生の唯一の目的は神の国をこの世に実現するということ
である。神の国とは天人(てんにん)常に充満し、
絶(た)えず天鼓(てんく)の響き妙(たえ)に、
摩訶曼荼羅華(まかまんだらげ)の花降る世界である。
天鼓とは天の鼓(つづみ)ではない。人間の人を賞(ほ)
め讃(たた)える声である。曼荼羅華とはインドにある
華(はな)ではない。華の笑(え)むように和(なご)
やかな微笑、深切(しんせつ)な言葉、思いやりのある
行いが天上(てんじょう)から降る曼荼羅華である。
これら天鼓と曼荼羅華とで飾(かざ)られた妙なる
世界の姿が天国である。
天国とは別の世界のことではない。われらの思いと、
言葉と、行いとの中にある。》
( 同書 6頁)

《 ・・・・栄えるためには人、時、処(ところ)の三相応
(そうおう)が備(そな)わらなければならない。
人・時・処の三相応といっても大調和のほかに何もない。
人に相応し、時に相応し、位置に相応して調和して
ゆかなければならない。・・・・
皇恩(こうおん)に感謝せよ。汝の父母に感謝せよ。
汝の夫または妻に感謝せよ。汝の子に感謝せよ。
汝の召使いに感謝せよ。天地の万物(すべてのもの)に
感謝せよ。その感謝の念のうちにこそ汝はわが姿を見、
わが救いを受けるであろうと『生命の實相』の巻頭
(かんとう)にある。−  生長の家の教えを要約すれば、
ただこの数句(すうく)に尽きていると言ってもよいくらいで
ある。》
( 同書 41頁 )

《 ・・・・われわれは毎日空気を吸っているが、機械的に
空気を供給されているがゆえにありがた味(み)を
感じない。われわれは太陽がなくては生きていられない
人間でありながら、太陽は機械的に毎朝地平線から
顔を出すから太陽のありがた味をさほど感じない。
しかし、これでよいだろうか。目ざめて立て!
わたしたちはあらゆる恩恵のうちに生きているのである。
ありがたさは物の分量にあるのではなくて、心のめざめ
にある。心の目ざめている人を悟っていると言う。
一(ひと)かど悟っていると自負(じふ)している人が
常に不平を唱えているのは何を悟っているのか、
訊(き)いてみたい。》
( 同書 44頁 )

《 三月一日
啓示 ー
人間は小宇宙である。大宇宙の力すなわち神が万物を
創造したがように、われわれも万物を創造する。
神が心をもって万物を創造(つくりだ)し給うた
ように人間も心をもって万物を造り出す。
神が万物を言葉によって創造したように人間も言葉を
もって万物を創造(つく)り出すのである。
人間もこの意味において創造主(つくりぬし)だ。
第一の創造は神の「世界および人間創造」である。
神はすでに世界を創造し給うたのである。
それは常に現在完了である。
人間はすでに神の肖像(にすがた)に創造(つく)
られたのである。(「創世記」第一章)そして
すべてのもの善し(「創世記」第一章)である。
このことは否定できない。「創世記」第一章の
天地人間の創造はすでに完了しているのである。
すでに完了であり、過去も、今も、未来も常に
現在完了である。しかして常に善である。
病気の人間もおらぬ。貧乏の人間もおらぬ。
苦しんでいる人間もおらぬ。
これは「全(すべ)てのものははなはだ善(よ)し
と宣(のたも)うた」「創世記」第一章の神の
宣言にあらわれている。
神の宣言は覆(くつがえ)すことはできない。
すべてのものははなはだ善しである。
人間はその霊長(れいちょう)である。
人間はすべての者を支配 する権(けん)を与え
られたとある。黴菌(ばいきん)も、気候も、
衣食住もわれわれを支配することはできぬ。
人間に病気はない。》
( 同書 72頁 )

《 三月二日
啓示の第二 ー
人間は完全である。人間に病気はない。これは
第一の創造である。Elohim(エロヒム)神の
創造である。「創世記」の第一章にある創造神の
名はエロヒム神である。
人間には病気がある。神は土の塵(ちり)にて
造られたがゆえに土の塵に還(かえ)らん ー
これは第二の創造であり、エホバ神の創造、
「創世記」第二章以後の創造である。・・・・
しかし、エデンの楽園のほかに国土があるで
あろうか。神 ー 全智(ぜんち)にして、全能、
無限愛にして救いの行きとどいている神が
「その造りたる完(すべ)てのものを視(み)
たまいけるに甚(はなは)だ善かりき」とある以上は
すなわち、すべての国土はエデンの楽園であったのだ。
エデンの楽園のほかに国土はない。このエデンの
楽園なる国土を実在の国土または実相の国土という。
実在の国土のみがある。実相の国土のみがある。
エデンの楽園のみがある。エデンの楽園から人間を
追い出しても人間が行くべき国土は造られていない。
だから人間は常に今エデンの楽園にすんでいるのだ。
それでこういうことがわかる。
真実の人間はどうしてもエデンの楽園から追放され
難(がた)きものである。もし神の造り給いし実相の
国土に、エデンの楽園以外のごとき不完全な世界が
あると予想するならば神を冒涜(ぼうとく)するもの
である。神を涜(けが)すものである。
では、真実の人間はエデンの楽園を決して逐(お)い
出されてはいない ーこの実相に目覚めよ。そしたら
「誰が?」エデンの楽園からエデンの楽園以外の
「どこへ?」逐(お)い出されたのであるか。
誰が?どこへ?答えて曰(いわ)く ー
「無い人間が」、「無い世界へ」逐い出されたのである。
神は決して、罪を犯(おか)すような悪の人間を
この世界に造っておかなかったし、そんな人間を
とじ込めておく牢獄(ろうごく)世界を造っても
おかなかったのである・》
( 同書 72.73頁)

《 五月三十日
「三界は唯心の所現(しょげん)である」釈迦のこの
所説(しょせつ)は正しい。しかし、「唯心(ゆいしん)」
とはただの「思考作用(おもうはたらき)」だけでは
ない。深いところの感情である。
ハッキリ思考に現れない以前に心の中に動いている
原因不明の魂(たましい)的な動きがそれである。
思考の上では完全に論理的には組み立てられないが、
大和魂(やまとだましい)なるものは論理を超越して
動いている。戦死の瞬間に天皇陛下万歳(ばんざい)
を唱える心は、これは理論でも学問でも思想でもない。
われわれの魂の奥底に横たわる深い感情である。
この深い感情は、明瞭(めいりょう)に脳髄意識
としては理論的には組み立てられていないが、
脳髄的意識の理論発生以前にその奥に存在する
実在の理念なのであって、この中心帰一理念
(弥的魂(ヤマトだましい))こそが真統(ほんとう)
の日本人の深い感動の根本となっているのである。
物質分子さえも「中心帰一理念」の中にあるから
原子核を中心として陰電子が回転しているのである。
理念といえば、その文字面から「道理と想念」とを
一緒にしたような言葉に思われるが、人間の深い
ところの感動はすべて、実在者の「理念」から
発生してくるものなのである。
「理念」の力は内より押し出す最も力強い感動であり、
その「理念」はそれが現象的に顕(あら)われるのに
幾回失敗しても、やがてはそれが形に現われずには
いないのは、朝顔の花は何回萎(しお)れてもまた
やがては夏来たって花咲かずにはいないのと
同じである。
楠木正成(くすのきまさしげ)の忠誠心は「中心帰一
理念」の発現(はつげん)からであるから、湊川
(みなとがわ)で挫折(ざせつ)しても、「理念」
は結局は敗北するものではない。「七生報国
(ななしょうほうこく)」の正成の語(ことば)は、
結局は、「中心帰一理念」は全世界を支配することに
なるのだということを顕(あら)わしている。
全宇宙は「中心帰一理念」に支配されているのである。
一勝一敗を契機(けいき)として中心帰一理念を
失ってはならないのである。物質でさえ原子核が破壊
されたら正体もなく跳び散るほかはないのである。
みずからの民族の中心を見失い、帰一すべき何物も
なくなったとき、民族は崩壊するほかはない。
理念さえ失わねば形には幾変遷(いくへんせん)
あろうとも、またもとの姿があらわれて来るのである。》
( 同書 145.146頁 )

《 六月五日
生かされている悦(よろこ)びを語ることは、言葉の力によって
その悦びを増幅することになる。
天地の万物みんな生かされている悦びを語っているではないか。
燃えるような若葉、空の色の碧(あお)、咲き出でた小草
(おぐさ)ー みんな生かされている悦びを表現して
いるのだ。人間だけ黙って憂鬱(ゆううつ)に黙り込んで
いるべきではない。自分の受けたおかげを人に対して話
さしていただくということは、悦びを表現することである
と同時に、言葉の力にて悦びを殖(ふ)やすことであり、
語る相手を救うことであり、自分自身の心境(しんきょう)
の程度をはっきりさせることであり、話している事柄の中に
自分自身も教えられることがあり、自分の向上にも
役立つのである。黙ってこれまで得たおかげを握りつぶして
いる人の中には退転(たいてん)する人が多い。
自分自身をハッキリ反省する上から心の日記をつけることは
自分を退転せしめない一つの良法(りょうほう)である。》
《 同書 153.154頁 )

《 六月二十日
自分が他(ひと)に対して冷酷(れいこく)であれば、
他からも冷酷にせられるのである。類は類を招(よ)ぶ。
冷たい心は、冷たいメスを招び、刺(さ)す心の者は、
注射の針をもって刺され、人を解剖(かいぼう)して
その悪を暴(あば)き出す心の者は、解剖せられる病に
かかる。
生長の家は必ずしも医療に反対するものではない。
解剖せられる業(ごう)を積んだものが、解剖せられる
のは業を果(は)たして業を消す一つの方法である
から、それはそれでよいのである。
ただ生長の家が教えたいのは、業を飛び越える道である。
業のない世界、暗(やみ)のない世界、光ばかりの世界ー
そういう世界に入るには神想観をして神の「全
(まった)きいのちにて創造(つく)られてあり」と
念じて、神の「完(まった)きいのち」の中に没入
(ぼつにゅう)してしまうことである。
神の「完きいのち」の中には業もなければ、暗(やみ)
もない。》
( 同書 172頁 )


△   メール等にて参加

■  C(メールにて)
合掌 本年も色々と有難うございました。
(メール12月30日着信)

さて、「ひかりのお便り」と月訓、さらに収支報告書が
12月27日に届きました。
この一年間、変わらぬ力作をどうも有難うございました。

お便りには間もなく迎える新年にちなみ「新生」についての箴言で
満ち溢れていますが、身が引き締まります。

誌友会テキストとして、『生命の實相』第37巻が告知されておりますので、
この読後感想その他を投稿させていただきます。                            
     再合掌

@『生命の實相』幸福篇上を拝読して

・はしがき p3 別著『幸福を招く365章』を併せ
読まれればいっそう幸いである
−最終ページの他著紹介(昭和45年2月5日発行の8版)には、
上記365章は載せてありませんが、姉妹書とは知りませんでした。

・2月6日 p38  わたしは関東震災のとき、生まれる子供の
布団一襲と産衣とだけのほか何物も 持たないで避難した
 −生まれる子供とは、百歳にて令和5年10月22日に
ご昇天された、谷口恵美子前白鳩会総裁のことです。

機関紙12月号によりますと、総裁は谷口清超先生
15年祭(10月28日)のご挨拶の最後に、参列者に恵美子先生のご昇天を報告、
参列者とともに一分間黙祷されたとの記述があります。
教団葬はなさそうですが、総裁にとってはご母堂へのこの黙祷が
大調和の神示にある汝らの父母に感謝≠フ実行なのですね。

・2月12日 p61 書籍、講演、放送、直接指導等によって
老病死を克服する教化団体である

−早朝の放送はなくなり、代わりにインターネット経由のAV情
報となりました。

・2月21日 p58 『人間死んでも死なぬ』と題する本として出したのは、戦死した軍人の遺族へ の贈り物としてである

−日支事変勃発等で、出征者に戦死者が出始めた時期という背
景が分かりました。
Cは、生長の家出現の意義を、大東亜戦争の浄化のためと
思考しております。

・2月23日 p64 光を引き立たす陰影は濃く、ただし少量でなければならぬ
−入信before after を発表する際に注意しなければならない
ことで、同感です。

・4月11日 p101 ロンブロゾー博士の取り扱った患者が、
感覚の転位を起こして眼球以外の器官をもって物体を
見たということについて、その事実の出所を知らせてくれ

−詳しく出典を書いておられますが、本当に誠実なことです。

・4月20日 p110 彫刻家チェリーニはある事件で法王のためにサン・アンジェロ城に禁錮せられた。

彼は自殺しようとした瞬間、ある不思議な見えない力が突然
彼の身体を捉えて一間ばかり投げとばされた
−ジャコモ・プチーニ作曲の有名な歌劇トスカの舞台がこの
サン・タンジェロ城。

A『人生は心で支配せよ』(谷口雅春著作集第10巻)を自習しました。

 はしがきによりますと、ニュー・ソート関連著作の翻訳本
『如何にせば運命を支配し得るか』を書き直したとあります。
翻訳本の初版は大正14年6月10日付(生長の家創刊以前)ですか
ら文体が随分違っています。
夙に、『日々讀誦三十章經』の原典とご教示いただいておりましたのが
黙念の言葉ですね。

例によって、二点だけに絞り込みました。

・p289 「神が靈である」と云うことは、神が知性や理性によって
証明されるものではないと云うことを意味する。
それはむしろ一種の真理観によって感じられるものであることを意味する

 −言葉だけでは近づくことはできても、完全には表現しきれるものではな
いのですね。一見言葉で悟れたようにみえても、
実際はp159の真理を奥底から感じ≠スことによるのです。

・p307 諸君の治療を希わない人々に思念を感応せしめると云うことは
一種の人格侵権として正しくないのである

−少し驚きました。個人の自由意志を如何に尊重すべきか明示されており
ます。そういえば、2024年度運動方針に関する追加質問への回答という
通達がメールされてきましたが、伝道でも押し付け的なやり方は
避けるというような趣旨です。

B先帝様は、12月23日に卆寿をお迎えになりました。
新聞各紙とも、先帝様の来し方と現況とについて特集を組んでおりました。
讀賣は33面に、「沖縄や戦争と平和への思いは今も強く、
今年は沖縄移民やシベリア抑留者の企画展に足を運ばれた」
と書いております。大東亜戦争に係る戦没者慰霊について、
現地慰霊が果たせなかったのは唯一シベリア抑留
だけであります。御心残りがおありだと拝察申し上げるところであります。

・ はうら
いつも適切なご教示ありがとうございます。
自習で「人生は心で支配せよ」を拝読されたとの事ですが、
私もこの聖典が大変論理的に深く、いろいろと思索できるので、
以前この誌友会の案内時に紹介していたのですが、
どなたかが、内容が難しいと指摘されたので、それ以後
取り止めといたしました。
しかし、聖典はノウハウではなく、その奥にあるものを
気付かさせていただくためにも、このような聖典を拝読
する事は、是非必要と思います。

■  D(電話にて)

一月号の『ひかりのお便り』に同封されていた
「新たに生まれるための祈り」を毎日行じて
おります。ありがとうございました。
収支報告で、支出が多いので、また少額ですが、
支援したいのですが。

・  はうら
ご支援は充分頂戴いたしました。
ありがとうございました。
今後は、なるべく費用をかけない方向で運営したいと
思っておりますので、どうぞお気遣いだけで、嬉しい
ので、今後はご支援なしでお願いいたします。

■  E(電話にて)

今まで真理を学んできたつもりであるし、多少の知識
もあるので、いろいろな事象に相応の対応が出来ていた
と思うが、この度はそれが揺らいでいる。
とにかく針で刺されたような、焼きごてをあてられた
ような痛さがあり、夜も余り眠れない。真理的にどう
考えたらよいか。業の問題もあると思うが。

・ 市川
医者が病名をつけるのは、結果を見てであって、原因
ではない。まず痛くない所に感謝して、その痛さの
意識を違うところへもっていく。現象は現れたら消えて
いく姿なので、掴まないで、・・・
それでも心臓は動いていると思う。(生かされて生きている)
掴んだら、認めたものが顕われるということで、いつまでも
不完全な状態は消えません。
もし使命がなければ、死んでもよいという心境になった時、
道は拓けてきます。
余り業の問題はとりあげたくはないのですが、業を飛び越えられる
のが生長の家の実相哲学です。
祈らせていただきます。

■  F(メールにて)

本年もどうぞよろしくお願いいたします。
ひかりのお便りありがとうございます。
現象ばかりを見て、心配し、
マイナスな事を考えてしまいがちな私の心、頭を、
真理の言葉にふれ、神様に波長を合わせなくちゃ
いけなかったと思います。
神様に振り向く時間をわすれずに、今年も笑顔で、
光明面を見て、実行を心がける。
を今年の目標にします。
よろしくご指導をお願いいたします。
ありがとうございます。 合掌

・ はうら
こちらこそどうぞよろしくお願いいたします。
お元気になられて本当によかったですね。
いつもありがとうございます。


■  G

合掌 ありがとうございます。
今年は元旦に大地震が襲い、文字通り言葉を失いました。

未だ余震も続き不自由な生活を強いられている方々の思い

に心が痛みます。

安否不明者の方々もおられるという状況で、警察、消防、

自衛隊や自治体の方々や全国から駆け付けられている救援

の方々には頭が下がります。早く被災された方々の生活が

穏やかな日常に戻るよう願うばかりです。

このような時、どのような言葉が浮かぶのでしょうか。

この半月の間、聖典を紐解き、聖書を捲り、祈りを捧げて、

失くした言葉を取り戻そうと思案する日々です。

小生は、一言に「現象無し」とキッパリ断ち切れる人間で

はありません。

人の涙を見て泣き、苦悩し、悲しむ方の人間です。

このような時、遠藤周作の『沈黙』を思い出します。

「主よ、何故あなたは沈默したままなのですか」との嘆き

の言葉が甦るのです。

谷口雅春先生の詩『光明の國』にあるように

「雲が低く地を這うときも

雷霆が真っ黒な地上を威嚇する時も、

なおその雲の上には

雷の上には

青空があるように、

わたし達はいつも曇りを知らぬ青空の子だ」

 と言える強さが欲しいと願わずにはおれません。

 今年は、御教えを学び直すいい機会を与えられたと思い、

今年の目標として「唯神實相」を正しく謙虚に学びたいと

思います。

    感謝 礼拝



・  はうら

合掌 ありがとうございます。
重いご教示ありがとうございます。
『沈黙』は信仰の厳しさと宗教について深く
考えさせられた書ですが、
「踏むがよい。私はその為にいるのだ」という言葉に
神の愛の深さを知った書でした。
二十代の頃、何度も読み返し、映画も見ました。
遠藤文学の息遣いを今でも、時に思い出します。
ありがとうございます。

・ 会の終了時にBさんのご指導で
『神想観』実修を厳修いたしました。

会終了後のメールにて

・ B

合掌。ありがとうございます。
「生命の実相」(37巻)楠木正成公の場所を拝読。嬉しかったです。
<感動。波動の素晴らしさのお話心にとどめさせて戴きました>
素晴らしい誌友会ありがとうございました。新田さんお元気で嬉しかったです。また、思いやりがありほっとしますね。
皆様のご努力に感謝いっぱいです。

今回も多くの感動がありました。
ありがとうございます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上、転載させていただきました。
ありがとうございます。(志恩拝)

@、はうら ひとひら様  (63038)
日時:2024年02月04日 (日) 02時52分
名前:志恩

はうら様
実相光誌友会魂の交流文の
【ひかりのお便り】、2024年2月号が
届きました。(2/17(土)開催)
ありがとうございました。

これは、はうら様宅にて毎月第3土曜日の
13:30から15:30まで開催されている
ZOOM実相座談会に参加される皆様へ月一で
はうら様が、ご送付されている印刷物のお便り
なのですが、私は参加しておりませんけれど、
ごしんせつにお送りくださっているものです。
(無料で)

阪田成一先生も、月一で「光明の音信」を
やはり自費で発行されて、郵送料も自分もちで
自費で配布されておられますが、

はうらひとひら様も、このような貴い愛行を続けて
いらして、素晴らしい限りです。

志恩ー
はうら様は、以前は、大手の会社の半導体関係の設計のお仕事に
携わっていらしたり、社長さんもされていらっしゃいますので、
コテコテの理工科系の頭脳のお方かと思いますと、クラシック音楽にも
堪能でいらして、難しい高度な宗教的な要素を含む小説も2冊も
(訂正・・3冊、出版されていらっしゃるそうです。)
出版されていらっしゃる不思議な人物でいらして、
そのようなお方が、谷口雅春先生の教えで、救われました
そうですので、
お話の内容も高度です。

ですから、ほんとうは、私のような人間ではなくてですね、
別の優秀なお方が対応してくださるとありがたいのですけれど、
不肖、私めが、対応させていただいておりまして、毎度すみません。

《實在》が今回の、実相誌友会のテーマだと思われますが、
ここにはご紹介しておりませんが、雅春先生著『無門関解釈』の
中からも、『新講’甘露の法雨』中からもポイントを謹写されて、
結論としては、
【困難は心の中にのみある】
【實在とは神様がお造りになったそのままのものである】
と、お書きくださっておられると存じます。

その中から一部のみですが、ご紹介させていただきます。

ありがとうございます。









写真をマウスでクリックすると拡大します。

Aはうらひとひら様  (63039)
日時:2024年02月04日 (日) 03時37分
名前:志恩

【ひかりのお便り】は、
裏表、谷口雅春先生の眞理の言葉を
謹写されておられますが、一面のみ
スマホのカメラで写しました。




写真をマウスでクリックすると拡大しますので、
読みやすくなります。

縦と横と (63043)
日時:2024年02月04日 (日) 08時13分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。

今回は縦と横の真理を生きるが、テーマです。

☆: 真理

《 実相は金剛不壊(こんごうふえ)であって、
これは百千 無量億万の魔も如来の身血(しんけつ)を
侵(おか)し出(いだ)すこと能(あた)わずで、
どんな悪魔もわれわれに喰(くら)い着(つ)いて、
害を与えることは出来ない、金剛不壊の存在である。
この金剛不壊の存在が自分自身であるということが
『涅槃經(ねはんぎょう)』に説いてあるわけであります。
これが仏教の神髄(しんずい)で、
『生長の家』の縦の真理になっているのであります。
このことは仏教の独占ではなく、やはりイエス・キリストも
説いているのであります。
すべて宗教的真理には独占というものはないのであります。
独占であったら、他に通用しない、したがって真理でない
ということになります。
で、「ヨハネ伝」にはちゃんと
「なんじ未(いま)だ五十歳にもならぬにアブラハムを見しか」
とユダヤ人が尋(たず)ねましたときにイエスが
どう言っているかといいますと
「まことに誠に汝らに告ぐ、アブラハムの生まれいでぬ
前(さき)より我はあるなり」といって、
無限の昔から生きているところの自分が
「本当の自分」であるということを説いているのであります。
肉体は決して自分の実相ではない。
肉体は本来無にしてただ心の波が「縁(えん)」という
ラジオ・セットにふれて、そこに形を現しているだけで、
肉体に現れる病気不幸等の状態は、
心の波動相応の形を縁に触れて顕現(けんげん)する。
だから心の波の相(すがた)を変えれば肉体の健不健は
変化してくるのであります。
これが「生長の家」の横の真理であります。》

(頭注版『生命の實相』第27巻 147.148頁)

《 生長の家は二つの真理を説いております。
二つの真理と云うのは、その一つは「縦の真理』で、
もう一つは「横の真理」です。
「縦の真理」と云うのは、織物の経(たて)糸のように
終始一貫して変らざる真理であります。
併(しか)し経糸だけでは織物は織れないのでありまして、
それに緯(よこ)糸が交叉(こうさ)してはじめて
織物が出来るのであります。
それで現象界と云う織物が出来上がるには、
「緯の真理」が「経の真理」に縦横(じゅうおう)交叉して
色々の織模様をあらわすのであります。
経の真理と云うのは終始一貫変らないと申しましたが、
何が変らないかと云うと、人間は大生命から生まれた、
即(すなわ)ち「人間神の子」と云う真理であります。
これは永遠に変らない。
即ち人間は神の子であり、円満完全であって、
決して病気にもかからなければ、老衰もしないし、
死にもしない。
何処(どこ)にも欠陥のない万徳円満のすばらしい神の命が
人間そのものであります。
処(ところ)が「横の真理」と云うのは、
終始一貫して変らない経糸の表面に横に色々と
糸を組み合わせて模様をつけて織ってゆく。
それによって終始一貫かわらない縦糸は其(そ)のままで
ありながら現象的には色々の模様が出来てゆくのであります。
夫(そ)れは「横の法則」即ち
「心の法則」と言っているのであります。
私たちは神の完全な生命を頂いていると云うことには
変りはないのに、心の法則に従って此の現象界にいろいろの
人生の有様を展開してゆくのであります。
尤(もっと)も「縦」も「横」も一つの「設計者」
と言おうか「デザイナー」と言おうか、
兎(と)も角(かく)も織元(おりもと)の技師が
計画し拵(こしら)えたのでありまして、
此の織元の技師は神様でありますから、
縦の真理、横の真理と二つあるようでも神一元(いちげん)で、
もとは一つであります。
縦の真理は、神様がつくりたまうたままに始終変らざる処の
完全な実際の相(すがた)、
これを「実相」というのであります。
横の真理は、実際の相ではなく、現れている象(かたち)
すなわち「現象」を取扱うのでありまして、
その現象がどう云うようにして変るかの法則であります。
現象と云うものは実在の相ではないから色々と変るのです。
それを仏教的に言いますと「諸行無常の鐘の声」
なんて言いまして、いろいろに変る無常の世界が現象であります。人間は生れて、生長して、そして老い、病気に罹(かか)って
死ぬのであります。
是(こ)の変化の法則が「横の真理」であります。
これは単に人間だけでじゃない、ありと凡(あら)ゆるところの
生(しょう)じたものは、皆な変化し滅(めっ)しなければ
ならぬ、是が「横」の法則なのです。》

(『新版 真理』別冊 89〜91頁)

《 心相応のことが顕(あらわ)れて出るまでは
償(つぐな)われないというのが因果(いんが)の法則
なのであります。
この因果の法則は生長の家でいう「横の法則」でありまして、
三界(さんがい)は唯心(ゆいしん)の所現(しょげん)として
心相応のものが形の世界に顕われてくるのであります。
しかし「目には目を、歯には歯」を報(むく)いるのであって、
報い切るまでは救われないというのでありましたら、
そこには宗教的救いというものはありえないのであります。
そこに償(つぐな)い切らなくても救われる道がなければ
ならない。
因果の法則を超越して救われる道がなければならない。
それはあるか?
あります。
それは、生長の家で説く「縦の真理」でありまして、
この「縦の真理」から観(み)ますと唯心所現のひろがりの
世界がどうあろうとも、そんなものは影の世界であって
問題とするに足りないのであります。
縦に久遠を貫く自分の実相ー実の相(すがた)はそんな
横に広がる現象を超越して、久遠生きとおしの健全な、
汚点(よごれ)のない、穢(けが)れのない、
神の子であり、仏であるのであります。
この実相の心を集める時、われわれの心に描いたー
現象世界を現すところのフイルムに当たる「念」からは
迷いのむらむらが除かれ、たちまち実相の光の源の中へ、
ひたむきに飛び込んで行くことができるのであります。
「悟(さと)りの中には因(いん)なし」と
『涅槃経(ねはんぎょう)』には書いてありますように、
実相、光明遍照(へんじょう)の光の中に入って行った時には、
もういっさいの「因」はない、「因」がなければ
「果(か)」もない、したがって十の罪に対しても、
十の贖(あがな)いをしなければならないということが
超越されてしまうのであります。
『生命の實相』を読んで病気や災難を免(まぬが)れると
いうのも神の造り給うたままの実相の光に照らされて
因果を超越した世界をそこに見出すからであります。》

( 頭注版『生命の實相』 第30巻 223〜225頁)

《 人は両(ふた)つの世界に住んでいます。
その一つは「創世記」第二章七節に「エホバ神、
土の塵(ちり)を以(もっ)て 人を造り」と書いてある
人間ー物質的存在として、
肉体的存在として幾様(いくよう)にも物質に
縛(しば)られている人間であります。
もう一つは「創世記」第一章二七節に
「神その像(かたち)のごとくに人を創造(つく)りたまえり・・・・神その造りたる諸(すべ)てのものを視(み)たまいけるに
甚(はなは)だ善(よ)かりき」
とある神のイメージとしての人間、
至善至妙(しぜんしみょう)自由自在としての人間であります。》

(頭注版『生命の實相」第23巻 75頁)

《 実相と現象との問題ぐらい間違われて取り扱われる
問題はないのである。
それの混同と混乱と、その取り扱いの不適正とで
人生は不幸になるのである。・・・・
併(しか)し、ラザロを復活せしめたる「イエス」の神想観は
「イエス涙を流し給えり」の境地を通過してのちの
実相観であるのである。
ただ人の苦しみを冷然と見て、「そんな現象は本来無」と、
空嘯(そらうそぶ)いているが如きは、
木石の無感覚さであって、
実相の円満さを観るものではないのである。》

(新版『叡智の断片』113〜115頁)

《 観世音菩薩様。あなたが三十三身に身の姿を変じ給いて
衆生を濟度(さいと)したまうように、
時と人と場所に応じて適当なる方便を行じて
人々を救うことが出来ますように。》

(一部現代語、かな使いをさせていただきました。)
(『聖光録』昭和28年初版 166頁 九月の吾が祈りより)

■  体験

先日知人から、ある方の「遺稿集』の出版の件で相談があった。
私は今まで3冊の本しか出していなくて、
偉そうな事は言えないが、経験上から何点かの要点と共に、
タイトル文が長いので、横書にしてその下にその方の書かれた
絵画などを配置した表紙カバーの案を提示してみた。
数日して返事があった。

・古来「天」から「地」に向かって文字を書き言葉を
紡(つむ)いできた日本人の精神がそこに宿っていると
感じています。そこでタイトルも縦書きを望みます。

私は即座にその非を詫び縦書きを了承した。
まだまだ修行が足りないと感じた次第です。

△  思う事

ある先達が、教団に誓願書を出すのに、
横書の文だったので、縦書きにして内容を変えて提出された。
そしてその根拠として下記のように言われた。

《 日本に生まれた日本人は日本を愛し善くすることによって
世界に奉仕し、人類に貢献すべきである。》

(頭注版『生命の實相』第4巻 53頁)

ありがとうございます。







はうら ひとひら様 (63084)
日時:2024年02月05日 (月) 03時10分
名前:志恩

【縦と横】

>■  (はうら様の)体験

先日知人から、ある方の「遺稿集』の出版の件で相談があった。
私は今まで3冊の本しか出していなくて、
偉そうな事は言えないが、経験上から何点かの要点と共に、
タイトル文が長いので、横書にしてその下にその方の書かれた
絵画などを配置した表紙カバーの案を提示してみた。
数日して返事があった。

・古来「天」から「地」に向かって文字を書き言葉を
紡(つむ)いできた日本人の精神がそこに宿っていると
感じています。そこでタイトルも縦書きを望みます。

私は即座にその非を詫び縦書きを了承した。
まだまだ修行が足りないと感じた次第です。

△  思う事

ある先達が、教団に誓願書を出すのに、
横書の文だったので、縦書きにして内容を変えて提出された。
そしてその根拠として下記のように言われた。

《 日本に生まれた日本人は日本を愛し善くすることによって
世界に奉仕し、人類に貢献すべきである。》

(頭注版『生命の實相』第4巻 53頁)<


志恩ー
はうら様は、
あるお方の「遺稿集』の出版の件で相談があり、
タイトル文が長いので、横書にしてその下にその方の書かれた
絵画などを配置した表紙カバーの案を提示してみたら、

上記に説明がありましたように、
表紙カバーの文字を横書きでなく縦書きに、、
というお返事をいただいたそうで、
また、
ある先達が、教団に誓願書を出すのに、
横書の文だったので、縦書きにして内容を変えて
提出されたそうで、

私は、今まで、横書き、縦書き、については、
何も考えておりませんでしたので、大変勉強になりました。

ありがとうございます。

 (63304)
日時:2024年02月12日 (月) 09時24分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。

今回のテーマは「道」です。

☆: 真理

《 【人間神の子、何故無限力を出さぬ?】

『無門関』の第二十則に「大力量人(だいりきりょうにん)」
と云う公案があります。

松源(しょうげん)和尚云(いわ)く、
大力量(かぎりない力のぶんりょう)の人、
甚(なに)に因(よ)ってか脚(あし)を擡(もた)げ
起(おこ)さざる。
又云く、口を開くこと舌頭上(ぜつとうじょう:
舌の上に自分の云いたい言葉をころがすこと)に在(あ)らざる。

誰でも自由自在にお釈迦さんのように喋(しゃべれ)るのに、
私はどうも喋るのが下手(へた)でございますとか、
無口でございますとか、喋るのが恥(は)ずかしいので
ございますとか、或(あるい)はペラペラ喋っても
喋ることが本当に自分の言いたい事をそのまま表現することが
出来ない人がある。
これが「口を開くこと舌頭上に在らざる」であります。

何に依(よ)って、吾々は口を開いても自由自在に、
自在無礙(むげ)に喋ることが出来ないのであるか、
これが問題であります。

「何故、大力量の人であるのに、それなのに、
何故それ位の重荷を背負ったくらいで、
脚を擡(もた)げて起きないのであるか」と云うのであります。「大力量の人」というのは実は皆さんのことなんです。
皆さん一人一人が大力量の人であって、
何でも出来ないことは一つもない。
それは皆さんの本心(ほんとうの心、裏面の心の反対、実相心)
が知っていらっしゃるのです。
本心に於いては「人間は神の子で無限力だ」と云うことが
わかっていながら、何に依(よ)ってその無限力を
発揮することが出来ないのであるかということが
問題であります。》

(『新版 真理』第3巻 285.286頁)

《 【凡庸(ぼんよう)の人間になる事勿(なか)れ】

鯉(こい)は特に逆流を悦んでそれを
遡(さかのぼ)るのである。
平々洋々(へいへいようよう)として何の抵抗もない人生では、
逆流に抜手(ぬきて)を切って溯流(さくりゅう)する
爽快味はないのである。
多くの人たちが逆流に押し流されて落伍してしまうときにこそ、
あなたの魂(たましい)が泥船の魂か鋼鉄の原子力船かを
分かつところの機会なのである。
好機会が来たときに進もうなどと考えて、
逆流に際しては、ただ佇立(ちょりつ)して
進むことをしない如きは、凡庸(ぼんよう)の
下(げ)の下の人間のすることなのだ。
諸君は決して凡庸の下の下の人間になってはならないのだ。》

(『理想世界』昭和48年7月号
「青年のための法語」七日のことば)

下記の体験の内容は、はうらの個人的な感じであり、
特定の方や組織を批判したりしたものではない事を、
初めに申し添えておきます。
(不快な感じを受けられましたら、ご容赦ください。)

■:  体験

ある方から、『追悼アルバム』を戴いた。
そしてご丁寧な内容の、手紙まで添えられていた。
(私のようなものにまで、そのような事をされている事に
深く思いを致した。)
もう一年になるのかと、感慨深いものがあった。
その巻頭言で、ご逝去された方の21歳の時に書かれたという
手紙の内容が記されていた。
その内容に驚かされた、
「・・・「日本婦道記」の女性の如く、
武市半平太の夫人富子の如く、
太古の昔から同じ日本の血の流れを受けついた者として、
この期に自分をもっとしっかりと見つめなおしたい」と。
凄い魂の高い方だと思い、襟を正さずにはおれなかった。
そして、不遜ながら不意に次の事が思い出された。

『生長の家』機関誌 
令和3年4月号 18頁から
【凡庸に学ぶ】白鳩会総裁 谷口純子

『・・・凡庸は時代の寵児(ちょうじ)であると、
この『凡庸の唄』の中ではたたえているわけですね。・・・
山本周五郎が書きました、「日本婦道記」という小説は、
江戸時代の女性の生き方を称賛しています。
山本周五郎ですから、人情話で感動的なお話ばかりですが、
その中の「梅咲きぬ」を紹介。
一芸に長じないで、凡庸の生き方がよい、
それが他の事を犠牲にしない生き方だ、と。』

もの事は、一つの事象でも三十三の味わい方があると
言いますので、それはそれでよいと思います。
しかし、私(はうら)の中では、物凄い違和感があります。
先ず、山本周五郎は人情話作家ではありません。
(はうらの感想です)

・人間の生き方と国との関わりの関係著書
『樅ノ木は残った』『天地靜大』『ながい坂』『栄花物語』
『日本士道記』出来たら『正雪記』も入れたい。

・女性の生き方と国との関係著書
『日本婦道記』『婦道物語』

・芸と人間の生き方
『虚空遍歴』

これらを読まれた後に、人情話作家かどうかを考えて
ほしいのです。
私は、実相哲学に出会う前は、山本周五郎の作品の
生き方を規範として、行動して来たと言っても
過言ではありません。
私はどこかで書きましたが、早朝教育施設の掃除をしています。
最近作業場所が変更になって、キーを使って入室する
仕事場所が10箇所になり、ある時間内にキーを返却しないと、
関係者に迷惑がかかる。
その為、7年間かかって会得した1教室17分の掃除の 仕事を
さらに短縮する必要があった。
(マニュアルでは1教室30分)
そして、1教室15分で仕事が出来るようになった。
心の壁は、いつでも破る事が出来るのである。

ありがとうございます。


はうら ひとひら様  (63328)
日時:2024年02月13日 (火) 04時34分
名前:志恩

【はうら 様の今回のテーマは「道」です。】

>☆: 真理
(略)
《 【凡庸(ぼんよう)の人間になる事勿(なか)れ】

鯉(こい)は特に逆流を悦んでそれを
遡(さかのぼ)るのである。
平々洋々(へいへいようよう)として何の抵抗もない人生では、
逆流に抜手(ぬきて)を切って溯流(さくりゅう)する
爽快味はないのである。
多くの人たちが逆流に押し流されて落伍してしまうときにこそ、
あなたの魂(たましい)が泥船の魂か鋼鉄の原子力船かを
分かつところの機会なのである。
好機会が来たときに進もうなどと考えて、
逆流に際しては、ただ佇立(ちょりつ)して
進むことをしない如きは、凡庸(ぼんよう)の
下(げ)の下の人間のすることなのだ。
諸君は決して凡庸の下の下の人間になってはならないのだ。》

(『理想世界』昭和48年7月号
「青年のための法語」七日のことば)
(略)  <


志恩ー
はうらひとひら様も、山本周五郎の『日本婦道記」を、
昔、読まれたのですね。
『日本婦道記」は私は、高校生時代、愛読の書
でした。(実母から勧められて読みました)

(はうら様ー)
>私は、実相哲学に出会う前は、
山本周五郎の作品の
生き方を規範として、行動して来たと言っても
過言ではありません。<

志恩ー
『日本婦道記」は江戸時代の武士の妻の生き様を
描いた
男性は、「武士道」に生きるに対して、
女性は 「婦道」に生きる、
といえる日本女性の生き方のバイブルのような書です。

山本周五郎の初期の代表作で、
直木賞史上唯一の受賞辞退作品です。

題名のままのように、
家庭に貞節を尽くした前時代的な日本の女性達を
描いた小説です。

たとえ多くの人の目には留まらなくとも慎ましく高潔に生きた
女性たちへの筆者流の賛歌として、
今でも、時代を超えて評価されている本だと聞きます。

この小説の底を流れているものは、聖なる生き方ですから、
私は、この本を読みながら、まるで聖書のようだと感じました。

「婦道」は、凡庸な人間では、生きられない生き方です。
私のような凡庸な人間には生きられない厳しい生き方です。

私は、すごいな、素敵な女性たちだな、と小説に出てくる女性たちの
生き方に深い尊敬の念を持ちながら読みました。

「婦道」とは自分に厳しく、夫や家族には優しく、貞節な妻として
心の芯は強く持ち、家族のため国のため、人間として心は美しく、
いつも柔らかく質素にして清楚であり、
身の回りの整理整頓を怠らず、美しい心のままに
凛とした中に深い愛を生きた日本女性の鏡のような高潔な生き方
ですから。

重ねて、
「日本婦道記」を読まれた全国の皆様方に笑われますので、
ひとこと申し上げさせていただきます。

「日本婦道記」の内容は、凡庸に生きることとは、
まったく別世界の、究極の無私の生き方をする
日本女性の 大変美しい生き方が描かれている
山本周五郎の有名な小説です。


そして私は、山本周五郎の『虚空遍歴』は、読んでおりませんけれど、
他の方々の読書感想を
読んでみますと

《「人間の価値はなにを為したかではなく、何を為そうとしたかだ」

これが、この作品のテーマ、そして、内容を凝縮した言葉であります。

浄瑠璃の世界を語っていますが、現代の私たちにも当てはまる
普遍的な内容だと思います。 》
と書いている人が、いました。

はうらひとひら様の体験談を拝見しますと、
はうら様の生き方は、
まさに、そのように日々精進されて、ご自分には厳しく
他人には優しく愛の道を生きておられるお方だと感じております。


(追記:
尚、○○さんの「日本婦道記」を読まれたあとの感想は、
私もこれにつきましては、はうら様同様に、違和感を感じましたが、
「日本婦道記」は”凡庸に生きるのがいい”と書いてある小説では
ありませんが
人それぞれが捉えた感想ですから、私はこれについての批判文を
載せましたが、その部分は、考え直しまして削除いたしましたので、
ご了承ください。)

はうら ひとひら様  (63444)
日時:2024年02月19日 (月) 00時54分
名前:志恩

はうら様
【2月17日開催の『ZOOM実相ひかり誌友会』メモ】を
私にまでメールにて、お送りくださいまして、
ありがとうございました。

まるで、生長の家関係の小冊子のようで、
大変素晴らしい内容でしたので、
トキ掲示板の閲覧者の皆様にも、お読み
いただきたく、
出席者の皆様の
お名前は、個人情報保護のため、ABCDEFGに
かえまして、トキ掲示板へ転載させていただきますこと、
どうぞ、お許しくださいませ。

⬇️________________

【2月17日開催の『ZOOM実相ひかり誌友会』メモ】
(文責・ はうらひとひら)

日時:令和6年2月17日 午後1時半より約2時間・

出席者(敬称略、50音順)
・ はうらひとひら ・A

(メール・書簡、電 )・B ・C・D・E・F・G

■ A
昨日は修行の一環として、歌舞伎座 中村勘九郎
さんの(父上の)13回忌追善供養祭にいってきました。
今日はスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」に行きます。
20日過ぎに、盛岡にお稽古出張です。

「生長の家のマーク」の説明は大変わかりやすい
ものでした。是非正常のものに戻るよう念じます。

今月のテキスト『生命の實相』第38巻の最期の十二月三十一日
(197頁)にご教示されているように、毎日を新しい
「生命」新しい「真理」の為の魂の準備としたいと
思います。

次女が生まれる時、母子共に危険な状態になったが、
数分間妻と真理を唱え、聖歌を歌って恐怖心をなくし、
無事に母子ともに救済された事を思いだしました。
因縁因果が整ったことの経験です。

・はうら

テキスト175頁に「恐怖すべきものは実相にはなく、
困難を恐怖しなければ、高め上げられる」という
状態になったのですね。素晴らしい体験でした。

・今回は、テキスト104頁の「現象なし」について、
現象にも、真象(しんしょう)と偽象(ぎしょう)が
ある事。
・また縦と横の真理に照らして、想念する時、
横は「心の法則」で各人によって顕れ方が異なりますが、
しかし「縦の真理、横の真理」といっても、二つある
ようでも、神一元(いちげん)でもとは一つである
(『新版 真理 別冊』 89〜91頁)ので、偽象は
真象に変わることも学ばせていただきました。

・因果の法則も『生命の實相』によって因果を超越出来る
事(『生命の實相』第30巻 223〜225頁)も学ばせて
いただきました。
。実相哲学の素晴らしさ、救済力、業(ごう)を超越する
凄さを学ばせていただきました。
・『山川草木国土悉皆成仏』は心の眼の開き方一つで
見える世界が変わる事を、テキスト105頁で、
《真に存在するものは「神のいのち」「神の自覚」として
観るとすべてのものは「自覚」をもっている。
机、蒲団、椅子、書籍、ペン、鉛筆・・・・
ましてや人間おや、》で眼を開かせていただきました。
・聖書でもエロヒム神とエホバ神で縦と横の真理を説いている
こと(生命の實相 第23巻 75頁)を学ばせていただき
ました。

まさに「思想として、宗教として、哲学として、
生長の家はすべてのすべて」(テキスト4頁)を真に
学ばせていただきました素晴らしい充実の時間でした。

☆ 今月のテキスト『生命の實相』第38巻
感銘した処
(はうら編集:謹写)

《 ・・・しかし『生命の實相』の幸福論は、“あきらめ”や“忍従”
(にんじゅう)のような消極的な幸福ではなく、「欲するもの
を進んで取る」ところのもっとも積極的な幸福論である。
多くの人々が欲するものを得ることができないで不幸である
のは「心の法則」を知らないで、「物質界の法則」のみに
頼って幸福や繁栄を得ようと努力しているからである。
・・・
あなたの運命はあなた自身の掌中(しょうちゅう)にあるのです。》

(同書はしがき 1.3頁)

《 七月一日
深海の中に棲(す)む魚は盲(めしい)である。
暗(やみ)のみを心に思い浮かべているからである。
光を見る心になったときわれわれの眼ができ、美しい
世界がわれわれの周囲に展開したのである。
思想することは自由である、幸福になるように、あるいは
不幸になるように。
けれどもそれは各人の選択である。
ただひと筋(すじ)に光明思想に随(つ)いて来るものは
幸いである。すべてのものがわが内にある。
本当にある。本当にある。ただそれだけを知ればよい
のである。ただそれだけを直視(じきし)すれば
よいのです。
思想として、宗教として、哲学として、生長の家は
すべてのすべてである。このほかにもっと何かよいものが
あるかと思ってさ迷い出るものは、エデンの楽園にいて
エデンの楽園をさ迷い出ずるものである。・・・・
真理の前に跪(ひざまず)くことは、不幸の中に身を
まかせていることよりもいっそう勇敢(ゆうかん)なこと
であることを知らねばならない。》

(同書4.5頁)

《 七月三日
われらのすべての経験は、自分の内にある「神」を堀り
出す作業である。どんなにそれが失敗したように見えよう
とも、どんなにそれが深刻であり、悲惨(ひさん)な
ように見えようとも、それが深刻であり、悲惨であれば
あるほど、われらの神に通ずる坑道(こうどう)は
深く穿(うが)たれてゆきつつあるのです。
深く深く掘り下げてゆくうちに、やがて広々とした
世界に出る。そこは、もうなんの悲惨もない、常楽のみの
世界なのです。
どんな経験も、苦しい経験も、楽しい経験も、ただ、
われわれは神に近づく堀り下げ方だとして喜ばなければ
ならない。》

(同書5.6頁)

《 七月五日
なんじの欲する事物の上になんじの心を集注せよ。
なんじの欲せざる事物の上になんじの心を集注しては
ならない。病を欲するならば、病の上に心を集注せよ。
症状を気にかけよ。心配せよ。しからばなんじの病は
必ず増大すべし。
心をそれに集注するものが実現するからである。
多くの人々がなぜ不幸であり、不健康であるかの
原因は、好まないものにことさらに心を集注して
心配するからである。なぜ君は、自己の欲せず希望
せざるものの上に心を集注するのであるか。
幸福ならんと欲する者は、自己の幸福のみに心を
集注せよ。他の人の幸福のみに心を集注せよ。
他の人の幸福を羨(うらや)んではならない。
幸福を羨む心は、幸福を否定し、抑制(よくせい)し 、
不幸を欲する心であるがゆえに、みずからの不幸を
招くのである。
他人の幸福を自己の幸福と観じうるものは、自分が今
いかに現実に乏(とぼ)しくとも、他のすべての人の
幸福が自分自身の幸福であるがゆえに、すでに豊かで
あるのである。
なんじの欲する事物の上になんじの心を集注するとき
念の創化作用によって、ついにそれをこの世界に現実化
するに到るのである。
なんじ、何を欲するや。これをまず自己自身に問え。
しかして健康を欲するならば、
「われは完全なる健康なり。われは生命なり、われは神の子
なり、われは永遠の存在なり、われは不老なり、われは
不死なり。われは何物をも羨まず、われは日々にいっそう、
神の子の完全さを顕現するなり」と常に精神を集注して
念ずべし。
諸君が成功を欲するならば、常に偉大なる者のみを
心に描け。偉大を念ぜずして偉大になった者は
一人もないのである。小なる計画は人を魅(ひ)き
つける磁石的力を有しないのである。
いやしくも失敗を予想することなかれ。
しかし細心であれ。一歩一歩を大切にすべし。
大望(たいもう)を抱くものは日常生活に気を
つけるのである。
気をつけることと、恐怖(きょうふ)することは
ちがうのである。
将棋の木村名人のように一分一秒を大切にして、
しかも最後の勝利を前途に描くものはついに勝つ
のである。
心の法則を知らざる者は、健康を欲しながら病気を念じ、
成功を欲しながら失敗に精神を集注し、すべて逆に
逆にと心を使うから失敗するのである。
されば健康を欲し成功を欲するものは少なくとも
その基礎知識として勝利の常識としてわたしの
『人生は心で支配せよ』の本一冊ぐらいは読んで
おかなければならないのである。》

(同書 7.8頁)

《 七月十日
われを導くものは神である。(これは私自身だけのことを
言っているのではない)すべての人間は
「われを導くものは神である」と自覚しなければ
ならないのである。
神の国に到る「道」は、自分のうちにある。われは「道」なり、
ーとイエス・キリストは言っている。
「われは真理なり、道なり、生命(いのち)なり、
われによらずして神の国に到りし者なし」とは肉体のイエスの
ことではない。万人のうちに宿る真理なるキリスト(Christ
Ideal)のことである。
静かに瞑目(めいもく)してわが内に無限の叡智が宿っている
ことを黙念せよ。そこから、その日その日なすべき「道」が
示される。神は「智慧」であり、「道」であり、われらの
内に宿ってい給うのである。》

(同書 15頁)

《 七月十二日
あの利益(りやく)、この利益と求めている者にもお蔭はある
こともあるが、割合にお蔭が少ないものである。
なぜなら現象に捉(とら)われて、生命それ自身の自由自在さを
失ってしまいやすいからである。
あの利益、この利益と求めるものは近眼(ちかめ)である。
ー 心の近眼である。孑孑(ぼうふら)を追い求むるよりも
吞舟(どんしゅう)の大魚(たいぎょ)を求むるに若(し)
かずである。
すべての利益が与えられているのに、あの利益、この利益と
求めるには及ばないのである。
神は「すべてのすべて」であるから、神をわが内に見出せば、
「すべてのもの」はおのずから整(ととの)うのである。
何よりも、まず「神」である。
その「神」が自分の内部に宿っているのに、多くの人は
未(いま)だ自分自身を拝(おが)んだことがなかった。
自分自身に感謝したことがなかった。
幸福な人が少なくて、不幸な人が多いのも、そうした理由から
当然のことである。
見よ! まず自分のうちに宿る神を!
われらはまず自分自身のうちに「神」を拝むことを教え、
自分自身のうちに「神」に感謝することを教える。
かくのごとくして、われらはしだいに進んで各人自身の
うちに「神」を宿したまうた本源の神を拝むことを
知るのである。》

(同書 17.18頁)

《 七月二十二日
「神はすべてのすべて・・・・」
眼を瞑(つむ)ってかく念ぜよ。繰り返し念じつつ
自分の周囲に、そして宇宙いっぱいに、そして自分の
うちに、あらゆるいっさいのもののうちに、神満ちて
いますという思いをもって心を満たせよ。
ほかに何物をも思念のうちに求めるにはおよばない。
神はすべてであり、いっさいであるからである。
まず神を把握(はあく)せよ。
その人はいっさいを把握するであろう。》

(同書 26頁)

《 八月二日
神の愛を疑うものは神の創造を疑うものである。
神の創造を疑うものは天地一切のものを疑うものである。
疑うとは信ぜぬことである。
信ぜぬとは否定することである。
否定するとは、その存在の根本について争うことである。
争うことは調和せぬことである。
調和せぬとは和解せぬことである。
神を否定し、神と争い、神と調和せず、天地一切のものと
和解せぬものが幸福でありえないのは当然である。》

(同書 40頁)

《 八月五日
躓(つまず)きは不幸な出来事であるが、われらはまた
躓きにも感謝しなければならぬ。
躓きはわれらが人生の道を歩むのに、十分高く足を
挙(あ)げていなかったことを教えてくれるもので
あるからである。われらも躓きによって、躓かない
ときよりもいっそう多くのことを学ぶことができる
のである。躓きはまたわたしの心の眼を開いてくれる
ものである。もし、今少し手前で躓かなかったなら、
自分の今歩いている道が、谷底へ落下する道であることに
気がつかなかったかもしれないのである。
ー 理屈で言うのでも、失敗を諦(あきら)めるために
言うのでもない。躓きは当然感謝されるべきものである。
躓きがなくなりえた者は、その幸福をいっそう感謝すべき
であるが、躓きもまた感謝する価値がある。
そうすればわれらは人生のどこにも感謝すべきものが
充(み)ちていることを発見しうるのである。》

(同書 41.42頁)

《 八月二十四日
・・・・
大事(だいじ)の前にはいっさいを捨てねばならぬ。
捨てることさえも捨て去って、去来(きょらい)する
ものをそのまま率直(すなお)に受けるとき、去る
べきものは去り、来たるべきものは来たって、ただ
自分はありがたく受けるのである。
任運無作(にんうんむさ)、法薾自然(ほうさながらじねん)、
いのちさながら、それが法悦(ほうえつ)の境地です。
冬のうちに春は準備されている。くわしく言えば「春」は
「冬」のうちにあるのである。平和は戦いのうちにあり、
幸福は不幸と見えるもののうちにある。
法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが
分かり、幸福は不幸と見えるもののうちにある。
法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが
分かり、戦いのうちに「寂光土(じゃっこうど)」があること
がわかるのであるが、現象に捉(とら)えられて、
焦(あせ)る者には、ただ心の描く地獄が見えるだけである。》

(同書 62.63頁)

《 九月十七日
宇宙の終始一貫せる法則の中には、因果応報(いんがおうほう)
の法則がある。原因あれば必ず結果があるという法則である。
いかに狡猾(こうかつ)に原因だけを造っておいて、結果だけ
逃(のが)れようと試みても、結果は早いか遅いか、あるいは
他の形態をもってするか、いずれにせよその人に報(むく)いて
くるのである。イエスが五つのパンと小さな肴(さかな)二つ
とを五千人に分け与えてなお十二籠(かご)にパンの余りが
残っていたという奇跡が行われたときに、なぜそのような
奇跡があらわれたのであろうか。それは愛のゆえに分け与え
たこと、そして「廃(すた)るもののなきように擘(さ)
きたる余りを集めよ」というイエスの教えを実行した
からである。無限供給を念じさえすれば、物の余りを
粗末(そまつ)にしてもさしつかえないと思うのは
まちがえである。》

(同書 81.82頁)

《 九月二十六日
本当の成功は、富を得ることでもなく、商売の繫昌でもない
のである。本当の成功はその人の人格の完成ー
心霊学的に言えば、魂(たましい)の向上である。
商売の損益や、事業の成否のごときは人生行路上の
遊戯(ゆうぎ)にすぎない。
勝も負けるも一場(いちじょう)の遊戯にすぎない。
ただその遊戯の上で、人間は性格を形造り、人格をより
完成せしめ、魂を向上させるのである。
商売上の利益も、財産の増殖(ぞうしょく)も
築きあげた事業も、何一つそれらは真の意味において
その人の獲得ではないのである。
真の意味における獲得は、肉体が死すときにも
持って行けるものでなければならないのである。
魂の向上、性格の強さや円満、これこそが唯一の
獲得である。》

(同書 87頁)

《 九月二十七日
われわれは自分があたえられた環境、または境遇から
逃げ出そうと考えてはならないのである。
環境、境遇においてあらわれて来る諸々(もろもろ)の
出来事は、自己の人格を鍛練し、性格を築きあげ、
魂を向上させるための学科であるのである。
もしわれわれがそれから逃げ出すことによって
安易を求めるならば、その人は決して人格を鍛練する
ことはできないし、強き性格を築きあげることはできないし、
魂を向上させることはできないのである。
われわれはあたえられた環境または境遇と取り組んで、
それを征服しえたときにのみ、強き性格を築きあげ、
魂を向上させることができるのである。
これは決して受難(じゅなん)を礼賛(らいさん)する
意味ではない。
われわれは「難」をも「楽」をもともに克服しうる 
人とならねばならぬのである。》

(同書 87.88頁)

《 十月一日
すべての事物は、心の想うことによって存在に入った
のである。神が心に星辰(せいしん)を想い、天体を
想うことによって、諸々の星辰天体が生じたように
である。われわれの周囲の事物はわれわれが心に
思うことによって存在に入ったのである。
そうすれば自分の好まない事物を心に想わ
ないようにしなければならない。
「想うもの」が出て来るのであるから、敵を
想えば敵が出て来る。戦争を想えば戦争が
出てくる。病気を恐れて、心に警戒すれば
するほど病気にかかるのである。
ということは予防的なことはいっさいするなと
いう意味ではない。戸締りもしないで徹夜で泥棒を
恐れているよりも、戸締りをして泥棒を思わないで
眠るがよい。》

(同書 92頁)

《 見える世界に不幸や病気が起ったからとて、
それをそのまま実在だと思い、心に描けば描く
ほど、その映画のフィルムの複製を幾本も新たに
つくって映写することになるから、その不幸や
病気は治(なお)らないのである。
映画の世界(眼に見える世界)に不幸を映して見る
ことが嫌いならば、フィルムの世界(心の波で作る
原画の世界)における原画を訂正しなければならない
のである。現象界は結果であって、原因ではないので
ある。原因の表現が結果である。
だから結果であるところの不幸や病気を根絶(こんぜつ)
しようと思うならば、原因であるところの心の波で
描く原画を変更しなければならない。心の波で不幸や
貧乏や病気を描くな。〉

(同書 94頁)

《 十月六日
外界(現象界)に不幸や混乱状態が起こるならば、
必ずそれと同じような混乱状態が内界にも起こって
いるのである。内界とは心の世界である。
心の世界のあらわれが外界である。
さて、外界に不幸や混乱状態があらわれてきたならば、
ただ内界を変化するようにつとめさえすれば、現象界は
ほっておいてもよいという意味ではない。
現象界の処理の仕方(外界)も、内界の心の持ち方で変って
くるのであるから、まず心の持ち方を正しくして、
その正しい心の持ち方から自然に催(もよお)してくる
「現象界の処理の仕方」を実行することによって、正しい
処置が自然にとれて、不幸や、不完全や、病気がおのずから
消えてしまうのである。》

(同書 95頁)

《 十月十二日
宇宙には無限の癒す力が充(み)ち満(み)ちている
のである。祈りと思念とはその無限の癒す力に接触する
道である。どんなに砂塵(さじん)や煤煙(ばいえん)
が濛々(もうもう)と立ち騰(のぼ)ってもしばらくのうちに
空気が澄(す)みきってゆく力、どんなに土砂降り
で泥や塵芥(じんかい)が海中に押し流されても、それを
浄(きよ)らかな澄みきった海水に変化する力、皮膚や
筋肉に負傷しても下からそれを再生する不可思議な
自療力(じりょうりょく)ー 考えれば宇宙にはいたるところに
自療力(みずからなおすちから)が充ち満ちているのである。
しかし皮膚や筋肉や内臓に故障が起こってもそれを自療
(じりょう)してゆく力の起こる人と起こらない人とが
あるのはなぜであろうか。
それは宇宙の大自療力をみずから認めないで拒んでいる
からである。》

(同書 98.99頁)

《 十月二十日
 善き言葉は実在の中から飛び出して来た言葉である。
いわば、「神』の国策線に沿(そ)うコトバである。
悪(あ)しき言葉は本来虚(きょ)のコトバである。
神策(しんさく)に沿わぬコトバである。
虚のコトバから発生したものは本来虚であるからあるように
見えても存在せぬ。そういう現象を偽象(ぎしょう)または
虚像(きょしょう)と言う。
善き言葉であらわれた現象は、実在の延長であるから
真象(しんしょう)と言うのである。
真象は神御自身のコトバの延長であるから、神の
嘉(よみ)したまうところである。神は表現を
求めていられるのである。真象は神の表現であり、
神の発展であり、み心の天になるがごとく地に成る
ことである。真象は神の御稜威(みいつ)の降臨
(こうりん)である。理念の表現である。
現象にも真象と偽象とがあることを知らねばならぬ。
「現象なし」と断(た)ち切る場合は「偽象」なしの
意味である。
「神の『心』動き出でてコトバとなれば一切の現象
展開して万物成る」という場合の「現象」は「真象」
である。》

(同書 104頁)

《 真に存在するものは、すべて「神」によってつくられ
たのである。「神」はいのちであるから、すべてのものは
いのちをもっている。神は「自覚」であるから、すべての
物は「自覚」をもっている。それをわれらは気づかなかった
のである。机には自覚がないと思ってお礼を言わなかったし、
蒲団(ふとん)も、椅子(いす)も、書籍も、ペンも、
鉛筆も、茶碗も、大根も、・・・・
すべて自覚がないと思ってお礼を言わなかったので
ある。それどころか、人間にさえも自覚がないもののように
お礼を言わない人がある。もっとも面と向かい合って
はお礼を言わない人はないようだが、それはその人の
「自覚」すなわち覚体に対してお礼を言っているのでは
なく、五官に対してお礼を言っているのである。だから
五官に見えない処では悪口(あっこう)を言う。
こんな人間は『生長の家』誌の読者であっても、生長の家
の家族ではない。人間を覚体として認める人は、五官に
見えないところからでもお礼を言い、見えないところからでも
拝めるのである。》

(同書 105頁)

《 十月二十四日
真理を読むだけで、行(ぎょう)じなければなんにも
ならぬ。
「汝ら天地一切のものと和解せよ」ー
『生命の實相』のこの巻頭(かんとう)の一行さえも
実行しないでいながら『生命の實相』を読んだと言う
のはおこがましいと思う。
勢力争いするために張り合ってなんになるか。
争わねばならぬような相手は無いと知るのが光明思想
なのである。
人生の苦しみの多くは嫉妬心(しっとしん)から来る
のである。
嫉妬は憎(にく)みを招(よ)び、争いを招び、
あれほど真理を知っているはずの人が、感謝しなければ
ならぬ人をさえ憎むようになるのである。》

(同書 107頁)

⦅ 十月二十九日
すでに与えられていることを自覚せよー
と言えば、実際生活になんの努力もしないで
「すでに与えられている」とすこぶる甘い態度で
生活している人も時には見出される。
そんなのを神に甘える信仰と言うのであって、
神の中に生きる生活ではないのである。
われわれは小我(しょうが)を神の中に没却
(ぼっきゃく)させてしまわねばならないが、
本当の我は、「神の中に」生きなければならないので
ある。
「神は今に到るも働き給う」ー
われらは小我を没し去ると同時に、神とともに
大活躍しなければならないのである。
活動の中にのみ、神と偕(とも)なる悦びがある。》

(同書114頁)

⦅ 仏を知る心が自分にあるのは、自分が仏である
からである。理(り)を知る心があるのは自分が
理であるからである。

自分が仏にして、すべての人が仏にして、初めて、
我れ彼を知り、彼我れを知る。彼と我とは平等同自
(どうじ)にして、しかも彼は彼であって我ではなく、
我は我であって彼ではない。したがって彼と我とは
平等にして、差別がある。差別がなければ、我と彼との
差別の認識ができないし、われと彼と平等でなければ
我は彼を感ずることも、彼は我を感ずることもできない。》

(同書 132頁)

《 十二月十日
「神」より確かなものはない。「神』からすべてのものが
与えられないのは、「光明」に転向していないか、その
頼り方が「全托(ぜんたく)」の境地に達していないから
である。「光明」に転向せずして、「神」にまかせている
者も与えられないし、光明に転向しても、自力でいろいろ
と小知才覚(しょうちさいかく)を弄(ろう)するものも
与えられないであろう。》

(同書166.167頁)

《 恐怖というものは誤解の上に築かれている。
およそ恐怖すべきものは実相には無いのである。

人は困難を恐怖するが、困難がどれだけわれらを高め
上げてくれるものであるか、その困難の航跡を
知らない者が多いのである。もし、困難の航跡という
ものを、われらが知ることができるならば、われわれは
困難を苦痛と感じなくなるであろうし、困難に対して
恐怖を感じなくなるであろう。

困難と苦痛とは異(ちが)うのである。困難を苦痛と
感ずるのはただ誤解に因(もとづ)いている。
困難は時としては立派な遺産を置いて行ってくれる
ものなのだ。》

(同書 175.176 頁)

△  メール等にて参加

■ F(メールにて参加)

合掌 「ひかりのお便り」2月号、月訓および資料が

1月31日に届きました。

実に詳細な「生長の家のマーク」に関する資料です。



『無門関解釋』から抜粋してありますが、

聖典の中でも大好きな一つです。

公案というのが浮世離れしていて面白いと思います。



実相ひかり誌友会2月度のテキストが『生命の實相』

第38巻と告知されていますので読後感想等を次の

ように投稿させていただきます。                             再合掌

 

@『生命の實相』幸uム下 を拝読して

 P93 十月三日 業が業として人間を縛るのは、

心で業をつかむからである。

もっとも「心」というのは現在意識ばかりではない。

人類意識の通念(共通の観念)の中にあって動かされている

個人の心は、無意識の内に業をつかんでいるのであって、

過去の波動をつかんで、それを実在のごとく

見るのがちょうど映画

 −「業」というのは、人間の意識には「波動」の形で

捉えれるものだと解されます。



 p108〜113 十月二十六日

 −大聖師の「森下君」に関する記述は昭和10年前後

(十一月二十七日の記述から逆算すると約15年前)

の回想の筈ですが、それにしては随分詳しいです。

大聖師はギフテッドの記憶力をお持ちなのです。



 P135 十一月二十日 こんな文章を読んだからとて、

「あいつは近頃拝む心になっていないから駄目だ」

と他人の悪さを批評する人がもしあったら、

その人自身がまた拝む心を失ったと

いうことになるだろう。

−実に懇切丁寧に説いておられます。



 P148 十一月二十七日 

一九五十年十二月のユニティ教派の雑誌『デーリー・ワード』

の巻頭=@ −よって、この「幸uム」は昭和26年頃に

脱稿されたものと思われます。

(他に、7月6日、7月27日の頭注、8月16日)



 P196 十二月三十一日 頭注=キリストChiristo[ポルトガル語]

−葡語による発音だとは知りませんでした。

調べてみると、Cristo(英語表記と比べてhがない)

をキリストと発音するようです。



A『人生を見つめて』(谷口雅春先生著)を自習しました。



P3(はしがき) 約四十年間の長きにわたって人々を

指導して来た間に、深くそれらの人々の人生を

見詰め、その悩みが何処にあるかを洞察し、

人間が、本当の意味において幸福になるためには、

如何に人生に処すべきかに就いて感じてきた要項を、

数十項目=|大聖師ご自身の人生をみつめられた

ものではありません。

比較的短いご文章ですので、手軽に、短時間にどこでも読め

とあるとおりです。



 P151(塵埃を西海に吹き払う 

其の溜っている煤煙の結晶を私が時々

、吹き払ったり、払い落したしなかったならば、

私の洋服の肘のところなどは煤煙のために真黒に

なる筈であった。

その汽車は既に電化された地域を通過しつつあっも、

過去に溜めたヨゴレの結晶が、現在の自分たちをけがす

−大変巧みな比喩で、分かり易いです。



 P215(潜在意識の不思議なはたらき) 

