はうら ひとひら様 (72621) |
- 日時:2025年08月17日 (日) 10時50分
名前:志恩
8月16日の 誌友会 メモを、 メールにてお送りくださいまして、ありがとうございます。 また参加者のお名前をABCD、、にかえて、トキ掲示板へ 転載させていただきますこと、お許しくださいませ。
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8月16日開催の『ZOOM実相ひかり誌友会』メモです。
(文責・はうら)
出席者
はうらひとひら、A,B,C,D
(メール等にての参加者) E、F、G、H、I、J、K
■: A
心の反映として、現象界に見える形で現れてくる。 原因を善一元にふりむければ、その心に従って 善一元の神の国が現れてくる。 日常を清めてまいりたいと思います。 就寝時の想念が、潜在意識の出発との事。 神様に全託して、重荷を降ろして休ませていただきます。
■: B
暗いという字は、日が2つもあって、明るいという字よりも、 あかるいではないか、と言った先達がいた。 正に観の転回が必要とびっくりした事が、今鮮明に思い出される。 吾が生きるは、わが吾が力ならずです。
■: C
横の法則と縦の法則。生長の家は厳しくてやさしい。 神とともなる日々を心掛けたいと存じます。 若い頃の真の生長の家の教えが蘇ります。
■: D
今日からの就寝は潜在意識のよろこびの希望世界、龍宮城へ入り、 乙姫さん方·神佛との憩の世界の時間に浸る時間。 起床·目覚めは現在意識へのよろこび希望の展開の人生を 味わわせて戴きます。 早速光を真理の波動を、ご縁ある方々へお伝えさせて戴きます。
今月のテキスト『真理』第4巻を基底として 下記真理を、楽しく味わいながら学ばせていただきました。
・メインテーマ 現象以前の原因の探求を。
〇 【 想念 】
《 【神に則しない創造は本当の創造ではない】 ところで神のみが実在であり、唯一の創造力でありますから、 神に反して想念した場合、その想念の創造力は偽装(ぎそう) されたニセモノの創造力でありまして、たとい、それが 或る形を此の世界につくり上げましても、それはニセモノの 偽装創造であって、真実そのような悪(あ)しき存在が 創造されるのではなく、想念したものが「幻(まぼろし)」 にあらわれたに過ぎないのであります。 吾々の五官はこれらの幻を見て実在だと思いちがえるので あります。 『甘露の法雨」には 「感覚は唯これ信念の影を見るに過ぎず」と書かれております。 五官の感覚にそれが見えるからと云って、病気や不完全を 存在すると肯定してはなりません。 生命の実相的見地から言いますと、唯「善」のみが実在で ありまして、「悪」は非在(ひざい)なのであります。 非在のものをあると見てそれに心をひっかからせて、 想念いたしますから、(想念は意思の一部ですから) 自分は「悪」を欲(ほっ)しないのに、欲した結果と同じ ことになり、「悪」があらわれて來ることになるので あります。》 (『新版 真理」第4巻 254頁)
《 本当に存在するのは影の後ろにある本体です。 神が造ったままの人間、完全な神人(しんじん)がある のみです。 神がいったん人間を完全に造った以上は、人間は堕落 (だらく)することはできない。 だから堕落したようにみえるのは信念の影であって、 信念を変えてしまえば『本当の、神がつくったままの、 完全な神人が表にあらわれて來るのです。》 (『生命の實相』第1巻 103頁)
《黒住教祖は「たち向う人の心は鏡なり」といわれましたし、 大本教祖は「ひとが悪いと思っているのは皆わが身が 悪いのであるぞよ」と明快に平易な言葉でこの大真理を 動破(どうは)していられます。 イエス・キリストもパリサイ人(びと)が罪ある女を 石にて打とうとしているときに 「なんじらのうち罪なきもの彼女を打て」と、表面は 道徳家でも審判(さば)きの心に満ちている人の心には 悪が宿っていると反省を促(うなが)していられるので あります。 この反対も真実でありまして、 「ひとが善い、あの人も善い、この人も善い」と常に 思えるようになった人は偉い人であります。 なぜなら常にその人の心には「善」が宿っている からであります。》 (『生命の實相』第2巻 103頁)
《 【想念感情と運命の関係】 私たちの想念感情はすべて具象化(ぐしょうか)して、 或る微小体(びしょうたい)をつくる。 それは謂(い)わば想念の素粒子(そりゅうし)の ようなものである。 想念の微小体は、まだビールス(濾過(ろか)性病原体) ほどにも大きな結晶体にはなっていないが、その微小体は、 素粒子のように微小体であると同時に波動的性質をもっており、 類似の波動と団結して空間を自由にわたりあるいて、 それが病気の原因ともなる。 一旦、想念によって発生した微小体は、団結して大きな波と なり、その想念を発した人のところへ来て、波長が合うが ゆえに襲(おそ)いかかり、その悪念波によって其の人を 病気にかからせ、或いは、その人の運命を押しつぶして しまうのである。 だから悪想念によって発生した微小体の集団波動は、単に その人を病気にしてしまうばかりでなく、営業を不振にし、 計画を挫折せしめ、家運を衰退せしめることもあり得る のである。》 (『新版 真理』第9巻 178.179頁)
〇 【 新生 】
《 【 新生への道の具体策】 若(も)し吾々が事物に面してこれかあれかと思い 惑(まど)うている代りに神は渾(すべ)ての渾てで あると云う真理を黙然し、人が神との関係に於いて、 神の子であると云う真理を想念して神の愛深き智慧の 導きに打ち任(まか)して生活しているならば、 その人の運命は殉教者(じゅんきょうしゃ)と云う ような力みを超えて全く坦々(たんたん)たる平安の生活を 送り得る筈であります。 人生の体験に何が来ようとも、その実相を見るとき、 それは善くなるほかに仕方がない、祝福されたものであります。 吾らがその真理を黙念する時間が多ければ多いほど、吾らは 神と一層密接なる関係に置かれ、一層緊密に神に結ばれたる 者となるのであります。 神と緊密に結合し、神の意志に協調して生きる生活を営むとき、 其人(そのひと)の現実生活には、一切の不調和は消え、 対外関係は好転し、家庭は調和し、健康は改善し、 名状(めいじょう)し難(がた)き法悦(ほうえつ)の 感情に満たされるに到るのであります。 その時吾等は神が我等を祝福して次の如く言い給う 「声なき声」をきくのであります。 「わが平安をわれ汝等に与う。 世界が汝に与えた如きものを吾は汝に与えるのではない。 汝等心を悩ますな。又恐るるな。 汝はわれを信じ、われは汝を愛するのである」と。 吾等に平和を与える此らの言葉は、宇宙の創造主 (つくりぬし)にまします神より來れる囁(ささや)きで あるのである。 神は吾々の現実生活を内から導く智慧となって生活を 秩序立て、平和と調和の世界を創造して下さるのである。 神は吾々の生活を、その現象方面までも最高の善にまで 導こうと常に護念し給うておられるのであります。 遥(はる)か天の彼方や、西方(さいほう)極楽に まします如き超越的なる神を信ずるにしても信じない にしても、吾らは、先ずわが内に宿りたまい、常に 導き給う神を信じなければならないのであります。 ・・・ 「汝の重荷をとりて吾が肩にそれを置け。 何故なら、吾は愛深く優しくして召使いの如く謙(へりくだ)れる 神であるからである。 われに依(よ)り頼(たよ)る時にのみ汝の魂の内に 平和を見出すのである。 重荷を負える者と、疲れたる者はわれに來れ、われ 汝らを休ません」 と言いたまうのが神であるのです。 吾等は神の此の言葉に全託(ぜんたく)して重荷のすべてを 神に委(ゆだ)ねて神の導きにのみ従うとき、平和が来り、 荊棘(いばら)の道が斫(き)り開かれるのであります。 若(も)し吾々が敢(あ)えて遠慮してそれを差控えるならば 却(かえ)って困難が来るのである。 併(しか)し若し吾々が自我を放棄して喜んで神の導きに 従うならば生活の重荷は軽くなり、苦しみは悦びに変わり、 吾等の力は常に新なる泉によって復活せしめられる のであります。》 (『新版 真理」第4巻 335〜337頁)
《 【人間的自我の運命から、神に一致した幸福なる運命へ】 吾々が総(すべ)ての事物を神に打ち任せて従う時、 神の御守りの中に一切の事物は滑(なめら)かに進行し、 総ての事物についての杞憂(きゆう)や取越苦労や心配が なくなり、健康を破壊する如き精神的摩擦がなくなるので あります。 真に自由への道は「自我」発展の道ではなく、神へ 「自我」を奉還(ほうかん)して、神のまにまに任せ切る 道なのであります。 若し吾々が神の智慧と愛とに任せ切って、事物が自然に流れて ゆく道におのずから乗託(じょうたく)する時、吾々は 平和と喜びとのうちに事物がぐんぐん伸びて行くのを 感ずるのであります。 今しがた私は任せ切りの道こそは自由に到る真の道であると 言ったが、神に任せ切ることによって、吾等は神と吾等とを 隔(へだ)てている所の総てのものを放棄することになる のであります。 それは女性が男性にすべてを任してしまったとき、その女性は 却って男性をわがものとすることが出来るようなもので あります。 かくて、吾らは神の与え給うた真の自由の境涯を回復し、 この世界を「わが家庭」の如く自由に振舞うことが出来る のであります。 吾々が総てのものを神に与え切る時すべてのものは わがものとなります。 此の道こそは心配のない道であり、一切の消極的なる事物、 貧乏、病気、悩み、及び吾等を縛(しば)って居(お)った 凡(あら)ゆるものから解放され、われらの運命は更(あらた) まり、殉教者の峻(けわ)しき道は、道にいそしむ法悦 (ほうえつ)の道とかわり、日常生活にただ平和のみ、 幸福のみが訪れることになるのであります。》 (『新版 真理」第4巻 340〜341頁)
【“神の国”を地上に顕す道】 《 【就寝直前の神想観】 あなたが一日の仕事を終って、眠りに入ろうとする 直前、時間が許さなかったら極(ごく)短時間でも よいから神想観をして、先ず神に感謝を述べ、一日じゅう 仕事の事に熱中して、色々の外界の問題を心に掴(つか) んでいたその心の“掴み”を放して、その問題を神に委(ゆだ) ねて、心の重荷を軽くしてから眠りに入るのがよいので ある。次の如く神想観中に念ぜよ。 「今日いちにち中、神の愛によって護られ、神の智慧に よって導かれ、健康と繁栄との道を歩ませて頂きました 事を感謝いたします。 私が今日の生活中、腹立ち人を憤(いきどお)り 憎みました事が少しでもありましたら、その心の 汚れを潔(きよ)めたまえ。今、わたしは全ての人を 完全に赦(ゆる)しました。その如く神よ、私の過 (あやまち)を赦したまえ。わが生命をすべての仕事を 神さまあなたに委(ゆだ)ねて眠りに入らせて頂きます。 私の眠っています間にわが魂に平和を、わが肉体に 健康を、わが精神に自信と断行の勇気とを、わが事業に 繁栄の知恵を与えたまえ。 すべては神様あなたにお委せいたします。 ありがとうございます」 このように念じて、神が凡(すべ)てを良くしたまう ことを信じ、本当に一切の思い煩(わずら)い から脱却して、心の重荷を解除してから安らかな 眠りに入るのである。》 (『神と偕に生きる真理365章』 321.322頁)
《 【神演出の人生劇に出演して】 あなたが“神の子”であることを信ぜよ。 尊貴(そんき)なる自己の実相を信ぜよ。 現象の姿がどのようにあろうとも、あなたの職業又は 社会的地位が如何にあろうとも、あなたの実相が “神の子”であり尊貴なる存在であることに変わりは ないのである。 どんな地位にあろうとも、どんな職業であろうとも、 人生という「神様演出の人生劇の舞台」に於いて、 あなたが何らかの神授(しんじゅ)の役割を、その時、 その場に於いてあなたが果たしつつあることは否定できない のである。 それ故あなたは、神にとっても、人生にとっても必須必需の 役割を果しつつあるのである。 この自覚をもって一日一日の仕事を遂行するとき、その仕事 そのものに神授の光が輝きはじめ、仕事に“神の悦び”を 反照(はんしょう)して、その仕事を遂行することが あなたの悦びとなって来、仕事の成績があがり、 生活の向上がおのずから結果するのである。》 (『神と偕に生きる真理365章』 322頁)
《【神は遍満(へんまん)し給う】 神の生命は水が海にみつるように宇宙に満ちており、 吾々の自分でつくった城壁(じょうへき)がくずれる とき、滾々(こんこん)と流れ入るのである。 謙遜(けんそん)になれ、幼(おさ)な児(ご)の心になれ、 我を捨てよと云うのも、心の城壁を取去って、神の愛と生命 (いのち)とを流れ入らしめんがためである。 「タオルを手拭(てぬぐい)かけに掛けるように、 私は私の生命(いのち)を神様にすっかりもたれかけ させました」と云う心境になって胃癌(いがん)の治った 体験談をした人があった。 タオルは自分で空中に引っかかろうとはしない。 全託(ぜんたく)である。》 (『光明法語 道の巻』 189頁)