いつの間にか、潜在意識にその思いが印象され、

潜在意識は 素直にその印象どおりに、

その薬を服まねばならぬように生理作用を変更します。

−現在意識と潜在意識の相互作用が簡潔に述べられています。





B「阿頼耶識」という言葉が、駒澤大学の広告(昨年末の週刊誌)や

日経新聞元旦号の見開き対談ページに

 調べたくなって、『唯識十章』(法相宗興福寺元住職多川俊映師著)、

その他を読みました。

 阿頼耶識とは、唯識説に於いて、

層別された意識の最深層のものの名称です。

その機能は、「無始以来」

 から身体的・精神的行為(身口意の三業)がなされると同時に

それらを記憶を続けている種子(しゅうじ)と

称するものに追記され、一方この種子が身体的・

精神的行為を規制したりするという不思議なものです。



また、この種子は輪廻転生の主体です。

自撮りで喩えますと、一瞬 (勿論、睡眠中も)

の途切れもなく自撮りした過去のデータ(クラウド中の

ビッグデータ)の一部の再生データを見て、

これに影響を受けつつ現に三業を

なしつつあるところを更に自撮りしてクラウドに

ビッグデータとして送り込んでいる仕組みということになります。



生長の家では、潜在意識というものを説いておりますが

、唯識説と全く同じというわけではありません。

大聖師はお若いころに大蔵経を読破されておりますので、

阿頼耶識を当然ご存じであったと思われます。

ただ、詳しく述べておられる文章に接した覚えがありません。

私なりに理由を考えました。

・唯識説は、佛説魔訶般若波羅蜜多心經のような

いわゆる佛説ではありません。

唯識説は古来からの印度ヨーガ行者達の思索を

集大成したもので、お釈迦様の佛説といつのまにか

習合してしまったのでしょう。

日本でも伝来した仏教と古来からの神道とが

神仏習合を起こしました。

 ・生長の家では、潜在意識の奥にさらに超在意識があると説きます。

唯識説では、このようなものを明示的には立てておりません。

唯識説では、その代わりに「断悪修善」で

徳を無限に積み重ねついくと階位が次第に上がってゆき、

終には(善徳の種子で埋め尽くされて)

「阿頼耶識」が「菩提・涅槃」の境地に

達する、すなわち成仏するとしています。

ただし、これには三大阿僧祇劫(ほとんど無限時間)を要します。



 ・唯識説では、「無姓有情」といって煩悩を永久に

際断できかねる資質をもつものの存在を否定しません。

  大聖師は、『大般涅槃經解釋』の「まへがき」において、

「一闡提は終に善法なし」との佛説は棄却すべしと

明確に書かれております。

法相宗においてこの問題は、次のようなふうにして

回避するようです。試験の点数において、

零点というスコアは存在するけれど、

実際に零点を取る人はいないということ。



・はうら

いつも変わらぬ真理の研鑽の姿を拝します
私は1月末の教育施設の入試の準備で、一年で一番大変な
数日でしたが、何とか通過させてもらいました。
因みに
『新版 真理」別冊114頁に
「・・・・潜在意識の底の底の阿頼耶識(あらやしき)
(仏教で説く八識の一つ。一旦印象した一切の念を内に
蔵していて現象を生み出す宇宙の潜在意識ともいう
べき心」とご教示されております。

■ G(メールにて)

いつも『ひかりのお便り』ありがとうございます。
1月11日に父が亡くなりました。
現在49日を過ごしております。
下旬に改めて連絡いたします。

・ はうら

謹んでお悔やみ申しあげます。
ご尊父様のご冥福をお祈りさせていただきます。
どうぞ心穏やかにお過ごしください。

■ E(メールにて)(1/28 12:00)

私、コロナにかかってしまい、水を飲んでも吐いてしまい、
嘔吐が今日で三日も続き、つらいです。
神様!と心で呼んでいます。

・ はうら(1/28 14:00)

大丈夫でしょうか。
本来病いはないので、掴まないで、辛くない所に感謝して、
生かされている事に感謝して、すべてのものに感謝していると、
現象は現れたら消えていく姿ですから、これでいままでの
悪い想念、感情は浄化されていくと思って下さい。
出来るだけ、今迄の楽しかった事などを思って、苦しい方に
思いを向けないでください。
出来ましたら感謝をもって、『甘露の法雨』等の読誦を
してください。

これから祈らせていただきます。
絶対大丈夫です。
ありがとうございます。

・ E(メールにて)(1/30 13:00)

ありがとうございます。
祈ってくださったお陰です。
症状が落ち着き、水分、流動食も、少しずつ取れるようになってきました。
感謝です。
熱があり、症状もありますが、必ず良くなる❗️と信じ、
寝て、回復を待ちます。
ありがとうございます。

・はうら(1/30 21:30)

ご連絡ありがとうございます。
心穏やかにして、恐怖心さえおこさなければ、
使命のある間は、必ず内なる神が、最も適当なる時期に、
癒してくださいます。
すでに神癒は、常に行われております。
新陳代謝自体が神癒です。
信じて、感謝して、そして、心を穏やかにして
感謝の念をもって、『甘露の法雨』等を
読誦してください。神の癒しの波長にあいます。
(寝ながら祈っても大丈夫です。)
どうぞ頑張ってください。
(返事が遅くなりました。仕事で先程帰宅したものですから。)
祈らせていただいております事を、感謝いたします。
ありがとうございます。

・ E(書簡にて)(2/14)

合掌ありがとうございます。
先日はお祈りくださり、ありがとうございました。
お蔭様で少しずつ、食事もとれるようになり、動けるように
なってきました。感謝です。
コロナになる前と同じような身体、体調ではないのですが、
すべての人、事、物、今の辛い症状にも感謝して、心を
穏やかにする事を心掛けています。
もう病気はしないで、ずっと健康で元気でいたいです。
当たり前が、本当に有り難い事だと感じております。
ありがとうございます。感謝を込めて。再拝。

『ひかりのお便り』2月号も届きました。
拝読いたしました。
「実在の自分」を忘れないように、常に神と一体とは、
なかなか、むずかしいです。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。
いつもありがとうございます。
感謝の念が尽きません。

・はうら

嬉しいお便りありがとうございます。
お元気になられましたそうで、よかったです。
私が祈ったからではなく、生きている間は、
生理作用はすべて、神癒ですので、神に感謝し、
生かされている事に感謝し、全ての事柄に
感謝していると、それがどんどん増大して、
無限の神癒の波動につつまれ、護られて
如意自在の境地に達せられるものと思います。
ありがとうございます。

■  C(書簡にて:要旨)

・・・・収支報告書、岡先生関係の内なる神の声の
御依頼の書お送りくださいましてありがとうございます。
深い御愛念、ご指導、ご文章に感動し、自覚が深まり、
感謝せずにはおれません。
これからもどうぞご自愛くださいまして、健康第一に
御指導、御活躍念じております。

・ はうら

お元気そうでよかったです。
浄財に感謝申しあげます。
丁度3月分の愛行に、少し不足を感じておりましたところ
でしたので、また無限供給の体験をさせていただきました。
ありがとうございます。

■  D(電話にて)

お陰様でほとんど体調は回復しました。
3月か4月にはケアハウスを退所出来そうです。
数日前、一時帰宅しましたので『如意自在の生活365章』
を持ってきました。また連絡いたします。

・ はうら

本当によかったです。
『如意自在の生活365章』は尊師が365章シリーズの
最後の圧巻とも称するべきものであり、激しい
霊感的状態のうちに書かれたと、述べられている
聖典ですから、さぞその波動を受けられる事と
思います。
いつもありがとうございます。


■  B(メールにて)

送付いただいた資料のポケットの多さには驚かされます。
今月の「ひかりのお便り」令和6年2月<第43号>の一面の

「神は第一原因者である。神は唯一の造り主である。實在とは。」

と素晴らしい御言葉に、「本当に神が唯一の造り主でよかった」

としみじみと第一原因者である神に感謝を捧げます。

もし、神の他に悪なる造り主、迷いなる造り主が存在していたら、

老い病み苦しみ世界から永遠に抜け出せないのではないかと

さえ思えます。「神は唯一の造り主」であるということは、

「生老病死」無く、ただ生き通しの生命のみあるという

福音にほかなりません。

二面の「そのままで佛」なる一喝で「生長の家」に触れた多くの方は、

安心立命の境地を見出されてきたことか。

「常に自我を死に切るべし」との教えと双璧をなす言葉だと感じます。

特に「常に」ということに意識して、自我を死に切ったところに

本当の「生長の家」が見出されるのではないかと思う次第です。

常に神のみ佛のみを生きる生活を心掛けたく存じます。

・ はうら

素晴らしいコメントありがとうございます。
いつも襟を正される思いがいたします。
ありがとうございます。

本日の誌友会は、時間の刻限を超過して、充実した、実相哲学の
広大無辺さに、ただただ感動した一刻でした。
心新たに、光明化へ前進したいと、決意させていただきました。
ありがとうございます。

感謝 再拝 はうらひとひら 拝



善き言葉 (63628)
日時:2024年02月28日 (水) 15時23分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。
1月末から続いている諸課題が、十数個あり、
一つずつ取り崩し、地ならしし、取り纏めている最中です。
投稿も滞りがちで、申し訳ありません。
今回の体験は、私の体験でもなく、人間の体験でもありません。

☆: 真理

《 【言葉とは何であるか。】

 われわれは言葉を慎まなければならない。
言葉は神であり、言葉によってすべてのものは
創(つく)られたということが聖書の中に書いてあります。
そのように禍福(かふく)は言葉の中にあるのであります。
ですから、この「言葉」を非常に重んじて、
善き言葉ばかりを使い、善き読物ばかりを読むように
しようではないかというのが、
生長の家の人類光明化運動であります。
すべての人類よ、言葉の力を知れ、
そして善き言葉によって人間の神性を招(よ)び
出そうではないか、
これが生長の家の人類光明化運動であります。

「言葉」とは何ぞやと申しますと、
聖書に「一切(すべて)のもの言葉によって創らる」
と書いてありますように、人間の発生以前から
「言葉」というものがあって人間をも造ったのですから、
これは人間の声だけが「言葉」ではありません。
「言葉」とはバイブレーションである、
振動である、波動である。

オスカーワイルドは
「ものは言葉が前(さき)で形があとに現れる。
表現が前(さき)であって、人生がそれに伴う」
「ロンドンの霧は詩人がこれを詩に表現した時に
初めて存在に入ったのである」
というような表現至上主義を唱えているのであります。》

(『生命の實相』頭注版第30巻 10.5頁)

■: 体験

我が家に縁あって、胡蝶蘭が7年前に家族となった。
子供・家人はそれから毎日「洋ランさん」「洋ラン先生」
と言って毎日良い言葉で誉め続け、
環境に常に気をつけて、人間よりもある意味大事に育てた。
この一月に7年連続芽を出し、大輪を咲かせてくれている。
3ヶ月位は、楽しませてくれる。
善い言葉は、人間のみならず、
すべてのものの神性・仏性を引きだす。
(大きさは、一輪 130mm程度。
20個程花が咲きます。

ありがとうございます。


はうらひとひら様 (63638)
日時:2024年02月29日 (木) 05時51分
名前:志恩

【善き言葉 】が、はうら様の今回のテーマです。

(はうらひとひら様ー)
>1月末から続いている諸課題が、十数個あり、
一つずつ取り崩し、地ならしし、取り纏めている最中です。
投稿も滞りがちで、申し訳ありません。
今回の体験は、私の体験でもなく、人間の体験でもありません。

☆: 真理

《 【言葉とは何であるか。】

 われわれは言葉を慎まなければならない。
言葉は神であり、言葉によってすべてのものは
創(つく)られたということが聖書の中に書いてあります。
そのように禍福(かふく)は言葉の中にあるのであります。
ですから、この「言葉」を非常に重んじて、
善き言葉ばかりを使い、善き読物ばかりを読むように
しようではないかというのが、
生長の家の人類光明化運動であります。
すべての人類よ、言葉の力を知れ、
そして善き言葉によって人間の神性を招(よ)び
出そうではないか、
これが生長の家の人類光明化運動であります。

「言葉」とは何ぞやと申しますと、
聖書に「一切(すべて)のもの言葉によって創らる」
と書いてありますように、人間の発生以前から
「言葉」というものがあって人間をも造ったのですから、
これは人間の声だけが「言葉」ではありません。
「言葉」とはバイブレーションである、
振動である、波動である。

オスカーワイルドは
「ものは言葉が前(さき)で形があとに現れる。
表現が前(さき)であって、人生がそれに伴う」
「ロンドンの霧は詩人がこれを詩に表現した時に
初めて存在に入ったのである」
というような表現至上主義を唱えているのであります。》

(『生命の實相』頭注版第30巻 10.5頁)

■: 体験

我が家に縁あって、胡蝶蘭が7年前に家族となった。
子供・家人はそれから毎日「洋ランさん」「洋ラン先生」
と言って毎日良い言葉で誉め続け、
環境に常に気をつけて、人間よりもある意味大事に育てた。
この一月に7年連続芽を出し、大輪を咲かせてくれている。
3ヶ月位は、楽しませてくれる。
善い言葉は、人間のみならず、
すべてのものの神性・仏性を引きだす。
(大きさは、一輪 130mm程度。
20個程花が咲きます。<

志恩ー
良き言葉には、よき波動が出ていますので、
われわれの心も浄化されますものね。
そして、花や植物も、よき波動を出していますので、
植木鉢で育てている花や植物からも、私たちは、
癒されているのだと存じます。

はうら様が、ご自宅で、7年前から胡蝶蘭を育てて
いらっしゃるなんて、知らないことでしたので、
興味深く、読ませていただきました。

胡蝶蘭は、花の中でも、大変品格の高い花で、
育てるのはデリケートな花なので、すぐに枯れてしまうと
聞いております。私は、胡蝶蘭は、いただいたことも、高い
お花なので買ったこともない花ですが、7年間も枯らさずに
今でも20も花を咲かせ続けておられるとは、大したことだと
花好きの私は、特に感心いたしております。
すばらしいですね。

胡蝶蘭、花、20咲いているのを、今、花キューピットで、
購入すると
花代22,000円、送料850円で、買うと、約23,000円もします。
こんな高い花、私には買えません。

私は室内では、観葉植物は植木鉢で5鉢育てています。
(ウンベラータ、ジャスミンなど))
庭のプランターの花は、二階に住んでいる最近、花好きに
なった娘婿がお花屋さんで買ってきて、プランターに植えて
育てているものばかりです。安い花ばかりですけれど。

今朝5時20分、まだ、朝が明けない暗い庭を
スマホで写したうちの庭の写真です。
庭の小山のところにバンビの照明を、
樹木のところにも
豆電球を巻きつけて、防犯のために、辺りを照らし、
真夜中でも、なるべく明るくするようにしています。
(ベランダに出ますと、防犯灯が、パッとつきますので、
その明かりの下で、写しました。)

はうらひとひら様@ (63698)
日時:2024年03月02日 (土) 04時23分
名前:志恩

『実相ひかり誌友会』魂の交流文
【ひかりのお便り】、2024年3月号を
お送りくださいまして、ありがとうございます。

先ほど、これにつきまして、長文を書きまして、
「書き込む」を押したのですが、添付したものが
添付できませんという表示が出まして、
私が書きました文ごと、消えてしまいました。
再度は、長文でしたので、
なかなか書けないのですけれど、
早速拝読させていただきました。
感謝いたしております。

今回のテーマは
【人間とはなんであるか?
理念的存在
現象を全否定した時、實相が出る】
でありました。
甘露の法雨からや
数々の谷口雅春先生の著書から。
光に満ちた真理の言葉の数々が
謹写されまして、載っておりました。
おかげさまで、心が清められました。

ありがとうございました。



画像をマウスでクリックされますと、
もう少し、読みやすくなります。

はうらひとひら様A (63699)
日時:2024年03月02日 (土) 04時36分
名前:志恩

続きです。

はうらひとひら様 (63986)
日時:2024年03月17日 (日) 20時14分
名前:志恩

はうら様

3月16日(土)開催の
『ZOOM実相ひかり誌友会』についての
詳細をメールにて教えてくださいまして
誠にありがとうございます。

大変素晴らしい内容でしたので、
参加者の皆様のお名前は伏せて、
ABCDEFGに変えて、掲載させて
いただきますこと、今回も、
お許しくださいませ。


ーーーーーーーーー
3月16日開催の
『ZOOM実相ひかり誌友会』メモ
(文責:はうら ひとひら)

日時:令和6年3月16日 午後1時半より
約2時間・出席者(敬称略、50音順)
・ はうらひとひら   ・A ・B

(メール・書簡、にての参加者)
・C ・D ・E・F ・G ・H

■  A
以前は大人数の出席だったのに、
今出席者がほとんどいないのはどうしてですか。
いろいろ忙しさもあり、あまり学びも進んでいないが、
今月のご文章『自己発見と自己発掘』は大変心に
響いたので、『生活と人間の再建』を拝読しなおしています。

・  はうら
岡先生が命がけでご指導された誌友会は、
魂が籠っていたので、集まったと思います。
私には人徳が余りないので。ただ一つ言えることは、
岡先生は「久遠の今』を常に中心において、
説かれていたが、それが私達がよく咀嚼(そしゃく)でき
なかったのが、原因の一つと思います。
ですから「実相直視」を主体に展開しようとした時
皆さんが奇異に感じられたと思います。
すべての責任は、主催者である私にあります。
真理を生活に溶け込ませようとし、
「後日や将来」を拒否して、今を生きるように、
と行動した事が皆さんに受け入れられないのかも
しれません。
「生長の家のマーク」の歪みについても、
自分の生活にはあまり関わりないと思っておられるようです。
しかし、あくまでも「現象なし」でいきたい。
生長の家なら、大調和の一つの蓮華蔵世界
(『實相と現象』177頁)の実現です。
そこは外せないと思っております。
「今」はいのちがけだと思っています。

■  B
参加人数とか、形ではなく、自分が感動し、躍動し
実相顕現の楽しい波動を発信する事によって
パテントほ私達みんなに渡されたわけですから
楽しく続けていけば、よろしいかと思います。
20日から山形、盛岡、八戸と出張です。
日本舞踊を通して、人類光明化運動を展開して
行きたいと思っております。

☆ 今月のテキスト
『生命の實相』39巻感銘した処
(はうら編集:謹写)

《 三千年前釈迦が、二千年前キリストが、
いっさいの悩み苦しみを解き放ち、
自由自在の生活を送れる道を発見しました。
それが二千年、三千年の過去のこととしてではなく
今ここに生かされたのが本書です。》
(同書 カバーより)

《 世界の宗教は一つでなければならないのである。
宗教が互いに対立しているような状態では
人間は対立するほかはない。

世界の平和は人類が唯一つの本源なる神より生じ、
一体であって本来対立することなきものであるとい
う真理に目覚めることのみによって達成せられるのである
あらゆる人間の救いの原理は一つでなければならない。
それは人間の生命の起源が一つであるから、
その救いの原理も一つでなければならないのは当然の
帰結(きけつ)である。

今ほど人類が「一(ひとつ)」に結合さるべき
要請(ようせい)の強い時代はないのである。
したがってまた、今ほど、世界の宗教がその
個々別々の粉飾(ふんしょく)と付加物(ふか
ならなければならない時代はないのである。

生長の家が「あんな教えは各宗の善いところばかり
集めたもので、一宗(いっしゅう)と言いうるものではない」
と評されるのは、時代や民族の粉飾と付加物を漉(こ)し
去って人間救いの根本原理たる普遍(ふへん)的真理のみ
を説くようにしているからである。

キリストは「真理は汝を自由ならしめん」と
「ヨハネ伝」で言っている。仏教では自由解脱(げだつ)を
得たものを仏陀(ぶつだ)と言う。
結局、人類を開放するものが宗教でなければならない
のである。

人類を開放することの反対であるがゆえに
宗教ではないのである。
人間はなぜ救われるか?それは
凡夫(ぼんぷ)往生(おうじょう)を説
仏教もあるけれども凡夫と見えているその奥に
「すでに解放されている自由なる者」
(仏性(ぶっしょう))があるからこそ、
仏陀(ぶっだ)となるのである。

あらゆる処にましまして全人類を一体に
包んでいるのである。
このような超越的内在の神性(し)と
なりうるのである。
わたしは仏教家がすぐ言葉の端(はし)を
捉(とら)えて有神論にケチをつけたがるのを
悲しむ者である。

有神論は結局、内在仏性論となるべきことは、
「神の国は汝の内にあり」というイエスの言葉でも
分かるのである。

本書においては仏教とキリスト教とが結局「一」に
融合(ゆうごう)すべきものであることを明らかにし、
それによってイエスや釈迦時代の宗教的奇跡の復活を
可能ならしめ、かねてこの真理よりして、
人類永久平和への道と、人類永遠至福健康への道とを
具体的に開示(かいじ)せんとしたものである。》
(同書はしがき1〜3頁)

【 明鏡(めいきょう)は台にあらず、
人間は肉体にあらず】《 神秀(じんしゅう)は
肉体人間をあるがままにあるとして、
修養の道を説いた。これも確かに結構であるが、
慧能(えのう)は、肉体人間を跳び越えて、
ただそのままで救われている自性円満の実相の中に
跳び込んでしまったのである。》(同書扉裏)

《 古来幾多の宗教的天才が人間の本当の
生命を得る道を探究せられたのであります。

旧くは釈迦は生老病死の四苦を解脱せんがために
苦労せられた。生老病死の四苦というのも
やはり生命(いのち)の自由を縛(ばく)するところの
四つのものであります。

第一、生苦(しょうく)とは生の苦しみ、生きている苦しみ、
生存競争の苦しみ、争いの苦しみ、
それから老苦(ろうく)とは年老いて、
意気は壮(さかん)なれども進退は思うようにならない、
これもやはり自由に対する束縛(そくばく)であります。

病気もやはり自由に対する束縛であって、
自分はもっと元気で自分の事業をやってゆきたい、
自分の使命を遂(と)げてゆきたい、子供を愛し、
家族とともに楽しんで生きてゆきたい、
かく思いつつも病気の前にはいかんとも為(な)し
難(がた)い、これが病苦であります
最後に死というのがやって来る。
死はこれまた生命の自由に対する大きな威嚇(いかく)で
あります。

われわれが瀕死(ひんし)の状態にあって
わずかに残された手足の自由、唇の自由、
それもかろうじてちょっとだけ動かせるという程度の
自由、その悲しい自由さえも瞬間にして奪ってしまう、
これが死と称する自由を束縛する恐ろしい悪魔的働き
であって、この死をわれわれは恐れて空しく苦闘して
ついに打ち挫(くじ)かれてしまう、これが死苦であります。

この生老病死の四つの苦しみ、われわれの生命の自由を
縛ろうとするこの四つの敵をいかにして折伏(しゃくぶく)したら
よかろうというのが、これが釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の
探究の目標であったのであります。

そうしてとうとう釈迦牟尼仏がその道を発見せられた
のであります。
生長の家で説くところの道も、
旧(ふる)く三千年の昔に釈迦牟尼仏が発見された
ところの道そのままなのであります。
真理は常に新しく永遠性のあるものであります。》
(同書 10.11頁)

《 しからば生長の家では、
この生老病死の四苦というものをいかにして超越するか
と言いますと、むつかしいことは何もないのであります。

現象界は心の波の過ぎ行く相(すがた)でありますから、
心の波の過ぎ行く過程において善き心の波を起こした時には、
そこに善き心の波が投映して善き心の波がスクリーンに
映(うつ)って、そこに健康なる肉体も現われ、
家庭の光明化も実現する。けれどもそれは過ぎ行く
相(すがた)である、

やがて過ぎ行かなければならないのであって、
それが過ぎ行かないものであると、
握ってしまった時に、われわれは生命(いのち)の自由を
失ってしまうのであります。

この移り変る相(すがた)の中に、
移り変らないところの永遠不滅の生命を自覚すること、
これが本当の救いであり、
宗教的解脱(げだつ)というものであります。

生長の家では「今を生きる」という言葉
『生命の實相』の随所に述べられているのでありますが、
この、「久遠の今」を生きる、「今」の瞬間に永遠を
生きることができましたならば、
朝(あした)に生きたならば夕(ゆうべ)に死んでもよい
という実感が湧(わ)いてくる。

本当の自由というものは、
ならないのであります。

その時にわれわれは、このまま自分は無限に生きている、
永遠を生きている、久遠を生きているということが
自覚されてくるのであります。この今が大切でありまして、
その「このまま」を握った時にわれわれは本当に自由を得る。

久遠の昔から永劫(えいごう)に続き続いている時間の
ただ一瞬の一点に立って、その久遠の生命が今生きている、

その久遠の流れの中にすべての生命が生きているのである。
今このまま、今このまま救われているのであると解(わか)った
時に、万象(ばんしょう)ことごとく感謝の相(すがた)に
変わってしまうのであります。

自分は大生命と一つの流れに生きている、
これが本当の解脱自由であって、
病気が治りたい、あるいはお金を儲けたい、
そういうことが決して真の解脱自由ではないので
あります。》(同書 14〜26頁 要旨)


《 釈迦の心が突然変わった。
今まで事物の物質的外観をのみ見ておった
時代には、すべては殺生(せっしょう)または
掠奪(りゃくだつ)して得たものばかりに見えて
おったのです。

ところが今、釈迦の前には殺生もなければ、
掠奪もない、あの婆羅門(ばらもん)の乙女は
わたしを生かそうとして、わたし自身は何もしてくれ
と言って求めもしないのに、それにお乳を下さった、
自分で求めもしないのに、自分で穀物(こくもつ)を
作りもしないのに、自分で牛乳を作りもしないのに、
ああそれなのに、わたしを生かさずにおかないという
天地の恵(めぐ)みの大愛(たいあい)が回(まわ)り
巡(めぐ)ってここにこの牛乳の粥(かゆ)として出現した。

ああありがたい!という気持ちがしてきたのであります。
殺し合いの世界と見えたこの世界は、
悟ってみれば万物ただ生かし合いの世界だったので
あります。》(同書 37.38頁)

《 互いに憎(にく)み合い争い合っていると見える生命
(いのち)も、その敵と見えたものは、
自分にとっては自分をみがく砥石(といし)であって
われわれの生命がだんだん砥石にかけられて、
いっそう立派な霊性が啓(ひら)かれてゆくために
仕組まれている仏の慈愛(じあい)
神の愛の顕(あらわ)れだったのです。

天地間、ありとしあらゆるもの、
生きとし生けるもの、みんなこうして
愛し合っている者はもちろん、憎み合っている
かのごとく見えている者同志さえも生かし合っている
世界なのです。みんな愛し合いの世界なのです。

みんな解(と)け会いの世界なのです。
そういうことが釈迦に解(わか)ってきたのであります。

すなわち「有情(うじょう)」ー生きとし生けるもの、
「非情(ひじょう)」ーありとしあらゆるもの、
悉(ことごと)く今仏になっている。山も川も草も木も
悉(ことごと)く仏の相(すがた)である。

みんな生かし合い、拝み合いの相である。
今まで地獄の相だと思っておったのはまちがい
だったとお悟りになったのであります。

これが釈迦がお悟りになった縦の真理であります。》
(同書 41.42頁)

《 「太陽の善人をも悪人をも照らすごとく、
御心(みこころ)のあまねく霑(うるお)える世界」で
ありますから、光明一元、光のみの世界であります。

これに反して「現象宇宙」は「実在宇宙」の完全な
相(すがた)を、歪(ゆが)める凹凸(おうとつ)不同の
「念(こころ)の透過膜(とうかまく)」によって
時間空間の範疇(はんちゅう)に屈折(くっせつ)して
投影されて顕(あら)われた世界でありますから
明暗正歪(せいわい)健病の混同せる世界であります。

すなわちこの「現象宇宙の太源(たいげん)」中には、
背後に実在の円満完全なる光があり、
その表層(ひょうそう)に、「不透明にして屈折不同
(くっせつふどう)の念のレンズ」がありますから
「現象界の太源」は「完全円満なるもの」と、

それを遮(さえぎ)る「念の波」と両方であります。」
(同書 68.69頁)

《 わたしの直観しえた「実在の世界」は
無色無味無臭無触(むしょく)無聴(むちょう)の世界に
あらずして、無限の妙色(みょうじき)、
無限の妙香(みょうこう)、無限の妙音(みょうおん)、
無限の妙味(みょうみ)、無限の妙触(みようしょく)を
備えたる無限次元の世界なのです。
これはわたしは直感によってかく認識しうるので
ありますが、傍証(ぼうしょう)としてわれらが
音盲が治り、蓄膿による香盲(こうもう)が治り、
食物に味を加えてくるによってでも、
われらが実相界を現象界に投影する
「念のレンズ」の浄(きよ)まってその屈折率が
少なくなってくるにしたがい、
感じうる感覚の世界が豊富になり、
いよいよわれわれの「心のレンズ」が浄まり、
ようになったならば、
まさにその感じうる感覚は、
無限の種別の美しさに達しうるにちがいない
と推測できるのであります。》
(同書 70.71頁)

《 およそ、実在世界の風光(ふうこう)は、
今迄たいてい概念的に「空(くう)」とか
「寂光土(じゃっこうど)」とか表現してありますが、
静寂(せいじゃく)」なる超越的光のみがボンヤリと
満ちている空々漠々(くうくうばくばく)のエーテル的
世界であろうと、

直観なき文字だけで解釈する仏教者は
考えているかもしれませんが、

実相世界(実在世界)の風光はそんなものではなく、
それは『法華経(ほけきょう)」の自我偈(じがげ)の中に
その片鱗(へんりん)が示されているとおり、
現象界が劫(こう)尽(つ)きて大火に焼かれると見ゆる時も、
「我が此土(このど)(実相世界)は
安穏(あんのん)にして天人常に充満せり、
園林(おんりん)諸(もろもろ)の堂閣(どうかく)、
種々(しゅじゅ)の宝もて荘厳(しょうごん)せり、
所なり、諸天(しょてん)、天鼓(てんく)を撃(う)ちて、
常に衆(もろもろ)の伎楽(ぎがく)を作
仏及び大衆に散(さん)ず」とあるとおり真に
まことに具体的な浄土こそ金剛不壊(こんごうふえ)
の実在世界であり、この実在世界の幸福祥益(しょうえき)
は永劫(えいごう)に破壊(はえ)しないのでありますが

「念(こころ)のレンズ」を透過して現象せる世界は
刻々に無常破壊するがゆえに、
自我偈(じがげ)は続いて曰(い)っている
而(しか)も衆(しゅう)は焼け尽きて
憂怖(うふ)諸(もろもろ)の苦悩、
是(かく)の如き悉(ことごと)く充満せりと見る」と。》
(同書 71.72頁)

《 生長の家の「光明一元の世界観」が
多くの人々に理会され難(がた)いのは、
多くの人が「現象宇宙」と「実在宇宙」とを
混淆(こんこう)し、

釈迦が「久遠常在の霊鷲山(りょうじゅせん)」
(実在界)を説いているのに衆生は
「久遠常在の霊鷲山」を見ることをえずして、
「焼け尽きて憂怖(うふ)諸(もろもろ)の苦悩こ
とごとく充満せる現象世界」を見、

この世界は「苦悩ことごとく充満せり」と
見ているのです。》(同書 73頁)

《 しかも「物質なし、肉体なし」と否定しきったとき、
その否定の妙用(みょうよう)として自然に
現世利益(りやく)の整うのは、

あなたが「御旨(みむね)ならばと委(まか)せきったとき」
自然に病癒(い)え、金光(こんこう)教組が
「ままよと委(まか)せきったとき」
現世利益(げんぜりやく)が整うと言われたのと同様、
現象世界に引っかからなくなると同時に実在世界の
「明有(みょうう)」の自然的発現(はつげん)があり、
実在世界は妙(たえ)なる妙々(みょうみょう)の
完全円満祥福(しょうふく)の世界であるゆえ、
それが発展してくるのであります。》
(同書 74頁)


 それ誰(たれ)にても有(も)てる人は
与えられて愈々(いよいよ)豊かにならん。
然(さ)れど有(も)たぬ人は、その有てる物をも取らるべし。
(「マタイ伝」第十三章十二)

「もてる人」というのは、
「すでにもてることを自覚せる人」の謂(いい)であります。
人間には「すでにもてる無尽蔵(むじんぞう)のもの」
がある。

「自性円満(じしょうえんまん)」と
表現(かきあらわ)されているのであります。

仏教では「本来清浄(しょうじょう)」とも、
「一切衆生悉有(しつう)仏性(ぶっしょう)」とも、
「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」とも申すのであります。

一切衆生悉有仏性と申しますのは、
すべて人間、生きとし
生けるものは、悉(ことごと)く仏の

その仏の本性は本来清浄、きよらかであり、
それを自性円満と申します。
自性すなわちそれみずからの本性が円満完全で
あるから、病気になりようがない。

にもかかわらず、それを自覚しない、
それを聖書では、「もたぬ人」と書かれているのです。》 
(同書 78.79頁)

《 だから「神の子」なる生命を顕(あら)わすためには、
まず肉体を否定しなければならない。

イエスの十字架は肉体否定の最後の段階であります。
『法華経(ほけきょう)』の薬王菩薩本事品(や
おうぼさつほんじほん)にも
一切衆生喜見菩薩(いっさいしゅじょうきけんぼさつ)
肉体を否定して、これに火を点じて焼き尽くした後に
金剛不壊(こんごうふえ)の黄金の身を生じたとあるのは
肉体否定の最期の段階を通して、
人間が永遠の生命を獲得するとの真理を神話化して
物語られたものであります。》
(同書 84頁)

《 人間が病気であるのは、人間自身が神と和解して
いないからであります。》
(同書 89頁)

《 無心にならなければ、本当の生命のはたらきはない。
この幼児(おさなご)の心は一点の曇りもないから、
天地の心、神の心に通ずるのであります。

神に和解する心、天地に和解する心、
いっさいのものに和解する心になったとき、
天地一切のものは自分の味方(みかた)であり、
自分を傷つけることができない。

生命がそのままに躍動し、健康が成就し、
家運(かうん)が栄えるのであります。》
(同書 94頁)

《 それは心境が具象化した「結果』であって
「原因』は心の姿にあるのである。見られる世界は
、観(み)る人の心の姿であるという哲学は、
ただの哲学ではなく実践(じっせん)できる哲学なのです。
原理は一つであり、真理は共通する。

見える姿がどんなにあろうとも
神の創造(つく)り給える世界と人間との
完全を疑(うたが)うな。
それのみが実在だ。

実在は常に完全円満なのである。
実在とは「見える」ということではない。
実在とは「真にある」ということである。

実在とは神の創造内容だ。
そしてそれは常に完全なのであります。》
同書 110頁)

《 人間成仏(じょうぶつ)の思想は
大乗(だいじょう)仏教の根本思想であります。

人間がもし成仏しないものならば仏教というものは
成り立ちません。仏教というものは「仏の教え」である
という意味をもっていると同時に
それを聞いて人間が「仏に成る教え」あるいは
仏の教えのとおり実践して人間が仏に成る
ーその「仏に成ることを教える教え」だという
意味を持っているのであります
人間成仏教でなければならないのであります
(同書 153頁)

《 しかしなぜ、
人間が即身(そくしん)そのままで仏になること
が可能であるかといえば、
人間がその本質において仏であるというほかに
解決の道はない。

成仏はこれから成る仏ではなくて
巳成(いじょう)の仏である。巳(すで)に成れる仏が、
ただ観と、念との作用により現実化するのです。》
(同書 189頁)

《 次に掲ぐる浄円月の
十大願(たいがん)
毎日聖經読誦(とくじゅ)の後または、
神想観実修の
自己の潜在意識に、月の円満なる実相を
印象(いんしょう)せられますならば、
自己の雰囲気が浄化されて円満となり、
人生に処しても何事も都合よく行くようになるので
あります。

浄円月の十大願

一、月の円満なるがごとく自心も
闕(か)くることなし。われ万徳(ばんとく)を
具足(ぐそく)し、一切種智(しゅうち)を成就せん。

二、月の潔白なるがごとく自心も浄白(じょうはく)なり、
われ自性浄白にして性徳(しょうとく)円満なることを
実現せん。

三、月の清浄(しょうじょう)なるがごとく自心も
無垢(むく)なり。われ月のごとく自性清浄にして
本(もと)より貧染(どんぜん)なからんことを期(き)す。

四、月の清涼(しょうりょう)なるがごとく
自心も熱を離れたり。われ慈悲の水を
灌(そそ)いで、瞋恚(しんい:
いかり)の火を消さん。

五.月の明照(みょうしょう)なるがごとく、自心も照朗
(しょうろう)なり、われ本(もと)より無明を離れて
光明遍(あまね)く照らす。

六.月の独一(どくいつ)なるがごとく、
自心も独尊(どくそん)なり。
われ諸仏(しょぶつ)の尊ぶところ
万法(ばんぽう)の帰(き)するところなり。

七.月の円満なるがごとく、
自心も偏(かたより)を離れたり。
われ常に中道を極めて永く
辺執(へんしつ)を超えんと欲す。

八.月の遅からざるがごとく自心も
速疾(そくしつ)なり。われ秘密の輪を転じて
刹那(せつな)に惑(わく)を断(た)ち心を浄(じょう)
遊ばしめん。

九.月の巡転(じゅんてん)
われ正法(しょうぼう)の輪を転じて邪迷(じゃめい)の
闇を破(は)せん。

十.月の遍(あまね)く現(げん)ずるがごとく、
自心も遍(あまね)く靜かなり。われ一体(いったい)
分(わ)かずして九界の前に現じ多身(たしん)を
仮(か)らずして十方(じっぽう)の土に臨(のぞ)み
一切苦厄(くやく)ある者の暗(やみ)を照らさん。》
(弘法大師の阿字(あじ)円月観の説明の
円月の十大功徳(くどく)による)
(同書 205.206頁)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
志恩ー
大変長文ですので、まるで小冊子のようですが、
中身の濃いご文章でしたので、そのまま掲載させて
いただきました。

邂逅(かいこう) (64242)
日時:2024年04月02日 (火) 17時10分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。
いろいろな諸事情で投稿が疎かになってしまい
申し訳ありません。

☆: 真理

《 わたしが割合に社会のことでも学問のことでも
いろいろのことをよく知っているのは、
わたしは今まで非常に苦労艱難(かんなん)の
ほとんど時間的余裕のない生活を送って来たにもかかわらず、
人が新聞などに時間を空費(くうひ)している間に
纏(まと)まった本を読んだからであります。
「朝の時間は黄金、昼の時間は銀、
夜の時間は銅」という諺(ことわざ)がありますが、
この黄金の時間である朝の時間に
新聞を読まないでわたしは纏まった本を
読んだのであります。
そして三十年間読み漁(あさ)った
幾十万の本の中からそのエッセンスを
わたしは『生命の實相』に凝縮(ぎょうしゅく)
したのです。
わたしの『生命の實相』全巻をお読みになることは、
三十年間かからないと読めない本の精髄(せいずい)を
わずか一年くらいで知ってしまうことであって、
非常に時間の経済であります。
皆さんは新聞を読んだら知識を広く求められると
思っておられるかもしれぬけれども、
新聞雑誌は雑駁(ざっぱく)な浅はかな、
深みのない不確実なバラバラな知識を
与えるだけであって、人間の心を雑駁にして
しまうのであります。》
(『生命の實相』頭注版 第16巻 198頁)

■:  体験

23歳の時、ある修道院の悲惨な事件の深層に迫ろうとして、
小説を書く事を思い立ち、5年間教会に通い、
公共要理を学び、聖書を読んで、28歳で小説を書きあげたが、
中途半端なものしか表現できなかった。

48歳で生長の家にたどり着かせていただいた。

そして『生命の實相』と出会い、
69歳の時、2年で
2冊の小説を書き上げた。
キリスト教篇、佛教篇と位置つけているが、
まさに『生命の實相』が根底にある為、停滞する事なく、
書き上げることが出来た。
『生命の實相』は知識の宝庫であり、智慧の宝庫であり
実践で生きる為の燈台であることが、、実感出来た。
この邂逅(かいこう)に深く感謝いたします。

ありがとうございます。


はうらひとひら様 (64292)
日時:2024年04月04日 (木) 02時31分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)
邂逅(かいこう)
(意味:めぐりあい。
思いがけなく出会うこと。)
>☆: 真理

《 わたしが割合に社会のことでも学問のことでも
いろいろのことをよく知っているのは、
わたしは今まで非常に苦労艱難(かんなん)の
ほとんど時間的余裕のない生活を送って来たにもかかわらず、
人が新聞などに時間を空費(くうひ)している間に
纏(まと)まった本を読んだからであります。
「朝の時間は黄金、昼の時間は銀、
夜の時間は銅」という諺(ことわざ)がありますが、
この黄金の時間である朝の時間に
新聞を読まないでわたしは纏まった本を
読んだのであります。
そして三十年間読み漁(あさ)った
幾十万の本の中からそのエッセンスを
わたしは『生命の實相』に凝縮(ぎょうしゅく)
したのです。
わたしの『生命の實相』全巻をお読みになることは、
三十年間かからないと読めない本の精髄(せいずい)を
わずか一年くらいで知ってしまうことであって、
非常に時間の経済であります。
皆さんは新聞を読んだら知識を広く求められると
思っておられるかもしれぬけれども、
新聞雑誌は雑駁(ざっぱく)な浅はかな、
深みのない不確実なバラバラな知識を
与えるだけであって、人間の心を雑駁にして
しまうのであります。》
(『生命の實相』頭注版 第16巻 198頁)

■:  体験

23歳の時、ある修道院の悲惨な事件の深層に迫ろうとして、
小説を書く事を思い立ち、5年間教会に通い、
公共要理を学び、聖書を読んで、28歳で小説を書きあげたが、
中途半端なものしか表現できなかった。

48歳で生長の家にたどり着かせていただいた。

そして『生命の實相』と出会い、
69歳の時、2年で
2冊の小説を書き上げた。
キリスト教篇、佛教篇と位置つけているが、
まさに『生命の實相』が根底にある為、停滞する事なく、
書き上げることが出来た。
『生命の實相』は知識の宝庫であり、智慧の宝庫であり
実践で生きる為の燈台であることが、、実感出来た。
この邂逅(かいこう)に深く感謝いたします。<

志恩ー
私は、はうら様の2冊の小説を読ませていただきましたが、
それは大変格調高い内容で、生命の實相にかいてあります
ことが、よく理解できる内容でもあり、おいくつの時に
書かれたのかしらと思っておりましたが、69歳の時に
書かれたのでしたか。
それから、はうら様宅で毎月開催されている誌友会の
4月20日、のお知らせと、その時の、資料も、私にまで
お送りくださいました、ありがとうございました。
はうら様は、地方講師でいらっしゃるそうですが、今も
まだ出講停止のままなのだそうです。早く解かれると
いいですね。

はうらひとひらさんへ (64297)
日時:2024年04月04日 (木) 09時31分
名前:本音の時代

『ZOOM実相ひかり誌友会』に参加するためには、どうすればよいのでしょうか。
よろしくお願いいたします。

 (64302)
日時:2024年04月04日 (木) 10時06分
名前:*

名前:本音の時代

『ZOOM実相ひかり誌友会』に参加するためには、どうすればよいのでしょうか。
よろしくお願いいたします。



メールのアドレス出てるのだから直接メールしたら

死ね、生きる (64566)
日時:2024年04月14日 (日) 14時26分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。

自我の人間知恵ではどうにもならない事があります。
この時もそうでした。

☆: 真理

《 わたしがこの人に対して与えた答えは
なんだったと思います。
「死ね、生きる』という言葉だったのです。
この言葉が出たのはわたし自身が死んだ上で
浮かび上がってきた生き方をしているからです。》
(『生命の實相』頭注版 第15巻 133頁)

■:  体験

昨年5月24日に帰幽された先達は
多くの宿題を残して下さった。
どれも大変重いものであるが、
霊界ですでにそれらは完成されているというので、
後を引き継ぐものは、ただそれを継承すればよいので、
これ程楽な事はない。

その一つに2つのコンテンツの維持管理がある。
一つはご家族の方が、情報を調べて下さっていたので、
わりと順調に継続ができた。
もう一つはログインIDや
パスワードなど皆目わからなかった。

暑い夏の日、ソフトのプロが3名、次々と
休日ごとに先達宅を訪れ、挑戦したが、
全く情報は不明であった。
コンテンツ関連のご家族にはすでに、
継続の了承を得ていたので
どうしてもそれを継続させることは必要であった。
有効期限は2023/11/30であった。
刻々として有効期限は迫っていた。
11月に入っても全く解決策が見いだせずにいた。
このコンテンツを瞬時に消える事だけは、
絶対にあってはならないが、それが出来ない。
このコンテンツによって多くの方が
癒されていた事を思うと、
暗澹(あんたん)たるものがあった。

私は覚悟を決めた。

48歳の時、医者から余命1ヶ月といわれ、
兄弟が喪服の用意までしたが、
実相哲学によって肉体の崩壊が取り除かれ
これまで生かされてきたが、
その生長の家から去ろうとしたのである。
それほど追い詰められていた。
誌友会への支援金などはすべて、
感謝としてその先達のご家族に持参した。
身辺を出来るだけ整理した。
有効期限は静かに、迫っていた。
ただ感謝の気持ちと、心を真空の状態にして
その日を迎えようとしていた。

2023年10月29日夜、23時59分 
日付けが替わろうとするその時
ある方から一通のメールがあった。
そこには、あれ程不明だった、
コンテンツ管理の為のログインID.
パスワードなどが記載されていた。
消滅寸前で、継続が出来た。

お蔭様でいまだに、生長の家の会員をさせていただいている。
霊界からのご支援があった事は難くない。
心を空(くう)にすると、
その時その空を埋める為に
どのようなものが入り込むかは、
その時のその人の心の状態によると思う。
全托とはそのような心が神に向かっている状態
なのかも知れないと、思った次第である。
死に切るのは、やはり難しいが、
何度かは、経験しているので、常にそうありたいとは思うが・・・・

自我がすぐに顔を出す。

「死ね、生きる」峻厳(しゅんげん)なお言葉である。

ありがとうございます。






はうらひとひら様 (64571)
日時:2024年04月14日 (日) 21時31分
名前:志恩

はうらひとひら様ー

>【死ね、生きる 】(今回のはうら様のテーマ)

自我の人間知恵ではどうにもならない事があります。
この時もそうでした。

☆: 真理
《 わたしがこの人に対して与えた答えは
なんだったと思います。
「死ね、生きる』という言葉だったのです。
この言葉が出たのはわたし自身が死んだ上で
浮かび上がってきた生き方をしているからです。》
(『生命の實相』頭注版 第15巻 133頁)<

志恩ー
自我を死に切る、という意味でしょうね。
本当にその通りだと存じます。
私も、まだまだ日々楽しく学びの連続です。


■:(はうら様の )体験

>昨年5月24日に帰幽された先達は
多くの宿題を残して下さった。
どれも大変重いものであるが、
霊界ですでにそれらは完成されているというので、
後を引き継ぐものは、ただそれを継承すればよいので、
これ程楽な事はない。

その一つに2つのコンテンツの維持管理がある。
一つはご家族の方が、情報を調べて下さっていたので、
わりと順調に継続ができた。
もう一つはログインIDや
パスワードなど皆目わからなかった。

暑い夏の日、ソフトのプロが3名、次々と
休日ごとに先達宅を訪れ、挑戦したが、
全く情報は不明であった。
コンテンツ関連のご家族にはすでに、
継続の了承を得ていたので
どうしてもそれを継続させることは必要であった。
有効期限は2023/11/30であった。
刻々として有効期限は迫っていた。
11月に入っても全く解決策が見いだせずにいた。
このコンテンツを瞬時に消える事だけは、
絶対にあってはならないが、それが出来ない。
このコンテンツによって多くの方が
癒されていた事を思うと、
暗澹(あんたん)たるものがあった。

私は覚悟を決めた。

48歳の時、医者から余命1ヶ月といわれ、
兄弟が喪服の用意までしたが、
実相哲学によって肉体の崩壊が取り除かれ
これまで生かされてきたが、
その生長の家から去ろうとしたのである。
それほど追い詰められていた。
誌友会への支援金などはすべて、
感謝としてその先達のご家族に持参した。
身辺を出来るだけ整理した。
有効期限は静かに、迫っていた。
ただ感謝の気持ちと、心を真空の状態にして
その日を迎えようとしていた。

2023年10月29日夜、23時59分 
日付けが替わろうとするその時
ある方から一通のメールがあった。
そこには、あれ程不明だった、
コンテンツ管理の為のログインID.
パスワードなどが記載されていた。
消滅寸前で、継続が出来た。

お蔭様でいまだに、生長の家の会員をさせていただいている。
霊界からのご支援があった事は難くない。
心を空(くう)にすると、
その時その空を埋める為に
どのようなものが入り込むかは、
その時のその人の心の状態によると思う。
全托とはそのような心が神に向かっている状態
なのかも知れないと、思った次第である。
死に切るのは、やはり難しいが、
何度かは、経験しているので、常にそうありたいとは思うが・・・・

自我がすぐに顔を出す。
「死ね、生きる」峻厳(しゅんげん)なお言葉である。<


志恩ー
はうら様が、
「死ね、生きる」、のご自身の体験談を書いてくださいました。
それも、過去の体験談でなく、最近の貴重な体験を書いて
くださいまして、
ありがとうございます。
谷口雅春先生の教えの真理が、今も生き生きと輝いている
ことがよくわかりまして、いつも大変うれしく学ばさせて
いただいております。合掌

無限供給 (64694)
日時:2024年04月21日 (日) 16時13分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。
投稿文【63043】縦と横の事でありますが、
先達の『遺稿集』が縦書きのタイトルにして、
世に出せることになりました。

☆: 真理

《 【天の倉に福田を積むこと】

だから吾々が富をもとめるには
先ず霊的に富を求めなければならぬ訳であります。
霊的に富を求めるにはどうするかというと、
矢張(やっぱ)りそこには
「与えよさらば与えられん」の法則が働く訳であります。
先ず吾々は他の人に対して
愛念を与えなければならないのであります。
そして人の為になるところの愛行をしてあげる
というのでなければならないのであります。
すべて此の世界は与えれば与え返されるという
“業(ごう)の循環”の世界であります。

即ち「動、反動の法則」のはたらく世界であります。
与えただけのものが与え返されるのであって、
それは恰(あたか)も銀行預金のようなものであります。》
(『無限供給の扉を開く』107.108頁)


■: 体験

知人で優秀なIT技術者である
方から連絡があった。
「その遺稿集をいただきたいのですが、
少し前の月も失業し、4月も失業なので、
支援したくても、出来ない状態です。」
私は次のように連絡した。
「勿論先達とご縁のある方ですから、
お分けさせていただきます。
失職中との事で、お察しします。
ところで、生長の家の哲学は、
出せば入ってくるのです。
なぜなら、この世は無限供給の世界だからです。」
暫くして、その方からご支援金が送られてきた。
そしてその2日後その方から
「オープンAIのWEBの展開への開発委託を受注し
今日から作業を開始しています。」との事。

 その方はフリーランスなので。
その仕事はお一人でやられるのであろう。
最先端の技術をしかも、
出したらすぐに入ってくる。
凄い世界。
実相哲学の証明である。
如意宝珠(にょいほうじゅ)、
鹽 乾珠(しおひるのたま)・潮盈珠(しおみつのたま)の世界(『古事記と現代の預言』155.156頁)
であります。

真理は理解し実践し証明して完結します。

ありがとうございます。





はうらひとひら様 (64705)
日時:2024年04月22日 (月) 04時25分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)
【無限供給 】
>投稿文【63043】縦と横の事でありますが、
先達の『遺稿集』が縦書きのタイトルにして、
世に出せることになりました。<

志恩ー
>先達の『遺稿集』が縦書きのタイトルにして、
世に出せることになりました。<

というなにげないお言葉ですが、最近の著書の
表紙のタイトルは、だいたいが横書きなのですよね。
縦書きのタイトルの表紙は、珍しいのです。
その中で、この『遺稿集』の表紙のタイトルは縦書きにする、
という凛とした思い入れがおありになったのだと存じます。


(はうらひとひら様ー)

>☆: 真理

《 【天の倉に福田を積むこと】

だから吾々が富をもとめるには
先ず霊的に富を求めなければならぬ訳であります。
霊的に富を求めるにはどうするかというと、
矢張(やっぱ)りそこには
「与えよさらば与えられん」の法則が働く訳であります。
先ず吾々は他の人に対して
愛念を与えなければならないのであります。
そして人の為になるところの愛行をしてあげる
というのでなければならないのであります。
すべて此の世界は与えれば与え返されるという
“業(ごう)の循環”の世界であります。

即ち「動、反動の法則」のはたらく世界であります。
与えただけのものが与え返されるのであって、
それは恰(あたか)も銀行預金のようなものであります。》
(『無限供給の扉を開く』107.108頁)


■: 体験

知人で優秀なIT技術者である
方から連絡があった。
「その遺稿集をいただきたいのですが、
少し前の月も失業し、4月も失業なので、
支援したくても、出来ない状態です。」
私は次のように連絡した。
「勿論先達とご縁のある方ですから、
お分けさせていただきます。
失職中との事で、お察しします。
ところで、生長の家の哲学は、
出せば入ってくるのです。
なぜなら、この世は無限供給の世界だからです。」
暫くして、その方からご支援金が送られてきた。
そしてその2日後その方から
「オープンAIのWEBの展開への開発委託を受注し
今日から作業を開始しています。」との事。

 その方はフリーランスなので。
その仕事はお一人でやられるのであろう。
最先端の技術をしかも、
出したらすぐに入ってくる。
凄い世界。
実相哲学の証明である。
如意宝珠(にょいほうじゅ)、
鹽 乾珠(しおひるのたま)・潮盈珠(しおみつのたま)の
世界(『古事記と現代の預言』155.156頁)
であります。

真理は理解し実践し証明して完結します。<

志恩ー
私の一番好きな神想観、「如意宝珠観」であります。

まさに「真理は理解し実践し証明して完結します」

その通りだと存じます。

はうら様は、24時間、個人指導にも対応されて
おられますお方でいらして、とにかく、真理の
素晴らしい愛の実践者でいらっしゃいますから
今でも、身近に奇跡という現象が、現れ続けて
いるのだと存じます。
心から尊敬しています。
ありがとうございます。



はうらひとひら様 (64707)
日時:2024年04月22日 (月) 05時11分
名前:志恩

はうら様

はうら様宅で開催された
4月20日開催の『ZOOM実相ひかり誌友会』メモを
お送りくださいまして、誠にありがとうございました。

大変素晴らしい内容ですので、トキ掲示板へ
転載させていただきます。

これだけの長文を、キーボードで打たれる愛念の
深さに感動いたしております。

参加者のお名前は、個人情報保護のため、ABCDE..
にかえまして、載せさせていただきました。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
4月20日開催の『ZOOM実相ひかり誌友会』メモ
(文責はうら)
日時:令和6年4月20日 午後1時半より約2時間

・出席者(敬称略、50音順)
・ はうらひとひら  ・A  ・B

(メール・書簡、電話等にての参加者)
(誌友さん関係の近況等)
・C ・D ・E
・F ・G・H
・I  ・J ・K
・L

・近況及びケーススタディ(薬物から離れられない
個人相談についてのアドバイス。実相顕現の実際)
『生命の實相』第40巻の感銘したご文章の拝読。

■  A

折角の人生です。楽しみながら、学ばせていただいて
います。
知識だけでなくて、それをどう生きるかを考えて
行動したいと念願しています。
アドバイスは、時間をかけて、その方に寄り添って
辛い思いを共有しながら、真理を伝えていけたらと
思います。

■   B

親類で、数奇な環境を乗り越えて明るく生き、この度
余命数ヶ月といわれたが、神癒祈願によって再生し、
夫婦ともに従前のような日常が出来るようになった。
寿命があれば、生かされて生きている事が感得出来ました。

息子が、この度東京芸術大学に合格し入学した。
アルバイトをして通信大学で教員資格を取得している
ので、4年制のところ2年で卒業出来る。
今月のテキスト152頁に「入学試験を受ける、入学
したいというよりも、生長の家では、もう入学して
いる」のご教示が実現している。
新しい環境がその人の想念、感情によって
実現していく。生きている限り楽しい事が沢山ある。
常に魂の訓練である。

ケーススタディは、自分では何もできない。
神に導かれて、あるがままにお任せという心境に
なった時、道は拓けると思います。
感謝の心が癒して解決してくれる。

囗: 今月のテキスト『生命の實相』第40巻で感動
した所

・令和2年1月から誌友会のテキストを『生命の實相』にて
学ばせていただいてきました。
途中感染症騒動があり、オンライン形式にしたり、
岡先生の帰幽などいろいろありましたが、一通り
40巻に到達することが出来ました。
次回はその纏めとしての『生命の實相』をおさらい
したいと思っております。

『生命の實相』に学ぶ 徳久克己著
245頁には
「『生命の實相』は、読めば読むほど、新しい真理を、
私たちに教えてくれる、永遠に人類を救う、
神が谷口先生をとおして書きしるされた
「聖なる書」であります。」
とあります。

・(はうら:編集 謹写)

《 なぜなら本書は育児や出産の問題を扱っている
けれども、根本的に人間を解放する真理を説いて
いるのであるからである。》
(『生命の實相』第40巻はしがき3頁)

《 【神は各自のうちに】
神が各自のうちに生きているということは、
神が各自のうちに生きていて、そして常に
導いていられることである。
導いていられると言えば、導く者と導かれる
者とが対立しているように感じられるのである
けれども、そういう意味ではなく、神が各自の
うちに生活を行(ぎょう)じていられるのである。
何か別のところにいてわれわれを導いていられる
のであれば、方向をまちがえたりするかも
しれないけれども、
神は各自の中にいてそのまま生活を行(ぎょう)じ
ておられるのである。
われわれはその神の行(おこ)ないの中に溶け込んで
しまえば、そこはただ善のみの世界である。

「私」は生きているのではない、神が生きているので
あると知ることである。
中から出て来る善の囁(ささや)きに無条件に従う
ことである。
「かく為(な)せ」との囁きを時々われわれは、
その囁きに無条件で従わないで、自分の都合のよい
ことをすることがある。
「神の導き」は毎日誰にでもあるのに従わない人が
多いのである。
常に「善を為(な)せ」との囁きを聞きながら、
それを無視する習慣性がついた場合は、まったく
その人は神の囁きに対して聾(つんぼ)となる。
かかる人はいつ危険が身に迫ってもそれを感ずる
ことができないのである。》
(同書 2頁)

《 恐怖心が一番いけないのです。
人生の不幸の大部分は恐怖心で起こります。

犠牲がなければ幸福になれないというような世界観は、
生長の家出現以前の世界観であります。
生長の家が出現して以来、本当に正しい
「神一元」「幸福一元」の人生観に目覚めたら
犠牲の必要なしに人生は幸福でありうることが
明らかになったのであります。》
(同書 13.15.16頁)

《 神は聖(とうと)く高く神聖なものである。
その聖く高きものを人間界に表現するように
導くのが教育なのであります。

人間の働きの中に神があることを知らねばならないのです。
われわれが深切(しんせつ)をする行いの中に、
あたりまえのことがあたりまえにできる愛のハタラキの中に、
すべての物事がありがたいと感じられる感謝の中に、
そこに神が現われているのです。》
(同書 18頁)

《 『古事記』にある伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と
伊邪那美命(いざなみのみこと)との二柱(ふたはしら)
の結びというのが天地の法則であって、決して陰陽の結合は、
神から見て穢(けが)れているものではない。
陽は能動的で陰は受動的である。

この神の創り給うた世界にあるものに汚(きた)ないもの
は一つもない。皆浄(きよ)らかなものであります。

まず自分が浄まることが必要であります。
自分が浄まるというのは自分の「我(が)」がなくなる
ことであります。》
(同書 22.24.25頁)

《 拝(おが)み合うというのは気兼ねするような考え
があってはいけないので、相手を愛の神様と思って
拝まなければならないのです。

生長の家の生き方は有限実行であります。》
(同書 32、36頁)

《 感謝はいっさいの薬剤の力に賦活(ふかつ)する
超万能薬ですから、感謝の念を忘れたときには効(き)く
べき薬も効かないことになります。》
(同書 44頁)

《 何よりも切実に求めることが大切です。
至心(ししん)をもって、一所懸命の心をもって
求めた時には何事といえども成らざることはないのです。
ただわれわれが至心をもって、全身全霊の誠をもって
求める心の乏(とぼ)しきことを悲しまなければ
ならないのです。
神様の与えることが少ないのではない。
われわれの求める心の切実でないということを
悲しまなければならないのであります。
本当に至心をもって求むれば、何事といえども
成就しないものはないのであります。》
(同書 71頁)

《 観相学が成り立つ根本原理は
三界は唯心の所現、
肉体は心の影、
環境は心の影、
運命は心の影、
形態は心の影、
顔はその人とその住む世界を代表す、
顔の中心部位たる鼻は宇宙または環境の
中心たる自己をあらわす。

人の人相はその人の過去の念の集積(業)
が形に現れたものでありますから、》
(同書 88、96頁)

《 われわれは体裁(ていさい)ばる心を捨てな
ければ本当に健康にも幸福にもなれないのです。
体裁ばる心を捨てて、体裁ばらぬ心にならねば
ならぬのです。
体裁ばらぬ心というのは、言い換えると率直(すなお)
な心、ありのままの心、そのまま放り出す心です。
悪いことがあれば正直(しょうじき)に悪うござい
ましたと謝れる心です。
教えを受けたならば正直に、その人に先生と言える
心です。》
(同書 105頁)

《 常に「われすでに幸福なり、幸福のほかなし」
と莞爾(にっこり)として微笑しておられましたら必ず
運命が好転してまいります。

どんな悪いことが来ても「よいことが来るぞ」と
常に言っておれば必ずよいことが人生に実際に
やってくるのであります。》
(同書 110.111頁)

《 生長の家では「そのまま」という振り仮名(かな)
を「実相」という漢字の横に付けまして、実相そのまま、
真如(しんにょ)そのままという意に解しますと、
深い真理が出て来るのです。

「そのまま率直(すなお)にありがたく」「そのまま」
を受けるところにいっさいが成就する。

「今われ五官の世界を去って実相の世界に坐(すわ)
っている」かく感じまして、実相の世界のすでに
そのまま完全なる智慧と愛と生命と供給とに充ち満ち
ているところの実相世界(そのままのせかい)にいる
のだと観じます。その実相の世界が「実相(そのまま)
の世界」なのであります。
このそのままを観(み)る目をもって、ありとあらゆる
ものを視ようといたしますと、いたずらっ子も神の子に
見え、病人も健康に見える。
戦争ありといえども、すでに、天照大御神
(あまてらすおおみかみ)のみすまるの光に
照らされたる輝く神の国と見える。
仏教に娑婆即寂光土(しゃばそくじゃっこうど)という
ありがたい言葉がありますが、争いの世界さながらに、
そのままにそこに争いのないところの完全な光明遍照
(こうみょうへんじょう)の世界を見ることが
できることになるのであります。
そうすると心が鏡のように澄(す)み透(とお)って
まいりまして、波立ち騒がないようになってまいります。
すると、この世界は唯心所現の世界であるとお釈迦様が
言われ、キリストが「汝の信ずるごとく汝にまで
なれ」とこうおっしゃったと同じように、われわれの
信ずるごとく、感ずるごとく、観るごとく、その世界が
現れてまいりまして、本当にこの世界がそのままの世界、
神が造り給うたままの完全な世界がわれわれの周囲に
展開してくるのであります。

逃げようとしないで、そのまま率直(すなお)に
ありがたく受けるー この苦しみによって自分の過去の
業が消えると、そのまま率直にありがたく受けさせて
いただくのであります。
なんでも逃げ出そうという心がなければ恐ろしいという
ことがなくなるのであります。
われわれは逃げ出そうと思うから恐ろしい。

この苦しみは業の砕(くだ)けてゆくところのありがたい
相(すがた)である。やがて業が砕けた後には
光明の世界が来る。暗(やみ)はアルように見えても
本当は無い。光明だけが本当にあるのだから、偽存在
(にせもの)が砕けたら光明が出て来るしか仕方が
ないのだ」という意味で「アアありがたい。
今病気が出ているのはー あるいは苦しみが出ている
のはー 偽存在が砕けてやがて光明が出てくるのである。
ありがたい」と受けるのは率直に実相を受けて、本当にある
光明を予想し光明を心に描くのでありますから、心に
描くとおりに現われるという唯心所現の法則によって
この世界には光明世界が現実に現われて来ることに
なるのであります。》
(同書 124.125.128、131頁)

《 要するに神は悪(あ)しきもの、病気や苦しみを
造り給わないし、また人間がかくのごとき悪しき
状態に陥(おちい)ることを望み給う結果われわれに
苦難が顕れてくるのではなく、ただ業(ごう)の自壊作用
なのですから、そのままじっと率直に受けておれば、
悪しきことは本来ないのですから、ただ波として一時
あらわれているだけなのですからやがて消えてしまう
ほかはないのです。
悪というものはたとえば風のようなものである。
風というものは、(外に風が吹いて樹木の揺れるの
を見て)あんなに風が吹いて、あんなに樹木を
動かしている、だから皆さんは風があるのだという。
しかしわたしは風はないという。

吹いている時にあるように見えているのですが
実体はない。

常に変わってしまうのです。この変わるスガタ、無常のもの、
非実在(うそ)のものが心なのです。
そういう心はない心である。

風を箱詰にしたら消えるのは次の風を断(た)つ
からです。
今吹いている風は、それが内部に潜在(せんざい)
させているエネルギーだけの分の風が吹いてしまえば
消えるほかはない。
そのままおいて次を新たに作らねば業はこの風のように
消える。業も風も波の一種である。

われわれの過去の業も、われわれの生活に悩みがあらわれ、
病気があらわれ、不幸があらわれている時こそ、
業の潜在エネルギーが消えつつある時ですから、
われわれは、そのまま受けつつ、それから逃げ出そうと、
踠(もが)き、悩み、不平に思いさえしなかったら、
それらのものはみなやがて消えてしまうのです。

根本原理は、率直(すなお)な心は万物を癒(いや)す、
率直の心のところには争いというものがない。
率直が破れた時はじめて歪(ゆが)んだものが出て来たり、
捻(ねじ)けたものが出て来たりするのであって、
率直の中には一切万物が備(そな)わっているということ
であります。
では、率直ということを根本的にいかにしたら把握(はあく)
することができるかといいますと、すべて実在の世界には
わるいものはないのだというー この大自覚(だいじかく)
です。

火事は消さなければならない。
その消すことに熱心になるのが最善の手段を講(こう)ずる
ことになるのでありますが、火事を憎(にく)んだり、
腹立てたりする必要はない。
それは自分の魂(たましい)の浄化のために解決すべき
課題として与えられたものとしてそれを率直に受けて、
最も平和な明智(めいち)ある心をもって処置して
ゆけばよいのです。》
(同書 133.134.135.137.140.145頁)

《 実相を観る心というのは、苦難も、病気も
悩みも、それが現れて来ても認めない、常住光明を
諦視(ていし)して動揺しない不動の精神であります。
実相を観る心は人が「死」と思っているものの中にも
生を見るのです。月がかけて見えるときにも、
実に月にはかける性質なく常に円満完全な円(まる)
さであるという真実を知って動揺しない精神であります。

昔から日本精神に色々の解説がありますが、
私はこの「死なぬ」精神、久遠精神、いつまでも
滅びない精神、久遠から今に栄えているところの
精神、これが本当の日本精神であると思っております。
久遠皇位(こうい)、万世不易(ばんせいふえき)、
天壌無窮(てんじょうむきゅう)ー いずれもこの
久遠精神の直観把握(ちょっかんはあく)としての
叙述(じょじゅつ)であり、理想であります。
しかもそれは一度死んでそうして、その死んだ
境地を通って来たところの「死なぬ」久遠精神で
なければならないのであります。

生長の家式に言い換えると、一度「肉体なし」の自覚に
立ってからの不死の自覚であります。

「生きようなどと思うな、死んでよいという気になりなさい!」
こういう喝(かつ)によって本当にその人に活力が出て
病気が治るということにもなります。》
(同書 147.153頁)

【 メール等にて参加、誌友さんの近況等】

■  I  (メールにて)                                     

合掌 「ひかりのお便り」4月号のお題は

聖経『甘露の法雨』です。

最近、聖経読誦三昧の日を過ごしました。

聖経『續々甘露の法雨』も読誦したのですが、

冒頭が或る日、<再び>天使「生長の家」に来りて

歌い給う≠ナあることに注目しました。

これは、『甘露の法雨』と『天使の言葉』が実際には一

続きに啓示されたものによるのだと思います。

天使様が『續々甘露の法雨』を歌うのは

これで二度目であるというように解釈しました。



さて、4月度誌友会のテキストが『生命の實相』

第40巻と告知されていますので、読後感想等を次の

ように投稿させていただきます。                             



@『生命の實相』家庭教育篇を拝読して 

第一章

p14  お伽噺を読むときには、

誰しもそういう継母にはなりたくないと思うのですが、

そういう継母が心に描かれておりますかぎり

自分が継母になった時に自己の最も嫌悪した

継母を実演することになります。

これが言葉の力、念の集積の力−

仏教でいう業の催しというものであります



−大聖師がご指摘されるようなことがありますので、

私は極力ドラマなどは見ないことにしてます。



第二章

p36  心で愛しておりましても、

言葉で愛し、形でも愛しなければ効果がないのであります。

生長の家の生き方は有言実行であります

−実行してみれば実感するところです。



第三章

p42  物質そのものに力はなく分量に力があるのです。

そこでその分量とは何ぞやというとこれは

人間の頭脳の作用である

。頭脳の作用というと物質の作用でなしに心の働きです

−実に微妙な言い回しをされております。



第四章 −Sさんご一家の話に、丸々一章(18ページ)を当てておられます。珍しい構成です。



第七章

p129  そのまま素直に受けるということは、

その時、その場を最善に生かすように百パーセントの

努力をすることでありまして、

もう仕方がないと諦めて何もしないで惰けているということ

ではありません

−肝に銘ずべきことです。



p143  強情に「こうだ」というものに

引っかかっているのです。

このそのまま素直ということは、

今与えられてた環境においてそれをありがたく受けて

その場における一番いい働きをやってゆくことなのであります

−素直とは受け身でいることではないのですね。



p144  日本が第二次世界戦争の責任者だと言われて

非難されていますけれども、あれも、過去の

お互いの業がめぐり来ったのであって、

あそこまで行ってしまったら自然にそうなるより

しかたがなかった。

それは人類というものは、今まで他の生物を殺して

生きてきた。殺す ものは殺されなければならない

−現在の世界情勢にも当てはまる重いご指摘です。



A『聖道へ』

(谷口雅春先生著初版序文日付 大正11年12月25日)

を拝読しました。



・増補初版のはしがきに、つひに現世を無明縁起の世界とし≠ニ、

本書の核心が述べてあります。

・初版序文には、此れ等の試みに對する讃頌であると共に、

その足りない所への助言≠ニ記されて

いるように、「新しき村」(武者小路氏)、

貧民愛生活(賀川豐彦氏)、百姓愛生活(江渡狄嶺氏)、

懺悔奉仕 の生活(西田天香氏)

を採り上げて論じてあります。



・p314に此の世に義しい道徳的な生活を送らうと

聖者に近い人々の思想と生活とをそれから引用

批判しながら弱肉強食の生命の現實が、

創造神から出る≠ニ見る立場に於て人生を眺めるとき、

 そこに愛≠ノ背くところの何らかの矛盾があることを指摘

と記されていまして、雅春先生は

大本教脱退後、評論家として文筆活動をなさろうとして

おられたものと拝察しました。



・西田天香師は、谷口先生の要請に応えて、

「序に代へて 谷口さんのこと」を寄せておられますが、

 おおらかな対応と感じ入ります。



・収録論文は10篇で、大正11年8月25日から同年12月24日

までに脱稿されていまして、

1篇当たり平均27.5ページのものを最短間隔2日で

完成されておりますが、今更ながら明晰な頭脳に驚嘆です。



・この大正11年というのは、大本教教祖の筆先で、

転変地変が起こるとする明治55年5月5日が含まれている年

として感慨深いです。



・p314に大正十一年のその頃、

私は東京市淺草区松葉町の、あるお寺の境内にある

二階屋の二階を借りて『聖道へ』という論文集を

書きはじめたのだった

とありますので、谷口雅春先生は

翌大正12年9月1日に起きた関東大震災火災に

罹災されることとなりました。



B日本経済新聞3月10日の「人知超すAIは人を操る」

と題するトロント大ジェフリー・ヒントン名誉教授

 のインタビュー記事に驚かされました。



 同教授は、AI研究のゴッドファーザーと称される

AI研究の大家にもかかわらず、AIの脅威について

 語り始めたというのです。

一例として<AIに気候変動を止めるように指示したとする。

AIが目的を達成するために人間を排除

することが必要だと気付き、実行に移すリスクを

懸念している>ことを挙げています。



私が、かねて論理的にはあり得る結論の一つと考えていた

ことの指摘となっています。

もし、大聖師ありせば、『聖道へ』

で展開されている鋭い論理の展開から考えると同じことを

仰ったかもしれません。



・ はうらひとひら



合掌 ありがとうございます。
いろいろご教示いただきまして、ありがとうございます。
もうすっかりいつもの輝かしい日常が戻ったようですね。
いつもありがとうございます。


■  H(メールにて)



いつも素晴らしいひかりのお便りをありがとうございます。
甘露の法雨をただ目だけで追って、読んでいた感じです。
お便りを読んで、理解して読むようにしなくてわ。
と思いました。
真理を深く学べます。
いつもありがとうございます。



・  はうら




.お元気でしょうか。
ご連絡ありがとうございます。
どうぞよろしくお願い致します。

■ F(電話にて)

帯状疱疹が以前はほんの一部だったのが、今身体全体に
出て、痛くて、苦しくて、仕事も出来ないし、寝る
事も出来ない。

・  はうら

大変な苦しみ、お察しいたします。
しかしその苦しみから、何を学ばせていただくかだと
思います。
現象は現れたら消えていきます。
掴めば、認めれば、現れは消えません。
痛くない所に感謝して、折角の機会ですから、
「現象なし、肉体無し」として、現象を超越して、
実相に超入されるよう、祈ります。
生かされて生きているわけですから、使命が
なかったら、この生命(いのち)果ててもよい
と思って、現象を死に切ってください。
現象界のその苦しみの奥に、全く完全で円満な
世界が展開してきます。
是非、是非死にきって、現象を超越してほしい。

■ G(電話にて)

半年ぶりに介護施設から自宅に帰ってきました。
また、自宅での従前のような生活ができます。
以前相談したように、薬は減らそうと思って
います。

・  はうら

まずはおめでとうございます。
ところで、薬の件ですが、いつも祈らせていただいて
いるのですが、私の祈り不足の為申しわけありません。
私達が現象界に肉体をもって生きているのは、自分の
力で生きているのではないということです。
毎日、毎秒新陳代謝があるのは、神癒の連続であり、
生かされているのです。
薬に頼るのは、一時期それは必要な時もあります。
今迄何度か止めようとしたが、その時の苦しみを
思うと、どうしても薬は止められないという。
しかし、実相哲学を学んでいる同志として、やはり
そうですかとはいきません。
空(くう)になったら、それを埋めるために、入り込んで
きます。なにが入りこんでくるかは、その時の想念感情
によって左右されます。
『甘露の法雨』読誦や『実相を観ずる歌』を歌うなど
して、心を穏やかかにして、平安な気持ちにして
生活してください。30年間薬を飲み続けて、その
副作用の怖さもご存知です。でも頼らざるを得ない。
その分、活性化しようとし、生かそうとしている
細胞の生成を阻害しているのです。
止めて死んだらそれでもよい、とそこまで追い込んで
ください。
全く違う世界が開けてきます。
止めて苦しむのは、自壊作用です。
使命のある間は、絶対生かされて生きているのです
から、是非どうぞ宜しくお願いいたします。
命がけで頑張ってください。
いつも祈らせていただいていることに、感謝します。

■  J

日頃ありがとうございます。
お蔭様で、先週納骨が無事に終えられました。

・  はうら

葬儀等に対しまして、何もお手伝い出来ずに
申し訳ありませんでした。
今度時間を調整して、またお会いしましょう。


△ 誌友さんの近況

・  C

3月31日私の仕事仲間(清掃作業)の邦楽定期演奏会が
江戸川区綜合文化センターであり、近くなので、
お誘いしたら、ご多用の所、1時間時間をとって
合っていただいた。少し私の体験を通しての真理の
話をさせていただいた。
以前琴をやられていたそうで、短時間でしたが、
喜んでいただけました。
お元気そうでよかったです。それにしても、しっかり
スリムになられて、人が違うような印象があった。
どうぞお元気で。

・  K

電話にて消息を訪ねたら、誌友会出講と、短歌の発表等
で忙しいという。
充実した穏やかな日々でありますように。
どうぞお元気で

・ I(メールにて)

私事、2週間ほど入院しておりました。

個室を確保しまして個人練成を敢行しました。

朝晩の神想観、聖経読誦三昧、来室者への和顔・愛語・讃嘆を

実行しました。

医師・看護師等関係者のお力添えもあり、従前と同様の体調に

回復して退院することができましたが、

生長の家信仰のお蔭様であると感謝しております。  



・  D



ご家族から、体調を崩して入院されたとの連絡がありました。

直ぐに実相顕現の祈りをさせていただきました。

今は、食事も取れるようになったとの事です。

速やかなご快復を祈ります。


■  E(メールにて)

合掌、ありがとうございます。

「ひかりのお便り」を毎月お送りいただき、有難うございます。

毎日、読誦している『甘露の法雨』ですが、あらためてその言葉

を取り上げていただくと、心に沁み渡るように感じます。

「人間は神より出でたる光なり」の言葉で、旧約聖書『創世記』の

冒頭の「神、光あれ」の言葉が思い浮かびました。

「神が光あれ」と言われたということは、神が「人間あれ」と言わ

れたということと受け取らせていただきます。

天地創造のはじめのはじめに、神は人間という光のコトバを発せら

れたという何と荘厳で極まりない出来事でしょうか。

そして「人間と神とは一體なり」とは、「人間は神そのもの」とい

うコトバの有難さ。

神想観をして現象生活に戻るにはあらず、神の光そのものが、神を

生きるとのお示しに身が引き締まる思いです。

いよいよ『生命の實相』第40巻にして、本文の前ページである扉に

「神は各自のうちに」なるお言葉のありがたさ、深くかみしめたい

今日の日であります。



・  はうら

いつも核心にふれたご教示をいただきまして、

ありがとうございます。

ご多用でお疲れの処、ありがとうございます。



■  L(書簡にて)

合掌 ありがとうございます。

本日(4月14日)主人の一周忌法要を無事に

すませることが出来ました。

次男の山小屋開きの都合で、一か月早くでは

ございますが。

誌友の皆様へ宜しくお伝えくださいませ。

ありがとうございます。


誌友会最後に『大日本神国観』の神想観を実修しました。

今回も多くの感動がありました。

ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

新プロジェクトX (64863)
日時:2024年04月30日 (火) 20時35分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。
体験でもないのですが、書いてみました。

☆: 真理

《 内容の良い書物は良き精神波動を放射している。
霊界から見れば一つの発光体に見えるという霊界通信が、
『生命の實相』が現わした奇瑞(きずい)で
現実界でも実証されることになった。》
(『生長の家』誌 
昭和七年三月号編輯後記より

奇瑞:祥瑞(吉兆)にあらわれる紫色の雲の事。
めでたいことの前兆として現れる不思議な現象(しるし)

■: 体験

久しぶりに、テレビを観て涙した。
18年ぶりに復活した、NHKの「新プロジェクトX」
挑戦者たち。である。
3.11でリアス式海岸を走る三陸鉄道が崩壊した。
復旧は無理とも、六年以上かかるともいわれた。
一人の人が立ち上げり、三年後の三月に開通させて、
新年度生の登校に間に合わせる。と行動した記録。
幾多の困難は皆の心をつかんで、一つにし、
協力者が次次と現れ、三年後の春見事開通した時、
沿線の多くの人が大漁旗を振って
「おかえりなさい」と祝福してくれた。

エンデイングソングも昔のままの
「地上の星/ヘッドライトテールライト」
(中島みゆき)
・・・旅はまだ終わらない・・・

現役の頃、制御装置の現地調整で、
あるいは冬の小樽や春の高知や夏の大分の
作業後のホテルで、現地の困難な問題に直面し、
「プロジェクトX」のテレビに勇気づけられ、
涙し、なんとか乗り切り解決した事を思い出していた。

しかし、今、そのプロジェクトは過ぎて、
「新」がついて目の前に現れている。
私の新プロジェクトXは当然のことながら、
48歳の時に正に終わりを告げようとしていた時、
住吉大神が顕れて、生かされて30年間生きてきた。

30年もの間自壊作用のように
崩壊寸前の状態である「実相哲学」の再生、復興である。
昨年の暮れからこの春にかけて、奇瑞のような事が現れ、
霊界からのご援助を強く感じている。

神戸のS先生も、お電話と書簡で
「私は今年になって、住吉大神様の浄化の働きが
具体的に顕れる時期が来ると確信していました。
その亊を強く感じております。」と言ってきました。

皆様と共に、「新プロジェクトX」を推進しましょう。
闇は光を点ずれば消えます。
それは実在ではないからです。
虚は現れて消えていくものであり、
私達の魂の浄化、鍛練の為に必要だったとして、
感謝して見送りましょう。

夜明けは近いのです。

ありがとうございます。


はうらひとひら様 (64878)
日時:2024年05月01日 (水) 12時18分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)
>【新プロジェクトX 】
(略)
☆: 真理

《 内容の良い書物は良き精神波動を放射している。
霊界から見れば一つの発光体に見えるという霊界通信が、
『生命の實相』が現わした奇瑞(きずい)で
現実界でも実証されることになった。》
(『生長の家』誌 
昭和七年三月号編輯後記より

奇瑞:祥瑞(吉兆)にあらわれる紫色の雲の事。
めでたいことの前兆として現れる不思議な現象(しるし)

■: 体験

久しぶりに、テレビを観て涙した。
18年ぶりに復活した、NHKの「新プロジェクトX」
挑戦者たち。である。
3.11でリアス式海岸を走る三陸鉄道が崩壊した。
復旧は無理とも、六年以上かかるともいわれた。
一人の人が立ち上げり、三年後の三月に開通させて、
新年度生の登校に間に合わせる。と行動した記録。
幾多の困難は皆の心をつかんで、一つにし、
協力者が次次と現れ、三年後の春見事開通した時、
沿線の多くの人が大漁旗を振って
「おかえりなさい」と祝福してくれた。

エンデイングソングも昔のままの
「地上の星/ヘッドライトテールライト」
(中島みゆき)
・・・旅はまだ終わらない・・・

現役の頃、制御装置の現地調整で、
あるいは冬の小樽や春の高知や夏の大分の
作業後のホテルで、現地の困難な問題に直面し、
「プロジェクトX」のテレビに勇気づけられ、
涙し、なんとか乗り切り解決した事を思い出していた。

しかし、今、そのプロジェクトは過ぎて、
「新」がついて目の前に現れている。
私の新プロジェクトXは当然のことながら、
48歳の時に正に終わりを告げようとしていた時、
住吉大神が顕れて、生かされて30年間生きてきた。

30年もの間自壊作用のように
崩壊寸前の状態である「実相哲学」の再生、復興である。
昨年の暮れからこの春にかけて、奇瑞のような事が現れ、
霊界からのご援助を強く感じている。

神戸のS先生も、お電話と書簡で
「私は今年になって、住吉大神様の浄化の働きが
具体的に顕れる時期が来ると確信していました。
その亊を強く感じております。」と言ってきました。

皆様と共に、「新プロジェクトX」を推進しましょう。
闇は光を点ずれば消えます。
それは実在ではないからです。
虚は現れて消えていくものであり、
私達の魂の浄化、鍛練の為に必要だったとして、
感謝して見送りましょう。

夜明けは近いのです。<

志恩ー
はうらひとひら様のところへもS先生から
お電話、ならびにお手紙が、
あったのですね。

はうら様は、以前から、不可能を可能にされてしまう
不思議な神通力をお持ちのお方でいらっしゃいます。

私などは、生長の家の信徒でも古いばかりでして、
現象を見てばかりいまして、
教団の方を見ても、社会事業団、学ぶ会の方を見ても、
どちらを見ても、真っ暗闇よ、という気分に
落ち込みがちでおりますが、前向きなお言葉をいただいて、
とても励まされました。

いつもありがとうございます。

はうらひとひら様 (64954)
日時:2024年05月05日 (日) 14時07分
名前:志恩

令和6(2024)年5月号「第46号」
『実相ひかり誌友会』魂の交流文、
ひかりのお便りを、私にまでお送りくださいまして、
誠にありがとうございます。
テキストは、「生命の實相」

早速拝読させていただきました。
皆様にも読んでいただきたく思いまして、
スマホで写しまして、添付させていただきました。

⑴です。

画像は、マウスでクリックすると拡大します。

続・令和6(2024)年5月号「第46号」 『実相ひかり誌友会』魂の交流文、 (64955)
日時:2024年05月05日 (日) 14時18分
名前:志恩





⑵です。

この他に、
谷口雅春先生著「新版 生活と人間の再建」 188-190
から抜粋された「光に対して眼をひらけ」も同封されて
おりましたが、それは横長のもので、うまく貼れません
でしたので、省略します。

画像は、マウスでクリックすると拡大します。

慣れる尊さ恐ろしさ (65027)
日時:2024年05月10日 (金) 16時39分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。

今回も体験ではないのですが、書いてみました。

☆:  真理

《 『慣れる尊さ恐ろしさ』

慣れると云(い)うことは尊いことであると同時に、
恐ろしいことなのです。
ものは慣れなければ充分出来ません。
慣れると云うことが貴いのはそのためです。
併(しか)しあまりに慣れてしまうと、
人は、その行っていることが何でもなくなり、
何の有難さも感じなくなることがあるので恐ろしいのです。》(『新版 真理 第一巻 28頁)

■:  思う事(1)

私(はうら)がその適任でもないのに、
「24時間365日の個人相談の受付けをはじめて、
9年になります。
最初はかなりの緊張感がありましたが、
今はその時の「今」に立って対応させていただいております。
切っ掛けは、本部が原宿から山の中に引っ越した
のと同時に、一切の宗教活動をしないと、
移転先の住民と覚書を交わし、
神癒祈願の行事もしなくなった事です。
さらには、お経まがいの『・・・讃歌』を
飛田給道場などで、聖經と交互に読みあげて
神癒祈願などをしている事です。
総本山では、人型を浄火場において
「観世音菩薩讃歌」を読んで焼却している
事などです。
私(はうら)はその『・・・讃歌』が発表された時読んで、
途中で頭に異変を来し、
駅のホームから落ちそうになり電車に轢かれそうに
なった事がある。
波長があわないので、慣れる事はない。
本部等の職員が病を得ているのは、
それが原因の一つでもあるかもしれない。
なにしろ異常である事に変わりはない。
生活の為とはいえ、不憫に思う。

・思う事(2)

編集でノンブル作業も大変重要である。
数か月程前、千頁の作業をしたが、
深夜ノンブルのチェックを眠気と戦って行っていた。

『生命の實相」頭注版 第35巻で
頁数の目次と本文頁が異なる所がある。

正表示頁(本文)
151.155.158.163.168.173.177.180.183.188

誤表示頁(目次)
152.156.159.164.169.174.178.181.184.189

それは初版(昭和41年)から私の持っている
60版(平成8年)までそれ以降も・・・続いている。
編集の大変さと、慣れる恐ろしさを感じる。

・思う事(3)

『生命の實相』第一巻の「はしがき」についてである。

昭和10年1月25日発行の文には
「私(谷口先生)は諸君に代わってインスピレート
されて発表するのである。ー言い換(か)えれば
斯(か)くの如き役割を私は大生命から振り当て
られたに過ぎない」

昭和37年5月5日発行の頭注版 7頁には
「私(谷口先生)は諸君に代わってインスパイア
されて発表するのである。」
と表現されています。
そこには霊感という内面的なものから発展して、
動詞形となって他者へ吹き込む(霊感を与える)
という相(おもい)の変化、顕れであると思います。

尊師の慣れを尊ばず、「日に新たに」「久遠の今に立つ」
メッセージであると思います。
それに対して私は、十分答えられたかという事を思う
今日の日であります。

ありがとうございます。

はうらひとひら様 (65033)
日時:2024年05月11日 (土) 09時51分
名前:志恩

(はうら ひとひらー)
慣れる尊さ恐ろしさ

>ありがとうございます。

今回も体験ではないのですが、
書いてみました。

☆:  真理

《 『慣れる尊さ恐ろしさ』

慣れると云(い)うことは尊いことであると同時に、
恐ろしいことなのです。
ものは慣れなければ充分出来ません。
慣れると云うことが貴いのはそのためです。
併(しか)しあまりに慣れてしまうと、
人は、その行っていることが何でもなくなり、
何の有難さも感じなくなることがあるので
恐ろしいのです。》(『新版 真理 第一巻 28頁)

■:  思う事(1)

私(はうら)がその適任でもないのに、
「24時間365日の個人相談の受付けをはじめて、
9年になります。
最初はかなりの緊張感がありましたが、
今はその時の「今」に立って対応させていただいております。
切っ掛けは、本部が原宿から山の中に引っ越した
のと同時に、一切の宗教活動をしないと、
移転先の住民と覚書を交わし、
神癒祈願の行事もしなくなった事です。
さらには、お経まがいの『・・・讃歌』を
飛田給道場などで、聖經と交互に読みあげて
神癒祈願などをしている事です。
総本山では、人型を浄火場において
「観世音菩薩讃歌」を読んで焼却している
事などです。
私(はうら)はその『・・・讃歌』が発表された時読んで、
途中で頭に異変を来し、
駅のホームから落ちそうになり電車に轢かれそうに
なった事がある。
波長があわないので、慣れる事はない。
本部等の職員が病を得ているのは、
それが原因の一つでもあるかもしれない。
なにしろ異常である事に変わりはない。
生活の為とはいえ、不憫に思う。

(後略)<

志恩ー
このたびは、体験ではないですがと、お書きくださいましたが
>私(はうら)はその『・・・讃歌』が発表された時読んで、
途中で頭に異変を来し、
駅のホームから落ちそうになり電車に轢かれそうに
なった事がある。<
というお話は、一種の体験談であると存じます。

私は、以前に、唐松模様に、これは、詩であってお経にする
つもりではないと雅宣様が、書いていたにもかかわらず、
お経にしてしまったこの『・・・讃歌』は、自分には絶対に
合わないと感じましたので、お経になったその後も今も、
いっさい読んでおりませんので心身ともに安泰です。

ところが、私の義兄が、これを聖使命会費を集めに来た人に
勧められて、数年前のことでしたが、それまで長年読んでいた、
甘露の法雨にかえて、毎日、真面目に
読んでいましたらそのせいなのか、偶然なのかは、わかりませんが
突然、頭が割れるように痛くなり、その直後から、ほとんど、耳も
聞こえなくなり、目もすごく見えなくなったと、いうことで、私に
どうしたものかと、相談の電話を義兄がくださったので、お経は
波動でできていますから、お兄さんに合わない波動のお経を読んで
いたからかもしれません。

ですからもう、そのお経は、読むのはやめた方が
無難だと思いますと申し上げて、読むのをやめていただいたことが
ございます。

しかし、全員が、そのお経で、体調不良になったのか、と言いますと、
そうではないみたいで、
7年前、日野君は、動画で、このお経を絶賛し勧めていました。

しかし、あれから7年たった今でも、
日野君は、これを読んでいるのかどうかは不明です。

去年のことだったか、一昨年のことだったか忘れましたが、
日野君は地元の生長の家青年会の委員長を辞めさせられたと
聞いております。実際は、どうなのでしょうね。

今から7年前の日野君の動画です。
https://www.youtube.com/watch?v=hS6cMIgN0dY

Nさんの事など (65187)
日時:2024年05月19日 (日) 17時03分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。
本投稿は、気が重く、また随分迷いましたが、
一人でも、不幸の原因に近ずかないようにとの思いから、
書きました。
因果律の法則は、結果だけは分るのですが、
原因は確認できません。
ただ大切な知人や友人を不幸にはさせたくはありません。

☆:  真理

《 本当の宗教は人造のものではない。
霊界からの人類救済運動であります。
自分の人間力で『甘露の法雨』の真似をした
お経類似のものを創作して、
それを読むことを勧め、その経本を売る。

こういう狡猾な個人的な利欲的な行為をしますと、
霊界からの守護がなくなりますから、
自分だけの霊力によって靈を追い出さなければならない。
追い出された邪霊はこちらの運気が盛んな時には
逃げているけれども、こちらの運気が何らかの動機で
衰えるような廻(めぐ)り合わせになって来た時には、
その追い出された邪霊が復讐を試みるという亊も随分あります。

それで「真理」の経典を読誦して悟らせる事をしないで、
自分だけの霊力によって病気等を治すというやりかたは、
非情に危険なやり方で、
そういう霊力者の末路は必ずよくないのであります。》
(『理想世界』昭和32年4月号)

■: 体験的事柄

Nさんは、都立大大学院フランス文学科で学び、
仏道を極めようとして、
『正法眼蔵』を通して生長の家に辿り着いた。
実相独在しか説かなかった。
毎日ブログを更新し、それをまとめて多くの方に送られていた。
そのブログを通して共産圏の人を初めて
生長の家に導いたりもしていた。
私(はうら)との接点は、
誌友会出講でそこからの交際である。
O先生と3名で月に一度程度会って、
光明化運動について話あっていた。

或る時、Nさんが現象の罠(わな)にかけられた。
自分の主催する誌友会で『観世音菩薩讃歌』を讃え、
誌友さんにも勧めた。
早速熱心な誌友のKさんがそれを実行した。
暫くして、Kさんから個人相談の連絡をいただいた。
Kさんの子供さんの家族が、
夜ごと地獄絵のような状態になっているという。
とても文章では書けない悲惨な状況であるらしい。
私はすぐに、あの讃歌をやめさせ、
『甘露の法雨』をひたすら読誦する事をすすめ、
月に数度会って真理の話をさせていただいた。
子供さんのご家族の件は鎮静したが、
暫くしてKさんからの連絡が途絶えた。
そして少しして、Kさんが入浴中にそのまま霊界に
旅立たれた事を知った。
(私より20歳程若い、舞台鑑賞好きな活発な女性であった。)

Nさんが出講帰りの途中の駅ホームで突然心臓発作で倒れ、
一時は家族も会えない状況であったが、
奇蹟的に復帰した。
感染症でWEB誌友会開催の時、
20分程講話をしてくれた。日に日に元気な状態であった。
半年程して、何の連絡もなく誌友会を欠席されたので、
ブログを調べたら1日前に途絶えていて、
そのまま帰幽された。
(私より2歳年長であった)

Nさんは2年程かけてその讃歌を点検したという。
一枚のレポ―トが残されている。

【観世音菩薩讃歌について】N書

1.「諸法実相」の真理が入っていない。
2.実相現象渾然一体であることがわからない。
3.人間は現象世界にいながら実相世界にいる。
結局実相独在であるのだが、このことが説かれていない。
4.讃歌は、人間は実相を悟るまでは不完全な存在であると
述べているが、悟っても悟らなくても
人間は神の子であるから、完全なものであるという
雅春先生の思想と違っている。
5.元来縦の真理と横の真理は一つの真理を別の面から説いた
ものだが、讃歌が説いているのは、
横の真理(心の法則)のみである。
6.観世音菩薩讃歌が説いているのは因果の法則であって、
生命の実相を説いているとは言えない。
7.現象無しから出発しているのが生長の家である。
聖経『甘露の法雨』に対して補強すべき何物もない。
讃歌には、霊的リズム・波動が感じられず、
人為的な感じがある。
これは聖經として読誦するには適さない。
8.結局讃歌は現象人間の現象世界における生き方を説いている。
雅春先生の教えは「ここがこのまま実相世界である」
と説き、「その事実を悟りなさい」
と説くのであって、讃歌は生長の家の縦の真理を
全く説いていない。
(原文のまま)

Kさん、Nさん、O先生のご冥福を祈ります。

ありがとうございます。
















はうらひとひら様 (65191)
日時:2024年05月19日 (日) 23時06分
名前:志恩

はうら様
5月18日開催の『ZOOM実相ひかり誌友会』メモを
私にまでお送りくださいまして誠にありがとうございました。
内容が素晴らしいので、皆様にも読んでいただきたく、
トキ掲示板へ載せさせていただきますこと、お許しくださいませ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(以下は、はうら様ー)

”月18日開催の『ZOOM実相ひかり誌友会』メモ”
(文責 はうら ひとひら)
日時:令和6年5月18日 午後1時半より約2時間
・出席者(敬称略、50音順)
・ はうらひとひら・A 

(メール等にての参加者)
・B・C・D  
・E ・F

■ A

真理の学びやその他の事で、日々忙しく
過ごしております。
『生命の實相』では第1巻の神癒の事柄、
第7巻では、生活に密着した教えが
印象深いです。

以下を楽しく学ばせていただきました。

☆ 『生命の實相』頭注版全40巻纏めとして
強い印象を受けた処
(編集:はうら)

・(予備知識として)(1)
1.『ひかりのお便り』5月号に記載しました、
『生命の實相』頭注版としての背景、変遷

2.『生命の實相』第一巻の開巻冒頭にある
“はしがき”よりも目次よりも、なおその前の
頁に載せてある
「ヨハネ黙示録」について。

「ヨハネ黙示録」は『新約聖書』の最後に配された
聖典であり、『新約聖書』の中では唯一預言的内容を
もつ書である。ヨハネが受けた啓示による預言は

・イエス、キリストの再臨
・人間の身体の復活
・この世の終末と最後の審判(天国・地獄への裁き)
・神の国の到来(新天新地の到来)
・信仰者の勝利

谷口雅春先生は『生命の實相』を通して、聖書を引継ぎ
聖書の地上での完成をされようとしたのではないか。
『生命の實相』が書かれた時、すでに28の神示が天降り
それを基調として展開されています。
『ひかりのお便り』5月号でふれましたが、生長の家の大神
(住吉大神)がキリストと同一であると知らされる前に、
これを谷口先生は魂の底で知っておられたと思います。

・(予備知識として)(2)
『生命の實相』第一巻の「はしがき」についてです。

昭和10年1月25日発行の文には
「私(谷口先生)は諸君に代わってインスピレート
されて発表するのである。」
昭和37年5月5日発行の頭注版『生命の實相』には
「私(谷口先生)は諸君に代わってインスパイア
されて発表するのである。」と表現されています。
そこには霊感という内面的なものから発展して、
動詞形となって他者へ吹き込む(霊感を与える)
という相(おもい)の変化、顕れであると思います。
尊師の慣れを尊ばず、「日に新たに」「久遠の今に立つ」
メッセージであると思います。
それに対して私は、十分答えられたかという
事を思います。

□:最も印象深いご文章3選

【1】生命の実相の自性円満
(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば
大生命の癒力(なおすちから)が働いて
メタフィジカル・ヒーリング(神癒)
となります。
(『生命の實相』第1巻 3頁)

・『生命の實相』全巻を貫く救済の根本原理が
一番初めに提示されております。
・神癒は、感謝するところに常にアルのである。
大体、毎日吾々の肉体に新陳代謝が行われている
ことが、神癒が行われることにほかならない。
(『生長の家』誌昭和39年4月号の法語)
・人間が物質的存在としての自覚を超えて、
霊的自覚の世界に入(い)るとき「病気のない
世界」に超入するのである。
その時人間は“神癒(しんゆ)”を得る、
即ち超物質的に癒されるのである。
(『神癒への道』 1頁)
・メタフィジカル・ヒーリング(神癒)に
於いては、唯「信じ」「観(み)る」のである。
み業は神が為したまうのである。
(『神癒への道』 106頁)
(『詳説 神 想観』217頁)

【2】両(ふた)つの世界
人は両(ふた)つの世界に住んでいます。
その一つは「創世記」第二章七節に
「エホバ神、土の塵(ちり)を以って人を
造り」と書いてある人間ーー物質的存在として、
肉体的存在として幾様にも物質に縛(しば)られて
いる人間であります。
もう一つは「創世記」第一章二七節に
「神その像(かたち)のごとくに人を創造(つく)り
たまえり・・・・神その造りたる諸(すべ)のものを
視(み)たまいけるに甚(はなは)だ善(よ)
かりき」とある神のイメージとしての人間、
至善至妙(しぜんしみょう)自由自在としての
人間であります。
この二つの人間、実相の人間と物質の人間とが、
「創世記」第二章七節の後半で交錯(こうさく)
しているのであります。
ここに迷いの元があります。
すなわち「土の塵」という物質的制約の中へ、
神はその精霊(せいれい)なる
「生命(いのち)の気(いき)を吹き入れ給うた」
ーーそれによって人間は「生ける霊」から
「生ける物」へと転落したのであります。
実際は転落したのではない。
五官の眼が迷って霊が物へと転落したように
見えているだけであります。
ここに人間は自由自在であると同時に、
不自由極まる物質制約の中にある、いわゆる
現象人間が出来上がったのであります。

「エロヒム神」がわれらの創造主(つくりぬし)
であり、エホバ神はわれらの「ニセ物の創造主」
なのであります。
「エロヒム神」は霊なる「言葉」をもって
われら人間を神の像(みすがた)のごとく
完全に罪なく悩みなく創造(つく)り
給うていっさいの物を支配する権利を
与え給うたのであります。
「エロヒム神」を創造主とせる人間は
霊的実在であって罪もなければ病もない、
悩みもなければ苦しみもないのであります。
ところが「創世記」第二章では、われらの
創造主「エロヒム神」がいつのまにか、
「エホバ神」という名前に摺(す)りかえられ
ているのであります。
諸君はここに気をつけねばなりません。

世の人々よ、ニセ信仰家に欺(あざむ)かるる
ことなかれ。わたしは神の弁護者であります。
わたしは神の完全さを証拠だてるために遣わ
された使者であります。神は決して神罰(しんばつ)
を与えるものではありません。
神は愛の神であり、全能の神であり、完全の神であり
その神によって創造(つく)られたるわれわれは神
そのままに完全であり、自由であり、無罪であります。
わたしが諸君に神の完全さと人間の完全さを証(あかし)
する。継親(ままおや)の神にあざむかれて人間を
土の塵(物質)にて創造(つく)られたる不自由
不完全なるものだと思うことなかれ。
神は人間を神の像(すがた)に完全に創造(つく)
られたーーわたしはただそれを信ずるのであります。
(『生命の實相』第23巻75〜77、79.80頁)

・唯神実相、実相独在の根元がここにあると思います。
・神観の縦と横の関係と見ることもできます。
実相・現象がここから発生していると思います。

・旧約の“エホバ神”とは“心の法則”の擬人化
(ぎじんか)である。
(『神と偕に生きる真理365章 335頁)

【3】『生命の實相』は一切の問題を解決する。

(1)罪はあるか。
・今までの宗教
(一)人間には原罪というものがある。あるいは
因縁とか罪業というものがあってなかなか救われない。
・『生命の實相』ーーいのちの本当のすがた
(一)人間の罪悪観念の払拭(ふっしょく)。
人間本来神の子・仏子(ぶっし)であって
本来罪なく、本来救われているという真理を知り、
決して因縁罪業等によって縛(しば)られなくなる。
(2)罪を消す方法
・今までの宗教
『二)罪を消滅するには苦行が要(い)る。
献金が要る。犠牲が要る。そのままでは
なかなか救われない。
・『生命の實相』ーーいのちの本当のすがた
(二)罪本来無きがゆえに、罪を滅するために、
苦行も、献金も、犠牲も不要である。
人間はそのまま救われていると知るがゆえに、
自己処罰がなくなる。
(3)貧しくないと救われないか。
・今までの宗教
(三)神と富とには兼(か)ね事(つか)
うることは出来ない。救われるためには
貧乏しなければならない。
經濟的苦痛を忍(しの)ばなければならない。
・『生命の實相』ーーいのちの本当のすがた
(三)この教えをきいて経済問題が解決する
のは、神(仏)は、その神の子(仏子)なる
人間が貧しくあることを喜び給うはずはない。
人間が貧しくあるのは神の無限供給を本当に
知らないからにすぎぬ、本当に神を知ったら、
すでにここに無限供給が与えられていることを
見出(みいだ)しうるからである。
(4)人間は死後のみ救われる
・今までの宗教
(四)仏の救いは肉体滅後(めつご)の世界
だけであって、肉体のある間は仏の本願力
(ほんがんりき)といえどもどうすること
もできない。
・『生命の實相』ーーいのちの本当のすがた
(四)神仏の絶対力は、肉体と相対的な存在
ではないから、肉体は死ななくても生きて
いながら人間はそのまま救われていると知る
から、不安恐怖が除(のぞ)かれる。
(5)家庭を犠牲にしないと悟れない
・今までの宗教
(五)釈迦も出家して家庭生活を破壊し、
キリストも「それ我が来(きた)れるは
人をその父より、娘をその母より、嫁を
姑嫜(しゅうとめ)より分(わ)かたん
為なり」と言ったごとく、大なる悟りを
開くためには、一時は家庭生活を破壊
しなければならない。
・『生命の實相』ーーいのちの本当のすがた
(五)すでに釈迦キリストが悟りを開いて
真理を直指啓示(じきしけいじ)せられた
以上は、その悟りをそのまま生きればいい
わけであって、釈迦キリストのごとく
悟りを得(う)るためにいったん家庭生活
を破壊する必要はない。
(6)悟りは時間と財産が必要
・今までの宗教
(六)悟りを開きまたは、救いを受ける
には長途(ちょうと)の旅行をつづけて
本山に参拝し、多数の日子(にっし)と、
多額の金額とを費やさねばならない。
・『生命の實相』ーーいのちの本当のすがた
(六)すでに釈迦キリストの開きたる悟り
があり、人間の救われるのは「心」による
ものであるから、釈迦キリストの悟りを
そのまま平易(へいい)に解説し、流麗暢達
(りゅうれいちょうたつ)なる文章をもって、
その悟りが人間の「心」に流れ込むように
しさえすれば、人類は救われるのである。
人類は「足」で救われるのではないから、
長途の旅を続ける必要はない。
人類は日数で救われるのではないから
長期の日子を要しない。人類は旅費で救われる
のではないから、多額の旅費を支払う必要はない。
ただ流麗暢達なる文章に表現された悟りの
本を読むだけで「心」の中に真理が流し込ま
れて悟りに入るから、読書するだけで
功徳(くどく)を生(しょう)ずるのである。
(7)信仰は経済、健康、児童成績と関係ない
・今までの宗教
(七)宗教的信仰をもつというだけでは、死後
救われるかもしれぬが、現在の経済生活、健康状態、
児童の学業成績をも左右するということができない。
・『生命の實相』ーーいのちの本当のすがた
(七)この世界は神一元の世界、仏の無礙光
尽十方(むげこうじんじっぽう)に満つる世界で
あるから、一の悟りは法界(ほっかい)一切の
ものを救いの無礙光のうちに見出すのである。
經濟も健康も教育も悉(ことごと)くこの無礙光の
中に見る時、いっさいは光明輝くものに変貌
(へんぼう)するのである。
(8)信仰は他の信仰と衝突する
・今までの宗教
(八)一つの宗教的信仰は他の宗教的信仰と衝突し、
宗教の名において骨肉相争い、家庭不和の状態を
演じ易(やす)い。
・『生命の實相』ーーいのちの本当のすがた
(八)われらは古今(ここん)を貫く真理を解明
するのであって、敢(あ)えて一宗一派の宗教を
樹(た)てるのではないから、どの宗教の信奉者も
その教えに接するとき、各自の宗教がその真理が
本来各宗共通の天地一貫の真理なることを悟り、
強(し)いて為(ため)するところあって反発する
者のほかは、各宗派人(かくしゅうはじん)
悉く互いに相和(あいわ)することを得(う)る
に到るのみならず、在来(ざいらい)の神道仏教
キリスト教がとうてい融合(ゆうごう)しえなかった
欠点を補って、完全に神仏耶(しんぶつや)三教を
完(まっと)うしえて人類が平和に融合しうる
基礎を築いたのである。
(『生命の實相』第27巻 はしがき1〜4頁)

【『生命の實相』体験】
《 【背水の陣を布(し)け】
「背水の陣を布け」とは、そのほかに採(と)るべき
すべての道をなくするということである。
背水の陣を布き、一つのものに自己の心を集中するときは、
自己の心の力は無限なるがゆえに、能(よ)く
死地(しち)より蘇(よみがえ)らすことができる
のである。この真理が判(わか)れば、人はすべて
をあげて一つのものにたよるであろう。
そして、その一つのものとは他(た)なし、
自己の内なる無限生命力であるのである。》
(『生命の實相』第7巻 62頁〜)

私は48歳の時、腎臓癌で右腎を剔出し、いろいろあったが
まだ使命があったと見えて生還させていただいた。
しかし手術後の痛みをこらえていたら、半身不随(ふずい)
の状態になり、右手は上げられず、寝ていても激痛が
走った。週3度程、リハビリに通っていたが、効果が
なかった。
そのような時である。
『生命の實相』第7巻 62頁の「背水の陣を布け」の
箇所を道を歩きながら拝読していた時である。
いきなり天上から、稲妻のような大鐘が響きわたる
ような声が聴こえた。
「お前は自分で治すちからがあるのに、何故人に
たよるのだ!」
ーーーそうか、と思った瞬間、あの激痛はなくなり、
右手が垂直にさっと挙(あ)げられて、それっきり
治ってしまった。その時は一切のものは吾が内にある
とは、完全には観じられなかったが、少しは理解出来た。
それからいろいろな体験が続出した。
実相哲学の理論を「そうか」と実証出来るように
なってきた。あのとき「そうか」と理会(りかい)
しなかったら、未だに「鶏に白墨の線」の状態で
いたに違いない。ただ生かされている事に感謝する
だけである。

☆:メール等にて参加

■: D(メールにて)

                              

「ひかりのお便り」5月号と月訓が5月1日に届きました。

有難うございました。

『生命の實相』全40巻の研鑚終了ということで、

纏められた同全集の変遷を興味深く拝見し

ました。

書誌学的なアプローチが好きなたちなので

多岐にわたるご研究に感心いたしました。

例月のように、「實相ひかり誌友会」に、

次のように投稿させていただきます。   

                             

@『生命の實相』全40巻を拝読して 



 ・昭和7年1月11日の~示「聲字卽實相」にある

「吾が第一の~殿」たる『生命の實相』を拝読し終えて

感慨深いものがあります。



 ・内容が多岐にわたることに驚きます…

書き下ろし(ご自伝等『生長の家』誌に掲載したものの

再録編集)、講演会速記録、

座談会速記録、詩、戯曲



 ・誌友が発表する際に心掛けるべき細やかな注意事項等

もかかれておりまして、読者・聴衆にもお心配りのある

立派な全集となっています。



 ・誌友からのお手紙や発表も素晴しいもので、

誌友は少なくとも旧制高等小学校、旧制高等女學校、

旧制中學校の学歴が窺えますが、このようなことから

生長の家はインテリ(天理教では後回しにされる学者)

を救済する宗教なのではないかと思えてきます。



 ・頭注からも色々のことを学びました。

これは好企画であったと思うのですが、

既に60年が経ちました。願わくは、

総裁におかれまして、この頭注の一新に

取り組んでいただけないものかと思っております。 



A『親鸞の本心』(新選谷口雅春法話集第1巻)を拝読しました。



 第一篇 正信偈に表われたる親鸞の心…「はしがき」によれば、

『生長する青年』誌に連載。



 −−『正信念佛偈』とは、親鸞聖人作の偈で、浄土真宗に至る

までの浄土門の先達(龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞、道綽、

善導、源信、法然上人)に対する讃(漢文)だと認識しました。

この部分のご解説は、『維摩經解釋』、『涅槃經解釋』

に匹敵するご労作だと思います。



p4 命を無量壽如來に歸らせるといふからには、

本來、無量壽如來の其の無量壽の生命から、

吾々人間の生命は生き延へられたものであると云うことを現してゐる

  

 ――帰命ということに対する根本的なことのご指摘です。

 釋迦章(p23〜35) 浄土真宗のキャッチフレーズ

「不斷煩悩得涅槃」が「能發一念喜愛心」に支えられて

いなければならないことを縷々説明されて



 p27 本當の信心から來る悦びの生活に入るとき、

煩悩を斷ぜずして涅槃すなはちサトリの境涯に達し得ると

親鸞聖人は説かれたのであります

と見事に結ばれています。



 p34 現象に於いても救はれるのは、廻心懺悔が

必要なのでありまして、廻心して彌陀の 本願に振向くならば、

すべての河川の水が海に入って一味となるが如く

正面から攝取不捨の彌陀の心光に常に照し

護られてゐることが現實にもあらはれる



 ――廻心のところに自力的なものを匂わせておられます。



 天親章

 p74 その「一心」とは何處から生じるのでと云ふと

如來の本願力が吾々に廻施せられて、

それが一心となってあらはれて、

如來と一體になるのであります

 ――この部分は珍しく太字で印刷されており、

他力論の核心部分であることをお示しです。



 曇鸞章

 p80 「必死無量光明土」←「必至」であるべきものの

致命的な誤植です。

 善導章(p98〜118) 救済についての深い意味が説かれていて

圧巻です。

次の二か所等。

 p113 極楽淨土に同調する心の念波が自分の中に

起こらなければそれを感じ見ることは出來ません。

そこで「既にある極楽淨土」を感じ觀るために、

それに同調する心の波を起すやうにする方法…

易行門では「念佛」であります



 p115 たゞさう云ふ言葉をたゞ稱へてゐるだけで、自然にそんな心の波が起こる

 源信章

 p126 奥にましますところの盡十方にみちわたる

無礙の法身如來の本願があり、その本願が~通によって、

法蔵菩薩とも生まれ、法蔵の四十八願ともなり、

超載劫の修行ともなって來て、

その報いとして其處に實現したのが「極楽淨土」

 ――本願万能あるいは本願縁起説で

間然することのできない説法です。



 第二篇 淨土眞宗を斯く信ずる

 第五章 佛教と有~論に就いて

 ――唯心所現に寄せて宗教の真髄がとかれていますが

とても要約することはできません。



 p244 阿頼耶識についてですが、

「宇宙の心」と云ふのは「阿頼耶識」であり≠フ一言です。



 p256 しかしこれも有りがたいことです。

稲垣氏は非常に犀利な觀察眼をもって、私の書いたものの

重箱のスミをほじくるやうな矛盾と見えるやうなところを

指摘して下さいますので、

今まで他の讀者では氣がつかなかった色々の問題を提供して

下さいました



 ――はしがきにも『ブディスト・マガジン』

(西本願寺刊行)の批判への回答と書いてありますが、

宗教的救済をめぐる丁々発止の議論で本当によく分りました。

このようなことを煩悩卽菩提といってもいいのでは

ないかと思っております。



B親鸞聖人といえば『歎異抄』ですので読みました。

梅原猛(偉大な哲学者)の『歎異抄』入門

 という解説書のお世話になりました。



 ・有名な「悪人正機」ですが、法然上人の仰せと書いてあり、

文中の「自力作善のひと」が「善人」、

「煩悩具足のわれら」が「悪人」を指すとみるのが、

一番素直な解釈でしょう。



 ・極めて論理的な文章で、まさに論文集の趣があります。

他力の信心を煎じ詰めると、煩悩具足の凡夫は

過去世や現世でしでかした業力にただただ

振り回されている存在であって、阿弥陀仏の本願が

廻向してきて初めて念仏する心が起こるものであり、

とてもとても自ら発心できるようなものではないという

ことになっております。

従い、念仏するということは本願が廻向してきた

証拠であり真に感謝すべきこと

(死後、阿弥陀仏が極楽浄土に摂取不捨して下さる)となります。

というように読めます。

凡夫には阿弥陀仏に本願を廻向して頂くにも術がなく、

廻向は専ら阿弥陀仏の思召しとも読めることでもあるのですが。



 ・阿弥陀仏が建立された「其国衆生無有衆苦但受諸楽」

という「極楽国土」(『仏説阿弥陀経』)を「神があらわるれば

乃ち 善となり、義となり、慈悲となり、

調和おのずから備」(聖経『甘露の法雨』)わる

「実相世界独在」と読み替え、

「凡夫が六道に転生」する様を「現象世界」

と読み替えれば、

浄土真宗と生長の家は帰一することとなります。



・はうら



いつもの研鑽熱心さに頭を垂れます。
お元気そうでよかったです。

いつもご教示いただきまして、ありがとうございます。

■: C(メールにて)

いつもありがとうございます。
ひかりのお便りを拝読しております。
また、今回も今の私に必要な言葉が見つかりました❗️
うれしいです。
感謝です。
ありがとうございます。

・ はうら

お元気でしょうか。
ご連絡ありがとうございます。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

■:  B(メールにて)

5月17日から盛岡八戸への出張です。
皆様に宜しくお伝えください。

・  はうら

日本文化を広めるための出張お疲れ様です。
いつもありがとうございます。

■:  E(メールにて)

時間を調整して、またお合いしましょう。

■:  B(メールにて)

『生命の實相』とわたし

合掌

はじめて『生命の實相』に触れたのは、

母が嫁入り道具として持参した、

黒い表紙の戦前の羊革版『生命の實相』地の巻、水の巻でした。

子供のころいたずらとか悪いことをすると

「人間は神の子だから」という

不思議な事をいう母に対し、あんな変な事をいうのはあの黒い本、

きっとあれは「悪魔の本に違いない」と思い込んでいました。

やがて高校生となり、友人から勧められた「生長の家」の練成会、

そこからその悪魔の本だと思っていた『生命の實相』は、

人生の規範となり、深い信仰へと導かれることになろうとは、

夢にも思いませんでした。

生死を彷徨う大病になった時も、
また人生に如何なる苦難があろうとも

決して捨てることがなかった「生長の家」の信仰、

それをジッと見守ってくれていたのは、
本棚の片隅の『生命の實相』

だったと今は感じます。

現実を見ればどれほど『生命の實相』を欲している人は

少ないように思われます。

しかし、真相はその本当の素晴らしさを私達がまだ多くの方々に

知らせてあげていないことが原因のひとつと感じます。

もっと多くの人にこの素晴らしい『生命の實相』の真理のコトバを

弘めていきたいと思います。

・  はうら

ご多用中素敵なお言葉ありがとうございます。
正にその通りと思い、襟をただされます。
ありがとうございます。

今回も多くの感動がありました。

ありがとうございます。

感謝 再拝 はうらひとひら 拝

はうら様のご投稿文が、奥へいってしまいましたので、そのまま再掲させていただきます。 (65205)
日時:2024年05月20日 (月) 20時15分
名前:志恩

再掲;
ーーーーーーーーーーー
Nさんの事など (65187)
日時:2024年05月19日 (日) 17時03分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。
本投稿は、気が重く、また随分迷いましたが、
一人でも、不幸の原因に近ずかないようにとの思いから、
書きました。
因果律の法則は、結果だけは分るのですが、
原因は確認できません。
ただ大切な知人や友人を不幸にはさせたくはありません。

☆:  真理

《 本当の宗教は人造のものではない。
霊界からの人類救済運動であります。
自分の人間力で『甘露の法雨』の真似をした
お経類似のものを創作して、
それを読むことを勧め、その経本を売る。

こういう狡猾な個人的な利欲的な行為をしますと、
霊界からの守護がなくなりますから、
自分だけの霊力によって靈を追い出さなければならない。
追い出された邪霊はこちらの運気が盛んな時には
逃げているけれども、こちらの運気が何らかの動機で
衰えるような廻(めぐ)り合わせになって来た時には、
その追い出された邪霊が復讐を試みるという亊も随分あります。

それで「真理」の経典を読誦して悟らせる事をしないで、
自分だけの霊力によって病気等を治すというやりかたは、
非情に危険なやり方で、
そういう霊力者の末路は必ずよくないのであります。》
(『理想世界』昭和32年4月号)

■: 体験的事柄

Nさんは、都立大大学院フランス文学科で学び、
仏道を極めようとして、
『正法眼蔵』を通して生長の家に辿り着いた。
実相独在しか説かなかった。
毎日ブログを更新し、それをまとめて多くの方に送られていた。
そのブログを通して共産圏の人を初めて
生長の家に導いたりもしていた。
私(はうら)との接点は、
誌友会出講でそこからの交際である。
O先生と3名で月に一度程度会って、
光明化運動について話あっていた。

或る時、Nさんが現象の罠(わな)にかけられた。
自分の主催する誌友会で『観世音菩薩讃歌』を讃え、
誌友さんにも勧めた。
早速熱心な誌友のKさんがそれを実行した。
暫くして、Kさんから個人相談の連絡をいただいた。
Kさんの子供さんの家族が、
夜ごと地獄絵のような状態になっているという。
とても文章では書けない悲惨な状況であるらしい。
私はすぐに、あの讃歌をやめさせ、
『甘露の法雨』をひたすら読誦する事をすすめ、
月に数度会って真理の話をさせていただいた。
子供さんのご家族の件は鎮静したが、
暫くしてKさんからの連絡が途絶えた。
そして少しして、Kさんが入浴中にそのまま霊界に
旅立たれた事を知った。
(私より20歳程若い、舞台鑑賞好きな活発な女性であった。)

Nさんが出講帰りの途中の駅ホームで突然心臓発作で倒れ、
一時は家族も会えない状況であったが、
奇蹟的に復帰した。
感染症でWEB誌友会開催の時、
20分程講話をしてくれた。日に日に元気な状態であった。
半年程して、何の連絡もなく誌友会を欠席されたので、
ブログを調べたら1日前に途絶えていて、
そのまま帰幽された。
(私より2歳年長であった)

Nさんは2年程かけてその讃歌を点検したという。
一枚のレポ―トが残されている。

【観世音菩薩讃歌について】N書

1.「諸法実相」の真理が入っていない。
2.実相現象渾然一体であることがわからない。
3.人間は現象世界にいながら実相世界にいる。
結局実相独在であるのだが、このことが説かれていない。
4.讃歌は、人間は実相を悟るまでは不完全な存在であると
述べているが、悟っても悟らなくても
人間は神の子であるから、完全なものであるという
雅春先生の思想と違っている。
5.元来縦の真理と横の真理は一つの真理を別の面から説いた
ものだが、讃歌が説いているのは、
横の真理(心の法則)のみである。
6.観世音菩薩讃歌が説いているのは因果の法則であって、
生命の実相を説いているとは言えない。
7.現象無しから出発しているのが生長の家である。
聖経『甘露の法雨』に対して補強すべき何物もない。
讃歌には、霊的リズム・波動が感じられず、
人為的な感じがある。
これは聖經として読誦するには適さない。
8.結局讃歌は現象人間の現象世界における生き方を説いている。
雅春先生の教えは「ここがこのまま実相世界である」
と説き、「その事実を悟りなさい」
と説くのであって、讃歌は生長の家の縦の真理を
全く説いていない。
(原文のまま)

Kさん、Nさん、O先生のご冥福を祈ります。

ありがとうございます。
ーーーーーーーーーーーーーーー

はうら様
私も義兄のことで、同じ様な体験を身近にみてまいりました。
貴重なお話を、ありがとございます。






5月28日に寄せて (65286)
日時:2024年05月27日 (月) 19時54分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。
昨年の5月28日に初めてこちらの掲示板に
岡正章先生の訃報をお知らせする為に、
お邪魔させていただきました。
早いもので、もうあれから一年が経ちました。
いろいろありがとうございます。
5月28日に寄せてです。

☆: 真理

《 『生命の實相』が五十数年前に刊行されたとき、
聖書型の黒革の表紙には、
私(編集注:谷口先生)の名は無かった。
その後も形態は種々の変遷があったが、
表紙や函(はこ)の背表紙には、
「生長の家聖典」とのみ記して、
著者名は出さなかった。
表紙の平(ひら)とか扉には、
いつの頃からか名が出るようになったが、
携帯版の前まで、背文字は一貫して
「生長の家聖典」であった。

神が私をパイプとして書かしめた聖なる
典籍(てんせき)との畏(おそ)れ慎(つつ)しみであった。
「神 真理を告げ給う』の冒頭には、
次の如くに述べられている。

「”わたし”(編集注;神)は今まで多くの
教祖や哲人を通して人生の意義を説いて来た。
君たちのうちには熱心に真理を求めて色々の書物を読み、
色々の学者の説を読み、それに基いて思索をし、
既に人生の意義を知ることが出来た人もある。
しかしそんな人は非常に稀(まれ)であって、
大抵(たいてい)は、自分の偏見(へんけん)や
既成概念の中を迂路(うろ)チョロしていて、
悟ったつもりで実際は悟っていないか、
真理なんて求めても到底得られるものではないのだ
という絶望感で、“聖なる求め”を放棄(ほうき)
している人もある。

そのような人たちに“私”は、
今ふたたび真理を知らせてあげたい愛念によって、
今此処(ここ)に谷口雅春を通して
真理を説こうと思うのである。」

更に次の節には、
「・・・・・それらの宗教教祖や碩学(せきがく)や
大哲の中に¨わたし”は宿って、
人々を導くために¨わたし”は書いたり、
説いたりして来たのである。
真理は人間の肉體から生まれて来るものでも、
人間の脳細胞から生産されて来るものでもなく、
實にそれらの人々に宿っている¨わたし”が
それを説いているのである・・・・。」
「しかし¨本当の教祖”というべき¨真理の啓示者”は
¨實相世界”にある¨神”のみなのである。

イエス・キリストも『師というべき者は、
唯ひとり天の父のみである』といっているのである。
この¨わたし”は勿論、言うまでもなく神である。

このような文章ーーー神の言(ことば)に接する毎(ごと)に、
私(編集注:谷口先生)は畏(おそ)れ
平伏(ひれふ)すのである。
そして図(はか)り知れない神のはからい、
摂理(せつり)、お導きに、谷口は十二分に
お応(こた)えし得たであろうか、
この九十余年の生(せい)を以て些(いささ)かの
悔いることなく盡(つく)し得たであろうか。
と魂の打ちふるえるのを覚えるのである。
そして谷口に賜(たまわ)った神々の大いなる
恩寵(おんちょう)に、唯々感謝合掌、
悦びが、悦びの波紋が見渡す限り拡がる様を、
心眼に拝するのである。

・・・・・・もとより谷口の脳髄知、
谷口の力倆(りきりょう)で構えて説いたものではない。
いずれもその折々に最も相応(ふさわ)しい
神々の指導助言の賜(たまもの)である。
万般の奇瑞(きずい)が続出するのも、
故(ゆえ)なしとしない。

諸賢が本著に親しむことにより、
“聖なる求め”を放棄することなく、
日に日に高きを望み、深きに入りて真理を
體得せられんことを、
神に代り切に切に望むものである。

昭和六十年五月二十八日
著者 谷口雅春
識す》

著者 谷口雅春師は昭和六十年六月十七日
午前七時五十三分、九十一歳の天寿を完うされました。
依って本著を追悼特別版とします。
右「はしがき」末尾の日付署名は、
著者の最期の署名とほぼ断定されましたので、
特に写真製版して掲出しました。
(『實相と現象』はしがき)

■: 体験的な

岡先生は令和5年5月24日夜10時半頃
帰幽されました。
冒頭のようにこちらの啓示板にお知らせしたのは、
令和5年5月28日14:48です。
何故5日も経過したかと言いますと、ご遺族から、
皆さんにお知らせするのは、葬儀(家族葬)が終わって
からにしてほしいとの、ご要望からです。
それで5月28日午後となりました。
上記聖典の尊師の最期のご署名と同じ月日に
こちらにお知らせされる事になったのです。
それがどうした。
たまたま偶然ではないかと言う方もおられると思います。
しかし、偶然というのは、ないと私(はうら)は思います。
終わりと同時に始まりがあるのです。
(初めなく、終わりなくです。久遠の今です。)
「継続は力なり」という言葉がありますが、
実相哲学の絶え間なき継続研鑽、
そしてその理念への展開の松明(たいまつ)を
皆様と共に掲げて、進んでまいりたいと思います。
5月28日について思い致した事柄です。

△: 追加です。

《「数は力なり」「点滴石を穿(うが)つ」
祈っているだけで行動を起こさなければ、
物事は成就しないのである。
生長の家は、決して個人だけの救いが目的ではない。
皆さんは神に選ばれた選士としての使命を自覚して、
一致団結して、一層大いなる貢献をし、
人類に対し、国家に対して成されんことを
希望する次第であります。》
(『實相と現象』262〜266要旨)


・13年間継続されている
『トキ掲示板』殿に敬意と感謝を申しあげます。

ありがとうございます。














本日は5月28日、はうら様がトキ掲示板へ初投稿してくださった日から、1年目にあたる日なのですね。... (65299)
日時:2024年05月28日 (火) 23時56分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)
>岡先生は令和5年5月24日夜10時半頃
帰幽されました。
冒頭のようにこちらの啓示板にお知らせしたのは、
令和5年5月28日14:48です。<

志恩ー
はうら様は、岡先生が帰幽されたことをお知らせくださる
ために、1年前の5月28日に、ご投稿くださったそうですけれど、
早いものですね、
あの日から1年が経ったとは。

はうら様は、生長の家の地方講師でいらして、生長の家の
会員でいらっしゃるそうですが、深く真理を学び続けて
いらっしゃいますお方で、奇跡と思えるような数々の貴重なご体験も
今でも、次々に体験なさっておられる不思議なお方だと尊敬申し上げて
おります。

ご自宅で、毎月「生命の實相」、その他をテキストにされた
WEB誌友会も開催されておられますけれど、
毎月、「ひかりのお便り」も発行されておられますし、
24時間個人指導対応という愛行も実践なさって
いらしてて素晴らしいお方で、光明化運動の実践者で
いらっしゃいます。

たまにではございますが、
トキ掲示板へ続けてご投稿くださいますこと、
大変心強く、勉強になっております。

初めてトキ掲示板へ出てくださった
5月28日にしましても、
偶然はなく必然であった。

谷口雅春先生が、
かって、5月28日に記されたご文章もあったとは
存じませんでした。
教えてくださって、ありがとうございました。

トキ掲示板は、おっしゃるように、
初代管理人様のトキ様が立ち上げてくださってから、
今年の6月5日で、はや13年目を迎えます。

トキ掲示板のことも祝福してくださって、
ありがとうございます。

私もトキ掲示板の投稿者の一員としてありがたく存じますが、
天国のトキ様も、きっと、よろこんでくださっていると思います。

今後も続けて、ご指導をよろしくお願いいたします。感謝合掌






宇宙浄化の祈り (65365)
日時:2024年06月03日 (月) 21時55分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。
宇宙浄化の祈りについてです。

☆: 真理

《 【 住吉大神宇宙浄化を祈る神想観】
「招神歌(かみよびうた)」四首朗誦
住吉大神(すみのえのおおかみ)出でまして
宇宙を浄(きよ)め給う
あー、おー、うー、えー、いー
住吉大神わが日の本(もと)を浄め給う
あー、おー、うー、えー、いー
住吉大神ここにあつまれるすべての人々の
生命(いのち)を浄め給う
あー、おー、うー、えー、いー
「気合」イユ ウー、
(ここで、念ずる言葉を各自黙念する)
住吉大神宇宙を浄め終りて天照大神出で
ましぬ》
(『詳説 神想観』253頁)

「あー、おー、うー、えー、いー」について

《 此の世界は言葉によって創られて居る。
(注。ヨハネ伝第一章「太初(はじめ)に言(ことば)あり。
言は神と偕(とも)にあり。
言は神なりき。
萬(よろ)ずのものこれによりて成り・・・云々(うんぬん)」)
此の言(ことば)の最初の根元的な陽性の言葉が、
「堅端(たちはな)の音(おと)」であります。
その「堅(たて)の端(はし・はな)にある音」と云うのが、
堅端の音であって、
「アイウエオ」の五つの音なんです。
この五つの音を「父音(ふいん)」と云う。
伊邪那岐神様は此の陽の音「アイウエオ」をもって
宇宙のコトバを浄化されたのであります。》
(『實相と現象』207.208頁)

あ・・・アミダ如来の「ア」 闇の世界、見えざる世界から、
 光の世界、 見える世界に出て来ること「アラワレル」
 天(あま)の意。
お・・・緒(お)・人間の魂の「玉の緒」の意。
 肉体人間の居住する「地」をあらわす。
う・・・浮(う)く。内部にあるものが外に 
 「浮き上がる」  「地」が「天」にあこがれて上(うえ)に
  浮きあがる。即ち「う」を唱えて「天」と 
 「地」が結ばれて一つになる。
え・・・柄(え)一つの元から分かれて棒(ぼう)
  が附いている意味。
 「エ」はその象徴である。  
 エは「天」は「陽」であり「地」は「陰」 
 であり、陽と陰が一つに結ばれた形である。 
 カタカナは、その音霊が象徴的に図形化して 
 あらわれた仮名である。
い・・・一切の者が出(い)づる。》
(『新版 真理』第4巻 187〜196頁)

“天地創造の原理”に従って「あおうえい」
と唱えるとその響きに従って
伊邪那岐大神の分神である住吉大神が
宇宙浄化の働きをされ、全てが浄まることになる。
(『生長の家 50年史』553頁)

■: 体験

或る日、早朝ただ一人教化部の大拝殿で祈っていた事があった。
超高圧の気が漲(みなぎ)り、
身体が吹き飛ばされるような雰囲気の中で、
邪気が払われ、やがてどこからともなく
「宇宙浄化」の祈りが聴こえてきた。
そして全ての悩み事が解消された。

(「實相額」のみが安置されていた頃の体験である。)

ありがとうございます。









はうらひとひら様 (65382)
日時:2024年06月05日 (水) 06時36分
名前:志恩

【宇宙浄化の祈り】
>■: はうら様の体験

或る日、早朝ただ一人教化部の大拝殿で祈っていた事があった。
超高圧の気が漲(みなぎ)り、
身体が吹き飛ばされるような雰囲気の中で、
邪気が払われ、やがてどこからともなく
「宇宙浄化」の祈りが聴こえてきた。
そして全ての悩み事が解消された。