《 その過去・現在・未来の一切がいまここに把(つか) まれているところの“久遠即今”の生命を生きよであるのです。 『これを握れば一点となり、これを開けば無窮(むきゅう)となる」 と聖経に書かれているところの、“無窮”が常にあるところの “今”の一点であるのです。 現象時間の中で“無窮”を生きようと思うと肉體の寿命は 無窮には生きられないけれども、“今”の一点に“久遠”の 絶対時間を生きると、過去も現在も未来も今ここに一つに 把(つか)まれてしまう、ということになるのであります。 そうすると、吾々は今ここの内に過去も現在も未来も把んで いるから、過現未が自分の掌中(しょうちゅう)にあるのです。 普通、過去は変化することが出来ないというけれども、 過去も変化できる。 そこから吾々は真理を自覚すれば過去の業(ごう)を消すことが 出来るということがわかる。》 (『無限供給の扉を開く』 237頁)
〇 【体験の意義の深い真理(現象以前)】
《 【人生の体験の意義に就いて】 併(しか)し、彼等が人生の体験が何のために与えられるかの 意義に就いての知識がなく、諸々(もろもろ)の人生体験の 目的を知らず、この現象界の存在する所の法則を知らず、 然(しか)もそれでさえもなお、立派にそのような価値ある 生活を営むことが出来たとするならば、若(も)し此れらの 人々が人生の諸体験のよって來(きた)る意義を知り、運命を 支配する法則を知ったならば、尚(なお)一層多くの価値ある 人生を生活することが出来たに違いないと思うのであります。 若し此れらの人たちが目に視(み)えざる世界に於ける法則、 換言(かんげん)すれば、心の世界に於ける法則を知り、 その法則に適(かな)って生活したならば、必ずや尚一層 大なる運命の主人公となることが出来たに相違ないのであります。 心の世界は原因の世界であります。 客観の世界は結果の世界であります。 前者は靈的であり、後者は物質的であり、霊は物質の上に 優位を占めて物質界の運命を支配するべく働くのであります。》 (『新版 真理」第4巻 302頁)
《 【心の世界における運命の形式】 すべての地上の事件は「物質世界」にあらわれて來る以前に 「念(こころ)の世界」でできあがるのでありまして、 「念の世界」でできたとおりが、物質世界に映(うつ)って はじめて地上の事件となってあらわれて來るのであります。 この「念の世界」でできあがるという事件は、すでに永劫 (えいごう)の昔からできあがっていて、もうちょっとも 変えることができないものであるかといいますと、 決してそうではないのであります。 「念の世界」でできあがる事件も、宇宙に満ちているいろいろの 生物の心の働きの組み合わせにしたがって、時々刻々作られて ゆくのであります。 大きなあらすじの事件は、多くの「念」の働きを成立要素 としてこまかい事件よりも早く、いわばむしろ、多数の 「念」の多数決で決まってゆくのでありますが、それとて 「進行中」のものであって、できあがってしまったものでは ありませんから、ある事件を起こしている「念の要素」の 変化によって、また事件は変わってゆくのであります。 ここにわれわれの運命を支配しうる自由があるのであります。 ・・・ われわれの災難とか不幸とか病気とかいうことも最初は 「念(こころ)の世界」に造られるのでありますが、これも 「物質世界」に顕(あら)われてくるまでに「心の世界」に まだ事件があるうちに、修正(なお)しておいたら、 災難が災難にならず、不幸が不幸にならず、病気が病気に ならずに「物質世界」にあらわれてくるのであります。 つまりメタフィジカル・ヒーリングというのは「念の世界」 に於ける事件を修正(なお)しておいて、今後「物質世界」 へそれが映(うつ)って現実の事件として出て來るさいに 不幸や不健康をなるべく出さないようにする方法だと いうことがいえましょう。 しかし多勢(おおぜい)の「念の総合的力」で強く決まって しまった事件、たとえば災難は、われわれがいかに精神統一 をして、その反対の思念をしましても、その事件を起こさなく させるということは出来ないのであります。 そういう場合には、われわれ自身の心がその災難の渦中 (かちゅう)にひきつけられないような健全な信念をもって いさえすれば、災難は起こりましても、「類でないものは 反発する」という心の法則によりまして、たとい災難を 受くべきもののみがその災難の渦中に巻きこまれましても、 自分は、その災難の渦(うず)の外へ放り出されることに なるのであります。 (『生命の實相』第1巻 118.119頁)
《 この修養の根本的原則とは、 「自己が神の子であって、自己の生命は神の霊である」 との事実に目覚めることであります。 この事実に目覚めるときわれわれは心の根本において 神の無限力に生かされていることを感じますから、 おのずから心が朗(ほが)らかになり、寛大になり、 愛深くなり、円満な、平和な、恐怖心のない、 取り越し苦労をしない人間になり、したがってどんな 不幸も自分の側を素通りして近づかず、幸福ばかりが 引き寄せられて來る心的(しんてき)磁石となるので あります。 では、「自己が神の子であって自己の生命は神の霊である」 という事実に目覚めるにはどうしたらよいかという 一つの秘訣(ひけつ)を申しますと、常に言葉の力で 「私は神の子である」という思想の種子(たね)を 自分の心に植(う)えつけるようにするのであります。 道を歩く時にも「神の子が今歩いている」と低声 (こごえ)でいって、その言葉のとおりに思って 神聖な罪にけがれない「本当の自分」を心に印象する ようにします。 往復の電車に乗っている小さな暇(ひま)を利用しても 「私の真性は神である。神こそ本当のわたしである。 だからわたしは恐れない」 と自分にだけ聞こえる声で自分自分に聞かせます。 人に面会する時にも 「わたしは神である。神がわが父である。父と子とは 一体であるからわがなすは父がなし給うのだ」 と言葉に出して数回繰り返して自分にいって聞かせて 心に自信力を植えつけてから会うようにします。 すると、その一回の面会には失敗してもだんだん人に 面会するのに自信がつき、やがてはすばらしく成功する ようになれます。 結果を急いではなりません。 要するに「神と我とは父と子との関係であって自分は 神の無限力に後援(こうえん)されている」という意味 のことばを、暇あるごとに、機会あるごとに、言葉の力で、 自分自身の心の奥底にたたみこむようにするならば、 この自覚の深まるにしたがって運命が開けてくるようになり、 神我(しんが)一体の真理がいよいよ深く心の底に目覚めて、 心全体が照り輝くようになりますと、 「類をもって集まる」の心の法則によって、どんな時にも 明るい運命ばかりが自分に吸い寄せられて來るようになり、 もう前途の予感力が欲しいなどという欲望もぜんぜんなくなって しまうのであります。 なぜなら、もうその人は運命に対して不死身(ふじみ)となり、 何事が起ころうとも自分にとって悪いことは一つとして起こら ないとの大確信に到達するからであります。 確信は「念の世界」における運命のひな形で、この世の出来事は すべて、このひな形のとおりに出てくるのであって、悪い確信を もてば運命が悪くなり、善い確信をもてば運命が善くなる ことは免(まぬが)れがたい事実なのであります。》 (『生命の實相』第1巻 140〜142頁頁)