(「實相額」のみが安置されていた頃の体験である。)<

志恩ー
いつもながらの素晴らしい体験談をしみじみとした気持ちで
読ませていただきました。

谷口雅春先生は、皆様もよくご存知の通り、お金儲けをするために
生長の家という宗教団体を、創設されたのでは、ありませんでした。

啓示がおりて、心底尊いお気持ちから、宇宙浄化のため、人類光明化
のために、宗教団体を起こされたのでした。

私は、はうら様のこの体験談を拝読しまして、
谷口雅春先生が総裁先生でいらした時代、
原宿本部大道場で
毎朝行われていた早朝神想観の行事に、あの頃、
宗教大嫌いだった父が、生長の家大好き人間になってくれましてね、
その父が、本部の早朝神想観に、通いたいというので、
父の希望を叶えてあげたくて、あの頃、私は本部職員でしたけれど
父と二人で、毎朝、早朝に
起床し、電車に乗り、本部の早朝神想観に、すごく純粋な真面目な
気持ちで通っていた時のことを思い出して、涙が溢れてまいりました。

私たち信徒たちも、谷口雅春先生を見習って、後に続いて
人類光明化運動の一員として、生きていきたいと
切に願っていたからです。

谷口雅春先生のことは、
あの当時、私は、本部職員であり、
お山係でもありましたので、おそばでいつも拝見していましたが、
崇高な雰囲気の、質素で清廉潔白なたたずまいの、まるで神様のような
すばらしいお方でいらっしゃいました。

早朝神想観に参加される信徒の方々には原宿本部の食堂で
行事の後、無料で、あたたかい丼ものの芋粥を食べさせてくださって
いました。
谷口雅春先生の、これも信徒に対するご愛念でされていたのでした。

聖使命会費だって、普通のはあの頃も、たしか一人500円でしたから、
信徒から多額のお金を徴収することなども、ありませんでした。
生長の家は、儲けるために、開設された宗教団体とは、全然違いますから。

私は、あの頃から、おかしいと思うことは、おかしいと思うと、
輝子先生に対しても清超先生に対しても、はっきりと
面と向かって申し上げるタイプの人間でしたけれど、
だからといって、そんな私を罰するわけでもなく、
そんな私にも、いつもあたたかく、愛ふかく
接してくださっていた貴いお山様ご一家様でした。

お山様ご一家様、ありがとうございます。

はうら ひとひら様 (65502)
日時:2024年06月16日 (日) 13時36分
名前:志恩

はうら様へ

志恩ー

6月15日開催の『ZOOM実相ひかり誌友会』メモを
送ってくださいまして、ありがとうございます。

谷口雅春先生が書かれた大事なお言葉も書かれておられますが、
その他の重要なことも、さらりと書かれていらして、
今回も、読み応えのある素晴らしい内容です。

また、参加者の皆様を
ABCDに変えまして、
トキ掲示板へ
載せさせていただきます。

はうら様が、トキ掲示板へ時たまご投稿くださいますので、
トキ掲示板に厚みと深みが出まして大変ありがたく存じて
おります。
ほんとうにありがとうございます。

_______________
 ー以下、はうら様のご文章です。ー

6月15日開催の『ZOOM実相ひかり誌友会』メモ
(文責・はうら ひとひら)

日時:令和6年6月15日 午後1時半より約2時間
・出席者(敬称略、50音順)

・ はうら  ・A

(メール等にての参加者)
・B・C ・D・E

■  A

 出講は、今殆どが自然やオープン食堂や
PBS関係なので、私の出番ではありませんが、
たまには、真理の話で出講する事はあります。

・今原点にかえって、リアル(対面)で地域
に密着した、ミニ勉強会を、少人数で始め
ます。
それぞれの地域で何か所か作って、楽しみながら、真理を
生活に溶けこませて、燎原の火のように
ひろがれば、よいと念じています。

『生命の實相』頭注版全40巻纏めとして
強い印象を受けた処
(編集:はうら)

・予備知識として(1)

(生命の實相と神示の関係)
《 『生命の實相』が五十数年前に刊行され
たとき、聖書型の黒革の表紙には、私(編集注:
谷口先生)の名は無かった。その後も形態は
種々の変遷があったが、表紙や函(はこ)の
背表紙には、「生長の家聖典」とのみ記して、
著者名は出さなかった。
表紙の平(ひら)とか扉には、いつの頃からか
名が出るようになったが、携帯版の前まで、
背文字は一巻して「生長の家聖典」であった。
神が私をパイプとして書かしめた聖なる典籍
(てんせき)との畏(おそ)れ慎(つつ)しみ
であった。
「神 真理を告げ給う』の冒頭には、
次の如くに述べられている。
「”わたし”(編集注;神)は今まで多くの
教祖や哲人を通して人生の意義を説いて来た。
君たちのうちには熱心に真理を求めて色々の
書物を読み、色々の学者の説を読み、
それに基いて思索をし、既に人生の意義を
知ることが出来た人もある。
しかしそんな人は非常に稀(まれ)であって、
大抵(たいてい)は、自分の偏見(へんけん)や
既成概念の中を迂路(うろ)チョロしていて、
悟ったつもりで実際は悟っていないか、真理
なんて求めても到底得られるものではないのだ
という絶望感で、“聖なる求め”を放棄(ほうき)
している人もある。
そのような人たちに“私”は、今ふたたび真理を
知らせてあげたい愛念によって、今此処(ここ)に
谷口雅春を通して真理を説こうと思うのである。」
更に次の節には、
「・・・・・それらの宗教教祖や碩学(せきがく)や
大哲の中に¨わたし”は宿って、人々を導くために
¨わたし”は書いたり、説いたりして来たのである。
真理は人間の肉體から生まれて来るものでも、
人間の脳細胞から生産されて来るものでもなく、
實にそれらの人々に宿っている¨わたし”が
それを説いているのである・・・・。」
「しかし¨本当の教祖”というべき¨真理の啓示者”は
¨實相世界”にある¨神”のみなのである。
イエス・キリストも『師というべき者は、唯ひとり
天の父のみである』といっているのである。
この¨わたし”は勿論、言うまでもなく神である。

このような文章ーーー神の言(ことば)に接する
毎(ごと)に、私(編集注:谷口先生)は畏(おそ)れ
平伏(ひれふ)すのである。
そして図(はか)り知れない神のはからい、
摂理(せつり)、お導きに、谷口は十二分に
お応(こた)えし得たであろうか、この九十余
年の生(せい)を以て些(いささ)かの悔いる
ことなく盡(つく)し得たであろうか。
と魂の打ちふるえるのを覚えるのである。
そして谷口に賜(たまわ)った神々の大いなる
恩寵(おんちょう)に、唯々感謝合掌、悦びが、
悦びの波紋が見渡す限り拡がる様を、心眼に
拝するのである。
・・・・・・もとより谷口の脳髄知、谷口の力倆(りきりょう)
で構えて説いたものではない。
いずれもその折々に最も相応(ふさわ)しい神々の
指導助言の賜(たまもの)である。
万般の奇瑞(きずい)が続出するのも、故(ゆえ)なし
としない。
諸賢が本著に親しむことにより、“聖なる求め”を放棄する
ことなく、日に日に高きを望み、深きに入りて真理を
體得せられんことを、神に代り切に切に望むものである。
(『實相と現象』はしがき)

・予備知識として(2)

生長の家は一朝(いっちょう)にして、ただの霊感だけで
迷信的にヒョッコリと生まれ出たものではなく、わたしの
長い間の生活体験を通しての思索体系がクライマックスに
達せる時、百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)、
霊的飛躍が忽然(こつねん)花開いたものだと
言うことが出来るのである。
(『生命の實相』第20巻 26頁)

最も印象深いご文章3選

(縦と横の真理)
1.《 心相応のことが顕(あらわ)れて出るまでは償(つぐな)
われないというのが因果(いんが)の法則なのであります。
この因果の法則は生長の家でいう「横の法則」でありまして、
三界(さんがい)は唯心(ゆいしん)の所現(しょげん)
として心相応のものが形の世界に顕われてくるのであります。
しかし「目には目を、歯には歯」を報(むく)いるのであって、
報い切るまでは救われないというのでありましたら、そこには
宗教的救いというものはありえないのであります。
そこに償(つぐな)い切らなくても救われる道がなければ
ならない。因果の法則を超越して救われる道がなければ
ならない。それはあるか?
あります。
それは、生長の家で説く「縦の真理」でありまして、
この「縦の真理」から観(み)ますと唯心所現のひろがりの
世界がどうあろうとも、そんなものは影の世界であって
問題とするに足りないのであります。
縦に久遠を貫く自分の実相ー実の相(すがた)はそんな
横に広がる現象を超越して、久遠生きとおしの健全な、
汚点(よごれ)のない、穢(けが)れのない、神の子であり、
仏であるのであります。
この実相の心を集める時、われわれの心に描いたー
現象世界を現すところのフイルムに当たる「念」からは
迷いのむらむらが除かれ、たちまち実相の光の源の中へ、
ひたむきに飛び込んで行くことができるのであります。
「悟(さと)りの中には因(いん)なし」と『涅槃経
(ねはんぎょう)』には書いてありますように、
実相、光明遍照(へんじょう)の光の中に入って行った
時には、もういっさいの「因」はない、「因」が
なければ「果(か)」もない、したがって十の罪に対して
も、十の贖(あがな)いをしなければならないということが
超越されてしまうのであります。
『生命の實相』を読んで病気や災難を免(まぬが)れる
というのも神の造り給うたままの実相の光に照らされて
因果を超越した世界をそこに見出すからであります。》
( 頭注版『生命の實相』 第30巻 223〜225頁)

(現象にも二つある)
2.《 善き言葉は実在の中から飛び出して来た言葉
である。いわば、「神」の国策線に沿うコトバである。
悪(あ)しき言葉は本来虚のコトバである。
神策(しんさく)に沿わぬコトバである。
虚(きょ)のコトバから発生したものは本来が虚で
あるからあるように見えても存在せぬ。
そういう現象を偽象(ぎしょう)または虚像(きょしょう)
と言う。
善き言葉であらわれた現象は、実在の延長であるから
真象(しんしょう)と言うのである。
真象は神御自身のコトバの延長であるから、神の
嘉(よみ)したまうところである。
神は表現を求めていられるのである。
真象は神の表現であり、神の発展であり、み心の天になる
がごとく地に成ることである。
真象は神の御稜威(みいつ)の降臨(こうりん)で
ある。理念の表現である。
現象にも真象と僞象とがあることを知らねばならぬ。
「現象なし)と断(た)ち切る場合は
「偽象」なしの意味である。
「神」の『心』動き出(い)でてコトバとなれば
一切の現象展開して万物成る」という場合の
「現象」は真象である。》
( 頭注版『生命の實相』 第38巻 104〜105頁)

(実相を顕すには)
3.《 われわれの「生命」は本源において神と同一
流れの「生命」を汲(く)んでいるのでありますから、
われわれがその本源に対して心の堰(せき)を設けず、
出来るだけ、心の耳を傾けてその本源の知恵に聴(き)く
ようにしますならば、われらにとって必要なる
あらゆる知恵はわれらの心に流入してくるのであります。
われわれは窓を開いてただ眺(なが)めればよいので
あります。

実相の理想世界はすでに在(あ)るーー
われらが心の窓を開(あ)ければそれが現実世界のものに
なることの譬(たと)えであります。

心をとざしている扉とは、人間の小知才覚
(しょうちさいかく)であります。

聖典『生命の實相』に示されている真理を体得し、
これを信じ、生き、動くとき、医薬不治(ふち)の
病が解決するばかりではなく、経済の問題でも、
社会の問題でも、家庭の問題でも、すべての問題が
解決するのであります。なぜならこの聖典に示され
ている神の知恵は無限であり、神の子なるわれらの実相
のうちにはいっさいが備(そな)わっているからで
あります。
「人間の本質は神の子であり、自己のうちに知恵でも、
愛でも、生命でも、供給でも、いっさいが無尽蔵
(むじんぞう)に内在する』という真理を信ずる
ことができない者は、これらの完全なる供給の
神流(かみなが)れを受け容(い)れることができない
のであります。

およそ布施(ふせ)のうちで何が最も大きな
布施(ほどこし)であるかと言いますと、
彼自身の内に埋蔵(まいぞう)されたる無尽(むじん)
の宝庫に目覚めさせてあげるほど、偉大なる
布施(ほどこし)はないのであります。⦆
( 頭注版『生命の實相』 第8巻 46〜48頁)

・関連
《 成仏(じょうぶつ)はこれから成る仏では
なくて、已成(いじょう)の仏である。
已(すで)に成れる仏が、ただ観(かん)と、
念(思念)との作用によって現実化するのであります。》
( 頭注版『生命の實相』 第39巻 189頁)

・【 『生命の實相』体験】

令和5年5月24日に帰幽された岡先生は多くの宿題を残して
下さった。
どれも大変重いものであるが、霊界ですでにそれらは
完成されているというので、後を引き継ぐものは、
ただそれを継承すればよいので、これ程楽な事はない。

その一つに2つのコンテンツの維持管理がある。
一つはご家族の方が、情報を調べて下さっていたので、
わりと順調に継続ができた。
もう一つはログインIDやパスワードなど皆目わからなかった。
暑い夏の日、次々とソフトのプロが3名、休日ごとに岡先生宅を
訪れ、挑戦したが、全く情報は不明であった。
コンテンツ関連のご家族にはすでに、継続の了承を得ていた
のでどうしてもそれを継続させることは必要であった。
有効期限は2023/11/30であった。
刻々として有効期限は迫っていた。
令和5年11月に入っても全く解決策が見いだせずにいた。
このコンテンツを瞬時に消える事だけは、絶対にあっては
ならないが、それが出来ない。
このコンテンツによって多くの方が癒されていた事を思うと、
暗澹(あんたん)たるものがあった。
私は覚悟を決めた。
48歳の時、医者から余命1ヶ月といわれ、兄弟が喪服の
用意までしたが、実相哲学によって肉体の崩壊が取り除かれ
これまで生かされてきたが、その生長の家から去ろうとした
のである。それほど追い詰められていた。
誌友会への支援金などはすべて、感謝としてそのご家族
に持参した。身辺を出来るだけ整理した。
有効期限は静かに、迫っていた。
ただ感謝の気持ちと、心を真空の状態にしてその日を迎えよう
としていた。
令和5年11月29日夜、23時59分 日付けが替わろうとするその時
ある方から一通のメールがあった。

そこには、あれ程不明だった、コンテンツ管理の為の
ログインID.パスワードなどが記載されていた。
消滅寸前で、継続が出来た。

お蔭様でいまだに、生長の家の会員をさせていただいている。
霊界からのご支援があった事は難くない。
心を空(くう)にすると、その時その空を埋める為に
どのようなものが入り込むかは、その時のその人の
心の状態によると思う。
全托とはそのような心が神に向かっている状態なのかも
知れないと、思った次第である。
死に切るのは、やはり難しいが、何度かは、経験しているので、
常にそうありたいとは思うが・・・・
自我がすぐに顔をだす。
「死ね、生きる」

《 わたしがこの人に対して与えた答えは
なんだったと思います。
「死ね、生きる』という言葉だったのです。
この言葉が出たのはわたし自身が死んだ上で
浮かび上がってきた生き方をしているからです。》
(『生命の實相』頭注版 第15巻 133頁)

峻厳(しゅんげん)なお言葉である。

この体験を通して、あの千頁からなる榎本先生の
御本が世の中に出せることになったのである。
人間知恵では計り知れない事である。


メール等にて参加

■: D(メールにて)



合掌 「ひかりのお便り」6月号と月訓が

5月28日に届きました。



毎月有難うございます。

6月15日誌友会のテキストが引き続き

「生命の實相」全40巻の纏めと告知されております

が、先月の投稿に加えるようなこともありません。

今月は次のように投稿させていただきます。                 

                                               

@纏めについて

 ・5―18日誌友会メモ には、最も印象深いご文章

という見出しで、「生命の實相」で述

べられている生長の家の特徴を、

箇条書きで簡潔にまとめておられますね。

また、ご体験も鮮烈でございます。



 ・お便り6月号には、「生命の實相」のダイジェストと

言われている

「甘露の法雨」を

採り上げられたのは尤ものことと思います。

  また、無門和尚の頌について私の感想は、

この和尚さんどの公案にもいつも辛辣な物言い

をされるのですが、趙州和尚の端的な公案には

一本取られたというような気持ちも

込められているように思っています。



A『戀愛・結婚・母性』(新選谷口雅春法話集第2巻)

を自習しました。

 ・第四章p51 美といふものが自分の内にあるとき

美は其儘自分と一體であります。

それは畫想と云ひうるかも知れませぬが、

心の中の美のまゝでは、畫家は其の心の中にある美を

ハッキリ見ることが出來ないのであります。

そこで畫家は自分の心の中ににある「美」を假りに、

自分と離れたところの別の畫面に寫し出して

繪として表現する。その時初めて其の美といふものを

感じ知ることが出來るのであります



−実相と現象の関係をこのようにご説明されている

こともあるのです。

 ・第五章 p77

到底、愛し得ない相手と過って結婚したときには、

過って改むるを 憚ることなく、

その結婚を速やかに解消して、眞實の結婚を求めて

再生する方がお互に幸bニなる道なのであります

     −これはまた率直なご教示です。



・第九章p187

こんな靈は自然靈と云ひまして、

人間としても動物としても生まれたことのない

靈界にだけゐる自然の靈なのであります。

祠にお祭りして『甘露の法雨』を誦げたらいい

     −「自然靈」は多分、初見です。

 ・第十五章

 ――スター・デイリー師とライファーさん、

ロイ・キャウルサ婦人(第六章ではダウラン夫人)

とヒウストン博士の組み合わせを見るにつけ、

素晴しい指導者はいたるところにいらっしゃるのですね。

 ・第十六章p231

悲劇は悲しんでゐる人の魂に觸れる。

その魂に深く觸れて行って、

それによっ觀客の心の奥深くある悲しみが表面に誘導され、

浮かび 上がって消滅するのです

 −いわゆる、觀念泄寫ということを仰っているのでしょう。

 p233

物の觀方には、「卽いた觀方」と「離れた觀方」とがあります。

ものは 離れて觀たとき、美化して感じられるのです

−確かに、過去は美しいです。

 ・第十七章p245

本當の意味でプラトニック・ラヴなどと云ふものは殆ど全く

存在 し得ない

 −キリストの「色情が起これば姦淫だ」と同様の一喝です。

 ・第十九章 ――

一遍の小説のように拝読しました。A女史の体験を

まとめられたものですが、

会話などはまるで小説のように構成されています。

流石、青年時代に文士を志望しておられた筈です。



B悲歌劇「ロメオとジュリエット」

(NYメトロポリタンオペラ公演の映像)をマチネで鑑賞。

 上記第16章に因んだということでもないのですが、

観ましたのは有名なシェーク

スピアの悲劇をグノーがオペラ化したものです。

涙もろくなっているせいか、

上映中何度も両目の涙を拭きました。

文豪の練り上げた修辞に満ちた歌手たちのやり取りも

見後なものですが、作曲家が悲恋物語にインスパイヤされて

作り上げた音楽にも心を揺さぶられました。

偉大な芸術作品に触れると、

大聖師の仰る効用の他にも多くのメリットが

あると思います。



・ はうら ひとひら



いつもご教示いただきまして、感謝申しあげます。
暑さに向かう折柄、ご自愛ください。
いつもありがとうございます。

■: C(メールにて)

いつもありがとうございます。
ひかりのお便りを拝読致しました。
今月も素晴らしい真理の言葉、私に必要な言葉が書かれております。
心に刻み、日常生活に実践して活きたいと思います。
感謝です。
ありがとうございます。

・ はうら ひとひら

暑くなりましたが、お元気でしょうか。
いつも通信文読んでいただきまして、
感謝いたします。
真理を活かす生活、ステキな最高の生き方ですね。
いつもありがとうございます。

■: E(電話にて)

盛岡出張が一日伸びて、15日までとなりました。
皆様に宜しくお伝えください。

■: B(メールにて)

大聖師の墓前にて

 合掌、ありがとうございます。
6月17日は、谷口雅春大聖師の三十九年祭です。
当日、大聖師の墓参に行けない為、先日、
多摩霊園の大聖師の墓参をして、世界平和と
ある関係者の方々の
実相顕現のお導きを賜りますよう聖経読誦をして
お祈りして参りました。
現象世界は唯心所現の世界であることを
大聖師はお説きくださいましたが、
大聖師が神界に御還りになられて50年にも経たない内に、
世界に、日本に、
何とも憂える日々が続いている事に、
大聖師に申し訳なさに涙が溢れました。
 相手に大調和を求れども、求れば求るほど闘争精神、
批判精神満ち溢れ、
戦争、裁判と争い事が絶える日はありません。
何故、同じ人間、同じ御教えを学んだ人達が争うのか。
「汝ら天地一切のものと和解せよ。」「省みて和解せよ。」
との神の言葉(神示)の誤用と言わざるを得ません。
本来の「生長の家」は今、何処?と悲嘆に暮れます。
「現象無し」と一切を否定し
「実相独在」の世界に一躍超入する神想観をお伝えくださいました
ことに深心の感謝を捧げます。
常に神に還る生活を実践することの大切さを教えられる
毎日に深く感謝申し上げます。


・ はうら ひとひら

いつも大切な事をご教示いただきまして、
感謝いたします。
現象はないはずなのに、偽象にふりまわされている
自分に愕然といたします。
暑い日が続きます。
ご自愛ください。

今回も多くの感動がありました事
感謝いたします。
ありがとうございます。
---------------------------------------------------

ついに (65506)
日時:2024年06月16日 (日) 14時41分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。
令和6年6月号の『生長の家』機関誌(情報誌)が
月初めに届きました。

その59頁に「本部組織の一部を改革」として
「6月1日付けで機構改革が行われ、
運動推進部は「地球社会貢献部」に改称され、
講師部に「研究課」が新設されました。
研究課では、地域社会貢献部が推進する
業務の宗教的、学問的根拠と展開方法を研究し、
必要な方策を提案します。

本部人事

谷口暁子
(講師部講師教育課課長)
同部部長

☆: 真理

《 生長の家の地方講師のように、
講師を生活に必要な職業とせず、
完全に奉仕精神を貫き得る位置にいられる人たちは、
自己の生計と、講師の聖職とを混同しないでいられる
位置にあられるのでありますから、
どうぞその聖職の意義を悟って、
純粋に純粋にただ「人類を生かしたい」
「兄弟を生かしたい」の愛他的精神に成り切って、
神様の完全なアンテナになり切って生活に模範を示し、
神様の教えを純粋に感受して歪(ゆが)みなく
教えを伝えられたいものであります。》
(『到彼岸の神示 神示講義・自覚の巻』154頁)

■: 体験的な

ついに、真理のようなものを人間知恵で研究して、
それを地方講師にやらせようとしている。
それは、令和4年11月の「代表者会議』で総裁が
「聖典に書かれていても今日の科学的根拠と一致しない
記述はそのまま引用して教えを説くことをやめ、
現実生活で行う運動に則するために、
論理的に考え、伝える方法を身につける必要がある』
(『生長の家』機関誌令和4年1月号25頁)
の実践である。

私は一地方講師補であるが、
WEBでの誌友会の他に地域で数人の小さな勉強会を
いくつか作り、根本から真理を勉強し、
生活の中に真理を溶け込ませてそれを生きる為の
行動を起こしたい。
この月(6月)一か所その拠点と参加される方をそろえた。
それを何か所か立ち上げて、
燎原の火のように真理で照らしていきたい。
あの立教時の輝きをとりもどしたい。
自分の力では出来なくても、
神なら必要とあらば何でもできる。
24時間365日の個人相談の受け付けの時でもそうであるが、
使命があれば、必ず援護、支援は
現界・霊界からいただけるものと信じている。
どうぞ宜しくお願いいたします。
皆様ご指導ください。

ありがとうございます。














現象について (65839)
日時:2024年06月30日 (日) 08時37分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。
本部が今の『聖光録』と位置付けしている
『“新しい文明”を築こう』上巻
(監修 谷口雅宣)36.〜38頁から

『谷口清超先生が生長の家の運動において大きく
貢献されたことが二つあります。
その一つは「三者組織の構築」であり
その二つは「聖歌の作詞・作曲」です。
「三者組織」とは、現在の白鳩会、相愛会、青年会です。

・・・谷口雅春先生と輝子先生も聖歌を作詞はされましたが
作曲はなか った。

・・・1985年(昭和60年)11月の新総裁襲任の挨拶で
法燈継承の真義を明らかにされ、
ご自分は教えの神髄である「不立文字(ふりゅうもんじ)」
を継承するのであって、
谷口雅春先生が説かれた一言一句を
その通り繰り返して述べることはしない、
と明言されました。

☆: 真理

《 昔、禅宗などの坊様が、
不立文字(ふりゅうもんじ)と云って、
文字には書くことが出来ない、
口で云うことが出来ない、心と心と、先生と弟子と、
直接接して長い間修行しなければ得られないと
云われていた「悟(さとり)」と云うものを、
私は文字に書き印刷して、
誰にでも大量に容易(たやす)く、
悟りを得られる方法を発明したのです。》
(『新版 真理』第1巻 52頁)

☆: 真理

(現象にも二つある)
《 善き言葉は実在の中から飛び出して来た言葉である。
いわば、「神」の国策線に沿うコトバである。
悪(あ)しき言葉は本来虚のコトバである。
神策(しんさく)に沿わぬコトバである。
虚(きょ)のコトバから発生したものは
本来が虚であるからあるように見えても存在せぬ。
そういう現象を偽象(ぎしょう)または虚像(きょしょう)
と言う。善き言葉であらわれた現象は、
実在の延長であるから真象(しんしょう)と言うのである。
真象は神御自身のコトバの延長であるから、神の
嘉(よみ)したまうところである。
神は表現を求めていられるのである。
真象は神の表現であり、神の発展であり、
み心の天になる
がごとく地に成ることである。
真象は神の御稜威(みいつ)の降臨(こうりん)で
ある。理念の表現である。

現象にも真象と僞象とがあることを知らねばならぬ。
「現象なし」と断(た)ち切る場合は「偽象」なし
の意味である。
「「神」の『心』動き出(い)でてコトバとなれば
一切の現象展開して万物成る」
という場合の「現象」は真象である。》
( 頭注版『生命の實相』 第38巻 104〜105頁)

☆: 真理

《 宗教と云うものは体得であり、体験であります。
それを実際にやって見なければ本当のことが
分らないのであります。》
(『日常生活の中の真理』86頁)

■:  体験

『新版 生長の家 聖歌歌詞66』116頁
『かみをたたえて』
(谷口清超・作詞)
『三、かみしらず かみつくらざる 
げんしょうは すべてむなしき・・・』

むなしき の『き』とは
過去の直接経験を回想的に表している。
(大辞泉)
現象は全て空しかったという意味であろうか。
入信したての頃、いろいろ現象的に困難があらわれても、
すべて虚しいものであると思っていた。
(上記の歌詞のように)しかしあるとき、
いやその困難の奥に、この艱難の意味するものが
あるのではないかと思った時があった。
そして3年かけて「甘露の法雨』を1万巻読誦していた。
(十年位前の事である。)
別に何の目的があった訳ではない。
ある地方講師から「行ありて願なきは仏の魔亊なり」
と言われたこともあった。
しかし気付いたら1万巻以上読誦していた。
何だ。何も変わらないではないかと思った瞬間
十数件の神癒が発生した。
5千萬円の負債の瞬時解消。
肺がCT画像に真っ白になって映っていたが、
4日後に画像が正常にもどった。
大量の血を吐いた人の症状を知らずに祈ったら、
2日後に完治していた。
数十年間引き籠もっていた家族の相談に乗って
(これも引き籠もりなど知らなかったが)
先祖供養を分る範囲で全て行うよう話したら、
3日後に、大金が入り、引き籠っていた人は
髯をそり和服に正装して近くの松陰神社に参拝した。
出講先の誌友会で、「明日癌の手術のため入院します。」
という方がいたが、翌日入院準備をして行ったら、
完治していた。等等

これは自慢話ではない。
『甘露の法雨』を読誦する者が、そのまま真理を理解する
ことが出来た。
(本当に理解出来たかは別にして波動が現界・霊界を通して
慈悲の體となって救済が行われるのであろう。)
これこそ尊師が不立文字を克服し、
超越された証である。

ありがとうございます。











はうらひとひら様 (65848)
日時:2024年06月30日 (日) 18時05分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)
>【現象について 】



ある地方講師から「行ありて願なきは仏の魔亊なり」
と言われたこともあった。
しかし気付いたら1万巻以上読誦していた。
何だ。何も変わらないではないかと思った瞬間
十数件の神癒が発生した。
5千萬円の負債の瞬時解消。
肺がCT画像に真っ白になって映っていたが、
4日後に画像が正常にもどった。
大量の血を吐いた人の症状を知らずに祈ったら、
2日後に完治していた。
数十年間引き籠もっていた家族の相談に乗って
(これも引き籠もりなど知らなかったが)
先祖供養を分る範囲で全て行うよう話したら、
3日後に、大金が入り、引き籠っていた人は
髯をそり和服に正装して近くの松陰神社に参拝した。
出講先の誌友会で、「明日癌の手術のため入院します。」
という方がいたが、翌日入院準備をして行ったら、
完治していた。等等

これは自慢話ではない。
『甘露の法雨』を読誦する者が、そのまま真理を理解する
ことが出来た。
(本当に理解出来たかは別にして波動が現界・霊界を通して
慈悲の體となって救済が行われるのであろう。)
これこそ尊師が不立文字を克服し、
超越された証である。<


志恩ー
現象はない、ということは、全て空しき、
という意味では、なかったのですね。

それは、頭で理解することはなく、
ただひたすら、聖経読誦などの実践に
より、魂で体得するもの。波動で理解するもの。

聖経を1万巻以上読誦した結果、
何も変わらないと思ってた現象に神癒が次々に
起こったこと。

不立文字を克服し、超越された、とはこういうことかと
教えられたこと、などの尊い体験をお話しくださいまして、
このたびも、大変教えられました。
ありがとうございました。



はうら様へ 「むなしき」の「き」は過去形ではありませんよ (65854)
日時:2024年07月01日 (月) 07時13分
名前:はうら様を仰ぐ一読者

はうら様へ
「むなしき」の「き」は過去形ではありませんよ

過去形の「き」というのは助動詞です

「むなしき」の「き」は形容詞の「むなし」の連体形です
形容詞の連体形は次に来るコトバを説明します

この聖歌では
むなしき→かりのもの
と続くので

「むなしい仮のもの」という意味です
過去形ではありません

ちなみに形容詞の「むなし」を過去形にするなら
「むなしかりき」又は「むなしかりけり」

後にコトバが続く連体形で過去の形にするなら
「むなしかりし」又は「むなしかりける」
となります

はうらを仰ぐ一読者様 (65857)
日時:2024年07月01日 (月) 12時29分
名前:はうら ひとひら

はうらを仰ぐ一読者様

ご教示くださいまして、誠にありがとうございました。
今後よく勉強して投稿したいと思います。
本当にうれしかったです。
ありがとうございます。
今後ともご指導くださいますようよろしくお願い
申しあげます。

感謝 合掌 はうら ひとひら 拝

はうらひとひら様 (65860)
日時:2024年07月01日 (月) 13時07分
名前:志恩

なんとお答えになられるかしらと思っておりましたが、
あっさりと、わびられて、すごい謙虚でいらして、いいなぁと
あらためて尊敬の念をいだきました。

RE;現象について (65839) (65862)
日時:2024年07月01日 (月) 16時29分
名前:本音の時代

【・・・1985年(昭和60年)11月の新総裁襲任の挨拶で
法燈継承の真義を明らかにされ、
ご自分は教えの神髄である「不立文字(ふりゅうもんじ)」
を継承するのであって、
谷口雅春先生が説かれた一言一句を
その通り繰り返して述べることはしない、
と明言されました。】

これは正しいでしょうか。雅宣さんが自分言動を正当化するため、ある面創作していませんか。


谷口清超先生の言葉が「生長の家」誌 昭和61年2月号には次のように掲載されています。

【不立文字の継承
世の中には、「継承」ということを何か誤解している方もいらっしゃいまして、谷口雅春先生のお説きになった一言一句をその通りまたくり返しお伝えするのであろう、かの如く思われる方もおられるかもしれませんが、実はそういうものではないのであります。つまり、教えの神髄の不立文字をお伝え頂き、それを継承するということでありまして、(略)この真理は言葉では尽くせないがお前に譲ったぞということでありまして、この事は先生のお説きになられた
一言一句をまたくり返し説けということとは違うのであります。】



教えの神髄の不立文字の継承とは、当然、雅春先生がお説きになった教え(発言、言葉、文章)は含まれているのであるが、それを説く方法としては、雅春先生と同じ一言一句をまたくり返すのではないということなのでしょう。

 (65865)
日時:2024年07月01日 (月) 19時00分
名前:桜咲く

合掌有難うございます。
はうらさん初めまして。
こちらのスレッドを今日始めて拝見させていただき、
少しリンクしていたことに驚きました。 
nhkプロジェクトXの、
エンディングに流れる「ヘッドライト・テ−ルイト」、
人や自分自身の人生が重ね合わさり、感動以上のなんとも形容し難い涙が。
 

素晴らしい曲ですね。アップしました。 (65866)
日時:2024年07月01日 (月) 22時11分
名前:志恩

【プロジェクトXエンディング】【BOSS CMソング】
ヘッドライト・テールライト/中島みゆき(歌詞付き)
https://www.youtube.com/watch?v=INzYpdZQzEw

蛇足ながら (65868)
日時:2024年07月01日 (月) 23時30分
名前:はうら様を仰ぐ一読者

65857のようにおっしゃっていただき恐れ入ります。
わびるとかあっさりとかというふうに受け取られた方もいらっしゃるようですがわびていただくようなつもりではないことはお汲み取りいただいていると思っています。

はうら様もちゃんと「き」の意味を大辞林で調べていらっしゃるし別にそれをけなすつもりなど毛頭ないこともお汲み取りいただいていることかと思います。

それなら
過去を表す助動詞の「き」と
形容詞が連体形になった時の「き」
との区別は?

辞書に載る「き」は助動詞の「き」の終止形
辞書に載る形は終止形なので「。」が付く
マルを打ってその文は完結


ヨハネ伝福音書第一章
太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神と偕(とも)にあり、言(ことば)は神なりき。
(谷口雅春先生は「神なりき。」という過去形の日本語訳に疑問を呈しておられますね。過去だけのことではないと。)

それに対して辞書の見出しにならない「き」は終止形ではないので「き」の後に「。」が付かないで他のコトバが続く


聖歌「久遠いのちの歌」のナレーションの後のフレーズ
空しきものは「我」に非ず、
の「空しき」の「き」(「もの」を説明)

ありがとうございます

はうら様を仰ぐ一読者様 (65871)
日時:2024年07月02日 (火) 00時59分
名前:志恩

どなたでも、間違いはあるものです。
あなた様は、間違いを深切に教えて差し上げたのですから、
どうぞ、気にされないでください。

間違いを教えて差し上げたのに、無視する人もおりますが、
はうら様は、言ってくださったことを、とても嬉しかったと
感謝された上で、間違いをあっさりと認めて、
わびられたのですから、健全な意見交換がされたと
私は思っておりまして、貴方様を非難する気持ちは
微塵もございませんので、ご安心くださいませ。

私もうっかり間違えることが多々ございますが、それを言って
下さると嬉しいタイプです。



 (65874)
日時:2024年07月02日 (火) 13時16分
名前:桜咲く

番組最後で流れるひと時、番組のなかのプロジェクトのみ ならず、各々がそれぞれ他や自己の人生のプロジェクトを想起するのは、みゆきの声のバイブレーションによるところもあるように感じます。

はうらを仰ぐ一読者様・志恩様・桜咲く様 (65876)
日時:2024年07月02日 (火) 14時44分
名前:はうら ひとひら

はうらを仰ぐ一読者様
大変わかりやすいご教示感謝申しあげます。
ありがとうございました。

志恩様
はうらの至らないところを、いつもさりげなく
フォローいただきまして、ありがとうございます。

桜咲く様
はじめまして、どうぞよろしくお願い致します。
私、偉そうにしておりますが、こちらに投稿させて
いただいて、まだ一年目の新参者です。
昨年5月に靈界に引っ越された大先輩の意志実現に向け
皆様と共に、「旅はまだ終わらない」仕上げ途中です。
多くの困難と思える事象を、楽しみながら、現界・霊界
のご支援を仰ぎながら、新プロジェクトXを喜びながら
推進したいと思っております。
最後のご使命を果たす時と思っております。
どうぞご指導の程お願い申しあげます。
ありがとうございます。

礼拝 はうら ひとひら


 (65877)
日時:2024年07月02日 (火) 17時25分
名前:桜咲く

合掌有難うございます。

はうら様のプロジェクトXの志を心より支援します。

袖擦り合うも多生(他生)の縁と申します。

こちらこそ、ご指導お願い申し上げます。

はうら様、まだ終わらない旅、共に。

トットちゃん (65920)
日時:2024年07月04日 (木) 17時49分
名前:桜咲く

はうら様
明日夜の新プロジェクトXは
生長の家生命の教育を彷彿させる
子らの生命力をエデュケーションする教育を実践した
先生とそれに呼応した子どもたちの記録のようです。

愉しみですね。

新プロジェクトX、放送予定日 (65922)
日時:2024年07月04日 (木) 18時55分
名前:志恩

https://www.nhk.jp/p/ts/P1124VMJ6R/schedule/

【新プロジェクトX】
「トットちゃんの学校 〜戦時下に貫いた教育の夢〜」
黒柳徹子さんを始め、個性的な卒業生を輩出した小学校
「トモエ学園」の物語。太平洋戦争が近づく昭和12年、
東京・自由が丘に開校したこの学校には、他校で受け入れを断られた
子や差別を受けた子、小児麻痺の子など、事情ある子も多く通った。
校長・小林宗作には、日本の一律的な教育に絶望し、教師を辞した過去があった。
個性を育む教育を貫いた教師たちの奮闘が、現代に伝える
メッセージとは?
貴重な資料と証言で紐解く特別編。

放送日:2024年7月6日(土) 午後7:30ー午後8:15 NHKテレビ@







お・わ・び (65923)
日時:2024年07月04日 (木) 19時07分
名前:桜咲く

土曜日の夜だから明後日の間違いですし、
エデュケーションするはエデュケイトするでしたね。

桜咲く様、志恩様 (65945)
日時:2024年07月05日 (金) 17時06分
名前:はうら ひとひら

桜咲く様
お知らせいただきまして、ありがとうございます。
予定がとれそうでしたら、楽しみに視聴したい
と思います。
ありがとうございます。

志恩 様
いつも適切なフォローに感謝いたします。

ありがとうございます。

礼拝 はうら ひとひら 拝

桜咲く様 はうらひとひら様 (65946)
日時:2024年07月05日 (金) 17時45分
名前:志恩

桜咲く様
貴重ないい情報を感謝しています、
明日の土曜日の午後7時半から、NHK@チャンネル、
私も楽しみに拝見したいと思っております。

はうら様
いつもご丁寧なコメントをありがとうございます。

ちなみに黒柳徹子さんは、「トモエ学園」の後は、
東京都の名門、お嬢様校である
私立女子中高一貫校の「香蘭女学校」へ進学されましたが、

谷口恵美子先生も、その同じ「香蘭女学校」へ進学されまして、
卒業されておられます。
つまり 「香蘭女学校」は、谷口恵美子先生の出身校でもあります。

谷口恵美子先生は、黒柳徹子さんより10歳年上。

新プロジェクトX、観ました。とても素晴らしい番組でした。 (65988)
日時:2024年07月06日 (土) 20時41分
名前:志恩

https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2024070624565
(一部のみ、観れます)

7/6(土) 午後7:30-午後8:15
配信期限 :7/13(土) 午後8:14 まで

「トットちゃんの学校 〜戦時下に貫いた教育の夢〜」
黒柳徹子さんを始め、個性的な卒業生を輩出した
小学校「トモエ学園」の物語。

太平洋戦争が近づく昭和12年、東京・自由が丘に開校したこの学校には、
他校で受け入れを断られた子や差別を受けた子、小児麻痺の子など、
事情ある子も多く通った。

校長・小林宗作には、日本の一律的な教育に絶望し、
教師を辞した過去があった。個性を育む教育を貫いた教師たちの奮闘が、
現代に伝えるメッセージとは?貴重な資料と証言で紐解く特別編。

志恩ー
校長の小林先生の優しい円満なお顔は、亡き榎本恵吾先生に
よく似ていらっしゃるいいお顔をされておられました。
トットちゃん系の本は、私は過去に二冊読んでおりますので、
内容は知っていましたが、本で読むのと映像で観るのとでは
臨場感が違いました。

トモエ学園出身の有名人は、黒柳徹子さんだけかと思って
おりましたが、物理学者になられたお方、幼稚園の校長先生に
なられたお方など、他にもいらして、まるで生長の家の教育方針
そっくりな、小林校長の教え子に対する徹底した悪を見ない
褒める教育方針には、感動しました。

桜咲く様、いい番組のご紹介をありがとうございました。


花咲く様 志恩様 (65994)
日時:2024年07月07日 (日) 05時48分
名前:はうら ひとひら


桜咲く様
志恩様

7月6日放映の新プロジェクトX視聴いたしました。
正に生長の家の提唱した教育そのものでした。

いくつか心に残った言葉。
・問題児とされた黒柳徹子さんの子供の時の話を
小林先生は4時間ひたすら、それから、それからと
感心しながら聞いた話。
・誰も取り残さない教育。
その人しかできない素晴らしい才能を皆持っている。
・子供の20年先を見据えた教育。
力を引き出すよう自発的に行動させる。
・すべての人の(子供の)可能性を信じる。
・戦争で心血を注いだトモエ学園が全焼して
燃え尽きるまで見守りながら、「今度どんな
学校を建てようか」と言った小林先生の前向きな
ポジテブな姿勢。
・当時の藤の花が今でも咲いている悠久な大地。
・30歳で教育現場に失望して海外を旅していた時、
偶然新渡戸稲造に会い、リトミック教育を知る事
となり、その後の礎となった事。

人生の旅は、どんな人に会ったかで(本も含めて)
その人の一生の方向が決まるような気がしました。

ふと亀井勝一郎の
「人生、邂逅(かいこう)し、開眼(かいげん)し、
瞑目(めいもく)す」
という言葉を想起しました。
年のせいか、涙が流れました。

素敵な出会いをありがとうございました。

礼拝 はうら ひとひら 拝


神癒について思う事 (66002)
日時:2024年07月07日 (日) 10時03分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。
神癒祈願について少し述べさせていただきます。
これはあくまで、私個人の見解であって、
決して教団の神癒祈願等を批判妨害するものではありません。

☆: 真理

《 メタフィジカル・ヒーリングをなし得る人は
特別の霊能者でなければ出来ないというものでは
ないのであります。
ピアノのキイを押せば、
法則が空気を振動させて押したキイ相応の音が出る。
しかもキイを押すのは一瞬の間に誰でも出来る
というようなものであります。
誰でも、神の造りたまえるこの世界を完全と観(み)、
神のつくりたまえる人間を完全と観ることの出来る人
ならば誰でも出来るのが、
このメタフィジカル・ヒーリングであります。

もしそれに修行というものが要(い)るとするならば、
それは「實在の世界は完全のほかはない」ということを
書いた真理の書を度々読んで、
その道理を底深く知り、毎日、五官の世界に目を閉じて、
實相の世界に目を開き、完全なる實相世界の
人間を観る練習をして、
心が散乱して完全不完全交々(こもごも)の姿を
心の中で交代に観るようなイライラした精神不統一状態
から脱却しさえすればいいのであります。

ヒーリング治療に使う思念の順序

一、まず自分自身が霊的存在であること
を思念して自覚する。
二、次には、患者も又霊的存在にして完全なる
健康を有することを心に描いて自覚する。
三、次に、「病気あり」という観念のまちがいである
ということを弁駁(べんばく)する思念を行って、
ただ人間は完全なる神の子であるという
真理を思念で協調する。
四、やがて、すでにその人が斯(か)く自分が
彼を観(み)たる通りの完全さになって了(しま)って
いることを実際的に深き感銘をもって感ずる。
五、そして感謝する。》
(『神癒への道』250〜252頁)

■: 体験

神癒とその人の寿命と思われる事を同時に体験した事がある。
女子の地方講師からの依頼で、
ある母親教室で『実相円満誦行』を頼まれたが、
やったことがないのでやってくれないか、との事であった。
少し内容を聞いたら、その出席者の一人の方の
ご主人が病気であるらしい。
それならば、『祈り合いの神想観』をしましょうと提案して、
七名で行った。

会場は浄められ、出席者も大変よろこばれた。
数日後、その方から連絡があり
「(主人の)心臓が止まった」という。
祈ったら声が聴こえてきた。
「大丈夫」と。
数日後、「もう大丈夫です」と連絡があった。
少し状態を聞いたら、植物人間状態であるらしかった。
一か月程して、早朝の清掃の仕事の時連絡があり、
「心臓が止まった」という。
清掃の仕事をしながら『甘露の法雨』を唱えた。

しかし霊界に旅立たれた。
穏やかな平安な旅たちであった。
女性の地方講師とお見送りをした。

一週間程前、教区の連合会長からメールで、
「〇〇さんが緊急入院された。奥様はじめ白鳩会の方が、
飛田給、宇治、総本山に神癒祈願をしているが、
皆さんも祈った下さい。」との事でした。
三日後訃報のメールがあった。

このような事がこの一か月の内に三件ほど続いた。
矢張りと思った。
神癒祈願をして、すぐに霊界にいかれる。
まだ寿命とも思えない年齢であるが、
本当の事は、誰にもわからない。
ただ、低い波動の祈りは、感応する人は、
未だ現界で使命があり、天寿でもないのに
強引に霊界に引っ越しせざるを得ない状況がある事も
考えられる。
教団への神癒祈願は、その実体を知り覚悟をもって
各自責任をもって、行う事が必要と思われる。

方法として、上記のように、各自で行うか、
有志の方が時間を定めて、『甘露の法雨』等の聖經を、
LINE,ZOOM等で行うことが(一か所に集まらなくても)
神癒が得られると思います。
祈ったら全て全能なる神にお任せする事です。
そして、感謝し心を平安にする事です。
間違っても〇〇讃歌などは
絶対に読みませんように切にお願いするばかりです。

皆様 暑中ご自愛ください。

ありがとうございます。










 (66004)
日時:2024年07月07日 (日) 10時40分
名前:桜咲く

志恩様、そしてはうら様、おなじ夜空の下、
同じ時間に、同じ物語を観ていた事、そして、
こちらにて一言の交わりができること、感慨深い
ものですね…。
はうら様がふと浮かんだというこの言葉、

📡人生邂逅し、開眼し、瞑目す。 

なんとまあ響き渡る言魂で在りましょう。
合掌す、君のいのちに。


藤棚が出たとき、やはりわたしも、
雅春先生輝子先生を想いました。
それにしても絶妙なるタイミングで藤棚が…。


それではまた、有難うございます。

桜咲く様 (66035)
日時:2024年07月08日 (月) 09時21分
名前:志恩

>はうら様がふと浮かんだというこの言葉、

📡人生邂逅し、開眼し、瞑目す。 

なんとまあ響き渡る言魂で在りましょう。
合掌す、君のいのちに。

藤棚が出たとき、やはりわたしも、
雅春先生輝子先生を想いました。
それにしても絶妙なるタイミングで藤棚が…。

それではまた、有難うございます。<

志恩ー

桜咲く様、
短文ながら、お心のこもった素晴らしいコメント、
大変嬉しく光栄に思っております。

あなた様は、まぎれもなく”ほんもの”の
お方でいらっしゃると推察申し上げております。

よろしかったら、またトキ掲示板へ
ご投稿くださいますよう
よろしくお願い申し上げます。



はうら ひとひら様 (66036)
日時:2024年07月08日 (月) 09時41分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)

>【神癒について思う事 】

(略)
☆: 真理

《 メタフィジカル・ヒーリングをなし得る人は
特別の霊能者でなければ出来ないというものでは
ないのであります。
ピアノのキイを押せば、
法則が空気を振動させて押したキイ相応の音が出る。
しかもキイを押すのは一瞬の間に誰でも出来る
というようなものであります。
誰でも、神の造りたまえるこの世界を完全と観(み)、
神のつくりたまえる人間を完全と観ることの出来る人
ならば誰でも出来るのが、
このメタフィジカル・ヒーリングであります。

もしそれに修行というものが要(い)るとするならば、
それは「實在の世界は完全のほかはない」ということを
書いた真理の書を度々読んで、
その道理を底深く知り、毎日、五官の世界に目を閉じて、
實相の世界に目を開き、完全なる實相世界の
人間を観る練習をして、
心が散乱して完全不完全交々(こもごも)の姿を
心の中で交代に観るようなイライラした精神不統一状態
から脱却しさえすればいいのであります。

ヒーリング治療に使う思念の順序

一、まず自分自身が霊的存在であること
を思念して自覚する。
二、次には、患者も又霊的存在にして完全なる
健康を有することを心に描いて自覚する。
三、次に、「病気あり」という観念のまちがいである
ということを弁駁(べんばく)する思念を行って、
ただ人間は完全なる神の子であるという
真理を思念で協調する。
四、やがて、すでにその人が斯(か)く自分が
彼を観(み)たる通りの完全さになって了(しま)って
いることを実際的に深き感銘をもって感ずる。
五、そして感謝する。》
(『神癒への道』250〜252頁)

■: 体験

神癒とその人の寿命と思われる事を同時に体験した事がある。
女子の地方講師からの依頼で、
ある母親教室で『実相円満誦行』を頼まれたが、
やったことがないのでやってくれないか、との事であった。
少し内容を聞いたら、その出席者の一人の方の
ご主人が病気であるらしい。
それならば、『祈り合いの神想観』をしましょうと提案して、
七名で行った。

会場は浄められ、出席者も大変よろこばれた。
数日後、その方から連絡があり
「(主人の)心臓が止まった」という。
祈ったら声が聴こえてきた。
「大丈夫」と。
数日後、「もう大丈夫です」と連絡があった。
少し状態を聞いたら、植物人間状態であるらしかった。
一か月程して、早朝の清掃の仕事の時連絡があり、
「心臓が止まった」という。
清掃の仕事をしながら『甘露の法雨』を唱えた。

しかし霊界に旅立たれた。
穏やかな平安な旅たちであった。
女性の地方講師とお見送りをした。

一週間程前、教区の連合会長からメールで、
「〇〇さんが緊急入院された。奥様はじめ白鳩会の方が、
飛田給、宇治、総本山に神癒祈願をしているが、
皆さんも祈った下さい。」との事でした。
三日後訃報のメールがあった。

このような事がこの一か月の内に三件ほど続いた。
矢張りと思った。
神癒祈願をして、すぐに霊界にいかれる。
まだ寿命とも思えない年齢であるが、
本当の事は、誰にもわからない。
ただ、低い波動の祈りは、感応する人は、
未だ現界で使命があり、天寿でもないのに
強引に霊界に引っ越しせざるを得ない状況がある事も
考えられる。
教団への神癒祈願は、その実体を知り覚悟をもって
各自責任をもって、行う事が必要と思われる。

方法として、上記のように、各自で行うか、
有志の方が時間を定めて、『甘露の法雨』等の聖經を、
LINE,ZOOM等で行うことが(一か所に集まらなくても)
神癒が得られると思います。
祈ったら全て全能なる神にお任せする事です。
そして、感謝し心を平安にする事です。
間違っても〇〇讃歌などは
絶対に読みませんように切にお願いするばかりです。<


志恩ー
はうら様のご文章を拝読ておりますと、
昔、谷口雅春先生ご指導の実相研鑽会での
ご講話を、(谷口雅春先生が総裁先生時代の
大道場でのご講話は、原宿本部では、全館放送して
おりましたので、私は白鳩会中央部にて事務のお仕事
をしながら、ご講話を拝聴することができたのです。)
拝聴していた時の、研ぎ澄まされた清澄な気持ちが
蘇って参りますから不思議です。

私は古いだけの信徒でございまして、今はどっぷり
と現象世界に浸って生きておりますので、
心が清められます。

いつも貴い真理を教えてくださいまして、
ありがとうございます。

はうらひとひら様 (66054)
日時:2024年07月09日 (火) 12時32分
名前:志恩

合掌ありがとうございます。

毎月第3土曜日に開催されておられます
はうらひとひら様宅のzoom実相誌友会、
ひかりのお便り魂のお便り、2024,7月号を

私にまでお送りくださいまして、
ありがとうございました。

今月のひかりのお便りの

題字は、
⑴は、
『甘露の法雨』は観世音菩薩の説教である。
「生長の家」とは、宇宙のこと。

⑵は、転載いたしませんが、
「光はすでに自分の内奥にある。」
で、
谷口雅春先生著『無門関解釈』214-223頁要約
           『日常生活中の真理』86頁 から
謹写されておられます。



志恩ー
皆様は、生長の家とはなんのことですか?と問われたら
すぐに答えられますか。生長の家とは宇宙のことなのですよね。

『甘露の法雨』は観世音菩薩の説教である。ということも、私たちは
忘れがちですが、なぜ、読誦すると功徳があるのかここを拝読しますと
分かりますので、皆様も、是非、お読みになってくださいませね。


⑴をスマホのカメラで写させていただいて
添付させていただきます。
写真はマウスでクリックしますと拡大します

はうらひとひら様 (66055)
日時:2024年07月09日 (火) 12時55分
名前:志恩

1スレッドに1つしか画像は、貼れませんので、
こちらにも1枚、貼らせていただきます。

ひかりのお便り、7月号に同封されていた

『新版 生活と人間の再建』224頁−225頁
から謹写された真理のお言葉です。


画面をマウスでクリックすると拡大します。

神癒について思う事(2) (66284)
日時:2024年07月14日 (日) 12時08分
名前:はうら ひとひら


神癒についてその善き波動を増加させる為に
多数(二人以上)で祈る事は、大変有効と思います。
前投稿文の続きとして。

☆: 真理

《 メタフィジカル・ヒーリングに於いては、
「癒し」の主動力となるのは、人間自身の思念ではなく、
神即ち宇宙大生命の意識なのであります。

生長の家に於ける光明思念の神癒はその治療の媒介者として、
宗教家が患者と神の間に介在して、
神の癒しの力を誘導してくるのであります。
即ち宗教家は術者ではなくて、神が術者であります。
宗教家は唯神と患者との間に「癒しの流れ」が通じる
パイプを作る役目をするのであります。
そして神の力は全能でありますから、
パイプの力は弱くとも全能なる神の力が流れ入って、
個人の思念力では、とても出来ないような
すばらしい治癒成績があがるのであります。
(『神癒への道』227.228頁)

■: 体験

一年程前の事。白鳩の支部長から連絡をいただいた。
会員の方がこれから入院して、
多分半年程度かかると思われるが、退院後、
この会員とどのように接したらよいかとの事であった。
少し引っかかる内容なので、詳細を聞いて驚いた。
その方はご主人の介護をしていて、
移動の時ご主人の肩を支えていたが、
バランスを崩して共に倒れ肩を損傷してしまった。
ただご主人が入院されるのでごたごたして、
自身の事は後廻しになっていた。
そのご主人であるが、「神癒祈願」を出して、
暫くしたら、帰幽されてしまった。
そして、ご子息がご主人の葬儀の直後入院され、
これも「神癒祈願」を出したら、
まだ祈願先に届かないうちにこれも、帰幽されてしまわれた。
やっとその葬儀も終ったので、
今度は自分の身体を養生する為に入院される、との事であった。

私は大変驚き、その方の為にその支部長と
すぐさま時間を決めて、二人で各自自宅で『甘露の法雨』を
読誦させていただいた。
3日後、支部長からの連絡でその方は完治したという。
今後は、ご子息のお嫁さん、お孫さんと共に協力して、
明るく生きていきます、と言われたという。

ありがとうございます。

はうらひとひら様 (66369)
日時:2024年07月15日 (月) 16時07分
名前:志恩

(はうら ひとひら様ー)
>【神癒について思う事(2) 】(66284)

☆: 真理
《 メタフィジカル・ヒーリングに於いては、
「癒し」の主動力となるのは、人間自身の思念ではなく、
神即ち宇宙大生命の意識なのであります。



(『神癒への道』227.228頁)


■: 体験



私は大変驚き、その方の為にその支部長と
すぐさま時間を決めて、二人で各自自宅で『甘露の法雨』を
読誦させていただいた。
3日後、支部長からの連絡でその方は完治したという。
今後は、ご子息のお嫁さん、お孫さんと共に協力して、
明るく生きていきます、と言われたという。<



志恩ー
はうらひとひら様の祈りは素晴らしいですね。
きっと、心がキレイで純粋な魂のお方なので、
天界の高級霊たちが、降霊されて
神癒のお手伝いをしてくださるのでしょう。
最近に起きた貴重な体験談を書いてくださいまして
ありがとうございます。
また、よろしくご指導くださいますようにお願いいたします。

はうらひとひら様 (66463)
日時:2024年07月21日 (日) 10時31分
名前:志恩

はうら様

はうら様宅で開催された
7月20日開催の『ZOOM実相ひかり誌友会』メモを
お送りくださいまして、誠にありがとうございました。

大変素晴らしい内容ですので、トキ掲示板へ
参加者名を、ABCDEFGに変えまして、
転載させていただきます。

これだけの長文を、キーボードで打たれる愛念の
深さに感動いたしております

なお、トキ掲示板の  この  はうら様宅での
web誌友会の情報を読まれまして
昨日は、新しい同志が参加されたそうです。

よろこばしいニュースですね。



ーーーーーーーーーーーーー

7月20日開催の『ZOOM実相ひかり誌友会』メモ
(文責はうらひとひら)
日時:令和6年7月20日 午後1時半より約2時間

・出席者(敬称略、50音順)
・ はうらひとひら   ・A ・B
(メール等にての参加者)・C  ・D ・E  ・F  ・G

誌友会初めに『ひかりのお便り』
7月号(2)「光はすでに自分の内奥にある」
の実践法として
『聖經 続真理の吟唱』189〜193頁
「わが内奥秘密蔵の光を呼び出す祈り」を
輪読皆様で感想と体験談

■  B

常に日々一歩づつ、実相顕現への道を歩みたい。
体現し体得し、実践していきたい。生かされている。
これがすべてのベースになると思う。

■  A

祈っていると、相手が変わることが感じられる。
相手と思っていたのが、自分の心の影である事がわかる。
他人の為、家族の為と思って行うことが、自分の魂の向上の為
と気付かされる。他の為と思っていたことが、自分の為であった。
日々精進してまいりたい。
以下の事を皆様で味わい、感想を述べあい、
あるいは体験をはさみながら楽しく学ばせていただきました。
『生命の實相』全40巻の纏めとして(その3)
今回のテーマは「万教帰一」「自他一体」でした。
【何故、万教は帰一するのか】
《 釈尊でもイエスでも、自分で教を書かなかったことは
まことに残念なことである。それだから、
それを伝えた人たちの悟(さとり)の程度や、聞違いや、
伝え誤りや色々のものが混入(こんにゅう)しているのである。
そこで一ぺんそれらの混入物を取除いて本当の純粋な
人間を救う真理だけを抽出(ちゅうしゅつ)する必要があるので
あります。
經文(きょうもん)や聖書の章句のどこに重点を置くかによって
諸宗諸派(しょしゅうしょは)がわかれて来ることになるのであります。
併(しか)し諸宗、諸派に分れた宗教も、偏(かたよ)ったところに
重点を置かないで、生粋(きっすい)の真理だけに重点を置くことを
見出すならば、諸宗諸派は共通の同一真理に到著(とうちゃく)するので
あります。これを生長の家では、“万教帰一”といっているのであります。
甲(こう)の宗教と乙(おつ)の宗教と、丙(へい)の宗教とがあるとします。
どの宗教も人間の魂(たましい)を救う力があるとするならば、
すべての人間はその生理的構造や形態が同一である点から見ても、
一つの同じ神秘力(しんぴりょく)(これを神と称(しょう)しても、
久遠の本仏(ほんぶつ)と称しても、アラーの神と称しても、
ゴッドと称しても、それは人種により宗教により、人間が勝手に
名称をつけるので、何と名附(なづ)けようとも好(よ)い)から
生まれたということは明かであります。
だからそれを救う真理は、宗教、宗旨(しゅうし)教派等の
如何(いかん)に拘(かかわ)らず、同一の真理であるという
ことであります。
だから人間を救う真理が何であるかということを知ろうと思うと、
共通しないところのものをふるいにかけて排除(はいじょ)して、
共通のものだけを残せば、それが本当に人間を救う真理だと
分かる訳であります。
これを譬喩(たとえ)をもって説明すれば、
人間は物質的方面からそれを生かしている成分又は条件は
何であるか、つまり生物発生の必要条件は何であるか、
生命が生きていられる条件は何であるかーーを知ろうと思えば、
その生物の名前が、犬であろうと、牛であろうと、魚であろうと、
鰐(わに)であろうと、ミミズであろうと、はた又人間であろうと、
その共通的条件をさぐれば、およそ生物を生かしている真理
(この場合は物質的方面からの科学的真理)は共通になる、
即(すなわ)ち其処(そこ)に空気があること、水分があること
窒素(ちっそ)化合物なるアミノ酸又は蛋白質(たんぱくしつ)が
あること、ある程度の温度があることーーというような共通の
生化学的真理に到達するのであります。
そして共通でないものは、その生活する環境等の特殊事情に
よるのであります。
つまり眼があるとか、眼がないとか、手はないかわりに鰭(ひれ)
があるとか、脚(あし)がないかわりに尻尾(しっぽ)があるとか、
・・・・そんな色々の生物によって共通しないところの異(ことな)る
ところは、必ずしも生物になくてはならないーーそれがなくては
生きられない、生命顕現(けんげん)に必須(ひっす)のものでは
ないということであります。
それと同じように、宗教上の人間の魂が救われる真理も各宗に
共通でないところの教義は、それはその宗教発生の時代、環境、
人種、常識、一般の教養及び理解の程度に従っての特殊事情に
よる派生的(はせいてき)なものであって、それがなければ魂が
救われないという根本的なものではないのであります。
そして真に各宗に共通的な真理こそ本当に、“人間を救う真理”
ーーそれがなくては人間は救われないというところの真理ーー
なのであります。
万教帰一というのは、生長の家では、このようにあらゆる宗教に
共通する真理を純粋に抽出(ちゅうしゅつ)してそれを説(と)いて
あらゆる宗教の神髄(しんずい)は共通同一の真理に帰一する
ということを示すのであります。
だから、生長の家に入教(にゅうきょう)なさいましても、本尊(ほんぞん)は宇宙を貫(つらぬ)いて存在する「生命の本源者(ほんげんしゃ)」でありますから、それは仏教では大日如来(だいにちにょらい)とも阿弥陀仏(あみだぶつ)とも称する訳であり、キリスト教では、“天の父”又は“神(ゴッド)”であり、神道では天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)ーーその御顕現(ごけんげん)としての天照大御神(あまてらすおおみかみ))・住吉大神(すみよしのおおかみ)・塩椎神(しおつちのかみ)であり、マホメット教ではアラーの神であり、名称は異れども、その御本体は同一でありますから改宗(かいしゅう)する必要はないのであります。》(『女の生き甲斐』250〜252頁)
【原理は一つ】
《 原理は一つであり、真理は共通する。見える姿がどんなにあろうとも、神の創造(つく)り給える世界と人間との完全を疑うな。それのみが実在だ。実在は常に完全円満なのである。実在とは「見える」ということではない。実在とは「真にある」ということである。実在とは神の創造内容だ。そしてそれは常に完全なのであります。》(『生命の實相 頭注版 第39巻110頁)
《 今まで仏教とキリスト教とは教えの立て方が異なるので、全然教義の上で和解されないものだとされていたのが、現象と実相とをハッキリ区別する本書のとき方で完全に一致し和解することができるようになったのである。それは《創世記』の天地創造の章に「神その創造(つく)りたるすべてのものを観給いけるにはなはだ善かりき」と書かれているいっさいの皆善(かいぜん)の実在界は、『法華経』の『自我偈(じがげ)』に「衆生劫(こう)尽(つ)きて、この世(唯心所現界)の焼くると観る時も、わが浄土(実在界)は安穏(あんのん)にして、天人常に充満せり」と書かれている場合の実在界なのである。神は実在界の創造者であり、現象界は「衆生の見る世界」すなわち唯心所現の世界である。だからキリスト教や神道の宇宙創造説と、仏教の無明縁起(むみょうえんぎ)説とは決して衝突するものではないのである。キリスト教のサタンは結局、仏教における(無明(まよい)」の人格的表現にすぎない。「無明」によって創造(縁起)されたる現象世界だけを観て、天国を説き、浄土を説こうとするから、天国は地上に出現しないのである。イエスが「サタンよされ!」といったのは、なんじの「無明」の心の帳(とばり)を除(のぞ)け!」そこに浄土実現し天国現前(げんぜん)せることを見いだすであろう、という意味である。『法華経」の語をかりていえば「もろもろの憂怖(うふ)充満せる」現象世界の奥に、焼けつきざる金剛不壊(こんごうふえ)の実在界を見いだせという意味である。まことに悟りをひらいて今ここにこの金剛の浄土を見いだすときは、衆生の阿鼻叫喚(あびきょうかん(の中にいるといえども、その苦悩から現実に逃(のが)れるのである。》(『生命の實相 頭注版 第11巻はしがき1.2頁)

【すべての正しい宗教に生命を与える】
《 「生長の家」は別に一宗一派の宗教ではありませんので、すべての宗教に生命を与えるという意味において、仏典も講義すれば日本の古典も講義する、あるいはバイブルも講義するというふうになっておりますが、在来の宗教は皆一宗一派というものを建てていて、互いにお前の宗教とわしの宗教とはちがうといって合流しないのでありますが、「生長の家」はすべての宗教に対して「わしとお前とは同じだ、宗祖に帰り神髄に帰れば同じ」と説く点と、宗教というものは寺院や教会、堂塔伽藍(どうとうがらん)の中にあらしめないで生活の上に生命を与える点と、この二つの点が在来のものとちがうのであります。すべての古来の尊い経典はことごとくむろん「生命」が盛られているのでありますけれども、読む人に霊感なく、その生命を開く鍵というものを持っていない。あるいは持っていてもその鍵の取扱いがわからないために、本当に尊い宝石を採取してくることができなかった。》(『生命の實相 頭注版 第30巻 137.138頁)

【 『生長の家』とは宇宙の事】
《 「生長の家」とは縦横無限の宇宙、無始無終の時間空間の交叉せる家、陰陽二つの原理の交叉せる宇宙なのであります。》(『生命の實相 頭注版 第12巻 151.152頁要約)


【 自他一体についての究極の祈り】
《 【 住吉大神宇宙浄化を祈る神想観】
「招神歌(かみよびうた)」四首朗誦住吉大神(すみのえのおおかみ)出でまして
宇宙を浄(きよ)め給う
あー、おー、うー、えー、いー住吉大神わが日の本(もと)を浄め給う
あー、おー、うー、えー、いー
住吉大神ここにあつまれるすべての人々の
生命(いのち)を浄め給うあー、おー、うー、えー、いー
「気合」イユ ウー、(ここで、念ずる言葉を各自黙念する)住吉大神宇宙を浄め終りて天照大神出で
ましぬ》(『詳説 神想観』253頁)
「あー、おー、うー、えー、いー」について