《 生長の家は今や、心の法則を発見し、霊界の法則を発見し、 それを日常生活に応用する道を発見しつつあるのです。 多くの悩める人々や、病める人々が、それによって 救われているのです。》 (『新版 真理』第9巻 9頁)
《“目無し堅間(かつま)の小船(おぶね)”に乗りて 竜宮城に到る祈り】 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)さま (編集注:神武天皇の御祖父にあたります。 別名、山幸彦・火遠理命(ほおりのみこと) が兄命(あにみこと)さまにまします火照命 (ほでりのみこと)に鈎(つりばり)を借り給いて、 海原(うなばら)に漁船(いさりふね)を漕(こ)ぎ 出て魚漁(ぎょりょう)を為(な)し給いし時、 一尾(いちび)も釣(つ)れずして却(かえ)って 魚のために鈎を食いとられて、火照命に鈎を お返し申すこと能(あた)わず、嘆(なげ)き給いし その時、あらわれましたのは竜宮の大神にまします 住吉大神(すみのえのおおかみ)であらせられるのである。 住吉大神はまた水火津霊(しおつち)の神と申し上げる 創造の神であらせられるのである。 水は陰であり、火は陽であり、陰陽をつなぎ合わせて 天地宇宙の創造を成し給うときの御名(みな)にまします のである。 天地宇宙創造の神業(かみわざ)を完成し給いて、 上津瀬(かみつせ)、中津瀬(なかつせ)、底津瀬(そこつせ) の秩序を整え給う時の神名(みな)を住吉大神と 称(たた)え奉(たてまつ)るのである。 住吉大神出でまして彦火火出見尊に目無堅間(めなしかつま) の小船(おぶね)を授け給う。 “目無し”とは、時間の目盛り無きことを意味し、“時間”を 表象(ひょうしょう)する語(ご)であり、“堅間(かつま)”とは 空間が堅く閉まりて空間なきことを意味して“無空間”を 表象する語である。 「目無し堅間の小船」とは、時間未だあらわれず、空間未だ あらわれず、その本源の“絶対無の小船”をあらわす。 絶対無とは“有(ゆう)”に対する相対無とは異なり、 何もないのではなく、図解すれば時間空間を表象する 縦横二線が十字交叉する一点に当たるのであるから、 これを“小(お)”をもってあらわし、しかも中に無尽蔵に 一切の宝を積載しているから大乗(だいじょう)の “船”をもって表象するのである。 一切の宝を無尽蔵に積載する御船(みふね)に乗れば たちまち竜宮海に航行(こうこう)することを得て、何物も 失われない楽園に入ることが出来るのである。 その楽園、今此処にある世界こそ竜宮城である。 彦火火出見尊は、竜宮城に到り給いて失われたる鈎を見出し 給うたということが、 古事記 に録(しる)されているのである。 今、日本のみならずすべての世界、すべての人間、あまりにも 失われたるもの多く、不景気に満たされているのは、 人間の小智才覚(しょうちさいかく)、現象の富ばかりを負いて、 富の本源である竜宮城に到る行法(ぎょうほう)を知らない からである。 富の本源に到る道は広くして、“大道無門(だいどうむもん) である。 大道の“道”とは「太初(はじめ)に道(ことば)あり、道は 神と偕(とも)にあり、・・・これに生命(いのち)あり」と 「ヨハネ伝」にある通り、神の生命をあらわし、この道、 曠空(ひろ)くして限りなく、門なければ無門にして自由自在 である。 すべからく、『真理の吟唱』に収録されたる 『大道無門・自在無礙(むげ)の祈り』の章を繰り返し読誦して、 『目無し堅間の小船』に乗りて竜宮城に航行する道を 知り給わんことを。》 (『聖経 続真理の吟唱』 13〜16頁)
《 「入龍宮」とは龍宮海に龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ) の如く、或は浦島太郎の如く出入りすることである。 龍宮とは何処にあるか。龍宮は「海の底」にある。 併(しか)しそれは象徴的なお伽(とぎばなし)に 過ぎないのである。龍宮海とはウミのソコ (即ち創造(ウミ)の根底(ソコ))に横たわる世界である。 即ち実在界(実相界)である。 一切の創造は此処にて行われるのである。 ・・・ 「霊」の永遠性を見、「理念」の久遠不滅性を知るためには 時々この三次元の玉手筥から去って、龍宮入りをしなければ ならないのである。 これが「われ今五官の世界を去って実相の世界に入る」である。 その龍宮入りの不可思議な境界を表現したのが、この 「入龍宮不可思議境界録」である。》 (『新版 真理』 第4巻 70.71頁)
〇 【 偽象を真象に 】
《 【不安の起る原因の克服】 諸君は真実の存在を外見に依(よ)って判断しようとし勝で あります。 そういう判断は止(や)めて下さい。 「生長の家」の聖経『甘露の法雨』には 「感覚は唯信念の影を見るに過ぎず」と書いてあります。 西田哲学では「観(み)られる世界は観る人の心の影だ」 と言い、仏教では三界(さんがい)は唯心(ゆいしん)の 所現(しょげん)であると言います。 神は善であり、真実において「一切は善である」と言う 信仰を見える世界の外形に依(よ)って捨ててはならない のであります。 五感(ごかん)に視(み)える世界は心の姿の反映(はんえい) でありますから、「悪」が存在する如き五官(ごかん)の 証明に依って、神は善であり愛であると云う信仰を捨てては なりません。 見えると云うことと「真実にある」(実在する)と言うことは 別なのです。 外形に依って判断すれば、人生は屡々(しばしば)悪(あ)しき ものが充満し、災禍(さいか)や、疫病(えきびょう)が 充ち満ちているように思われます。 併(しか)し、神が完全であり給うという信仰によって 実相を観れば、真実の人生は決して悪ではないと云うことが 判(わか)るのです。 そして却(かえ)って人間自身の心が彼の悩みの原因であると云う ことが判(わか)るのです。 何故人間自身が彼自身の悩みを造ったのでありましょうか。 それは彼に与えられたる自由から、そしてその自由意志によって、 知恵の樹(こ)の実を食べたからです。 