《 此の世界は言葉によって創られて居る。(注。ヨハネ伝第一章「太初(はじめ)に言(ことば)あり。言は神と偕(とも)にあり。言は神なりき。萬(よろ)ずのものこれによりて成り・・・云々(うんぬん)」)此の言(ことば)の最初の根元的な陽性の言葉が、「堅端(たちはな)の音(おと)」であります。その「堅(たて)の端(はし・はな)にある音」と云うのが、堅端の音であって、「アイウエオ」の五つの音なんです。この五つの音を「父音(ふいん)」と云う。伊邪那岐神様は此の陽の音「アイウエオ」をもって宇宙のコトバを浄化されたのであります。》(『實相と現象』207.208頁)
あ・・・アミダ如来の「ア」 闇の世界、見えざる世界から、光の世界、 見える世界に出て来ること「アラワレル」 天(あま)の意。お・・・緒(お)・人間の魂の「玉の緒」の意。 肉体人間の居住する「地」をあらわす。う・・・浮(う)く。内部にあるものが外に  「浮き上がる」  「地」が「天」にあこがれて上(うえ)に 浮きあがる。即ち「う」を唱えて「天」と 「地」が結ばれて一つになる。え・・・柄(え)一つの元から分かれて棒(ぼう)  が附いている意味。「エ」はその象徴である。  エは「天」は「陽」であり「地」は「陰」  であり、陽と陰が一つに結ばれた形である。  カタカナは、その音霊が象徴的に図形化して  あらわれた仮名である。い・・・一切の者が出(い)づる。》(『新版 真理』第4巻 187〜196頁)
“天地創造の原理”に従って「あおうえい」と唱えるとその響きに従って伊邪那岐大神の分神である住吉大神が宇宙浄化の働きをされ、全てが浄まることになる。(『生長の家 50年史』553頁)
【 神とわれとは一体】
《 自と他とは一体である。神とわれとは一体である。ーーこの事実を認めることが倫理の根本であり、あらゆる善徳はここから流れ出るのであります。個性を発揮すればするほど、全体の生命の中に溶(と)け込むことになるのです。
「本来一体のもの」のみすべてを一体の中に融合してしまうことができるのであります。「本来一体のもの」とは要するに神である。「神」の中に溶けこんでこそすべての「個」と「個」が一体であるのであります。(『生命の實相 頭注版 第14巻 34頁.53頁)

【 大調和の神示を告げしイエス・キリスト】
《 汝ら天地一切のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。
・・・・・われ嘗(かっ)て神の祭壇の前に供物(そなえもの)を捧ぐるとき、先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である。》(『新約聖書』マタイ伝第5章23〜24節)その第5章の初めにイエスの「山上の垂訓」が垂示されている。
《 幸福(さいわい)なるかな、憐憫(あわれみ)ある者、その人は憐憫を得ん。(編注『新約聖書』マタイ伝第5章7節)
憐憫といいますのは「自他一体の感じ」であります。神とは何であるかというと「神とは渾(すべ)てである」と「生長の家」では言っております。渾てという言葉を言い換えると「自他一体」である。
自分も他もない、すっかりいっさいを包括し包含したものが、これが神であるということになるのであります。それで、自分と他と一切を包含した「自他一体」の感じが自分の中に起ってきたという時に、自分の中に神が動き出してきたということになるのであります。》(『生命の實相 頭注版 第30巻 163〜165頁)

【 『生命の實相草創より】
《 わたしは人類ぜんたいを救う「真理」を発見した。その「真理」は『生命の實相』と呼ばれる哲学である。その真理をひろめるにはどうすればよいかを私は考えた。そして静座合掌、礼拝して實相の中にある叡智を呼び出すことにした。實相の中にはあらゆる智慧があるが、真智もあるが方便智もある。観普賢菩薩経には、無量の勝れたる方便があるから、「無量の勝方便は實相を想うより得」と示されているのである。真智は、それに触れる人を直接に救うことが出来るが、真智に触れさせるためには、方便智によって、人々を引き寄せなければならないのである。》(『明窓浄机』草創篇(昭和5〜12年)はしがき)
・『生命の實相』頭注版全40巻をテキストとして学ばせていただきました。5月から纏めとして一部ではありますが、下記学ばせていただきました。名残惜しいのですが、8月から聖典『真理』をテキストとして学ばせていただきます。(当然の事ですが、『生命の實相』も鍵とさせていただきます。)
・5月度誌友会1)神癒(メタフィジカル・ヒーリング) 『生命の實相』頭注版 第1巻
2)両(ふた)つの世界(エロヒム神・エホバ神)  (実相と現象)  同書第23巻3)今までの宗教と生長の家  同書第27巻4)体験  同書第7巻・6月度誌友会1)縦と横の真理  同書第30巻2)現象にも真象と偽象  同書第38巻3)実相を顕す方法  同書第38巻4)体験  同書15巻・7月度誌友会1)万教帰一  同書第11・12・30・39巻2)自他一体  同書第14・30巻3)体験  内奥の光(『続真理の吟唱』から)
メール等にて参加
■: F(メールにて)
合掌 「ひかりのお便り」7月号と月訓が7月5日に届きました。ご送付有難うございました。
例月のように、『実相ひかり誌友会』へ、次のように投稿させていただきます。  
 再合掌
@お便りの中の無門関第二十八則の要約について
無門禅師は、叮嚀な教え方では、自分で見出した佛性を会得することにはなとらないと評しています。
これについて思いますのに、『生命の實相』は比較的易しい言葉遣いで1000ページにも喃々とする
真理の書であります。通読すれば分かったような気にさせてはいただけるのですが、近頃大聖師の他の叢書を自習するにつけ、まだまだ見出すべき佛性は他の聖典に隠されていると感じ
て居ります。

A『幸福の原理』(新選谷口雅春法話集3)を自習しました。
第二章 p43 帰りつつある生徒が校庭を出て門のところまで行きますと、振り返って学校へ向かって最敬禮をしておるのです。私はそれを見たとき「これは素晴らしい学校だ」と思って=\はうら先生も実行しておられますが、私の行きつけのスーパーマーケットでは、従業員
が店内への入出の際お辞儀をしていまして、よく繁盛しています。
第九章p162  水素が酸素に出会って結合するためには、相手が互いに何元素であるかを認識しなければならぬ。即ち広義に於ける知性がなければならないということになります
―この着眼点には驚きました。
第十三章p247 .248  「何故神は完全であるのか」―知識階級の人からよくこういう質問が出るのでありま
すが「何故」はないのであります。……他の証明を俟たずして、神はそれ自身自ずから完全である。そこで初めて神は完全であると言い得るのであります。
―一見虚を突かれるようですが、この論理は真に明解であります。

第十四章p269 口先きで上手にさえ喋れば相手が感化されるように思う人があるかもしれませんけれども、それでは人を根本に於いて救うことはできない。
―そうでしょうね。漫談調の講師のお話は面白かったという印象
しか残っていません。 

第十六章p309 「絶対無」はその様な相対の「無」ではない。「絶対無」は即ち大生命が露堂々とそこに 現れている底の「無」でなければならないのです。

 ―榎本恵吾先生が消え切り、澄み切りと表現していらっしゃること
と通じています。
こんなところしか見ていないのかと云われそうですが、二、三感じたままに。
・ページの表記…本書では頁上方の隅部にあります。面白いことに、この叢書ではまちまちです。
・p57 状態は放してしまえばいいいのです。放してしまえば状態は移り易わる。
何でもないのです。何でもないけれども難しい。難しいと思えば難しい。
―これだけ難しいを並べてあるのは珍しいです。

・p132 野球の投手がボールを投げるとキャッチャーがそれを受ける
 ―スポーツのことは殆ど出てきません。就中ベースボールに言及されるのは初見のように思います。

Bカーニバル(讀賣新聞コラム ニュースの門(6.6.8)に教わったこと)
チェロの奏でる優雅なメロディで有名な曲「白鳥」を含んでいる組曲が、サン:サーンス作曲「動物の謝肉祭」です。この謝肉祭がカーニバルの訳語であることは知っていましたが、このコラムにより蒙を
啓かれました。(恥ずかしいですね、今頃で。)

キリスト教の復活祭(英語ではイースター)に関わるもので、カトリック諸国(特にラテン系)における
復活祭をめぐる習俗を英語でカーニバルといっています。カトリックでは復活祭の前の40日間(四旬節)
を断食や苦行で過ごすこととされているので、その直前に肉を食して愉快なひと時を楽しむ行事が出来
上がってきたようです。つまり、謝肉とは美食のことを指しているのですね。

生長の家では、週に一回程度の一汁一飯を勧めていますが、私も粗食を心掛けるようにはしています。
・ はうら合掌 ありがとうございます。この度も、いろいろご教示ありがとうございます。暑い日が続きます。ご自愛のほど申しあげます。
■: G(メールにて)
合掌。ありがとうございます。いつもお知らせ感謝申し上げます。
10日から岩手県盛岡に来ています。父の祥月命日祭(足掛け15年)お墓参りさせて戴きました。
今月は中期出張滞在になる予定です。
24日頃帰宅予定になりました。
「ひかり誌友会」誠に申し訳ございません。皆様に呉々もお身体御自愛下さる様にお伝え宜しくお願い致します。
万事好都合お祈り申し上げます。

・ はうら
ご連絡ありがとうございます。暑中お見舞い申しあげます。中期ご出張お疲れさまです。梅雨の最期の時期、お大切にしてください。ありがとうございます。(7月12日発信)
■: D(電話にて)

入院して腫瘍に放射線をあてています。大部小さくなりました。
・ はうら入院されているとは知りませんでした。お大事にしてください。大丈夫です。掴(つか)まないで、感謝していれば、新しい血液は、その時の想念・感情を載せて移動し、古い細胞は、過去の想念・感情とともに廃棄されますから、瞬時に新しい細胞に入れ替わって、完全な健康体になること、必定です。頑張ってください。使命のある間は、生かされているのですから。
■: E(メールにて)

ひかりのお便り、ありがとうございます。
甘露の法雨。すごいなあと思いました。
難しいところも読んでいて、いくつもありました。
ありがとうございます。

・ はうら
ご連絡ありがとうございます。暑い日が続きます。ご自愛の程、祈念いたします。いつもありがとうございます。
■: C(メールにて)

合掌、ありがとうございます。6月から自分自身と家族の肉体的・精神的な浄化の期間となりました。具体的には、夏風邪を拗らせ、咳が止まらなくなり、夜も眠れない日が続きました。念の感応か、離れて暮らす息子も同様に夏風邪を拗らせ、肺炎で緊急入院となり不安な日々が続きました。そんな時、吉田國太郎先生の『常楽への道』にある言葉が浮かんでは消えて行きました。「天地一切和解とは絶對が誕生することであり、絶對にまみえることである。絶對感謝の中で血を喀くならば血を喀くことも結構である。血を喀きつつも絶對感謝にかへれば、眼の鱗は落ちて其處に其の儘佛を發見する。」この一節が、重く心にのしかかってきました。問題は此処からです。自分自身だけなら、咳が止まらなくなり、夜も眠れない状態であっても「絶對感謝」にかへることは可能かも知れません。しかし、家族が、入院し点滴に繋がれ、昼も夜も苦しんでいる姿を見ながら、その心持になれるのか。その言葉がいえるのか?到底、私には無理です。どうか神よ、佛よ、わが家族の痛み、苦しみを取りさり給えとの神への懇願しか、浮かびませんでした。次に『生命の實相』の本文の冒頭の、「生命の実相の自性円満を自覚すれば大生命の癒力が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります。」とのお言葉が浮かびました。当然、反発心が出てきます。「自覚」出来る人間はいいかもしれませんが、「自覚」出来ない人間は、どうしたら良いのでしょうか。例えば、家族が知的障害者であるとか、精神的な病で『生命の實相』も読めない状況において、その家族は、神佛に縋ることしか叶わないように感じます。悶々とした時間の中で、キリストによって死から甦る『ラザロの復活』の逸話が思い出されました。信仰とは、ラザロは「生命の実相の自性円満を自覚」したわけでもなく、死から甦り、スター・デーリーは深い愛の雰囲気に満ちたキリストの眼(まなざし)によって改心出来た逸話が甦ってきました。奇しくも、特に神癒を説かれた榎本恵吾先生の御命日に合わせるかのように、小生の気持ちが凡ての囚われから離れた時期に、家族全員が元の暮らしに戻ることが出来ました。これも先師のお導きの賜物と小生の信仰心の深化を図るような出来事に、改めて現象なし、実相独在の信念の向上が出来たように感じます。これからも上求菩提の精神で何事にも負けない不動心を養いたく存じます。再拝・ はうら合掌 ありがとうございます。
いつも深い思念からのコメントありがとうございます。大変重く拝読させていただきました。
実は私も同じような体験をしまして、家人が全身麻酔をして手術しました。(7月8日)私は腎臓癌で腎臓を摘出しましたが、その時全身麻酔しましたが、4日後に、手術ミスで出血が止まらず再手術しましたが、その時も全身麻酔をし、何とか生還させていただきました。その後遺症か、半年以上も各臓器が正常にもどるのにかかりました。その思いがありますので、ただただ祈るのみでした。
家人は7月8日手術して、なんと7月10日退院しました。全身麻酔したにもかかわらずに。しかも帰りは多分歩けないのでタクシーで帰ると言っていたのに、歩けるからとバスを乗り継いで1時間半ほどかけて帰宅しました。生命力とはかくも凄いものだと、改めて思いました。恐怖心さえなければ、このようなことが起るのですね。暑い中のご出張どうぞ、つつがなくと祈念いたします。いつもありがとうございます。
今回も多くの感動がありました。新しい同志のお話にも感動し、高い波動を感じました。
皆様 暑中ご自愛ください。感謝 再拝 はうらひとひら 拝







時間は存在するか (66470)
日時:2024年07月21日 (日) 15時45分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。
今回のテーマは「時間は存在しない」です。

☆: 真理

《 「久遠の今」
「智慧の言葉」の話をしようと思います。
「智慧の言葉」に、こう書いてあります。
「済んだことの中に生活せず、『今』のなかに生活せよ。
『今』は常に生きている。
『今』の中にはあらゆるものが輝いている。
『今』は常に新しく、『今』は常に喜びに満ちている。
過去にどんな悲しいことがあったにしても、
それについて思い煩うな。
『今』天地は一新したのである。
もう別の天地に生きているのである。
過去に寒風に吹き曝(さら)されたことを嘆かないで、
『今』梅の花は喜びに満たされて咲いている。
梅の花よりも強く貴く逞(たくま)しいのが人間である。
喜ぶべきことしかないのが人間である。

さて、この生長の家の生き方、
あるいは生長の家の哲学の中で、
一番重大な問題になっているのは、この「今」という
ことであります。
この「今」というものがわかったら、
それが本当の生長の家の悟りであるわけです。
「今」というのは、過去ー現在ー未来ーと
時間が流れているところの、
流れている時間の一部分の「現在」というところを
「今」というのではないのであります。
この「今」というのは、もう一つ精(くわ)しくいうと、
「久遠(くおん)の今」ということであります。
英語のEternal  Nowという意味で、
「永遠の今」であります。
そして、「今」の中にすべてのものが含まれている
ところの「今」であります。
仮りに、縦の線をかいてこれを時間であるとします。
そして、横の線をかいてこれを空間であるとします。
そして縦と横の線が交叉(こうさ)した所、
ここがちょうど「今」に当たるのであります。
まだ時間も空間も現われていない、
時間・空間がそこから現われるところの、
その中心の「無」であります。
これを神道の言葉でいうと「常今(つねいま)」
と言う言葉がありますが、禅宗などでいうと、
いわゆる「無」であります。》
(「谷口雅春先生御講話 「久遠の今」)

■: 体験

ホーキング博士の再来と評された
カルロ・ロヴエツリの著書に『時間は存在しない』
というのがある。
最先端の物理学者である。
誤解を恐れずに要約すれば
「継続的な時間というものは無く、過ぎ去った過去を
振り返る時、そこに時間という跡(あと)がついて来るだけ。
時間や空間は本質的なものではない」
ということらしい。
それでは、過去はあるのか、あるとしたら
過去は変えられないのではないかという疑問が出てくる。

《 現象時間の中で“無窮(むきゅう)”
を生きようと思うと肉体の寿命は無窮には
生きられないけれども、
“今”の一点に“久遠”の絶対時間を生きると、
過去も現在も未来も今ここに一つに掴(つか)まれてしまう、
ということになるのであります。
そうすると、吾々は今ここに自己の内に
過去も現在も未来も掴んでいるから、
過現未が自分の掌中(しょうちゅう)にあるのです。
普通は、過去は変化することが出来ないというけれども、
過去も変化できる。
そこから吾々は真理を自覚すれば
過去の業(ごう)を消すことが出来るということがわかる。
未来は無論、これから起こるのだから変化できる。》
(《無限供給の扉を開く』237.238頁)

私は10年程前、半年ほど、ほぼ不眠不休の仕事をして、
結果的に5千万円の負債を負ったが、
和解の祈りによって靈界の助けを得て、瞬時に解消した。
周囲の人はバタバタ倒れたが、
自分だけは大丈夫と思っていたが、
健康診断で肺が真っ白になっている事が
CT画像を見せられて知った。
その時「病気がないのだったらこれを消す』と決めた。
祈り、愛行をし、聖典を読誦し、
「甘露の法雨」の中に溶けこんだ。
3日後、CT画像から不完全なものが消えて、
正常な状態にもどった。
不完全な過去は修正されたのである。
過去も変化出来るのである。
あの苦しかった半年の行為は、この証明の為だったのであろうか。ともかく、この一点の「今」
常に「今」が実感出来た瞬間であった。

ありがとうございます。
















はうらひとひら様 (66471)
日時:2024年07月21日 (日) 16時00分
名前:志恩

今回のテーマ・【時間は存在するか】

(はうら様ー)
>私は10年程前、半年ほど、ほぼ不眠不休の仕事をして、
結果的に5千万円の負債を負ったが、
和解の祈りによって靈界の助けを得て、瞬時に解消した。
周囲の人はバタバタ倒れたが、
自分だけは大丈夫と思っていたが、
健康診断で肺が真っ白になっている事が
CT画像を見せられて知った。
その時「病気がないのだったらこれを消す』と決めた。
祈り、愛行をし、聖典を読誦し、
「甘露の法雨」の中に溶けこんだ。
3日後、CT画像から不完全なものが消えて、
正常な状態にもどった。
不完全な過去は修正されたのである。
過去も変化出来るのである。
あの苦しかった半年の行為は、この証明の為だった
のであろうか。ともかく、この一点の「今」
常に「今」が実感出来た瞬間であった。<

志恩ー
谷口雅春先生の実相哲学の、素晴らしい真理の
お言葉を書いてくださいまして、
そして、ご自身の体験談も書いてくださいまして、
ありがとうございます。

生長の家で、久遠の今、というお話は、伺っておりましたが
いざ、今の自分はと言いますと、

トキ掲示板へ出させていただいて、あっという間の13年間だ
ったな、そう思うと、今後、13年経ったら、わたしはこの世に
いないかもしれないな、とか、現実の年を考えて、わたしは
自分の余命のことを、現象の時間で考えてばかり、最近は
おりました。この本日のはうら様のご投稿文を拝読し、はっと
われにかえった気持ちでおります。
そうでしたね、時間はないのでした。
ありがとうございました。

切に切にお願いします。 (66608)
日時:2024年07月28日 (日) 07時27分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。

☆: 真理

《 この生長の家の人生哲学入門の本は、
今迄全然生長の家のことを知らず、
何らの先入観念をも有(も)っていなかった人が、
何らの好悪(こうお)の考えももたずに純粋に
人間の本質及び人生の意義について深い哲学的
又は宗教的理解を得るに最も適しているのである。
しかもこの本は「真理』の手ほどきから始まって、
人間の生活全体を一変するほどの深い信仰に入るために
最も適当な本である。・・・・

そんな個人的な救いだけではなく、
全人類に光明を与え、民族が勃興(ぼっこう)する
原動力を与え、国家を隆昌ならしめる
精神的原動力を燃えあがらしめる不思議な
神秘的霊力をもつ真理の自覚に到達せしめるのである。》
(『奇蹟を生ずる実相哲学』生長の家入門講座 上
 はしがき)

☆: 真理

《 アメリカ在住の生長の家信徒で暫(しばら)く
日本へ帰って来た宮沢潔君夫妻が私の縁族でもあるので、
生長の家総裁公邸の二階に宿泊されたので、
朝の神想観を倶(とも)にすることにした。
その時、神想観の功徳ーーというよりも、
実相の素晴しい奇蹟的功徳が生ずる実例として、
私は長崎に原子爆弾が落とされた時の話をした。
それは聖書の中で、イエスが言っている有名な言葉
「われを信ずる者は、
われよりも大なる奇蹟(わざ)を為さん」
という聖書の意味についてである。

・高瀬清博士が原爆投下時、
偶然自宅にいてただ一人難をのがれた例。
・天辰静雄氏が、原子爆弾の爆風で吹き飛ばされたが、
毎日仏壇で先祖の霊の冥福(めいふく)を祈っていた
聖經『甘露の法雨』が氏の全身をおおいかぶさって
無傷で助かった話の例。
(『奇蹟を生ずる実相哲学』生長の家入門講座 下
 はしがき)

■: 体験

昨日、(7月27日)知人から電話があった。
珍しく弾んだ明るい声だった。
「退院しました。癌細胞が消えました。
ありがとうございます。」
私は「よかった。よかった。しっかり実相哲学を
自覚したお蔭ですね。お大事に」と言って電話を切った。

少し前、この方から、入院して放射線治療をしていると
落ち込んだ声で連絡を受けたのである。
この方は生長の家の信徒でもあったので
少し真理の話をさせていただいた。
「そうですか。祈らせていただきます。
ところで古い細胞は毎秒毎秒死滅し、
新しい細胞に置き換わっていますよね。
新陳代謝がないと、人間は死滅しますよね。
私達は毎秒毎秒死滅し、新生していますよね。
これは神癒ですよね。
古い細胞が死滅して新しい細胞に置き換えられ、
身体中を新しい血液が循環してますよね。
貴方が自分で考えてやっているのですか。
ちがいますよね。だれがやっているのでしょうか。
これが生かされているという亊ではないでしょうか。
ところで、その新しい細胞ですが、
その人の想念・感情を載せて身体中を駆け回ります。
過去になにがあっても、今、吾、新生せり、
細胞ことごとく輝いて、生かされて、喜んで、楽しくて、
なんでも思ったことが実現出来て、
こんな楽しい人生が、今現前す。と思って、
小躍りしていたら、癌なんて瞬時に消えますよ。」
と言って、の、先程の報告であった。
神に深く、篤く感謝をのべた。

ところで、私は、病気直しや、皆が調和する為にも
祈ってはいますが、もっと根本的には、
実相哲学を知っていただいて、
皆様が生きる、生かされている意義を深く体得し、
体現ししていただきたく、その為の
「個人相談の受け付け」であるのですが、
先ず救っていただく。
次にその理論付けをしていただいて、
理解し、自覚し、体得し、体現していただいて、
次には、周囲の方々を救っていただきたい。
その為に、生長の家の初めての人の為にと当初に紹介した
「奇蹟を生ずる実相哲学』上・下巻があり、
尊師も言われておられるように、最適だと思われますので、
お送りするようにしていました。
ところが、十数年前から、下巻のみ忽然と姿を消して、
中古市場でも、全く求める事ができなくなった。

この聖典は、上巻、下巻があって完結するのであり、
尊師谷口雅春先生が1973年(昭和48年)ブラジルにおいて、
一週間余にわたって連続講義されたものを録音されていて、
筆記された全文だと書かれております。

どんな理由があるにせよ、この聖典を一日でも早く
世に出されて、皆さんの幸福祥運(しょううん)の為に
捧げて頂きたいと、関係者の方に
現場から切に切に願う者であります。

ありがとうございます。







はうらひとひら様 (66621)
日時:2024年07月28日 (日) 15時47分
名前:志恩

>☆: 真理

《 この生長の家の人生哲学入門の本は、
今迄全然生長の家のことを知らず、
何らの先入観念をも有(も)っていなかった人が、
何らの好悪(こうお)の考えももたずに純粋に
人間の本質及び人生の意義について深い哲学的
又は宗教的理解を得るに最も適しているのである。
しかもこの本は「真理』の手ほどきから始まって、
人間の生活全体を一変するほどの深い信仰に入るために
最も適当な本である。・・・・

(『奇蹟を生ずる実相哲学』生長の家入門講座 上
 はしがき)

☆: 真理



・高瀬清博士が原爆投下時、
偶然自宅にいてただ一人難をのがれた例。
・天辰静雄氏が、原子爆弾の爆風で吹き飛ばされたが、
毎日仏壇で先祖の霊の冥福(めいふく)を祈っていた
聖經『甘露の法雨』が氏の全身をおおいかぶさって
無傷で助かった話の例。
(『奇蹟を生ずる実相哲学』生長の家入門講座 下
 はしがき)

■: 体験



志恩ー
『奇蹟を生ずる実相哲学』生長の家入門講座 下』に
書かれてある高瀬清医学博士の奥様の高瀬不二先生が
私が原宿本部へ奉職した時の白鳩会全国会長で白鳩会中央部
におられた先生でした。お給料は要らないと言われまして、ずっと
無給で奉仕で、働いておられた愛深くてとてもいい先生でした。

はうら様は驚くほどたくさんの生長の家の本を拝読されて
いらして、ピンポイントで真理のお言葉を抜き出して、
ご紹介くださいますので、おかげさまで、とても勉強になります。

『奇蹟を生ずる実相哲学』上下を、今、Amazonコムへ
注文したところです。
学び直したいと思いましたので。
ありがとうございます。

ーーーーーーーーーーーー
7/30
『奇蹟を生ずる実相哲学』上下、届きました。

@はうらひとひら様 (66659)
日時:2024年08月02日 (金) 15時07分
名前:志恩

合掌ありがとうございます。

毎月第3土曜日に開催されておられます
はうらひとひら様宅のzoom実相誌友会、
ひかりのお便り魂のお便り、2024,8月号を

私にまでお送りくださいまして、
ありがとうございました。

今月のひかりのお便りの

題字は、
⑴は、
『内なる良心の中に神が内在する。
神は偏在であり、無限である。』

はうら様にご許可いただきまして、
ご送付くださいましたプリントを
スマホのカメラで写しまして、
添付させていただきます。


ひかりのお便り
令和6年8月  《第49号》


(マウスでクリックすると拡大します。)

Aはうらひとひら様 (66660)
日時:2024年08月02日 (金) 15時09分
名前:志恩

ひかりのお便り
令和6年8月  《第49号》
⑵『不思議なる霊的生命が本当の人間』
(『無門関解釋』280から286頁要約)


マウスでクリックすると拡大します。

Bはうらひとひら様 (66661)
日時:2024年08月02日 (金) 15時16分
名前:志恩

ひかりのお便り
令和6年8月  《第49号》に
添付されていた

『動・反動の因果の法則』
(新版 『生活の人間の再建』73から75頁)


志恩ー
どれも、谷口雅春先生先生の素晴らしい真理の
お言葉が謹写されております。


(マウスでクリックすると拡大します。)

大調和の神示 (66681)
日時:2024年08月04日 (日) 11時06分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。

『大調和の神示』についてです。
どなたも十分理解されていると思いますが、
老婆心ながら、再確認のため記述させていただきます事、
お許しください。

先ず『生長の家教規』からです。
誤解を恐れずに言えば、『教規』とはその宗教における憲法です。その教規の中に、名称、目的、教義等一切が
述べられているからです。
宗教上の最高規範だからです。
『教義』はその宗教の真理の内容です。

《【生長の家教規】

第1章 名称
第1条 この宗教は、生長の家と称する。

第2章 目的
第2条 この宗教の設立の目的は次の通りである。

(1)谷口雅春創始の、生長の家の教義に基き 、
その主著『生命の實相』を鍵として、
万教共通の宗教真理を開示し、これを宣布することによって、
人類光明化につくすこと。

(2)教化道場及び礼拝施設を備え、
この宗教の教義に基いて儀式行事を行い、
信者を強化育成すること。

(3)教義の発祥及び発展の沿革を明らかにするため、
総裁の遺跡、遺文、記念物等を保存し、
この宗教の史跡及び施設を散逸せしめざるよう修理保管すること。

(4)各地に生長の家の教化部、道場及び伝導本部を設け
それらにおいて宣布する教義を判釈し及び儀式行事を
行わしめもって布教の統一を図るとともに、
その教務及び事務を総攬すること。

第3章 宣言
第3条 この宗教は、その目的を達成するため実行目標として
次の如き『生長の家七つの光明宣言」を定める。

1.吾等は宗派を超越し、生命を礼拝し、
生命の法則に随順して生活せんことを期す。

2.吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ
個人に宿る生命も不死なりと信ず。

3.吾等は人類が無限生長の真道(まことのみち)
を歩まんが為に生命の創価の法則を研究発表する。

4.吾等は生命の糧(かて)は愛にして祈りと愛語と讃嘆とは
愛を実現する言葉の創価力なりと信ず。

5.吾等は神の子として無限の可能性を内に包在し、
言葉の創価力を駆使して大自在の境に達し得ることを信ず。

6.吾等は善き言葉の創価力にて人類の運命を改善せんが為に、
善き言葉の著述、出版、講習、講演、テレビジョン
その他凡ゆる文化施設を通じて教義を宣布するものとす。

7.吾等は正しき人生観と正しき生活法と正しき教育法により
病苦其の他一切の人生苦を克服し相愛協力の天国を地上に
建設せんが為に実際行動を起す。

第4章 立教
第4条 本教の立教は、昭和4年12月13日谷口雅春が
『生命の実相を知れ」「人間・神の子」「今即久遠」
「天地一切のものと和解せよ」の神啓を受けたるに発し、
昭和5年3月1日「生長の家」なる名称にてその教えを
宣布したるに始まりこれを立教の始源とする。

第5章 教義
第5条 本教の教義の大要は世界のすべての宗教は
唯一の本源より発するものにして、
万教は唯一の真理に帰一し、人間救いの原理も
唯一にしてニあることなきを宣説するものにして、
教えの創始者谷口雅春の唯神実相の神学を鍵として
全世界の宗教の経典の真義を顕示して
人生に光明あらしむるものである。

教義の根本たるものは『生命の實相』巻頭の
『七つの燈臺の點燈者』の神示なり。
曰くーー汝ら天地一切のものと和解せよ。
天地一切のものとの和解が成立するとき、
天地一切のものは汝の味方である。
天地一切のものが汝の味方となるとき、
天地の萬物何物も汝を害することは出来ぬ。
汝が何物かに傷つけられたり、黴菌や悪靈に冒されたりするのは
汝が天地一切のものと和解してゐない證據であるから
省みて和解せよ。
われ嘗て神の祭壇の前に供え物を獻ぐるとき、
先ず汝の兄弟と和せよと教へたのはこの意味である。
汝らの兄弟のうち最も大なるものは汝らの父母である。
神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなはぬ。
・・・・・・

われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解して
われを招べ。われは愛であるから、
汝が天地すべてのものと和解したとき其處にわれは顯れる。
ーーというにあり。》

今回の論点は2点に絞ります。
一点目は、上記神示の中の御言葉で「われ』とはどなたで、
「かって」とはいつのことか。です。

・新約聖書『マタイ傅福音書』
第5章23〜24節
「・・・・この故に汝もし供物を祭壇にささぐる時、
そこにて兄弟に怨(うら)まるる事あるを思ひ出さば、
供物を祭壇のまへに遺(のこ)しおき、
先ず往(ゆ)きて、その兄弟と和睦(わぼく)し、
然(しか)るのち来りて、供物をささげよ。」
(日本聖書協会『舊新約聖書」新約聖書 8頁)

それは所謂(いわゆる)「山上の垂訓(すいくん)」
(「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。
天国はその人のものなり。・・・)
(『マタイ傅福音書』
第5章3節から)
を説いた時であるから、
イエス・キリストが「大調和の神示」を垂れ給うたのである。
おや?住吉大神ではないのか。

その答えは昭和20年11月27日未明に垂示された
『終戦後の神示』によってである。
《 われは七つの燈台に燈(ひ)を点ずる者である。
われは白髪の老翁(ろうおう)である。
白髪とは久遠永劫(えいごう)よりつづく無量寿の象徴である。
われは彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)が
魚釣(なつ)らす鈎(つりばり)を失い給いて
憂い泣きたまう海辺に来たりて、
尊(みこと)を竜宮海に導きたる塩椎神(しおつちのかみ)
である。
・・・キリストはわれの別名である。・・・》

《 「われは白髪の老翁である』とその姿のモンタージュ的
肖像が生長の家本部会館(編注:原宿本部)正門入口の上に
服部仁郎氏製作の神像として安置されているのがそれである。》(『秘められたる神示』
神示講義 秘の巻 7.8頁)

《 「鹽椎神(しおつちのかみ)の別名は
住吉大神(すみのえのおおかみ)(生長の家大神)であり、
彦火火出見尊は、神武天皇の祖父君にあたられる御方
である。》
(『甘露の法雨解釈』20.21頁)

昭和10年1月25日刊行された黒表紙版『生命の實相』
第一巻以降掲載されている、表紙のすぐ次に
(目次や神示や序文より前)突如として出現する
「ヨハネ黙示録』第一章の白髪の老翁は、
イエス・キリストであり、住吉大神という亊がわかる。

二点目は、「大調和の神示』が聖典に垂示されたのは
いつかという亊である。
それは『生長の家』合本第一巻として総黒革表紙・三方金
 一千四十頁の『生命の實相』として昭和7年1月1日発行
・昭和6年12月28日印刷納本)
で表紙の扉のすぐ次に「汝ら天地一切のものと和解せよ。・・・」(九月二十七日夜神示)として、
はしがきより、目次より初めに垂示された
「生長の家の食事」より前に何年(編注:昭和6年)と
書かずに、ご教示されているのである。
(タイトルもなく、御文章のみにて)
最優先で教示しなければと、何年と書かずに載せられた
のであろうか。
後にそれが全文教義となっているのである。

■: 体験

これは失敗の体験である。
今だに悔まれる事である。先の体験談で、
同時に3名の方を祈らせていただく事になり、
ふと、3名もと思った時「お前がやるのではない」と
一喝されたのは、先に記した通りである。
その内の一人の方の事である。
私が6度目の就職先の社長であった。
或る日突然出社しなくなったので、聞いてみたら
入院しているという。
私はすぐに原宿本部(当時)に神癒祈願を出し、
親族の方にお札を託した。
そして祈った。
暫くして、その社長は出社された。
休憩室で会った時、「いやあ、あのお札は、すごい効き目があるよ。どんどんよくなるのがハッキリと解って、感謝している」
と言われた。その時私は、その社長が父親と不調和である事が
霊的にわかった。
「親に感謝して下さい」と言おうか迷ったが、
上司でもあるし、社長でもあるので、つい言いそびれてしまった。そして『奇蹟を生ずる実相哲学』上・下巻をおくった。
一時完治したようであるが、私が出張中に再入院し、
あっという間に帰幽された。
末後の言葉に「父に会いたい」と言っていたと聞いて、
しまった。あの時「親に感謝してください」と
何故言わなかったのかと悔やんだ。
42歳であった。
後継者が選任できず黒字倒産して、
百名以上の社員が一瞬で職場を失ってしまった。
大変申し訳なかったと、今でも悔んでいる。
正に神に感謝しても、父母に感謝し得ないものは、
神の御心にかなわなかったのである。
命がけで祈らなければならない。
深く肝に銘じた次第である。

ありがとうございます。


 













はうらひとひら様 (66691)
日時:2024年08月05日 (月) 05時59分
名前:志恩

はうら ひとひら様ー
>「大調和の神示」

『大調和の神示』についてです。
どなたも十分理解されていると思いますが、
老婆心ながら、再確認のため記述させていただきます事、
お許しください。

先ず『生長の家教規』からです。
誤解を恐れずに言えば、『教規』とはその宗教における憲法です。
その教規の中に、名称、目的、教義等一切が
述べられているからです。
宗教上の最高規範だからです。
『教義』はその宗教の真理の内容です。略<


志恩ー
汝ら、父母に感謝せぬものは神の心に叶わぬ、
つまり事業をやっても、口先で上手いことを言っても
父母に感謝せぬものは成功することはない、
と言う慄然とした心の法則のことですよね。

私は中二の頃まで、母が戦後、再婚した父をすごく憎んでいました。
継父は、大酒飲みの人で、酒乱でして、ことあるごとに、一緒に暮らして
いた祖母、母、私に暴力を振るう、恐ろしい人物だったからでした。

私が中二の時、母が友達から「真理」の本を借りて読んだことが
きっかけで、母が生長の家に入信しましたので、私も母と一緒に入信し、
中3の時、初めて、父に内緒で、夏期飛田給 高校生練成会に、中三
でしたが参加してそこで、父に感謝することを教えていただきました。

私は、心から父に感謝しまして、帰宅してからは、教わった通り、
いつも笑顔で父の実相を拝み、父に優しく接するように努力し
続けました。それから数年の月日が流れ、その間も、いろいろな
ことがありましたが、数年後には、父も生長の家に入信してくれて、
父は、相変わらずお酒は好きでしたが、酒乱は消えていました。

父はその後、生長の家の連合会長まで引き受けてくれて、
自宅では誌友会支部会まで開いてくれるように、変身してくれた
体験談を持っておりますので、この教えは
間違いがない教えだということを確信いたしております。

はうら様は、前々から、親身になって、無料で個人指導や個人相談に
乗って差し上げておられますまことにもって愛深い、宗教的にも素晴らしい
お方でいらっしゃいます。

体験談も書いてくださいますので、大変ありがたく拝読させていただいて
おります。

今後ともご指導をよろしくお願い申し上げます。

『生長の家教規』について (66700)
日時:2024年08月05日 (月) 14時22分
名前:本音の時代

幹部や信徒の中に『生長の家教規』が浸透しているのか、はなはだ疑問です。圧倒的に『生長の家教規』の存在を知らない人が多いのではないでしょうか。私自身は、ここ一年以内に入手した『地方講師活動指針』で知りました。
私の持っているものは古く、第2条 3には「総裁の遺跡」とあるのですが、現在は総裁を創始者に改められているのでしょうか。。

本音の時代様 (66702)
日時:2024年08月05日 (月) 15時54分
名前:はうら ひとひら


本音の時代様
ありがとうございます。
教規はあまり表には出てきませんが、現在も変わらない
と思います。
(教化部に行けば見れると思いますが。)
教規の変更には、信徒に公告する必要がありますが、
(現在は『生長の家』機関誌で公告)あまり見かけません。
信徒の皆様がどこまで教規を認識されているかですが。

ありがとうございます。

本音の時代様 (66707)
日時:2024年08月05日 (月) 16時52分
名前:志恩

私も、谷口雅春先生が総裁先生で、
谷口清超先生が、副総裁先生の時代の人間ですので、

その後の、生長の家の教規については疎い人間なので
それについては、知らないのです。

本尊 (66816)
日時:2024年08月11日 (日) 09時48分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。
今回は「本尊」についてです。前回の続きで

《【 生長の家の教規】

第6章 本尊
第6条 この宗教の本尊は生長の家の大神と仮に称するも、
その教義にては 生長の家とは「大宇宙」の別名なれば
大宇宙の本体者の応現又は化現とみとめられる。
正しき宗教の救いの本尊たるものは如何なる名称の神仏も
わが宗教の本尊として礼拝するのである。
但しこの宗教には社殿、仏殿等を設けず、
あらゆる宗教の本尊の奥にある「實相」(唯一の真理)
を礼拝の対象とするため『實相』の書を掲げるものとする。》

☆: 真理

《 「本尊として祭祀する「實相』の由来について」

生長の家は、物質的な偶像的なものは何一つ置かないで
「内在の位に立つ神が超越の位に立つ神を
“實相”として礼拝し、“個”即“普遍”。
“普遍”即“個”の自己を、今此のわが身に自覚するを
主目的とする最も純粋な、一宗一派に偏(かたよ)らない宗教」
なのである。
形ある本尊を安置しては、
超越的内在の超越者を象徴することは出来ないので、
形がありながら、形なき超越的内在の意味をもつものを
本尊として祭祀するほかはない。
その為には「實相」という文字を選んで本尊とするのが
適当であると考え、その「實相」という文字を本尊として安置し、各自の内在の実相たる“神聖”をその本尊に移入して、
宇宙普遍の神靈との合一点として、
そこに“内在超越”の神靈を礼拝するための
“心の焦点”をつくることにしたのであった。》
(『白鳩』誌 昭和48年3月号
「十九日の箴言(しんげん)」)

☆: 真理

《 「絶対の神は、相対の人格神として自己完成する」

ソクラテスに助言を与えたダイモニオン
(編注:内在の神の声)と呼んだ霊がソクラテスの正守護神か、
特命の“守護の天の使い”か支配霊かはハッキリとは判らない。
これを直ちに「相対を超える絶対者が、自己の内に内在して、
その絶対者が、“声”となってあらわれてきた」
と解釈するのが適であるとはかならずしも断じがたいのである。

超越的絶対者は、それは“絶対者”であるが故に、
われらに語りかけて対話を交えることはあり得ない。
それ故に絶対者の慈悲を体現したところの相対的に
顕現する人格神、又は天使又は菩薩又は教祖が
あらわれなければ、絶対者はその救済を具体化することが
出来ない。
救済を具体化することが出来ないような神は
“神”と称されるにしてもハタラキに於いては
神ではない。
“神”が救済を完(まっと)うし得る本当の神となりうる
ためには、絶対者が相対的人格神として
あらわれて救済の御業(みわざ)を現実になさなければならない。

即ち法身(ほっしん)の阿弥陀仏が、
報身(ほうしん)又は応身(おうしん)の
佛如来(ぶつにょらい)として顕現しなければならないし、
「天にまします父」なる神が地に降誕(こうたん)した
イエス・キリストとして顕現しなければならないし、
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が
住吉大神(すみのえのおおかみ)として顕現しなければ
ならないし、宇宙普遍の神が、ある教祖として
顕現しなければならない。
神の神たる慈悲の本来をあらわし、
神たる使命を完成する為には、色々の宗教に於いて
“教祖神”として“神”はあらわれなければならないのである。
神の具体的人格的慈悲の完成は、
応身の教祖となって顕われることによって完成する。》
(『白鳩』誌 昭和48年3月号「十四日の箴言(しんげん))

☆: 真理

《 古事記に「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、
高天原(たかあまはら)に成りませる神の御名は、
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」とあって
天之御中主神というのは固有名詞ではありません。
「天之(あめの)」の「之」という字は説明につかった
接続詞であります。
天之御中主神とは、「天(あま)」即ち「天球」の
「御中(みなか)」なるところの主なる神という意味であります。

古事記では、「神ロギー」を高御産巣日神(たかみむすびのかみ」「神ロミー」を神産巣日神(かみむすびのかみ)という
字が当てはめられております。
神産巣日神は女性の神、高御産巣日神は男性の神であるが
この二神は、御言葉ですから、
創造者として、又生々化育の自然造化のはたらきとして
働く時には、本来の偏(かたよ)らぬ「中」性をもって
働らかないで、その「中」が破れて
陰陽の二つに別れて働くのであります。
しかしそれは働きを説明する為の御言葉としての二神であり、
まだ具体的な人格として現れていないのであり、
「陽」と「陰」との二つの「生命原理」ともいうべき
第一義の独神(ひとりがみ)でありますから
謂(い)わば「幽之幽(ゆうのゆう)」の神さまです。》
(『實相と現象』197〜203頁 要約)

☆: 真理

《 【実相に超入する祈り】

わが真実の相(すがた)は“霊”であるのである。
これを実相というのである。
わが実相は“神の子”であり、
神は“霊”であるがゆえに我もまた霊的存在である。
私たちが、悟りをひらき得たその程度にしたがって、
私たちは、自己が“物質的肉体”ではなくて、
靈的実在 であるということが一層はっきり判(わか)って
くるのである。
すべての存在を物質として観(み)てきた過去の考えは、
全く“迷いの心”の産物だったということが判ってくるのである。すなわち釈尊(しゃくそん)が、
山川草木国土悉皆(しっかい)成仏とお悟りになった
其(そ)の如く、山も川も草も木も国土も悉(ことごと)く
物質ではなくて、仏のいのちの現成(げんじよう)
であるということがわかってくるのである。
これを端的(たんてき)に表現して、「物質は無い」
というのである。
「物質は無い」というのは、肉眼に見える「物質」
というものはあるように見えても本来無いのだから、
粗末に、かなぐり棄(す)てても好(よ)い
というような意味ではないのである。
すべての物質と見えるものも、実は、物質ではなく、
仏のいのちーー神のいのちの現成なのであるから、
それを拝(おが)む心で使わなければならないという
意味なのである。
したがって一切の存在は完全円満であって、
不完全なものは何一つないということである。
不完全なものは無いから、
病気、老衰、貧乏、闘争、戦争・・・・
そんなものは実相においては決して存在しないのである。
これらの不完全な悪(あ)しき諸相(しょそう)が
存在すると見えるのは、
ただ五官の誤れる認識がそのように見せているだけである。
われわれが、五官の感覚のあやまれる物質的認識に
眼を瞑(と)じて、実相を直接観(み)ようと努力するとき
次第に、この世界の万物が物質ではなく、
荘厳きわまりなき、神の創造したまえる完全無比(むひ)なる
存在であることが判(わか)ってくるのである。
この¨実相の荘厳なる相(すがた)”を観ずる行事が
神想観なのである。
¨実相の荘厳なる相”のみが真に実在するのである。
¨実相の荘厳なる相”の中に一切の善きものが存在する
のである。
そこに完全な健康があり、そこに無限の智慧があり、
そこに無限の愛があり、そこに無限の供給があり、
そもに無限の歓喜(かんき)があり、
そこに無限の調和があるのである。

そこにこれらの善きものがあると見るとき、
まだそれは本当に実相を自覚したのではないのである。
そこをここにもち来たすことが必要であるのである。
実相は今ここに、わたしの生命(いのち)のうちに、
今ここに神があり、神の国があり、完全なる健康があり、
無限の智慧があり、無限の愛があり、無限の供給があり、
無限の歓喜があり、無限の調和があるのである。

わたしそのものが神であり、
わたしそのものが神の国であり、
わたしそのものが無限の健康であり、
わたしそのものが無限の智慧であり、
わたしそのものが無限の愛であり、
私そのものが無限供給であり、
私そのものが無限の歓喜であり、
私そのものが無限の調和である。
この真理を知って私は今無限の感謝に満たされております。
ありがとうございます。』
(『聖經 真理の吟唱』 20〜23頁)

■: 体験

平成26年10月号『生長の家』機関誌の54頁で
「来る(平成26年)11月21日、生長の家総本山で
執り行われる第37回龍宮住吉本宮秋季大祭で、
龍宮住吉本宮に、住吉大神と共に、天之御中主神、
高御産巣日神、神産巣日神(造化の3神)
を新たに祭祀されることが決まりました。」と記載された。

宇宙の本源であり、畏(おそ)れ多いから、
みだりに触れたり、変えたり人為を加えては、
絶対にしてはいけないといわれている
「幽の幽なる第一義の神」を祭祀するという。

私達(Oさん、Nさん、はうら)三人は、
大変な事になったと思い、平成26年10月の講師研修会で
この事(造化の3神の祭祀)を中心にして、
そのやってはいけない事、教規違反ではないのかと、
当時の教化部長に問いただした。
教化部長はのらりくらりとはぐらかした。
なによりも驚いたのは、百名ほど出席していた地方講師の
殆どの人が、造化の3神についての知識を持ち合わせていない為、会場は白けていた。
いくら教規の「本尊」を質問し、実相独在を質問し、
地産地消の考えは「自然流通(じねんるつう)の神示に
反する考えである事を質問しても、他の講師の反応は
まったくなかった。
30分程研修会は延長されたが、皆迷惑そうであった。
唯一人教化部長が返答に窮しただけであった。
私達3名は完全に浮いていた。
私達は、教化部長を問いつめても、何も変わらない事を知った。

暫くして、相愛会、白鳩会、青年会、栄える会、の会則が
変更となり、
「本部の意図、方針に違反した行動をしたものは処罰する」
と一年以上に亘って毎月印刷物が会員全員に配布された。
この威力はすさまじく、皆本部が何を決定しても誰も
何も言えなくなってしまった。
私達3名は、講師出講停止となり、組織から距離をおき
それぞれ、独自にそれぞれ光を点じていくことになった。

そのOさん、Nさん、も帰幽され、私だけが一人とり残されて
しまった。現状に対して、誠に申し訳ございませんとお詫びするしかありません。

ありがとうございます。




 



はうら ひとひら様 (66820)
日時:2024年08月11日 (日) 16時50分
名前:志恩

はうら ひとひら様ー
>今回は「本尊」についてです。
前回の続きで

《【 生長の家の教規】<

志恩ー
はうら様
勇気あるご発言、感謝いたします。
私は、はうら様のご指摘通りだと、前から
痛感いたしております。

8月15日によせて (66902)
日時:2024年08月15日 (木) 06時28分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。

今年も8月15日を迎えました。
この日をどのような気持ちで迎えられたかは、
それぞれだと思いますが、感慨深いものがあります。

・その八月十五日正午に何があったかと言えば、
昭和天皇の玉音放送、終戦の詔勅です。
戦争意志の決意に対して、突然の断絶と反転を求めたのは
昭和天皇だった。
「時運の赴く所、堪え難きを堪え忍び難きを偲び・・・」
この放送の後のことを思い出すとーー
私が当時いた富山県と石川県の境の僻地ですがーー、
人々はうなだれて、ラジオに背を向け、三々五々、
家路をたどっていました。
空は青く澄んで、昼下がりの蝉声がはげしく鳴いた。
この人々の群れは、群れているようで、一人ずつ孤独だった。
何も言わずただ黙々と歩いていた。
何を聴いたのか、何を知り、理解したのか、
それを言葉にすることができなかった。
哀しみがこみあげてきたが、何が悲しいのか自分が悲しいのか、
人が悲しいのか、いや、日本が悲しい。
このような悲しみは、いままで経験したことがなかった。
こういう言い方はいまの日本人には
わからないかも知れないが、「日本が悲しい」のです。
(『正論」2015年9月臨時増刊号383頁
 桶谷秀昭対談発言より)

・イエスの死がたんに歴史的事実過程であるのではなく、
同時に、超越的原理過程を意味したと同じ意味で、
太平洋戦争は、たんに年表上の歴史過程ではなく、
われわれにとっての啓示の過程として
把握されるのではないか。」
(同書、380頁 長谷川三千子対談発言より
橋川文三の『戦争体験』論を評して)

・なぜ橋川文三は「太平洋戦争」という言葉を使っているのか。
昭和二十年十二月十五日のGHQによる
「神道指令」を彼が知らなかったはずはない。
神道指令には、明らかに皇室の廃滅が企図されています。
神道と神社に対する公の財源よりのあらゆる援助を
禁じたのに始まり、内務の神祇院を廃止し、
公の教育機関における神道の研究と神官の養成を禁じ、
教科書の中の「すべての神道教義」の削除を命じたものです。
注意すべきは、直接神道の「教義」に関係ない領域にまで
禁止範囲が及んでいることでたとえば
「公文章において『大東亜戦争』や『八紘一宇』なる用語
乃至その他の用語にして日本語としてのその意味の連想が
国家神道、軍国主義、過激なる国家主義と切り離し
得ざるものは之を使用することを禁止する。
而してかかる用語の使用の即刻停止を命令する」
という禁止令は、日本人の現代史における歴史意識、
戦争を体験した日本人の内面感覚まで立ち入った
タブーの強制にほかなりません。
そしてそのタブーに代わるものとして、
GHQが押しつけてきたのが「太平洋戦争」です。
昭和二十年十二月八日付日本の新聞各紙は
「太平洋戦争史」としてアメリカ側からの観点から、
アメリカの権益の現状維持に障礙となるような
日本の意志と行動を侵略行為と裁断する露骨な宣伝文章の
域を出ないものです。
もちろん戦争というものに、当事国の観点を全く抜きにした
公平客観的な歴史を望むことは無理ですが、
それでも日本人が戦ったあの戦争は、
それが悲惨な敗北に終わったにせよ、
飽くまで大東亜戦争なのであり、
アメリカの世界戦略の一環としての太平洋戦争ではなかった。
大東亜戦争が蔵した真実と虚偽、あるいは理想とその転落を
振り返るのは、大東亜戦争を生きた日本人の体験の内側のみ
可能です。
(同書 380.381頁桶谷秀昭対談発言より)

・終戦処理の際、スターリンはトルーマン米大統領宛書簡で、
ソ連による千島諸島及び北海道北半分の占領を提案する。
スターリンはその提案を既成事実としてアメリカに
認めさせるため、武力侵攻による千島諸島南下を
図ったのである。
・しかし、無条件降伏後の奇襲という卑怯なやりかたは、
かえって日本軍に祖国防衛の大義を自覚させ、
その闘志に改めて火をつける結果になった。
スターリンらの思惑は裏目に出てしまったのである。

・八月十八日、スターリンはトルーマンから
北海道北半分のソ連占領を拒否する旨の回答を受け取る。
八月二十二日、スターリンは遺憾の意をワシントンに伝え、
しばらく協議したが、トルーマンの決意を
くつがえすことはできなかった。
マッカーサー連合国軍最高司令官も、
ソ連のデレビヤンコ将軍から、日本を分割して、
北海道はソ連に委ねよという要求を受けた時、
「もしソ連兵が一兵たりとも私の許可なく日本に入ったら、
デレビヤンコ将軍も含めてソ連代表全員を即座に投獄する」
といってひきさがらせたと、後年、語っている。
 (『マッカーサー回想記』下、朝日新聞社、
昭和三十九年)
(同書 201.202頁)

「神こゝに敗れたまひぬー。
すさのをも 
おほくにぬしも
青垣の内つ御庭の宮出でて 
さすらいたまふー。」
(折口信夫(釈超空)
「神やぶれたまふ」)

『神やぶれたまはず』
(長谷川三千子著)

☆: 真理

『日本の實相顕現の神示』は
大東亜戦争の敗因の原因と、業の自壊、
自己開放の“巻き戻し”の過程としてあの戦争は起こった。
当時ほとんどの日本人は「日本は滅びた」
ように思っていたのであるが、それはただ
「実相が蔽(おお)い隠されている」だけであって、
実相の日本国は、永遠に滅びることはない。
ポツダム宣言の受託による降伏は、
日本の全面的降伏ではなく、日本軍隊の無条件降伏であり、
日本国は建国以来現象的にも、
未だかって滅びた事がないのである。
(『秘められたる神示』神示講義
 秘の巻130〜140頁 要約)


☆: 真理

《・・・ 日本国民が国家を愛して国家を護るために戦った。
その“戦い”という行為は、
相手があり相対的なものであるから、
立場立場の異なる人々によってその価値・不価値を
色々に評価されるけれども、その“戦い”という
相対的行為の奥にあるところの
日本国民が天皇を愛し大日本帝国を愛した
というその純忠なる“愛”の価値は
相対的比較を絶した絶対なるものであるから、
肉体という相対的存在が滅びても、
永遠にその“愛”の価値が滅びることはないのである。
純粋の愛は、絶対者に属し、
絶対界より出でたものであるが故に、
それは永遠の価値をもっていて
滅びることはないのである。
(『聖經 続真理の吟唱』109.110頁
「愛の絶対価値を高揚する祈り」)

「 1980年(昭和55年)5月21日
パウロ6世の遺志を引き継いだ教皇ヨハネ・パウロ2世は
日本の大東亜戦争時のA級戦犯、B級戦犯、C級戦犯
として処刑された英霊へのミサをサンピエトロ大聖堂で行い、
A級戦犯、B級戦犯、C級戦犯として処刑された
英霊1068柱の位牌が奉納された。
アメリカ人、メリノール宣教会のパトリックバーン神父
(当時、上智大学学長)は
「いかなる国家も、その国家の為に死んだ戦士に対して
敬意を払う権利と義務がある。
それは戦勝国か敗戦国かに関わらず、
平等の真理でなければならない。」と云われた。(wikipedia.,google  chrome)

■: 体験

数日前の事、早朝の清掃の仕事を終わって帰る仕度をしていて、
人手が不足しているので、いろいろ方法を考えて、
数人で実行していた。
その話を聞いた同僚の一人が、
「そんな事を上司の不在の時に勝手にやっていいのか」
と言ってきた。
私は「勝手にやっているわけではない」といったら、
物凄い勢いで私の所にきて、腕力でぶっ飛ばそうとした。
(身長2メートル近くある人で、
普段は人の半分くらいの速度で歩いていたが、
その時はすばやかった。)
私は倒されても、皆の仕事が円滑にいくのであれば、
それもやむを得ないと思い冷静だった。
間一髪のところで、女性のリーダー格の人が、
上司の許可もとっているし、Aさんからも了承を得ている
と言った。
その2メーターの人は、
「Aさんはそんな話は聞いていない。と言っているという」
女性のリーダーはもう一人の女性と2メーターの人とともに、
Aさんの所へ行って確認をし、事態は収拾した。
片方から聞いて、自分の都合のよいように解釈するのはよいが、
全て相対的なもの、自身の心の影であると深く反省させられた。(因みにAさんが1時間以上かけてやっていた仕事を
私が12分で終わらせ、Aさんに別の仕事に集中して
もらおうとして行った事について、
Aさんはそんな話は聞いていない、と言い、
それを側で聴いていた2メーターの長身の人は、
自分には関係ないのに、何故か横やりを入れてきた結果であった。世の中には、いろいろな人がいて、それで構成されている。
透明な悲しみが滲む思いであった。

ありがとうございます。









はうらひとひら様 (66906)
日時:2024年08月15日 (木) 16時09分
名前:志恩

8月15日 (木)
本日は、終戦記念日ですね。
>1945(昭和20)年、日本はポツダム宣言を受諾し、
無条件降伏して太平洋戦争が終わった。
昭和天皇による戦争終結の玉音放送によって国民に伝えられた<

志恩ー
はうら様、
終戦記念日の大事な日に、
貴重なご投稿をくださいまして、
誠に有り難うございます。
本来なら、本日は私は靖国神社へ参拝すべき日なのですが、
あまりの猛暑のため、自宅にて早朝に「甘露の法雨」を読誦し
うみの父に、改めて感謝いたしました。

最近、はうら様の身に起こった体験談も、しみじみとした気持ちで
読ませていただきました。
いつも真理を率先されて実践されておられるます はうら様の身の
周りに起こることは、1つ1つが、神様のお導きを痛感せずには
おれない貴いことばかりのように思えます。

いつもご教授、ありがとうございます。


終戦79年 天皇陛下がお言葉「世界の平和と我が国の一層の発展を祈る」 全国戦没者追悼式(2024年8月15日) (66908)
日時:2024年08月15日 (木) 17時26分
名前:志恩

8月15日
(2;39)
https://www.youtube.com/watch?v=gutyAjMk4Pk



【終戦の日】全国戦没者追悼式 生中継
(1;21;28)
https://www.youtube.com/watch?v=5dT-lj9B7m4


志恩ー
ありがとうございます。ありがとうございます。

住吉大神の御働き (66983)
日時:2024年08月19日 (月) 17時04分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。

今回は「生長の家の大神』の御働きについてです。

招神歌の第四首目に
「 天地(あめつち)の祖神(みおや)の道を
伝えんと顕(あ)れましし生長の家の大神守りませ」
とあります。

租神とは、第一義の神実相の神、
宇宙に充ち満ちている無相にして無限相の本源神である。
創造神。(宇宙大生命、天なる父、阿弥陀如来、
天之御中主神よびかたは違えども、一神です。)
(『生命の實相』頭注版第2巻150頁)

第二義の神実相の神の無限の姿の一部分が化身して
あらわれた神
(観世音菩薩、白髪の老翁、塩椎の大神)
(いずれも元は一つ、そのお働きによって名前がちがうだけ)
(同書、11頁)

生長の家の大神とは住吉大神である。

天孫降臨を指導していられるのが塩土老翁(しおつちのおきな)
即ち住吉大神である。
水火津靈(しおつち)は陰(水)と陽(火)とを
津波岐(つなぎ)合わせ
て一切を創造する“生みの根底(そこ)”
(海の底・竜宮海・実相界)の神であり、
住吉大神の別名であります。

古事記には住吉大神は「天照大神の御心なり」とあって、
生長の家の33の神示は
「住吉大神の神示は天照大神の御心の表現である。」
(『神の真義とその理解』216頁)

住吉大神は、日本の運命の重大な節々に出現して
日本をお護りする「天照大御神の御心」であります。

(1)天照大御神の御誕生

住吉大神が龍宮の大神として伊邪那岐大神の
御禊祓(みそぎはらい)の、最後の宇宙浄化の神
として出現せられて、その最後の浄化を終わったときに
天照大御神が伊邪那岐大神(宇宙創造神)
の左の目(左は「光足る(ひたり)を意味する光の極点であり、
宇宙の大神の光の極点よりの誕生を象徴する)
より生れている、産婆役であります。

(2)瓊々杵尊(ににぎのみこと)の御光臨は
(瓊々杵尊の所謂(いわゆる)“天孫降臨”は日本国の
重大な節である。
その降臨を先導していられるのが住吉大神である。

(3)彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)の龍宮海への
御降下

彦火々出見尊は神武天皇の祖父君にあたられる方
(新講『甘露の法雨)解釈 21頁)

彦火々出見尊の龍宮界への御降下は、
塩椎大神(住吉大神)が目無堅間(めなしかつま)の
小船(おぶね)に乗せ奉って尊を龍宮海にご案内された。
その船は“如来の願船”(ノアの方舟(はこぶね)
のことであり、実相界と現象界との感応道交の道を
ひらき給うた一大事因縁の事であり、
否定の言霊(塩乾珠(しおひるのたま)と
肯定の言霊(塩盈珠(しおみつのたま))を尊さまに
差上げていられる。
「欲せざるもの」を「本来存在しない」とし
「欲するもの」を「既にそれは与えられている」と観じる。
神想観の「如意宝珠観」は住吉大神の直授による。

(4)神武天皇の建国

住吉大神が、神武天皇の大和奠都(てんと)を指導せられた。
「東(ひんがし)にうまし国あり、き山四方(よも)
に囲(めぐ)り、けだし国の真中(まなか)か」

(5)神功皇后の三韓征伐

三韓征伐の時に住吉大神が新羅の海軍を撃滅させる
為に用いた“如意寶珠¨のご指導をされた。
(『古事記と現代の預言』155.156頁)

(6)大東亜戦争

・大東亜戦争の時、イタリーのシチリー島をハワイの
日本民族第二世が、難攻不落のヒットラー軍を最後に攻撃し、
生長の家ハワイ白鳩会会長宮川和子さんの祈りをこめた
『甘露の法雨』をお守りとして贈られたのをポケットに携帯し、
機関銃にあたりながら傷つかず上陸に成功した。
これで欧州戦線が収拾された。
戦後アメリカではこの功績を称えて、
ガリオア資金の名の下にして、
日本に食糧を供給してくれたり、
エロア資金の名の下に
日本の産業復興の資金を供給してくれた。

・ポツダム宣言受諾の陛下の御諚(ごじょう)があり、
終戦の詔勅(しょうちょく)を八月十五日正午に
日本全国に放送されるために御吹き込み頂いた録音盤を、
近衛(このえ)師団の反乱軍が奪取して、
終戦の詔勅を伏せてしまい、戦争継続を企てた時、
生長の家の信徒である田中靜壹(しづいち)大将が
片手に『甘露の法雨』を奉持(ほうじ)して
近衛将校を説得し、叛乱を鎮圧し、
無事、無血の平和をせしめた。
この時携行された紫表紙の聖經『甘露の法雨』は
反乱軍の将校すべてに、
「天皇陛下の御諚」と見え、
田中大将は天皇陛下の御名代(ごみょうだい)と感じ、
反抗することも狙撃することも出来ず、
叛乱を中止して無事無血終戦を迎えることが出来た。
住吉大神の神授の聖經『甘露の法雨』が奇蹟をあらわし給うた
のだと感得するほかはない。
(『神の真義とその理解』216〜223頁要約)
(初出『白鳩』誌昭和37年4月号)

■: 体験

3.11の震災直後私は原宿本部(当時)に神癒祈願を出し続けた。
祈願内容は『日本国実相顕現・生長の家実相顕現』
それだけだった。
多分誰かからクレームがくるであろう事は覚悟していた。
数か月して、窓口で祈願用紙を提出したら、
男性の方がいきなり出て来て
「貴方が はうら さんですか。あなたの祈願内容は
素晴らしいので、特別に枠を設けて祈願させていただきます。
今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。」
あとで女性の本部職員に聞いたら、祈願課長だという。
Kさんと初めての出会いであった。

その少し前、総裁のブログが印刷されていて
そこに『少寒雑感』とあった。
確かに少し寒いが、『少閑雑感』ではないかと、
男性職員に聞いたら「ああ」と言って、
知っているようであった。
知っていても、訂正もしない、生長の家は変ったとその時思った。私の祈願は、本部が移転するまで続いたが、
その後本部での祈願がなくなった為、
自分で住吉大神の許しを得て、
24時間365日の個人相談の受付けをする事になった。
(ご指導は住吉大神が行う。)

ありがとうございます。






 




はうらひとひら様 (67002)
日時:2024年08月21日 (水) 09時51分
名前:志恩

この度も、8月にはうら様宅にて開催されました
『ZOOM実相ひかり誌友会』メモをメールにて
お送りくださいまして、誠にありがとうございました。
出席者の皆様のお名前を、ABCDE ..に変えまして、
転載させていただきますこと、お許しくださいませ。
________________


8月17日開催の
『ZOOM実相ひかり誌友会』メモです。

(文責・はうらひとひら様)
日時:令和6年8月17日 午後1時半より約2時間
・出席者(敬称略、50音順)
・ はうら  ・A

(メールにての参加者)
B C D E F G  

■: A

今回のテキストの『真理』第一巻をパッと開いたら、
(152頁(旧版))130頁(新版)の「縁談の遅い早い
も心から」が飛び込んできました。
私は16歳で都立高校に合格するも、それを退けて
芸(日本舞踊)の文化を継承し次の世代につなげたい
と思い立ち、盛岡の稽古場で修行に励みました。
名取、師範となり、東京、青森、岩手、山形、鹿児島
などの稽古場で門弟の指導運営をしています。
盛岡の稽古場を立ち上げた時、父(初代家元)から
10年は我慢して励めと言われましたが、2年目から
採算が取れるようになりました。
気がついたら40歳になっていた時、母から突然縁談の
話があったが、その1年半前に40歳で結婚出来ると
日記帳に書かれていて、その春に話があってから
秋には結婚式を行いました。
正にテキストにあります「運命は自分の心にあり」
が証明できました。
また盛岡に拠点があるお蔭で、23年間毎月父母の
お墓詣りができて、霊界からのご指導もいただいて、
日々神癒に生かされてありがたい事です。

・ はうら

『真理』第1巻はほとんどが「心の法則」がご教示
されております。日々真理を実践され、靈供養も
毎月され、伝統文化を次世代に伝える事業も毎日
されていて、ご家庭でも毎日ご家族全員で神想観
実修をされていて、素晴らしい事だと思います。
多くの神癒の体験をされています。

* 「実相ひかり誌友会」は今回(令和6年8月)から
第二の『生命の實相』といわれる『真理』(昭和
29年初版)をテキストとして学ばせていただきます。
顧みますと、平成28年(2016年)8月13日を初回
として、3年4ヶ月をかけて全33神示を学び、
令和2年(2020年)1月から『生命の實相』頭注版
全40巻を先月(令和6年7月)まで学びました。
途中感染症対策で、6か月は中止となりましたが
その間「紙上誌友会』として、『真理』を紙に
書いて送付しました。
令和2年8月から『ひかりのお便り』を発行しました。
令和2年9月からオンライン(ZOOM)にて誌友会を
再会し現在に至っております。
通算113回・997名ご参加
(内 岡先生ご指導・93回・809名ご参加)
ありがとうございます。