パンドラの箱の中に「実相」の希望のみを封(ふう)じ込み、 凡(すべ)ての悪をのさばらせたからです。 すべての悪は五官知即ち「知恵の樹の実」を食し、五官によって みとめられる一切をそのまま実在であるとし、「実相」を パンドラの箱、即ち潜在意識の箱の中へ封じ込むことに 依って顕(あらわ)れて来たのです。 かくて神が人類に与えた「自由」を、人類は、 最初の行使(こうし)方法に於いて失敗したのです。 しかし、それは「悪」と云うよりも、人類がまだ幼稚で 発達の途上にあったと言えるでしょう。 やがてパンドラは其の箱のなかから実相の「希望」をも 此の世の中に呼び出して、思うままに其の「希望」を、 「実相」を、実現せしめる時が来るでしょう。 否、既にそれは來つつあるのです。 人間は先ず、「知恵の樹の実」を食べて楽園から追放 された、しかしやがて「生命の樹(こ)の実相(み)」 を食べてエデンの楽園に帰還するべく生長しつつ あるのです。 人類の失敗はそれは試行錯誤(しこうさくご)であって 「悪」ではない。 失敗のように見えているけれども失敗ではない。 人類は試行錯誤を通して進歩しつつあるのです。 人類は楽園以外に一歩も出られないで幸福であった のでは、封建的幸福、俘囚(ふしゅう)の軟禁(なんきん) の幸福です。 人類は自由に楽園を跳(と)び出して、また自由に 楽園に帰るのでなければならない。 人類は自由にパンドラの箱を開いて、しかもすべての 「悪」を雲散霧消(うんさんむしょう)せしめ、 「希望」を自由に実現し得るのでなければならない のです。》 (『新版 真理』 第4巻 312〜313頁)
《 現象に二種類あります。 一つは實相の投影としての現象で、これを真象(しんしょう) と申します。 もう一つは妄想又は心の迷いのあらわす処の現象で、これは 現象の中の偽象(ぎしょう)であります。 神様のお創りになった實相の上に妄想の雲を覆(おお)うて、 ちょうど月を叢雲(むらくも)が覆いて暗くしているような 暗い現象をあらわしているのであります。 それは「人為(じんい)」即ち人の為(な)した所の心の迷いが、 ひっかかってそこに象(かたち)を表しているのであります。 「人為」はニセモノでありますから漢字では、イツワリと いう字を“人偏”に“為”と書くのであります。 これが偽象即ちニセモノの姿で、ニセモノは真物(ほんもの) ではないのであって、真物でないものは「本当はない」ので あるから、それを「有る」として、それと取組んでは ならないのであります。》 (『新講 甘露の法雨」解釈 134頁)
〇 【 背水の陣を布(し)け 】
《 この人は肺病と胃下垂とで長い間悩まされた。 『生命の實相』を読んでも治らないで、益々悪化して行った。 もう経済的にも行きつまってしまって、もう三日間で ドタン場だと云うところまで追いつめられた。 その時、『生命の實相』の生長の家の生き方のうちで、 「排水の陣をしけ」と云う処に気がついたのである。 「神の子に病気はない」のだ。 病気がないのになぜ寝ているか。 それは、やはり病気があると心の底で思っているから ではないか。 病気はないのだ。病気がなかったら、病気がないと云う ことを実行しなければならぬ。 神の子は起き上がるのだ。 こう決心してフラフラの身体を起こして立ち上がり 「病気はない」を生活に実践した。 家中を掃除した。 神の子を生活するとは愛することだ。 愛すると云うことは感謝することだ。 すべてのものに感謝しよう。 こうしてすべてのものに対する不平や憎(にく)みを 捨て感謝することにした。 するとその儘(まま)、重症の肺病と胃下垂とが治って しまった。 その病気を治したコツを今では経済生活に応用しているが、 今或る事業をやっているが、一切取越苦労はしない、 何事も必ずよくなると信じてやる。 愛すればよいのである。 未来の結果は考えないのである。 人のために愛して尽くせば好いのである。 これだけ出したらアトはどうなるかなどとは考えない のである。神の国には不景気などはないのである。 他の人が不景気の話をしても私に不景気はない。 実相の世界には不景気はないから無いものは無い。 ただ人を愛する、人のためになることをやる。 維持報恩会にも先日献金したが、するとその数倍する金額が すぐ入って来た。 出せば出すほど殖(ふ)える。未来のことを取越苦労するな。 今、人を愛して与えているのが神の子の悦びの生活であると 信じてやっていると、実際栄える一方だと云って感謝された。》 (『新版 真理』 第4巻 267〜269頁)
《 「進むほかに道なし」の覚悟は、われわれに平常の肉体以上 の力を発揮させるものである。 それは小さな我を滅ぼして、「無限の生命」から力を汲(く)む 一つの方法であるのである。 「わが行くところ必ず勝利あるのみ」常に何事に臨(のぞ)む にもこの覚悟をもって臨むものは必ず勝利を得るのである。 「わが行くところ必ず勝利あるのみ」の覚悟が大切だと謂っても、 実際心を誘惑する逃げ道があっては本当の覚悟ができてこない ものである。 そこで心がまだ本当に定まらない者には是非とも背水の陣が 必要となるのである。 「背水の陣を布(し)け」という言葉は、英語では “Bur n your bridge behind you"と言う。 訳せば『なんじの背後の橋を焼き落とせ」ということである。 いったん渡って來た橋を焼き落としてしまったとき、われらは もう退却するにも退却の道がない。 ただわれらに残される自由は進むことのみとなるのである。 進ほかに道がない! これほどわれらにとって強いことがあろうか。 一歩でも動けば、それは退歩ではなく進歩であるのだ。 げに「背水の陣」のうちには万物(すべてのもの)が 備(そな)わっているのである。 善き水泳教師は弟子を深みにつれて行って手を放つのである。 いつまでも足のとどく浅瀬にいて、イザという時には足を 底につければよいというような逃げ路を造っておいては、 その人の水泳の上達はかなり遅いのである。 深みにつれ行かれて指導者に手を放たるれば、彼は 「自分で泳ぐか、然(しか)らずんば死」である。 この時たちまち彼は本当に水上に浮かぶコツを 覚えるのである。彼は自分の全力を出さずにはおれない からである。 自分の全力を出し切るところに、そこには無限の力が 「宇宙の大生命」から与えられる。 「神はみずから助くる者を助く」というスマイルズの 金言はまことにも真理である。 ・・・ 全力を出しきるときにこそ、「神」という無限力の 貯蔵庫から新しい補給が開始されるときである。 それまでは五尺の身体にただ小出しされている力だけ しか使用しないのである。 出しきれ! 出しきれ! 出しきったときにのみ無限力が開かれる。 自己を小さな者と見るな。自己を弱き者と見るな。 外の力にたよるな。 「万一(まんいち)」の時の逃げ路をつくるな。 死んだときに備える遺言を語るな。 「万一」などということは、神の子たる人間には ないのである。いよいよのときにこそ神の無限力が われらに発現するのであるのだ。 世に立って失敗する者の多くはみずから「万一」の ときを予想して、その時の逃げ路をつくって置いた からである。》 (『生命の實相』第7巻 62〜65頁)