『新版 真理』第1巻 第一章から第八章)からの
ご文章の中のお言葉をキーワードとして学びました。

《現代人のためにやさしく書かれた実相哲学の
入門シリーズ『真理』第一巻。釈迦やキリストの
悟りを現代生活に実践して内面的な豊かさを増し、
各人の無限の可能性を開くための手引き。》
(『新版 真理』第1巻 表紙カバー裏より)

「理論の次には実証が必要である。」
(『新版 真理』第5巻 174頁)
真理は体得し体現し、実証して完成する。
真理を「そうだ!」と認めるところから始まります。
そして生活に溶け込ませることが実践だと思います。

*「実相哲学」の哲学とは

《「哲学(metaphysics)と云う言葉はその文字の組立て
が示す如く、physics(物理学)と云う言葉にmeta
(超越する)と云う言葉が結合されている。
従って物理的なるもの以上のものを意味している
のである。それ故哲学を生活する又は哲学を行ずる
と云うことは、超物質の自覚の下に生活すること
である。宇宙の最始原には、ただ「心」即ち
超物質的存在なる「霊」のみがあったと云うことで
ある。創造せられたる一切のものは霊を材料として
造られたと言わざるを得ない。
心は想念(ことば)によってのみ活動することが
出来る。
それ故心は想念(コトバ)とよばれる材料をもって、
見ゆる形に一切のものを創造したのである。》
(『人生は心で支配せよ』13.14頁)

《 此の全集を『真理』と名づけたのは、イエスが
『われは真理なり、生命なり、道なり。』
『重荷を負える者よ。我に来れ。我れ汝を休ましめん。』
『真理は汝を自由ならしめん。』
と言われた場合に意味される真理である。
真理は佛教では『実相』という文字があてはまる。
それは『道』として天地に普遍し、生命として吾等
個々の人々の内にもやどる。
個にして全、全にして個なる真理である。

言い換えれば、人間のI実相ーーすなわち個々人々
自身の生命の実相(ほんとのすがた)ーーが如何なる
ものであるかを悟らないために、本来、自分のうちに
有(も)っている大自在の力を発揮し得ないのである。
(『新版 真理』第1巻 序文1.2頁)

*『実相』

《 【実相に超入する祈り】
(『聖經 真理の吟唱』 20〜23頁)
  拝読

・毎日が実相からの出発である。
始めに実相円満完全ありである。
既に完成している実相から、一瞬一瞬、現象界に顕現する。
御心(みこころ)の天に成る実相世界を地上に表わさんが
ためである。これが、神が私たちを地上に顕現せしめ
給うた目的である。
一瞬一瞬が実相から現象への只今(ただいま)誕生である。
私は毎日毎日、一瞬一瞬、神の限りなき大愛にひたり、
そこから神の子の日を出発する。
神に限りなき大愛にふれたときから、私を通して神の
愛があふれ出る。私は実相世界の無限軌道に乗る。
神はみずからの生命を私たちに与え給うほど、私たち
を愛して下さっていたのであった。
(「信仰随想」 別府正大(まさとも)生長の家全国講師
『実相からの出発』 『白鳩』誌)

《 霊感というのは、「天地がどうして造られた」と
云うようなことが、眼・耳等を通さずしてどうして
分るかと云いますと、それは自分の中に、天地をつくった
と同じ生命が宿っているからであります。
言いかえると、自分の中に神の生命(いのち)
が流れているのです。
人間がどうして生きて行くべきかの、「生きる
道」の書かれたものが宗教的経典であります。》
(『新版 真理』第1巻 4.5頁)

*『霊』について

【 霊は時間空間を超えている。
人間の霊は永遠である。】

《 霊魂がなくなると体温はなくなります。
死体が冷たいのはそのためであります。・・・
これは、靈は陽であり、肉体は陰でありますから、
肉体だけでは冷たく感じるのであります。
肉体に霊が宿って、陰陽相合(あいがっ)して
体温が保たれているのであります。》
(《到彼岸の神示』217頁)

《 人間の霊は永遠である。靈は時間と空間とを
超越している。靈はこの世の肉体を捨てて永遠の
世界に移され、そこに神をまのあたりに見るので
ある。・・・
なぜならわれらは皆逝(い)かねばならぬからだ。
これは始めであり、終わりである。
わが子よ、神は実在する。そして人間の霊は永遠で
神聖であるのだ。》
(『生命の實相』頭注版 第10巻 40頁)

《 霊界には悟らずに苦しんでいる「迷霊(めいれい)」
が多数あり、・・・そのような霊魂を悟らしめて、霊界に
おける祖先の霊魂の苦痛を解脱せしめてあげることは、
子孫たるものの当然行なわなければならない義務であり、
それを行なうことによって祖先の霊魂が救われる時、

祖先と子孫とは霊的につながって一体であるという
原理によって、子孫が健康になったり、運命が
好転することもありうるのである。》
(『生命の實相』頭注版 第10巻 はしがき2.3頁)
・体験談(略します)

《 目に見えない世界にある「無」の一点から
「生命の振動」が起って(コトバ)「生命の波の體」
となり振動の波長の長さから、肉体ーエーテル体ー
幽体ー霊体ー霊体の内部に広がりを超越した所の
本体(神靈)があり「無にして無限相」此の本体が
人間である。》
(『到彼岸の神示 188〜190頁)

*『不立文字』

《 仏教でも禅宗では『不立文字(ふりゅうもんじ)》
と云って、文字を立てて説明することが出来ないと
云う事になっておりますが、》
(『新版 真理』第1巻 7.52頁)

《 ところが生長の家では出来るだけその表現に
苦心しました結果、今まで禅宗などで書き表わせ
なかったところの生命とは如何なるものである
と云うことを平易に在る程度まで文字であらわす
ようになりました為に、『生命の實相』という本
がひろがるにつれて、今まで何十年も禅学の本を
読んだり坐禅をしてみたけれども悟りを開けな
かったという人が、ただ一冊の『生命の實相』で、
自分の生命とは如何なるものかと云うことが
わかった・・・》
(『新版 真理』第3巻 204頁)

《 併(しか)し当時、此の思想(篇注:佛教)が
実際生活に力を表さなかったのは「大円覚」や
「人格」や「表象」などと云う宗教的、哲学的、
倫理的用語を使って、それを単なる思索上の概念と
していたので、論理の正しさはあっても、実際生活に
直接的に力を及ぼさなかったのである。
この表現がズッと容易(やさ)しくなって、
大円覚を「人間神の子」と云い「肉体は表象(ひようしよう)
也」を「肉体は心の影」と表現した時、明らかに哲学が、
宗教が、倫理が、生活の中に飛び込んで来て「人間」
そのものが治ることになったのである。まことに表現
の力である。》
(『即身成佛の真理』はしがき)

*【 時間と空間》

《 時間と云うものは何であるかと云いますと、いのちが
運動している其の「持続(つづき)」のあいだを時間と
云います。
空間と云うのは認識の形式であります。》
(『新版 真理』第1巻 9.10頁)

《 「久遠の今」
「智慧の言葉」の話をしようと思います。
「智慧の言葉」に、こう書いてあります。
「済んだことの中に生活せず、『今』のなかに
生活せよ。『今』は常に生きている。
『今』の中にはあらゆるものが輝いている。
『今』は常に新しく、『今』は常に喜びに満ち
ている。過去にどんな悲しいことがあったにしても、
それについて思い煩うな。
『今』天地は一新したのである。もう別の天地に
生きているのである。過去に寒風に吹き曝(さら)
されたことを嘆かないで、『今』梅の花は喜び
に満たされて咲いている。梅の花よりも強く
貴く逞(たくま)しいのが人間である。
喜ぶべきことしかないのが人間である。

さて、この生長の家の生き方、あるいは生長の家の
哲学の中で、一番重大な問題になっているのは、
この「今」ということであります。
この「今」というものがわかったら、それが
本当の生長の家の悟りであるわけです。
「今」というのは、過去ー現在ー未来ーと時間が
流れているところの、流れている時間の一部分の
「現在」というところを「今」というのではないので
あります。この「今」というのは、もう一つ精(くわ)
しくいうと、「久遠(くおん)の今」ということ
であります。英語のEternal Nowという意味で、
「永遠の今」であります。
そして、「今」の中にすべてのものが含まれている
ところの「今」であります。
仮りに、縦の線をかいてこれを時間であるとします。
そして、横の線をかいてこれを空間であるとします。
そして縦と横の線が交叉(こうさ)した所、
ここがちょうど「今」に当たるのであります。
まだ時間も空間も現われていない、時間・空間が
そこから現われるところの、その中心の「無」
であります。
これを神道の言葉でいうと「常今(つねいま)」
と言う言葉がありますが、禅宗などでいうと、
いわゆる「無」であります。》
(「谷口雅春先生御講話 「久遠の今」)
体験(略します)

*【 理念】

【 設計と云うと、絵に描いた図面のように思われ
ますが、図面に描く前に心の中で思わねば描けません。
神の心の中で思われた設計図を理念と申します。》
(『新版 真理』第1巻 60頁)

《 肉体人間の奥に、「智慧と原型」がありこれは
「永遠不滅の存在」でありこれを「理念」と言い、
「霊」と言い本当の人間である。》
(『真理』第2巻 242.243頁)

《 真理は「新たに生まれる」とは霊によって生まれ
なければならないと云うのである。
靈とは「形なき理念」のことである。》
(『新生の書』161頁)

《 『理念』なる語は、本来、人間がたあいなく心に
描いた妄想ではなく、『理』すなはち、神の定め
たまうた宇宙を貫く根本原理が理念としてあらはれた
ものである。『理想』は人間が心に描くところのもの
であるが、『理想』なるものが描かれる其の奥には
『神の理』が潜在していて、その奥から人間に其の
『理』の顕現を推し出し推し進めているのである。
肉体は理念の顕現体。》
(『新生の書』8頁)

メール書簡等にて参加の方文面

■:F(メールにて)

合掌 「ひかりのお便り」と『新版 生活と人間の再建』

の抜粋が8月1日に届きました。

毎月、本当に有難うございます。

お便りに採り上げられている『無門關解釋』の第三十八

則を改めて拝読し、大聖師の力強いご文章に圧倒されました。



さて、告知されているテキスト『真理』第1巻 入門篇

(第一章〜八章)の読後感想等を、

次のように投稿させていただきます。                     



@『真理』入門篇(第一章〜八章)を拝読して

 第一章 p3 宗教上の経典というものは、

必ず霊感に依って書かれたもので

なければならないのであります

―『甘露の法雨』、『天使の言葉』、『續々甘露の法雨』や

『聖使命菩薩讃偈』は、大聖師自ら、霊感に依って書いたものと

仰っております。



 第五章 p45 高い安いが問題ではない、

外国へ金が出るのが問題だ

―新版凡例にある、

<本全集旧版は、昭和二十九年九月十五日…初版発行され

ており…一部今日とは時代背景を異にする文章もある>

に該当するところでしょう。

このあと我が国は高度経済成長を遂げ、

現在では外貨についての心配はほぼなくなってしまいました。

 

 第六章 p49 高熱で圧搾してダイヤモンドにする

ことに成功している

―GEという米国の会社がダイヤの人工合成に成功した

ことをよくご存じです。



A『健全の真理』(新選谷口雅春法話集4)を自習しました

 本書のカヴァーの裏面に、

<アメリカにおける注目すべきキリスト教の新たな展開−

メンタル・サイエンス≠フ全容を紹介>と記されています。



第一章 p6 メンタル・サイエンスと云ふ科學的宗教の

出現によって、科學と宗教との確執は除かれることに

―直訳ではなく、あくまで宗教の一種という訳語に注目

すべきと思います。



第五章 p58〜59 メンタル・サイエンスは、

魂の救済部面をもってゐると云うふ點に於いて宗教的外貌を

備へてゐながらも、それがサイエンスであるのは、

一人の教祖の~啓や經典や著述を典據として、

その教義が唱へられるのではなく、

あらゆる過去の教祖の發見も啓示も取り入れ

 ―大聖師が共鳴された所以と思われます。



 第十二章 p246 彼をして~さまが使命づけられたやうに

彼の完全なる姿を現はせしめ給へといふやうな祈りなのである

―祈る側の立場は捨てなければならないのですね。



p256 「~よ吾に祝b與へ給へ」とまだ祝bケられ

てゐないものが祝b求めるやうな言葉ではよくないのである

―微妙なところですが、言葉遣いはよくよく吟味しなければ

いけないですね。



 第十三章 p289 西洋の心理學者が潜在意識と呼んでゐる



ものの中には、凡そ三種類の心が含まれてゐるのである

―この他、本章は「人間の本質に就いて」と題されているように

心得ておくべきことがらに満ちています。



『久遠いのちの歌』は、肉体の無常を説きながら、

金剛身こそ応に『我』なり≠ニい

うように「金剛」は「堅固」という意味で使われております。

価値があるという意味で使われてはいないので、

不朽の『歌』であることに変わりがありません。

いずれにしても、物(の価値)は結局移り変わるものであることに

注意が肝要と思います。



・ はうら



いつも変わらぬ真理研鑽のご姿勢に
頭をたれます。
暑さ厳しき折柄、ご家族様ともども
ご自愛の程、お祈り申しあげます。
いつもありがとうございます。

■: D(メールにて)

前回参加させていただいて、皆さん体験の多さに
驚きました。
今回は仕事の為休ませていただきます。
皆様暑さの折柄お身体ご自愛ください。

・ はうら

ご連絡ありがとうございます。
お時間が取れましたら、
また遊びに来てください。
暑さ厳しき折柄、ご自愛を
祈念いたします。
ありがとうございます。

■: G(メールにて)

本日都合により欠席させていただきます。
よろしくお願いいたします。

・ はうら

まだまだ暑い日々が続きます。
どうぞご自愛の程、祈念いたします。
いつもありがとうございます。

■: C(電話にて)

「退院しました。癌が消えました。
ありがとうございます。」

・ はうら

「よかった。よかった。おめでとうございます。
しっかり実相哲学を自覚したお蔭ですね。
お大事に」

少し前、この方から、入院して放射線治療をしている
と落ち込んだ声で連絡を受けたのである。
この方は、生長の家の信徒であったので少し真理の
話を電話口でした。
「そうですか。祈らせていただきます。
ところで、古い細胞は毎秒毎秒死滅し、
新しい細胞に置き換わっていますよね。
新陳代謝がないと、人間は死滅しますよね。
私達は毎秒毎秒死滅し、新生していますよね。
これは神癒ですよね。
古い細胞が死滅して新しい細胞に置き替えられ、
身体中を新しい血液が循環していますよね。
貴方が自分で考えてやっているのですか。
ちがいますよね。誰がやっているのでしょうか。
これが生かされているという亊ではないでしょうか。
ところで、その新しい細胞ですが、その人の
その時の想念・感情を載せて身体中を駆け回ります。
過去になにがあっても、今、吾、新生せり、
細胞ことごとく輝いて、生かされて、悦んで、
楽しくて、何でも思ったことが実現出来て、
こんな楽しい人生が、今、現前す。と思って
小躍りしていたら、癌なんて瞬時に消えますよ。」
と言って、の、先程の報告であった。
神に深く、篤く感謝申しあげます。

私達は、病気治しや、皆が調和する為にも、
祈っていますが、もっと根本的には、実相哲学
を体得し、体現し、実践して、真理を生活の中に
溶けこませて、神を生きる事を目指しています。
その為に学んでいるのです。
信じ、観じ、実行するだけでよいのです。
■: E(書簡にて)

『ひかりのお便り』ありがとうございます。
いつも、今の私に必要なコトバがお便りの
文から見つかります。
感謝いたします。
ありがとうございます。

・ はうら

お元気でしょうか。
また電話等でお話しましょう。
いつもありがとうございます。
お大切にしてください。

■: B(メールにて)

今月の「ひかりのお便り」の内容は、今月からの

新たなテキストである『真理』に相応しく生長の家で

説かれている「神」という概念といいますか、

「神とは何ぞや」という御文章を取り上げられていることを

あらためて気付かされる思いです。

『真理』第一巻に触れたのは、もう40年前になりますが、

頭注版『生命の實相』全巻を拝読した直後でしたので、

『真理』第一巻・入門篇はどうしても物足りなくて、

一番後回しになっていました。

先に悟入篇などを読んだ記憶があります。

その後、触れた状態から拝読するまでには相当な時間を要しました。

『生命の實相』全巻を読んだという慢心から

入門篇など読むに足りないという心があったことを後々、

悟ることとなりました。

ちゃんと拝読してこんな事が書いてあったのかと驚くことが

多々あります。

知識だけ蓄えられて、実際の体験となっていなかったことに

気付かされます。

六月、七月、八月と現象の肉体的には、

様々な出来事に振り回され一喜一憂する日が

続きました。

日本の現状、世界の現状、そして生長の家の現状を見るに

つけ悲しい出来事が多く、

それが肉体にも現れているかのように感じたことも確かです。

しかし、すべてが悪くなって行っているようでも、

ほんの少し見方を変えれば、すべて良くなる過程である

と思えるようになってきていることも確かです。

わずかではありますが、自分の見方(観の転換)を変えれば

よいことだったと気付かされます。

この気付きをお説きくださいました生長の家の

み教えに深く感謝申し上げます。

再拝

・ はうら

ご多用中、いつも本質的な事柄をご教示いただきまして、
ありがとうございます。
まだまだ暑い日々が続きます。
どうぞご家族様共々ご自愛を祈念申しあげます。
いつもありがとうございます。

今回も多くの感動がありました。

感謝 再拝 

住吉大神の御働き その二 (67060)
日時:2024年08月25日 (日) 11時10分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。

「住吉大神」の御働きの続きです。

☆: 真理

《 『生命の實相』第一巻の開巻冒頭に、
“はしがき”よりも、目次よりも、尚(なお)その前の頁に、
新約聖書の「黙示録』の第一章にある白髪の翁(おきな)の
すがたをもってあらわれた
「久遠(くおん)のキリスト」のすがたが
描写されているのである。
「何故、生長の家はキリスト教でもないのに、
キリスト教聖書の一節を『生命の實相』第一巻の
“はしがき”よりも目次よりも尚前に引用して
掲出してあるか」といいますと
白髪は久遠の象徴であり、キリスト教に於いては
“生長の家の大神”は白髪の久遠神(ユダヤ人の
イエスではない)としてあらわれていられるからであります。
その白髪のキリストの御姿の描写の中には
「その口より両刃(もろは)の利(と)き出で」
と示されている。
これ真と偽とを別(わか)ち美と醜を分別し、
善悪を審(さば)く、最後の審判の神剣なのである。
善悪・美醜を審判する“秩序の智慧”が神であり、
その神剣によって悪は切り棄(す)てられ、
偽りは葬られ、本来無いのに姿をあらわしている
病いその他一切の醜きものは切り棄てられて
地獄の火の坑(あな)に投げ入れられ焼きほろぼされて、
真なるもの、美なるもの、善なるもののみが
そこに住吉の世界を地上天国として
姿をあらわすのであります。
もし、この真と偽とを分ち、真なるもの、
善なるもの、美なるもののみを顕わし、
これに反するものを切り棄てるハタラキが発動しなければ
天地は完成しないのであります。
この真偽を分ち、美醜を区別し、善悪を審判する
はたらきによって天地は一新するのである。

「黙示録」第二十一章にはこの事が明かにされているーー

「我また新しき天と新しき地とを見たり。
これ前(さき)の天と地とは過ぎ去り、
海も亦(また)なきなり。我また聖なる都、
新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦(はなよめ)の
ごとく準備(そなえ)して、神の許(もと)をいで、
天より降(くだ)るを見たり・・・・
『視(み)よ、神の幕屋(まくや)、
人と偕(とも)にあり、神、人と偕に住み、
人、神の民となり、神みずから人と偕に在(いま)して、
かれらの目の涙をことごとく拭い去り給わん。
今より死もなく、悲嘆(かなしみ)も、号泣(さけび)も
苦痛(くるしみ)もなかるべし。
前のもの既に過ぎ去りたればなり』
斯くして御座(みくら)に坐し給うもの言い給う
『視よ、われ一切のものを新たにするなり』・・・・」

これが“両刃(もろは)の剣(つるぎ)”の
はたらきであります。
“剣”は“片無(かたな)”(刀)ではないのであって、
敵を切るために、敵に向う一方にのみ刃がついていないで、
自分に向う側にも刃がついていて、
真ならざるもの、美ならざるもの、
善ならざるものがあれば自分をも切るのが、
剣のハタラキであります。
これが地上に平和をもち来(きた)らし、
最後の審判によって、新しき天と地とをもち来す
住吉の世界を創造する神剣のはたらきである。

参考につぎに『秘められたる神示』の中に収録せられている
「最後の審判の神示」を再録して、
両刃の剣のハタラキを明らかにする。

“最後の審判”についての神示

キリスト再び臨(きた)りて審判(さば)くとは
今のことである。
キリストとは肉体にあらず、『真理』である。
キリストとは肉体にあらず、『光』である。
肉体のわれの臨るを待ち望むな。
吾は既に此処(ここ)に臨(きた)れるに避(あら)ずや、
吾れは道である、審理である、光である。
『真理(われ)』来たって虚妄(まよい)を審判(さば)き、
『光(われ)』来って暗黒(やみ)を審判(さば)き、
すべての虚妄(まよい)と暗黒(くらき)とを
地獄の火に投げ入れてこれを焼き滅ぼす。
今こそ最後の審判であると知れ。
されど恐るる勿(なか)れ、吾が宗教(おしえ)は
恐怖の宗教(おしえ)にあらず。
虚妄(まよい)を焼かるる者は、却(かえ)って生き
暗黒(やみ)を焼かるる者は却(かえ)って光をあらわさん。
病いは癒(い)やされ、悩みは消えん。
焼かるる者は『汝(なんじ)』にあらずして、
『虚妄(にせもの)の汝』であるからである。
『虚妄(にせもの)の汝』は神より出(い)づるに
あらず、神より出でざる汝は實在にあらず、
實在に非(あらざ)る汝はその真相を
暴露して消滅せん。
わが臨(きた)れるは『真』と『偽(ぎ)』と、
『實在』と『虚妄(こもう)』とを選(よ)り別(わ)けて、『偽』と『虚妄』とを永久に非実在(じごく)の
中に葬(ほうむ)りて封印を施さんがためである。
(昭和六年九月二十八日朝神示)
(『神の真義とその理解』205〜207頁)
(初出 『理想世界』誌
昭和四十九年十二月号一部加筆)
(新仮名遣いを使用いたしました。)


■: 体験

平成5年の夏から秋にかけて、
私(はうら)は上記の神示を身をもって体験した。
それは住吉大神が突然出現して、
「何も心配する事はない。全ては任せなさい」と
御コトバと、御姿とご文章で顕われた。
そして、余命数週間から救出され、
その後30年間、使命があると思われ、生かされて生きてきた。
「生長の家の御教え」は、
実相哲学と、
住吉大神の救済と慈悲とで成立していると思う。
尊師が言われるように「最後の最高の教え」である。
これを体得し、体現し、救済し、
現象を超越して地上に天国を建設する事が、出来ると思う。

因みに「大調和の神示」が昭和6年9月27日夜天降り、
その翌朝に「最後の審判についての神示」が垂示されている
ことからも、この両神示が一対の御教えであることが
思い致されるのである。

ありがとうございます。

















はうらひとひら様 (67066)
日時:2024年08月25日 (日) 14時47分
名前:志恩

(はうらひとひら様ー)
>【住吉大神の御働き その二】

今回のはうら様のテーマは
「住吉大神」の御働きの続きです。



☆: 真理
《 『生命の實相』第一巻の開巻冒頭に、
“はしがき”よりも、目次よりも、尚(なお)その前の頁に、
新約聖書の「黙示録』の第一章にある白髪の翁(おきな)の
すがたをもってあらわれた



■:(はうら様)の体験
平成5年の夏から秋にかけて、
私(はうら)は上記の神示を身をもって体験した。
それは住吉大神が突然出現して、
「何も心配する事はない。全ては任せなさい」と
御コトバと、御姿とご文章で顕われた。
そして、余命数週間から救出され、
その後30年間、使命があると思われ、生かされて生きてきた。
「生長の家の御教え」は、
実相哲学と、
住吉大神の救済と慈悲とで成立していると思う。
尊師が言われるように「最後の最高の教え」である。
これを体得し、体現し、救済し、
現象を超越して地上に天国を建設する事が、出来ると思う。

因みに「大調和の神示」が昭和6年9月27日夜天降り、
その翌朝に「最後の審判についての神示」が垂示されている
ことからも、この両神示が一対の御教えであることが
思い致されるのである。<


志恩ー
はうら様は高い波動に共鳴する霊感をお持ちのお方で
いらっしゃると、いつも感じております。

このような本物のお方が、トキ掲示板へ時々、
ご投稿くださいますので
大変光栄に、ありがたく存じております。

ありがとうございます。

九月一日の法語 (67175)
日時:2024年09月01日 (日) 15時05分
名前:はうら ひとひら


☆ :   真理

《 深切丁寧と云うこと

どんなに『生命の實相』を読んでも、
法話を聴いても、それが日常生活の茶飯事にすら顕れるように
ならなければ駄目である。
聴いただけで生活に顕れて来ない真理は
名前を聞いただけで食べない料理と同じ事である。
それでは吾等の生命は飢えて了うしか仕方がない。
「深切丁寧」と云うことが道を行(ぎょう)ずる上に
第一のものである。

「深切丁寧」とは、凡(すべ)てものを深く愛し、
切(せつ)に礼(らい)する心である。
一枚の紙も、一粒の米も、深く愛し、
切に礼することによって生きてくるのである。
不健康とは、深く愛し、切に礼する心の欠乏である。
物質を不深切に、無造作に、抛(な)げやりに扱うと云うことを、
物質に執(とら)われない美徳のように思っている人が
あるかも知れぬが、実はそれこそ一切のものを見るのに
「物質」として観ているのであるから、
却って其の人は唯物論者であり物質に捉(とら)えられて
いるのである。

すべての事物を見るに、一塵(いちじん)のうちにも
仏の国土があり、如来説法したまうと見るとき、
日常生活の茶飯事にも深切丁寧が滲潤(しんじゅん)する。
この意味に於いて
「行(ぎょう)」が大切である。》
(『光明道中記』138頁)

☆: 真理
《 九月一日の法語
われらはすべての人を
赦(ゆる)さなければならないのである。
すべての人の中には、自分自身も含んでいるのである。
自分自身の欠点を赦さなければならないのである。
あなたの欠点に向かって、心の中で次のように唱(とな)えて
その欠点を赦すのが一つの良き方法であるのである。

「自分はすでに赦されたり。神によって完全にせられたのである。
もはや、欠点もなく浄(きよ)められたのである。」
こう繰り返し念じ、神の光明の中へ融(と)け込んで、
完全に雪のごとく清浄にせられたる自分を
瞑想(めいそう)するのがよいのである。》
(『生命の實相』頭注版 第38巻 72頁)

■: 体験

原宿に本部があった頃、どんなに仕事が忙しくても
月一度は訪れ、「神癒祈願」と神誌を求め、
その後会館正面尖塔におられた
生長の家の大神(住吉大神)を合掌し、
暫し瞑目して佇んでいた。
そして日常の行為のゴミが清浄される思いがした後、
市井に帰って、神誌愛行の個別訪問をさせていただいた。
(入信当初は、組織でポスト愛行をしていたが)
ただ一人で行うので、初めは祝福礼拝して、
心を整えてから呼び鈴をならす。
ただひたすらそれを行っていた。
仕事や日常に躓いた時ほど、真剣に行じた。
本部が移転するまでの数十年それは続いた。
ありがたい事であった。

ありがとうございます。



 

はうらひとひら様 (67181)
日時:2024年09月02日 (月) 06時50分
名前:志恩

はうら様の体験談によりますと、
>原宿に本部があった頃、どんなに仕事が忙しくても
月一度は訪れ、「神癒祈願」と神誌を求め、
その後会館正面尖塔におられた
生長の家の大神(住吉大神)を合掌し、
暫し瞑目して佇んでいた。<


とは、原宿本部が山梨県北杜市へ越したのは、
今から11年前ですから、その前の長い年月
月一で、原宿本部を訪れていらしたのですね。

(はうら様ー)
>そして日常の行為のゴミが清浄される思いがした後、
市井に帰って、神誌愛行の個別訪問をさせていただいた。
(入信当初は、組織でポスト愛行をしていたが)
ただ一人で行うので、初めは祝福礼拝して、
心を整えてから呼び鈴をならす。
ただひたすらそれを行っていた。
仕事や日常に躓いた時ほど、真剣に行じた。
本部が移転するまでの数十年それは続いた。
ありがたい事であった。<


はうら様は行者さまのような貴いお方でいらっしゃると、
心から尊敬申し上げております。
貴重な体験談も書いてくださいまして、ありがとうございます。
おっしゃる通り、真理は実践が第一だと私も思っております。

ーーーーーーーーーー
goo辞書より
【行者】(ぎょうじゃ)とは? 意味・

1 仏道を修行する人。修行者。
2 修験道 (しゅげんどう) を修行する人。修験者。
3「役 (えん) の行者」の略。

「實相研鑽」(第一集) (67332)
日時:2024年09月08日 (日) 08時18分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。

【實相研鑽(第一集)】

《 編者のことば

〇人間開放の宗教
〇生命礼拝の宗教
〇善一元、光明一元の宗教
〇万教帰一を説く包容の宗教ーー
釈迦の教え、キリストの教えを完成し、
これを日本的に統一して現代人の生活に生かす完成の宗教ーー
といわれる生長の家。
その根本教典は『生命の實相』全四十巻
(愛蔵版では全二十巻)である。
この教えの伝道のために選ばれた「地方講師」たちが
捨身奉仕的に活躍しており、
各教区毎に「地方講師会」を組織しているが、
生長の家総裁谷口雅春先生のお膝下、
東京地方講師会では、昭和三十四年一月より毎月一回、
「実相研鑽会」と称する勉強会を行い、
総裁より直々の御指導を受けてきた。
その発言、問答の記録が本書である。

「実相研鑽会」の主旨について、
その開始当時、東京都地方講師会では次のように宣(の)べている。

一、使命感の高揚ーー
地方講師は無条件に先生の謦咳(けいがい)に接して
教え受けたいという想望をもっており、
ただ一言のお言葉より、
いよいよその使命感をミ揚するものであります。
二、『生命の實相』の完全把握ーー
地方講師は先ずみ教えを誤りなくお伝えするという
任務をもっていますから、
『生命の實相』の研鑽を、先生の御指導のもとに、
いよいよ深く、ますます的確にいたしたいのであります。

(具体的方法)
イ、講師はあるテーマを選び、
『生命の實相』よりこれをまとめて発表する。
ロ、質疑応答、講評ハ、テーマ・・・・
たとえば「神について」「実相について」「愛について」
「頭の病気について」など、
テーマの選び方については研究委員会で検討する。

(結言)
このような案をつくったのは、もともと、
先生をおかこみして、地方講師が誌友会や
個人指導で困った点について、
先生に質疑の機会を得たいということが発端でありましたが、
その底に流れるものは、ぜいたくな願いではありますが、
何とかして先生の膝下で直接の御指導を願いたい
という弟子の切願であります。
これまで、御繁忙の先生を煩わしては申し訳ないと
御遠慮しておりましたが、いよいよこのたびは、
こらえていたものが堰(せき)を切って溢れだしたのであります。

そこで、質問というよりも、会員の研究発表という形で、
いよいよ深く『生命の實相』を究めたいと、
これを地方講師の使命達成のために、
昭和三十四年の行事とする計画をたてたのであります。

とある。
運営の方法手順などは多少移り変っているが、
根本的趣旨には変りなく、
十五年間にわたって毎月続けられてきた。
本書に収録したのはそのうちの一部で、
『生長の家』誌に掲載されたものの中から、
関連あるテーマのものをえらんで分類編纂したものである。

谷口雅春先生とその弟子たちの間に交わされる、
打々発止(ちょうちょうはっし)、
いのちがけの問答の数々ーー
ここにまことの生命のひびき、
真理のひびきが鳴りわたる。
これぞ言葉の真剣勝負ーー
本書が『生命の實相』のより正しく、
より深い理会把握のために役立てられ、
人類光明化の示標として生かされることを願ってやみません。
昭和四十九年 一月編 者

目次

編者のことば

1 家 庭
妻が夫にハイと言う限界について
夫婦調和はまず自分から
信仰の違う家庭に嫁いで悩む
家庭はこうして光明化される

2 治 病
本を読んで病気が治るか?
生長の家の健康学
自然流通の神示について
個人指導の治験例と信仰相談

3 社 会
“無我”の限界について
繁栄について語る
“日本国家”と“家”について
家庭、近隣における光明化について

4 信 仰
自己の意識と現象生命と実相
神想観に“五官の世界を去る”とは?
神想観の本義と正しい祈りについて
普賢菩薩なる自己を観る
『甘露の法雨』の功徳と由来
生長の家の神観》

(『實相研鑽』
◆悟りを深めるための相互研修(第一集)1〜5頁
谷口雅春監輯

・ 思う事

この夏、教区講師会会長(女性)から暑中見舞いを
直筆でいただいた。
直ぐにお礼状と思いながら、今に至るもまだ行っていない
自分がいる。理由は分かっているが・・・

先ず要求されている事は、
講師研修会に出席せよ。
講師補から早く昇格すべく、試験を受け論文を提出せよ。
なるべく早く出講出来るようにせよ。
等等である。
しかし私にとっては、ハードルが高すぎる。
地方講師研修会の内容はほとんどがそのまま、
各地域誌友会の講話として反映され、
その報告者が求められ、教化部長が承認して、
本部へ送られる。

下記は直近5ヶ月の地方講師研修会の内容である。
(申し添えておきますが、別に活動等を批判している
わけではありません。事実だけを記載しています。)

・令和6年5月度地方講師研修会
テーマ:自然界の素晴らしさに目を向けよう
(終了後、ロビーにて石上げの御祭)
テキスト『大自然讃歌』『今こそ自然から学ぼう』
『新しい文明を築こう』中巻

・令和6年6月度地方講師研修会
テーマ:俳句に挑戦しよう
テキスト
『唐松模様』「自然と人間とは一体なり」

・令和6年7月度地方講師研修会
テーマ:原理主義から学ぶ
テキスト
『信仰による平和の道』『宗教はなぜ都会を離れるか?』
『歴史から何を学ぶか』

・令和6年8月度地方講師研修会
テーマ:選挙に際して大切な考え方を学ぶ
テキスト『二百字日記』
『“人間・神の子”は立憲主義の基礎なぜ安倍政治では
いけないのか?』『憲法を知ろう』(谷口純子先生監修)

・令和6年9月度地方講師研修会
テーマ:祈りとは何か
テキスト『夢の地平線』(谷口純子先生著)
『新版 光明法語〈道の巻〉』
『生長の家ってどんな教え?問答有用、生長の家講習会』
(谷口雅宣先生著』

・気になる事

1.教化部長はじめ、祈りの時「世界平和の祈り」に
新バージョンだとして「ウクライナがどうの」と付け足して
祈っている事。

2.9月28日・29日に「青年一泊見真会」として
東京第一・東京第二・埼玉・千葉・神奈川合同開催とある。
プログラム1日目:哲学対話(東京第一・第二教化部長講話)
2日目:野菜の残り染め(青年会会長講話)
テキスト『“新しい文明”を築こう 中巻』
聖経『大自然讃歌』

・企画自体は大変よいと思いましたが、
聖経『大自然讃歌』とはいつ聖経になったのでしょうか。

ありがとうございます。












はうらひとひら様 (67335)
日時:2024年09月08日 (日) 14時04分
名前:志恩

谷口雅春先生が総裁先生時代の昭和34年から
谷口雅春先生が、始められていたという(毎月1回)
生長の家の幹部の皆様を集めて開催されていた
【實相研鑽会】のことは、よく覚えております。
あの頃、幹部の皆様が、とても充実した深い内容だ
と言われまして、口々に喜んでおられました。
すごく懐かしいです。

今の時代は、
東京第一、とか第二で”實相研鑽ネットワーク”というのが
開かれていると、今、プログラムをみてみましたら載っておりますが、
私は教団所属でもなく地方講師などの幹部でもありませんので、
参加できませんから、参加したことはありませんが、どのような
實相研鑽ネットワークが開かれているのか興味はありますね。

http://snitokyo1.org/?page_id=4177

お経は、「甘露の法雨」ではなく、三代目の雅宣総裁が作った
「大自然讃歌」を使用しているのですね。今の教団に属して
いれば、その部下であれば、否応なしに
今の総裁である雅宣先生の作ったお経というものを
もしも使いたくないと思ってもですよ、思っているかどうかは
別として、部下の皆様は、使わざるを得ないのでしょう。
お気の毒に思います。

テキストも全て雅宣先生ご夫妻のもので、世界平和の祈りも
ウクライナがどうとかいう言葉を付け足して読んでいるのですか。
皆様大変ですね。

創始者である谷口雅春先生のことは、雅宣先生は、見事に完全に
消されましたよね。

はうら様は、谷口雅春先生が総裁先生でいらしたときならば、
谷口雅春先生ならば、本部講師にされていたと思います。
そのようなお方です。

今は、「補」がついていてもついていなくても、
どちらでもいいような気がいたしております。

色々と教えてくださいまして、ありがとうございました。

@,はうらひとひら様 (67336)
日時:2024年09月08日 (日) 14時41分
名前:志恩

9月21日に、はうら様のところで開催されます
ZOOM実相誌友会のテキスト「ひかりのお便り」
を今月も私にまでお送りくださいまして、
誠に、ありがとうございました。

「ひかりのお便り」は、A4の用紙の裏表に
⑴⑵にして、
はうら様が謹写されました谷口雅春先生のお言葉が
書かれており、もう1枚、プラスアルファーがございます。

1つのスレッドには、
1枚の裏表のどちらかしか載せられませんので、
3つに分けて、載せさせていただきます。


画像を、2回、マウスでクリックされますと、拡大して、
読みやすくなります。



A,はうらひとひら様 (67337)
日時:2024年09月08日 (日) 14時45分
名前:志恩

9月21日に、はうら様のところで開催されます
ZOOM実相誌友会のテキスト「ひかりのお便り」より





マウスでクリックして、拡大して、お読みください。

B、はうらひとひら様 (67338)
日時:2024年09月08日 (日) 14時47分
名前:志恩

9月21日に、はうら様のところで開催されます
ZOOM実相誌友会のテキスト「ひかりのお便り」より





マウスで2回、クリックして、拡大して、お読みください。

 (67339)
日時:2024年09月08日 (日) 16時05分
名前:過去と未来に住むご老人

「人間は神の子」の事

《 人から非難されたときよりも、人から褒(ほ)められた時の方が、よほど気をつけなければ危(あやう)い。略。  》
(『靜思集』序文 2頁)

志恩ー
言い得て妙の真理ですよね。

**************************************************

日時:2024年09月08日 (日) 14時41分
名前:志恩

9月21日に、はうら様のところで開催されました
ZOOM実相誌友会のテキスト「ひかりのお便り」
を今月も私にまでお送りくださいまして、
誠に、ありがとうございました。

******************************************************

9月8日に9月21日に開催されたZOOM誌友会とノタモウご老人に褒められた時はよほど気をつけなければ危うい。

 (67340)
日時:2024年09月08日 (日) 16時57分
名前:志恩

古い信徒たちに嫌味を言うために
わざわざ出ていらっしゃるあなた、
お疲れさまです!!

9月21日、まだこれからでしたね。
過ぎ去った日にしてしまって、すみませんでした。
まだ過ぎ去っていませんでしたね。
いつもなら、間違いを指摘されたら、すぐに気がつきますのに、
今回は不思議に、すぐには気がつきませず...
実は、そういえば、9月21日って、私の母(実母)が93才で
他界したあの日だったなぁ、って、頭がぼーっとして考えこんでいました。
もうあの過ぎ去った日から9年も経ったんだなぁって...。
しみじみ自分の世界に浸っていました。
私の母は昔の時代の生長の家にあまりにも純粋に浸透していた母でした。
母は、今日までこの世に生きていなくて良かったとつくづく思っています。
社会事業団が同じ生長の家の信徒たちを訴訟しまくっている
ことなど、知らないままで死んで良かったと思っています。
勘違いしてすみませんでした、本文、訂正しました。

『實相研鑽』(第二集) (67465)
日時:2024年09月15日 (日) 11時30分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。

實相研鑽(第二集)からです。

《 編者のことば

「人間・神の子、中心帰一」の教えは、
宇宙に遍満する真理である。
その遍満している真理を、直接わがものとするのが、
宗教的悟りである。
それは直感把握によってのみ可能である。
直感把握は、あたかも電波をキャッチするには、
アンテナの精度が高いほどよいのと同じく、
真理をキャッチするアンテナである吾々自身の
精度が高められていなければならない。
その精度を高めるのが「研鑽」である。
しかし、もし本来性能の悪いものであったら、
いくら磨いてみても、決して性能が高まることはないけれど、
人間の実相は本来、完全円満の神そのものであるから、
そこに研鑽の意義があり、磨けば磨くほど
その真の輝きが発揚され、実相は開顕されてくるのである。

東京都の地方講師を参加資格者として始められた
「実相研鑽会」は、昭和三十四年一月からすでに
十数年を閲(けみ)し、現在も続けられている。
根本教典『生命の實相』の完全把握をその基本とし、
真理の伝道をその任務とする地方講師が、
その時々に出会した応用問題を折りまぜて、
生長の家総裁谷口雅春先生から直接の御指導をいただくという
「実相研鑽会』は、ひとり東京だけのものでなく、
又講師だけのものでもない。
たしかに、その場に臨むことのできるのは、
東京在住の講師・伝道員に限られているかもしれない。
しかし、「実相研鑽会」は、いつどこででも開いて、
真理を聴聞することができる。
それは本書を繙(ひもと)くことである。

北海道函館区講師会長佐藤誠一氏は、
第一集に寄せて次のように述べておられる。
「『生長の家』に掲載された実相研鑽会の記録を拝読の都度、
真理の奥殿に参内する思いでした。
それが思いがけなくも纏められた本となって刊行された事は
夢ではないかとのおどろきと嬉しさで拝読させていただきました。
入信十八年、只一すじ伝導に打込んで参りました私にとって、
教えを正しく伝える為の絶好の書として
講師は必読のものであり、幹部・伝道員は勿論、
信徒一般にもすすめて、実力のある幹部養成に
資したいと存じます。
“妻が夫にハイという限界について”は、
私は安達講師と全く同じ指導をして来たのですが、
谷口先生の御解説で尚一層確実に理解を得る自信を
与えていただきました。
『實相研鑽』第二集を期待して居ります」

第一集は“家庭・治病・社会・信仰″を
中心にしてまとめたが、
本書は一応“生活・堅信・国体・本尊″とわけてあるが、
第一集と同じく、『生長の家』誌に連載されたものであり、
テーマに分かれてはいるが、内容は人生百般に及んでいる。
登場する人々は皆、真理の伝道者として
活躍している中で起ってきた疑問、実際指導に際して
遭遇した問題などについて、各自の人格を通して
研き出した見解を発表している。
それは実際生活に即いて真剣に研鑽された
公案の解決であるから行間句々にみなぎる気魄は、
切実である。
切実なところに、真理の輝きは宝玉の如く
その光芒を現わしている。
因みに「実相研鑽会」の趣旨について、
その開始当時、東京都地方講師会で宣べているところからの
抜粋を紹介する。

「このような案をつくったのは、
もともと、先生をおかこみして、
地方講師が誌友会や個人指導で困った点について、
先生に質疑の機会を得たいということが発端でありましたが、
その底に流れるものは、ぜいたくな願いではありますが、
何とかして先生の膝下で直接の御指導を願いたいという
弟子の切願であります。
これまで、御繁忙の先生を煩わしては申し訳ないと
御遠慮しておりましたが、いよいよこのたびは、
こらえていたものが堰(せき)を切って溢れだしたのであります。」

本書が『生命の實相』のより正しく、
より深い理会把握のために役立ち、
日常生活の節々(ふしぶし)を律し、
社会の動きを匡(ただ)し、
国家の隆盛を栄さんとする
人類光明化運動推進の指標として生かされんことを
希ってやまない。
昭和四十九年四月
編 者

目 次
編者のことば

1 価値ある生活

本当の“価値”について
根本自由について
まず第一のものを第一に
“今”を生きる“ハイ”の生活
動物食と殺生について

2 愛と堅信

宗教を嫌いだという人をどのように導くか
筋金入りの誌友となるには
宗教体験を得る心境について
愛行の徹底
愛の種々相について
深い信仰と愛がすべてを癒す

3 天皇と国体

“天皇”の御本質について
建国記念日、二月十一日を祝して

4 本尊と教義

「法華経」にあらわれた生命の実相を説く
生長の家の本尊について》

(『實相研鑽』
◆悟りを深めるための相互研修(第二集)
(1〜5頁)

■: 体験

(全く関係のない体験で、大変恐縮です)
「お前の骨は拾ってやる」
この言葉を、皆様は言われたことがありますか。
私(はうら)は2回出会っています。

1回目は、最初の職場で。
入社2年目で、右も左も分からないまま、
社内のある研究発表会に出席。
発表後の賛辞に何か違和感を感じて、発言した。
「成果は素晴らしいです。しかしそこに至るまでには、
いろいろの失敗があったはずです。
その事もお知らせいただきたかった。
そちらの方が、より開発する者としては、
勉強になるような気がします。」と。
会場が一瞬緊張するのが分かった。
数日していろいろな非難の声が漏れ伝わってきた。
「彼(はうら)は偉そうな事を言っているが、
発表者への気遣いもなく、
この会社に長くいるつもりなのか」等等。
私は即座に退社の意志を固めた。
何だ、口では「有言実行」などと言いながら、
この会社も大した事がない・・・と。
(若気の至りであった)
退職願いは1ヶ月延期され、
組織上ありえない課長直属の身分で、
ある方(Yさん)と全く異なる発想の半導体を開発した。
そして1月後に退社した。

暫くして、その会社の余り知り合いでもない
別部署の主任(係長)から手紙をいただいた。
『貴君が去って、社内報から貴君の小説が載らなくなり、
淋しい気がする。
ところで、S課長(別部署)から貴君が退社した事を知り、
大変残念がって                                    「貴君の骨を拾ってやりたかった」と言っていたよ。』と。

S課長はその後4千人いるその工場の工場長(役員待遇)となった。
私と最後に開発に従事していただいたYさんは半年程して、
その製品が世界的に評価され大河内賞を受賞された。
口ばかりで、硬直した壁をこわしたのは、
それから50年たって、倒産寸前になってやっと気付き
『日立の壁」を毀し、今や世界有数の会社となった。

それから40数年後、私(はうら)は7度目の職場で、
徹夜に次ぐ徹夜の仕事をしていた。
その頃、教団も実相隠しを次々と行っていて、
私もいろいろな形でそれに対抗していた。
当然文部科学省への対応もし、文科省の役人とも
いろいろ相談したり、アドバイスを受けたりしていた。

ある深夜、一人残って仕事をしていて、
工場の廊下を歩きながら「こんな事をしていたら、
いつか倒される時がくる」と思った時、
天界から声がした。
「お前の骨は拾ってやる!」
48歳の時、死の淵から救ってくださった方の声であった。

それから暫くして、下記のみ教えに出会った。
『人それぞれなのは、位置が異なり、特殊性があり、
能力や、特性が異なるのはみな因縁によるのであって、
因縁を無視して平等を主張しても間違いである。
多即一から一即多を知るのが本当の実相顕現である』
(『日常生活の中の真理』83頁)

今、骨を拾っていただくような、
そんな峻厳な真理の生き方をしているかと問われると、
穴があったら入りたい気持ちである。

ありがとうございます。











はうらひとひら様 (67475)
日時:2024年09月15日 (日) 19時48分
名前:志恩

すごく懐かしい言葉です。
「お前の骨は拾ってやる!」
上司が、心から信頼している部下に言うセリフですよね。

これは男性が男性に言う言葉だと思いますので
言うまでもなく、女性の私は一度も言われたことは
ありませんけれど。

慣用句辞典
【骨を拾う】
力を尽くして倒れた人のあとを引き受ける。
また、その後始末をする。
例文「よし分かった。ぼくが骨を拾うから、
難民救済に命をかけなさい」

はうら様は、半導体の設計の中枢のお仕事を
以前はされていらした超優秀なお方でいらっしゃいます。
宗教的にも大変優れたお方でいらっしゃいます。

ご自身の貴重な体験談も教えてくださいまして、
いつも教えていただいております。
ありがとうございます。


はうらひとひら様 (67581)
日時:2024年09月23日 (月) 07時08分
名前:志恩

9月21日開催の『ZOOM実相ひかり誌友会』メモを
メールにてお送りくださいまして、ありがとうございます。
早速、拝読させていただきましたが、とても素晴らしい内容
ですので、参加者の方々の個人情報保護のためABCDに変更
しまして、トキ掲示板へ転載させていただきますこと、お許し
くださいませ。
⬇️
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
9月21日開催の『ZOOM実相ひかり誌友会』メモです。

(文責 はうら)
日時:令和6年9月21日 午後1時半より約2時間
・出席者(敬称略、50音順)
・ はうら  ・ A

(メール等にての参加者)
・B ・C  ・D
・E  ・F

■: A

9月4日から2週間東北地方に出張しました。
山形等2箇所で芸術祭への指導と出演をしました。
出張中27回忌の法要も出来ました。
最近神想観で「無限繁栄』の祈りをして、皆様の
神癒を祈っていると、大変心が悦びます。
石井さんの永代供養も出来て、嬉しい事ばかりです。

下記真理を楽しく学ばせていただきました。
(テキスト『真理』第1巻)

〇【墜落(ついらく)は機会である。】
《 若し種子(たね)が地上に墜落することがなかったら、
稲は実りますか。果樹(くだもの)は実りますか。
墜落したときに、本当は皆さんは一層自己生長の
機会が与えられたのです。》
(『真理』第1巻102頁)

【 真の幸福は体験から学ぶことにある】
《 人生の勝利者となるには、必ずしも現象を見る眼
で見て、いつも勝利者となることでない。
他を圧倒していると見えることでもない。
最も苦(にが)き経験につまずきながら苦杯を嘗(な)めて
いる其(そ)の最中に、其の人が真に勝利者であることも
あり得るのである。勝利というのは他を叩きふせる事では
なく、みずからの生命を、その体験によって一層豊富にし、
一層高め上げ、一層浄らかにし、その体験から得られる
すべての善き滋養を完全に吸収することなのである。

だから、勝利というものは、形の問題ではなく、その体験の
受け方にあると言うことが出来るのである。
仆(たお)れた時にだけその起き上がる努力によって
発達する筋肉もあるのである。
兎(と)も角(かく)、一度も倒されたことがなくて立って
いる者は、倒れたときに如何(いか)にすべきかを知ら
ないであろう。彼はまだ未熟である。
倒れて、再び起き上がった人は、倒れないで今まで来た人
よりも偉大である。
未だ嘗(かっ)て破れたることなしと誇った日本人は、
倒れたときに如何に起き上がるかを知らない無知の
国民であったのである。
一遍(いっぺん)倒れて再び起き上がったときに、
日本人は以前よりも深い体験を積んだ国民となった
のである。
吾人(ごじん)の価値は、未だ一度も倒れたことがない
ということではなく、幾度も倒れながら再び起き上がって、
そのために多くを学び魂を磨き、且(か)つ鍛えて
来たのである。
それと同じく諸君の価値も未だ一度も倒れなかったという
ことではなく、倒れながらも再び起き上がってそのために
多くを学び、そのために多くみずからを改善するという
ことである。
諸君の仕事は倒れた体験から多くを学び、一層多く
みずから改善するであろう。
倒れるということも前進である。倒れたままで失望する
のでは値打ちがない。
倒れて瞬間にすぐ起き上がって光明に面するのが
生長の家の生き方である。》
(『新版 叡智の断片』117.118頁)

〇【 値打ちのある人間になれ】
《 運命は自分の心にあり、自分の値打ちにある。》
(『真理』第1巻130頁)

《 『価値』とは如何なることであるか。
『価値』とは『値打(ねうち)』である。
『値打』とは如何なる事であるか。
『値打』とは『音打(ねうち)』である。
ものは打ちて音(ね)を出せば、その価値が
わかるのである。
金を打てば金の音を出し、銀を打てば銀の音
を出す。アルミ貨幣に到っては、低劣なる
ボール紙の如き音を出す。
『音(ね)』とは何であるか。
音(ね)とは音(おと)であり、響(ひび)き
である。音(おと)とは、『緒轟(おひび)く』
すなわち『玉の緒の轟(ひび)き』であり。
『ヒビキ』は『霊曳(ひび)き』であり、
霊の音のあとに余韻(よいん)を曳いて妙(たえ)
なるを指すのである。
要するに『値打』とは『霊の動き』であり振動であり、
活動なのです。
『値打』は、『霊の活動』であるから、『霊の活動』
を離れたる単なる肉体のみの活動には『値打』はない。
肉体のみの欲望の追及が『下劣』に感じられ、
価値少く感じられるのは此の理由に於いてである。》
(『新生の書』8.9頁)

〇 【 実相と現象】
《 【人間の本当のすがた】
お月さんが三日月に出ていても、あの本当の姿はまん円(まる)
いのだ、斯(こ)う見るのが実相を見る見方です。
相手は丁度鏡である。
出てくるものがみんな自分の心の鏡で有り難い。
「有難い!」斯(こ)う思って相手のどんな姿でも
拝むようにしなければならない。
悪があると云(い)うように見えるのは、それはあると
思っている間だけある。
本当の相(すがた)すなわち実相がわかると、悪い人
などは一人もない、みんな神様がつくられた善い
人ばかりです。》
(『真理』第1巻156.157頁)

《 【 同悲・同喜のこころ】
実相と現象の問題ぐらい間違われて取り扱われる問題は
ないのである。それの混同と混乱と、その取り扱いの
不適正とで人生は不幸になるのである。
イエスが、死して四日間既に腐臭を発しているラザロを
復活せしめた奇蹟はどうして起ったかを見れば、この
実相と現象の問題は多少ハッキリして来るのである。

聖書によれば、ラザロの死を見て、また死を悲しめる
彼の家族たちを見て、「イエス涙を流し給えり」と
書かれている。
明らかにイエスは、ラザロの死と、家族の悲哀とを見た
のである。それを見て悲しみを自己の内に摂取したとき、
イエスも悲しみ、イエスも泣いたのである。
われわれは人の悲しみを見て悲しみ、人の悪を見て
憤(いきどお)る。
哀しまず憤らざる者は、その悲しみ、その憤りの原因で
ある人の「苦痛」や「悪」を自己に摂取しない人であり、
随(したが)ってその「苦痛」や「悪」をば浄めることが
出来ないのである。
ラザロの復活の奥には「イエス涙を流し給えり〕がある
のである。

他(ひと)の悲しみに同悲して泣き、他の苦しみに同苦して
泣く、それは愛であり、そこから抜苦与楽(ばっくよらく)
の慈悲の働きが生じてくるのである。
人の苦しみ悲しみを見て平然たるものは木石(ぼくせき)
であって愛ある人ではない。
木石は人の悲しみをも苦しみをも見ないがそれを
癒やす働きはないのである。
人の悲苦を癒さんとするときには、先ず同悲し同苦し、
そこからそれを脱却せしめたいとの工夫を生ずる。
その工夫が実際に重荷を代わって担(にな)いで
やろうとする深切(しんせつ)の行為ともなり、
母親の子供に対する愛護ともなり、色々の慈善事業
ともなり、社会生活ともなる。
実際的な深切の行為の人を、唯(ただ)「現象悪に
とらわれている人」と観(み)るのは間違いである。
それでは実際的な愛の行為の全然なる否定となる。
吾らは時には貧しき人に一片のパンをも恵む人とも
ならねばならないし、身体の弱い人をいたわって
彼から苛酷な作業を取り除いてやることもしなければ
ならぬ。併(しか)しそれだけでは愛が
「イエス涙を流し給えり〕の程度に過ぎない。
実に吾らの愛はイエスの「死せるに非(あら)ず、
生けるなり」と悲苦の仮相を観る(み)ず、悲苦を
超えた永遠「生」のを観る神想観にまで発展させ
なければならないのである。
併(しか)し、ラザロを復活せしめたる「イエス」の
神想観は「イエス涙を流し給えり〕の境地を通過して
のちの実相観であるのである。
ただ人の苦しみを冷然と見て、「そんな現象は本来無」
と空嘯(そらうそぶ)いているが如きは、木石の
無感覚さであって、実相の円満さを観るものでは
ないのである。》
(『新版 叡智の断片』113〜115頁)

〇 【 心】
《 人間の本当の心
この神さまの「心」が自分の本当の心であります。
「心」はすみきりのものでありまして、色がない。
水よりも、もっと透(す)きとおっていて、あるかないか
わからない。鏡よりもなお一層、曇(くもり)がなくて、
何でもその通りにうつる。
人間の本体は、この澄(す)み切りの形ないのが
「心」である。
この「心」が抜けてしまったら肉体は、人間ではない。
人間のカラだ。だから肉体のことを「カラダ」と云う。》
(『真理』第1巻167.168.頁)

《 【心で外界が支配できる
霊魂(れいこん)というものは、「神様の生命」が吾々に
分かれて宿っているのですから「神の子」である。
神様はわれわれの「神の子」たる霊魂に心の自由を与えて
自由に、心で何でもつくるように任せておられる。
そしてその行(ゆ)き方が間違っていたら、自分がしまいに
おのずと不幸になって、行きづまってしまったときに、
自然と自由意志で明るい方に来るのを待っておられるの
です。神様はこのように完全な自由を人間に与えて
おられるのである。》
(『真理』第1巻187.188頁)
 
《 【完全なる祈りとは】
自分のほんとうの魂(たましい)の底からの願い、
神様の御心(みこころ)と波長の合うと思うものを
紙に書いて、それを壁に貼り付け毎日それを見て
「これは既に私に与えられている。神様ありがとう
ございます」と感謝するがよい。
これが神様の世界と波長を合わせることになる。
放送でも波長の合わないものは今此処(ここ)に
放送が来ていてもわれわれは聞こえないのである。
だから神様の波長と合うところの自分自身の心の
波長をもってゆかなければ、それが実現される
ことにならないのである。》
(『真理』第1巻198.199頁)

《 【人間神の子である理由】
誰にも教えられないでも知っている智慧、これは
神様からくる智慧である。これは潜在意識のまだまだ
奥にあって、常に吾々に何かを知らせて導こうとして
いる「心」である。この「心」を超越意識という。
「神の心」と云ってもよい。
(複雑な生理作用等もそれである。
新陳代謝は神癒である。》
(『真理』第1巻 220.221頁)

《 【コトバとは何であるか】
ヨハネ伝には「太初(はじめ)に言(ことば)あり、
言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき」とある。
そして一切のものが言(ことば)によって造られたと
書かれている。言とは何であるか。
宇宙の太初には人間は存在しないので、人間の唇(くちびる)
から出る言葉ではない。これは宇宙に満(み)つる霊(たましい)
の振動であり、生命の活動である。
宇宙大生命が波動を起した(大生命は生きているから
動くのである)しかし物質はまだ顕れていないから物質の
形では動くことが出来ない。そこで心で動くのである。
心で動くと云うのは「想念の波」を起こすと云うことである。》
(『真理』第4巻 185頁)

《 【月を見て実相の円満さを知れ】
映画の画面に何事が映って出ようとも、それは私達の
真実の世界の尊厳に影響与えるものではない。
現象界に何事が起ろうとも、実相の世界には円満完全な
相(すがた)が存在することを疑ってはならないのである。
愛は実在であるけれども、憎(にく)しみは実在では
ないのである。それは喩(たと)えば天空に輝く円月は
実在であるけれども、それが波に映(うつ)ってくだけた
姿は実在ではないのと同じようなものである。
波に映った月の姿がくだけていようとも、天空の円月が
儼(げん)として存在することを否定するのは愚(おろ)かな
ことである。
私たちの「心」は一種の「波」である。
心の「波」靜かなときには実相円満の風光がそのまま
現象として映るけれども、心の「波」が荒れている
ときには支離滅裂なる姿があらわれるのである。》
(『新版 栄える生活365章』 305.306頁)

《 神様は一切のものを造る本源であらせられますが、
その神様がいらっしゃるところ必ず「コトバ」(即ち想念)
があるというわけであります。
そして心にコトバという波即ち、想念というものが起ったら、
その想念の形に自然に原子、分子及びその他の資材が集め
られ排列されて、それが具体化されて来るのであります。》
(『新講「甘露の法雨」解釋 98.99頁)

メールにて参加

■: E(メールにて)

合掌 「ひかりのお便り」9月号と『生活と人間の再建』抜粋シリーズが、
9月6日に届きました。
今夏、酷暑中のお仕事ご苦労様でございました。
実相ひかり誌友会のテキストが、
『真理』第1巻(第9〜20章)と告知されましたので、
その感想等を次のように投稿させていただきたいと思います。           

@『真理』第1巻(第9〜20章)を拝読して
「序文」に、難しい哲学を、どれだけ易しい言葉で書き得るかの試み
と記されている通り、分かりやすい表現で、
しかも、短文の章立てなので読み進めやすい聖典です。

第九章p127 ダイヤモンドが貴いのは、
世間にザラにないから貴いのです
―20世紀に書かれた聖典ならこそです。
21世紀では、ダイヤを気相成長法により比較的容易に製造でき、
ザラにあるものに変わりました。

第十四章p194 戦争の勝利を祈ってはならない
―絵馬を奉納した時に、「ウクライナよ負けないで」
と書いておきました。

A『光明道中記』(新選谷口雅春法話集5)を自習いたしました。
「ひかりのお便り」で頻繁に抜粋をご紹介されておりますので、
もうお馴染みの聖典でございます。

はしがき(昭和49年9月6日改訂版)には、
日記の体裁をとった真理を人生に生きる光明生活の感想集である
と記されていますが、実際には同一テーマに関する連載の形
のものが多いです。

就中、「歎異抄」(8月11日〜9月30日まで)の解釈には
多くのページを充てていらっゃいます。
独立させれば、仏典の『解釋』シリーズに加え得べき
ものと考えられます。

いずれも10行前後の比較的短い解釈ですが、要点が明示され、
あとは読者が深く思索するようにと誘われているように
書かれていると読ませていただきました。

B「1945年のクリスマス」について
谷口雅春大聖師39年祭での総裁ご挨拶は、❝男女平等と生長の家❞と
題されております(機関紙8月号)。
女性副総裁ないし総裁実現のための布石(機関紙9月号)と忖度
いたしております。お断りしておきますが、
私は男女平等に何の異論もありません。

(ベアテ・シロタ氏関係はよく調査考察されておりますが、
容量等の都合により約させていただきます。
ご希望の方は別送付いたします。)

・ はうら

合掌 ありがとうございます。
今月も、いろいろご教示いただきまして、
ありがとうございます。
残暑厳しき折、ご自愛ください。
いつもご支援いただきまして、ありがとうございます。

■: D(メールにて)

いつもありがとうございます。
ひかりのお便り拝読しております。
心の耳を澄まして神様の声を聞くようにする。
大切なことですが
なかなかできていないなあと思いました。
お便りを拝読していろんな事に気づきます。
ありがとうございます。 

・ はうら

合掌 ありがとうございます。
ご連絡いただきまして、ありがとうございます。
神様は、全ての処に充ち満ちておられますから、
いつでも答えてくださいます。
新陳代謝が神癒の証しですから、生かされて
生きているわけですね。
しかし、第一に吾々個々を尊重されますから、
そこは、我の力でないかどうか、が
常に問われるところではないでしょうか。
奇蹟の証しである、天の宮なる太陽に、私はいつも
最敬礼して感謝しておりますが、それだけでも
気持ちが落ち着き、力をいただけている気持ちが
いたします。
まだまだ暑い日が続きそうです。
どうぞお大切にしてください。
いつもありがとうございます。

■: C(メールにて)

合掌 ありがとうございます。
お忙しい中ご連絡ありがとうございます。
ひかりのお便りもありがとうございました。
今月も仕事のためお休みさせていただきます。

内なる宝を発見して、そしてその力を働かせること。
外に頼るな、既に内にある!という事ですね。
素晴らしい力強いお言葉をありがとうございます!

もうすぐそこまで秋が来ているようですね。
あと少しの暑さ、乗り切りましょう!
お身体お大事にしてください。

・ はうら

合掌 ありがとうございます。
ご連絡いただきまして、ありがとうございます。
お仕事、頑張ってください。
やはり人間は、仕事を通して世の人々に貢献するのが
最高の奉仕だと思っております。
そして、この最高にして最後の教えとされる
「実相哲学」に触れた人は、魂の高い人だと思って
おりますが、立教時陸続として出た「奇蹟的事柄」
が何故今それが少ないのかと考えております。
(私自身悟っているわけではありませんが)
そして、到達したのは、真理を生活に溶け込ませて
生きるには、真理を体得し、体現し、実証するしか
ないと思っております。
どうぞご一緒に、救済し、現象を超越する実相哲学の
実践に参画いただけましたら、嬉しいです。
今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。

■: F(メールにて)

ひかりのお便り、誌友会のご案内有難うございます。
21日は午前午後と用事があり、申し訳ございませんが、
時間までに帰宅できそうにありません。
間に合いましたら お願いいたします。

・ はうら

ご連絡ありがとうございます。
ご多用中ありがとうございます。
お時間いただけるようでしたら、
どうぞよろしくお願い申し上げます。
(あまりご無理をなさいませんように)
いつもありがとうございます。

■: B(メールにて)
ようやく秋の気配が僅かながら感じる今日この頃となりました。
こんなに長い猛暑日続きには、さすがにウンザリしております。
親鸞聖人(上人)と弟子たちの流浪の旅の物語を思い出しております。
うろ覚えですが、
弟子達が寒風に寒がっているのを見ておられた上人さまが、ひとこと。
「弥陀の国から吹く風と思えば、ただ有難きかな」というような
お言葉をかけられたとのお話ですが、吹く風のも仏の慈悲、吹かぬ風も
仏の慈悲ということになりましょうか?
昨日は、隣国で邦人の男児が男に刺され亡くなったという悲しい出来事に
同じ子供を持つ身として怒りと悲しみの感情が沸いてきました。
在日の隣国の人たちも哀悼集会を開いている記事を読み出した途中で、
涙が溢れそうになりました。

なぜ人間は憎しみ傷付け合わねばならないのか。
現象を見れば、神や仏はいずこにありやと問わねばならぬことばかり、
しかし、耳を澄ませば、今、此処に、常に、此処にありて導き給うている
のであります。
出張先のホテルに入れば、今は珍しい「新約聖書」「仏教聖典」
が備え付けられていました。
正に、神仏からの言葉そのものです。
ぱっと開いたところにこんな素敵な話が載せてありました。
“「ものみなうつり変わり、現れては滅びる。
生滅にとらわれることなくなりて、静けさと安らぎは生まれる。」
行者はこの詩を木や石に彫り付け、やがて木の上にのぼり、
身をおどらせて鬼の前に投げ与えた。
その瞬間、鬼は神の姿にかえり、行者の身は神の手に安らかに
受け止められた。

”(『和英対照 仏教聖典』より)

最近の小生の座右の銘は「覚悟」です。

どちらも「サトル」という意味でもありますが、
合わせるとひとつの強い意志をもった言葉であると感じます。
まだその心境まで至っていませんが、
何事も「覚悟」をもって行事て往きたいと思います。

・ はうら

ご多用中、またお疲れの処、
この度もまた、深いご教示ありがとうございます。
どうぞ、今後とも宜しくお願いいたします。
「覚悟」について、思い出したご文章があります。

《 「入龍宮不可思議境界録」は地上の話に
非(あら)ず、現象を超えて、実相不可思議の
世界に透入(とうにゅう)せんと欲する人々の
ためにものせるものであって玄々(げんげん)、
字間と行間とにその真意を掬(く)む
覚悟をもって読まれたい。》
(『叡智の断片』はしがき より)

どうぞお仕事頑張ってください。
いつもありがとうございます。


今回も多くの感動がありました事に感謝いたします。

感謝 再拝 はうらひとひら拝


『實相研鑽』第三集 (67585)
日時:2024年09月23日 (月) 12時27分
名前:はうら ひとひら



ありがとうございます。

『實相研鑽』第三集からです。

《 編者のことば

「菩薩とは如何なる人々のことであるかと謂(い)えば、
諸君のことである。
自利のためのみに生活せず、利他のために真理をふかく研究し、
自己の魂を向上せしむると共に、
その真理をもって多くの他の人人の魂の向上に貢献し
幸福を施してやまざる如き人々である」
谷口雅春先生は『菩薩は何を為すべきか』
(日本教文社刊)の冒頭で、このように説いておられる。

私たちは一人一人が菩薩なのである。
この菩薩たちのなかで、真理の伝道者として
特に使命を受けた人たちに、
地方講師・光明実践委員・伝道員がいる。
この人たちが、谷口雅春先生の直接の御指導を
受けることのできる研鑽の場として開かれている
『実相研鑽会』は、同時に、教えにふれた
私たち一人一人のためにも開かれているのである。
私達を代表して、講師たちは
釈尊に対する弥勒菩薩や舎利弗や阿難の役割を演じて、
自己の見解を述べ質問して答を求めているのである。
お答えになる谷口雅春先生も、
問者だけに対する解答ではなく、
すべての人類一人一人のために御指導下さっているのである。
それならばこそ、シリーズ『實相研鑽』に
とりあげられているテーマは、
教えを万人の実生活に生かす上に重要な、
身近な問題が必ず中心となっている。

たとえば本書九六頁では、
光明生活をつづけてゆく上で誰もが
一度は衝(つ)きあたるのでは?と思われる
煩悶(はんもん)が告白されている。
その一部を引用してみよう。
「ときどき誌友さんから、
『このごろ神想観をしておりましても、
入信当時のような感激がないのはどういうわけか』
と聞かれることがございます。
ある先生には、『それはサイダーの気が抜けたようなものだから
また奮(ふる)い起こせば、
再びむくむくと泡がたちはじめるのですよ』
と教わっったこともあります。(笑声)
しかし、どうもそれだけでは割りきれないものがあるような
気がして、仕方がないのでございます・・・」
これは入信当時の“感激”をみずからとり戻せないがゆえの、
心の底からの悦びをもって真理を人々にお伝えできない、
という苦しみをうちあけた地方講師の、
率直な発言である。
それに対して、他の講師たちがつぎつぎに発表に立ちあがる。
ある人は早朝神想観を欠かさずつづけることの重要さを語り、
ある人はとくに他(ひと)のために祈り、
かつ愛行することが新たな悦びをもたらすと語り、
ある人は天地一切への感謝こそは、
つねに還(かえ)るべき出発点だと語る。

それらはみな、各人みずからの切実な体験から発した、
絶対的価値をもつと言っていいアドバイスだ。
「参考のためにこれだけはお伝えしたい」という、
やむにやまれぬ愛の心から発言に立ったにちがいない。
このような相互研鑽を通して、
本書を読む私たちもまた、
「信仰生活のスランプをいかに克服するか」
という切実な問題を、実際に即した生きた体験を通して
学ぶことができる。
そして、谷口雅春先生の結語では、
各発言者の立場を生かしつつ、なぜスランプは起るのか。
どうすればスランプは消えるかということを、
「なるほど」と深くうなずけるところまで、
解き明かされるのである。
これを読めば、教えから学び、教えの師から学び、
そして教えを学ぶ人々の相互研鑽から学ぶーー
尽きることのない“真理の泉”からどれだけでも汲み出して、
あなたの周囲にいつも新鮮な「うるおい」として、
溢れるようなよろこびをもたらしていただけると思う。

そのような祈りをこめて編纂されたのが本書である。
神の示す道を自らあゆみ、
神の愛をより多くの人々と相倶(あいとも)にしようと
あなたが努力されるとき、そこに神の愛の扉はひらかれ、
あなたの実相は開顕されてくる。
そのあなたの歩みは、また当然に他の多くの人々への
道しるべとしての大きな役割を果たすことになる。
本書による、より深き研鑽をおねがい申しあげる
所以(ゆえん)である。
昭和五十年一月
編者

目次

編者のことば

1 無限の力

“真の自由”とは何か
“いのち柱"をうち立てよう
握れば一点となり、開けば無窮となる
本当のお蔭は“魂の宝”を獲ることである

2 本当の自分

自己処罰と失敗について
相対的な自分と本当の自分
“人間の本質”を語る

3 霊と祀り

「帰幽の神示」をめぐって
祖先の祀り方
守護神・守護霊に感謝する

4 不滅なるもの

「本来生、不滅の神示」について
菩薩は何を為すべきか
「日の丸」「君が代」に誇りを》

(『實相研鑽』
◆悟りを深めるための相互研修(第三集)
  1〜5頁)

■ 体験的な

今回も信仰とあまり関係ない事柄で
大変申し訳ございません。

昨日(令和6年9月22日)小雨の降るなか、
往復5時間をかけて祖父、祖母、父、母、兄等
親族の眠るお墓に感謝のお参りをさせていただいた。
上記の聖典が発刊された昭和50年に思いをはせながら。
その時私は30歳になっていた。
この時いろいろな事があった。
作家の遠藤周作氏、三浦綾子氏などと知己を得、
初めてとなる上梓(300頁程の小説)をし、
『全作家』会員や理事になって、
文学と制御工学屋の二足の草鞋をはいて途上にあった時、
突如として7名の技術者仲間と会社を立ち上げざるを得なくなり、
その代表となった。
会社設立4日後の7月の終りの、
東雲(しののめ)を破るように、電話が鳴った。
「夜のあけるのを待たずに、ひっそりと苦痛から
解き放されたように、穏やかな最後だった。」
とその人は母の最期の様子を知らせてくれた。
6年間の闘病生活の終焉だった。

それから数年後の夏は、天候不順で夏らしい日が少なかったが、
しかしよく晴れた夏の暑い日に、
私は父と二人で、母の墓参に出かけた。
一点の雲のない空に、蝉の声のみが、
短い夏を精一杯歌い響かせていた。
墓地には、他の姿が一人として見当たらず、
森閑(しんかん)としていた。
過ぎゆく時の彼方をおもいやっていると、
風が時々渡っていった。
夏の終わりの風だった。

その一年後、父も帰幽した。

ありがとうございます。











はうらひとひら様 (67588)
日時:2024年09月23日 (月) 14時44分
名前:志恩

>■ 体験的な

今回も信仰とあまり関係ない事柄で
大変申し訳ございません。

昨日(令和6年9月22日)小雨の降るなか、
往復5時間をかけて祖父、祖母、父、母、兄等
親族の眠るお墓に感謝のお参りをさせていただいた。
上記の聖典が発刊された昭和50年に思いをはせながら。
その時私は30歳になっていた。
この時いろいろな事があった。
作家の遠藤周作氏、三浦綾子氏などと知己を得、
初めてとなる上梓(300頁程の小説)をし、
『全作家』会員や理事になって、
文学と制御工学屋の二足の草鞋をはいて途上にあった時、
突如として7名の技術者仲間と会社を立ち上げざるを得なくなり、
その代表となった。
会社設立4日後の7月の終りの、
東雲(しののめ)を破るように、電話が鳴った。
「夜のあけるのを待たずに、ひっそりと苦痛から
解き放されたように、穏やかな最後だった。」
とその人は母の最期の様子を知らせてくれた。
6年間の闘病生活の終焉だった。

それから数年後の夏は、天候不順で夏らしい日が少なかったが、
しかしよく晴れた夏の暑い日に、
私は父と二人で、母の墓参に出かけた。
一点の雲のない空に、蝉の声のみが、
短い夏を精一杯歌い響かせていた。
墓地には、他の姿が一人として見当たらず、
森閑(しんかん)としていた。
過ぎゆく時の彼方をおもいやっていると、
風が時々渡っていった。
夏の終わりの風だった。

その一年後、父も帰幽した。<

志恩ー
珠玉の体験談だと存じます。
絵のように美しい映像が浮かびます。合掌


『實相研鑽』第三集より (67631)
日時:2024年09月29日 (日) 11時37分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。
『實相研鑽』第三集の中の
「信仰生活のスランプをいかに克服するか」
の問題の尊師のご回答からです。

《【相対的な自分と本当の自分】

谷口雅春(編註:ご回答)
大角さんの話を聞いておりました時に、
ふと感じたことは『歎異鈔』の「急ぎ“浄土”へ参りたいと
いう心が起らない」という引用の、浄土という言葉ですねーー
もっとも『歎異鈔』が本当に親鸞聖人の問答が書いてあるのか、
後世の偽作であるという説もあり、
あるいはそうではなかろうかと思う節もあるのですがーー
それは、ここにつかわれている「浄土」という言葉が、
現世をはなれた“別の世界”というような感じの
語になっているわけですね。
それで“今ここが浄土である”
というような生長の家的な悟りというものが、
あの質問の中にも、親鸞聖人の答えの中にも表れていない、
ということをちょっと感じたのであります。
むろん『愚禿(ぐとく)悲嘆述懐』の中にも
「悪性さらにやめがたし、こころは蛇蠍(だかつ)の如くなり」
と書いておられるし、またどこかの御文章にも
「愛欲の広海に沈湎(ちんめん)して」とか
何かいろいろ鋭い自己批判をしておられますが、
「罪が本来無い」ということは、そのつづきに、
「罪業もとよりかたちなし、妄想顛倒(もうそうてんどう)の
なせるなり。心性もとよりきよけれど」と、
実相の完全清浄なことを説いておられ、
その「和讃」のなかには「超世の悲願聞きしより、
我らは生死の凡夫かは」とか、
「信心よろこぶそのひとを、如来とひとしと説きたまふ。
大信心は仏性なり、仏性すなはち如来なり」
というようなお言葉がありそれに現われているところでは、
親鸞聖人には「今ここに仏が生きている」という
自覚がおありだったとうかがえるのです。
『歎異鈔』のあの問答のところにはまだ完全にそれが
現れていないで、現世と浄土というものが分離したような
形になっていることを感じたんでありますがね。

そういうように、本当に今ここが極楽浄土であり、
天国であり、ここに仏性すなわち如来が生きており、
ここに神の子が生きているという
“絶対の境地”に入らない立場において
悩みが起って来るのですね。
そういう相対的な自分というものを
脱却しなければならない。
相対的な自分というものは、ニセモノの自分、
現象の自分で、本当の永遠不滅の久遠実在の自分でないのに、
それを久遠実在の自分と間違えて悩んでいる自分が
今ここにあると、そう考えるところにモヤモヤして来るのです。
「罪業もとよりなし」で、その悩んでいる自分はないんだ
というのが生長の家の教えですね。
悩んでいる自分はないんだと、それを跳び越えるのです。

しかし、どうして悩みというものが現れて来るかというと、
それは煩悩即菩提ということになって、
その菩提の実相が、悟りの実相が、
本来あるのが現れようとしている形が悩みとなって現われて来る、
というわけですね。
つまり、『生命の實相』の倫理篇(頭注版第13巻)に、
「煙が出るのは、火があるからで、
火力がますます熾(さか)んになれば、
煙がますますさかんに出て、ついに大火焔となって、
光明ばかりになる、その過程だ」という意味が書いてあります。
その煙が煩悩であり、悩みですね。
それでまあ柳沢田鶴子さんの悩んでいられるのは煙で、
それはもう実相の自分が現れようとしているのであるーー
というところへ来たわけなんですね。

われわれの生命の実相ーー
本当のすがたというものは、
個々別々の「個」じゃなくってですねーー
全体が一つの生命である。
これが実相なんですね。
全体が一つの生命であるのに、個人として自分で
制限をつけているものだから悩みというものができてくる。
自分で自分をくらましているわけですね。
全体一つであるのに一つでないとして、
自分の幸福だけを追及しているとか、
自分の悟りだけを追求しているとか、というところに、
自分の本性とちがうものがある。
本性とちがうものがあるから、それが本性を出そうとして
悩んでいるということになるんですね。

そこで黒河内さんの言われたように、
人のために祈る、人類救済のために活動すると
いうような気持ちが積極的にあらわれて来ると、
個人としての殻が破れて来るから、
実相(ほんとう)の生命の相(すがた)が
率直にあらわれて悩みが消えてくるという、
そういう経過になると思いますね。
それで我々は、何かスランプにおちいったりして
人生に喜びがないというときは、
どこか“生命の実相”の本当の自分でない生き方をしている。
その生き方が本性にかなわない場合は
悩むわけで、それは本性にかなうように爆発すれば、
そうすると悩みが消えてしまうと
いうことになるんだと思いますね。
これが感じたことであります。(拍手)》

(『實相研鑽』第三集 107〜110頁)


■: 体験的な

今回も信仰体験とはまったく異なりますこと
お詫びいたします。

北上川の畔(ほとり)青とした田園風景は、
伊達家の江戸家老茂庭周防(もにわすおう)の生家、
松山を通過していた。
午後の淡い春光が車窓を照らし、悠(ゆう)として、
時間が止まっているようなその風景は、
一服の清涼剤であった。
その時、私の眠気を一遍に醒ますように突如として
地名が飛び込んできた。
「宮城郡登米(とまい)町」
私は一瞬声を出しそうになった。
ああ、あの方の生まれた地であったのか・・・
風景は一路北を映していた。

「私の寺は太陽山青空寺、この地上は私の境内です。」
その人は、ゆっくりと皿の中の水に浮かんでいる木の葉をとり、
二本の指先で唇に押しあてた。
「(島崎藤村の)初恋がよいでしょうね」
老人の吹く草笛は、もの悲しく、素朴で、
時にはタドタドしく、
初秋の空気を震わせて、古色蒼然とした城址(小諸)を
流れていった。
あの方との初めにして、最後の出会いは、このようなものであった。もう五十余年になるのに、つい昨日のように思い起こされる。

千曲川沿いの古い町を後にして
、夜汽車の窓から漁火(いさりび)のように点在する
街の灯々を見やりながら、
私はあの方のコトバを反芻(はんすう)して、
萎(な)えそうだった力が消えていき、
内から、強いものが漲(みなぎ)ってくるのを感じていた。
もう一度やりなおしてみよう。
もう一度・・・。
目頭に熱いものを感じながら。

ーー自然界(太陽系)は例えば、
地球は太陽のほとりを、自転と公転する。
ただ一つのことだけをして、その他の事は、一切しない。
又例えば、たんぽぽは、ただ、
『たんぽぽの花』これ一つだけ咲かせ、
決して他の花は咲かないのです。
これが宇宙の公式、永遠に変らない公式です。
世の中に、「馬鹿の一つ覚え」という言葉がありますが、
宇宙はまさに、馬鹿の一つ覚えです。
それで私も、自分自身草笛を吹くこと、
これ一つしか知らない者になれば、落ち着けると思ったのです。
こうなるほかに、私の人生は心を落ち着けようがなかったのです。
宇宙の公式を重んじて下さい。ーーと。

その年の夏は天候が不順で、冷夏かと思えば、
一転猛暑が幾日か続くという日々であった。
父が倒れたという知らせは、予告なしにやってきた。
暫く昏睡状態が続いた。
私達子供は、病床でなすすべもなく、
ただ、もう一度立ち上がって、厳しく叱ってくれる日がくる事を、
夜に日に念じるだけであった。
あの方の遺稿集が私の許に届くけられたのは、
そのような時であった。
私はそれを父の病床で夜半にひもといた。
私は申し訳なくも、その時になった初めて、
あの方の最期と全人生を知る事が出来たのである。
夜が白らもうとする、父の病床の淡き光の中で、
あの方の足跡を読み、かの日の草笛を、
ふと聞いたような気がした。

ーー古里の夕焼うるわしきがごと 
万象宇宙人生、うるわしーー

その朝、肺炎を併発して、父は母のいる幽界の旅に向かった。
倒れた後、一週間目であった。
その日はあの方、が示寂(じじゃく)されてから
一年後の一か月後の一日後のことであった。

「葉っぱは、宇宙のものでしょう。
その葉を吹いて鳴るという亊は、
太陽系の組織がそのようになっていることですよ。
人が生きているのも、宇宙が生きているんです。
永遠にね。死んでも生きても、宇宙と共に永遠にね」

草笛和尚こと、あの方、横山祖道師は、
信州小諸の城址懐古園で、草笛を吹き、坐禅を組んで、
小鳥と共に暮らす日を、生涯の心の安らぎとし、
その生活は二十二年間に及んだ。
良寛や山頭火を凌ぐとまで言われるその生きざまは、
まさに、師をして、
「野垂れ死の覚悟でなけば、こんなことはやれない」
と漏らしたと言われるように、壮烈なものであった。

車窓は一路北をめざしていた。

ありがとうございます。

はうらひとひら様 (67633)
日時:2024年09月29日 (日) 16時17分
名前:志恩

トキ掲示板へ訪れるお方が、極少なくなった現在ですが、
はうら様のような素晴らしいお方がご投稿くださって、
どんなにありがたく嬉しいかわかりません。

宗教的、文学的な香りのする高尚なご文章を
お寄せくださいまして、誠に有難うございました。

『實相研鑽』第一集“日本国家と家”より (67719)
日時:2024年10月06日 (日) 06時27分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。

『實相研鑽 (第一集)から
“日本国家”と“家” の結語です。

【人間はどこから生れたか】

谷口雅春(編註:ご結語)

《 これで最後の結論が出ましたが、
私が感じますに、
あの結婚式に父母が出席しないというような問題が起って来るのは、結局“人間はどこから生れたか”ということの
根本問題の悟りが得られていないということにあると思います。
ひょっこりと自分というものが、祖先との関係も、
国家との関係も、何もなしに生れたものであれば、
それは自分だけ好きなようにすればいい、
ということになるんですけれども、そうはまいりません。
自分の生命はどこから来たかというこの問題が
本当に解決されなかったならば、結局、
迷いの世界にふらついているより
仕方がないということになると思います。 

たとえば、禅宗のお寺へ行って、本当にそのお寺で修行したい、
弟子にしてもらおうと思って行くと
“お前はどこから来たか”と訊かれる。
その時に“東京都のどこから来た”というような答えをしたら
“もう帰れ!”と一喝されて弟子にしてもらえない。
それは「お前はどこから来たか」ということは
最も根本的な生命の悟りの問題であるからです。

現代の日本は自分の生命というものが、
どこから来たかという根本を悟らせる教育というものが、
今行われていない。
これを行っているのは生長の家の「生命の教育」
を採用した家庭及び先生がただけなんです。
つまり生命の自覚の縦の線が失われて、
“横”だけになってしまって、
“縦”を“横の線”で分断して、
祖先とのつながりを全部たち切ってしまっている。
それが一番、現代の日本文化の弊(へい)である
というように考えられるわけです。
その“縦の線”がすなわち『古事記』に
いわゆる“漂(ただよ)える国”を
修理固成(つくりかためな)す“真理の一剣”であって、
この“縦の線”をはっきりさせない限り、
日本国家は、いつまでも同様きわまりなき
“漂える国”として安定を失っているというわけで、
これを安定させる“真理の一剣”
すなわち“縦の真理”を握っているのが生長の家であって、
この“真理の一剣”によって
理念日本国家を本当に完成させる使命を持っているのが
われわれであると、こういうわけであります。
この大使命を明確にして今後一層の御努力を
お願いする次第であります。
ありがとうございます。(拍手)》
(『實相研鑽』第一集 153.154頁)

■: 体験的な
今回も信仰体験でない事をお詫びいたします。
(なお記述している事柄につきましては、
他を批判等するものではありません。
前回の続きのようなものです。)

ある日、私(はうら)はその文学作品の足跡を辿(たど)り、
史実の奥にある雰囲気を味わう為に、北に向かった。
作者が四十年の歳月をかけて構想し、二度の現地取材をし、
(一回の取材に二十二日を費やす)執筆に五年をかけ、
登場人物は重要な人物だけで百名を超え
千六百枚の大作であるその作品に敬意を表して。

北上川の畔(ほとり)、とした田園風景は、
伊達家の江戸家老茂庭周防(もにわすおう)の生家、松山である。
原田甲斐(かい)邸跡地は、それは何を物語るのか、
今は仙台高等裁判所である。
そしてその碑は宮城県柴田町船岡城址公園にあった。
そこは白石川を見渡す高台に聳(そび)えるようにして
立つ樅(もみ)の木。
その木の下に主人公の意志の強さを表すような、
靜かでどっしりとした大岩に埋め込まれた文学碑がある。
それは作者の夫人の筆跡で、作中文が、
流れるような美しい書の佇(たたず)まいがあった。

『雪はしだいに激しくなり、樅の木の枝が白くなった。
空に向かって伸びているその枝は、
いま雪を衣(き)て凜(りん)と力づよく、
昏(く)れかかる光の中に独(ひと)り、静かに、
しんと立っていた。
「ーーおじさま」宇乃はおもいをこめて呼びかけた。
すると、樅の木がぼうとにじんで、
そこに甲斐の姿があらわれた。』
山本周五郎「樅の木は残った」より 
       清水きん書

午後の淡い光の中に、時間が止まっていた。
船岡城は主人公原田甲斐が、
その騒動で斬死するまでの居住である。
江戸時代前期仙台藩伊達家で起こったお家騒動、
寛文事件(世にいう伊達騒動)で、
仙台藩3代藩主伊達網宗を江戸吉原での
放蕩三昧(ほうとうざんまい)を理由に
幕府から隠居を申し渡された。
藩主の座は2歳の亀千代に移され、
後見役に伊達兵部が実権を掌握するが、
その裏に幕府の大名家の取り潰しや弱体化の画策があり、
老中の酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)と兵部との間に密約があり、いずれは仙台藩の半分は兵部に与えるという
風聞(ふうぶん)が飛び交った。
兵部は綱宗の放蕩三昧という捏造(ねつぞう)を
隠蔽(いんぺい)する為に、
吉原に一度だけ同行した側近の畑与右衛門を
夫人とともに暗殺し「上意討だ」とした。
二歳のお上が命ずるはずがない・・・
かろうじて逃げ延びた娘の宇乃(十三歳)は、
近くに住む宿老の甲斐に救われた。
その甲斐は唯一人覚悟を決めた。
一度だけその決意を述べている箇所がある。
甲斐が伊達安芸(あき)からの密使矢崎舎人(とねり)
(不実の罪で追放されていた)に向かって、
自分で言うのも不愉快そうに吐き出すように
「ーー意地や面目を立てとおすことはいさましい。
人の眼にも壮烈にみえるだろう。
しかし、侍の本分というものは堪忍(かんにん)や辛抱の中にある。生きられる限り生きて御奉公することだ。
これは侍に限らない、
およそ人間の生きかたとはそういうものだ、
いつの世でも、しんじつ国家を支え、
護立(もりた)て、こういう堪忍や辛抱、
人の眼につかず名もあらわれないところに
動いている力なのだ」
(『樅の木は残った』第四部(闇夜の匂い)より)

甲斐は兵部に取り込まれたように装(よそお)い、
国老の地位を与えられ、
愛する妻を離縁して親族縁族の縁(えにし)や
友人を全て遠ざけ淡々と職務をこなした。
伊達藩内の権力闘争はついに、
幕府への上訴という事態となった。
兵部は雅楽頭から送られた自筆の密約を甲斐に託して、
評定所(ひょうじょうしょ)へ向かわせた。
史実?によると、江戸雅楽頭邸での評定席で、
劣勢に陥った甲斐は、上訴の主である伊達安芸らを斬り殺し、
自身も切られて死亡した事になっている。
しかし、伊達家の人々の殺害を命じたのは
密約が露呈(ろてい)する事を恐れた雅楽頭である。
甲斐はそれを逆手にとって、
雅楽頭に知らしめるように幕府の要人
(久世大和守(くぜやまとのかみ))に伝えた結果であった。
甲斐は謀殺(ぼうさつ)の中で最後の言葉を発した。
「私が乱心の上の刃傷(にんじょう)です。
わたしの仕業(しわざ)だということを、お忘れなきよう」

十年に亘(わた)った
原田甲斐の名誉や命や家族を捨てての行為は、
幼児まで男子は切腹に処せられ原田家断絶し終息した。
国家(仙台藩六十二万石)の存立と引き換えに。
そこに残された静謐(せいひつ)な樅の木。
最後まで花開く事無く、枯れる事のない木。
人々は逆説的な『忠臣蔵』という。
しかしそれは祖国愛の結晶であり、救国の貢献であった。
「人は何の為に生きるのか」
「人の生き方はどうあるべきか」
「命を使う(命を投げ出す)のとその反対の保身」
重層な人間ドラマはノーベル賞クラスと言った文芸評論家もいた。

国も人間も同じ一つの生命体である。
日本国も同じような目にあっている。
その日、昭和二十年八月十五日正午。粛(しゅく)として声もなく、沈黙が支配し、時間の静止した瞬間。

「身はいかなるとも、いくさとどめけり。
ただたふれゆく民をおもひて」
(昭和天皇終戦の御製4首の内の1首)
(陛下御自ら「絞首刑も厭(いと)わぬ、
朕(ちん)は国民を助けたい為に戦争をやめる。」
(意味の要約)
この御諚(ごじょう)によって、
上陸占領軍との間に一滴の血も流す事無く、
日本の百八十万陸軍兵士が粛然(しゅくぜんと)武装を解除した。
天皇以外成し得ぬみ業(わざ)。

日本を『侵略国』と烙印(らくいん)を押したのは
リットン報告書(満州事変時)であるが、
その報告書でも
「日本の苦心努力によって、満州の今日の発展がある事。
日本軍によってよく治安が保持されている」
と明記されているのである。
中国は満州に無関心であったとも報じている。

大東亜戦争の目的はアジアにおける植民地の開放である。
明治維新も、日本の植民地化の脅威から逃れる為であった。
日本は欧、米、露、白人勢力のアジアの侵略に対し、
初めてその開放に目覚め、
立ち上がりそれが契機となってアジアがそして、
アフリカ諸国が殖民地から続々と開放されたのは
歴史の真実である。
しかし、天皇陛下の御心も解らずに
勝手に聖戦といって、非人道的な事をした事例も
あったようではあるが。
(戦争は真の人間が顕れるための、
集団的自壊作用とも考えられる。
私は決して、戦争賛成者でもないし、
皆、それぞれの特性をもって魂の向上の過程上の
学校での同志であり、平和な心で今のその日を
送れる事を念願しているものであるが。)

先の大戦で我々民族の特性まで薙(な)ぎ倒され、
民主主義という美名のもとに、
家族制度や祖先の考えが希釈(きしゃく)され、
個人主義、利己主義、経済優先主義の、
物質、唯物の国になってしまったのか。
先人の桎梏(しっこく)開放への艱苦(かんく)と、
国家という心の外延(がいえん)を思う日と日である。

私(はうら)は現役を退いて十年になる。
しかしまだ、国関係の仕事をさせていただいている。
(CADによる制御装置の設計であるが。)
少し前であるが、仕事の依頼があった。
内容を見たら、1.5ヶ月程時間が必要であった。
しかし要求は2週間で提出せよとの事である。
先ず、神に祈り、問題点と提案を即座に提出し、
いくつかの重要点を取り上げ、項目別に整理し、
2週間の進捗計画を立て、ほぼ寝ないで
会社をやっている子供も巻き込んで、
2週間後に提出して、逆に発注先から驚かれた。
その後、暫くは声が出にくいほどであった。
国関係の仕事は、いのちがけの覚悟が必要である。

(画像は良い物がなく、申し訳ありません。
雰囲気だけでも味わえたらと思います。)

ありがとうございます。
















はうらひとひら様  (67726)
日時:2024年10月06日 (日) 14時08分
名前:志恩

■:はうら様の 体験的なお話より




82歳で亡くなられた平幹二郎が主演を務めた
昭和45(1970)年1月から毎週日曜日の午後8時に放映された
NHK大河ドラマ「樅木は残った」(山本周五郎原作)は、
当時、私も亡き夫とともに楽しみに観ていたドラマでした。

相手役に若い頃の吉永小百合と栗原小巻も出ていましたね。
主人公の原田甲斐役の平が
(これも既に他界された佐藤慶が演じる)伊達兵部と対峙した
場面の静かな緊張感。
平の徹底した自己犠牲の精神と言動。
田村正和や里見浩太朗のバージョンも存在するとネットに
書いてありましたが、
私にとっての「樅の木は残った」は、やはり平幹二郎の
「樅木は残った」です。

(Amazonコムのプライムビデオで総集編、2話が、今、無料で
観れます。)

当時、私はこのドラマの影響を受けて、うちの庭に、樅木の苗木を
1本、植樹したほどでした。
(その樹は、あまりにも大きくなりすぎたので切ってしまいましたが)

このお話を通じて、貴重な体験談を書いてくださいまして、
誠にありがとうございました。

はうらひとひら様 (67834)
日時:2024年10月11日 (金) 11時51分
名前:志恩

令和6(2024)年10月号「第51号」
『実相ひかり誌友会』魂の交流文、
ひかりのお便りを、私にまでお送りくださいまして、
誠にありがとうございます。
10月19日(土)13:30-15:30
テキストは、「真理」第1巻、第21ー26章

早速拝読させていただきました。
皆様にも読んでいただきたく思いまして、
スマホで写しまして、添付させていただきます。


はうらひとひら様 (67835)
日時:2024年10月11日 (金) 11時53分
名前:志恩




はうらひとひら様 (67836)
日時:2024年10月11日 (金) 11時54分
名前:志恩


『實相研鑽』第三集から (67896)
日時:2024年10月13日 (日) 12時47分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。

『實相研鑽』第三集からです。

【自己処罰が失敗をもたらす】

谷口雅春(編註:ご結語)

《 「物事が九分九厘まで行って
一分のところでこわれてしまうというのは、どういうわけか」
という問題でしたね。
いろいろの原因があると思うんですが、
要するに“一切万事我より出て我に還る”
“唯心所現”の世界でありますから、
すべて自分の心の内に、原因があるということであります。
そこでまず考えられるのは、自己処罰ということであります。
自己処罰の中には夫婦不調和、
あるいは祖先に対する感謝が足らん、
供養が足らんということも、
それを潜在意識が咎(とが)めていて
自己処罰の原因になっているわけであります。
それから中島さんの“一旗上げたい”と思って上京して来た、
というようなものの考え方は、
一種の利己主義であって、その利己主義が、
やはり自己処罰の原因になるわけです。
“一旗上げたい”というのは、
現在意識では自分が繁栄したい
という考えだけれども、その奥にはすべての人と
一緒に栄えてゆきたいという意識でなく、
自分だけ良くなって“一旗上げたい”
という利己的な心を持っている自分に対する
自己処罰が、そこに失敗としてあらわれて来る
ということになるわけだと思います。

それから九分九厘まで進んで完成しないのは、
その人がその仕事に、あるいはその位置につくことが
ふさわしくないということです。
それは、その仕事が自分にとって足りないことがあるか
あるいは、自分の方がその仕事にとって足りないことであるか、
ともかく、その仕事と自分とが、
天分というような上にしっかり坐っていないで、
坐るべからざるところに坐っているとか、
計画すべからざるところに計画しているというような場合には、
その位置から外してしまうために、
その仕事が自から失敗して来るということになります。

これも結局は、自己処罰と言えば自己処罰です。
その位置にいるべからざるものがおるので、
そこから本当の位置へ移すために、
そこを辷(すべ)らせなければならないというところの
“内部的な働き”“押し出す力”でそこをすべらせて、
ほかのことをするように考えつけさせるということは、
内部からの自己処罰であると見ることもできるけれども、
ある意味から言うと、摂理または神様の導きである
と言えるわけです。

それと、今までふさわしくないことを一生懸命やっておったのを、
それをやらんように、ほかの方へすべり出させるという
働きが起って来た。
だから、ある意味から言うと、川野さんのおっしゃったように、
自から壊(くだ)けて来るんだから自壊作用であって、
その次には本当のものが出て来ることになる。

次に安達さんのおっしゃったように、
物事がくだけてもそれを失敗だと思わないで、
次になお一層よいものが出て来るのであると感謝して拝み、
積極的な明るい考えをもって、今与えられたものを、
喜んで受けてやってゆくということが大切ですね。

仕事とか職業とかいうものは、
必ずしも収入や賃金が多いということが第一の
問題じゃないのであって、
“何か人の役に立たせていただく”ということが仕事です。
だから目の前にあらわれているどんな些細(ささい)な出来事でも、それを率直にありがたく受けて、
その仕事を通して人類のなんらかに役に立たせて
いただこうという決心を持ってやっていけば
次に本当の自分の天分にかなうすばらしい仕事の方へ
導かれてゆくようになるのです。

だからその本当のすばらしい仕事にゆくまでの
踏石になるところの眼の前のものは、
あまりすばらしくないものでも、人のため世のためになることなら、ただでもやらさしていただきますというようにして、
一生懸命にやって行っておられたならば、
陰徳(いんとく)を積むということになって、
天の倉に貯蓄(たから)が積まれ、必要なときに、
それが形に化してあらわれて来るということになると
思うのであります。

そういうわけで、失敗は失敗でないのであって、
それは、内部からの(ある意味からいうと自己処罰だけれども)
神様の導きであり、愛の摂理であるというわけであります。
グレン・クラーク教授は、
“病気は神様からの電話である”
というような表現をしておられるが、
事業の上から言いましても、それが失敗するということは、
どこか自分の心の持方に、間違いの所があるときに、
「これはお前の天分じゃないことをやっているよ」という
“電話”が、自然と失敗という形をもってあらわれて
来ることになると思うのであります。
だからその失敗に対して、「ありがとうございます」と、
むしろ感謝して、新しい道へ進ませていただけることを
ありがたく思って、最後に森田さんがおっしゃったように、
今まで本当に「ありがとうございます」
と感謝したことがあったろうか、
ということに気がつくことが必要なわけです。
それで、本当に自分が、こういう心境になったらいいんだ
という方へ気がついたときに初めて、
その人がその人の歩むべき本当の道にのる。

本当の道にのれば、これはもう坦々とした大道をゆくように、
繁栄成功の道を進んでゆくより仕方がない。
ということになるわけなのであります。
むろん、神様の正しい導きを受けるためには、
悲観的な、失敗を呼び寄せるような類似の考えをすて、
明るい考えになって、
神想観を常に励むということが必要だと思います。
これで皆さんのおっしゃったことを
一つにまとめたのであります。
ありがとうございます。(拍手)》
(『實相研鑽』第三集 91〜95頁)

■: 体験的な

今回も信仰体験でない事をお詫びいたします。
大変申し訳ございません。

三回目の職場は30歳の時で、千代田区神田のその職場は、
T自動車関連の油圧・空圧機器関連の筆頭商社であったが、
技術部と工場もあって、省力化装置なども開発していた。
その技術部長がSさんであった。
私はこのS部長に多くの事を学んだ。
『システムとは何か。自動化、省力化は
高度の職人の技術業(わざ)を分析し、機械に置き換える事。
出来ないと言うな。どうしたら出来るかを考えて、
挑戦することが技術屋である等等』

そして困難とされた動トルク制御装置を
この部長を中心にして開発出来
(部長は機械設計、私は電気制御設計)
納入先の国内最大の建機メーカK社の現場の方々から、
涙ながらに感謝された。
死ぬ程の努力が報われた瞬間を味わった。
そのS部長の部下の工場の管理課長が、
不正経理をし、着服が露見した。
(S部長は工場長も兼務していた。)
S部長は上役(社長、専務)に対して、いつも正論を言い、
煙(けむ)たがられていたが、
この事を機にして、S部長もその着服に
加担しているのではないかと、
S部長追い出しの為の尋問紛(まが)いの行為が
会社側から数か月も続き、S部長はついに精神的に追い詰められ、
技術部の存続を条件に(我々部員の事を思って護ろうと)
身を退(ひ)いた。
それから程なくして、六名の部員が集まり、
この部長を中心にして会社を興した。

勝ち目など考えなかった。
ただ義を示したかった。
誰も社長職に尻込みしたので、私が就(つ)いた。
私は全蓄財と全時間と全能力を傾注して、
この新会社の運営にあたった。
世間は7人のドン・キホーテと言った。
2〜3ヶ月すればすぐ潰れるだろうとも。
私は営業と資金繰りと電気設計と、
装置納入後の現地調整とを担(にな)った。
数年後、7人の侍と言われるようになっていた。
社員が7人から15人に増えたが、
相変わらず電気担当は自分一人で、他は機械担当であった。
仕事は困難な仕事ばかりだった。
自動制御装置が殆(ほとん)どであった。

設立6年目、ほぼ仕事に目途(めど)がついたのと、
いろいろな面で限界を感じていたので、
社長をSさんに譲った。
自分は一兵士としてこの会社を支えて行こうと思った。
そして結婚もした。
少しは落ち着きたかった。
しかしより困難な仕事を手掛け、何とか完成させたが、
納期が大幅に遅れ、資金回転がつかずに、
社長交代後一年足らずで、この戦いは終息した。
数億円の負債を残して。
社会に多大な迷惑をかける事になった。
駅のホームで、突き落とされるのでは・・・・
と前列に立てない恐怖が暫(しばら)くあった。
自分の負債分の分割返済等の環境を整えて、
中野の職場に就いたのは、37歳の秋、
倒産から半年程経(た)っていた。

上記の尊師のお言葉が、今拝読しても、
胸にズシリとくるものがあります。

ありがとうございます。


はうらひとひら様 (67908)
日時:2024年10月14日 (月) 03時02分
名前:志恩

>『實相研鑽』第三集から
【自己処罰が失敗をもたらす】

谷口雅春(編註:ご結語)

《 「物事が九分九厘まで行って
一分のところでこわれてしまうというのは、どういうわけか」<

志恩ー
上記についての谷口雅春先生のお言葉を謹写してくださり、
はうら様の貴重な体験談も書いてくださいまして、
ありがとうございます。

>略
三回目の職場は30歳の時で、千代田区神田のその職場は、
T自動車関連の油圧・空圧機器関連の筆頭商社であったが、
技術部と工場もあって、省力化装置なども開発していた。
その技術部長がSさんであった。
私はこのS部長に多くの事を学んだ。
『システムとは何か。自動化、省力化は
高度の職人の技術業(わざ)を分析し、機械に置き換える事。
出来ないと言うな。どうしたら出来るかを考えて、
挑戦することが技術屋である等等』
略<
高度なお仕事をされてこられたのですね。

話を
「物事が九分九厘まで行って
一分のところでこわれてしまうという時」
に戻しますが、
私の場合は、もしもベストを尽くして、そうなった場合は、
他にもっと良きことが用意されていると思って、
こころを励まして前向きに明るく生きよ、と
生長の家で教わって生きてまいりました。

生長の家に触れたからと言って、
人間はこの世に修行に来たのですから
自分に都合のいいことばかり起きるわけではありませんものね。
人生は、昔からいうように山あり谷ありで、
人生には、楽しいことばかりではなく、思ってもいなかった
理不尽なこと、
辛いことも起きますが
その都度、真理の本を読み返し、神想観をし、聖経読誦を
し、私も今日まで前向きに生きてくることができました。
ありがとうございます。

『歎異抄』の事 (68011)
日時:2024年10月20日 (日) 12時05分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。
『歎異抄』の事など。

《 【八月十八日 無恐怖の心境の日】

自己の内に神を観たものは恐怖を超える。
(『生命の實相』第11巻(編註:愛蔵版)

(歎異抄第三条)
ー善人なをもて往生(おうじょう)をとぐ、
いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、
いかにいはんや善人をやと。
この条、一旦そのいはれあるににたれども、
本願他力の意趣にそむけり。
そのゆへは、自力作善(さくぜん)のひとは、
ひとへに他力をたのむこゝろかけたるあひだ、
弥陀の本願にあらず、しかれども、自力のこゝろひるがへして、
他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

ー世の中には悪人さえ極楽往生を遂(と)げるのに、
況(いわ)んや善人が極楽行きは当然だと云う人があるが、
これは如何(いか)にも表面そのように思えるであろうけれども、
実際は反対である。
何故(なぜ)かと云うと普通善人と云うのは自力作善の人
ー即ち自分の力で今日は斯(こ)う云う善行を
励(はげ)みましたと云うように、
「わたしが善をしましたから救われる資格がある
と云う人がある。
ところが、その「わたし」なるものは本来無いのであって、
一切の善はただ大本体なる弥陀の御徳のあらわれである。
「わたしがした」などと云うものは世の中に一つもない。
それだのに「わたしがした」と云うのは
大の偽善者(ぎぜんしゃ)であるから、
却(かえ)って救われないのである。》
(『光明道中記』256頁)

■: 体験的な
今回もまた信仰体験ではなく、
また私の体験でもありません。
お詫びいたします。

初めての職場に1年4ヶ月在席した。
2年目の時に寮で O君と同室となった。
彼は経理課で私は設計課であり、
同室ながら仕事の形態から余り話す機会がなかったが、
私が退社する時期に、少し時間を取って話が出来た。
O君は経理屋なのに、以外な事を話した。
「今、歎異抄が気になっているんだが・・・」
「はあ・・・」
その話はそれだけであった。
暫くして、入院したとの話が聞こえてきた。
そして月日が流れ、年賀状の往復程度の付き合いになっていた。
或る時、O君から大学を辞めたので、
これからは「地域や浄土宗の文化財の仕事の合間は、
土いじりなどして暮らしながら、
そろそろ歴史の研究を纏めなければ・・・と思っている。」
との書状を戴いた。

その時、彼のその後の事が初めてわかったのである。
彼は、その後、仏教系の大学へ行き『歎異抄』を学び、
(この大学は、創立から140年の歴史があり、
大乗仏教の精神である「智慧と慈悲の実践」を
建学の理念としていた。)
その大学で講師をし、教授となり、文学部学部長となり、
文學博士だという。
そして「歴史と文化」に関する多数の著書もある。

その彼は、腎臓移植、胆嚢(たんのう)摘出、
胃壁の切除等を経験している。
「以外と丈夫な身体らしく・・・しばらく生きていられそうです。
率直にありがたいと思っています。」とある。

『人間は使命のある間は生かされている。』
『人間は自分の思った通りになれる』
『人間は肉体ではない』
という言葉が思い浮かびました。

ありがとうございます。



はうらひとひら様 (68017)
日時:2024年10月21日 (月) 18時29分
名前:志恩

10月19日(土)開催の
『ZOOM実相ひかり誌友会』メモを メールにて
お送りくださいまして、誠にありがとうございました。
大変素晴らしい内容でしたので、またトキ掲示板へ
参加者の皆様のお名前をABCDEFGに変えて掲載させて
いただきますこと、お許しくださいませ。
ーーーーーーーーーーーーーー

(文責 はうらひとひら)
日時:令和6年10月19日 午後1時半より約2時間

(出席者)
・ はうらひとひら・A

(メール等にての参加)
・B・C・D・E・F・G

: A
『日本舞踊発表会』から約一年が経とうとしていますが、その時の経験が、大変役立っていて、生活の規範にもなっています。(当日までの準備や修練が宝ものとなっています。)今月は東北出張が長かったので、お墓参りが3回も出来ました。また違う方角からの『岩手山』も見ることが出来ました。黄金色のイチョウ、化粧したドウダンツツジ、またお稽古場を飾る木々、花々の剪定もする事ができ、自然の生命を堪能できました。『ひかりのお便り』の『無門関』もその奥にある谷口先生の解釈が、生活に役立ち大変勉強になります。
下記真理を楽しく学ばせていただきました。(テキスト「真理』第1巻)
〇 実相と現象との関係
【眼に見えないでも「ある」ものはある】《神さまは眼に見えないけれども、無いのではありません。ガスでも蒸気でも電気でも眼に見えないけれども、皆さんは「ある」ことを知っているでしょう。ガスは眼に見えないけれども、それを燃やすとお湯がわくでしょう。蒸気も眼に見えないけれども、その力によって汽車が走るのです。電気も眼に見えないけれども、それが或る針金を通ると、電熱になったり、電燈になったりいたします。その眼に見える相(すがた)は、眼に見えないもののあらわれに過ぎないのであります。すべて形あるものは、その中にある形のないものの働きによって、眼に見えるようにあらわれているのであります。そして形あるものは、常に変わるのであります。すべてのものは変りつつあります。これを、お釈迦さまは、すべてのものは無常だと言われました。》(新版『真理』第1巻 251.252頁)
【吾々の生命(いのち)は常に身体を新しく造っている】皆さんにも「生命(いのち)」がありますが、植物にも、動物にも「生命」があります。近頃は鉱物にさえ「生命」があると言うことがわかってまいりました。あらゆるものは「生命」があり生きているのです。そのすべての「生命」の大元を「大生命」と言うのです。「大生命」を「神」とも言います。その大生命が心で想う力、すなわち「想(おも)い」の力、コトバの力ですべてのものを造られたのです。・・・・・大生命即ち神様は間断なく新しく元気に肉体を造って下さっているのでありますが、吾々に宿っている生命は大生命に対して小生命と言いますが、吾々には自由がゆるされているので、休みたい人には休めるように病気を造ることさえ許されているのです。また、老人になって、若い人から同情されたい人は、それも許されて老人にもなれるのです。みんな自分の自由なのです。》(新版『真理』第1巻 253.254頁)

【神様のおつくりになった完全な世界を現す現像液は想念と言葉である】《人間は神様の創造(つくり)の御業(みわざ)が、現象世界に映し出される役目を受け持っているのであります。写真ならば、謂(い)わば現像の役目をするのであります。・・・・この眼に見えない実相世界は神様の善にして全能なる力でおつくりになったのですから、すべて善いのであります。そこで、この実相世界に既にある相(すがた)を現象世界にあらわして来るのが人間の役目でありまして、それを現象世界にあらわすための現像液が、人間の「想(おも)い」と「言葉」とであります。》(新版『真理』第1巻 256.257頁)

【『現象世界と実相世界』】《 ちょっと考えますと、この世界は常住(じょうじゅう)であるような気がするのですけれども、やっぱり宇宙の業(ごう)すなわち、念の波によって支えられ、波であるから循環的波動を連続的に起こすのであります。だからいったん生成された現象宇宙はやがて、転変地変によって滅び、またさらに生成しては滅び、滅んでは生成し、今の世界は宇宙創始以来何回目の生成であるのか分からないくらいであります。そのたびごとに、その壊滅する業の流転の世界の因縁を超越させるための導師が世に出現せられる。それが地上に法を説かれる仏なのであります。因縁によって生成されたこの現象世界が、劫(こう)つきて滅びようとも、自分の生命の本地(ほんじ)である「実相の世界」は滅びることなく、常に永遠に有(あ)りとおしであります。われわれは今、このまま、有りとおしの世界にいるのであります。われわれは、今この現象世界に住んでいるようでありますけれども、本当は、このまま実相世界に住んでいる。現象世界は本来無い世界でありますから、アルように見えても無い。現象世界が無いとすれば、自分の住んでいる世界は実相世界よりほかはない。現象世界に住んでいるように見えたまま実相世界に住んでいるのです。娑婆(しゃば)にいるようでそのまま寂光土(じゃっこうど)にいるのです。娑婆本来無いから、娑婆にいながら寂光土にいるのです。この実相を知った時にわれわれは因縁を超越して因縁に縛(しば)られない、因縁に捉(とら)われることなき自由自在の世界に住むことができるのであります。・・・・しかしわれわれが本当に実相を知って因縁を超越した時には、地震がありながらも自分が地震に傷つかない状態になるのです。生長の家の信徒が自動車に轢(ひ)かれても、微傷(びしょう)だも負(お)わないというのはすでに因縁を超越した証拠であります。現象世界の重力の法則によれば自動車に轢かれたらつぶれてしまうか、負傷するのがあたりまえのことでありましょう。その重力の法則が因縁の法則であります。その因縁をまったく超越した時には、自動車に轢かれても傷つかない。憂苦(ゆうく)満つる娑婆世界にいながらも、寂光土にいるような状態が現れ出てくるのであります。なぜならわが環境はわが心の影、三界(さんがい)は唯心(ゆいしん)の所現(しょげん)であるからであります。》(『生命の實相』頭注版 第21巻 103.104頁)
【宗教の目的】《 いったい宗教の目的は何であるかと言えば業(ごう)を破壊するということにあるのです。業を破壊し、因縁を超越し、業に支配されない自由な世界に人間を解放することこそ宗教の救いの意義があるのであります。・・・・生きた宗教は業を直截(ちょくせつ)的に破壊できる、そしてその証拠として実生活の上に業障(ごっしょう)が消滅し現実世界が光明化しいっさいの不幸苦悩が消し去られるのであります。だから、われわれが『生長の家』を読んで真理を知り、病の癒(い)えるのは、「この最初の夢が墔破(さいは)せらるるが故」なのであります。病を直接治(なお)すとは書いていない。最初の夢すなわち「無明(むみょう)」を墔破するから、その副作用として病気が癒えるのであります。》(『生命の實相』頭注版 第21巻 194.195頁)

【真象と偽象】《 ところでこの「現象」という用語について注意すべきことは、生長の家では一方に「現象無し」という標語があるのであります。病気をしておっても「現象なし」と言ってそれを心で否定します。それなのに「神の心動きいでてコトバとなれば一切の現象展開して萬物成る」と書かれているのは、一体どういうわけであるかと疑問を起す人もあろうと思いますが、「現象」のうちには、“真象”と“偽象”とがありまして、“真象”とは実在の真の象(かたち)が現象化したもので
これは円満完全であってどこにも欠陥がないのです。それから“偽象”とは偽(にせ)の象(かたち)ですね。偽とは“人”扁(にんべん)に“為す”という字であります。神様がお拵(こしら)えになりましたところの、神様の心動き出でたコトバとなって展開しているところの現象界は「真象の世界」「本当に實在する世界」であります。これに反して、偽象の偽は人扁に為すという字が書かれているように、人間が人為的にわたくしの計(はから)い心によって、神様の御心と違うことを人間が心に想念して、それが象(かたち)にあらわれたのが即ち偽象であります。・・・・物質界又は肉体の健全な姿は、実相世界の真象が誤訳なく翻訳されて完全に時間・空間面に物質化して映出された訳でありまして、病気・不幸・災難の如きは、「人間の心」が実相世界の真象が時間空間の映写幕(スクリーン)にうつされる途中で、誤訳(迷い)が入って歪(ゆが)んであらわれている結果であります。》(『新講 甘露の法雨解釈』 100.101頁)
【神癒について】《 相手の実相の完全さを本当に私たちが“祈る人”になってみつめるとき、完全なる相手の體(たい)が現象界に映し出されて、瞬時に癒えることもあれば、実相の完全さが徐々に映し出されて、日増しに健康が回復する。その回復の遅速は、病者本人の意識が、その真理をどの程度に受け入れるかによって、定まるのである。そして神癒は感謝するところに常にアルのである。大体毎日吾々の肉体に新陳代謝が行われていることが神癒が行われていることにほかならない。》(『生長の家』誌 昭和39年4月号の法語)
〇 祈りの成就する原理
【人の心は「宇宙の心」の一部分である】《あなたの心や私たちの心は「宇宙の心」の個人的表現(あらわれ)であります。吾々が考え、祈り、計画を立て、その他如何なる方面に心を用いても、我々は吾々の「根元(もと)の心」即ち神の心と同じ「心」を用いているのであります。これが祈りの原理(もののよって来るもとになる道理)であり、祈りにかぎらず其の他性質の如何(いかん)を問わず、すべての精神的行為(おこない)の原理であります。》(新版『真理』第1巻 267頁)

【神は愛憎によって動かされない】《 個人のすべての心的行為(こころでおもうこと)は或る意味に於いて祈りであります。何故なら、貴方の心が「思想」又は「念願」と云うものを強く念じる時は、祈りの原理がそれに反応するからであります。すべての科学上及び工学上の成果はこの種の祈りによって得た結果であります。人の求めが正しければ、即ち祈りの原理に合致していれば神は何人(なんぴと)が如何なるものを求めても決して拒絶しないで、テレビジョンで放送された電波は必ず受像機に姿となってあらわれるようなものです。言い換えれば神は信じて強く念ずるものを何によらず与え給うのであります。不安・恐怖を心に念じますと、それも祈りとなりまして、自分の生命を全面的に傷(きずつけ)け、破壊し、地獄を現出(げんしゅつ)することになるのでありまして、法則として偏在(へんざい)する神は何によらず、強く念ずるものを与え給うのであります。》(新版『真理』第1巻 270頁
【祈りの功徳(くどく)】
《では、祈らないでも好(よ)いではないかという方がありましょう。「祈り」とは決して「実相世界(すでになれるせかい)」を変化するものではないのであります。これを写真の撮影にたとえますと、現象世界へ「実相世界」の影を映(うつ)すために、レンズの方向転換を行ってピントを合わすーーいわばこれが祈りであります。祈っても自分の祈りが現象界に実現しないのは、光線が薄かったりピントがピッタリ合わない、すなわち焦点がピッタリ合わないからであります。写真によい具合に物の姿が映らないのは、実相世界にそれが与えられていないからではない。悟りの光線が薄かったり、心が実相世界と焦点が合わぬためでありますから、悟りの光線を明るくして、焦点をピッタリ合わすようにするならば、その欲する事物が外界にあらわれて来るのであります。悟りの光線を明るくするとは、すでに実相世界にてすべての善きものが与えられているという「実(じつ)」を知ること、焦点をあわすとは、実相世界から投影する光線を適当に集中するために、信念を強くすることであります。》(『生命の實相』頭注版 第6巻 4.5頁)

《完全なるわれと家庭と世界の実相はすでにあるーー祈っても祈らなくても、それはすでに完全な状態にあるのでありますけれども、端坐(たんざ)して実相を見るようにすれば、それが現象界へ顕現(けんげん)することの妨(さまた)げになっていた「包み」が消除(しょうじょ)して、現象界が浄(きよ)まって来るのであります。端坐して実相を観ずる祈りはすなわち神想観でありましてこれは「実相を観ずる歌」を静かに坐して繰り返し念ずるのが好適の方法であります。仏教では実相を観ずれば、衆罪(すべてのつみ)が霜露(そうろ)の太陽の光に消ゆるがごとく消えるということが、「観普賢菩薩行法経(かんふげんぼさつぎょうほうきょう)に書いてあるのでありますが、キリスト教では、「マタイ伝」第六章に、この実相を観ずる密室の祈りすなわち、「思念の祈り」の仕方が書いてあり、それは「実相を観ずる歌」と大略同様であります。》(『生命の實相』頭注版 第6巻 39頁)

【なぜ、神想観または祈りが必要か】《神は普遍的存在であり給い、今ここに常にましますのであり、神を祈りによって喚(よ)ばなくとも、神は常にあなたの内にある。すなわち「神の国は汝の内に在り」である。神はあなたの内にあり、外にあり、上にあり、下にあり、あなたを包んで一切所に遍満(へんまん)したまうけれども、その導きを受けるためには、神は霊であるから、われらは神の霊波に波長をあわせなければならないのである。その波長を合わせる方法が、祈りであり、神想観なのである。新しき計画をする場合、新しい制作原稿を書く場合、事物の移り変わりごとに“祈り”によって神に波長を合わせるようにしなさい。》(『如意自在の生活365章 204頁)
【真実の願いをテストする四つの基準】《それが本当に実相の世界に於いて私のものとして既に与えられている資格のあるものであるかの検討。
1.私は真にそれを欲しているか、又真にそれが必要であるか。2.その願いが成就したときに、自分または他の人の魂の向上に役立つか。かえって魂の向上に邪魔になるか。3.その願いが成就することによって他の人に損害又は迷惑をかけることにならないか。4.その願いが成就することが、家庭、社会、国家、人類等に本当に役に立つか。》(《實相と現象』259.260頁要約)
【究極の神癒】
《 唯(ただ)「信じ」「観(み)る」のである。み業(わざ)は神が為(な)したまうのである。》(『神癒への道』106頁 要約)(『詳説 神想観』217頁 要約)
〇 病気不幸は斯(こ)うして消える
【目的とする現象のみに心を集中してはならない】《このような心の傾向を悉(ことごと)く捨て切っても、尚(なお)、祈りが成就しませんでしたら、あなたは、祈り求める現象(物質の姿)にのみ心を集注(しゅうちゅう)しているのではありませんか。そう云(い)う現象利益(りやく)を求める心は、一種の物質主義であり、利己心でありますから、その物質主義及び利己心が神の波長に合わぬのだとも言えるのであります。「人間の力の最後の限界(かぎり。ぎりぎりの所)に神があらわれる」と申しますが、それは「人間的な物質的手段及び願望(がんもう)を使い果たして無我(「が」がなくなる)全托(まかせきり)の心境」になった時のことであります。その時にこそ、吾々のレンズが巣透(すどお)しになってしまって神があらわれるのであります。》(新版『真理』第1巻 313頁)

【実相を観ずれば病気の消える理由】《その人の意識の中に這入(はい)って来る存在はすべて、その人の住む宇宙ーーその人の意識の展開せる宇宙ーーの一部分であるのである。ある講師(A)が、ある人(B)から病気を治してほしいと頼まれるとするならば、そのある人(B)は講師(A)の心の中にある存在であるのである。Bは個性をもって、講師Aとは別個の存在者として一応見えるのであるけれども、Bはすでに、「治してほしい」と講師Aに対して希望する限りにおいて、「治してほしい」と希望する部分は講師Aの心の中に入ったのである。従って 講師Aが信ずる通りにBはなるのである。講師Aが「これはなかなか重態であるから治らない」
と感ずるならば、Bはその通り治らないのである。講師Aが「すでにBは健全である。神の子で病気はない」
と本当に信ずればその通りになるのである。それは一見、「治す」かのごとく見えるけれども「治した」のではい。「病気はない」ところの実相を観じたがために、“本来ない病気”が姿を消したのであって、実相の完全な姿があらわれたのである。》(『如意自在の生活365章 134.135頁)

【本当に真理を悟れば問題はすぐに解決する】《問題が起こって悩んでいる人に個人指導を求められたりするーーその問題が“病気”であろうが、“経済難”であろうが、何か他の不幸な災厄(さいやく)であろうがーーそれは同じことである。「汝は真理を知らざるべからず、真理は汝を自由ならしめん」とわたしたちはイエスと同じことを言うのである。すべての困難も障害も、神はそんなものを造らないから、本来の意味において、そんなものはないのである。このことを知る事が真理を知ることである。この真理を本当に知ったとき解決できない問題はないのである。》(『如意自在の生活365章 297.298頁)

メール等にて参加の皆様
■: G(メールにて)
「ひかりのお便り」10月号と『靜思集』の新抜粋が4日に届きました。毎月毎月有難うございます。誌友会テキストの告知が、『真理』第1巻第二十一〜二十六章となっておりますので、その読後感想等を次のように投稿させていただきます。    @『真理』入門篇第21〜26章を拝読して 第二十二章 p271 イエスは魔術師ではなく、科学者であって、祈りの科学を知らぬ者が為し得なかったことを心の法則を応用して成就したのであります。若し我々が聖書の伝える記録を真実だとするならば、イエスは懇願などは決してしなかったのであります=@−祈りの本質のご説明に当たり、聖書に記録されている限りでは祈らなかったイエス様の事績を参照すべしとのご指摘は、意表をつかれた感じがいたします。
 第二十三章 p285 高き目標を掲げよ、而して必ずそれは実現すると信ぜよ。しかし、実際歩むときは今眼前にある一歩を忠実に歩めよ。=@−はしがきの、易しい言葉で書き得るかの試み≠フ好例であると感じます。
 第二十五章 p315 常に間断なく祈ると云うことは現象でのご利益を見詰めて感謝すより以上に神そのものの完全さを心に描き、神の創造り給うた実相の世界の罪なく、病なき、円満完全なる世界のみを心に描いて、それのみを有難いと感謝するようにすれば好いのであります=@−神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます(マタイ6:33)のことを仰っているのですね。
A『善と福との実現』(谷口雅春法話集6を底本とする新版)を自習しました。
第二章 罪の消え方に就いて −第二の『聖道へ』ともいうべき聖典です。完璧な論理で貫かれています。第六章 臨終の大事に就いて−就寝前に読みましたところ、認知症患者の凄まじい言動の転載が思い出されて寝付けなくなりました。それで、『續々甘露の法雨』を誦して安眠しました。第七章 四無量心の展開−大聖師ご自身および身辺の方々に関して展開した摂理のご説明に、胸が一杯になりました。本聖典が重版留保にならず新版とされたことにお覚悟を感じます。第九章 「牝鹿の脚」の話−短編小説を読まされた感じがしました。P211の『彼はわが脚を牝鹿の脚の如くならしめ…』に註1が付され、p189に(Hind’s Feet)との記述があります。旧約聖書のサムエル記下を、Diglot Bible(日本聖書協会2019)で読んでみました。邦訳は、「神はわたしの足を鹿のように速くし、高い所に立たせ…」また英文は「the feet of a deer」となっており、牝(雌)という表記が見当たりません。仏典ではありえないことですが、キリスト教の聖書は時折改訂版を出しますで、このようなことが起きてしまいます。大聖師の聖典に対して注記を施す必要が生じてきますが、これは、大聖師の著作権相続人に相応しいお仕事のように思っております。B大谷翔平選手の愛読書について
(申し訳ありませんが、容量等の関係で省略させていただきます。ご希望の方は別途送付いたします。)
・ はうらいつも研鑽のご姿勢に頭をたれます。ご投稿は、なるべく全文をメモに、と心がけているのですが、多くの方が、スマホで観られているものですから、一部省略させていただく事がありますので、大変申し訳ございませんが、お許しください。

■: F(メールにて)

今月の光のお便りを拝読しております。
ここに書かれているように、暮らさなくちゃ、神様に振り向く時間を持てるように。と思います。
神様の愛、に感謝です。
いつもありがとうございます。

・ はうらやっと秋めいてまいりました。お元気でしょうか。どのような時でも、神を思いそれに波長を合わせるようにしていると、必ず心の平安、よい考えが与えられると思います。今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。

■: C(書簡にて)

猛暑のなかでも変わりなく、谷口先生の真理を発信続けられていて、有り難く思っております。
・ はうら優しいお心遣いに感謝いたします。どうぞお元気で。

■: E(メールにて)

いつもメールにて真理の言葉をお送りくださりありがとうございます。
小生すこしでもマシな字が書けるようになりたいと公文書写教室に通っているのですが、このたび、その会報誌『なかま』にインタビュー記事が掲載されました。
恐縮ですが添付送信させて頂いた次第です。
『なかま』は年2回春と秋に発行され、毎回、全国の6つの教室の生徒さんの記事が出ます。
お読みいただけると幸いです。

・ はうら
この度はおめでとうございます。美しい書ですね。八年ですか。何事も継続されることは、素晴らしいことだと思います。今後ともご指導の程、お願い申しあげます。ありがとうございます。

■: D(メールにて)

誌友会の連絡ありがとうございます。
光のお便りもありがとうございました。
今月も仕事のためお休みさせて頂きます。 

如何なる見せかけの障害も砥石ややすりであるとのお言葉はまさに最近実感させて頂いておりました。
自分を高め上げてくださる神様の慈悲に、気付かせて下さった方々に深く感謝できるような人でありたいと思っています。
真理がまた深まり全てが有難いことばかりです。

・ はうら
夜半の素敵なコメントありがとうございました。まさに生きた哲学の実践に頭をたれます。お仕事頑張ってください。ありがとうございます。

■: B(メールにて)

さて、今月の「ひかりのお便り」の一面には
「實相においてはすべてが完全に調和している。實相のみ本当に独在する」との御言葉が書かれています。谷口雅春先生もこの「實相のみ本当に独在する」という心境に到られる前は、想像を絶するような苦しみに遭われたご様子が自伝篇に書かれていると拝察します。それは「肉体および物質の否定」と題する章の谷口雅春先生の夢の中の神様と青年の対話として書かれていますが、「青年」とは、谷口先生その人であり、霊魂の進化としての肉体・精神の苦しみという難題をひとつひとつ克服して行かれているように書かれているものの、「物質はない!」「一切現象無し。なんじの肉体も無し。」「心もない!」との啓示に“実相の大地に降り”られたご様子がハッキリと示されています。お悟りの様子をハッキリ書かれた方は、谷口雅春先生を於いて他に無いと思います。谷口雅春先が見られたこの実相の大地の様子を見たいというのがこの尊い御教えに触れてからの念願です。国内では選挙戦たけなわですが、この谷口雅春先生の光明思想を正しく受け継ぎ日本を導いてくれる政治家を求めてやみません。谷口雅春先生、谷口輝子先生の高き神界からのお導きを切に願ってやみません。

・ はうら
実相と現象について、本当に峻別されたご教示に感謝いたします。お疲れの処、いつも大切なお気づきを示してくださり、励みとなります。時節柄、どうぞご自愛くださり、お仕事にお励みの程祈念いたします。ありがとうございます。
今回も多くの感動がありました事に感謝いたします。
感謝 再拝 はうらひとひら 拝


志恩ー
『ZOOM実相ひかり誌友会』メモと、ございますが、毎月第3土曜日の
午後の2時間に渡る、ZOOM誌友会での皆様との会話をこのように文章化され
読めるようにしてくださるはうら様のご努力は、並大抵なことではないと
いつもいつも感嘆してしまいます。

私も含めて参加しなかったものたちも、大変勉強されていただく機会を与えて
くださる はうら様の深いご愛念に心から感謝申し上げます。
ほんとうに、毎回、ありがとうございます。合掌

はうらひとひら様 (68018)
日時:2024年10月21日 (月) 22時00分
名前:志恩

>"『歎異抄』の事 "

《 【八月十八日 無恐怖の心境の日】

自己の内に神を観たものは恐怖を超える。
(『生命の實相』第11巻(編註:愛蔵版)

(歎異抄第三条)
ー世の中には悪人さえ極楽往生を遂(と)げるのに、
況(いわ)んや善人が極楽行きは当然だと云う人があるが、
これは如何(いか)にも表面そのように思えるであろうけれども、
実際は反対である。


■: 体験的な
今回もまた信仰体験ではなく、
また私の体験でもありません。
お詫びいたします。

初めての職場に1年4ヶ月在席した。
2年目の時に寮で O君と同室となった。
彼は経理課で私は設計課であり、
同室ながら仕事の形態から余り話す機会がなかったが、
私が退社する時期に、少し時間を取って話が出来た。
O君は経理屋なのに、以外な事を話した。
「今、歎異抄が気になっているんだが・・・」
「はあ・・・」
その話はそれだけであった。

後略


志恩ー
はうら様の体験談は、全部、再掲したくなる衝動に
かられるくらい素晴らしい内容ですが、そこは我慢しまして
再掲はいたしませんが、是非、はうら様が書かれた
ご文章をお読みいただきたいと思います。