《 背水の陣を布(し)き、一つのものに自己の心を 集中するときは、自己の心の力は無限なるがゆえに、 能(よ)く自己を死地(しち)より蘇(よみがえ)ら すことができるのである。 この真理が判(わか)れば、人はすべてをあげて 一つのものにたよるであろう。 そして、その一つのものとは他(た)なし、 自己の内なる無限生命力であるのである。 ・・・・ 諸君よ、自己を信ぜよ。自己に宿る神を信ぜよ。 自己に宿る無限力を信ぜよ。 この賢き誌友のごとく、最初より「勝利」の看板を造って 掲げよ。そのほかの事は決してありえないと信ぜよ。 決して最初から「失敗」の看板を掲げて歩むな。 喀血もしないのに、喀血したときの用意だと薬をたずさえて 旅行する者は、最初から失敗の看板を掲げて歩むものだ。 必要な力はすべて時に応じて神が与えてくださるのである。 神はここに見よ、かしこに見よというがごとくには 外にあらず、内にあるのだ。 内の力に全然頼りきるとき内から無限力が発揮されて くるのである。》 (『生命の實相』第7巻 66〜68頁)
《 すべて蒔(ま)かざるものは刈ることをえず、 価(あたい)を払わざるものは得ることをえざるが 心の法則である。 無限の神の力を自己の掌中(しょうちゅう)に得んと するものは、自己の誠を献(ささ)げきらねばならない のである。》 (『生命の實相』第7巻 70頁)
《 「生長の家」が人類に告げんとするところは、 人間の実相のなかにすでにすべてのものが備わっている。 外に求むるよりも内に求めよということであります。 ――わが実相(ほんとのすがた)は「神の子」であり、 人は神の子として神の世嗣(よつぎ)であるから、 欲するすべての事物はすでにわが持ち物である のであります。 すべてのものは今現象界のわが手になくとも、神の 御手(みて)にあるものはすべて世嗣(よつぎ)たる われらの自由使用にゆだねられているのですから、 すでにすべての者はわれらの手に与えられている わけであります。 富を欲する者は無限の富をわが実相から引き出すことが できまするし、生命を欲する者は無限の生命をわが実相 から引き出すことができまするし、能力を欲する者は 無限の能力をわが実相から引き出すことができるので あります。 親の富は同時に世嗣の者の富なのであります。》 (『生命の實相』第6巻 3頁)
〇 【 宇宙意識 】
《 【神は人を通して最後の最高の創造を為したまう】 宇宙には非物質の「普遍的意識(ふへんてきいしき)」が 満ちており、それを称して「神」と言うのであります。 物質宇宙はその創造力(意識)の一部分のあらわれで あるのであります。 その創造力は自然現象として鉱物・植物・動物等の 発生を惹起(ひきおこ)したのでありますが、 その創造力の最高尖端(せんたん)は人間として あらわして、単なる天然力で及ばない自然現象以上の 工作をし、今迄無意識的活動のすがたであらわれていた 創造力が意識的活動のすがたに於いてあらわれるように なったのであります。 従って人間は宇宙の創造活動の自覚的中心となるに 到ったのであります。 そこで人間の自覚意識はそのバックに宇宙意識(神)が 存在するのであると云う事が明らかになってまいりました。 従って人間が正しく事物を欲するときには、神が欲し たまうのだと言うことが出来るのであります。 人間が事物を工作するとき神が工作したまうのであると 云うことがわかるのであります。 随(したが)って人間が正しく欲するとき何ものも その意欲をさまたげるものではないのであります。 その意欲をさまたげる何ものかが存在するかの如く 見えるのは吾々が神に則(そく)して正しく ものを求めないからであり、神に則して事物を 求めさえするならば何人もそれにそむく者は あらわれようがないのであります。》 (『新版 真理』 第4巻 251〜252頁)
《 われわれの生命(たましい)が生きとおしであるという 意味には二つあります。 われわれの生命(たましい)は宇宙の大生命(おやさま) の支流であって、宇宙の大生命に生かされている。 さらにもっと適切にいいますれば、宇宙の大生命の 流れと一緒になって流れているのであります。 それだからその一つの支流(わかれ)であるところの 自分の水(生命)が涸(か)れようとも、その水は 大生命の大きな流れに注(そそ)がれて大生命と一緒に いつまでもとうとうと流れているという観方(みかた)が その一つであります。 今までの宗教家の説明はこの観方を採用していたもので ありまして、多くは死んだのちにおけるひとりひとりの 特性ある霊魂(れいこん)の不死(ふし)をみとめないで、 全体と一緒になって流れている大生命に帰る意味の不死のみ を説いています。 そしてその方がいかにも大乗(だいじょう)の観方らしく、 深い哲人的観察らしく聞こえまして皆さまからも歓迎された のであります。 この観方にもむろん真理はないではありません。 「生長の家」におきましても死後ばかりでなく、現在肉体 の生きているうちのわれわれの生命(たましい)も 宇宙の大生命と一緒に流れているのであるから、この 大事実を心の底からさとらせていただくことによって われわれ個々の生命はいっそう深い生活ができ、安心と 自信をもってその日その日を明るく豊かに経済的に 肉体的にも生き切ることができると信じているのであります。 ・・・・ このようにして「生長の家」では単に哲学的に肉体死後の 生命(たましい)が大生命(おやさま)へ復帰しての 不死を理屈づけして考えるだけではなく、霊界通信の 事実によって「個人に宿る生命の不死」をも信ずるのであります。 われわれは生くるも死するも結局は生命はほろびないで 「無限生長の道」に乗せていただいていますので、各人 ひとりひとりの「生命」の生長に最もよいときに、それぞれ ふさわしい苦しみも、悲しみも、病気も、肉体の死も、 生命創化の法則によってやって來るのでありますから、 たとい苦しみが起こって來ましても、悲しみがやって來ましても 病気になりましても、肉体が死んで腐ってしまいましても、 この肉体にやどっている「生命(たましい)」は滅(ほろ)んで しまわないで、個々(ひとりひとり)の人格の特性(個性)を そなえたまま、わたしはわたしとして、皆さんは皆さんとして、 やはり「無限生長の道」をあゆんでいくことができるのであります。 このことが信ぜられればもうどんな苦しみも悲しみも自己の 無限生長の資料としていただいた皆ありがたい修行であると 合掌して受け取らせていただき、感謝感謝で暮らすことが できるようになるのであります。》 (『生命の實相』第1巻 7〜10頁)