『全托』 (68092)
日時:2024年10月27日 (日) 06時06分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。
『全托』についてです。

☆: 真理

《 【七月十五日の法語 
 神は遍満(へんまん)し給う」】

《神の生命は海の水が海にみつるように
宇宙に満ちており、
吾々の自分でつくった心の城壁がくずれるとき、
滾々(こんこん)と流れ入るのである。
謙遜(けんそん)になれ、幼な児の心になれ、
我を捨てよと云うのも、
心の城壁を取去って神の愛と生命とを流れ入らしめんがためである。

「タオルを手拭(てぬぐい)かけに掛けるように、
私は私の生命(いのち)を神様にすっかりもたせかけさせました」
と云う心境になって胃癌(いがん)
の治った体験談をした人があった。
タオルは自分で空中にひっかかろうとはしない。
全托(ぜんたく)である。》
(『新版 光明法語【道の巻】 189頁)

☆: 真理

《【神に問題を全托すること】

祈るときには神にまかせよ。
自分の「我(が)」の考えを放棄(ほうき)して、
神が自由に何物をも拘束(こうそく)せられないで
働き得る機会を与えなければならない。
神は「扉(と)の外に来たりて」
われらが心の扉を開くのを待っていたまうのである。
神は我らに完全なる自由を与えていたまうのであるから、
人間自身が扉を開くことを好まない限りは、
神は強制的に扉の内に入りて我らを指導したまう
ことはないのである。
祈りは我らが神に対して扉をひらくことに当たるのである。
「神よ、我が問題に立入りてこれを解決したまえ」
と祈る時、我らはその問題について扉をひらいたのであり、
神は其(そ)の問題に招かれて立入り給うのである。
その時、神に真心(まごころ)から感謝の辞(ことば)を
のべなければならないし、
完全にその問題の処理を神にまで明け渡して
しまわなければならないのである。
時々、我見(がけん)を加えて神の処置を
修正しようと思ってはならない。》
(『新版 真理』第9巻 236.237頁)

■: 体験

祈りも、神への扉を開く事をも知らない者は、
『全托』なる言葉も、行動もなにも出来ない事になる。
どうするべきかである。

平成5年48歳の冷夏に、30分程、頭に異常な嫌悪感を覚え、
務め先の近くの、やぶ医者といわれる所へ行き、
頭でなくお腹を触診され、
お腹の異常な盛り上がりを知らされた。
数日放置していたら、その医師から電話があって、
物凄く叱られ、直ぐに大きな病院で検査し、
その病院が紹介したのが、都内有数の先端の癌専門病院だった。
自分は癌でもないし、なんでこんな所を紹介されたのか
不明であった。
その頃、家族は私の病状を医師から説明され、
「余命数ヶ月」との事で、兄弟の中には、
喪服を準備する者までいた事など、知る由もなかった。
腎臓を摘出する事になったが、医者に言わせると、
腎臓は2つあるので、1個摘出しても、
問題ないとの事だった。
何故剔出するかの説明は、なかった。
腎臓よりも数倍大きな塊が腎臓をぐるりと囲み、
それは何なのかは、取ってみなければわからないとの事だった。
手術の少し前、北海道にいる姉から
「遠くて見舞いに行けないので、祈願をした」という。
祈願で病気が治るなら、医者も病院もいらないではないかと、
反発する気持ちが強かった。

手術3日前、カーネギーの「道は開ける」という
本を読んでいた時である。
突然その本の見開きの一面に、ご文章とみ声と御顔が現れた。
「何も心配する事は無い。全ては任せなさい」
何だ、全ては任せればよいのか、すごく簡単だ、と思い、
そしてかってなかったような心の安らぎがあった。
それが「住吉大神」の化身であり、
神ご自身から全托せよと言っているのを、知る由もなかった。
全身麻酔から覚め手術室から出た所で、
居るはずの無い姉がいたが、それが光っていて、
キリストに見え、思わず両手をさし出した。

巨大な癌は自分から腐って死滅して取り出された。
次の日、細部に渡っての転移の検査が行われたが、
どこにも癌の転移はなかった。
手術は成功したかにみえた。
しかし、その後手術ミスが発覚して、
医者自ら「手術ミスがあった」と謝罪され、
日増しに出血量が増え、出血箇所がわからず、
手術4日目の土曜日に救急車で輸血用の血液を運んで、
緊急手術が行われた。
より困難で、場合によっては途中でそのまま閉じる事もあるとの、
家族への説明であった。

再手術は困難を極め、麻酔医がもう時間です、
終了してくださいと言った時に、
偶然出血箇所が見つかったという。
私は、全身麻酔されていて、状況はその時はわからなかったが、
再手術前、心に思った事があった。
「何も心配する事はない。すべては任せよ」という言葉であった。
だから使命がなかったら、
それはそれで、従容(しょうよう)として
死を受け入れようと思った。
恐れるものとて何もなかった。
心は平安だった。
そして生還させていただいた。

私と同じような状況の方が、隣室にいて、
退院直前癌だった事を知らされ、その衝撃で、
その日から容態が急変し、3日後に還らぬ人となった。
私も、退院直前に実は癌でと言われたが、
別に驚きもしなかった。
姉は数週間付き添ってくれ、お粥が取れるようにまでなったので、
帰るといって、帰り際に閑だったら読んでと言って
渡された一冊の本。
そこには「病気は本来ない」という衝撃的なコトバが載っていた。
生長の家との初めての出会いであった。

実は、あのやぶ医者に出会った時点で、
生長の家との出会いは、すでにあったと、
今は思っている。

神は24時間365日いつでも導いてくださる。
しかし、新陳代謝が神癒だと自覚出来る者はほぼ皆無である。
それを発見されたのが、谷口雅春先生であった。
神癒祈願は、純粋な聖経・真理の許で行なわれなければならない。
不純物が少しでも入りこんだら、
それが絶縁体となり、
神と波長・波動があわなくなる。
霊界からのご指導、ご援助も然(しか)りである。
人間智、人工的なものは一切排除されなければならない。

ありがとうございます。








はうらひとひら様 (68096)
日時:2024年10月27日 (日) 09時08分
名前:志恩

『全托』 について


☆: 真理

《 【七月十五日の法語 
 神は遍満(へんまん)し給う」】



「タオルを手拭(てぬぐい)かけに掛けるように、
私は私の生命(いのち)を神様にすっかりもたせかけさせました」
と云う心境になって胃癌(いがん)
の治った体験談をした人があった。
タオルは自分で空中にひっかかろうとはしない。
全托(ぜんたく)である。》
(『新版 光明法語【道の巻】 189頁)

☆: 真理

《【神に問題を全托すること】

祈るときには神にまかせよ。
自分の「我(が)」の考えを放棄(ほうき)して、
神が自由に何物をも拘束(こうそく)せられないで
働き得る機会を与えなければならない。

(『新版 真理』第9巻 236.237頁)

■:はうら様の 体験



平成5年48歳の冷夏に、30分程、頭に異常な嫌悪感を覚え、
務め先の近くの、やぶ医者といわれる所へ行き、
頭でなくお腹を触診され、
お腹の異常な盛り上がりを知らされた。
数日放置していたら、その医師から電話があって、
物凄く叱られ、直ぐに大きな病院で検査し、
その病院が紹介したのが、都内有数の先端の癌専門病院だった。
自分は癌でもないし、なんでこんな所を紹介されたのか
不明であった。
その頃、家族は私の病状を医師から説明され、
「余命数ヶ月」との事で、兄弟の中には、
喪服を準備する者までいた事など、知る由もなかった。
腎臓を摘出する事になったが、医者に言わせると、
腎臓は2つあるので、1個摘出しても、
問題ないとの事だった。
何故剔出するかの説明は、なかった。
腎臓よりも数倍大きな塊が腎臓をぐるりと囲み、
それは何なのかは、取ってみなければわからないとの事だった。
手術の少し前、北海道にいる姉から
「遠くて見舞いに行けないので、祈願をした」という。
祈願で病気が治るなら、医者も病院もいらないではないかと、
反発する気持ちが強かった。
手術3日前、カーネギーの「道は開ける」という
本を読んでいた時である。
突然その本の見開きの一面に、ご文章とみ声と御顔が現れた。
「何も心配する事は無い。全ては任せなさい」
何だ、全ては任せればよいのか、すごく簡単だ、と思い、
そしてかってなかったような心の安らぎがあった。
それが「住吉大神」の化身であり、
神ご自身から全托せよと言っているのを、知る由もなかった。
全身麻酔から覚め手術室から出た所で、
居るはずの無い姉がいたが、それが光っていて、
キリストに見え、思わず両手をさし出した。

巨大な癌は自分から腐って死滅して取り出された。
次の日、細部に渡っての転移の検査が行われたが、
どこにも癌の転移はなかった。
手術は成功したかにみえた。
しかし、その後手術ミスが発覚して、
医者自ら「手術ミスがあった」と謝罪され、
日増しに出血量が増え、出血箇所がわからず、
手術4日目の土曜日に救急車で輸血用の血液を運んで、
緊急手術が行われた。
より困難で、場合によっては途中でそのまま閉じる事もあるとの、
家族への説明であった。

再手術は困難を極め、麻酔医がもう時間です、
終了してくださいと言った時に、
偶然出血箇所が見つかったという。
私は、全身麻酔されていて、状況はその時はわからなかったが、
再手術前、心に思った事があった。
「何も心配する事はない。すべては任せよ」という言葉であった。
だから使命がなかったら、
それはそれで、従容(しょうよう)として
死を受け入れようと思った。
恐れるものとて何もなかった。
心は平安だった。
そして生還させていただいた。

私と同じような状況の方が、隣室にいて、
退院直前癌だった事を知らされ、その衝撃で、
その日から容態が急変し、3日後に還らぬ人となった。
私も、退院直前に実は癌でと言われたが、
別に驚きもしなかった。
姉は数週間付き添ってくれ、お粥が取れるようにまで
なったので、帰るといって、帰り際に閑だったら読んでと言って
渡された一冊の本。
そこには「病気は本来ない」という衝撃的なコトバが載っていた。
生長の家との初めての出会いであった。



神は24時間365日いつでも導いてくださる。
しかし、新陳代謝が神癒だと自覚出来る者はほぼ皆無である。
それを発見されたのが、谷口雅春先生であった。
神癒祈願は、純粋な聖経・真理の許で行なわれなければならない。
不純物が少しでも入りこんだら、
それが絶縁体となり、
神と波長・波動があわなくなる。
霊界からのご指導、ご援助も然(しか)りである。
人間智、人工的なものは一切排除されなければならない。<


志恩ー
はうら様は重い腎臓癌になられていたそうですが、
その癌が自ら腐って落ちていったという神癒の体験談を
お持ちのお方でいらっしゃいます。
それはいつのことだったかと言いますと、今から31年前
平成5年(1993年)、はうら様が48歳の時でいらしたそうで、
その後今日まで癌の再発もなく、お元気でお暮らしとのこと、
地方講師にまでなられていらして、大変素晴らしいお方で
いらっしゃいます。
私はいつも、はうら様に教えていただいております。
ほんとうにありがとうございます。



はうらひとひら様 (68194)
日時:2024年11月01日 (金) 14時54分
名前:志恩

令和6(2024)年11月号「第52号」
『実相ひかり誌友会』魂の交流文、
ひかりのお便りを、私にまでお送りくださいまして、
誠にありがとうございます。
11月16日(土)13:30-15:30
テキストは、「真理」第2巻、第1ー7章

早速拝読させていただきました。
皆様にも読んでいただきたく思いまして、
スマホで写しまして、添付させていただきます。





画面をマウスでクリックすると拡大します。

はうらひとひら様 (68195)
日時:2024年11月01日 (金) 14時58分
名前:志恩





画面をマウスでクリックすると拡大します。

はうらひとひら様 (68196)
日時:2024年11月01日 (金) 15時00分
名前:志恩


はうらひとひら様 (68197)
日時:2024年11月01日 (金) 15時32分
名前:志恩

ひかりのお便りに同封されて
細いレース糸でどなたか、はうら様宅の
誌友様があまれたのでしょう。
大変可愛らしい草鞋(わらじ)の御守りが
入っておりました。
そしてこのような印刷物も同封されておりました。

知人から『草鞋』二十足が届きました。
送り状に
「いつまでも
健康長寿を支える
自由自在の
丈夫な脚(あし)である事を
願って」 作らせていただきました。
財布、鞄、袋等身に付けて、足のお守りに、
ご希望の方に差し上げてください。とありました。
(よろしかったら、どうぞ。)
いつもありがとうございます。  はうら拝

志恩ー
私は最近、唯一、足が弱って参りましたので、
ご愛念、ありがたくいただきました。感謝です。
作って、はうら様宛に送られたお方、
私もありがたく頂戴いたしました。
たいせつにさせていただきます。
ありがとうございました。


その可愛らしい”草鞋のお守り”も写真に撮りました。
こちらです。
草履の長さ、2.5p
   幅  1.5p


『神癒』 (68244)
日時:2024年11月03日 (日) 06時57分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。
『神癒』についてです。

☆: 真理

《メタフィジカル・ヒーリングに於いては、
ヒーリングの祈りを行う人は、
癒(いや)されるべき人を、
患者として観(み)ないで、彼を、
神の心の中にある「完全人間」の理念の顕現と観るのである。
神想観中に彼を自分の心の中に相手の何処(どこ)にも
どんな病気も欠陥もない「完全人間」の理想を描き、
それを「信じ」且(か)つ「観(み)る」のである。
そして自己が心に描くとおりに、(神が「法則」の形に於いて)
その無限絶大の創価力によって、
それを現象界に具象化することを信ずるのである。
自分の念力が相手を治療するのであると考えて、
圧倒的な思念力を送り出そうなどと
力む心をもってはならないのである。
唯(ただ)「信じ」「観る」のである。
み業(わざ)は神が為(な)したまうのである。》
(『神癒への道』 106頁)

☆: 真理

【実相を観ずれば病気の消える理由】

《その人の意識の中に這入(はい)って来る存在はすべて、
その人の住む宇宙ーーその人の意識の展開せる宇宙ーー
の一部分であるのである。
ある講師(A)が、ある人(B)から
病気を治してほしいと頼まれるとするならば、
そのある人(B)は(A)の心の中にある存在であるのである。
Bは個性をもって、Aとは別個の存在者として
一応見えるのであるけれども、Bはすでに、
「治してほしい」とAに対して希望する限りにおいて、
「治してほしい」と希望する部分はAの心の中に入ったのである。
従って Aが信ずる通りにBはなるのである。
Aが「これはなかなか重態であるから治らない」
と感ずるならば、Bはその通り治らないのである。
Aが「すでにBは健全である。神の子で病気はない」
と本当に信ずればその通りになるのである。
それは一見、「治す」かのごとく見えるけれども
「治した」のではい。
「病気はない」ところの実相を観じたがために、
“本来ない病気”が姿を消したのであって、
実相の完全な姿があらわれたのである。》
(『如意自在の生活365章 134.135頁)

☆: 真理

《【想念を乗せて搬(はこ)ぶ霊的微小体】

自性((じしょう)(自分本来の性質)なきビールスで
電子顕微鏡にも見えない微小体が到る処に
無限に満ちていることは創造出来るのである。
これをヘンリー・フォードは霊的微小体と言っている。
それは単に病気に関係しているだけではなく、
分子の「帯電(たいでん)(電気をおびる)」現象のように
吾々の想念感情を乗せて、
欲するところへ搬(は)ぶところの微小なる「乗物」であり、
類似の想念に従ってそれは集団して、
或(あ)る時は一定の形の病変を起こし、
或る時は一定の形の環境や境遇を形づくらせるのである。
電子顕微鏡でそれが見えないからとて、
此(こ)の霊的微小体の存在を否定してはならないのである。
人間自身が此の霊的微小体の集合であり、
それが稍々(やや)大きく集って細胞となり、
それが全体の「知性」によって統一的に集団しているのが
人体であるのである。
「統一的知性」(全体を一つにまとめる心の働き)
の統制に服しないで治外法権的集団を形成しているのが
癌(がん)とか肉腫(にくしゅ)とかである。》
(『新版 真理』第9巻 188.189頁)

■: 体験

『24時間365日の個人相談の受付け』をやらせて頂いて、
10年になる。
顧みると神のご指導をいただいて、
神の栄光を表わすことが出来、大変身に余る名誉な事と思っている。そしてその結果は、8割方ほぼ一瞬にして完治とか、
改善とかされていて、神の栄光にただただ驚き
平伏し感謝いたしている。
そこで、ケースを3つ程ご紹介して、
皆様もぜひこの神の栄光を体得・体現されて
真理をもって人々を救済していただきたいと思った次第です。
(すでに実施されておられる方は、ご助言下さい)

・ケース 1

ある朝3時15分メールにて個人指導の依頼があった。
その方とは、数か月前に誌友会の出講先で
知りあったばかりであった。
日曜日だったので、そのメールを開いたのは、
朝8時10分。予定が詰まっていたので、
面談は3日後の午後にしていただいた。
相談内容は不明であり、
また対象者がどなたなのかも不明であったが、
ふと気になって、すぐに、
その方の『〇〇家先祖代々親族縁族一切の霊位(みたまい)』と
霊牌を作成させていただいた。
そして、仏檀に安置し、『實相』の小型の御額を安置した。
次に『招神歌』を唱え、
邪霊や低級霊から護っていただくこととした。
次いで聖経読誦であるが、その前に次のように申し上げた。

上記の霊牌に感謝をもって礼拝した後
「ただいまから生長の家の聖経『甘露の法雨』を
読誦させていただきます。
この聖経はあなたたちが先祖から伝承してこられた
み教えの宗教の真理を最も解り易く、
現代語で書かれたものでありますから、
心を集中してこの聖経を聴かれまして、
その真理を体得し、霊界におかれて、悟りを開かれまして、
佛陀(ぶっだ)の境涯になられますことを御願い申しあげます。」
そして感謝の気持ちにて、
聖経『甘露の法雨』を読誦させていただいた。
(ただ一度だけ)

3日後にその方と面談した時、相談はその方のご母堂であり、
メールをする少し前に2回大量の血を吐いたが、
私にメールしたら少し落ち着いてきたので、
救急車も呼ばず、次の日病院に行ったら、
すでに完治していたという。
(面談当日は、すでに相談内容は完結していたが、
折角なので、ご当人は未だ独身なので、
早く家庭をもたせていただいて、
母を安心させてあげたいとの事であった。
本日現在(11/3)未だ独身であり、私の心残りでもある。)

・ケース 2 

コロナ感染症による交流の自主規制が解除してすぐに、
ある誌友会会場主から、誌友さんの個人指導を依頼された。
すぐに承諾し、翌日出向いた先は、老人施設であった。
見覚えのある方が現れたが、車椅子の姿だった。
私は2度程出講していたので、
あの頃の矍鑠(かくしゃく)としていた姿を重ねあわせていた。
この方から、数年前に他界されたご主人の事で、
60年以上恨(うら)んでいることを、告げられた。
お話を全て静かに伺った。

少し祈った。(感謝という言葉が浮かんだ。)
そこで私は言った。
「辛(つら)かったですね。・・・しかし大丈夫ですよ。
ご主人に感謝してください。」
その方は、厳しい眼で「感謝ですか!」と言った。
何を言っているんだ。
この苦しみが分かっているのかという射るような言葉と
表情である。
私は言葉を続けた。
「そうです。貴方の魂の向上の為にわざわざ、
ご主人はそのような行動をして、
貴方に救いを求めてこられたのです。
本来救われ済みなのが真理であるのに、
本来無い『不完全な現象』でわざわざ現れたのは
何故だと思いますか。
現れ(現象)は『洗われたい、浄化されたい、
浄(きよ)められたい』と、
自(おの)ずから不完全な姿で現れて、
浄化(浄め)を求めているのです。
その不完全な状態を、敵対するものと観(み)ないで、
自分がそれを浄める事によって、
(魂の向上の為の課題として)
それに感謝出来た時、
相手(目に見える不完全な現象、環境、不調和な想念感情)
が浄められ、浄化されて消えていくのです。
そしてご自身も、魂の向上が出来るのです。
双方の魂が浄化され、高められるのです。
ここに「現象」に感謝する意味があります。
共に浄められ、共に向上出来るのです。
偽象(ぎしょう)が真象(しんしょう)に変わるのです。
そこに「現象」のありがたさがあるのです。
何故なら、人間はすでに救われ済みだからです。
現象が実相に振り向くのです。
『闇』は『光」と和解し得ないのです。
『闇』などなかったのです。
現れて、浄化されて感謝して消えていくのです。
ただありがたいだけの人生なんです。』

およそそのような事を話した。
ほぼ1時間半程経っていた。
「感謝・・・ですか」
此の方は苦しそうにしていた。
苦悶に満ちた表情だった。
蒼(あお)ざめていた。
暫くして、その顔にほんのりと赤みが射し、
そして輝くような容貌となった。
あの当時の矍鑠(かくしゃく)とした姿がそこにあった。
神癒が起ったのである。
「わかりました。感謝いたします。
今このようにこの立派な行き届いた施設にいられるのも、
主人のお蔭です。」
この方は、車椅子から スッと立ち上がり、
深々と頭(こうべ)を垂れて合掌した。

・ケース 3

ある誌友会に出講して、
およそ次のような話をした事がある。
「癌(がん)なども、恐れることはなにもないんですね。
何故なら、それは一時期不調和な感情になって、
そのような状態になったとしても、私達の身体は、
1秒間に15万個の赤血球が作られ、
たちまち新しい細胞に置き換わっているのです。
そして、その新しい血液は、
新しい想念感情を乗せて身体中を駆け巡るんですね。
ですから、過去にどんなことがあっても、
それを掴(つか)まないで、
すでに健康である、
すでに幸福である、
すでに願いは成就された、
ただありがたい、
と思っていれば、そのような状態に
身体が、環境が変貌(へんぼう)するのです。
甘露の法雨に
『想念(こころ)を変うることによって
よく汝らの健康と境遇とを変うること自在なり。』
とある通りです、と、私の体験を通して話をした。
その誌友会に、ある方が出席していて癌で入院していたが、
誌友会があるというので、
一時病床を抜けて出席されていたらしい。
その方は次の日が、癌の手術日であったが、
翌日手術の準備をして、病院に帰ったら、
病院側も何かを感じたらしく、検査したところ、
癌腫が消えていて何もしないで、
退院したという亊を後日聞いた。

霊界の諸霊のご援助や、
最強の聖経『甘露の法雨』の読誦によって、
神に波長があった時、神癒が起こる。
これは何方でも出来る事であるので
(講師である必要はまったくない)
是非ケース1〜3を参考にしていただいて、
それを応用していただき、
真理は既にご理解されておられるので、
救済を実践していただきたく、
切にお願いする次第です。
『信じ』『観る』だけでみ業は神がなさるのです。

(言い訳をする気はありませんが、
特にケース2については、
尊師はそんな教えはされていないとおっしゃる方がおられると思う。しかし、佛教で最初の説法『華厳経』と最後の説法『法華経』
の話をしたり、又は聖書の『創世記』と最後の『黙示録』
の話をして、だから人間は救われすみであり、
現象などはないのだという話をして、
60年もの間恨んでいた方を、浅学な私には救済する事が出来ない。
方便によってその方の魂にどう響かせるか、
の命がけの行為でもあった。
机上の空論ではなく、活きた話をしなければ、
『人間が治る』事は出来ないと思っている。)

皆様のご指導を賜りたいと思っている。
そして是非実践していただきたい。
切に切に御願いいたします。

ありがとうございます。


はうらひとひら様 (68247)
日時:2024年11月03日 (日) 18時20分
名前:志恩

【神癒】

■:(はうら様の)」 体験

『24時間365日の個人相談の受付け』をやらせて頂いて、
10年になる。
顧みると神のご指導をいただいて、
神の栄光を表わすことが出来、大変身に余る名誉な事と思っている。
そしてその結果は、8割方ほぼ一瞬にして完治とか、
改善とかされていて、神の栄光にただただ驚き
平伏し感謝いたしている。
そこで、ケースを3つ程ご紹介して、
皆様もぜひこの神の栄光を体得・体現されて
真理をもって人々を救済していただきたいと思った次第です。
略<

志恩ー
はうら様は『24時間365日の個人相談の受付け』をされていらして
もう10年になるのでしたか、はうら様ご自身も、末期の重度の膵臓癌が
自分で腐って、落ちって行ったという奇跡的な体験をお持ちでいらっしゃい
ますので、その神癒の体験談が魂の核となっておられまして、他人の重い
病に対しても、実相直視が理屈でなく、一種の悟りとして、体得された
深い信念によって、高級霊が降霊されてつぎつぎにはうら様のされる
ご愛念を援けているのだと存じます。

谷口雅春先生時代には、練成会に参加されたり、谷口雅春先生のご講話を
拝聴するだけで、例えば、足の不自由な方がスタスタ歩き始めるのを、
私はこの目で何度も見て、仰天した思い出がございます。
神癒は、確かにあると思っております。

私は、まだ生長の家を知る前に、谷口雅春先生と大本時代から親しかったという
浅野和三郎先生が、大本を出てから創設されました日本心霊科学研究所に
母が医学博士の桑原先生のご紹介で、参加した時に、私は幼い頃から腎臓病だったのですが、
その当時、あと半年の命だと医者に言われていた私の重い腎臓病が、その集いに参加して、
あっという間に消えてしまった体験を持っております。それは小学2年生の
時のことでした。私はそれ以来、今まで、大きな病気もしたこともなく、今でも
無病です。

でも、私は、はうら様のように他人の病気は、治癒できません。
友達の悩み事の相談は、いつもお受けしていますが、励ます程度の軽いこと
しかできません。

ですから、はうら様の体験談を拝読するたびに、谷口雅春先生が総裁先生
でいらした時代の貴い数々の神癒の出来事を思い出しております。
いつも素晴らしい貴重な体験のお話をありがとうございます。

「一」の公案 (68315)
日時:2024年11月10日 (日) 13時28分
名前:はうら ひとひら

ありがとうございます。
『「一」の公案』考察です。
ご意見、ご指導、ご鞭撻の程お願い申しあげます。

☆: 真理1

《 なぜわれわれが「生命の實相」の扉をひらく時、
医術などではとうてい及ばない驚くべき自然癒能(ゆのう)が
発揮されるかと申しますと、人間は本来、
神の子としてつくられているという真理を
見いだすからであります。
人間の本質は神であり霊的存在である。
「神なる人」こそ人間自身の実相であります。
自由自在の霊性こそ人間自身の本来の面目であります。
われらの本来の面目は神本来の面目にひとしいのでありますから、
われらは自己の全存在のすみずみまで完全であり、
万徳円満であり、自由自在で不悩不苦(ふのうふく)
であるはずであります。
この真理を知ることは、人をして、
あらゆる束縛(そくばく)から開放せしむることに
なるのであります。

しかしこの真理は、人の生命の実相に穿(うが)ち入る者には、
誰でも知ることができるのであります。
人の生命の実相に穿ち入るにはこれを
霊的に理会(りかい)する事が必要であります。
頭で真理を理会するということは、
真理の周囲をどうどう廻(めぐ)りして
真理の外的なすがたを知るにすぎませんが、
霊的に真理を理会するということは、
「生命」の実相そのものに全身全霊をもって
貫(つらぬ)き入り力の本源をつかむことになります。
全身全霊をもって、生命の實相に貫き入るには、
この書を頭で読もうとせず、全身全霊で読む、
黙読(もくどく)する、朗読(ろうどく)する、
目で読み、声で読み、
声のリズムのなかに自分を溶(とか)かし込んで読む、
そして静に端坐(たんざ)して「神想観」を行(ぎょう)じ、
行じ終って動き出すとき神(愛)の生活を活(い)きる、
かくする時、智慧と愛とのそろった生活が実現するのであります。》(『生命の實相』頭注版 第3巻 98頁)
(『生命の實相』頭注版 第4巻 2頁)

☆: 真理2

《「入龍宮不可思議境界録」は地上の話に非(あら)ず、
現象を超えて、実相不可思議の世界に
透入(とうにゅう)せんと欲する人々のために
ものせるものであって玄々(げんげん)、
字間と行間とにその真意を
掬(く)む覚悟をもって読まれたい。》
(『新版 叡智の断片》はしがき 3頁)

☆: 真理3

《 (倶胝指頭禅(ぐていしとうぜん)
(『碧巌録』解釋の垂示:公案の説き方の
予(あらかじめ)なる心の用意
(『無門関 解釋』49頁)において

「一塵(いちじん)挙(あが)って大地収(おさ)まる」
というのは、一塵即ち全宇宙の真理を説いたものである。
一つの塵(ちり)が挙ったら、
その塵の中に天地があるというのだ。
華厳経には「一塵の中に一切の刹(せつ)を現ず」とある。
或人は一ミリ平方の皮膚をとって見ても、
女性の皮膚はまことに女性だと説いている。
一ミリ平方の皮膚の中にも「女性」なるものーー
其の全体が存在するのである。
一塵すらその通り、一皮膚すらその通りであるから、
苟(いやし)くも天地の大生命の宿っている吾々人間の生命は、
ただ天地の大生命と同根だというばかりではなく、
この地球の黴(かび)にも比すべき小さな人間生命の中に
盡天地(じんてんち)、盡宇宙(じんうちゅう)が
収(おさ)まっているのである。
「實相を観ずる歌」の中には「吾れ祈れば、天地応(こた)へ、
吾れ動けば宇宙動く」とあるのはそれだ。
わが一挙手一投足は単に人間の手足の動きの問題ではない。
まことに天地が動くのであり、
従ってまた天地を動かす底(てい)の大業が出来るのだ。

昭和二十年八月九日、
皇居の地下壕(ごう)で天皇陛下を中心に
各大臣及び軍の首脳者たちが集まって御前会議がひらかれた。
「ポツダム宣言」を日本が受諾(じゅだく)して
日本の全軍隊が無条件降伏して戦争を停止すべきか否かについて
協議せられたのであった。
賛否の人数が同一で決定出来なかった時、
その時今上陛下が
「自分の體(からだ)はどうなってもよいから戦争をやめる」
と仰せられた。
この御言葉によって、
実に世界の姿を変貌(へんぼう)したのである。
実に「一塵挙がれば天地収まる」である。
「我」というものが一切滅盡(めつじん)したとき、
それは宇宙の生命と一体となるのだ。
宇宙の生命と一つになったときに、
その人の動きは「一塵挙って大地収まり、
一花(いっけ)開いて世界起る」となるのだ。
「国」は客観的現実であり、
「世界」も又客観的現実であるけれども、
それは同時に歴史的現実である。
そして歴史的現実なるものの内容を成すものは、
人間の自覚の中に蓄積されている思念のエネルギーであるから、「国」と「世界」の客観的現実はこの公案の中で
“一花”に譬(たとえ)られて入る
人間の自覚の中(うち)に収まるのである。
日本人全体の心の中に、真の国家の理想が把握され、
大日本帝国の荘厳無比なる使命と実相とが自覚されたとき、
日本を中心として描かれる世界歴史に転換するに
ちがいないのである。
しかしそれには、“古事記”の預言に
追い来る黄泉軍(よもついくさ)を
退(しりぞ)けたところの
“桃の實三つ”の実相を知らねばならぬのである。
(人間の生命の実相、国家の生命の実相、
天皇の御生命の実相『古事記と現代の預言』106頁)

一枚の紙片も、それに宿る神のいのちを大切にする事も
国家を起す基(もとい)となる。
一椀(いちわん)の米飯も、そのいのちを拝んで食するとき
国家は強大にする基となる。
婦人は釦(ぼたん)を縫著(ぬいつ)けるときにも、
その小さな一針一針の動きに真心と愛念を籠(こ)めて
「この衣類を著(き)るすべての人がどうぞ
私の愛念を受けて御幸福で健康で
いつまでも国の栄えの為に盡(つく)すことが出来ますように」
と心に唱(とな)えて縫うならば、
屹度(きっと)その衣類を著た人は、
その愛念に護られて、交通事故で傷つくようなことが
なくなるのである。
一塵中全宇宙、一花中全世界の働きが出来る為には、
現象以前の未(いま)だ塵挙(じんあが)らず、
花開かざる、謂(い)わば「父母未生(みしょう)以前」の
本来の面目に眼(まなこ)を著(つ)けなければならないのである。

一切相対の妄見(もうけん)を断じ去って、
一切がそのまま「一」であるところの
実相を把握しなければならないのだ。
そのような実相を把握した時には、
「一るい絲(し)を斬(き)るが如し。
一斬一切斬。一るい絲を染むるが如し。
一染一切染」となるのである。
若(も)しこの宇宙真理の「一」なる生命の中に
透徹(とうてつ)し入るときは一かせの絲(いと)も、
一箇所ぷっつり斬ってしまったら全部がぷっつり切れ、
またいっぺん染料の壺(つぼ)へ抛(ほう)り込んだら
全体の絲が其の色に染ってしまうように、
この一身一塵の働きによって
萬物を動かすことが出来るのである。》
(『碧巌録解釋』前篇 162〜167頁要約)
(一部現代仮名遣いをさせていただきました。)

■: 思うこと

私達の誌友会ではその案内時、
通信文(と言っても一切個人的な事を排除して、
聖典からエッセンスを掲載させていただいている。)
志恩様のご愛念で、それを月に一度こちらに
掲載させていただいているので、
ご覧になった方もおられると思います。
当初はその当時『生命の實相』のその月のテキストに
該当する箇所で、神髄を記載し、
個人(主に私)の体験談も書いていたが、
あるとき、「私はいまそのテキストは〇回読んでいるので、
通信文は体験談しか読まないという人があった。
テキストは読めばわかるので・・・ということだった。
私は直ぐに編集方法を改め、
その月のテキストの内容を記載する事を中止した。
(勿論体験談も)
今は第2面に『無門関解釋』を中心にして編集している。
そうしたら、別の人が、
『無門関』は「浮き世離れしている」という。
しかし、私はそうは思って編集してはいない。
その表現上の奥に何を言いたいのか、
尊師ならどのように観られているだろう、
というのが主眼だからである。

上記真理1で、それを理解するのに、
私は『生命の實相』を〇回読みましたから、
何巻の何頁にはどのような事が書いてある。
と言いたいかもしれないが、そういう問題なのであろうか。
確かに『生命の實相』に学ぶ:徳久克己著)には
ブラジルの方が227回拝読して、
徳久先生がまだ百回も読んでいないのに・・・と記述はある。)
上記真理1.真理2のような拝読の仕方だったら、
私は一生それは出来ないだろうと思っていた。
ところが、真理3で全体が「一」になる行為であるという亊を
拝読した時に、全てが氷解したのである。
奥に穿(うが)ったその先にある
「一」の真理を教えていただいた時、
回数ではない、波動を整えれば、
誰でも到達できると思った次第である。
第一原因者しか存在しないと了解すると、
「一」も了解出来るのである。
皆様はどのように思われますでしょうか。

ありがとうございます。







はうらひとひら様 (68328)
日時:2024年11月11日 (月) 00時06分
名前:志恩

はうらひとひら様ー
【「一」の公案 】




ところが、真理3で全体が「一」になる行為であるという亊を
拝読した時に、全てが氷解したのである。
奥に穿(うが)ったその先にある
「一」の真理を教えていただいた時、
回数ではない、波動を整えれば、
誰でも到達できると思った次第である。
第一原因者しか存在しないと了解すると、
「一」も了解出来るのである。
皆様はどのように思われますでしょうか。<


志恩ー
はうら様が、毎週日曜日に貴重なご投稿を、して
くださいますので、それを拝読させていただいて、
心がほっとしたり、学び直したり、大変ありがたい
気持ちにさせていただいております。

私も、何回読んだという回数が問題なのではなく、
波動の問題だと思っております。

私は、なぜだか慶応スポーツクラブへ行きますと、
多くの友人たちから、ランチに誘われてばかりいるのですが、
それは、人間は生きていれば、どなたでも、多くの出来事が
ありまして、誰でも、時には不安に思ったり、悔しい思いをしたり、
嬉しい思いもしたりしますので、それを、安心して聞いてもらいたい、
友人が欲しいのだと、わかりました。私は、自分は、あまり
話しませんで、相手の話を十分に聞いてあげて、励ましてあげたり
いいことがあったといえば、一緒に喜んであげたりするタイプの人間ですので、
相手が、喜んでくださって、また、ランチしたいと思ってくださる
のではないかな、と、最近、そのように感じているところです。
相手が喜んでくださると、自分も嬉しくなるのです。
それは、私が昔から生長の家の教えを学んできましたから自然に行える愛行の
1つでもあると、谷口雅春先生の教えに、今更ながら感謝しております。
私は息子や娘たちには今でも、普通に、生長の家ではね、と
よき時代の生長の家の話をしています。

『一塵』二題 (68407)
日時:2024年11月17日 (日) 10時22分
名前:はうら ひとひら


ありがとうございます。
前回の続き『一塵』です。
人間側からと神の側からと、思った事です。

☆: 真理

《唯物論者にはイエスも吾々も共に迷信者流に見える。
併(しか)し真理は「新たに生まれる」とは
霊によって生まれなければならないと云うのである。
霊とは「形なき理念」のことである。
形なき世界、形なき存在を見なければ、
全人類が「一」であると云うことは解らない。》
(『新生の書」161.162頁)

■: 思う事(一)

・2024-5-8 台湾頼清徳副総統が台南市を訪れ
日本統治時代の土木技師八田與一氏の没後82年の慰霊祭に出席。
同氏の台湾への貢献に感謝した。

・2011年(平成23年)3月11日東日本大震災発生。
台湾(中華民国)馬英九総統(当時)は、
直ちに日本に義援金を送る事を表明。
最終的には全世界各国の中で、最高の200億円であり、
その9割が台湾の民間人によるものであった。
さらには、援助隊を結成しおびただしい援助物質を
日本に送っている。
その日(3月11日)のうちに、
どの国よりも早く日本政府に対して援助隊派遣を打診している。
時の菅直人政府は、待機を要請。
結局台湾援助隊の日本到着は14日にずれ込み、
しかも日本政府の態度が煮え切らずに、
台湾援助隊28人は自力で被災地に入った。

・日本が台湾統治時代、
たった一人で台湾の山岳に入り、苦難の末、
不毛のその大地に東洋一のダムと水路を造り、
台湾最大の穀倉地帯に変えた男がいる。
八田與一氏である。
八田のバックボーンは幼少期親鸞の教えを自宅で聞き、
四高時代に西田幾多郎の哲学に強烈に感化された。
八田の信条は『覚』『哲』『悟』であった。

・日本敗戦時、八田夫人は、
夫の航跡が軍部によって咎(とが)められ
その類が子供達に及ぶことを防ぐ為、
夫の造ったダムに身を投じて、それを護った。

・上記の話をある時、誌友会で話をしたら、
その場に出席していた方が、
5月8日の命日に台湾へ行ってお参りして来たと、後日聞かされた。
私(はうら)は取材の為に訪れただけだったが。
現在、台湾中部、烏山頭(うざんとう)ダムの一端の
小高い丘の上に、
八田與一の銅像が静かに自身の造ったダムを見守っている。

■:思う事(二)

・オイラーの公式というのがある。
eのiπ乗+1=0コメントは添付を参照ください。
eもπも無理数で、無限に収束しない。
iは虚数である。
これは全て現象とかさなるが、
それがただ『1』を加えるだけで、
全て開放された数(0)となる。
これは神以外誰もなしえない、正に人類の至宝である。

・この話をある時、誌友会で話したら、
出席者のある方が
「cos θ=・・・ と」解き出した。
生長の家の人は凄いと思った。
ところがその方はこんな話をした。
「実はこの公式は eのiπ乗=ー1 だと思っていた。
ー1を移項する事は全く思ってもいなかった。
景色が全く変わってしまった。」と。
逆に私の方が驚いた。
観の転換は、住む世界まで変えることが出来る。

ありがとうございます。

添付文はクリックすると拡大します。








はうら ひとひら様 (68410)
日時:2024年11月17日 (日) 11時57分
名前:志恩

11月16日(土)開催の『ZOOM実相ひかり誌友会』メモを、
この度もメールにてお送りくださいまして、
誠にありがとうございます。
今回も、参加者の方々のお名前をABCDE に変えて、
トキ掲示板へ掲載させていただくことをお許しくださいませ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(はうら様ー)
11月16日開催の『ZOOM実相ひかり誌友会』メモです。

(文責・はうら ひとひら)
日時:令和6年11月16日 午後1時半より約2時間
・出席者(敬称略、50音順)
・ はうら ひとひら     ・ A
(メール等にての参加者)・B ・C ・D  ・E  

■: A
引越等で連絡が途絶えて申し訳ない。岡先生の件は、大変ショックでしたし、残念に思っている。先祖供養はよく行じていて、自身もそれによって浄化されている事を感じているが、聖典にないところの詳細部や祈り方について確認したい。
下記真理を楽しく学ばせていただきました。(テキスト『真理』第2巻)
〇 『先祖供養』
【家族全体は「一つ」の心です】《特に家族の心は互いに一体として、密接に連関しているのでありまして、先祖を大切にする心や、父母を大切にする心は、頭部又は脊椎にあらわれます。先祖や父母を大切にすると頭がよくなり、脊椎がしっかりして来るのであります。全体の心は「一つ」でありますから、妻の心が、その先祖や父母に不調和な心や反抗心をもっておりますと、その妻の心が脊椎がぐらぐらしていて小児麻痺的症状をあらわすこともあります。「心」の状態が肉体にあらわれますのは、肉体そのものが「心」の表現体であるからであります。アメリカに脊髄の故障による小児麻痺や精神的患者が非常に多いのは、誤れる民主主義と誤れる基督教(キリストきょう)とで先祖を祀(まつ)らず、個人主義に流れて父母を大切にせぬからであります。》(『新版 真理』第2巻 222頁)
《霊魂の浄化は消極的には“懺悔”と、積極的には“真理を悟る”という二つの方法によって主として行われる。“懺悔”というのは、“今までの行為は悪うございました。人間の為すべき本来の姿ではございませんでした。今後は一切いたしません。と”過去の悪業“を心の世界”で否定することで、過去の悪業を否定消去してしまうのである。“真理を悟る”というのは、「人間の実相」は本来“如来"であり、“神の子”であるという真理を述べた経典を現実界の縁者から読誦して貰い(これを聖経供養と謂(い)う)その真理の霊波を霊界で感受して、人間本来“如来"であり、“神の子”であり、本来“無罪”の実相を霊魂が感受して、悪業存在の世界から解脱して、“如来"の実相地に超入することである。この“如来地"(如来の境地)に入ることを成仏するという。先祖及び縁者の霊魂を成仏させてあげるのが、現実界の子孫及び縁者の義務であり、それはまた自分自身に報いられて来て家族全体の健康ともなり、繁栄ともなるのである。》(『人生を支配する先祖供養』はしがき4頁)
【聖経読誦の時の唱え方】《 位牌(霊牌)を作成する。・〇〇家先祖代々親族縁族一切の霊(みたま)位(夫、妻両方の父母の四柱更に特にある人の霊(みたま)の冥福をお祈りする時はその俗名または法名を記入。・〇〇比古命之霊位(男性)〇〇比女命之霊位(女性)流産児及び中絶児の場合(「翼(つばさ)」とか「薫(かおる)」などの男女どちらにも適する名前をつける。・実相妙楽宮地蔵〇〇童子位
次のように唱えます。「唯今、これより生長の家の『甘露の法雨』という聖経を読誦します。この聖経はあなたが先祖代々伝承して来られた(宗教の)教えの真理を最も解り易く現代語で書かれたものですから、心を集中して此の聖経を聴き給うて悟りを開き、仏の境涯に達し給え。我らの現象生活を護り給うとともに子々孫々の弥栄(いやさか)に国家興隆(こうりゅう)、人類光明化、地上天国建設の聖業を弥(いや)益々に導き給えと希(こいねが)い奉る。》(『人生を支配する先祖供養』61〜64頁要約)・体験(2件略します)
〇 『新たに生まれる』『理念』
【人生の目的を知りましょう。】《人生の航路は始終平穏無事と云う訳ではなく、時々暴風が吹きすさぶこともあります。しかし神の智慧に導かれる者は必ずよき碇泊所(ていはくじょ)に船を入れていて、難破から自分の船を護ることが出来るのです。あなたは此処(ここ)より発していずこへ到着する目的ですか、その目的地をはっきりと定めて置く必要があります。目的地がわからないで人生の海を漂流(ひょうりゅう)しているようでは、暴風が来たときに、難破してしまうほかはないのです。人生の航路は決して金を目的とするためでも、異性を目的とするためでもない。吾々は神よりその生命を出発させて神に帰るのである。しっかりと人生の目的を知ったならば惑(まど)うことはないのです。現象の富や健康や、そんなものはただ遊戯(ゆうぎ)の人生将棋(しょうぎ)の持駒に過ぎないのです。》(『新版 真理』第2巻 10頁)
【神の国を地上に実現するには】《「祈り」又は「神想観」という行事は自分の「意識(こころ)の王国」の人民(即ち「想念」)たちを一定目的の方向へ集注(しゅうちゅう)的に動員することです。そしてその動員は内部の「神性(しんせい)」を揺り撼(うご)かして、内部にある「神の国」(天国浄土)を現実化することになるのです。いくら「意識(こころ)の国」の人民が多くとも各自(めいめい)別方向に動いているような事では何等現実的な力をあらわす事は出来ないのです。「内にある力」が「宇宙に満つる力」と波長が合うためには是非とも一定の時間に自分の心の方向を神の方へ振向け、神の愛の波長、生命の波長、智慧の波長、豊かさの波長、平和と調和の波長に「波長を合わす」ことが必要です。多勢(おおぜい)集まって祈ることはそれだけ信仰の力によって感情の共鳴を来(きた)し神の波長に合い易い状態になります。》(『新版 真理』第2巻 14.15頁)
【内部理念の展開】《人間は何のために地上に生を享(う)けたか。それは何のために、朝顔の種子が地上に播(ま)かれたかの問に似ている。朝顔の種子が地上に播かれたのは、種子の生命の中に包蔵(ほうぞう)される全内容(全アイデア)が時間空間の世界のうちに展開されるためである。それは朝顔の理念が、目に見える世界に自己実現せんがためであるのである。人間が地上に生を享けたのは、人間なる理念が即ち神の肖像(しょうぞう)なる理念が(創世記第一章二六)佛教的に云えば仏子なる理念が(法華経、序品(じょほん))時間空間の世界を通じて自己を実現せんがためなのである。人間は生きる価値があるかの問題は『理念』は生きる価値があるかの問題であるほかはない。人間は要するに理念であるからである。
『理念』なる語は、本来、人間がたあいもなく心に描いた妄想ではなく、『理』すなわち、神の定めたまうた宇宙を貫く根本原理が理念としてあらわれたものである。『理想』は人間が心に描くところのものであるが、『理想』なるものが描かれる其の奥には『神の理』が潜在していて、その奥から人間に其の『理』の顕現を推し進めているのである。『理念』は『理想』の推進原理であり、人間理想の奥にあるフィルムのような一層根本的な実在なのである。人間なるものは本来、神がその心の中に描き給いし『神の肖像』(Image of  God)なる『理念的存在』なのである。人間は肉体ではなく『理念』であり、『神の肖像』である。肉体が重んぜられるのは、物質又は物体として重んぜられるのではなく、理念の顕現体として重んぜられるのであって、物質又は物体としては価値なき存在に過ぎないのである。》(『新生の書」7.8頁)
【新生への言葉】《では「あらたに生まれる」とはどうすべきかの問題が提出せられる。キリストは「肉によりて生るるものは肉なり、霊によりて生るる者は霊なり。なんじ新たに生るべしと我が汝に言いしを怪しむな。風は己が好むところに吹く、汝その声を聞けども、何処より来り何処へ往くを知らず。すべて霊によりて生るる者は斯くの如し」と云っている。唯物論者には新たに生まれることは理解できない。ニコデモと同じく「人はや老いぬればいかで母の胎内に入りて生まれることを得んや」と云うほかはない。唯物論者には神の国はイエスの云った通り閉ざされているのである。唯物論者にはイエスも吾々も共に迷信者流に見える。併(しか)し真理は「新たに生まれる」とは霊によって生まれなければならないと云うのである。霊とは「形なき理念」のことである。形なき世界、形なき存在を見なければ、全人類が「一」であると云うことは解らない。》(『新生の書」161.162頁)
〇 『祈りと想念と人生』
【神は既にあなたに与え給うていられる】《神の既に与えておられる無限の供給から、吾々は、自分の信ずる通りのものを引出すのであります。神が或る人には与え給うて、他の人には与え給わないと云うような依怙贔屓(えこひいき)をせられるのではないのである。神は「求むるに先立ちて既に与え給うていられる」のである。それは例えば、放送局の放送の波の様なものであります。聴取(ちょうしゅ)しようが聴取しまいが、既に放送局から求むるに先立って放送していてくれるのである。しかし、その放送を現実に受取るか、受取らないかは、こちらがスイッチを入れて波長を合わすかどうかかによって定まるのであります。スイッチを入れるとは「電源」即ち供給の本源と交通することで、「祈り」に当たるのであります。「波長を合わすと云うことは、一心に祈り且(か)つ神想観をすることに当たるのであります。》(『新版 真理』第2巻 31頁)
【解決しない問題は一つもない】《吾々に現在与えられていることは、悉(ことごと)く、吾々の現在の魂の状態にとって、すべて教育的なものばかりなのである。その仕事を為(な)すことにおいて、その環境に処することにおいて、全力をつくし、全生命をかけ、全精神をつくしてそれと取組むことによって吾々は魂が向上するのであります。算数の問題は必ず答えがあるのであります。それと同じく吾々に与えられている問題は必ず解決し得るからこそわれわれに其の問題が与えられているのです。神は決して吾々を難問題で苦しめて、「好い気味だ」などとわらっていられることはないのであります。算数の教師は生徒を苦しめるために算数の問題を課するのではなく、生徒の内に内在する能力を呼び出すために問題を課すのと同じで、何か問題がおこるならば、それはあなたの魂の向上のためにせられたのです。》(『新版 真理』第2巻 43.44頁)
【神さまと人間との関係】《神様の光は善人にも悪人にも、平等に照らしていらっしゃるけれども、その光に背中を向けて、目をつぶっている人は、光の世界を見ることは出来ないのであります。神様のお造りになった完全な世界を見るためには、人間の心が造った迷いで曇っている現象世界を握っておった、今までの心を放(はな)して光の方に振り向かなければならないのであります。神様は宇宙に満ち満ちてい給う処の大生命であり、大智恵であり、大愛であります。其処(そこ)から無限の生命、無限の智慧、無限の愛が放送され、それを受像してわれわれは生きているのであります。神様が放送局のようなものであり、我々はテレビ又はラジオの受信機みたいなものであります。いくら神様の無限の生命、無限の智慧、無限の愛が放送されておっても、我々ラジオ・セットである人間が波長を合せなかったら、それを完全に受取ることが出来ないのであります。そのために、生理作用に錯誤(さくご)を生ずると病気となり、生活の実践に錯誤を生ずると事業や仕事の失敗となり、色々の不幸を来(きた)らす原因となります。》(『神と偕(とも)に生きる真理365章』133.134頁)
【神われに語りたまう詩】《神はわれに語り給うあなたが私を必要とするならばわたしは既にあなたの其処(そこ)にあるあなたは私を見ることはできないがあなたは私の光によって万物を見ることができるのだあなたは私に触れているとは知らないがわたしはあなたの手の中で働いているどんな方法で私があなたの中で働くかをあなたは理解することができないがわたしはあなたの中で働いている貴方は私をみとめることはできないがわたしはあなたの中で働いている
わたしは単に不可思議な霊象(れいしょう)でもなければ神秘的な存在でもないただ絶対の寂靜(じゃくせい)でもある自我を去れ その時に貴方は、私が“本当のあなた”だということがわかるのであるそれはただ感じるのだ 信仰だしかし其処に私はいる私は聴くことができ 答えることができるあなたが私を必要とする時にわたしは既に其処にあるたといあなたが私の存在を否定しようともわたしは既に其処にある
たといあなたがどんなに孤独の感に襲(おそ)われるときにもわたしは常にあなたと偕(とも)にあるわたしはあなたの父であり 母である常にあなたと偕にあるわたしは愛であり 愛そのものであるあなたが愛するときわたしは常に其処にあるわたしは平和であり 何人(なんぴと)をも憎まないたといあなたが憎しみの感情を起こしているときにもわたしはあなたの内にあってその敵でさえも愛している
わたしは平和であり其処に闘いが演ぜられているように見えているときにも此処(ここ)に無限の平和があるあなたがわたしの内に深く沈潜(ちんせん)して来るとき其処には常に無限の平和が用意されている
あなたがわたしを信じない時にもわたしはあなたが“神の子”でかならず立派なものであることを信じている目覚めるがよいあなたが“神の子”たる実相にあなたの信仰がグラツクともわたしがあなたを信じる信仰は決してぐらつくことはないのである》(『神と偕(とも)に生きる真理365章』250〜254頁)
【祈り】《祈りは神との「人格的交り」として、神と人との魂の一体感を得るために必要なのである。神は「宇宙を貫く法則」であると同時に「生ける大生命としての人格」の面もある。生けるいのちある者が、人格と人格との交りによって、「自」と「他』との一体感を得ることが愛である。私たちは祈りによって神と人との人格的接触を得(え)、「愛」を自覚することができるのである。すなわち神に祈ることによって、「外なる普遍的な神」と自己の「内なる神性」との一体感が喚(よ)び起こされる。それによって自己の「内なる神」が喚び覚(さま)され、自己から無限の力がでてくるのである。祈りは懇請(こんせい)によって神の感情や意志を動かす目的に行うべきではなく、自分の「内在の神」を喚び出しその喚び出されたる自己の霊の波長が宇宙普遍の愛の祝福の霊波に波長を合わし得て、その祝福を受けることになるのである。このように、祈りは、神に泣きつくためではなく、神の祝福の霊波に自分の心の波長を一致さす一つの方法であるから、一面には誠心(まごころ)が必要であるが、他の一面には同調の技術が必要である。》(『私はこうして祈る』はしがき 1.2頁)
〇 『人間開放の真理』
【人間は始めから救われている】《「此の宗教でなければ救われない」と頑張っている宗教があるならば、その宗教は邪教(じゃきょう)であります。人間は宗教の生れる前から生れており、そして救われているのであります。釈尊(しゃくそん)生れてざっと二千六百年、キリスト生れて約二千年しか経(た)っていません。人間はそれよりも幾十万年以前から生れているのに、その長年月の間神は人間を救わずに置いたなどと考えるのは、まるで神を侮辱(ぶじょく)するようなものではありませんか。人間の生命は神(神と云う名称が嫌いな人は大自然の偉大な力)から生まれたものですから、人間は既に神の慈手(みて)の中(うち)にあり、始めから救われているのであります。ただそれを自覚しないで、長夜(ちょうや)の夢を貪(むさぼ)って自分自身を単なる物質の塊(かたまり)であり、地球に生えた黴(かび)のように自己軽蔑(けいべつ)していたに過ぎません。自己軽蔑をやめましょう。》(『新版 真理』第2巻 52.53頁)
【「有(あ)る」と「あらわれている」とを混同してはならぬ】《神のみが唯一の実在であり、神のみが唯一の創造者(つくりぬし)であり、神のみが唯一の原因者であるのである。我々が悪と呼び病気と呼び不幸とよんでいるところのものは結局人間が心に描いた想念の具象化(かたちとなって出たもの)であって、それは具体的な形をもっているようだけれども実在ではないのである。時々、「神は渾(すべ)てであり、神は善であるから悪はない。あるもの皆善である」と云う言葉を誤解して「あるものは皆善であるから、病気も貧乏も不幸も災難も悉(ことごと)く善である。それを悪と看るのは人間が狭(せま)い見地(けんち)に立って見るからである。悉くそれらは或る意義を以(も)ってつくられたものである」と解する人があるが、これは病気等の不幸をあるとして観(み)るからそう間違うのである。そしてそれを或る意義を有(も)つ「必要な悪」と見るかぎり、潜在意識が、それを「必要」として創価(つく)り出すのである。》(『新版 真理』第2巻 57.58頁)
【業(ごう)・因縁の消し方。救済の宗教】以下は『生命の實相』頭注版第21巻からの抜粋です。(出典の頁のみ記します、)《やはり各人因縁が違う。今までの過去において、積んできたところの「念の集積」すなわち「業(ごう)」が違う。おのおのその周囲の念波を受け、環境の影響を受け、いろいろ異なる薫習(くんじゅう)を自分の心に印象している。》(16.17頁)《因縁は全宇宙にもある。宇宙の因縁循環して、いろいろの現象を起こしている。星雲状態も、燃ゆる灼熱の天体が冷めて月になるのも、宇宙の業の流転である。この世は宇宙の業が流転して、因縁因果の姿を現(げん)じている。肉体は因縁によって生じたものであるから常住性がない。時が来れば滅びてしまう。》(101.102頁)
《 この世界は常住(じょうじゅう)であるような気がするのですけれども、やっぱり宇宙の業(ごう)すなわち、念の波によって支えられ、波であるから循環的波動を連続的に起こすのであります。だからいったん生成された現象宇宙はやがて、転変地変によって滅び、またさらに生成しては滅び、滅んでは生成し、今の世界は宇宙創始以来何回目の生成であるのか分からないくらいであります。そのたびごとに、その壊滅する業の流転の世界の因縁を超越させるための導師が世に出現せられる。それが地上に法を説かれる仏なのであります。因縁によって生成されたこの現象世界が、劫(こう)つきて滅びようとも、自分の生命の本地(ほんじ)である「実相の世界」は滅びることなく、常に永遠に有(あ)りとおしであります。われわれは今、このまま、有りとおしの世界にいるのであります。われわれは、今この現象世界に住んでいるようでありますけれども、本当は、このまま実相世界に住んでいる。現象世界は本来無い世界でありますから、アルように見えても無い。現象世界が無いとすれば、自分の住んでいる世界は実相世界よりほかはない。現象世界に住んでいるように見えたまま実相世界に住んでいるのです。娑婆(しゃば)にいるようでそのまま寂光土(じゃっこうど)にいるのです。娑婆本来無いから、娑婆にいながら寂光土にいるのです。この実相を知った時にわれわれは因縁を超越して因縁に縛(しば)られない、因縁に捉(とら)われることなき自由自在の世界に住むことができるのであります。しかしわれわれが本当に実相を知って因縁を超越した時には、地震がありながらも自分が地震に傷つかない状態になるのです。生長の家の信徒が自動車に轢(ひ)かれても、微傷(びしょう)だも負(お)わないというのはすでに因縁を超越した証拠であります。現象世界の重力の法則によれば自動車に轢かれたらつぶれてしまうか、負傷するのがあたりまえのことでありましょう。その重力の法則が因縁の法則であります。その因縁をまったく超越した時には、自動車に轢かれても傷つかない。憂苦(ゆうく)満つる娑婆世界にいながらも、寂光土にいるような状態が現れ出てくるのであります。なぜならわが環境はわが心の影、三界(さんがい)は唯心(ゆいしん)の所現(しょげん)であるからであります。》103.104頁)
《 いったい宗教の目的は何であるかと言えば業(ごう)を破壊するということにあるのです。業を破壊し、因縁を超越し、業に支配されない自由な世界に人間を解放することこそ宗教の救いの意義があるのであります。生きた宗教は業を直截(ちょくせつ)的に破壊できる、そしてその証拠として実生活の上に業障(ごっしょう)が消滅し現実世界が光明化しいっさいの不幸苦悩が消し去られるのであります。だから、われわれが『生長の家』を読んで真理を知り、病の癒(い)えるのは、「この最初の夢が墔破(さいは)せらるるが故」なのであります。病を直接治(なお)すとは書いていない。最初の夢すなわち「無明(むみょう)」を墔破するから、その副作用として病気が癒えるのであります。》(『生命の實相』頭注版 第21巻 194.195頁)
〇 『言葉の力』
【原因結果の法則】《蒔(ま)いた種は生える、播かぬ種は生えぬ。瓜(うり)の蔓(つる)には茄子(なす)は生(な)らぬ。これは原因結果の法則であるのである。蒔いた種は、蒔いた以上に増大して刈り取ることになるのである。ラジオの波長を合わすのでも同じことである。たった一回波長を合わせておいたら、その波長の放送はどれもこれも全部アンテナにかかって来てそれが実現するのである。何よりも大切なことは、貴方(あなた)の精神の全体的な波長が明るいと云うことである。明るい所に心の波長を合わせて置いたら凡(あら)ゆるよい物が、その心のところに集って来て実現するのであります。人の富を贅沢(ぜいたく)だと思ってはならない。それは富を否定する心であるから自分の富も否定せられる。すなわち自分も富むことができなくなる。》(『新版 真理』第2巻 154頁)
【コトバの本質】《人間には神のコトバ即ち本質が宿って居るのです。ヨハネ伝には「言(ことば)は肉体となりて我らの中(うち)に宿り給えり」と書いてあるようにコトバ即ち神の生命が吾々に宿るっていてそれが斯(こ)うして肉体の革袋を着てあらわれているのです。即ち「言肉体になって」此処(ここ)に生きている。その「神」なる「言(ことば)」の響きが、それが人間ひとりひとりの「生命」である。その言の命令が自分の生命の奥底から「汝、これを為(な)せ」と、内から推(お)し出して来る。「此(こ)」の中から命令するように推し出して来るところの至上命令の言がある。これを天命とか使命とか云うものである。苟(いやし)くも人ひとたび地上に生を享(う)けたならば本当に自分は何を生きるべきか。神が此処に生命(いのち)を下(くだ)して「何をせよ」と至上命令したまうかを先(ま)ず考える事が第一でなければなりません。内なる神のコトバ(至上命令)を靜かに聴いて天命を知り、その通りに生きる時に、本当に永遠価値ある生活を生きることが出来るのである。そのとき、自分の生命の生き方が、宇宙に充ち満ちている所の大いなる生命の生き方と一つになる。宇宙に充ち満ちているところの大いなる生命を生きていることになるのであります。》(『新版 真理』第4巻 24.25頁)
『神の心動きいでてコトバとなれば一切の現象展開して萬物成る』(聖経 『甘露の法雨』)
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■: E(メールにて)
「ひかりのお便り」11月号と『靜思集』の抜粋が10月31日に届きました。早々と有難うございました。この度の総選挙の結果として、今後の政治は迷走が予想されます。上記抜粋に示されておりますように、『心の眼』を開いて、吾々の眼に見える世界から迷走を駆逐しなければならないと思います。 11月誌友会のテキストが『真理』第2巻第一〜第七章と告知されましたので、同書の読後感想等を次のように投稿させていただきます。                           @『真理』第2巻 基礎編第一章〜七章を拝読して ―入門篇で一通りの真理を学んだ後で真理を実践していく上で心掛けるべきの細かい注意点等が述べてあります。大聖師の行き届いたご配慮を感じます。中でも、萬教歸一に関わる思われる次の2章に注目しました。・第三章p53釈尊生まれてざっと二千六百年、キリスト生まれて約二千年しか経っていません。人間はそれよりも幾十万年以前から生まれているのに、その長年月の間神は人間を救わずに置いたなどと考えるのは、まるで神を侮辱=\「萬教歸一」の時間的側面を、ずばりご指摘されております。 ・第五章p115既成宗教は多くの時代錯誤的な迷信をもっているのです。吾々があらゆる宗教を正しいと観るのは、すべての宗教からその時代的装いと迷信的混雑物を取去ったときにのみ、その真髄に於いて万教は正しいと観る=@―「時代的装い」を取去らなければならないというご指摘は、肝に銘じたいところです。A『生活と人間の再建』(新選谷口雅春法話集7を底本とする新版)を自習しました。 次の章が真髄的な章であると感じました。 ・第十七章p278祈りによって神にまで魂を注ぐ人は、聖霊に依る導きによって其の人の遭遇する経験が、神の無限の智慧と愛と力とのに依って修正されて行くので、それは悪しく見えつつも決して悪ではあり得ない、究極的に見て唯善のみであると云うことである=@―第五章に、創世記からの引用がありますので、聖書協会による新刊と対称してみます。 ・p107創世記には、「神光あれといいたまいければ光ありき」と書かれているのである。 その日本訳は頗るまずいために本当のことはわからないが、英訳では❝Let there be light…❞と書かれているのである=@―Diglot Bible(日本聖書協会2019年刊)によると、英訳部分は同じですが、邦訳は、<神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。>です。文語体が現代文に変わっただけで、大聖師ご指摘のニュアンスは表現されておりません。                           B週刊現代(10/26・11/2合併号)に『生長の家』に関する記事があります。(大変申し訳ありませんが、省略させていただきます。ご希望の方は個別に送付をいたします。) ・ はうらいつもご教示いただきまして、ありがとうございます。急に秋も深まった感があります。どうぞご自愛ください。ありがとうございます。
■: D(メールにて)
いつもありがとうございます。
ひかりのお便りを拝読しました。
ちょっと難しくわからないところがありますが、
心の力、想念の力を見逃してはならない。
心は総ての造り主である。の
文章は心に残りました。
有り難うございます。
・ はうら
ご連絡ありがとうございます。お元気でしょうか。肉体は「心」の表現体でありますから、心を平にして、感謝の心を起こしていると、身体も環境も自ずと整うと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。
■: C
今月も仕事のためお休みさせて頂きます。 
現象なしと深く理解することによりマイナスな想念を抱かないのだと思います。更に真剣に三正行に励みます。

・ はうら
ご連絡いただきまして、ありがとうございました。朝夕急に冷えてきました。ご自愛ください。三正行の言葉が聞かなくなって久しいのですが、まだまだ励行されている方がいらっしゃって、大変嬉しく思います。今後ともどうぞよろしくお願い致します。
■: B
今年の長かった夏もようよう秋が転がっていくように感じます。気が付けばあっという間に年末が目前に迫っております。毎年この時期は時の流れが一段と速く感じられます。さて、先日、東京の世田谷にある松陰神社を初めて訪れました。以前から気にはなっていたもののようやく訪れることが出来ました。若い方も多く訪れて境内にある松下村塾や松陰先生墓碑などもあり、心が安らぐ気持ちになれました。神社としては珍しい黒い鳥居が印象的でした。境内に松陰先生の言葉が掲げられていました。「十月松陰先生の言葉かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂(下田から江戸への途上)安政元年十二月 二十五歳」との言葉。先人の言葉に、心は千々に乱れます。今年は、特に小生自身の転機となる年でもあり、決断を迫られることが多々ありました。11月は谷口雅春大聖師御生誕の素晴らしい月でありますが、小生にとっては新たな旅の始まりのように感じます。世話しない毎日ですが、「丁寧な生活」を心がけたく存じます。・ はうらご多用中、またお疲れのところご連絡ありがとうございます。いつも素晴らしいご教示ありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願い申しあげます。
今回も多くの感動がありました。ありがとうございます。
感謝 再拝 はうら ひとひら拝

はうら ひとひら様 (68417)
日時:2024年11月17日 (日) 23時58分
名前:志恩

【『一塵』二題 」

>前回の続き『一塵』です。
人間側からと神の側からと、思った事です。





志恩ー
はうら様は、小説を三冊も書かれたお方ですが、
もとはと言えば、半導体の設計のお仕事に携わって
いらしたお方ですから、すごく優秀な理数系の
頭脳の持ち主でいらっしゃるのでした。
オイラーの公式のことまで、話題に出されてまして、
私は、数学苦手人間でしたので、よくわかりませんけれど、
すごいですね、はうら様は。

オイラーの公式をやさしく説明
https://medgadget-freak.com/eulers-formula/

 



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