《 存在(もの)の実相をとらえるには、われわれは 「実相覚(じっそうかく)」によって、 「一つの神」すなわち、在(あ)りとし在(あ)らゆるものを 在(あ)らしめている一つの力、生きとし生けるものを 生かしている一つの力を認めねばなりません。 「在(あ)る」ということと「生きている」ということとは 「実相覚」で観れば一つのことであります。 在(あ)るものはすべて生きている。 存在とは生命の別名である。 生命とは神の別名である。 神とは完全の別名である。 すなわち存在するものはすべて生命であり、神であり、 完全であるのであります。》 (『生命の實相』第2巻 105頁)
《 太陽から放射された光線は、太陽とは決して別な存在ではない。 太陽を離れて「太陽の光線」は存在しない、「太陽の光線」と 太陽とは一体である。 それと同じく、「真如(しんにょ)」から離れて「真如」は 存在しない、「如来(にょらい)」と「真如」とは一体である。 そのごとくまた「神から放射された観念」であるところの 「人間」も、「神」から離れて存在することはできないのであって、 神と人間とは一体なのであります。 だから「生長の家」の「智慧の言葉」には 「道を歩く時には今神が道を歩いていると思え」と あるのであります。 おなじようにわれわれは机に凭(よ)っている時も 「今神が机に凭(よ)っている」と思うべきであります。 夜寝床に横になる時も 「今、神が横たわっている」 と思うべきであります。 こういうようにして常にわれは神人(しんじん)であるという自覚を 失わないようにすると、われわれは常に朗(ほが)らかな光線 ゆたかな気分を維持することができ、自分の実相の円満さが 「影であるところの肉体」または「境遇」に映写されてきて、 肉体に健康に境遇は幸福になってくるのであります。》 (『生命の實相』第2巻 110〜111頁)
《 しかしわたしは、お前に告げる。―― 人は神の子であるから、神はいかなるその小さき子供 たちにも祝福の微笑(ほほえ)みを投げかけ給うのである。 その肉体は去って行くいかなる小さき魂にも微笑みを 投げかけ給うのである。 まもなく全世界の人類は、神の造り給えるこの世界には、 人間自身が信念によって創作しない限りは何一つ醜(みにく)い ものは存在せず、何一つ悪なるものは存在せず、 何ひとつ恐怖すべきものは存在しないことを悟るに到る であろう。 すべての醜さ、すべての恐怖すべきものは何一つ実在では ないのである。 それは実在するかのように外見を示しているけれども、 本当は実在しないのである。 人間の真性は(真に実在する人間は)神の子たる霊性である。 神の子たる人間の霊は本来聖浄(せいじょう)であって、 神は常にその上に祝福の微笑みを投げかけてい給うのである。 死するように見えようとも、いっさいの神の子は 神に抱(いだ)かれ神に導かれ、永遠に生きるのである。 あらゆる人は永遠に生き、神と偕(とも)に生きるのである。 どこにもこの世界には恐怖すべき何物も実在しないのである!》 (『生命の實相』第10巻 106.107頁)
・メール等にて参加
■: H(メールにて)
合掌 連日猛暑日が続いていた7月29日に、 「ひかりのお便り」8月号と「靜思集」の抜粋が届きました。 有難うございます。 当面酷暑が続くと思われますが、ご自愛賜りたいと存じます。 さて、今回の誌友会テキストが、 『真理』青春篇第十四〜十七章との 告知がありましたので、読後の感想等を次のように投稿 させていただきたいと存じます。
@『真理』青春篇第十四〜十七章を拝読して
・第十四章 人間の運命に就いて p286〜290 ―昭和20年6〜8月における生長の家広島教化部教化主任をめぐる 不思議な運命に慄然といたしました。 諫見功 先生‥‥清茂基博士の進言により大聖師が解任辞令を発され、 爆心地の教化部を離れて無傷 山田祐義さん‥‥大聖師からの転任辞令を返上し、岩国駐在継続で無傷 松本道樹氏‥‥大聖師からの転任辞令が遅着したことにより 未着任となり無傷 清茂基博士‥‥まことに惜しみても余りある方でありましたのに、 爆心地での診療中に被爆
・p293 リープマン博士は「… 苦しみや悲しみを、 口に出して言わせてみると、精神肉体両方面の病気が驚くほどよく治った」 ―言わせてみた後で、これでもう気持ちの整理ができたのですから 今後再び口に出す必要はなくなったのですと、添えて差し上 げるのが肝要かと思います。
A『祈りの科學』(新選谷口雅春選集4の底本)を自習しました。
・p64 誰でも人を憎む時には自分自身に憎むべきものが あるのであって、その罪を相手に映して、相手を惡いと思ふのです ―したがって、憎むべき相手を許す時には、 憎む罪を犯した自分自身をも許さなければならないということになります。
・p101 自分は罪深いものであるから、 かういふありがたい出來事を~さまから頂くことができる資格が ないのだといふやうな 〜102 謙つた考へである。 さういふ謙遜な考へ方は、一見敬虔な信仰深い考へ方であるかの如く 見へるけれども、自分のつくった罪の方が、~さまの力よりも強力であって、~さまの恵みを妨げるやうな強大な罪の力があるといふやうなものゝ 考へ方そのものが、すでに傲慢だといはなければならないのである ―この修辞で、歎異鈔第一条の「悪をもおそるべからず、 弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへに」 を思い出しました。
・p216 婦人が如何なる心の間違ひをしてゐたか、 如何なる間違った行動をしてゐたか、 そしてそれが病氣として肉體に現はれ たのかは 彼女自身に全然わからないのである。 しかしわかる必要はないのである。 又彼女の病氣を癒えるやうにならし めた所のものは 何であるかを知る必要もないのであるとマン女史はいってゐる。 たゞ~に直接對面し、~のみ心にまかせきり、 ~に仕へ、~に感謝し、感謝報恩の行ひをつくしてゐることによって、 すべての迷ひが消へてしまひ、實相の 完全さが現はれたのであった。 ―余念を持たず、ひたすら神の義を求めよという件です。 「序」にあるように、ユニティー教派系ステラ・テリル・マン女史の 「祈りによって運命を變化せよ」と云ふ題名の著作の翻訳なのですが、 逐語訳ではなく大聖師特有のスタイルで編集してあります。
・p260 成長期の子供には愛が彼に與へる所の安全感程 重要なものはないのである。 子供にとっても兩親から愛されてゐるその 愛だけでは 足りないのであって、兩親夫婦關の愛が必要であるといふことを 指摘してゐるのは生長の家と同じである。 ―円満な家庭こそが子供を円満に育てるのであるとのご指摘は重いです。
B大聖師四十年祭における総裁ご挨拶(機関誌8月号)について 「宗教の教えには中心部分≠ニ周縁部分≠ェある」とし、 「人間は男女とも神の子」が中心部分=A「夫にハイ」は現在では法的 に問題視されるおそれもあるので過去の周縁部分 として対応すべき旨の要旨が掲載されております。 これを敷衍しますと、大聖師が「白鳩」誌に寄稿されたものを 纏めた十指に余るご著書が重版保留となりかねないです。 今後世情が変わったり、甚だしくは法律改訂があった場合には この周縁部分≠フ吟味が不可欠になります。 それとは別に、中心部分≠ニ周縁部分≠フ喩として、 本尊≠ニ光背(後光、光輪) とするのは如何なものでしょうか。 中心と周縁との重要度が一目瞭然だと思うのですが。 同じ浄土真宗なのに西本願寺派と大谷派では阿弥陀如来の 光背の形が違っていますので、 光背の周縁たるの所以がはっきりします。 キリスト教でも、キリスト像やマリア像等に halo≠添えるのが普通です。 ただ、イスラームは偶像をつくらないのでこの関係が成り立ちません。 また、ヒンズー教のことにも詳しくないのですが。
・ はうら いつもその時に適切なご教示ありがとうございます。 毎日暑い日が続いておりますが、変わらずの真理研鑽のご姿勢が 冷風となって、周辺をなだめ整えてくれます。 いつもご教示くださいまして、ありがとうございます。 どうぞご自愛ください。
■:G(メールにて)
いつもひかりのお便りをありがとうございます。 (あなたの中に)の文章を拝読して、 そうか。神様は常に私と共にいて下さるだ。 と学びました。 ひかりのお便りから、沢山の気づきを教えて頂けます。 感謝です。 有り難うございます。
・ はうら いつも真摯な態度に感服いたします。 認めて信じて観る事が成就の基と教えられていて、その通り になるという事だと思います。 暑さ厳しき折、ご自愛ください。 ありがとうございます。
■: K(書簡にて。要旨)
『ひかりのお便り』届いております。 ちょっと所要にて、封を開けたものの、じっくり読む時間が とれずに、ご連絡遅くなりました。 どこの行をとっても深い真理ばかりで、實相の観点に立つ ことがどれほど大事なことかと思い知らされます。 『實在』である宇宙に充ち満つる神と一体であること、 日々自覚を深めてまいります。 ありがとうございます。 本物の生長の家が再生再建されることを切に祈り、 すでにある本物の生長の家を観じています。
■: F(書簡にて。要旨)
いつも実相直視のご文章ありがとうございます。 どうぞ皆さま、暑さに負けず、円満完全なる神の国 運動に共に挺身いたしましょう。 東雲(しののめ)はすぐそこです。
■:J(書簡にて。要旨)
日々のなに気ないものに感謝出来、周りの皆さんに 「光明のお話し」を届けられる幸せを味わっております。
■: I(Cメールにて。要旨)
PCの環境が思わしくなくて、出席出来ずに 失礼いたしております。 どのような境遇(状態)にありましても、不完全な現象 の奥に真象(実相世界)があることを、波動を正して いれば観じる事が出来、大変ありがたいことです。 一歩づつ着実に歩んでまいります。 皆様どうぞよろしくお願い致します。 暑さの折、お身体お大切になさってください。
■: E(メールにて)
さて、今回のテキストである『真理』四巻の最後の十七章は 「献身の美徳に就いて」という章題ですが、ここを初めて読 んだときは違和感を覚えたものです。
この章のはじめには、戦争犠牲者の家族を持つ人々のことが 書かれていますが、唯神実相論に於いては、「光明化運動に 犠牲は必要ない」との思いで読みましたので、そのように感 じたのかもしれません。しかし読み進むうち「犠牲」や「殉 教」「献身」という行為の内には、尊い愛の心が存在するこ とが書かれており、さらに「殉教者の境地を超えて」という 節には、殉教と云うことさえ本来無い神が常に吾々を支えて 調和と平和への道を歩ませていただく事が出来るという素晴 らしいお言葉があります。更に「新生への道の具体策」も示 されています。 簡単に書きましたが、小生にとってこの『真理』四巻の十七 章は「献身の美徳に就いて」はとても印象に残っている章で す。はたして神は献身を求めておられるのか?神の世界は献 身を求める必要はないのではないか?「自己犠牲」「献身」 「殉教」に対する疑問は、未だ心の中でくすぶっています。 頭では理解しているつもりですが、心が納得していない状態 です。「自己犠牲」「献身」「殉教」という言葉に惹かれる のもまだ唯神実相論になりきっていない自分であろうと思わ れます。 それに気が付かせて下さった御文章に深く感謝し、日々、 研鑽を積んで行きたく存じます。
・ はうら ご多用中、ご教示ありがとうございます。 いつも信仰の原点に立たれて思索されている姿に、 敬意と尊敬の念をもちます。 暑さがこれからますます盛んになるとの事です。 ご自愛を祈念いたします。 ありがとうございます。
今回も多くの感動がありました。 ありがとうございます。 皆様 暑さに負けずに、益々お元気で、お励みください。
感謝 再拝 はうらひとひら拝
志恩ー
はうら様、合掌ありがとうございます。
8月16日開催の『ZOOM実相ひかり誌友会』メモを メールにてお送りくださいまして、誠にありがとうございます。 昨夜は遅い時間に、”グレイテスト ショーマン’という映画を、 プライムビデオで観ていましたので、寝るのが遅くて、 朝起きたのが9時過ぎでした。
はうら様は、相変わらず、早起きでいらっしゃいますね。 この暑い時期に、延期もせず、 ちゃんとzoom誌友会を開催されてて、 すごいなって、思います。
また、お名前を、ABC,,,,に変えて、 トキ掲示板へ載せさせて いただきます。
私は読ませていただきましたが、 たくさん教えていただきました。
色々な不安が、飛んでいったような気がいたします。 いつもすばらしいご教授、ありがとうございます。

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